四大天使との戦い、そしてアキュラ王の喪失から一週間。
 東のミカド国では建国以来最も忙しい七日間であった。

 まず、四大天使を封じた繭は、岩盤の下の東京、新宿御苑のあたりに廃棄された。ガブリエルはとうとう発見されなかった。
 そして、キヨハルが中心となり、修道院が設立された。ここでは主にミカド国の科学水準をあげるための研究が行われる予定だ。
 アキュラ王の銅像を建てる計画が提出され、新しい王の選抜の為にキヨハルやサムライ衆は毎日談合を開いていたが、そんなことは黒蝿にはどうでもいいことであった。
 問題は――

―――

 「どうだ?」
 「駄目です、今日も口をつけていません」

 侍女が首を振った。手に持った盆の上には湯気が立ったままの食事が乗っていた。

 「また駄目だったか」

 キヨハルは肩を落としてため息をついた。隣の獅子丸も苦々しく顔を歪め、豪勢な扉を睨んだ。
 この扉の向こうは医務室であり、そこには重女という少女がベットの上にいる。
 獅子丸の主であったアキュラ王の実の姉であり、共に四大天使を封じ、悪魔召喚プログラムにて瀕死のところをアキュラが身を挺して救った少女。
 アキュラと合体したことにより、失われた右手と両足は戻ったが、まだ満足に動けない。動けるようになるにはリハビリが必要だ。

 しかし重女は一切のリハビリを拒否した。リハビリだけじゃない、運ばれてくる食事にも口をつけようとしない。まるで生きることを放棄したかのように。
 弟であるアキュラことアキラを亡くしたショックが大きいのだろう。自分のせいでアキラはいなくなってしまった、そう思い自分を責めているのかもしれない。
 だが、だからこそ重女には生きてほしいのだ。主であるアキラが己を犠牲にして生き返らせた少女。アキラが唯一自分より大切に思っていた存在。
 そんな重女を守ることこそ、アキラの仲魔であった自分の役目であると獅子丸は思っている。牛頭丸も同じ気持ちだろう。最早アキラは重女の一部になり、恐らく重女が新たな主になるのだから。
 どうやったら重女を元気づけて生きる気力を出させることができるのか。キヨハルと二人頭を抱え悩んでいると――

 人影が二人の身体に被さった。思わずそちらを振り向くと、そこには黒ずくめの鴉を思わせる男――やたノ黒蝿が立っていた。

 「………」

 黒蝿は盆の上の手つかずの食事を一瞥すると、扉を開けようと手を伸ばす。

 「く、黒蝿君! 重女ちゃんはまだ本調子じゃないんだ! 無理にことを運ぶのは……」

 黒蝿の異様な雰囲気を察したのか、キヨハルは扉の前に立ちふさがり両手を広げた。
 しかし黒蝿はキヨハルを押しのけ、強引に扉を開け部屋の中に足を踏み入れた。

―――

 乱暴に開かれた扉の音に、重女は身体を強張らせた。
 開いた先にいたのが、やたノ黒蝿であるのがわかると、怒りに顔を歪ませる。
 こいつがアキラを見殺しにした――憎しみのこもった視線を受けても黒蝿は眉一つ動かさない。
 ベットの上の重女は、一週間前より確実に痩せていた。やつれている、といった方が正解かもしれない。頬はこけ、布団から覗く両手は骨ばってまるで木の枝のようだ。金色に変わった髪には艶がない。
 黒蝿の視線と重女の視線が交錯する。
 先に動いたのは黒蝿だった。 重女の右手を無理やり掴み、ベットから引きずり出す。

 「!?」

 掛け布団が床に落ち、両足がそれを踏む。しかし足に力が入らなく、重女は床に転がってしまう。寝間着の裾がめくれ白い太ももが露わになる。

 「無様だな」

 黒蝿が床に転がったままの重女を見下ろしながら、冷たく言い放つ。重女は顔をあげ、き、と睨んだ。

 「せっかくあいつが犠牲になってお前を助けたのに、これじゃあ無駄死にだったようだな」

 アキラを侮辱するかのようなその発言に、 重女の怒りが脳天を貫いた。黒蝿を引っぱたいてやろうと咄嗟に右手を動かそうとする。しかし動かない。当然だ。リハビリも満足にしていない右手は、主の意志とは裏腹に持ち上がらず指先が僅かに痙攣するだけ。悔しそうに重女は黒蝿を睨みつける。

 「俺が憎いか?」

 黒蝿は腕組みをしながら、重女に問いかけた。重女の青い瞳がほんの少し大きくなる。

 「だが今のお前じゃあ何も出来ないな。俺を殴ることも、この部屋から一歩踏み出すことも出来やしない」

 ぎりぎり。重女が歯を食いしばる。視線を下に向け、黒蝿の顔を視界から外した。そうでもしないと悔しさのあまり泣き出してしまいそうだから。

 「このまま此処にいれば、この国の奴らはお前に対してちやほやしてくれるだろう。黴が生えるまでベットで横になるのもいいだろう。絶望に浸って弟に貰ったその身体を無為にするがいい。だが――」

 そこで言葉をきり、黒蝿は身体を僅かに後ろの扉の方へ傾けた。斜めを向いたまま、俯いたままの重女に僅かに湿度のこもった言葉を浴びせた。

 「本当にそれがお前の望むことならな」

 何も反応はなかった。そんな重女から目を逸らし、黒蝿は扉に手を掛けようとした。その時。
 黒い影が部屋中に広がった。蜘蛛の巣のように壁や天井にまで影が網目状に広がり、黒蝿が反応するより早く、四肢を影の触手が掴み、抵抗する暇もなく床に乱暴に叩きつけられた。
 影の発生源は、金髪の少女。先程まで床に這いつくばっていた少女は、今、両の足で地をしっかりと踏みしめていた。
 先程とは逆に、今度は黒蝿が重女に見下ろされる形になった。

 『さっきからべらべらと、好き勝手言ってくれるね』

 影を背負いながら、重女は怒りを帯びた声を念波で黒蝿に送った。黒蝿は何も言わず、ただ「立っている」重女を見上げていた。

 『私はアキラを見殺しにしたお前を許さない。この手で八つ裂きにしてやりたいくらい憎い。だけど、それはしない。代わりに――』

 「右手」が動き、胸の辺りまで持ちあげると、ピシッと黒蝿を指さす。

 『お前を、死ぬまでこきつかってやる! 決して離れられないよう縛り付けて、私が死ぬまで仲魔としてこきつかってやる!!』

 その念波は激しく、彼女の怒りがダイレクトに伝わってきた。だが黒蝿は口角をあげ、自分を見下ろしている少女にふっと笑いかけた。、重女は不気味そうに眉を寄せ、思わず後ずさった。

 その時、扉が開いた。乱暴な音を立てて部屋に入ってきたのは、かつてアキラの仲魔であった雷王獅子丸とキヨハルだ。
 何事かと驚き部屋に踏み入れたキヨハル達は、部屋中に伸びた影と、その中心に「立っている」重女を見て酷く驚いた。

 「た、立っている!?」

 え? と疑問に思い、思わず重女は足もとをみた。白く細い脚は、裸足のままで冷たい石の床を踏みしめており、確かに自分は立っていた。
 それを確認したのと同時に、部屋中に広がっていた影は収まり、足から力が抜け、重女は膝からくずおれそうになった。しかしその身体を受け止めたものがいた。黒蝿である。
 黒蝿と再び視線があった。

 「……!」

 かあ、と重女の頬に朱が走り、黒蝿を思わず突き飛ばした。支えを失った身体はまたしても床に落ちたが、構わず、顔が赤いまま黒蝿を睨みつける。
 全てわかってしまった。こいつがあんな挑発的な事を言ったのは、私を奮起させるため。そんな安い策にまんまと乗ってしまった。こいつに踊らされてしまった。
 恥ずかしさやら怒りやらがこもった視線を受けながら、黒蝿は黙って部屋を後にした。重女は走って追いかけたかったが、両足が動かないので無理だった。

―――

 それから重女は積極的にリハビリを行うようになった。

 歩行練習、右手でボールを掴んで動かす練習。運ばれてくる食事にも口をつけるようになり、キヨハル達は肩の荷が下り安心した。
 リハビリの傍ら、重女は悪魔召喚プログラムの使い方についてキヨハルとミドーから説明を受けた。
 アキラによって聖書に組み込まれたコンプは、新たに生体登録を上書きし、姉である重女のものになった。と同時に、アキラの仲魔であった雷王獅子丸と八坂牛頭丸の主も重女に変わる。二体とも異論はなかった。アキラの意志を継ぎ、今度は我々がこの少女を守るのだ、と意気込んだ。
 しかし重女は、以前に黒蝿に指摘されたとおり、仲魔に供給するマグネタイトを生成出来ない。この点は他の悪魔や人間から奪ってコンプに貯蔵するしかなさそうだ。
 一ヶ月が過ぎ、右手はほぼ動かせるようになったし、両足も引きずりながらではあるが、歩く分には問題はなかった。

 しかし合体プログラムの弊害は他にも現れてきた。

 まずは視力。このひと月で急激に落ちてしまった。遠くのものがぼやけて見えない。この点は眼鏡を新調することで解決できた。
 もう一つの点は、記憶の混濁。
 特に夜に顕著になり、時々フラッシュバックが起きた。
 重女が体験したことのない悪魔退治の光景、玉座から見るミカド国の景色、知らない人々の顔。匂い。触覚。アキラの記憶の断片であったが、それらは重女の記憶と溶け合い、記憶に刻まれた感覚までわかり、自分がまるでアキラであると錯覚してしまう。
 重女としての記憶と、アキラの記憶。その二つの間で揺らぎ、自分の存在はなんなのかわからなくなり、彼女は酷く混乱しノイローゼ気味になった。

 そこで黒蝿は、重女からアキラの記憶を取り除いた。やり方は少々乱暴だ。重女の中に僅かに存在していたアキラのマグネタイトを吸収したのだ。
 マグネタイトに癒着していた記憶ごと吸い出し、自らの糧とした。その時アキラの記憶に刻まれた感情まで受け取ってしまい、余計なものまで身体に取り入れたせいで、黒蝿は人型を保つことが出来ず、鴉の姿に変化したまま暫く過ごした。
 無理やり身体からアキラのマグネタイトを吸い出された重女も同様で、記憶の混濁こそなくなり自己の存在をしっかり認識することが出来るようになったが、乱暴な施術のせいで数日間寝込んでしまった。

 アキュラ王の喪失からひと月弱。ミカド国には相変わらず陽は昇り、そして沈んで夜が来て、また朝が来て。その間人々は新しい国造りに励み、重女と黒蝿にも決断の時が迫ってきた。

―――

 (58、59、60……)

 ある真夜中の事。重女はそっと自室から抜け出し、薄暗い階段を登っていた。足がぷるぷる震え、大量の汗を流し、呼吸も荒い。
 それでも重女は一歩一歩、階段を踏みしめ、頂上に向けて歩いていた。
 右手はもう元通りに動かせるようになった。残るは両足。最後のリハビリとして、重女は此処ミカド城の展望台への階段を一人で登っていた。
 キヨハルには言ってない。言ったら無茶なことだと怒られるだろうから。
 だけど重女は一度見てみたかった。ミカド国の全貌を。弟が造ったこの国を。

 (81、82……)

 展望台までの道は辛かった。何度か足を止めたが、呼吸を整え汗を拭い、再び歩みを再開した。
 大丈夫だ。この足はアキラがくれたもの。この足さえあればどんなでこぼこの道だって歩いてゆける。そんな気がする。

 (94,95……)

 100段めが間近に迫ったころ、ようやく展望台への扉が見えた。あと少しだ。

 (99、100!)

 100段目を両足で踏みしめ、展望台へと続く扉を開いた。夜明け前の清廉な空気が重女の顔をくすぐる。
 展望台には先客がいた。黒い翼を背負ったその姿は、仲魔であるやたノ黒蝿。
 黒蝿は重女の姿を見て、一瞬だけ眉をあげたが、すぐに元の愛想のない表情に戻った。

 「………」
 「もういいのか?」

 問われて重女は首を縦に振る。黒蝿の隣に並び、端正な横顔を凝視する。随分早いな。やはり鴉に変えられたから、朝は早いのだろうか。
 煉瓦の手摺りの向こうの景色に視線を移す。東の空が赤い。もうすぐ日の出か。

 『……人が沢山住んでるね』

 まだ夜明け前だというのに、城下町のあちこちの家では煙が上がっている。人々が朝の準備をしているのだ。

 「これからもっと人は増えるだろう。国は大きくなり、文化も発展していく」

 そうだろう。王という支えを失っても、人は生きていかなきゃいけない。天使の甘言にただ従うのではなく、悪魔の囁きに誘惑されるのではなく、自分たちで技術を進化させ、子を産み、そして歴史を紡ぐ。 
 神はいる。天にではなく、人間の内なる心の中に。神が人間を造るんじゃなく、人間が神を造るんだ。人が神を信じた時から、神は「存在」するのだろう。姿形を変えて、それぞれの心の中に。不思議とそんな考えが重女の頭をよぎった。
 辺りがオレンジ色に染まっていく。陽が昇った。雲の切れ間から覗く太陽は、夜の闇を払拭し、新しい一日を告げる。

 『父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくないものにも雨を降らせてくださる』

 思わずその言葉が出た。隣の黒蝿が顔をこちらに向ける。

 「なんだそれは」
 『昔聞いた聖書の一節。シド先生が言ってた』

 聖書、シド、と聞いて黒蝿は思わず鼻白んだ。だが重女は気にせず朝日を見続けた。朝日を見るのなんて初めてだが、綺麗だ。神なんて信じていなかったつもりだったが、この景色を見たら、人が神を信じたくなるのが分かる気がした。

 「……何故泣く?」

 指摘されて、え? と思い頬に触れると、確かに自分は泣いていた。ぎょっとして思わず涙を拭くが、あとからあとから涙は溢れてくる。

 『あ、朝日が、綺麗だったから……』

 重女は笑われるのを覚悟してそう答えた。しかし黒蝿は笑わなかった。笑わずにただじっと隣にいてくれた。
 朝日を浴びながら、一つの言葉を思い出した。電脳空間で聞いた夢とも現ともつかない記憶。右手と両足を失い、冷たくなっていく自分を抱きしめて言ったアキラの言葉。
 そこで彼はこう言った。

 「愛している」「生きて」と――。

 ミカド城の展望台。朝日に照らされた悪魔の隣に並んだ一人の少女は、弟の言葉に涙を流しながら、朝を迎えた東のミカド国を眺めていた。

―――

 「本当に行っちゃうのかい?」

 それから更に一週間後、重女とやたノ黒蝿は“ターミナル”の扉の前にいた。
 こくり、と重女は頷いた。キヨハルとサムライ衆の皆は心底残念そうな顔をしている。

 「ずっとこの国にいてくれてもいいんだよ? 君さえ良ければ、新しい王になることだって……」
 「俺もこいつも、ある人物に用がある。そいつがいる世界に行かなければならない」

 声の出ない重女に代わって、黒蝿が代弁してくれた。そう、私達はシドに会いに行くと決めた。そのためにはこの国、ひいてはこの世界から旅立たなければならない。

 ――お世話になりました。

 声には出なかったが、重女はそう呟き、深々と頭を下げた。来た時と同じ服装。黒の半袖のタートルネックにベージュのカーゴパンツに軍靴。違うのは眼鏡をかけていることと、手に雷王獅子丸と八坂牛頭丸を収容した聖書型コンプがあることだ。

 「またいつでもおいでよ! 僕たちは歓迎するからね!」

 重女は笑顔を浮かべ、一礼した。感謝してもしきれない。いつかまた此処に来たい――そう思いながら、黒蝿と共にターミナルへと入って行った。

―――

 ターミナルは四大天使が作った、エネルギーの霊道、アマラ経絡を機械で制御するための「操作室」である。
 黒蝿と重女は来た時と同じく、せり出した台の上に乗り、付属している機械を操作した。

 『ここに空間の座標軸を入力すれば、入力した世界に行けるんだよね?』
 聖書を開き、コンプ内のミドーに問いかける。ミドーとの仲も随分深まった。まるで本当の祖父のように。

 「そうじゃ。数値は先程教えたとおりじゃ。だが私もこの装置を使うのは初めてだからな、誤差が生じてしまう可能性もある。行きたい世界に行けるとは限らないぞ」
 『それでもいい。シドに会うまで何度でも時空を渡るから』

 そう、シド。シドに会って話がしたい。例えどれだけ時間がかかっても必ず会いに行く。それが、今の私の目的。
 胸の十字架に触った。もう癖になっている。黒蝿も重女に見られないよう、懐に手を入れ、アキラから託された重女とお揃いの十字架のペンダントに触れる。一人の少年と交わした約束を思い出しながら。 
 機械に数値を入力すると、ターミナルの空間が光りはじめた。重女は黒蝿の手を握った。離れてしまわないように。すがるように、強く。
 黒蝿も握り返した。重女の手は年相応に細く小さかった。この小さい手のどこに四大天使を封ずるほどの影を発生できるのか、黒蝿は不思議に思った。

 光が強くなっていく。思わず目を瞑った。
 ふと、脳裏に懐かしい弟の声が聞こえたような気がした。

 「頑張って」と――

 『行こう、黒蝿』
 「ああ」

 強烈な光は、一体の悪魔と一人の少女の身体を一時的に素粒子に分解させ、別の世界へと転送したのだった――。


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