右手と左手の人差し指と親指で小さな四角を作り、重女は満天の星々を指のフレームから覗いた。
 そこから見えるのは、自分の指によって切り取られた星の絵画。
 これは昔からの癖で、重女は星空を眺めるのが好きなのだ。

 きっとそれは幼い頃、昼間に外出することが少なく、夜、近所の住人達がいなくなった公園で母と二人で遊んでいたせいかもしれない。

 頭上を見上げると、真っ暗な夜空にキラキラと光る星が沢山ある。それが不思議で、幼い重女はまるで宝石みたいだと母に伝えると、母は優しく笑いながら「あれは世界で一番大きくて綺麗な宝石箱よ」と言った。
 母の愛のある嘘を重女は信じた。大きな宝石箱。その箱の広さには終わりがなく、納められた宝石もどれくらいあるか検討もつかない。箱には一番大きくて光っている宝石が一つあり、その白い宝石は見るときによって形を変える。お日様程強くはないけど、周りの小さな宝石や、それを眺めている自分さえ朧気に照らす。

 「世界一大きく綺麗な宝石箱」は、ずっと眺めていると自分が地から浮いて吸い込まれてしまうほど広い。それが怖い重女は、両手でそっと輪を作り、そこから宝石箱を眺めた。
 手で作った小さな窓から覗くと、得体の知れない浮遊感も飲み込まれそうな恐怖心もなくなり、手の枠の分の宝石が、夜空というとてつもなく大きな箱から自分の心の中の宝石箱に移ったような気がして、重女の胸もキラキラする。星という宝石の輝きを自分のものにしたくて、重女は晴れた夜空を見上げる時は必ず手や指で小さな窓を作り、星々や月の輝きを切り取っていた。
 今も寝椅子に座りながら指の窓から星を見上げる。美しい天の川が見える。無数の星が集まり形成される輝く川。だけどこれは人工の光で出来た星空だ。

 「………」

 重女は首を回し、部屋の様子を観察する。
 天井が高いこのプラネタリウム室で「リフレッシュ」を受けている若者達は、ふかふかした寝椅子(リラクゼーション・チェアーというらしい)に深く座り、天井に映し出されている満天の星空に見入っている。
 人数は二十人程。女性が多く、何故か悪魔はいない。その中にはホールで一緒の席に座ったあの派手な少女もいる。彼女はホールでオニとじゃれあっていた時とは打って変わって目は半開きで口も開けたまま天井を見ている。まるで呆けているかのようにみえるが、きっとリラックスしているのだろう。
 この部屋はプラネタリウム上映の為照明はついていなく、専用の機械から天井に投影される星々の輝きが微かに自分達を照らし出し、静かで美しいBGMが流れ、ホールで嗅いだあの甘ったるい違法薬物の香りではなく、爽やかな胸のすくような香りが漂っている。リラックスするのも無理はない。ただ重女はこの爽やかな香りも違法薬物の可能性があるかもしれないと思うので、ハンカチで鼻と口を覆い最小限の呼吸しかしないよう努めている。

 《私達の間に起きた出来事を、最初から親しく見た人々によって、御言葉に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き下ろそうと多くの人が手を着けましたが、テオピロ閣下よ、私も全ての事を初めから詳しく調べてありますので、ここにそれを順序正しく書き綴り、閣下に献ずることにしました。すでにお聞きになっている事が正しく確実であることを、十分に知っていただきたいためであります》

 BGMに混ざり、いきなり男の声が部屋中に響いた。重女は少し驚き上体を起こす。星にまつわる話ならともかく、何故プラネタリウムに新約聖書が朗読される?
 重女は辺りを見渡したが、ホールで一緒だった少女も他の皆も特に驚いたりせず天井を見上げている。もしかして、皆寝てしまっているか、この声に気付かないほど星を見るのに集中しているのだろうか。あるいはこれが新約聖書の詩だと気づいていないのかもしれない。
 声は静かに、新約聖書のルカによる福音書の第一章を読み続ける。ザカリヤとエリザベツという不妊に悩む年老いた祭司夫婦の話。子が出来ないザカリヤの前に主の使いとしてガブリエルが現れ、こう言うのだ。

 《おそれるな、ザカリヤよ、あなたの祈りが聞き遂げられたのだ。あなたの妻エリザベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名付けなさい。彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を祝うであろう》
 《わたしは神の御前にたつガブリエルであり、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために遣わされたのである。時が来れば成就する私の言葉を信じなかったから、あなたはおしになり、この事が起こる日まで、ものが言えなくなる》

 その後エリザベツが身ごもり、神に対し感謝の言葉をつげる、というのを、男の声はスピーカーから淡々と語る。
 ガブリエル、と聞き、重女は右手を天井に伸ばした。
 こことは別世界の、東のミカド国というところで、“ガブリエル”という異形の姿の大天使に食いちぎられた右手。アキラが自ら犠牲になって蘇らせてくれた手は、左手と比べるとやや大きく、指も長い。まるで男のように。

 そっと、左手と右手の掌を合わせてみる。丸みを帯びた左手と比べて、右手の方が節ばっており、ややごつごつしている。そして五本の指全てが左手より長い。左右の指を絡めてみる。まるで男女が愛し合うように手を繋いでいるみたいだ。

 右手の違和感に気付いたのは最近になってからだ。
 まだ東のミカド国にいるときは、両方の手は同じ大きさだった。それが時間が経つうち、徐々に右手に変化が現れた。丸かった手の甲は面積が広くなり、短く細い指は段々と伸びてきて、関節の部分が節くれだってきた。そして気がつけば、左手は女性の、右手は男性のそれになっていた。
 アキラとの合体のせい――重女はすぐ原因がわかった。悪魔合体プログラムは、本来人間には適応されない。いくら遺伝子の似ている弟でも人間同士が悪魔合体プログラムを使えば、本当なら悪魔でも人間でもないただの肉の塊ができるはずだった。
 それが天文学的確率で私は人間として復活した。失われたはずの右手と両足を持って。
 この右手と両足、そして流した血はアキラが自らを有機体に変えて蘇らせてくれたもの。だけど、わかっていた。
 ――禁忌を犯すと、必ず“歪み”が生ずることを。

 絡めあった指を解き、今度はうんと両腕を伸ばしてみる。やっぱり。右手の方が少し長い。今は照明が暗くてわかりづらいが、肌の色も右腕の方が若干白い。アキラの手の様に。

 「………」

 足掛けに乗せた両足を眺める。この潜入の為にハイヒールを買おうとしてデパートの婦人靴の店に行ったら、殆どの靴のサイズが合わなかった。前は24センチで足りたのに、今はそのサイズだと足が全部入らない。
 結局大き目のサイズを扱っている靴屋へ行き、25.5センチでようやく入った。
 だけど本当はほんの少しだけキツイ。日々成長しているのだろう。この足の“本当の持ち主”であるアキラが成長期真っ盛りの少年だったから。
 きっと、もうすぐ私はハイヒールもパンプスも履けなくなるだろう。男性用の大き目の靴を履いて、左右で長さも掌の大きさも違う手で生活しなくてはならないだろう。
 でも、私は悲しいとは思わない。寧ろ弟を身近に感じることが出来て嬉しいくらいだ。本当なら私は死んでいたはずなのに、こうして生きていること自体が奇跡なのだ。手や足のサイズが違うのくらいなんの問題もない。
 包帯の巻かれた右手と左手の人差し指と親指で、重女はもう一度指の窓を作り星空を見上げた。いびつな指の形の窓から見えるのは、先程の天の川とは違う星の並び。天の川はきっと流れていったのだろう。
 そして相変わらず静かで美しい音楽に混ざり、男の声がルカによる福音書を謳うように読んでいた。今はナザレのガリヤラの街のマリヤという乙女の元に御使いがやってきたところだ。

 《恵まれし者よ、おめでとう。主があなたと共におられます》
 《恐れるなマリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです》

 ―――

 ツギハギは、まるで石になったかのごとく動けないでいた。
 ガンプだけは構えてはいるが、それは長年の戦いでの習性であり、半ば生理現象と化しているものだ。
 彼はガンプの引き金を引かない。いや、引く必要がない。
 何故なら、目の前の黒翼を広げし黒い鴉にも似た悪魔が、ヤソマガツヒを圧倒していたから。

 「ふっ!」

 長い足で黒蝿はヤソマガツヒの黄色く醜い顔を蹴った。凄まじい速さの蹴りに露出していた脳髄がびちゃっと音を立てて周りの壁や床に打ち付けられる。
 そして、影を集め作った黒い剣でグラム・カットを食らわしヤソマガツヒの足を一本を残し全て切断する。ヤソマガツヒは甲高い悲鳴を上げ、狂ったように自分の名だけを呼んでいた。あの悪魔は最初から知能なんてないに等しい。ただ人間を狂わす霧を生み出す存在としてここで「飼育」されていただけ。

 「楽しいか?」

 瀕死のヤソマガツヒの足を掴み、黒蝿は問うた。もうピンクの霧は噴出していなく、辺りに充満していたのも今の戦いで殆ど散らされた。ツギハギはガスマスクを取り、悪魔同士の戦いをレンズ越しではなく裸眼で凝視する。

 「人間にペットみたく飼われてよ、餌貰って尻尾振って、“とってこい”ってボール投げられて、お前はそのまま喜んでボール拾っていたんだろうなあ!?」

 びきびき。嫌な音が辺りにこだました。黒蝿が力を込めてヤソマガツヒの足を千切っていた。筋肉の筋がブチブチ切れ、神経や筋線維の糸が千切れ目から顔を覗かす。
 悲鳴。文字通り身を斬られる痛みによる金切り声。聞く者にとって不快な協和音がヤソマガツヒの口から発せられる。

 「ヤ、ヤソ……マ……ガツヒィ……」
 「またそれかよ! もう聞き飽きたぜ! ほらもっと別の事言ってみろ! 痛い、やめてくれって! 痛くねえのか!? それともこうされるのが好きなのか! こうか! こうかよ!」

 ブチブチぶちぶちびきびきびちびち、びちゃ……ヤソマガツヒの蟹のような足の第一関節が完全に千切れた。轟音のような悲鳴が聞こえないかのように、黒蝿は千切った足をつまらなさそうに床に投げる。そうまでされても、知能が完全に退化した哀れな悪魔は自らの名前を狂ったように呼ぶだけ。
 「八十禍津日神」。それがこの悪魔だったものの真名。不浄や凶事を司る邪神の禍々しさは、もう見る影もない。いや、最初からそんなものなかったのかもしれない。誰かに悪魔召喚プログラムで召喚されて、人間に“飼われ”て、ここで違法薬物の発生源となっていた時から。彼は邪神でも悪魔でもなくなった。ただの人間の目的の為の道具である。

 「ほら、助けてくださいって言えよ。おねだりしてみろよ。おまえが人間共にマグネタイトを貰って餌付けされていた時みたいに」
 「ヤ、ヤソ、マ……ガ、ツヒ……」
 「……………ふん、いいだろう。俺達悪魔にはマグネタイトは必要だからな。やるよ」
 「おい……!」

 事の成り行きを見守っていたツギハギが静止の声を上げる。久しぶりに直接口から吸った空気を味わう間もなく、ツギハギはガンプの銃口を黒蝿に向けた。

 「こいつにはまだ聞かなくてはいけないことがある。勝手な事をされては困るぜ」
 「聞かなくちゃいけないこと? こいつを見ろよ。何かを話せるような奴か?」

 言われて、ツギハギは死に体のヤソマガツヒを改めて見た。全ての足を無残に千切られ、ザンにアギに物理攻撃を散々食らわされた悪魔はもう最初の原型を殆ど留めていなかった。いや、たとえ無傷でもこいつには情報を喋らせられない。出会った時からこいつは自らの名しか口にしていない。まるで薬物で廃人にされた人間の様な――
 そこまで考え、ツギハギははっとし、背筋に嫌な痺れが走るのを感じた。

 「まさか――!」
 「……ああ、そのまさかだろうな。どういう手段でかは知らないが、こいつは情報を喋らせないよう、わざと“こうされた”んだろうな」

 先程とは違う痺れがツギハギの身体を走っていった。嫌悪感という電撃が。

 「悪魔を言いなりにして、道具にしていたっていうことか……」
 「ああ。だがな……」

 ぐちゃ、と黒蝿はわずかに残っているヤソマガツヒの顔を踏む。ひぎゅ、という蛙が潰されたような苦鳴がヤソマガツヒの口からこぼれた。

 「それを選択したのはこいつだ。腐っても邪神。抗う術はいくらでもあったはず。それを潔く自害するわけでもなく、最後まで要求を拒否するわけでもなく、ただ人間共の道具兼ペットになることを選んだってわけだ。この邪神、いや、“元”悪魔は」

 かちり。黒蝿の手には銃身が扁平状の銃が握られていた。

 「おい、いつの間に!」

 それが自分が握っていたガンプだと気づき、いつ抜き取られたのかとツギハギは慌てた。
 ガンプの銃口をヤソマガツヒの額に当てている黒蝿の瞳には、なんの光も見いだせない。そこには銃口と同じ深い暗闇がある。静かな怒り、侮蔑、そして少しの哀れみ、それら全てが入り混じった漆黒の闇が。ツギハギは肌が粟立つのを感じた。

 「悪魔にも人間にも、譲れない矜持ってのがある。それを忘れた者は、もう悪魔でも人間でもない、ただの“肉塊”だ。
 誇りも憂いも売っちまった者は誰だろうが関係ない。死ね」

 マズル・フラッシュが瞬き、銃声が響く。悪魔専用の銃弾がヤソマガツヒを貫き、身体が黒い炎に焼かれる。肉体も、魂さえも焼く地獄の業火のようだ。
 “消滅”していくヤソマガツヒだったものを、黒蝿はただ見下ろしていた。そこにはもう怒りもなく、哀れみもなく、何の感情も読み取れない黒い“悪魔”が立っていた。

 ――とんでもねえやつと、組んじまった――

 ツギハギは震える手でガンプをベルトにしまうと、心の中で呟いた。

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