2018年11月

吉田育実さんの俳句<その4>
            ~季節の移り変わりを感じる~
                                                 *吉田育美は俳号です。
       

 暑い夏はつい最近のことだったようでもあり、遠い昔のことだったような気もします。今回は、夏から秋への移り変わりを詠んだ俳句と、冬の季語「炬燵」を使った俳句です。

 1句目です。「爽やか」が秋の季語だということを歳時記で確認します。寝たきりの育実さんは、歳時記をめくることはできませんが、季語は、頭の中でいつも的確に考えています。
  家の玄関から一番近いところに育実さんの部屋があります。育実さんはほとんどの時間をベッドで寝て過ごしています。育実さんの部屋の扉は開いていることが多いので、玄関が開くたびに空気が動き、その温度や人の動きを肌で感じるそうです。
その風で季節も感じ取っています。季節は夏から秋に移行し、気温も下がり、湿っぽさもなくなってきていました。
  涼しくなってきた風に気付くのは特に夜になってからということでした。育実さんの家は、少し住宅地に入っていますが、商店街がまだ続いています。玄関から入ってくる風は「街の風」だそうです。 

爽やかや 夜の玄関 街の風

 2句目です。
 夏井いつきさんのネット上の投稿サイト『俳句ポスト365』の次回の募集作品の題が「炬燵」で、考えておくことになっていました。Hさんの家では、猫を3匹飼っていて、作りやすかったようです。

動かない脚に猫達のる炬燵

  冬は、Hさんが寝ている布団の上に猫が集まり、寝ているそうです。動かない脚に猫のぬくもりが伝わっていきます。「それはまさしく猫炬燵だね」という話になりました。

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▼第22回(平成22年度)「肢体不自由児・者の美術展」 
審査員特別賞受賞「どこ見てんのよぉ。こてつ!」(タイプアート)

*タイプアートは、電動タイププライターで始め、その後パソコンを使って描いていました。
  文字や記号を組み合わせて、スイッチで1文字ずつ入力しながら描いた絵です。

★スイッチ一つで広がるタイプアートの世界

~育美さんのタイプアートの作品や川柳集を見ることができます。

  
 
  最後に、育実さんの最近の1句です。

長袖に替えるを待ちて秋の暮
 
  ベッドに寝た切りで着替えも自分の想いのままにはならないのですが、半袖から長袖になる季節の移り変わりを待ち続けていたそうです。
  日が短くなり、寒さも感じる秋の夕暮れに詠んだ句です。


「ねずみくんのおくりもの」出版記念会に参加して
   ~11年の時を経て誕生した、阿部恭嗣原作の想いのこもった絵本~

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  2018年11月12日発行 出版:教育画劇

11月10日(土)、11月とは思えないくらい暖かな日差しの中、
仙台に向かいました。
おおきなき発足のきっかけとなり、今も天国から見守り続けて
くださっている阿部恭嗣さんの原作の絵本
「ねずみくんのおくりもの」の出版記念会
(主催:一般社団法人あいうえおが行われたのです。

この物語は、恭嗣さんが妻の昭子さんの誕生日に
贈ったものでした。
2006年1月17日の日付で、20年の自立生活の中途で
がんを患い、再入院した病院のベッドの上で
クチマウス を使って、書かれています。
原作は「チュウ太の贈り物」というタイトルでした。
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 「ねずみくんのおくりもの」原作原稿

10年の時を経て、昨年(2017年)、仙台のデパート「藤崎」の福袋
「世界にたったひとつの絵本」に昭子さんが応募したところ当選し、
絵本「やっちゃんの贈り物」が10冊誕生しました。
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「やっちゃんの贈り物」

そのときの絵本は、絵本作家つちだよしはる先生が下絵を描き、
昭子さんが色を塗って仕上げました。その本を創りながら、昭子
さんはつちだ先生に、恭嗣さんのこと、その仲間たちのことを
詳しく話したそうです。つちだ先生は、恭嗣さんの人柄や想いに
惹かれ、それが、この絵本をぜひ出版したいと思う原動力となった
と記念会で話されていました。
絵本のあとがきにも、そのつちだ先生の想いが記されていますので、
ぜひ読んでいただきたいです。

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「やっちゃんの贈り物」、つちだ先生と昭子さんの作業風景

私も、恭嗣さんに実際にはお会いしたことはないけれど、つちだ先生と
同じように、恭嗣さんの人柄や想いと、その想いを引き継ぎ日々奮闘
する事務局メンバーに惹かれ、今おおきなき事務局としてここにいます。
絵本では、「自分は何もできない、でも愛する人のために自分ができる
ことを考えて精一杯やってみる」ということが書かれていて、私はその
想いに強く惹かれました。「私にも周りの人に対して何かできるかも
しれない」「小さなことでもいいから、大切な人たちのことを考えて何か
少しずつでもやってみよう」という勇気がふつふつと沸いてきました。
それは、私にとってこれから先の人生に向かうにあたり、とても大きな
ものとなりました。
恭嗣さんは、ねずみくんに託して、今もなお私たちを励まし続けて
くれます。絵本を通じて、その想いをぜひたくさんの方々に感じて
いただければと願っています。

出版記念会には、文と絵を創られたつちだよしはる先生をはじめ、
今回この絵本を出版した教育画劇さん、絵本福袋を企画・担当
された藤崎の方々や、昔からの恭嗣さん、昭子さんのお仲間など
50名ほどの方たちが集まりました。
恭嗣さんの懐かしい映像や写真を見て、恭嗣さんとの
思い出を語り合ったり、絵本からイメージしたという美味しい
ケーキを頂いたりしながらのとてもあたたかな会となりました。
その様子を写真でご紹介します。

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恭嗣さんとねずみくん

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「ねずみくんのおくりもの」展示

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ねずみくん、ねずみちゃんのケーキで昭子さんにサプライズ
つちだ先生(右側)がケーキを運んでくださいました。

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サプライズを受け感激する昭子さん

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恭嗣さんの誕生日と絵本の誕生日、両方のお祝いのケーキでした。
こくちょう菓詩屋さんが心を込めて作ってくださいました。
ねずみくんとねずみちゃんは、つちだ先生作です。
のちほど切り分けてみんなでいただきました。

子どもたちにクリスマスに届けたいと、つちだ先生と教育画劇さんが
必死に頑張られ、11月上旬の、それも11月12日、まさしく恭嗣さんの
誕生日に発行することができたのです。
それは偶然ではなく、恭嗣さんの想いの深さなのではないかと感じます。
この絵本が、たくさんの方々の元に届きますように。

♪絵本については、教育画劇さんHPの「ねずみくんのおくりもの」
紹介ページに詳しく載っています。こちらもご覧ください。
http://www.kyouikugageki.co.jp/bookap/detail/1803/

♪事務局のゆうこさんの個人ブログ「障がい者せんせい」にも
この絵本の記事が投稿されております。合わせてご覧ください。



(おおきなき事務局 田中千加子)

私は書かずにいられない
    ―生きて生きて生き抜いた*恭嗣(やすつぐ)
を想う(その5)―
         *岡部健氏(医療法人社団爽秋会理事長が本の帯に書いた表現
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私は書かずにいられない

 私の5年間(19歳~24歳)の仙台の生活の中で、一緒に活動していた進行性筋ジストロフィー症の仲間が3人も天国に旅立った。仙台から東京に戻った後も訃報は続いた。
 筋ジス病棟のことになると、さらに大きな数になる。恭嗣はこう書いている。
 「私のいる3階病棟は9年前にでき、当時80名いた仲間は、1人減り2人減りして、
 今は9名しか残っていません。」(「七転び八起き寝たきりいのちの証し」より)
 恭嗣が2007年2月から、毎日ベッドの上でクチマウスという道具を使って書き続けたブログの6日目に、ブログを書こうと思った動機が綴られている。

 「私の仲間は、みな夢果たせず亡くなった。
  ゆえに、私は書かずにいられない。」 
                (2007年2月11日)

 恭嗣は、夢見た自立生活を20年にわたり実現したものの、進行性筋ジストロフィー症に加えて新たにガンとも闘うことになった。そのため、彼は病院に戻り、再出発のベッドの上で自分が今なすべきことに向き合うのである。
 恭嗣はペンの代わりに、唇でパソコン上のマウスを動かし操作できるクチマウスという道具を得た(上の写真はクチマウスを使用して文章を綴る様子)。入院前は、ペンはもう持てなくなっていて、何かを書き留めるにはボランティアさんなどがいるときだけの口述筆記が主な手段だったが、クチマウスを使い自分自身のタイミングと力で、思いの丈を綴れるようになった。
  2008年7月1日、彼自身が天国に旅立つ日、そのぎりぎりまで、恭嗣は、口でマウスを動かし続け、ブログという形で1年5ヶ月、ほぼ毎日発信し続けた。

恭嗣と私にとって大事な存在だった喜美男のこと

 一緒に活動してきた仲間の中で、進行性筋萎縮症連絡会の活動に参加していた喜美男のことを、私は、恭嗣と同じように大事にしている。正確には、喜美男には、大きな悔いを残していて、40年近くたった今も思い出すのだ。あの時のことを。
   自立生活を夢見る恭嗣の背中を押したのは、喜美男の言葉だった。
 改めて近いうちに私自身も「あの時のこと」を書こうと思っているが、下記に引用する「自立を目指した喜美男のこと」は恭嗣が書いたブログの記事の中では、私にとっては限りなく重く切ない文章だ。
 
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自立を目指した喜美男のこと
                (恭嗣のブログ「やすぐすくんの心象風景アラカルト」より)

   「俺、今度痰が絡み出したら、もうだめかも知れないなぁ・・・」
と、喜美男は、大きく身体を揺らしながら言った。
   私たち筋ジス患者は、病状が進むと、車椅子上で「舟こぎ」と言われる、呼吸を幾分でも補正する動作をするようになる。当時は、今のような呼吸器が発達・普及しておらず、多くの重度の筋ジス患者は、真綿で締められる蛇のように、慢性的に息苦しさを感じていた。
   喜美男は、私より一つ年下であった。
  中学校時代は、いつも弟のように人なつっこい笑顔を見せていた。同級生のKが、喜美男の車椅子を押して、私の所に来ていた。
  ところが、そのKが心臓を悪くして、僅か15歳で亡くなってしまった。私は、Kを見送りに霊安室に行った。弟のように可愛がっていたKが亡くなったことで、どこか動転していたのだろう。同じようにKを見送りに来ていた喜美男に、「病状的に、お前の方が先だろうに。」と、思わず口走ってしまった。「しまった!」と私は思ったが、あとの祭りだった。その時の喜美男は、半分泣きそうな顔をしていた。
   私は、喜美男にとても済まないことをしてしまった。

  私たちは、中学と仙台第一高等学校の通信制を卒業後、共に自分たちのアピール運動に参加した。喜美男は、貧しい家の中で、早くから「自立」を意識して関わっていた。私は、どこかのんびりと構えていた。
  そうした中で、喜美男が「舟こぎ」をし出し、次第に弱っていった。そして、とうとう恐れていた痰が喜美男に絡み出した。喜美男は観察室に行き、息苦しかったのに、私たちが見舞いに行くと、無理に話しかけて来た。喜美男は、私に、

「俺、一度で、いいから、外で暮らしたかった。
いつか、俺の代わりに出て行ってくれよ!」

と、最後に言い残し、亡くなったのだった。
  私は、その時の喜美男の言葉に、自分の横っ面を張られたように感じられた。
  私の生きる方向が、明確になったのだった。
  それから私は、遮二無二、自立運動にのめり込んで行ったのだった。
  絶えず、私の後ろには、いつも彼らの思いがあったのだった。    
                                      (2008年3月18日)
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恭嗣から受け取った見えないバトン

 喜美男がベッドの上から羽ばたきたかった場所は天国ではなく、自分の意志で生きられる場所だった。
 恭嗣は、このとき誓ったように病院を出て、20年間の自立生活を実現する。
 喜美男の夢も自分の夢に重ね合わせて恭嗣が実現する。
 いのちのバトンが受け継がれていくように感じる。
 恭嗣は、一緒に病棟で暮らしていた仲間の中で最後に残った筋ジス患者の一人になった。
 喜美男の他にも、多くの仲間の夢や願いを恭嗣は脳裏に刻んでいた。
 病棟や家で夢や願いを果たせず早く亡くなっていった仲間の思いを大切にしながら、生きていく使命を感じていた。そして、本当に最後の1秒まで生きて生きて生き抜き、あふれる思いを書き留めていこうとしていた。

  私達「おおきなき」の事務局メンバーも、恭嗣から受け継いだバトンをそれぞれが自分の生き方の中で感じながら生きている。
 「障がい者せんせい」を書いているゆうこさんもその一人だ。
 この文章を恭嗣が読んだら、何と言うだろう。ブログの中では、「何を選んでも道は開ける」と書いている。だから、「自分らしく生きて」と優しく語りかけてくれそうだ。

  見えないバトンを受け取っているのは、私達だけではない。
  恭嗣の自立生活を支えた多くのボランティアが全国に今散らばっている。
  恭嗣と過ごした時間をきっと今でも大切にしていて、ぞれぞれの人生を生きているだろう。
                                             (相澤純一)

 
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*私が大学生の時に親に買ってもらったいすゞフローリアンバン(中古で8万円)に乗って旅をする。
   ドライブインで背中を伸ばす恭嗣。

*10年目の月命日に掲載してきた「生きて生きて生き抜いた*恭嗣(やすつぐ)を想
  う」は、今回で一旦終了とさせていただきます。
*「生きて生きて生き抜いた恭嗣を想う(その4)は、こちら

*今後は、不定期で書くことになりますが、また、読んでいただければうれしいです。

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