フジワラの言葉に、重女の心臓はどくんと大きな鼓動をたて、呼吸が一瞬止まってしまった。

 ――この人、私達の企みを見抜いている!?

 重女は思わずツギハギ男の顔と、フジワラの顔を見比べてしまった。それがまずかった。二人は当たり、とでも言うかのようににやりと笑って見せた。
 何も言い返すことが出来なかった。重女は口を開けたまま無意識に右耳のイヤリングに触れた。頭の中が真っ白になり、体温が下がっていく。

 『惑わされるな』

 頭の中に見知った声が聞こえ、重女は正気に戻った。重女の影と同化した黒蝿の叱咤の声であった。そっとカードシューに視線を移すと、すぐ横のテーブルの角に影が辿りついていた。

 『こいつはカマをかけているだけだ。本当に俺達の策に気付いているなら、ツギハギ男が妨害してくるだろう。だが奴らはそれをしない。まだお前を疑っている段階だ。堂々としてろ』

 フジワラは笑みを崩さない。優しい笑みのはずなのに、今の重女にはその笑顔が般若のように見えた。
 ツギハギ男の視線が刺さる。この二人、次に私がどう反応するか見ているんだ。
 黒蝿の言う通り、ここで狼狽えては作戦が台無しになってしまう。堂々としなくちゃ。

 『そ、そうです、か?』

 冷静に、と思ったのに、情けないことに声が少し震えてしまった。ツギハギ男がくく、と喉を鳴らす。そしてグラスの残ったバーボンを一息に飲み干し、追加をホールスタッフに頼む。

 ――そうだ!

 ツギハギ男の様子を見て、重女の脳内にあるアイディアが浮かんだ。今、フジワラとこの男は私の事を警戒している。影と一体化した黒蝿がカードシュー間近で動きを止めているのも、彼らの警戒の目が厳しいからうかつに動けないのだろう。
 一瞬でいい。イカサマ師の二人の注意を逸らせば、黒蝿はやり遂げるだろう。なら、このアイディアに賭ける。

 「お嬢さん、まだゲームは続けますか?」

 フジワラが聞いてきた。穏やかな口調だが、声の裏では、私たちのイカサマを妨害する気かい? と聞いてきている。

 『はい。まだ全然勝ててないので。それに……』
 「それに?」

 ホールスタッフが盆にバーボンのグラスを乗せて、ツギハギ男に近づく。ツギハギ男がグラスを受け取ろうとする。

 『まだ“戦いの女神”は、私のところに来てくれてませんから』

 その時。

 「わ!?」

 ホールスタッフの足がほんの少し揺れ、盆は大きく傾いてしまう。グラスを受け取ろうとしたツギハギ男のカーキー色のパーカーと顔に、派手にバーボンがかかってしまった。
 その光景に、フジワラをはじめ、スーツの男、巻き髪の女の視線が一斉にツギハギ男に集中する。テーブルから皆の視線が外れた。その一瞬を黒蝿は逃さない。
 影と一体化した黒蝿はカードシューに取りつき、あっという間にカードに変化していたウンディーネを“組み敷き”、強い圧力をかける。
 ウンディーネは悲鳴すら上げる暇もなく、無理やり黒蝿の魔力によってその身を変化させられた。見た目は全く変わらないただのトランプカード。だがその数字とスーツは黒蝿によって強引に変えられた。これはもう主であるツギハギ男にも、フジワラの銀時計の干渉でも変えられない。黒蝿の魔力の圧力は、彼より弱いウンディーネにはどうすることもできない。
 そして黒蝿は重女の右耳のイヤリングに戻ってきた。この間、僅か0・5秒。
 ツギハギはホールスタッフに文句を言い、巻き髪女は自分にもバーボンがかかっていなかったことを確かめ、恋人のスーツの男と安堵する。フジワラはスタッフにタオルを持ってくるよう指示し、テーブルとカードにバーボンの液が飛んでいないか素早く確認する。
 カードを見た時、彼は違和感に気づき眉を寄せて重女の方を見た。が、もう遅かった。すでにこちらの策は成功したのだから。

 『よくやったな』

 珍しく黒蝿が褒めてきたので、重女は右耳から少し悪寒を感じ身震いした。明日は雪だろうか。

 『あそこでスタッフを影で転ばせ、ツギハギ男達の注意を逸らすとはな』

 そう、重女は黒蝿と一体化した以外の、まだ若干残っていた自分の影を伸ばし、ホールスタッフの足をひっかけ転ばせたのだ。ツギハギ男にバーボンをかけさせるために。
 客の一人に飲み物がかかってしまったら、誰だってそっちに目を向けるだろう。フジワラの注意をひけるかは賭けだったが、見事にはまってくれた。
 スタッフには気の毒なことをしたと思うが、ツギハギ男にはあまり同情の気持ちは湧かなかった。先程言われた「初心者と身障者には優しくしないとな」という言葉を重女はまだ根にもっていたから。
 パーカーを脱いで白いシャツ一枚になったツギハギ男の太い二の腕と首に、顔と同じく手術痕のような縫い目が沢山あるのを見て、重女は目を丸くした。黒蝿は彼を悪魔召喚師と言った。あの傷の数と、シャツの上でもわかる鍛え上げられた上半身から、彼はきっと歴戦の猛者なのだろう。

 「…………」

 フジワラは重女をじっと見ていた。睨んでいる、と言った方が正しい。
 もうカードが自分の思い通りに操れないことに気付いたのだろう。恐らく、私が何か細工をしたことも。
 しかしその証拠はない。黒蝿がウンディーネに圧力をかける瞬間、彼はカードシューから目を離していたし、監視カメラに映ってない自信もある。それはスタッフを転ばせた時も同様で、あの時の影はカメラの死角にスタッフが入った時に伸ばしたのだ。仮に映っていたとしても、あれを私の仕業と断定する証拠にはならない。今の自分には悪魔召喚師としての証拠は一切身に着けてないし、疑惑を持たれた右耳のイヤリングだって、調べられてボロがでるようには作っていない。大丈夫だ……多分。
 ツギハギ男がタオルで顔を拭き終わり、テーブルの動揺が鎮まったのを確認したフジワラは、
 
 「まだカードは一巡していませんが……お酒の液で汚れがついていないか念のために一度カードをシャッフルして確認したいと思います。宜しいですか?」と聞いてきた。

 重女達が頷くと、フジワラはディスカードとカードシューに収まっていたカードを混ぜシャッフルを始めた。優雅だったはずの手つきは何かを探るように不自然な動きに変わっていた。
 一方重女は、まるで透視能力が発眼したかのように、カードの数字とスーツが一枚一枚手に取るように分かった。フジワラも、ウンディーネの主であるツギハギ男も、黒蝿によって無理やり変えられたカードにもう何も細工は出来ないようだ。

 「どうぞ、お好きなところに」

 シャッフルし終えたフジワラが、重女にカットカードを差し出した。重女はフジワラの眼鏡の奥の目を真っ直ぐ見つめながら、カードの束にカットカードを刺した。じっと見ると、フジワラの鳶色の目は意外と優しい印象を与えた。
 カットカードの刺された箇所から束を二つに割ってまとめ、カードシューに収める。「ベットをどうぞ」という言葉でプレイヤーはチップをベットしていく。重女は思い切って手持ちのチップ全てをベットした。
 テーブルがざわついた。スーツの男と巻き髪女は口を開けて驚き、ツギハギ男は薄い片眉を上げた。

 「良いのですか? そんなに」

 フジワラの問いに、重女はしっかりと頷いた。このチップが有り金全てなので、もし負ければ重女はこのテーブルを退場しなければならない。しかし、今の重女には負けない自信があった。

 『“今の自分”なら、負ける気はしません』

 それは最初に大見得を切った時と同じ台詞であったが、今回は根拠のある確かな言葉である。
 またも他の三人のプレイヤーから怪訝な視線を向けられたが、重女はもう勝利を確信していた。
 フジワラが一瞬だけ、温和な表情を崩し当惑の色を滲ませたのを、重女は見逃さなかった。
―――

 ゲームが開始されると、重女は勝ち続け、それとは反対にスーツの男が負け始めた。

 今までの勝ちが嘘のように彼は負け続けた。当然だろう。今まで彼が勝っていたのは、フジワラとツギハギ男が“わざと”勝たせていたのだから。
 彼と隣の巻き髪の女をある程度勝たせたあと、わざと悪い手札を配り彼らを負けさせる。それがフジワラ達の考えた、彼らから金をむしり取る作戦だ。
 元々彼らの賭け額は高く、ダブルダウンやスプリットも多用していた。それで勝っていたのだから今度も、という心理はフジワラの「誘導」である。
 彼らは負けているにも関わらず、更に高額のチップをベットした。だが負ける。スーツの男は17の時に今度こそはとダブルダウンを使い、ハートの2が来た。合計19。良い手札だったが、フジワラの手札の合計はQとJで20。やはり負け。それを最後に彼は隣の巻き髪女に残りのチップを譲ると、テーブルを去った。
 残された女は狼狽し、ごてごてのアートが施されたネイルを弄ったり綺麗に巻かれた髪に盛んに触れたりしながら、負け分を取り返そうとごっそりと大量のチップをベットした。18でステイしておけばいいのに、余計にヒットし7が来て25でバスト。次のゲームでは12でダブルダウンを告げ、4が来て合計16。フジワラは18。またしても彼女の負け。
 その後5ゲーム程粘ったが、彼女の負けは続いた。そしてミニマムベット(最小賭け額)のチップすらなくなり、がっくりと肩を落としながら彼女も椅子から立ち上がりゲームを降りた。綺麗にセットされていた巻き髪は少し乱れ、厚化粧の顔には疲れが見える。彼女はこの二時間ほどで随分老けたようだ。

 黒蝿が耳打ちしてきたのによると、二人の負け額は勝ち額の三倍近くだという。

 フジワラ達に誘導されていたとはいえ、目の前の勝ち負けにこだわり、勝利の雰囲気に酔い、先を読む事も簡単な勝率の計算も怠った彼らの当然の敗北であった。
 これでこのテーブルには、重女とツギハギ男とディーラーのフジワラだけ。いよいよこの二人を“負かせる”時がきた。重女は高揚で胸の鼓動が早まるのを感じ、生唾をごくりと飲み込んだ。

 次のゲームが始まり、フジワラがカードを配る。重女は14。ツギハギ男は10と9で19。ツギハギ男はステイ。だが重女は『ダブルダウン』と告げチップを重ねた。
 フジワラは少し息を止め、ツギハギ男は険の含んだ視線を寄越す。
 『ダブルダウン、です』と重女がチップに軽く触れもう一度そう告げた。フジワラの目を真っ直ぐ見ながら。

 「……では、カードを配ります」

 そして配られたカードは、ハートの7。重女の手札のクラブの7とダイヤの7と合わせて7が3つ揃った7・7・7のスリーセブンのブラックジャック。事前に“見えていた”通りである。
 ここのハウスルールでは、この手で勝つと3倍の配当。震える手でフジワラがホウルカードをオープンする。
 アップカードのKに、ホウルカードは10。合計20。重女は勝ち、3倍の配当のチップが目の前に置かれるのをじっと見ていた。大量のチップはまるでおもちゃのようだ。これが現金に替わるところを想像しようとしたが、いまいち実感が湧かなかった。
 重女の連勝によって、零れ落ちそうに増えたチップの山を見た他の客がテーブルに集まってきた。先程までホールで踊っていたり、ダーツやビリヤードで遊んでいた客だ。
 皆の好奇の視線の中に粘つくような怒りの視線があった。それは右横のツギハギ男から発せられている。重女は彼の顔を見ようとはせず、ただフジワラを見続けた。
 
 フジワラは微笑を浮かべてはいたが、眼鏡越しの鳶色の瞳には猜疑と、怒りの色が伺えた。

 もしフジワラがまっとうなディーラーだったのなら、店のマネージャーに報告し、重女のイカサマを暴くだろう。だが彼はそれをしない。したくても出来ない。イカサマの仕組みが判明出来てないし、先にイカサマを仕掛けたのはフジワラ達である。上に知らせれば自分達の今までのイカサマもばれるかもしれないからだ。
 数秒程重女と無言で視線を交わした後、フジワラは怒りを押し込め、「おめでとうございます」と事務的に賛辞の言葉を送った。ツギハギ男の視線がフジワラへと移る。こいつにおめでとうなんて言うんじゃねえ、という抗議の視線だ。が、フジワラは意に介さず次のゲームをはじめた。

 重女が再びチップ全てをベットすると、テーブルの周りで歓声が起こった。

 フジワラのアップカードは9。ツギハギ男は17にヒットを要求して5が来て22でバスト。重女の手札は10と8で18。ステイが定石だが、重女はヒットを要求。そして来たのが3で、21。“見えた通り”ブラックジャックである。ツギハギ男の眉間の皺が深くなった。

 フジワラがホウルカードをオープンしようとする直前、重女は『イーブンマネー』と告げた。場がざわつく。

 イーブンマネー。自分の手札がブラックジャックの時にかぎり使える選択。だがディーラーがブラックジャックでなければ負け。重女は全てのチップをベットしているので、相手がブラックジャックでなければここで負けて退場。だが、重女にはそれはないと“分かっていた。”
 ホウルカードがオープンされた。ダイヤの6。合計15なのでもう1枚引く。次のカードはクラブの6。合わせて21。彼もブラックジャック。
 通常ならブラックジャック同士は引き分けだが、重女はイーブンマネーを選択している。これでまたしても重女の勝ち。1倍の配当が配られ、重女のチップは当初の賭け額から10倍以上に増えていた。

 「 ……っこの!!」

 ツギハギ男が、もう我慢ならんというように乱暴に椅子から立ち重女の方に向かおうとした。
 重女はびくつき、殴られる! と拳をぎゅ、と握ったが、「お客様、どうかしましたか?」という涼やかな声がツギハギ男の動きを止めた。
 フジワラがツギハギ男を凝視していた。眼鏡の奥の瞳は一見穏やかだが、携えた光は厳しい。

 「ゲームを降りるのですか?」
 「違う! こいつがカードを……」
 「“お客様”」

 有無を言わせない口調でフジワラはツギハギ男を諭した。たった一語の言葉の裏には「落ち着け」という断固とした命令が読み取れた。重女は少し意外に思った。てっきり粗暴なツギハギ男の方が主導権を握っていると思ったのに、この二人の上下関係はフジワラの方が上らしい。
 その証拠にツギハギ男は命じられた通り自分の席へと戻った。すると残りのチップを専用の容器に集めながら「俺は降りる」といい退席していく。立ち去りの際、フジワラと重女を睨むのを忘れずに。
 そしてテーブルの周りのギャラリーに腕を組んで混ざった。その姿はまるで仁王のようだ。

 「大丈夫ですか?」

 フジワラが聞いてきた。私の相棒が失礼したね、という風に。
 そしてハンカチを渡してきた。意図が掴めずフジワラの顔を見返した。これも何かの細工の一つだろうか。
 そこで重女は自分の手のひらと額に汗をびっしょりとかいているのに気づいた。黒蝿との感覚の同調による身体的疲労と、ゲームの緊張のせいである。
 フジワラは含みのない顔でハンカチを差し出している。この時だけは敵ではなく、一人のディーラーとして客である重女を気遣っているのが感じられた。

 『ありがとうございます』

 重女は素直に厚意のハンカチを受け取り、顔と手のひらの汗を拭いた。糊のきいた高級そうなハンカチはすぐに汗で濡れてしまった。これが済んだら、洗って返さないと。

 「これでこのテーブルにはお嬢さんしかいなくなったわけですが、まだゲームは続けますか?」
 『はい』
 「……可憐に見えて、貴女は随分と強欲だ。お小遣いならもう十分稼いだと思いますが?」

 重女のチップを変えながらフジワラが言った。テーブルから溢れそうだったチップの山は、一万円チップ五枚と、五万円チップが一枚。千円チップが五枚の合計十一枚のコンパクトなチップへと変わった。総額十万五千円。これはこのクラブでの一日の売り上げの約三分の一ほどである。

 『お金を稼ぎにきたわけじゃありません』

 優美な模様が施されている五万円チップを掴みながら重女は言った。お金が全く欲しくないわけじゃないが、自分達の目標はもっと別にある。

 「なら、どうしてここに? “お友達”も心配しているのでは?」

 “お友達”と言った時、フジワラは重女の右耳のイヤリングをちらりと見た。やはりこの人、全部ではないが私と黒蝿のことに気付いているんだ。

 『……先程あなたは、私をスペードのクイーンで悪女だと言いましたが、違います。私はなんの力もないただの子供です』

 フジワラは黙っている。その重女の右後ろに立っているツギハギ男も、険しい顔で黙して聞いている。

 『だけど、ここでは“悪女”にならなきゃいけないんです。
 例えどんな手を使っても“キング”の暴政をだれかが止めなくちゃいけないから』

 疲労した頭で必死に考えた比喩だ。キングの暴政、すなわちここで開かれているらしい悪魔の集会の隠喩。それを自分は探りに、または止めに来た、と言う自分達の目的を、間接的に敵側の者に話してしまったが、重女はフジワラになら伝わってもいいと思えた。きっとそれは、ハンカチを貸してくれた彼の目にどこか同類の者の光を見出したからだ。
 フジワラは手を胸のあたりで組みながらこちらをじっと見ている。周りの客は静かにざわめいた。ツギハギ男は眉を寄せ、何かを考えるように目を瞑りながら岩壁のように立っている。
 重女とフジワラの視線が数秒絡み合うと、フジワラの固い石のような瞳が緩み、柔らかな笑みを浮かべてふっ、と息を吐いた。

 「成る程。よくわかりました。だが私はここのクラブに雇われたディーラーだ。クラブの損害になるような客は勝たせてはいけない。それが仕事だ。わかるね」
 『………はい』
 「しかし」

 フジワラは耳のインカムを外し、テーブルに置いた。フロアマネージャーや支配人の叱責や怒鳴り声がひっきりなしに届いていたそれを。
 完全に職務を放棄したその行動に、重女は目を丸くし、ギャラリーからも戸惑いの声が湧いた。ただ、相棒であるツギハギ男だけは険しい表情を変えず、一言も発しなかった。

 「私も貴女と“本当の勝負”がしてみたくなったよ。まだゲームは一巡してないが、このカードではそれが“できない”。なのでこれは廃棄して新しいカードに取り換えようと思うのだが、いいかな?」

 ――やめさせろ。

 黒蝿がそう言ってきた。が、重女はフジワラへと真っ直ぐに向き合い『はい』と返事を返した。
 フジワラは満足そうに頷き、ディスカードとカードシューに収まっていたカード――正確にはウンディーネが化け、黒蝿が無理やり数字とスーツを変えたモノ――を机の下の廃棄ボックスへと投げ入れた。一瞬だけウンディーネの短い悲鳴が聞こえた。
 そしてビニールで包装されている真新しい未開封のトランプカードの束を取り出し、封を切る。なんの仕掛けもない、ただの普通の紙で出来たトランプだ。

 『なんであのカードを廃棄させた!? 俺達の目標は――』
 ――分かっている。VIP待遇を獲得してここで開かれている悪魔の集会に潜入すること、でしょ?
 『分かっているなら何故だ!? あのまま俺が変えたカードを使っていたならお前は勝ち続けていたのに』

 頭の中で喚く黒蝿に、大丈夫、と答えた。

 ――あの人は、イカサマをせずに正々堂々と私と勝負がしてみたい、と言った。だから私もあの人に“本当の実力”で勝ってみたい。
 『……それで? もし負けたらもう一度どうやってここに潜入する?』
 ――その時は、その時になって考える。

 酷く呆れたように黒蝿が盛大な溜息を吐いた。
 黒蝿の言い分はもっともで、あのままゲームを続けていたら私は完全に勝ち、VIP待遇は間違いなく獲得できただろう。ここに来た時の私ならそれでいいと思っただろう。
 でも、フジワラがイカサマを封じられ、更にインカムを外すのを見て重女の考えは変わった。彼と勝負がしたくなった。イカサマ無し、仲魔の援助なしの、実力の勝負を。
 相手はプロで私は素人。負ける確率の方が高いだろう。だけど、例え負けてもいいと今は思う。そう思わせるだけのなにかがフジワラの目にはあった。
 負けてここから追い出されたときは、その時また別の対策を考えればいい。最初に大見得を切った時とは違いそんな心の余裕が生まれていた。

 ――黒蝿。私はさっき貴方に「勝たせてくれる?」と聞いたけど、今は“私”が勝ちに行きたい。誰かに頼るんじゃなく、イカサマを張るんじゃなくて、自分の力で勝ちたい。
 『…………』
 ……だめ、かな?

 黒蝿は暫く黙っていた。が『人間の美学はよくわからん。好きにしろ』と吐き捨てた。
 重女はありがとう、と礼を言い、右耳のイヤリングを外しテーブルに置いた。フジワラと同じように。
 やはりそれがそうか。という悪戯めいた視線をフジワラが寄越したので、重女は笑みを返した。今度の笑みは黒蝿がカードシューに取りつく際に演じた笑みとは違う、負けないぞ、という意思を宿した笑みであった。

 「それでは、シャッフルさせていただきます」

―――

 その日のクラブ・ミルトンは異様な雰囲気に包まれていた。
 いつもならDJが選択する音楽に合わせてホールにて何人もの男女が踊っていたり、酒の入った者達の嬌声が響き、人々の熱気に温められた濁った空気が漂っている。
 だが、今日は違う。メインとなるダンス・ホールには数名しかいなく、DJも困惑した様子だ。速くリズミカルな曲が義務的に流れているだけで、このBGMが流れていなければ、ここがクラブには見えないだろう。それは、大多数の客がカジノ・ブースに流れて行ったからだ。
 本来、ここのカジノ・ブースはダンス・ホールの“おまけ”扱いである。小遣い程度の金で、ダンスやお喋りに飽きた客が“遊び”としてルーレットやスロット、ブラックジャックを嗜む。
 しかし今、ブラックジャックのテーブルには大勢の客が集まり、とある少女とディーラーの勝負を見学していた。その数はどんどん増えており、中にはポーカーのテーブルのディーラーやルーレットのスピナーまでいる。
 重女はテーブルを囲む皆の視線を受けながら、必死にフジワラと勝負していた。
 現在15ゲーム目に突入。これまでの戦績は、3勝ち、8負け、3引き分けである。重女はやや負けていた。

 『ステイ』

 汗ばんだ手を下に向けて振り、重女はそう告げた。手札は18。フジワラがホウルカードをオープンする。ダイヤの9。アップカードのスペードの10と合わせ19。フジワラは勝ち、重女はまたしても負け。ベットしたチップが流れるように回収される。

 「………」

 だが重女は勝負を降りない。ふう、と息を吐きチップを再びベット。呼吸の荒い重女を見ながら、フジワラは無言でカードを配る。5と9。合計14。
 本来、ブラックジャックは自分とディーラーのアップカードから「期待値」と呼ばれる勝率の計算をしたり、「カウンティング」という既出カードを記憶して残りのカードを予測するという戦術によって勝率を上げることが出来る。だが、重女はそれをしなかった。それは重女が素人でそれらを知らなかったのもあるが、一番の理由は疲労である。
 極度の緊張状態は脳と身体に多大な負荷をかける。ぼんやりとした頭では、計算能力も記憶力も衰えている。なので、重女はカードの「雰囲気」を読むことに専念した。

 何度も勝負しているうち、重女はカードが繰り出す不思議な「空気」を漠然と感じていた。

 例えばハートやクラブが来るときの雰囲気は「丸く」、スペードやダイヤは「固い」。9以上の数字の時は「広く」、それ以下の数字は「狭い」
 超能力だとか、そういうのではない。ただ彼女の優れた感受性が緊張で研ぎ澄まされた結果、目に見えない雰囲気のようなものを言葉に出来ない感覚で読み取れただけだ。
 今流れている空気は、「固く」、「狭い」。次に来るのは7以下かもしれない。重女はヒットを告げる。イヤリングを置き、黒蝿のサポートを断ち切った彼女は、己の勘だけを武器に戦っていた。
 来たカードはダイヤの6。感じたとおりだった。これで合計20。ステイを選択。

 「では、ホウルカードをオープンします」

 フジワラのアップカードは2。オープンされたホウルカードは9。合計11。17以下なのでもう一枚引く。その時、重女にはそのカードが「柔らかく」感じた。
 来たのはハートの8。合計19。重女の勝ちだ。
 重女はゆっくり息を吐いた。周りのギャラリーからはどよめきが生まれる。ツギハギ男は何も言わない。険しい顔を崩さずテーブルを凝視している。
 黒蝿も同じだった。テーブルに置かれたイヤリングの中で、助言するわけでもなく労いの言葉を送るわけでもなく、ただ重女を見ていた。
 チップが配られる。今回は勝ったとはいえ、もうチップは残り少なくなっていた。
 クラブの損額を取り戻すという意味では、もうフジワラは立派に役目を果たした。だけど彼はディーラー交代を拒否し、重女と勝負し続けた。まるで何かを確かめるように。

 「次のゲームを始めても?」

 汗まみれの顔を縦に振って、重女は頷いた。フジワラがカードシューからカードを引き、配る。

 その時、かつてないような「固く」「広い」感覚が脳を突き刺した。

 来たカードは、黒の「スペードのクイーン」と、同じく黒い「スペードのエース」。21。ブラックジャック。
 ぐらり、と目の前が揺れたように感じた。
 スペードのクイーン。戦いの女神バラス・アテネがモデルのカードは、スペードから右を向き、手に花を持っている。そしてスペードのエース。他のどのスーツより大きく、周りに装飾を施されている。

 「スペードのエース……また貴女に相応しいカードが来ましたね」

 重女は眉をしかめた。相応しい? このカードが?

 「スペードのエースはカードゲームにおいて最強の手札の場合が多い。ブラックジャックでも例外ではない。スペードのエースの意味を知っているかな?」

 重女は首を振った。二枚のカードを並べてみると、まるでクイーンがエースを凝視しているようだ。

 「スペードのエースは剣。つまり武器、力の象徴。最強の力のカードというわけだ。そして、貴女のカードの“スペードのクイーン”は花を持っている。だけど」

 フジワラの瞳が細められた。そして何故かすっきりとしたような笑みを浮かべた。

 「“貴女”が持つのは花ではなく、その“剣”が相応しい。戦いの女王は、武器を持って戦うからね」

 テーブルに置かれた重女のイヤリングに視線を移しながらフジワラは言った。
 スペードのクイーンが私なら、黒蝿は、スペードのエース。即ち剣。花ではなく、剣を持った女王。つまり彼は私達の事を言っているんだ。

 「お嬢さん、名前は?」
 『……重女、です』
 「重女さん。黒のスペードのエースには死の意味もある。強い力は貴女を助けてくれるだけじゃなく、扱いを間違えると、とてつもない不幸を招くかもしれない」

 重女も、黒蝿も黙っていた。彼は、私達に本当の言葉で話してくれている。
 彼のアップカードは赤いハートのキング。カール大帝がモデルのそのカードは4枚のキングの中で唯一髭がない。職人が誤ってノミで髭を削ってしまったからだ。
 スペードのクイーンと違い、ハートのキングは愛の意味を持つハートを見ている。静かに剣の柄を持っているそれはまるでフジワラを象徴するカードのようだ。

 「それでも、貴女は行くのかい?」
 『……はい』
 「そうか。きっと私達には想像もできないような絆が、“貴女達”にはあるようだ」

 ホウルカードがオープンされた。赤のハートのジャック。横を向きハートをしっかりと見ている若者。なんとなく、これはツギハギ男に似ていると思った。合計20。
 
 剣を持った女王が、王とその従者たる若者を退け勝利した。

 歓声に沸くギャラリーの向こうから、このクラブの支配人らしき中年の小太りの男がこちらに歩いてくるのを見て、フジワラは重女にチップを配り、そしてそのままテーブルを後にした。ツギハギ男がその後に続く。

 「負けた王は静かに去るよ。運が良ければ、また会おう」
 『あ、ありがとうございました』

 重女はフジワラに一礼し右耳にイヤリングを付け直すと、ゆっくり席を立つ。支配人らしき男を迎えるために。
 
 剣を持った女王がVIPルームへと案内されたのは、それからすぐの事だった。

人気ブログランキングへ