往来―all right―別館【俺屍サマナー】

俺屍+デビルサマナー=俺屍サマナーというダブルパロ(クロスオーバー)小説を扱っております。俺屍に登場する神々や鬼を現代で使役していたら・・・という発想で生まれたいわゆる三次創作小説です。俺の屍を越えてゆけと真・女神転生シリーズ(主にⅣ)の設定を独自に融合させて捏造しております。女神転生や俺屍の人物名称や設定をかなり変更しております。こういったのが苦手な方は閲覧をご遠慮下さい。 やたノ黒蝿とサマナーになってしまった少女の物語です。

タグ:クロスオーバー

 フジワラとツギハギ、黒蝿と今はアキラが主人格になっている重女が生体エナジー協会についてまず行ったことは、フジワラの怪我の処置、そしてアキラとなっている重女の身体と精神の精密検査であった。
 簡単な知能検査、身体測定、さらには脳波・心拍数測定まで、協会にある機器でできるだけの検査をする。

 「元の重女さんの身体データがないので比較のしようがないのですが………15歳女子の平均より筋肉が発達しています。また脳波が奇妙な波形を描いています」
 「と、いうことはやはり、今の重女さんは別人であると?」
 「正式な検査でないのではっきりとは言えないのですが……その可能性は極めて高いと思えます」

 医師らしき男から今の重女の様子をそう告げられたツギハギ達は、それを確かめるべく“実施テスト”を試みた。
 その一:剣道テスト
 雷王獅子丸を召喚し、剣を合わせる。一合、二合……獅子丸の竹刀をアキラは受け止め、互角に渡り合う。

 「剣の太刀筋がアキラと殆ど同じだったぞ……! やはり今の重女殿はかつての我が主君……!?」

 その二:射撃テスト
 子供に銃を持たせることを由としないツギハギは、サバゲー用のペイント弾の入ったモデルガンで射撃の腕前を見る。
 重女の身体のアキラはモデルガンを受け取ると、軽く前傾姿勢をとり、右手でグリップの一番上を握り、左手の掌底をグリップに密着させ、右人差し指は撃つ瞬間までトリガーガ―ドに入れなかった。その動作があまりにも自然で、ツギハギはこれは幾度も銃を扱ってきた者の姿勢だと感じた。

 (まさか……本当にこいつは“アキラ”とかいう奴なのか?)

 何回か撃ってみて、命中率は80%ほどとなかなかの数値を出した。それはやはりアキラと同じ数値だった。
 このように戦闘力はアキラとほぼ同じであったが、やはり身体が違うからか、アキラは女性の身体の動かし方や重心の置き方が男のそれと微妙に違うので、最初は戸惑う事が多かった。
 特に困ったのは、排泄関係である。

 『なあ、言いにくいんだけど…………女ってトイレどうしてんの?』

 そう問いかけられた黒蝿は思わずその場にいる者を見渡してみたが、残念ながら周りは男しかおらず、まさか自分やフジワラやツギハギが一緒にトイレに行くわけにもいくまい。
 とりあえず、ツギハギが妖精・ウンディーネを召喚し、妖精はアキラに助言する。女性型妖精になにを吹き込まれたかは知らないが、とりあえず普通に排泄は出来るようになった。
 こうしてアキラの人格が重女の身体に表れて一週間。フジワラ達は隠れ家を転々としながら、どうにか重女が戻ってくるよう対策を練る。が、アキラは首を振った。重女の意識が、表層に出てくるのを拒んでいるらしい。

 「なぜだ?」黒蝿が問う。
 『自分はもう表にでられない、特に黒蝿、お前に会わす顔がないんだとさ』
 「…………………」

 黒蝿は顎に手を置き考える。自分に合わす顔がない。それはやはり俺を刺してしまったからだろう。確かに黒蝿は重女に言ってやりたいことが山ほどあった。が、深層意識に潜られては何も言えない。

 「アキラ、あいつと記憶は共有していないのか?」
 『ああ。だって姉ちゃんにとって見られたくない記憶なんだろう? なら俺は見ない』
 「いや、お前は見るべきだ。お前の姉貴が何をしたか、何を感じたかを」
 『だからそれは……』
 「そうしないと姉貴はいつまでも暗闇に潜ったままだぞ。きちんと見るんだ。姉貴の罪悪感の原因を。そしてもう一度じっくり話せ」
 『……………………』

 暫く、アキラは黒蝿を睨んだままだったが、『……やってみる』と言い残し、目を閉じる。すると身体が糸の切れた人形のようにへたり込み、そのまま床に倒れてしまった。レム睡眠に入ったのだろう。この状態でないと重女とは“対話”出来ないらしい。

 「さて……どうしたものかねえ?」

 床に転がったアキラに毛布をかけながらツギハギが問う。黒蝿は顔を背ける。知るかそんなの。俺が教えて欲しいくらいだ。

 ―――

 重女は、深層意識の水底にいた。ここに押し込められた記憶が海中のプランクトンのように漂い、渦を巻く。光はなく濃い群青色の世界であった。重女は記憶のうねりに身を任せ、目を瞑って膝を抱えていた。
 ここには誰もいない。誰も自分を責めない。ここで眠っていれば、自分はそのうち消えるだろう。

 『それでいいの?』

 そう問いかけてくる声が聞こえる。いいも悪いも、私はこうすることしか出来ない。

 『本当に?』

 …………

 『それと同時に、姉ちゃんはある決意をしたんじゃなかったか?』

 姉ちゃん?

 ふと、重女が目を開けると、そこには深緑のスーツに身を包んだ少年――弟である、アキラが立っていた。
 アキラ。そうだ、あの時。フジワラさんが何者かに襲われているのを知って、それから意識を逡巡していたら、頭の奥から声が聞こえて…………
 気がついたら、私はここにいた。そして、アキラ、あなたが代わりに表層に浮かんでいって……

 『姉ちゃんの記憶、見させて貰った』

 はっと、重女は息を呑む。クラブ・ミルトンでのあの事件。私が犯した罪。あれを知られてしまった。悲しい。恥ずかしい。弟のアキラにまで知られてしまうなんて。私は生きる価値がない。

 『そんなことない! あの時言ったじゃないか。俺が姉ちゃんを守るって』

 アキラは優しい。私を責めようともしない。ツギハギさんも、フジワラさんも激しく叱咤してくることはしない。見放されているのかもしれないが、それが今の自分にとっては百の罵声と千の殴打に等しかった。

 『姉ちゃん……俺は姉ちゃんの味方だ。たとえ姉ちゃんが何をしても絶対に見放したりしない。だから教えてくれ。今後どうしたいのか、今どう思って、何をしたいかを』

 沈黙。目の前の弟は真剣な目で重女を見つめる。青い瞳どうしが重なる。私、わたし、わたしは――

 ――――

 異変に気がついたのは、ツギハギと黒蝿の両方だった。
 今の隠れ家は、ツギハギの店の地下にある射撃場である。一度神舞供町からは離れてフジワラやツギハギの人脈を当たって隠れ家に相応しい場所に滞在を繰り返していたが、ここに戻ってきたのはつい昨日。やはりというか、【セルフディフェンス】は荒々しく捜索された形跡があった。だが地下の射撃場には気がつかなかったらしく、人の入った形跡は皆無だった。何より、一度探した所をもう一度探しに来るはずはないだろうという心理をついてここに戻ってきた。鬼ごっこで鬼が一度探した場所を探さないのと同じである。
 しかし黒蝿たちは感じた。侵入者の気配を。

 「ここには来ないと踏んだんだがな……」
 「人数は4、5人か……全員悪魔召喚師の可能性が高いな」
 「その人数ならやれるが……下手に騒いで仲間を呼ばれるのは避けたい」
 「なら、息を潜めてろ。見つからないようにな」

 だが、そんなツギハギの言葉も空しく、彼らの気配を察知したヤタガラスの刺客は、地下に続く階段を発見してしまった。仲魔を引き連れ、階段を下りていく悪魔召喚師達。その数、仲魔も入れて5人。
 悪魔召喚師の1人が射撃場に通ずるドアノブに手をかけ、室内に侵入する――かと思われたが、入り口の左右に控えていた黒蝿とツギハギによってこめかみに肘打ちをくらい、昏倒する。
 それが戦いの始まりであった。
 機先を制した黒蝿とツギハギは、残り4人の悪魔召喚師とその仲魔相手に雷撃のごとく攻撃を仕掛ける。ツギハギのガンプによって悪魔召喚師の膝は撃たれ、黒蝿のザンにより彼らの仲魔は吹き飛ぶ。だが、相手も負けていなく、至近距離から銃を放ち、仲魔に下知を下す。
 銃弾が黒蝿の髪を数本持って行き、アギの炎がツギハギに迫る。ツギハギは仲魔を召喚し戦っていた。
 数名が戦う戦場となった射撃場の隅で、フジワラは未だ眠りから戻ってこない重女の身体を庇い、銃を構えていた。だがその手は震えている。フジワラは悪魔召喚師ではないのでこういったドンパチは苦手なのだ。それに一週間前に負った治りかけの怪我が、彼の挙動に精彩を欠く一因となっている。
 ツギハギと黒蝿の必死の防衛網を抜けて、邪鬼・グレンデルがフジワラの方に迫る。筋肉隆々の悪魔に向かって、フジワラは引き金を引いた。しかし二発命中したものの、相手は対したダメージを負っていない。恐らく物理攻撃に耐性があるのだろう。

 「フジワラ!」

 ツギハギの切迫した悲鳴にも似た声が飛ぶ。黒蝿もフジワラの方に向かったが、敵の腕は上がっており、モータルジハードを繰り出そうとしているところだ。

 ―――

 深層意識の海の中、重女は対峙する弟に向かって、言う。
 私は、
 今、私が出来ることは、

 『……姉ちゃん』

 私は、わたしは………
 そこで重女は息を吸うと、決意したように、思いを目の前の弟に告げる。

 「私は、黒蝿やフジワラさんやツギハギさんに謝りたい!」

 そして、と重女は続ける。

 「私は、彼らを、守りたい!」

 ―――

 グレンデルの太い腕が振り下ろされようというとき、その腕に複数の穴が空いた。
 ハマの弾を受けた事により、グレンデルにダメージを負わせることができた。しかし、その弾を発したのはフジワラではない。フジワラに庇われていた、つい一瞬前まで睡眠状態だった少女が影の銃でハマの術の籠もったマハンマストーンを撃ったのだ。

 「か、重女さ……いや、アキラ君?」

 はあはあと肩で息をしながら、膝立ちになって重女は次々に影の銃を造りあげた。外見こそ近代のハンドガンやサブマシンガンの形ではあるが、機構は単純で、中世に用いられた単発式のライフル・ド・マスケットに似ている。そして一発撃つごとに形は崩れるが、その前に重女はいくつも銃や刃物を影で顕現していった。

 「―――――――っ!!」

 もし重女に声が出ていたら、それは雄叫びとなって辺りに響いただろう。影の銃を撃ち、また撃ち、刀を投げ、相手の悪魔召喚師とその仲魔を蹴散らしていく。
 戦力をボロボロにされたヤタガラスの刺客達は、やっと射撃場から出て行った。
 敵が出て行ったにも関わらず、銃を両手でしっかりと握りしめ、呼吸も荒く臨戦態勢を解かない重女に、フジワラは違和感を抱いた。そして彼女の肩を揺すり、「もう終わったよ、“重女さん”」というと、金髪の少女は驚いたように肩をびくつかせ、一瞬フジワラを凝視したかと思うと、次の瞬間罰が悪そうに下を向く。

 「やはり……今の君はアキラ君ではなくて重女さんだね」

 フジワラは確信を持って言った。

 ―――

 「……………………」

 もじもじと、居心地の悪そうに、重女は身体を縮ませる。両手で身体を抱き、“戻ってきた”ことを改めて実感する。
 あの後、ヤタガラスの刺客を退けた後、重女たちはツギハギの指示の元、射撃場にあった武器を全部持って車で移動した。移動先は隠れ家の一つの廃棄された病院。そこは廃棄されてそれ程経ってないのか、あまり雑然としていなく、造りもしっかりしているので、水と電気さえ通っていればこのまま住めそうな雰囲気だ。
 ツギハギはさっきからどこかと連絡を取り合っている。フジワラは包帯と湿布を変えるのに忙しく、黒蝿はじっと重女の方を凝視していた。
 恐る恐る顔を上げる。すると黒蝿の切れ長の瞳と目が合ってしまい、思わず重女は下を向く。
 このままではいけない。話しかけなくては。黒蝿だけで無くフジワラさんやツギハギさんにちゃんと謝罪しなければ。でも、そのきっかけが掴めない。

 「あの~……」

 いきなり声をかけられ、重女の肩がびくついた。気がつくと、フジワラが下から重女の顔をのぞき込んでいた。

 「一応もう一回確認したいんだけど………今の君は重女さんで合っているよね?」

 ふいに問われ、重女は顔を赤くしながら小さく頷いた。相変わらず眉を寄せてこちらを見ている黒蝿と目を合わさないよう、視線を床に落とす。

 「うーん、でも確認のしようが無いよね。アキラ君も影の魔法を使えたのかもしれないし……」
 「それはない」

 フジワラの疑念に、そう断言したのは黒蝿だ。黒蝿はこちらに近づき、重女を見下ろしながら言った。

 「影の造形魔法は、俺がこいつに直接渡した。使えるのはこいつだけだ」
 「なぜそう言い切れるんだい? 身体が同じならアキラ君だって使えたって可能性も………」
 「さっき、影で銃を造ったとき、アキラのでは無く、こいつの波動を感じた。俺は影の剣で刺されたから良くわかる」

 刺された、と言われたとき、重女の心臓が一際大きな音を立てた気がした。黒蝿はそれっきり何も言わない。無言で、自分を刺した少女を見つめ続けている。
 ぎゅっと目を瞑り、重女は床に手をつけ、ゆっくりと頭を下げる。そして黒蝿、フジワラ、ツギハギに向かって言う。『……ごめんなさい』と。
 無論、この声は黒蝿にしか聞こえていないが、フジワラとツギハギはその姿勢から、彼女が謝罪の意を示していることを理解した。

 『あの時………貴方を、刺しちゃって、痛い思いさせちゃって、本当に、ごめんなさい……』

 涙が溢れそうなのを必死に堪え、一語ずつ確かめるように重女は黒蝿に向かって謝罪した。黒蝿はまだ何も言わない。

 『私は、沢山の人を殺してしまった。黒蝿、貴方が止めてくれなかったら、もっと暴走していたと思う………私は、力に溺れて、取り返しの付かないことをしてしまった……』

 シドは、あの時私のことを「ダークサマナー」と言った。力を行使し、悪行を働く者。その咎人の名。私に付いてしまった烙印。

 『私は、“ダークサマナー”になってしまった。それと同時に、ヤタガラスが行っていることを知ってしまった。あれは、絶対に止めなくちゃいけない。
 ……でも、今の私には力が無い。真っ正面から対抗してもヤタガラス相手に勝ち目はない。だから、私は………』

 ぎゅ、と拳を握る。この決意を口にすれば元には戻れなくなる。だけど、この方法でしかヤタガラスを壊滅させることはできないとも理解していた。
 重女は、顔をあげて、真っ直ぐ黒蝿の目を見て言う。

 『私は、ヤタガラスに反旗を翻す者、“ダークサマナー”として、あの組織を潰したい! どんな手段を使っても、あんな実験をしているヤタガラスを潰したい! これ以上不幸になる人が一人でも多く減るように……だから、やたノ黒蝿、私に仲魔として力を貸して』

 ぴくり、と黒蝿の眉が片方上がる。重女は構わず続ける。

 『人を大勢殺してしまった罪は、そうすることでしか消せないと思う。ダークサマナーとして、どんな手を使っても、ヤタガラスを、シドを止めたい。だから……!』
 「俺に命令するな」

 ぴしゃり、と重女の言葉を黒蝿が遮った。重女の身体が硬直する。

 「誰につくか、なにをするかは自分で決める」

 そこで、黒蝿はしゃがみ重女と目線を同じくする。ほの暗い瞳が青の瞳をのぞき込んでくる。その視線は重女の心の奥をも見透かすようで、重女は顔を背けたい衝動を必死で堪えた。

 「おまえはダークサマナーとしてヤタガラスを潰すと言うが、それがどれほどのことか分かっているのか? 相手は千年以上の歴史ある巨大な組織だ。それを瓦解させるには、手段は選んでいられないぞ。非道と呼ばれる行為も場合によってはおこなわなければならないだろう。それでもやるのか?」

 黒蝿の視線の圧力が増す。震えだした左手を右手で必死に押さえ、重女は、はっきりと言う。

 『……うん。私は、ダークサマナーとして、ヤタガラスを潰すためなら、シドを止められるなら、どんな手段でもとる』

 沈黙が場を支配する。重女の声が聞こえないフジワラとツギハギには、二人の会話の内容は断片的にしかわからなかったが、それでも重女の決意が伝わってきて、両者一言も口を挟めずにいた。

 「…………そうか」

 最初に口を開いたのは黒蝿だった。そのすぐ後、乾いた音が響く。黒蝿の右手が、重女の頬を叩いたのだ。
 一瞬、重女はなにをされたか分からなかった。ようやく自分が叩かれたのだと知ると、無意識に頬に手を当てる。その頃には黒蝿は立って後ろを向いていた。

 「刺された分の返しだ」

 肩越しにそう重女に告げると、黒蝿は今までの重女との会話をフジワラとツギハギに説明しに行った。刺された分の返し。黒蝿にとって重女はあれだけの深手を負わせた相手なのだから、もっと罵倒したり、強く殴るなどをしてもよかったのに。
 だが、あえてそれをせず軽いビンタ一つでことを済ませるだなんて。重女にとっては罵倒されたり、激しく殴打されるよりも、この軽い一発が何よりも心に響いた。

 ―――

 重女の決意を黒蝿から聞いたツギハギとフジワラは異を唱えなかった。もとより二人もヤタガラスから追われる身になってしまったのだから、重女の「ヤタガラスを潰したい」という目的には賛同せざるをえなかった。

 「と、いってもよ、具体的に何をするんだ?」

 そうツギハギに聞かれ、重女は困った。ヤタガラスを潰すといっても、具体的な策は何一つ考えてなかったのだから。

 「とりあえず、ヤタガラスの情報入手を当座の目的としないかい? 重女さんはシド・デイビスという悪魔召喚師を探したいんだろう? なら、ヤタガラスの悪魔召喚師の登録名簿にアクセスできれば……」
 「簡単に言うけどよ、それってヤタガラスのメインコンピューターにハックするってことだろ? クラブ・ミルトンのとはセキュリティの強度が全然違う。フジワラ、お前の腕前でも叶うかどうか……」
 「それで私に一つ案があるんだけど」

 これを見て、とフジワラがノートパソコンの画面を見せてきた。そこに映し出されていたのは、どこかの会社の社員登録名簿らしく、何人かの顔写真と経歴その他の情報が表示されていた。

 「これは先週私たちを襲った「烏丸コーポレーション」というヤタガラスのフロント企業の社員名簿なんだけど、この人物を見て。篠原義信。こいつは凄腕のハッカーで、過去に色んな悪徳企業の悪事をハッキングして暴いたって、その筋ではちょっとした有名人なんだ」
 「そいつがどうしたって言うんだ。こいつもヤタガラスの悪魔召喚師なんじゃないのか?」
 「いや、調べた感じだと、この会社は上層部以外の社員は一般人で、自分達の会社がヤタガラスに関わっているとは知らない。当然篠原義信もね」

 それで、とフジワラは重女に顔を向けながら言った。

 「彼には娘がいるらしいんだ。現在中学二年生。名は篠原茜。●●県の公立中学校に通っているらしいんだ。重女さん、この中学校に潜入し、この子と親しくなってくれないかい?」

 重女のみならず、黒蝿もツギハギも首をかしげた。何故ヤタガラスの息のかかった会社の職員の娘と親しくなる必要がある?

 「わからない? つまりだね、篠原義信にヤタガラスのメインコンピューターにハッキングしてもらう為に、娘を利用するってことだよ」
 「おい、それってまさか……」
 「娘の篠原茜を人質にとって、ハッキングして貰うんだよ」

 ツギハギは呆れた。こんな大胆かつ卑劣な策が温厚なフジワラの口から出てくるなんて。こんな作戦、お嬢ちゃんだって承知するはずが――

 【やる】

 重女はそう書かれたスケッチブックを見せ、賛同の意思を示した。ツギハギとフジワラは思わず顔を合わせる。フジワラはとりあえず言ってみたがきっと重女に断られるだろうと思っていたのに、まさか賛同してくるとは。

 「お嬢ちゃん、本気かい?」

 重女は固い表情を崩さず、さらさらとスケッチブックにペンを走らせる。【手段は選ばないって決めたから】紙にはそう書かれていた。
 フジワラは顎に手を当て何かを考え、ツギハギはまじまじと重女の顔を覗いた。だが口を真一文字に引き締めた重女の顔は冗談を言っているように見えなかった。

 「…………」

 黒蝿は何も言わず、ただ重女の横顔を見つめていた。その横顔が、黒蝿が今まで見たことのない少女の表情だったので、思わず黒蝿は眉をしかめた。

 その後、重女の同意を得たことにより、この作戦は決行されることになった。重女達は●●県へ移動し、フジワラ達の手により、偽の住民票などが造られ、重女が篠原茜と同じ中学に転校出来るよう根回しされ、いよいよ明日、その中学校に潜入することになった。

 ―――

 『本当にこれでいいのかい?』

 夢の中、アキラが重女に問いかけてくる。重女は頷いて見せた。

 『姉ちゃんの選んだ道は辛いよ? ダークサマナーとしてヤタガラスの追っ手に神経を使う日々………きっと、ツギハギさん達以外の誰からも理解されない。それでもいいの?』

 いいの、と重女は答えた。ヤタガラスを潰すため、私はダークサマナーの道を進むしかない。例えどんな手段を使おうとも、憎まれようとも、ヤタガラスは壊滅させなくては……

 『例えシド先生と相まみえることになっても?』

 ……………………

 『……分かった。それが今の姉ちゃんの決めたことなら、俺は何も言わない。だけど姉ちゃんは一人じゃないよ。黒蝿の野郎も、獅子丸も、牛頭丸も、猿も紅と白もいる。それに俺は深層意識の奥底に眠るけど、本当にピンチになったらまた出てくるから。
 だから、姉ちゃん、無理だけはしないで………』

 うん、ありがとう、アキラ。

 アキラが重女の手をとり、手の甲にキスをする。まるで紳士のようなその行為に、重女は顔を赤くした。
 アキラはイタズラっぽく微笑みながら、その身を崩させていった。アキラの人格が薄れていく。重女は思わず手を伸ばしたが、その時には意識は完全に覚醒され、気がつくとその身は薄い布団に横たわっており、隠れ家の天井に向かって手が伸びていた。
 目の縁に涙が溜まって、瞬きすると、つう、と一筋の涙が重女の頬に軌跡を残した。

 ―――

 制服の着るのなんていつぶりだろう、と重女は思い、最後に制服を着たのはいつだったかと考えを逡巡していると、バスが次の停留所の名をガイダンスした。重女は停車ボタンを押した後、中指で眼鏡のブリッジをくい、と押し上げると、すぐに意識を切り替えた。
 篠宮義信の娘、篠宮茜に近づき、彼女を人質に篠宮義信にヤタガラスのメインコンピューターにハッキングさせ、情報を得ること。これが重女達の作戦。

 ――大丈夫。きっと上手くいく。

 制服の下に隠している十字架のペンダントを握りしめ、重女はそう自分に言い聞かせる。
 ダークサマナーの少女は、セーラー服に身を包み、打倒・ヤタガラスのための一歩を踏み出した。

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 意識が重い沼からゆっくりと浮上していく。身体の感覚はまだ朧気で、水の中にいるようだ。
 水面が近くなっていく。するとなにかくぐもった怒鳴り声が聞こえてきた。

 「ああ!? ……だから……なんだってんだよそれは……とにかくそこは危険だ。今すぐ荷物まとめてこっちにこい。………ああ、その話は後で聞くよ。それとも俺がそっちに行った方がはええか?」

 黒蝿がまぶたを開けると、柔らかな光が頭上から降り注いでいた。同時に自分が全裸で、液体に半身を埋めていること、ドーム型の装置のようなものに自分は横たわっていることを、まだ重い頭で理解した。
 酸素マスクらしきものをとると、ビーッ、ビーッと耳障りな警告音が鳴り、ドームの中の液体は排出され、天井がゆっくりと開いた。
 半身を起こし髪をかき上げる。「……ツギハギ」黒蝿が名を呼ぶと、通話の終わったツギハギが黒蝿の姿を見て目を丸くした。

 「黒蝿……お前目を覚ましたのか」
 「ああ、まだ怠いがなんとか動ける」

 言いながら、黒蝿は影を操り自分の身体を覆う服を顕現させていった。鴉を象った兜以外はいつもと同じ、黒い三伏にも似た服装に身を包む。

 「状況はどうなっている? さっきなにやら揉めていたようだが」
 「お察しの通りトラブルだらけさ。特に重女とかいうお嬢ちゃんがな………」

 黒蝿の形の良い眉がひそめられた。重女。自分の真名を奪った少女の偽名。黒蝿を刺した張本人は、また何かトラブルを起こしたのだろうか。

 「フジワラに聞いても全然的を得ない答えしか返ってこねえ。重女さんが別人になったとか、男に変わったとか意味不明のことばかり喚きやがる。まあヤタガラスの襲撃を受けて精神的に混乱してるんだろうがな………」
 「ヤタガラスの襲撃!?」
 「ああ、フジワラがスクープを提供しようとした会社は、どうやらヤタガラスのフロント企業だったらしい。悪魔召喚師を差し向けられてボコボコにされたらしいが、どうやらあのお嬢ちゃんが刺客を倒したらしい」

 黒蝿の眉間のしわがますます深くなった。低級悪魔相手ならともかく、ヤタガラスの精鋭にあいつ一人で勝てるものなのか? コンプに入れてある仲魔を呼び出すのだってマグネタイトが必要不可欠だし、クラブ・ミルトンでの戦いの後で十分なマグネタイトを手に入れられたとも思えんが………

 「とにかくまずはフジワラの店に行く。黒蝿、行くぞ」

 そういってツギハギは車のキーをちゃらつかせて見せた。車でフジワラの店まで連れていくつもりか。黒蝿は踵を返し「俺は空を飛んで向こうに……」と言いかけたが、ツギハギに首元をひっぱられ強引に駐車場に連れて行かれる。
 「離せ!」
 「なに寝ぼけたこといってんだよ。空なんか飛んだら目立っちまうじゃないか。いいからとっとと乗れ。十分もすれば着く」

 後部座席に半ば黒蝿を押し込め、ツギハギは車を発進させた。
 フジワラの店に着いた頃には、黒蝿の顔色が真っ青になっていたことはいうまでもあるまい。

―――

 フジワラの喫茶店【フロリダ】にツギハギ達が着いた時、中はめちゃくちゃであった。
 机や椅子、ソファーがあちこちに飛ばされている。コップや調味料やその他細々としたものも割れて散らばり、カウンターとドアが半壊していた。まるでなにか大きなモノがぶつかったような……
 殆ど瓦礫といっていい中、二つの人影があった。一つはフジワラ。その姿は着ている服のあちこちが破れ、血のようなものも付いている。顔は殴られたのか酷く腫れて、口の端から血が滴っており、黒縁眼鏡には亀裂が走っている。酷い姿だ。ツギハギは一目見てフジワラがヤタガラスの悪魔召喚師共に暴行されたのだとわかった。

 「……大丈夫か?」
 「大丈夫………て言いたい所だけど、あまりいい状態じゃないね。身体のあちこちが痛い。特に右脇腹と左腕が酷い」
 「見せてみろ」

 ツギハギがぼろ切れ同然になったフジワラのシャツを引き裂き、彼の身体をチェックした。確かに右脇腹が紫色に変わっている。そこを軽く押してみると、フジワラが苦しそうに悲鳴をあげる。左腕も同様に触診したが、反応は同じだった。

 「ううん……恐らく骨にヒビでも入っているか、もしかしたら骨折してるのかもな。この家に救急箱はあるか?」
 「二階に……」

 そこまで言うと、物陰にいたもう一つの人影が動いた。九楼重女と名乗る少女は、立ち上がるとそのまま二階への階段を上っていく。
 そして重女は救急箱を携えて降りてきた。彼女はフジワラの傍に座ると、救急箱から湿布を取り出し、フジワラの右脇腹に何枚か貼る。それから左腕にも湿布を貼り、そこらに散らばっていた箸を三本程集め、添え木代わりにし包帯を巻いたかと思うと、破けたフジワラのシャツを器用に折りたたみ三角巾の形にし、フジワラの左手を包み、端を首の後ろで結ぶ。負傷した左腕を首から布で吊す形になった。

 「へえ……上手いもんだな。どこで習ったんだい?」

 ツギハギが感心して言う。重女は答えようとして唇を動かすが、声は出なく呼吸音しか発しなかった。重女は喉を押さえ、ツギハギを睨んだ後、カウンターに入り無事なコップに水を入れて戻ってきた。そして救急箱から痛み止めの薬を数粒手のひらに乗せ、ずい、とフジワラの目の前にコップと共に差し出した。また唇が動く。当然声は出ないが、ツギハギはその唇の形から「飲め」と言っているのがわかった。
 フジワラは震える手でそれらを受け取り、薬を飲み干す。水を飲んで少しは落ち着いたのか、フジワラはふう、と息を吐き、重女を凝視した。鳶色の瞳には未知のものを見たかのような猜疑の色が窺える。

 「改めて聞くけど、君は重女さんではない……んだよね?」

 重女はこくんと頷いて見せた。ツギハギの顔が険しくなり、思わず重女とフジワラの顔を交互にまじまじと見てしまう。よく見ると重女の顔つきはどこかキツい。口を真一文字に締め、何か緊張しているような、張り詰めたような顔だ。そこには三日前に見た怯えの色もなければ、魂がぬけたような呆然としている様子もなく、あるのは触れれば傷つく抜き身のナイフのような尖った目つきと雰囲気だった。こんな顔つきの彼女は見たことがない。

 「そういや電話でお嬢ちゃんが別人に変わったとか言ってたな。あれはどういう意味なんだ?」

 ツギハギの問いに、フジワラは近くにあった小さめのホワイトボードを差し出した。そこには[おれはアキラ]と荒々しい筆跡で書かれてある。

 「……なんだこれは?」
 「重女さん………いや、『アキラ』君? とやらが書いたんだよ」
 「意味がわからん。どういうことだ?」
 「そのままの意味だよ。今の彼女は重女さんじゃない。『アキラ』という男らしい」

 その時、がたん、と部屋の隅のテーブルが動いた。そいつは重女の仲魔のやたノ黒蝿。車から降りた途端、青い顔で真っ先にトイレに入っていったが、いつ出てきたのか。
 トイレで嘔吐してスッキリしたのか、いつもの顔色に戻った彼は、重女の方に近づく。
 重女も黒蝿に気がついたようで、一瞬目を細めたがすぐに皮肉っぽく片方の口角をあげてみせた。

 『よう、黒蝿。久しぶりだな』
 「!?」

 重女から黒蝿の脳に直接声が届く。しかしその声は聞き慣れた少女の高い声ではなく、変声期直後のやや低めの男の声であった。
 この声、知っている。東のミカド国の王でありあいつの弟でもあり、黒蝿に十字架のペンダントを預けあいつと融合して消えたはずの少年の声。

 「………なんでお前が出てきている……お前は……」
 『おお。お前には俺の声が聞こえるみたいだな。悪魔相手だと聞こえるのか。全く、声が出ないってのは予想以上にめんどいな』
 「お前のマグネタイトは全部吸い取ったはずだ。なのに何故意識が存在している? 答えろ、“アキラ”。お前の姉はどこに行った?」

 ふう、と、重女、いや、“アキラ”は息を吐き、倒れていた椅子の一つを起こし、どっかりと足を組んで座って見せた。まるで玉座に座る王のように尊大に。

 『姉ちゃんは今は深層意識の奥で眠っている。姉ちゃんは罪の意識で自ら消えようとしていた。だから助けようと思ったら、気がつけば表層意識に浮かんで来れた。代わりに姉ちゃんの意識は奥深くに沈んでいった。きっとお前が吸い取ったマグネタイトの残りカスみたいなのが僅かに残っていて、姉ちゃんのピンチにそのカスが集まって俺の人格が復元されたみたいだ』
 「…………………」

 改めてまじまじと目の前の人物を黒蝿は凝視する。そういえば眼鏡をかけていない。あいつは視力が悪かったはずなのに。
 それに胸の膨らみもほとんど無くなっている。まああいつは気休め程度に膨らんでいただけで、バストはあってないようなものだったが。

 『………姉ちゃんを、守ってくれって言ったのに………』

 重女の身体を支配しているアキラが黒蝿を睨み付けながら言う。黒蝿は思わず懐の十字架のペンダントを握った。あの少年が「男の約束」として一方的に寄越した、黒蝿の心を支配する象徴。

 『おまえも一緒だったんだろ? それなのに、なんで姉ちゃんはこんなに傷ついて自分を責めているんだ? なんで消滅願望を抱いて苦しまなきゃいけないんだ!』

 こいつ、記憶はあいつと共有していないのか……黒蝿が何か言おうとしたとき、「あの……黒蝿君?」と遠慮がちにフジワラが口を挟んだ。

 「私たちには聞こえないんだけど、君には重女さんの声がわかるのかい? 重女さんはなんて言ってるんだい? 本当に「アキラ」とかいう人物になっているのかい?」
 「……………………」

 そういえば、フジワラ達と会った時から、重女は咽喉マイク入りチョーカーをつけていた。だから会話には不自由しなかったが、そのチョーカーも恐らくクラブ・ミルトンと共に焼失したのだろう。重女が声を伝えられるのは悪魔相手だけだというのは、フジワラとツギハギは知らない。
 さて、どこから説明したものか。黒蝿は重女の弟のアキラのこと、東のミカド国での出来事、アキラと重女の融合、といったことを順を追って説明した。
 説明が終わる頃には、夕暮れが辺りを覆い始めていた。

―――

 「えーと…………簡単に言えば、重女さんと弟のアキラ君、二つの人格が彼女の身体にあって、今はアキラ君が主人格だと」

 黒蝿の説明を聞いて、フジワラはそう聞いてきた。「まあ、概ねそんなところだ」と黒蝿は答える。フジワラとツギハギは倒れていたソファーを起こし、そこに座している。重女の姿形のアキラと向かい合う形になっている。

 「早い話、二重人格ってことだろ? 話には聞いていたが本物を見るのは初めてだぜ」

 ツギハギがアキラをじろじろと珍しいものでも見るかのように頭の天辺からつま先まで眺めながら言う。厳密に言えば違うが、今の状況を表すには適切な表現だ、と黒蝿は思った。

 「なあ、とりあえず生体エナジー協会に行かないか? ここにいたんじゃまたヤタガラスの襲撃に遭うだろうし、あそこには色々機材が揃っている。お嬢ちゃんの身体と精神を調べるには最適だろうし、フジワラ、お前の傷も治さなきゃならねえだろ?」
 『俺はお嬢ちゃんじゃない。アキラだ』

 アキラの声は当然ツギハギ達には聞こえずじまい。フジワラは「そうだね」と頷く。

 「重女さんの件でゴタゴタしててちょっと長く居すぎたな。早く逃げよう。重女さ……アキラ君、もついておいで。ここは危険すぎる」
 「…………」

 無言で、アキラは黒蝿の方に視線を向ける。黒蝿は、「今はこいつらの言うとおりにしろ。ヤタガラスの追っ手から逃げなくてはならない」と返答した。

 『俺の力なら何人束になろうが、返り討ちにしてやるのに』
 「今のお前の身体は姉貴のだってこと、忘れたか? お前の姉は術も使えなければ、戦闘術も身につけていないぞ」

 少しの間、納得がいかないというように唇を尖らせていたが、ひょい、とアキラは椅子から下りて、『フジワラ、さん。貴重品はどこ?』とフジワラに聞いた。が、相変わらずその言葉は声にならない。フジワラが目で黒蝿に通訳を頼むと、黒蝿は「荷物をまとめるのを手伝いたいそうだ」と伝えた。
 それからフジワラとアキラは荒れた店内を動きつつ荷物をまとめている。ツギハギと黒蝿はずっと無言だったが、彼らの視線は、今はアキラになっている重女に注がれていた。やや大股な歩き方、背筋の伸びたしゃんとした佇まい、身振り手振り。それらは彼らが知っている重女のそれとは微妙に違っていた。あれは武道の心得のある者、命がけの戦いを幾度もくぐり抜けてきた者の仕草だ。

 「黒蝿の。お嬢ちゃんは戻ってくるのかねえ?」

 ツギハギの問いに黒蝿は無言を答えにした。かつて“約束”を交わして消滅したはずの少年の本当の横顔を思い出し、姉である重女の横顔が、その少年のそれと同じになっているのを確認してしまい、黒蝿は苦虫をかみつぶしたような表情を作った。

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 誰かが泣いている。
 少女のすすり泣く声。誰だろう。何故君は泣いているの?
 
 ――ごめんなさい

 懐かしい声だ。ずっと側にいてくれた声。ずっと探し求めてきた声。
 彼女は、泣いている。自分を責めて、泣いている。自分が消えることを望んで。「彼女」の存在が薄くなる。
 待って、消えては駄目だ。
 君は、僕が、俺が、守るから――
 
―――

 生体エナジー協会。表向きは健康食品を扱う非営利団体。だがその実態は、デビルサマナー達に悪魔に必要なマグネタイトを売買している怪しげな団体である。
 国家機関ヤタガラスに認可されているかは不明だが、ここを訪れるデビルサマナーは少なくなく、恐らくヤタガラスも黙認しているのだろう。

 生体エナジー協会の支部は隣町に位置しており、車なら十五分、バスでは三十分ほどでつく。
 その生体エナジー協会に、重傷を負った悪魔が一体収容されていた。
 ドーム型のカプセルに入れられた悪魔――やたノ黒蝿はかろうじて人の姿を保っており、左胸の傷も癒えている。しかし彼の衰弱は激しく、意識不明状態。完全復活のためのマグネタイトがまだ足りないようだ。

 「ツギハギさん、もう堪忍してや。うちのマグネタイトの貯蓄が底をついてしまうさかい」

 ツギハギと呼ばれた、渾名の通り顔や身体にいくつもの手術痕の目立つ大柄な男は、ふん、と鼻を鳴らした。

 「グーフィよ、お前三年前の件、忘れたとは言わせないぞ。あの後始末に俺がどれくらい走り回ったと思ってるんだ。その貸しを今返して貰っているだけだろうが」
 「い、いえ、あの件のことはほんまツギハギさんに感謝してます。ツギハギさんがいなかったら、わいは今頃……」
 「なら今度は俺の頼みを聞く番じゃねえか」

 ツギハギはカプセルの中の黒蝿の血色の悪い顔を見ながら突き放すように言った。
 ここに連れてきてから三日、一時期は小さな黒い塊に退行するまで衰弱していたが、ここでマグネタイトを大量に注入してから、なんとか人の形にまで戻った。が、未だ意識が戻らない。
 悪魔は死ぬことはない。だが、その身を現世に顕現するにはマグネタイトが必要不可欠だ。マグネタイトが無くなれば人の世での形を保てなくなり、異界に強制送還する仕組みだ。
 だが、黒蝿は重女に真名を奪われて現世に無理矢理縛られている。そのため異界に帰ることもコンプに入ることも出来ない特殊なケースである。
 ツギハギとフジワラがそのことを重女から聞いたのはクラブ・ミルトンでの事件の後。いや、正確に言うとほとんど無理矢理話させた、というべきか。重女は言われるがまま震える手でペンを持ち、自分と黒蝿の関係を拙いながらも紙に書いて教えたのだ。
 そこで初めて重女が声を出せないのは黒蝿に言霊を奪われたからだと知った。ついでに重女というのも偽名で本当の名は自分でもわからない、ということも。

 「まったく、難儀なことだな」

 苦みのある声でツギハギはごちる。と同時にその重女と偽名を名乗る少女の顔を頭に浮かべ、ツギハギは顔を険しくさせた。
 フジワラの所に保護され、黒蝿に重傷を負わせ何十人もの人間を殺害した、ヤタガラスに「ダークサマナー」と烙印を押された少女は、あれからずっと一人心を閉ざし引きこもっている。

―――

 フジワラの営む純喫茶「フロリダ」の二階は居住スペースになっている。しかし店主のフジワラは近くのアパートに部屋を借りていて、そこから店に通っている。
 暫く誰も住んでいなかったフロリダの二階に、住人が来たのは三日前。クラブ・ミルトンでの事件の後、九楼重女と名を偽る少女を半ば押し込める形で住まわせた。
 それはヤタガラスから「ダークサマナー」として追われる身となった彼女を保護する目的もあるが、一番の目的は「監視」である。

 つまり、重女がまた感情を暴発させてクラブ・ミルトンでのような行動を起こさないかどうかと、黒蝿のところへ見舞いに行ったりしないかどうかという行動の監視。それには懲罰の意味も込められていた。

 重女は何度も黒蝿に会いたいとフジワラとツギハギに頼んできた。だがフジワラは頑としてその訴えを拒否した。会ってはいけない。それは黒蝿が危篤なのもあるが、何より彼の重女への個人的な疑念に満ちた感情があり、そのために君は黒蝿君に“会わせない”と正直に言うと、重女は酷く落胆した面持ちでフロリダの二階の一室に戻り、以来ずっと部屋に引きこもっている。
 どういう経緯でかは知らないが、彼女は自らの力で何十人という人間を殺害した。その事は事実だし、ダークサマナーになってしまったのも合点はいく。彼女自身もわかっているのだろう。だからフジワラはあえて叱咤せず、かといって安易に慰めたりもせず、屋根裏の部屋に一人彼女を閉じ込めた。
 一人になってじっくり考えて欲しかった。自分の行動がどれだけ非道なものだったか。自分のせいで未来を奪われたものが多数いる現実を直視し、これからどう生きるのか自分自身で答えを出して欲しかった。
 十五の少女にはあまりにも過酷な仕打ちかもしれないが、フジワラはこのやり方しか思いつかない。彼が子供でもいればまた違った処罰を思いつけるだろうが、四十すぎのやもめ男には、外側から鍵をかけられる部屋を与え、内証の時間を与えることしかできない。あの部屋には自殺に使用出来るものは一切置いてないし、監視カメラもつけている。そしてツギハギの仲魔が見張りのために密かに付いている。彼女があの夜のように自死させないことに置いては徹底していた。
 フジワラはパソコンのキーをいじり、重女の部屋のカメラ映像をチェックする。重女はベットに横になっていた。差し入れの食事は少ししか食べていない。寝ているのか、または自分を責めているのかはカメラ越しでは分からない。
 ふう、と息を吐き、フジワラは作業に戻った。パソコンのディスプレイにはクラブ・ミルトンで手に入れた機密文書のコピー。「悪魔召喚簡易化のための赤玉プロジェクト」の概要と「赤玉」の製造方法や実験の記録。
 だがあの時火に追い立てられていたので、データ抽出は半分ほどしか成功しなかったが、それだけでもヤタガラスが非人道的なプロジェクトを進めている証拠になる。フジワラはフリージャーナリストとして今まで培った人脈を生かし、何社もの出版社、テレビ局などのマスメディアにこのことをスクープとして提供してきた。
 だがどこの会社もこの情報を買い取ってくれない。恐らくヤタガラスの圧力がかかっているのだろう。当初の計画どおり秘密裏にデータを手に入れていたのなら、ヤタガラスの手がマスコミに回る前に特大スクープとして高値で売れただろうに。
 徒労に終わるかと思われた情報提供に、一社だけ手応えのある反応を返してきた。
 聞いたこともない小さな出版社だが、フジワラの話を是非聞いてみたいという。
 面談は明日の午後五時、ここフジワラの店で。その時までに生体エナジー協会に収容されている黒蝿が意識を取り戻すといいな、と思い、フジワラはデータ整理と資料作りの作業に没頭していった。

―――

 フジワラの喫茶店の二階の部屋をあてがわれ、どれくらい過ぎただろうか。
 まだ三日にも感じるし、もう三日も経ったかとも感じた。
 重女は夜になっても電気をつけず、暗い部屋で一人ベットに身を横たえていた。
 初めて本物の銃を撃った、あの衝撃、浴びる血の生暖かさ、無残な死体、そして――血を大量に流し私に身体を預けた黒蝿の重さ。全てが脳内で何度もフラッシュバックし、そのたびに重女は呼吸が出来なくなる。
 黒蝿はどこか別の場所で治療を受けているらしい。だけど会うことは許されなかった。彼の身体にしがみついて謝罪をしたかった。黒蝿が助かるなら私の血肉でもなんでもあげるのに、私は彼にマグネタイトも謝罪もなにもあげられない。だからずっと側にいたかったが、フジワラさんがそれを許してくれなかった。

 ――私の君への個人的な評価として、とても今の君を黒蝿君に会わせるわけにはいかない

 フジワラさんは冷たくそういって、君自身、一人になってよく考えるべきだと、この部屋を私に提供してくれた。
 住まわせて貰っている、といえば聞こえはいいが、ただ軟禁状態に置かれただけだ。扉には外側から鍵がかけられているし、天井の隅には小型の監視カメラまである。自分は独房に収容された罪人――そう表現するのが適切であるし、重女自身もこの待遇に不満はない。だって、自分は大罪人なのだから。沢山人を殺して、黒蝿にも重傷を負わせてしまった、「ダークサマナー」なのだから。

 『状況が分からないのか? この者達を殺したのは誰か、欲望のおもむくまま殺人を犯したのは誰か? それは死者しかいないこの通路で、ただ一人生き残っているそこの血まみれのお嬢さんしかいない』
 『九楼重女は闇に自ら足を踏み入れた。見事にダークサマナーに墜ちたというわけだ。彼女は我々が処罰する。だから君にはどいてもらい、そこの“ダークサマナー”をこちらに渡してもらいたい』

 シドのあの言葉がリフレインする。闇に足を入れた者。ダークサマナー。欲望の赴くまま力を行使する悪魔召喚師。黒暗召喚師とも言われるべきそれはヤタガラスにとっての討伐対象であるとツギハギさんから教えて貰った。
 あの後、蝿のような黒い塊にまで身体を変えた黒蝿を連れて、ツギハギさんはどこかへ行ってしまった。彼からは何も言われていない。フジワラさんのように私を諭したり叱ったりしなかった。私はてっきり殴られ叱られると思っていたのに、彼は拍子抜けするくらい私に何も言ってこないししてこない。それがいまの重女には辛かった。いっそのことフジワラさんのように遠回りでも嫌悪感を示してくれるほうがまだマシだ。何もされないで一人にされるのがこんなに辛いだなんて。
 呼吸が浅くなる。手足が冷たくなり、目の前が白くなっていく。

 苦しい、溺れてしまう。何に? 罪の意識に?

 千の謝罪を述べようと万の涙を流そうとも、死んだ人は帰ってこないし、私のしたことが消えるわけじゃない。
 それに、黒蝿は私を許してはくれないだろう。彼は身を張って私を止めてくれた。東のミカド国の戦いから、彼はずっと仲魔として悪態をつきながら時に呆れながらも私を助けてくれた。そんな彼を刺してしまうなんて。もし黒蝿が助かったとしても合わせる顔がない。
 視界が白に塗りつぶされる。呼吸が浅く速くなり、意識が遠のいていく。

 辛い。苦しい。こんな自分は存在してはいけない。私なんか、消えてしまえばいいーー

―――

 次の日、フジワラの喫茶店は午後四時で閉店した。そして五時になると、背広姿の二人組の男が約束どおり店にやってきた。片方は長身で痩せぎす、もう片方は小柄で太り気味で、まるで漫才のコンビのようだな、とフジワラは思った。
 交換した名刺には「烏丸コーポレーション・出版部門」の文字が印刷されている。烏丸コーポレーションは元はIT関連の会社だが、今度出版部も立ち上げることになり、創刊される雑誌のネタ集めに奔走しているところフジワラの情報に食いついた、というのが二人組の説明だった。
 一通りの自己紹介を終え、フジワラと二人組はソファーに腰掛けた。そして二人組の痩せぎすの方が口を開いた。

 「ええと、電話でお聞きしたとおり、フジワラさんはヤタガラスという悪魔召喚師を束ねる秘密組織に関する特ダネを掴んだ、と。間違いないですか?」

 勿論、とフジワラは頷く。それを見て小柄で太り気味なもう一人が疑問の声を上げる。

 「正直言いますとね、自分は未だに信じられないんですよ。悪魔だなんて想像上の生き物だとばかり思っていたのに、それを召喚する者がいて、それらを統べる組織が現代日本に存在するとは……」
 「ええ、疑問に思うのは当然だと思います。ですが事実なんです。古くから我々は悪魔や鬼といった異形の者と関わってきた。それら異形の者を従え、邪を払う“悪魔召喚師”がいて、それを統べるのが秘密国家機関ヤタガラス。
 だけど電話でお話したとおり、ヤタガラスは非人道的な行為を行っている。犯罪行為なんて生やさしいものじゃなく、もっと残酷で冷酷なことを。このことを是非民衆に知ってもらいたく、私は極秘取材を試みました」
 「それで、どうだったんですか」

 痩せぎすの男が言うと、フジワラはクラブ・ミルトンでの事をまとめた資料をテーブルに置いた。二人は早速資料をめくり、読み始めた。
 十分ほど経っただろうか。二人はフジワラが煎れたコーヒーに口もつけないで資料を凝視している。
 ふと、フジワラは二階の重女の事が頭に過ぎった。今日は客が来ることを告げたが、朝、食事を運んだときから喋っていない。まあ彼女は声を出せないから口頭で話すことは出来ないのだが。
 今日で重女をここに住まわせて四日目。隣町の生体エナジー協会に収容された黒蝿が意識を取り戻したとは連絡がきていない。あちらの事はツギハギに全部任せている。彼に任せておけば安心だが、重女のことも気がかりだ。彼女とこれからどう接していけば……

 「ほう……これはなかなか……」

 痩せぎす男が一人ごちる。太り気味の男は資料を膝に乗せたまま「このことは事実で間違いないのですね?」と聞いてきた。

 「勿論です。私と協力者が直にクラブ・ミルトンに潜入し手に入れたモノです。信じられないのも無理はないかと思いますが……」

 資料には、フジワラでさえ目を背けたくなるような人体実験の記録が記されている。“赤玉”なる存在とその造り方。非人道的なやり口にきっと閉口しているのだろう。コーヒーを飲みながら二人組の反応を窺う。が、二人は無表情のまま何も発さない。ショックが大きすぎたのだろうか?
 すると痩せぎす男が口元をにやりと歪ませた。そして資料を愛おしげに撫でながら「いや、本当に良く集めたものですね」と歪んだ笑顔をこちらに向ける。フジワラの背筋が寒くなった。

 「この資料は、ここにあるだけですか?」
 「……? はい、これが手に入れた情報の全てです。何か不足なところがありましたでしょうか?」

 おかしなことを聞いてくる男に、フジワラが答える。すると太り気味の小柄な男が喉をくっくと笑わせながら言った。

 「不足どころか……よく悪魔召喚師でもない一般人がこれだけの情報を手に入れられたと感心していたのですよ」

 フジワラは違和感を覚えた。悪魔の存在を懐疑的に思っていた男なのに、“悪魔召喚師”という単語の言い方はやけに言い慣れているように感じたのだ。
 と、次の瞬間。

 「!」

 男の手から炎が浮かび、分厚い資料が焼けていく。フジワラが一晩費やして作った資料を。いや、それより、今この男は炎を発現してみせた。まるで悪魔召喚師が“アギ”の術を唱えたかのように。

 ばっと、フジワラはソファーから立ち上がり、二人組から距離をとった。資料は小柄な男の手によって完全に燃やされ、炭と化して床に散らばった。

 「君たち……出版関係の人間だというのは、嘘だね」

 フジワラが身体に力を入れながらそう断言すると、痩せぎすの男がまたしてもにやにやと笑いながら、手をぱんぱんとはたいて資料の燃えカスを床に落とした。
 そっと、フジワラは背中に隠してあった銃に触れた。アギの術を発したことから、小柄で太り気味の男の方は悪魔召喚師だろう。迂闊だった。もっと相手の素性を調べてから面談するのだった。ヤタガラスが我々に情報を手に入れられたと知ったから、クラブ・ミルトンを全焼させたのだろうし、機密事項を手に入れた者を抹殺するため動くことも察しはつけられたのに。ツメの甘い自分にフジワラは嫌悪を抱いた。

 「それで、フジワラさん、この資料の元となったデータはどこにあるんです?」

 男達が問うてくる。フジワラは距離をとりながら「さあ?」ととぼけてみせた。

 「そうですか、では……」

 痩せぎす男がスマホを取り出し、何か操作すると、途端室内に吹雪が生じた。そして目の前に巨大な魔獣・ウェンディゴが現れたかと思うと、ウェンディゴはフジワラの腹めがけて巨大な拳を突いた。

 「くはっ!」

 とてつもない力で拳を入れられたフジワラは、そのまま後ろに吹っ飛んだ。椅子やテーブルやその上に置いてある細々としたものが、フジワラの周りに飛び散らかった。

 「はぁはぁ……ぅげほっ……」

 血の混じった胃液を吐きながら、フジワラは立とうと試みた。が、腹の衝撃が尾を引き、身体に力が入らず、膝立ちのまま銃口を二人組に向けた。その銃を持つ手も震えている。

 「フジワラさん、無駄な抵抗は止めましょうよ。そんなただの銃で我々に叶うとでも?」
 「こちらもあまり派手に動きたくないんですよ。あなたが手に入れたデータの原本をこちらに渡せば無用な戦いは避けられる。あなただって痛い思いはしたくないでしょう?」

 猫なで声で言われても恐怖しか感じない。フジワラはヤタガラスから派遣されてきただろう悪魔召喚師の二人を睨みながら、出口へゆっくりと近づいた。くそ。せめてツギハギがいればまともに戦えるのに。
 そんなフジワラを嘲笑うかのように、ウェンディゴが口からブフを発した。その吹雪は唯一の出入り口を凍らせ、フジワラはとうとう外へ逃げることが出来なくなった。

 「おら! とっととデータを渡せってんだよ!」

 痩せぎす男が、見かけによらない鋭い蹴りをフジワラにお見舞いした。フジワラはがはっと血を吐きながら銃を落としてしまう。その銃を太り気味の男が拾い、フジワラの耳にぐり、と銃口を押しつけた。

 「あなたも馬鹿だね。ジャーナリストだかなんだか知らないが、世の中知らない方がいいこともあるわけ。下手な正義感振りかざして命まで落としたら笑えないよ?」

 男達がフジワラを見下ろし笑っている。フジワラは絶対こいつらに屈服するもんか、と睨み返した。太り気味の男が銃底でフジワラの顔を殴る。目の前が一瞬ぐらつき、フジワラの痩躯が床に転がる。そして二人組の男はフジワラの身体に殴る蹴るの暴行を繰り返す。
 男達は、笑っていた。

 ―――

 階下でなにやら物音が聞こえる。それにくぐもった悲鳴のようなものも。

 ――フジワラさん!?

 重女は施錠されたドアから一歩も動けないでいた。
 確か今日は出版社の人が来るとフジワラさんは言っていた。今頃商談しているはずなのに、何故何かが倒れる音や怒鳴り声が聞こえてくるの!?
 がちゃがちゃと、重女はドアノブを何度も回した。しかし施錠は解けない。体当たりを試みても、重女の体重では丈夫なドアは壊れない。助けなきゃ、フジワラさんを。

 ――でも、どうやって?

 手元にコンプはない。ツギハギさんに没収されてしまったから。仲魔の猿や獅子丸や牛頭丸、紅と白を呼び出すことが出来ない。なにより一番の仲魔である黒蝿が重体で使役することが出来ない。
 また呼吸が速くなっていく。黒蝿をそんな風にしたのは誰だ? それは私。私がこの手で黒蝿を――

 がっくりと、重女はくずおれる。下からの怒声や物音は鳴り止まず、むしろどんどん酷くなってきてる気がする。だけど重女は立つことが出来なかった。それどころか、まともに呼吸すらできなかった。

 ――もし悪魔召喚師が相手なら、私は戦えるの? 影の造形魔法だけで。いや、私は戦ってはいけない。黒蝿が与えてくれたこの術を使うわけにはいかない。

 『何故?』

 ――だって私はこの術を悪用した。そのせいで沢山人を殺した。黒蝿まで傷つけた。

 『だから、戦いたくない?』

 ――そう、私は生きている資格なんてない。消えたい。この世から、私の存在を消してしまいたい

 『消えちゃだめだ!』

 ――え?

 『辛いなら、戦わなくていい。無理に頑張らなくてもいいんだ』

 ――あなたは誰? とっても懐かしい声。頭の内側で語りかけてくるあなたは、一体――

 『大丈夫、僕が、俺が、守るから――』

―――

 ドオン! という轟音で二人の男はフジワラへの暴行を止めた。

 「誰だ!」

 問いかけても返事はなし。痩せぎすの男はウェンディゴと共に、音のした方へ慎重に歩を進める。今日ここにはフジワラだけしかいないという情報だったのに、他に誰かいやがったのか?
 カウンターの裏側へ回ると、そこには小さな階段があった。上を見ると、金髪碧眼の少女が立っていた。年の頃はまだ十四,五といったところか。
 フジワラの娘か? と疑問に思った直後、階段上の少女が電撃的に動き、ウェンディゴが黒い剣で斬りつけていた。Zの形に傷つけられたウェンディゴは、血を吹き出しその場に昏倒した。
 何が、と疑問符が頭を占める前に、痩せぎすの男はみぞおちに少女の拳を入れられていた。華奢な手からは想像もつかない速さと重さで。
 男はぐは、と苦鳴と唾液を吐きながら目を回し、ウェンディゴとともに床に倒れた。

 「おい、お前はなんだ!?」

 太り気味の男がボロボロのフジワラに銃口を向けながら喚いた。動くんじゃねえ、こいつがどうなってもいいのか、と男は恫喝したが、重女はそれを無視し、自分の周囲に影でいくつもの槍を作った。そしてその槍を太り気味の男めがけ放つ。
 いくつもの槍は、悲鳴をあげる男の脇や股下に入り、そのまま男の体躯は壁に槍によって縫い付けられた。重女が男に近づく。そして、腹に拳を入れ、太り気味の男は気を失った。
 殴られ腫れ上がった顔で、フジワラは重女を見た。彼女の目つきは彼が今まで見たことのない、鋭い目つきだった。いや、目つきだけではない、纏っている雰囲気も、体さばきも、佇まいも、フジワラの知っている九楼重女という少女のものではなかった。

 「君は……いったい誰なんだい?」

 呆けたようにそう問いかけたフジワラに、重女の姿をした者はこちらを向き、そして喉から掠れた呼吸音を響かせた。怪訝そうに眉を寄せたその者は、もう一度喉の辺りを押さえて声を出そうとした。が、当たり前だが声は出なく、虚ろな息の音しかでなかった。まるで自分がしゃべれないのを知らないかのように。
 しばらくきょろきょろしていたが、やがて床に転がっていた小さめのホワイトボードとペンを見つけ、“そいつ”は何かを書き、そしてフジワラに見せた。
 ホワイトボードには、こう書かれてあった。

 『おれはアキラ』と――

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 マハジオによる電撃の痺れが抜けきらなく上手く身体に力が入らないところへ、灼熱の炎の玉がシド・デイビスに向かって放たれた。
 炎の精霊・サラマンダーがアギラオを打ってくる。マカラカーンを展開させてはいるがもうすぐこの盾は破られるだろう。シドは、聖書型コンプを開き、自分の仲魔のうち最も強力で最も高位の大天使を喚んだ。

 「マンセマット!」

 すると急に辺りの空気が変わり、シド達をかばうかのごとく大きな黒翼が現れたかと思うと、その黒翼の持ち主である大天使・マンセマットは指先をサラマンダーに向けた。するとサラマンダーは一瞬で氷漬けにされる。マンセマットは仮面の下の表情を変えることなく、更に手を一振りし、氷漬けのサラマンダーを砕いて見せた。
 
 「一体なんです? 貴方ほどの者が私を呼ぶなど」
 
 主であるシドに対し、マンセマットは冷たいと呼べるほどの口調で尋ねた。シドは苦笑した。
 
 「私としたことが、ジオを喰らって身体が上手く動かなかったものでね。で、そっちはどうだ? 地下の侵入者は見つけたのかい?」
 
 シドの問いに、今度はマンセマットが苦笑する番であった。
 
 「ええ、いましたよ。悪魔が一匹と、人間が二人。悪魔の方は何やら私を恨んでいるようで私に向かって攻撃してきましたが、軽くあしらっておきました。しかし、あの悪魔はかなりの手練れ。恐らくヤソマガツヒは今頃やられているでしょうね」
 
 シドの眉間にしわが寄り、マンセマットを睨む。が、睨まれた黒翼の大天使は意に介さず薄ら笑いを浮かべている。
 シドはこう問いかけたかった。何故ヤソマガツヒがやられるのを知ってほうっておいたのか、あの地下の違法薬物製造工場を何故侵入者から守らなかったのか、と。しかし問いかけたところで答えをはぐらかされてしまうだろう。
 このマンセマットという大天使は形式上はシドの仲魔ではあるが、通常の主従関係にない。シドの言う事を一応聞きはするが、その行動はシドにも読めない。今もそうだ。地下の侵入者を見てこいという命には従ったが、それだけである。彼にとってここの地下で行われていることなど興味もないし、ましてや侵入者がいても脅威に感じない。マンセマットに我ら人間の価値観を求めること自体が無意味なのだ。
 シドは嘆息し、現在の状況を推測する。あの九楼重女という少女と侵入者は最初から繋がっていたと考えていい。だからあの少女は「リフレッシュ」の時間にこっそり部屋を抜け出し他の部屋の様子を探ろうとしていた。そして時を同じくして地下の工場施設に侵入者があった。番人として置いていたヤソマガツヒは既に倒されたらしい。
 そもそも何故地下に侵入する必要があったのか。それは「赤玉」の情報が何処かから漏れたからだろう。九楼重女達は最初から「赤玉」の製造方法の入手・世間への暴露が目的だったのではないか。
 だとしたら状況は最悪だ。ヤソマガツヒが倒された今、奴らはコンピューター・ルームに到達している可能性が高い。あそこにはここでの最重要機密である「赤玉」の製造方法が保管されている。もちろんプロテクトはかけてあるが、彼らがそれを破り、製造方法や実験記録などを持ち帰られてしまっていたとしたら……?
 
 「ミスター・デイビス?」
 
 部下の一人がシドへ心配そうに声をかける。が、その時シドは既に決意していた。
 
 「ここを“廃棄”する」
 「え!? 今なんと?」
 「地下の侵入者達に「赤玉」の製造方法を入手された可能性が高い。なにより九楼重女には「赤玉」の製造過程の一部を見られたまま逃げられてしまった。彼女達がこの施設から抜け出す前に、機密保持のため、被験体ごとここを“廃棄”する」
 
 赤玉製造プロジェクト兼この施設の責任者としてのシドの決定の言葉である。しかし部下はまだ納得がいかないようで、シドに食い下がる。
 
 「し、しかし被験体の少年達のほか、ホールや上のクラブに今日も沢山の客が集まっております。彼らに見つからないようどうやってここを“廃棄”するおつもりですか?」
 「ここを全て燃やす」
 
 部下の男は絶句した。
 
 「つ、つまり、関係ないクラブの一般人も一緒に始末する、そう言いたいのですか?」
 「勿論。ここは軍事施設ではないから自爆装置もないしな。跡形もなく全て燃やし尽くした方がヤタガラスのためにはいいだろう」
 「しかし……」
 「忘れるな。私たちは“そういった”仕事を請け負う班だ。君も私の班員になったからには覚悟を決めたまえ」
 
 男はもう何も言わなかった。シドはかまわず「マンセマット、そういうわけだ」と仲魔の大天使に言う。
 
 「君のアギの威力ならこの施設を上のクラブごと焼き払えるだろう。頼む」
 「……やれやれ、そんなことをこの私がしなくてはならないなんて。もっとましな理由で召喚してほしいものですね、シド?」
 
 マンセマットが両手をかざすと、そこには巨大な炎の玉が出来ていた。先ほどのサラマンダーのとは、大きさも、質も、全てが桁違いである。
 
 「シド。君たち人間はさっさと避難したほうがいいですよ? この火に焼かれたいのであれば話は別ですが」
 「言われなくてもそうする。さあ、ひきあげるぞ」
 
 シド達が避難したのを見届けてから、マンセマットは炎の玉を振り下ろした。その炎は死体の山を焼き、酸素を求め荒れ狂い通路を抜けホール、医務室、「リフレッシュ」に使っていた部屋、上のクラブ・ミルトン、更に地下に至る全ての人と物を包み、骨の一片も残さない程の、まさに天の裁きの業火のごとき威力を発揮してみせた。
 そしてその業火の魔の手は、フジワラのいるコンピューター・ルームにまで届こうとしていた。
 
 ―――
 
 「な、なんだ!? 一体何があったって言うんだい!」

 コンピューター・ルームにて、データ抽出を行っていたフジワラの元に、ツギハギと、その仲魔に担がれた血まみれの黒蝿と、ツギハギの肩に担ぎ上げられている同じく血まみれの重女が勢いよく入ってきた。
 目を白黒させているフジワラを尻目に、ツギハギは通路の様子を見て顔を険しくさせる。

 「時間がねえ。フジワラ、ここを脱出するぞ」
 「な、何を急に! まさか私たちの行動がばれたのかい!?」
 「それだけならいいんだけどな……」

 ツギハギは渋面で黒蝿と重女を交互に見る。黒蝿の方は左胸に大きな刺し傷があり、気を失っている。一方重女はスモックのような簡易な服を血で汚してはいるが、目立った傷は見当たらない。意識もあるようで、先ほどから彼女の呼吸音が連続して聞こえてくる。
 恐らく重女がここのヤタガラス職員と戦闘になり、仲魔の黒蝿が重傷を負ったところをツギハギが助けた、というところだろうか。それにしては、ツギハギの様子が変だ。自身の肩に乗っている重女に、怒りとも憐れみともとれない複雑な表情を向けている。

 ――一体、彼女達に何があった?

 問いただそうと口を開きかけ息を吸うと、粘ついた空気が喉に張り付き思わず咳き込んでしまった。視界が白く濁り始め、ここコンピューター・ルームに、焼け焦げる匂いを纏った煙が徐々に入り込んできている。

 「奴ら、証拠隠滅のためにここに火をつけやがったな」
 「何だって!?」
 「恐らくこのお嬢ちゃんが違法薬物の製造でも見てしまったんだろうよ。それか俺たちがここに侵入したのと、お前がコンピューター・ルームで情報を入手したのがばれたか、その両方か……。
どっちにせよ火はすぐここまでやってくる。今すぐ脱出だ! フジワラ!」

 ツギハギの言葉で渋々データ抽出をストップさせ、ノートパソコンを閉じ背中のリュックに入れ立ち上がる。本当なら全てのデータを手に入れたかったが、火が迫っているとなれば話は別だ。フジワラはツギハギと共にコンピューター・ルームのドアを開けた。するとぶわっと濃い煙が襲ってきて、二人は思わず口と鼻を押さえる。
 上の方向は何も見えない程に煙が立ちこめていて、酷く焦げ臭い。だが地下への階段はまだ煙が薄い。これなら侵入の時に倉庫に空けた穴から脱出できそうだ。
 ツギハギを先頭に、重傷の黒蝿を担いだ彼の仲魔の妖鬼・キンキと、最後尾にフジワラが続く。三人と二体は必死に階段を降り、最下層の倉庫へ向かって走った。
 そこで見てしまった。ツギハギの肩に身体を預ける重女が、涙を流し、何事か唇を動かしているのを。その唇の形が、ごめんなさい、という謝罪の言葉を紡いでいたのを、フジワラはしっかりと見てしまった。

―――

 マンセマットの生み出した業火は、シドの命じたとおり、全ての施設を焼き、消滅させていく。逃げ遅れた職員、パーティに招かれていた少年少女達、“赤玉”の材料となる被験体、そしてクラブ・ミルトンで遊んでいた何も知らない客まで見事に燃やし尽くした。
 死体も、生きた人間も、そして薬物の製造工場まで跡形もなく燃やす。魔力の高い者だけが生み出せる黒い炎。それはこの世の憎悪が凝縮されているかのように漆黒で、執拗に対象物を炭化してもまだ燃やし続ける。
 黒い炎に焼かれるクラブ・ミルトンを一目見ようと、野次馬達が集まってくる。駆けつけた消防隊が必死に野次馬達を押さえ、消化活動にあたる。しかし火はなかなか消えない。
 その様子を、三キロ離れた廃屋で重女達は見ていた。距離が離れていても分かるほど、クラブ・ミルトンの炎は強烈であった。恐らく地下の赤玉製造工場も、コンピューター・ルームに保管してあった赤玉の製造方法やそのプロジェクトの詳細も、全て燃やされているであろう。必死に逃げてきたフジワラ達は、悔しそうに炎を見つめていた。

 「くそっ!」

 煤だらけのツギハギが怒りにまかせて廃屋の壁を殴った。乾いた音が鳴る。そんなツギハギを諫めるようフジワラは言った。

 「まあ、落ち着けよ。全部ではないとはいえデータは半分手に入ったんだ。これを元にあそこで行われていたことを暴露させる。手に入ったデータは半分程度とはいえヤタガラスの悪事を暴くには十分で……」

 そこまで話して、ざしゅ、と奇妙な音が後方で聞こえた。肉を斬ったかのように不快な音だ。ツギハギと後ろを向くと、そこには重女が黒い剣で、左手首を思いっきり斬りつけている光景があった。
 
 「おい! お前なにやってるんだ!」

 慌ててツギハギが重女を取り押さえる。重女はそれでも暴れていた。黒い剣を自身の身体に突き刺そうともがいていた。
 自殺――それに思い当たった時、フジワラもツギハギと共に重女を取り押さえた。
 しばらく暴れていた重女だったが、急に身体を弛緩させ動かなくなった。そして喉から湿った呻き声のようなものを発する。
 それは、慟哭であった。声を出せない少女は満腔の謝意を、月夜に向かって声の出ない喉で叫び続けた。自分のせいで死なせてしまった人たち、助けてくれたツギハギ、フジワラ、黒蝿、そして自分に向かって“ダークサマナー”と言い銃弾を放ったシドに、血涙を流しながら、ずっと叫び続けていた。

 このとき、重女は感じた。
 今までの自分はここで死に、新たな自分が産まれるのを。

 そしてあることを決意した。

 その決意は酷く冷たく、おぞましいものだったが、大罪を犯してしまった自分にはこの道しか罪を償えるものはない、と確信していた。

 すなわち、欲望のために力を振るう、“ダークサマナー”への道を歩いて行き、どんな手段を使ってもヤタガラスを倒さなくてはいけないことを――

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 最初に異変に気づいたのは黒蝿であった。
 粘つく風が黒蝿の心の奥に絡みつく。この風を感じるのは初めてではない。人間が、内なる怒りを爆発させた時に起こるよどんだ風。しかし、黒蝿の注意を引いたのは、性質ではない。風を発生させている人物のことだ。

 「……あいつ!」

 数分前まで感知できなかった、黒蝿の真名を奪った少女の気。捕らえられていた場所から脱出できたのか? いや、それは問題ではない。この徐々に強くなっていく風は、術者の精神と肉体を蝕んでしまう。
 危険だ、止めなくては――そう感じた瞬間、黒蝿は走り出していた。

 「おい黒蝿! どこに行く!」
 「決まっている! “あいつ”のところだ!」

 後に続くツギハギの存在を無視して、黒蝿は地上への階段を昇り始めた。早くあいつを止めなくては! この風があいつを侵食してしまう前に!

―――

 M60回転式拳銃から弾丸が放たれるたび、重女の手首から肩にかけて激しい振動が駆け上がっていく。しかし今の重女には、この振動が酷く心地よかった。
 銃弾が敵の肉体にめり込み、貫通していく。相手は悲鳴と血飛沫を上げて死んでいく。顔や服に返り血が付き、一人、また一人と“敵”が死んでいくのを見て、重女の精神は更に高揚する。

 重女は、笑っていた。

 こんなにいい気持ちなのは生まれて初めてかもしれない。味わったことのない感情だ。
 敵をねじふせているという快楽。
 助けを請う敵を殺す快楽。
 この場を完全に支配しているという快楽。
 そしてなにより―――“自分たちを虐げてきた相手”に、同等かそれ以上の痛みを味合わせているという優越感が、重女の脳に心地よい酩酊にも似た感覚を刻み込んでいった。

 「や、やめ……」

 敵が助けを請う。ぴくり、と重女は眉根を寄せる。
 あの時もお母さんはそう言っていた。嫌だって。米兵さんに、“お前達”に、乱暴にしないで、って言っていた。でも誰も母の言うことを聞いてくれなかった。私たちが弱いから、“お前達”は何をしてもいいと思っている。
 アキラが髪を引っ張られて泣いている。私の体育着がボロボロに引き裂かれている。皆が私たちに暴言を吐いてくる。私たちが他の人と違うから、私たちが“弱い”から、お前達は調子に乗って酷い仕打ちを仕掛けてくる。
 引き金を引くと耳を聾する音とともに弾丸が放たれる。助けを請うた敵の身体が弾を受け止め後ろへ吹っ飛んでいく。
 ぞく、とした感触が頭の後ろから全身に走っていった。体中に鳥肌がたつ。それは恐怖からではない、敵を“圧倒している”という気持ち良さから来るものだ。
 先ほど打たれた薬剤が、体中を巡り、心の奥底の感情を掻き乱す。何かを支配する事によって生じる優越感。今まで私たちに苦痛を与えてきた“敵”が味わっていたのと同じ感情。

 ――そうか、これだったんだ。
 ――私はこれが欲しかったんだ。

 敵が反撃の銃弾を撃ってくる。重女は影の盾を造りそれらを全て無効化した。敵がおののく。かつての私と同じ、蹂躙されることによる怯えの表情を浮かべている。重女はそれがたまらなく愉快だった。

 ――あいつらを屈服させる力。
 ――誰にも負けない力。
 ――この力さえあれば、どんな相手にも負けない。
 ――惨めに泣き寝入りしなくていい、悔しさを感じなくたっていい、
 だって私は、“最強の力”を手に入れたのだから!

 弾が切れた。ち、と舌打ちすると、重女は銃を捨て、今度は右手に影で黒く大きな剣を造り出した。

 『スペードのエース……また貴女に相応しいカードが来ましたね』
 『スペードのエースは剣。つまり武器、力の象徴。最強の力のカードというわけだ』

 最強の力のカード、剣を象徴するスペードのエース。今、まさに私はそれを持っている。何者をも斬れ、何者にも折られない最強の剣。フジワラさんの言ったとおりだ。私は最強の剣を持った女王。誰にも虐げられない、誰をも支配出来る。この力さえあれば、あいつらを、私たちに屈辱を与えてきたあいつらに復讐することが出来る!
 銃弾を影の盾で防ぎ、黒い剣で相手を切り刻んでいく。何の痛痒も感じなかった。血が、肉片が辺りにまき散らされるほど、重女の気分は最高潮に達していく。
 楽しい。楽しくって仕方がない。あいつらはこんな気持ちで私たちを虐げていたのか。力を持つことがこんなにも愉快なことだったなんて、なんでもっと早く気づかなかったんだろう。
 剣の刀身を伸ばし、相手を滅多打ちに刺す。後ろから襲ってきた奴は十字に切り刻む。影が膨らみ重女を守る。血にまみれた黒い剣を持ち、影を纏い柔らかく笑う少女の姿は、もはや人の姿には見えなかった。

 「……悪魔、だ」

 満身創痍の生き残りが呻くのと同時に、ふわ、と重女がジャンプする。身体が軽く羽が生えているみたいだった。そして生き残りの敵の前に向かって笑顔で剣を突き出す。
 重女の周りは敵しかいない。自分と、自分の大切な人を虐げる敵。それを駆除するのが今の私の役目。重女の頭はそのことで一杯だった。
 だから、そこに急に飛び出してきた奴が、黒い羽を広げて重女を止めようとする者が、やたノ黒蝿という仲魔であることも、その時の重女にはわからなかった――

―――

 一瞬の出来事だった。
 目の前に黒い者が飛び出してきたかと思うと、剣は“そいつ”に深々と刺さっていた。
 “そいつ”は口からげほっと大量の血を吐き出す。すると胸に刺さっている剣を、籠手を装着した手でしっかりと握りしめたではないか。
 怪訝に思った重女が剣を抜こうとしても、“そいつ”は決して剣から手を離そうとしない。不思議に思って逆にもっと突き刺してみた。苦鳴が血とともに口の端からにじみ出る。一体こいつはなんなんだろう。なぜ突然飛び出してきたんだろう。なぜ頑なに剣を離そうとしないのだろう?

 「……■■■」

 びく、と身体が反応した。今まで忘れていた何かを思い出したように。

 「■■■!!」

 今度のは怒声であった。自分を激しく叱る声。何度も聞いたことのある声。いつも側で私を呼んでいた低い、男の声―――
 目の前を覆っていた膜が剥がれていくのを感じた。膜が晴れた先に瞳に飛び込んできた人物は、
 
 黒い剣が胸に突き刺さり、口と胸から大量に出血しながら、鋭い眼光でこちらを睨んできている、重女が真名を奪った仲魔、やたノ黒蝿であった。

 右手を見る。血にまみれた手は、黒蝿の胸に刺さっている黒い剣の柄をしっかりと握っていた。
 ぽたり、ぽたり。血が、黒蝿の胸から滴り落ちる。赤黒い血だまりが床に形成される。焦点の定まらない目で、右手を再び見る。

 私、黒蝿の身体に、剣を突き立てている――!?

 ひ、と声にならない悲鳴をあげ、手を剣の柄から離す。黒蝿が何か言ったようだが重女には聞き取れなかった。
 辺りを見渡す。そこには夥しい数の死体が倒れている。銃で脳天を貫かれた者、銃弾を何発も浴びた者、身体の一部が切り落とされている者、全員恐怖の表情で絶命している。
 血と臓物の生臭さと、硝煙の匂いが、重女の鼻腔に届いた。

 「がはっ!」

 はっとして、黒蝿の方を向く。黒蝿がゆっくりと、自分の胸から剣を抜こうとしている。

 (あ、あ……)

 無意識に、すがるように黒蝿の肩に触れる。が、黒蝿は重女の手を勢いをつけて振り払った。

 「俺に……触るな!」

 血とともに吐き出された拒絶の言葉が、突風のように重女の脳内に突き刺さった。欲望で濁った頭が揺り動かされ、自分の犯してしまった過ちと対面するはめになった。
 
 人が、沢山死んでいる。私が殺したんだ。私が、この人達を殺して、黒蝿を傷つけてしまった――!!

 がたがた、がたがた。身体が震える。歯の根が合わなくがちがちと音を立てる。咽喉マイク入りチョーカーを外された喉からは、まるで墓場に吹く幽霊の喘鳴のような音しか出なかった。
 自分がとんでもない間違いを犯してしまったという事実が、全身を支配する。先ほどまであんなに熱かった身体が、冷却剤を注入されたかのように芯から冷えていく。
 私、わたし、わたし、は―――

 「ぐ、あっ!」

 黒蝿が歯を食いしばり、剣を身体から抜くのに成功した。剣はその衝撃で消滅したが、代わりに胸の穴から大量の血が吹き出る。黒蝿の身体が前傾する。

 『黒蝿!』

 思わずその身体を受け止めてしまった。今度は黒蝿は抵抗しなかった。抵抗したくとも出来ないのかもしれない。胸の傷は背中まで貫通し、左の翼まで傷つけていたのだから。

 「おま、えな……」

 それっきり黒蝿は瞳を閉じ黙りきってしまった。身体を揺さぶっても反応がない。ただ胸の傷からどくどくと大量に出血しているだけ。
 冷えていく黒蝿の身体を、重女は思いっきり抱きしめた。半分ちぎれかけた左翼ごと血が止まるよう強く、自分より大きな肢体をぎゅう、と抱きしめた。

 ――ごめんなさい、黒蝿、ごめんなさい――

 何度も何度も念波で謝り続けた。しかし返答はない。それでも謝り続けた。深い傷を負わせてしまったことへの懺悔、身を挺して私を止めようとしてくれたことへの感謝、力に酔って、沢山の命を奪ってしまった自らに対する叱責――そんなものがごっちゃになって、重女は嗚咽混じりに泣き始めた。泣いてもどうしようもないことくらいわかる。だが涙は後から後から沸いてくる。声の出ない喉が張り詰めて、湿った咳を発した。

 『重女さん。黒のスペードのエースには死の意味もある。強い力は貴女を助けてくれるだけじゃなく、扱いを間違えると、とてつもない不幸を招くかもしれない』

 なぜフジワラさんの忠告を今の今まで忘れていたのだろう。私は剣を持った女王なんかじゃない。ただ他人から与えられた力を欲望のままに奮って、得意げにしていた無知で愚かなただの子供だ。
 どうすれば、私はこれからどうすればいい? 誰もその問いには答えてくれない。そして自分でも答えがわからない。治癒術も使えない私は、こうやって黒蝿の身体の出血を抑えるのが精一杯だ。
 私はあいつらと同じ過ちを犯してしまった。私たちを迫害してきた奴らと同じく、相手を力で支配することで生じる甘美さに酔いしれてしまった、その結果がこれだ。
 どうすればいい? わからない。でももう身体が凍ってしまったみたいに動かない。誰でもいい、どうか私を、黒蝿を、助けて―――

 「いたぞ! あそこだ!」

 くぐもった男の声が鈍麻した耳に聞こえてきた。重女は返り血のついた顔をゆっくりあげる。ガスマスクをつけ、武装した男達が十人ほど通路へとやってきた。大勢の人間が死んでいるのをみて、先頭の男は、うっと呻き声を漏らし、すぐに死骸の中心にいる重女と黒蝿に目を向けた。

 「……まさか、あの子供が!?」
 「いや、そんなまさか……」
 「待て、あの女、確か要注意人物リストに載っていたはずだ」
 「アマラ経絡を無作為に造り出したっていう悪魔召喚師か!?」

 なんの、話をしているのだろう。会話は聞こえても今の重女には、その内容を理解できない。頭が悲しみや後悔で飽和状態にあるからだ。
 そういえば、シドは? シド先生はどこ? 私のことを忘れてしまったシド先生。私を拘束して“畑女”とやらにしようとしたシド先生。だけどお願い、どうかここに来て。いつもみたいに優しい笑顔で、私を“許し”て――

 「おやおや、なんだねこれは」

 場違いにのどかな男の声に、重女は目を大きくする。黒い肌に銀髪のオールバック、眼鏡越しの緑の瞳――今さっき心の中で呼んだ、シド先生だ!

 (シド、先生……)

 ひゅう、ひゅう、と声の出ない喉で重女は必死に訴えかけた。お願い、私たちを助けて、と。
 しかしシドは無慈悲だった。重女が殺した人々の死骸をゆっくりと見渡し、そして今気づいたというように、重女の方に目を向けた。その顔にはこの状況を作った重女を嘲弄するかのような残酷な笑みを浮かべていた。

 「武装していたうちのスタッフを、たった一人で全滅させるとはな。九楼重女。私は君のことをどうやら見誤っていたようだね」

 胸元から、シドはコルト・ガバメントを取り出した。がちゃり、とこちらに銃口が向けられたが、重女はもう何も考えられなかった。

 「“ダークサマナー”は我々「ヤタガラス」の敵。九楼重女、これだけの人間を殺戮した君は危険なダークサマナーだ。今ここで死んでもらう」

 (ダーク、サマナー……?)

 言葉の意味もわからず、ただ呆然としている重女に、45口径の大口径弾が銃声とともに放たれた。重女はそこから一歩も動けず、やがて銃弾は重女の眉間に近づき――
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 重女の目尻からつっと涙が頬を伝った。それは、歓喜の涙。
 その様子を見た大柄な黒人、シド・デイビスは眉根を寄せた。

 「誰だ? 君は?」

 え、と重女は目を見開いた。重女とシドの視線が交差する。
 よく見ると、シドの姿は鞍馬山で別れた時とは違い、頬がこけて皺も目立つ。初めて会った時は二十代後半くらいの若さだったのに、今では体格こそがっしりしているが、顔は六十代後半か七十代くらいの老人である。

 (ああ、そうか、あれから随分と時が経ってるから……)

 確かに容姿は老いてはいるが、重女は自分を見下ろしている人物がシドだと確信していた。
 黒い肌、緑の瞳、そして――首から下げている銀の十字架。
 あのデザインの十字架のペンダントは、私とアキラとシド先生しか持っていない。三人の絆の証。
 そういえば重女の十字架のペンダントがない。確かに首から下げていたはずなのに、何故か今はない。もしかして没収されたのだろうか。

 『あ、あの……大分時間が経っちゃたけど、私だよ。■■■』

 チョーカーから出る機械音声を聞き、シドの眉の間の皺が深くなる。
 そうだった、私は黒蝿に名前を奪われていて、自分の名は声に出すことも文字で書くことも出来ないのだった。

 『あ、あの、教会で私達会ったよね? 聖書も貰ったし、神様の事や悪魔や天使の事とか色んなこと教えてくれたよ。そして一緒に鞍馬山に……』

 シドは何も言わない。周りの医者や男達は怪訝な顔で重女を見ている。

 『あ、あと、それから――』
 「すまないが、君の事を思い出せない」

 重女の言葉を遮りシドは冷たく言う。その声音と表情は重女の知っている温厚なものではなく、まるで虫けらでも見るように見下ろしている。何故? 何故そんな冷たい顔をしているの?

「九楼、重女さんだね。君は私を別の誰かと間違えているのでは?」
『ち、違う! 間違えていない!』

 聞くに堪えかねて重女は声を荒げた。起き上がろうとしたが手足を拘束している革ベルトがそれを邪魔した。

 『だ、だってシド先生、私とアキラに十字架のペンダントをくれたよね? 三人お揃いのペンダント。今シド先生が首から下げているのと同じ』
 「!」

 シドの眼が少し見開かれた。無表情の仮面が少し割れ、少しの驚愕の色が顔に現れた。

 「ミスター・デイビス。この子と知り合いですか?」

 部下らしき男がシドに聞いてくる。シドは顎に手を当て何かを考えている。その癖も昔のシド先生と同じだ。やっぱりこの人はシド先生だ。
 なのに先生は私の事を覚えていないようだ。やっぱり五十年近く会ってないから私とアキラの事を忘れちゃったのだろうか。

 「……………」

 じっと、じっくりとシドはストレッチャーの上の重女を見る。眼鏡の奥の瞳は初めて会った時と同じ深い緑色だが、その色が少し濁っているような気がした。

 「……悪いね、重女さん、だっけ? 私と出会ったと言っているが、私は残念ながら覚えていない」
 『そんな!?』

 重女は落胆した。きっとシド先生も、どんなに時が経っても私達のことを覚えてくれていると思っていた。でもそれは私だけだ。シド先生にとって私とアキラはそこらへんのただの子供と思っていたんだ。私はずっとシド先生の事を覚えていたのに……

 「ミスター・デイビス。これがその子の所持品です」

 部下らしき男がうやうやしく箱を捧げる。その箱には重女が身に着けていたもの、ワインレッドのワンピース、少し大きめのサイズのハイヒールにバック、バックの中に入っていた化粧品やハンカチや穿いていたパンスト、ポケットティッシュまでもが入っていた。
 その中に確かにあった。重女が肌身離さずつけている、シドのと同じデザインの十字架のペンダントが。
 シドはそれを手に取り、じっくりと眺めた。

 「確かに私のと同じようだが……やはり私は君のことを覚えていないよ」
 『……!』

 まるで自分の身体が奈落へ落とされたかのように、強烈な虚脱感が重女を襲った。そんな……私はシドに会いたくて、話がしたくて何度もアマラ経絡で色んな時間を辿ってきたのに、折角会えたのに、こんなのって……

 「まあこの事は後にしておこう。それより“赤玉”の生産状況が追いついていないと聞いたが?」
 「はい、そうです。神経伝達物質はいくらでも採取できるのですが、肉の方が足りないのです。やはりもっと“畑女”と“種男”を増やしたほうが……」

 シドは完全に重女に背を向けて部下と何か話し合っている。重女は静かに泣いた。先程とは違う、悲しみの涙が頬に新たな筋をつける。

 ――なんで? シド先生……私はどんなに貴方に会いたかったか。なのに……こんなのって……

 「ねえ、君」

 ぐすぐすと泣いている重女の顔をシドは覗く。こんな顔を見られたくなく思わず横を向いた。涙を拭いたい。だけど手足が拘束されているので出来なかった。

 「君は、なんでアマラ経絡をあんなに造りだしたんだい?」

 シドが問う。なんでそんなことを聞くんだろう。それは元の世界に戻って貴方に会うため。しかし重女は答えなかった。だって、そんなこと言っても私のことを忘れてしまった貴方には伝わらないから。

 「私達はね、ずっと君がアマラ経絡をつくって時空を横断していたのを知っていた」

 重女は驚愕のあまり目を大きくした。知っていた? 私達がアマラ経絡を造って時間移動を繰り返していたのを。

 「本来、アマラ経絡を使って歴史に干渉するのは許されない。それに、いくつもの経絡が開きっぱなしだと、そこから悪魔が出てきて人間を襲う可能性があるからね。君が造り上げた経絡を閉じていくのはなかなか骨が折れたよ」

 あ、と重女は気が付く。そういえば私は経絡を造りっぱなしにしていた。経絡はいつも自然に閉じていたからそういう仕組みなのだと思っていた。だから、シドが毎回閉鎖してくれていたなんて思ってもみなかった。でも――

 「アマラ経絡を無作為に造りだすのは褒められたものじゃない。本来なら君はとっくに我々に捕らえられているはずだった。でもヤタガラス上層部は君を“わざと泳がせることにした。”どうしてだと思う?」

 わざと泳がされていた? いくつものアマラ経絡を造った私は本来なら捕まえられて裁かれなくてはいけないらしい。でもなぜ“泳がされて”いた?
 返答に詰まった重女を見ながら、シドはふう、と溜め息をついて、額に手を当てる。

 「それはね、君が平安時代にアマラ経絡を結んだことと関係する。
 君は気づいていないだろうが、霊鳥・八咫烏を使って当時の帝を悪魔から救っている。
 八咫烏を従える君を天からの遣いと勘違いした帝は、あの稀代の陰陽師阿部晴明を筆頭に、「ヤタガラス」という魔をもって魔を討つ組織を結成した。それが、我々の組織「ヤタガラス」の前身というわけだ」

 口の中が緊張でカラカラだ。平安時代に黒蝿を使って百鬼夜行から人助けしたことは覚えているが、まさかその人物が帝だったとは。
 これでわかった。私が捕縛もされず「ヤタガラス」に泳がされていたのは――

「もうわかったかい? 君が起こした行動で、「ヤタガラス」は生まれたのだよ。
 当時の文献にも残っていた。帝が百鬼夜行という鬼や悪魔の行列に襲われたとき、天照大神の遣いが八咫烏を従え、帝を救ったと書かれてあった。この遣いが、時間移動を繰り返していた君だと上層部は見抜いていた。だから君への干渉が何一つなかったのだよ。君がいなくては我々「ヤタガラス」も生まれないからね」

 なんと言葉にすればいいのかわからなかった。私がアマラ経絡で時空を旅したせいで現代に影響が出るだなんて、ちょっと考えればわかるはずなのに。今までその可能性を考えなかった自身を恥じた。

 「でも、それも今回で終わりだよ」

 重女はまたしてもシドを凝視した。まるで悪戯がすぎた子供に罰を与える教師の様に、その声音は冷たい。
 するとシドが手を伸ばしてきて、重女の首に指を這わせた。その感覚にぞくりと肌を粟立たせると、次の瞬間、首元の咽喉マイク入りチョーカーが無理やり外された。

 「!?」

 声の出ない口をぱくぱくさせながら重女は抗議しようとしたが、ひゅう、ひゅうと喉は木枯らしのような音しか出さない。今奪われたチョーカーがないと声が出せない。シドもそれを知っているからチョーカーを奪ったんだ。

 「もう君は用済みってわけだよ。九楼重女。君は“赤玉”の材料を産んでもらう」

 ―――

【クラブ・ミルトン:コンピュータルーム】

 暗号解読された機密文書「悪魔召喚簡易化による“赤玉”製造プロジェクト」の概要を読み終えたフジワラは絶句していた。
 簡単に言うと、“赤玉”なる物質を製造し、悪魔召喚師ではない普通の人間にも、赤玉を悪魔に渡すだけで簡単に悪魔を従えることが出来る、という計画だ。
 この計画はとても古く、1960年代後半から始まっている。一時冷戦の影響や人手不足、そして景気破綻により中止されたが、去年からまたこのプロジェクトは再開された。責任者の名前はシド・デイビスと書かれている。

 ここまでならちょっと変わった計画にしか見えないが、問題は“赤玉”の製造方法についてだ。

 赤玉製造に必要なのは、人間の肉と、ドーパミンなどの神経伝達物質。その二つを混合することによって生み出される。
 人間の肉で最も質がいいのは生まれたての赤ん坊の肉だ。“種男”と“畑女”と渾名された男女を交配させ、畑女の胎内の赤子に促進剤を打ち、十月十日を待たずして出産させ、その嬰児の肉と、ヤタガラスが選んだ被検体、成長期の少年少女の脳内から抽出された神経伝達物質を混ぜ合わせれば赤玉の完成だ。

 こみ上げてくる怒りと生理的嫌悪感を我慢して、フジワラは続きを読んだ。

 それによると、神経伝達物質を吸い上げるのは一度ではなく二度、三度と何回かに分けて行うらしい。それは一度に抽出すると物質が壊れてしまう可能性があるのと、被験者の神経伝達物質を一度に全部抽出されると、彼、彼女らは廃人となってしまい「処分」しなくてはいけない。そうするとこの計画が外部に漏れる恐れがある。
 こんな倫理観に欠ける計画が世間に知れたら、世論は「ヤタガラス」を叩くだろう。それを避けるため、このクラブで毎週パーティを開き、被検体の少年少女らを招いて、彼らに気付かれないよう少しずつ神経伝達物質を「リフレッシュ」の時間に採取する。

 (成る程、だから私が見たパーティ帰りの客はどこかおかしかったのか)

 あんな子供相手になんてむごい事を……フジワラは眉をしかめ、パソコンの画面をスクロールしていく。そこにはこの計画の報告が書かれていた。

 ≪被献体M-16、抽出歴一年:脳内環境:B(※前頭葉に損傷軽微)≫
 ≪被献体F-19、苗床から苗を収穫。:脳内環境:C(※海馬に損傷確認)≫
 ≪新たな被献体6名入所。うち3名を畑女と種男に登録≫
 ≪被献体F-18、苗の芽吹きを確認。しかし流産。新たな種男と交配させる≫

 読んでいて胸がムカムカしてきた。畑女と種男、そんな呼び名で赤玉の材料たる嬰児を産ませ、その事を“苗床から苗を収穫する”と表現している。これじゃあ牛や豚などの家畜と同じじゃないか。やはり「ヤタガラス」は外道そのものだ。国を守る超国家機関が聞いて呆れる。
 とにかく、このデータを抽出し、公の場に公表しないと。今こうしている間にも被害者は増え続けているのだから。
 データ抽出のための用意をフジワラが行っている時、急に耳のインカムに通信が入った。「はい、こちらフジワラ」

 〈フジワラ、無事か!?〉

 ツギハギの大きな声が鼓膜を揺らす。良かった、ツギハギ達は無事だったのか。

 「こっちは現在コンピュータールームにてデータ採取にとりかかっているよ」
 〈データ?〉
 「このクラブでの、いや、「ヤタガラス」の悪事の証拠さ」

 応答しながらフジワラの手は止まらない。凄いスピードでキーボードを打っている。

 〈やっぱりあったか。どうもきなくせえと思っていたんだ。それは違法薬物のか?〉
 「いや、ちょっと違う。詳しくはここを出てから言うよ。長くなりそうだしね。それより、そっちこそ大丈夫かい?」
 〈ああ……まあな。無事あいつを倒したぜ。傷一つおっちゃいねえよ〉

 少しだけツギハギの声のトーンが落ちた。なんだ?

 「なにかあったのかい?」
 〈べ、別になんでもねえよ! それよりあのお嬢ちゃんはどうした? まだ合流できていないのか?〉
 「ここのデータ抽出が済んだら合流するよ。それにしても心配だな。彼女、危険な目にあっていなければいいんだけど」
 〈その事だが……〉

 急にフジワラとツギハギの会話に誰かが入ってきた。やたノ黒蝿だ。
 
 「やあ、黒蝿君。無事でなにより」
 〈ああ、それよりあいつの気配が感じない。数十分前を最後に行方が分からなくなっている〉

 フジワラは思わずキーボードを叩く手を止めた。

 「気配が消えたって……それってまさか……!」
 〈恐らく、何者かに拉致されたんだろう。そして魔法の使えない場所に連れて行かれたか……〉

 フジワラは眼鏡を取り、汗でべたべたの手と顔を拭いた。ブラックジャック対決の時、重女に渡したハンカチで。後に重女は、律儀にやや恥ずかしそうに洗って返してくれた。その時見せた年相応の柔らかい照れ顔がフジワラの脳内に焼き付いている。

 「それは穏やかじゃないね、目立つ行動は避けたかったけど、重女さんを見捨てるわけにはいかない。黒蝿君、ツギハギ、彼女を救出に行ってくれ」
 〈あんたはどうするんだ?〉
 「私はさっき言った通り、ここでヤタガラスのデータを抽出するよ。僕が助けにいっても足手まといだろうからね。重女さんの救出は君たちに任せるよ」
 〈了解した〉
 〈まかせとけよ相棒! お嬢ちゃんは必ず救出するからよ!〉

 それを最後に通信は途絶えた。あの二人の戦闘能力ならどんな敵でもやっつけるだろう。問題は重女だ。黒蝿も感知できない場所に連れて行かれた……それは何の理由で?
 フジワラはふとさっき見た情報の中に、“畑女”という単語があったのを思い出した。赤玉の材料となる赤子を産ませるために“種男”と交配させられる存在。

 ――まさか!

 ぞっと、全身の毛が逆立つような感覚に襲われる。まさか、「ヤタガラス」は重女さんを“畑女”にするために別室に連れて行かれた――!?

―――

 シドが薄ら笑いを浮かべながら退室していく。部下の男と一緒に。待って、貴方には聞きたい事、話したいことが山ほどあるの――
 しかしその言葉は声にならなかった。咽喉マイクをはがされ、声を出せない状態に戻った重女には、他者に気持ちを伝えることができない。そうこうしているうちに、重女の乗せられているストレッチャーに、医師や重女と同じスモックの様な簡易服を着ている男数名が集まってきた。男達の目は虚ろで、どこを向いているか分からなかった。

 「可哀想だとは思うけど、これはミスター・デイビスの命令なんだよ。君を新たな畑女にしろって」

 畑女? なんだろうそれは。どこかで聞いたような気もするが……

 すると急に医師が重女のスモックの腕の部分を捲し上げる。医師の手には注射器が握られていた。
 注射器をみせられ、ざわっとした危機感が重女の脳を刺激した。やばい、これはやばい! 逃げなくちゃ!
 しかし必死に逃れようとしても手足の拘束ベルトは一向に緩まず、ストレッチャーがぎしぎしと音を立てただけ。暴れる重女を他の医師や男達が押さえる。そうこうしているうちに二の腕をゴムで縛られ、血管の位置を確かめた医師は、重女の皮膚に針を突き刺した。

「――――!!」

 薬剤が体の中に入ってくると、強烈な眠気が沸き上がってくる。同時に身体が弛緩し、重女は目蓋をあけていられない。眠ってはだめだ、自分を強く持て、誘惑に惑わされちゃ駄目だ。
 そう、いつだってそうしてきたじゃないか。強くなければ。強くなければ母やアキラを守れない。私が強くなって、私達を傷つける者をやっつけなきゃ。

 ――やめて、そんなことしないで!

 母の声が聞こえる。仕事帰りにたまに米兵を家に上げさせていたお母さん。プライベートでも、母は身体を売っていた。だけど中には乱暴な客もいて、そういう時、母は客を拒絶する。だが誰も母のいう事を聞いてくれなかった。客を喜ばすため、母は不承不承に事に及ぶ。
 母の拒絶の声を、重女はドア越しに聞いていた。私がもっと強かったら、きっとお母さんを助けてあげられたのに。
 悔しい。力がないってこんなにも惨めで辛い事なのか。

 ――私が君達を愛している。それが理由だよ

 暴言を吐いてしまった私に、シドが十字架のペンダントをくれた。私達のことを愛している? なら何故私を拘束するの? 何故何も覚えていないの?
 甘い香りがする。脳までとろけてしまいそうな濃厚な甘い匂い。匂いは重女の心の奥まで届き、そして感情を増幅させる。

 ねえ、なんで私はこんなに弱いのかな? 大切な人も守れず、信じていた相手にも裏切られた。悔しい。私に、もっと力があれば――

 ――貴女が持つのは花ではなく、その“剣”が相応しい。戦いの女王は、武器を持って戦うからね

 今度はフジワラの声が聞こえた。ブラックジャック対決の時、彼は重女のことをスペードのクイーンだと比喩していた。あの時のカードは、スペードのクイーンに、スペードのエース。スペードのエースは剣を意味している。強い力の象徴たるカードは、今、手元にある。

 そうだ、私は強い力を手に入れたんだ。どんなものでも切り裂く最強の剣。これならどんな敵でも殺せる。

 ――重女さん。黒のスペードのエースには死の意味もある。強い力は貴女を助けてくれるだけじゃなく、扱いを間違えると、とてつもない不幸を招くかもしれない

 またしてもフジワラの声。大丈夫だ。私は間違えたりしない。この剣で私達を貶めてきた奴ら全員を殺すことが出来る。もう何も出来なくて泣いていた昔の自分とは違うんだ!
 私はスペードのクイーン、戦いの女王。そして今、最強の武器たるスペードのエースを手に入れた。

 ――私は、もう負けない!!

 ―――

 重女のスモックを脱がしはじめていた医師は、彼女の異変に気が付いた。
 彼女の周りに黒い風の様なものが巻き上がる。風はそれ自体が意思を持っているかのごとく、重女のストレッチャーの周りに渦を巻いている。

 「なんだこれは!? 魔法か?」
 「いや、そんな事はあり得ない。この部屋は一切の魔法が封じられるようにしてある」
 「しかし、これは一体……」

 おろおろと戸惑っている医師の一人の脳天に、黒い剣が刺さった。闇を凝縮したような濃い黒い剣。医師は何が起きたかわからないまま死んだ。床に血だまりが広がり、脳漿が散らばる。

 「なんだ! なにがおきたんだ!」

 そう言った医師も、今度は黒い剣で袈裟切りにされた。身体を真っ二つにされた医師は血を噴水のように溢れだして絶命した。
 白く、清潔であった部屋は今や血と臓物で汚れている。革ベルトによる拘束を解いた重女はぴちゃり、と血だまりに足をつけた。黒い剣を持ったままで。

 「お、お前! 一体何をした! どうやって拘束をとき――」

 そう言った男も心臓を貫かれた。男は苦悶の表情のまま絶命し、重女の足元に倒れた。
 男の手がたまたま重女の白い足に触れたので、重女は少し眉を寄せ男の死体を蹴った。まるで汚物を見るかのような暗い瞳で重女は男達の死体を睥睨した。
 それから、椅子にぐったりと拘束されている少年少女たちの頭に刺さった管を全部抜いてやった。そして管が繋がれている冷蔵庫のような大きな箱を、剣で斬りつける。何度も斬りつけると、箱は火花を散らし、その機能を停止させた。

 重女は先程殺した医師の内ポケットを探る。あった、リボルバーM60が。

 回転式拳銃を握った途端、重女は精神が高揚するのを感じた。その気持ちに呼応するかのように、黒い影がぐるぐると重女の周りでじゃれ合う犬の様に回る。

 ――ほら、やっぱり。今の私は強い。もう無力な子供じゃない。この銃と剣さえあれば、どんな奴らもひれ伏させることが出来る!!

 重女は返り血にまみれたまま、スモックと裸足のままで部屋から抜け出した。微笑を浮かべたままで。

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 「本当に一人で大丈夫ですか?」

 男の心配そうな声を背後に聞きながら、重女はそっとプラネタリウムが上映されている部屋を抜け出した。

 『大丈夫です。医務室の方向は覚えています。だから一人で行けます』

 重女は包帯の巻かれた右手をさすりながら答えた。
 まだ何か言いたそうな係の男を置いて、重女はいかにも具合悪そうにふらふらと廊下を歩く。
そして角を曲がると、重女はハイヒールを脱ぎ、他の部屋を探すため走った。ストッキングのせいで滑らないようにと、他のスタッフに見つからないように、忍び足にならざるを得なかった。

 プラネタリウム上映は心地よかったが、自分はそんなものを見にここに来たわけではない。このクラブで行われているらしい違法薬物の製造、流通の証拠を押さえなければならない。重女は他の部屋で行われている「リフレッシュ」の内容を知るため、冷たい廊下を走る。
 たしか「リフレッシュ」の内容は軽い運動プログラムに、重女もいたプラネタリウム上映、個人によるカウンセリングなど多岐に渡るが、重女が一番怪しいと思ったのは「心身正調プログラム」だ。
 なんでもそのプログラムは心と体の不調をとるために特別な“施術”を行うらしい。しかしその施術の内容は明らかにされておらず、参加者も一番多いプログラムだった。
 心身の調整と謳っておきながら、実は参加者達を違法薬物漬けにしている可能性が高い。女の勘とでもいうのは意外と馬鹿にできないのだ。

 それに――重女は少し引っかかることがあった。ホールで出されていた「赤玉」という食物。悪魔専用のその食べ物は一体何なのか。違法薬物と関係あるのではないかと読んでいた。
 しかしどうやって赤玉や違法薬物の正体を探る? 闇雲に行動を開始したはいいが、次にどうやって動けばいいか重女は失念していた。

 (そういえば、黒蝿達は、もうここに侵入したのだろうか)

 フジワラやツギハギ、黒蝿が外から、重女が中からクラブの暗部を探るのがこの作戦の主な要綱。と、いっても実質重女が作戦の中心なのだ。当然だ。クラブの中に正々堂々と入れるのは重女ただ一人だけであるから。
 とりあえず、重女は「リフレッシュ」が行われているらしき一つの部屋のドアをほんの少し開けて覗く。
 真っ暗な部屋だった。先程のプラネタリウム室の様に朧げな光すら感じさせない、真実の闇が部屋中に満ちているようだ。
 それでもじっと目を凝らしていると、何人かが寝椅子に身体を預けてぐったりしているのが輪郭だけ見えた。彼らはこの暗い部屋で何をしているのだろう。
 もっと見てみようとドアから身を乗り出した途端、嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔をついた。先程のホールに充満していた甘ったるい胸やけがする匂い。しかしここのはホールのより濃密で、重女は少し嗅いだだけで物凄い睡魔に襲われた

 (な、なに、これ……?)
 
 視界がぐにゃりと曲がり、足元は底なしの沼に落ちたかのようにきちんと立っていられない。頭の奥から闇が襲ってきて、それは重女の全身を支配する。
 眠っては駄目だ。そう理性が叫んでも身体の本能が遥かに勝っていた。重女はその場にくずおれ、気絶するかのように眠りについてしまった。
 眠りにつく瞬間、誰かの黒く光るエナメル質の高級そうな靴を見て、ああ、ドジを踏んでしまった、と思い、靴の持ち主に身体を抱きかかえられる感触を最後に意識を手放した。自分の身体を持ち上げた人物の手は、大きく温かかった。

―――

【クラブ・ミルトン:コンピュータルーム】

 「ここは……!」

 黒蝿達と別れ、上級作業員カードで上の階へ向かったフジワラは、地下一階でコンピュータールームと書かれた場所を見つけた。
 そこは手持ちのカードでは扉は開かない。なので背中のリュックに持ってきた小型ノートパソコンを取り出し、ケーブルをドアの開閉端末に繋ぎ、自作ソフトでハッキングし無理やりドアを開かせた。

 重厚な音が響き、電子扉が開く。そこに現れた光景にフジワラは目を見張った。
 何十台ものコンピューターが左右の壁を占め、無数のコード類が床に錯綜している。すなわちここは「クラブ・ミルトン」の頭脳というわけだ。
 これだけのスパコンや電子機器。ここに違法薬物の生成法などが保管されているとみて間違いなさそうだ。
 フジワラは早速一つのスパコンにケーブルを繋ぎハッキングを試みる。しかし相手もなかなかの強固なシステム。だがここまで来たんだ、負けるわけにはいかない。
 フジワラは自らのハッキングテクニックを全て費やし、なんとか情報深度レベル7まで到達した。

 「さあ、ゆっくり見せてもらうよ」

 エンターキーを押す。しかし映ったのは暗号の羅列。がっくりと肩を落としたフジワラは、またしてもリュックをあさり、自分以上のハッキングテクニックの持ち主を取り出した。

 「ミドーさん、お休みのところ悪いですが、起きてください」

 聖書型コンプを開き、ミドーの名を呼んだ。コンプは登録されている音声を認識し、悪魔召喚プログラムを司るミドーという老人を呼び出した。と、いっても生身の人間が出てくるわけではない。かつて悪魔に魅了された男は今は電脳世界に思念体だけで存在しており、呼び出されたときは荒いポリゴンドットの白鬚のサングラスの老人の映像が現れる。

 〈なんじゃさっきからうるさいのう。今度はなんじゃ?〉
 ゆらり、ゆらりと崩れかけの上半身を揺らすミドーに、「すみません」とフジワラは謝る。

 「でも今は貴方の力が必要なんです。これを見てください」

 自作のノートパソコンのディスプレイをフジワラはミドーに見せた。暗号のプロテクトがかかっており、ここから先は自分の力ではプロテクトを解除することができないということを告げると、ミドーはふふん、と得意げに身体を一回転させた。

 〈私とお前さん、二人がかりならこんなちゃちなもんすぐ壊せるわい〉
 「ほ、ほんとですか!? よし、なら早速取り掛かりましょう!」

 ミドーとフジワラによる暗号解除のための作業が開始された。最初は意味不明な単語と文字の羅列が徐々に意味のある言語へと変わっていく。そのほとんどの作業をミドーが負担していた。さすが悪魔召喚プログラムをつくっただけはある。
 ミドーとフジワラの作業が終わると、ディスプレイには最重要機密が記されていた。フジワラは眼鏡を外し顔と手の汗を拭きながら、ミドーにお礼を言った。
 厳重にプロテクトされていた情報の一番上の文字を、フジワラは声に出して読んだ。

 「悪魔召喚簡易化のための“赤玉”製造プロジェクト?」

―――

 「君は、人間と悪魔が共存することはあり得ると思うかい?」

 いつもの教会。ステンドグラスから柔らかな光が差し込む中、シドが唐突に聞いてきた。
 私は、シド先生の顔を見る。黒い肌に眼鏡の奥の緑色の瞳は、じっと見ていると吸い込まれそう。

 「私は、無理だと思います」

 はっきりというと、シド先生は「何故?」と問う。なぜって、そんなの決まっている。

 「悪魔は人間に害をもたらす存在でしょ? シド先生がそう言ったんだよ。そんなのと一緒に暮らせるなんてありえないよ」

 悪魔。人間を誑かし貶める最悪の存在。私達はこの悪魔の誘惑に決して乗ってはいけないとシド先生に教わった。なのに、何故先生はそんなことを言い出すのだろうか。悪魔と人との共存、だなんて。
 シド先生は私の回答を聞いて満足そうに微笑んだ。

 「そうだね、そう考えるのが普通だ。なら、君は天使となら共存できると?」

 言葉に詰まってしまう。
 悪魔は悪い奴で、天使は良き者。大雑把に言うとそういうくくりになる。だけど、いくら良い者でも全く違う種族の者が一つの世界で生きられるものだろうか。同じ人間だっていがみ合い憎しみ合っているというのに。
 それに――

 「私は………天使が本当に良き者か分からないのです」

 顔を俯けたまま答えたのでシド先生の顔は見えない。だが、少しだけ息を飲む気配が伝わってきた。

 「その……もちろん聖書にはそう書いているし、皆天使は神の遣いって崇めるけど、私にはその神様が良く分からないのです。こんなこと言うと怒られるかもしれないけど、神様って本当にいるのかなって思うんです。その遣いの天使も。だから……」

 「だから、天使とも悪魔とも人間は共存できないと?」

 先生が問う。その言葉には叱責はなく、本当に疑問点を聞いているだけという感じであった。

 「…………はい」

 膝の上で手を組みながら、消え入りそうな声で私は返答する。なんだろう。別に叱られているわけじゃないのに、何故私は居心地が悪いんだろう? やっぱり、私の回答が間違っていたから? シド先生は怒っている? そもそもなんでこんな質問を先生は私にしてきたのだろう。

 「ふむ、大多数の人間はそう考えるし、私もそう思う。所詮天使や悪魔は次元の違う存在。共存なんていうのはどだい無理だと思うよ」

 でもね、とシド先生は続ける。

 「共存じゃなく、我々人間が天使や悪魔を従えることができたら?」

 ばっと、私は驚いて先生の顔を凝視する。シド先生は薄笑いを浮かべ、決して冗談を言っているわけではないとその目は言っていた。
 従える?  馬や犬の様に? 悪魔や天使を? そんなの――

 「無理に決まってます」
 「何故?」

 間髪入れずの問い。私は言った。先程と同じく天使や悪魔は我々人間とは違う世界の存在。それを共存どころか従えるだなんて、おこがましいにもほどがあると。
 その答えを聞いて、シド先生は顎に手を当てゆっくりと頷いた。

 「そうだよね、無理に決まっているよね、“今の段階では”」

 私は首を傾げる。“今の段階では”? まるで将来的に天使達を従えられるとでも言いたいのだろうか。

 「シド先生、なんだか今日は変だよ。どうしてそんなこと言い出したりするの?」

 陽の光が採光窓から十字架を照らし出す。祭壇の一番上にある十字架。それに磔にされている救世主。シド先生の顔は逆光で良く見えない。だけど光のせいで、まるで先生が十字架を背負っているように見える。

 「何故って? それが出来たら私達は神への道を歩むことが出来るかもしれないんだよ」

 陽光がシド先生の顔に陰影をつける。彫刻の様に整った顔立ちを一層強調し、突拍子もない事を言っているのに、まるでそれが本当に出来る事だと思い込ませてしまう。先生の言葉には、そんな力と優しさがあった。

 「しかしそのための手段を、まだ人類は完全に会得できていない。なら、人類はそろそろ禁断の果実をかじる時ではないかい?」
 「禁断の果実?」

 最初の人間アダムとイブがかじったとされる果実? その果実を食べたせいで人は知恵をつけ神に楽園を追放された。その果実を再び齧る? わからない。私にはシド先生の言っていることが良く分からない。いつも優しいシド先生が遠くを見ている。私以外の何かを見ている。

 なんだか怖くなった私は教会から出ようと試みた。だが私の手をシド先生が掴み、そして自らの方へ私の身体を引き寄せ、耳元でこういった。

 
 「君はね、その禁断の果実になるんだよ」続きを読む

 右手と左手の人差し指と親指で小さな四角を作り、重女は満天の星々を指のフレームから覗いた。
 そこから見えるのは、自分の指によって切り取られた星の絵画。
 これは昔からの癖で、重女は星空を眺めるのが好きなのだ。

 きっとそれは幼い頃、昼間に外出することが少なく、夜、近所の住人達がいなくなった公園で母と二人で遊んでいたせいかもしれない。

 頭上を見上げると、真っ暗な夜空にキラキラと光る星が沢山ある。それが不思議で、幼い重女はまるで宝石みたいだと母に伝えると、母は優しく笑いながら「あれは世界で一番大きくて綺麗な宝石箱よ」と言った。
 母の愛のある嘘を重女は信じた。大きな宝石箱。その箱の広さには終わりがなく、納められた宝石もどれくらいあるか検討もつかない。箱には一番大きくて光っている宝石が一つあり、その白い宝石は見るときによって形を変える。お日様程強くはないけど、周りの小さな宝石や、それを眺めている自分さえ朧気に照らす。

 「世界一大きく綺麗な宝石箱」は、ずっと眺めていると自分が地から浮いて吸い込まれてしまうほど広い。それが怖い重女は、両手でそっと輪を作り、そこから宝石箱を眺めた。
 手で作った小さな窓から覗くと、得体の知れない浮遊感も飲み込まれそうな恐怖心もなくなり、手の枠の分の宝石が、夜空というとてつもなく大きな箱から自分の心の中の宝石箱に移ったような気がして、重女の胸もキラキラする。星という宝石の輝きを自分のものにしたくて、重女は晴れた夜空を見上げる時は必ず手や指で小さな窓を作り、星々や月の輝きを切り取っていた。
 今も寝椅子に座りながら指の窓から星を見上げる。美しい天の川が見える。無数の星が集まり形成される輝く川。だけどこれは人工の光で出来た星空だ。

 「………」

 重女は首を回し、部屋の様子を観察する。
 天井が高いこのプラネタリウム室で「リフレッシュ」を受けている若者達は、ふかふかした寝椅子(リラクゼーション・チェアーというらしい)に深く座り、天井に映し出されている満天の星空に見入っている。
 人数は二十人程。女性が多く、何故か悪魔はいない。その中にはホールで一緒の席に座ったあの派手な少女もいる。彼女はホールでオニとじゃれあっていた時とは打って変わって目は半開きで口も開けたまま天井を見ている。まるで呆けているかのようにみえるが、きっとリラックスしているのだろう。
 この部屋はプラネタリウム上映の為照明はついていなく、専用の機械から天井に投影される星々の輝きが微かに自分達を照らし出し、静かで美しいBGMが流れ、ホールで嗅いだあの甘ったるい違法薬物の香りではなく、爽やかな胸のすくような香りが漂っている。リラックスするのも無理はない。ただ重女はこの爽やかな香りも違法薬物の可能性があるかもしれないと思うので、ハンカチで鼻と口を覆い最小限の呼吸しかしないよう努めている。

 《私達の間に起きた出来事を、最初から親しく見た人々によって、御言葉に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き下ろそうと多くの人が手を着けましたが、テオピロ閣下よ、私も全ての事を初めから詳しく調べてありますので、ここにそれを順序正しく書き綴り、閣下に献ずることにしました。すでにお聞きになっている事が正しく確実であることを、十分に知っていただきたいためであります》

 BGMに混ざり、いきなり男の声が部屋中に響いた。重女は少し驚き上体を起こす。星にまつわる話ならともかく、何故プラネタリウムに新約聖書が朗読される?
 重女は辺りを見渡したが、ホールで一緒だった少女も他の皆も特に驚いたりせず天井を見上げている。もしかして、皆寝てしまっているか、この声に気付かないほど星を見るのに集中しているのだろうか。あるいはこれが新約聖書の詩だと気づいていないのかもしれない。
 声は静かに、新約聖書のルカによる福音書の第一章を読み続ける。ザカリヤとエリザベツという不妊に悩む年老いた祭司夫婦の話。子が出来ないザカリヤの前に主の使いとしてガブリエルが現れ、こう言うのだ。

 《おそれるな、ザカリヤよ、あなたの祈りが聞き遂げられたのだ。あなたの妻エリザベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名付けなさい。彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を祝うであろう》
 《わたしは神の御前にたつガブリエルであり、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために遣わされたのである。時が来れば成就する私の言葉を信じなかったから、あなたはおしになり、この事が起こる日まで、ものが言えなくなる》

 その後エリザベツが身ごもり、神に対し感謝の言葉をつげる、というのを、男の声はスピーカーから淡々と語る。
 ガブリエル、と聞き、重女は右手を天井に伸ばした。
 こことは別世界の、東のミカド国というところで、“ガブリエル”という異形の姿の大天使に食いちぎられた右手。アキラが自ら犠牲になって蘇らせてくれた手は、左手と比べるとやや大きく、指も長い。まるで男のように。

 そっと、左手と右手の掌を合わせてみる。丸みを帯びた左手と比べて、右手の方が節ばっており、ややごつごつしている。そして五本の指全てが左手より長い。左右の指を絡めてみる。まるで男女が愛し合うように手を繋いでいるみたいだ。

 右手の違和感に気付いたのは最近になってからだ。
 まだ東のミカド国にいるときは、両方の手は同じ大きさだった。それが時間が経つうち、徐々に右手に変化が現れた。丸かった手の甲は面積が広くなり、短く細い指は段々と伸びてきて、関節の部分が節くれだってきた。そして気がつけば、左手は女性の、右手は男性のそれになっていた。
 アキラとの合体のせい――重女はすぐ原因がわかった。悪魔合体プログラムは、本来人間には適応されない。いくら遺伝子の似ている弟でも人間同士が悪魔合体プログラムを使えば、本当なら悪魔でも人間でもないただの肉の塊ができるはずだった。
 それが天文学的確率で私は人間として復活した。失われたはずの右手と両足を持って。
 この右手と両足、そして流した血はアキラが自らを有機体に変えて蘇らせてくれたもの。だけど、わかっていた。
 ――禁忌を犯すと、必ず“歪み”が生ずることを。

 絡めあった指を解き、今度はうんと両腕を伸ばしてみる。やっぱり。右手の方が少し長い。今は照明が暗くてわかりづらいが、肌の色も右腕の方が若干白い。アキラの手の様に。

 「………」

 足掛けに乗せた両足を眺める。この潜入の為にハイヒールを買おうとしてデパートの婦人靴の店に行ったら、殆どの靴のサイズが合わなかった。前は24センチで足りたのに、今はそのサイズだと足が全部入らない。
 結局大き目のサイズを扱っている靴屋へ行き、25.5センチでようやく入った。
 だけど本当はほんの少しだけキツイ。日々成長しているのだろう。この足の“本当の持ち主”であるアキラが成長期真っ盛りの少年だったから。
 きっと、もうすぐ私はハイヒールもパンプスも履けなくなるだろう。男性用の大き目の靴を履いて、左右で長さも掌の大きさも違う手で生活しなくてはならないだろう。
 でも、私は悲しいとは思わない。寧ろ弟を身近に感じることが出来て嬉しいくらいだ。本当なら私は死んでいたはずなのに、こうして生きていること自体が奇跡なのだ。手や足のサイズが違うのくらいなんの問題もない。
 包帯の巻かれた右手と左手の人差し指と親指で、重女はもう一度指の窓を作り星空を見上げた。いびつな指の形の窓から見えるのは、先程の天の川とは違う星の並び。天の川はきっと流れていったのだろう。
 そして相変わらず静かで美しい音楽に混ざり、男の声がルカによる福音書を謳うように読んでいた。今はナザレのガリヤラの街のマリヤという乙女の元に御使いがやってきたところだ。

 《恵まれし者よ、おめでとう。主があなたと共におられます》
 《恐れるなマリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです》

 ―――

 ツギハギは、まるで石になったかのごとく動けないでいた。
 ガンプだけは構えてはいるが、それは長年の戦いでの習性であり、半ば生理現象と化しているものだ。
 彼はガンプの引き金を引かない。いや、引く必要がない。
 何故なら、目の前の黒翼を広げし黒い鴉にも似た悪魔が、ヤソマガツヒを圧倒していたから。

 「ふっ!」

 長い足で黒蝿はヤソマガツヒの黄色く醜い顔を蹴った。凄まじい速さの蹴りに露出していた脳髄がびちゃっと音を立てて周りの壁や床に打ち付けられる。
 そして、影を集め作った黒い剣でグラム・カットを食らわしヤソマガツヒの足を一本を残し全て切断する。ヤソマガツヒは甲高い悲鳴を上げ、狂ったように自分の名だけを呼んでいた。あの悪魔は最初から知能なんてないに等しい。ただ人間を狂わす霧を生み出す存在としてここで「飼育」されていただけ。

 「楽しいか?」

 瀕死のヤソマガツヒの足を掴み、黒蝿は問うた。もうピンクの霧は噴出していなく、辺りに充満していたのも今の戦いで殆ど散らされた。ツギハギはガスマスクを取り、悪魔同士の戦いをレンズ越しではなく裸眼で凝視する。

 「人間にペットみたく飼われてよ、餌貰って尻尾振って、“とってこい”ってボール投げられて、お前はそのまま喜んでボール拾っていたんだろうなあ!?」

 びきびき。嫌な音が辺りにこだました。黒蝿が力を込めてヤソマガツヒの足を千切っていた。筋肉の筋がブチブチ切れ、神経や筋線維の糸が千切れ目から顔を覗かす。
 悲鳴。文字通り身を斬られる痛みによる金切り声。聞く者にとって不快な協和音がヤソマガツヒの口から発せられる。

 「ヤ、ヤソ……マ……ガツヒィ……」
 「またそれかよ! もう聞き飽きたぜ! ほらもっと別の事言ってみろ! 痛い、やめてくれって! 痛くねえのか!? それともこうされるのが好きなのか! こうか! こうかよ!」

 ブチブチぶちぶちびきびきびちびち、びちゃ……ヤソマガツヒの蟹のような足の第一関節が完全に千切れた。轟音のような悲鳴が聞こえないかのように、黒蝿は千切った足をつまらなさそうに床に投げる。そうまでされても、知能が完全に退化した哀れな悪魔は自らの名前を狂ったように呼ぶだけ。
 「八十禍津日神」。それがこの悪魔だったものの真名。不浄や凶事を司る邪神の禍々しさは、もう見る影もない。いや、最初からそんなものなかったのかもしれない。誰かに悪魔召喚プログラムで召喚されて、人間に“飼われ”て、ここで違法薬物の発生源となっていた時から。彼は邪神でも悪魔でもなくなった。ただの人間の目的の為の道具である。

 「ほら、助けてくださいって言えよ。おねだりしてみろよ。おまえが人間共にマグネタイトを貰って餌付けされていた時みたいに」
 「ヤ、ヤソ、マ……ガ、ツヒ……」
 「……………ふん、いいだろう。俺達悪魔にはマグネタイトは必要だからな。やるよ」
 「おい……!」

 事の成り行きを見守っていたツギハギが静止の声を上げる。久しぶりに直接口から吸った空気を味わう間もなく、ツギハギはガンプの銃口を黒蝿に向けた。

 「こいつにはまだ聞かなくてはいけないことがある。勝手な事をされては困るぜ」
 「聞かなくちゃいけないこと? こいつを見ろよ。何かを話せるような奴か?」

 言われて、ツギハギは死に体のヤソマガツヒを改めて見た。全ての足を無残に千切られ、ザンにアギに物理攻撃を散々食らわされた悪魔はもう最初の原型を殆ど留めていなかった。いや、たとえ無傷でもこいつには情報を喋らせられない。出会った時からこいつは自らの名しか口にしていない。まるで薬物で廃人にされた人間の様な――
 そこまで考え、ツギハギははっとし、背筋に嫌な痺れが走るのを感じた。

 「まさか――!」
 「……ああ、そのまさかだろうな。どういう手段でかは知らないが、こいつは情報を喋らせないよう、わざと“こうされた”んだろうな」

 先程とは違う痺れがツギハギの身体を走っていった。嫌悪感という電撃が。

 「悪魔を言いなりにして、道具にしていたっていうことか……」
 「ああ。だがな……」

 ぐちゃ、と黒蝿はわずかに残っているヤソマガツヒの顔を踏む。ひぎゅ、という蛙が潰されたような苦鳴がヤソマガツヒの口からこぼれた。

 「それを選択したのはこいつだ。腐っても邪神。抗う術はいくらでもあったはず。それを潔く自害するわけでもなく、最後まで要求を拒否するわけでもなく、ただ人間共の道具兼ペットになることを選んだってわけだ。この邪神、いや、“元”悪魔は」

 かちり。黒蝿の手には銃身が扁平状の銃が握られていた。

 「おい、いつの間に!」

 それが自分が握っていたガンプだと気づき、いつ抜き取られたのかとツギハギは慌てた。
 ガンプの銃口をヤソマガツヒの額に当てている黒蝿の瞳には、なんの光も見いだせない。そこには銃口と同じ深い暗闇がある。静かな怒り、侮蔑、そして少しの哀れみ、それら全てが入り混じった漆黒の闇が。ツギハギは肌が粟立つのを感じた。

 「悪魔にも人間にも、譲れない矜持ってのがある。それを忘れた者は、もう悪魔でも人間でもない、ただの“肉塊”だ。
 誇りも憂いも売っちまった者は誰だろうが関係ない。死ね」

 マズル・フラッシュが瞬き、銃声が響く。悪魔専用の銃弾がヤソマガツヒを貫き、身体が黒い炎に焼かれる。肉体も、魂さえも焼く地獄の業火のようだ。
 “消滅”していくヤソマガツヒだったものを、黒蝿はただ見下ろしていた。そこにはもう怒りもなく、哀れみもなく、何の感情も読み取れない黒い“悪魔”が立っていた。

 ――とんでもねえやつと、組んじまった――

 ツギハギは震える手でガンプをベルトにしまうと、心の中で呟いた。

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 重女が食料と日用品を買った後、まず向かった所は、近くの図書館であった。

 そこで中学生まで対象の近代歴史の本をいくつか読み、自分が生きていた頃から今の時代に至るまで、何が起きたのかを大まかに把握した。

 とりあえず、アメリカとソ連の第三次世界対戦は起きなかったらしい。ソ連とアメリカはずっと「冷戦」と呼ばれる緊張状態であったが、ソ連が崩壊し、現在はロシア連邦と呼ばれるようになりアメリカ側の勝利で終わったこと、1991年にベルリンの壁が崩壊し東西に分かれていたドイツが一つになったこと、中国では民主化を求めて天安門事件が起こったこと、他には2001年にアメリカ同時多発テロが起き、イラク戦争が勃発したこと。
 日本では1989年に昭和天皇が崩御し、現在の「平成」という元号に変わったこと、1995年の阪神淡路大震災と2011年の東日本大震災という大規模な災害が起こったこと、他にも沢山の出来事がこの約五十年あまりに起こったことを重女はなんとか覚えた。
 次に人々の文化の変動について調べた。車は空を飛ばなく、地球環境問題に配慮したエコカーが主流になってきていること、テレビやクーラー等の普及率が重女の生きてきた時代とは比べものにならないほど高くなっていて、漫画やアニメ、映画の娯楽も大きく変わっていること、そして何より一番重女を驚かせたのは、個人で電話を持つということだ。
 小さな携帯端末でコードも無しに通話が可能なこと、 一家に一台、ではなく、一人一台が当たり前になっていること、特に若者の普及率は90パーセントを越えていること、そして……

 『ねえミドー、「いんたーねっと」でなに?』

 図書館から廃神社内の結界へ帰ったあと、知識を詰め込みすぎたせいで頭痛を催しながら、コンプ内のミドーに尋ねた。
 今日読んだ本の中で、その単語が重女の頭に印象に残っていた。いんたーねっと。なんでもそれは、見知らぬ人とでも繋がれたり、色んな事を調べたり出来るらしい。

 『すごく大きな図書館みたいなもの?』

 そういうと、ミドーは電子画面の中で笑って見せた。

 「まあ、その言い方もあながち間違っていないがな。凄く大雑把に言うと、膨大な情報を閲覧できたり、海の向こうの相手ともコミュニケーションがとれたり、とにかく便利なものだと覚えればいい」
 『じゃあ、コンプで「いんたーねっと」を使ってシドの居場所がわかったりする?』

 ミドーのポリゴンの身体が一回転してみせた。驚いたのだろう。

 「…………できなくはないがな。これは元々軍需品で、民間のネット回線とは違う秘匿回線を使っている。しかもこの時代には対応していない。使えるようになるにはかなり大掛かりなバージョンアップと時間が必要になるが、それでも構わんか?」

 こくん、と重女は頷いた。ミドーの言ってることの半分は理解出来なかったが、とにかく、「いんたーねっと」を使えるようになればシドの居場所もわかるかもしれない。そうなれば早くシドに会える。
 そういえば生きているとしたら、シドは何歳なんだろう? 初めて会った時のシドは20代後半か30代くらいだっただろうか? なら、今はもう70、80代のおじいさん?
 たらり、と重女の額に汗が滲んだ。冷や汗? いや、全身にじっとりと汗をかいて衣服が肌に張り付いている。 今日の外は結構暑い。結界内は寒くも熱くもないが、図書館まで長い距離を歩いてきて、そのせいで汗まみれになったのだろう。

 『ちょっと早いけど、銭湯に行こうかな』
 「おお、それがいいじゃろう。ついでにあそこでぐったりしているあいつも連れていくとよかろう」

 ミドーが言ったのは、この結界の六畳間の端で壁にもたれかかっている黒蝿のことだ。
 黒蝿は、足をだらしなく放り投げ、ぐったりとうつむいている。疲労困憊のようだ。

 『黒蝿、どうしたの? 夏バテ?』
 「馬鹿いうな。俺が夏バテなどするか。お前に甘ったるい菓子を散々食わされたせいだ」

 そう、この間の誕生日に重女が沢山買ってきてしまった菓子類は、とても重女一人で食べきれる量ではなく仲魔を召喚してなんとか平らげたのだが、黒蝿や獅子丸、猿は数個食べただけでギブアップした。
 残りは大食漢の牛頭丸と、子供の紅と白と一緒に食べたのだが、流石に甘党の重女も、三食甘い菓子というのはなかなかこたえた。今も胸やけが残り、口の中がべたべたする。人間である自分でさえこうなのだから、黒蝿達には相当きつかったのだろう。

 『じゃあ一緒に銭湯行こうよ。そうすれば少しはさっぱりするよ』
 「なんで俺が……」
 『いいから!』

 ぐいっと黒蝿の腕を強引にとり、重女は無理やり立たせた。抵抗の力がいつもより弱々しいのはやはり菓子のダメージのせいか。
 嫌がる黒蝿を引っ張りながら、重女はマイ桶と手ぬぐいに石鹸といった風呂用具一式を持って、二人は近くの銭湯へ向かった。

―――

 歩いて五分のところにある銭湯は、それほど大きくはないが、お湯の種類が豊富で、とても清潔で、何よりコーヒー牛乳やフルーツ牛乳といった飲み物やアイスが沢山売っており、重女のお気に入りのお店の一つであった。
 番台はなく、「券売機」という機械で年齢と性別に応じた料金をいれると、切符のような入浴券という紙が発行される。重女は十代の女性券一枚と、少し迷ったが黒蝿の分は二十代男性の券を買った。まさか悪魔専用の券は売ってはいまい。
 それを係の人に渡し、風呂場へ。嫌がる黒蝿の背を男湯の方に押し、重女は女湯の暖簾をくぐった。
早い時間だったせいか、脱衣所には人は少ない。お年寄りが数名いるだけだ。

 「あら金髪ちゃん! 今日は早いのね!」

 すっかり顔なじみになった清掃のおばさんが重女に声をかけてきた。人の好い笑みが印象的なこの初老の女性は、重女が声の出せないことを知ると、何かと気を使ってくれて、重女の事をいつも「金髪ちゃん」と呼んで話しかけてくる。
 いつもの通り微笑みながら会釈すると、「今日は男の人と同伴だなんて、やるわね」とにやつきながら小声で耳打ちされた。男の人? もしかして黒蝿が恋人だと思われている?
 違う、というように両手と顔をぶんぶんと横に振ると、おばさんは豪快に笑った。

 「若いっていいわね! 今日自販機の業者が来て新しい商品入れたみたいだから、彼氏と一緒に飲むといいわよ」

 自動販売機というのは、お金を入れて好きな飲み物のところのボタンを押すと、その商品が出てくる大きな機械だ。入口の券売機と同じ構造のようで、声の出せない重女には有難い機械であった。これなら売り子の人に聞かなくても好きなフルーツ牛乳を買うことが出来る。
 新しい商品が入ったのか。それはどんなジュースかな。黒蝿はフルーツ牛乳を飲むかな? お風呂から上がったら買ってみよう。
 少しだけワクワクしながら、重女は服を脱ぎ、髪を縛り眼鏡を籠に置いて、風呂場への戸を開けた。

 ―――

 まず身体にお湯をかけて軽く洗い、手ぬぐいを頭に乗っけてそれから湯へ。この銭湯には二、三種類のお湯があるが、重女のお気に入りはバイブラバスだ。ぶくぶくと気泡が沢山水面に起き、見ていて面白いし、なんだか身体の疲れも他の湯よりとれる気がするからだ。

 その風呂に、先客がいた。

 その子は自分と同じくらいの年頃の女の子だった。鮮やかな赤い長髪を結っていて、透けるような白い肌の、緑色の瞳をもったスレンダーな長身の子だ。
 初めて見る子だ。二週間程この銭湯には通ってはいるが、平日の今の時間帯に同年代の子がいるというのは珍しい。自分と同い年くらいの子は学校に通っているから、会うとしても夜が多いのに。
 その子と目が合った。緑色の大きな瞳に見つめられて、重女はとっさに顔をそらしてしまった。今のはまずかっただろうか。
 そっと横目でその子を見る。綺麗な赤髪だ。燃える火のような鮮やかな赤。赤い髪の人は母親のホステス仲間にもいた。その人は外国製のヘア・マニキュアを使っていたらしいが、この子もそれで髪を染めているのだろうか。
 そして何より、緑色の目。自分の青より少し落ち着いた緑の色合いの瞳からは意思の強さを感じた。この子ももしかして、外人の血を引いているのだろうか。

 「………」
 「………」

 湯煙の中、暫しその子と見つめ合った。胸がどきどきしてきた。それはのぼせたからではない。その子の真っ直ぐな視線と、自分と同類の者を見つけたかもしれないということへの不思議な高揚であった。
 その子に話しかけたかった。だけど自分は声を出せない。咄嗟に首の醜い痣を隠す。少しだけ恥ずかしくなってきた。変な子だと思われていないだろうか。見知らぬ他人をじろじろと見て失礼だったかも……

 「……あ、あの!」

 小鳥のような高い声が響き、重女は肩をびくっと震わせた。目の前の赤毛の子が湯から半身を出してこちらに身を乗り出してきていた。その子の胸が見えたが、その胸は自分とは違い豊満である。
 なんだろう? やっぱり私、変だっただろうか?
 少女の次の言葉を待っていると、隣の男湯からなにか倒れたようなもの凄い音が鳴り響いた。

 「おい、兄ちゃん! どうした? しっかりしろ!」
 「 陣内!?」

 男湯から聞こえてきた声に少女は反応し、そのまま浴場から飛び出していった。何があったのだろう? まさか黒蝿がひと悶着おこしたんじゃ!?
 少女の後を追うように、重女も浴場を出て、タオルを身体に巻いた。すると女湯の暖簾をくぐる大きな人影が二人見え――

 「智子! 大変だ! この兄ちゃんが――」
 「じ、 陣内!? ここ女湯よ!!」
 「―――!!!」

 腰巻一丁の男二人――タタラ陣内に肩を貸されている黒蝿の姿を見て、重女は声にならない悲鳴をあげ、咄嗟に手に持っていた桶を投げつけてしまった。
 そしてそれは、見事陣内の額にクリーンヒットした。

―――

 須崎家は古くからヤタガラスに仕えているサマナーの家系である。
 その家は大きな日本家屋で、約百年以上もの間悪魔召喚師として暗躍していた歴史を感じさせた。

 「誠に申し訳ない」

 あの後、この家に運ばされ、客間に寝かされているやたノ黒蝿とその横に座っている重女に向かって、額を赤くしたタタラ陣内は身体を折りたたみ頭を下げていた。

 「いや、こちらも飛んだ迷惑をかけてしまい……」

 のぼせて顔が真っ赤な黒蝿が布団の中から応答する。重女も手をついて畳に擦りつけるように頭を下げた。

 ――驚いたとはいえ、こちらも桶を投げてしまいごめんなさい。

 声は出ないが、誠意が伝わるよう謝罪の姿勢を崩さない。

 「気にしないで! もとはといえば 陣内が女湯に来たりするから……」
 「いや、あの時はだな、つい気が動転して……」
 「だからって、なにもあんな姿で来なくても!」

 目の前の赤毛の少女は須崎智子というらしい。明るい蛍光灯の下で見ると、改めてその髪の赤さが際立つ。どんな染髪剤を使ったら、こんなにも綺麗な赤髪になるのだろうか。
 その智子の横に座っているのは、タタラ陣内と名乗る大柄な男であった。
 赤銅色の髪と濃い褐色の肌も印象的であったが、右目の眼帯がまるで歴史の教科書で見た武士のようだと重女は思った。

 「そういえば、お名前はなんていうんですか?」

 智子が重女に聞いてくる。大きな緑色の目をきらきらさせている智子は人懐っこい笑みを浮かべている。背が高いけど間近でみると可愛い人だな。
 でもどうしよう。声が出せないから名乗れない。紙とペンさえあれば筆談ができるのだけど……

 「こいつは“重女”で、俺は………“黒原”です。大学に行くために従妹のこいつの家に居候しています」

 首を押さえながら口をパクパクしている重女をよそに黒蝿が堂々とうそぶく。従妹……そういう設定なのか。“黒原”は骸ヶ原でも使ってた偽名だ。よほど気に入っているのか、単に他に思いつかなかったのか。

 「それからこいつは、前に交通事故にあって、声帯が傷ついていて声が出せない。出来れば筆談用の紙と筆記用具を貸してもらえると助かります」

 それを聞き、智子と陣内は、まあ、と目を大きくさせ同情の視線を寄越す。重女はこっそりと黒蝿を睨んだ。全く、声がでないのはあんたのせいでしょ。

 「わかった。今から用意しよう。智子、お前は黒原君への水と替えのタオルを用意してくれ」
 「うん、わかった」

 襖を開け、陣内と智子が客間から出ていく。
 一瞬、智子がこちらに視線を寄越した。その瞳には好意の色が浮かんでおり、少しだけ重女の心臓を跳ねさせた。

 「………さて」

 黒蝿が緩慢な動作で布団から身を起こす。顔が赤い。まだおとなしく寝ていればいいのに。重女が手を肩に添え寝かそうとするのを止め、黒蝿は先程とは打って変わって冷たい声を放った。

 「お前、この家を探ってこい」
 『え?』
 「須崎智子とタタラ陣内といったか。あいつらは悪魔召喚師とその仲魔だ。しかも須崎家といえば俺も聞いたことのあるくらい古いヤタガラス傘下のサマナーの家系だ。この家を探れば有益な情報を掴めるかもしれない」

 ヤタガラス――確かシドが所属している悪魔召喚師の機関。それが今の時代にもあったとは驚きだが、今の言葉は本気で言ってるのか、と思わず黒蝿を見つめなおしてしまう。が、黒蝿が冗談を言うような性格でないのは、重女が一番分かっていた。

 『でも、折角助けてもらったのに、そんな泥棒みたいなことできるわけ……』
 「それとこれとは話が別だ。ほんの少しでいい、シド・デイビスとその仲魔のマンセマットについての情報を探ってこい。あの“智子”という娘なら、お前に警戒せず教えてくるかもしれん」
 「……………」

 重女の無言の抗議の視線を受けながら、黒蝿は尚も続ける。

 「手段を選んでられる状況か? やっとシド・デイビスの生きている時代に来れたのに、今までなんの手がかりを掴めていないだろ。今がチャンスだ。これだけ歴史のある家なら書斎の一つでもあるはずだ。そこの書類を見るだけでいい。早く行け」
 『………黒蝿、貴方まさか最初からそれが目的で、のぼせたふりを?』
 「馬鹿言え、これは演技じゃない。あのタタラ陣内とかいう奴にずっと睨まれたせいだ。あいつ、もしかして俺の正体に薄々気づいているのかもしれない。恐らくこの家に侵入できる機会などもうないぞ。だから早く行け」
 「………」

 重女は思いっきり黒蝿を睨んだ後、重い腰を上げて部屋を出て行った。黒蝿の言うことは納得は出来ないが、もし私が嫌と言ったら、あいつはもっと非人道的な方法でこの家を探るだろう。それなら自分が探った方が遥かに良い。

 (しかし……本当に広い家だな)

 辺りを見回しながら重女は感嘆の吐息をついた。
 木の板で出来た廊下は、良く磨かれていてピカピカだ。廊下の端々には花瓶が乗った台が置かれており、生けられている花は瑞々しく、とても上品な生け方だ。
 今のとこ誰にも会っていないが、他にも人が住んでいるんだろう。人の気配が清潔な空気に混ざっている。
 沢山の部屋があり、一体どこが書斎なのか重女には判別できなかった。黒蝿の奴、無茶言って!
 忍び足で次の角を曲がると、ふと、くすんだ木でできたスライド式の扉が目についた。他の部屋は新しい障子の襖や洋風のドアだったりするのに、この扉だけ年月を重ねた木で出来ている。
 そっと取っ手に手をかけた。そして横に引く。やっぱり鍵がかかっている。

 「………」

 重女は少し躊躇ったが、影を操り扉の隙間に忍び込ませ、内側の鍵を開ける。かちゃり、と金具が外れる音が響き、扉は無事開いた。まるで泥棒みたいだ。ふう、と重女は憂鬱げに顔を歪ませた。
 その部屋は、約八畳ほどの小さな部屋だったが、天井近くまで届く大きな本棚が両側の壁に並んでいる。古そうな本ばかりだが、ファイルもある。ラベルを見ると、「H2X年、活動報告書」と書かれている。

 (嘘……まさかここが書斎?)

 幸いにも人はいない。本棚に隠れるように部屋の奥には小さな机があった。その上になにやら青い光を放つテレビのようなものがある。
 そっと机に近づく。その「テレビ」は薄く、画面の下に沢山のボタンが配置されている板が置いてある。これはなんだろう。重女はそのうちの一つのボタンを押す。
 するといきなり画面が光り、文字が表示される。びっくりして思わず後ずさってしまった。

 (なんだろう、これ? 日本語、だよね?)

 じっくりと画面に表示された文字を読む。小さくて読みにくいが、なんとか全文を読んだ。

 from:ヤタガラス情報部
 sub:依頼
 ――――――――――

 XX市にて悪魔の目撃情報あり。
 場所:クラブ・ミルトン

 悪魔が該当施設にてなんらかの集会を開いている模様。
 同地区で一般人が行方不明になる事件多発。
 当依頼との関係性の調査、悪魔の討伐、並びに一般人が攫われていた場合、速やかに救出せよ。

        END
 ―――――――――――

 「おい、ここでなにやっている?」

 背後から聞こえてきた声に、心臓が飛び出しそうになった。
 恐る恐る振り向いてみると、タタラ陣内が怪訝そうにこちらを見ている。

 「トイレでも探していたのか?」

 胸を押さえながら、こくこく、と重女は頷く。

 「卓也の奴、鍵をかけ忘れたのか? 不用心だな。トイレなら突き当りを右だ。ああ、それと、夕食の用意が出来た。君と黒原君も一緒にくるといい」

 こくり、とまた頷き、重女は陣内の横を通り過ぎ、当主の書斎を出て行った。 
 出て行った後も、胸のどきどきは止まらなかった。

 ―――ヤタガラスからの指令! ここは本当にヤタガラスのデビルサマナーの家だったんだ! あれはミドーの言っていた「いんたーねっと」というものだろうか? もしシドが生きているとしたら、同じ依頼を受けているかもしれない。なら、今度こそシドに会える!?

 場所は、XX市の、クラブ・ミルトン!

 ―――

 須崎家の夕食は、とても豪勢なものだった。
 現当主の卓也という童顔の男に、前当主であった優斗という老人、さらに卓也の妻である裕子という可愛らしい女性、それに智子と陣内が客人である重女と黒蝿の横に位置していた。
 卓也の乾杯の音頭で、皆思い思いに料理をとったり酒を傾けたりしている。黒蝿は酒を進められても、申し訳なさそうな笑みを浮かべ断っていた。こいつでもこんな笑顔できるのか、と内心毒づきながら重女はおにぎりを一口食べる。

 「……!」

 凄く久々に食べるお米は、甘くて塩が効いてて、とても美味しかった。

 「美味しいでしょ? お母さん、料理上手なんだよ」

 智子が麦茶を注いでくれながら耳打ちしてきた。重女は微笑みながら頷いたが、その笑顔が凄く自然にできたことに驚いた。それ程までに料理が美味しく、また食卓を囲む人々の雰囲気が優しいのだ。
 これは重女が暫く忘れていた「家庭の味」だ。家族揃ってご馳走を食べる。ただそれだけ。だけど、とても大事な事。かつて母とアキラでちゃぶ台をかこんで食事したことを思い出し、もう身寄りのいない重女の心の奥底から懐かしさがこみ上げてきて、なんだか嬉しくなった。

 「この卵焼きも美味しいよ!」

 智子は重女の皿に綺麗な卵焼きを置いた。一口食べてみるとふんわりとした触感で、甘くて美味しい。お母さんの味だ。お母さんは料理が得意ではなかったけど、卵焼きだけは上手だった。

 「美味しい?」

 智子が問うてきた。さっきまで私は泥棒まがいの事をしていたのに、この子の笑顔にはそんな後ろめたさを忘れさせてくれる力がある。
 重女は作り笑いではない、心の底からの笑顔を浮かべた。

 ―――

 「本当に、お世話になりまして」

 玄関先にて、黒蝿がお辞儀するのと同時に、重女も同じく頭を下げた。全く、こいつはこんな声もだせるんだな。

 「いやなに、こちらも久々の客人を迎えての食事は楽しかった。また来ると良い」
 「うん、またおいでよ重女ちゃん!」

 智子の嬉々とした声に、陣内が少しだけ眉を寄せた。智子がこの素性の知れない娘に心を許し過ぎなのが気になるのだ。
 それを知らない重女は、最後まで好意的な智子の態度にはにかんだ。

 「もう遅いだろう。家まで送っていこう」
 「いえ、ご心配には及びません。ありがとうございました。……行くぞ」

 陣内の申し出を断り、黒蝿と重女は帰路へとついた。智子が手を振ると、重女もそれに答えて小さく手を振った。
 重女達の姿が見えなくなり、智子と裕子が家の中に入るのを見届けると、卓也は召喚管から一匹の悪魔を召喚した。

 「何か用? ご主人さま。ヒーホ!」

 よばれたのは、ハロウィンで作るようなカボチャの頭に黒い外套、小さなランタンを持った悪魔・ジャック・ランタン。

 「お前、あの二人の後を追え」
 「ええ!? 冗談はよしてよぅ! あの子はお嬢様のお気に入りだよ?」
 「いや、あの子は俺の書斎に入って何かしていた。そうだろ? 陣内」
 「ああ、それにあの“黒原”というやつ、どうもうさんくさい。もしかしたら俺と同じ人外の者かもしれない」
 「……ふむ、それは儂も感じていた。少なくともただの人間ではないようだな」

 須崎家男衆三人の意見が一致した。あの重女という少女はともかく、“黒原”の方は間違いなく何かある。食卓を囲んだ際と銭湯で観察したときから、陣内はそう判断していた。

 「……わかったよう。あの二人を追えばいいんだろ? オイラやるよぅ」

 ぶつくさと文句を垂れながら、ジャック・ランタンは重女達の後を追った。十分な距離を取り、灯りに気づかれないようランタンの中の炎を最小限まで小さくし、夜の闇に紛れ追跡する。しかし―――

 「あれ?」

 曲がり角を曲がった途端、二人の姿が消えた。ジャック・ランタンは必死に二人の気配を探したが、どこにも感じられない。まるでいきなり消えたみたいだ。

 「全く、だから嫌だったんだよ……オイラは追跡に向かないんだって」

 このまま帰ったら主である卓也に小言を言われるであろう。陣内には頭を叩かれるかもしれない。それを想像し、ジャック・ランタンは憂鬱な気分になった。
 その時、何者かの視線を感じ、ぎょっとしたジャック・ランタンは辺りを見回した。だが相変わらず誰の気配もない。

 「……オイラの気のせいかな?」

 なんの収穫も得られなかった悪魔は、召喚主の元へとぼとぼと向かった。
 その姿を、一羽の鴉が見ていたのを、ジャック・ランタンは最後まで気づかなかった。


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