早春のやわらかな光に誘われて、
つい先日まで、
分厚いダウンジャケットにマフラーをぐるぐる巻き、
うつむいて階段を登ったことが嘘のよう。
お水取りを終えた二月堂は、
あの厳しかった本行の日々などなかったように、
静かな日常の顔に戻っていた。
本行だけでも2週間。
別火も入れると1ヶ月ほど。
清浄な火の元で、肉食などを断って心身を清め、
人々の幸せと平和のために、
ひたすら懺悔と祈りを繰り返した11人の練行衆の、
無の心から唱和される声明に、
これほど心を揺さぶられるとは思わなかった。
1250年以上、一度も途絶えることなく続けられてきたお水取り。
二月堂を舞台に繰り広げられる
この壮大な聖劇とも言うべき行には、
この壮大な聖劇とも言うべき行には、
西洋音楽という絶対的な存在の呪縛から解き放ってくれる
大きなヒントが秘められていた。
かつてドビュッシーは、
インドのガムラン音楽と出会って強烈な印象を受け、
新たな扉を開いていったけれど、
そのときの鮮烈さと驚きも、
二月堂へ通じる登廊を、息をきらしながら登った日々。
しんしんと底冷えのする夜、
寒さと格闘しながら11人の連行衆の声に耳を傾けた日々は、
思えば、自分自身と対峙する時間でもあった。
そして今、あの日々は、
誰のものでもない「私のお水取り」となって
心の中に息づいている。
誰のものでもない「私のお水取り」となって
心の中に息づいている。
きっと、あの寒空の下、
二月堂に足しげく通った人たちは、
みなそれぞれに「自分だけのお水取り」を感じ取ったことだろう。
穏やかな日射しを浴びて
小さな子どもたちが駆け回る。
重いコートを脱いだ人々が和やかに談笑し、
ほころび始めた桜に足を止める。
そんな何気ない日常の風景に心がしみるのは
この穏やかな春の日が、けして当たり前のことではなく、
何か大いなるものの計らいと、
私たちに代わって懺悔をし、
祈りを捧げる人々によって支えられていると知ったから。
少なくとも、我々日本人は
そう信じて、古来よりずっと生きてきた。
すべての生命がいきいきと輝き出す春。
私も精一杯、自分を生きよう。
みなさんの心にも、春の息吹が訪れますように。