「番組を録り溜めたくなる本能」へのトラックバック。
わたしはまだ
DVDレコーダを所有していないが、DVDレコーダを入手したら、おそらく観る時間のない番組まで撮りためるだろう。
というのも、VHSビデオを使っている今現在でも、観る余裕のない番組を撮りためているのだから。
トラックバック元で紹介している
ITmedia のコラムでは、この現象を「多くのコンテンツを予約し、録画することで、情報を脳外のストレージに蓄積したことに対する喜びを、その代償として得る」と表現し、さらにそれを「デジタル狩猟」なる一種の本能的行為であると主張している。
日頃から、進化論や遺伝子論が濫用されていると感じている著者としては、これが「本能的行為」であるという点について、大いに異論があるが、情報を脳外のストレージに蓄積することで喜びを得るという点には素直に賛同する。
この記事では、この「脳外のストレージ」を、仮に「外部記憶」と呼ぶことにしよう。
この現象は、映像メディアの録画にとどまるものではない。読まずに積み上げられている書籍・雑誌・漫画、全部観るはずのないDVD全巻セット、完全にプレイする余裕などないのに
買ってしまうゲーム、すべてが同じ現象の延長線上にあるように思われる。
単なる「コレクション」だと言ってしまえばそれまでかもしれないが、これらの現象には、いわゆるコレクションとは異なる「なにか」があるように思える。
なぜなら、コレクションというほどに完全性を求めていないからだ。自分が獲得しておきたいと欲する範囲の情報を、「外部記憶」として手元に確保した時点で収集の欲求は満たされる。コレクションなのであれば、ある分野のすべての物品を収集しなければ、気がすまないだろう。これらは本質的に異なる現象である。
究極の「外部記憶」は、ネットである。ネット上では、ありとあらゆる情報が蓄積され、あるいは共有されている。
あなたは、面白いウェブサイトを発見して、アドレスをブックマークしたのはいいが、二度と見に行かなかった経験はないだろうか。ある種のデータを発見し、手元にダウンロードしておきながら、そのままハードディスクの肥やしにしてしまった経験はないだろうか。
これらもすべて情報を「外部記憶」に蓄積することで、満足感または安心感がもたらされる現象の一例である。
しかし、本当にネットを究極の「外部記憶」と捉えるなら、これらの行為は無意味になる。なぜならネット上の任意の情報を好きなときに入手することができれば、ネットそのものが巨大な「外部記憶」となり手元に「外部記憶」を持つ必要がなくなるからである。
話をまとめよう。現時点で、我々が鑑賞するあてのないメディアを収集してしまうのは、それらを「外部記憶」とすることで安心感を得るためである。
しかし、近い将来、すべての情報がネットから得られるようになった暁には、この現象はネットという「外部記憶」への依存という形に変化するだろう。
その状態では、ネットに接続できることこそが安心感の源であり、ネットからの隔絶は不安をもたらす。実際にわたしがすでにそうなりかけている。
これを「ネット中毒」と考えるか、それとも新たな情報蓄積段階への移行と考えるかは、読者の判断にお任せしよう。