民俗学 明治維新が変えたもの

2004年10月26日

補足 「国家神道」がムラを壊した 04 09/10

「国家神道」が成立する以前は、名もない神が祀られている神社は数え切れないないほどあった。
また、その集落の信仰が神道か仏教かを問わず、各集落に一つは「産土」や「お宮」ような小さな社があった。
そこでは「記紀」に登場するような神々などではなく、「氏神」と呼ばれる集落の祖先神が祀られていた。
集落に生きる人々は、死んだ後は山の頂きに鎮座する「氏神」となってその土地や子孫を守ると考えられていた。
「氏神」は特定の名を持つものではなく、代々の先祖たちの集合霊のようなものである。
また、「氏神」は農耕作業と結びついて、「田の神」、「水の神」とも考えられていた。集落の人々も春の「田植え時」や秋の「稲刈り時」など、稲作と関わる重要な時期には祭りをもよおし、「氏神」に敬意と感謝を表していた。
「氏神信仰」は人々の祖先を思う気持ち、やがて子孫を守りたいという気持ちから生まれた、ごく自然な信仰である。

さて、日露戦争後の明治39年に、政府内務省は「神社合祀令」を発布する。
これは神主もおらず社殿も荒れて祭神も不明瞭な神社を、一町村一社を標準に合併させようというものであった。
専任の神主を置いて神殿を立派にすれば、村民の信仰心が高まるだろうというのが表向きの説明であった。
しかしその裏には、明治22年の町村制によって作られた新行政村内の統合を図るために、集落の精神的拠りどころを奪うという狙いがあった。
この政策によって、明治39年に19万を数えた全国の神社は、わずか3年の間に14万7千まで減少した。

明治政府は伊勢神宮を頂点として、全国各地の神社をピラミッド型に序列化した。
その際、地域で信仰される氏神ではなく、「記紀」に登場する神々や歴史上の著名人を神格化した神を祀ることとなった。
また、各地の独自な信仰や、天皇家とは異なる系譜の神話は、これらの政策によって抹殺の危機をむかえた。
各地の寺や神社に伝わる古文書が焼かれ、古くからの祭りが「淫祀邪教」であるとして禁止されるなどの、さまざまな排撃が行なわれた。

明治政府が作り上げた「国家神道」では、天皇家は最高神である天照大神の子孫である。
天照大神から「天壌無窮の詔勅」を与えられた天皇家は代々、日本の正統な支配者として君臨できるとされた。
しかし、これだけでは一般国民の信仰とはかけ離れており、国民が権威を感じるまでにはいたらない。
そこで政府は、民衆が心の拠り所とする氏神を記紀に出てくる神の化身としたり、入れ替えたりした。
神々は天照大神を最高神として、そのもとに治められている。
民衆にとって、自分たちの信仰している氏神が、天照大神のもとに仕える神ということになる。
よって、天照大神から神託された天皇家に支配されるのは当然となる。

こうして民衆の氏神信仰が「国家神道」の中に取り込まれ、民衆が天皇を頂点とする支配体制を支える構造ができた。
そして、このシステムを浸透させる為に、学校での教育が活用された。
子どもたちがものごころつく前から、教育勅語の奉読と拝礼を繰り返し行うことにより、神聖化された天皇と国民とが深く結びついているという印象を抱かせることができた。

近代国家としての日本は終始一貫して「国家神道」を、国民の国家への忠誠と献身とを引き出す道具として利用した。
このような国家的計略を「日本に固有のものとはとうてい言えない」と批判したのは官僚出身の民俗学者、柳田国男であった。

 

 


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近代日本の婚姻史 04 09/06


1900(明治33)年に大正天皇が皇太子時代、日本で初めての神前結婚式を行った。
神前結婚式は日本の伝統的な結婚の形式だと考える人もいるだろうが、実はこの挙式はキリスト教の形式を参考にして作られたものである。
昭和の半ばまでは、大正天皇の結婚式はキリスト教の真似だったなどとは語られるべくもなかった。
その上、皇室の行事として行なわれたことで、古来から伝えられた日本独自の結婚の儀式と考えられてもおかしくはない。
日本の伝統と印象付けることが目的だとしたら、これは大成功したキャンペーンだといえる。

キリスト教では、結婚は神の前で行われる神聖な儀式であるが、「国家神道」の神前結婚式とは、まさに「神の前で誓われる、何人にも犯されてはならない」結婚を日本文化に取り入れるために導入されたものであった。

では、それ以前の人々はどのような結婚生活を送っていたのだろうか? 
江戸時代の武士と一般庶民の結婚について見てみよう。
武士は人口構成比で言えば全体の6%程度だったが、彼らの結婚形式は現在のものに大きな影響を与えている。
武士の階級では「家」を継承するために婚姻を結んでおり、「嫁入り」という婚姻の形式をとっていた。
これは、女性が男性の家に嫁ぐもので、女性は処女に近い状態で嫁いでいたようだ。
本当に当主の血を受け継いだ跡継ぎを確保しなければならなかったからであろう。
また、男子でなければ家督を相続できないので、男子が生まれるまで子づくりが行われた。
一人の女性では跡継ぎを確保するのに不安があるため、武士は複数の女性を側室として抱えていた。
武士以外にも裕福な人達は家を守るために側室を持つことが普通であった。
しかし武士においても神前結婚式の原型のような儀式はなく、仲人と結納の制度が現在に受け継がれているにすぎない。

これに対して、一般庶民では明治のはじめまでは、「婿入り婚」が多かったという(柳田国男『明治大正史』などを参照)。
「婿入り婚」とは、はじめのうちは男性が妻となる女性の家に通い、男性の母親が家事の一切の権利を譲るときにはじめて男性の家に「嫁入り」する形式であった。
お互いに歩いて通えるような距離に住む間柄で、「村内婚」とも呼ばれている。
「嫁入り」までに長い時間がかかることが多く、当然子連れでの「嫁入り」も珍しくなかった。

結納を行なうこと、仲人を立てることは武士だけの習慣であった。
庶民は「嫁入り」のとき、親類縁者を招いて祝宴を開いたが、多くは子連れでの結婚であるため、女性の純潔を強調するような儀式はなく、女性が家事の権限を譲られたことをお披露目する会としての性格が強かったという。
処女で「嫁入り」をしなければ恥ずかしいという感覚などなく、むしろ子宝に恵まれていることの方が重要だと考えられていたようだ。

明治になるまでは、武士だけが「嫁入り」をしていたが、大正、昭和の時代を経て、身分制度がなくなるとほとんどが武士のような「嫁入り」になった。

明治政府は岩倉遣欧使節団を派遣し、ヨーロッパ列強と比較して遅れた文明の差を取り戻すために、各国を調査し、教育をの充実と、国家宗教を持つことが大切であると結論づけた。
特に建国百年で母国よりも優れた文明を持つようになったアメリカの様子を見て、そのような結論が出されたようだ。
そこで愛国心を涵養する教育が計画され、「国家神道」が形成されていく。

明治政府は、日本をアメリカのように物質文明の恵まれた国にしようと考えた。
その政策を遂行するために旧体制の影響力を排除し、日本の歴史や文化を継承するよりも、列強に追いつくための政策を優先させた。
当時の総理大臣、伊藤博文が余りにも自国の文化や伝統を否定し、ヨーロッパのものを一方的に導入しすぎるので、プロシアの外交顧問だった人物が行き過ぎを諌めたことがあったほどだという。
 
当時、有色人種は、西欧人から同じ人間と見られていない時代であった。
だから日本人が有色人種でありながら欧米列強と比肩しうる国を作ろうとすれば、たとえ形式上であっても、様々な習慣を改める必要があった。
特に日本の一般民衆の結婚形態や、性風俗は一夫多妻制を連想させ、非文明的ととらえられたようだ。
そこで登場したのが、「婚姻法」の制定であり、「神前結婚式」の考案だった。

「婚姻法」が制定され、側室をもつことは表向き禁じられたが、形の上だけで守られてはいなかった。
天皇家でも、側室をもたなくなったのは昭和天皇からで、明治、大正の政治家は憲法の制定はするが、「婚姻法」を守らず側室を持つことを男の甲斐性のように考え、行動した人が多かった。
彼らは自分が守れないことであっても、ヨーロッパから対等と見えるように体裁を整えようとしたにすぎなかったのである。


 


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2004年10月13日

夜這いと不倫 04 04/16

「夜這い」は一対婚を補完する形でムラに定着していたわけで、
一対婚での性的不満足に対しての受け皿として機能していた。
このことは男女の意識を、とても自由で大らかなものにしていたに違いない。
赤松啓介が記述したムラでのあけっぴろげな性についての語りはそのことを証明している。
それは結婚相手以外とのセックスを「不倫」と呼ぶ現代の感覚とはまったく相容れない。

ムラの人々の性はそもそも「私的なもの」として独占されるものではなかった。
もちろん一人の相手に恋焦がれる思いはあっただろうし、
取ったの取られたのという争いは今以上に強烈だっただろうけれども、
「一生、私だけの相手」という意識や規範はなかったようなのだ。

若衆と娘仲間の間柄で性的には開放されているはずなのに、
その中で2人だけの関係になってしまった場合、
ムラから追い出されたこともあったという。
当然、ムラの中でも好かれる者、嫌われる者はあるから
誰彼なく全員と寝なければならなかったわけではないだろうし、
あれこれ理由をつけて拒むようなこともあっただろう。
それでも一人の相手よりもムラ(仲間)全体を大切にしなければならなかったわけで、
今日の規範とは全く逆なのだ。

現在では結婚相手や付き合っている相手以外との恋愛やセックスは「してはならないこと」になっている。
そんな風に管理され、禁止されればされるほど、
逆にいけないことをしているという燃えさかる思いもあるだろう。
それが異性やセックスについての異常なこだわりとなったりもしている。
不健康だと思う。

自分の思いに正直になってみたらどうだろうか。
相手が一人だけでは満足できない人は男女問わずそれなりにいると思う。
そのごく自然な思いに「不倫」だの「火遊び」だのと
レッテルを貼って揶揄したりはやし立てたりすること、
相手を独占し、嫉妬することが正しいとはとても思えない。
一人の相手がいい人たちはそうすればいいだろう。
そういう人は上に書いた若衆が追放された話などいたたまれないだろうし、
そういう思いはそれで尊重されるべきだと思う。
大切なことは男女関係に貴賎などもうけるべきではないということだ。

 



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夜這いの起源 04 04/13

夜這いがいつごろ始まったのかについて、赤松啓介は戦国戦乱期を夜這いの定着期としていたようです。
(『夜這いの民俗学』参照)
しかしこのあたりは物証がないことから定説がありません。
ただ、大和民族がもともと大らかな性を生きていたことは数少ない文献からも明らかです。

例えば「歌垣」というものがありました。
大辞林第二版によると…
【歌垣】うたがき(1)古代の習俗。男女が山や海辺に集まって歌舞飲食し、豊作を予祝し、また祝う行事。多く春と秋に行われた。自由な性的交わりの許される場でもあり、古代における求婚の一方式でもあった。人の性行為が植物にも生命力を与えると信じられていたと思われる。のち、農耕を離れて市でも行われるようになった。かがい。
「果して期りし所にゆきて―の衆(ひとなか)に立たして/日本書紀(武烈訓注)」

(2)奈良時代、大勢の男女が歌い舞う宮廷の行事。(1)が宮廷化されたもの。

また地域的には東南アジアの広い範囲で行われていたようで、
たとえば高句麗では3世紀既に貴族が多数存在し、奴隷を使って遠くから食料を運ばせて『暮夜男女羣聚、相就歌戲』していたという記述があります。(高句麗伝参照 一般庶民はどうだったか不明)


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赤松啓介を読んで考えたこと 04 04/04

赤松啓介『夜這いの民俗学』を最近興味深く読んでいる。
この本は兵庫を中心に関西を調査して書かれた本であるが、僕が以前から考えていたことの例証となりそうな記述がたくさんあった。
それはかつてのムラ共同体を成立させていた重要なポイントが、ムラの性文化にあったのではないかということだ。
たとえばムラの子育てでは、「誰の子」といった意識をあまり強くもたずに、ムラ全体で子どもを育てていたわけだが、こういったことができた前提として、ゆるやかな性規範があったのではないかということだ。
「夜這い」にはムラによって様々なルールがあり、総当りができるところもあれば、女は亭主のあるものは亭主の留守だけに限るとか、後家はいいが姑は参加できないといった決め事がされていた。
しかしそれは表向きのことで、隠れてやるものはいくらでもあっただろう。

このように不特定相手のセックスを容認すれば、子どもの本当の父親が誰なのかはっきりしなくなる。
ムラの生活ではむしろそれが当たり前であり、それを問題にする思考はすでに現代人の常識に毒されている。
子どもの産みの親だけでなくムラの皆が親代わりとして機能していたのだから。
(取り上げ親や名付け親、乳母や様々な儀礼の取り仕切り役など、周りの大人にカリオヤを頼んだことは分かりやすい一例だ)

当然、自然環境は今の何倍も厳しいし、農作業や祭りなどムラ全員の力をあわせなければ成立しないのだから、子育ても生き死にもセックスも個人の独立のものとして成立しえなかったのだ。

赤松は教育勅語と道徳教育をもとにした明治〜昭和初期の教育がこのような共同体をつぶしていったという。
共同体を分断し、個々別々の家庭を作ったのは管理するものにすれば非常に好都合であっただろう。
たとえば誰が誰の子どもであるとわかれば、何か問題が起こったときに責任を問う相手がはっきりする。
「あなたの家庭の教育はまちがっている」と言えるということは、自分も他人に突っ込まれる恐れがあるということだ。
それは人々を末端まで管理的にしてしまうことであり、互いに許しあわない文化を作ってきたということだ。
核家族や一対婚を正当とする考え方、それらと相容れないものをたとえば「不倫」だと呼ぶ文化はこのようにして作られてきたのだ。

80年代以降、「家庭」の機能が低下して一方で仮面夫婦やセックスレスのような問題がおこり、また一方では若年層が一対一の関係にとらわれなくなってなっていることは、このような近代的な家庭の成立をかえりみるとむしろ当然のことだったのかもしれない。


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2004年09月30日

補足 「国家神道」がムラを壊した 2004 09/10

「国家神道」が成立する以前は、名もない神が祀られている神社は数え切れないないほどあった。
また、その集落の信仰が神道か仏教かを問わず、各集落に一つは「産土」や「お宮」ような小さな社があった。
そこでは「記紀」に登場するような神々などではなく、「氏神」と呼ばれる集落の祖先神が祀られていた。
集落に生きる人々は、死んだ後は山の頂きに鎮座する「氏神」となってその土地や子孫を守ると考えられていた。
「氏神」は特定の名を持つものではなく、代々の先祖たちの集合霊のようなものである。
また、「氏神」は農耕作業と結びついて、「田の神」、「水の神」とも考えられていた。集落の人々も春の「田植え時」や秋の「稲刈り時」など、稲作と関わる重要な時期には祭りをもよおし、「氏神」に敬意と感謝を表していた。
「氏神信仰」は人々の祖先を思う気持ち、やがて子孫を守りたいという気持ちから生まれた、ごく自然な信仰である。

さて、日露戦争後の明治39年に、政府内務省は「神社合祀令」を発布する。
これは神主もおらず社殿も荒れて祭神も不明瞭な神社を、一町村一社を標準に合併させようというものであった。
専任の神主を置いて神殿を立派にすれば、村民の信仰心が高まるだろうというのが表向きの説明であった。
しかしその裏には、明治22年の町村制によって作られた新行政村内の統合を図るために、集落の精神的拠りどころを奪うという狙いがあった。
この政策によって、明治39年に19万を数えた全国の神社は、わずか3年の間に14万7千まで減少した。

明治政府は伊勢神宮を頂点として、全国各地の神社をピラミッド型に序列化した。
その際、地域で信仰される氏神ではなく、「記紀」に登場する神々や歴史上の著名人を神格化した神を祀ることとなった。
また、各地の独自な信仰や、天皇家とは異なる系譜の神話は、これらの政策によって抹殺の危機をむかえた。
各地の寺や神社に伝わる古文書が焼かれ、古くからの祭りが「淫祀邪教」であるとして禁止されるなどの、さまざまな排撃が行なわれた。

明治政府が作り上げた「国家神道」では、天皇家は最高神である天照大神の子孫である。
天照大神から「天壌無窮の詔勅」を与えられた天皇家は代々、日本の正統な支配者として君臨できるとされた。
しかし、これだけでは一般国民の信仰とはかけ離れており、国民が権威を感じるまでにはいたらない。
そこで政府は、民衆が心の拠り所とする氏神を記紀に出てくる神の化身としたり、入れ替えたりした。
神々は天照大神を最高神として、そのもとに治められている。
民衆にとって、自分たちの信仰している氏神が、天照大神のもとに仕える神ということになる。
よって、天照大神から神託された天皇家に支配されるのは当然となる。

こうして民衆の氏神信仰が「国家神道」の中に取り込まれ、民衆が天皇を頂点とする支配体制を支える構造ができた。
そして、このシステムを浸透させる為に、学校での教育が活用された。
子どもたちがものごころつく前から、教育勅語の奉読と拝礼を繰り返し行うことにより、神聖化された天皇と国民とが深く結びついているという印象を抱かせることができた。

近代国家としての日本は終始一貫して「国家神道」を、国民の国家への忠誠と献身とを引き出す道具として利用した。
このような国家的計略を「日本に固有のものとはとうてい言えない」と批判したのは官僚出身の民俗学者、柳田国男であった。

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近代日本の婚姻史 2004 09/06

1900(明治33)年に大正天皇が皇太子時代、日本で初めての神前結婚式を行った。
神前結婚式は日本の伝統的な結婚の形式だと考える人もいるだろうが、実はこの挙式はキリスト教の形式を参考にして作られたものである。
昭和の半ばまでは、大正天皇の結婚式はキリスト教の真似だったなどとは語られるべくもなかった。
その上、皇室の行事として行なわれたことで、古来から伝えられた日本独自の結婚の儀式と考えられてもおかしくはない。
日本の伝統と印象付けることが目的だとしたら、これは大成功したキャンペーンだといえる。

キリスト教では、結婚は神の前で行われる神聖な儀式であるが、「国家神道」の神前結婚式とは、まさに「神の前で誓われる、何人にも犯されてはならない」結婚を日本文化に取り入れるために導入されたものであった。

では、それ以前の人々はどのような結婚生活を送っていたのだろうか? 
江戸時代の武士と一般庶民の結婚について見てみよう。
武士は人口構成比で言えば全体の6%程度だったが、彼らの結婚形式は現在のものに大きな影響を与えている。
武士の階級では「家」を継承するために婚姻を結んでおり、「嫁入り」という婚姻の形式をとっていた。
これは、女性が男性の家に嫁ぐもので、女性は処女に近い状態で嫁いでいたようだ。
本当に当主の血を受け継いだ跡継ぎを確保しなければならなかったからであろう。
また、男子でなければ家督を相続できないので、男子が生まれるまで子づくりが行われた。
一人の女性では跡継ぎを確保するのに不安があるため、武士は複数の女性を側室として抱えていた。
武士以外にも裕福な人達は家を守るために側室を持つことが普通であった。
しかし武士においても神前結婚式の原型のような儀式はなく、仲人と結納の制度が現在に受け継がれているにすぎない。

これに対して、一般庶民では明治のはじめまでは、「婿入り婚」が多かったという(柳田国男『明治大正史』などを参照)。
「婿入り婚」とは、はじめのうちは男性が妻となる女性の家に通い、男性の母親が家事の一切の権利を譲るときにはじめて男性の家に「嫁入り」する形式であった。
お互いに歩いて通えるような距離に住む間柄で、「村内婚」とも呼ばれている。
「嫁入り」までに長い時間がかかることが多く、当然子連れでの「嫁入り」も珍しくなかった。

結納を行なうこと、仲人を立てることは武士だけの習慣であった。
庶民は「嫁入り」のとき、親類縁者を招いて祝宴を開いたが、多くは子連れでの結婚であるため、女性の純潔を強調するような儀式はなく、女性が家事の権限を譲られたことをお披露目する会としての性格が強かったという。
処女で「嫁入り」をしなければ恥ずかしいという感覚などなく、むしろ子宝に恵まれていることの方が重要だと考えられていたようだ。

明治になるまでは、武士だけが「嫁入り」をしていたが、大正、昭和の時代を経て、身分制度がなくなるとほとんどが武士のような「嫁入り」になった。

明治政府は岩倉遣欧使節団を派遣し、ヨーロッパ列強と比較して遅れた文明の差を取り戻すために、各国を調査し、教育をの充実と、国家宗教を持つことが大切であると結論づけた。
特に建国百年で母国よりも優れた文明を持つようになったアメリカの様子を見て、そのような結論が出されたようだ。
そこで愛国心を涵養する教育が計画され、「国家神道」が形成されていく。

明治政府は、日本をアメリカのように物質文明の恵まれた国にしようと考えた。
その政策を遂行するために旧体制の影響力を排除し、日本の歴史や文化を継承するよりも、列強に追いつくための政策を優先させた。
当時の総理大臣、伊藤博文が余りにも自国の文化や伝統を否定し、ヨーロッパのものを一方的に導入しすぎるので、プロシアの外交顧問だった人物が行き過ぎを諌めたことがあったほどだという。
 
当時、有色人種は、西欧人から同じ人間と見られていない時代であった。
だから日本人が有色人種でありながら欧米列強と比肩しうる国を作ろうとすれば、たとえ形式上であっても、様々な習慣を改める必要があった。
特に日本の一般民衆の結婚形態や、性風俗は一夫多妻制を連想させ、非文明的ととらえられたようだ。
そこで登場したのが、「婚姻法」の制定であり、「神前結婚式」の考案だった。

「婚姻法」が制定され、側室をもつことは表向き禁じられたが、形の上だけで守られてはいなかった。
天皇家でも、側室をもたなくなったのは昭和天皇からで、明治、大正の政治家は憲法の制定はするが、「婚姻法」を守らず側室を持つことを男の甲斐性のように考え、行動した人が多かった。
彼らは自分が守れないことであっても、ヨーロッパから対等と見えるように体裁を整えようとしたにすぎなかったのである。


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