カテゴリ: 生きて生きて生き抜いた阿部恭嗣

「ねずみくんのおくりもの」出版記念会に参加して
   ~11年の時を経て誕生した、阿部恭嗣原作の想いのこもった絵本~

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  2018年11月12日発行 出版:教育画劇

11月10日(土)、11月とは思えないくらい暖かな日差しの中、
仙台に向かいました。
おおきなき発足のきっかけとなり、今も天国から見守り続けて
くださっている阿部恭嗣さんの原作の絵本
「ねずみくんのおくりもの」の出版記念会
(主催:一般社団法人あいうえおが行われたのです。

この物語は、恭嗣さんが妻の昭子さんの誕生日に
贈ったものでした。
2006年1月17日の日付で、20年の自立生活の中途で
がんを患い、再入院した病院のベッドの上で
クチマウス を使って、書かれています。
原作は「チュウ太の贈り物」というタイトルでした。
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 「ねずみくんのおくりもの」原作原稿

10年の時を経て、昨年(2017年)、仙台のデパート「藤崎」の福袋
「世界にたったひとつの絵本」に昭子さんが応募したところ当選し、
絵本「やっちゃんの贈り物」が10冊誕生しました。
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「やっちゃんの贈り物」

そのときの絵本は、絵本作家つちだよしはる先生が下絵を描き、
昭子さんが色を塗って仕上げました。その本を創りながら、昭子
さんはつちだ先生に、恭嗣さんのこと、その仲間たちのことを
詳しく話したそうです。つちだ先生は、恭嗣さんの人柄や想いに
惹かれ、それが、この絵本をぜひ出版したいと思う原動力となった
と記念会で話されていました。
絵本のあとがきにも、そのつちだ先生の想いが記されていますので、
ぜひ読んでいただきたいです。

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「やっちゃんの贈り物」、つちだ先生と昭子さんの作業風景

私も、恭嗣さんに実際にはお会いしたことはないけれど、つちだ先生と
同じように、恭嗣さんの人柄や想いと、その想いを引き継ぎ日々奮闘
する事務局メンバーに惹かれ、今おおきなき事務局としてここにいます。
絵本では、「自分は何もできない、でも愛する人のために自分ができる
ことを考えて精一杯やってみる」ということが書かれていて、私はその
想いに強く惹かれました。「私にも周りの人に対して何かできるかも
しれない」「小さなことでもいいから、大切な人たちのことを考えて何か
少しずつでもやってみよう」という勇気がふつふつと沸いてきました。
それは、私にとってこれから先の人生に向かうにあたり、とても大きな
ものとなりました。
恭嗣さんは、ねずみくんに託して、今もなお私たちを励まし続けて
くれます。絵本を通じて、その想いをぜひたくさんの方々に感じて
いただければと願っています。

出版記念会には、文と絵を創られたつちだよしはる先生をはじめ、
今回この絵本を出版した教育画劇さん、絵本福袋を企画・担当
された藤崎の方々や、昔からの恭嗣さん、昭子さんのお仲間など
50名ほどの方たちが集まりました。
恭嗣さんの懐かしい映像や写真を見て、恭嗣さんとの
思い出を語り合ったり、絵本からイメージしたという美味しい
ケーキを頂いたりしながらのとてもあたたかな会となりました。
その様子を写真でご紹介します。

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恭嗣さんとねずみくん

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「ねずみくんのおくりもの」展示

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ねずみくん、ねずみちゃんのケーキで昭子さんにサプライズ
つちだ先生(右側)がケーキを運んでくださいました。

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サプライズを受け感激する昭子さん

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恭嗣さんの誕生日と絵本の誕生日、両方のお祝いのケーキでした。
こくちょう菓詩屋さんが心を込めて作ってくださいました。
ねずみくんとねずみちゃんは、つちだ先生作です。
のちほど切り分けてみんなでいただきました。

子どもたちにクリスマスに届けたいと、つちだ先生と教育画劇さんが
必死に頑張られ、11月上旬の、それも11月12日、まさしく恭嗣さんの
誕生日に発行することができたのです。
それは偶然ではなく、恭嗣さんの想いの深さなのではないかと感じます。
この絵本が、たくさんの方々の元に届きますように。

♪絵本については、教育画劇さんHPの「ねずみくんのおくりもの」
紹介ページに詳しく載っています。こちらもご覧ください。
http://www.kyouikugageki.co.jp/bookap/detail/1803/

♪事務局のゆうこさんの個人ブログ「障がい者せんせい」にも
この絵本の記事が投稿されております。合わせてご覧ください。



(おおきなき事務局 田中千加子)

私は書かずにいられない
    ―生きて生きて生き抜いた*恭嗣(やすつぐ)
を想う(その5)―
         *岡部健氏(医療法人社団爽秋会理事長が本の帯に書いた表現
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私は書かずにいられない

 私の5年間(19歳~24歳)の仙台の生活の中で、一緒に活動していた進行性筋ジストロフィー症の仲間が3人も天国に旅立った。仙台から東京に戻った後も訃報は続いた。
 筋ジス病棟のことになると、さらに大きな数になる。恭嗣はこう書いている。
 「私のいる3階病棟は9年前にでき、当時80名いた仲間は、1人減り2人減りして、
 今は9名しか残っていません。」(「七転び八起き寝たきりいのちの証し」より)
 恭嗣が2007年2月から、毎日ベッドの上でクチマウスという道具を使って書き続けたブログの6日目に、ブログを書こうと思った動機が綴られている。

 「私の仲間は、みな夢果たせず亡くなった。
  ゆえに、私は書かずにいられない。」 
                (2007年2月11日)

 恭嗣は、夢見た自立生活を20年にわたり実現したものの、進行性筋ジストロフィー症に加えて新たにガンとも闘うことになった。そのため、彼は病院に戻り、再出発のベッドの上で自分が今なすべきことに向き合うのである。
 恭嗣はペンの代わりに、唇でパソコン上のマウスを動かし操作できるクチマウスという道具を得た(上の写真はクチマウスを使用して文章を綴る様子)。入院前は、ペンはもう持てなくなっていて、何かを書き留めるにはボランティアさんなどがいるときだけの口述筆記が主な手段だったが、クチマウスを使い自分自身のタイミングと力で、思いの丈を綴れるようになった。
  2008年7月1日、彼自身が天国に旅立つ日、そのぎりぎりまで、恭嗣は、口でマウスを動かし続け、ブログという形で1年5ヶ月、ほぼ毎日発信し続けた。

恭嗣と私にとって大事な存在だった喜美男のこと

 一緒に活動してきた仲間の中で、進行性筋萎縮症連絡会の活動に参加していた喜美男のことを、私は、恭嗣と同じように大事にしている。正確には、喜美男には、大きな悔いを残していて、40年近くたった今も思い出すのだ。あの時のことを。
   自立生活を夢見る恭嗣の背中を押したのは、喜美男の言葉だった。
 改めて近いうちに私自身も「あの時のこと」を書こうと思っているが、下記に引用する「自立を目指した喜美男のこと」は恭嗣が書いたブログの記事の中では、私にとっては限りなく重く切ない文章だ。
 
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自立を目指した喜美男のこと
                (恭嗣のブログ「やすぐすくんの心象風景アラカルト」より)

   「俺、今度痰が絡み出したら、もうだめかも知れないなぁ・・・」
と、喜美男は、大きく身体を揺らしながら言った。
   私たち筋ジス患者は、病状が進むと、車椅子上で「舟こぎ」と言われる、呼吸を幾分でも補正する動作をするようになる。当時は、今のような呼吸器が発達・普及しておらず、多くの重度の筋ジス患者は、真綿で締められる蛇のように、慢性的に息苦しさを感じていた。
   喜美男は、私より一つ年下であった。
  中学校時代は、いつも弟のように人なつっこい笑顔を見せていた。同級生のKが、喜美男の車椅子を押して、私の所に来ていた。
  ところが、そのKが心臓を悪くして、僅か15歳で亡くなってしまった。私は、Kを見送りに霊安室に行った。弟のように可愛がっていたKが亡くなったことで、どこか動転していたのだろう。同じようにKを見送りに来ていた喜美男に、「病状的に、お前の方が先だろうに。」と、思わず口走ってしまった。「しまった!」と私は思ったが、あとの祭りだった。その時の喜美男は、半分泣きそうな顔をしていた。
   私は、喜美男にとても済まないことをしてしまった。

  私たちは、中学と仙台第一高等学校の通信制を卒業後、共に自分たちのアピール運動に参加した。喜美男は、貧しい家の中で、早くから「自立」を意識して関わっていた。私は、どこかのんびりと構えていた。
  そうした中で、喜美男が「舟こぎ」をし出し、次第に弱っていった。そして、とうとう恐れていた痰が喜美男に絡み出した。喜美男は観察室に行き、息苦しかったのに、私たちが見舞いに行くと、無理に話しかけて来た。喜美男は、私に、

「俺、一度で、いいから、外で暮らしたかった。
いつか、俺の代わりに出て行ってくれよ!」

と、最後に言い残し、亡くなったのだった。
  私は、その時の喜美男の言葉に、自分の横っ面を張られたように感じられた。
  私の生きる方向が、明確になったのだった。
  それから私は、遮二無二、自立運動にのめり込んで行ったのだった。
  絶えず、私の後ろには、いつも彼らの思いがあったのだった。    
                                      (2008年3月18日)
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恭嗣から受け取った見えないバトン

 喜美男がベッドの上から羽ばたきたかった場所は天国ではなく、自分の意志で生きられる場所だった。
 恭嗣は、このとき誓ったように病院を出て、20年間の自立生活を実現する。
 喜美男の夢も自分の夢に重ね合わせて恭嗣が実現する。
 いのちのバトンが受け継がれていくように感じる。
 恭嗣は、一緒に病棟で暮らしていた仲間の中で最後に残った筋ジス患者の一人になった。
 喜美男の他にも、多くの仲間の夢や願いを恭嗣は脳裏に刻んでいた。
 病棟や家で夢や願いを果たせず早く亡くなっていった仲間の思いを大切にしながら、生きていく使命を感じていた。そして、本当に最後の1秒まで生きて生きて生き抜き、あふれる思いを書き留めていこうとしていた。

  私達「おおきなき」の事務局メンバーも、恭嗣から受け継いだバトンをそれぞれが自分の生き方の中で感じながら生きている。
 「障がい者せんせい」を書いているゆうこさんもその一人だ。
 この文章を恭嗣が読んだら、何と言うだろう。ブログの中では、「何を選んでも道は開ける」と書いている。だから、「自分らしく生きて」と優しく語りかけてくれそうだ。

  見えないバトンを受け取っているのは、私達だけではない。
  恭嗣の自立生活を支えた多くのボランティアが全国に今散らばっている。
  恭嗣と過ごした時間をきっと今でも大切にしていて、ぞれぞれの人生を生きているだろう。
                                             (相澤純一)

 
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*私が大学生の時に親に買ってもらったいすゞフローリアンバン(中古で8万円)に乗って旅をする。
   ドライブインで背中を伸ばす恭嗣。

*10年目の月命日に掲載してきた「生きて生きて生き抜いた*恭嗣(やすつぐ)を想
  う」は、今回で一旦終了とさせていただきます。
*「生きて生きて生き抜いた恭嗣を想う(その4)は、こちら

*今後は、不定期で書くことになりますが、また、読んでいただければうれしいです。

「おおきなき」の願いよとどけ!
            ~恭嗣(やすつぐ)と共に歩んできた晃子さんからのエール
        ―生きて生きて生き抜いた*恭嗣を想う(その4)―

     
 *岡部健氏(医療法人社団爽秋会理事長が本の帯に書いた表現

 「おおきなき」という団体名は、シルヴァスタインの絵本「おおきな木」
に由来しています。この絵本を私に贈ってくれたのは、恭嗣でした。
1982年3月24日のことでした。この日は、5年間暮らした仙台を私が去
る日の前日です。
                      
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  おもちゃと絵本の部屋では、この本は、本棚の多くの本と一緒に並
られていますが、実は私の人生にとって、とても大きな意味を持つこと
になった特別な本で、今も、自分の生き方を問う本になっています。

 2008年7月1日に恭嗣が天国に旅立ってから10年たった今も、伴侶
である晃子さんは、恭嗣と共に生きています。その証しとして、恭嗣が
生前書いた物語をもとに絵本を作っています。『世界にたったひとつ
の絵本福袋企画』に2017年、2018年と2年続けて当選し、見事に2冊
の絵本を完成させ、増刷して1冊を「おおきなき」に寄贈してくださいま
した。貴重な本です。写真は、恭嗣の墓前での2冊目の本「おかあち
ゃん大好き」のささやかな贈呈式です。

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晃子さんは、「おおきなき」をいつも支え続けてくださり、特に、恭嗣
と同じ難病を持つ絵描きのトックンを仙台から応援し続けて下さいま
した。

 今回は、晃子さんが、2017年3月に所属する教会の機関誌「更生」
に投稿した原稿を引用させていただきます。 
                                   (相澤純一)

 
 「おおきなき」の願いよとどけ!        阿部晃子

  シルヴァスタインの「おおきな木」の絵本を教えてくれたのは主人で
ある。絵本が好きで多くの絵本を教えてくれた。「ビッグオーを探しに」
「星の王子様」等、心に沁みてくるものばかりだ。

  主人は、進行性筋ジストロフィー症で、20年にも及ぶ闘病生活を病
院で過ごしてきた。重度の障がいを持っていても社会で共に生きたい。
その思いから自立に向けての活動を始めた。
  その活動を支援してくれたのは、A君を始めとする大学生だった。
活動を共に行い、夢だった自立ホームの立ち上げにつながっていった。
自立生活の挑戦は、24時間体制のボランティア探しから始まり、多くの
方の協力を得ながらも、その前向きな生き様は、多くの仲間たちに影響
を与えた。そして、20年にも及ぶ自立生活をおくることになった。

  A君(*相澤のこと)は、東京へ戻ってからも毎年主人の元へ来てくれ
ている。それは、主人が亡くなった今も続いている。そして、A君は、長年
勤めた支援学校の教諭を退職し、東京で「おおきなき」という障がい者
援活動を担っている。社会の中では、障がい者と非障がい者との溝が
まだまだ大きい。その溝を埋めるべく架け橋となりたいと、思いを同じくす
る仲間たちと立ち上げたのだ。

 今、A君達は「共に学び、共に生きる」ことに結びつく活動を始めている。
主人との関わりの中で得たものを育て、新しい種をまき、その1粒の種と
して、育っていきたいと言っている。障がいを持つ人々が何らかの支援に
よって、社会との関わりを持つことができれば、社会に向けて自分の意志
を発信していくことができる。そのサポートをしていきたいと、熱く語って
くれた。

 「おおきなき」の「き」は「木」でもあり、「希」や「生」「喜」「輝」「祈」など、
いろいろな願いが込められている。その中で、主人と同じ難病で、
ベッドの上で自分の思いを絵に表している若者がいる。動かせる機能を
用いて、絵はがきを作り、販売までこぎつけた。始めたばかりだが、これ
からも与えられた能力を発揮し、多くの人たちに希望の光を照らして
いってほしい。

 「おおきなき」が思い描く「全ての人達が共にいきいきと生活し、豊かに
自分を表現できる社会」、シルヴァスタインが「おおきな木」で語ろうとした
無償の愛、それは神様の大いなる愛に他ならない。
  私たちも、「おおきな木」に成長していきたいものだ。

(「更生」2017年3月26日発行 第805号 発行 塩釜キリスト教会 より転載)
私は書かずにいられない
    ―生きて生きて生き抜いた*恭嗣(やすつぐ)
を想う(その5)―

に続く
                                 

恭嗣(ヤスツグ)が私のアパートに泊まってくれたことの意味
―生きて生きて生き抜いた*恭嗣を想う(その3)――

    *岡部健氏(医療法人社団爽秋会理事長が本の帯に書いた表現

豆電球の下の会話
 それがいつの季節で何月くらいのことだったか思い出せないの
ですが、私の仙台の学生生活の中で、忘れられない夜があります。
頭の中に残っているのは、豆電球1つだけのうす暗い部屋の布団
の中でやりとりを続けていたことです。

 それは、阿部恭嗣が私のおんぼろ車に乗って私のアパートにや
ってきて、初めて泊まった日の夜です。
 子どもの頃から親の方針で友達を家に呼ぶことができなかったので、
東京を離れて仙台での大学生活が始まった時に、私が一番楽しみだ
ったことは、自分の家に友達を呼んで泊まってもらうことでした。実際
に泊まってもらった友達は指で数えるほどですが、恭嗣は、その中の
特別な一人になりました。

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*私が2年間暮らした学生寮とその部屋の中。今は取り壊され、ありません。
    基本は2人部屋で2段ベッドです。昔の学校の教室のような油が引いてある
    板の間にじゅうたんや畳シートを敷いていました。(インターネットで検索して
    見つけました)

 友達に泊まってほしいという夢は、大学生活の始めの2年間は寮生活
で上記の写真のような部屋だったので、実現できないでいました。大学
3年になって、進行性筋萎縮症連絡会の前事務局長が卒業して空いた
アパートに引っ越し、いよいよ友達を呼んで、いつでも泊まってもらえる
環境を手にしました。

 アパートと言っても、大家さんのお母さんが住んでいた床の間もある古い
和室です。大家さんがビルを建てるときに切り離し、トイレと小さい台所を
くっつけた玄関のないアパートでした。学生寮もそうでしたが鍵もありませ
ん。
 その部屋の一番の自慢は、床の間に置いた友人から譲り受けた古い
ステレオです。ラジカセ生活から脱出して、コーヒー(インスタントです)を
飲みながら、レコードをステレオで聴く生活が可能になったのです。
 といっても、陽当たりは悪く、部屋の二方が廊下で、どこからでも入れる
ガラス戸で囲われ隙間風も入るので、風の強い日は砂埃が部屋の中に
入ってきていました。冬場はガラス戸の隙間から風が入るので部屋の周り
の障子戸ががたがた音を立てて寒かったです。
  風呂は銭湯に行けるときに行ったのですが、冬場は帰りつくまでに髪
の毛が凍ったこともありました。また、掃除機もなかったので、泊まった
友達が朝になると頭がかゆくなることがよくあったのです。ダニとかも沢山
いたのだと思います。私は住めば都で慣れてしまい、朝起きてよく台所の
湯沸かし器で朝シャンしました。

喜びと不安の恭嗣の外泊届
 そんな劣悪な環境の部屋に恭嗣が病院に外泊届を出して、しかも一晩
泊まってくれるということは、私にとって、最高の喜びでした。私の夢が
本当に実現するような気がしたのです。たとえそれが1泊だけでも「千里の
道も一歩から」とその時は思いました。でも、同時に不安も押し寄せてきま
した。その時の恭嗣の体調から大丈夫だとは思いましたが、風邪をひくよ
うなことにならないかというのは一番の心配でした。それに、トイレは和式
ですし、部屋に入るときは恭嗣を抱きかかえて高い踏み石を上がらなけれ
ばならないので、とにかく緊張したのを覚えています。大便は我慢してもら
い、翌日の朝早く病院に帰ることにしていました。
 また、夜中の約2時間おきの体位交換の介助で、私は、もともと寝てしま
うとなかなか起きられないので恭嗣に何度も声を出させて迷惑をかけない
か、恭嗣が機嫌を損ねしまうのではないかという不安も募っていました。

今の私の原点の夜
  恭嗣はおままごとのように私が初めて人のために作る夕飯を食べてくれ
ました。それが、私にはうれしいことでしたし、恭嗣の気持ちにちょっと近づ
けたような満足感があったのです。布団に入ってからも気分が高揚し、小さ
な声で話し続けていました。
   友達と夜遅くまで議論しても、ボランティア活動をしても得られないような
特別な感覚が、その時にありました。
 その夜の思いが、私の原点の核になる部分になりました。恭嗣もこの体験
をずっと大事にしてくれていたことは、彼が30年後のブログに書いた文章を
読んでわかりました。(下記)

 「共に生きる」「共に生きなければならない」このことが頭から離れず、
悩んで1年間留年し、仙台に残ったのですが、結局私には思い切ったことは
できず、学校の教員になり東京に戻りました。そして、年に1、2回だけ毎年、
仙台の恭嗣を訪ねることになります。


 私にとっては、筋ジス者として積極的に多くの人との関わりの中で自立
生活を始め、また筋ジスに加えてガンを患い病院に戻ってからもベッドの
上から発信し続ける恭嗣は大きな心の支えであり続けました。恭嗣のとこ
ろにいって元気をもらうのはいつも私のほうでした。恭嗣はいつも温かく私
を迎えてくれて、「そのままでいい、悩みながら迷いながら相澤君らしく生き
ていけばいい」と包み込むような言葉で1年間分の元気をくれました。きっと
他の誰に対しても同じだったのではないか、と思います。

この夜が恭嗣の自立生活の夢につながっていった

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*1979年7月 ハレ・晴れ村合同キャンプ(宮城県七ヶ浜)で話す23歳の恭嗣、マイクを持っているのが私です。

 恭嗣は、ブログの中で次のように書いてくれていました。
「そこは町なかにありながら隠れ屋敷のようなところで、建っているのが
不思議なほど古かった。が、長年病院暮らしの私には、まさに『外』で暮
らす同世代の若者のあこがれの暮らしを垣間見る瞬間だったのだ。相澤
さんのアパートの、古く、壁の土が崩れるような部屋には、受験時代の
自分を鼓舞する格言や、相澤さんが好きだった輪島功一の写真が、
ところ狭しと貼られていた。薄暗く、本や、書き溜めた運動のビラや書類
にあふれていた。ちょうど、私が帰省した時に見る兄の部屋のようだった。
私は、相澤さんが作ってくれる名前もない料理を鍋のまま箸を突っつき、
夜通しいろいろなことを話し合った。梁山泊のような相澤さんのアパート
は、相澤さんと私たちの青春が詰まったところだった。いつも規制され、
プライバシーもない病院生活の私にとっては、『外』を感じられる唯一の
場所だった。そこでの経験は、それから以後の私の『自立生活への夢』を



ひとときの「ふれあい」に終わらせたくない
               ―生きて生きて生き抜いた*恭嗣を想う(その2)――

                                  *岡部健氏(医療法人社団爽秋会理事長が本の帯に書いた表現



生きている証しを見つけたい

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<私の生き方を変えた写真展のパンフレット>1977.6月
―「車椅子の青春展」生きている証しを何かに刻みつけるために…。―

進行性筋ジストロフィー症の患者さんとともに活動していくときに、
私に何ができるのか真剣に考えていました。
筋ジス病棟に通うようになってから、筋ジスは治すことができなく
て、患者さんにとっての退院は「死」を意味することは、すぐに分
かってしまいました。

詩集を販売したり、映画会やコンサートを企画したりする活動は、
筋ジスの患者さんの思いや実態を知ってもらう活動であるととも
に運動資金をねん出し、さらに活動を広げていくためのものにも
なっていました。土日には街頭に立ち、チラシを配ったり、宣伝
カーに一人で乗ったりしていました。
宣伝カーでは、マイクをフォークシンガーが使うハーモニカホル
ダーに挟み首からぶら下げ、

「原因も治療法もわかっていない進行性筋ジストロイフィー症の
患者さんが自分の生きる証しを見つけるために、自ら行動に移す
映画を見に来てください!」

と、自分に多少酔いしれながら声を出し、仙台市近辺を走らせ
いました。

病院を出た筋ジス患者である山田寛之さんや山田富也さんを
中心にして立ち上げられた障害者企画団体のありのまま舎
http://www.arinomama.or.jp/)は、ドキュメンタリー映画
「車椅子の青春」を完成させ、全国で上映会を開催していま
した。そして、1年もたたないうちに、劇映画「さよならの日々」
の製作を企画し、仙台を中心にロケを行い、完成させます。
私が入会した進行性筋萎縮症連絡会は、ありのまま舎の母体
になった団体ですから、当時、委員長だった恭嗣と事務局長の
私は、深く考える間もなく、その渦中にいました。
恭嗣も、時には街頭に立ち、平日は病棟の公衆電話をずっと
確保して、映画や催しの配券活動をしていました。会合では、
配券枚数を発表する機会がありましたが、恭嗣はたいてい
一番だった記憶があります。

恭嗣が求めていたのは単なる「ふれあい」ではありません
でした。チャリティコンサートでは、「ひとときからふれあいを
求めて」というタイトルをよく使いました。
まずお客さんに来てもらわないと何も始まらないからやさしい
言葉にしていましたが、恭嗣が求めていたのは、ふれあい
から始まるその後でした。
 「ボランティアに終わっていたらだめなんだ。一過性のボラン
ティアでは、その場限りの自己満足に終わってしまうのでは
ないか。そうではなくて、障がいのある者と障がいのない者が
共に生きていかなければだめなんだ」
と、私も恭嗣の話を聞きながら頭だけでは考え始めていました。
頭の中では、現実よりも理想がどんどん先行して膨らんでいっ
いました。

活躍した8万円のおんぼろ車 

自分は単なるボランティアではない、本気で共に生きることを
考えているんだ―それを証明しようとして、私は、まず車が
ほしいと思いつきました。周りを見ても、学生の分際で自分の
車を乗り回している者は、ほとんどいませんでした。また、
自分のお金だけで買えるわけでもなく、運よく私の父親が
自動車会社(いすゞ)に勤めていたことから、それに甘えよう
としたのです。
中学生位から反抗し始め、ほとんど口を聞いていなかった
のに、東京と仙台で距離ができると、父親と話がしやすくなり、
「一番安い車でいいから買ってほしい。車いすを載せるから
バンにしてほしい」
と頼むと、その言葉の通り、父は、中古店で一番安い8万円
のフローリアンバンを入手してくれたのでした。しかも、ベンチ
シートで6人も乗れる車でした。
自動車教習場では触れることのなかったハンドルの横にギア
チェンジのレバーがついていて3段変速のマニュアル車。とても
古かったし、すぐオーバーヒートして止まってしまいます。その
たびにラジエーターに水を入れて、また走らせていたのです。
でも、恭嗣の行きたいところに連れて行ってあげることができる
と思いました。また、一緒に活動をしていたKは、里帰りの支援
私に頼み、この車に乗ってくれました。
恭嗣は、ブログで
「殆どスクラップにしてもいいような中古車での外出は、私達に
とって、子供の秘密基地で遊ぶような感覚になっていた・・・」
 と回想しています。

<いすゞ自動車 フローリアンバン>

この車に恭嗣を乗せ、大学のホームルームにも来てもらいました。
自分の友達は、大学に入ったことをいいことに、授業をさぼって
麻雀をしたり喫茶店で話したりしている友達だけではないんだ
ということも見てほしかったのかもしれません。恭嗣は、ここでも
単に何かをしてもらう関係ではなく、かかわりを継続してほしい
ことを伝えようとしていました。私は、大学の教室で、隣に恭嗣が
いることが妙にうれしかったのを覚えています。

地に足がついていなかった

2人で、「ボランティアからの脱出」という講演会もやりました。
でも、私は、自分がそれまで、筋ジス病棟に通い出して感じて
いたことを言えても、全然地に足がついていないことを話しな
がら感じてしまっていたのです。
「大学卒業後、あなたは何をどこでしているんですか?」と、
聞かれたらきっと答えに窮したと思います。実際は、そんな
質問も出ないくらい、話は堂々巡りをし、参加者の方は
渋い顔をして帰っていかれました。
私も恭嗣もまだ深いところでつながっていなかったし、本当の
関係にはなっていなかったのだと思います。(続く)

恭嗣(ヤスツグ)が私のアパートに泊まってくれたことの意味
―生きて生きて生き抜いた*恭嗣を想う(その3)
に続く
                   
           
相澤純一

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