2018年09月

育実さんの俳句<その3>
        ~今回のテーマは「祭り」です~

       

 秀実さん、俳号を考えました。吉田育実です。今回から、
俳号を使いますので、あらためてよろしくお願いします。

 育実さんの家、育実さんの部屋は通りに面しています。
お祭りにお神輿はつきものですが、育実さんは、特に、
かわいい子どもたちが精一杯声を出して進む子ども神輿
が大好きです。育実さんはベッドの上で、耳で、お祭りの
情景を感じ取りました。

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 始めに考えたのは
「秋祭り 子ども神輿だ 声枯れる」
でした。ここで、歳時記を調べると「秋祭り」は秋ですが、
「神輿」は夏の季語だということがわかります。「祭り」と
「神輿」と情報が重なっているのでどちらかにするか考
え、「神輿」と「声が枯れる」をキーワードにして作り直し
ていきました。

 神輿をかつぐ子どもたちの掛け声は、もう枯れているの
が、窓越しに聞こえてくる声で分かります。だんだん近
づき遠ざかっていく様子は声の大きさの変化で伝わっ
てきます。通り抜けという言葉を育実さんがひねり出
しました。

 あー、今年の子ども神輿も通り抜けていってしまった。
夏も終わりに近づいていくなあ、という寂しい思いも含ま
れているでしょうか。

声枯れて子ども神輿は通り抜け

 2句目。祭りと言えば、露店です。お母さんが、家の目
の前たこ焼きさんからたこ焼きを買って、道路に面し
ている育実さんの部屋の窓を開けて差し入れました。
育実さんと祭りの近さも感じることができますね。育実
さんにとっての祭りの1つの象徴的なシーンを切り取った
といえるでしょうか。

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たこ焼きを窓から入れる祭りかな

*画像は、Web上から転載させていただきました。


ベッドの上のトックンの思いに触れて
~「トックンのアート館」いつまでも(第4回)
 今日はトックンの月命日(13日)です。9月11日はトックンの誕生日でした。
 トックンが天国に旅立ってから5か月がたってしまいました。
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トックンのプレッシャー
  今回は、自分の絵が絵はがきになって、1枚80円のうち20円が
自分の収入になり、絵を描くことが自分の「仕事」であるというこ
とをトックンが自覚してからの話です。
 その後、トックンは絵描きの卵として、「仕事」として絵を描く
レッシャーも感じたようです。だから、逃げ場もほしかったので
しょう。訪問したときに「仕事というよりも気持ち的には趣味で描き
続けたい…」もらしていました。
  もちろん、私たちはトックンの繊細さも知っていましたから、売る
ために絵を描くというよりもトックンにしか描けないような絵を描き
続けてほしい…と願い、支えていきたいと思っていました。

トックンのスランプ
  トックンがしばらく絵を描けない時がありました。
  「失恋のショックから立ち直れていません。だから、絵を描く気に
なれません。」というメールが届きました。
  恋をしたり失恋をしたり…トックンの心はベッドの上で熱くなっ
たり高鳴ったり、揺れ動いていました。それは、とても自然なこと
だと思っていました。
  「僕の悔しい気持ちを受け止めてください」というメールをもらっ
たこともあります。自分の心の中で留めておけないくらい大変な
事だったのだと思います。ベッドの上の世界は限られていて、接
する人もあまり多くはないですし、特定の人の言葉に傷つき、苦
しんでいたこともあるようです。支援を受ける側の弱い立場にあ
るトックンの心がかなり弱ってしまい打ちひしがれてしまったとき
も多くあったのです。

   でも、私たちは、トックンの1枚の絵に癒してもらったり元気づけ
られたり、目に見えないパワーをもらっていたと思うのです。

「冷たい対応をしちゃうかも。だから…」
  ここ2年くらいは、長いメールは来なくなっていました。作文はあま
り得意でないトックンですが、たまたま誕生日に事前に訪問する
ことを連絡したときに長いメールが届きました。トックンの気配り
あふれるメールです。

「こんにちは、9月11は検査がありますので、ちょっと厳しいかな?
検査は心電図、24時間心電図、心エコーです、心電図、24時間
心電図は午前中です。心エコーは16時からですので面会ちょっと
難しいかな?あと、お風呂がありますのでつかれて先生に冷たい
対応をしちゃうかも。だから9月11日は面会中止して下さい。本当
にすいませんけど、別な日にお願いします、大丈夫な曜日は土日
か火金にお願いします。ダメな曜日は月木です。理由はお風呂で
疲れちゃうからです。」

「そろそろ皆さんにあいたいです」
   ベッドの上で日々、さまざまな思いとともに生きてきたトックンです
が、私達(トックンの卒業した特別支援学校の元教員)4人は、年2~
3回くらいしかトックンの病院に訪問できていませんでした。トックンの
サポートをしていたのは週3日、遠くから訪問していたお母さんで、私
たちはほとんど何もできていなかったのです。
   何か月も訪問できない時がありました。
   そんなときに、1行だけのメールが届きました。

「そろそろ皆さんにあいたいです」

   生涯忘れられない大事なメールです。
   この後、すぐトックンを訪ねました。
 正直なところ、このメールを思い出すとトックンに会いたくなって、
涙が出ます。                       (相澤純一)

*秋にちなんだ絵2枚と、トックンのおやじギャグが含まれている絵を1つ紹介
します。
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『イワシ雲と赤とんぼ』 Tokkun's Art Museum<57>


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『白くまとパンダの日曜日』 Tokkun's Art Museum<5>


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『タヌキとキツネの2匹まんざい』 Tokkun's Art Museum<108>



しばらくの間、トックンを偲ぶ記事を月命日の13日に掲載します。
・お母様からもご承諾いただき、引き続き、トックンのアート館に
掲載しているイラストを絵はがきにして販売いたします。

  ・今まではトックンに売上の一部を渡せるように80円に設定して
おりましたが今後は材料・印刷費のみにして一枚50円でお分けい
たします。

*「トックンのアート館」いつまでも(その3))はこちらです。

恭嗣(ヤスツグ)が私のアパートに泊まってくれたことの意味
―生きて生きて生き抜いた*恭嗣を想う(その3)――

    *岡部健氏(医療法人社団爽秋会理事長が本の帯に書いた表現

豆電球の下の会話
 それがいつの季節で何月くらいのことだったか思い出せないの
ですが、私の仙台の学生生活の中で、忘れられない夜があります。
頭の中に残っているのは、豆電球1つだけのうす暗い部屋の布団
の中でやりとりを続けていたことです。

 それは、阿部恭嗣が私のおんぼろ車に乗って私のアパートにや
ってきて、初めて泊まった日の夜です。
 子どもの頃から親の方針で友達を家に呼ぶことができなかったので、
東京を離れて仙台での大学生活が始まった時に、私が一番楽しみだ
ったことは、自分の家に友達を呼んで泊まってもらうことでした。実際
に泊まってもらった友達は指で数えるほどですが、恭嗣は、その中の
特別な一人になりました。

イメージ 1

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*私が2年間暮らした学生寮とその部屋の中。今は取り壊され、ありません。
    基本は2人部屋で2段ベッドです。昔の学校の教室のような油が引いてある
    板の間にじゅうたんや畳シートを敷いていました。(インターネットで検索して
    見つけました)

 友達に泊まってほしいという夢は、大学生活の始めの2年間は寮生活
で上記の写真のような部屋だったので、実現できないでいました。大学
3年になって、進行性筋萎縮症連絡会の前事務局長が卒業して空いた
アパートに引っ越し、いよいよ友達を呼んで、いつでも泊まってもらえる
環境を手にしました。

 アパートと言っても、大家さんのお母さんが住んでいた床の間もある古い
和室です。大家さんがビルを建てるときに切り離し、トイレと小さい台所を
くっつけた玄関のないアパートでした。学生寮もそうでしたが鍵もありませ
ん。
 その部屋の一番の自慢は、床の間に置いた友人から譲り受けた古い
ステレオです。ラジカセ生活から脱出して、コーヒー(インスタントです)を
飲みながら、レコードをステレオで聴く生活が可能になったのです。
 といっても、陽当たりは悪く、部屋の二方が廊下で、どこからでも入れる
ガラス戸で囲われ隙間風も入るので、風の強い日は砂埃が部屋の中に
入ってきていました。冬場はガラス戸の隙間から風が入るので部屋の周り
の障子戸ががたがた音を立てて寒かったです。
  風呂は銭湯に行けるときに行ったのですが、冬場は帰りつくまでに髪
の毛が凍ったこともありました。また、掃除機もなかったので、泊まった
友達が朝になると頭がかゆくなることがよくあったのです。ダニとかも沢山
いたのだと思います。私は住めば都で慣れてしまい、朝起きてよく台所の
湯沸かし器で朝シャンしました。

喜びと不安の恭嗣の外泊届
 そんな劣悪な環境の部屋に恭嗣が病院に外泊届を出して、しかも一晩
泊まってくれるということは、私にとって、最高の喜びでした。私の夢が
本当に実現するような気がしたのです。たとえそれが1泊だけでも「千里の
道も一歩から」とその時は思いました。でも、同時に不安も押し寄せてきま
した。その時の恭嗣の体調から大丈夫だとは思いましたが、風邪をひくよ
うなことにならないかというのは一番の心配でした。それに、トイレは和式
ですし、部屋に入るときは恭嗣を抱きかかえて高い踏み石を上がらなけれ
ばならないので、とにかく緊張したのを覚えています。大便は我慢してもら
い、翌日の朝早く病院に帰ることにしていました。
 また、夜中の約2時間おきの体位交換の介助で、私は、もともと寝てしま
うとなかなか起きられないので恭嗣に何度も声を出させて迷惑をかけない
か、恭嗣が機嫌を損ねしまうのではないかという不安も募っていました。

今の私の原点の夜
  恭嗣はおままごとのように私が初めて人のために作る夕飯を食べてくれ
ました。それが、私にはうれしいことでしたし、恭嗣の気持ちにちょっと近づ
けたような満足感があったのです。布団に入ってからも気分が高揚し、小さ
な声で話し続けていました。
   友達と夜遅くまで議論しても、ボランティア活動をしても得られないような
特別な感覚が、その時にありました。
 その夜の思いが、私の原点の核になる部分になりました。恭嗣もこの体験
をずっと大事にしてくれていたことは、彼が30年後のブログに書いた文章を
読んでわかりました。(下記)

 「共に生きる」「共に生きなければならない」このことが頭から離れず、
悩んで1年間留年し、仙台に残ったのですが、結局私には思い切ったことは
できず、学校の教員になり東京に戻りました。そして、年に1、2回だけ毎年、
仙台の恭嗣を訪ねることになります。


 私にとっては、筋ジス者として積極的に多くの人との関わりの中で自立
生活を始め、また筋ジスに加えてガンを患い病院に戻ってからもベッドの
上から発信し続ける恭嗣は大きな心の支えであり続けました。恭嗣のとこ
ろにいって元気をもらうのはいつも私のほうでした。恭嗣はいつも温かく私
を迎えてくれて、「そのままでいい、悩みながら迷いながら相澤君らしく生き
ていけばいい」と包み込むような言葉で1年間分の元気をくれました。きっと
他の誰に対しても同じだったのではないか、と思います。

この夜が恭嗣の自立生活の夢につながっていった

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*1979年7月 ハレ・晴れ村合同キャンプ(宮城県七ヶ浜)で話す23歳の恭嗣、マイクを持っているのが私です。

 恭嗣は、ブログの中で次のように書いてくれていました。
「そこは町なかにありながら隠れ屋敷のようなところで、建っているのが
不思議なほど古かった。が、長年病院暮らしの私には、まさに『外』で暮
らす同世代の若者のあこがれの暮らしを垣間見る瞬間だったのだ。相澤
さんのアパートの、古く、壁の土が崩れるような部屋には、受験時代の
自分を鼓舞する格言や、相澤さんが好きだった輪島功一の写真が、
ところ狭しと貼られていた。薄暗く、本や、書き溜めた運動のビラや書類
にあふれていた。ちょうど、私が帰省した時に見る兄の部屋のようだった。
私は、相澤さんが作ってくれる名前もない料理を鍋のまま箸を突っつき、
夜通しいろいろなことを話し合った。梁山泊のような相澤さんのアパート
は、相澤さんと私たちの青春が詰まったところだった。いつも規制され、
プライバシーもない病院生活の私にとっては、『外』を感じられる唯一の
場所だった。そこでの経験は、それから以後の私の『自立生活への夢』を



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