2008年05月19日
マンデラの名もなき看守
ネルソン・マンデラ大統領という名は聞いた事がある。かつて彼自身がロベン島の刑務所にいたという事さえ知らなかった私にとってこの物語はどのように映るのか期待して観に言った。
論理としては分からないでもない。弾圧されるのならばそれに対峙する方法は武力しかないのだと。その言葉を反芻するたびにマハトマ・ガンジーの唱えた非暴力跳ね上がってきた。
それゆえに、ネルソン・マンデラ(デニス・ヘイスバード)という人物。そして取り分け彼の看守を務めた男の心情はどのような変遷を辿るのかという人間的興味によってこの物語は支えられていく。
アパルトヘイトを起点としたこの物語は、根深い人種差別の様相を作品全体に投げかける。黒人は人間とみなされず、刑務所でも扱いは不等な差別の繰り返し、家族や知人との手紙は全て開封され、問題だとみなされた個所は全て切り取られ手紙として体を成していないものを渡される囚人の表情には絶望よりも唖然とした顔が見える。
ジェームズ・グレゴリー(ジョセフ・ファインズ)という人物の本当の内面を追っていくのであれば、彼はこの刑務所で辛くも重要な役割を果たす事になる。彼こそが囚人の素行を完全に把握し、手紙を検閲するアパルトヘイトによる反抗勢力を事前に察知し計画を頓挫させるという国家の存亡と国民の命を守るという検閲官という役割だ。
手紙に認められたテロの暗号、計画の周知を事前に察知し悉く通知していく。しかし、ジェームズはやがて彼が告げた仕事の裏側で数々の人が亡くなっているという事実に突き当たる。
そこにジェームズが心の底に何か歯がゆいものがあるとすれば、彼の過去に語られるある少年時代の友人が黒人であり、彼が心を通わせた唯一無二の存在である事が彼の胸に忍ばせた缶ケースの中に綴られるからこそこの看守が家族、そして刑務所で奉仕するという事に疑問を覚えてならない一番のきっかけとなったのかもしれない。
ある種これはネルソン・マンデラ、そして人種隔離政策で差別を受け続けなければならない人々の悲劇を描くと同時に、かつて純粋で肌の色によって差別を受けるといいう事をも薄々知りながらも、友情を心の隅に抱え、また国家という枠組み、そして仕事、美しい家族に囲まれたゆえに恩恵を受け続けてきたジェームズという男の無知という悲劇にも繋がるのだ。
一方で興味深いのは隔離された刑務所の外枠を提示するロベン島という場所、コミュニティは不必要なほどに対黒人意識の様相を蔓延させ、ジェームズの妻を始めとした刑務官の妻達もまた虫けらのように黒人を扱うセリフを悉く吐いていく。
それに呼応するかのように、ジェームズの妻グロリア(ダイアン・クルーガー)もコミュニティという孤独の枠組みにはまり込み、彼女からも信じられない言葉が応酬のように吐き出され、そして夫の地位と出世のみを信望する奥さんとしてその片鱗をほのかに見せていくあたりは興味深い。。
物語の起点としてやはり、差別は良くないというメインを描くよりは、主に描かれるのは人間である。元々国や政治の風により思想や考え方、そして生活さえも囲われて過ごさなければならないジェームズの居場所もまるで隔離されたかのようで、そこから抜け出す発端を探し続けているかのように出口を模索する。
黒人の側に付いただの、人間扱いを受けない彼らと口を聞いているだの、ジェームズは理不尽な村八分を受けてもやがて、ネルソン・マンデラが唱えた国民憲章、そしてネルソンが話す一言一言を次第に心に再考していったのかもしれない。
ジェームズとネルソン・マンデラが次第に、兄弟のように人間としての邂逅を果たす瞬間は数多く訪れている。それは時間がもたらした当然の帰結なのか、もしくはジェームズが元々持っていた人間としての心の顕れを自然と紐解いて行く作業に過ぎないのかもしれない。
そう今も南アフリカに横たわる隔離の温床を解決する方法は、本来、人間同士の対話、そして模索していく事から始まるのかもしれない。それは恐れてもいけないし、真っ向から向かっていく素直さもまた武器となる事を示す格好のテキストであろう。
監督 ビレ・アウグスト
出演 ジョセフ・ファインズ
デニス・ヘイスバード
ダイアン・クルーガー
5月18日 シネカノン有楽町一丁目にて鑑賞
『マンデラの名もなき看守』 (原題 GOOD BYE BAFANA)