時間移動、というのは身体と精神に酷く負荷をかける。

 アマラ経絡という空間を繋げるエネルギーの霊道を通る時、重女の身体はいつも見えない“何か”が通っていった。
その“何か”は重女の肉体の裏側から体力や生気というものを奪っていく。
 おかげで経絡を出る頃には、酷い倦怠感と精神の混濁がついてくる。しかもそれは回数を重ねる毎に酷くなっていくのだからたまったもんではない。
 だから経絡を出て、ぼーっとしている重女に、黒蝿は肩を叩き、ほんの少し生気を分けてくれる。
そうすることで、重女の混濁した頭はすっきりし、身体もなんとか動かせるようになる。今までの四回の時間移動では、それで済んでいたが、今回はそうもいかなかった。
 “魔女の宴”での戦いは重女の心身にかなりの負荷をしいたらしい。戦い自体は今までとそれ程変わらなかったのに、それでも暫く目を覚まさなかったのは、今までの遡行で蓄積された心身の疲労がピークに達していたらしい。

 重女が重たい目蓋を開くと、そこに黒蝿の姿はなかった。
 代わりに視界に入ってきたのは、茶色い天井であった。それはくすんだ木の板でできた屋根である。
 つん、と土と草と、不思議な薬の香りがした。近所の農家の畑の前を通った時に嗅いだ匂いにそれは似ている。堆肥と青草とお日様の匂い。重女も何回かその農家の手伝いをしたことがあり、報酬として僅かなお小遣いや瑞々しい野菜をもらったっけ。

 「お目覚めかい?」

 男の声が聞こえた。重女は首を動かし、横を向いて声の主を確認した。そしてぎょっとした。
 
 その男は不気味で妙な男であった。

 まず最初に目についたのは、狗の面。狗を象った白い面が覆っているので容貌は分からない。だが、とても小顔である。胡坐の姿勢なので身長は分からないが、華奢な手足を見る限りあまり高くはないだろう。
 声を聞いていなければ、自分と同年代か少し下の少女かと見間違えていた。それほどまでに中性的な男である。頭には奇妙な模様の頭巾を被っている。頭巾からはみでている髪は枯れた草のような緑。不思議な色だ。赤毛の外人さんがいるとは聞いたことがあるが緑色というのは聞いたことがない。この人のは地毛なのか、呪術的な意味で染めているのかは分からない。
ごりごり、と棒で大きな椀の中で何かを擦っている。
 
 (……男……だよね?)

 疑問に思い、怠さの残る半身を起こす。かさり、と身体の上にかかっていたものが動いた。それは妙に薬くさい筵であった。
 
 「もう大丈夫か?」

 男が顔を覗いてきた。先程は焦点が合わなく気づかなかったが、よく見ると、男の面の下から僅かに覗く皮膚には、刀傷が無数についていた。
 
 「…………」

 男から顔を動かし、重女は周りを確認した。
 今までの時間移動で身に着いた癖である。まず自分はどこにいるのか、ここはどの時代か、どの国か、自分はどのような状態におかれているのか、を把握するため、目を皿のようにして辺りを観察する。
 男の着ている着物と、木で出来た小屋、どこか懐かしい空気、そして男の言葉が聞きなじんだ日本語だったので、ここは前回とは違い日本だろう。
 では、どの時代か。仲魔の石猿田衛門と会った時は江戸時代末期であり、紅梅白梅童子と出会ったのは大正時代。大正・明治などの近代でないことは家屋の造りや男の着物からして明らかだ。
 なら江戸時代か。と、いっても江戸時代は長い。260年以上も続けば初期、中期、後期で文化は大きく変わる。しかし重女は、男と、板と藁で出来た質素な家屋から、少なくとも猿と出会った幕末ではないと感じた。
 こんなことなら、もっと歴史を勉強しておくんだった……。

 「はい、これ」

 きょろきょろしていた重女に、狗面の男が小さな椀を差し出した。椀の中には緑色の液体。その液体は強烈な匂いを放っている。

 「毒じゃないよ。薬草を水に溶いた。ちょっと苦いけど良く効くぞ」

 確かに良く効きそうである。良薬口に苦しとは聞くが、それはこれが本当に薬ならだ。
 毒じゃないという保証はどこにもない。この妙な男が何者かもわからない。大体、ここが昔の日本であるなら、金髪で青い目の自分は忌むべき存在として排除されるか、奇異な目で見られるかが常套。それは自分の生い立ちや、猿の時の経験で分かっている。

 ――そうだ、黒蝿は?

 一番に確認すべき存在を忘れていた。仲魔であるやたノ黒蝿。ブロッケン山の″魔女の宴″で私は気を失って、その後のことは覚えていない。こうして別の時代に来たということは、恐らくアマラ経絡は造れたのだろう。しかし、黒蝿はどこにいった? まさか、経絡のエネルギーの渦に飲み込まれ離ればなれになってしまったのか!?

 「ああごめん。自己紹介を忘れてた。
 私は頭領。ここの集落のまとめ役だから頭領って呼ばれてる。この面はな、ちょっと傷を隠すためにつけている。別にやましいことがあってつけているわけじゃないから、安心してくれ」
 
 余程自分は怯えた顔をしていたのだろう。頭領と名乗った男は、諭すような優しい口調でそう言った。

 「あ、あとこれ。君のだろ。変わった書物だね。何でできてるんだい?」

 男はまたなにかを差し出した。黒い革の表紙のそれは、もうすっかり自分の手に馴染んだ、聖書型コンプである。
 重女は椀を床に置き、コンプをひったくるように受け取ると、聖書を開き中ほどのページに手のひらを押し付ける。すると微かにページが光り、コンプが起動した。すぐさま状態を確認する。黒蝿を除いた他五体の仲魔はきちんと収納されており、悪魔合体プログラムも正常のようだ。ほっと胸を撫で下ろす。

 「へえ! 今光ったよね! どうやった? これ面白いな」

 気が付けば男が肩からコンプを覗き込んでいる。重女は驚いて反射的にコンプを閉じてしまった。
 男ががっかりしたように首を竦めた。面のくりぬいた目の部分からの視線と、その様子があどけない少年のようで、重女は少しだけ警戒を解いた。
 近くに寄った男からは、血と、汗と、薬草と、日向の土の香りがした。

 「………」

 コンプを膝に置き、床に置いていた薬草の汁が注がれたお椀を手に取った。
 さっきごりごり擦っていたのはこの薬草だろう。自分の身体を気遣ってわざわざ作ってくれたのか。
 今までの様子からみて、容貌は変わっているがこの男は悪い人ではないようだ。少なくとも自分に危害を加える気配は感じられない。よく考えれば、危害を加えるなら気を失っていた間にとっくに行っていたはず。
 
 毒ではない、と判断し、重女は意を決して汁を一口飲む。途端に物凄い苦味が口の中いっぱいに広がり、思いっきり顔をしかめた。
 その様子を見て、頭領は笑った。面をしているのでわかりにくいが、唇が逆三角形に変わったのを見て、きっと優しい笑顔を浮かべているんだな、と重女は思った。

 こうして、京の西の外れの平原“骸ヶ原”の端の集落に重女達は降り立った。
 時は平安時代中期、武士の地位が静かに上昇しはじめた時代である。

―――

 骸ヶ原――その昔、ここで大きな合戦があり、その戦に参加した者の数えきれない程の屍が放置されたままだったことから、いつしかこの平原は“骸ヶ原”と呼ばれるようになった。
 時を経て、大江山の朱点童子が京に鬼を放ち、その鬼は京の外れのここ骸ヶ原にも出没するようになった。とくに合戦が起こった夏頃になると瘴気が濃くなり、鬼の活動が活発化し鬼の巣窟まで出現する。
 そんな骸ヶ原の隅に、かつてここで起きた戦に参加し生き延びた男が「頭領」を名乗り、訳あり者をまとめ、集めた小さな集落がある。

 昨日、その骸ヶ原の集落に謎の訪問者が現れた。

 そいつらは一組の男女であった。どちらも奇妙ななりで、男の方は黒い山伏のような恰好で、黒い篭手に黒い具足。鴉を思わせる兜をかぶり、目つきが悪い。
 女の方は十四、十五程の金髪の少女で、着物も身体の線がわかる上衣に、これまた見たこともない形状の袴。女はぐったりと男に抱かれていた。恐らく気を失っているのだろう。

 ――宿はあるか。手間賃は払うので一日でいいからここに泊めて欲しい、と男が言った。

 身元が分からない謎の来訪者は、ここ骸ヶ原ではそう珍しくない。この二人組もどこぞから逃げてきた訳あり者――恰好からみて、とつくにの者か――であろう。頭領は快諾した。とりあえず女の方は看病と、男衆から避難させる意味もあり、集落では一番造りのいい頭領の家に運ばれた。
 女が頭領の家で寝かされるのを見届けると、男はふらりと集落から出て行った。そして数刻後、男は戻ってきた。手に大きな血の滴る袋を持って。

 袋を広げる。するとそこには大量の解体された肉があった。 

 「こりゃすげえ!」
 「最近はさっぱりだったのに……兄ちゃん、この肉、どこで手に入れたんだ?」
 「……近くの山で狩ってきた。新種の猪と兎の肉だ」

 日が落ち始め、骸ヶ原にも夕餉の支度のためにあちこちで火が起こされ、煙があがる。
 この集落での食事は質素だ。頭領と男衆がこなす、都のある貴族の家の警護の"仕事"で、報酬に米を食えるのは月にほんの数回あるかどうかで、大半の日は山菜や野草、稗に芋に具のない汁、あとは川で釣ってきた魚や猟で狩ってきた獣肉が殆ど。
 しかしその肉や魚も、最近鬼の活動が昼でも活発になってきたせいで、猟や釣りに行けない日が多く、集落の皆は干し芋と炒った豆で何とか毎日を過ごしてきた。
 なので久々に肉を食うことができ、今夜の骸ヶ原はちょっとしたお祭り状態であった。

 「不思議な味の肉だね。私もここら辺にはちょっとは詳しいつもりなのに、この肉は初めてだよ。どこで手に入れたんだい?」
 「近くの山だ」
 「……鬼は出なかったか?」
 「………出なかった」

 頭領の家にて。頭領と男は、臥せっていた少女と共に“近くの山で狩ってきた肉”をほうばっていた。焼き肉、蒸し肉、出汁がたっぷり効いた肉と野菜の鍋。どれも筋張ってなく柔らかくて、それでいて獣臭さはあまりない。
 身体を起こした少女はその肉を一口食べた途端、驚愕に目を大きく見開き、思いっきり男を睨みつけた。青い瞳には怒りの色が浮かんでいる。だが男はその視線を無視した。

 「そうだ、そういえば君達の名前を聞いてなかったな。良ければ教えてくれ」
 「俺は、くろ…………………はら。こいつは、まあ「かなめ」と呼んでやれ」

 "クロハラ"と名乗った男が少女の方を顎で指す。少女の視線は相変わらず険しい。皿の肉に再び口をつけることなく、怒った顔でずっと"クロハラ"を睨んでいる。
 この二人はどういう関係なのだろう。頭領は仮面越しに、二人に流れる空気からそれを読み取ろうとした。恋人というには雰囲気がどこかよそよそしい。かといって親子という程年齢が離れていない。
 では兄妹であろうか。顔は全然似ていないが、世の中には色んな形の血縁関係があるものだし、可能性はある。
 
 「……………」

 少女はまだ"クロハラ"を睨んでいた。何がそんなに気に食わないのか。彼が気を失った彼女をここに運んで、更に滋養をつけるためにと"肉"まで持ってきた。"クロハラ"は彼女に献身的に尽くしている。なのに何故怒っているのか。

 「かなめ、さん? なんで不機嫌なのか知らないけど、ちゃんと食べないと身体が回復しないぞ?」
 「!」

 不意に声を掛けられて、「かなめ」という少女ははっとしたように頭領の方を見た。まだあどけない少女の顔は、やはり隣で静かに食事している"クロハラ"とは似ても似つかない。

 「…………」

 少女は罰が悪そうに下を向いて、暫く皿の肉を見ていたが、やがてきっ、と前を向き肉を食べた。まるで意を決して毒を食うように眉を寄せて肉を咀嚼する。"クロハラ"はずっと無言であった。

 (やれやれ、また変わったのが来たな)

 頭領は小指と薬指が麻痺した右手で、器用に箸を使い鍋の肉を掴みほうばった。集落のどんちゃん騒ぎの喧騒を聞きながら、頭領の家では重たい空気のまま夕餉が進んでいた。

―――

 頭領の作った薬湯が効いたのか、重女の身体は徐々に回復に向かっていった。

 二日も経てば、一人で立ち上がることができるようになった。三日目には普通に歩くことが出来た。四日目には村の女衆に交じり手伝いが出来るまで回復した。
 集落の皆は、重女の金髪碧眼の容姿にも、声が出せないことにも言及しなかった。異相の来訪者に慣れている集落の皆は、重女に侮蔑の言葉を投げかけることも石を投げる事もしなかった。代わりに居場所と役割を与えた。
 洗濯に料理にその他細々とした雑事。家事をするのは慣れていた、が、当たり前だが、重女の時代とは勝手が違う。ここにはガスコンロはないし、水道も通っていない。火の起こし方も分からないし、料理の手順も味付けも大きく違う。声が出せないので意思の疎通もままならなく、次第に重女はうっとおしがられ、雑事と洗濯のみを任されるようになった。
 ごしごしと大量の衣類を川で洗いながら、重女はふう、と憂鬱気に溜息を吐いた。

 (黒蝿のやつ……今日もまた"狩り"に行ってるんじゃないでしょうね)
 
 黒蝿もまたこの集落に受け入れられた。ここでは何故か"クロハラ"と名乗り、頭領をはじめとする男衆の仕事を手伝っていた。
 
 彼の仕事は薪割り他多岐にわたるが、一番成果を上げていたのが"狩り"である。

 誰も連れていくことなく、いつも鬼が出没する平原や山に平然と入っていき、一人で獲物をしとめ、"何故か"その場で解体し、大量の肉を手土産に集落へと帰還する。最初は喜んでいた集落の皆も、段々訝しがるようになってきた。何故鬼が出る場所に一人で行って無事に帰ってこられるのか、何故狩りに決して誰も同行させないのか、そもそもあいつは何者なのか……謎は猜疑心を生み、猜疑心は反発を生む。
 一郎という年若い男を筆頭に、男衆が何人か黒蝿に突っかかったらしい。一郎の挑発を馬鹿にしたように軽く受け流した黒蝿の態度が、皆の怒りの導火線に火を付け殴り合いにまで発展した。が、黒蝿は一度も殴られることなく全員を吹き飛ばした。恐らく"ザン"の術でも使ったのだろう。
 そういった経緯から、黒蝿も白眼視されるようになり、誰も黒蝿が採ってきた肉を食べなくなった。それで正解だ、と重女は思った。
 
 ――何故ならあの肉は、解体した鬼の肉なのだから。

 「………」

 苛立ち紛れに、布を擦る速度を速める。
 此処に来た初日にあの肉を一口齧った時、すぐに分かった。忘れるはずがない。あの味。影の鞍馬山で出現する悪魔を捕まえ解体し焼いて食べた記憶が蘇る。あの独特の味。あれが猪や兎の肉なはずがない。

 (何も知らない一般人に、悪魔の肉を振舞うだなんて!)

 悪魔や鬼の肉を食べても、人間には害はない。少なくとも自分にはなかった。だが自分がなんともなかったからと言って他の人間に、しかもこれから世話になる人々に食わせるなんてもってのほかだ。そう黒蝿に言っても聞く耳を持たなかった。それだけではなく、お前が衰弱していたのが悪い。お前のアマラ経絡の計算が合っていればこんなところに飛ばされることもなかった、などと言ってきた。それっきり黒蝿とは口を聞いていない。
 やっぱりあいつは悪魔だ。血も涙もない、と重女はここ数日苛々していた。

 「か、かな、かなめ! な、なに、してるの?」

 背後から鈴の鳴るような高い声が聞こえた。振り向くとそこには、雪のような白い肌、赤みがかった栗色の長い髪、たっぷりとした胸を肌蹴た襟元から覗かせ、そして大きな腹を抱えた見目の美しい、"狂ひ娘"と呼ばれる娘が立っていた。

 『洗濯、してるの』
 
 重女は仲魔や悪魔にするように"念波"で狂ひ娘に答えた。その答えが"聞こえた"娘はへらへらと笑って見せた。

 「お、お、おれも、て、てつだうよう」

 そう言って屈みこもうとした狂ひ娘を、重女は必死で止めた。

 『駄目だよ! そんなことしたらお腹の赤ちゃんが苦しくなるよ!』
 「あ、そ、そうだね、く、くるしいのはだ、だめだね」

 大きなお腹をさすりながらにこっと笑う狂ひ娘の笑顔を見て、重女は先程まで抱いていた苛立ちが消えていくのを感じた。

 ――狂ひ娘は、重女の"声"が聞こえる唯一の人間だ。

 きっかけは、重女が初めて狂ひ娘を見かけたときの事。にこにこと笑いながら近づいてくる大きな腹の娘が、子を身ごもっているのがわかり、頭の中でつい問いかけてしまった。

 "誰の子? 父親はどこにいるの? "

 念波なので、もちろん仲魔と悪魔以外には聞こえない。しかし狂ひ娘はその問いにしっかりと答えた。

 「し、しゅうまるのこだよう。し、しゅうまる、いまはいない。な、なつになるとあ、あえるの」

 重女は仰天した。思わず『聞こえるの!?』と再び問いかけてしまった。

 狂ひ娘の弁によると、重女が発する"念波"は、お腹の子を通して頭の中に響いてくるのだとか。
 黒蝿はその時いなかった。黒蝿が近くにいるのなら、彼の声を使って人間相手でも"念波"は送れる。しかしどうやら狂ひ娘には、重女の"本当の声"が聞こえているらしい。
 弟のアキラや、今まで会った人間には聞こえなかった自分の声が彼女には届いている。この子、本当に人間なのか? と疑ったが、じっくりと観察しても、人外のものの気配は感じなかった。
 なら、もしかして新しい命を宿した妊婦には、不思議な力が宿るのだろうか? などと妄想してみたが、結局狂ひ娘に自分の声が聞こえる理由はわからなかった。
 
 狂ひ娘はよく重女に懐いてきた。年は自分とそれほど変わらぬだろうに、まるで親に縋り付く子供か、飼い主にじゃれ合う子犬のように重女に色々話しかけてきた。ちょうど村衆から邪険にされはじめていたので、なんの含みもなく接してくれる狂ひ娘は、重女にとって一種の清涼剤のようだった。
 邪険にされるのは慣れている。とはいってもやっぱり悲しいし、落ち込んだりもする。そんなとき狂ひ娘の笑顔に触れると、乾いた心が潤うのを感じた。
 今重女が着ている着物も、狂ひ娘が分けてくれたものだ。ところどころほつれくすんだ藍色の綿の単衣。狂ひ娘いわく「か、かなめの、めのいろと、い、いっしょ。お、おそらの、いろ」らしい。
 狂ひ娘は髪にもよく触ってきた。髪を梳いたり編んだりしながら、「か、かなめのかみは、お、おひさまのいろ」と笑顔で言ってきた。
 ずっとコンプレックスであった髪と目の色を褒めてもらったのはとても嬉しかった。自分の髪と目を奇異な目で見なかったのは、シドと、鞍馬山の地下で会った京子くらいだから、二人を思い出し、尚更嬉しくなった。
 重女の好意が伝わったのか、狂ひ娘とはよく行動を共にした。狂ひ娘もそれを喜んでいるようだった。食事の時も、湯に入る時も、寝るときまで一緒だった。

 『なんだか、友達みたい』

 ある夜、頭領の家で狂ひ娘と茣蓙の上で寝ていて、ふとそんなことを念波で送った。

 「と、とも、ともだち?」
 『うん』

 頭領はもう寝入っている。狂ひ娘が重女についてこの家に入ってきて、一緒に寝ようとすると、頭領は狂ひ娘を諭して追い出そうとした。だが重女が頭を下げて、できれば一緒にいたい、というような事を身振り手振りで示すと、頭領は溜め息を吐きながらも了承してくれた。おかげで狭い家に二人の女と一人の男が寝る形になり、とても窮屈だ。
 
 「と、とも、ともだち、て、な、なに?」

 改めて聞かれて重女は言葉に詰まった。
 そういえば友達の定義ってなんだろう? 口頭で約束したときから? 学校の行きかえりを共にした時から? 放課後買い食いをした時から? それとも互いの家を行き来してお泊りしたときから?
 わからない。でもきっとそれは定義づけるものではないのだろう。こうやって心が通じ合った時、その瞬間から「友達」になるんだろう。

 『えっと……悩みを聞いたりして助け合ったりする仲間の事……かな?』
 「なや、なやみ? なか、ま?」

 幼いままの頭である狂ひ娘には、少し難しい言い回しだったかもしれない。なんと言えばこの子に伝わるだろう? 重女は頭を捻った。
 
 『えーと、例えば狂ひ娘ちゃんのお腹の子が大変なことになったりするとして……』
 「お、おれ、おれのこは、し、しな、しなないよう!」

 突然の大声に重女は「しー!」と口に人差し指を当てた。狂ひ娘もそれを真似する。幸い、端で寝ている頭領が起きた様子はない。

 『だからもしもだよ? 狂ひ娘ちゃんに大変なことがおきたら、私が助けてあげるの』
 「た、たすける!? し、しゅう、しゅうまるみたい!」

 拾丸――狂ひ娘のお腹の子の父親。どんな男か聞いても「し、しゅう、しゅうまるは、や、やさ、やさしいんだよう」としか言わなかった。彼女がそう言うのだから、きっと優しくて素敵な男なのだろう。

 『うん、それでね、私が大変なことがおきたら、狂ひ娘ちゃんが助けてほしいの』
 「な、なんで?」
 『えーと……そうやってお互いに助け合うのが、それが、"友達"だと思うから』

 言葉にしてみて、重女は気恥ずかしくなった。なんだか私、酷くクサいこと言ってる……

 「お、おれ、おれでも、か、かなめ、た、たすけられる?」
 『うん、今でもすごく助かってるよ。狂ひ娘ちゃんといると、とても楽しいよ』
 「お、おれも、たの、たのしいよ。じゃ、じゃあ、お、おれ、おれたち、と、とも、ともだち?」
 『うん』

 二人はこっそり笑った。重女のいう「友達」の意味を狂ひ娘がちゃんと理解できたかはわからないが、それでも彼女は楽しそうであった。重女もその笑顔を見て嬉しくなった。ずっと一緒にはいられないけど、せめてここにいる間は私達は「友達」だ。くすくす、くすくす、と声のでない喉で重女は笑った。

 今日は満月――重女と黒蝿がここ骸ヶ原の集落に降り立ってから、一週間が過ぎようとしていた。
 ―――

 重女と黒蝿が骸ヶ原の集落に降り立ってから、八日目の昼。

 頭領の家で重女は薬草を分ける手伝いをしていた。頭領に言われた通りに薬草をそれぞれの籠に分けて整理するだけの仕事だったが、村の女衆に邪魔くさそうに小言を言われながら雑事をこなすよりずっと楽だった。これならこの時代の勝手を知らない重女でも正確にできる。やりながら楽しささえ感じてきた。
 そんな重女を見ながら、頭領は静かに口を開いた。

 「かなめさん、身体はもう大丈夫かい?」

 薬草を仕分けする手を止め、重女は顔をあげた。頭領の狗の面で覆われていない唇には、微笑が浮かんでいる。

 「…………」

 こく、と重女は頷いた。まだ少し怠さを感じるときはあるが、普通に身体は動けるようになったし、こうやって手伝いだってできるようになった。それもこれも頭領や集落の皆のおかげだ。あとはアマラ経絡を造るためのエネルギーさえ集まればすぐにここを出ていける。
 だけど、重女はもう少しここにいたかった。それは"狂ひ娘"の存在が大きい。仲魔以外に自分の声が聞こえる唯一の人間であり、ここで出来た"友達"であるからだ。無邪気な笑顔で自分に話しかけてくれる"友達"。その"友達"は子を身ごもっている。あの大きなお腹から予想するに出産は間近だろう。せめて狂ひ娘が子を無事に産むところを見届けてから、ここを去りたい。それが本音であった。

 「そうか、なら……」

 頭領の唇が言葉を紡ぐ前に、ぬっと影がかかる。あ、っと重女が息を飲む。頭領の後ろに立っていたのは黒蝿であったからだ。
 手には小袋を幾つも持っている。また"狩り"をしてきたのだろうか。しかしその袋からは血は滴っていない。

 「やあ、クロハラ君。その袋はどうした?」

 振り向きながら穏やかな口調で頭領は黒蝿に話しかける。面でわかりずらいが、視線は重女と同じく両手の複数の小袋にそそがれている。

 「追加の宿賃だ」

 袋の一つを板張りの床に置く。どん、と重量を感じさせる音が響き、重女は眉をひそめる。一体中になにが入っているのか。
 頭領も同じことを感じたのだろう。袋の中を恐る恐る覗く。重女も近づき同じように中を覗いた。そして二人とも絶句した。中身は大量の砂金であったからだ。
 頭領が砂金を一粒掴む。そしてじっくりと観察する。重女の金髪より濃い金色は、本物であることを物語っていた。

 「クロハラ君、これは一体……」

 言い終わる前に、重女が頭領を通り越し地面に立つと、黒蝿の腕を強引に取って草原の方に消えた。一瞬見えた重女の横顔は、ここに初めて来て黒蝿の狩ってきた肉をほうばったときに見せた激しい怒りの表情であった。

 「……なんなんだ、一体……?」

 背の高い草に隠れていく二人を見ながら、ぽつりと頭領は呟いた。手と袋の中の砂金が、日の光を受け狗の面を微かに照り返した。

―――

 『今度は何をしたの!? どこからあれを盗んできた!? どこぞの金持ちの家でも強盗してきたの!? 正直に言え!』

 黒蝿の胸倉を掴みながら、怒りの形相で重女は喚きたてた。正確には重女は声を出せないので、その言葉は黒蝿の脳に直接届く。が、その声は酷く大きく、黒蝿は頭痛を催した。

 「ぎゃあぎゃあ喚くな。五月蠅くてかなわん」

 うんざりしたように黒蝿は服を掴んでいた重女の手を剥がした。尚も食いかかりそうな重女の目の前に、ずい、と何かを突き出す。よく見ればそれは赤い布の端切れであった。訝しげにそれを手に取ってみる。この布、どこかで見たような……
 
 「帝都で買った袷と帯と襦袢を京で売ってきた。この時代には珍しいのだろうな。物凄い高値であちこちで売れて、最後にはこんな端切れになってしまった」

 そうだ思い出した。これは紅梅白梅童子と出会った大正時代、黒蝿がわざわざ買ってきてくれた海老茶色の袷の端切れだ。あれから色々あって結局袖を通すことはなかったが、まさかあれを売るとは。

 「………」

 先程の勢いはどこへやら。重女は叱られた子犬のように落胆している。

 「なんだよ、お前だってあれは可愛くないだとか言ってただろ。あの服はこの時代では浮いてしまう。なら金に換えた方が合理的だろ」

 確かにあの服はこの時代にそぐわない。何百年も未来の技術で作った着物ならとても珍しく、貴族や金持ちらが大金を積んで買ったのだろう。恐らく取り合いになり、袷と帯と襦袢はバラバラの布になり、残ったのはこの端切れだけになったのだろう。それならあの大量の砂金も納得がいく。だけど――

 (せめて一回だけでも着たかった……)

 柄もない無地の海老茶色の袷は、重女は確かに可愛くないと言った。だけど今まで着物に縁がなかった重女には、一回着てみたいという気持ちもあったのだ。その機会はとうとう訪れなかったけど。

 「……そんな顔するなよ」
 『……だって……』

 うなだれる重女を、黒蝿は溜息まじりに見ていた。全く、こいつは怒ったり落ち込んだり忙しい奴だな。本当に人間の少女というのはやかましくうっとおしい。

 ―――

 そんな二人のやり取りを草陰に隠れて見ていた者がいた。
 集落の中で一番狩猟が上手く、数日前に黒蝿に喧嘩をしかけ、結局一発も食らわせることなく負けてしまった一郎という若者と、その兄である芳郎である。

 「おい、兄貴、あいつらなんの話してるんだ?」
 「さあ?」
 「なんか、"この時代が"とか言ってなかったか?」
 「さあな……ここからじゃよく聞こえないからな」

 ふあ、と芳郎が欠伸をかみ殺す。だが一郎は真剣な表情で"クロハラ"とかなめの話を少しでも聞き取ろうと耳をそばたてる。かなめは声を出せないらしいので聞こえてきたのは"クロハラ"の声だけであったが、話している内容は二人の位置が遠いのと、風が強いので不明瞭であった。
 一郎はとにかく"クロハラ"が気に入らない。喧嘩で一発も当てることなく負けてしまったことも腹立たしいが、一郎が彼を気に入らない理由は他にもあった。

 ――あいつは、俺らと交わろうとしない。

 まだ此処に来たばかりだから緊張して、というのとは違う。人付き合いが苦手、というのとも違う。侍衆の連中や都の気取った奴らのように見下しているのではない。はなから俺たちに毛ほどの興味も抱いていないという、あの態度。まるで俺たちを全くの別の者として見ているような、冷たくなんの感情も浮かんでいない、あの目。

 「……気に入らねえ」

 ぎり、と奥歯を噛みしめ一郎はごちる。

 「今夜、奴とやる」
 「やめとけよ、頭領にどやされるぞ。心配しなくとも奴らは早々にここを追い出されるさ」
 「それじゃ俺の気が済まねえんだよ兄貴! あの野郎、腹の借りは必ず返してやる!」

 一郎は知っていた。"クロハラ"が夜な夜などこかに出かけていることを。
 女でも買いに行ってるのだろうか、と考えたが、京の都まではここから三里も距離がある。一番近くの村は畑と年寄りと子供しかいない寂れた村だ。
 大体、女を抱きたければ"歩き巫女"のおケイや他の女がこの集落にはいる。春をひさいで生活しているのは狂ひ娘だけではないのだ。あの無駄に整った顔立ちなら寄ってくる女も沢山いるだろう。実際、"クロハラ"の容姿に惹かれて色目を使う女衆も少なくない。それも気に入らない要因の一つであるのだが。

 とにかく、今夜。あいつに落とし前をつけてやる。"クロハラ"を呼び出し一対一で殴り合いだ。場所は頭領の目が届かないところがいい。ちょうど北の方角にはだだっ広い野原があり、頭領の家からも遠いので喧嘩の音は聞こえないだろう。

 ――待ってろよ。色男。その高慢ちきな顔をぐしゃぐしゃにしてやるからな。

 一郎は意気込みを表すかのようにぐ、と拳を握った。
 ふと、何故かはわからないが、今は身重で"仕事"が出来なく、最近かなめによく懐いている彼の思い人――狂ひ娘の悲しそうな顔が脳裏に浮かび、それを振り払うかのように一郎は思いっきり頭を振った。

―――

 夜。子の刻。
 集落は静寂に包まれている。誰もが一日の仕事を終え就寝しているころ、一郎は吉之助の家に押しかけていた。
 
 「おい、クロハラ。いるんだろ? 出て来いよ」

 吉之助の家の戸を叩き、小声でクロハラを呼ぶ。クロハラは頭領の補佐役である吉之助の家で寝泊まりしている。かなめは頭領が、クロハラは吉之助が監視の意味も兼ねて自らの家に泊まらせている。クロハラが夜な夜などこかに行っているという情報も吉之助から得た。いつもだいたい丑三つ時に抜け出しているというのも。
 今は子の刻。ならクロハラもまだここにいるはずだ。念のために吉之助にクロハラへの決闘の言付けを頼んだから、必ずいるはず。
 だが、戸を開けて出てきたのは、眠そうに瞼を擦る吉之助であった。

 「クロハラならいないよ」
 「なに!?」
 「ちゃんとお前からの伝言も伝えたさ。だがあいつは興味がなさそうだったよ。さっき北東の方角に向かって出て行ったから急げば間に合うんじゃないか?」

 吉之助の眠たそうな言葉を聞き終え、一郎は北東へと走った。あいつ、どこまでも馬鹿にしやがって!
 今夜の月は明るく、灯りを持たなくとも夜道を走ることができる。土を踏み、草を掻き分け、一郎は北の草原にたどり着いた。頭領が立てた、鬼避けの呪法を施した柵が目の前にある。この柵より先は、魑魅魍魎が跋扈する骸ヶ原だ。
 クロハラの姿を探す。が、どこにも見当たらない。辺り一面草しかないので、あの長身を隠せる場所などない。
 北東の方角と言われてここに来たが、もしかしたら別のところへ移動したのかもしれない。他を探そう。一郎が踵を返そうとしたその時。
 
 悲鳴が聞こえた。柵の向こうから

 一郎は聞き間違いか? と一瞬思ったが、そのすぐ後でまたしても獣のような悲鳴が聞こえた。それに鳥の鳴き声も重なる。
 悲鳴は止まない。鬼たちが暴れているのか? 何故? まさか鬼の巣窟がでたっていうのか!?
 雲の切れ間から十六夜の月が姿を現し、月明かりが草原を照らす。

 そこに立っていたのは、黒い翼を生やした鬼であった。

 その"鬼"は、逃げ惑うどくろ大将を黒い剣で滅多打ちにし、化け提灯を炎で焼き尽くす。黒い翼をはためかせ風を起こし、笠かぶりに幽鬼、青海波を吹き飛ばす。逃げ惑う鬼共を"そいつ"は足蹴にし、身体を掴み上げ、胴体を真っ二つに引き裂く。"そいつ"の顔や周りの草に血が飛び散る。鬼はみるみるうちに身体が薄くなり、ついには消滅してしまった。
 鬼の共食い、なんてものじゃない。こいつは虐殺だ。強者が弱者を蹂躙し、その身体を食らっている。
 月の光が"黒い鬼"を照らす。血がべっとりとついた端正な横顔には、愉悦の笑みが浮かんでいた。

 「う、わあああ!!」

 柵越しにその光景を見ていた一郎は、耐え切れず思わず叫んでしまった。"黒い鬼"がこちらを向く。殺意に爛々と光る視線を向けられ、一郎は脱兎のごとくその場から走り去った。

 ――クロハラは鬼だった! 俺たちはなんてものをここに入れてしまったんだ! 知らせなきゃ、頭領に、集落の皆に――!!

 恐怖心を押し殺し、一郎は必死に走った。がむしゃらに、クロハラから逃げる事だけを考えて。
 だから気づかなかった。逃げる際、鬼避けの柵を蹴ってしまい、ほんの少しの亀裂を入れてしまった事に。

―――

 けたたましい大勢の足音で、重女は目を覚ました。
 
 (なんだろう、こんな夜中に)

 重女は身を起こし、隣で寝ている狂ひ娘と頭領を起こさないようにそっと筵の中からはい出た。

 「頭領ぉ!」

 突然外から聞こえてきた男の大声に、頭領と狂ひ娘も目が覚めたようだ。頭領は急いで狗面を着け、蝋燭に火を灯す。狂ひ娘は何が起きているか理解できておらず、ただ重女の着物の端を掴んでおろおろするだけだった。
 頭領が戸を開けると、そこには一郎と吉之助を先頭に、芳郎他村の男共が数名松明を持って立っていた。
松明の炎に照らされた皆の顔は険しく、頭領は、これはただごとじゃない、と判断した。

 「皆、どうしたんだ? こんな遅くに」

 なるべく刺激しないよう、頭領は努めて冷静に問いかけた。だが皆の殺気は消えない。先頭の一郎が前に出て、「今すぐかなめとクロハラを追い出してくれ!」と言った。

 「なに言ってるんだ? 急にどうしたんだい?」

 頭領の背後から、重女と狂ひ娘が現れた。狂ひ娘が重女と手を繋いでいるのを見た一郎は目を剥いて叫んだ。

 「狂ひ娘! そいつから離れろ!」

 言うが早いか、一郎の投げた石が重女の額に直撃した。

 「!」
 「か、かなめえ!」

 重女は額を押さえ俯いた。ぶつけられたところがじんじんと痛い。血も出てきた。狂ひ娘が必死に頭を摩ってくれている。
 痛さに耐えながら、眼鏡をしてなくて良かった、眼鏡に石が当たっていたら大変なことになっていたかもしれない、と不思議と冷静に思った。

 「何をする! 一郎!」
 「そいつらは鬼だ! 俺は見たんだ! クロハラが翼を生やして鬼どもを食っていたのをな!」

 ぎく、と重女の肩が震えた。ばれた。黒蝿が人外の者だということが。

 「……それは本当か?」
 「誰がこんな嘘吐くかよ! 確かに見たぜ! ずっと俺たちを騙してきたんだろ!? そうなんだろ!? かなめ!」
 「…………」

 頭領や皆の視線を受け、重女は首を縦にも横にも振らなかった。
 騙すつもりなどなかった。だが黒蝿が悪魔だというのも、それを隠していたというのも事実だ。額の傷を押さえながら、ずっと俯いているしか重女には出来なかった。

 「ほれ見ろ! やっぱりそうなんじゃねえか!」
 「時期を見て、俺たちを食うつもりだったんだな!」
 「鬼は出ていけ!」
 「出ていけ!!」

 出ていけ、出ていけ、出ていけ――胴間声の合唱が、夜の集落に響く。あまりの騒ぎに、寝ていた他の者達も起き出し何事かと集まってきた。いつの間にか、頭領の家の周りには最初の倍近い人数の人だかりが出来ていた。
 石が次々と重女に向かって投げられる。重女はそれらを避けようとはしなかった。ただ顔をかばい、胸中で謝罪の言葉を繰り返していた。
 ――ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 「や、やめ、やめてよう! か、かなめ、くるしんでる! お、おれの"ともだち"にいじわるするなよお!」

 はっと顔を上げると、狂ひ娘が両手を広げ重女を庇っていた。石をいくつか受けてしまったのだろう。腕や顔に赤い痣ができている。だめ、私を庇って石を受けたら、お腹の赤ちゃんが――!

 「そこまで!!」

 凛とした声と、杖が地面に強く叩きつけられる音が辺りに響く。それと同時にいきり立っていた男衆が静まり返る。さすがは集落の頭領。一瞬で場を治めてしまった。

 「とりあえず、この件は一旦保留にしよう。まだ真偽もつかめていないしね。かなめとクロハラは私と吉之助が責任をもって監視しよう。クロハラが戻り次第詰問する。それから処分を決定する。いいな?」
 「頭領! そんな悠長な!」
 「責任を持つ、と言ったんだ。私が信用できないのか?」

 ぐ、と一郎が口を噤む。頭領の決定には逆らえない。それがこの集落の暗黙の掟。だがそれは頭領を皆が信用していることの証でもあるのだ。

 皆が静まり返り、解散しかけた、その時。

 ザザザ、と草を掻き分ける音。何者かの足音。そして翼が風を裂く音。それはどんどん大きくなりこっちに近づいてくるのがわかる。

 「待て! っこの!」

 若い男の声が聞こえた。それはさっきまで起きていた、この場の騒ぎの中心人物の声――
 
 『黒蝿!?』
 「クロハラ!?」

 頭領と重女がそう確信した途端、草陰から何かが飛び出てきた。
 月明かりを背景に出てきたそれは、赤紫色の小柄な悪魔、夢魔・インキュバス。

 「そいつを捕まえろ!」

 いきなりの黒蝿の怒鳴り声に、重女は一瞬『え?』と聞き返してしまった。そしてそれが隙を生む。
 インキュバスは重女に襲い掛かってきた。

 (しまった!)

 急いで影を操るが間に合わない。インキュバスが重女の身体にとりつこうとした、その時。
 重女の身体が突き飛ばされた。突き飛ばしたのは、栗色の長髪をたなびかせた、子を宿した重女の「友達」――

 『狂ひ娘ちゃん!?』

 重女が気づいたのと同時に、狂ひ娘の足の間からインキュバスが胎内に侵入した。

 「――!!」

 インキュバスが腹に入った途端、狂ひ娘の目は限界まで見開かれ、身体はがくがくと痙攣し、口の端から涎が垂れる。
 そして白目を剥いた狂ひ娘は、意識を失い、そのまま地面へと倒れてしまった。

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