黒蝿は、東のミカド国内を歩いていた。

 黒蝿の手には力を封印する為の枷がつけられている。そのせいで術は使えず、空を飛ぶことも出来ないが、こうして探索するだけなら十分であった。

 あの戦いの後、黒蝿はアキュラ王によって重女と離され、枷を施されて再び独房に入れられた。しかし、前回のような監禁ではなく、監視付きの軟禁に待遇は上がった。
 現に今も、外に出たいと言い出した黒蝿を雷王獅子丸が見張っているだけ。朴訥とした神獣は、黒蝿の右斜め後ろで油断なく一挙一動に目を凝らしている。アキュラ王から外出の許しが出たとはいえ、この悪魔が再び暴れまわるかもしれん。獅子丸は腰の長刀から手を放さず黒蝿に話しかけた。

 「おい、さっきから何をしている? よからぬ事を考えているのではあるまいな?」

 質問には答えず、黒蝿は周りを見渡した。
 大きいと思っていたこの国は、こうして歩き回ってみると、意外と小さい事が分かった。
 ミカド城を起点として、確認できる国の大きさは、せいぜい半径十キロ程度。しかもよく見るとあちこちの空間がまだ不安定だ。
 ここは自然に出来た国ではない。誰かが“造り上げた”世界。
 黒蝿はこの世界を構成する甘ったるく、胸焼けを起こしそうな「気」を感知し、不快げに眉を寄せた。

 間違いない、これは、“天使”の気だ――。

―――

 「うーん、喉に異常はないね。やはりこれは魔的なものが原因だね」

 城内の医務室にて、重女の喉を見ていたキヨハルは溜め息混じりに言う。重女は喉に手を当てる。醜い痣がついた首。命の代償に声と真名を差し出した、あいつとの契約の印し。
 そういえば、黒蝿はどうしたのだろう。あの後、黒蝿はどこかに連れて行かれて、それ以来会ってない。また牢に入れられたのだろうか。

 重女は筆談用に渡されたノートにペンを走らせようとした。だが視界に白くちらつくものが見え、思わず目を細めてしまう。
 「ターミナル」と呼ばれる場所に降り立った時、そこの強烈な光は、暗闇に慣れていた重女の目の網膜を焼いた。おかげでずっと視界の端々に白い光の残影が写り、特に近くのものを見るのに難儀した。
 目を擦ったりしばたかせたりする重女に、キヨハルはポケットから眼鏡を取り出し、重女の耳にかけた。

 「!」

 すると焦点の合わなかった視界ははっきりとし、白いちらつくものも消えた。
驚いた重女はキヨハルの顔をみる。キヨハルは微笑んでいた。

 「君は目が悪いんだね。気づくのが遅れてごめんよ。僕が昔使っていた眼鏡だけど、良かったらどうぞ」

 にっこりと優しい笑顔を浮かべキヨハルは言う。今まで分からなかったが、良く見るとキヨハルはそれ程老けてはおらず、せいぜい四十代後半か五十代くらいと推測できた。

 [ありがとうございます]

 ノートにそう書いて重女は微かに頭を下げた。キヨハルは微笑んだまま頷いた。なんとなくその笑顔が、シドを思い出させて、重女は胸の奥がきゅっと縮こまる感じがした。
 さらさら。重女はさらにノートにペンを走らせた。そしてその文字をキヨハルに見せた。

 [黒蝿とアキラは、今どこにいますか?]

―――

 王の執務室。机の上に山と積まれた書類を投げ出し、アキュラはソファーに横になった。

 「姉ちゃん……」

 そっと、首から下げている十字架のペンダントを握りしめ呟く。姉とお揃いのペンダント。あの「重女」と名乗った少女も同じものを首から下げていた。そして自分の名前を呼んで抱きしめてくれた。
 間違いない。あれは姉ちゃんだ。ずっと探していた最愛の姉。まだ手に彼女の温もりが残っている。
 大きいと思っていた姉は驚く程華奢で柔らかかった。
 違う、自分が成長したのだ。ぎゅ、と手を握りしめる。姉と別れてからもう七年が経過している。なのに姉は当時のままの姿だ。何があったのか。黒蝿とかいったか? あの悪魔が関係しているのだろうか?

 「…………」

 アキュラは固く目を瞑り、膝を抱える。まるで胎児のように。
 目蓋の奥でアキュラは思い出す。姉を探して過ごした日々。キヨハルとの出会い、そして、「天使」との邂逅を――。

―――

 シドの教会を探して、八歳のアキラは歩き回った。
 教会がないだなんて、そんなわけがない。姉と共に通った教会。大きなシド先生。色とりどりのステンドグラス。差し出されたチョコの甘さ。全部覚えている。夢じゃない、あの思い出が夢であってたまるか。

 公園を出て、近くの米軍基地を通り過ぎ、商店街を抜け、アキラは足が棒になるまで歩き続けた。しかし何処にもシド先生の教会はない。アキラの足は自然と「秘密基地」のある空き地へと向かっていた。
 アキラと姉の二人だけしか知らない秘密基地。幾つもの草を結ってドーム状に造り上げた其処に、アキラは身をかがめ入って、膝を丸めて縮こまった。

 どうして? どうしてシド先生の教会が何処にもないの? お姉ちゃんはいつ京都から帰ってくるの?
 寂しい。嫌だ。姉ちゃん、早く帰ってきて。

 アキラは手作りの「祭壇」に向かって手を合わせて祈った。姉が早く帰ってきますように。二人で仲良く幸せに暮らせますように、と一心不乱に祈った。

 しかし祈りは届かなかった。それから三ヶ月、半年が過ぎても姉は帰ってこない。毎日秘密基地に行っては熱心に祈った。しかしそれでも姉が帰ってくる気配はない。シドの行方も掴めない。
 砂を噛むような毎日が続き、いつしかアキラは、施設でも学校でも、笑うことも泣くこともしなくなり、ただ自分だけの空想の世界に閉じこもるようになった。

―――

 十歳になった時、施設を抜け出した。理由は特になく、ただ職員とちょっとしたことで口論になり、その勢いで、着の身着のままで施設から脱走した。
 その日はとても寒い日だった。
 雪がちらつく中、アキラの足は自然と昔住んでいたアパートに向かっていた。
 しかしそこにアパートはもう立っていなく、工事中の看板がかかっており、古いアパートは取り壊されていた。
 愕然としたアキラは、ふらふらととめどめもなく歩いた。そしてたどり着いたのは空き地の秘密基地。枯れ草の上に積もった雪が秘密基地を潰していた。必死に雪をのけても潰れてしまった秘密基地は元に戻らない。唯一、アキラ手作りの祭壇の十字架が、枯れ草と雪の間から僅かに姿を見せていた。
 雪を掻き分け、その場に座ったアキラは、十字架のペンダントを胸で握りしめ、そして自らの金髪を掻きむしった。

 ――もう嫌だ。此処は嫌だ。姉ちゃんもお母さんもいない世界なんて嫌だ。独りぼっちは嫌だ。
 別の世界に行きたい。此処じゃない何処か。姉も母もいて、誰からも意地悪されない、そんな世界に――

 『それは本当ですか?』

ふいに、頭の中に声が響いた。女性とも男性ともしれない優しい声。

 「誰?」

 アキラは辺りを見回す。しかし誰もいない。雪がしんしんと降り、吐く息は白く、寒さにアキラは身を震わせた。

 『貴方には不思議な力があります。空間形成能力。我らの千年王国を成す為に、その力、是非ともお貸しなさい』

 相変わらず声が響く。ふと、草から覗いている祭壇の手造りの十字架が目に入った。まさか、彼処から?
 アキラはそっと、木の枝で作られた十字架に触れた。
 すると真っ白な光がアキラを包み込む。あまりの眩しさにアキラは目を瞑り――

―――

 『選択をするのです』

 気がつけば白い空間にアキラはいた。上下左右真っ白な空間。そこに白い物体が四つあった。いずれもその姿は人とはかけ離れている。皆白とルビーやサファイヤ等の宝石を基調とした異形の姿だが、不思議と怖い気持ちは浮かんでこなかった。何故だろう。

 『此処にはいたくない。別の世界に行きたい、とお前は願ったな』
 『その願い、我らが叶えて差し上げましょう』

 二体の白い物体が交互に声を発した。思わずアキラは質問してしまった。

 「貴方達は、誰ですか?」

 その問いに答えるよう、四体は微かに光を増した。

 『我はミカエル』
 『ウリエル』
 『ラファエル』
 『私はガブリエル。人は我らの事を四大天使と呼びます』

 アキラは思わず跪いた。天使……本当にいたんだ。祈りを聞き届けてくれたんだ!

 「本当に、僕の願いを叶えてくれるんですか?」
 『無論。姉に会いたい、と願っておりましたが、お前の姉は生きています。今は別の時空に飛ばされていますが、間違いなく生きています』

 その言葉にアキラの大きな青の瞳に涙が浮かんだ。生きている。姉ちゃんは生きているんだ!

 「姉ちゃんに今すぐ会いたいです! 会わせて下さい、姉ちゃんに」
 『いいでしょう。ただし今すぐは無理です。お前が我らの願いを聞き届けてくれるのなら、必ず姉に会えるでしょう』
 「願い?」
 『此処とは違う別の世界に、我らは神の千年王国を築き上げようとしました。でも、その世界には悪魔が溢れかえっています。あの忌々しい黒翼の大天使によって』
 『そこでお前に、悪魔を倒し、我らの千年王国を築く手伝いをしてほしいのです。お前程の空間形成能力があれば必ずそれは為せるでしょう』

 四大天使の言う事を、十歳のアキラは完全に理解したわけではなかった。しかしずっと待ち望んでいた天使様が僕に願い事を持ちかけている、その願いを叶えれば姉に会わせてくれる――それだけで充分であった。
 十字架のペンダントを胸で握りしめる。姉とシド先生とお揃いのペンダント。姉との絆の象徴。

 「やります。僕、別世界に行って悪魔を倒してきます。そして姉ちゃんに会えるよう頑張ります! どんなに時間がかかっても、必ず「千年王国」というのを作って見せます!」

 そこまで言うと、四大天使の姿が一層光輝いた。光の中で天使達が微笑んだかのようにアキラには感じられた。

 『いいでしょう。今から貴方を別世界の東京に送ります。其処は魑魅魍魎が跋扈する恐ろしい世界です。それらを倒し、必ずや、神の千年王国を築き上げるのです』

 光の奔流の中、アキラは拳を握った。

 ――姉ちゃん、必ず迎えに行く。どんなに時間がかかっても、必ず会いに行くよ。だから、待っててね――

 光に向かって手を伸ばす。しかし小さな手は何も掴めないまま空を切り、やがてアキラの視界も意識も、白く、染まった。
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