『姉ちゃん、何処に行くの?』

 すがり付くような青の瞳。金の髪が日に照らされて光る。
 アキラ、ごめんね。姉ちゃんは行くところがあるの。
 でもすぐ戻るから。悪魔を祓って貰ったらすぐに帰ってくるから。その時は一緒に遊びに行こう。遠出して横須賀まで行こう。
 昔お母さんと一緒に一度だけ行った海。もうお母さんはいないけど、私がお母さんの代わりになるから。ずっと二人一緒にいよう。
 だから、少しの間待っててね――

 『ああ、これも失敗だ。やはりもっと幼い子供の方がいいのではないか?』

 換気口から見えた光景。消毒薬と血の匂い、診察台に拘束された京子、虚ろな目、弛緩した口元から涎が流れ出て、頭に管が幾つも刺さっている。
 シド、一体何をしているの? 京子に何したの?
 シドはデビルサマナーで、私の声に取り付いた悪魔を祓ってくれるんじゃなかったの? やだ、やめて、私の友達に酷い事しないで――!

 『お前の名と、俺の真名を奪ったその言霊を頂く。さあ、名乗れ』

 山の中。雨が降っている。泥のぐちゃぐちゃした感触を背中に感じ、身体が濡れて気持ち悪い。
頭が痛い。手足が痛い。身体中が痛くて寒い。
 蝿が話しかけてくる。名乗れ。これは今そう言った。名前を言うだけで助けてくれるなら、いくらでも言おう。
私は死ぬわけにはいかない。早くアキラの元に帰らないと。此処は嫌だ。此処は何かがおかしい。此処は、私の居るべき場所じゃない――

 黒い男が私の首を掴んだ。

 身体の内側から痛みが生じる。神経が苛まれ、内臓を撹拌され、脳髄を滅多打ちにされるような激しい痛み。

 痛い、イタイいたい!
 やだ、此処はイヤだ、これは嫌だ、此処には居たくない、逃げ出さなきゃいけない、シドからも、この痛みからも。

 いやだ、嫌だ、全部嫌だ。

 守ってくれるものが欲しい。私とアキラをこの痛みから、意地悪な皆から守ってくれるものが。

 少女の手は、自らの首を掴んでいる黒い男を捕まえようとするが、それは叶わず、そのまま空に浮かぶ月に向かって伸ばされたが、視界が徐々に黒く染まり、やがて月も少女の意識も、そして黒い男も全てが影に包まれた。

―――

 目を開けた時、最初に飛び込んできたのは、夜空の紅い月に向かって伸ばされている自分の手。

 指を動かしてみる。握れた。痛みはなく痺れもない。
 上体を起こし自分の身体を見てみる。泥で汚れてはいるものの、どこも怪我をしている様子はない。

 (何が……起きたんだろう。私は何故此処に寝ていたのだろう)

 そっと、頭に触れてみる。右側の髪が血で濡れてはいるが、やはり痛みはない。
 それどころか傷の痕跡さえない。

 (確か私は……彼処を抜け出して、それから……)

 頭を押さえながら、未だ混濁している記憶を辿った。
 血と消毒薬の匂い、診察台の無惨な姿の京子、白衣のシド、赤色灯の小部屋、大きな鳥籠、そこにいた三本足の鴉――

 此処はどこだろう? 木々が生い茂っていて、地面には青草が敷き詰められている。空には太陽ではなく不気味な紅い月が浮かんでいる。
 私はあの鴉に会った後、いつの間にか夜の山にいて、暗い中歩いていたら、足をぬかるみにとられて、そのまま転がって、頭に凄い痛みが襲ってきて、それから――

 生暖かい風が少女の髪と木々を揺らした。ばさばさという木々の葉が揺れる音に少女はびくっと身体を震わせた。
 少女の目の前に黒い風が渦巻き、やがてそれは徐々に人の形に変化した。

 黒い山伏にも似た法衣を纏い、鴉を思わせる兜を被り、兜の下の切れ長の暗い瞳が、少女を見下ろす。
 その者が、人ではないと少女には分かった。背中に大きな黒い翼が生えていたからだ。

 「ほう、生きていたか」

 低い声が少女の耳朶を打った。あの小部屋で鳥籠に入れられていた鴉が発していたのと同じ声。

 ――あ、あなたは、誰なの?

 そう口にしたくとも、少女の喉からは、ひゅう、という呼吸音しか鳴らなかった

 ――あ、あれ? なんで?

 もう一度、声を出そうとする。その度にひゅう、ひゅうという風の音しか喉から発せなかった。

 ――声がでない!?

 「何いってるんだ。そういう取引だっただろう」

 くくっと少女の目の前の男が笑った。喉を押さえながら口をぱくぱくしている少女をあざけ笑う色がその目にはあった。

 ――と、取引?

 その言葉もやはり声には出なかった。だが黒い男は少女の思考を読んだかのように答える。

 「お前の命を救う代わりに、声と名を頂く契約だっただろう。覚えていないのか?」

 言われて少女は、頭を触る。血がこびりついている黒髪の下の、なんの傷もない頭の皮膚。
 そうだ、足を滑らせて頭に怪我を負った私は、蝿みたいな塊に言ったんだ。助けてって。
 そうしたら、蝿が「名乗れ」て言ってきたから、私は自分の名を名乗って、それから蝿が人の形になって、そいつが私の首を絞めてきて――

 あれ?
 私、自分の名がわからない――!?

 「だからそういう契約だと言っているだろう。お前の記憶と、お前を知っている全ての人間の記憶と記録から、お前の名は抹消された。知っているのは俺だけだ」

 ――そ、そんな、酷い!

 「先にお前が俺の名を奪っていったんだろ? そのせいで俺の力は更に封じられ、あんな蝿のような姿にまで落とされた。しかもこの世界の時間軸に固定されてしまった。酷いのはどっちだ?」

 黒い男が冷たく少女を睨む。静かな怒りの目であった。

 ――名前? 私は何もしてない。私はただあの鴉の名前を口にしただけだ。記憶の片隅に残る禍々しい名前。
 そしたらいきなり黒くて激しい風が私を飛ばして、気が付いたらこんな所にいて……

 「此処から出たいか?」

 男の語気がやや柔らかくなった。少女が尻餅をついたまま顔を上げる。

 「俺も此処から出られなくて困っている。
 今すぐにでもあのサマナーと大天使を殺しに行きたいのに、この結界のせいで此処から抜け出せない。早くこの結界を解け」

 ――結界? なんのこと? 此処は鞍馬山じゃないの?

 少女の思念に、男ははあ、と溜め息をつき、そして呆れたように少女を睨んだ。

 「これも覚えてないのか。
 此処は影の鞍馬山。俺の力を暴発させたお前が、鞍馬山の一部を模倣して造り上げた別世界、影の結界の中だ」

―――

 少女は走った。黒い男から逃げ出して。
 靴に踏まれた草がガサガサと音を立てる。舗装されていない獣道を月明かりだけを便りにがむしゃらに走る。

 ――影の結界? 模倣した鞍馬山? 別世界? 私そんな事していない。そんな事があるわけがない。
 此処を真っ直ぐ行けばきっと山道に出るはずだ。またシドの所に戻るのは嫌だが、あの黒い男は危険だ。翼が生えていて人じゃないみたいだし、もしかしてあれが悪魔――?

 「!」

 靴の紐がほどけ、少女はそれを踏んでしまい思いっきり転んだ。
 鼻を地面にぶつけてしまいじんじんする。

 「無駄だ。ここは閉ざされた結界。造りだしたお前が解かない限り何処にも逃げられない」

 ばさり、と音がして、頭上から低い男の声が聞こえた。
 見上げるとやはり。先程の黒い男が腕組みをしながら少女を見下ろしていた。

 「…………」
 鼻を押さえたまま、少女は月光に照らされた男の顔を見つめる。

 ――結界、なんて私は知らない。私は早く帰らなくちゃいけない。アキラはまだ小さいから、一人にしちゃいけないの。私は、アキラの元に帰りたい――

 「どうしても帰りたいなら、方法がないわけでもない」

 男がしゃがみ、少女と視線を合わせた。暗い金色の切れ長の瞳。その瞳から発せられる視線を受けて、少女の身体が強張る。

 「俺の名を、今すぐ返すことだ」

 くい、と男が少女の顎をとる。食い込んだ指の冷たさに、少女は息を飲んだ。

 「俺が自分の名を取り戻し、力の一部も取り戻せば、お前が作った結界などいとも容易く破れる。
 悪い話じゃないだろう? この結界が無くなれば元の世界に戻れる。お前も帰りたい所に行ける。ついでに言霊と名も返してやる。これが最善の方法だと思うがな」

 甘く、妙に柔らかな声で黒い男は少女に語りかける。さながらそれは獲物をたぶらかすように。

 そう、確かに私はアキラの元へ帰りたい。あんな光景を見てしまったから、もうシドは信じられない。あんなに優しかったシドも、結局怖い大人の一人だったんだ。
 きっと、この男の言うことは正しい。私はこいつの名を奪いたくて奪った訳じゃないし、この黒い男の言うことは筋が通っている。
 だけど―――

 ――……嫌
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