2016年10月

生きる 力いっぱい生きる~みんなが教えてくれた存在の意味と可能性~


<存在「そこに在る」>

 「存在<そこに在る>」…すべてはそこから始まるのだと思います。
 福島智さんという東大の先生で、この方は、目が見えなくて耳が
聞こえないのですが、「他者とのかかわりが唯一の存在証明だ」と
言ってらっしゃいました。誰ともかかわらなかったら、自分が何者か
何なのかわからない。他との関係の中でこそ、存在は生きるのだ
と思います。
 それから、「我を思うゆえに我あり」は、哲学の言葉ですが、私は、
「他が思うゆえに我あり」だと思います。「他人から、人としての存在
が認められる」そして、「その存在の意味がそこで生まれてくる」の
と「朋」のみんなを見ていてそう思います。


<地域で生活するということ>

 障害のある人が地域で生活していく意味は、「人は人の中で人に
なり、人として輝くこと」だと思います。人はみな同じです。デンマー
クのことわざで「見ないものは思わない」という言葉があります。人
は見ることによって、はじめて気づきます。「朋」のみんなが地域に
出ていくことで、地域のみんなに、気づきが生まれます。
 また、「できることはいいことだ」という、すりこまれてきたこの価値
観を、どうやって、地域のみんなで変えていくかだと思います。みん
なはすべてを私たちにゆだねて生きていて、笑顔を見せてくれてい
ます。あの笑顔は本当に無心の笑顔です。それを一人でも多くの
人に知ってもらいたいと思っています。
 みんなの社会参加の目的は、様々な人と出会い、様々な社会体
験をして、地域の中にポジションを持つことだと思います。まさに、
防犯の腕章をつけて歩き出したことで、大きなポジションを持って
きたなと思います。


私たちにできること>

 私たちの役割は、みんなの存在を知ってもらうことや、活動を広
ていくこと、つまりエピソードを語っていくことだと思います。職員は、
みんなと社会とのパイプ役だろうと思います。
 無知が誤解を生んで、誤解が偏見を生んでいく、さらに差別を生ん
でいきます。これは、淑徳大学の藤村先生がよくおっしゃっていた言
葉です。

生きる 力いっぱい生きる~みんなが教えてくれた存在の意味と可能性~


<車いすがいる風景があたりまえの街へ>

 大のお祭り好きな方がいらしたのですが、気管切開をして、体
動かしたら危ないという状態になってしまいました。町内のお神輿
のおじさんに彼のことを話したら、「おー、お安い御用だ」と言って、
「朋」の庭に、ワッショイワッショイとお神輿をかついで来てくれまし
た。彼は、はちまきにはっぴ姿。
「来年も来るから、元気でいるんだよ」
 彼はそれから何年かして亡くなりましたが、これは、ずっと続い
います。最初にお神輿が来て、それからみんなは町内会の公園の
お祭りに出かけていきます。
 自治会長さんは代々替わっていますが、あるとき、今の新しい自
治会長さんが、
「日浦さん見てごらん。車いすがいっぱいだよ。これがうちの街の
夏祭りだね。」
と言ってくださいました。
 私は、心の中で、「みんなやったね。乾杯だ!!」と思いました。
 
 毎年、10月の一番最後の日曜日には、フェスタ(昔はバザーで
たが)があります。これにも最初は音楽がうるさい、と電話があった
ことがあります。ところが、今は、すごくたくさんの人が来て下さり
大変賑やかです。そんなみなさんの中に車いすやストレッチャーに
乗っているみんながにこにこしています。もうそういう光景が、地域
の「普通の光景」になってきています。
 
 それから、缶回収で街の中を歩いています。近所のある方が「缶
回収に歩いていると、防犯の役ができるのではないか」と言ってくれ
て、防犯協会に行ったら、「ぜひやってください」と言われ、防犯の
の腕章をつけながら、缶回収をしています。
 今では、近所の人は留守をすると、玄関先にちゃんと缶を置いてお
いてくれます。
 朋の30周年で「チャレンジ30」というプロジェクトをいろいろなグルー
プがやりましたが、このグループは、空き缶を1トン集めることにしまし
た。「集まるわけない」とみなさん思われると思いますが、チャレンジし
ました。でも、最後の日に、1トンにはとても届かず、みんなでしょぼん
としていたら、最終日になんと近所の人たちみんなが持ってきてくださ
った。本当に1トン集まったのです。
 缶回収に歩く彼らも、街の中で、見慣れた人たちになりました。
 

<自分の想像力の中に抱え込んではいけない>

 グループホームは栄区に8つできました。「他人の中で、一人で生き
ていく力」それが教育から私たちが受け継いで作っていく力だと思いま
す。
 さっきお話ししたふすまを蹴飛ばした彼は、お母さんが亡くなり、今は、
グループホームで暮らしています。彼は、小学校入学の時に首が座っ
いなくて、そっと抱いた小さな小さな男の子でした。
 私は、彼が、こうやって独り立ちしてグループホームで暮らせる人にな
るなんて、思ってもみなかったのです。
 できる、できないは本人が決めるのです。私が出来ないと思うのは、
の想像力なのです。他の人を自分の想像力の中に抱え込んではい
ない。私たちが無理だよとか、そういう言葉を安易に言ってはいけな
い、ということを彼が教えてくれました。
  

生きる 力いっぱい生きる~みんなが教えてくれた存在の意味と可能性~

<みんなは「働き」ができる>

~地域の運動会~

 「朋」を建設する時、地域の反対があったので、2階に地域交流室を
作り、運営委員会を何度も開きました。地域の自治会長の方5人が
運営委員で、私が運営委員長でした。
 その時に、「昨日、○○さんがこうだったんですよ」というエピソード
をたくさんお話ししました。みんなのエピソードが一番、人の心に響き
ました。やはり、「障害者」という人はいないのです。一人ひとりなの
す。
 そうやって、みんなのエピソードを語っていましたら、一人の自治会
さんが、「今度の町内会の運動会に出て来いよ」と言ってくださった
のです。
 みんなで参加したのですが、「朋」のみんなは動きがゆっくりです。
借り物競争で、カードを見て、「なんて書いてある?ボールって書いて
あるね」と言っている頃に、みなさんはゴールに入ってしまいます。私
は、これでは運動会が終わらない、と思って自治会長さんに、
「せっかくお誘いいただいたのですけれども、どうしましょうか」
と言いました。すると、自治会長さんは、
「いや、日浦さん、みんなのゆっくりしたこういう動きに、僕らが慣れな
いと、一緒にということはできないんだよ。だから出てこい。」
とおしゃってくだいました。その自治会長さんには今でも感謝していま
す。
 今は、パン食い競争など3つくらいの種目に参加して、にぎやかに
やっています。


~小学生との交流~

 隣の小学校と七夕祭りの交流会をしていました。交流がはじまって
5年くらいした頃、それまでは、私たち職員が「今日はご招待ありがと
うございます」と挨拶していたのです。
 ストレッチャーに乗った非常に体の緊張(体の筋肉がつっぱること)
が強たかのりさん、彼は「あー」という声が出ました。声が出ること
が、彼の誇りでした。そこで、「七夕祭りの交流会で挨拶してみない?」
と彼に言ったら、
「あー」と言いながら、グーっと体に力を入れて、YESのサインを送って
くれましたので、職員と一緒に挨拶してみることになりました。
 職員と彼の2人で前の日に、短い文章を決めて、
職員「今日はお招きありがとうございます」
彼「あー、あー」
と一緒に挨拶しました。

 その次の日に、その学校の女の先生から私あてに手紙が来ました。
「私は、どうもこの交流会がなんとなく「やらせ」のようなそんな気がし
て、もうひとつ気持ちがのりませんでした。私が間違っていました。一
生懸命生きること。可能性に挑戦すること、私たち教員が上手に子ど
もたちに言えないことを彼は、「あー」という声で、一生懸命に伝えてく
れていました。そして、子どもたちみんなが本当に一生懸命にそれを
聞いていました。これから、「朋」に子どもたちをどんどん行かせます。
「朋」のお兄さん、お姉さん、よろしくお願いします」
私はとても嬉しかったです。
 それから、子どもたちが「朋」にどんどん遊びに来るようになりました。
今は、3年生と4年生とは、毎年プログラムを組んで交流しています。

 私は、「朋」のみんなは「働く…自分でお金を得る」ことは出来ない。
でも、大きな「働き」をしていると思います。学校との関係、地域との
関係。私たちは「関係」の中に生きているのです。その中で、みんな
は大きな働きをすることが出来る。そのプログラムをどんどん作って
いくこと、それが私たち支援スタッフの仕事だろうと思っています。

生きる 力いっぱい生きる~みんなが教えてくれた存在の意味と可能性~


<「朋」の誕生>

 今年、「朋」は30周年でした。30年前、重症心身障害者通所
施設を作るには、制度が全くなくて絶対だめということだったの
ですが、私は、横浜市に何度も何度も「誰にでも平等に社会参
加のチャンスをください」とお願いして、担当の課のOKを経て、
ついに市長からOKが出ました。

 そして、「朋の建設の予算がつきました」と新聞に出ましたら、
すぐに「この土地に障害者施設はなじまない」という建設中止
申し入れが自治会町名で出たとの新聞記事が出てしまいまし
た。その土地は、高級住宅街の一等地で、富士山がとてもきれ
いに見えて、障害者施設ではなく、文化施設ならいいと言われ
ました。
 地域の集会で説明会をしなければなりませんでした。その集
会には、地域の方が300人くらい集まってくださいました。ほと
んどの方が「障害のある人たちの施設を反対するわけではな
い。でもここでなくてもいいのでは?」と…。
1時間くらいの問答のあと、こんな質問がありました。
「日浦さんに質問します。ここに施設ができたら散歩に出ますか?
出ませんか?」
私は、その方のお顔を見ながら、「出たいと思います」とお答え
しました。そしたら、一番後ろにいた若い女の方が、すごく大き
な声で
「どんどん出て来てください。そしてお友達になりましょう」
とおっしゃったのです。
私は、緊張していなかったら、泣いていたのではないかと思い
ます。
「ああ、こういう雰囲気の中で、こういうことを言ってくれる人が
この土地にいらっしゃる。この人を信じて、こういう人たちがい
らっしゃることを信じて、みんなを連れて来たい」
と、思いました。
 それから、4か月後に、自治会長からGOサインが出て、建設が
始まりました。「朋」は、保育園、小学校、中学校に囲まれていて、
このロケーションをものすごく幸せに思っています。

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日浦美智江著「『朋』の中で気づいたこと、そしていま考えていること」『生きることが光になる』
クリエイツかもがわ 2014年より



 「訪問の家」が1つ目の作業所で、「朋」というのが2つ目の作業
所です。「月」が二つと言うのが、お母さん方が肩を寄せている感
じでいいなあと思い、法人の名前を「訪問の家」に、施設の名前を
「朋」にして、「社会福祉法人 訪問の家 朋」ができました。

 「朋」では、最初から、施設内診療をとっていました。ドクターやリ
ハビリ科の先生がずっとかかわってくださっています。
 それから、歯科衛生士さんに最初から来てもらいました。内臓的
ものはわからないけれど、歯は見ればわかると思ったのです。
 苦しそうにしていて、次の朝すごく歯が腫れていたことがあって…
これはかわいそうで。歯科衛生士さんは本当にいい働きをしてくれ
ます。
 今、2階には診療所と歯科衛生士さんの診療台があって、歯科大
のドクターがずっと協力してくれています。2階に地域交流室があっ
たのですが、役目を終えたので、そこをつぶして、診療所を作りまし
た。

 私は、音楽が大好きで、音楽はいろいろな調べがあってリズムが
あって、音色があって、それをいっぱいみんなに聴かせてあげたい
と思っていました。でも、音楽を聴きに連れていくことが、なかなか
できませんでした。そこで「朋」のホールを見て、ここを音楽会場に
すればいいと思いつきました。
 毎週土曜日の午後、「朋」のホールで音楽会をやっていて、プロの
ピアニストや学生バンドなどいろいろな方が来て演奏してくれます。
プロのピアニストの方は、「朋」ができてすぐの頃、芸大に行っている
時から来てくれていて、みんなと仲良しになって、みんなのリクエスト
曲から弾いてくれ、ジブリの曲やクラッシックなど、素晴らしい音楽を
奏でてくれます。後ろで親の人たちや近所の人たちも聴きます。


生きる 力いっぱい生きる~みんなが教えてくれた存在の意味と可能性~


<みんな一緒に…そして卒業後…>

 小学校では、障害のあるお子さんも、障害のないお子さんも、
みんな一緒に運動会をしました。近所の方が気軽に声をかけ
くれるような、下町のとても和やかな学校でした。
 この訪問学級は、今は特別支援学校になっています。横浜市
には一般校と支援学校が併設されている学校が3校あります。
そこでは障害のある子どもたちとない子どもたちが一緒に運動
をする光景は、今も一緒です。
 卒業式も、入学式同様、小学校と一緒にやりました。中学校に
籍を置いていましたので、中学校でも卒業式をやってもらいまし
た。

 でも、この先の社会に、みんなが出られる場所がなかったの
です。教育は何のためにあったのだろう。人間はやがて1人で
生きていく。他人の中で生きていく。そのための力をつけるの
が、教育ではなかったのか…。

 入学した時、人の顔を見ると目をつぶってしまうし、お母さん
からしかご飯を食べられなかった女の子は、誰の顔でも見られ
るようになり、誰からでも食べられるようになりました。
 ある男の子は、「いや」という時には体に力を入れて、「いいよ」
という時には、ちょっと足を動かすことができるようになりました。
 そうして、一人一人が他人の中で生きる力をつけてきました。

 その当時、横浜市には重症心身障害児施設というのはありま
せんでしたから、市外にある施設に入ることが出来なければ、
卒業後は在宅になってしまいます。今は、重症心身障害児者
通所施設、その他通所する場は、全国に350近くあります。

 あるお母さんの言葉です。
「さあ、この子と1日何をしようと思って開ける雨戸の、なんと重い
ことか。でも、今日学校だよって言って、開ける雨戸の何と軽い
ことか」
 私は、「また家族とだけの生活になったら、あの夏休み明けの、
あのお母さんの、あの想いが、だれかれの胸の中に宿ったら大
変じゃないか」と思いました。
 「できる、できない」は、本人が決めることなのです。こちらが、
勝手にあなたには無理だとか、できないとか決めるのはおかしい
のです。私は「チャンスは平等にください。できる、できないは、
本人たちが決めます」と、何度も何度も横浜市へ行って、卒業後
にみんなが社会で過ごせるようお願いしました。
 第1回目の卒業生が出たときに、横浜市に地域作業所の制度
ができたので、「訪問学級」から名をとって「訪問の家」というのを
みんなで作りました。いつか何かをやるときに、絶対お金がいる
と思い、バザーをよくやりました。そのお金で、作業所「訪問の家」
ができました。

<本当の青春とは何かを教えてくれた>

 2回目の卒業生が何人か出たときに、経管栄養(チューブで体に
栄養を入れる)の人が1人いたので、二つ目の作業所「朋(とも)」を
作りその方を受け入れました。この時、私は11年いた学校を辞め、
この作業所に3年間、支援スタッフとして入りました。

 私は、人生でもう一回やり直す時期を神様が与えてくださったら、
この3年間を選びたいと思うのです。なぜなら、私はここで一人の
メンバーから叱られたのです。

 私は、後に「朋はみんなの青春ステージ」という本を書いたので
すが、「さあ、これからがみんなの青春よ」と言いながら、この作業
所のみんなは6畳と4畳半に閉じ込められてしまっているわけです。
本人たちは、どれほど、「うそだー」と思っていたかしれません。

 ある男の子は、「さあ、今日は終わり」と言うと、すごく喜ぶのです。
歌を歌う時、私たちスタッフの年代に合わせた歌を歌っていました。
今、思ったら、本当にかわいそうなことをしたと思います。その子は
「それ違うー」とふすまを蹴飛ばすのです。それがやりきれなくて…。

「本当の意味でのみんなの青春の舞台を作らないと…これは自分
たちの独りよがりだ」と思いました。
 そのことに気づかせてくれ、私の背中を押してくれた彼には、私は
今でも感謝しています。彼はもう50歳を超えました。


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