『嫌だ!  “僕”に近寄るな!』

 東のミカド国、城内の医務室のベット。そこで頭を押さえているのは、やたノ黒蝿の真名を奪った、「重女」と偽名を名乗っている少女である。
 今日も駄目か。黒蝿は溜め息を吐いた。
 重女は、数日前、弟でありこの国の王であるアキラと共に四大天使を封じ、しかし四大天使の一体であるガブリエルに右手と両足を食いちぎられ瀕死のところを、悪魔合体プログラムにて弟と合体し奇跡的に一命をとりとめた。
 しかしその副作用がいくつか現れてしまった。視力の低下、右手と両足の麻痺などがあるが、一番酷いのは記憶の混濁である。
 アキラと合体したことにより、彼のマグネタイトが彼女の中に入り、それは記憶にまで影響した。マグネタイトは人間の感情エネルギー。そしてマグネタイトには必ず持ち主の記憶と感情が付随する。
 重女とアキラの記憶が混ざり合ってしまい、重女は自身の自我が曖昧になっている。今も“僕”という一人称を使った。今の重女はアキラなのだろう。

 『ここはどこ? おじさんたち誰? “お姉ちゃん”は? “お姉ちゃんは”いつ帰ってくるの?』

 ベットの隅に移動し、重女は自由に動かせる左手で布団を握りしめ身を震わせている。彼女から送られてくる念波は、間違いなくアキラの言葉であった。

 「黒蝿君、重女ちゃんはなんと?」
 「完全に自分を見失ってる。今は自分がアキラだと思っているようだ」

 キヨハルは禿げ上がった額に手を当て嘆息した。

 「せっかくアキラ君が犠牲になって重女ちゃんを助けたというのに、これでは……」
 「何か手はないのか?」

 かつてアキラの仲魔であった雷王獅子丸が黒蝿に問いかけた。手がないわけではない。が、それは黒蝿にとって気が進まない方法である。
 しかしこのままあいつを放っておくのも面倒だ。それに――“約束”もしてしまった。黒蝿は懐の十字架のペンダントに触れる。この持ち主である少年との約束。自分の代わりに姉を守ってくれ、と言い残し、このペンダントを寄越したあいつの弟との。

 「……わかった。俺がなんとかする」

 腹をくくり、黒蝿が言う。その表情はなんとなく憂鬱気だ。

 「なんとかって?」
 「彼女になにをする気だ?」

 キヨハルと獅子丸の問いには答えず、黒蝿は「皆、部屋を出ろ」とだけ言い放った。
 やや不安ではあったが、獅子丸と牛頭丸、キヨハルは医務室を出て行った。自分たちに今の重女を元に戻す方法は思いつかない。なら黒蝿の策に賭けてみるしかない。
 しかし念のため、医務室のドアをほんの数センチ開けておき、そこから成り行きを見ることにした。

 ―――

 ――さて。

 『お、お兄さん、誰?』

 愛想というのにまるで縁がない黒蝿と部屋に二人っきりにされ、重女は更に怯え、布団を身体に巻き付けた。

 「………」

 表情を崩さないまま、黒蝿はベットに近づいた。今は完全にアキラとなっている重女は、黒蝿のことを“怖い男の人”としか認識出来なかった。

 『こ、来ないで!』

 しかし黒蝿は歩みを止めず、ついにベットの端に膝を乗っけた。ぎし、とベットのスプリングが鳴る。

 『い、嫌だ、怖いよう……“お姉ちゃん”、お母さん、誰か……』

 その時だった。

 黒蝿が重女の左手を掴み、強引に引き寄せたかと思うと、そのまま押し倒した。
 何が起きたか分からなく、涙の浮かんだ目をキョトンとさせている重女に、黒蝿は、重女と唇を重ねた。

 ―――

 「!!」

 重女のみならず、ドアの隙間越しから覗いていたキヨハル達も言葉を失った。

 「あ、あやつ、な、なんと破廉恥な事を!」

 獅子丸が怒って部屋に押し入ろうとしたが、キヨハルがそれを制した。

 「待って、黒蝿君を信じよう。彼の事だから意味のない行動ではないはずだよ……多分」

 獅子丸はまだ納得がいかない様子だったが、とりあえずは留まった。しかしなにかあったらドアを蹴破ってでも中に入れるよう身体中の筋肉に力をいれた。
 一方俗っぽい性質の牛頭丸は、密かに聖書型コンプに内臓されているカメラで、中の様子を隠し撮りしはじめた。

 ―――

 「っ~!!」

 身体の上に乗っかている黒蝿を押しのけようとしても、自由に動かせる左手はしっかりと捕まれシーツに押し付けられているし、右手と両足はまだ麻痺が残っている。後頭部はがっしりと手で押さえられているし、そしてなにより、口内に侵入してきた黒蝿の生暖かい舌の動きに、身体中の力を吸い取られていくようで、とても抗えない。

 (まったく、なんで俺がこんなことを)

 深い口づけを続けながら、黒蝿は胸中でごちた。
 別に人間の女と接吻するのは初めてではない。この姿に変えられる前、美丈夫の人間の男に化けて、何人もの女と接吻や性行為を通してマグネタイトを奪った経験がある。
 肉体的接触。それが一番効率よく大量に対象者のマグネタイトを奪える方法だったからだ。
 特に粘膜同士の接触の効果は抜群で、素早くマグネタイトを摂取することができる。それは長い時を生きてきた悪魔である黒蝿が学んだことである。
 黒蝿の舌は重女の舌と絡み合い、そして重女の中に存在していたアキラのマグネタイトを吸い出す。するとマグネタイトと一緒にアキラの記憶まで黒蝿の中に流れ込んできた。

 ――六月六日の姉の誕生日を祝ったこと、学校や近所での自分達家族への侮蔑の視線。暴言。
 いじめられて泣いている自分を庇ってくれた姉、二人だけの秘密基地、母の死、シドに連れていかれる姉の後ろ姿、四大天使との出会い、別世界の東京でキヨハル達と出会い、悪魔を倒し、ついに東京の上を覆っている岩盤の上にたどり着き、そこでキヨハルと一緒に「東のミカド国」という国を建国したこと、王になってからの激務、姉との再会と四大天使との戦い。
 そして自らの身体を有機体に変換させて、悪魔合体プログラムにて姉と合体する直前――記憶はそこで途切れていた。
 黒蝿は悪魔なので、重女のようにマグネタイトを吸っても、そいつの記憶や感情を感じたりしない。しかし、何故かアキラの記憶は激流のように黒蝿の中に入り込み、僅かながら感情も読み取ってしまった。
 人間の感情というのは複雑で、それでこそ美味なのだが、アキラの記憶の中の感情を占めていたのは、一言でいうなら「寂しさ」であった。
 生まれついて皆と違う髪と目の色を持ってしまったことへの「寂しさ」、私生児である姉と自分、そして自分達を生んだ母への周りの視線、排斥の「寂しさ」「辛さ」、母が死んだ時、姉が去ってしまったときの「寂しさ」「悲しみ」――アキラの記憶はそんな感情で構成されていた。
 しかしそんな暗い記憶の中で、まるで太陽の光のように温かい部分があった。それは姉への感情である。
 いつも自分を守ってくれたお姉ちゃん、優しかったお姉ちゃん、再び会えた時の「喜び」「嬉しさ」、そんな姉が瀕死の重傷を負った時の決意……

 ――姉ちゃん、生きて――

 ―――

 ぷは、と銀糸を垂らしながら黒蝿と重女の唇が離れた。重女は目を回して気を失っていた。が、その顔色は先程より血色がよく、恐らく元に戻ったであろう。

 「手間かけさせやがって……」

 口許を拭いながら黒蝿は呟く。これでこいつの中のアキラの記憶は全部吸い取れたはず。ならば今までのような記憶の混濁はなくなるはずだ。そうでなくては困る。

 「終わったのかい?」

 ドアからキヨハルや獅子丸、牛頭丸が部屋の中へ入ってきた。獅子丸はどこか居心地の悪そうな顔で、牛頭丸はニヤニヤと笑いながら、何故か聖書型コンプを手にしていた。

 「ああ。恐らくこれで大丈夫だ」

 ぐらり、と黒蝿の身体が揺れる。と、次の瞬間、人型の姿をたもっていられなく、鴉へと変化した。さすがここミカド国の王。悪魔であるこの俺にマグネタイトの記憶と感情を感じさせ、こんなにも憔悴させるとは。

 「キヨハル……聞きたいことがある」
 「なんだい?」
 「アキラのマグネタイトを吸い取る際、ついでにこいつの内面を覗いたが、こいつは普通にマグネタイトを所有していたぞ。だが手が出せなかった。まるで見えない鎖に雁字搦めにされているような感じだった。何故だ?」
 〔その疑問には私が答えよう〕

 急に牛頭丸の手にしていた聖書型コンプが開いたかと思うと、そこから立体映像のミドーの姿が現れた。悪魔に魅了された男のなれの果ての姿は相変わらずのやや崩れたポリゴンである。

 〔いやあ、先程の熱愛キスシーンはなかなか見ものだったぞい。録画しておいたから、後で見せて、〕
 「それは消せ。今すぐ消せ。いや、それより質問に答えろ。こいつはマグネタイトを生成できないはずだ。なのに何故マグネタイトの気配がある?」
 〔ふうむ……〕

 ミドーは立体映像の姿で、ふわり、ふわりと左右に動いて見せた。考え事をしているときのこいつの癖だろうか。

 〔恐らくおまえさんがその子の名と声を奪ったことに関係があるのだろう〕
 「どういう意味だ?」

 黒蝿だけではなく、キヨハル他、部屋中の皆がミドーの言葉に耳を傾けていた。ミドーは、もったいぶったように続けた。

 〔マグネタイトは人間の感情エネルギーで、人ならざるものがこの世に顕現するための餌。だから人間である限り誰にでもマグネタイトはある。その子も例外ではない。
 これは仮説にすぎないが、おまえさんが名と声を奪ったときの副作用で、彼女のマグネタイトは体内の奥底に縛り付けられたままになってしまったのじゃろう〕
 「だから、こいつは仲魔にマグネタイトを供給できないし、術も使えないと?」
 〔そういうことじゃ。だが利点もあるぞ。マグネタイトが身体から取り出せないというのは、他の悪魔にそれを奪われることがないということじゃ。少なくともマグネタイトを吸い取られ死に至ることはないじゃろうな〕

 成る程、と黒蝿は思った。あいつと初めて出会った時、声と名を奪うだけでなく、自身の能力である影の造形魔法の一部も与えた。それら外部からの干渉が原因でマグネタイトを仲魔に供給できなく、普通の術も使えないというのは納得のいく仮説であった。勿論、だからと言って、名と声を返す気はさらさらないが。

 「よくわかった。……俺は疲れた。しばらく休ませてもらう」

 そう言って、鴉に身を変えた黒蝿は、そのまま黒い風に乗って窓から飛び出していった。後ろでキヨハル達が何か言っていたような気がしたが、黒蝿は無視した。
 ミカド国の空を飛びながら、アキラの記憶の最後の言葉を思い出していた。

 ――姉ちゃん、生きて――か。

 ――全く、これじゃあますますあいつから離れられないじゃないか。少なくともこれであいつを死なせないように守らなければいけなくなってしまった。俺はいつになったらあいつのお守から解放されるんだか。
 ふらふらと空を飛びながら、今はもういない少年の顔を思い出した。彼と交わした「約束」が更に固いものになって、ほんの少し、黒蝿の心を揺らした。

 ―――

 それから、重女は黒蝿の「施術」のおかげで記憶の混濁がなくなり、自我が戻ってきた。
 だが強引な「施術」のせいで酷い倦怠感がつきまとい、数日間寝込むはめになった。

 『ねえ、黒蝿』

 医務室のベット脇に見守るようにちょこんと立っている黒蝿に、重女は横たわったまま聞いた。

 『混乱していた時の事、よく覚えてないんだけど、物凄い悪夢を見た気がしたの。その夢は私のファーストキスが、よりにもよって貴方っていう内容だったんだけど、これって夢だよね?』

 黒蝿は横をむいたまま、重女に顔を見られないよう答えた。

 「ああ、ただの夢だ」


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