私は書かずにいられない
    ―生きて生きて生き抜いた*恭嗣(やすつぐ)
を想う(その5)―
         *岡部健氏(医療法人社団爽秋会理事長が本の帯に書いた表現
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私は書かずにいられない

 私の5年間(19歳~24歳)の仙台の生活の中で、一緒に活動していた進行性筋ジストロフィー症の仲間が3人も天国に旅立った。仙台から東京に戻った後も訃報は続いた。
 筋ジス病棟のことになると、さらに大きな数になる。恭嗣はこう書いている。
 「私のいる3階病棟は9年前にでき、当時80名いた仲間は、1人減り2人減りして、
 今は9名しか残っていません。」(「七転び八起き寝たきりいのちの証し」より)
 恭嗣が2007年2月から、毎日ベッドの上でクチマウスという道具を使って書き続けたブログの6日目に、ブログを書こうと思った動機が綴られている。

 「私の仲間は、みな夢果たせず亡くなった。
  ゆえに、私は書かずにいられない。」 
                (2007年2月11日)

 恭嗣は、夢見た自立生活を20年にわたり実現したものの、進行性筋ジストロフィー症に加えて新たにガンとも闘うことになった。そのため、彼は病院に戻り、再出発のベッドの上で自分が今なすべきことに向き合うのである。
 恭嗣はペンの代わりに、唇でパソコン上のマウスを動かし操作できるクチマウスという道具を得た(上の写真はクチマウスを使用して文章を綴る様子)。入院前は、ペンはもう持てなくなっていて、何かを書き留めるにはボランティアさんなどがいるときだけの口述筆記が主な手段だったが、クチマウスを使い自分自身のタイミングと力で、思いの丈を綴れるようになった。
  2008年7月1日、彼自身が天国に旅立つ日、そのぎりぎりまで、恭嗣は、口でマウスを動かし続け、ブログという形で1年5ヶ月、ほぼ毎日発信し続けた。

恭嗣と私にとって大事な存在だった喜美男のこと

 一緒に活動してきた仲間の中で、進行性筋萎縮症連絡会の活動に参加していた喜美男のことを、私は、恭嗣と同じように大事にしている。正確には、喜美男には、大きな悔いを残していて、40年近くたった今も思い出すのだ。あの時のことを。
   自立生活を夢見る恭嗣の背中を押したのは、喜美男の言葉だった。
 改めて近いうちに私自身も「あの時のこと」を書こうと思っているが、下記に引用する「自立を目指した喜美男のこと」は恭嗣が書いたブログの記事の中では、私にとっては限りなく重く切ない文章だ。
 
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自立を目指した喜美男のこと
                (恭嗣のブログ「やすぐすくんの心象風景アラカルト」より)

   「俺、今度痰が絡み出したら、もうだめかも知れないなぁ・・・」
と、喜美男は、大きく身体を揺らしながら言った。
   私たち筋ジス患者は、病状が進むと、車椅子上で「舟こぎ」と言われる、呼吸を幾分でも補正する動作をするようになる。当時は、今のような呼吸器が発達・普及しておらず、多くの重度の筋ジス患者は、真綿で締められる蛇のように、慢性的に息苦しさを感じていた。
   喜美男は、私より一つ年下であった。
  中学校時代は、いつも弟のように人なつっこい笑顔を見せていた。同級生のKが、喜美男の車椅子を押して、私の所に来ていた。
  ところが、そのKが心臓を悪くして、僅か15歳で亡くなってしまった。私は、Kを見送りに霊安室に行った。弟のように可愛がっていたKが亡くなったことで、どこか動転していたのだろう。同じようにKを見送りに来ていた喜美男に、「病状的に、お前の方が先だろうに。」と、思わず口走ってしまった。「しまった!」と私は思ったが、あとの祭りだった。その時の喜美男は、半分泣きそうな顔をしていた。
   私は、喜美男にとても済まないことをしてしまった。

  私たちは、中学と仙台第一高等学校の通信制を卒業後、共に自分たちのアピール運動に参加した。喜美男は、貧しい家の中で、早くから「自立」を意識して関わっていた。私は、どこかのんびりと構えていた。
  そうした中で、喜美男が「舟こぎ」をし出し、次第に弱っていった。そして、とうとう恐れていた痰が喜美男に絡み出した。喜美男は観察室に行き、息苦しかったのに、私たちが見舞いに行くと、無理に話しかけて来た。喜美男は、私に、

「俺、一度で、いいから、外で暮らしたかった。
いつか、俺の代わりに出て行ってくれよ!」

と、最後に言い残し、亡くなったのだった。
  私は、その時の喜美男の言葉に、自分の横っ面を張られたように感じられた。
  私の生きる方向が、明確になったのだった。
  それから私は、遮二無二、自立運動にのめり込んで行ったのだった。
  絶えず、私の後ろには、いつも彼らの思いがあったのだった。    
                                      (2008年3月18日)
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恭嗣から受け取った見えないバトン

 喜美男がベッドの上から羽ばたきたかった場所は天国ではなく、自分の意志で生きられる場所だった。
 恭嗣は、このとき誓ったように病院を出て、20年間の自立生活を実現する。
 喜美男の夢も自分の夢に重ね合わせて恭嗣が実現する。
 いのちのバトンが受け継がれていくように感じる。
 恭嗣は、一緒に病棟で暮らしていた仲間の中で最後に残った筋ジス患者の一人になった。
 喜美男の他にも、多くの仲間の夢や願いを恭嗣は脳裏に刻んでいた。
 病棟や家で夢や願いを果たせず早く亡くなっていった仲間の思いを大切にしながら、生きていく使命を感じていた。そして、本当に最後の1秒まで生きて生きて生き抜き、あふれる思いを書き留めていこうとしていた。

  私達「おおきなき」の事務局メンバーも、恭嗣から受け継いだバトンをそれぞれが自分の生き方の中で感じながら生きている。
 「障がい者せんせい」を書いているゆうこさんもその一人だ。
 この文章を恭嗣が読んだら、何と言うだろう。ブログの中では、「何を選んでも道は開ける」と書いている。だから、「自分らしく生きて」と優しく語りかけてくれそうだ。

  見えないバトンを受け取っているのは、私達だけではない。
  恭嗣の自立生活を支えた多くのボランティアが全国に今散らばっている。
  恭嗣と過ごした時間をきっと今でも大切にしていて、ぞれぞれの人生を生きているだろう。
                                             (相澤純一)

 
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*私が大学生の時に親に買ってもらったいすゞフローリアンバン(中古で8万円)に乗って旅をする。
   ドライブインで背中を伸ばす恭嗣。

*10年目の月命日に掲載してきた「生きて生きて生き抜いた*恭嗣(やすつぐ)を想
  う」は、今回で一旦終了とさせていただきます。
*「生きて生きて生き抜いた恭嗣を想う(その4)は、こちら

*今後は、不定期で書くことになりますが、また、読んでいただければうれしいです。