その作家は、苦しんでいた。

 十九世紀初頭、現在のドイツの前身であるプロイセンの中央に位置するヴァイマル公国。初老の男が机に向かって頭を抱えていた。床には丸めた紙がいくつも転がっている。
 男は豊かな才能の持ち主で、幾つもの小説、戯曲、詩を描いて、その全てがヒットし、一躍人気作家となった。
 数年前には妻を亡くし、自身も腎臓を患い、度々隣国に湯治に行ってはいたが、まだまだ文学への情熱は失っていない。
 しかし、ここ数日、 男は頭を抱えていた。今書いている作品の筆が進まない。俗に言うスランプである。
 ぼんやりとした展開は頭の中で浮かんでいる。しかしそれを文章に出来ない。
 今度の作品は戯曲である。悪魔と天使と人間の男、そして可憐な少女を出すことは決めていたが、それらをどう動かしていけばいいのか、続きをどう書けばいいのかがさっぱり思いつかなく、男は頭を掻く。

 可憐な少女――ふと、男は、自身の初恋を思い出した。
 子供の頃はフランクフルトにすんでおり、近所の料理屋に勤めていた娘に恋をした。男が十四歳の時である。
 結局、その恋は実らなかったが、その娘の美しさは今でも思い出せる。金髪の美しい青い瞳を持った優しく、そしてとても敬虔な娘であった。聖書を殆ど暗記し、毎日の祈りを欠かさない。もし女神がいるなら、このような女性であったであろうとさえ十四歳の男は感じていた。
 何故、子供の時の淡い記憶を思い出してしまったのか。もうその娘はいないというのに。

 「……少し旅行にでも行こうか」

 もうすぐハルツ山地のブロッケン山でヴァルプルギスの夜がある。別名魔女の宴と呼ばれるその祭りに男は前から興味があった。四月三十日の夜から五月一日にかけて催される祭りは魔女や悪魔が集まりサバトを開くらしい。特にそういった存在を崇拝しているわけではないが、春の訪れを祝う人々を見るのは純粋に面白い。それを見れば戯曲のアイデアも浮かぶかもしれない。

 男は椅子から立ち上がると、小間使いを呼んで旅の支度を命じた。今から馬車で行けばだいたい一日で着くだろう。出来れば心優しき魔女が自分にアイデアを授けてくれればいいのだがな、と男は妄想した。

―――

 重女は、困っていた。

 周りには日本の家屋とは違う、レンガ造りの洋風の家々が並び、往来を行きかう人々はどう見ても日本人ではない。
 髪の色も瞳の色も様々な人々が、これまた洋風のドレスに身を包み、英語とは違う聞いたこともない言語を喋っている。
 前回、大正時代からアマラ経絡を発生させ、今度こそシドの元へ行けると思っていたのだが、また違う時代に来てしまったらしい。いや、時代どころか国すら違う。今までの時間遡行は時代こそ違えど同じ日本に着いていた。
 それが今回はどうだ。此処はどう見ても日本ではない。人々も建物も言葉も明らかに日本とは異なる。
 動揺を抑えて重女は辺りを観察する。白人が多く、しかし話されている言語は英語ではない。建物や人々の着ている洋服から見て、此処はヨーロッパだろう。ヨーロッパのどこの国かは流石に分からないが、服装からみて前回よりもっと古い時代のようだ。
 子供達が花の冠を頭につけてキャッキャッとはしゃいでいる。そこかしこで屋台のようなものも出店しており、篝火を灯すための木々がくべられている。気のせいか、皆どこか浮き足立っているように見えた。

 『……お祭り、なのかな?』
 重女は足元の鴉へと姿を変えた黒蝿に念波を送り聞いてみる。黒蝿はじっと人々の話す言葉に耳を傾け、近くの山に目を凝らす。

 「どうやら今日の深夜から、"魔女の宴"が催されるようだ」
 『魔女の宴?』
 「人間達の間では春の訪れを祝う祭りだがな、だが本当はそこのブロッケン山に魔女や悪魔が集まり宴を開く。強力な悪魔が沢山集まるから、マグネタイトも膨大に奪えるぞ」

 日本語以外の言語まで理解できる黒蝿に舌を巻いたが、魔女が実在しているということに重女は驚いた。

 『魔女って本当にいたんだね』
 「そう呼ばれる存在には何人か会ったことがある。ある意味悪魔召喚師と似たようなものだ。異形の者を従え、人の理を超えた術を使う。そういう意味ではお前も"魔女"なのかもな」

 からかうように黒蝿は言ったが、重女は真剣な顔をして黙り込んだ。
 魔女。確かにそうかもしれない。箒で空は飛べないしマグネタイトも生成できないし、術は影の造形魔法しか使えないけど、黒蝿をはじめ、何匹もの人ならざぬものをコンプで従えている私は魔女なのかもしれない。

 『……なら、魔女は魔女らしく宴に参加しないとね』

 少し楽しそうにそう言うと、重女は身を隠していた路地裏から往来へ足を踏み出した。
 ここには髪の色や瞳の色が違うということで差別してくる者はいないはず。なにより祭りの雰囲気に重女は惹かれていた。祭りというものに参加した経験が少ない重女は、例え魔女の宴であろうとも、思う存分祭りを謳歌してみたかった。
 やれやれ、というように黒蝿は重女の後に続いた。前回のように勝手な行動を起こさないように監視しておかないと。
 ブロッケン山で魔女の宴――ヴァルプルギス・ナハトが開催されるまで、あと数時間。その間くらいは自由に行動させておくか。
 まずはあの服から変えさせないと。黒蝿はそっと影を操った。すると影は重女を包んだかと思うと、形を変え、身に纏う衣装がドイツの民族衣装のドレスに変わった。

 「……!」
 「その恰好じゃ目立つだろう。目立ってまたおかしな奴に目をつけられたら困る」

 影の造形魔法は服も作れるのか。感嘆し重女は軽く身体を捻った。すると長いスカートがふわりと揺れる。スカートを穿くなんて久しぶりだ。フリルのついたブラウスも可愛いし胸元を縛るリボンがアクセントになっているのも気に入った。ただそのドレスは黒一色である。

 『……他の子みたいにもっとカラフルなのがいい』
 「影で作ったんだ、どうやっても黒にしかならないぞ。それに"魔女"らしくていいじゃないか」

 くく、と笑いながら揶揄してきた黒蝿に対し、重女は頬を膨らませた。屋台から美味しそうな匂いが漂い、ランタンに火が灯される。
 春の訪れを祝う祭りが始まろうとしていた。

―――

 近くの町に宿をとった男は、早速祭りへと繰り出していた。
 ブーデ(屋台)からいい匂いが漂い、人々は音楽に合わせて楽しそうに踊る。厳しい冬を越えた皆の顔には温かい春の訪れへの歓喜の色があった。
 それらの人々の陽気に当てられて、男の塞いでいた心に風穴が空いた。やはり祭りはいい。来て正解だった。
 男は屋台で食べ物を買い、目の前のブロッケン山を見上げた。懐中時計を見る。今は夜の十時過ぎ。あちらこちらで篝火が焚かれる。既に酒が入って出来上がった者がどんちゃん騒ぎを始めたり、女を口説いたりしている。全く、酒は飲んでも飲まれるな、という諺を知らぬのか。
 身体二つ分離れた隣には、巨大な篝火に照らされて、男と同じくブロッケン山を眺める娘がいた。他の若者のように騒いだりせず、怒ったようにじっとブロッケン山を見つめる少女は、全身黒ずくめのまるで喪服のようなドレスを着て、肩までの金髪は篝火の光を反射しきらきらと光り、青い瞳はまるでザフィーア(サファイア)のようだ。
 瞬間、男の青春時代の思い出が掘り起こされた。フランクフルトでの少年期、よく行った近所の料理屋、そこで働いていた優しく美しい、男の初恋の少女――

 「グレートヒェン!?」

 急に大声で話しかけられ、娘はびくっと肩を揺らし、こちらを向いた。背格好と金髪と青い目はたしかにグレートヒェンに似ていたが、娘の顔の造りはグレートヒェンとは違い東洋系の顔立ちであった。
 日本人か、はたまた清国の者であろうか。

 「………失礼」

 男は罰が悪そうに帽子の縁で顔を隠した。
 考えてみればグレートヒェンが此処にいるはずがないのだ。自分より年上であった彼女は、生きていればもう老婆だ。思い出の中の初恋の少女は既にいなく、自分も年をとった。皺くちゃな自分の手を見て男はため息を吐いた。
 ちら、と男は娘の方を見る。娘も自分の方を見ている。いや、正確には男の手の食べ物を凝視していた。
 チューリンゲン地方ではよく見かける、炭火焼きのソーセージを柔らかめのパンにはさんだものだ。ここらでは珍しくもない代物だが、異国の少女には珍しいのだろう。

 「……いるかい?」
 
 す、とそれを目の前に出され、少女は戸惑い、足元に視線を落とした。そこには鴉がいた。黒づくめの格好といい、足元の鴉といい、まるで小さな魔女みたいだな、と男は内心笑った。
 視線を受けた鴉は頷いた。そっと少女はパンを受け取り、ソーセージを一口齧った。すると少女は目を大きくさせ、驚きの表情でもう一口、二口と食べ始めた。良かった。どうやら気に入ってもらえたようだ。
 少女が口を動かした。しかし声は出ていない。男は目を細めてその薄紅色の唇の動きを見た。やはりというか、それは男の母国語の発音の形ではなかった。日本語か、もしくは他の東洋の言語か。
 しかし言っている内容は察しがついた。お礼を言っているのだろう。

 「Bitte schön.(どういたしまして)」

 男は帽子をとり深々とお辞儀をした。
 まるで役者のように大げさな仕草に、少女は鴉と目を合わせ微笑んだ。

―――

 時刻は午後十一時。重女は自分を「グレートヒェン」と呼んだ老人となんとなく行動を共にしていた。

 その老人は優しく、自分に色々話しかけてきたり、屋台に売っている食べ物を買ってくれたりした。
 老人が優しいのには訳がある。首の痣を指さし、自分は声が出ないということを身振り手振りで表現すると、老人は気の毒そうな顔をして、重女に向かって喋りだした。

 黒蝿の通訳によると、
 声の出ないお嬢さんがこんな異国の祭りに一人で来ているとはよほどのことがあるのだろう、貴女は私の昔の知り合いによく似ている。ここで会ったのも何かの縁。どうか私と祭りを共に楽しんではくれないだろうか、と言っているらしい。

 ここでのことは右も左も分からない重女は、この申し出を有難く受けた。老人の話している言葉――この時代のドイツ語だと黒蝿が言っていた――は日本人である重女には分からなかったが、黒蝿が通訳してくれ、それに対し頷いたり微笑んだりするだけで、老人は嬉しそうに喋り続けた。その親切さに、重女はミカド国で会ったキヨハルの姿を思い出した。
 すると老人が屋台のおばさんのドレスについていた赤いリボンを金で買い、そのリボンをまるでチョーカーのように首に優しく巻いてくれた。首の痣はリボンで隠れ、黒一色のドレスを纏った重女の首元に、鮮やかな赤の花が咲いたようだった。

 「……!」
 「ああ、やっぱりとてもよく似合うよ」

 こんなに親切にしてもらっていいのだろうか。キヨハルさんといい猿といいこの老人といい、皆優しすぎる。
 つん、と鼻の奥が熱くなった。それを悟られないように重女は横を向いて、何かお礼はできないかと考えた。 こんな時、声を奪った黒蝿を恨ましく思う。声さえ出ればいくらでも感謝の言葉を発することができるのに。
 しかし結局声は出せない。なにか、この老人に感謝の意を示したい。何かないか、何か――。

 ふと、暗がりに咲いている花を見つけた。白いマーガレットの花だ。
 重女はそれをかがんで摘み、老人に差し出した。彼女なりの感謝の行動だ。

 「……これを、私にくれるのかい?」

 問いかけに重女はこくこく、と頷いた。男の人だから、花はダメだったろうか? でも私はこの国のお金をもっていないし、何も渡せるものがない。喜んでくれるといいのだけれど……
 老人は少しの間驚いていたようだが、やがて破顔一笑した。

 「そうか……この花をくれるとは……嬉しいよ「グレートヒェン」」

 またグレートヒェンと呼ばれた。人の名前だろうか。先程言っていた私に似ているという昔の知り合いの方の名前だろうか?

 首を傾げる重女を、鴉になっている黒蝿は面白そうに見上げた。
 実はグレートヒェンというのは、「マルガレーテ」という女性名の愛称である。マルガレーテというのは英語でマーガレットのこと。偶然であったが、重女はそれを知らず老人の「昔の知り合い」の名の花を差し出したのだ。

 がし、と老人は重女の手を握ってきた。いきなりの行動に重女は目を丸くした。二人の手の間でマーガレットの花が揺れる。

 「君……君は本当はグレートヒェンの生まれ変わりなんじゃないのかい? もしくは神がこの老いぼれに遣わせてくださった精霊か……」

 いきなり手を握られ切羽詰まった表情でまくしたてられ、重女は狼狽した。足元の黒蝿に通訳を目で催促したが、何やら面白がっている色がその目にあった。もう! なんなのよ!

 「君さえ良ければ、私と一緒に来てくれないか? 君をモデルにした作品を書きたい。怪しいものではないよ。こう見えて私はちょっとは名の知れた作家なんだ。私の名は――」

 鬼気迫る表情で手を離さない男に、重女は軽い恐怖すら感じていた。さっきまであんなに親切だったのに、一体何が――
 その時、人々が大きな歓声を上げた。それにつられ老人が顔を横に向ける。咄嗟に重女は手を離した。

 「おい、見ろ!」

 黒蝿がブロッケン山の方角を嘴で指した。重女も山の方を見る。
 無数の篝火に照らされたブロッケン山に、虹色の輪がかかっている。霞がかっていたその輪は次第に輪郭がはっきりとしてきて、色彩も鮮やかになってきている。さながらそれは仏の後光のように。
 「ブロッケン現象」というものだ。しかしおかしい。ブロッケン現象が起こるのは霧がかった朝方、もしくは昼や夕方に日光等の光を浴びて起こる。篝火があるとはいえ、こんな真夜中に、しかもあんなにくっきりと浮かび上がるのはどう考えてもおかしい。

 『魔女の宴が始まったのね』
 「ああ」

 そう言うと黒蝿は鴉の姿から人型に変化した。重女もポケットに入れてあった眼鏡をかけ、黒蝿から聖書型コンプを受け取った。先程と違い、二人の目には臨戦の炎が浮かんでいた。

 「グ、グレートヒェン!? 君は一体、何者なんだ?」

 人型に変化した黒蝿に驚き、わなわなと身体を震わせる老人に、『違う、私はグレートヒェンじゃない』と念波を送った。
 その声は耳から聞こえたのではなく、頭蓋骨を振動させ脳に直接届いた。しかもあどけない少女の姿とは不釣り合いな、低い「男」の声であったので、老人はますます混乱した。
 
 「鴉を従えおかしな妖術を使っている!? ま、まさか君は魔女なのか!?」

 重女は首元のリボンに触れた。老人が自分に贈ってくれた厚意のリボン。黒一色の自分を彩る真紅のリボン。その赤は今は闇に咲く徒花の色に思えた。

 『……そうよ、私は魔女。異形を従え、異形を討つ。人の理を越えたもの』

 ぶわ、と黒い男の翼がはためくと、辺りに烈風が巻き起こった。烈風は祭りの参加者や老人を吹き飛ばす。近くにあった木の幹にしがみ付きながら、風の中にあの少女の声を聴いた。

 『ありがとう。貴方のご親切は忘れません』

 激しい風が止むと、そこにはもう少女の姿はなかった。

 「グレートヒェン……」

 ぽつりと呟く老人の足元には、少女がくれたマルガレーテの花が一輪、落ちていた。
 時刻は深夜零時。魔女の宴――ヴァルプルギス・ナハトがいよいよ始まる。
―――

「Du musst verstehn!                           
Aus Eins mach Zehn,                        
Und Zwei lass gehn,                   
Und Drei mach gleich,    
So bist du reich.                            
Verlier die Vier!                        
Aus Fünf und Sechs,                    
So sagt die Hex,                      
Mach’ Sieben und Acht,                  
So ist’s vollbracht:                      
Und Neun ist Eins,                          
Und Zehn ist keins.                          
Das ist das Hexeneinmaleins!」

 深夜のブロッケン山では、墨を溶かしたような闇に、小さな灯りがぽつぽつと見える。
 黒いローブを纏った人々が、怪しげな方陣を描き、呪文を唱え、魔なるものを次々と召喚していた。
 魔獣、妖魔、妖鳥、鬼女、夜魔、悪霊……人ならざぬ者達と、魔女と呼ばれる者達が酒を傾け宴を開いている。
 瘴気がブロッケン山を覆い、先程のブロッケン現象まで引き起こす。濃い瘴気に当てられ、重女は眩暈をおこした。

 「しっかりしろ」
 『わかってる』

 口許を押さえながら、重女は魔女たちの宴の様子を黒蝿に抱えられながら空から見ていた。
 宴が開かれているのは、ブロッケン山の天辺から中腹あたり。半径三百メートル程だろうか。
 黒蝿と重女はブロッケン山に降り立った。ざわり、と周りの魔女や悪魔崇拝者、それに魔物たちがざわついた。
 中には悪魔と淫行に耽っていた者もいて、その淫らな様子に重女は嫌悪の表情を浮かべた。

 「なんだ? お前たちは?」
 「我らと同じ魔術使いか?」
 「そちらの男は悪魔のようじゃな。ならば、そこのお嬢さんは契約者か、はたまた悪魔への生贄か……」

 魔女たちの声を無視し、重女は地面に手をつける。
 途端、重女の細い肩がぶるりと震えたかと思うと、地面につけた手から影が物凄い勢いで広がり、一瞬ブロッケン山が真の闇に包まれた。
 次の瞬間、影は消えてなくなり、ブロッケン山は元の姿を現した。
 
 『……結界……張れたわ……』

 ぜえぜえと肩で息をしながら、重女は不敵に笑って見せた。結構な範囲の結界を張ったが、影の鞍馬山を作った時に比べればこれくらい楽な方だ。これでこの山の悪魔たちは逃げられない。

 「これで思う存分暴れられるってわけだ」

 黒蝿も笑って見せる。その目には戦いを楽しむ、残忍な光が宿っていた。

 『私達の目標は、こいつらからマグネタイトを奪ってアマラ経絡を造り時空を渡ること。だから一匹たりとも殺すんじゃない。弱らせるだけよ』
 「つまらないな。久々に暴れられると思ったのに」
 『猿! 牛頭丸! 獅子丸!』

 開かれた聖書型コンプから、重女の呼びかけに合わせて三体の仲魔が現れた。石猿田衛門、八坂牛頭丸、雷王獅子丸である。

 『これからこのブロッケン山の悪魔たちを掃討する! ただし殺してはダメ! 弱らせてから私がマグネタイトを奪う!』
 「あ、姐さん……そんなこと姐さんひとりでできるんですかい?」
 「そうか、田衛門殿は戦いに参加するのは初めてだったな。なに、心配無用だ。我らの主は強い」

 獅子丸は重女の細い後ろ姿に、かつての主であったアキラの姿を重ねた。

 「そ、なんてったって大天使を封ずるくらいだからな」

 牛頭丸の言葉に田衛門は、主であるあの少女がそんな相手と戦いを経験していたことを知り、にやりと笑った。

 「……面白い! ならこの猿、姐さんの仲魔に恥じぬ戦いをしてやりまさあ!」
 田衛門が自慢の拳を手のひらに打ち付け、獅子丸は長刀を構え、牛頭丸は棍棒を肩に担ぐ。

 『黒蝿!』
 「ああ!」

 黒蝿が大翼をはためかせ、「大旋風」を引き起こす。あまりの威力に人間達は吹き飛ばされる。重女は宙に飛ばされた人間達を、影の糸で捕まえ身体を縛り上げた。
 そしてその人間達を結界の外へと放り投げる。その数、ざっと三十。これで結界内には悪魔と重女達だけ。

 『いけ!』

 合図と共に黒蝿達が悪魔たちに襲い掛かる。ブロッケン山での戦いが始まろうとしていた。

―――

 「グレートヒェン……」

 深夜のブロッケン山を登ろうとする男が一人。先程祭りで重女と共にいた作家の男である。
 ランタンの灯りを元に山道を登るが、老いた身には山登りはなかなかに辛い。しかも見通しの悪い夜である。足はがくがく、額には汗が滲んでいた。

 『私は魔女。異形を従え、異形を討つ、人の理を越えたもの』

 そう言った少女の姿がどうしても頭から離れなく、老人はいてもたってもいられなく、彼女の後を追いブロッケン山に登っていた。
 あの娘は魔女。彼女自身がそう言っていたし、悪魔らしき謎の男と共にいるのも見た。
 しかし老人はそれとは関係なく、彼女にもう一度会いたかった。それは少年時代の初恋の相手に似ていたからというのもある。だがそれだけではない。自分を魔女だと言ったときの彼女の悲しそうな瞳、リボンをプレゼントした時のはにかんだ笑顔、マルガレーテの花を自分に渡したときの恥ずかしそうな照れ顔――それらを見た時、老人の胸の奥から泉のように湧き出す感情があった。
 
 年甲斐もなく、恋をしてしまったのだ。自分より何十歳も年下の少女に。

 彼女が魔女でも構わない。自分の傍にいて欲しい。こんな秋の突風のような激しい感情がまだあったとは自分でも驚きだ。笑いたければ笑え。この気持ちは自分でも止められない。グレートヒェン、どうかもう一度私のところへ帰ってきてくれ――!

 ぎゃあ! と叫び声のようなものが聞こえた。ひっ、と老人の身体はびくつく。叫び声は連続して続いている。熊のとも猪とも違う、おぞましい断末魔の悲鳴が。
 この山で魔女の宴が繰り広げられていると聞くが、彼女も参加しているのか? それとも宴とは違う何か別のことが行われているのだろうか?
 何者かの断末魔を続けざまに聞きながら、老人は恐怖でそこから一歩も動けないでいた。

―――
 
 ブロッケン山に召喚された悪魔達の数は五十をくだらない。夜魔・ザントマンやモコイといった低位の悪魔も多いが、強力な悪魔も多い。例えば猿が相手にしている妖樹・アルラウネなど。
 
 「ねえ、お兄さん、お兄さんみたいなの好みだな。今まで吸ってきた乙女の血をあげるからさ、だから見逃して、」
 言い終わるより早く、猿の拳がアルラウネを潰す。ぐしゃ、と音を立てて潰れた拍子に酸性の液が飛び散り、猿の拳の肌を溶かした。
 死に体のアルラウネに重女が影の触手を刺し、マグネタイトを吸い取る。

 「―――!!」

 マグネタイトには必ずその所有者の感情と記憶が付属してくる。それは影の鞍馬山でクラマテングのマグネタイトを吸い取った時に分かったことだ。
 悔しい、痛い、苦しい、嫌だ、死にたくない――それらの負のエネルギーは重女の精神をめった刺しにし、身体を苛む。
 電流を流されたかのように痙攣し、胸に抱いている聖書型コンプにマグネタイトを貯蔵している重女の痛々しい姿を見て、猿は思わず声をかけた。

 「姐さん……本当にそのやりかたで大丈夫なんですかい? あっしには……」
 『心配無用よ。このやり方でしかマグネタイトを奪えないの。だから私は大丈夫』

 本当にそうだろうか? 真っ青な顔で汗をかいている重女を見るととても大丈夫には見えなかった。今、ここで戦っている誰よりも辛いのは重女だ。身体の外側に怪我を負わされるのではなく、内側を攻撃されているようなものなのだから。
 獅子丸の長刀が妖獣を切り刻み、牛頭丸の棍棒が「怪力乱心」を繰り出し悪霊どもを吹き飛ばす。黒蝿の 「マハラギダイン」が鬼女共を焼き尽くす。仲魔が倒したすべての悪魔から、重女は影の触手でマグネタイトを奪っていく。もはや宴の跡は消え去り、ブロッケン山は血と肉片が乱舞する戦場へと化していた。
 重女は傷こそ負ってないものの、もう精神的に限界だ。
 その隙をついて鬼女・リャナンシーが重女を襲おうとする。はっと気が付いたときには、リャナンシーに背後から手足を絡めとられていた。
 
 「可哀想な子」

 もがく重女にリャナンシーが耳元で囁く。甘く、誘惑するような声で。

 「弟を犠牲にして、自分だけが生き残って、自分の意地を張り続けて、いつまでこんなことしているの?」

 抵抗したくとも身体に力が入らない。しまった。毒を吸ったか。

 「ねえ、ホントは気づいているんでしょ? もう自分は皆とは違うモノになってるって。時空を滅茶苦茶にして、弟を糧にして、こんなことを続けているなんて、それって人間といえるのかしら?」
 
 この悪魔、読心能力があるらしい。だからなんだ、騙されてはいけない。誑かされてはいけない。私は、私は――

 「今はまだぎりぎり"そっち側"に踏みとどまっているけど、貴女が"こっち側"にくるのも時間の問題ね。便利な玩具を手に入れたお子様は、いずれ玩具の使い方を誤り、そして――」

 そこでリャナンシーの声は途切れた。全身に、影の触手が突き刺さったからだ。

 『五月蠅い……うるさいうるさいうるさい!!』

 触手は重女の背中から生えていた。それで後ろから抱きしめていたリャナンシーを串刺しにしたのだ。

 『違う! ちがうちがうちがう!! 私は、わたし……は……!』

 リャナンシーのマグネタイトを吸い上げながら、重女は叫んだ。仲魔にしか聞こえない声で、声の出ない喉から血を吐くように。叫びながら、泣いていた。

―――

 マグネタイトを吸い終わり、リャナンシーの姿が消えると同時に、重女は気を失った。
 その華奢な身体を黒蝿が受け止めた。涙の筋が頬に残る顔には苦悶の表情が浮かんでいた。

 「おい、黒蝿よ、姐さんはどうなったんで?」
 「心配ない。ただ気を失っただけだ」
 「気を失っただけって……姐さんは毎回あんなことをしているのですかい? あんな真似をしていたら、いずれ姐さんがおかしくなっちまう!」

 黒蝿は答えなかった。辺りを見回す。魔女の宴に参加していた悪魔は、今のリャナンシーで最後だったらしい。黒蝿達は、無事に悪魔の掃討に成功したわけだ。
 コンプを開き、まだ何か言いたげな猿達を重女の指を使って無理やり収納し、中のミドーに話しかけた。

 「こいつが吸い取ったマグネタイトの量はどうだ?」
 [おお! ばっちりじゃ! これなら次のアマラ経絡を造っても釣りがくるぞい]

 胸を撫で下ろし、黒蝿は腕の中の少女を改めて見た。細面の顔は、やはり似ていた。姉を守ってくれと言った、向こう見ずな小僧に。
 苦しみを一人で抱え込むのも、あの姉弟の癖か。黒蝿は苦々しく顔をしかめながら重女を抱き上げ、ミドーが造りだしたアマラ経絡へ入ろうとした。

 「ま、待ってくれ!」

 後ろから声が聞こえ、黒蝿は振り返った。そこには重女を「グレートヒェン」と呼んだ作家の老人の男がいた。
 男は黒蝿に抱きかかえられぐったりとした重女を見て、声を張り上げた。

 「グ、グレートヒェン!? お前さん、グレートヒェンに何をしたんだ!?」
 こちらに近づこうとする男に、黒蝿は手を突き出し止めた。

 「俺たちの事は忘れろ。お前は夢を見たんだ。魔女の宴の夜に見た悪夢。それが俺たちだ」

 はらり、と重女の首元から赤いリボンが落ちる。男が重女に買った鮮やかな赤のリボン。それが今ではボロボロになって地面に落ちていた。まるで赤い花びらが散るように。

 茫然とする男を一瞥し、黒蝿は重女を抱いたままアマラ経絡へと消えた。
 地面に落ちた血のようなリボンだけが、彼女がいたという事実を示していた。

―――

 それからブロッケン山から帰ってきた男は、無事に戯曲を書くことができた。その戯曲は大ヒットし、後世まで語り継がれる程の作品となった。
 今は第二部を執筆中の毎日だ。彼の作業机にはいつもマルガレーテの花が生けてあった。花には赤いリボンが結ばれている。
 後に完成した男の戯曲の終末には、こんな一節が書かれていた。

 【Das Ewig-Weibliche / Zieht uns hinan.(永遠に女性的なるものが、われらを高次へと引き上げ、昇らせる)】

 彼の少年の頃の初恋の相手と、魔女の宴の夜に出くわした、小さな魔女の名の花は、今日も男の執筆を見守っている。


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