往来―all right―別館【俺屍サマナー】

俺屍+デビルサマナー=俺屍サマナーというダブルパロ(クロスオーバー)小説を扱っております。俺屍に登場する神々や鬼を現代で使役していたら・・・という発想で生まれたいわゆる三次創作小説です。俺の屍を越えてゆけと真・女神転生シリーズ(主にⅣ)の設定を独自に融合させて捏造しております。女神転生や俺屍の人物名称や設定をかなり変更しております。こういったのが苦手な方は閲覧をご遠慮下さい。 やたノ黒蝿とサマナーになってしまった少女の物語です。

カテゴリ:俺屍サマナー > 第八章

 その男は、「猿」と呼ばれていた。

 赤ら顔で背丈が高く、どこか愛嬌のある猿を感じさせる顔立ちから、彼を拾った親分が名付けた渾名であった。
 親分は鉄火場を束ねるやくざの元締めである。
 「猿」と名付けられた男は、何時しか博徒となり、鉄火場の用心棒を勤める事となった。
 郷里から上京し、奉公先で一悶着起こし追い出され、金もなくふらついていた彼を拾ってくれたのが親分である。
 自分が金を稼がないと、妹達が腹を空かせてしまう――猿はすぐに親分の鉄火場で用心棒として働く事にした。
 堅気な仕事ではないが、用心棒は自分の荒い気性にあっていた。イカサマをする客を見つければ制裁を加え、言いがかりをつけて来た時には、屈強な男数人相手に大立ち回りを演じたものだ。
 それで親分から渡される賃金を故郷の妹達に送ってやる――猿の生活はなかなか充実していた。あの日が来るまでは。

 ―――

 「親分! 怪しい奴を捕まえて来ました!」

 ある日、鉄火場に舎弟の一人が血相を変えて入ってきた。脇に縄で縛った「何か」を抱えながら。
 その「何か」を床に転がす。「何か」は人間の子供であった。

 いや、これは本当に人間なのだろうか?

 子供は金色の髪と青い目を持った、恐らく女の子供。もう少女と呼べる年齢だろうか。
 着ている着物も妙だった。小袖でも着流しでもない。上衣は黒の身体の線が分かる首もとまで隠れる妙なもので、下衣は袴に似ているが、それより足の線が分かる形状をしており、どれも猿が見たこともない着物であった。

 ――異人の子。

 ふと猿の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
 先日、「黒船」と呼ばれる遠い異国からの船が浦賀沖に辿りついたとの噂を耳にした。
 しかし猿は今まで異国人を見たことはない。長崎の出島にでもいけば阿蘭陀人には会えるであろうが、江戸の片隅で鉄火場を細々と営んでいる猿達には異人などとは縁はなかった。
 だが異人の容貌は浮世絵で何度か拝見したことがあるので知っている。赤ら顔に長い鼻、黒ではなく金の髪。色素の薄い瞳。
 しかし床に転がされている娘は、瞳と髪の色と奇妙な服装を除けば、よく見れば市井の年頃の娘と変わらぬ顔立ちであった。異人とのあいのこなのだろうか。
 猿と娘の視線が交錯した。ふとその瞳の青が故郷の空の色を、大きな瞳は痩せた妹を思い起こした。

 「縄張りを歩いていたらいきなり空から降ってきたんですよこの娘。気づくのが遅れたら頭からぺしゃんこだったですぜ」
 「空から? ならこの娘は物の怪か!」
 「ああそうに違いねえ! 異人でもこんな服は着ていねえし、おまけにこの娘ときたら今まで一度も喋ってねえ」
 「親分、どうしますかい? 物の怪でも異人でも女には違いねえ。二束三文にしかならないが、女郎屋にでも売り飛ばしてしまいますかい?」

 うむ、と親分と呼ばれた厳つい男は、無精ひげの目立つ顎をさすりながら思案に耽る。娘は怒ったようにじっとこちらを見ている。
 猿には妹の他に、昔姉がいた。その姉はある日女衒に手を引かれ、村から出ていき、そして二度と帰ってこなかった。
 姉が廓に売られ、病で亡くなったと知ったのは猿が十二の時だ。そのまま今度は妹が売られそうになったところを、猿は必死に止めた。妹を連れて行かないでくれ。代わりに俺が江戸に奉公に出て沢山稼ぐから、と。
 にいちゃ、と縋り付いてきた妹の顔と、目の前の娘の顔が重なる。

 「親分、ちょいとまってくだせえ」

 猿は思わず横にいた親分に声をかけた。ぎろり、と眼光鋭い視線を受けたが、萎えそうになる膝に力を入れて言葉を続けた。

 「この娘、もしかしたらあの黒船と関係あるかもしれません。黒船の異人たちはお上となにやら談合を繰り返していると聞きますし、もしこの娘が黒船の関係者で、女郎屋に売り飛ばしたとお偉方に知られたら面倒なことになりやすぜ」

 お上、お偉方と聞き親分だけでなく手下達まで顔色を変えた。賭博を生業とする者達は皆脛に傷を持つ身である。奉行所に目をつけられるのだけは避けたい、と皆思っている。

 親分は思案の末、娘の処分を明日へと持ち越した。娘はそのまま牢へ放り込まれた。
 イカサマを働いたやつや賭場を潰そうと襲ってきた他所の組のものや、縄張りを荒らしたものを折檻するための牢だ。石の壁には幾つもの血痕が飛び散っており、隅の方には箒尻等の拷問道具が鎮座している。まだあどけない年の娘を入れるには酷だと猿は思ったが、親分の命令には逆らえない。
 案の定、牢に入れられた娘の瞳には怯えの色が伺える。

 「……お前さん、ほんとに物の怪なのかい?」

 膝を抱え隅に蹲る娘に猿は話しかける。郷里の妹とどうしても重ねてしまい、哀れに思いあのような提案をしてしまった。これですぐさま女郎屋に売られるというのは避けられたが、ずっと此処にいてはそれも時間の問題だろう。

 「…………」

 娘は顔を上げ、ゆっくりと首を横に振った。

 「なら、やはり異人さんかい?」

 そう問われ、娘は今度はほんの少し顔を俯け、微かに首を縦に振った。泣きそうな表情であった。

 「だとしたらやはり阿蘭陀人とのあいのこかい? なんでここらをうろついていた? しかもそんな妙な格好をして、さらってくれっていってるようなもんだぜ」
 「………」

 相変わらず娘は黙ったままだった。
 もしかしたら言葉が通じないのか、と一瞬思ったが、先程の問いかけには反応していた。とすると言葉が通じないのでも耳が聞こえないのでもなく、ただ単に喋れないだけなのか。
 娘の纏っている不思議な雰囲気は、異国の人間というだけではなく、声を失うほどの辛い体験をしたからか。

 「そうだ、お前さん、丁半は知ってるかい?」

 懐から賽子と小さな壺をとりだした猿に、娘は目を大きくした。どうやら興味をしめしてくれたようだ。

「簡単に言うとな、二つの賽子をこの壺の中に入れて振って、その和を当てるんだ。賽子の和が偶数なら丁、奇数なら半だ。算術はわかるか?」

 こく、と頷く娘。中盆ほど壺の扱いは上手くないが、娘との勝負なら自分の腕でも十分だ。
 猿は地面に線を引く。そしてそれぞれの陣に「丁」「半」と書く。
 そして猿は賽子を素早く壺に入れると、そのまま地面に着け軽く二回振る。珍しいものを見るように、格子を掴んで娘はその様子を凝視する。

 「俺と勝負しようじゃないか。こいつで俺に勝てたら、お前をここから出してやるよ」

 娘が驚いた顔をした。そんな娘に猿は笑いかける。
ただの用心棒でしかない自分が、親分に了承もなく勝手に娘を逃がすなんてとんでもないことだ。私刑はまぬがれなく、最悪殺されるかもしれない。
 だが娘と妹を重ねてしまった猿にとっては、この娘が女郎屋に売られていくなど我慢できなかった。例え物の怪だろうが異人の子だろうが。
 猿は地面から小石を拾い娘に渡す。

 「この石がコマ札の代わりだ。丁か半、思うところに置いてくれ」

 娘は石をじっと見つめ、壺を見つめた。そして石を地面に書かれた「丁」の陣地に置く。

 「丁、だな。よし、壺を開けるぞ」

 猿も娘も息を飲み、壺から現れた賽子を見つめる。賽子の数字は……一と一。ピンゾロの「丁」だ。

―――

 結局、猿は娘に負けた。あの後三回程勝負をし、その全てで娘は勝った。

 手心は加えていない。最初の一回こそまぐれかと思ったが、そのあと立て続けに娘は当てた。イカサマはなかったはずだ。娘は格子の向こうにいたし、イカサマなどできるはずはない。
 そして約束通り、猿は娘を牢から逃がした。
 渋る娘の背を強引に押し、娘を見送った後、異変に気が付いた三下に親分の前へ引きずられ、裏切りとして鉄火場の皆に手ひどい制裁を受けた。
 全身に酷い痣や傷をつけられ、意識が朦朧とするなか、親分が衝撃の一言を放った。

 「お前、大方あの娘が郷里の妹のようで哀れに思ったんだろ? だが残念だったな。お前の妹も母親も、別の組の女衒が女郎屋に売り飛ばしたって聞いたぜ。しかも借金を返す間もなく二人とも首くくっておっちんじまったらしい。もうお前の守ろうとしていた可愛い妹と母はこの世にいなかったってわけだ」

 呵呵大笑する親分に、猿は渾身の頭突きをくらわした。だが手負いの身では大した傷を負わせられなく、逆に手下どもに更に手酷く暴行を受けるはめになった。

 そして簀巻きにされ川に流され、こうして今、下流の行き止まりで生死の境を彷徨っているわけである。

 (俺がやってきたことは……全部無駄だったんだな……)

 全身の熱が引いていき、身体の感覚はもうない。殴られすぎて腫れた瞼のせいで狭い視界が、更に白く染まっていく。
 これが俺の最後か……。猿は観念した。やくざの用心棒として数々の悪事に手を染めてきた。そんな罪深い俺に相応しい最後だ。

 バサバサと音がし、大きな鴉が猿を見下ろしている。おいおい、もう死肉をあさりにきたってわけかい? 待ってくれよ。もう少しであの世にいくからさ……

 すると鴉は大きく膨れ上がったかと思うと、人間の男の姿へと変貌した。なんだ、最後に見る夢にしてはおかしな夢だな。

 「ほんとにこいつを助けるのか?」

 鴉のような男が言う。その言葉と同時に猿の視界にもう一人入ってきた。結いもしないで無造作に肩まで垂れ流している金髪。青い瞳。間違いない。自分が牢から逃がしてやったあの不思議な少女だ。

 「…………」
 「! ……お前それは本気か!?」

 こくりと少女が頷く。なんだ、なんの話をしているんだ。
 鴉のような男は、尚も少女に向かって何かを怒鳴りづけていたが、少女は一言も発さない。なのに二人の間には意思の疎通ができているみたいだ。なぜだろう。

 暫くして少女は男を押しのけ、なにか分厚い本のようなものを開いた。するとそこから光が発し、瀕死の猿を包み込んだと思うと――。

―――

 「し、信じらんねえ……! こんなことが……!」

 猿は、いや、猿と呼ばれていた人間「だった」男は、自分の身体を見て言葉を失った。
 少女の作動した悪魔合体プログラムによって、既にコンプ内に貯蔵していた魔獣・ショウジョウと合体させられた男は、まさに渾名のとおり大柄な猿の身体へと変化していた。

 『……本当は、もっと人間に近い形で生き返ると思ったんだけど……』
 「そういう問題じゃないだろう!」

 黒づくめの男の怒鳴り声が耳から入ってくるのに対し、異相の少女の声は直接脳内に響く。この不可思議さと己の身体に起こった変化が、どちらも少女が引き起こしたらしいというのがかろうじてわかった。

 「お、お前さん……お前さんはやっぱり、物の怪だったのかい?」

 黒い男と怒鳴りあっていた少女が、やっと猿の方を向く。そしてふっと笑った。猿にはそれが自嘲の笑みに見えた。

 『いえ、人間よ。でも、半分物の怪かもしれない……』

 答えながら少女は眼鏡をかけた。随分不思議な形の眼鏡だ。猿がみたこともない形状だ。
 次に少女は右手を開いた。そこには二つの黒い賽子があった。

 『勝負しましょう』

 目をぱちくりする猿に少女はそう問いかけた。そして地面に放られていた欠けた茶碗を拾い、中に賽子を入れそのまま地面に茶碗を押し付ける。

 『貴方が勝ったら私達は貴方の仲間になる。言うことをなんでも聞いたげる。そのかわり私が勝ったら、私の"仲魔"になって。私の目的のために力を貸して』

 背後で控えていた黒い男は、何を勝手に決めていると怒ったが、少女も猿も無視した。丁か、半か、まさに運命を決める賭けである。

 「俺はピンゾロの丁だ」

 猿が言った。牢での賭けで、少女が最初に当てた数字であったからだ。

 『じゃあ私は半。開けるよ』

 少女の白い手が茶碗を持ち上げた。そこにあった賽子の和は……一と二。イチニの「半」である。

 「はは……また負けちまったな」

 負けたというのに猿の顔には悲壮感はなかった。それどころかどこかすっきりとした様子である。賭けに負けたことも、自分が正真正銘の「猿」の姿に変えられたことも、少女と出会ったことも、全て実は運命だったのではないかと悟った。

 『これで私と貴方は仲魔だね。宜しく』

 猿は居住まいを正し、少女に向かって深々と礼をした。

 「いいでしょう、元々死ぬはずだった身だ。この命、姐さんにあずけまさあ」

 腰をかがめ、右手を前に出し、猿は忠誠を誓った。少女は頷く。黒い男は相変わらず険しい顔をしていた。

 「そういえば、姐さんの名前はなんていうんで?」
 『私は、重女。偽名なんだけどね』
 「偽名? なぜ?」

 ちらりと少女、いや重女は後ろを振り返り黒い男を見つめた。成る程。あの鴉のような男が関係しているのか。

 『それから、こいつの名前は……』
 「やたノ黒蝿。偽名だ」

 黒い男、いややたノ黒蝿はそう言い捨てた。重女を睨みながら。
 どうやらこの二人はただの仲間同士というわけではないようだ。

 「もう行くぞ。ただでさえ座標軸の数値がずれてこんな時代にきてしまったんだ。とっととアマラ経絡を造り次こそはあいつのところへ行くぞ」
 『うん』
 「東の方に強い力を感じる。恐らくそこに行けばアマラ経絡を造るためのエネルギーが確保できる」

 黒蝿が黒い翼をはためかせ、強烈な風を起こす。その風に包まれ重女と、後に石猿田衛門と名付けられる魔獣は、川辺から姿を消した。
 風に運ばれながら、重女は先程の賭けで使った黒い賽子を、田衛門に見られないようそっと握りつぶした。影の造形魔法で作った、それぞれの全ての面に一と二しかない、イカサマ用の賽子を潰し、その賽子は影となって消えた。

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 時は大正時代。

 西洋文化が浸透し、人々の生活や政治が近代化され始めた時代、帝都――現在の東京には悪魔が出現しはじめていた。いや、悪魔や鬼といった人ならざるものの存在は遥か昔から存在が確認されている。そしてそれを祓う者も。
 その名は葛葉ライドウ。国家機関ヤタガラスから帝都守護を任されている悪魔召喚師、 由緒正しきデビルサマナーの十四代目である青年は、お目付け役の黒猫「ゴウト」も連れず馴染みの反物屋に訪れていた。
 任務ではない。ただ先日の悪魔退治にて外套が破れてしまったので、外套を新調するのと同時に、何反か着物を注文しようかと来たのである。
 絵草子から抜け出してきたかのような美青年のライドウが、暖簾をくぐり店に来た途端、看板娘は目を大きくし、「いらっしゃいまし」と普段より高い声を張り上げる。この光景はもう見慣れたものである。ただ、ライドウが気になったのは、看板娘の隣にいた背の高い男の存在だ。
 緑がかった黒髪を後ろで一つに束ね、紺色の着流しに身を包んだ青年。ライドウと同じくらい背が高く、年も近いと思われるその男は、一見すればただの町人といった風情だが、ライドウが気になったのは彼の纏っている空気である。

 ――この男、ただの人間ではない。

 悪魔召喚師としての勘、とでもいえばいいのだろうか。人ならざるモノに関わる者は、必ず普通の人間とは違う雰囲気を放つ。この男も上手く隠してはいるが、ライドウ程の実力者相手にはその「気」を全て誤魔化すのは不可能に近いことである。
 男は店で一番安い海老茶色の女物の着物を一反だけ買い、店を出ようとした。出入り口を通るとき、男とすれ違った。二人の視線が一瞬交錯する。男の切れ長の瞳の中に、ライドウはほの暗い光を見出した。
 やはりこの男、同業者か、あるいは――

 す、とライドウは懐から小さな紙切れを取り出し、それを去っていく男の背中に貼りつけた。魔力が籠った呪符である。これであの男の追尾が可能になった。
 同じ悪魔召喚師なら、帝都守護職であるライドウが顔を知らないわけがないし、向こうもライドウを知っているはずである。しかし男はこちらを見ても眉一つ動かさず挨拶もしてこなかった。ならばあいつはヤタガラスに属していないはぐれ召喚師か、あるいは人外のものか。
 男の暗い瞳を見たライドウは、後者の可能性が高いと感じた。なんの為に人間に擬態しているのか、まだ目的が分からないので、暫く男を泳がせることにした。人間に危害を加えようとすれば呪符が身体の動きを封ずるし、仲間のもとへ向かうのなら、巣を見つけて悪魔どもを一網打尽に出来る。今はあの男の動きを読む時だ。
 学帽の下の柳眉をしかめるライドウに、看板娘はただオロオロするだけであった。

―――

 帝都から離れた小さな村。昔ながらの藁ぶき屋根の民家が立ち並び、あちこちに梅の木が生えている。
春を迎え、青い梅の実がなり、甘酸っぱい匂いが風と一緒に流れてくる。
 その風を受けて、むしろの中で身を震わす二人の子供がいた。肩まで伸びたぼさぼさの黒髪に粗末な着物。そして同じ顔。この二人の男の子供は双子であった。
 二人は路地裏で身を寄せ合いながら震えていた。春とはいえまだ風は冷たい。冷たい風にのって届いた梅の香りを、二人はくんくんと嗅いだ。

 「いい匂いだね」
 「梅の香りだよ」
 「おっかさんの作ってくれた握り飯、いつも梅が入ってたね」
 「あれは美味しかったね」
 「また食べたいね」
 「食べたいよう」

 双子は、お腹を押さえながら小声で囁きあった。
 もう何日も食べ物を口にしていない。隣近所に物乞いをしても、貧しいのはどこも同じなので、皆見て見ぬふりで誰も食べ物を恵んでくれなかった。
 ほんのひと月前まで、二人は母と暮らしていた。貧しい生活だったが母が農家の手伝いをして、なんとか生活出来ていた。
  しかしある日、母が死んだ。きっと二人に魚を食べさせてやろうと釣りを試みたのであろう。数日降り続いた雨で増水した川に足を滑らせて落ちてしまい、溺れて死んだのだ。
 二人は母の帰りをずっと待った。しかしいくら待っても母は帰ってこない。そのうち住んでいた貸し家の大家が、母の死を知らせに来て、家賃が払えぬなら出て行けと幼い二人の子を追い出した。
 まだ八つにもならない二人は、どうやって生きていけばいいのか分からない。父もいなく、親戚もいない天涯孤独な幼子達は泣いた。しかしいくら泣いても助けてくれるものは現れなかった。
 誰も助けてくれない。でもどうしていいか分からない。二人は路上で拾ってきたむしろに包まりながら寒さをしのぎ、互いの身体を寄せ合い孤独を分かち合った。

 「おっかさん……」
 「助けて……」

 涙を流しながら既にいない母を呼んだ。しもやけで赤くなった小さな手を繋ぎ、二人は目を閉じた。瞼の裏が段々白くなる。もうすぐ、母の元にいける。梅の香りが一層強くなる。おっかさんが漬けてくれた梅干しの酸っぱい味を思い出し、口の中が溢れた唾で僅かに潤い、しかしそれすら飲み込めなく口の端からだらりと垂れる。
 その時だった。身体がふわり、と温かくなったと思うと、誰かに肩を揺すられた。
 二人はほんの少し目を開けた。そこには人がいた。その人は自分達を抱きしめてくれているようだ。
 キラキラ光るお日様みたいな金の髪。晴れたお空のような青い瞳。柔らかい手。女の人?

 「……誰?」
 「……外人さん?」

 その"外人さん"の女の人は、二人が言葉を発したのを聞いてほっと安心したように微笑んだ。眼鏡の奥のその笑みが亡き母に似ているように見え、この人は悪い人じゃない、と二人は感じた。
 女の人は両手を差し出した。その手の上には沢山の青梅。

 「……くれるの?」

 二人の問いに、女の人は頷いた。母が死んで初めて親切に接してくれる人が現れた。どうやら外人さんみたいだけど、この人はいい人だ。目の色も髪の色も違うけど、まるでおっかさんみたい。
 二人は梅をもらうと口の中に入れて咀嚼した。まだ熟していない青梅はとても苦かったが、二人は構わずばくばくと種まで食べた。
 その様子を見て、女の人――重女は、良かった、この子達を助けることが出来たと安堵の息を吐いた。

―――

 帝都では、葛葉ライドウが呪符の気の後を辿り、先程の男の行方を追っていた。
 まだそれ程遠くには行っていないようだ。他の悪魔の気配もない。男の歩いた道を辿っていくと、段々人気のないところへと向かっている。
 悪魔の根城にでも帰るつもりか。ライドウは腰の退魔刀の柄に手を触れながら呪符の気の後を辿った。
 気配が止まった。根城についたのか? ライドウは歩みを早め、とある裏路地についた。しかしそこに男の姿はなかった。あるのは呪符がついた紺の着流しだけ。着物だけが地面に落ちていた。

 「成る程、呪符に気付いたのか」

 相手もなかなかやる、と口許に笑みを浮かべ心の中で賞賛した。
 着物を脱ぎ捨て身なりを変えたのか、それとも何かしらの術で移動したのか。ライドウは男の気を探ろうとした。
 その時、頭上から視線を感じた。あいつか? ライドウはばっと鋭い視線を上へと向けた。
 そこには一羽の鴉がいた。普通の鴉より一回り大きく、足は三本ある。

 「八咫烏!?」

 馬鹿な、あの霊鳥がなぜここに? あの霊鳥は絶滅危惧種のはず。誰かが従えているのか? まさかあの男の真の姿なのか?
 どちらにせよ、これはヤタガラスに報告しなければならない。霊鳥・八咫烏を捕獲しようとライドウは召喚管を解き放とうとした。だがそれより早く、鴉は黒い風を伴い姿を消した。
 舌打ちしながらライドウは管から凶鳥・モー・ショボーを召喚した。

 「モー・ショボー! あの八咫烏の後を追え!」
 「わかったよ。あはは!」

 命令を受け、幼女の姿の凶鳥は空を飛び鴉の後を追った。
 ライドウは外套を翻し、走った。この事をゴウトと自分の所属している国家機関ヤタガラスに知らせる為に。

―――

 ぶわ、と風が重女の髪や服を揺らしたかと思うと、そこに自分の仲魔であるやたノ黒蝿が立っていた。
 その姿を見て重女は眉をひそめた。帝都(重女の知っている東京のことらしい)に向かったときは目立たないよう着物を着ていたのに、今は普段の山伏のような黒い法衣で、鴉のような兜もかぶっている。

 『着物、どうしたの?』
 「……厄介なやつに目をつけられた。そのせいで脱がざるをえなかった。恐らく、あいつも悪魔召喚師だな。しかもかなり強い……」

 悪魔召喚師。懐かしい響きだ。シドも確かそうだと言っていた。またしても座標がずれて元の世界に帰れなく、こんな昔の時代――恐らく大正時代――に来てしまったが、悪魔召喚師というのは大正時代にもあったのか。

 「俺の知っている限り、悪魔召喚師のような職業は平安時代から存在していた。ならこの時代にもいてもおかしくはないだろう」

 そういうと黒蝿は、買ってきた着物を重女に渡した。この格好では目立ちすぎるので、黒蝿がわざわざ帝都まで移動して買ってきたのだ。
 風呂敷をほどき、出てきた海老茶色の袷を見て、重女は少しがっかりした。

 『あんまり可愛くない』
 「文句をいうなよ。それを買う金だって調達するのに苦労したんだ。ぶつくさ言ってないでとっとと着ろ。追手が来るかもしれん」

 確かに贅沢は言ってられない。袷と一緒に帯と襦袢、下帯に上帯に帯どめもついていた。着物は初めて着るが、昔浴衣を着たことはあったのでそれと同じ要領で着れば大丈夫だろう。……多分。

 「お前、なんだか梅の香りがするな」

 黒蝿が顔を近づけ重女の匂いを嗅いだ。間近に端正な顔があったので、驚いた重女は思わずそっぽを向いた。顔が赤くなったのを見られただろうか。

 『……さっき、お腹を空かしている子供を見つけたの。男の双子だった。何か恵んであげたくても私何も持ってなかったから、そこの梅を沢山あげたの』

 少し誇らしげにそう言って、そこ、と指さした先には沢山の実をつけた梅の木が庭にある家屋。重女はあそこから影を操り梅を盗んできたのだろう。花泥棒ならぬ梅泥棒。しかし、そこの木の梅はまだ青梅である。

 「……お前、まさかとは思うが、青梅をやったんじゃないだろうな?」
 『? そうだけど? 梅酒を作るときは青梅を使うじゃない。近所のおばさんが作ってるの見たよ』
 「この馬鹿!!」

 怒鳴り声と共に重女は思いっきり引っぱたかれた。小柄な身体が地面に倒れ、眼鏡が顔から外れ地に転がる。
 何をする、と言い返したかったが、目の前の黒蝿の怒りの表情に圧倒されて念話を送れなかった。

 「青梅には毒があるんだぞ! 直接食ったら最悪死ぬ場合もある。……まあその子供もまさか青梅を口にしたとは思えんが……」

 そこまで聞いて、重女の顔は一気に青ざめた。青梅よりも真っ青に。

―――

 苦しい。苦しいよう。お腹が痛い。身体が動かないよう。

 双子が青梅を大量に食べてしまい、そのまま倒れてしまってどれくらいたっただろうか。
 ただでさえ暫くものを口にしていなく衰弱していたところに、毒性のある青梅を種ごと食べたのだ。毒の巡りは 通常より早く二人の身体を蝕み、ついに瀕死状態にまで陥った。

 僕たちこのまま死ぬのかな。死んじゃうのかな。そしたらお母さんに会える? きっと会えるよ。

 朦朧とする意識の中、二人は互いの手をとりあった。
 もっと生きたかったなあ。そうだね。周りは怖い人ばかりだよ。でもあの女の人みたく優しい人もきっといたよ。いたよねえ。僕たちのお母さんになってくれないかな? 駄目だよ、だって僕たち死んじゃうみたいだし……

 『そんなことない!』

 誰? お母さん?

 『ごめんなさい、青梅なんか食べさせちゃって本当にごめんなさい! 死なせないから。私が救って見せるから……!』

 あの女の人? 僕たちに梅をくれたお姉ちゃん? どうして頭の中で声がするの? お姉ちゃん、泣いてるの?
 
 するとその女の手が現れた。柔らかく細い、僕たちを抱きしめてくれた手。
 瀕死の双子は、そっとその手に己の手を乗せた。すると女の手は、双子の小さな手を闇の中から引っ張り上げ――

―――

 その頃、ライドウはモー・ショボーの連絡を受け、家の者が運転する車で黒猫のゴウトと共に帝都の外れの小さな村に来ていた。
 
 「ここに八咫烏が……」

 車から降りながらライドウはごちる。貧しい小さな村だ。今の世に、こんな村がまだあったなんて。
 貧しい他には、梅の木があちこち植えられている以外取り立てて目立つところはない。悪魔が跋扈している様子もない。何故、こんなところに八咫烏が現れたのか。何故、あのような男の姿に擬態し女物の着物を買っていたのか。
 とにかく、八咫烏は今や絶滅危惧種の霊鳥だ。捕獲して、その名を冠する組織――ライドウも所属している国家機関ヤタガラスに保護してもらうのが得策だろう。

 『ライドウ! あれを!』
 
 ゴウトに言われ、ライドウは一本の木に目を止めた。とても大きな古い樹木。樹齢は恐らく百年近いだろう。あそこから強い気を感じる。目を凝らして見れば、そこの空間が歪んでいる。そして人が立っていた。女と、幼子が二人。なんだあいつらは? 女の方は不思議な形のズボンと身体の線がわかる上着を着用しており、眼鏡をかけている。足元には、狸の耳と尻尾を持つ同じ顔の子供が二人。そして肩には三本足の鴉――

 「八咫烏!? おい、女!」

 ライドウが叫ぶと、女はびくっと肩を震わせ、こちらを見た。金髪と青い瞳も目立っていたが、頬が殴られたかのように腫れていたのも妙に印象的だった。

 女――重女は謎の青年に怒鳴られ、その瞬間にアマラ経絡を閉じかけてしまいそうになった。だが鴉に姿を変えた黒蝿につつかれ、重女は急いで黒蝿と、紅梅白梅童子と名付け悪魔合体させ蘇らせた双子と共に、アマラ経絡へと飛び込んだ。

―――

 ライドウとゴウトが八咫烏を捕まえるより早く、アマラ経絡は閉じてしまった。
 樹木の幹に手を当ててみる。しかしもう霊道は消滅してしまい、娘も、八咫烏の姿もない。

 「何者だったんだ? あの娘は……」
 『俺にもわからん。だが、この事はヤタガラスに告げなくてはな』

 異相の娘が絶滅危惧種の八咫烏を従え、謎の失踪をとげた。この俺をまいて。
 とにかく、この事はゴウトの言う通りヤタガラスに報告せねばならない。帝都に戻らねば。十四代目葛葉ライドウは帝都守護職の悪魔召喚師。帝都とそこに住まう人々を守らねば。そのために僅かな違和感さえも解明せねばならない。

 家人の運転する車に乗ろうとしたとき、ライドウの頬を風がくすぐった。あの八咫烏が纏っていた黒い風にも似たそれは、甘酸っぱい梅の香りを、ライドウの鼻腔に届けた。


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 その作家は、苦しんでいた。

 十九世紀初頭、現在のドイツの前身であるプロイセンの中央に位置するヴァイマル公国。初老の男が机に向かって頭を抱えていた。床には丸めた紙がいくつも転がっている。
 男は豊かな才能の持ち主で、幾つもの小説、戯曲、詩を描いて、その全てがヒットし、一躍人気作家となった。
 数年前には妻を亡くし、自身も腎臓を患い、度々隣国に湯治に行ってはいたが、まだまだ文学への情熱は失っていない。
 しかし、ここ数日、 男は頭を抱えていた。今書いている作品の筆が進まない。俗に言うスランプである。
 ぼんやりとした展開は頭の中で浮かんでいる。しかしそれを文章に出来ない。
 今度の作品は戯曲である。悪魔と天使と人間の男、そして可憐な少女を出すことは決めていたが、それらをどう動かしていけばいいのか、続きをどう書けばいいのかがさっぱり思いつかなく、男は頭を掻く。

 可憐な少女――ふと、男は、自身の初恋を思い出した。
 子供の頃はフランクフルトにすんでおり、近所の料理屋に勤めていた娘に恋をした。男が十四歳の時である。
 結局、その恋は実らなかったが、その娘の美しさは今でも思い出せる。金髪の美しい青い瞳を持った優しく、そしてとても敬虔な娘であった。聖書を殆ど暗記し、毎日の祈りを欠かさない。もし女神がいるなら、このような女性であったであろうとさえ十四歳の男は感じていた。
 何故、子供の時の淡い記憶を思い出してしまったのか。もうその娘はいないというのに。

 「……少し旅行にでも行こうか」

 もうすぐハルツ山地のブロッケン山でヴァルプルギスの夜がある。別名魔女の宴と呼ばれるその祭りに男は前から興味があった。四月三十日の夜から五月一日にかけて催される祭りは魔女や悪魔が集まりサバトを開くらしい。特にそういった存在を崇拝しているわけではないが、春の訪れを祝う人々を見るのは純粋に面白い。それを見れば戯曲のアイデアも浮かぶかもしれない。

 男は椅子から立ち上がると、小間使いを呼んで旅の支度を命じた。今から馬車で行けばだいたい一日で着くだろう。出来れば心優しき魔女が自分にアイデアを授けてくれればいいのだがな、と男は妄想した。

―――

 重女は、困っていた。

 周りには日本の家屋とは違う、レンガ造りの洋風の家々が並び、往来を行きかう人々はどう見ても日本人ではない。
 髪の色も瞳の色も様々な人々が、これまた洋風のドレスに身を包み、英語とは違う聞いたこともない言語を喋っている。
 前回、大正時代からアマラ経絡を発生させ、今度こそシドの元へ行けると思っていたのだが、また違う時代に来てしまったらしい。いや、時代どころか国すら違う。今までの時間遡行は時代こそ違えど同じ日本に着いていた。
 それが今回はどうだ。此処はどう見ても日本ではない。人々も建物も言葉も明らかに日本とは異なる。
 動揺を抑えて重女は辺りを観察する。白人が多く、しかし話されている言語は英語ではない。建物や人々の着ている洋服から見て、此処はヨーロッパだろう。ヨーロッパのどこの国かは流石に分からないが、服装からみて前回よりもっと古い時代のようだ。
 子供達が花の冠を頭につけてキャッキャッとはしゃいでいる。そこかしこで屋台のようなものも出店しており、篝火を灯すための木々がくべられている。気のせいか、皆どこか浮き足立っているように見えた。

 『……お祭り、なのかな?』
 重女は足元の鴉へと姿を変えた黒蝿に念波を送り聞いてみる。黒蝿はじっと人々の話す言葉に耳を傾け、近くの山に目を凝らす。

 「どうやら今日の深夜から、"魔女の宴"が催されるようだ」
 『魔女の宴?』
 「人間達の間では春の訪れを祝う祭りだがな、だが本当はそこのブロッケン山に魔女や悪魔が集まり宴を開く。強力な悪魔が沢山集まるから、マグネタイトも膨大に奪えるぞ」

 日本語以外の言語まで理解できる黒蝿に舌を巻いたが、魔女が実在しているということに重女は驚いた。

 『魔女って本当にいたんだね』
 「そう呼ばれる存在には何人か会ったことがある。ある意味悪魔召喚師と似たようなものだ。異形の者を従え、人の理を超えた術を使う。そういう意味ではお前も"魔女"なのかもな」

 からかうように黒蝿は言ったが、重女は真剣な顔をして黙り込んだ。
 魔女。確かにそうかもしれない。箒で空は飛べないしマグネタイトも生成できないし、術は影の造形魔法しか使えないけど、黒蝿をはじめ、何匹もの人ならざぬものをコンプで従えている私は魔女なのかもしれない。

 『……なら、魔女は魔女らしく宴に参加しないとね』

 少し楽しそうにそう言うと、重女は身を隠していた路地裏から往来へ足を踏み出した。
 ここには髪の色や瞳の色が違うということで差別してくる者はいないはず。なにより祭りの雰囲気に重女は惹かれていた。祭りというものに参加した経験が少ない重女は、例え魔女の宴であろうとも、思う存分祭りを謳歌してみたかった。
 やれやれ、というように黒蝿は重女の後に続いた。前回のように勝手な行動を起こさないように監視しておかないと。
 ブロッケン山で魔女の宴――ヴァルプルギス・ナハトが開催されるまで、あと数時間。その間くらいは自由に行動させておくか。
 まずはあの服から変えさせないと。黒蝿はそっと影を操った。すると影は重女を包んだかと思うと、形を変え、身に纏う衣装がドイツの民族衣装のドレスに変わった。

 「……!」
 「その恰好じゃ目立つだろう。目立ってまたおかしな奴に目をつけられたら困る」

 影の造形魔法は服も作れるのか。感嘆し重女は軽く身体を捻った。すると長いスカートがふわりと揺れる。スカートを穿くなんて久しぶりだ。フリルのついたブラウスも可愛いし胸元を縛るリボンがアクセントになっているのも気に入った。ただそのドレスは黒一色である。

 『……他の子みたいにもっとカラフルなのがいい』
 「影で作ったんだ、どうやっても黒にしかならないぞ。それに"魔女"らしくていいじゃないか」

 くく、と笑いながら揶揄してきた黒蝿に対し、重女は頬を膨らませた。屋台から美味しそうな匂いが漂い、ランタンに火が灯される。
 春の訪れを祝う祭りが始まろうとしていた。

―――

 近くの町に宿をとった男は、早速祭りへと繰り出していた。
 ブーデ(屋台)からいい匂いが漂い、人々は音楽に合わせて楽しそうに踊る。厳しい冬を越えた皆の顔には温かい春の訪れへの歓喜の色があった。
 それらの人々の陽気に当てられて、男の塞いでいた心に風穴が空いた。やはり祭りはいい。来て正解だった。
 男は屋台で食べ物を買い、目の前のブロッケン山を見上げた。懐中時計を見る。今は夜の十時過ぎ。あちらこちらで篝火が焚かれる。既に酒が入って出来上がった者がどんちゃん騒ぎを始めたり、女を口説いたりしている。全く、酒は飲んでも飲まれるな、という諺を知らぬのか。
 身体二つ分離れた隣には、巨大な篝火に照らされて、男と同じくブロッケン山を眺める娘がいた。他の若者のように騒いだりせず、怒ったようにじっとブロッケン山を見つめる少女は、全身黒ずくめのまるで喪服のようなドレスを着て、肩までの金髪は篝火の光を反射しきらきらと光り、青い瞳はまるでザフィーア(サファイア)のようだ。
 瞬間、男の青春時代の思い出が掘り起こされた。フランクフルトでの少年期、よく行った近所の料理屋、そこで働いていた優しく美しい、男の初恋の少女――

 「グレートヒェン!?」

 急に大声で話しかけられ、娘はびくっと肩を揺らし、こちらを向いた。背格好と金髪と青い目はたしかにグレートヒェンに似ていたが、娘の顔の造りはグレートヒェンとは違い東洋系の顔立ちであった。
 日本人か、はたまた清国の者であろうか。

 「………失礼」

 男は罰が悪そうに帽子の縁で顔を隠した。
 考えてみればグレートヒェンが此処にいるはずがないのだ。自分より年上であった彼女は、生きていればもう老婆だ。思い出の中の初恋の少女は既にいなく、自分も年をとった。皺くちゃな自分の手を見て男はため息を吐いた。
 ちら、と男は娘の方を見る。娘も自分の方を見ている。いや、正確には男の手の食べ物を凝視していた。
 チューリンゲン地方ではよく見かける、炭火焼きのソーセージを柔らかめのパンにはさんだものだ。ここらでは珍しくもない代物だが、異国の少女には珍しいのだろう。

 「……いるかい?」
 
 す、とそれを目の前に出され、少女は戸惑い、足元に視線を落とした。そこには鴉がいた。黒づくめの格好といい、足元の鴉といい、まるで小さな魔女みたいだな、と男は内心笑った。
 視線を受けた鴉は頷いた。そっと少女はパンを受け取り、ソーセージを一口齧った。すると少女は目を大きくさせ、驚きの表情でもう一口、二口と食べ始めた。良かった。どうやら気に入ってもらえたようだ。
 少女が口を動かした。しかし声は出ていない。男は目を細めてその薄紅色の唇の動きを見た。やはりというか、それは男の母国語の発音の形ではなかった。日本語か、もしくは他の東洋の言語か。
 しかし言っている内容は察しがついた。お礼を言っているのだろう。

 「Bitte schön.(どういたしまして)」

 男は帽子をとり深々とお辞儀をした。
 まるで役者のように大げさな仕草に、少女は鴉と目を合わせ微笑んだ。

―――

 時刻は午後十一時。重女は自分を「グレートヒェン」と呼んだ老人となんとなく行動を共にしていた。

 その老人は優しく、自分に色々話しかけてきたり、屋台に売っている食べ物を買ってくれたりした。
 老人が優しいのには訳がある。首の痣を指さし、自分は声が出ないということを身振り手振りで表現すると、老人は気の毒そうな顔をして、重女に向かって喋りだした。

 黒蝿の通訳によると、
 声の出ないお嬢さんがこんな異国の祭りに一人で来ているとはよほどのことがあるのだろう、貴女は私の昔の知り合いによく似ている。ここで会ったのも何かの縁。どうか私と祭りを共に楽しんではくれないだろうか、と言っているらしい。

 ここでのことは右も左も分からない重女は、この申し出を有難く受けた。老人の話している言葉――この時代のドイツ語だと黒蝿が言っていた――は日本人である重女には分からなかったが、黒蝿が通訳してくれ、それに対し頷いたり微笑んだりするだけで、老人は嬉しそうに喋り続けた。その親切さに、重女はミカド国で会ったキヨハルの姿を思い出した。
 すると老人が屋台のおばさんのドレスについていた赤いリボンを金で買い、そのリボンをまるでチョーカーのように首に優しく巻いてくれた。首の痣はリボンで隠れ、黒一色のドレスを纏った重女の首元に、鮮やかな赤の花が咲いたようだった。

 「……!」
 「ああ、やっぱりとてもよく似合うよ」

 こんなに親切にしてもらっていいのだろうか。キヨハルさんといい猿といいこの老人といい、皆優しすぎる。
 つん、と鼻の奥が熱くなった。それを悟られないように重女は横を向いて、何かお礼はできないかと考えた。 こんな時、声を奪った黒蝿を恨ましく思う。声さえ出ればいくらでも感謝の言葉を発することができるのに。
 しかし結局声は出せない。なにか、この老人に感謝の意を示したい。何かないか、何か――。

 ふと、暗がりに咲いている花を見つけた。白いマーガレットの花だ。
 重女はそれをかがんで摘み、老人に差し出した。彼女なりの感謝の行動だ。

 「……これを、私にくれるのかい?」

 問いかけに重女はこくこく、と頷いた。男の人だから、花はダメだったろうか? でも私はこの国のお金をもっていないし、何も渡せるものがない。喜んでくれるといいのだけれど……
 老人は少しの間驚いていたようだが、やがて破顔一笑した。

 「そうか……この花をくれるとは……嬉しいよ「グレートヒェン」」

 またグレートヒェンと呼ばれた。人の名前だろうか。先程言っていた私に似ているという昔の知り合いの方の名前だろうか?

 首を傾げる重女を、鴉になっている黒蝿は面白そうに見上げた。
 実はグレートヒェンというのは、「マルガレーテ」という女性名の愛称である。マルガレーテというのは英語でマーガレットのこと。偶然であったが、重女はそれを知らず老人の「昔の知り合い」の名の花を差し出したのだ。

 がし、と老人は重女の手を握ってきた。いきなりの行動に重女は目を丸くした。二人の手の間でマーガレットの花が揺れる。

 「君……君は本当はグレートヒェンの生まれ変わりなんじゃないのかい? もしくは神がこの老いぼれに遣わせてくださった精霊か……」

 いきなり手を握られ切羽詰まった表情でまくしたてられ、重女は狼狽した。足元の黒蝿に通訳を目で催促したが、何やら面白がっている色がその目にあった。もう! なんなのよ!

 「君さえ良ければ、私と一緒に来てくれないか? 君をモデルにした作品を書きたい。怪しいものではないよ。こう見えて私はちょっとは名の知れた作家なんだ。私の名は――」

 鬼気迫る表情で手を離さない男に、重女は軽い恐怖すら感じていた。さっきまであんなに親切だったのに、一体何が――
 その時、人々が大きな歓声を上げた。それにつられ老人が顔を横に向ける。咄嗟に重女は手を離した。

 「おい、見ろ!」

 黒蝿がブロッケン山の方角を嘴で指した。重女も山の方を見る。
 無数の篝火に照らされたブロッケン山に、虹色の輪がかかっている。霞がかっていたその輪は次第に輪郭がはっきりとしてきて、色彩も鮮やかになってきている。さながらそれは仏の後光のように。
 「ブロッケン現象」というものだ。しかしおかしい。ブロッケン現象が起こるのは霧がかった朝方、もしくは昼や夕方に日光等の光を浴びて起こる。篝火があるとはいえ、こんな真夜中に、しかもあんなにくっきりと浮かび上がるのはどう考えてもおかしい。

 『魔女の宴が始まったのね』
 「ああ」

 そう言うと黒蝿は鴉の姿から人型に変化した。重女もポケットに入れてあった眼鏡をかけ、黒蝿から聖書型コンプを受け取った。先程と違い、二人の目には臨戦の炎が浮かんでいた。

 「グ、グレートヒェン!? 君は一体、何者なんだ?」

 人型に変化した黒蝿に驚き、わなわなと身体を震わせる老人に、『違う、私はグレートヒェンじゃない』と念波を送った。
 その声は耳から聞こえたのではなく、頭蓋骨を振動させ脳に直接届いた。しかもあどけない少女の姿とは不釣り合いな、低い「男」の声であったので、老人はますます混乱した。
 
 「鴉を従えおかしな妖術を使っている!? ま、まさか君は魔女なのか!?」

 重女は首元のリボンに触れた。老人が自分に贈ってくれた厚意のリボン。黒一色の自分を彩る真紅のリボン。その赤は今は闇に咲く徒花の色に思えた。

 『……そうよ、私は魔女。異形を従え、異形を討つ。人の理を越えたもの』

 ぶわ、と黒い男の翼がはためくと、辺りに烈風が巻き起こった。烈風は祭りの参加者や老人を吹き飛ばす。近くにあった木の幹にしがみ付きながら、風の中にあの少女の声を聴いた。

 『ありがとう。貴方のご親切は忘れません』

 激しい風が止むと、そこにはもう少女の姿はなかった。

 「グレートヒェン……」

 ぽつりと呟く老人の足元には、少女がくれたマルガレーテの花が一輪、落ちていた。
 時刻は深夜零時。魔女の宴――ヴァルプルギス・ナハトがいよいよ始まる。
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 時間移動、というのは身体と精神に酷く負荷をかける。

 アマラ経絡という空間を繋げるエネルギーの霊道を通る時、重女の身体はいつも見えない“何か”が通っていった。
その“何か”は重女の肉体の裏側から体力や生気というものを奪っていく。
 おかげで経絡を出る頃には、酷い倦怠感と精神の混濁がついてくる。しかもそれは回数を重ねる毎に酷くなっていくのだからたまったもんではない。
 だから経絡を出て、ぼーっとしている重女に、黒蝿は肩を叩き、ほんの少し生気を分けてくれる。
そうすることで、重女の混濁した頭はすっきりし、身体もなんとか動かせるようになる。今までの四回の時間移動では、それで済んでいたが、今回はそうもいかなかった。
 “魔女の宴”での戦いは重女の心身にかなりの負荷をしいたらしい。戦い自体は今までとそれ程変わらなかったのに、それでも暫く目を覚まさなかったのは、今までの遡行で蓄積された心身の疲労がピークに達していたらしい。

 重女が重たい目蓋を開くと、そこに黒蝿の姿はなかった。
 代わりに視界に入ってきたのは、茶色い天井であった。それはくすんだ木の板でできた屋根である。
 つん、と土と草と、不思議な薬の香りがした。近所の農家の畑の前を通った時に嗅いだ匂いにそれは似ている。堆肥と青草とお日様の匂い。重女も何回かその農家の手伝いをしたことがあり、報酬として僅かなお小遣いや瑞々しい野菜をもらったっけ。

 「お目覚めかい?」

 男の声が聞こえた。重女は首を動かし、横を向いて声の主を確認した。そしてぎょっとした。
 
 その男は不気味で妙な男であった。

 まず最初に目についたのは、狗の面。狗を象った白い面が覆っているので容貌は分からない。だが、とても小顔である。胡坐の姿勢なので身長は分からないが、華奢な手足を見る限りあまり高くはないだろう。
 声を聞いていなければ、自分と同年代か少し下の少女かと見間違えていた。それほどまでに中性的な男である。頭には奇妙な模様の頭巾を被っている。頭巾からはみでている髪は枯れた草のような緑。不思議な色だ。赤毛の外人さんがいるとは聞いたことがあるが緑色というのは聞いたことがない。この人のは地毛なのか、呪術的な意味で染めているのかは分からない。
ごりごり、と棒で大きな椀の中で何かを擦っている。
 
 (……男……だよね?)

 疑問に思い、怠さの残る半身を起こす。かさり、と身体の上にかかっていたものが動いた。それは妙に薬くさい筵であった。
 
 「もう大丈夫か?」

 男が顔を覗いてきた。先程は焦点が合わなく気づかなかったが、よく見ると、男の面の下から僅かに覗く皮膚には、刀傷が無数についていた。
 
 「…………」

 男から顔を動かし、重女は周りを確認した。
 今までの時間移動で身に着いた癖である。まず自分はどこにいるのか、ここはどの時代か、どの国か、自分はどのような状態におかれているのか、を把握するため、目を皿のようにして辺りを観察する。
 男の着ている着物と、木で出来た小屋、どこか懐かしい空気、そして男の言葉が聞きなじんだ日本語だったので、ここは前回とは違い日本だろう。
 では、どの時代か。仲魔の石猿田衛門と会った時は江戸時代末期であり、紅梅白梅童子と出会ったのは大正時代。大正・明治などの近代でないことは家屋の造りや男の着物からして明らかだ。
 なら江戸時代か。と、いっても江戸時代は長い。260年以上も続けば初期、中期、後期で文化は大きく変わる。しかし重女は、男と、板と藁で出来た質素な家屋から、少なくとも猿と出会った幕末ではないと感じた。
 こんなことなら、もっと歴史を勉強しておくんだった……。

 「はい、これ」

 きょろきょろしていた重女に、狗面の男が小さな椀を差し出した。椀の中には緑色の液体。その液体は強烈な匂いを放っている。

 「毒じゃないよ。薬草を水に溶いた。ちょっと苦いけど良く効くぞ」

 確かに良く効きそうである。良薬口に苦しとは聞くが、それはこれが本当に薬ならだ。
 毒じゃないという保証はどこにもない。この妙な男が何者かもわからない。大体、ここが昔の日本であるなら、金髪で青い目の自分は忌むべき存在として排除されるか、奇異な目で見られるかが常套。それは自分の生い立ちや、猿の時の経験で分かっている。

 ――そうだ、黒蝿は?

 一番に確認すべき存在を忘れていた。仲魔であるやたノ黒蝿。ブロッケン山の″魔女の宴″で私は気を失って、その後のことは覚えていない。こうして別の時代に来たということは、恐らくアマラ経絡は造れたのだろう。しかし、黒蝿はどこにいった? まさか、経絡のエネルギーの渦に飲み込まれ離ればなれになってしまったのか!?

 「ああごめん。自己紹介を忘れてた。
 私は頭領。ここの集落のまとめ役だから頭領って呼ばれてる。この面はな、ちょっと傷を隠すためにつけている。別にやましいことがあってつけているわけじゃないから、安心してくれ」
 
 余程自分は怯えた顔をしていたのだろう。頭領と名乗った男は、諭すような優しい口調でそう言った。

 「あ、あとこれ。君のだろ。変わった書物だね。何でできてるんだい?」

 男はまたなにかを差し出した。黒い革の表紙のそれは、もうすっかり自分の手に馴染んだ、聖書型コンプである。
 重女は椀を床に置き、コンプをひったくるように受け取ると、聖書を開き中ほどのページに手のひらを押し付ける。すると微かにページが光り、コンプが起動した。すぐさま状態を確認する。黒蝿を除いた他五体の仲魔はきちんと収納されており、悪魔合体プログラムも正常のようだ。ほっと胸を撫で下ろす。

 「へえ! 今光ったよね! どうやった? これ面白いな」

 気が付けば男が肩からコンプを覗き込んでいる。重女は驚いて反射的にコンプを閉じてしまった。
 男ががっかりしたように首を竦めた。面のくりぬいた目の部分からの視線と、その様子があどけない少年のようで、重女は少しだけ警戒を解いた。
 近くに寄った男からは、血と、汗と、薬草と、日向の土の香りがした。

 「………」

 コンプを膝に置き、床に置いていた薬草の汁が注がれたお椀を手に取った。
 さっきごりごり擦っていたのはこの薬草だろう。自分の身体を気遣ってわざわざ作ってくれたのか。
 今までの様子からみて、容貌は変わっているがこの男は悪い人ではないようだ。少なくとも自分に危害を加える気配は感じられない。よく考えれば、危害を加えるなら気を失っていた間にとっくに行っていたはず。
 
 毒ではない、と判断し、重女は意を決して汁を一口飲む。途端に物凄い苦味が口の中いっぱいに広がり、思いっきり顔をしかめた。
 その様子を見て、頭領は笑った。面をしているのでわかりにくいが、唇が逆三角形に変わったのを見て、きっと優しい笑顔を浮かべているんだな、と重女は思った。

 こうして、京の西の外れの平原“骸ヶ原”の端の集落に重女達は降り立った。
 時は平安時代中期、武士の地位が静かに上昇しはじめた時代である。

―――

 骸ヶ原――その昔、ここで大きな合戦があり、その戦に参加した者の数えきれない程の屍が放置されたままだったことから、いつしかこの平原は“骸ヶ原”と呼ばれるようになった。
 時を経て、大江山の朱点童子が京に鬼を放ち、その鬼は京の外れのここ骸ヶ原にも出没するようになった。とくに合戦が起こった夏頃になると瘴気が濃くなり、鬼の活動が活発化し鬼の巣窟まで出現する。
 そんな骸ヶ原の隅に、かつてここで起きた戦に参加し生き延びた男が「頭領」を名乗り、訳あり者をまとめ、集めた小さな集落がある。

 昨日、その骸ヶ原の集落に謎の訪問者が現れた。

 そいつらは一組の男女であった。どちらも奇妙ななりで、男の方は黒い山伏のような恰好で、黒い篭手に黒い具足。鴉を思わせる兜をかぶり、目つきが悪い。
 女の方は十四、十五程の金髪の少女で、着物も身体の線がわかる上衣に、これまた見たこともない形状の袴。女はぐったりと男に抱かれていた。恐らく気を失っているのだろう。

 ――宿はあるか。手間賃は払うので一日でいいからここに泊めて欲しい、と男が言った。

 身元が分からない謎の来訪者は、ここ骸ヶ原ではそう珍しくない。この二人組もどこぞから逃げてきた訳あり者――恰好からみて、とつくにの者か――であろう。頭領は快諾した。とりあえず女の方は看病と、男衆から避難させる意味もあり、集落では一番造りのいい頭領の家に運ばれた。
 女が頭領の家で寝かされるのを見届けると、男はふらりと集落から出て行った。そして数刻後、男は戻ってきた。手に大きな血の滴る袋を持って。

 袋を広げる。するとそこには大量の解体された肉があった。 

 「こりゃすげえ!」
 「最近はさっぱりだったのに……兄ちゃん、この肉、どこで手に入れたんだ?」
 「……近くの山で狩ってきた。新種の猪と兎の肉だ」

 日が落ち始め、骸ヶ原にも夕餉の支度のためにあちこちで火が起こされ、煙があがる。
 この集落での食事は質素だ。頭領と男衆がこなす、都のある貴族の家の警護の"仕事"で、報酬に米を食えるのは月にほんの数回あるかどうかで、大半の日は山菜や野草、稗に芋に具のない汁、あとは川で釣ってきた魚や猟で狩ってきた獣肉が殆ど。
 しかしその肉や魚も、最近鬼の活動が昼でも活発になってきたせいで、猟や釣りに行けない日が多く、集落の皆は干し芋と炒った豆で何とか毎日を過ごしてきた。
 なので久々に肉を食うことができ、今夜の骸ヶ原はちょっとしたお祭り状態であった。

 「不思議な味の肉だね。私もここら辺にはちょっとは詳しいつもりなのに、この肉は初めてだよ。どこで手に入れたんだい?」
 「近くの山だ」
 「……鬼は出なかったか?」
 「………出なかった」

 頭領の家にて。頭領と男は、臥せっていた少女と共に“近くの山で狩ってきた肉”をほうばっていた。焼き肉、蒸し肉、出汁がたっぷり効いた肉と野菜の鍋。どれも筋張ってなく柔らかくて、それでいて獣臭さはあまりない。
 身体を起こした少女はその肉を一口食べた途端、驚愕に目を大きく見開き、思いっきり男を睨みつけた。青い瞳には怒りの色が浮かんでいる。だが男はその視線を無視した。

 「そうだ、そういえば君達の名前を聞いてなかったな。良ければ教えてくれ」
 「俺は、くろ…………………はら。こいつは、まあ「かなめ」と呼んでやれ」

 "クロハラ"と名乗った男が少女の方を顎で指す。少女の視線は相変わらず険しい。皿の肉に再び口をつけることなく、怒った顔でずっと"クロハラ"を睨んでいる。
 この二人はどういう関係なのだろう。頭領は仮面越しに、二人に流れる空気からそれを読み取ろうとした。恋人というには雰囲気がどこかよそよそしい。かといって親子という程年齢が離れていない。
 では兄妹であろうか。顔は全然似ていないが、世の中には色んな形の血縁関係があるものだし、可能性はある。
 
 「……………」

 少女はまだ"クロハラ"を睨んでいた。何がそんなに気に食わないのか。彼が気を失った彼女をここに運んで、更に滋養をつけるためにと"肉"まで持ってきた。"クロハラ"は彼女に献身的に尽くしている。なのに何故怒っているのか。

 「かなめ、さん? なんで不機嫌なのか知らないけど、ちゃんと食べないと身体が回復しないぞ?」
 「!」

 不意に声を掛けられて、「かなめ」という少女ははっとしたように頭領の方を見た。まだあどけない少女の顔は、やはり隣で静かに食事している"クロハラ"とは似ても似つかない。

 「…………」

 少女は罰が悪そうに下を向いて、暫く皿の肉を見ていたが、やがてきっ、と前を向き肉を食べた。まるで意を決して毒を食うように眉を寄せて肉を咀嚼する。"クロハラ"はずっと無言であった。

 (やれやれ、また変わったのが来たな)

 頭領は小指と薬指が麻痺した右手で、器用に箸を使い鍋の肉を掴みほうばった。集落のどんちゃん騒ぎの喧騒を聞きながら、頭領の家では重たい空気のまま夕餉が進んでいた。

―――

 頭領の作った薬湯が効いたのか、重女の身体は徐々に回復に向かっていった。

 二日も経てば、一人で立ち上がることができるようになった。三日目には普通に歩くことが出来た。四日目には村の女衆に交じり手伝いが出来るまで回復した。
 集落の皆は、重女の金髪碧眼の容姿にも、声が出せないことにも言及しなかった。異相の来訪者に慣れている集落の皆は、重女に侮蔑の言葉を投げかけることも石を投げる事もしなかった。代わりに居場所と役割を与えた。
 洗濯に料理にその他細々とした雑事。家事をするのは慣れていた、が、当たり前だが、重女の時代とは勝手が違う。ここにはガスコンロはないし、水道も通っていない。火の起こし方も分からないし、料理の手順も味付けも大きく違う。声が出せないので意思の疎通もままならなく、次第に重女はうっとおしがられ、雑事と洗濯のみを任されるようになった。
 ごしごしと大量の衣類を川で洗いながら、重女はふう、と憂鬱気に溜息を吐いた。

 (黒蝿のやつ……今日もまた"狩り"に行ってるんじゃないでしょうね)
 
 黒蝿もまたこの集落に受け入れられた。ここでは何故か"クロハラ"と名乗り、頭領をはじめとする男衆の仕事を手伝っていた。
 
 彼の仕事は薪割り他多岐にわたるが、一番成果を上げていたのが"狩り"である。

 誰も連れていくことなく、いつも鬼が出没する平原や山に平然と入っていき、一人で獲物をしとめ、"何故か"その場で解体し、大量の肉を手土産に集落へと帰還する。最初は喜んでいた集落の皆も、段々訝しがるようになってきた。何故鬼が出る場所に一人で行って無事に帰ってこられるのか、何故狩りに決して誰も同行させないのか、そもそもあいつは何者なのか……謎は猜疑心を生み、猜疑心は反発を生む。
 一郎という年若い男を筆頭に、男衆が何人か黒蝿に突っかかったらしい。一郎の挑発を馬鹿にしたように軽く受け流した黒蝿の態度が、皆の怒りの導火線に火を付け殴り合いにまで発展した。が、黒蝿は一度も殴られることなく全員を吹き飛ばした。恐らく"ザン"の術でも使ったのだろう。
 そういった経緯から、黒蝿も白眼視されるようになり、誰も黒蝿が採ってきた肉を食べなくなった。それで正解だ、と重女は思った。
 
 ――何故ならあの肉は、解体した鬼の肉なのだから。

 「………」

 苛立ち紛れに、布を擦る速度を速める。
 此処に来た初日にあの肉を一口齧った時、すぐに分かった。忘れるはずがない。あの味。影の鞍馬山で出現する悪魔を捕まえ解体し焼いて食べた記憶が蘇る。あの独特の味。あれが猪や兎の肉なはずがない。

 (何も知らない一般人に、悪魔の肉を振舞うだなんて!)

 悪魔や鬼の肉を食べても、人間には害はない。少なくとも自分にはなかった。だが自分がなんともなかったからと言って他の人間に、しかもこれから世話になる人々に食わせるなんてもってのほかだ。そう黒蝿に言っても聞く耳を持たなかった。それだけではなく、お前が衰弱していたのが悪い。お前のアマラ経絡の計算が合っていればこんなところに飛ばされることもなかった、などと言ってきた。それっきり黒蝿とは口を聞いていない。
 やっぱりあいつは悪魔だ。血も涙もない、と重女はここ数日苛々していた。

 「か、かな、かなめ! な、なに、してるの?」

 背後から鈴の鳴るような高い声が聞こえた。振り向くとそこには、雪のような白い肌、赤みがかった栗色の長い髪、たっぷりとした胸を肌蹴た襟元から覗かせ、そして大きな腹を抱えた見目の美しい、"狂ひ娘"と呼ばれる娘が立っていた。

 『洗濯、してるの』
 
 重女は仲魔や悪魔にするように"念波"で狂ひ娘に答えた。その答えが"聞こえた"娘はへらへらと笑って見せた。

 「お、お、おれも、て、てつだうよう」

 そう言って屈みこもうとした狂ひ娘を、重女は必死で止めた。

 『駄目だよ! そんなことしたらお腹の赤ちゃんが苦しくなるよ!』
 「あ、そ、そうだね、く、くるしいのはだ、だめだね」

 大きなお腹をさすりながらにこっと笑う狂ひ娘の笑顔を見て、重女は先程まで抱いていた苛立ちが消えていくのを感じた。

 ――狂ひ娘は、重女の"声"が聞こえる唯一の人間だ。

 きっかけは、重女が初めて狂ひ娘を見かけたときの事。にこにこと笑いながら近づいてくる大きな腹の娘が、子を身ごもっているのがわかり、頭の中でつい問いかけてしまった。

 "誰の子? 父親はどこにいるの? "

 念波なので、もちろん仲魔と悪魔以外には聞こえない。しかし狂ひ娘はその問いにしっかりと答えた。

 「し、しゅうまるのこだよう。し、しゅうまる、いまはいない。な、なつになるとあ、あえるの」

 重女は仰天した。思わず『聞こえるの!?』と再び問いかけてしまった。

 狂ひ娘の弁によると、重女が発する"念波"は、お腹の子を通して頭の中に響いてくるのだとか。
 黒蝿はその時いなかった。黒蝿が近くにいるのなら、彼の声を使って人間相手でも"念波"は送れる。しかしどうやら狂ひ娘には、重女の"本当の声"が聞こえているらしい。
 弟のアキラや、今まで会った人間には聞こえなかった自分の声が彼女には届いている。この子、本当に人間なのか? と疑ったが、じっくりと観察しても、人外のものの気配は感じなかった。
 なら、もしかして新しい命を宿した妊婦には、不思議な力が宿るのだろうか? などと妄想してみたが、結局狂ひ娘に自分の声が聞こえる理由はわからなかった。
 
 狂ひ娘はよく重女に懐いてきた。年は自分とそれほど変わらぬだろうに、まるで親に縋り付く子供か、飼い主にじゃれ合う子犬のように重女に色々話しかけてきた。ちょうど村衆から邪険にされはじめていたので、なんの含みもなく接してくれる狂ひ娘は、重女にとって一種の清涼剤のようだった。
 邪険にされるのは慣れている。とはいってもやっぱり悲しいし、落ち込んだりもする。そんなとき狂ひ娘の笑顔に触れると、乾いた心が潤うのを感じた。
 今重女が着ている着物も、狂ひ娘が分けてくれたものだ。ところどころほつれくすんだ藍色の綿の単衣。狂ひ娘いわく「か、かなめの、めのいろと、い、いっしょ。お、おそらの、いろ」らしい。
 狂ひ娘は髪にもよく触ってきた。髪を梳いたり編んだりしながら、「か、かなめのかみは、お、おひさまのいろ」と笑顔で言ってきた。
 ずっとコンプレックスであった髪と目の色を褒めてもらったのはとても嬉しかった。自分の髪と目を奇異な目で見なかったのは、シドと、鞍馬山の地下で会った京子くらいだから、二人を思い出し、尚更嬉しくなった。
 重女の好意が伝わったのか、狂ひ娘とはよく行動を共にした。狂ひ娘もそれを喜んでいるようだった。食事の時も、湯に入る時も、寝るときまで一緒だった。

 『なんだか、友達みたい』

 ある夜、頭領の家で狂ひ娘と茣蓙の上で寝ていて、ふとそんなことを念波で送った。

 「と、とも、ともだち?」
 『うん』

 頭領はもう寝入っている。狂ひ娘が重女についてこの家に入ってきて、一緒に寝ようとすると、頭領は狂ひ娘を諭して追い出そうとした。だが重女が頭を下げて、できれば一緒にいたい、というような事を身振り手振りで示すと、頭領は溜め息を吐きながらも了承してくれた。おかげで狭い家に二人の女と一人の男が寝る形になり、とても窮屈だ。
 
 「と、とも、ともだち、て、な、なに?」

 改めて聞かれて重女は言葉に詰まった。
 そういえば友達の定義ってなんだろう? 口頭で約束したときから? 学校の行きかえりを共にした時から? 放課後買い食いをした時から? それとも互いの家を行き来してお泊りしたときから?
 わからない。でもきっとそれは定義づけるものではないのだろう。こうやって心が通じ合った時、その瞬間から「友達」になるんだろう。

 『えっと……悩みを聞いたりして助け合ったりする仲間の事……かな?』
 「なや、なやみ? なか、ま?」

 幼いままの頭である狂ひ娘には、少し難しい言い回しだったかもしれない。なんと言えばこの子に伝わるだろう? 重女は頭を捻った。
 
 『えーと、例えば狂ひ娘ちゃんのお腹の子が大変なことになったりするとして……』
 「お、おれ、おれのこは、し、しな、しなないよう!」

 突然の大声に重女は「しー!」と口に人差し指を当てた。狂ひ娘もそれを真似する。幸い、端で寝ている頭領が起きた様子はない。

 『だからもしもだよ? 狂ひ娘ちゃんに大変なことがおきたら、私が助けてあげるの』
 「た、たすける!? し、しゅう、しゅうまるみたい!」

 拾丸――狂ひ娘のお腹の子の父親。どんな男か聞いても「し、しゅう、しゅうまるは、や、やさ、やさしいんだよう」としか言わなかった。彼女がそう言うのだから、きっと優しくて素敵な男なのだろう。

 『うん、それでね、私が大変なことがおきたら、狂ひ娘ちゃんが助けてほしいの』
 「な、なんで?」
 『えーと……そうやってお互いに助け合うのが、それが、"友達"だと思うから』

 言葉にしてみて、重女は気恥ずかしくなった。なんだか私、酷くクサいこと言ってる……

 「お、おれ、おれでも、か、かなめ、た、たすけられる?」
 『うん、今でもすごく助かってるよ。狂ひ娘ちゃんといると、とても楽しいよ』
 「お、おれも、たの、たのしいよ。じゃ、じゃあ、お、おれ、おれたち、と、とも、ともだち?」
 『うん』

 二人はこっそり笑った。重女のいう「友達」の意味を狂ひ娘がちゃんと理解できたかはわからないが、それでも彼女は楽しそうであった。重女もその笑顔を見て嬉しくなった。ずっと一緒にはいられないけど、せめてここにいる間は私達は「友達」だ。くすくす、くすくす、と声のでない喉で重女は笑った。

 今日は満月――重女と黒蝿がここ骸ヶ原の集落に降り立ってから、一週間が過ぎようとしていた。
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 『ねえ、名前、なんていうの?』
 「お、おれ、なまえ、ない。で、でも、みんな「くるいむすめ」てよぶよ」

 ――くるいむすめ。「狂ひ娘」。狂っている娘。酷い呼び方だ。確かにこの子は年のわりに知能が劣ってるらしい。重女の時代の言葉で言えば「知恵遅れ」の子、と呼ばれるだろう。現に彼女の理解力の低さを利用し、身体を求めてくる輩も集落にはいて、彼女はここに来る前は見世物小屋で身を売って生活していたらしい。
 だけど重女には、この子が「狂っている」とは思わなかった。この子は溜息が出るほど穢れていなく、そして悲しくなるほど純粋だ。ほんの少し話しただけだが、それが伝わってきた。
 「狂っている」というなら、なにもわからない彼女の身体を要求してきていた連中や、母に無理やり性行為を迫ってきていた外人さんや、外見が違うというだけで酷い言葉や仕打ちをぶつけてきた同級生や近所の奴らの方が、重女からしてみれば「狂っている」奴らだ。
 この子は自分がそう呼ばれることを何とも思っていないようだ。むしろ喜んでいるように見える。それはこの子の頭がこの呼称の意味を理解できるほど発達していないというのもあるだろうが、きっとこの子を受け入れてくれたここの集落の皆がそう呼んでくれるのが嬉しいのだろう。
 だから重女も「狂ひ娘ちゃん」と呼んだ。そう呼ぶのには抵抗があったが、他に何と言っていいかわからなかったのと、当の本人が嬉しそうだったのでそのまま呼ぶことにした。

 『そのお腹の子、名前はもう決めてるの?』

 ある日、村の女衆に教わった通りに縄を編んで草履を作りながら重女は問いかけた。狂ひ娘のお腹は大きく、もう臨月だろう。出産間近ならもうそろそろ名前を決めてもいい頃だ。

 「えっとね、えっとね、「しゅうまる!」」
 『……………拾丸、はお父さんの名前だよね?』
 「うん! しゅうまるのこだから、「しゅうまる」! お、おれ、しゅうまるのこと、だいすきだから!」

 眩しい笑顔で狂ひ娘は頷いた。この子は本当に「拾丸」の事が好きなんだな。自分の子に名付ける程に。
 「拾丸」という男には会ったことはないが、きっとシドのようにかっこよくて素敵な大人の男性なんだろう。父親と子の名前がダブってしまう問題は、子が生まれてから頭領や集落の皆がなんとかしてくれるだろう。

 『じゃあ、「しゅうまる」君が生まれたら、私にも抱っこさせて?』
 「う、うん! いいよ! かなめにならいいよ。し、しゅうまると、おれとで、た、たくさんあそぼ!」

 重女はふと思い出した。弟が生まれた日の事を。
 陣痛がはじまり、破水した母と共にタクシーに乗り、母はそのまま病院の分娩室に運ばれ、自分は病院の椅子で分娩室から聞こえる母の苦しそうな声を聴きながら、泣きそうな気分で膝を抱えて待っていた。
 そして無事生まれた弟を抱き上げた感触。柔らかく、赤く、壊れてしまいそうなほど小さい弟を抱っこした時に自分の中に生まれた温かい気持ち。あの時自分はまだ六歳だったが、あれは母性というものだったのだろうか。
 狂ひ娘の子が生まれるまでここにいられるかは疑問だったが、またあの時のように赤子を抱っこしてみたい。生まれたばかりの命を感じてみたい。

 『うん、沢山遊ぼうね』

 果たせるかどうかわからない約束を、重女は笑顔で言った。狂ひ娘も思いっきり笑ってくれた。生まれてくる子はどんな子だろう。男の子か、女の子か。狂ひ娘の腹の中で眠っている赤子の未来を想像すると、なんだかとっても穏やかな気持ちになった。

―――

 「ああ、本当だ。ここに亀裂が走っている」

 集落の北東の草原。鬼から守る為に集落をぐるりと囲んでいる鬼避けの呪法が施された柵に、僅かに亀裂が走っているのを、柵を立てた本人である頭領が灯りを当てて確認した。

 「ほんとだ、ひびはいってる」
 「割れてると、鬼が入っちゃうの?」

 頭領の横で、問いかける幼子が二人いた。二人は男の双子であり、狸耳と尻尾を持った妖精――紅梅白梅童子である。

 「……君達は、本当に私を手伝えるのかい?」

 頭領が不安そうに問う。異形の者がよく集まるここでも、さすがに獣の耳と尻尾を生やした者は見たことがない。この子達は、あの少女――「かなめ」が不思議な書物から呼び出した謎の存在。そしてこの子達は、自分を手伝えとかなめに命じられたらしい。
 鬼には見えないが、「クロハラ」と同じ人外の者には違いない。何か不穏な動きをしたらすぐに術を発動できるよう頭領は杖に力を入れた。

 「うん、手伝うよ!」
 「獅子丸に術教えてもらった!」

 獣耳をぴくぴく動かしながら、二人は無邪気に微笑んで答える。その笑顔は人間の稚児のそれと変わりない。
 この子達はなんなのか、何故柵に亀裂が走ってしまったのか、そもそもこの子達をあの書物から召喚したかなめは何者なのか、疑問は沢山あるが、まずはこの柵を直すことが先だ。そうしないと集落に鬼が入ってきてしまうからだ。狂ひ娘の胎内に侵入した、あの夢魔のような。

 「………」

 頭領は、呪法を唱えながら頭の片隅で、今、狂ひ娘を助けようと"治療"を施している謎の少女――かなめの事を考えていた。
 本当に出来るのだろうか。腹のややこと母体を救うために、胎内に侵入した夢魔を取り除くことが、彼女に――

―――

 「これで全員、か」

 やたノ黒蝿は、一郎他、頭領の家の周りに集まっていた奴らに「くらら」の術を掛け終えた。大口を開けて寝ている一郎の寝顔は、腹立たしい程に穏やかだ。

 「こっちも終わったぞ」

 西の方角から牛頭丸が、東の方角からは石猿が、南からは獅子丸がそれぞれ黒蝿の元に集まってきた。
彼らはこの集落の人間全員に眠りの術をかけてきたところだ。これで五月蠅い輩は全員鎮まり、重女が行う"施術"に集中できる。ただ、頭領は鬼避けの柵を直すためと、何かあったときのために術をかけないでおいた。

 「おい、こっちの準備はできたぞ」

 頭領の家の中で待機していた重女に黒蝿は声をかける。重女はゆっくりと振り返る。蝋燭の灯りに照らされた顔には、困惑の表情が浮かんでいた。

 『ほんとに、私にできるの?  狂ひ娘ちゃんの中の悪魔だけを消滅させるだなんて……』

 重女はゆっくりと顔を伏せ、苦悶の表情で気を失い横たわっている狂ひ娘を見た。
 今、あの大きな腹には、彼女の子供と夢魔・インキュバスが同居している。ほうっておくと赤子だけではなく、母体である狂ひ娘まで内側から食い尽くされる。そんな絶望的な状況に、黒蝿は一つの方法を提示した。

 ――それは、重女が影を操り、狂ひ娘の胎内に侵入し、インキュバスのマグネタイトを吸い取り消滅させること。

 今まで何度も影で悪魔のマグネタイトを吸収してきた。あれと同じ要領でインキュバスのマグネタイトを吸えばいい。頭ではわかっていた。だがこの作業は高い技術と繊細さが要求される。狂ひ娘と赤子のマグネタイトと身体には傷をつけず、極小サイズへと変化した悪魔だけを狙う。顕微鏡等の補助無しで、切開はせず、肉眼だけでがん細胞を取り除け、と言われているようなものだ。

 「お前が出来ないなら、俺がその女の腹をかっさばいてインキュバスを食ってやる。その場合その女も腹の子も死ぬがな」
 『そんなの、駄目に決まってるじゃない!』
 「ならやれ。そいつと腹の子を死なせたくなければな」

 ――無茶をいう! 重女が更に黒蝿に食いつこうとした時、

 「……か、なめ?」

 狂ひ娘がゆっくりと目を覚ました。傷跡の残る白い美しい顔は、しっかりと重女のほうを向いていた。

 『狂ひ娘ちゃん!』

 重女は急いで彼女の手を握った。そしてぎょっとした。先程より明らかに細くなっている。まさか、もう内側から悪魔に生気を吸い取られはじめているのか!?

 「か、かな、かなめ、ぶ、ぶじでよかった」
 『そんな! ごめんなさい! 私のせいで、狂ひ娘ちゃんが……!』
 「い、いいんだよう。だ、だって、おれたち、と、"ともだち"だろ? "ともだち"は"たすけあう"んだろ」

 はっと、重女の目が大きくなった。昨日の夜、狂ひ娘とこっそり語り合った内容。そうだ、私達は"友達"だった。「友達は助け合うもの」と私が言ったんだ。その言葉を狂ひ娘ちゃんは覚えてくれていた。だから、彼女は私を助けてくれたんだ。

 『……そうだね、私達、"友達"だよね……』

 ぎゅ、と狂ひ娘の手を握る力を込めた。そして骨ばった指に自らの指を絡める。

 「か、かなめ……「しゅうまる」だけは、「しゅうまる」だけはしなせないで……し、「しゅうまる」、おれのこ、うんであげたいよう……」
 『大丈夫! 「しゅうまる」君も、狂ひ娘ちゃんも、私が助ける! 今度は私が狂ひ娘ちゃんを助ける番! だって、狂ひ娘ちゃんは"友達"だから!』
 「そう、そうだね、お、おれたち、"ともだち"だね」
 『うん、だから安心して。私が助けるから! 「しゅうまる」くんが生まれたら一緒に遊ぶの! 私と、狂ひ娘ちゃんと、一緒に!』
 「い、いっしょ?  お、おれと、「しゅうまる」と、かなめ、いっしょ?」
 『うん、一緒だよ』

 その言葉を聞いて、狂ひ娘は安心したように笑顔になり、そしてまた気を失った。
 重女は自分の指から狂ひ娘の指をほどき、涙の浮かんでいた目尻を拭うと、き、っと口を真一文字に引き締めた。

 『……黒蝿、指示を頂戴。そして私を全力でサポートして』
 「ああ」

 黒蝿の指示どおり、重女は影を操作した。まず狂ひ娘の腹の上に手を置き、そこから影を発生させた。影の先端を超極小サイズへと変化させ、毛穴から直接胎内へと影の触手を伸ばしていく。重女は意識を影へと集中させた。意識は影と溶け合い、影は重女の意識と同調し、やがて重女の五感と意識は影と一体化した。

 戦いが始まる。狂ひ娘の胎内で、彼女と彼女の子を守るための戦いが――

―――

 頭領が柵を修理して、自らの家に帰った時、彼はぎょっとした。
 周りには一郎や吉之助といった、先程まで集まっていた集落の皆が地面に倒れている。頭領は慌ててその中の一人の息を確かめる。そいつは外傷はなく、すやすやと眠っているだけだった。

 「安心せよ、わが主の施術の邪魔にならないよう、集落の皆には少し眠ってもらった」

 赤い鬣の、大柄な半人半獣の獅子の男が言う。他にも猿のような大きな男と、筋肉隆々の黒牛が頭領の家の周りを取り囲むように立っていた。

 「主様! ちゃんとこのお兄ちゃんを手伝ってきたよー」
 「主様、どこー?」

 頭領の足元から狸の幼子――紅梅白梅童子が家の中に入ろうとする。だが、獅子の男が止めた。

 「今、主は大変なんだ。邪魔をしてはならん」

 獅子の男――雷王獅子丸が紅梅と白梅をひょいとつまみあげ、小脇に抱えた。

 「………君達は、何者だ? 人ではないみたいだけど」

 頭領は、雷王獅子丸、八坂牛頭丸、石猿田衛門、紅梅白梅童子らに問いかけた。
 我ながら間抜けな科白だと思う。彼らが人でないのは一目瞭然である。「何者なのか」と問いたかったのは「かなめ」にである。
 彼らのような異形の者を従えている彼女は何者なのか、人なのか、物の怪なのか、それとも自分のように陰陽の心得のある術師なのか、それが聞きたかった。

 「俺たちは姐さんの"仲魔"だ」
 「……なかま?」
 「そう、契約により主の手足となり戦う」

 猿と獅子丸が答える。その顔はやや誇らしげだ。

 「……その、君達の"主"は何者なんだい?」
 「何者か……か。しいていうなら"悪魔召喚師"だろうな」

 家から"クロハラ"こと黒蝿が出てきて、頭領の質問に答えた。

 「クロハラ、かなめはどうした?」
 「今、"施術中"だ。深い催眠状態に陥っている。下手な刺激を与えると失敗してしまう恐れがある」
 「催眠状態?」
 「あの女の胎内にあいつが"影"を操り侵入し、悪魔を消滅させようとしている」
 「君がさっき言った"悪魔召喚師"というのは?」
 「ああ、この時代のこの国では"陰陽師"といったほうが正しいのか。簡単に言えば、魔を従え、魔を討つ。それがあいつで、俺たちは"使い魔"みたいなもんだ。俺は別に望んでなったわけじゃないがな」

 悪魔召喚師。成る程。悪魔とはとつくにの言葉で鬼のようなものか。彼女の外見からしてこの国の者ではないと思っていたが、まさかあの子がそんな異能の力の持ち主とは。
 もう朧げな記憶しかないが、先代、つまり頭領の父と母も異能の使い手で、息子である頭領に様々な術を教えた。両親も"悪魔召喚師"だったのだろうか。

 「黒蝿! 重女の様子がおかしいぞ! 酷く痙攣している!」
 「なに!?」

 家の中を覗いていた牛頭丸が叫ぶ。黒蝿と頭領は急いで家の中に入った。
 そこには、横になった狂ひ娘の腹に手を当てながら身体をびくん、びくんと震わせている重女の姿があった。
 目は固く閉じられており、声のでない喉からは、かは、かは、と溺れかけのように激しい咳のような呼吸を繰り返している。

 一体、彼女の身に何が起きているんだ? 狂ひ娘は、腹のややこはどうなっている――!?

―――

 視界に映ったのは、オーロラのような穏やかな光の膜であった。

 その光は揺らめく度に様々な色に変化する。薄桃色、緑、青、黄……一つとして同じ色はなく、どれも攻撃的な色合いではなく、心が安らいでいくような、優しい色のカーテン。羊水だろうか。重女は"影"の手をそっと光へと伸ばしていく。
 次に聞こえたのは、どくん、どくん、という音。力強い大きな音である。だが五月蠅いとは感じなかった。むしろその音は心地よく、ずっと聞いていたいとさえ思った。
 これは心臓の音だ。赤子の鼓動。良かった。この音が聞こえたということは、赤子はまだ生きている。
 しかし肝心の赤子はどこに?  重女は"目"を動かす。
 と、いきなり肉の壁が立ち塞がる。びっくりして思わず"叫んで"しまった。よく見れば、その肉はやや赤っぽい肌色で、血管らしきものも確認できる。そして全体的に丸みを帯びている。重女は視界を俯瞰に調節した。
 やはり、それは胎児であった。「しゅうまる」――狂ひ娘と「拾丸」の子。昔、保健体育の教科書の写真で見たのと同じ、頭が大きく、小さな手足を折り曲げて、手を丸めている。腹から出ている肉の紐のようなものは、へその緒だろう。
 こうして間近で見ると少し不気味だ。姿形は間違いなく人間なのに、なんだか別の生き物のように感じる。
 生まれたばかりの弟を見たときは、丸くて、小さくて、柔らかくて、顔が赤くて猿みたいだと思ったが、とても可愛かった。やはりお腹にいる時の赤子は、生まれたときとは印象が違うものなんだな。まあ今の私のように、羊水の中から直に見る事なんて普通はないだろうから当たり前かもしれないけど……

 その時、赤子の身体が動いた。手足を動かし、しゃっくりを発する。まるで何かに嫌がってむずがっているように見える。
 その原因はすぐにわかった。赤子のへその緒に、赤紫色の粘液のようなものがこびりついている。それはへその緒を齧っている。あいつが悪魔だ。重女は確信し、急いで影を伸ばした。
 瞬間、悪魔――インキュバスはへその緒から離れ、今度は赤子の尻へと移る。赤子の動きが激しくなる。

 『この!』

 重女が尻へと移動すると、今度はインキュバスは頭へと逃げた。それを急いで追いかける。しかしまた逃げられ、相手は別の場所へと移動する。羊水の海の中で、重女とインキュバスは命がけの鬼ごっこを繰り広げていた。もちろん、鬼は重女である。

 (早くしないと、赤ちゃんが食われてしまう! )

 その焦りが影の操作を少しだけ狂わせた。インキュバスを捕まえようとした影の手は、誤って胎盤へと突き刺さってしまった。

 『しまっ……!』

 影は胎盤の持ち主――狂ひ娘のマグネタイトを吸い上げる。駄目だ、彼女のマグネタイトを吸ってはいけない! 重女が影を胎盤から抜きとる前に、狂ひ娘のマグネタイトとそれに付随する記憶と感情が、あらゆる物理法則を無視して重女に届いてしまった。
 世界が暗転する。暗転する一瞬前、インキュバスの高笑いが聞こえたような気がした。

―――

 重女が知覚した世界の色は、「灰色」だった。

 曇天の夜空のような暗い灰の世界。"私"は寝ている? いや、誰かに組み敷かれている。顔はわからない。でもそいつは"男"だとわかる。
 この男の人が誰か、"重女"には問題ではなかった。このおとこのひとのいうことをきけば、おいしいごはんがもらえる。"重女"は言われたとおりに男根をくわえ、頭を動かす。おおきい、なんだかふしぎなにおいがして、しょっぱいよう。でもおとこのひとはきもちよさそうだ。ならこれはわるいことじゃない。「いい子だ」おとこのひとがいう。"おれ"、いいこ? うれしい。
 男根が"重女"を貫く。一瞬世界の色が赤くなったが、すぐに濁った灰色へともどる。からだのなかにはいってくるこれは"重女"にとってはなんかいやってもあまりきもちよくなかったが、これさえがまんすればおいしいごはんをはらいっぱいたべられる。これが"おれ"のここでの「しごと」だっておかみさんはいっていた。なら"おれ"がまんする。いっぱい「しごと」しないと。
 世界が揺れる。"重女"を貫いている男の動きに合わせ、灰の世界が拡散する。男のにやついた顔が視界いっぱいに広がり――

 次の世界の色は「緑」と「茶」。草と土の色。"重女"は冷たい水に足を浸していた。ここは川だ。骸ヶ原の集落に流れる川。そこで"重女"は足の間を洗っていた。股間からなにかが零れ足を伝う。それは男の精液と自分の体液だった。
 不快。きもちわるい。だからはやくあらわないと。"とうりょう"もあらっておいで、ていった。このねばねばするのは、ほうっておくとすごくきもちわるくなるから。おわってごはんをもらったあとは、かならずあらうようにしている。"とうりょう"もそれがいい、て。"つぎのあいて"にきもちわるいっていわれないために、ごはんをもらうために、「いいこ」ていわれるためにあらわないと。
 川の水は冷たい。「つめたいよう」とぼやいても、"重女"は川からでようとしなかった。頭領がいいよ、て言うまで、股間のねばねばを洗いきるまで川からあがってはいけない。我慢しなくちゃ。
 ざざ、と風が吹き、対岸に生えている草花を揺らす。草の緑、土の茶色、そして小さな花の白。あれはなんのはなだろう? たべられるかな? "とうりょう"にきいてみよう。"とうりょう"はえらくてあたまがよくていいひとだ。"おれ"をなぐらないし、いつもほめてくれる。だから、"おれ"は"とうりょう"のいるここがすきだ。
 さらさら。川の水が流れていく。"重女"は草の「緑」と、土の「茶色」が目に穏やかに映るのを感じながら、水で身体を清める。透明な川の水が、段々と濁り――

 次の世界は「赤」だ。血のような赤。痛い。体中が痛い。嫌だ、いやだ。そういってもこの人たちは殴るのをやめない。言えば言うほど殴られる。
 身体ががくがくと揺れる。意地悪なおとこのひとたちが"おれ"にいっぱいつっこんでいる。
 あとどれくらいがまんすればおわるのかな。"これ"はきもちわるくてとってもいたい。くちのなかにいれられてくるしい。なんでなぐるの? なんでわらうの? いやだ、いやだ、嫌だ――
 周りの男の顔がぐにゃりと曲がる。いやらしい表情、下卑た顔。そいつらの目の色が全員血の色で、嗤う口から蛇のような長い舌が自分の身体に巻き付いてくる。"重女"は悲鳴をあげた。

 ――落ち着け! それはお前の記憶じゃない! 気をしっかり持て!

 頭の中に響いてくる声にも、重女には効かなかった。

 重女の記憶は狂ひ娘の記憶と混ざり合い、今、狂ひ娘は重女で、重女は狂ひ娘であった。狂ひ娘の記憶の中の痛みも苦しみも、すべて感じていた。
 重女は、泣いた。涙は羊水の中の気泡となり、水面へと昇っていく。あとからあとから涙が溢れた。それは重女の涙でもあり、狂ひ娘の涙でもあった。
 そんな重女の感情に呼応するかのように、胎内に張り巡らされた影が薄くなっていく。羊水の動きが変わっていく。赤子もまるで溺れているかのように苦しそうに動く。破水が始まったのだ。だが今の重女にはそれがわからない。悪魔を消滅させなきゃ、という考えすら消えていた。ただ、彼女の頭の中を占めているのは、激しい「怒り」の感情であった。
 
 不幸なことに、重女の脳は狂ひ娘より発達していた。感情も、思考も年相応に機能していた。狂ひ娘と一体化した記憶から唯一枝分かれした感情――それは「怒り」である。

 世界が真っ黒に染まる。怒りと憎しみの色だ。
 "おれ"を、"私"を、凌辱したこいつらを殺してやりたい。股間のものを破壊し、相手が許しを請うても殴り続けてやろう。今まで"おれ"が、そうされたように。もういたいのはいやだ、くるしいのはいやだ、だから殺す。なぐってけってころしてやろう。そしてべたべたのえきたいをかけてやろう。あしと、ての骨を折ってやろう。骨。真っ白な、"右手の骨"――

 「うごくなよ」

 真っ黒だった世界の色がまた変わった。今度の色は「白」と「青」だ。空の青と、"骨"の白――

 "おれ"は「しゅうまる」の手がすきだ。いまもやさしくかおをふいてくれる、白い骨の手。
 「しゅうまる」はみぎてが殆ど骨だ。昔「いくさ」で骨ばかりになったっていってた。ほかのみんなは"きみわるい"とか、"ほねやろう"とかいってるけど、"おれ"はこのてがだいすきだ。あったかくはないけど、つめたくもない。
 だけど"おれ"のてとつなぐとぴったりあうんだ。「しゅうまる」はいたくしない。なぐらない。においがおなじ。"とうりょう"と、"おれ"とおんなじ「やまいのにおい」
 「しゅうまる」がおれと"いっしょ"になるとき、そのにおいでいっぱいになって、"おれ"はすごくいいきもち。めしはくれないけど、ほねのてでからだをさわられると、とってもあんしんする。ほかのおとこと"いっしょ"になるときより、ずっとずっときもちいい。
 きもちいい。たのしい。うれしい。"おれ"、「しゅうまる」がいい。「しゅうまる」とのこどもだから「しゅうまる」。うんだら、「しゅうまる」と、おそらのめのいろの"ともだち"の「かなめ」といっぱいあそぶんだ――

―――

 ――もう限界、か。

 話しかけても一向に戻らない重女の様子と、大量に破水している狂ひ娘の身体を見て、黒蝿はそう判断すると、手に影を集め、黒い小刀を作った。

 「クロハラ!?」

 頭領が驚いて黒蝿に声をかける。

 「時間切れだ。今から俺がこの女の腹を裂いて子ごと悪魔を食う。裂いた腹はあとで術をかけて治してやる。だが子は諦めろ」
 「なに言ってる! そんなの許さないぞ!」
 「ならどうする? このまま捨て置けば女も子も死ぬぞ。女か、子か、どちらかを選べ」
 「そんなの、選べるわけ――」

 その時、黒蝿の手首ががしっと握られた。頭領と黒蝿は驚いた。手首を握っていたのは、先程まで人事不省状態であった重女だったからだ。

 「かなめ!?」

 頭領の呼びかけに重女は答えなかった。代わりに目を瞑ったまま眉を寄せ、狂ひ娘の腹の上の右手に力を入れた。
 すると右手が光った。太陽の光を浴びないと自力では輝けない月のような、儚げな光。だがそれは確かに道の見えない闇を照らす"光"であった。

 「いったい何が……」

 黒蝿が呆けたように言葉を吐いた。こいつは術など使えなく、マグネタイトすら生成できないはず。しかし今右手から放っている光は、他者を癒す治癒術のそれに似ていた。

―――

 どくん、どくん、どくん。赤子の、「しゅうまる」の鼓動を聞く度、重女の意識ははっきりしてくる。

 狂ひ娘の記憶と溶け合い無くなりかけていた重女の自我が戻ってきた。それと同時に影も濃くなり、逃げ惑うインキュバスを捕まえることに成功した。
 インキュバスのマグネタイトを吸い取る。悪魔の負の感情が伝わってきた。苦しい、痛い、悔しい。だけどそれはいつもより軽かった。どくん、どくん。耳元で聞こえる鼓動。「生きている」という証明の音。これから生まれる命の存在が、重女の負担を軽減してくれた。

 まだ生きる苦しみも痛みも知らない無垢の存在。かつて壮絶な辛酸を舐めてきた母である狂ひ娘の思いと願いが込められた存在。狂ひ娘が愛した男――「拾丸」との子。その命を奪う資格なんて誰にもない。だってこの子は愛されているから。生まれて欲しいって願われているから。狂ひ娘と、そしてきっと「拾丸」に。
 狂ひ娘の記憶の中の「拾丸」は優しかった。温かかった。温もりを持たない骨の手からも、それはちゃんと伝わってきた。辛い記憶さえ吹き飛ばす程に。

 狂ひ娘ちゃん、貴女の愛した人はやっぱり素敵な人じゃない。だから私はこの子を――「しゅうまる」君を守る。約束したものね、必ず助けるって。狂ひ娘ちゃんが私を助けてくれたように、今、私が貴女と「しゅうまる」君をこの悪魔から守る。"友達"だもの。そして「しゅうまる」君が生まれてきたら言ってあげて。「愛している」って――。

 インキュバスの身体が徐々に薄くなっていく。重女の心には相変わらずインキュバスの恨みの感情が流れ込んでいた。

 ――お前は、この子を食おうとしている。それはさせない。誰にもこの子の命は奪わさせない。だから、お前は、消えて――

 重女の思惟が後押しとなったのか、インキュバスの身体の崩壊が始まった。赤紫色の身体は粒子よりも細かくなり、やがてマグネタイトを全部吸い取られた夢魔は、胎内から、現世から消え去った。

―――

 かは、と肺の酸素を吐き出す。同時に重女の肉体に意識と五感が戻ってきた。
 肉体の重みを感じる。視界に黒蝿と頭領の顔が映る。左手が黒蝿の右手を掴んでいるのが分かる。そして妙に生臭い匂いが鼻腔に届いた。

 「戻ってきたか」

 黒蝿が顔を近づけて問うてきた。ぼんやりとした頭でこく、と重女は頷いた。それで十分だった。狂ひ娘の中の悪魔を消滅させたことを伝えるには。

 「お疲れ、と言いたいところだけど、労いとお礼はあとだ! この子が破水してしまった。急いで出産させないとまた子供が危ない!」

 頭領の指示の元、黒蝿と重女、仲魔達は走った。集落の何人かを起こし、火を起こしお湯を焚き、清潔な布きれを集めた。重女の仲魔の異形に集落の何人かは悲鳴をあげたが、それよりも狂ひ娘の子が生まれそうだと分かると、恐怖を忘れ迅速に対応してくれた。頭領の家の中は、起こされた女衆と重女と頭領が狂ひ娘の出産を手伝っていた。

 「ひー、ひー、ふー?」
 『そう、もう一回、ひー、ひー、ふー!』

 重女がラマーズ呼吸法を狂ひ娘に教え、狂ひ娘はいきみながらそれを繰り返した。あと出産に必要なことはなんだろう? 保健体育は五だったのに! 教科書には出産の心得や方法なんて書いてなかったよ!

 「か、かなめ、かなめ……」
 『なに?』
 「あ、ありがとう。やくそく、ま、まもってくれて」

 汗だらけで真っ赤な顔で、狂ひ娘はお礼を言った。

 『……うん、"ともだち"を助けるのは当たり前じゃない』
 「と、とも、ともだち、そ、そう、おれたち、"ともだち"!」
 『うん、そうだね』
 「し、しゅう、「しゅうまる」と、あ、あそんでくれる?」
 『………うん、一緒に遊んであげる。だから、ほら! ひー、ひー、ふー!』
 「ひ、ひー、ひー、ふー……」

 重女は狂ひ娘に見えないよう、そっと顔を伏せた。そうしないと涙が浮かんでいるのをこの子に悟られてしまう。出産の最中に余計な心配をさせたくない。
 きっと、この約束は守れない。私達は出産が済んだら、この集落を追い出されてしまうだろうから。人ならざる者は、この地に交らわれないものはここにいてはいけない。それがここにとって最良であるから。
 だから、この約束は嘘。「友達」を安心させるための、最初で最後の嘘だ。

 「きた! 頭が見えてきたよ!」
 「もう少しだよ!」
 「頑張って!」

 頭領や女衆が口々に叫ぶ。狂ひ娘が傍らの重女の手を握る力を強くする。骨が折れてしまいそうなほどの力で握られ、重女も思いっきり握り返した。

 東の空が白み始める。ここ骸ヶ原の端の集落に、新しい命が誕生するまで、あと、少し――続きを読む

 京の都、帝のおわす御所の謁見の間。
 当代きっての陰陽師一族である阿部家の当主、阿部晴明は帝に呼ばれていた。

 「面をあげい」
 
 簾越しの下知に、晴明は平伏の姿勢から顔をあげる。
 正直、晴明は、憂鬱であった。
 今、彼の心を占めているのは例の一族のことである。“鬼切り一族”と称される彼らとは、この間の朱点童子討伐隊選考会にて初めて戦ったのだが、そこで晴明は、彼らの力を目のあたりにした。
 彼らは自分と同じ力を使ってきた。“花乱火”に“凰招来”、治癒呪まで使い、晴明率いる精鋭に見事勝って見せた。
 あの一族は朱点童子に呪いをかけられ、約二年程で死に至る。そして人との間に子を成せない。その為異形のものと交わり、人ならざる力を身につけているのだとか。
 自分と同種の者を見つけた――晴明の心は躍った。この私と同じ力を持つ者がいる。阿部家にとりいり、生まれ持っての素質をあますところなく発揮し、ついには阿部家の当主となり「晴明」の名を継ぎ帝の信頼を得た自分と、同等かそれ以上の力を持った彼らなら、自分の“目的”を果たすための“人柱”になってくれるだろう、その為の策略を練ろうとしているところに、この呼び出しだ。晴明は溜息を吐きたいのを我慢し、貼りついた笑みを浮かべた。

 「この間の遠征でな、余は不思議なものを見た」
 「不思議なもの、でございますか?」
 
 晴明は聞き返した。不思議なもの、とはなんであろう?

 「八咫烏だ」
 
 どこか夢見心地の声色で、帝は呟いた。

 「……ヤタガラス? あの、霊鳥・八咫烏、でございますか?」
 
 天照大神の使いと言われる霊鳥。桓武天皇の時代に現れ、天皇を熊野国から大和国まで導いたあの霊鳥を、この方は見た、というのか? あれは神話の中の存在かと思っていたのだが。
 簾で表情は見えないが、幼くして即位し、感情過多なところのあるこの方のことだ。どこか遠くを見る目つきをしているのだろう。

―――

 帝が東国へと 視察へ向かったとき、“それ”は現れた。
 急に辺りの空気が変わったかと思うと、牛車の動きが止まった。何事か、と問いかけても従者の答えはなかった。異変に気づき、帝は牛車の簾をあげた。

 そこは、異世界であった。

 昼であったはずの辺りは暗く、まるで真夜中のようだ。その中を人ならざる者達が灯火を手に跋扈している。
 腹が異常に膨れ上がった餓鬼、口が耳元まで裂けた女、武者の格好をした骸骨、琵琶の顔の女、角の生えた巨躯の醜い男……鬼や付喪神たちが行列を成し歩いている。
 「曲者!」と叫んでも、供の祈祷師の姿はなかった。従者どころか牛車の牛すらいない。ここにいるのは鬼達と帝だけ。
 
 百鬼夜行――帝の頭にそんな単語が浮かんだ。

 鬼や妖怪が群れ歩くというその現象は、凶兆であるという。そして、それを目撃したものは、死に至ると。
 ぞくり、と肌が粟立った。護身用に身に着けている懐刀を取り出す間もなく、獲物を見つけた鬼達は帝に襲い掛かってきた。

 すると、いきなり鬼達が燃えた。

 紅蓮の炎を発生させたのは、黒い鳥。その鳥は鴉。しかも三本足である。
 八咫烏――神話で聞いたあの霊鳥が目の前にいる! 神の使いと名高い霊鳥を前に、帝は生まれて初めて跪いた。

 八咫烏は、ある人物の元に寄り添った。その人物は、金色の髪と青い瞳の異相の少女であった。

 天照大神が顕現したのか、と一瞬思ったが、その少女はボロボロの藍色の単衣を身につけていた。とても神が顕現した姿とは思えない。
 髪と目の色を除けば、その姿は下賤の女のものである。何者か、と帝が問いかける間もなく、少女は鬼の行列を指差す。すると八咫烏が飛び立ち、突風を起こし、炎を吐き出す。
 八咫烏が動くと、鬼達がみるみるうちに倒れ、逃げ惑う。炎は鬼を焼き、風は瘴気を吹き飛ばす。
 
 やがて鬼達は消滅し、百鬼夜行は終わった。

 百鬼夜行の鬼を滅した少女は、八咫烏を肩に乗せ、ちらりと帝を一瞥すると、黒い風に乗り消え去った。
 その間、帝は呆然と見ているしかできなかった。
 神の使いである八咫烏が現れ、鬼を倒した。しかもその八咫烏を従えていたのは、小汚い格好に身を包んだ不思議な少女――
 現実世界に戻り、従者に安否を聞かれても、帝の胸の高鳴りは収まらなかった。

―――

 「その時余は思った。これは神託だと。京だけではなく、この日ノ本を蝕む全ての鬼を滅せよ、という神の御言葉だとな」

 白昼夢のような話を聞き、晴明は眉をしかめる。簾の向こうで、帝が扇子を構える音が聞こえた。

 「阿部晴明」
 「はっ!」
 「そちに命ずる。この日ノ本を魔なる者から守るための特別組織を結成せよ。身分の貴賤は問わぬ。そなたが長となり、少しでも陰陽の心得がある者、素質がある者を集めよ」

 既に陰陽寮には阿部家や賀茂家他、血筋も身分も高い優れた陰陽師が何人も所属しているというのに、身分の貴賤は問わぬ、ときた。それは恐らく、帝が見たという八咫烏を従えた少女が、下賤の格好をしていたからであろう。この方はどこか夢見がちな気質がある。
 本音を言えば、そんな気まぐれなどに関わりたくはなかったが、帝の命には逆らえない。「謹んで、拝命致します」と、晴明は平身低頭しながら答えた。
 うむ、と帝が満足そうに頷いた。

 「して、晴明よ。その組織の名はなにがよいかのう?」

 ひく、と晴明の片頬が無意識にひくつく。そんな事ご自分で考えればよいものを。ただでさえ気まぐれな思いつきで作られた組織を任されうんざりしているのに。晴明は脱力した様子を隠し答えた。

 「……でしたら、“ヤタガラス”はいかがでしょう? お上は八咫烏にお命を救われたのでしょう? 八咫烏は太陽神・天照大神の使い。日ノ本の闇を晴らし光をもたらす者が属する組織の名にはふさわしいかと」

 晴明のやる気のない発案に、帝は心打たれたらしい。「成る程……光をもたらす者……確かに……」と呟いている。

 「それは良い名だ! では今から組織の名を“ヤタガラス”と名付ける! 晴明よ、太陽神の使いである霊鳥の名に恥じぬ人材を集めよ。期待しておるぞ」
 「はっ!」

 再び平伏し、晴明はやっと謁見から解放された。謁見の間から出た晴明はふう、と御所の庭園を眺めながら長い溜息をついた。
 ヤタガラス、か。まずは陰陽寮に所属している陰陽師や陰陽得業生から優れている者を選ぶか。その後は市井から素質のある者を見つける。
 播磨国に優れた陰陽師集団がいると聞いた。他には京から西の方にある“骸ヶ原”という鬼の出没する平原の隅の集落にも異能使いがいるらしい。あとは――あの朱点童子に呪いをかけられた“鬼切り一族”、彼らも「ヤタガラス」に相応しい能力の持ち主であろう。早速遣いを派遣しなければ。やれやれ、忙しくなる。自分の“目的”を果たすのは当分先になりそうだ。晴明は遠くの大江山に目を凝らした。
 
 その時、かあ、かあ、と烏が鳴きながら晴明の頭上を飛び去っていった。自分を鼓舞するかのようにも馬鹿にするかのようにも聞こえるその鳴き声に、晴明は無意識に飛び去る烏を睨みつけた。

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