2005年11月10日

男のセクシュアルファンタジーについて

「男のセックスはなぜつまらないのか」に対して、予想外に多くの人の反応を頂いた。
荒っぽい議論だったのが申し訳ないくらいだ。もうちょっと考えていきたいと思う。

私たちのセックスについての幻想、セクシュアルファンタジーというものはポルノグラフィを通してはもちろん、広告やポップ音楽のPVなどを通して必要以上にかきたてられている。
モーターショーのキャンギャル、恋愛の歌を歌うセクシーな少女アイドル…私たちの性的欲望は商品の購買欲を引き上げさせようとする売り手たちによって常にたきつけられ、「自分はその(性的)満足を得ていないのだ」と思い込まされ続けている。
これはポルノグラフィを見ることで「私はこんなに感じていない」「私は不感症なのかも」と思い込まされる構造と似ている。

「これほどまでにメディアが発達していなければ、自分は小児性愛にならなかったかもしれない」という当事者の言葉を聞いた事がある。電車の中の痴漢にしても、あるいはSMや監禁のようなプレイも、今やフツウの人たちが少しだけ非日常を味わうために行うようになっている。
私たちのセクシュアルファンタジーはどんどん過剰になっていき、願望が大きくなるほど実現が困難になり、不満も倍増するという状態が起こってしまう。

では、セクシュアルファンタジーのすべてを実現できればいいのだろうか? いや、むしろそのファンタジーが、本当に自分の願望だったのかと考えてみるべきかもしれない。
「エロの極意はインポなのかもしれん」とは野坂昭如『エロ事師たち』の主人公スブやんの台詞である。エロ写真・売春・ブルーフィルムの編集・乱交パーティなど様々なエロ事の世界を渡り歩いた末に、スブやんはついに「立たなく」なってしまう。刺激を限界まで追い求めたスブやんは、ついにその外側にまで行ってしまったのだ。セックス依存の末のインポテンツとは極端な話だが、ある種の典型が描かれていることは間違いないだろう。

世の中の、特に男性の多くは、セックスにつきまとうファンタジーが多すぎて、本当に自分が求めているもの、感じたいこと、感じていることが分からなくなってしまっているように思うことがある。特にAVで育った世代にとってのセックスとは、何よりもまず他人同士が行っている映像がお手本になってしまっている。顔面発射がスタンダードだと勘違いしていた童貞クンというのはもはや古典かもしれないが、AVを見ながら心のどこかで「自分はあんなに感じさせられない」とか「長持ちしない」と気にしている男性たちの姿は、その童貞クンとどの程度に違っているのだろうか。

セックスに関する情報がまったくないというのも困りものだが、ないならないで自分の身体の感覚をたよりに、独自のセクシュアルファンタジーを作り、実現させることもできただろうと思う。今や、そこかしこに氾濫するファンタジーをかいくぐって(あるいは全部試して?)自分にふさわしいものを見つけなければならない。しかもたいてい自分よりも熟練し、情報量も豊かな先駆者がいるものだ。その人たちのことを気にせずにはいられないだろう。身の丈にあった性欲を見つけるなんていうことがこれほど困難になったとは、なんと馬鹿げた時代だろうか。

AV監督代々木忠が、民俗学者の赤松啓介から「セックスなんてやったらいいだけじゃないか」と言われたことがあったそうだ。乱暴な発言だからいろんな読み方ができてしまうが、きっと赤松はセックスについて「論じる」ということ自体をナンセンスと感じていたのだろうと思う。彼にとっては情報が多すぎて、自分にあったセクシュアルファンタジーが分からないなんていう状況は信じられなかったのではないか。

いつの間にか「やったらいいだけ」のことが非常に困難になってしまっている。古きよき時代を知る赤松にとってはつまらないことかもしれないが、現代を生きる私たちは氾濫するセクシュアルファンタジーと自分の身体感覚をともに腑分けして行かなければならない。

他人が作ったファンタジーに踊らされることそのものがいけないのではない。自分の身体感覚が育っていなかったり、身体感覚とつりあわないファンタジーを暴走させることが危険なのだ。
しかし、どのようにすればそのバランスは保てるのだろうか。拙いながらもその方法論を提示することができたらと思う。今後の課題としたい。



open_eyes at 10:11│ セックスの可能性