九楼重女――。後にそう偽名を名乗る少女は、
 1960年代前半、ベトナム戦争が勃発し、安保闘争が激化、東京オリンピック開催、ソ連有人宇宙船が地球一周に成功し、アメリカのケネディ大統領が暗殺される等の激動の時代に、神奈川県横浜市の米軍根岸住宅地区の近くの古いアパートで生まれた。

 生まれた時に父はいなく、ただ自分の白い肌と青い瞳が、父が外国人であることを物語っていた。
 母は、米軍の根岸住宅地区の近くのバーでホステスとして働いていた。そこは近くの基地の米軍兵士御用達のバーで、恐らく少女の父ともそこで出会ったのだろう。
 母が休みの日は、少女と母の二人で夜遅くに公園で遊ぶ事が多かった。昼間に公園に行けば、少女の青い瞳は近所の子供達のイジメの対象となる。見知らぬ外国人との間に私生児を生んだ女――母がそう近所の人々から陰口を叩かれ、白い目で見られているのを鋭敏な少女は感じ取っていた。
 夜の公園は暗かったが、母が笑顔でブランコを押してくれる、遊び疲れた自分をおんぶしてくれる――友達は出来なかったが、それだけで少女は幸せだった。

 少女が六歳の時、弟が生まれた。名はアキラと名付けられた。
 目の色は少女と同じ青だったが、アキラは少女の黒い髪とは違う、錦糸のような金髪を持って生まれた。

 アキラが三歳になってから、母は仕事を増やし、前より忙しくなり、家には少女と弟の二人っきりになることが多かった。
 母がいない間、ずっと独りぼっちだった少女に、弟ができた。可愛いアキラ。もう一人じゃないんだ。忙しいお母さんに代わって、私がこの子を守ってあげなくちゃ!

 少女は弟に絵本を読み聞かせ、ご飯を作り、手を繋いでよく散歩に出掛けた。
 近所の子供のイジメは、黒髪の少女より、金髪碧眼のアキラに集中した。
 石を投げてきたり髪を引っ張ったりする子供達に、少女は殴りかかって反発した。全てはアキラを守るため。これらの経験から少女は決して悪童に屈しない反骨精神を身につけた。

 そうして弟の面倒を見、夜遅くクタクタになって帰ってくる母親の代わりに家事を行い、その合間に宿題を行う。ご飯は学校の給食の残りのパン等を貰ってくる。貧乏な母子家庭で、異色の目を持つ少女は学校でイジメにあったが、イジメっ子は全員叩きのめした。その結果益々少女は孤立したが、そんなのは少女にとって些細な事だった。

 少女にとって大事なのは、母とアキラ。それだけが全て。その二人を私が守らなくちゃ。家には父がいないから、私がお父さんにならなくちゃ。もっと強くならなきゃいけない。家の近くの兵隊さんのように強く!

―――

 ある日、アキラと少女が近くの公園を散歩していたとき、それを見つけた。

 アキラとじゃれあって、公園の散歩道から外れて迷子になってしまい、半べそをかきながら見つけたそれは、古い小さな教会だった。
 教会の木製の古いドアを開けると、大きな十字架、貼り付けられた痩せっぽっちの男、色とりどりのステンドグラス、今まで白と黒と灰の色の世界でしか生きてこなかった少女には、その色彩はあまりに強烈だった。

 教会にいた黒人の神父は、シド・デイビスと名乗った。

 シドは、突然入ってきた子供達に怒ることもなく、ただ、二人がお腹を鳴らすと優しく微笑み、少女とアキラにチョコを与えてくれた。
 人から施しを受けたことのない二人は、最初警戒していたが、シドの眼鏡ごしの笑顔を見ていると、不思議と安心し、チョコを貰った。
 そのチョコは、とても甘く、また美味しかった。
 貪るように食べる二人を、シドは微笑みながら見ていた。そして、何時でも来ていい、と言って二人にお土産のチョコまで渡してくれた。

 それから、少女とアキラは学校帰りによくその教会に寄った。

 最初はお菓子を貰うのが目的だったが、シドは決して嫌な顔をしなかったし、寧ろ歓迎してくれた。少女とアキラにとって、そこは家以外で初めて心から安らげる場所となった。

 シドの教えてくれる事は学校の授業より面白かった。

 この世界には神がいて、天使はその使いで、悪魔は神に仇なす悪いやつ、日々口にする食糧に必ず感謝の祈りを捧げること、神はいつも自分達を見守っていること、生きている間に悪いことをすれば地獄に落ち、逆にいいことをすれば天国へ行ける。そんな事をシドは二人の子供に根気強く教えた。

 「でも、神様がいるとしたら、なんで私達は不幸なの?」

 ある日の教会、少女は常々疑問に思っていた事を口にした。
 聖書を読むシドの声が止まる。

 「だって……うちは貧乏だし、お母さんもアキラも私も、沢山意地悪されて……私がこんな変な目を持っているから、アキラがみんなと違う髪と目の色だから、皆意地悪するの? 神様は皆を平等に幸せにしてくれないの!?」

 ぎゅ、と隣の弟の手を握る。他の子より白い肌。みんなとは違う青い瞳。アキラのきらきら光る金髪。
 何故私とアキラがこんな色を持って生まれたのか、理由は明白だ。母はホステスだけをしているのではないと少女は知っていた。

 時々、家に外人の兵隊さんが母と共に来ることがあった。
 外人さんが来ると、少女とアキラは必ず家から出された。その時の母は、酒と香水が混じった臭いがして、子供ながらに、なにか淫らな事をするんだと感じ取ってしまっていた。
 今日だってそうだ、今頃あの家で、母は外人さんと肌を合わせている。私もアキラもそうして生まれたんだろう。
 汚らわしい。母は汚い。昔は優しかった母、柔らかく暖かい背中、頭を撫でてくれた細い手。それが今では男に寄りかかるだらしない女になってしまった。
 家でも酒を呑み、何処にも遊びにつれていってくれない。あんなお母さんなんか、大嫌い!

 「神は平等にいつも見ていてくれているよ」

 頭上から、優しい声が降ってきた。見上げれば、シドが眼鏡の奥の瞳を細めて少女を見ていた。

 「嘘。平等なんかじゃない、だって……」
 「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」

 滑らかに、唄うように発せられたその文節に、少女は魅せられた。

 「父?」
 「神の事だよ。神は人類皆のお父さんなんだよ」
 「私達の?」

 シドが頷く。

 「私達の父は、天にいる。そこで、人間全員を愛している。
 私も、君も、アキラ君も、君達のお母さんも愛している。どんなに罪深い人でも、あるがままに愛してくれている」
 「違う! そんな事ない!」

 少女が食ってかかっても、シドはそっと目を伏せるだけ。

 「君達が苦しい思いをしているのは、神が試練を与えているのだよ」
 「試練?」
 「そう。今、苦しいのは神がわざと意地悪しているんだよ。君達が本当の愛に気づく為に。越えられない試練はない。今の苦しい状況を我慢すれば、神は君達をきっと幸せにしてくれる――」
 「そんなの、嘘!」

 ガタッ、と少女が椅子から立ち上がる。隣のアキラがびくっと身体を震わせた。

 「意地悪する神様なんて、そんなのお父さんじゃない! そんなの間違ってる! そんなのが神様だなんて、父親だなんて、私は嫌、認めない!」

 十二歳になったばかりの、多感な少女は、しかし胸のもやもやを言葉に上手く変換出来なかった。
シドが、困ったように此方を向いている。アキラが、心配そうに姉である少女の袖を引く。

 「……っ!」

 自分の気持ちを上手く言葉に出来ない。その事が無性に悔しく、涙が滲んできた。
 それを見られたくなくて、そのまま少女は教会を飛び出した。

―――

 外は雨が降っていた。

 しとしと、しとしと。雨が、全身に振りかかる。雨が少女の涙を誤魔化してくれた。

 ――違うのに、あんな事が言いたかったわけじゃないのに。デイビス先生の事は好きなのに。先生の言葉は暖かいのに。
 でも、何かが違う。上手く言えないけど、何かこう、あの言葉を聞いたとき、反射的に「違う」て叫んじゃった。
 神は平等? 今の私達は試練を与えられている?
 石を投げられるのも、机に落書きされるのも、悪口を言われるのも、母がああなってしまったのも、私とアキラが他の人と違うのも、神様の試練だというの?

 冗談じゃない、そんな神様認めない、私は絶対認めない――!

 す、と少女に影が落ちた。
 しゃがんでいた少女は後ろを振り返る。そこには傘を持ったシドが立っていた。
 
 「……あ」
 「風邪を引くよ」

 シドが少女に傘を渡す。少女は顔を背けながらそれを受け取る。デイビス先生の顔が見れない。恥ずかしくて。
 シドの隣にアキラが立っていた。金髪碧眼の私の弟。私が守るべき、いとおしい存在――。

 「姉ちゃん」

 そっと、アキラが何かを目の前に出した。キラリと光るそれは、十字架のペンダントだ。

 「……これは?」
 「デイビス先生がくれたの。「お守り」だって。これがあれば悪魔から身を守ってくれるんだって」

 にこにこと笑いながら語るアキラとシドを見比べる。
シドは少女に対して怒ってる様子はない。先程と変わらず微笑んでいる。

 「あげるよ、それ」
 「え、でも……」
 このペンダントは何で出来ているんだろう。随分きらきら光っているが、もしかして純銀製なのか?

 「あの……うち、これを買えるだけのお金がなくて……」
 「これは私からの贈り物だよ」

 少し困ったように肩を竦めてシドは言った。

 「なんで……なんでそこまで私達に……」

 渡されるものには必ず代価が生じる。それが物でも、愛情でも。私はまだ十二年しか生きていないが、それくらいの事は分かる。人が、他人に完全な善意で施しを行うわけがない――。

 「私が君達を愛している。それが理由だよ」

 ぴく、と少女の肩が動いた。

 「愛している?」
 「ああ」
 「……何故?」

 疑心暗鬼な少女の言葉に、シドは黒い大きな手を肩に乗せる。

 「人が人を愛するのに、理由が必要かい?」

 少女はシドの顔を見上げる。デイビス先生の背は大きい。黒い肌、銀の髪、眼鏡ごしの青い瞳。私と、アキラと同じ、皆と違う姿――。

 そっと、黙ったまま、少女は十字架のペンダントを受け取る。そしてそれを首から下げる。

 「姉ちゃん、お揃いだね!」
 アキラが少女に抱きつく。アキラの首にも、十字架のペンダントが光っている。
 お揃い。アキラと、私と、デイビス先生と同じ十字架。皆とは「違う」者同士の印。

 デイビス先生の言葉は全部は信じられないけど、きっとこの十字架を渡してくれたのは善意だから、それは信じよう。これは素直に受け取ろう。

 少女がはにかんだのを見て、シドは満足そうに微笑んだ。
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