往来―all right―別館【俺屍サマナー】

俺屍+デビルサマナー=俺屍サマナーというダブルパロ(クロスオーバー)小説を扱っております。俺屍に登場する神々や鬼を現代で使役していたら・・・という発想で生まれたいわゆる三次創作小説です。俺の屍を越えてゆけと真・女神転生シリーズ(主にⅣ)の設定を独自に融合させて捏造しております。女神転生や俺屍の人物名称や設定をかなり変更しております。こういったのが苦手な方は閲覧をご遠慮下さい。 やたノ黒蝿とサマナーになってしまった少女の物語です。

カテゴリ:俺屍サマナー > 第十章

 重女が深い眠りから目を覚ますと、黒蝿が冷たい目で見下していた。
 ぼんやりとした視界に、眉を寄せた端正な顔が映っている。こいつが無愛想なのはいつものことだが、なんで不機嫌なのだろう?
 そういえば昨日もそうだった。クラブ・ミルトンからの帰りに散々お小言を言ってきて、こっちは凄く疲れているのに「勝手にあの男に協力しやがって!」だの「あの喫茶店への誘いだって罠の可能性がある」だの説教してきて……

 喫茶店?

 「!!」

 その単語を思い出した途端、重女の半分眠りについていた頭は完全に覚醒した。
 がばっと半身を起こす。服装は昨日クラブから帰ったままのブラウスとスカート姿だ。髪はぼさぼさ、化粧を落とさなかった肌はなんだかぴりぴりするし、ブラウスは皺ができ、スカートの裾がめくれて太ももが露わになっている。これじゃあ下着まで丸見えだ! 慌てて裾を引っ張る。黒蝿はそんな重女の姿に動じずじっと睨んでいる。

 『……なんなのよ』
 「もう昼だが……あの男との約束はいいのか?」
 『ええ!?』

 重女は慌てて傍に置いてあった小さな置時計を掴む。そこには十二時五分と表示されていた。

 『もう十二時過ぎてるじゃない! なんで起こしてくれなかったの!?』
 「なんで俺がお前を起こさなきゃいかん」
 『馬鹿! 一時にフジワラさんの喫茶店に行かなきゃいけないのに! 今からじゃ絶対遅刻しちゃう!』
 「俺の知ったことか」

 冷たく突き放した黒蝿は無視し、重女は急いで身支度を始めた。もつれた髪を梳かし、化粧落としが出来る濡れたシートで顔をこする。これで化粧が落とせるのだからこの時代は本当に便利なものが多い。
 次に服。といっても重女の持ち服は今着ている汗が染みこんだブラウスとスカートと、いつもの着古した黒い半袖のタートルネックとカーゴパンツ。待ち合わせに昨日と同じ服を着るか、オンボロのいつもの服にするか……迷った挙句いつものカーゴパンツスタイルにした。こんな古い服を着ていくのはみっともない気がするが、汗臭い昨日と同じ服というのも恥ずかしい。
 黒蝿に後ろを向いてもらい着替えていると、不意に自分の体臭が気になった。昨日かなり汗をかいたまま銭湯にも行かず寝てしまった。当たり前だが結界内にはガス・水道・電気などは通っていない。水は大量に買い置きし、電気は懐中電灯や蝋燭を使うという原始的な生活を送っている。いつも風呂は近所の銭湯に行っているのだが、昨日はもう遅い時間だったのと凄く疲れていたので銭湯に行けなかった。いつも行く銭湯はこんな早い時間にはまだ開いてない。

 『く、黒蝿……』
 「なんだ?」

 億劫そうに背中を向けたまま黒蝿は返事をする。重女はもじもじと恥ずかしそうにしていたが、やがて意を決して聞いた。

 『あ、あのね……私の身体って……その……』
 「ああ、汗臭いな」

 デリカシーの欠片もない回答に、顔を真っ赤にした重女は時計を思いっきり黒蝿の後頭部にぶつけてやった。が、黒蝿はなんで重女が怒っているのかわからないようだった。

 ―――

 〔はい、純喫茶フロリダです〕

 公衆電話から、黒蝿は昨日渡されたマッチ箱に載っていた番号にかけた。三回コールが鳴った後、通話口からフジワラの声が聞こえた。背後から人々のざわめきや静かな音楽が聞こえてくる。

 「昨日会ったやたノ黒蝿だ」

 そう告げると、電話口を覆ったのか背後の音が小さくなる。〔ああ、君か〕とフジワラは声を少しひそめ答えた。

 〔もう一時近いけど、どうしたの? もしかして道に迷ったとか?〕
 「違う。うちのサマナーが寝坊しやがって、今シャワーを浴びている。だからそちらに着くのが少し遅れそうなので電話した」

 そう言うと、黒蝿は目の前にある雑居ビルを見上げた。そのビルの二階には、【漫画、インターネット喫茶「悠々自適」フリードリンク制・個室・シャワー完備!】とでかでかと窓に書かれてある。
 「シャワー完備」の一文字に惹かれた重女は、早速風呂道具一式を持ってビルの中に入っていった。そして黒蝿にフジワラに電話するよう命じた。なんで俺が、と思ったが、重女の咽喉マイクの電子音声では、電話ごしでは酷く不明瞭に聞こえる。なので黒蝿が電話した方が効率がいい。

 〔そうか。昨日は大変だったからね。うん、こちらとしては特に大丈夫だよ。今お昼時で店も満員でね、二時か三時くらいにはだいぶ落ち着くと思うけど〕
 「ならその時間までには行く」
 〔わかった。待っているよ。連絡ありがとう。それじゃあまた後でね〕

 やや早口な口調でフジワラは電話を切った。店の方が忙しいのだろう。あれで本業はフリージャーナリストというのだから、年齢によらずなかなかのバイタルに溢れた男だ。
 今は十二時五十五分。重女が今の時間でも開いている銭湯を求め町中を探し、シャワーが備わっているらしい「ネット喫茶」なる場所を見つけたのが十分前。マッチ箱に書かれてあった純喫茶・フロリダの住所は、ここから電車なら三駅でつける場所にある。二時までには十分間に合うだろう。

 (それにしても……時間に遅れてまでいちいち体臭を気にするかね。人間の女はやっぱりわからん)

 もう抱きなれた諦観の念を顔に滲ませ、黒蝿は電話ボックスの壁に寄りかかりながら重女を待った。
 それから更に十五分後。電話ボックスのドアがノックされる。黒蝿が顔を上げると頬を上気させた重女が立っていた。

 「遅いぞ」
 『ごめん。身元確認で手間取っちゃって。前に作った偽の保健証を出しといた』

 近くに寄った重女からは、石鹸とシャンプーの香りがした。髪が半乾きだ。これでも急いで来たのだろう。

 『よし、これでさっぱりしたし、さあ、早くフジワラさんのところに行こう!』
 風呂道具片手に市電の停留所へ向かおうとする重女に「俺はいい」と黒蝿は拒否した。

 『?  何言ってるの? フジワラさんのところに一緒に行くっていったのはそっちじゃない』
 「行かないという意味じゃない。俺は空を飛んでいくから、電車にはお前ひとりで乗れ」
 『なんで別行動? 目的地は同じなんだし一緒に行こうよ』
 「いい。俺は電車には乗らない」

 頑なに電車への乗車を拒否する黒蝿の様子に、重女は違和感を抱いたが、こんなことで口論している時間はない。無理やり黒蝿の手を掴み停留所へと歩を進めた。

 「おい、離せ!」
 『なに子供みたいなこと言ってるのよ! 空から行ったって場所わかんないくせに。ほら、電車がきた。乗るよ』

 細い手に似合わない強い力で、重女は嫌がる黒蝿の手首を引っ張り、半ば押し込むように電車へと乗せた。

 ―――

 黒蝿が何故あんなにも電車に乗るのを嫌がっていた訳がわかった。

 ――こいつは、乗り物にめちゃくちゃ弱い。

 電車の振動を尻に感じ、桶に入った風呂道具一式を膝に抱え、周囲の客の怪訝そうな視線を浴びながら、重女は隣に座る黒蝿の真っ青な顔を覗いた。
 いつもの彼は不敵な態度を崩さないのに、今の黒蝿ときたら前のめりにぐったりと席に座り、顔は真っ青で床を向いている。まるで試合後の精根尽きたプロボクサーのようだ。

 (悪魔でも乗り物酔いするんだ……)

 いつも自分を叱り、時には馬鹿にされたりからかわれたりしていた重女には、ここまで弱り切った黒蝿は珍しく、また少しだけ愉快に映った。
 悪戯心が鎌をもたげ、重女は黒蝿の肩を少し強めに揺すってみる。すると黒蝿は物凄い形相で重女の手を払いのける。悪態の一つでも言ってくるかと思ったら、何も言ってこなく、ますます青くなった顔を再び俯けただけだった。
 さすがに尋常じゃない顔色の悪さに、重女は同情し念波を送る。咽喉マイクからの機械音声だと周りの乗客の注意をひいてしまう。

 ――ねえ、大丈夫?
 「…………平気だ」
 ――吐きそう?
 「……いや」
 ――どうしても我慢できなくなったら、これに吐いてね。

 重女は膝に置いていた桶を黒蝿の目の前に突き出した。風呂道具一式抱えて乗るなんて恥ずかしかったが、風呂桶がこんなところで役に立つとは。

 「……平気だと言ってるだろう。それより昨日も言ったがフジワラとツギハギには気を付けろ。まだあいつらが完全に味方と決まったわけじゃない」
 ――またそんなこと言って! 黒蝿は疑いすぎだよ。
 「おまえが人を信用しすぎるだけ――」

 その時、キキ―ッと車輪が音を立てて電車が止まる。傍から見れば黒蝿の独り言に聞こえていた話は中断された。
 目的の停留所に着いたのだ。座っていた乗客達は立ち上がり、立っていた者も出口の方へ向かい運転手に料金を精算している。重女も黒蝿の腕を掴んで強引に立たせ、精算の列に加わる。黒蝿はされるがままだった。ただ、相変わらず下を向いて口許を押さえている。
 規定の料金を払い、市電から降りる。すると小さな繁華街らしき場所が目前に広がる。居酒屋やスナックが軒並み店を構えているが、まだ早い時間なので開いている店は少ない。
 黒蝿の手を引っ張りながら重女は「純喫茶・フロリダ」を探した。昨日貰ったマッチ箱には簡単な住所しか書いていなく、土地勘のない二人はすぐに迷ってしまった。人に聞きたくとも誰も通らない。公衆電話も見当たらない。もしかして「けいたい」や「すまほ」があればフジワラさんに電話できただろうか。

 『ねえ、ミドー』

 焦った重女は背負ったリュックからコンプを取り出し、起動させミドーを呼んだ。

 〔なんじゃ? そっちの黒蝿はどうした? なにやら酷く具合が悪そうだが……〕
 『いや、ただの乗り物酔い。それよりミドー、このコンプで「けいたい」や「すまほ」は使える?』

 荒いポリゴンの身体をくるっと一回転した後、ミドーは笑った。もう、こっちは真剣に聞いているのに……

 『真面目に聞いてよ』
 〔おお、すまんすまん。そうか、お主はこの時代の生まれではなかったな。ネット回線をつけろといい色んな無茶を要求してくるのう。今のこのコンプでは携帯のような通話機能はついておらんよ〕
 『やっぱりそうか……』

 がっくりとうなだれる重女に、ミドーがフォローの言葉をかける。

 〔だがしかし、この辺りの地形をスキャンして、簡単な地図を出すことはできるぞい。半径二キロまでならな〕
 『それすごいじゃない! なら、今すぐ「すきゃん」して地図を出してよ』
 〔わかったわかった。年寄りを急かすもんじゃないぞ〕

 言うが早いか、コンプから緑色の線が発生し、重女や黒蝿を透過したかと思うと、辺りの建物へと緑の線が病院のMRIのようにその形状や位置をスキャンしていく。重女達を起点に、約半径二キロに渡り緑の模様が小さな飲み屋街を舐めるように透過していく。スキャンが終わるとコンプの画面に地図が徐々に現れる。詳細な地図が完成すると、上の方に「神舞供町」とこの町の名らしき単語が現れた。

 『かぶきょ、ちょう?それともかぶきちょう……て読むのかな』
 〔恐らく新宿の歌舞伎町を真似たんじゃろう。この地図によると右の路地を真っ直ぐ北にいけば、「純喫茶・フロリダ」があるらしいぞ〕
 『ありがとう。ミドー』

 ミドーに礼を言うと、重女はコンプに記された地図を頼りに神舞供町を歩いた。黒蝿はずっと無言だった。
 やがて町の中でも奥まった場所に、古めかしい喫茶店があった。看板には「純喫茶・フロリダ」の文字。

 『やっと着いた……』
 「…………」

 無言で口を押さえている黒蝿をよそに、重女は首元の咽喉マイクの調子を整えた。『あ、あー……』うん、特に異常はない。
 重女は少し深呼吸をすると、年季の入った木製のドアを引く。カランカラン、とドアベルが心地よい音を鳴らし、来訪者を店の者に告げた。

 「おや、待っていたよ。いらっしゃい」

 木目調の床に壁、そして穏やかな照明。全体的に落ち着いた雰囲気の純喫茶・フロリダのカウンター越しからフジワラが笑顔で迎えてくれる。その時のフジワラの格好は、クラブでのディーラー姿でもVIPルームで会った時の私服とも違う、ベージュのポロシャツに使い込まれたエプロンといういかにも喫茶店のマスターといった格好だ。
 重女は背筋を伸ばし、少し息を吸うと、深々と頭を下げる。

 『約束の時間に遅れてしまい、本当にすみませ……』

 言い終わる前に、重女の後ろから口許を押さえた真っ青な顔の黒蝿がフジワラの元へ走る。ぎょっとするフジワラに、「トイレはどこだ!?」と鬼気迫る声で問う。

 「あ、左の奥の……」

 それだけ聞くと黒蝿は、脱兎のごとくトイレに駆け込んだ。そしてドアを閉めると、思いっきり嘔吐する。その不快な音はドア越しにも聞こえ、フジワラと重女は思わず顔を見合わせた。

―――

 「落ち着いたかい?」
 「ああ、世話をかけた」

 純喫茶・フロリダのカウンターに、重女と黒蝿は座っていた。
 先程トイレで盛大に嘔吐した黒蝿の前には、よく冷えた水が入ったコップが置かれている。コップの水をひと息に飲むと、黒蝿はふう、と息を吐いた。
 まだ青白いが、さっきよりは顔色は良くなっている。

 (まさかあそこまで乗り物に弱いとは……)

 翼で空中を自在に飛び、“ザン”や“アギ”等の術を使い敵を倒してきた黒蝿は、今まで覚えている限り苦戦していた様子がない。いつも余裕綽々で、時には自分を叱咤し馬鹿にしてきた彼が乗り物でここまで弱っている姿を見るのは、意外に思う反面、重女は弱みを握ったような、少し意地悪な優越感のようなものが心に生まれてくるのを感じた。
 だから弱った黒蝿を横目にコーヒーをすすりながら、重女はまたしてもある悪戯を思いついてしまった。

 目の前に出されたフジワラ特製のコーヒーはなかなか美味しい。ただ、重女はブラックは苦手なので、少し多めの砂糖とミルクを入れないと飲めない。最初は縁が僅かに赤みがかった綺麗な珈琲色だったのが、今じゃミルクと砂糖とで、黄土色の甘ったるい飲み物に変わってしまっている。
 重女はカウンターの端にあるソースや醤油などの調味料を置いている小さな盆から、塩を掴んだ。
 昔、海軍のコーヒーには塩を入れて飲むものだと聞いたことがある。それを知った小学生の重女は、家にあったインスタントコーヒーに、砂糖の代わりに塩をスプーン一杯入れよくかき混ぜて飲むと、そのあまりのまずさに思いっきり吹き出した。それは最早コーヒーではなく、塩辛い黒い液体であった。
 本来の海軍式コーヒーに入れる塩は、ほんのひとつまみ程度でいいことを知ったのは、その事をシドに話して笑われてからだった。
 それからコーヒーに塩をスプーン一杯入れるなんて愚挙は犯さなくなったが、今、重女はソルトシェイカーを自分のコーヒーに振って塩を入れている。しかも何回も。
 大分塩を入れたら、よくかき混ぜる。そして隣の黒蝿に『はい、黒蝿。美味しいよ』と笑顔で勧めた。

 「おいおい、黒蝿君はさっき吐いたばかりだよ。コーヒーは胃に良くないよ」
 『でも、フジワラさんのコーヒー凄く美味しかったから、是非黒蝿にも飲んでほしくて』

 媚びるように、やや高い声が出るよう咽喉マイクの音声を意識しながら、自分のコーヒーカップを黒蝿の前に置く。黒蝿はまだ血色の悪い顔でカップを見つめている。
 今の黒蝿は黒い革のコートに、頭にはいつもの鴉を象った兜ではなく黒い鳥打ち帽といったスタイルだ。今は屋内なので帽子は脱いでいて、緑がかった長い黒髪が露わになっている。全身が黒でまとまった黒蝿がコーヒーを飲むところはきっと絵になるだろうな、と自分が施した悪戯も忘れ、重女は脳内にその様子を思い描いた。
 黒蝿は眉を寄せながらカップを持ち、くんくんと匂いを嗅いでいる。もしかしてコーヒーは初めて飲むのだろうか。

 「黒蝿君。無茶してはいけないよ。君はまだ胃が弱っているんだ」

 フジワラの忠告に答えず、黒蝿はじっとカップの中のコーヒーを見ている。

 『ぐいーと飲むといいよ。そうしないと本当の美味しさがわかんないから』

 重女が悪魔的な横槍をいれ、飲むことを促した。
 
 「………」
 
 すると黒蝿は無言のままスプーンでコーヒーを数回かき混ぜると、カップに口をつけそのまま一気に飲んだ。

 「!!?」

 予想通り、というべきか、酷く塩辛い味付けのコーヒーを黒蝿は思いっきり吹き出した。
 吹き出されたコーヒーはカウンターと、フジワラのエプロンと、そして悪戯の張本人の重女の顔にべっとりとついてしまった。

―――

 フジワラと黒蝿に怒りの雷を落とされた重女は、フロリダから追い出され、ツギハギを呼んでくるよう命じられた。
 
 (何もあんなに怒んなくたって……)
 
 胸中でぶつぶつと文句を言いながらコンプの地図を見ながら神舞供町を歩いていると、ツギハギの店はすぐ見つかった。
 ツギハギもここ神舞供町で店を経営しているらしく、その店の名は【セルフディフェンス】というミリタリーショップだ。
 店の前のショーウィンドウには、迷彩服やハンドガンやアサルトライフルなどのモデルガンが展示されている。
 鉄製のドアを引くと、落ち着いた雰囲気のフロリダとは対照的に、ところせましとモデルガンやミリタリー系の服、そして戦車や飛行機などのプラモデルまで陳列されている。

 『わあー……』

 ずっと兵隊に憧れていた重女にとって、この店は宝の山に見えた。
 陳列棚のガラスに展示されているモデルガンを凝視する。シグ・サウエルにコルト・ガバメント、ワルサー・モデルPPに南部式ベビーナンブ、更に別の棚にはMP5サブ・マシンガンにM60機関銃、狙撃銃まで飾られてある。
 重女は記憶の奥底から、家の近くの米軍基地の見張りの兵士が持っていた銃はどんな形だっただろうと思いだそうとした。なんとなくアサルトライフルをもう少し大きくしたような感じだったような……
 次に衣服のコーナーを見る。
 迷彩パターンのジャケットやトラウザース、砂漠用のデザートカモフラージュに黒や茶の軍靴まである。兵士が着ていそうな本物らしきものもあれば、“ミリタリー風”の一般的なシャツやズボンやパーカーにスニーカー、さらには女性用のおしゃれなスカートやブラウスまである。

 (この時代では、こういう兵隊さん風のデザインのカジュアルな服も売ってるんだ)

 その中のいくつかの女性用の服を気に入った重女は、是非買いたいと思いツギハギに声をかけようとした。が、店に入ってから興奮して気付かなかったが、レジカウンターはおろか店内にツギハギの姿はどこにもいない。

 (あれ、どこにいるんだろう?)

 レジカウンターに近寄ると、《ただ今席をはずしております。用のある方はブザーを押してください》との小さな立て看板が置いてあった。
 横にある古びたブザーを押す。ビーッという音が店内に響く。しかし暫く待ってもツギハギは来ない。
 ツギハギの物音を聞き逃さないよう耳をすますと、何やら床下のほうから小さな衝撃音が連続して聞こえてくる。重女はしゃがんで床に耳を近づける。
 ドォン、ドォン、とまるで花火の打ち上げのような音が聞こえる。地下に部屋がある? そこで何が起こっているのだろう?
 重女は遠慮しながらもレジカウンターに入り、奥の部屋に足を踏み入れる。そこには商品が入っているらしき段ボール箱が積まれており、帳簿や須崎家で見た薄いテレビのようなもの――あとで聞いたら、あれは「ぱそこん」というものだとミドーが教えてくれた――が乗っている小さな事務机がある。そしてその更に奥にドアがあり、重女はドアノブを回してみた。
 鍵はかかっていなく簡単にドアは開いた。ドアの向こうには下に向かう階段がある。ドォン、ドォンという音が大きく聞こえる。やはりこの下で確実に何かが起こっている。重女はそう確信し、階段を降りた。

―――

 重いドアを開けると、銃声が重女の耳を聾する。
 地下室は射撃場であった。壁には何挺もの様々な銃がかけられていて、広い空間の奥に的があり、ガラスでそれぞれ隔てられた場所から銃弾を放ち、的に当てる。その中に耳を保護するイヤーマフをかけたツギハギがいた。ツギハギは耳にイヤーマフを当てているせいかこちらに気付いていない。

 『ツ、ツギハ……』

 ズキューン、という銃声が重女の言葉を遮った。ツギハギの銃が火を噴き、弾が的に当たる。弾は的の真ん中に穴を空けた。また撃つ。今度も殆ど同じ場所に穿かれる。銃を撃つ姿は堂に入っており、まるで本物の軍人のようだ。
 彼は確か悪魔召喚師のはず。悪魔召喚師は銃も使えないといけないのだろうか。弟のアキラも銃を撃っていたのだろうか、とアキラが銃を構えるところを想像したが、優しく気弱なあの子が銃を撃っているのはなんとなくちぐはぐな感じがする。

 (それにしても沢山の銃があるけど、ここにあるのは全部本物?)

 重女は壁に飾られている銃に引き付けられるように近づいた。ベレッタ92らしき銃に触れようとしたところ、がしっとその手を掴まれた。

 「なにしてんだお前は!! こんなところで!」

 右手を掴んでいたのはツギハギだった。イヤーマフを外し、縫い目の目立ついかつい顔を怒りに歪ませている。全身から昇る怒りのオーラに気圧され、無意識に重女は身体を後ずらせた。

 『あ、あの……フジワラさんが』
 「ああ!?」
 『フ、フジワラさんが、ツギハギ……さんを呼んで来い、て……』

 ツギハギのあまりの気迫に、情けないことに泣きそうになり電子音声が震えてしまった。掴まれている右手が痛い。

 「フジワラが?」

 そういうとやっとツギハギは手を離してくれた。重女は手をさすりながらツギハギから距離をとる。右手にはツギハギの大きな手形が赤々しく残っている。全く凄い力だ。

 『はい。フロリダにくるようにと。私の仲魔の黒蝿も来ています』
 「……ふん、そうかい」

 ツギハギは射撃所に戻ると、銃から弾倉を取り出し、床に散らばった薬きょうを集め、銃を壁に戻す。そして厳重に拘束具をかける。重女に見せつけるように。

 『あの……ツギハギ……さん』
 「なんだ?」

 ツギハギという渾名で呼んでいいのかわからなかったが、重女はツギハギの本名を知らない。なのでそのまま「ツギハギさん」と呼んだが、ツギハギは特に気にしていないようだ。

 『ツギハギ、さんはいつもこうやって銃を撃ってるのですか?』
 「……まあな。射撃ってのは怠けるとすぐに勘が鈍る。すると悪魔退治に支障が出るからな」
 『でも、ツギハギさんは悪魔を召喚できるじゃないですか。それだけではいけないのですか』

 す、と奥の棚からツギハギは不思議な銃を取り出す。と、いってもあれは銃と呼んでいいのだろうか? グリップと引き金はついているが、銃身がとてもでかい。いや、でかいというより広い。まるで普通の銃の銃身の部分に平べったい板をつけたような奇妙なものだ。

 「これに俺の悪魔召喚プログラムが組み込まれている。GUN(銃)に組み込まれているコンピューターだからGUMP(ガンプ)。これを「SUMMON」(召喚)モードにして引き金を引けば仲魔を召喚できる。
 だがこいつに組み込んだプログラムは、俺がベトナム戦争で使っていた頃からの古いもんだ。改造し何度かバージョンアップし修理しているがいつ使えなくなるかわからん。戦闘時にガンプが敵に破壊される可能性もある。だから悪魔召喚師ってのは仲魔に頼るだけじゃなく自身も戦闘能力を鍛えないといけねえんだよ」
 『ベトナム戦争……』
 「ああ、お嬢ちゃんは歴史の教科書でしか知らないか。俺は昔軍人でな。ベトナム戦争で悪魔召喚プログラムが実用化されたんだ。俺はそのプログラムの実験部隊としてベトナムのある村で戦った。この顔の傷はその時のものさ」

 ベトナム戦争――知らないどころか、重女はまさにその戦争が行われている時代で育ったのだが、それは説明しなくともいいだろう。しかしベトナム戦争に従軍していたというなら、ツギハギは一体何歳なのだろう? 若く見積もっても七十代だろうか。
 まあツギハギの年齢はどうでもいい。それより――

 『その、ツギハギさん。ここの射撃場て、一般人も使えるんですか?』
 「いや、ここは俺が秘密で作った場所だ。正規の許可は受けてない。ここに並んでいる銃も極秘ルートから仕入れたものだ。この事は絶対言うなよ。銃刀法違反でサツにしょっぴかれるのはごめんだからな」
 『はい、絶対言いません。だから、お願いがあります』
 「なんだ?」
 『私もここで銃の腕を磨きたいんです。だから私にもここを使わせて……』
 「駄目だ!!」

 いきなりのツギハギの大声が重女の鼓膜を震わせ全身に行き届く。銃声に勝るとも劣らない音量であった。

 「お前、まだ子供だろう!? 子供が銃なんか持つもんじゃねえ!」

 再び怒鳴られる。が、重女もなんとか萎えそうな全身に力を入れ反論する。

 『わ、私はもう十五です! 子供じゃありません! 悪魔召喚プログラムだって使えます! それにさっきツギハギさん言ったじゃないですか! 悪魔召喚師は自身も戦闘能力を鍛えなきゃいけないって! だから……』
 「馬鹿野郎!! それで銃を撃ちたいってか? 十五なんてまだまだケツの青いガキじゃねえか! そんなガキに銃なんて絶対持たせられねえ!!」

 鬼の形相で先程の倍の音量で怒鳴られ、また泣きそうになったので思わず顔を背けてしまった。何か、何か反論しないと。でも言葉が出ない……。
 言葉を失い俯いている重女をよそに、ツギハギはふん、と顔を背け、ガンプを腰の革の銃帯に収める。そして背を向けたまま、ぽつりと言う。

 「銃を持つってことは、誰かを殺すってことだ。その誰かが人であれ悪魔であれ、俺はお前みたいなガキが銃を持ってる姿を見るなんてもうごめんなんだよ」

 その声音には、妙な湿り気があった。傲岸不遜なツギハギらしくない。
 彼はベトナム戦争に従軍していたと言った。もしかして彼には、余人には計り知れない経験を沢山してきたのかもしれない。それこそ、年端もいかない子供を相手に戦ったり、自分とあまり変わらない年齢の子供を部下にし、敵陣に向かわせたりといった経験があるのかもしれない。

 「わかったなら行くぞ。フロリダでフジワラが待ってるんだろう?」

 ツギハギはカーキー色のジャンパーを羽織り、重女に一緒に来るよう促した。射撃場を出る際、店へと続く階段を昇るツギハギの背中が、重女にはこの時はより一層広く感じた。

―――

 純喫茶・フロリダは通常は夜の十時まで営業している。だが今日は四時で閉店した。大事な話し合いがあるからだ。
 客のいなくなったフロリダには、店主のフジワラと、相棒のツギハギ、重女に仲魔のやたノ黒蝿の三人と一匹しかいない。三人と一匹はテーブル席に座り、テーブルになにやら書類を広げている。

 「よし、じゃあこれから作戦会議を始めるよ」

 ぱん、と手を叩きフジワラが明るく言う。フジワラのソファーの隣にはツギハギが、重女の横には黒蝿が座っている。黒蝿はじろりと重女を睨む。全く、まだ塩入りコーヒーを飲まされたのを恨んでいるのか。

 「とりあえず確認するけど、二日後のクラブ・ミルトンで、VIPカードを手にした重女さんはVIPしか入れないパーティーに招待された。それでそのパーティーは悪魔と人間が集まっている可能性が高い。そのことは合ってるね?」
 『あ、はい』
 「その悪魔の集会なんだが、人間も一緒ってのがどうもしっくりこねえんだよな。悪魔と人間が同じ空間にいたら、そこにいる人間は悪魔に食われちまうぜ」
 「ひょっとしたら、クラブ側で契約している悪魔に招待された人間が供物として捧げられているのかもな」

 ツギハギの疑問に黒蝿が答える。

 「確かにその可能性はあるね。だけどね、私はもっと違う問題が発生していると思うんだ」
 『どういうことですか?』
 「私がクラブ・ミルトンで手に入れた情報によると、その集会はクラブの地下で行うらしいんだ。あそこの地下には大きな施設があるらしく、その施設の一室で集会は行われているんだけど、なんとその集会に招かれた客はきちんと帰っていったんだよ」
 「悪魔と一緒の集会だったのに、そいつらは悪魔に食われなかったってことか?」
 「そう。ただその時の客の様子が変でね。なんというか異様にハイテンションだったんだ。
 パーティーだから多少羽目を外すだろうけど、その客達は目がとろんとしてて、足元もおぼついてなかった。酒に酔っぱらった感じじゃない。まるで何かが頭の中から抜け出たような……なんだか異常に見えたよ」

 フジワラが身を乗り出し語る。パーティーから帰った客が異常な様子だった……それってもしかして……

 「妙なクスリが出まわってるかもしれねえってことか」
 「その可能性はあるね。招待した客達に違法薬物を配ってるってのはあるだろう」
 『あれ? でもそれじゃあおかしくないですか?』

 重女の言葉に男達の視線が集まる。重女は咽喉マイクのチョーカーに触れながら続ける。

 『だってそれだと、ただの違法薬物が出回っているだけじゃないですか。いや、それでも十分駄目ですけど、悪魔は関係ないってことですか? 私達が手に入れた情報によれば――』
 「いや、大丈夫だよ落ち着いて。それでここからが重要なんだけど……」

 フジワラは組んだ足を解き、手を組み膝に乗せる。そしてもったいぶったように続きを話す。

 「その招待された客達は毎週のパーティーには必ず来てたんだけど、ある時を境にパーティーに行くため地下に行ったきり姿が見えなくなったんだ」

 重女は身体を強張らせた。隣にいる黒蝿も、ツギハギも同じく。

 「それとなく他の従業員に客の行方を聞いたんだけど、誰も知らなかった。そもそもVIPのパーティーについては従業員の間では触れてはいけない暗黙の了解があったからね。
 その子達はパーティーが終わる時刻になっても姿を現さなかった。地下の施設からは外に出られないのは私とツギハギの調査で判明している。
 さあ、これをどう見る? 黒蝿君?」

 フジワラは急に黒蝿に話を振った。が、突然の問いにも関わらず、黒蝿は淡々と答えた。

 「何度か違法薬物とやらで客のマグネタイトの質を良くし、食べごろになったら悪魔達が招待客を食っている。そういうことか?」
 「ご明察。私達もそう読んでいるよ」

 まるで答えを当てた生徒を褒めるように、フジワラが朗らかに言った。

 「どうやってマグネタイトを良質化する薬を開発したのかはわからないけど、招待された客達は何度もその薬物を摂取させられ、頃合いになったら皆悪魔の餌になっている。これが私達の見解だ」
 『あ、あの、またちょっといいですか?』

 重女の二度目の質問。つい手をあげた重女に「どうぞ」とフジワラが答える。重女はすう、と息を吸い、チョーカーのスピーカーから電子音声を発した。

 『ええと、それだと、この事件の背後にいる「ヤタガラス」になんの利益もないですよね?
 パーティーに参加費がかかるっていうならともかく、招待はタダですし。そんな手間かけるんだったら、最初に招待客を招いた時に悪魔に食べさせればいいわけですし。違法薬物を作るのだってお金と時間がかかると思うし。組織運営の資金集めが目的の「ヤタガラス」にしてはやってることがちぐはぐだと思うんです』
 「いい質問だね。そこなんだよ問題は」

 うーんと、困ったようにフジワラは首を傾げる。

 「招待客が悪魔の餌食になっているってのは間違いないんだろうけど、やりかたが回りくどすぎるんだよね。
 重女さんの言う通り、最初に客に薬物を大量摂取させ悪魔に捧げればいいのに、何回もパーティーに通わせる意図がわからない。資金繰りに困窮している「ヤタガラス」がお金のかかるパーティーを毎週開催するってのもおかしいし、そこまでしてなんで悪魔の餌となる人間を集めるのか、そもそも悪魔を従わせてなにがしたいのか、そこが謎なんだよ」
 「ま、そこはお嬢ちゃんが潜入して実態を把握すりゃいいんじゃねえの」

 ツギハギが横から口を挟む。いつの間にか彼はビールを飲んでいる。ぷん、と酒臭さを感じ、つい、『私は“お嬢ちゃん”じゃありません。重女です』と苛立って名(正確には偽名だが)を告げた。

 「そうだな。折角苦労して招待を獲得したんだ。潜入計画を練った方がいいだろう。内部に忍び込めば「ヤタガラス」の目的も分かるだろうしな」

 また簡単に言ってくれる! と重女は黒蝿を軽く睨んだ。潜入するのは他ならぬ私なのだ。違法薬物らしきものが出回っていて、更に悪魔までいる所に私は一人で潜入しなければいけない。こちらの心細さを少しは汲んでくれてもいいのに……。

 「そうだね。それじゃあ早速潜入計画をたてよう! まずはこの地図を見て。これは私が独自に捜査して作ったクラブ・ミルトンの地図なんだけど……」

 そうしてフジワラを中心に、クラブ・ミルトンでの“悪魔の集会潜入計画”が話し合われた。
 夕方に始まった作戦会議は、夜更けまで続き、更に翌日も続けられた。全てはヤタガラスの悪事を暴くため、重女達は入念な計画をたてた。

―――

 そしてパーティー当日。
 重女は再びクラブ・ミルトンに来ていた。

 薄く施した化粧に、再び「そふとこんたくとれんず」なるものを装着し、癖のある金髪は美容院で綺麗に整えてもらい、ワインレッドの上品なワンピースを纏い、足元は高さ五センチもあるハイヒール。そして喉には咽喉マイクが入ったミドーとキヨハルが作ってくれたチョーカー。傍から見れば私はきっとお金持ちのお嬢様に見えるだろう。

 (私が計画の要なんだ……しっかりしなくちゃ)

 重女は首からぶら下げている十字架のネックレスを握ると、クラブ・ミルトンの扉を開けた。よし、潜入計画のはじまりだ――

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 「九楼重女さんですね?」
 『はい、そうです』

 重女のチョーカーに仕込んである咽喉マイクから機械音声が発せられる。クラブ・ミルトンの地下にあるVIPホールのボーイはそれを聞いた瞬間、少し目をしばたかせたが、すぐに微笑を浮かべ、重女のVIPカードをスキャンする。
 九楼、というのは勿論偽の苗字だ。「重女」という下の名前は東のミカド国で偽名として咄嗟に名乗ったが、苗字の方は今まで名乗る機会がなかったので偽造する必要がなかった。が、今回の潜入にはフルネームを名乗る必要があったので、苗字を作る必要があった。
 なんという姓にするか迷っていると、フジワラが、

 「“くろう”なんてどう? 仲魔の黒蝿君は鴉でしょ? 鴉は英語で“crow”。だから「九楼」はどうだい?」
と提案してきた。そのフジワラの案を採用し、今日から重女は“九楼重女”という名になった。

 VIPカードのスキャンが終わると、重厚な扉が開く。

 「どうぞ。楽しい夜を」

 ボーイは微笑を崩さず、腰を曲げ手をホールの方へ向ける。重女は履き慣れないハイヒールを踏み出し、パーティー会場へと足を踏み入れた。

 「!?」

 少し気おくれしながら中に入ると、途端に非常に甘い匂いが重女の鼻に届いた。
 そこには巨大なシャンデリアが幾つも天井から下げられており、壁は落ち着いたクリーム色。床には赤い絨毯が敷き詰められており、まるで舞踏会でも開かれそうな広いホールには幾つか飲食のためのテーブルやダンススペースがある。一見するとヨーロッパの貴族の社交場と言った感じだが……

 (……なに? この匂い……?)

 不思議な匂いに鼻と口許を咄嗟に抑えながら顔をあげる。そこには異様な光景が広がっていた。
 異形の姿の悪魔と、重女とそう変わらない年頃の若者たちが共に談笑していたり、激しいリズムの音楽に合わせて一緒に踊ったりしている。まるで上のクラブの規模を大きくしたような感じだが、違うのは悪魔と人間が共にいることと、両者とも異常にハイテンションだということだ。
 とあるテーブルでは、悪魔と少年少女が大声で手を叩きながら大笑いしているし、ダンススペースでは悪魔と人間が滅茶苦茶なダンスを披露している。ダンスというよりただ手足を激しく振り回しているといったほうが正しい。
 そして、会場の人間の表情は、どこか締まらない笑みを浮かべている。近くで笑いながらなにか話している少年と少女の瞳孔は開きっぱなしだ。

 (違法薬物……?)

 やはりフジワラさん達の言っていた通り、違法薬物が出回っている――重女はそう確信した。この会場全体に漂う粘ついた甘ったるい匂い。これが違法薬物の匂いであろう。
 重女はなるべくその匂いを吸わないよう、ハンカチで口と鼻を押さえ、壁際を移動する。と、その時。

 ――姉ちゃん、どこに行くの?――
 「!?」

 急に、頭に声が響いたと思うと、重女の身体がぐらついた。膝をつきそうになるのをなんとかこらえながら、重女は辺りを見渡した。しかし、当然ながら先程頭に響いた声の主――弟のアキラの姿はなかった。

 (幻聴……?)

 薬物の匂いにやられたのか。しっかりしろ、と頭の中で自分を叱咤し、壁に手を突きながらなんとか態勢を直した。

 「お姉さん、どうしたの? 大丈夫?」

 頭上から声が降りてきた。見上げると黒いタンクトップに肩によくわからない模様の刺青が入った、いかつい顔の大柄な金髪の青年が心配そうに重女を見ていた。青年の隣には赤みがかった茶髪の派手な女と、髪を逆立て鼻にピアスをしている少年がじろじろとこちらを見ている。三人とも派手なだけではなく、顔に締まりがなく瞳孔が開き気味だ。他の客と同じく。

 『大丈夫です。ありがとうございます』

 重女が咽喉マイクのスピーカーから応答すると、女がきゃあ、と軽い悲鳴のような声をあげた。

 「ちょっとちょっとなにそれー? 今そのチョーカーから声出たよね?」
 「なになに? もしかしてお姉さん、ロボット?」
 「んなわけねーじゃん。馬鹿かお前!」

 三人が品のない声でげらげら笑う。その笑い声が癇に障った重女はムッとしながら『……昔事故で喉をやられました。だからこれは咽喉マイクです。私はこれで話します』と機械音声で答えた。

 「やっべ! 咽喉マイクだって! まじかっこよくね?」
 「うんうん、なんかターミネーターみたい! 確かいたよね? 女のターミネーター」
 「ばっか、ターミネーターは全身ロボットだっちゅうの!」

 再び起こる意味不明の哄笑。うんざりした重女は三人組を無視し、別の場所へ移ろうとした。

 「おっと待ってよお姉さん、良かったら俺らとあっちで飲まねえ? お姉さんみたいな可愛い子探してたんだー」
 「ちょっと、あたしはどうなのよー?」

 あっち、と指さされたのはソファー席である。その席には、なんと赤ら顔の角が生えた妖鬼・オニと幼虫・モスマン、邪龍・ハクジョウシの三体が酒を傾けている。彼らは人間を襲ったりせず、静かにソファーに座りこちらを凝視している。

 「…………」

 重女は一瞬迷ったが、情報を手に入れるためにこの無礼な三人組に近づいておくのも悪くない。席の悪魔達も敵意を感じないし、ここは彼らに溶け込んでおくのがいいだろうと判断し、『じゃあ、おじゃましちゃおうかな』と作り笑顔で媚びるよう答えた。
 三人組は喜びの奇声をあげ、重女を席へと案内する。

 それにしても先程の声はなんだったんだろう? 幻聴にしては随分はっきり頭の中に響いたし、一瞬幼いころのアキラの映像も浮かんだ。薬物とはこれほどまでにはっきりとした幻聴や幻覚をもたらすものなのか?

 (なら、余計にこの空気を吸うわけにはいかない)

 重女は口と鼻を覆うハンカチを押さえる力を強くし、何故か先程から起こっているこめかみの痛みに耐えながら、悪魔達の待つ席へと向かっていった。

―――

 一方その頃、クラブ・ミルトンより西に三キロほど離れた地点。
 そこには、かつてある新興宗教団体が所有する寺院が建っていたが、その宗教団体はすっかり衰退し、団体は組織解体。この寺院は放置され、今ではかつてのきらびやかな宗教的装飾もさびれ、廃屋同然となっていた。
 その廃屋の寺院に、人影が三つ。フジワラとツギハギ、そしてやたノ黒蝿である。二人と一体は懐中電灯片手に屋内を捜索していた。

 「本当にあるのか? こんなボロイところによ」
 「見つけたのは君の仲魔だろう? ええと、多分この辺りに……」

 その時、ガコン、と何かが動いたような音がした。フジワラとツギハギの視線が音のした方向に向けられる。
 黒蝿が半壊している仏像らしきものを90度右に曲げたらしい。
 すると仏像の後ろの壁がガタガタと音を鳴らしながらゆっくり横にスライドしていく。壁が動く度、微かな風が流れてくる。
 壁が完全に開くと、そこには暗い小さな空間があった。灯りを当てると、さびた梯子が設置してあり下に伸びているのがわかる。どうやら地下に行くための秘密の通路らしい。探していた場所が見つかった。

 「ビンゴ! よくやったよ黒蝿君!」

 フジワラが梯子の下を照らしてみると、かなり下に広い空間がある。やはりここだ。

 「ほら、俺の言ったとおりだったろ?」

 なぜかツギハギが自慢気に胸をそらして見せる。フジワラは苦笑しながら梯子に手をかけた。ひゅうう、と下からかび臭い風が吹いてくる。慎重に手足を梯子につけ降りようとする。
 そんなフジワラをしり目に、黒蝿は梯子など気にせずそのまま下へ降りて行った。
 湿った激しい向かい風が黒蝿の顔を撫ぜ髪や服をはためかせる。かなりの落下速度をものともせず黒蝿は無事着地した。その様子を見て、梯子で降りていたツギハギがひゅう、と口笛を吹いて見せる。

 「さっすが悪魔は違うねえ。俺も現役ならあれくらい……」
 「ツ、ツギハギ! 早く降りてくれ! この梯子はかなり劣化している。もたもたしてると重みに耐えかねて外れてしまう!」
 「おお、悪い悪い」

 ツギハギとフジワラが無事に着地出来たのは、それから数分後の事だった。

―――

 そこはまるで洞窟のような広い空間であった。しかし洞窟と違い、木の柱であちこち補強されていたり、天井に壊れた豆電球が等間隔に並んでいるのは、ここが洞窟等の自然にできた場所ではなく、人工的に作られた場所だということの証左である。

 「やっぱり、君の仲魔が見つけたとおりだったね」
 「だろ? しかしこの二十一世紀にまだこんな防空壕があるとはねえ」

 そう、ここは戦時中に作られた防空壕。ツギハギの仲魔がクラブ・ミルトンの周辺を探っていた時に、廃屋の寺院の下に謎の空間があることを突き止めた。そしてその空間は、三キロ先のクラブ・ミルトンの地下施設の辺りまで伸びている防空壕であることも分かった。
 重女がパーティーに招かれている間、フジワラ達はこの防空壕からクラブ・ミルトンの地下施設に侵入。そこでクラブの暗部を暴くのが主な作戦内容だ。
 黒蝿の後ろには古い木箱や段ボール、そして上の寺院の備品らしきものが幾つも置かれていた。恐らく宗教団体が倉庫代わりに使っていたのだろう。曖昧な笑みを浮かべた何らかの神の像を見て、悪魔である黒蝿は眉を寄せその像を蹴った。ガラガラ、と意外と大きな音を防空壕内に響かせ、神像や木箱が崩れ落ちる。

 「黒蝿君! あまり刺激を与えないで! この防空壕はかなり古い。ちょっとした衝撃で崩壊することだってあり得るんだぞ」
 「わかってる。この先の通路を通っていけばクラブの地下施設に近づけるんだろ? 行くぞ」

 言うが早いか、黒蝿は防空壕の通路を歩いていく。フジワラとツギハギが慌てて後を追う。黒蝿だけなら三キロの距離など低空飛行であっという間につけるのだが、フジワラ達を置いていくわけにはいかない。やれやれ、と嘆息しながら、懐中電灯で通路の先を照らした。
 かなり大きな防空壕らしい。人間どもが互いに戦争していた時は、爆撃を防ぐためにここに避難していたのだろう。もしその戦争に悪魔がいたら、こんな空間あっという間に潰せるのに。
 
 戦争、という単語で、黒蝿はあることを思い出した。

 そういえば、あの忌まわしい「悪魔召喚プログラム」が人間の手によって理論化されたのは70年ほど前の戦争からじゃなかったか? たしか「第二次世界大戦」という戦争中に二人の人間によって理論が確立されたはず。
 そこまで考え、とある仮説が黒蝿の脳裏に浮かんだ。なぜ今まで気づかなかったのか。悪魔召喚プログラムを作れるほどの人間。まさかそのうちの一人は――

 「おい、ミドー。起きろ」

 黒蝿が聖書型コンプを乱暴に開く。重女が潜入に持っていけないということで、黒蝿が預かっているのだ。既に重女の手によって起動状態にあり、一時的に黒蝿が獅子丸や牛頭丸などの仲魔を呼び出せるよう設定を変更してある。
 黒蝿の音声を認識し、コンプの画面に映ったのは、荒いポリゴンドットのコンプ内の主、ミドーという老人である。

 〔なんじゃ? もう着いたのか? 随分早いな〕
 「違う。今向かっている。それより聞きたいことがある」
 〔こんな時になんじゃ?〕

 いつの間にかフジワラとツギハギが後ろからコンプを覗き込んでいた。特にツギハギは興味津々といった様子で、それはコンプか? なんで本の中に入れているんだ? もっとよく見せてくれと言ってきたが、黒蝿は当然無視した。

 「かなり前、俺がこんな姿にされる前に、風の噂で聞いたことがある。俺達悪魔を無理やり呼び出すはた迷惑なプログラムとやらが確立されたと。まさかそれをやったのは――」
 〔ああ、私とスティーヴンじゃよ〕

 ミドーはあっさりと認めた。黒蝿はやや拍子抜けしコンプを持つ手を変えた。フジワラ達は顔を見合わせている。

 〔なんじゃ、知らなかったのか? てっきりアキラからでも聞いていたと思ったんだが〕
 「……随分簡単に認めたな。まあいい。問題はその後だ。そのプログラムを実用化してコンプとやらを作ったのもおまえか?」
 〔そうじゃよ。正確には国からの要請で、プログラム実用化の為の研究チームを作ってスティーヴンと共同で開発したんじゃがな。じゃが私は実用化の為の実験の途中でプログラム内に閉じ込められてしまった。だから私はこんな姿でここで悪魔召喚プログラムを管理して――〕
 「余計な事しやがって!!」

 怒声が防空壕内に響く。ミドーが驚きドット状の身体が一瞬崩れかける。フジワラとツギハギの驚きの視線を無視し、黒蝿は続けた。

 「お前らの組んだプログラムのせいで悪魔の理が崩れたんだぞ! おかげで人間ごときに簡単にこきつかわれる同胞が後をたたない。なんでこんなもん作った!? こんなものさえなければ、異界と人間界の均衡は保たれたままだったはずなのに!」
 「いや、それはその爺さんたちのせいじゃねえよ」

 急にツギハギが話に割り込んできた。黒蝿の殺気だった目を見ながら、ツギハギは腰のガンベルトから銃身が酷く扁平な形の不思議な銃らしきものを取り出した。

 「これはガンプっていってな、銃の中に悪魔召喚プログラムが組み込まれている。この中のプログラムは、ベトナム戦争の時からのものを何度も改良している。
 俺は若い頃軍人でな、ある時上の方から新しい兵器の実験のため召集された。その兵器が、悪魔召喚プログラムが組み込まれたコンピューター、今でいうコンプだよ。もっとも、あの時はこんな銃の形やお前の持っている本の形ではなく、でっかい箱数台におかしなヘルメットつけて起動させるもんだったがな」
 「……それが一体なんの関係がある」

 黒蝿が苛立ち気味に問う。フジワラは神妙な面持ちで静観していた。

 「まあ聞けよ。そのプログラムを作ったってのが、その爺さんが言ってたスティーヴンとかいう有名な物理学者だった。あの時は祖国のアメリカがベトナムでドンパチやらかしてた時だったからな、敵側に勝つための新しい兵器が必要だったんだろうさ。国の命令でその物理学者さんは仕方なくやらされてたんじゃねえのか?」
 「…………だからミドー達を許せ、と?」
 「ま、簡単にいうとそういうこった。俺だって悪魔召喚プログラムなんてわけわかんないもんに関わりたくなかったさ。だが俺は軍人だ。上官の命令は絶対だし、国の為ならどんなことでもしなけりゃなんねえ。俺はたまたまプログラムを起動できたってだけで、強引に実験部隊に入れられて、そしてある村で“実験”させられたんだ」

 ツギハギは語った。自身の過去を。

 彼がまだアメリカの軍人で、ベトナム戦争が勃発中だったころ、ある時軍上層部から実用化前の悪魔召喚プログラムの起動実験の“被験者”として召集命令が下された。
 なんでもその悪魔召喚プログラムという“兵器”は、戦争の勝敗に関わるすごいものだと聞かされていたから、集められた被験者の兵士たちは、自分達は選ばれた者だと喜んだ。ツギハギも例外ではなく、これで昇進も期待できる、落ちこぼれの兵曹の自分がのし上がれる良い機会だ、と被験者に選ばれたことを誇らしげに思った。

 しかし、その兵器は誰もが扱えるわけではなかった。

 プログラムを起動すらできないものが大半で、被験者の中には起動スイッチを入れた途端廃人になったものも多かった。
 そんな中、ツギハギはプログラムを起動できた少数の貴重な被験者の一人として生き残った。
 何故起動出来る者と出来ない者がいるのかは分からなかった。研究者達は前頭葉のドーパミン感受性ニュートン等の神経伝達物質が関係しているんじゃないかと仮説を立てていたが、結局詳細なメカニズムは不明なままだった。
 起動に成功したツギハギ達はプログラムを使いこなす訓練を受けた後、プログラムの性能の“実験”のため、ベトナムのとある村を襲撃する任務が下された。クアンガイ省にある、戦略的に何の価値もない小さな村。そこで悪魔召喚プログラムを使い悪魔を召喚し、村人全員殲滅させよ、という極秘任務であった。

 「在郷軍人が少しいるだけの、女子供や老人ばかりの小さな村よ。そこを俺達の部隊は、夜、奇襲をかけて村人全員殺さなけりゃいけない。悪魔を召喚してな。どんな状況だったか詳しく聞きたいか?」

 黒蝿は黙っていた。フジワラも、コンプ内のミドーも同じく。

 その時の状況は、一言でいえば「地獄」だった。

 軍人ではない女子供まで、自分が召喚した異形の者達が蹂躙し、その身を食らっている。自衛の為に向かってくる者もいたが、そいつらは老人や子供が大半だった。たとえ子供や老人でも、銃を向けられたら軍人として撃たないわけにはいかない。小さな村はツギハギ達の部隊によって、血と肉が飛び散り、断末魔の悲鳴が絶えない地獄絵図に変わった。
 酷いものであった。これなら最前線でゲリラと戦っていたほうまだマシとさえ思える程だ。しかし命令には逆らえない。ツギハギはこの時、こんな事態を招いた自分達のほうが悪魔だと感じ、目の前の惨劇がこの世のものであることが信じられなかった。
 無事“実験”が終わり、悪魔召喚プログラムの実用性が実証されたが、ツギハギは神経を病んだ。戦闘ストレス反応、いわゆる「シェル・ショック」にかかってしまったのだ。
 顔を抵抗してきた村人に刃物で切り付けられ、その傷跡も痛々しい中、無気力状態に陥り、あの村での惨劇が頭から離れられなく、あの時の村人たちの悪魔に食われた悲惨な姿、年端もいかない子供を撃ち殺したときの感触等がフラッシュバックし、軍人としての務めが果たせない状態になってしまった。
 そしてツギハギは部隊を異動させられた。正規軍ではなく、悪魔召喚プログラムの研究の為の極秘部隊に。
 そこで暫く身体と精神の療養兼プログラム使用経験者として身体を調べられたり、プログラム改良のための協力を強いられた。
 研究者達に実験動物のように扱われるのは癪だったが、あの村での任務よりずっと良かった。なぜなら今までと違い人を殺すようなことはなかったから。
 
 そこでは、親を殺され、泣きながら銃を持った子供を撃ち殺さなければいけないようなことはなかった。
 そこでは、悪魔を召喚して悪魔が人を食うところを静観しなければいけないこともなかった。
 そこでは、それらの状況をすべて記録し、報告書を作成し上層部に提出しなければいけないなんてことはなかった。
 
 今までの軍隊生活では考えられないほど穏やかで、自分が軍人であることを忘れてしまいそうになる生活が何年か続き、やっとツギハギが正規軍に復帰できたときには、ベトナム戦争も終結した後だった。敵陣営が結果的に勝ち、祖国のアメリカや同盟国側は撤退を余儀なくされ、事実上の政治的敗戦だったが、もうツギハギは悔しいとも何も思わなくなった。

 「それから暫く軍にはいたが、殆ど悪魔召喚プログラム関係の任務ばかりだったな。命令とはいえ、罪のない民間人を殺したあの実験という名の虐殺は、未だに忘れることが出来ないし、これからも忘れないだろうな」
 「……結局何が言いたい? プログラム制作者には罪はない。悪いのはそれを悪用した人間どもってか?」
 「ん…………まあ、そういうことになるのかな。その爺さんもスティーヴンって奴も、上の命令でプログラムを作ったわけだろ。スティーヴンて奴は未だに行方不明で、噂じゃ用済みになったんで消されたんじゃないかって言われている。
 上手く言えねえけどよ……どんな道具だって使い方次第で人を殺せるし、助けることだってできる。悪魔のお前にとっちゃあこんなもん迷惑かもしれねえけどよ、コンプだって人を助けるために使えるかもしれないだろ? だからその爺さんを責めるのは……」
 「は! そんなの人間側の理屈だな。俺は人間の感傷なんぞ理解出来ないしするつもりもない。なんにせよ、悪魔召喚プログラムのせいで俺達の世界の理がめちゃくちゃにされたのは事実だ。
 悪魔ってのはな、人間以上に理に縛られている。逆に理があるから悪魔の世界の均衡が保てていた。それを人間の都合でかき回されちゃたまらないんだよ!」
 「なら、どうするんだ? その爺さんや俺やあの重女とかいうお嬢ちゃんも、プログラム制作者もコンプ使いの悪魔召喚師も皆殺しにするつもりか?」
 「……もしそうだといったらどうする?」
 「おもしれえ……!」

 黒蝿が翼を広げ自身の影を膨張させ、ツギハギがガンプを黒蝿に向ける。二人の間に殺気立った空気が漂い、強風がおこり、ガンプの引き金がひかれそうになったとき、「はいはいはい! そこまで!」と、フジワラが大きな声と共に二人の間に入ってきた。

 「こんなところで仲間割れしてどうする! 今の任務はクラブ・ミルトンへの潜入だよ! ガンプ降ろして! 黒蝿君も落ち着け!」

 ツギハギがガンプを降ろし、黒蝿も影を収縮させた。一触即発の危機は何とか免れた。フジワラは汗を拭きながらふう、と息を吐いた。

 「この話はこれが終わってからにしよう。長くなりそうだしね。今は潜入のことだけ考えよう。あんまり遅くなると重女さんの身も危なくなる」
 「……ふん」
 「……ちっ!」

 気まずいまま三人が暫く歩いていくと、通路が瓦礫で塞がれていた。地震かなにかで壁が崩壊したのだろう。

 「さて、地図によると、この瓦礫の先に、クラブ・ミルトンの地下施設の壁が隣接している。ここから私達は侵入するわけだが、力任せに破壊するとこの防空壕が崩壊してしまうし、向こうのクラブ側に気付かれてしまう。なるべく最小限の侵入口を開けたいんだが、黒蝿君、出来るかい?」
 「…………」

 不機嫌さを隠そうともせず、黒蝿はコンプを再び開き、「獅子丸、出番だ」と言う。
 するとコンプから大柄な紅い鬣の獅子の半人半獣の男が出てきた。神獣・雷王獅子丸。元は重女の弟で東のミカド国の王でもあったアキラの仲魔。今は姉である重女の仲魔として剣を振るっている。

 「お初にお目にかかる。儂は雷王獅子丸。以後、宜しくお願い申す」

 天井につきそうな大柄な身体を曲げ、目を丸くしているフジワラとツギハギに深々と礼をする。

 「私はフジワラといいます。まったく、黒蝿君の他にもこんな強そうな仲魔がいたなんてね!」
 「……宜しく。ツギハギと呼んでくれ」

 二人の自己紹介に再び獅子丸が再び礼をする。

 「獅子丸。おまえの剣で、この瓦礫を細かく切り刻め。その後、向こう側の壁に人ひとり通れるだけの穴を空けろ。向こうの人間に気付かれないように。できるな?」
 「随分偉そうな口を聞くようになったな黒蝿の。我が主の命がなければ、切り刻むのはお前の方だというのを忘れるなよ」

 獅子丸が腰の長刀の柄を握ったかと思うと、次の瞬間目にも止まらぬ速さで抜刀し、凄まじい速さで瓦礫をまるで野菜を切るかのごとく細かく切り刻んでいく。気が付けば瓦礫の山は細かい石屑の山へと変わっていた。
 そして次に居合の姿勢をとり、長刀が一閃した。刀の白い光跡がフジワラ達の瞼に焼き付き、いつの間にか壁に人ひとり分の穴が切り取られていた。
 かつてアキラの剣の指南役として、また最強の仲魔として活躍してきた神獣の名に恥じない剣さばきであった。

 「すごい……!」

 フジワラが感嘆の言葉を吐く。ツギハギも口をぽかんと開けたままである。

 「これで満足か? なら行くぞ」
 「待て。儂はどうすればよい? この穴だと儂には小さすぎるが……」
 「お前はコンプで待機。用があればまた呼ぶ」
 「なにを!」

 反論しかけた獅子丸を、黒蝿がコンプに収納する。そして「行くぞ」とフジワラとツギハギを穴へ入るよう促した。フジワラとツギハギ、そして黒蝿が穴をくぐり、クラブ・ミルトンの地下施設に侵入した。

 ―――

 穴の向こうは今までの土でできた防空壕と違い、コンクリートの壁の現代的な部屋であったが、そこは倉庫のようで、無人であった。成る程。だからここから穴を空けて侵入すると言っていたのか、と黒蝿はフジワラの計画の意図を理解した。
 開けた穴を倉庫内の手近な物で塞いだ後、「さあ、これからが本番だ。もう一度ルートを確認するよ」とフジワラが地図を開き、侵入ルートの説明を始めた。

 それを聞きながら、黒蝿は重女の事を考えていた。あいつ、きちんと溶け込んでいるだろうか、悪魔と戦うなんて事態にはなってないだろうか、と考え、ふと黒蝿はそんな心配をしている自分におかしくなった。

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 【クラブ・ミルトン:VIPホール】

 「そいつはマジでウザいな。じゃあ俺がいっちょしめてやるよ」
 「やだ~オニちゃんてば! オニちゃんの姿見たらあいつ泡吹いて気絶しちゃうってぇ!」
 「ハクジョウシさんさ、今度俺らと合コンしようぜ! ユキジョロウさんやアプサラスさんとか美人の悪魔誘ってさ、俺らも適当なメンツ集めとくよ」
 「あらあら、素敵な殿方でないと嫌よ」
 「勿論イケメン揃えておくよ。モー・ショボーちゃんやナジャちゃん呼んでくれると嬉しいな~」
 「何お前、ひょっとしてロリコン?」

 げらげらと笑う男たち。相手に身体を密着させて媚びるようにしなだれてみせる女。それら人間達の挙動に、悪魔達は反発することも襲い掛かることもせず、同じテンションでお喋りに乗じている。まるで友人のように。

 「………」

 重女はソファーの隅っこで、一人ミルクを飲みながらテーブルの様子を観察し続けた。
 相変わらず不思議な甘い香りは漂っているし、こめかみの痛みも消えない。ハンカチで口と鼻を押さえ、なるべく空気を吸わないようにしているが、全く息をしないなんて不可能だ。少しづつではあるが確実にこの妙な香りを肺に入れてしまっている。
 しっかりしなくては。自我を失うようなことがあっては駄目だ。今のところ意識ははっきりしているが、こめかみの痛みは段々と強くなっている。これはやはり違法薬物の匂いのせいだろうか。

 「ねえ~オニちゃん……やっぱあたしって魅力ないのかなあ?」

 甘えるように女が言うと、何を思ったか両足を妖鬼・オニの膝に乗せる。短いスカートが太ももまでめくれ、下着が見えそうだ。

 「おおう、こんないい女放っとくとはよ、お前の周りの男共は見る目ないな」

 オニが赤く大きな手で太ももを撫ぜる。女は妖艶にふふっと笑い、両腕をオニの太い首にまわす。
 それを見た瞬間、重女の頭に痛みが走り、一瞬目の前に別の光景が広がった。
 幼い頃、こっそり母の勤める店に行き、そこで客である米兵に母がしなだれかかっている光景が。

 ――ここに来ちゃいけないって言ったでしょ!

 「!?」

 またしても幻聴が聞こえた。それは先程のアキラのとは違い、母の叱責の言葉であった。

 店に来てはだめ、いい子だから一人で留守番できるわよね? と母は夜、仕事に行く前に重女によく言い聞かせていた。
 幼い重女は頷き、一人で布団に入る。だが夜にひとりぼっちは怖いし寂しい。もしかしたらお化けが出てくるんじゃないかと思いトイレにもいけない。
 あまりにも心細く寂しかった重女は、一度だけ母の勤めている店へと行った。夜道も暗くて怖かったが、あの狭い部屋で一人で寝るのよりはマシだった。
 母の店は家からそう遠くない米軍基地の近くにあるバーだ。こっそり従業員用の裏口から侵入した重女は、小さな身体を屈め、店の中を除いた。
 暗い照明の中、ムーディな音楽が流れ、男の人と女の人が一緒のソファーや席に座り、お酒を飲みながら楽しそうになにか話している。お母さんはどこ? と重女は目を皿のようにして母を探す。
 見慣れた横顔が視界に映る。お母さんだ! 思わず駆け寄ろうとして足が止まった。母が、隣に座っている外人の男の人の腕をとり、そのまま頬にキスをしたからだ。

 キスをされた外人さんはにやつきながら母の肩を抱く。白い頬には母の口紅の痕が赤くスタンプみたく残っている。

 母は仕事が休みの日や機嫌の良い時には、重女と一緒に布団に入って、おやすみのキスをふっくらした重女の頬やおでこにしてくれる時があった。それだけで重女は幸せな気持ちになりよく眠れるのだ。例え自分が寝入った後、こっそり仕事に行っていたとしても、その時だけは重女は寂しさも心細さも感じず、母の愛を感じぐっすり眠れた。
 今の母のキスはそれとは違う。自分を寝かしつけるためにしてくれたキスじゃない、もっと爛れていて汚いものだ。毒々しい赤い口紅のスタンプを見て、重女の幼い自制心が決壊した。
 気が付けば、いつの間にか重女は泣きながら母の元へ走っていた。
 ぎょっとした客や他のホステスには構わず、一直線に母の膝に抱き付き、そのまま声を張り上げて泣く。母の身体からはねっとりとした甘い香水の匂いがした。

 「なんでおまえがここにいるの!? ここに来ちゃいけないって言ったでしょ!」

 母が重女の顔を上げさせ、柔らかな頬を両手で寄せながら怒る。口紅が剥がれかけている。さっきのキスのせいだ。

 ――ねえ、なんで? どうして外人さんにはキスするのに、私にはしてくれないの? 最近全然してくれないじゃない。お母さんが優しくほっぺやおでこにキスしてくれたら、一人でも平気で眠れるのに。

 結局、その日はバーの店長に車で家まで送ってもらった。母は一緒に来てはくれなかった。
 あの後、偉い大人の人に母は怒られ、逆に重女は客の外人さんから憐れみの視線を向けられ、お母さんがいなくてひとりで寂しかったんだね、と頭を撫でられ、母に札束を渡していた。これでおもちゃでも買ってあげなよ、とカタコトの日本語で話す外人さんに、母は嬉しそうに抱き付いていた。私を抱きしめてはくれなかったくせに……。

 それから重女は一人で眠れるよう幼いなりに努力した。
 だけど瞼を閉じると、あの時の外人さんにしなだれがかる母の姿と、禍々しい赤の口紅のスタンプが瞼の裏に映り、胸の奥から寂しさではなく、未知の生き物を見たような得体のしれない感情が沸きおこり、眠気がふっとんでしまう。
 だから重女はよく夜に本を読んだ。絵本は勿論、母の愛読の婦人誌や漫画まで家にある本は全て読んだ。 読み終わったらもう一度読み返す。そうしているといつの間にか眠気が襲ってきて、気が付いたら眠っている。
 そんな事をアキラが生まれるまで繰り返していたら、就学前には平仮名は勿論、簡単な漢字も読み書き出来るようになっていた。でも母は褒めてくれない。アキラが生まれたことで、子育てで余裕がない母は以前にも増してあまり構ってくれなくなった。
 お母さん、前は優しかったのに、どうして今は遊んでくれないの? どうして一緒にいてくれないの? アキラは可愛いけど、やっぱり独りぼっちは寂しいよ――

 「重女、暗い顔してル。誰かニ意地悪されタ?」

 はっと、重女の遊離していた意識が戻った。そこは六畳一間のアパート、ではなく、きらびやかなホールで、自分は幼児から十五の少女に戻っており、豪奢で柔らかなソファーに座っている。

 (いけない! 私、意識が飛んでた!)

 ぼんやりとした頭を激しく振り、目の前にあったグラスの中身を一気飲みする。甘い炭酸の刺激的な味が舌の上を走り、頭の奥がかっと燃えるように熱くなった。

 「それ、おいらのコークハイ。お酒、ダイジョブ?」
 『え?』

 手に持っていたグラスを見ると、確かにそれは重女の頼んだミルクのグラスではなく、アルコール用のグラスだった。重女の向かいのソファーには、幼虫・モスマンが座っている。どうやらモスマンのコークハイを飲んでしまったらしい。

 『ご、ごめんなさい!』

 慌てて頭を下げると、「いいヨ。おいら、ジツはお酒あまり好きジャナイ」と赤いつぶらな瞳をしばたかせ、不思議な模様の蝶のような羽根をパタパタと動かし、細い糸のような手を振る。そして、その手でテーブルに置かれた大きな皿から、山と積まれた赤っぽい色の玉の菓子らしきものを掴んで小さな口に運ぶ。
 慣れない酒を飲んでしまい、全身が熱く頭がくらくらするのを感じながら、その不思議な玉状の食べ物を凝視する。
 チョコボールだろうか? しかし色が赤黒い。まるで理科の教科書で見た静脈の血の色だ。大きさは正露丸より一回り大きい。その菓子と思われるものは、人間達は手をつけず、モスマンやオニ、ハクジョウシがスナック菓子でも食べるかのように口に次々と入れている。
 あれはなんだろうと思い、重女もその丸い菓子らしきものに手を伸ばす。すると突然手の甲が叩かれた。

 『いたっ!』
 「これ、人の子。お行儀が悪いわよ。“赤玉”を食むのは悪魔のみ。あれは人間が口にするのはマナー違反よ」
 『赤玉?』

 叩いたのは邪龍・ハクジョウシ。袖の長い着物から白魚のような指先で、“赤玉”と呼んだ丸い食べ物を口に運ぶ。それに続くようにオニが大きな片手いっぱいに“赤玉”を掴み、ぼりぼりと口に入れて咀嚼する。モスマンは相変わらずマイペースにぽいぽいっと“赤玉”を口に放り込む。

 「重女っち、“赤玉”食べようとしたの? だめだよ、あれ、うちらは食べられないみたいだよー」

 女がフライドポテトをくわえながら話しかけてきた。相変わらず足をオニの膝に乗っけている。

 『どうして?』
 「んー……なんかあれ、悪魔専用の食べ物みたい。あたしも一回食べようとしたらオニちゃんに怒られたの」
 「当然だ。“赤玉”を嗜むのは悪魔のマナー。あれがあるから俺達はここにいられるんだぜ」

 オニはそういうと、女と重女に見せつけるように“赤玉”を何個か口に入れてわざとらしく咀嚼音を響かせる。 オニのいかつい顔が一瞬うっとりとした恍惚の笑みに変わった。

 「ね、あんな美味しそうな顔されちゃあ、やっぱ気になるよね? どんな味なんだろ?」

 女がすねるように唇を尖らせる。確かに悪魔にとっての美味の食べ物とは、一体どんな味で、何で出来ているか気になる。

 「あたしもオニちゃんに聞いたことあるけど、何で出来ているのかはオニちゃんも知らないみたい。でも味はなんていうか、珍味っていうか、癖になる味みたい。そう言われたら食べたくなるよねー」

 でも、と女がオニの膝から足を下ろし、重女の方へ身体を乗り出す。そして耳元に口を近づけ小声で囁く。

 「前に興味本位で“赤玉”食べちゃった子がいたのよ。すると周りのボーイや警備員が凄い顔して駆け寄ってきて、その子、どこかに連れてかれちゃったの」
 『連れてかれた?』

 重女も小声を意識し、咽喉マイクのスピーカーの音量を下げる。女は「そうなの」と小声で答える。

 「まてどくらせどその子は戻ってこないから、あの子はどこに行ったんですかってボーイに聞いたんだけど、そしたら「あの方はルール違反を犯しましたので、VIP会員の権利をはく奪されました」だってさ!
 ここでは人間が“赤玉”食べるとVIP会員じゃなくなって追い出されるみたい。折角こんな楽しい場所に入れるようになったのに追い出されちゃたまんないよね! だから重女っちも、あれ、食べちゃダメだかんね」

 赤玉を食べた人間はVIP会員じゃなくなり、ここを追い出される。成る程、それがここのルールか。『わかった』と返しながら、重女はまだ熱の引かない頭で考えた。
 悪魔は人間の食べ物や飲み物を平然と口にしているのに、悪魔専用の食べ物まで用意しているのはただ単にサービスの一環? それにしては人間がその“赤玉”とやらを口にするだけでVIP会員の権利がはく奪されて出入り禁止になるのはちょっと厳しくないだろうか? “赤玉”は人間にとって毒なのだろうか?

 「あ、で、こっからが怖いとこなんだけど」

 女がますますこちらに身を近づけてくる。大きく開いた襟元から豊満な胸の谷間が丸見えで、重女は目のやり場に困った。

 『なに?』
 「その子ね……家にも帰ってないみたい……“行方不明”てやつ?」

 ざ、と首筋から手にかけて鳥肌が立った。女も同じようで、腕をこすりながら続ける。

 「そんなに親しい子じゃなかったけど……でもそんな話聞いたら怖くなっちゃうじゃん……もしかしたらやっぱり悪魔と仲良くするなんて無理なんじゃないかって思っちゃうよ」
 『そう言えば、貴女達はここで悪魔と一緒にいるのに、怖いと思わないの?』
 「そりゃあ最初に来た時は超怖かったけど、悪魔ってめっちゃフレンドリーだよ! それにここに来ると身体も頭も軽くなって、なんか楽しい気分になっちゃって、そんなこと別にいいじゃん! てなっちゃう。話して見たら意外と悪魔って紳士的で優しいし面白いし、その辺の男よりよっぽどいいよ!」

 そう言うと女は、ハクジョウシに群がっている二人の男を一瞥すると、オニの広い胸板に抱き付く。オニもまんざらでもないようで、機嫌良く女の肩を抱く。

 「まあな。こんな可愛い女を食おうだなんて思わねえよ。“赤玉”もあるしな」
 「やだもう! オニちゃんてば!」

 女が軽くオニの胸を叩く。するとなんとそのままオニと女はキスをしはじめた。

 「……!」

 ズキン、とこめかみがまた強く痛む。すると目の前のオニと女が、幼いころに見た外人と母の姿に変わる。

 “母”が客の“外人さん”と抱き合い、直接キスしている。“母”の腕は“外人さん”の太い首に巻かれ、“外人さん”は“母”の腰から太ももを撫ぜる。“母”と“外人さん”のキスが深いものに変わり、赤い唇から長い舌が出て、互いの舌と絡み合う。ぴちゃぴちゃ、いやらしい音。二人とも愉悦の笑みを浮かべている。
 これは幻覚だ、落ち着け、と頭の中で何度も唱えるが、目の前の“母”の幻覚は消えない。そのうち“母”と“外人さん”の身体が溶け合い、ぐにゃりと混ざり合い、別のものへと姿を変える。

 ――外人~! ほら英語喋れよ~!
 ――目の色青くて気持ち悪いんだよ! 近寄るな!
 ――ほらあの子よ。あそこの奥さん、米軍基地の兵士と寝てお金稼いでるんでしょ?
 ――まあいやらしい! あの姉弟、どこの馬の骨ともしれない外人との間にこさえた子達でしょ?
 ――汚い!
 ――変な目の色!
 ――お前の弟の髪、まっきんきんで気色悪いわ!
 ――父無し子!
 ――売女の子!

 それは近所の口性のない住人の声でもあり、学校の悪童の罵声でもあった。

 溶け合った物体は重女やアキラ達を迫害してきた者の姿に変わり、脳内に散々かけられてきた悪意ある言葉がフラッシュバックする。侮蔑の視線、中傷、それらがもたらす不快な記憶。嫌な記憶、辛い記憶、悲しい記憶、そして――怒りの記憶。

 ねえ、なんで? なんで目や髪の色が違うだけでこんな目にあわなくちゃいけないの? 父親がいないのがそんなに悪い事? お母さんは頑張っているのに、アキラはこんなに良い子なのに、何故みんないじめるの? 何故陰口ばかり叩くの? 一体私達がなにをしたの――!?
 許さない。私を、私達を傷つける奴は絶対許さない! アキラやお母さんを殴るなら、殴り返してやる!! 私は負けない! 必ずこの手でお前たちを――

 「きゃあ! 重女っち、手から血が出てるよ!!」

 女の叫び声で意識が戻った。歪んだ視界も元通りになり、外人と絡み合う母の幻影は無くなり、目の前にいるのはソファーに座った妖鬼・オニと心配そうにこちらを見ている派手な女の姿だ。

 『………血?』
 「ほら、右手にグラスの破片が刺さっている!」
 「うわ! ほんとだ! いたそ~……。重女ちゃん、いきなりグラス叩き割ったからね」
 「も、もしかして、酔い過ぎ? それとも“決まり過ぎ”?」

 言われて初めて重女は自分の右手を見た。確かにガラス片がいくつも刺さってて、血が流れテーブルや床に滴っている。テーブルには割れたグラス。そう認識した途端痛みが遅れて襲ってきた。結構な深手なのに、何故かそれほど痛いとは感じなかった。

 女の叫び声を聞き、ボーイがこちらに数名駆け寄ってくる。他のテーブルの悪魔や人間もこちらを凝視している。踊っていた人間達も何人かこちらに視線を寄越す。
 ボーイが重女の右手からガラス片を抜き、応急処置としてタオルを巻き、テーブルの上の割られたグラスの欠片などを片付けているのを、重女はぼうっと他人事のように見ていた。

 ――またしても幻覚と幻聴! やっぱりこの違法薬物の香りが原因なんだ!

 徐々に痛みが強くなってくる右手を握りしめたいのを堪え、重女はまたしても香りにやられ自身を制御できなかった自分に苛立ち、落ち着くために十字架のペンダントに触れ、ふう、と息を吐いた。

 (だけどこれではっきりした。この甘い香りは確実に違法薬物のもの。恐らくはこのホール中に噴霧している……!)

 医務室へ案内するというボーイのあとに続くため、重女は右手を押さえながら席を立つ。

 『ごめんね。すぐ戻るから』
 「うん、待ってるよ~」
 「もうすぐ「リフレッシュ」の時間だから、それまでには戻っておいでよ!」
 『リフレッシュ?』
 「うん、重女っちは初めてだよね? 十二時になると、別室で「リフレッシュ」の時間になるの。内容は来てからのお楽しみ!」
 「すげー気持ち良くなるからさ、重女ちゃんも一度体験するといいよ」
 「ああ、あれはいいよなあ。なんちゅーか、嫌なことぜーんぶリセット出来るっていうかさ」

 もっとその「リフレッシュ」の事について聞きたかったが、ボーイに促され、半ば強引にホールから医務室へ連れ出された。
 ホールから出ると、あの甘ったるい匂いがしなくなり、廊下には清潔な空気が満ちていた。重女は何度も深呼吸をし、体内に溜まっているであろう薬物を吐き出すよう努めた。効果があるかは分からないが。

 「出血はおさまりましたね。あとは消毒して包帯を巻いておきますから」

 クラブの医務室は小さな部屋で、専属の医者らしき男が治療をしてくれた。医務室らしく、包帯やガーゼ、絆創膏、消毒液、その他急な病気やケガに対応できるだけの備品は揃っている。奥には簡易ベットまである。

 「他にどこか痛いところは?」

 医者が聞いてくるので、重女は少し俯き、頭に手を当てながら咽喉マイクを調整し、『少し……慣れないお酒で悪酔いしてしまって……気分が悪いです。休ませてもらってもいいですか?』と、いかにも具合悪そうに辛そうな声を発した。
 唇を動かさずチョーカーのスピーカーから発せられた機械音声に、医者は戸惑いを隠さなかった。重女にとってはもう見慣れた光景である。

 「九楼重女さん……ふむふむ、データには「声帯に障害あり」と記載されていますね……それは咽喉マイクですか?」
 『はい』

 診療机の上の「ぱそこん」に付属している機械に重女のVIPカードを当てると、「ぱそこん」の画面上に重女の顔写真と個人データらしき文字がびっしり表示された。あれは全部自分のデータだと思うと、クラブ側はどれだけ自分のことを熟知しているのか少し不安になった。まさかこちらの「計画」は漏れていないよね?

 「成る程。良いですよ。お客様で酔いつぶれて気分を悪くされる方はよくいるんですよ。少しあちらのベットで休まれて行かれては? ただ、私はこの後「リフレッシュ」の時間の準備の為に少し席を外さなくてはいけないのですが、お一人で大丈夫ですか?」

 大丈夫どころか、一人の方が好都合だ。『はい、大丈夫です』と答えた後、『あの、「リフレッシュ」の時間とはなんなんでしょう?』と直球で聞いてみた。

 「ああ、お客様は初めてですね。後で説明があると思いますが、その名の通り、心と身体を「リフレッシュ」するための時間です。別室に移動していただき、アロマセラピーや、ヒーリング音楽による自律神経等の正調、他にもプラネタリウム上映や詩の朗読会、希望者には整体や、カウンセリングも行っております」
 『……パーティだけじゃなく、そんなことまでサービスでやっているんですか?』
 「はい。皆さまにとても好評ですよ。ストレスの多いこの社会ですから、少しでもストレスを解消できたらと思い始めたサービスですが、多くのお客様に満足していただいております」

 アロマセラピー、ヒーリング音楽……非常に胡散臭い。恐らくそこでなにかもっとあくどい事を行っている可能性が高い。そこには是非参加しないと。

 『はい、私も是非参加したいです!』
 「かしこまりました。では時間になりましたら迎えに参りますので、それまでゆっくりとお休みください。なにかありましたら、ベット脇のボタンを押してください」

 そう言うと、医者は笑顔で医務室を後にした。
 一人取り残された重女は、ヒールを脱ぎ、ベットに身を横たえた。慣れないハイヒールのせいで足が痛い。
 天井に通気口がある。ここは地下。あそこから空気を地上からここへ送り込んでいるのだろう。だとすると、ホールにも繋がっているだろう。
 重女は影を操作し、細い通気口の穴に合わせ影を細くし、穴の奥へと影を侵入させた。そして視界を影と同調させる。
 視界だけを影と一体化させるのはそれほど難しくなかった。前に五感全てを同調させたことがあるくらいなので、視界だけの同調など今の重女には造作もないことだ。

 何故通気口に影を侵入させているか。それは違法薬物の噴霧装置を突き止めるためだ。

 違法薬物がどのようなものか未だ不明だが、もし大麻のように燃やして煙をホールに流しているのなら、ホールには煙が充満していただろう。だがホールには煙は充満してなかった。あの大きなホールに満遍なく気化した薬物を行き渡らせたいなら、それはホールにも備わっている通気口に噴霧装置をとりつけるが手っ取り早い。
 あれだけの広さのホールに薬物の気化蒸気を充満させたいなら、それなりの大きさの機械によって行われていると考えられる。ホールをざっと目でチェックしたが、ホール内にはそのような装置は見当たらなかった。 とすると、やはり空気を循環させる通気口に取りつけられている可能性が高い。

 視界と同調した影を通気口のさらに奥に進ませる。医務室は薬物の匂いはしないので装置はない。もっと奥、ホールまで影を伸ばす。
 どれだけ影を伸ばしただろうか。重女の額に汗がびっしりと浮かんできたころに、ようやくそれらしき装置を見つけた。
 ホールの通気口の窓のすぐ近くに備え付けられており、その装置は扇風機にも似た形状で、無色の気体を噴出させている。これだ! 重女はその装置の電源を切ろうとしたが、隅から隅まで探しても電源らしきスイッチはなかった。
 ――恐らくこの装置のブレーカーは別の場所にある。そう確信し、重女は少し落胆したが、それなら仕方ない、この装置を破壊しようと思いつく。
 影の先を鋭利な刃物の形に変え、装置に一刺し! だが装置は思った以上に頑丈で、重女は仕方なく何回も装置に攻撃を仕掛けた。攻撃するたびに装置はひび割れ、変形し、中の回路がショートしたのか、バチバチと火花が散り、ついに活動を停止した。

 『やった……!』

 あれだけとは限らないが、とりあえず一つは破壊できた。重女は影と視界の同調を解く。全身汗まみれで、右手の包帯まで汗で濡れている。取り替えなくては、と思い、だるい身体をベットから起こしたところで、枕元に絵画が飾られているのに初めて気づいた。

 (なんだろう? 宗教画? )

 タッチや色彩から西洋の絵であることは間違いなかった。左側に女の人が、右側に黒い翼を広げた天使らしき男が描かれている。翼は黒めに塗られてはいるが悪魔ではないだろう。それは男の表情や服装からわかる。
 左の女の人は天使らしき男を落ち着いた表情で見つめている。その手元に開かれた本がある。宗教画だとしたらおそらく聖書だろう。
 男は右手を頭上にあげ、中指と人差し指をあげたピースサインのような手の形をしている。そして左手には複数の百合の花。宗教画にはよく出てくるアイテムだ。
 なんとなく、この絵をどこかでみた気がする。美術の教科書だろうか?

 いや、思い出した。これはシドの教会に飾ってあった絵と同じだ。確か名前も聞いたはず。この絵の名は――

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 右手と左手の人差し指と親指で小さな四角を作り、重女は満天の星々を指のフレームから覗いた。
 そこから見えるのは、自分の指によって切り取られた星の絵画。
 これは昔からの癖で、重女は星空を眺めるのが好きなのだ。

 きっとそれは幼い頃、昼間に外出することが少なく、夜、近所の住人達がいなくなった公園で母と二人で遊んでいたせいかもしれない。

 頭上を見上げると、真っ暗な夜空にキラキラと光る星が沢山ある。それが不思議で、幼い重女はまるで宝石みたいだと母に伝えると、母は優しく笑いながら「あれは世界で一番大きくて綺麗な宝石箱よ」と言った。
 母の愛のある嘘を重女は信じた。大きな宝石箱。その箱の広さには終わりがなく、納められた宝石もどれくらいあるか検討もつかない。箱には一番大きくて光っている宝石が一つあり、その白い宝石は見るときによって形を変える。お日様程強くはないけど、周りの小さな宝石や、それを眺めている自分さえ朧気に照らす。

 「世界一大きく綺麗な宝石箱」は、ずっと眺めていると自分が地から浮いて吸い込まれてしまうほど広い。それが怖い重女は、両手でそっと輪を作り、そこから宝石箱を眺めた。
 手で作った小さな窓から覗くと、得体の知れない浮遊感も飲み込まれそうな恐怖心もなくなり、手の枠の分の宝石が、夜空というとてつもなく大きな箱から自分の心の中の宝石箱に移ったような気がして、重女の胸もキラキラする。星という宝石の輝きを自分のものにしたくて、重女は晴れた夜空を見上げる時は必ず手や指で小さな窓を作り、星々や月の輝きを切り取っていた。
 今も寝椅子に座りながら指の窓から星を見上げる。美しい天の川が見える。無数の星が集まり形成される輝く川。だけどこれは人工の光で出来た星空だ。

 「………」

 重女は首を回し、部屋の様子を観察する。
 天井が高いこのプラネタリウム室で「リフレッシュ」を受けている若者達は、ふかふかした寝椅子(リラクゼーション・チェアーというらしい)に深く座り、天井に映し出されている満天の星空に見入っている。
 人数は二十人程。女性が多く、何故か悪魔はいない。その中にはホールで一緒の席に座ったあの派手な少女もいる。彼女はホールでオニとじゃれあっていた時とは打って変わって目は半開きで口も開けたまま天井を見ている。まるで呆けているかのようにみえるが、きっとリラックスしているのだろう。
 この部屋はプラネタリウム上映の為照明はついていなく、専用の機械から天井に投影される星々の輝きが微かに自分達を照らし出し、静かで美しいBGMが流れ、ホールで嗅いだあの甘ったるい違法薬物の香りではなく、爽やかな胸のすくような香りが漂っている。リラックスするのも無理はない。ただ重女はこの爽やかな香りも違法薬物の可能性があるかもしれないと思うので、ハンカチで鼻と口を覆い最小限の呼吸しかしないよう努めている。

 《私達の間に起きた出来事を、最初から親しく見た人々によって、御言葉に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き下ろそうと多くの人が手を着けましたが、テオピロ閣下よ、私も全ての事を初めから詳しく調べてありますので、ここにそれを順序正しく書き綴り、閣下に献ずることにしました。すでにお聞きになっている事が正しく確実であることを、十分に知っていただきたいためであります》

 BGMに混ざり、いきなり男の声が部屋中に響いた。重女は少し驚き上体を起こす。星にまつわる話ならともかく、何故プラネタリウムに新約聖書が朗読される?
 重女は辺りを見渡したが、ホールで一緒だった少女も他の皆も特に驚いたりせず天井を見上げている。もしかして、皆寝てしまっているか、この声に気付かないほど星を見るのに集中しているのだろうか。あるいはこれが新約聖書の詩だと気づいていないのかもしれない。
 声は静かに、新約聖書のルカによる福音書の第一章を読み続ける。ザカリヤとエリザベツという不妊に悩む年老いた祭司夫婦の話。子が出来ないザカリヤの前に主の使いとしてガブリエルが現れ、こう言うのだ。

 《おそれるな、ザカリヤよ、あなたの祈りが聞き遂げられたのだ。あなたの妻エリザベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名付けなさい。彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を祝うであろう》
 《わたしは神の御前にたつガブリエルであり、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために遣わされたのである。時が来れば成就する私の言葉を信じなかったから、あなたはおしになり、この事が起こる日まで、ものが言えなくなる》

 その後エリザベツが身ごもり、神に対し感謝の言葉をつげる、というのを、男の声はスピーカーから淡々と語る。
 ガブリエル、と聞き、重女は右手を天井に伸ばした。
 こことは別世界の、東のミカド国というところで、“ガブリエル”という異形の姿の大天使に食いちぎられた右手。アキラが自ら犠牲になって蘇らせてくれた手は、左手と比べるとやや大きく、指も長い。まるで男のように。

 そっと、左手と右手の掌を合わせてみる。丸みを帯びた左手と比べて、右手の方が節ばっており、ややごつごつしている。そして五本の指全てが左手より長い。左右の指を絡めてみる。まるで男女が愛し合うように手を繋いでいるみたいだ。

 右手の違和感に気付いたのは最近になってからだ。
 まだ東のミカド国にいるときは、両方の手は同じ大きさだった。それが時間が経つうち、徐々に右手に変化が現れた。丸かった手の甲は面積が広くなり、短く細い指は段々と伸びてきて、関節の部分が節くれだってきた。そして気がつけば、左手は女性の、右手は男性のそれになっていた。
 アキラとの合体のせい――重女はすぐ原因がわかった。悪魔合体プログラムは、本来人間には適応されない。いくら遺伝子の似ている弟でも人間同士が悪魔合体プログラムを使えば、本当なら悪魔でも人間でもないただの肉の塊ができるはずだった。
 それが天文学的確率で私は人間として復活した。失われたはずの右手と両足を持って。
 この右手と両足、そして流した血はアキラが自らを有機体に変えて蘇らせてくれたもの。だけど、わかっていた。
 ――禁忌を犯すと、必ず“歪み”が生ずることを。

 絡めあった指を解き、今度はうんと両腕を伸ばしてみる。やっぱり。右手の方が少し長い。今は照明が暗くてわかりづらいが、肌の色も右腕の方が若干白い。アキラの手の様に。

 「………」

 足掛けに乗せた両足を眺める。この潜入の為にハイヒールを買おうとしてデパートの婦人靴の店に行ったら、殆どの靴のサイズが合わなかった。前は24センチで足りたのに、今はそのサイズだと足が全部入らない。
 結局大き目のサイズを扱っている靴屋へ行き、25.5センチでようやく入った。
 だけど本当はほんの少しだけキツイ。日々成長しているのだろう。この足の“本当の持ち主”であるアキラが成長期真っ盛りの少年だったから。
 きっと、もうすぐ私はハイヒールもパンプスも履けなくなるだろう。男性用の大き目の靴を履いて、左右で長さも掌の大きさも違う手で生活しなくてはならないだろう。
 でも、私は悲しいとは思わない。寧ろ弟を身近に感じることが出来て嬉しいくらいだ。本当なら私は死んでいたはずなのに、こうして生きていること自体が奇跡なのだ。手や足のサイズが違うのくらいなんの問題もない。
 包帯の巻かれた右手と左手の人差し指と親指で、重女はもう一度指の窓を作り星空を見上げた。いびつな指の形の窓から見えるのは、先程の天の川とは違う星の並び。天の川はきっと流れていったのだろう。
 そして相変わらず静かで美しい音楽に混ざり、男の声がルカによる福音書を謳うように読んでいた。今はナザレのガリヤラの街のマリヤという乙女の元に御使いがやってきたところだ。

 《恵まれし者よ、おめでとう。主があなたと共におられます》
 《恐れるなマリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです》

 ―――

 ツギハギは、まるで石になったかのごとく動けないでいた。
 ガンプだけは構えてはいるが、それは長年の戦いでの習性であり、半ば生理現象と化しているものだ。
 彼はガンプの引き金を引かない。いや、引く必要がない。
 何故なら、目の前の黒翼を広げし黒い鴉にも似た悪魔が、ヤソマガツヒを圧倒していたから。

 「ふっ!」

 長い足で黒蝿はヤソマガツヒの黄色く醜い顔を蹴った。凄まじい速さの蹴りに露出していた脳髄がびちゃっと音を立てて周りの壁や床に打ち付けられる。
 そして、影を集め作った黒い剣でグラム・カットを食らわしヤソマガツヒの足を一本を残し全て切断する。ヤソマガツヒは甲高い悲鳴を上げ、狂ったように自分の名だけを呼んでいた。あの悪魔は最初から知能なんてないに等しい。ただ人間を狂わす霧を生み出す存在としてここで「飼育」されていただけ。

 「楽しいか?」

 瀕死のヤソマガツヒの足を掴み、黒蝿は問うた。もうピンクの霧は噴出していなく、辺りに充満していたのも今の戦いで殆ど散らされた。ツギハギはガスマスクを取り、悪魔同士の戦いをレンズ越しではなく裸眼で凝視する。

 「人間にペットみたく飼われてよ、餌貰って尻尾振って、“とってこい”ってボール投げられて、お前はそのまま喜んでボール拾っていたんだろうなあ!?」

 びきびき。嫌な音が辺りにこだました。黒蝿が力を込めてヤソマガツヒの足を千切っていた。筋肉の筋がブチブチ切れ、神経や筋線維の糸が千切れ目から顔を覗かす。
 悲鳴。文字通り身を斬られる痛みによる金切り声。聞く者にとって不快な協和音がヤソマガツヒの口から発せられる。

 「ヤ、ヤソ……マ……ガツヒィ……」
 「またそれかよ! もう聞き飽きたぜ! ほらもっと別の事言ってみろ! 痛い、やめてくれって! 痛くねえのか!? それともこうされるのが好きなのか! こうか! こうかよ!」

 ブチブチぶちぶちびきびきびちびち、びちゃ……ヤソマガツヒの蟹のような足の第一関節が完全に千切れた。轟音のような悲鳴が聞こえないかのように、黒蝿は千切った足をつまらなさそうに床に投げる。そうまでされても、知能が完全に退化した哀れな悪魔は自らの名前を狂ったように呼ぶだけ。
 「八十禍津日神」。それがこの悪魔だったものの真名。不浄や凶事を司る邪神の禍々しさは、もう見る影もない。いや、最初からそんなものなかったのかもしれない。誰かに悪魔召喚プログラムで召喚されて、人間に“飼われ”て、ここで違法薬物の発生源となっていた時から。彼は邪神でも悪魔でもなくなった。ただの人間の目的の為の道具である。

 「ほら、助けてくださいって言えよ。おねだりしてみろよ。おまえが人間共にマグネタイトを貰って餌付けされていた時みたいに」
 「ヤ、ヤソ、マ……ガ、ツヒ……」
 「……………ふん、いいだろう。俺達悪魔にはマグネタイトは必要だからな。やるよ」
 「おい……!」

 事の成り行きを見守っていたツギハギが静止の声を上げる。久しぶりに直接口から吸った空気を味わう間もなく、ツギハギはガンプの銃口を黒蝿に向けた。

 「こいつにはまだ聞かなくてはいけないことがある。勝手な事をされては困るぜ」
 「聞かなくちゃいけないこと? こいつを見ろよ。何かを話せるような奴か?」

 言われて、ツギハギは死に体のヤソマガツヒを改めて見た。全ての足を無残に千切られ、ザンにアギに物理攻撃を散々食らわされた悪魔はもう最初の原型を殆ど留めていなかった。いや、たとえ無傷でもこいつには情報を喋らせられない。出会った時からこいつは自らの名しか口にしていない。まるで薬物で廃人にされた人間の様な――
 そこまで考え、ツギハギははっとし、背筋に嫌な痺れが走るのを感じた。

 「まさか――!」
 「……ああ、そのまさかだろうな。どういう手段でかは知らないが、こいつは情報を喋らせないよう、わざと“こうされた”んだろうな」

 先程とは違う痺れがツギハギの身体を走っていった。嫌悪感という電撃が。

 「悪魔を言いなりにして、道具にしていたっていうことか……」
 「ああ。だがな……」

 ぐちゃ、と黒蝿はわずかに残っているヤソマガツヒの顔を踏む。ひぎゅ、という蛙が潰されたような苦鳴がヤソマガツヒの口からこぼれた。

 「それを選択したのはこいつだ。腐っても邪神。抗う術はいくらでもあったはず。それを潔く自害するわけでもなく、最後まで要求を拒否するわけでもなく、ただ人間共の道具兼ペットになることを選んだってわけだ。この邪神、いや、“元”悪魔は」

 かちり。黒蝿の手には銃身が扁平状の銃が握られていた。

 「おい、いつの間に!」

 それが自分が握っていたガンプだと気づき、いつ抜き取られたのかとツギハギは慌てた。
 ガンプの銃口をヤソマガツヒの額に当てている黒蝿の瞳には、なんの光も見いだせない。そこには銃口と同じ深い暗闇がある。静かな怒り、侮蔑、そして少しの哀れみ、それら全てが入り混じった漆黒の闇が。ツギハギは肌が粟立つのを感じた。

 「悪魔にも人間にも、譲れない矜持ってのがある。それを忘れた者は、もう悪魔でも人間でもない、ただの“肉塊”だ。
 誇りも憂いも売っちまった者は誰だろうが関係ない。死ね」

 マズル・フラッシュが瞬き、銃声が響く。悪魔専用の銃弾がヤソマガツヒを貫き、身体が黒い炎に焼かれる。肉体も、魂さえも焼く地獄の業火のようだ。
 “消滅”していくヤソマガツヒだったものを、黒蝿はただ見下ろしていた。そこにはもう怒りもなく、哀れみもなく、何の感情も読み取れない黒い“悪魔”が立っていた。

 ――とんでもねえやつと、組んじまった――

 ツギハギは震える手でガンプをベルトにしまうと、心の中で呟いた。

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 「本当に一人で大丈夫ですか?」

 男の心配そうな声を背後に聞きながら、重女はそっとプラネタリウムが上映されている部屋を抜け出した。

 『大丈夫です。医務室の方向は覚えています。だから一人で行けます』

 重女は包帯の巻かれた右手をさすりながら答えた。
 まだ何か言いたそうな係の男を置いて、重女はいかにも具合悪そうにふらふらと廊下を歩く。
そして角を曲がると、重女はハイヒールを脱ぎ、他の部屋を探すため走った。ストッキングのせいで滑らないようにと、他のスタッフに見つからないように、忍び足にならざるを得なかった。

 プラネタリウム上映は心地よかったが、自分はそんなものを見にここに来たわけではない。このクラブで行われているらしい違法薬物の製造、流通の証拠を押さえなければならない。重女は他の部屋で行われている「リフレッシュ」の内容を知るため、冷たい廊下を走る。
 たしか「リフレッシュ」の内容は軽い運動プログラムに、重女もいたプラネタリウム上映、個人によるカウンセリングなど多岐に渡るが、重女が一番怪しいと思ったのは「心身正調プログラム」だ。
 なんでもそのプログラムは心と体の不調をとるために特別な“施術”を行うらしい。しかしその施術の内容は明らかにされておらず、参加者も一番多いプログラムだった。
 心身の調整と謳っておきながら、実は参加者達を違法薬物漬けにしている可能性が高い。女の勘とでもいうのは意外と馬鹿にできないのだ。

 それに――重女は少し引っかかることがあった。ホールで出されていた「赤玉」という食物。悪魔専用のその食べ物は一体何なのか。違法薬物と関係あるのではないかと読んでいた。
 しかしどうやって赤玉や違法薬物の正体を探る? 闇雲に行動を開始したはいいが、次にどうやって動けばいいか重女は失念していた。

 (そういえば、黒蝿達は、もうここに侵入したのだろうか)

 フジワラやツギハギ、黒蝿が外から、重女が中からクラブの暗部を探るのがこの作戦の主な要綱。と、いっても実質重女が作戦の中心なのだ。当然だ。クラブの中に正々堂々と入れるのは重女ただ一人だけであるから。
 とりあえず、重女は「リフレッシュ」が行われているらしき一つの部屋のドアをほんの少し開けて覗く。
 真っ暗な部屋だった。先程のプラネタリウム室の様に朧げな光すら感じさせない、真実の闇が部屋中に満ちているようだ。
 それでもじっと目を凝らしていると、何人かが寝椅子に身体を預けてぐったりしているのが輪郭だけ見えた。彼らはこの暗い部屋で何をしているのだろう。
 もっと見てみようとドアから身を乗り出した途端、嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔をついた。先程のホールに充満していた甘ったるい胸やけがする匂い。しかしここのはホールのより濃密で、重女は少し嗅いだだけで物凄い睡魔に襲われた

 (な、なに、これ……?)
 
 視界がぐにゃりと曲がり、足元は底なしの沼に落ちたかのようにきちんと立っていられない。頭の奥から闇が襲ってきて、それは重女の全身を支配する。
 眠っては駄目だ。そう理性が叫んでも身体の本能が遥かに勝っていた。重女はその場にくずおれ、気絶するかのように眠りについてしまった。
 眠りにつく瞬間、誰かの黒く光るエナメル質の高級そうな靴を見て、ああ、ドジを踏んでしまった、と思い、靴の持ち主に身体を抱きかかえられる感触を最後に意識を手放した。自分の身体を持ち上げた人物の手は、大きく温かかった。

―――

【クラブ・ミルトン:コンピュータルーム】

 「ここは……!」

 黒蝿達と別れ、上級作業員カードで上の階へ向かったフジワラは、地下一階でコンピュータールームと書かれた場所を見つけた。
 そこは手持ちのカードでは扉は開かない。なので背中のリュックに持ってきた小型ノートパソコンを取り出し、ケーブルをドアの開閉端末に繋ぎ、自作ソフトでハッキングし無理やりドアを開かせた。

 重厚な音が響き、電子扉が開く。そこに現れた光景にフジワラは目を見張った。
 何十台ものコンピューターが左右の壁を占め、無数のコード類が床に錯綜している。すなわちここは「クラブ・ミルトン」の頭脳というわけだ。
 これだけのスパコンや電子機器。ここに違法薬物の生成法などが保管されているとみて間違いなさそうだ。
 フジワラは早速一つのスパコンにケーブルを繋ぎハッキングを試みる。しかし相手もなかなかの強固なシステム。だがここまで来たんだ、負けるわけにはいかない。
 フジワラは自らのハッキングテクニックを全て費やし、なんとか情報深度レベル7まで到達した。

 「さあ、ゆっくり見せてもらうよ」

 エンターキーを押す。しかし映ったのは暗号の羅列。がっくりと肩を落としたフジワラは、またしてもリュックをあさり、自分以上のハッキングテクニックの持ち主を取り出した。

 「ミドーさん、お休みのところ悪いですが、起きてください」

 聖書型コンプを開き、ミドーの名を呼んだ。コンプは登録されている音声を認識し、悪魔召喚プログラムを司るミドーという老人を呼び出した。と、いっても生身の人間が出てくるわけではない。かつて悪魔に魅了された男は今は電脳世界に思念体だけで存在しており、呼び出されたときは荒いポリゴンドットの白鬚のサングラスの老人の映像が現れる。

 〈なんじゃさっきからうるさいのう。今度はなんじゃ?〉
 ゆらり、ゆらりと崩れかけの上半身を揺らすミドーに、「すみません」とフジワラは謝る。

 「でも今は貴方の力が必要なんです。これを見てください」

 自作のノートパソコンのディスプレイをフジワラはミドーに見せた。暗号のプロテクトがかかっており、ここから先は自分の力ではプロテクトを解除することができないということを告げると、ミドーはふふん、と得意げに身体を一回転させた。

 〈私とお前さん、二人がかりならこんなちゃちなもんすぐ壊せるわい〉
 「ほ、ほんとですか!? よし、なら早速取り掛かりましょう!」

 ミドーとフジワラによる暗号解除のための作業が開始された。最初は意味不明な単語と文字の羅列が徐々に意味のある言語へと変わっていく。そのほとんどの作業をミドーが負担していた。さすが悪魔召喚プログラムをつくっただけはある。
 ミドーとフジワラの作業が終わると、ディスプレイには最重要機密が記されていた。フジワラは眼鏡を外し顔と手の汗を拭きながら、ミドーにお礼を言った。
 厳重にプロテクトされていた情報の一番上の文字を、フジワラは声に出して読んだ。

 「悪魔召喚簡易化のための“赤玉”製造プロジェクト?」

―――

 「君は、人間と悪魔が共存することはあり得ると思うかい?」

 いつもの教会。ステンドグラスから柔らかな光が差し込む中、シドが唐突に聞いてきた。
 私は、シド先生の顔を見る。黒い肌に眼鏡の奥の緑色の瞳は、じっと見ていると吸い込まれそう。

 「私は、無理だと思います」

 はっきりというと、シド先生は「何故?」と問う。なぜって、そんなの決まっている。

 「悪魔は人間に害をもたらす存在でしょ? シド先生がそう言ったんだよ。そんなのと一緒に暮らせるなんてありえないよ」

 悪魔。人間を誑かし貶める最悪の存在。私達はこの悪魔の誘惑に決して乗ってはいけないとシド先生に教わった。なのに、何故先生はそんなことを言い出すのだろうか。悪魔と人との共存、だなんて。
 シド先生は私の回答を聞いて満足そうに微笑んだ。

 「そうだね、そう考えるのが普通だ。なら、君は天使となら共存できると?」

 言葉に詰まってしまう。
 悪魔は悪い奴で、天使は良き者。大雑把に言うとそういうくくりになる。だけど、いくら良い者でも全く違う種族の者が一つの世界で生きられるものだろうか。同じ人間だっていがみ合い憎しみ合っているというのに。
 それに――

 「私は………天使が本当に良き者か分からないのです」

 顔を俯けたまま答えたのでシド先生の顔は見えない。だが、少しだけ息を飲む気配が伝わってきた。

 「その……もちろん聖書にはそう書いているし、皆天使は神の遣いって崇めるけど、私にはその神様が良く分からないのです。こんなこと言うと怒られるかもしれないけど、神様って本当にいるのかなって思うんです。その遣いの天使も。だから……」

 「だから、天使とも悪魔とも人間は共存できないと?」

 先生が問う。その言葉には叱責はなく、本当に疑問点を聞いているだけという感じであった。

 「…………はい」

 膝の上で手を組みながら、消え入りそうな声で私は返答する。なんだろう。別に叱られているわけじゃないのに、何故私は居心地が悪いんだろう? やっぱり、私の回答が間違っていたから? シド先生は怒っている? そもそもなんでこんな質問を先生は私にしてきたのだろう。

 「ふむ、大多数の人間はそう考えるし、私もそう思う。所詮天使や悪魔は次元の違う存在。共存なんていうのはどだい無理だと思うよ」

 でもね、とシド先生は続ける。

 「共存じゃなく、我々人間が天使や悪魔を従えることができたら?」

 ばっと、私は驚いて先生の顔を凝視する。シド先生は薄笑いを浮かべ、決して冗談を言っているわけではないとその目は言っていた。
 従える?  馬や犬の様に? 悪魔や天使を? そんなの――

 「無理に決まってます」
 「何故?」

 間髪入れずの問い。私は言った。先程と同じく天使や悪魔は我々人間とは違う世界の存在。それを共存どころか従えるだなんて、おこがましいにもほどがあると。
 その答えを聞いて、シド先生は顎に手を当てゆっくりと頷いた。

 「そうだよね、無理に決まっているよね、“今の段階では”」

 私は首を傾げる。“今の段階では”? まるで将来的に天使達を従えられるとでも言いたいのだろうか。

 「シド先生、なんだか今日は変だよ。どうしてそんなこと言い出したりするの?」

 陽の光が採光窓から十字架を照らし出す。祭壇の一番上にある十字架。それに磔にされている救世主。シド先生の顔は逆光で良く見えない。だけど光のせいで、まるで先生が十字架を背負っているように見える。

 「何故って? それが出来たら私達は神への道を歩むことが出来るかもしれないんだよ」

 陽光がシド先生の顔に陰影をつける。彫刻の様に整った顔立ちを一層強調し、突拍子もない事を言っているのに、まるでそれが本当に出来る事だと思い込ませてしまう。先生の言葉には、そんな力と優しさがあった。

 「しかしそのための手段を、まだ人類は完全に会得できていない。なら、人類はそろそろ禁断の果実をかじる時ではないかい?」
 「禁断の果実?」

 最初の人間アダムとイブがかじったとされる果実? その果実を食べたせいで人は知恵をつけ神に楽園を追放された。その果実を再び齧る? わからない。私にはシド先生の言っていることが良く分からない。いつも優しいシド先生が遠くを見ている。私以外の何かを見ている。

 なんだか怖くなった私は教会から出ようと試みた。だが私の手をシド先生が掴み、そして自らの方へ私の身体を引き寄せ、耳元でこういった。

 
 「君はね、その禁断の果実になるんだよ」続きを読む

 重女の目尻からつっと涙が頬を伝った。それは、歓喜の涙。
 その様子を見た大柄な黒人、シド・デイビスは眉根を寄せた。

 「誰だ? 君は?」

 え、と重女は目を見開いた。重女とシドの視線が交差する。
 よく見ると、シドの姿は鞍馬山で別れた時とは違い、頬がこけて皺も目立つ。初めて会った時は二十代後半くらいの若さだったのに、今では体格こそがっしりしているが、顔は六十代後半か七十代くらいの老人である。

 (ああ、そうか、あれから随分と時が経ってるから……)

 確かに容姿は老いてはいるが、重女は自分を見下ろしている人物がシドだと確信していた。
 黒い肌、緑の瞳、そして――首から下げている銀の十字架。
 あのデザインの十字架のペンダントは、私とアキラとシド先生しか持っていない。三人の絆の証。
 そういえば重女の十字架のペンダントがない。確かに首から下げていたはずなのに、何故か今はない。もしかして没収されたのだろうか。

 『あ、あの……大分時間が経っちゃたけど、私だよ。■■■』

 チョーカーから出る機械音声を聞き、シドの眉の間の皺が深くなる。
 そうだった、私は黒蝿に名前を奪われていて、自分の名は声に出すことも文字で書くことも出来ないのだった。

 『あ、あの、教会で私達会ったよね? 聖書も貰ったし、神様の事や悪魔や天使の事とか色んなこと教えてくれたよ。そして一緒に鞍馬山に……』

 シドは何も言わない。周りの医者や男達は怪訝な顔で重女を見ている。

 『あ、あと、それから――』
 「すまないが、君の事を思い出せない」

 重女の言葉を遮りシドは冷たく言う。その声音と表情は重女の知っている温厚なものではなく、まるで虫けらでも見るように見下ろしている。何故? 何故そんな冷たい顔をしているの?

「九楼、重女さんだね。君は私を別の誰かと間違えているのでは?」
『ち、違う! 間違えていない!』

 聞くに堪えかねて重女は声を荒げた。起き上がろうとしたが手足を拘束している革ベルトがそれを邪魔した。

 『だ、だってシド先生、私とアキラに十字架のペンダントをくれたよね? 三人お揃いのペンダント。今シド先生が首から下げているのと同じ』
 「!」

 シドの眼が少し見開かれた。無表情の仮面が少し割れ、少しの驚愕の色が顔に現れた。

 「ミスター・デイビス。この子と知り合いですか?」

 部下らしき男がシドに聞いてくる。シドは顎に手を当て何かを考えている。その癖も昔のシド先生と同じだ。やっぱりこの人はシド先生だ。
 なのに先生は私の事を覚えていないようだ。やっぱり五十年近く会ってないから私とアキラの事を忘れちゃったのだろうか。

 「……………」

 じっと、じっくりとシドはストレッチャーの上の重女を見る。眼鏡の奥の瞳は初めて会った時と同じ深い緑色だが、その色が少し濁っているような気がした。

 「……悪いね、重女さん、だっけ? 私と出会ったと言っているが、私は残念ながら覚えていない」
 『そんな!?』

 重女は落胆した。きっとシド先生も、どんなに時が経っても私達のことを覚えてくれていると思っていた。でもそれは私だけだ。シド先生にとって私とアキラはそこらへんのただの子供と思っていたんだ。私はずっとシド先生の事を覚えていたのに……

 「ミスター・デイビス。これがその子の所持品です」

 部下らしき男がうやうやしく箱を捧げる。その箱には重女が身に着けていたもの、ワインレッドのワンピース、少し大きめのサイズのハイヒールにバック、バックの中に入っていた化粧品やハンカチや穿いていたパンスト、ポケットティッシュまでもが入っていた。
 その中に確かにあった。重女が肌身離さずつけている、シドのと同じデザインの十字架のペンダントが。
 シドはそれを手に取り、じっくりと眺めた。

 「確かに私のと同じようだが……やはり私は君のことを覚えていないよ」
 『……!』

 まるで自分の身体が奈落へ落とされたかのように、強烈な虚脱感が重女を襲った。そんな……私はシドに会いたくて、話がしたくて何度もアマラ経絡で色んな時間を辿ってきたのに、折角会えたのに、こんなのって……

 「まあこの事は後にしておこう。それより“赤玉”の生産状況が追いついていないと聞いたが?」
 「はい、そうです。神経伝達物質はいくらでも採取できるのですが、肉の方が足りないのです。やはりもっと“畑女”と“種男”を増やしたほうが……」

 シドは完全に重女に背を向けて部下と何か話し合っている。重女は静かに泣いた。先程とは違う、悲しみの涙が頬に新たな筋をつける。

 ――なんで? シド先生……私はどんなに貴方に会いたかったか。なのに……こんなのって……

 「ねえ、君」

 ぐすぐすと泣いている重女の顔をシドは覗く。こんな顔を見られたくなく思わず横を向いた。涙を拭いたい。だけど手足が拘束されているので出来なかった。

 「君は、なんでアマラ経絡をあんなに造りだしたんだい?」

 シドが問う。なんでそんなことを聞くんだろう。それは元の世界に戻って貴方に会うため。しかし重女は答えなかった。だって、そんなこと言っても私のことを忘れてしまった貴方には伝わらないから。

 「私達はね、ずっと君がアマラ経絡をつくって時空を横断していたのを知っていた」

 重女は驚愕のあまり目を大きくした。知っていた? 私達がアマラ経絡を造って時間移動を繰り返していたのを。

 「本来、アマラ経絡を使って歴史に干渉するのは許されない。それに、いくつもの経絡が開きっぱなしだと、そこから悪魔が出てきて人間を襲う可能性があるからね。君が造り上げた経絡を閉じていくのはなかなか骨が折れたよ」

 あ、と重女は気が付く。そういえば私は経絡を造りっぱなしにしていた。経絡はいつも自然に閉じていたからそういう仕組みなのだと思っていた。だから、シドが毎回閉鎖してくれていたなんて思ってもみなかった。でも――

 「アマラ経絡を無作為に造りだすのは褒められたものじゃない。本来なら君はとっくに我々に捕らえられているはずだった。でもヤタガラス上層部は君を“わざと泳がせることにした。”どうしてだと思う?」

 わざと泳がされていた? いくつものアマラ経絡を造った私は本来なら捕まえられて裁かれなくてはいけないらしい。でもなぜ“泳がされて”いた?
 返答に詰まった重女を見ながら、シドはふう、と溜め息をついて、額に手を当てる。

 「それはね、君が平安時代にアマラ経絡を結んだことと関係する。
 君は気づいていないだろうが、霊鳥・八咫烏を使って当時の帝を悪魔から救っている。
 八咫烏を従える君を天からの遣いと勘違いした帝は、あの稀代の陰陽師阿部晴明を筆頭に、「ヤタガラス」という魔をもって魔を討つ組織を結成した。それが、我々の組織「ヤタガラス」の前身というわけだ」

 口の中が緊張でカラカラだ。平安時代に黒蝿を使って百鬼夜行から人助けしたことは覚えているが、まさかその人物が帝だったとは。
 これでわかった。私が捕縛もされず「ヤタガラス」に泳がされていたのは――

「もうわかったかい? 君が起こした行動で、「ヤタガラス」は生まれたのだよ。
 当時の文献にも残っていた。帝が百鬼夜行という鬼や悪魔の行列に襲われたとき、天照大神の遣いが八咫烏を従え、帝を救ったと書かれてあった。この遣いが、時間移動を繰り返していた君だと上層部は見抜いていた。だから君への干渉が何一つなかったのだよ。君がいなくては我々「ヤタガラス」も生まれないからね」

 なんと言葉にすればいいのかわからなかった。私がアマラ経絡で時空を旅したせいで現代に影響が出るだなんて、ちょっと考えればわかるはずなのに。今までその可能性を考えなかった自身を恥じた。

 「でも、それも今回で終わりだよ」

 重女はまたしてもシドを凝視した。まるで悪戯がすぎた子供に罰を与える教師の様に、その声音は冷たい。
 するとシドが手を伸ばしてきて、重女の首に指を這わせた。その感覚にぞくりと肌を粟立たせると、次の瞬間、首元の咽喉マイク入りチョーカーが無理やり外された。

 「!?」

 声の出ない口をぱくぱくさせながら重女は抗議しようとしたが、ひゅう、ひゅうと喉は木枯らしのような音しか出さない。今奪われたチョーカーがないと声が出せない。シドもそれを知っているからチョーカーを奪ったんだ。

 「もう君は用済みってわけだよ。九楼重女。君は“赤玉”の材料を産んでもらう」

 ―――

【クラブ・ミルトン:コンピュータルーム】

 暗号解読された機密文書「悪魔召喚簡易化による“赤玉”製造プロジェクト」の概要を読み終えたフジワラは絶句していた。
 簡単に言うと、“赤玉”なる物質を製造し、悪魔召喚師ではない普通の人間にも、赤玉を悪魔に渡すだけで簡単に悪魔を従えることが出来る、という計画だ。
 この計画はとても古く、1960年代後半から始まっている。一時冷戦の影響や人手不足、そして景気破綻により中止されたが、去年からまたこのプロジェクトは再開された。責任者の名前はシド・デイビスと書かれている。

 ここまでならちょっと変わった計画にしか見えないが、問題は“赤玉”の製造方法についてだ。

 赤玉製造に必要なのは、人間の肉と、ドーパミンなどの神経伝達物質。その二つを混合することによって生み出される。
 人間の肉で最も質がいいのは生まれたての赤ん坊の肉だ。“種男”と“畑女”と渾名された男女を交配させ、畑女の胎内の赤子に促進剤を打ち、十月十日を待たずして出産させ、その嬰児の肉と、ヤタガラスが選んだ被検体、成長期の少年少女の脳内から抽出された神経伝達物質を混ぜ合わせれば赤玉の完成だ。

 こみ上げてくる怒りと生理的嫌悪感を我慢して、フジワラは続きを読んだ。

 それによると、神経伝達物質を吸い上げるのは一度ではなく二度、三度と何回かに分けて行うらしい。それは一度に抽出すると物質が壊れてしまう可能性があるのと、被験者の神経伝達物質を一度に全部抽出されると、彼、彼女らは廃人となってしまい「処分」しなくてはいけない。そうするとこの計画が外部に漏れる恐れがある。
 こんな倫理観に欠ける計画が世間に知れたら、世論は「ヤタガラス」を叩くだろう。それを避けるため、このクラブで毎週パーティを開き、被検体の少年少女らを招いて、彼らに気付かれないよう少しずつ神経伝達物質を「リフレッシュ」の時間に採取する。

 (成る程、だから私が見たパーティ帰りの客はどこかおかしかったのか)

 あんな子供相手になんてむごい事を……フジワラは眉をしかめ、パソコンの画面をスクロールしていく。そこにはこの計画の報告が書かれていた。

 ≪被献体M-16、抽出歴一年:脳内環境:B(※前頭葉に損傷軽微)≫
 ≪被献体F-19、苗床から苗を収穫。:脳内環境:C(※海馬に損傷確認)≫
 ≪新たな被献体6名入所。うち3名を畑女と種男に登録≫
 ≪被献体F-18、苗の芽吹きを確認。しかし流産。新たな種男と交配させる≫

 読んでいて胸がムカムカしてきた。畑女と種男、そんな呼び名で赤玉の材料たる嬰児を産ませ、その事を“苗床から苗を収穫する”と表現している。これじゃあ牛や豚などの家畜と同じじゃないか。やはり「ヤタガラス」は外道そのものだ。国を守る超国家機関が聞いて呆れる。
 とにかく、このデータを抽出し、公の場に公表しないと。今こうしている間にも被害者は増え続けているのだから。
 データ抽出のための用意をフジワラが行っている時、急に耳のインカムに通信が入った。「はい、こちらフジワラ」

 〈フジワラ、無事か!?〉

 ツギハギの大きな声が鼓膜を揺らす。良かった、ツギハギ達は無事だったのか。

 「こっちは現在コンピュータールームにてデータ採取にとりかかっているよ」
 〈データ?〉
 「このクラブでの、いや、「ヤタガラス」の悪事の証拠さ」

 応答しながらフジワラの手は止まらない。凄いスピードでキーボードを打っている。

 〈やっぱりあったか。どうもきなくせえと思っていたんだ。それは違法薬物のか?〉
 「いや、ちょっと違う。詳しくはここを出てから言うよ。長くなりそうだしね。それより、そっちこそ大丈夫かい?」
 〈ああ……まあな。無事あいつを倒したぜ。傷一つおっちゃいねえよ〉

 少しだけツギハギの声のトーンが落ちた。なんだ?

 「なにかあったのかい?」
 〈べ、別になんでもねえよ! それよりあのお嬢ちゃんはどうした? まだ合流できていないのか?〉
 「ここのデータ抽出が済んだら合流するよ。それにしても心配だな。彼女、危険な目にあっていなければいいんだけど」
 〈その事だが……〉

 急にフジワラとツギハギの会話に誰かが入ってきた。やたノ黒蝿だ。
 
 「やあ、黒蝿君。無事でなにより」
 〈ああ、それよりあいつの気配が感じない。数十分前を最後に行方が分からなくなっている〉

 フジワラは思わずキーボードを叩く手を止めた。

 「気配が消えたって……それってまさか……!」
 〈恐らく、何者かに拉致されたんだろう。そして魔法の使えない場所に連れて行かれたか……〉

 フジワラは眼鏡を取り、汗でべたべたの手と顔を拭いた。ブラックジャック対決の時、重女に渡したハンカチで。後に重女は、律儀にやや恥ずかしそうに洗って返してくれた。その時見せた年相応の柔らかい照れ顔がフジワラの脳内に焼き付いている。

 「それは穏やかじゃないね、目立つ行動は避けたかったけど、重女さんを見捨てるわけにはいかない。黒蝿君、ツギハギ、彼女を救出に行ってくれ」
 〈あんたはどうするんだ?〉
 「私はさっき言った通り、ここでヤタガラスのデータを抽出するよ。僕が助けにいっても足手まといだろうからね。重女さんの救出は君たちに任せるよ」
 〈了解した〉
 〈まかせとけよ相棒! お嬢ちゃんは必ず救出するからよ!〉

 それを最後に通信は途絶えた。あの二人の戦闘能力ならどんな敵でもやっつけるだろう。問題は重女だ。黒蝿も感知できない場所に連れて行かれた……それは何の理由で?
 フジワラはふとさっき見た情報の中に、“畑女”という単語があったのを思い出した。赤玉の材料となる赤子を産ませるために“種男”と交配させられる存在。

 ――まさか!

 ぞっと、全身の毛が逆立つような感覚に襲われる。まさか、「ヤタガラス」は重女さんを“畑女”にするために別室に連れて行かれた――!?

―――

 シドが薄ら笑いを浮かべながら退室していく。部下の男と一緒に。待って、貴方には聞きたい事、話したいことが山ほどあるの――
 しかしその言葉は声にならなかった。咽喉マイクをはがされ、声を出せない状態に戻った重女には、他者に気持ちを伝えることができない。そうこうしているうちに、重女の乗せられているストレッチャーに、医師や重女と同じスモックの様な簡易服を着ている男数名が集まってきた。男達の目は虚ろで、どこを向いているか分からなかった。

 「可哀想だとは思うけど、これはミスター・デイビスの命令なんだよ。君を新たな畑女にしろって」

 畑女? なんだろうそれは。どこかで聞いたような気もするが……

 すると急に医師が重女のスモックの腕の部分を捲し上げる。医師の手には注射器が握られていた。
 注射器をみせられ、ざわっとした危機感が重女の脳を刺激した。やばい、これはやばい! 逃げなくちゃ!
 しかし必死に逃れようとしても手足の拘束ベルトは一向に緩まず、ストレッチャーがぎしぎしと音を立てただけ。暴れる重女を他の医師や男達が押さえる。そうこうしているうちに二の腕をゴムで縛られ、血管の位置を確かめた医師は、重女の皮膚に針を突き刺した。

「――――!!」

 薬剤が体の中に入ってくると、強烈な眠気が沸き上がってくる。同時に身体が弛緩し、重女は目蓋をあけていられない。眠ってはだめだ、自分を強く持て、誘惑に惑わされちゃ駄目だ。
 そう、いつだってそうしてきたじゃないか。強くなければ。強くなければ母やアキラを守れない。私が強くなって、私達を傷つける者をやっつけなきゃ。

 ――やめて、そんなことしないで!

 母の声が聞こえる。仕事帰りにたまに米兵を家に上げさせていたお母さん。プライベートでも、母は身体を売っていた。だけど中には乱暴な客もいて、そういう時、母は客を拒絶する。だが誰も母のいう事を聞いてくれなかった。客を喜ばすため、母は不承不承に事に及ぶ。
 母の拒絶の声を、重女はドア越しに聞いていた。私がもっと強かったら、きっとお母さんを助けてあげられたのに。
 悔しい。力がないってこんなにも惨めで辛い事なのか。

 ――私が君達を愛している。それが理由だよ

 暴言を吐いてしまった私に、シドが十字架のペンダントをくれた。私達のことを愛している? なら何故私を拘束するの? 何故何も覚えていないの?
 甘い香りがする。脳までとろけてしまいそうな濃厚な甘い匂い。匂いは重女の心の奥まで届き、そして感情を増幅させる。

 ねえ、なんで私はこんなに弱いのかな? 大切な人も守れず、信じていた相手にも裏切られた。悔しい。私に、もっと力があれば――

 ――貴女が持つのは花ではなく、その“剣”が相応しい。戦いの女王は、武器を持って戦うからね

 今度はフジワラの声が聞こえた。ブラックジャック対決の時、彼は重女のことをスペードのクイーンだと比喩していた。あの時のカードは、スペードのクイーンに、スペードのエース。スペードのエースは剣を意味している。強い力の象徴たるカードは、今、手元にある。

 そうだ、私は強い力を手に入れたんだ。どんなものでも切り裂く最強の剣。これならどんな敵でも殺せる。

 ――重女さん。黒のスペードのエースには死の意味もある。強い力は貴女を助けてくれるだけじゃなく、扱いを間違えると、とてつもない不幸を招くかもしれない

 またしてもフジワラの声。大丈夫だ。私は間違えたりしない。この剣で私達を貶めてきた奴ら全員を殺すことが出来る。もう何も出来なくて泣いていた昔の自分とは違うんだ!
 私はスペードのクイーン、戦いの女王。そして今、最強の武器たるスペードのエースを手に入れた。

 ――私は、もう負けない!!

 ―――

 重女のスモックを脱がしはじめていた医師は、彼女の異変に気が付いた。
 彼女の周りに黒い風の様なものが巻き上がる。風はそれ自体が意思を持っているかのごとく、重女のストレッチャーの周りに渦を巻いている。

 「なんだこれは!? 魔法か?」
 「いや、そんな事はあり得ない。この部屋は一切の魔法が封じられるようにしてある」
 「しかし、これは一体……」

 おろおろと戸惑っている医師の一人の脳天に、黒い剣が刺さった。闇を凝縮したような濃い黒い剣。医師は何が起きたかわからないまま死んだ。床に血だまりが広がり、脳漿が散らばる。

 「なんだ! なにがおきたんだ!」

 そう言った医師も、今度は黒い剣で袈裟切りにされた。身体を真っ二つにされた医師は血を噴水のように溢れだして絶命した。
 白く、清潔であった部屋は今や血と臓物で汚れている。革ベルトによる拘束を解いた重女はぴちゃり、と血だまりに足をつけた。黒い剣を持ったままで。

 「お、お前! 一体何をした! どうやって拘束をとき――」

 そう言った男も心臓を貫かれた。男は苦悶の表情のまま絶命し、重女の足元に倒れた。
 男の手がたまたま重女の白い足に触れたので、重女は少し眉を寄せ男の死体を蹴った。まるで汚物を見るかのような暗い瞳で重女は男達の死体を睥睨した。
 それから、椅子にぐったりと拘束されている少年少女たちの頭に刺さった管を全部抜いてやった。そして管が繋がれている冷蔵庫のような大きな箱を、剣で斬りつける。何度も斬りつけると、箱は火花を散らし、その機能を停止させた。

 重女は先程殺した医師の内ポケットを探る。あった、リボルバーM60が。

 回転式拳銃を握った途端、重女は精神が高揚するのを感じた。その気持ちに呼応するかのように、黒い影がぐるぐると重女の周りでじゃれ合う犬の様に回る。

 ――ほら、やっぱり。今の私は強い。もう無力な子供じゃない。この銃と剣さえあれば、どんな奴らもひれ伏させることが出来る!!

 重女は返り血にまみれたまま、スモックと裸足のままで部屋から抜け出した。微笑を浮かべたままで。

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 最初に異変に気づいたのは黒蝿であった。
 粘つく風が黒蝿の心の奥に絡みつく。この風を感じるのは初めてではない。人間が、内なる怒りを爆発させた時に起こるよどんだ風。しかし、黒蝿の注意を引いたのは、性質ではない。風を発生させている人物のことだ。

 「……あいつ!」

 数分前まで感知できなかった、黒蝿の真名を奪った少女の気。捕らえられていた場所から脱出できたのか? いや、それは問題ではない。この徐々に強くなっていく風は、術者の精神と肉体を蝕んでしまう。
 危険だ、止めなくては――そう感じた瞬間、黒蝿は走り出していた。

 「おい黒蝿! どこに行く!」
 「決まっている! “あいつ”のところだ!」

 後に続くツギハギの存在を無視して、黒蝿は地上への階段を昇り始めた。早くあいつを止めなくては! この風があいつを侵食してしまう前に!

―――

 M60回転式拳銃から弾丸が放たれるたび、重女の手首から肩にかけて激しい振動が駆け上がっていく。しかし今の重女には、この振動が酷く心地よかった。
 銃弾が敵の肉体にめり込み、貫通していく。相手は悲鳴と血飛沫を上げて死んでいく。顔や服に返り血が付き、一人、また一人と“敵”が死んでいくのを見て、重女の精神は更に高揚する。

 重女は、笑っていた。

 こんなにいい気持ちなのは生まれて初めてかもしれない。味わったことのない感情だ。
 敵をねじふせているという快楽。
 助けを請う敵を殺す快楽。
 この場を完全に支配しているという快楽。
 そしてなにより―――“自分たちを虐げてきた相手”に、同等かそれ以上の痛みを味合わせているという優越感が、重女の脳に心地よい酩酊にも似た感覚を刻み込んでいった。

 「や、やめ……」

 敵が助けを請う。ぴくり、と重女は眉根を寄せる。
 あの時もお母さんはそう言っていた。嫌だって。米兵さんに、“お前達”に、乱暴にしないで、って言っていた。でも誰も母の言うことを聞いてくれなかった。私たちが弱いから、“お前達”は何をしてもいいと思っている。
 アキラが髪を引っ張られて泣いている。私の体育着がボロボロに引き裂かれている。皆が私たちに暴言を吐いてくる。私たちが他の人と違うから、私たちが“弱い”から、お前達は調子に乗って酷い仕打ちを仕掛けてくる。
 引き金を引くと耳を聾する音とともに弾丸が放たれる。助けを請うた敵の身体が弾を受け止め後ろへ吹っ飛んでいく。
 ぞく、とした感触が頭の後ろから全身に走っていった。体中に鳥肌がたつ。それは恐怖からではない、敵を“圧倒している”という気持ち良さから来るものだ。
 先ほど打たれた薬剤が、体中を巡り、心の奥底の感情を掻き乱す。何かを支配する事によって生じる優越感。今まで私たちに苦痛を与えてきた“敵”が味わっていたのと同じ感情。

 ――そうか、これだったんだ。
 ――私はこれが欲しかったんだ。

 敵が反撃の銃弾を撃ってくる。重女は影の盾を造りそれらを全て無効化した。敵がおののく。かつての私と同じ、蹂躙されることによる怯えの表情を浮かべている。重女はそれがたまらなく愉快だった。

 ――あいつらを屈服させる力。
 ――誰にも負けない力。
 ――この力さえあれば、どんな相手にも負けない。
 ――惨めに泣き寝入りしなくていい、悔しさを感じなくたっていい、
 だって私は、“最強の力”を手に入れたのだから!

 弾が切れた。ち、と舌打ちすると、重女は銃を捨て、今度は右手に影で黒く大きな剣を造り出した。

 『スペードのエース……また貴女に相応しいカードが来ましたね』
 『スペードのエースは剣。つまり武器、力の象徴。最強の力のカードというわけだ』

 最強の力のカード、剣を象徴するスペードのエース。今、まさに私はそれを持っている。何者をも斬れ、何者にも折られない最強の剣。フジワラさんの言ったとおりだ。私は最強の剣を持った女王。誰にも虐げられない、誰をも支配出来る。この力さえあれば、あいつらを、私たちに屈辱を与えてきたあいつらに復讐することが出来る!
 銃弾を影の盾で防ぎ、黒い剣で相手を切り刻んでいく。何の痛痒も感じなかった。血が、肉片が辺りにまき散らされるほど、重女の気分は最高潮に達していく。
 楽しい。楽しくって仕方がない。あいつらはこんな気持ちで私たちを虐げていたのか。力を持つことがこんなにも愉快なことだったなんて、なんでもっと早く気づかなかったんだろう。
 剣の刀身を伸ばし、相手を滅多打ちに刺す。後ろから襲ってきた奴は十字に切り刻む。影が膨らみ重女を守る。血にまみれた黒い剣を持ち、影を纏い柔らかく笑う少女の姿は、もはや人の姿には見えなかった。

 「……悪魔、だ」

 満身創痍の生き残りが呻くのと同時に、ふわ、と重女がジャンプする。身体が軽く羽が生えているみたいだった。そして生き残りの敵の前に向かって笑顔で剣を突き出す。
 重女の周りは敵しかいない。自分と、自分の大切な人を虐げる敵。それを駆除するのが今の私の役目。重女の頭はそのことで一杯だった。
 だから、そこに急に飛び出してきた奴が、黒い羽を広げて重女を止めようとする者が、やたノ黒蝿という仲魔であることも、その時の重女にはわからなかった――

―――

 一瞬の出来事だった。
 目の前に黒い者が飛び出してきたかと思うと、剣は“そいつ”に深々と刺さっていた。
 “そいつ”は口からげほっと大量の血を吐き出す。すると胸に刺さっている剣を、籠手を装着した手でしっかりと握りしめたではないか。
 怪訝に思った重女が剣を抜こうとしても、“そいつ”は決して剣から手を離そうとしない。不思議に思って逆にもっと突き刺してみた。苦鳴が血とともに口の端からにじみ出る。一体こいつはなんなんだろう。なぜ突然飛び出してきたんだろう。なぜ頑なに剣を離そうとしないのだろう?

 「……■■■」

 びく、と身体が反応した。今まで忘れていた何かを思い出したように。

 「■■■!!」

 今度のは怒声であった。自分を激しく叱る声。何度も聞いたことのある声。いつも側で私を呼んでいた低い、男の声―――
 目の前を覆っていた膜が剥がれていくのを感じた。膜が晴れた先に瞳に飛び込んできた人物は、
 
 黒い剣が胸に突き刺さり、口と胸から大量に出血しながら、鋭い眼光でこちらを睨んできている、重女が真名を奪った仲魔、やたノ黒蝿であった。

 右手を見る。血にまみれた手は、黒蝿の胸に刺さっている黒い剣の柄をしっかりと握っていた。
 ぽたり、ぽたり。血が、黒蝿の胸から滴り落ちる。赤黒い血だまりが床に形成される。焦点の定まらない目で、右手を再び見る。

 私、黒蝿の身体に、剣を突き立てている――!?

 ひ、と声にならない悲鳴をあげ、手を剣の柄から離す。黒蝿が何か言ったようだが重女には聞き取れなかった。
 辺りを見渡す。そこには夥しい数の死体が倒れている。銃で脳天を貫かれた者、銃弾を何発も浴びた者、身体の一部が切り落とされている者、全員恐怖の表情で絶命している。
 血と臓物の生臭さと、硝煙の匂いが、重女の鼻腔に届いた。

 「がはっ!」

 はっとして、黒蝿の方を向く。黒蝿がゆっくりと、自分の胸から剣を抜こうとしている。

 (あ、あ……)

 無意識に、すがるように黒蝿の肩に触れる。が、黒蝿は重女の手を勢いをつけて振り払った。

 「俺に……触るな!」

 血とともに吐き出された拒絶の言葉が、突風のように重女の脳内に突き刺さった。欲望で濁った頭が揺り動かされ、自分の犯してしまった過ちと対面するはめになった。
 
 人が、沢山死んでいる。私が殺したんだ。私が、この人達を殺して、黒蝿を傷つけてしまった――!!

 がたがた、がたがた。身体が震える。歯の根が合わなくがちがちと音を立てる。咽喉マイク入りチョーカーを外された喉からは、まるで墓場に吹く幽霊の喘鳴のような音しか出なかった。
 自分がとんでもない間違いを犯してしまったという事実が、全身を支配する。先ほどまであんなに熱かった身体が、冷却剤を注入されたかのように芯から冷えていく。
 私、わたし、わたし、は―――

 「ぐ、あっ!」

 黒蝿が歯を食いしばり、剣を身体から抜くのに成功した。剣はその衝撃で消滅したが、代わりに胸の穴から大量の血が吹き出る。黒蝿の身体が前傾する。

 『黒蝿!』

 思わずその身体を受け止めてしまった。今度は黒蝿は抵抗しなかった。抵抗したくとも出来ないのかもしれない。胸の傷は背中まで貫通し、左の翼まで傷つけていたのだから。

 「おま、えな……」

 それっきり黒蝿は瞳を閉じ黙りきってしまった。身体を揺さぶっても反応がない。ただ胸の傷からどくどくと大量に出血しているだけ。
 冷えていく黒蝿の身体を、重女は思いっきり抱きしめた。半分ちぎれかけた左翼ごと血が止まるよう強く、自分より大きな肢体をぎゅう、と抱きしめた。

 ――ごめんなさい、黒蝿、ごめんなさい――

 何度も何度も念波で謝り続けた。しかし返答はない。それでも謝り続けた。深い傷を負わせてしまったことへの懺悔、身を挺して私を止めようとしてくれたことへの感謝、力に酔って、沢山の命を奪ってしまった自らに対する叱責――そんなものがごっちゃになって、重女は嗚咽混じりに泣き始めた。泣いてもどうしようもないことくらいわかる。だが涙は後から後から沸いてくる。声の出ない喉が張り詰めて、湿った咳を発した。

 『重女さん。黒のスペードのエースには死の意味もある。強い力は貴女を助けてくれるだけじゃなく、扱いを間違えると、とてつもない不幸を招くかもしれない』

 なぜフジワラさんの忠告を今の今まで忘れていたのだろう。私は剣を持った女王なんかじゃない。ただ他人から与えられた力を欲望のままに奮って、得意げにしていた無知で愚かなただの子供だ。
 どうすれば、私はこれからどうすればいい? 誰もその問いには答えてくれない。そして自分でも答えがわからない。治癒術も使えない私は、こうやって黒蝿の身体の出血を抑えるのが精一杯だ。
 私はあいつらと同じ過ちを犯してしまった。私たちを迫害してきた奴らと同じく、相手を力で支配することで生じる甘美さに酔いしれてしまった、その結果がこれだ。
 どうすればいい? わからない。でももう身体が凍ってしまったみたいに動かない。誰でもいい、どうか私を、黒蝿を、助けて―――

 「いたぞ! あそこだ!」

 くぐもった男の声が鈍麻した耳に聞こえてきた。重女は返り血のついた顔をゆっくりあげる。ガスマスクをつけ、武装した男達が十人ほど通路へとやってきた。大勢の人間が死んでいるのをみて、先頭の男は、うっと呻き声を漏らし、すぐに死骸の中心にいる重女と黒蝿に目を向けた。

 「……まさか、あの子供が!?」
 「いや、そんなまさか……」
 「待て、あの女、確か要注意人物リストに載っていたはずだ」
 「アマラ経絡を無作為に造り出したっていう悪魔召喚師か!?」

 なんの、話をしているのだろう。会話は聞こえても今の重女には、その内容を理解できない。頭が悲しみや後悔で飽和状態にあるからだ。
 そういえば、シドは? シド先生はどこ? 私のことを忘れてしまったシド先生。私を拘束して“畑女”とやらにしようとしたシド先生。だけどお願い、どうかここに来て。いつもみたいに優しい笑顔で、私を“許し”て――

 「おやおや、なんだねこれは」

 場違いにのどかな男の声に、重女は目を大きくする。黒い肌に銀髪のオールバック、眼鏡越しの緑の瞳――今さっき心の中で呼んだ、シド先生だ!

 (シド、先生……)

 ひゅう、ひゅう、と声の出ない喉で重女は必死に訴えかけた。お願い、私たちを助けて、と。
 しかしシドは無慈悲だった。重女が殺した人々の死骸をゆっくりと見渡し、そして今気づいたというように、重女の方に目を向けた。その顔にはこの状況を作った重女を嘲弄するかのような残酷な笑みを浮かべていた。

 「武装していたうちのスタッフを、たった一人で全滅させるとはな。九楼重女。私は君のことをどうやら見誤っていたようだね」

 胸元から、シドはコルト・ガバメントを取り出した。がちゃり、とこちらに銃口が向けられたが、重女はもう何も考えられなかった。

 「“ダークサマナー”は我々「ヤタガラス」の敵。九楼重女、これだけの人間を殺戮した君は危険なダークサマナーだ。今ここで死んでもらう」

 (ダーク、サマナー……?)

 言葉の意味もわからず、ただ呆然としている重女に、45口径の大口径弾が銃声とともに放たれた。重女はそこから一歩も動けず、やがて銃弾は重女の眉間に近づき――
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 マハジオによる電撃の痺れが抜けきらなく上手く身体に力が入らないところへ、灼熱の炎の玉がシド・デイビスに向かって放たれた。
 炎の精霊・サラマンダーがアギラオを打ってくる。マカラカーンを展開させてはいるがもうすぐこの盾は破られるだろう。シドは、聖書型コンプを開き、自分の仲魔のうち最も強力で最も高位の大天使を喚んだ。

 「マンセマット!」

 すると急に辺りの空気が変わり、シド達をかばうかのごとく大きな黒翼が現れたかと思うと、その黒翼の持ち主である大天使・マンセマットは指先をサラマンダーに向けた。するとサラマンダーは一瞬で氷漬けにされる。マンセマットは仮面の下の表情を変えることなく、更に手を一振りし、氷漬けのサラマンダーを砕いて見せた。
 
 「一体なんです? 貴方ほどの者が私を呼ぶなど」
 
 主であるシドに対し、マンセマットは冷たいと呼べるほどの口調で尋ねた。シドは苦笑した。
 
 「私としたことが、ジオを喰らって身体が上手く動かなかったものでね。で、そっちはどうだ? 地下の侵入者は見つけたのかい?」
 
 シドの問いに、今度はマンセマットが苦笑する番であった。
 
 「ええ、いましたよ。悪魔が一匹と、人間が二人。悪魔の方は何やら私を恨んでいるようで私に向かって攻撃してきましたが、軽くあしらっておきました。しかし、あの悪魔はかなりの手練れ。恐らくヤソマガツヒは今頃やられているでしょうね」
 
 シドの眉間にしわが寄り、マンセマットを睨む。が、睨まれた黒翼の大天使は意に介さず薄ら笑いを浮かべている。
 シドはこう問いかけたかった。何故ヤソマガツヒがやられるのを知ってほうっておいたのか、あの地下の違法薬物製造工場を何故侵入者から守らなかったのか、と。しかし問いかけたところで答えをはぐらかされてしまうだろう。
 このマンセマットという大天使は形式上はシドの仲魔ではあるが、通常の主従関係にない。シドの言う事を一応聞きはするが、その行動はシドにも読めない。今もそうだ。地下の侵入者を見てこいという命には従ったが、それだけである。彼にとってここの地下で行われていることなど興味もないし、ましてや侵入者がいても脅威に感じない。マンセマットに我ら人間の価値観を求めること自体が無意味なのだ。
 シドは嘆息し、現在の状況を推測する。あの九楼重女という少女と侵入者は最初から繋がっていたと考えていい。だからあの少女は「リフレッシュ」の時間にこっそり部屋を抜け出し他の部屋の様子を探ろうとしていた。そして時を同じくして地下の工場施設に侵入者があった。番人として置いていたヤソマガツヒは既に倒されたらしい。
 そもそも何故地下に侵入する必要があったのか。それは「赤玉」の情報が何処かから漏れたからだろう。九楼重女達は最初から「赤玉」の製造方法の入手・世間への暴露が目的だったのではないか。
 だとしたら状況は最悪だ。ヤソマガツヒが倒された今、奴らはコンピューター・ルームに到達している可能性が高い。あそこにはここでの最重要機密である「赤玉」の製造方法が保管されている。もちろんプロテクトはかけてあるが、彼らがそれを破り、製造方法や実験記録などを持ち帰られてしまっていたとしたら……?
 
 「ミスター・デイビス?」
 
 部下の一人がシドへ心配そうに声をかける。が、その時シドは既に決意していた。
 
 「ここを“廃棄”する」
 「え!? 今なんと?」
 「地下の侵入者達に「赤玉」の製造方法を入手された可能性が高い。なにより九楼重女には「赤玉」の製造過程の一部を見られたまま逃げられてしまった。彼女達がこの施設から抜け出す前に、機密保持のため、被験体ごとここを“廃棄”する」
 
 赤玉製造プロジェクト兼この施設の責任者としてのシドの決定の言葉である。しかし部下はまだ納得がいかないようで、シドに食い下がる。
 
 「し、しかし被験体の少年達のほか、ホールや上のクラブに今日も沢山の客が集まっております。彼らに見つからないようどうやってここを“廃棄”するおつもりですか?」
 「ここを全て燃やす」
 
 部下の男は絶句した。
 
 「つ、つまり、関係ないクラブの一般人も一緒に始末する、そう言いたいのですか?」
 「勿論。ここは軍事施設ではないから自爆装置もないしな。跡形もなく全て燃やし尽くした方がヤタガラスのためにはいいだろう」
 「しかし……」
 「忘れるな。私たちは“そういった”仕事を請け負う班だ。君も私の班員になったからには覚悟を決めたまえ」
 
 男はもう何も言わなかった。シドはかまわず「マンセマット、そういうわけだ」と仲魔の大天使に言う。
 
 「君のアギの威力ならこの施設を上のクラブごと焼き払えるだろう。頼む」
 「……やれやれ、そんなことをこの私がしなくてはならないなんて。もっとましな理由で召喚してほしいものですね、シド?」
 
 マンセマットが両手をかざすと、そこには巨大な炎の玉が出来ていた。先ほどのサラマンダーのとは、大きさも、質も、全てが桁違いである。
 
 「シド。君たち人間はさっさと避難したほうがいいですよ? この火に焼かれたいのであれば話は別ですが」
 「言われなくてもそうする。さあ、ひきあげるぞ」
 
 シド達が避難したのを見届けてから、マンセマットは炎の玉を振り下ろした。その炎は死体の山を焼き、酸素を求め荒れ狂い通路を抜けホール、医務室、「リフレッシュ」に使っていた部屋、上のクラブ・ミルトン、更に地下に至る全ての人と物を包み、骨の一片も残さない程の、まさに天の裁きの業火のごとき威力を発揮してみせた。
 そしてその業火の魔の手は、フジワラのいるコンピューター・ルームにまで届こうとしていた。
 
 ―――
 
 「な、なんだ!? 一体何があったって言うんだい!」

 コンピューター・ルームにて、データ抽出を行っていたフジワラの元に、ツギハギと、その仲魔に担がれた血まみれの黒蝿と、ツギハギの肩に担ぎ上げられている同じく血まみれの重女が勢いよく入ってきた。
 目を白黒させているフジワラを尻目に、ツギハギは通路の様子を見て顔を険しくさせる。

 「時間がねえ。フジワラ、ここを脱出するぞ」
 「な、何を急に! まさか私たちの行動がばれたのかい!?」
 「それだけならいいんだけどな……」

 ツギハギは渋面で黒蝿と重女を交互に見る。黒蝿の方は左胸に大きな刺し傷があり、気を失っている。一方重女はスモックのような簡易な服を血で汚してはいるが、目立った傷は見当たらない。意識もあるようで、先ほどから彼女の呼吸音が連続して聞こえてくる。
 恐らく重女がここのヤタガラス職員と戦闘になり、仲魔の黒蝿が重傷を負ったところをツギハギが助けた、というところだろうか。それにしては、ツギハギの様子が変だ。自身の肩に乗っている重女に、怒りとも憐れみともとれない複雑な表情を向けている。

 ――一体、彼女達に何があった?

 問いただそうと口を開きかけ息を吸うと、粘ついた空気が喉に張り付き思わず咳き込んでしまった。視界が白く濁り始め、ここコンピューター・ルームに、焼け焦げる匂いを纏った煙が徐々に入り込んできている。

 「奴ら、証拠隠滅のためにここに火をつけやがったな」
 「何だって!?」
 「恐らくこのお嬢ちゃんが違法薬物の製造でも見てしまったんだろうよ。それか俺たちがここに侵入したのと、お前がコンピューター・ルームで情報を入手したのがばれたか、その両方か……。
どっちにせよ火はすぐここまでやってくる。今すぐ脱出だ! フジワラ!」

 ツギハギの言葉で渋々データ抽出をストップさせ、ノートパソコンを閉じ背中のリュックに入れ立ち上がる。本当なら全てのデータを手に入れたかったが、火が迫っているとなれば話は別だ。フジワラはツギハギと共にコンピューター・ルームのドアを開けた。するとぶわっと濃い煙が襲ってきて、二人は思わず口と鼻を押さえる。
 上の方向は何も見えない程に煙が立ちこめていて、酷く焦げ臭い。だが地下への階段はまだ煙が薄い。これなら侵入の時に倉庫に空けた穴から脱出できそうだ。
 ツギハギを先頭に、重傷の黒蝿を担いだ彼の仲魔の妖鬼・キンキと、最後尾にフジワラが続く。三人と二体は必死に階段を降り、最下層の倉庫へ向かって走った。
 そこで見てしまった。ツギハギの肩に身体を預ける重女が、涙を流し、何事か唇を動かしているのを。その唇の形が、ごめんなさい、という謝罪の言葉を紡いでいたのを、フジワラはしっかりと見てしまった。

―――

 マンセマットの生み出した業火は、シドの命じたとおり、全ての施設を焼き、消滅させていく。逃げ遅れた職員、パーティに招かれていた少年少女達、“赤玉”の材料となる被験体、そしてクラブ・ミルトンで遊んでいた何も知らない客まで見事に燃やし尽くした。
 死体も、生きた人間も、そして薬物の製造工場まで跡形もなく燃やす。魔力の高い者だけが生み出せる黒い炎。それはこの世の憎悪が凝縮されているかのように漆黒で、執拗に対象物を炭化してもまだ燃やし続ける。
 黒い炎に焼かれるクラブ・ミルトンを一目見ようと、野次馬達が集まってくる。駆けつけた消防隊が必死に野次馬達を押さえ、消化活動にあたる。しかし火はなかなか消えない。
 その様子を、三キロ離れた廃屋で重女達は見ていた。距離が離れていても分かるほど、クラブ・ミルトンの炎は強烈であった。恐らく地下の赤玉製造工場も、コンピューター・ルームに保管してあった赤玉の製造方法やそのプロジェクトの詳細も、全て燃やされているであろう。必死に逃げてきたフジワラ達は、悔しそうに炎を見つめていた。

 「くそっ!」

 煤だらけのツギハギが怒りにまかせて廃屋の壁を殴った。乾いた音が鳴る。そんなツギハギを諫めるようフジワラは言った。

 「まあ、落ち着けよ。全部ではないとはいえデータは半分手に入ったんだ。これを元にあそこで行われていたことを暴露させる。手に入ったデータは半分程度とはいえヤタガラスの悪事を暴くには十分で……」

 そこまで話して、ざしゅ、と奇妙な音が後方で聞こえた。肉を斬ったかのように不快な音だ。ツギハギと後ろを向くと、そこには重女が黒い剣で、左手首を思いっきり斬りつけている光景があった。
 
 「おい! お前なにやってるんだ!」

 慌ててツギハギが重女を取り押さえる。重女はそれでも暴れていた。黒い剣を自身の身体に突き刺そうともがいていた。
 自殺――それに思い当たった時、フジワラもツギハギと共に重女を取り押さえた。
 しばらく暴れていた重女だったが、急に身体を弛緩させ動かなくなった。そして喉から湿った呻き声のようなものを発する。
 それは、慟哭であった。声を出せない少女は満腔の謝意を、月夜に向かって声の出ない喉で叫び続けた。自分のせいで死なせてしまった人たち、助けてくれたツギハギ、フジワラ、黒蝿、そして自分に向かって“ダークサマナー”と言い銃弾を放ったシドに、血涙を流しながら、ずっと叫び続けていた。

 このとき、重女は感じた。
 今までの自分はここで死に、新たな自分が産まれるのを。

 そしてあることを決意した。

 その決意は酷く冷たく、おぞましいものだったが、大罪を犯してしまった自分にはこの道しか罪を償えるものはない、と確信していた。

 すなわち、欲望のために力を振るう、“ダークサマナー”への道を歩いて行き、どんな手段を使ってもヤタガラスを倒さなくてはいけないことを――

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