恋愛とは?

2005年08月16日

性関係の多様性

ちょっとブログの使い方を変えようと思っています。
よりメモ的・ラフなものとして。
レポートちっくなものを書こうとすると時間がとれないし、
書いている間に関心が変わってしまったりするし。
月に2本くらいしかアップできないのもなんかもったいないし。

自己紹介をいじってみましたが「性関係の多様性」について
考えると面白いんではないかなと思っています。
「セクシュアリティの多様性」というと性指向・性自認・生物学的性・ジェンダーあたりの固定化できない多様なありさまを言うことが多いと思うんだけど、
シングルであることとかポリガミー/ポリアモリー的なあり方を指向することも、多様性の一部として考えることができるわけで、
逆に言うとモノガミー的規範がどれほど強く機能しているかがわかるという気がします。
 
恋愛至上主義とモノガミー主義が「性関係の多様性」を阻んでいる。
この問題とジェンダー規範意識が性役割を固定化させていることってパラレルだと思う。


open_eyes at 17:07|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

2004年10月22日

禁酒法と一対関係 04 06/15

20世紀初頭(1920-1933)、アメリカでは飲料用アルコールの製造が禁止された。
俗に「禁酒法」と呼ばれるものだが、この法律が禁止していたのは「酒の製造、販売、運搬、輸出入」であり、飲むこと自体は禁止しないザル法であった。
そのため、自宅に大量に酒を保管する金持ちや法律を守って破産した酒造業者が出た一方で、密造酒・密輸酒の流通で莫大な利益を得たマフィアがあらわれた。
有名なところでは「私が法を犯しているとしたら、シカゴの何百人という著名人も有罪だ」と語ったアル・カポネがあげられる。

法律論としては色々な論点が考えられるが、ここでは現代の男女関係との対比で考えてみたい。
というのは、一対一の固定的な男女関係を正しいものとする制度のもとでの男女間の姿は、どうも禁酒法が生み出した社会風潮に似ているように思えるからだ。

ムラ共同体が崩壊するまでの日本では、それなりに規範はあったものの、かなり自由に男女の関係がもたれていた。
しかし、一対婚家庭がスタンダードになると、結婚外の性交渉や恋愛が不倫と呼ばれ、タブーとされるようになっていく。
明治頃の進歩主義的な政治家や思想家にしてみれば、ムラでのそのような民俗は野蛮で恥ずべきことに思われただろうし、国の発展を思えばやみくもでも欧米の文化に追従しようとしたことは理解できなくもない。

さて、一対の男女関係の枠から外れようとする人間の中には、相手を性欲処理の道具のように扱ったり、数をこなすことを目的とするような者もいたが、相手を大切に扱い、ごく自然な付き合いの中で複数の相手と同時に関係を持っていた人たちもいたことと思う。
ムラ共同体ではそんな人間が排除されることはなかっただろうと思われる。

一対関係が正しい関係とされるようになると、素朴に複数の関係をもっていた人たちはその関係を維持しにくくなったが、言葉巧みに相手を言いくるめて身体だけを目的とするような人間は、抜け目なくその関係を持ちつづけただろうということは容易に想像できる。

ここに禁酒法と同じように、素直な者が自由を奪われ、ずる賢い者が得をする環境があらわれる。
隠れて飲む酒が金持ちのたしなみになったように、淫猥なセックスを夢見る男女が人知れずに身体をむさぼるようになった。
現代の私たちの男女関係は、相手の目をあざむき、自分が得をするように関係をコントロールすることに傾きがちだ。
大切な相手はいつも目の前にいるのに、素朴に相手を大切に扱う関係が成立することはとても難しい。
そして、つきあっている相手以外ともセックスしてみたいと思う人は少なくないだろうが、実行にうつそうとすると、まず抜け目のない遊び人にひっかかる危険性が高い。

結局、禁酒法がそうだったように、ダブルスタンダードを改めるべきではないのだろうか。
もしくはそのことに気づくだけでも私たちの認識は変わってくる。
一対関係が正しいと鵜呑みにする善意の人間が、結局自由で開かれた男女関係をもちにくくしている。
自由に楽しく飲む酒が旨いように、自由に楽しむセックスは気持ちよい。
当たり前のことだが、そのことを知っている人は案外少ないように思う。


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2004年10月14日

恋愛感情について 04 05/20

私は恋愛感情が希薄な方なのであまりわからないのだが、
付き合いをやめるとき、「相手とのことをなかったことにする」という意識がけっこう働くようだ。
でも「なかった」というのは不自然ではないだろうか?
そう思わないと相手と切れないということだろうか。
(そもそも切る必要があるのか?)

深い関係だった相手を、いきなり知り合い以下として扱うというのは、かなり無理がある。
恋愛が終わったときの喪失感には、このような感情処理の影響もあるのではないかと思う。

恋愛では相手を特別な人と扱うが、これが日常の感覚とは連続性のない、
あの特有の盛り上がりを作り、また破綻した場合の「落しどころ」をなくしてしまう。
このように考えると、恋愛感情というのはさほど正常なものではないかもしれない。
実際、恋愛初期の精神状態は強迫神経症と類似点が多いという研究もあるらしい。
(平成11年3月1日 中日新聞より)

恋愛ができる人は誰にでもオープンなものではなく、付き合いの濃淡がはっきりしている。
「その他大勢」との付き合いには仮面をかぶって本音を抑制し、すべてをさらけだす相手を一人にしぼる。
それぞれの付き合い場面での温度差が激しい。
急に盛り上がり、急にメランコリックになる恋愛時の感情は、このような付き合いの仕方と関係があるように思われる。

これらは近代社会に生きる人間の特徴と言えるかもしれない。
不特定多数の人と様々な場面で接し、大量の情報交換をしながら生きている私たちにとって、効率よく生きるにはある程度平均化されたキャラクターを演じる必要がある。
また社会性を求められる場面では、生々しい感情や欲望を顕わにしてはいけないことになっている。
私達の多くは、それらを無意識に抑えて社会生活を送っている。

恋愛はそれらの抑圧された感情のはけ口になる。
恋愛の初期は、お互いを理想化して燃え上がるが、徐々に互いの飾らない姿があらわになると幻滅がおこってくる。
それは他の人との関係では出せなかった甘えやだらしなさまで、つい出てしまうからだろう。

1対1で密着した関係がだらしない感情のはけ口になった時点で、普通は関係が成り立たなくなるか、
腐れ縁みたいになって「しかたがないから付き合っている」ようになる。
どう考えても苦痛だろうし、セックスレスにもなるだろうと思うが、当人どうしにはきっと愛着もあるのだろう。
いろいろさらけ出せる関係を一度作ると、他の相手と同じような関係を作るのは面倒にもなるだろうし。

これらは基本的には、恋愛やセックスだけにかぎらず、本音を出せる関係を限定することから起きていると思われる。


 


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