【クラブ・ミルトン:VIPホール】

 「そいつはマジでウザいな。じゃあ俺がいっちょしめてやるよ」
 「やだ~オニちゃんてば! オニちゃんの姿見たらあいつ泡吹いて気絶しちゃうってぇ!」
 「ハクジョウシさんさ、今度俺らと合コンしようぜ! ユキジョロウさんやアプサラスさんとか美人の悪魔誘ってさ、俺らも適当なメンツ集めとくよ」
 「あらあら、素敵な殿方でないと嫌よ」
 「勿論イケメン揃えておくよ。モー・ショボーちゃんやナジャちゃん呼んでくれると嬉しいな~」
 「何お前、ひょっとしてロリコン?」

 げらげらと笑う男たち。相手に身体を密着させて媚びるようにしなだれてみせる女。それら人間達の挙動に、悪魔達は反発することも襲い掛かることもせず、同じテンションでお喋りに乗じている。まるで友人のように。

 「………」

 重女はソファーの隅っこで、一人ミルクを飲みながらテーブルの様子を観察し続けた。
 相変わらず不思議な甘い香りは漂っているし、こめかみの痛みも消えない。ハンカチで口と鼻を押さえ、なるべく空気を吸わないようにしているが、全く息をしないなんて不可能だ。少しづつではあるが確実にこの妙な香りを肺に入れてしまっている。
 しっかりしなくては。自我を失うようなことがあっては駄目だ。今のところ意識ははっきりしているが、こめかみの痛みは段々と強くなっている。これはやはり違法薬物の匂いのせいだろうか。

 「ねえ~オニちゃん……やっぱあたしって魅力ないのかなあ?」

 甘えるように女が言うと、何を思ったか両足を妖鬼・オニの膝に乗せる。短いスカートが太ももまでめくれ、下着が見えそうだ。

 「おおう、こんないい女放っとくとはよ、お前の周りの男共は見る目ないな」

 オニが赤く大きな手で太ももを撫ぜる。女は妖艶にふふっと笑い、両腕をオニの太い首にまわす。
 それを見た瞬間、重女の頭に痛みが走り、一瞬目の前に別の光景が広がった。
 幼い頃、こっそり母の勤める店に行き、そこで客である米兵に母がしなだれかかっている光景が。

 ――ここに来ちゃいけないって言ったでしょ!

 「!?」

 またしても幻聴が聞こえた。それは先程のアキラのとは違い、母の叱責の言葉であった。

 店に来てはだめ、いい子だから一人で留守番できるわよね? と母は夜、仕事に行く前に重女によく言い聞かせていた。
 幼い重女は頷き、一人で布団に入る。だが夜にひとりぼっちは怖いし寂しい。もしかしたらお化けが出てくるんじゃないかと思いトイレにもいけない。
 あまりにも心細く寂しかった重女は、一度だけ母の勤めている店へと行った。夜道も暗くて怖かったが、あの狭い部屋で一人で寝るのよりはマシだった。
 母の店は家からそう遠くない米軍基地の近くにあるバーだ。こっそり従業員用の裏口から侵入した重女は、小さな身体を屈め、店の中を除いた。
 暗い照明の中、ムーディな音楽が流れ、男の人と女の人が一緒のソファーや席に座り、お酒を飲みながら楽しそうになにか話している。お母さんはどこ? と重女は目を皿のようにして母を探す。
 見慣れた横顔が視界に映る。お母さんだ! 思わず駆け寄ろうとして足が止まった。母が、隣に座っている外人の男の人の腕をとり、そのまま頬にキスをしたからだ。

 キスをされた外人さんはにやつきながら母の肩を抱く。白い頬には母の口紅の痕が赤くスタンプみたく残っている。

 母は仕事が休みの日や機嫌の良い時には、重女と一緒に布団に入って、おやすみのキスをふっくらした重女の頬やおでこにしてくれる時があった。それだけで重女は幸せな気持ちになりよく眠れるのだ。例え自分が寝入った後、こっそり仕事に行っていたとしても、その時だけは重女は寂しさも心細さも感じず、母の愛を感じぐっすり眠れた。
 今の母のキスはそれとは違う。自分を寝かしつけるためにしてくれたキスじゃない、もっと爛れていて汚いものだ。毒々しい赤い口紅のスタンプを見て、重女の幼い自制心が決壊した。
 気が付けば、いつの間にか重女は泣きながら母の元へ走っていた。
 ぎょっとした客や他のホステスには構わず、一直線に母の膝に抱き付き、そのまま声を張り上げて泣く。母の身体からはねっとりとした甘い香水の匂いがした。

 「なんでおまえがここにいるの!? ここに来ちゃいけないって言ったでしょ!」

 母が重女の顔を上げさせ、柔らかな頬を両手で寄せながら怒る。口紅が剥がれかけている。さっきのキスのせいだ。

 ――ねえ、なんで? どうして外人さんにはキスするのに、私にはしてくれないの? 最近全然してくれないじゃない。お母さんが優しくほっぺやおでこにキスしてくれたら、一人でも平気で眠れるのに。

 結局、その日はバーの店長に車で家まで送ってもらった。母は一緒に来てはくれなかった。
 あの後、偉い大人の人に母は怒られ、逆に重女は客の外人さんから憐れみの視線を向けられ、お母さんがいなくてひとりで寂しかったんだね、と頭を撫でられ、母に札束を渡していた。これでおもちゃでも買ってあげなよ、とカタコトの日本語で話す外人さんに、母は嬉しそうに抱き付いていた。私を抱きしめてはくれなかったくせに……。

 それから重女は一人で眠れるよう幼いなりに努力した。
 だけど瞼を閉じると、あの時の外人さんにしなだれがかる母の姿と、禍々しい赤の口紅のスタンプが瞼の裏に映り、胸の奥から寂しさではなく、未知の生き物を見たような得体のしれない感情が沸きおこり、眠気がふっとんでしまう。
 だから重女はよく夜に本を読んだ。絵本は勿論、母の愛読の婦人誌や漫画まで家にある本は全て読んだ。 読み終わったらもう一度読み返す。そうしているといつの間にか眠気が襲ってきて、気が付いたら眠っている。
 そんな事をアキラが生まれるまで繰り返していたら、就学前には平仮名は勿論、簡単な漢字も読み書き出来るようになっていた。でも母は褒めてくれない。アキラが生まれたことで、子育てで余裕がない母は以前にも増してあまり構ってくれなくなった。
 お母さん、前は優しかったのに、どうして今は遊んでくれないの? どうして一緒にいてくれないの? アキラは可愛いけど、やっぱり独りぼっちは寂しいよ――

 「重女、暗い顔してル。誰かニ意地悪されタ?」

 はっと、重女の遊離していた意識が戻った。そこは六畳一間のアパート、ではなく、きらびやかなホールで、自分は幼児から十五の少女に戻っており、豪奢で柔らかなソファーに座っている。

 (いけない! 私、意識が飛んでた!)

 ぼんやりとした頭を激しく振り、目の前にあったグラスの中身を一気飲みする。甘い炭酸の刺激的な味が舌の上を走り、頭の奥がかっと燃えるように熱くなった。

 「それ、おいらのコークハイ。お酒、ダイジョブ?」
 『え?』

 手に持っていたグラスを見ると、確かにそれは重女の頼んだミルクのグラスではなく、アルコール用のグラスだった。重女の向かいのソファーには、幼虫・モスマンが座っている。どうやらモスマンのコークハイを飲んでしまったらしい。

 『ご、ごめんなさい!』

 慌てて頭を下げると、「いいヨ。おいら、ジツはお酒あまり好きジャナイ」と赤いつぶらな瞳をしばたかせ、不思議な模様の蝶のような羽根をパタパタと動かし、細い糸のような手を振る。そして、その手でテーブルに置かれた大きな皿から、山と積まれた赤っぽい色の玉の菓子らしきものを掴んで小さな口に運ぶ。
 慣れない酒を飲んでしまい、全身が熱く頭がくらくらするのを感じながら、その不思議な玉状の食べ物を凝視する。
 チョコボールだろうか? しかし色が赤黒い。まるで理科の教科書で見た静脈の血の色だ。大きさは正露丸より一回り大きい。その菓子と思われるものは、人間達は手をつけず、モスマンやオニ、ハクジョウシがスナック菓子でも食べるかのように口に次々と入れている。
 あれはなんだろうと思い、重女もその丸い菓子らしきものに手を伸ばす。すると突然手の甲が叩かれた。

 『いたっ!』
 「これ、人の子。お行儀が悪いわよ。“赤玉”を食むのは悪魔のみ。あれは人間が口にするのはマナー違反よ」
 『赤玉?』

 叩いたのは邪龍・ハクジョウシ。袖の長い着物から白魚のような指先で、“赤玉”と呼んだ丸い食べ物を口に運ぶ。それに続くようにオニが大きな片手いっぱいに“赤玉”を掴み、ぼりぼりと口に入れて咀嚼する。モスマンは相変わらずマイペースにぽいぽいっと“赤玉”を口に放り込む。

 「重女っち、“赤玉”食べようとしたの? だめだよ、あれ、うちらは食べられないみたいだよー」

 女がフライドポテトをくわえながら話しかけてきた。相変わらず足をオニの膝に乗っけている。

 『どうして?』
 「んー……なんかあれ、悪魔専用の食べ物みたい。あたしも一回食べようとしたらオニちゃんに怒られたの」
 「当然だ。“赤玉”を嗜むのは悪魔のマナー。あれがあるから俺達はここにいられるんだぜ」

 オニはそういうと、女と重女に見せつけるように“赤玉”を何個か口に入れてわざとらしく咀嚼音を響かせる。 オニのいかつい顔が一瞬うっとりとした恍惚の笑みに変わった。

 「ね、あんな美味しそうな顔されちゃあ、やっぱ気になるよね? どんな味なんだろ?」

 女がすねるように唇を尖らせる。確かに悪魔にとっての美味の食べ物とは、一体どんな味で、何で出来ているか気になる。

 「あたしもオニちゃんに聞いたことあるけど、何で出来ているのかはオニちゃんも知らないみたい。でも味はなんていうか、珍味っていうか、癖になる味みたい。そう言われたら食べたくなるよねー」

 でも、と女がオニの膝から足を下ろし、重女の方へ身体を乗り出す。そして耳元に口を近づけ小声で囁く。

 「前に興味本位で“赤玉”食べちゃった子がいたのよ。すると周りのボーイや警備員が凄い顔して駆け寄ってきて、その子、どこかに連れてかれちゃったの」
 『連れてかれた?』

 重女も小声を意識し、咽喉マイクのスピーカーの音量を下げる。女は「そうなの」と小声で答える。

 「まてどくらせどその子は戻ってこないから、あの子はどこに行ったんですかってボーイに聞いたんだけど、そしたら「あの方はルール違反を犯しましたので、VIP会員の権利をはく奪されました」だってさ!
 ここでは人間が“赤玉”食べるとVIP会員じゃなくなって追い出されるみたい。折角こんな楽しい場所に入れるようになったのに追い出されちゃたまんないよね! だから重女っちも、あれ、食べちゃダメだかんね」

 赤玉を食べた人間はVIP会員じゃなくなり、ここを追い出される。成る程、それがここのルールか。『わかった』と返しながら、重女はまだ熱の引かない頭で考えた。
 悪魔は人間の食べ物や飲み物を平然と口にしているのに、悪魔専用の食べ物まで用意しているのはただ単にサービスの一環? それにしては人間がその“赤玉”とやらを口にするだけでVIP会員の権利がはく奪されて出入り禁止になるのはちょっと厳しくないだろうか? “赤玉”は人間にとって毒なのだろうか?

 「あ、で、こっからが怖いとこなんだけど」

 女がますますこちらに身を近づけてくる。大きく開いた襟元から豊満な胸の谷間が丸見えで、重女は目のやり場に困った。

 『なに?』
 「その子ね……家にも帰ってないみたい……“行方不明”てやつ?」

 ざ、と首筋から手にかけて鳥肌が立った。女も同じようで、腕をこすりながら続ける。

 「そんなに親しい子じゃなかったけど……でもそんな話聞いたら怖くなっちゃうじゃん……もしかしたらやっぱり悪魔と仲良くするなんて無理なんじゃないかって思っちゃうよ」
 『そう言えば、貴女達はここで悪魔と一緒にいるのに、怖いと思わないの?』
 「そりゃあ最初に来た時は超怖かったけど、悪魔ってめっちゃフレンドリーだよ! それにここに来ると身体も頭も軽くなって、なんか楽しい気分になっちゃって、そんなこと別にいいじゃん! てなっちゃう。話して見たら意外と悪魔って紳士的で優しいし面白いし、その辺の男よりよっぽどいいよ!」

 そう言うと女は、ハクジョウシに群がっている二人の男を一瞥すると、オニの広い胸板に抱き付く。オニもまんざらでもないようで、機嫌良く女の肩を抱く。

 「まあな。こんな可愛い女を食おうだなんて思わねえよ。“赤玉”もあるしな」
 「やだもう! オニちゃんてば!」

 女が軽くオニの胸を叩く。するとなんとそのままオニと女はキスをしはじめた。

 「……!」

 ズキン、とこめかみがまた強く痛む。すると目の前のオニと女が、幼いころに見た外人と母の姿に変わる。

 “母”が客の“外人さん”と抱き合い、直接キスしている。“母”の腕は“外人さん”の太い首に巻かれ、“外人さん”は“母”の腰から太ももを撫ぜる。“母”と“外人さん”のキスが深いものに変わり、赤い唇から長い舌が出て、互いの舌と絡み合う。ぴちゃぴちゃ、いやらしい音。二人とも愉悦の笑みを浮かべている。
 これは幻覚だ、落ち着け、と頭の中で何度も唱えるが、目の前の“母”の幻覚は消えない。そのうち“母”と“外人さん”の身体が溶け合い、ぐにゃりと混ざり合い、別のものへと姿を変える。

 ――外人~! ほら英語喋れよ~!
 ――目の色青くて気持ち悪いんだよ! 近寄るな!
 ――ほらあの子よ。あそこの奥さん、米軍基地の兵士と寝てお金稼いでるんでしょ?
 ――まあいやらしい! あの姉弟、どこの馬の骨ともしれない外人との間にこさえた子達でしょ?
 ――汚い!
 ――変な目の色!
 ――お前の弟の髪、まっきんきんで気色悪いわ!
 ――父無し子!
 ――売女の子!

 それは近所の口性のない住人の声でもあり、学校の悪童の罵声でもあった。

 溶け合った物体は重女やアキラ達を迫害してきた者の姿に変わり、脳内に散々かけられてきた悪意ある言葉がフラッシュバックする。侮蔑の視線、中傷、それらがもたらす不快な記憶。嫌な記憶、辛い記憶、悲しい記憶、そして――怒りの記憶。

 ねえ、なんで? なんで目や髪の色が違うだけでこんな目にあわなくちゃいけないの? 父親がいないのがそんなに悪い事? お母さんは頑張っているのに、アキラはこんなに良い子なのに、何故みんないじめるの? 何故陰口ばかり叩くの? 一体私達がなにをしたの――!?
 許さない。私を、私達を傷つける奴は絶対許さない! アキラやお母さんを殴るなら、殴り返してやる!! 私は負けない! 必ずこの手でお前たちを――

 「きゃあ! 重女っち、手から血が出てるよ!!」

 女の叫び声で意識が戻った。歪んだ視界も元通りになり、外人と絡み合う母の幻影は無くなり、目の前にいるのはソファーに座った妖鬼・オニと心配そうにこちらを見ている派手な女の姿だ。

 『………血?』
 「ほら、右手にグラスの破片が刺さっている!」
 「うわ! ほんとだ! いたそ~……。重女ちゃん、いきなりグラス叩き割ったからね」
 「も、もしかして、酔い過ぎ? それとも“決まり過ぎ”?」

 言われて初めて重女は自分の右手を見た。確かにガラス片がいくつも刺さってて、血が流れテーブルや床に滴っている。テーブルには割れたグラス。そう認識した途端痛みが遅れて襲ってきた。結構な深手なのに、何故かそれほど痛いとは感じなかった。

 女の叫び声を聞き、ボーイがこちらに数名駆け寄ってくる。他のテーブルの悪魔や人間もこちらを凝視している。踊っていた人間達も何人かこちらに視線を寄越す。
 ボーイが重女の右手からガラス片を抜き、応急処置としてタオルを巻き、テーブルの上の割られたグラスの欠片などを片付けているのを、重女はぼうっと他人事のように見ていた。

 ――またしても幻覚と幻聴! やっぱりこの違法薬物の香りが原因なんだ!

 徐々に痛みが強くなってくる右手を握りしめたいのを堪え、重女はまたしても香りにやられ自身を制御できなかった自分に苛立ち、落ち着くために十字架のペンダントに触れ、ふう、と息を吐いた。

 (だけどこれではっきりした。この甘い香りは確実に違法薬物のもの。恐らくはこのホール中に噴霧している……!)

 医務室へ案内するというボーイのあとに続くため、重女は右手を押さえながら席を立つ。

 『ごめんね。すぐ戻るから』
 「うん、待ってるよ~」
 「もうすぐ「リフレッシュ」の時間だから、それまでには戻っておいでよ!」
 『リフレッシュ?』
 「うん、重女っちは初めてだよね? 十二時になると、別室で「リフレッシュ」の時間になるの。内容は来てからのお楽しみ!」
 「すげー気持ち良くなるからさ、重女ちゃんも一度体験するといいよ」
 「ああ、あれはいいよなあ。なんちゅーか、嫌なことぜーんぶリセット出来るっていうかさ」

 もっとその「リフレッシュ」の事について聞きたかったが、ボーイに促され、半ば強引にホールから医務室へ連れ出された。
 ホールから出ると、あの甘ったるい匂いがしなくなり、廊下には清潔な空気が満ちていた。重女は何度も深呼吸をし、体内に溜まっているであろう薬物を吐き出すよう努めた。効果があるかは分からないが。

 「出血はおさまりましたね。あとは消毒して包帯を巻いておきますから」

 クラブの医務室は小さな部屋で、専属の医者らしき男が治療をしてくれた。医務室らしく、包帯やガーゼ、絆創膏、消毒液、その他急な病気やケガに対応できるだけの備品は揃っている。奥には簡易ベットまである。

 「他にどこか痛いところは?」

 医者が聞いてくるので、重女は少し俯き、頭に手を当てながら咽喉マイクを調整し、『少し……慣れないお酒で悪酔いしてしまって……気分が悪いです。休ませてもらってもいいですか?』と、いかにも具合悪そうに辛そうな声を発した。
 唇を動かさずチョーカーのスピーカーから発せられた機械音声に、医者は戸惑いを隠さなかった。重女にとってはもう見慣れた光景である。

 「九楼重女さん……ふむふむ、データには「声帯に障害あり」と記載されていますね……それは咽喉マイクですか?」
 『はい』

 診療机の上の「ぱそこん」に付属している機械に重女のVIPカードを当てると、「ぱそこん」の画面上に重女の顔写真と個人データらしき文字がびっしり表示された。あれは全部自分のデータだと思うと、クラブ側はどれだけ自分のことを熟知しているのか少し不安になった。まさかこちらの「計画」は漏れていないよね?

 「成る程。良いですよ。お客様で酔いつぶれて気分を悪くされる方はよくいるんですよ。少しあちらのベットで休まれて行かれては? ただ、私はこの後「リフレッシュ」の時間の準備の為に少し席を外さなくてはいけないのですが、お一人で大丈夫ですか?」

 大丈夫どころか、一人の方が好都合だ。『はい、大丈夫です』と答えた後、『あの、「リフレッシュ」の時間とはなんなんでしょう?』と直球で聞いてみた。

 「ああ、お客様は初めてですね。後で説明があると思いますが、その名の通り、心と身体を「リフレッシュ」するための時間です。別室に移動していただき、アロマセラピーや、ヒーリング音楽による自律神経等の正調、他にもプラネタリウム上映や詩の朗読会、希望者には整体や、カウンセリングも行っております」
 『……パーティだけじゃなく、そんなことまでサービスでやっているんですか?』
 「はい。皆さまにとても好評ですよ。ストレスの多いこの社会ですから、少しでもストレスを解消できたらと思い始めたサービスですが、多くのお客様に満足していただいております」

 アロマセラピー、ヒーリング音楽……非常に胡散臭い。恐らくそこでなにかもっとあくどい事を行っている可能性が高い。そこには是非参加しないと。

 『はい、私も是非参加したいです!』
 「かしこまりました。では時間になりましたら迎えに参りますので、それまでゆっくりとお休みください。なにかありましたら、ベット脇のボタンを押してください」

 そう言うと、医者は笑顔で医務室を後にした。
 一人取り残された重女は、ヒールを脱ぎ、ベットに身を横たえた。慣れないハイヒールのせいで足が痛い。
 天井に通気口がある。ここは地下。あそこから空気を地上からここへ送り込んでいるのだろう。だとすると、ホールにも繋がっているだろう。
 重女は影を操作し、細い通気口の穴に合わせ影を細くし、穴の奥へと影を侵入させた。そして視界を影と同調させる。
 視界だけを影と一体化させるのはそれほど難しくなかった。前に五感全てを同調させたことがあるくらいなので、視界だけの同調など今の重女には造作もないことだ。

 何故通気口に影を侵入させているか。それは違法薬物の噴霧装置を突き止めるためだ。

 違法薬物がどのようなものか未だ不明だが、もし大麻のように燃やして煙をホールに流しているのなら、ホールには煙が充満していただろう。だがホールには煙は充満してなかった。あの大きなホールに満遍なく気化した薬物を行き渡らせたいなら、それはホールにも備わっている通気口に噴霧装置をとりつけるが手っ取り早い。
 あれだけの広さのホールに薬物の気化蒸気を充満させたいなら、それなりの大きさの機械によって行われていると考えられる。ホールをざっと目でチェックしたが、ホール内にはそのような装置は見当たらなかった。 とすると、やはり空気を循環させる通気口に取りつけられている可能性が高い。

 視界と同調した影を通気口のさらに奥に進ませる。医務室は薬物の匂いはしないので装置はない。もっと奥、ホールまで影を伸ばす。
 どれだけ影を伸ばしただろうか。重女の額に汗がびっしりと浮かんできたころに、ようやくそれらしき装置を見つけた。
 ホールの通気口の窓のすぐ近くに備え付けられており、その装置は扇風機にも似た形状で、無色の気体を噴出させている。これだ! 重女はその装置の電源を切ろうとしたが、隅から隅まで探しても電源らしきスイッチはなかった。
 ――恐らくこの装置のブレーカーは別の場所にある。そう確信し、重女は少し落胆したが、それなら仕方ない、この装置を破壊しようと思いつく。
 影の先を鋭利な刃物の形に変え、装置に一刺し! だが装置は思った以上に頑丈で、重女は仕方なく何回も装置に攻撃を仕掛けた。攻撃するたびに装置はひび割れ、変形し、中の回路がショートしたのか、バチバチと火花が散り、ついに活動を停止した。

 『やった……!』

 あれだけとは限らないが、とりあえず一つは破壊できた。重女は影と視界の同調を解く。全身汗まみれで、右手の包帯まで汗で濡れている。取り替えなくては、と思い、だるい身体をベットから起こしたところで、枕元に絵画が飾られているのに初めて気づいた。

 (なんだろう? 宗教画? )

 タッチや色彩から西洋の絵であることは間違いなかった。左側に女の人が、右側に黒い翼を広げた天使らしき男が描かれている。翼は黒めに塗られてはいるが悪魔ではないだろう。それは男の表情や服装からわかる。
 左の女の人は天使らしき男を落ち着いた表情で見つめている。その手元に開かれた本がある。宗教画だとしたらおそらく聖書だろう。
 男は右手を頭上にあげ、中指と人差し指をあげたピースサインのような手の形をしている。そして左手には複数の百合の花。宗教画にはよく出てくるアイテムだ。
 なんとなく、この絵をどこかでみた気がする。美術の教科書だろうか?

 いや、思い出した。これはシドの教会に飾ってあった絵と同じだ。確か名前も聞いたはず。この絵の名は――

 ―――

 【クラブ・ミルトン:地下施設】

 「エル・グレゴ作「受胎告知」。新約聖書で有名な受胎告知のシーンを描いた絵だね」

 フジワラがコンクリートの壁にかけられた絵画を見て言う。またしても宗教か、と黒蝿は唾棄したい気持ちを押さえ、周りを見渡した。
 まるで工場のようだ。天井や床には鉄製のパイプやダクトが通っており、巨大なガスボンベのようなものまでいくつもある。こんな鉄塊で構成されている場所に、何故か絵画が飾ってある。

 「受胎告知?」
 「そう、聖マリアが神の子を身ごもったことを天使ガブリエルが伝えに来た有名なシーンだよ。これは恐らく、大原美術館に展示されている絵のレプリカだろうね」

 天使・ガブリエルが神の子の受胎を告知に来た――東のミカド国で“ガブリエル”と名乗る大天使と戦った経験のある黒蝿は、あのガブリエルはこの絵画のような人型ではなく異形の形であったことを思い出し、それをこいつらに聞かせたらどうなるか、と想像し少しおかしくなった。
 そういえばガブリエルは重女の作った檻から逃げ出し、重女の手足を食いちぎって行方知れずだが、あれは別世界の話。この世界には関係ないだろう。

 「それにしてもよ、なんなんだこの匂いは?」

 ガスマスクをつけたツギハギがごちる。彼の下には二人の人間が倒れている。どちらもここの作業員のようで、ツギハギが倒し、二人が装着していたガスマスクを剥がしてフジワラと共に着けている。そうでなくては、この施設内に充満している得体のしれない濃密な甘ったるい匂いを吸い込んでしまうからだ。
 悪魔である黒蝿には害はないが、フジワラ達は最初この匂いを嗅いだ時、頭痛と胸やけに悩まされたらしい。
 黒蝿はそのような症状は起きなかったが、胸がべたつくようなこの甘い匂いは、嗅いでいて気持ちの良いものではない。

 「恐らくは、違法薬物の匂いじゃないかな」

 黒蝿もフジワラと同意見だ。恐らくこの工場は違法薬物を製造している。この匂いも薬物が気化した匂いだろう。
 地図によれば、ここはクラブ・ミルトンの地下の最下層エリア。こんなところで堂々と違法薬物を製造していたとは。

 「ふん、やっぱりか。これでクロだな。なら早くこの施設をぶっ壊さないとな」
 「待て待て落ち着け。こんな巨大な施設、私達だけじゃ破壊なんて無理だよ。ひとまず違法薬物の作られている現場を押さえ、薬物を持ち帰る。そしてメディアを通してここの犯罪を訴えるんだ」
 「そんなまどろっこしいことしなくても、俺や俺の仲魔や黒蝿の兄ちゃんがいれば、どれだけ広かろうが、製造ライン全部破壊できるぜ」
 「駄目だよ。ここには一般人も捕まえられているかもしれないんだ。強硬手段に出れば何の関係もない一般人も犠牲になるかもしれない。証拠を集めつつ、可能なら一般人も救う。それが我々の作戦だろう?」
 「ち、つまんねえ」

 ツギハギが心底つまらなさそうに言う。黒蝿も同じ気持ちだった。
 ここ最近たいして戦っていない。この時代に来てやったことといえば、重女のお守と、マグネタイトを得るためのしょぼい悪魔狩りしかない。そろそろサマナーでも天使でも悪魔でもいいから思う存分暴れまくりたい、というのが黒蝿の本音である。

 ちらり、と先程眺めていた宗教画を一瞥した。神の子? 受胎? そんな創作話を絵画におこすなんて、やはり人間の神への信仰とやらは理解に苦しむ。昔の人間は、処女が子を身ごもるなんてバカげた話を本当に信じていたのだろうから呆れる。
 黒蝿には全く理解できないが、古くからのサマナーの家の中には、家に代々契約している異形の者と肌を合わせ、子を成してきた家系も決して少なくないらしい。そうすることで精霊や神魔といった異形の者の血を取り入れ悪魔召喚師としての力を強めているらしいが、黒蝿はマグネタイト摂取の目的以外で人間と交わるなんて悪趣味だとしか思えなかった。中には主人であるサマナーに本気で懸想し、子を成し家庭を築く者もいたというから驚きだ。

 (……馬鹿馬鹿しい)

 悪魔は悪魔。人間は人間。契約により成り立っているだけの関係の者に恋心を抱くなんて、全くのお笑い草だ。所詮は住んでいる世界が違う。悪魔には悪魔の矜持というものがある。悪魔召喚プログラムにより、人間との距離も近くなったとはいえ、種族の違う人間と深間になるなど、それこそ悪魔失格であると黒蝿は思う。

 そこまで考え、また胸がムカムカしてきた黒蝿は、その絵画を軽く殴りつけた。がたん、と飾られていた絵は揺れ、あっけなく壁から外れてしまった。

 「黒蝿君! また君はそんなことを!」

 マスク越しのくぐもった声で叱咤してきたフジワラを無視し、絵画が床に倒れるところを見ていた黒蝿は、あるものに気付く。

 それはちょうど絵画の裏に隠れるように壁に設置された小さな装置である。パッと見、大き目の電卓のようにもみえるそれには、数字のボタンが付いており、小さな横長のモニターには、〈暗証番号ヲ入力シテクダサイ〉と表示されている。

 「なんじゃこりゃ?」

 ツギハギが恐る恐るといった感じでその装置に触る。適当に数字を押してみたが、装置はエラー音を鳴らし〈暗証番号ガ違イマス。アト二回〉と表示した。

 「おお! またしてもお手柄だね黒蝿君! 恐らくこの装置はここにとって重要なものだよ! 君は強運の持ち主らしい」
 「世辞はいい。問題は暗証番号とやらを入れないとこの装置は発動しないということだ。フジワラ、お前には番号は分かるのか?」
 「うーん……」

 さしものフジワラも分からないらしい。当然だ。なんのヒントもなくいきなり四桁の番号を入力せよ、だなんて、すぐ思いつく方が珍しい。

 「とりあえずよ、さっき倒した奴らに聞いてみるってのはどうだ? おいっ! 起きろ!」

 ツギハギがさっき倒した男の一人に平手打ちをかまし、身体を激しく揺さぶる。男の目が薄く開いたかと思うと、ツギハギがガンプの銃口を男の額に向ける。ひっ、と男の喉が鳴る。

 「おっと、大きな声出すんじゃねえぞ。あそこにある装置の暗証番号をとっとと教えろ。そうすれば命だけは助けてやる」
 「お、俺は……! ただの雇われ作業員で……!」
 「ほう、そうかい」

 ツギハギがガンプの引き金を引き、弾丸が男の側頭部を擦り床に打ち付けられる。男のこめかみ付近の髪は焦げ、皮膚には弾丸の擦過による軽い火傷ができていた。

 「ひ、ひいいいい!」
 「こんなところで働いていて、何も知らないわけないよなあ? お前の知っていることは全部教えろ。嘘ついたら今度は耳が吹っ飛ぶぞ」

 ぐり、と耳に銃口を押し当てたツギハギに、作業員の男の顔はますます恐怖の色に染まっていった。

 「あ、あの装置の暗証番号のことは本当に知らないんです! ただ、あの絵はここのオーナーが飾ったんです! なんでも、「ここに相応しい絵」だからだそうで……」
 「ここに相応しい?」

 違法薬物の製造工場に、「受胎告知」の宗教画が「相応しい」? ますます頭を捻るツギハギと黒蝿をよそに、フジワラは一人絵画を調べていた。

 「エル・グレゴ……受胎告知……油彩画……」

 ぶつぶつと独り言を漏らしながら、隅々まで絵を調べていく。黒蝿も横から絵を観察した。そしてフジワラが大きめのキャンパスを裏返しにしたとき、ある数字が隅の方に書かれているのを見つけた。

 「1590-1603、El Greco……? なんだこの数字は?」
 「! ……もしかしたら!」

 フジワラが急いで壁面の装置に数字を入力する。1590、またしてもエラー。チャンスはあと一回。フジワラはマスク越しに深呼吸をし、「1603」と入力した。
 すると装置が金庫の様にぱかりと開き、中には何枚かのカードキーが保管されていた。

 「これは……!?」
 「レベル3、4、5と書かれている。恐らく上の階層へのカードキーだ!」
 「おい、あれは本物なんだろうな!?」

 ツギハギが男に更に銃口を近づけ詰問する。
 
 「は、はい! 上級作業員はそこからカードキーを持って上に行ってました!」と男が恐怖に怯えた声を出す。ツギハギはそれを聞き、嘘ではないと声音から判断すると、男の鳩尾に拳を叩きこみ、またしても気絶させた。

 「やはりあの暗証番号は、絵画の描かれた年だったか。
 地図によると、この上にさらに施設があるらしい。どうやって入ろうか迷っていたけど、このカードキーのおかげで入れる! ありがとう黒蝿君!」
 「……俺は何もしていない」

 そう、俺は何もしていない。ただ、この絵が気に入らなくて殴ったら、たまたまカードキーの保管されている金庫が見つかっただけで――

 そこまで考え、黒蝿は思考を寸断した。辺りに漂う匂いが、ますます強くなったからだ。
 匂いだけではない、視界までピンク色の靄がかかってきた。辺りの景色を霞ませる程に。

 「これは!?」
 「ちきしょう! 何が起こってやがる!?」

 ガスマスクをつけたフジワラとツギハギはひとまず安心だが、黒蝿は濃くなった匂いに、酷い眩暈を感じた。思わず膝をついてしまう。

 「黒蝿君!」
 「いい、俺に構うな。それより気をつけろ! 奥から悪魔の気配がする。気を抜くな!」

 悪魔、と聞き、ツギハギはガンプを構え臨戦態勢をとる。だがフジワラは悪魔召喚師ではないただの人間。護身用に銃は持っているが、悪魔相手には役に立たない。

 「……フジワラ。お前は先に行け」

 黒蝿の言葉に、フジワラは「何を言う! 私もここで……」と反論しかけたが、「邪魔だ」と黒蝿は遮る。

 「奥にいる悪魔は、気配からしてなかなかの強敵だ。そんな相手にお前のような戦闘能力のない奴をかばいながら戦える余裕はない」
 「俺も賛成だな。フジワラ、お前は上の階に行ってここの悪事を暴いてこい! なあに、俺とこいつならどんな奴相手でも負けねえよ!」

 ガスマスク越しでわからなかったが、ツギハギは不敵に笑ったらしい。少しの間迷っていたフジワラは、上層階へ向かう階段の方に身を向ける。

 「死ぬなよ二人とも!」
 「当たり前だ」
 「こいつを倒したら、すぐに追いつくぜ!」

 ツギハギが親指を立て、それに返すようにフジワラも親指を立て、そして階段の方へ走っていった。念のため、黒蝿から託された聖書型コンプを手に持ちながら。
 残された黒蝿とツギハギは、近づいてくる悪魔の気配に、互いの背中を合わせ身体中の筋肉に力を入れる。

 「へ! まさかお前と組むことになるなんてなあ」
 「同感だ。怖くなったならいつでも逃げ出していいんだぞ」
 「何言ってやがる! 折角暴れられるんだ! 怖いどころか武者震いが走ってきちまったよ!」
 「……ふん」

 ずりゅ、ずりゅ、と不気味な音を立てながら近づいてくる悪魔の形を靄の向こうに捉え、黒蝿は大きな黒翼を出し、ツギハギは険しい眼差しでガンプを構える。
 悪魔はどんどん近づいてくる。その度に靄と匂いが濃くなり、ガスマスク越しでも視界が塞がれた状態だ。

 (一体どんな奴が、近づいているんだ……)

 身構え、敵の襲来に備えていると、ふわり、と何か黒いものが視界の端に映る。
 黒蝿の目の前に黒い羽毛が落ちてきたのだ。まるで鴉のような、黒い、羽毛――

 途端、黒蝿の脳内に記憶のフラッシュバックが起こる。
 捕獲された自分、悪魔合体用の機械に拘束される自分。そんな自分を嘲笑うよう見下ろすサマナーと、漆黒の翼を持つ大天使――

 「おやおや困りますねえ。部外者はきちんと正面から入っていただかないと」

 慇懃無礼な口調の低い男の声に、黒蝿の肌が粟立った。黒い羽毛、自分と同じ黒翼の持ち主、俺をこんな姿にした大天使、ずっと探していた憎い相手―――

 「マンセマット……!!」

 黒蝿の影が怒りでぶわっと広がる。ピンク色の靄の向こうから現れたのは、
 かつて黒蝿を捕まえ、他の悪魔と悪魔合体させ、現在の姿にした張本人――重女の弟のアキラが飛ばされた別世界の東京の魔界のゲートを開き、悪魔を人間界に溢れさせた、黒翼の大天使・マンセマットと、邪神・ヤソマガツヒ。

 ヤソマガツヒの方は醜い顔に甲殻類にも似た手足を動かしている。顔の半分から脳のようなものが露出し、全身からピンクの霧を噴出させている。この匂いと靄はこいつが発生させているらしい。
 そしてマンセマットの方は、面白そうに仮面越しに黒蝿を見ている。

 「はて? 君、以前に会いましたかな?」

 豊かなウェーブかかった黒髪を弄りながら、マンセマットは首を傾げる。

 「おい黒蝿の、こいつと知り合いな――」

 ツギハギの言葉を無視し、黒蝿は「大旋風」を起こす。怒りによって強化された烈風は、靄だけではなく、ヤソマガツヒやマンセマット、果ては仲間のツギハギまで吹き飛ばす。

 「お、おい! 俺は仲間だぞ! 少しは抑えろってんだ!」

 パイプに捕まりながら文句を言うツギハギをよそに、黒蝿はマンセマットに次々と攻撃を仕掛けていた。アギダインに、ザンダイン、蹴りに掌底打ちと、まさに鬼神のごとき速さと威力でマンセマットに攻撃する。しかしマンセマットは紙一重でそれらをかわす。

 「やっと会えたなあマンセマット! この時が来るのをどんなに待ったことか!」
 「……ふう、やれやれ、なにやら一方的に恨まれているみたいですね。まあいいでしょう」

 黒蝿のパンチを避け、マンセマットは黒翼をはためかす。
 大旋風――しかし、その威力は、黒蝿のより数段強い。凄まじい風によって態勢が崩れた黒蝿を、まるで虫でもはらうようにマンセマットは蹴りつける。

 「がはっ!」
 「残念ながら、貴方たちと遊んでいる時間はないんですよ。私も忙しい身なのでね。代わりにこのヤソマガツヒが相手をしましょう」

 マンセマットは翼を再度はためかせ、どこかへ飛び去ろうとする。

 「待て!! 行かせるか!」

 黒蝿が急いで影で捕まえようとするが間に合わない。そうこうしているうちに、マンセマットの姿はどこかへ消えてしまった。

 「くそ!!」

 心底悔しそうに悪態をつく黒蝿を、「ブフダイン」が襲う。防御が間に合わない!
 だが、それを防いだのは、ツギハギの「マカラカーン」であった。

 「おい黒蝿! あの大天使となにがあったか知らねえが、俺達の敵はこのヤソマガツヒとかいう悪魔だ! こいつを倒さねえとフジワラやお嬢ちゃんにまで危害が及ぶ! だからしっかりしろ!」

 ツギハギの檄が飛ぶ。そうこう言っている間にツギハギはヤソマガツヒに何発も銃弾を撃ち込んでいた。しかし大したダメージは与えられていないようだ。

 「……ああ、そうだな。まずはこいつを倒してしまおう」

 そう言うと黒蝿の目の色が変わる。獲物を目の前に捉えた捕食者の目に。黒翼がばさりと音を立てる。
 影を背負いしその姿は、正に伝承による黒翼の悪魔そのものであった。



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