「本当に一人で大丈夫ですか?」

 男の心配そうな声を背後に聞きながら、重女はそっとプラネタリウムが上映されている部屋を抜け出した。

 『大丈夫です。医務室の方向は覚えています。だから一人で行けます』

 重女は包帯の巻かれた右手をさすりながら答えた。
 まだ何か言いたそうな係の男を置いて、重女はいかにも具合悪そうにふらふらと廊下を歩く。
そして角を曲がると、重女はハイヒールを脱ぎ、他の部屋を探すため走った。ストッキングのせいで滑らないようにと、他のスタッフに見つからないように、忍び足にならざるを得なかった。

 プラネタリウム上映は心地よかったが、自分はそんなものを見にここに来たわけではない。このクラブで行われているらしい違法薬物の製造、流通の証拠を押さえなければならない。重女は他の部屋で行われている「リフレッシュ」の内容を知るため、冷たい廊下を走る。
 たしか「リフレッシュ」の内容は軽い運動プログラムに、重女もいたプラネタリウム上映、個人によるカウンセリングなど多岐に渡るが、重女が一番怪しいと思ったのは「心身正調プログラム」だ。
 なんでもそのプログラムは心と体の不調をとるために特別な“施術”を行うらしい。しかしその施術の内容は明らかにされておらず、参加者も一番多いプログラムだった。
 心身の調整と謳っておきながら、実は参加者達を違法薬物漬けにしている可能性が高い。女の勘とでもいうのは意外と馬鹿にできないのだ。

 それに――重女は少し引っかかることがあった。ホールで出されていた「赤玉」という食物。悪魔専用のその食べ物は一体何なのか。違法薬物と関係あるのではないかと読んでいた。
 しかしどうやって赤玉や違法薬物の正体を探る? 闇雲に行動を開始したはいいが、次にどうやって動けばいいか重女は失念していた。

 (そういえば、黒蝿達は、もうここに侵入したのだろうか)

 フジワラやツギハギ、黒蝿が外から、重女が中からクラブの暗部を探るのがこの作戦の主な要綱。と、いっても実質重女が作戦の中心なのだ。当然だ。クラブの中に正々堂々と入れるのは重女ただ一人だけであるから。
 とりあえず、重女は「リフレッシュ」が行われているらしき一つの部屋のドアをほんの少し開けて覗く。
 真っ暗な部屋だった。先程のプラネタリウム室の様に朧げな光すら感じさせない、真実の闇が部屋中に満ちているようだ。
 それでもじっと目を凝らしていると、何人かが寝椅子に身体を預けてぐったりしているのが輪郭だけ見えた。彼らはこの暗い部屋で何をしているのだろう。
 もっと見てみようとドアから身を乗り出した途端、嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔をついた。先程のホールに充満していた甘ったるい胸やけがする匂い。しかしここのはホールのより濃密で、重女は少し嗅いだだけで物凄い睡魔に襲われた

 (な、なに、これ……?)
 
 視界がぐにゃりと曲がり、足元は底なしの沼に落ちたかのようにきちんと立っていられない。頭の奥から闇が襲ってきて、それは重女の全身を支配する。
 眠っては駄目だ。そう理性が叫んでも身体の本能が遥かに勝っていた。重女はその場にくずおれ、気絶するかのように眠りについてしまった。
 眠りにつく瞬間、誰かの黒く光るエナメル質の高級そうな靴を見て、ああ、ドジを踏んでしまった、と思い、靴の持ち主に身体を抱きかかえられる感触を最後に意識を手放した。自分の身体を持ち上げた人物の手は、大きく温かかった。

―――

【クラブ・ミルトン:コンピュータルーム】

 「ここは……!」

 黒蝿達と別れ、上級作業員カードで上の階へ向かったフジワラは、地下一階でコンピュータールームと書かれた場所を見つけた。
 そこは手持ちのカードでは扉は開かない。なので背中のリュックに持ってきた小型ノートパソコンを取り出し、ケーブルをドアの開閉端末に繋ぎ、自作ソフトでハッキングし無理やりドアを開かせた。

 重厚な音が響き、電子扉が開く。そこに現れた光景にフジワラは目を見張った。
 何十台ものコンピューターが左右の壁を占め、無数のコード類が床に錯綜している。すなわちここは「クラブ・ミルトン」の頭脳というわけだ。
 これだけのスパコンや電子機器。ここに違法薬物の生成法などが保管されているとみて間違いなさそうだ。
 フジワラは早速一つのスパコンにケーブルを繋ぎハッキングを試みる。しかし相手もなかなかの強固なシステム。だがここまで来たんだ、負けるわけにはいかない。
 フジワラは自らのハッキングテクニックを全て費やし、なんとか情報深度レベル7まで到達した。

 「さあ、ゆっくり見せてもらうよ」

 エンターキーを押す。しかし映ったのは暗号の羅列。がっくりと肩を落としたフジワラは、またしてもリュックをあさり、自分以上のハッキングテクニックの持ち主を取り出した。

 「ミドーさん、お休みのところ悪いですが、起きてください」

 聖書型コンプを開き、ミドーの名を呼んだ。コンプは登録されている音声を認識し、悪魔召喚プログラムを司るミドーという老人を呼び出した。と、いっても生身の人間が出てくるわけではない。かつて悪魔に魅了された男は今は電脳世界に思念体だけで存在しており、呼び出されたときは荒いポリゴンドットの白鬚のサングラスの老人の映像が現れる。

 〈なんじゃさっきからうるさいのう。今度はなんじゃ?〉
 ゆらり、ゆらりと崩れかけの上半身を揺らすミドーに、「すみません」とフジワラは謝る。

 「でも今は貴方の力が必要なんです。これを見てください」

 自作のノートパソコンのディスプレイをフジワラはミドーに見せた。暗号のプロテクトがかかっており、ここから先は自分の力ではプロテクトを解除することができないということを告げると、ミドーはふふん、と得意げに身体を一回転させた。

 〈私とお前さん、二人がかりならこんなちゃちなもんすぐ壊せるわい〉
 「ほ、ほんとですか!? よし、なら早速取り掛かりましょう!」

 ミドーとフジワラによる暗号解除のための作業が開始された。最初は意味不明な単語と文字の羅列が徐々に意味のある言語へと変わっていく。そのほとんどの作業をミドーが負担していた。さすが悪魔召喚プログラムをつくっただけはある。
 ミドーとフジワラの作業が終わると、ディスプレイには最重要機密が記されていた。フジワラは眼鏡を外し顔と手の汗を拭きながら、ミドーにお礼を言った。
 厳重にプロテクトされていた情報の一番上の文字を、フジワラは声に出して読んだ。

 「悪魔召喚簡易化のための“赤玉”製造プロジェクト?」

―――

 「君は、人間と悪魔が共存することはあり得ると思うかい?」

 いつもの教会。ステンドグラスから柔らかな光が差し込む中、シドが唐突に聞いてきた。
 私は、シド先生の顔を見る。黒い肌に眼鏡の奥の緑色の瞳は、じっと見ていると吸い込まれそう。

 「私は、無理だと思います」

 はっきりというと、シド先生は「何故?」と問う。なぜって、そんなの決まっている。

 「悪魔は人間に害をもたらす存在でしょ? シド先生がそう言ったんだよ。そんなのと一緒に暮らせるなんてありえないよ」

 悪魔。人間を誑かし貶める最悪の存在。私達はこの悪魔の誘惑に決して乗ってはいけないとシド先生に教わった。なのに、何故先生はそんなことを言い出すのだろうか。悪魔と人との共存、だなんて。
 シド先生は私の回答を聞いて満足そうに微笑んだ。

 「そうだね、そう考えるのが普通だ。なら、君は天使となら共存できると?」

 言葉に詰まってしまう。
 悪魔は悪い奴で、天使は良き者。大雑把に言うとそういうくくりになる。だけど、いくら良い者でも全く違う種族の者が一つの世界で生きられるものだろうか。同じ人間だっていがみ合い憎しみ合っているというのに。
 それに――

 「私は………天使が本当に良き者か分からないのです」

 顔を俯けたまま答えたのでシド先生の顔は見えない。だが、少しだけ息を飲む気配が伝わってきた。

 「その……もちろん聖書にはそう書いているし、皆天使は神の遣いって崇めるけど、私にはその神様が良く分からないのです。こんなこと言うと怒られるかもしれないけど、神様って本当にいるのかなって思うんです。その遣いの天使も。だから……」

 「だから、天使とも悪魔とも人間は共存できないと?」

 先生が問う。その言葉には叱責はなく、本当に疑問点を聞いているだけという感じであった。

 「…………はい」

 膝の上で手を組みながら、消え入りそうな声で私は返答する。なんだろう。別に叱られているわけじゃないのに、何故私は居心地が悪いんだろう? やっぱり、私の回答が間違っていたから? シド先生は怒っている? そもそもなんでこんな質問を先生は私にしてきたのだろう。

 「ふむ、大多数の人間はそう考えるし、私もそう思う。所詮天使や悪魔は次元の違う存在。共存なんていうのはどだい無理だと思うよ」

 でもね、とシド先生は続ける。

 「共存じゃなく、我々人間が天使や悪魔を従えることができたら?」

 ばっと、私は驚いて先生の顔を凝視する。シド先生は薄笑いを浮かべ、決して冗談を言っているわけではないとその目は言っていた。
 従える?  馬や犬の様に? 悪魔や天使を? そんなの――

 「無理に決まってます」
 「何故?」

 間髪入れずの問い。私は言った。先程と同じく天使や悪魔は我々人間とは違う世界の存在。それを共存どころか従えるだなんて、おこがましいにもほどがあると。
 その答えを聞いて、シド先生は顎に手を当てゆっくりと頷いた。

 「そうだよね、無理に決まっているよね、“今の段階では”」

 私は首を傾げる。“今の段階では”? まるで将来的に天使達を従えられるとでも言いたいのだろうか。

 「シド先生、なんだか今日は変だよ。どうしてそんなこと言い出したりするの?」

 陽の光が採光窓から十字架を照らし出す。祭壇の一番上にある十字架。それに磔にされている救世主。シド先生の顔は逆光で良く見えない。だけど光のせいで、まるで先生が十字架を背負っているように見える。

 「何故って? それが出来たら私達は神への道を歩むことが出来るかもしれないんだよ」

 陽光がシド先生の顔に陰影をつける。彫刻の様に整った顔立ちを一層強調し、突拍子もない事を言っているのに、まるでそれが本当に出来る事だと思い込ませてしまう。先生の言葉には、そんな力と優しさがあった。

 「しかしそのための手段を、まだ人類は完全に会得できていない。なら、人類はそろそろ禁断の果実をかじる時ではないかい?」
 「禁断の果実?」

 最初の人間アダムとイブがかじったとされる果実? その果実を食べたせいで人は知恵をつけ神に楽園を追放された。その果実を再び齧る? わからない。私にはシド先生の言っていることが良く分からない。いつも優しいシド先生が遠くを見ている。私以外の何かを見ている。

 なんだか怖くなった私は教会から出ようと試みた。だが私の手をシド先生が掴み、そして自らの方へ私の身体を引き寄せ、耳元でこういった。

 
 「君はね、その禁断の果実になるんだよ」
 ―――

 はっと、目を覚ました重女の目に映ったのは、白い天井だった。
 なんの変哲もない白いタイルが組み合わさっている。その天井に埋め込まれた、まるで手術室に置いてあるような大きなライトが重女を暴力的に照らし出す。消毒液の匂いが鼻につく。

 (ここは……?)

 身体が重い。どうやら自分はストレッチャーに寝かされているらしい。でもここは医務室ではない。ここには宗教画はなく、医務室にはでかい手術灯もなかった。とりあえず起き上がろうとしたが、それは果たせなかった。

 何故なら自分の身体はストレッチャーに拘束されているのだから。

 (……! な、なに!? 身体が!)

 スモックのような簡易服を着せられ、ストレッチャーに手足を拘束されている。重女は軽い恐慌状態になった。
 逃げ出そうと腕と足に力を入れる。しかし手首と足首を革ベルトでしっかり拘束されているので身体は自由にならない。

 ここはいったいどこなのか、何故自分は拘束されているのか、黒蝿やフジワラさん達はどうしたんだろう?などと言った思いが錯綜し、重女は酷く混乱した。
 唯一動かせる首を右に曲げると、薄暗い室内灯に照らされ、何人もの若者が重女と同じように寝椅子に拘束されているのが見えた。彼らはぐったりとしていて、口から涎が垂れている。まるで痴呆患者のようだ。
 そしてさらによく見ると、彼らの頭には幾つもの管が刺されている。

 「……!」

 その中には、ホールで出会った赤毛の派手な少女や厳つい少年達もいた。彼らも他の者と同じく半開きの目に開けっ放しの口、そして頭部に刺された不思議な細い管のチューブは、部屋の左右にある大きな冷蔵庫の様な箱に繋がっている。そしてその横に、巨大な試験管のような、液体の入った細長い筒状のものがいくつも並んでいる。
 あれは何だろう? もっと良く見よう、と目を細めて筒の“中身”を見てしまった重女は、胃から何かこみ上げてくるのを感じた。

 それは、赤子であった。
 生まれて間もない嬰児が筒の中でたゆたっている。赤子は目を閉じたまま母の胎内にいるかのように身体を丸めている。赤子の身体や頭にも幾つもの管が刺さっている。あの赤子たちはもう死んでいるというのが分かり、かつて味わったことのない嫌悪感が身体中を支配し、上半身を少しだけ起こし、リノリウムの床に嘔吐してしまった。

 ――まさかここの人たちも、あの赤ちゃんも皆、薬物に……!?

 とにかくここから抜け出さないと。口中にまだ酸っぱい胃液の味がこびりついているのを我慢し、重女は自らの影を操ろうとした。だが影はピクリとも動かない。

 『どうして!?』

 思わずチョーカーから声を出してしまった。それが合図かの様に、重女のベットに複数の白衣を着た医者らしき男たちが集まり、代わる代わる重女の顔を覗き込んだ。

 「ほう……この子かね?」
 「はい。アマラ経絡をでたらめに作り、歴史を改ざんしたのはこの少女です」

 三十代くらいの男が、白衣の医者らしき人物にそう説明する。
 歴史の改ざん、アマラ経絡……。確かに私達は元の世界に戻るためエネルギーの霊道、アマラ経絡を造り何度も時間や色んな国を縦断した。でも、それが何だっていうのだろう。
 男に反論しかけた重女だったが、急に部屋のドアが開いた。

 途端懐かしい香りが重女の頬を撫ぜた。

 ムスク系の甘い香り。違法薬物のようにただ甘ったるいのではなく、“あの人”が常に纏っていた、大人の、男の、香り――――
 脳天に電撃が落ち、記憶の引き出しから一気に“あの人”に関する思い出が台風のように巻き上げられる。銀の十字架をくれたこと、悩みごとをいつも聞いてくれたこと、お菓子をくれたこと、そして、鞍馬山の施設で謎の実験を行っていた、優しくて、強い、ずっと探していた人―――


 「名前は九楼重女。十五歳。家族構成不明、声帯に障害あり。上のクラブでのブラックジャックで、悪魔を使ったイカサマを働いていたことからデビルサマナーであると推測される。仲魔の数、種族は不明」

 “その人”は、穏やかに抑揚のない喋り方で紙に書かれた重女のデーターを読み上げる。どうやら上のクラブのブラックジャックで悪魔を使ったイカサマを行ったことまでばれてしまったらしいが、重女にはその言葉の内容は頭に入っていなかった。
 ただ、その声が、先程のプラネタリウム上映でルカの書を読んでいた優しい声と、記憶の中の“あの人”の声に完全に一致している。そう確信した途端、重女の長いまつ毛が震え、目に歓喜の涙の膜が出来た。

 『シド、先生………』


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