意識が重い沼からゆっくりと浮上していく。身体の感覚はまだ朧気で、水の中にいるようだ。
 水面が近くなっていく。するとなにかくぐもった怒鳴り声が聞こえてきた。

 「ああ!? ……だから……なんだってんだよそれは……とにかくそこは危険だ。今すぐ荷物まとめてこっちにこい。………ああ、その話は後で聞くよ。それとも俺がそっちに行った方がはええか?」

 黒蝿がまぶたを開けると、柔らかな光が頭上から降り注いでいた。同時に自分が全裸で、液体に半身を埋めていること、ドーム型の装置のようなものに自分は横たわっていることを、まだ重い頭で理解した。
 酸素マスクらしきものをとると、ビーッ、ビーッと耳障りな警告音が鳴り、ドームの中の液体は排出され、天井がゆっくりと開いた。
 半身を起こし髪をかき上げる。「……ツギハギ」黒蝿が名を呼ぶと、通話の終わったツギハギが黒蝿の姿を見て目を丸くした。

 「黒蝿……お前目を覚ましたのか」
 「ああ、まだ怠いがなんとか動ける」

 言いながら、黒蝿は影を操り自分の身体を覆う服を顕現させていった。鴉を象った兜以外はいつもと同じ、黒い三伏にも似た服装に身を包む。

 「状況はどうなっている? さっきなにやら揉めていたようだが」
 「お察しの通りトラブルだらけさ。特に重女とかいうお嬢ちゃんがな………」

 黒蝿の形の良い眉がひそめられた。重女。自分の真名を奪った少女の偽名。黒蝿を刺した張本人は、また何かトラブルを起こしたのだろうか。

 「フジワラに聞いても全然的を得ない答えしか返ってこねえ。重女さんが別人になったとか、男に変わったとか意味不明のことばかり喚きやがる。まあヤタガラスの襲撃を受けて精神的に混乱してるんだろうがな………」
 「ヤタガラスの襲撃!?」
 「ああ、フジワラがスクープを提供しようとした会社は、どうやらヤタガラスのフロント企業だったらしい。悪魔召喚師を差し向けられてボコボコにされたらしいが、どうやらあのお嬢ちゃんが刺客を倒したらしい」

 黒蝿の眉間のしわがますます深くなった。低級悪魔相手ならともかく、ヤタガラスの精鋭にあいつ一人で勝てるものなのか? コンプに入れてある仲魔を呼び出すのだってマグネタイトが必要不可欠だし、クラブ・ミルトンでの戦いの後で十分なマグネタイトを手に入れられたとも思えんが………

 「とにかくまずはフジワラの店に行く。黒蝿、行くぞ」

 そういってツギハギは車のキーをちゃらつかせて見せた。車でフジワラの店まで連れていくつもりか。黒蝿は踵を返し「俺は空を飛んで向こうに……」と言いかけたが、ツギハギに首元をひっぱられ強引に駐車場に連れて行かれる。
 「離せ!」
 「なに寝ぼけたこといってんだよ。空なんか飛んだら目立っちまうじゃないか。いいからとっとと乗れ。十分もすれば着く」

 後部座席に半ば黒蝿を押し込め、ツギハギは車を発進させた。
 フジワラの店に着いた頃には、黒蝿の顔色が真っ青になっていたことはいうまでもあるまい。

―――

 フジワラの喫茶店【フロリダ】にツギハギ達が着いた時、中はめちゃくちゃであった。
 机や椅子、ソファーがあちこちに飛ばされている。コップや調味料やその他細々としたものも割れて散らばり、カウンターとドアが半壊していた。まるでなにか大きなモノがぶつかったような……
 殆ど瓦礫といっていい中、二つの人影があった。一つはフジワラ。その姿は着ている服のあちこちが破れ、血のようなものも付いている。顔は殴られたのか酷く腫れて、口の端から血が滴っており、黒縁眼鏡には亀裂が走っている。酷い姿だ。ツギハギは一目見てフジワラがヤタガラスの悪魔召喚師共に暴行されたのだとわかった。

 「……大丈夫か?」
 「大丈夫………て言いたい所だけど、あまりいい状態じゃないね。身体のあちこちが痛い。特に右脇腹と左腕が酷い」
 「見せてみろ」

 ツギハギがぼろ切れ同然になったフジワラのシャツを引き裂き、彼の身体をチェックした。確かに右脇腹が紫色に変わっている。そこを軽く押してみると、フジワラが苦しそうに悲鳴をあげる。左腕も同様に触診したが、反応は同じだった。

 「ううん……恐らく骨にヒビでも入っているか、もしかしたら骨折してるのかもな。この家に救急箱はあるか?」
 「二階に……」

 そこまで言うと、物陰にいたもう一つの人影が動いた。九楼重女と名乗る少女は、立ち上がるとそのまま二階への階段を上っていく。
 そして重女は救急箱を携えて降りてきた。彼女はフジワラの傍に座ると、救急箱から湿布を取り出し、フジワラの右脇腹に何枚か貼る。それから左腕にも湿布を貼り、そこらに散らばっていた箸を三本程集め、添え木代わりにし包帯を巻いたかと思うと、破けたフジワラのシャツを器用に折りたたみ三角巾の形にし、フジワラの左手を包み、端を首の後ろで結ぶ。負傷した左腕を首から布で吊す形になった。

 「へえ……上手いもんだな。どこで習ったんだい?」

 ツギハギが感心して言う。重女は答えようとして唇を動かすが、声は出なく呼吸音しか発しなかった。重女は喉を押さえ、ツギハギを睨んだ後、カウンターに入り無事なコップに水を入れて戻ってきた。そして救急箱から痛み止めの薬を数粒手のひらに乗せ、ずい、とフジワラの目の前にコップと共に差し出した。また唇が動く。当然声は出ないが、ツギハギはその唇の形から「飲め」と言っているのがわかった。
 フジワラは震える手でそれらを受け取り、薬を飲み干す。水を飲んで少しは落ち着いたのか、フジワラはふう、と息を吐き、重女を凝視した。鳶色の瞳には未知のものを見たかのような猜疑の色が窺える。

 「改めて聞くけど、君は重女さんではない……んだよね?」

 重女はこくんと頷いて見せた。ツギハギの顔が険しくなり、思わず重女とフジワラの顔を交互にまじまじと見てしまう。よく見ると重女の顔つきはどこかキツい。口を真一文字に締め、何か緊張しているような、張り詰めたような顔だ。そこには三日前に見た怯えの色もなければ、魂がぬけたような呆然としている様子もなく、あるのは触れれば傷つく抜き身のナイフのような尖った目つきと雰囲気だった。こんな顔つきの彼女は見たことがない。

 「そういや電話でお嬢ちゃんが別人に変わったとか言ってたな。あれはどういう意味なんだ?」

 ツギハギの問いに、フジワラは近くにあった小さめのホワイトボードを差し出した。そこには[おれはアキラ]と荒々しい筆跡で書かれてある。

 「……なんだこれは?」
 「重女さん………いや、『アキラ』君? とやらが書いたんだよ」
 「意味がわからん。どういうことだ?」
 「そのままの意味だよ。今の彼女は重女さんじゃない。『アキラ』という男らしい」

 その時、がたん、と部屋の隅のテーブルが動いた。そいつは重女の仲魔のやたノ黒蝿。車から降りた途端、青い顔で真っ先にトイレに入っていったが、いつ出てきたのか。
 トイレで嘔吐してスッキリしたのか、いつもの顔色に戻った彼は、重女の方に近づく。
 重女も黒蝿に気がついたようで、一瞬目を細めたがすぐに皮肉っぽく片方の口角をあげてみせた。

 『よう、黒蝿。久しぶりだな』
 「!?」

 重女から黒蝿の脳に直接声が届く。しかしその声は聞き慣れた少女の高い声ではなく、変声期直後のやや低めの男の声であった。
 この声、知っている。東のミカド国の王でありあいつの弟でもあり、黒蝿に十字架のペンダントを預けあいつと融合して消えたはずの少年の声。

 「………なんでお前が出てきている……お前は……」
 『おお。お前には俺の声が聞こえるみたいだな。悪魔相手だと聞こえるのか。全く、声が出ないってのは予想以上にめんどいな』
 「お前のマグネタイトは全部吸い取ったはずだ。なのに何故意識が存在している? 答えろ、“アキラ”。お前の姉はどこに行った?」

 ふう、と、重女、いや、“アキラ”は息を吐き、倒れていた椅子の一つを起こし、どっかりと足を組んで座って見せた。まるで玉座に座る王のように尊大に。

 『姉ちゃんは今は深層意識の奥で眠っている。姉ちゃんは罪の意識で自ら消えようとしていた。だから助けようと思ったら、気がつけば表層意識に浮かんで来れた。代わりに姉ちゃんの意識は奥深くに沈んでいった。きっとお前が吸い取ったマグネタイトの残りカスみたいなのが僅かに残っていて、姉ちゃんのピンチにそのカスが集まって俺の人格が復元されたみたいだ』
 「…………………」

 改めてまじまじと目の前の人物を黒蝿は凝視する。そういえば眼鏡をかけていない。あいつは視力が悪かったはずなのに。
 それに胸の膨らみもほとんど無くなっている。まああいつは気休め程度に膨らんでいただけで、バストはあってないようなものだったが。

 『………姉ちゃんを、守ってくれって言ったのに………』

 重女の身体を支配しているアキラが黒蝿を睨み付けながら言う。黒蝿は思わず懐の十字架のペンダントを握った。あの少年が「男の約束」として一方的に寄越した、黒蝿の心を支配する象徴。

 『おまえも一緒だったんだろ? それなのに、なんで姉ちゃんはこんなに傷ついて自分を責めているんだ? なんで消滅願望を抱いて苦しまなきゃいけないんだ!』

 こいつ、記憶はあいつと共有していないのか……黒蝿が何か言おうとしたとき、「あの……黒蝿君?」と遠慮がちにフジワラが口を挟んだ。

 「私たちには聞こえないんだけど、君には重女さんの声がわかるのかい? 重女さんはなんて言ってるんだい? 本当に「アキラ」とかいう人物になっているのかい?」
 「……………………」

 そういえば、フジワラ達と会った時から、重女は咽喉マイク入りチョーカーをつけていた。だから会話には不自由しなかったが、そのチョーカーも恐らくクラブ・ミルトンと共に焼失したのだろう。重女が声を伝えられるのは悪魔相手だけだというのは、フジワラとツギハギは知らない。
 さて、どこから説明したものか。黒蝿は重女の弟のアキラのこと、東のミカド国での出来事、アキラと重女の融合、といったことを順を追って説明した。
 説明が終わる頃には、夕暮れが辺りを覆い始めていた。

―――

 「えーと…………簡単に言えば、重女さんと弟のアキラ君、二つの人格が彼女の身体にあって、今はアキラ君が主人格だと」

 黒蝿の説明を聞いて、フジワラはそう聞いてきた。「まあ、概ねそんなところだ」と黒蝿は答える。フジワラとツギハギは倒れていたソファーを起こし、そこに座している。重女の姿形のアキラと向かい合う形になっている。

 「早い話、二重人格ってことだろ? 話には聞いていたが本物を見るのは初めてだぜ」

 ツギハギがアキラをじろじろと珍しいものでも見るかのように頭の天辺からつま先まで眺めながら言う。厳密に言えば違うが、今の状況を表すには適切な表現だ、と黒蝿は思った。

 「なあ、とりあえず生体エナジー協会に行かないか? ここにいたんじゃまたヤタガラスの襲撃に遭うだろうし、あそこには色々機材が揃っている。お嬢ちゃんの身体と精神を調べるには最適だろうし、フジワラ、お前の傷も治さなきゃならねえだろ?」
 『俺はお嬢ちゃんじゃない。アキラだ』

 アキラの声は当然ツギハギ達には聞こえずじまい。フジワラは「そうだね」と頷く。

 「重女さんの件でゴタゴタしててちょっと長く居すぎたな。早く逃げよう。重女さ……アキラ君、もついておいで。ここは危険すぎる」
 「…………」

 無言で、アキラは黒蝿の方に視線を向ける。黒蝿は、「今はこいつらの言うとおりにしろ。ヤタガラスの追っ手から逃げなくてはならない」と返答した。

 『俺の力なら何人束になろうが、返り討ちにしてやるのに』
 「今のお前の身体は姉貴のだってこと、忘れたか? お前の姉は術も使えなければ、戦闘術も身につけていないぞ」

 少しの間、納得がいかないというように唇を尖らせていたが、ひょい、とアキラは椅子から下りて、『フジワラ、さん。貴重品はどこ?』とフジワラに聞いた。が、相変わらずその言葉は声にならない。フジワラが目で黒蝿に通訳を頼むと、黒蝿は「荷物をまとめるのを手伝いたいそうだ」と伝えた。
 それからフジワラとアキラは荒れた店内を動きつつ荷物をまとめている。ツギハギと黒蝿はずっと無言だったが、彼らの視線は、今はアキラになっている重女に注がれていた。やや大股な歩き方、背筋の伸びたしゃんとした佇まい、身振り手振り。それらは彼らが知っている重女のそれとは微妙に違っていた。あれは武道の心得のある者、命がけの戦いを幾度もくぐり抜けてきた者の仕草だ。

 「黒蝿の。お嬢ちゃんは戻ってくるのかねえ?」

 ツギハギの問いに黒蝿は無言を答えにした。かつて“約束”を交わして消滅したはずの少年の本当の横顔を思い出し、姉である重女の横顔が、その少年のそれと同じになっているのを確認してしまい、黒蝿は苦虫をかみつぶしたような表情を作った。

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