往来―all right―別館【俺屍サマナー】

俺屍+デビルサマナー=俺屍サマナーというダブルパロ(クロスオーバー)小説を扱っております。俺屍に登場する神々や鬼を現代で使役していたら・・・という発想で生まれたいわゆる三次創作小説です。俺の屍を越えてゆけと真・女神転生シリーズ(主にⅣ)の設定を独自に融合させて捏造しております。女神転生や俺屍の人物名称や設定をかなり変更しております。こういったのが苦手な方は閲覧をご遠慮下さい。 やたノ黒蝿とサマナーになってしまった少女の物語です。

タグ:ツギハギ

 フジワラとツギハギ、黒蝿と今はアキラが主人格になっている重女が生体エナジー協会についてまず行ったことは、フジワラの怪我の処置、そしてアキラとなっている重女の身体と精神の精密検査であった。
 簡単な知能検査、身体測定、さらには脳波・心拍数測定まで、協会にある機器でできるだけの検査をする。

 「元の重女さんの身体データがないので比較のしようがないのですが………15歳女子の平均より筋肉が発達しています。また脳波が奇妙な波形を描いています」
 「と、いうことはやはり、今の重女さんは別人であると?」
 「正式な検査でないのではっきりとは言えないのですが……その可能性は極めて高いと思えます」

 医師らしき男から今の重女の様子をそう告げられたツギハギ達は、それを確かめるべく“実施テスト”を試みた。
 その一:剣道テスト
 雷王獅子丸を召喚し、剣を合わせる。一合、二合……獅子丸の竹刀をアキラは受け止め、互角に渡り合う。

 「剣の太刀筋がアキラと殆ど同じだったぞ……! やはり今の重女殿はかつての我が主君……!?」

 その二:射撃テスト
 子供に銃を持たせることを由としないツギハギは、サバゲー用のペイント弾の入ったモデルガンで射撃の腕前を見る。
 重女の身体のアキラはモデルガンを受け取ると、軽く前傾姿勢をとり、右手でグリップの一番上を握り、左手の掌底をグリップに密着させ、右人差し指は撃つ瞬間までトリガーガ―ドに入れなかった。その動作があまりにも自然で、ツギハギはこれは幾度も銃を扱ってきた者の姿勢だと感じた。

 (まさか……本当にこいつは“アキラ”とかいう奴なのか?)

 何回か撃ってみて、命中率は80%ほどとなかなかの数値を出した。それはやはりアキラと同じ数値だった。
 このように戦闘力はアキラとほぼ同じであったが、やはり身体が違うからか、アキラは女性の身体の動かし方や重心の置き方が男のそれと微妙に違うので、最初は戸惑う事が多かった。
 特に困ったのは、排泄関係である。

 『なあ、言いにくいんだけど…………女ってトイレどうしてんの?』

 そう問いかけられた黒蝿は思わずその場にいる者を見渡してみたが、残念ながら周りは男しかおらず、まさか自分やフジワラやツギハギが一緒にトイレに行くわけにもいくまい。
 とりあえず、ツギハギが妖精・ウンディーネを召喚し、妖精はアキラに助言する。女性型妖精になにを吹き込まれたかは知らないが、とりあえず普通に排泄は出来るようになった。
 こうしてアキラの人格が重女の身体に表れて一週間。フジワラ達は隠れ家を転々としながら、どうにか重女が戻ってくるよう対策を練る。が、アキラは首を振った。重女の意識が、表層に出てくるのを拒んでいるらしい。

 「なぜだ?」黒蝿が問う。
 『自分はもう表にでられない、特に黒蝿、お前に会わす顔がないんだとさ』
 「…………………」

 黒蝿は顎に手を置き考える。自分に合わす顔がない。それはやはり俺を刺してしまったからだろう。確かに黒蝿は重女に言ってやりたいことが山ほどあった。が、深層意識に潜られては何も言えない。

 「アキラ、あいつと記憶は共有していないのか?」
 『ああ。だって姉ちゃんにとって見られたくない記憶なんだろう? なら俺は見ない』
 「いや、お前は見るべきだ。お前の姉貴が何をしたか、何を感じたかを」
 『だからそれは……』
 「そうしないと姉貴はいつまでも暗闇に潜ったままだぞ。きちんと見るんだ。姉貴の罪悪感の原因を。そしてもう一度じっくり話せ」
 『……………………』

 暫く、アキラは黒蝿を睨んだままだったが、『……やってみる』と言い残し、目を閉じる。すると身体が糸の切れた人形のようにへたり込み、そのまま床に倒れてしまった。レム睡眠に入ったのだろう。この状態でないと重女とは“対話”出来ないらしい。

 「さて……どうしたものかねえ?」

 床に転がったアキラに毛布をかけながらツギハギが問う。黒蝿は顔を背ける。知るかそんなの。俺が教えて欲しいくらいだ。

 ―――

 重女は、深層意識の水底にいた。ここに押し込められた記憶が海中のプランクトンのように漂い、渦を巻く。光はなく濃い群青色の世界であった。重女は記憶のうねりに身を任せ、目を瞑って膝を抱えていた。
 ここには誰もいない。誰も自分を責めない。ここで眠っていれば、自分はそのうち消えるだろう。

 『それでいいの?』

 そう問いかけてくる声が聞こえる。いいも悪いも、私はこうすることしか出来ない。

 『本当に?』

 …………

 『それと同時に、姉ちゃんはある決意をしたんじゃなかったか?』

 姉ちゃん?

 ふと、重女が目を開けると、そこには深緑のスーツに身を包んだ少年――弟である、アキラが立っていた。
 アキラ。そうだ、あの時。フジワラさんが何者かに襲われているのを知って、それから意識を逡巡していたら、頭の奥から声が聞こえて…………
 気がついたら、私はここにいた。そして、アキラ、あなたが代わりに表層に浮かんでいって……

 『姉ちゃんの記憶、見させて貰った』

 はっと、重女は息を呑む。クラブ・ミルトンでのあの事件。私が犯した罪。あれを知られてしまった。悲しい。恥ずかしい。弟のアキラにまで知られてしまうなんて。私は生きる価値がない。

 『そんなことない! あの時言ったじゃないか。俺が姉ちゃんを守るって』

 アキラは優しい。私を責めようともしない。ツギハギさんも、フジワラさんも激しく叱咤してくることはしない。見放されているのかもしれないが、それが今の自分にとっては百の罵声と千の殴打に等しかった。

 『姉ちゃん……俺は姉ちゃんの味方だ。たとえ姉ちゃんが何をしても絶対に見放したりしない。だから教えてくれ。今後どうしたいのか、今どう思って、何をしたいかを』

 沈黙。目の前の弟は真剣な目で重女を見つめる。青い瞳どうしが重なる。私、わたし、わたしは――

 ――――

 異変に気がついたのは、ツギハギと黒蝿の両方だった。
 今の隠れ家は、ツギハギの店の地下にある射撃場である。一度神舞供町からは離れてフジワラやツギハギの人脈を当たって隠れ家に相応しい場所に滞在を繰り返していたが、ここに戻ってきたのはつい昨日。やはりというか、【セルフディフェンス】は荒々しく捜索された形跡があった。だが地下の射撃場には気がつかなかったらしく、人の入った形跡は皆無だった。何より、一度探した所をもう一度探しに来るはずはないだろうという心理をついてここに戻ってきた。鬼ごっこで鬼が一度探した場所を探さないのと同じである。
 しかし黒蝿たちは感じた。侵入者の気配を。

 「ここには来ないと踏んだんだがな……」
 「人数は4、5人か……全員悪魔召喚師の可能性が高いな」
 「その人数ならやれるが……下手に騒いで仲間を呼ばれるのは避けたい」
 「なら、息を潜めてろ。見つからないようにな」

 だが、そんなツギハギの言葉も空しく、彼らの気配を察知したヤタガラスの刺客は、地下に続く階段を発見してしまった。仲魔を引き連れ、階段を下りていく悪魔召喚師達。その数、仲魔も入れて5人。
 悪魔召喚師の1人が射撃場に通ずるドアノブに手をかけ、室内に侵入する――かと思われたが、入り口の左右に控えていた黒蝿とツギハギによってこめかみに肘打ちをくらい、昏倒する。
 それが戦いの始まりであった。
 機先を制した黒蝿とツギハギは、残り4人の悪魔召喚師とその仲魔相手に雷撃のごとく攻撃を仕掛ける。ツギハギのガンプによって悪魔召喚師の膝は撃たれ、黒蝿のザンにより彼らの仲魔は吹き飛ぶ。だが、相手も負けていなく、至近距離から銃を放ち、仲魔に下知を下す。
 銃弾が黒蝿の髪を数本持って行き、アギの炎がツギハギに迫る。ツギハギは仲魔を召喚し戦っていた。
 数名が戦う戦場となった射撃場の隅で、フジワラは未だ眠りから戻ってこない重女の身体を庇い、銃を構えていた。だがその手は震えている。フジワラは悪魔召喚師ではないのでこういったドンパチは苦手なのだ。それに一週間前に負った治りかけの怪我が、彼の挙動に精彩を欠く一因となっている。
 ツギハギと黒蝿の必死の防衛網を抜けて、邪鬼・グレンデルがフジワラの方に迫る。筋肉隆々の悪魔に向かって、フジワラは引き金を引いた。しかし二発命中したものの、相手は対したダメージを負っていない。恐らく物理攻撃に耐性があるのだろう。

 「フジワラ!」

 ツギハギの切迫した悲鳴にも似た声が飛ぶ。黒蝿もフジワラの方に向かったが、敵の腕は上がっており、モータルジハードを繰り出そうとしているところだ。

 ―――

 深層意識の海の中、重女は対峙する弟に向かって、言う。
 私は、
 今、私が出来ることは、

 『……姉ちゃん』

 私は、わたしは………
 そこで重女は息を吸うと、決意したように、思いを目の前の弟に告げる。

 「私は、黒蝿やフジワラさんやツギハギさんに謝りたい!」

 そして、と重女は続ける。

 「私は、彼らを、守りたい!」

 ―――

 グレンデルの太い腕が振り下ろされようというとき、その腕に複数の穴が空いた。
 ハマの弾を受けた事により、グレンデルにダメージを負わせることができた。しかし、その弾を発したのはフジワラではない。フジワラに庇われていた、つい一瞬前まで睡眠状態だった少女が影の銃でハマの術の籠もったマハンマストーンを撃ったのだ。

 「か、重女さ……いや、アキラ君?」

 はあはあと肩で息をしながら、膝立ちになって重女は次々に影の銃を造りあげた。外見こそ近代のハンドガンやサブマシンガンの形ではあるが、機構は単純で、中世に用いられた単発式のライフル・ド・マスケットに似ている。そして一発撃つごとに形は崩れるが、その前に重女はいくつも銃や刃物を影で顕現していった。

 「―――――――っ!!」

 もし重女に声が出ていたら、それは雄叫びとなって辺りに響いただろう。影の銃を撃ち、また撃ち、刀を投げ、相手の悪魔召喚師とその仲魔を蹴散らしていく。
 戦力をボロボロにされたヤタガラスの刺客達は、やっと射撃場から出て行った。
 敵が出て行ったにも関わらず、銃を両手でしっかりと握りしめ、呼吸も荒く臨戦態勢を解かない重女に、フジワラは違和感を抱いた。そして彼女の肩を揺すり、「もう終わったよ、“重女さん”」というと、金髪の少女は驚いたように肩をびくつかせ、一瞬フジワラを凝視したかと思うと、次の瞬間罰が悪そうに下を向く。

 「やはり……今の君はアキラ君ではなくて重女さんだね」

 フジワラは確信を持って言った。

 ―――

 「……………………」

 もじもじと、居心地の悪そうに、重女は身体を縮ませる。両手で身体を抱き、“戻ってきた”ことを改めて実感する。
 あの後、ヤタガラスの刺客を退けた後、重女たちはツギハギの指示の元、射撃場にあった武器を全部持って車で移動した。移動先は隠れ家の一つの廃棄された病院。そこは廃棄されてそれ程経ってないのか、あまり雑然としていなく、造りもしっかりしているので、水と電気さえ通っていればこのまま住めそうな雰囲気だ。
 ツギハギはさっきからどこかと連絡を取り合っている。フジワラは包帯と湿布を変えるのに忙しく、黒蝿はじっと重女の方を凝視していた。
 恐る恐る顔を上げる。すると黒蝿の切れ長の瞳と目が合ってしまい、思わず重女は下を向く。
 このままではいけない。話しかけなくては。黒蝿だけで無くフジワラさんやツギハギさんにちゃんと謝罪しなければ。でも、そのきっかけが掴めない。

 「あの~……」

 いきなり声をかけられ、重女の肩がびくついた。気がつくと、フジワラが下から重女の顔をのぞき込んでいた。

 「一応もう一回確認したいんだけど………今の君は重女さんで合っているよね?」

 ふいに問われ、重女は顔を赤くしながら小さく頷いた。相変わらず眉を寄せてこちらを見ている黒蝿と目を合わさないよう、視線を床に落とす。

 「うーん、でも確認のしようが無いよね。アキラ君も影の魔法を使えたのかもしれないし……」
 「それはない」

 フジワラの疑念に、そう断言したのは黒蝿だ。黒蝿はこちらに近づき、重女を見下ろしながら言った。

 「影の造形魔法は、俺がこいつに直接渡した。使えるのはこいつだけだ」
 「なぜそう言い切れるんだい? 身体が同じならアキラ君だって使えたって可能性も………」
 「さっき、影で銃を造ったとき、アキラのでは無く、こいつの波動を感じた。俺は影の剣で刺されたから良くわかる」

 刺された、と言われたとき、重女の心臓が一際大きな音を立てた気がした。黒蝿はそれっきり何も言わない。無言で、自分を刺した少女を見つめ続けている。
 ぎゅっと目を瞑り、重女は床に手をつけ、ゆっくりと頭を下げる。そして黒蝿、フジワラ、ツギハギに向かって言う。『……ごめんなさい』と。
 無論、この声は黒蝿にしか聞こえていないが、フジワラとツギハギはその姿勢から、彼女が謝罪の意を示していることを理解した。

 『あの時………貴方を、刺しちゃって、痛い思いさせちゃって、本当に、ごめんなさい……』

 涙が溢れそうなのを必死に堪え、一語ずつ確かめるように重女は黒蝿に向かって謝罪した。黒蝿はまだ何も言わない。

 『私は、沢山の人を殺してしまった。黒蝿、貴方が止めてくれなかったら、もっと暴走していたと思う………私は、力に溺れて、取り返しの付かないことをしてしまった……』

 シドは、あの時私のことを「ダークサマナー」と言った。力を行使し、悪行を働く者。その咎人の名。私に付いてしまった烙印。

 『私は、“ダークサマナー”になってしまった。それと同時に、ヤタガラスが行っていることを知ってしまった。あれは、絶対に止めなくちゃいけない。
 ……でも、今の私には力が無い。真っ正面から対抗してもヤタガラス相手に勝ち目はない。だから、私は………』

 ぎゅ、と拳を握る。この決意を口にすれば元には戻れなくなる。だけど、この方法でしかヤタガラスを壊滅させることはできないとも理解していた。
 重女は、顔をあげて、真っ直ぐ黒蝿の目を見て言う。

 『私は、ヤタガラスに反旗を翻す者、“ダークサマナー”として、あの組織を潰したい! どんな手段を使っても、あんな実験をしているヤタガラスを潰したい! これ以上不幸になる人が一人でも多く減るように……だから、やたノ黒蝿、私に仲魔として力を貸して』

 ぴくり、と黒蝿の眉が片方上がる。重女は構わず続ける。

 『人を大勢殺してしまった罪は、そうすることでしか消せないと思う。ダークサマナーとして、どんな手を使っても、ヤタガラスを、シドを止めたい。だから……!』
 「俺に命令するな」

 ぴしゃり、と重女の言葉を黒蝿が遮った。重女の身体が硬直する。

 「誰につくか、なにをするかは自分で決める」

 そこで、黒蝿はしゃがみ重女と目線を同じくする。ほの暗い瞳が青の瞳をのぞき込んでくる。その視線は重女の心の奥をも見透かすようで、重女は顔を背けたい衝動を必死で堪えた。

 「おまえはダークサマナーとしてヤタガラスを潰すと言うが、それがどれほどのことか分かっているのか? 相手は千年以上の歴史ある巨大な組織だ。それを瓦解させるには、手段は選んでいられないぞ。非道と呼ばれる行為も場合によってはおこなわなければならないだろう。それでもやるのか?」

 黒蝿の視線の圧力が増す。震えだした左手を右手で必死に押さえ、重女は、はっきりと言う。

 『……うん。私は、ダークサマナーとして、ヤタガラスを潰すためなら、シドを止められるなら、どんな手段でもとる』

 沈黙が場を支配する。重女の声が聞こえないフジワラとツギハギには、二人の会話の内容は断片的にしかわからなかったが、それでも重女の決意が伝わってきて、両者一言も口を挟めずにいた。

 「…………そうか」

 最初に口を開いたのは黒蝿だった。そのすぐ後、乾いた音が響く。黒蝿の右手が、重女の頬を叩いたのだ。
 一瞬、重女はなにをされたか分からなかった。ようやく自分が叩かれたのだと知ると、無意識に頬に手を当てる。その頃には黒蝿は立って後ろを向いていた。

 「刺された分の返しだ」

 肩越しにそう重女に告げると、黒蝿は今までの重女との会話をフジワラとツギハギに説明しに行った。刺された分の返し。黒蝿にとって重女はあれだけの深手を負わせた相手なのだから、もっと罵倒したり、強く殴るなどをしてもよかったのに。
 だが、あえてそれをせず軽いビンタ一つでことを済ませるだなんて。重女にとっては罵倒されたり、激しく殴打されるよりも、この軽い一発が何よりも心に響いた。

 ―――

 重女の決意を黒蝿から聞いたツギハギとフジワラは異を唱えなかった。もとより二人もヤタガラスから追われる身になってしまったのだから、重女の「ヤタガラスを潰したい」という目的には賛同せざるをえなかった。

 「と、いってもよ、具体的に何をするんだ?」

 そうツギハギに聞かれ、重女は困った。ヤタガラスを潰すといっても、具体的な策は何一つ考えてなかったのだから。

 「とりあえず、ヤタガラスの情報入手を当座の目的としないかい? 重女さんはシド・デイビスという悪魔召喚師を探したいんだろう? なら、ヤタガラスの悪魔召喚師の登録名簿にアクセスできれば……」
 「簡単に言うけどよ、それってヤタガラスのメインコンピューターにハックするってことだろ? クラブ・ミルトンのとはセキュリティの強度が全然違う。フジワラ、お前の腕前でも叶うかどうか……」
 「それで私に一つ案があるんだけど」

 これを見て、とフジワラがノートパソコンの画面を見せてきた。そこに映し出されていたのは、どこかの会社の社員登録名簿らしく、何人かの顔写真と経歴その他の情報が表示されていた。

 「これは先週私たちを襲った「烏丸コーポレーション」というヤタガラスのフロント企業の社員名簿なんだけど、この人物を見て。篠原義信。こいつは凄腕のハッカーで、過去に色んな悪徳企業の悪事をハッキングして暴いたって、その筋ではちょっとした有名人なんだ」
 「そいつがどうしたって言うんだ。こいつもヤタガラスの悪魔召喚師なんじゃないのか?」
 「いや、調べた感じだと、この会社は上層部以外の社員は一般人で、自分達の会社がヤタガラスに関わっているとは知らない。当然篠原義信もね」

 それで、とフジワラは重女に顔を向けながら言った。

 「彼には娘がいるらしいんだ。現在中学二年生。名は篠原茜。●●県の公立中学校に通っているらしいんだ。重女さん、この中学校に潜入し、この子と親しくなってくれないかい?」

 重女のみならず、黒蝿もツギハギも首をかしげた。何故ヤタガラスの息のかかった会社の職員の娘と親しくなる必要がある?

 「わからない? つまりだね、篠原義信にヤタガラスのメインコンピューターにハッキングしてもらう為に、娘を利用するってことだよ」
 「おい、それってまさか……」
 「娘の篠原茜を人質にとって、ハッキングして貰うんだよ」

 ツギハギは呆れた。こんな大胆かつ卑劣な策が温厚なフジワラの口から出てくるなんて。こんな作戦、お嬢ちゃんだって承知するはずが――

 【やる】

 重女はそう書かれたスケッチブックを見せ、賛同の意思を示した。ツギハギとフジワラは思わず顔を合わせる。フジワラはとりあえず言ってみたがきっと重女に断られるだろうと思っていたのに、まさか賛同してくるとは。

 「お嬢ちゃん、本気かい?」

 重女は固い表情を崩さず、さらさらとスケッチブックにペンを走らせる。【手段は選ばないって決めたから】紙にはそう書かれていた。
 フジワラは顎に手を当て何かを考え、ツギハギはまじまじと重女の顔を覗いた。だが口を真一文字に引き締めた重女の顔は冗談を言っているように見えなかった。

 「…………」

 黒蝿は何も言わず、ただ重女の横顔を見つめていた。その横顔が、黒蝿が今まで見たことのない少女の表情だったので、思わず黒蝿は眉をしかめた。

 その後、重女の同意を得たことにより、この作戦は決行されることになった。重女達は●●県へ移動し、フジワラ達の手により、偽の住民票などが造られ、重女が篠原茜と同じ中学に転校出来るよう根回しされ、いよいよ明日、その中学校に潜入することになった。

 ―――

 『本当にこれでいいのかい?』

 夢の中、アキラが重女に問いかけてくる。重女は頷いて見せた。

 『姉ちゃんの選んだ道は辛いよ? ダークサマナーとしてヤタガラスの追っ手に神経を使う日々………きっと、ツギハギさん達以外の誰からも理解されない。それでもいいの?』

 いいの、と重女は答えた。ヤタガラスを潰すため、私はダークサマナーの道を進むしかない。例えどんな手段を使おうとも、憎まれようとも、ヤタガラスは壊滅させなくては……

 『例えシド先生と相まみえることになっても?』

 ……………………

 『……分かった。それが今の姉ちゃんの決めたことなら、俺は何も言わない。だけど姉ちゃんは一人じゃないよ。黒蝿の野郎も、獅子丸も、牛頭丸も、猿も紅と白もいる。それに俺は深層意識の奥底に眠るけど、本当にピンチになったらまた出てくるから。
 だから、姉ちゃん、無理だけはしないで………』

 うん、ありがとう、アキラ。

 アキラが重女の手をとり、手の甲にキスをする。まるで紳士のようなその行為に、重女は顔を赤くした。
 アキラはイタズラっぽく微笑みながら、その身を崩させていった。アキラの人格が薄れていく。重女は思わず手を伸ばしたが、その時には意識は完全に覚醒され、気がつくとその身は薄い布団に横たわっており、隠れ家の天井に向かって手が伸びていた。
 目の縁に涙が溜まって、瞬きすると、つう、と一筋の涙が重女の頬に軌跡を残した。

 ―――

 制服の着るのなんていつぶりだろう、と重女は思い、最後に制服を着たのはいつだったかと考えを逡巡していると、バスが次の停留所の名をガイダンスした。重女は停車ボタンを押した後、中指で眼鏡のブリッジをくい、と押し上げると、すぐに意識を切り替えた。
 篠宮義信の娘、篠宮茜に近づき、彼女を人質に篠宮義信にヤタガラスのメインコンピューターにハッキングさせ、情報を得ること。これが重女達の作戦。

 ――大丈夫。きっと上手くいく。

 制服の下に隠している十字架のペンダントを握りしめ、重女はそう自分に言い聞かせる。
 ダークサマナーの少女は、セーラー服に身を包み、打倒・ヤタガラスのための一歩を踏み出した。

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 意識が重い沼からゆっくりと浮上していく。身体の感覚はまだ朧気で、水の中にいるようだ。
 水面が近くなっていく。するとなにかくぐもった怒鳴り声が聞こえてきた。

 「ああ!? ……だから……なんだってんだよそれは……とにかくそこは危険だ。今すぐ荷物まとめてこっちにこい。………ああ、その話は後で聞くよ。それとも俺がそっちに行った方がはええか?」

 黒蝿がまぶたを開けると、柔らかな光が頭上から降り注いでいた。同時に自分が全裸で、液体に半身を埋めていること、ドーム型の装置のようなものに自分は横たわっていることを、まだ重い頭で理解した。
 酸素マスクらしきものをとると、ビーッ、ビーッと耳障りな警告音が鳴り、ドームの中の液体は排出され、天井がゆっくりと開いた。
 半身を起こし髪をかき上げる。「……ツギハギ」黒蝿が名を呼ぶと、通話の終わったツギハギが黒蝿の姿を見て目を丸くした。

 「黒蝿……お前目を覚ましたのか」
 「ああ、まだ怠いがなんとか動ける」

 言いながら、黒蝿は影を操り自分の身体を覆う服を顕現させていった。鴉を象った兜以外はいつもと同じ、黒い三伏にも似た服装に身を包む。

 「状況はどうなっている? さっきなにやら揉めていたようだが」
 「お察しの通りトラブルだらけさ。特に重女とかいうお嬢ちゃんがな………」

 黒蝿の形の良い眉がひそめられた。重女。自分の真名を奪った少女の偽名。黒蝿を刺した張本人は、また何かトラブルを起こしたのだろうか。

 「フジワラに聞いても全然的を得ない答えしか返ってこねえ。重女さんが別人になったとか、男に変わったとか意味不明のことばかり喚きやがる。まあヤタガラスの襲撃を受けて精神的に混乱してるんだろうがな………」
 「ヤタガラスの襲撃!?」
 「ああ、フジワラがスクープを提供しようとした会社は、どうやらヤタガラスのフロント企業だったらしい。悪魔召喚師を差し向けられてボコボコにされたらしいが、どうやらあのお嬢ちゃんが刺客を倒したらしい」

 黒蝿の眉間のしわがますます深くなった。低級悪魔相手ならともかく、ヤタガラスの精鋭にあいつ一人で勝てるものなのか? コンプに入れてある仲魔を呼び出すのだってマグネタイトが必要不可欠だし、クラブ・ミルトンでの戦いの後で十分なマグネタイトを手に入れられたとも思えんが………

 「とにかくまずはフジワラの店に行く。黒蝿、行くぞ」

 そういってツギハギは車のキーをちゃらつかせて見せた。車でフジワラの店まで連れていくつもりか。黒蝿は踵を返し「俺は空を飛んで向こうに……」と言いかけたが、ツギハギに首元をひっぱられ強引に駐車場に連れて行かれる。
 「離せ!」
 「なに寝ぼけたこといってんだよ。空なんか飛んだら目立っちまうじゃないか。いいからとっとと乗れ。十分もすれば着く」

 後部座席に半ば黒蝿を押し込め、ツギハギは車を発進させた。
 フジワラの店に着いた頃には、黒蝿の顔色が真っ青になっていたことはいうまでもあるまい。

―――

 フジワラの喫茶店【フロリダ】にツギハギ達が着いた時、中はめちゃくちゃであった。
 机や椅子、ソファーがあちこちに飛ばされている。コップや調味料やその他細々としたものも割れて散らばり、カウンターとドアが半壊していた。まるでなにか大きなモノがぶつかったような……
 殆ど瓦礫といっていい中、二つの人影があった。一つはフジワラ。その姿は着ている服のあちこちが破れ、血のようなものも付いている。顔は殴られたのか酷く腫れて、口の端から血が滴っており、黒縁眼鏡には亀裂が走っている。酷い姿だ。ツギハギは一目見てフジワラがヤタガラスの悪魔召喚師共に暴行されたのだとわかった。

 「……大丈夫か?」
 「大丈夫………て言いたい所だけど、あまりいい状態じゃないね。身体のあちこちが痛い。特に右脇腹と左腕が酷い」
 「見せてみろ」

 ツギハギがぼろ切れ同然になったフジワラのシャツを引き裂き、彼の身体をチェックした。確かに右脇腹が紫色に変わっている。そこを軽く押してみると、フジワラが苦しそうに悲鳴をあげる。左腕も同様に触診したが、反応は同じだった。

 「ううん……恐らく骨にヒビでも入っているか、もしかしたら骨折してるのかもな。この家に救急箱はあるか?」
 「二階に……」

 そこまで言うと、物陰にいたもう一つの人影が動いた。九楼重女と名乗る少女は、立ち上がるとそのまま二階への階段を上っていく。
 そして重女は救急箱を携えて降りてきた。彼女はフジワラの傍に座ると、救急箱から湿布を取り出し、フジワラの右脇腹に何枚か貼る。それから左腕にも湿布を貼り、そこらに散らばっていた箸を三本程集め、添え木代わりにし包帯を巻いたかと思うと、破けたフジワラのシャツを器用に折りたたみ三角巾の形にし、フジワラの左手を包み、端を首の後ろで結ぶ。負傷した左腕を首から布で吊す形になった。

 「へえ……上手いもんだな。どこで習ったんだい?」

 ツギハギが感心して言う。重女は答えようとして唇を動かすが、声は出なく呼吸音しか発しなかった。重女は喉を押さえ、ツギハギを睨んだ後、カウンターに入り無事なコップに水を入れて戻ってきた。そして救急箱から痛み止めの薬を数粒手のひらに乗せ、ずい、とフジワラの目の前にコップと共に差し出した。また唇が動く。当然声は出ないが、ツギハギはその唇の形から「飲め」と言っているのがわかった。
 フジワラは震える手でそれらを受け取り、薬を飲み干す。水を飲んで少しは落ち着いたのか、フジワラはふう、と息を吐き、重女を凝視した。鳶色の瞳には未知のものを見たかのような猜疑の色が窺える。

 「改めて聞くけど、君は重女さんではない……んだよね?」

 重女はこくんと頷いて見せた。ツギハギの顔が険しくなり、思わず重女とフジワラの顔を交互にまじまじと見てしまう。よく見ると重女の顔つきはどこかキツい。口を真一文字に締め、何か緊張しているような、張り詰めたような顔だ。そこには三日前に見た怯えの色もなければ、魂がぬけたような呆然としている様子もなく、あるのは触れれば傷つく抜き身のナイフのような尖った目つきと雰囲気だった。こんな顔つきの彼女は見たことがない。

 「そういや電話でお嬢ちゃんが別人に変わったとか言ってたな。あれはどういう意味なんだ?」

 ツギハギの問いに、フジワラは近くにあった小さめのホワイトボードを差し出した。そこには[おれはアキラ]と荒々しい筆跡で書かれてある。

 「……なんだこれは?」
 「重女さん………いや、『アキラ』君? とやらが書いたんだよ」
 「意味がわからん。どういうことだ?」
 「そのままの意味だよ。今の彼女は重女さんじゃない。『アキラ』という男らしい」

 その時、がたん、と部屋の隅のテーブルが動いた。そいつは重女の仲魔のやたノ黒蝿。車から降りた途端、青い顔で真っ先にトイレに入っていったが、いつ出てきたのか。
 トイレで嘔吐してスッキリしたのか、いつもの顔色に戻った彼は、重女の方に近づく。
 重女も黒蝿に気がついたようで、一瞬目を細めたがすぐに皮肉っぽく片方の口角をあげてみせた。

 『よう、黒蝿。久しぶりだな』
 「!?」

 重女から黒蝿の脳に直接声が届く。しかしその声は聞き慣れた少女の高い声ではなく、変声期直後のやや低めの男の声であった。
 この声、知っている。東のミカド国の王でありあいつの弟でもあり、黒蝿に十字架のペンダントを預けあいつと融合して消えたはずの少年の声。

 「………なんでお前が出てきている……お前は……」
 『おお。お前には俺の声が聞こえるみたいだな。悪魔相手だと聞こえるのか。全く、声が出ないってのは予想以上にめんどいな』
 「お前のマグネタイトは全部吸い取ったはずだ。なのに何故意識が存在している? 答えろ、“アキラ”。お前の姉はどこに行った?」

 ふう、と、重女、いや、“アキラ”は息を吐き、倒れていた椅子の一つを起こし、どっかりと足を組んで座って見せた。まるで玉座に座る王のように尊大に。

 『姉ちゃんは今は深層意識の奥で眠っている。姉ちゃんは罪の意識で自ら消えようとしていた。だから助けようと思ったら、気がつけば表層意識に浮かんで来れた。代わりに姉ちゃんの意識は奥深くに沈んでいった。きっとお前が吸い取ったマグネタイトの残りカスみたいなのが僅かに残っていて、姉ちゃんのピンチにそのカスが集まって俺の人格が復元されたみたいだ』
 「…………………」

 改めてまじまじと目の前の人物を黒蝿は凝視する。そういえば眼鏡をかけていない。あいつは視力が悪かったはずなのに。
 それに胸の膨らみもほとんど無くなっている。まああいつは気休め程度に膨らんでいただけで、バストはあってないようなものだったが。

 『………姉ちゃんを、守ってくれって言ったのに………』

 重女の身体を支配しているアキラが黒蝿を睨み付けながら言う。黒蝿は思わず懐の十字架のペンダントを握った。あの少年が「男の約束」として一方的に寄越した、黒蝿の心を支配する象徴。

 『おまえも一緒だったんだろ? それなのに、なんで姉ちゃんはこんなに傷ついて自分を責めているんだ? なんで消滅願望を抱いて苦しまなきゃいけないんだ!』

 こいつ、記憶はあいつと共有していないのか……黒蝿が何か言おうとしたとき、「あの……黒蝿君?」と遠慮がちにフジワラが口を挟んだ。

 「私たちには聞こえないんだけど、君には重女さんの声がわかるのかい? 重女さんはなんて言ってるんだい? 本当に「アキラ」とかいう人物になっているのかい?」
 「……………………」

 そういえば、フジワラ達と会った時から、重女は咽喉マイク入りチョーカーをつけていた。だから会話には不自由しなかったが、そのチョーカーも恐らくクラブ・ミルトンと共に焼失したのだろう。重女が声を伝えられるのは悪魔相手だけだというのは、フジワラとツギハギは知らない。
 さて、どこから説明したものか。黒蝿は重女の弟のアキラのこと、東のミカド国での出来事、アキラと重女の融合、といったことを順を追って説明した。
 説明が終わる頃には、夕暮れが辺りを覆い始めていた。

―――

 「えーと…………簡単に言えば、重女さんと弟のアキラ君、二つの人格が彼女の身体にあって、今はアキラ君が主人格だと」

 黒蝿の説明を聞いて、フジワラはそう聞いてきた。「まあ、概ねそんなところだ」と黒蝿は答える。フジワラとツギハギは倒れていたソファーを起こし、そこに座している。重女の姿形のアキラと向かい合う形になっている。

 「早い話、二重人格ってことだろ? 話には聞いていたが本物を見るのは初めてだぜ」

 ツギハギがアキラをじろじろと珍しいものでも見るかのように頭の天辺からつま先まで眺めながら言う。厳密に言えば違うが、今の状況を表すには適切な表現だ、と黒蝿は思った。

 「なあ、とりあえず生体エナジー協会に行かないか? ここにいたんじゃまたヤタガラスの襲撃に遭うだろうし、あそこには色々機材が揃っている。お嬢ちゃんの身体と精神を調べるには最適だろうし、フジワラ、お前の傷も治さなきゃならねえだろ?」
 『俺はお嬢ちゃんじゃない。アキラだ』

 アキラの声は当然ツギハギ達には聞こえずじまい。フジワラは「そうだね」と頷く。

 「重女さんの件でゴタゴタしててちょっと長く居すぎたな。早く逃げよう。重女さ……アキラ君、もついておいで。ここは危険すぎる」
 「…………」

 無言で、アキラは黒蝿の方に視線を向ける。黒蝿は、「今はこいつらの言うとおりにしろ。ヤタガラスの追っ手から逃げなくてはならない」と返答した。

 『俺の力なら何人束になろうが、返り討ちにしてやるのに』
 「今のお前の身体は姉貴のだってこと、忘れたか? お前の姉は術も使えなければ、戦闘術も身につけていないぞ」

 少しの間、納得がいかないというように唇を尖らせていたが、ひょい、とアキラは椅子から下りて、『フジワラ、さん。貴重品はどこ?』とフジワラに聞いた。が、相変わらずその言葉は声にならない。フジワラが目で黒蝿に通訳を頼むと、黒蝿は「荷物をまとめるのを手伝いたいそうだ」と伝えた。
 それからフジワラとアキラは荒れた店内を動きつつ荷物をまとめている。ツギハギと黒蝿はずっと無言だったが、彼らの視線は、今はアキラになっている重女に注がれていた。やや大股な歩き方、背筋の伸びたしゃんとした佇まい、身振り手振り。それらは彼らが知っている重女のそれとは微妙に違っていた。あれは武道の心得のある者、命がけの戦いを幾度もくぐり抜けてきた者の仕草だ。

 「黒蝿の。お嬢ちゃんは戻ってくるのかねえ?」

 ツギハギの問いに黒蝿は無言を答えにした。かつて“約束”を交わして消滅したはずの少年の本当の横顔を思い出し、姉である重女の横顔が、その少年のそれと同じになっているのを確認してしまい、黒蝿は苦虫をかみつぶしたような表情を作った。

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 誰かが泣いている。
 少女のすすり泣く声。誰だろう。何故君は泣いているの?
 
 ――ごめんなさい

 懐かしい声だ。ずっと側にいてくれた声。ずっと探し求めてきた声。
 彼女は、泣いている。自分を責めて、泣いている。自分が消えることを望んで。「彼女」の存在が薄くなる。
 待って、消えては駄目だ。
 君は、僕が、俺が、守るから――
 
―――

 生体エナジー協会。表向きは健康食品を扱う非営利団体。だがその実態は、デビルサマナー達に悪魔に必要なマグネタイトを売買している怪しげな団体である。
 国家機関ヤタガラスに認可されているかは不明だが、ここを訪れるデビルサマナーは少なくなく、恐らくヤタガラスも黙認しているのだろう。

 生体エナジー協会の支部は隣町に位置しており、車なら十五分、バスでは三十分ほどでつく。
 その生体エナジー協会に、重傷を負った悪魔が一体収容されていた。
 ドーム型のカプセルに入れられた悪魔――やたノ黒蝿はかろうじて人の姿を保っており、左胸の傷も癒えている。しかし彼の衰弱は激しく、意識不明状態。完全復活のためのマグネタイトがまだ足りないようだ。

 「ツギハギさん、もう堪忍してや。うちのマグネタイトの貯蓄が底をついてしまうさかい」

 ツギハギと呼ばれた、渾名の通り顔や身体にいくつもの手術痕の目立つ大柄な男は、ふん、と鼻を鳴らした。

 「グーフィよ、お前三年前の件、忘れたとは言わせないぞ。あの後始末に俺がどれくらい走り回ったと思ってるんだ。その貸しを今返して貰っているだけだろうが」
 「い、いえ、あの件のことはほんまツギハギさんに感謝してます。ツギハギさんがいなかったら、わいは今頃……」
 「なら今度は俺の頼みを聞く番じゃねえか」

 ツギハギはカプセルの中の黒蝿の血色の悪い顔を見ながら突き放すように言った。
 ここに連れてきてから三日、一時期は小さな黒い塊に退行するまで衰弱していたが、ここでマグネタイトを大量に注入してから、なんとか人の形にまで戻った。が、未だ意識が戻らない。
 悪魔は死ぬことはない。だが、その身を現世に顕現するにはマグネタイトが必要不可欠だ。マグネタイトが無くなれば人の世での形を保てなくなり、異界に強制送還する仕組みだ。
 だが、黒蝿は重女に真名を奪われて現世に無理矢理縛られている。そのため異界に帰ることもコンプに入ることも出来ない特殊なケースである。
 ツギハギとフジワラがそのことを重女から聞いたのはクラブ・ミルトンでの事件の後。いや、正確に言うとほとんど無理矢理話させた、というべきか。重女は言われるがまま震える手でペンを持ち、自分と黒蝿の関係を拙いながらも紙に書いて教えたのだ。
 そこで初めて重女が声を出せないのは黒蝿に言霊を奪われたからだと知った。ついでに重女というのも偽名で本当の名は自分でもわからない、ということも。

 「まったく、難儀なことだな」

 苦みのある声でツギハギはごちる。と同時にその重女と偽名を名乗る少女の顔を頭に浮かべ、ツギハギは顔を険しくさせた。
 フジワラの所に保護され、黒蝿に重傷を負わせ何十人もの人間を殺害した、ヤタガラスに「ダークサマナー」と烙印を押された少女は、あれからずっと一人心を閉ざし引きこもっている。

―――

 フジワラの営む純喫茶「フロリダ」の二階は居住スペースになっている。しかし店主のフジワラは近くのアパートに部屋を借りていて、そこから店に通っている。
 暫く誰も住んでいなかったフロリダの二階に、住人が来たのは三日前。クラブ・ミルトンでの事件の後、九楼重女と名を偽る少女を半ば押し込める形で住まわせた。
 それはヤタガラスから「ダークサマナー」として追われる身となった彼女を保護する目的もあるが、一番の目的は「監視」である。

 つまり、重女がまた感情を暴発させてクラブ・ミルトンでのような行動を起こさないかどうかと、黒蝿のところへ見舞いに行ったりしないかどうかという行動の監視。それには懲罰の意味も込められていた。

 重女は何度も黒蝿に会いたいとフジワラとツギハギに頼んできた。だがフジワラは頑としてその訴えを拒否した。会ってはいけない。それは黒蝿が危篤なのもあるが、何より彼の重女への個人的な疑念に満ちた感情があり、そのために君は黒蝿君に“会わせない”と正直に言うと、重女は酷く落胆した面持ちでフロリダの二階の一室に戻り、以来ずっと部屋に引きこもっている。
 どういう経緯でかは知らないが、彼女は自らの力で何十人という人間を殺害した。その事は事実だし、ダークサマナーになってしまったのも合点はいく。彼女自身もわかっているのだろう。だからフジワラはあえて叱咤せず、かといって安易に慰めたりもせず、屋根裏の部屋に一人彼女を閉じ込めた。
 一人になってじっくり考えて欲しかった。自分の行動がどれだけ非道なものだったか。自分のせいで未来を奪われたものが多数いる現実を直視し、これからどう生きるのか自分自身で答えを出して欲しかった。
 十五の少女にはあまりにも過酷な仕打ちかもしれないが、フジワラはこのやり方しか思いつかない。彼が子供でもいればまた違った処罰を思いつけるだろうが、四十すぎのやもめ男には、外側から鍵をかけられる部屋を与え、内証の時間を与えることしかできない。あの部屋には自殺に使用出来るものは一切置いてないし、監視カメラもつけている。そしてツギハギの仲魔が見張りのために密かに付いている。彼女があの夜のように自死させないことに置いては徹底していた。
 フジワラはパソコンのキーをいじり、重女の部屋のカメラ映像をチェックする。重女はベットに横になっていた。差し入れの食事は少ししか食べていない。寝ているのか、または自分を責めているのかはカメラ越しでは分からない。
 ふう、と息を吐き、フジワラは作業に戻った。パソコンのディスプレイにはクラブ・ミルトンで手に入れた機密文書のコピー。「悪魔召喚簡易化のための赤玉プロジェクト」の概要と「赤玉」の製造方法や実験の記録。
 だがあの時火に追い立てられていたので、データ抽出は半分ほどしか成功しなかったが、それだけでもヤタガラスが非人道的なプロジェクトを進めている証拠になる。フジワラはフリージャーナリストとして今まで培った人脈を生かし、何社もの出版社、テレビ局などのマスメディアにこのことをスクープとして提供してきた。
 だがどこの会社もこの情報を買い取ってくれない。恐らくヤタガラスの圧力がかかっているのだろう。当初の計画どおり秘密裏にデータを手に入れていたのなら、ヤタガラスの手がマスコミに回る前に特大スクープとして高値で売れただろうに。
 徒労に終わるかと思われた情報提供に、一社だけ手応えのある反応を返してきた。
 聞いたこともない小さな出版社だが、フジワラの話を是非聞いてみたいという。
 面談は明日の午後五時、ここフジワラの店で。その時までに生体エナジー協会に収容されている黒蝿が意識を取り戻すといいな、と思い、フジワラはデータ整理と資料作りの作業に没頭していった。

―――

 フジワラの喫茶店の二階の部屋をあてがわれ、どれくらい過ぎただろうか。
 まだ三日にも感じるし、もう三日も経ったかとも感じた。
 重女は夜になっても電気をつけず、暗い部屋で一人ベットに身を横たえていた。
 初めて本物の銃を撃った、あの衝撃、浴びる血の生暖かさ、無残な死体、そして――血を大量に流し私に身体を預けた黒蝿の重さ。全てが脳内で何度もフラッシュバックし、そのたびに重女は呼吸が出来なくなる。
 黒蝿はどこか別の場所で治療を受けているらしい。だけど会うことは許されなかった。彼の身体にしがみついて謝罪をしたかった。黒蝿が助かるなら私の血肉でもなんでもあげるのに、私は彼にマグネタイトも謝罪もなにもあげられない。だからずっと側にいたかったが、フジワラさんがそれを許してくれなかった。

 ――私の君への個人的な評価として、とても今の君を黒蝿君に会わせるわけにはいかない

 フジワラさんは冷たくそういって、君自身、一人になってよく考えるべきだと、この部屋を私に提供してくれた。
 住まわせて貰っている、といえば聞こえはいいが、ただ軟禁状態に置かれただけだ。扉には外側から鍵がかけられているし、天井の隅には小型の監視カメラまである。自分は独房に収容された罪人――そう表現するのが適切であるし、重女自身もこの待遇に不満はない。だって、自分は大罪人なのだから。沢山人を殺して、黒蝿にも重傷を負わせてしまった、「ダークサマナー」なのだから。

 『状況が分からないのか? この者達を殺したのは誰か、欲望のおもむくまま殺人を犯したのは誰か? それは死者しかいないこの通路で、ただ一人生き残っているそこの血まみれのお嬢さんしかいない』
 『九楼重女は闇に自ら足を踏み入れた。見事にダークサマナーに墜ちたというわけだ。彼女は我々が処罰する。だから君にはどいてもらい、そこの“ダークサマナー”をこちらに渡してもらいたい』

 シドのあの言葉がリフレインする。闇に足を入れた者。ダークサマナー。欲望の赴くまま力を行使する悪魔召喚師。黒暗召喚師とも言われるべきそれはヤタガラスにとっての討伐対象であるとツギハギさんから教えて貰った。
 あの後、蝿のような黒い塊にまで身体を変えた黒蝿を連れて、ツギハギさんはどこかへ行ってしまった。彼からは何も言われていない。フジワラさんのように私を諭したり叱ったりしなかった。私はてっきり殴られ叱られると思っていたのに、彼は拍子抜けするくらい私に何も言ってこないししてこない。それがいまの重女には辛かった。いっそのことフジワラさんのように遠回りでも嫌悪感を示してくれるほうがまだマシだ。何もされないで一人にされるのがこんなに辛いだなんて。
 呼吸が浅くなる。手足が冷たくなり、目の前が白くなっていく。

 苦しい、溺れてしまう。何に? 罪の意識に?

 千の謝罪を述べようと万の涙を流そうとも、死んだ人は帰ってこないし、私のしたことが消えるわけじゃない。
 それに、黒蝿は私を許してはくれないだろう。彼は身を張って私を止めてくれた。東のミカド国の戦いから、彼はずっと仲魔として悪態をつきながら時に呆れながらも私を助けてくれた。そんな彼を刺してしまうなんて。もし黒蝿が助かったとしても合わせる顔がない。
 視界が白に塗りつぶされる。呼吸が浅く速くなり、意識が遠のいていく。

 辛い。苦しい。こんな自分は存在してはいけない。私なんか、消えてしまえばいいーー

―――

 次の日、フジワラの喫茶店は午後四時で閉店した。そして五時になると、背広姿の二人組の男が約束どおり店にやってきた。片方は長身で痩せぎす、もう片方は小柄で太り気味で、まるで漫才のコンビのようだな、とフジワラは思った。
 交換した名刺には「烏丸コーポレーション・出版部門」の文字が印刷されている。烏丸コーポレーションは元はIT関連の会社だが、今度出版部も立ち上げることになり、創刊される雑誌のネタ集めに奔走しているところフジワラの情報に食いついた、というのが二人組の説明だった。
 一通りの自己紹介を終え、フジワラと二人組はソファーに腰掛けた。そして二人組の痩せぎすの方が口を開いた。

 「ええと、電話でお聞きしたとおり、フジワラさんはヤタガラスという悪魔召喚師を束ねる秘密組織に関する特ダネを掴んだ、と。間違いないですか?」

 勿論、とフジワラは頷く。それを見て小柄で太り気味なもう一人が疑問の声を上げる。

 「正直言いますとね、自分は未だに信じられないんですよ。悪魔だなんて想像上の生き物だとばかり思っていたのに、それを召喚する者がいて、それらを統べる組織が現代日本に存在するとは……」
 「ええ、疑問に思うのは当然だと思います。ですが事実なんです。古くから我々は悪魔や鬼といった異形の者と関わってきた。それら異形の者を従え、邪を払う“悪魔召喚師”がいて、それを統べるのが秘密国家機関ヤタガラス。
 だけど電話でお話したとおり、ヤタガラスは非人道的な行為を行っている。犯罪行為なんて生やさしいものじゃなく、もっと残酷で冷酷なことを。このことを是非民衆に知ってもらいたく、私は極秘取材を試みました」
 「それで、どうだったんですか」

 痩せぎすの男が言うと、フジワラはクラブ・ミルトンでの事をまとめた資料をテーブルに置いた。二人は早速資料をめくり、読み始めた。
 十分ほど経っただろうか。二人はフジワラが煎れたコーヒーに口もつけないで資料を凝視している。
 ふと、フジワラは二階の重女の事が頭に過ぎった。今日は客が来ることを告げたが、朝、食事を運んだときから喋っていない。まあ彼女は声を出せないから口頭で話すことは出来ないのだが。
 今日で重女をここに住まわせて四日目。隣町の生体エナジー協会に収容された黒蝿が意識を取り戻したとは連絡がきていない。あちらの事はツギハギに全部任せている。彼に任せておけば安心だが、重女のことも気がかりだ。彼女とこれからどう接していけば……

 「ほう……これはなかなか……」

 痩せぎす男が一人ごちる。太り気味の男は資料を膝に乗せたまま「このことは事実で間違いないのですね?」と聞いてきた。

 「勿論です。私と協力者が直にクラブ・ミルトンに潜入し手に入れたモノです。信じられないのも無理はないかと思いますが……」

 資料には、フジワラでさえ目を背けたくなるような人体実験の記録が記されている。“赤玉”なる存在とその造り方。非人道的なやり口にきっと閉口しているのだろう。コーヒーを飲みながら二人組の反応を窺う。が、二人は無表情のまま何も発さない。ショックが大きすぎたのだろうか?
 すると痩せぎす男が口元をにやりと歪ませた。そして資料を愛おしげに撫でながら「いや、本当に良く集めたものですね」と歪んだ笑顔をこちらに向ける。フジワラの背筋が寒くなった。

 「この資料は、ここにあるだけですか?」
 「……? はい、これが手に入れた情報の全てです。何か不足なところがありましたでしょうか?」

 おかしなことを聞いてくる男に、フジワラが答える。すると太り気味の小柄な男が喉をくっくと笑わせながら言った。

 「不足どころか……よく悪魔召喚師でもない一般人がこれだけの情報を手に入れられたと感心していたのですよ」

 フジワラは違和感を覚えた。悪魔の存在を懐疑的に思っていた男なのに、“悪魔召喚師”という単語の言い方はやけに言い慣れているように感じたのだ。
 と、次の瞬間。

 「!」

 男の手から炎が浮かび、分厚い資料が焼けていく。フジワラが一晩費やして作った資料を。いや、それより、今この男は炎を発現してみせた。まるで悪魔召喚師が“アギ”の術を唱えたかのように。

 ばっと、フジワラはソファーから立ち上がり、二人組から距離をとった。資料は小柄な男の手によって完全に燃やされ、炭と化して床に散らばった。

 「君たち……出版関係の人間だというのは、嘘だね」

 フジワラが身体に力を入れながらそう断言すると、痩せぎすの男がまたしてもにやにやと笑いながら、手をぱんぱんとはたいて資料の燃えカスを床に落とした。
 そっと、フジワラは背中に隠してあった銃に触れた。アギの術を発したことから、小柄で太り気味の男の方は悪魔召喚師だろう。迂闊だった。もっと相手の素性を調べてから面談するのだった。ヤタガラスが我々に情報を手に入れられたと知ったから、クラブ・ミルトンを全焼させたのだろうし、機密事項を手に入れた者を抹殺するため動くことも察しはつけられたのに。ツメの甘い自分にフジワラは嫌悪を抱いた。

 「それで、フジワラさん、この資料の元となったデータはどこにあるんです?」

 男達が問うてくる。フジワラは距離をとりながら「さあ?」ととぼけてみせた。

 「そうですか、では……」

 痩せぎす男がスマホを取り出し、何か操作すると、途端室内に吹雪が生じた。そして目の前に巨大な魔獣・ウェンディゴが現れたかと思うと、ウェンディゴはフジワラの腹めがけて巨大な拳を突いた。

 「くはっ!」

 とてつもない力で拳を入れられたフジワラは、そのまま後ろに吹っ飛んだ。椅子やテーブルやその上に置いてある細々としたものが、フジワラの周りに飛び散らかった。

 「はぁはぁ……ぅげほっ……」

 血の混じった胃液を吐きながら、フジワラは立とうと試みた。が、腹の衝撃が尾を引き、身体に力が入らず、膝立ちのまま銃口を二人組に向けた。その銃を持つ手も震えている。

 「フジワラさん、無駄な抵抗は止めましょうよ。そんなただの銃で我々に叶うとでも?」
 「こちらもあまり派手に動きたくないんですよ。あなたが手に入れたデータの原本をこちらに渡せば無用な戦いは避けられる。あなただって痛い思いはしたくないでしょう?」

 猫なで声で言われても恐怖しか感じない。フジワラはヤタガラスから派遣されてきただろう悪魔召喚師の二人を睨みながら、出口へゆっくりと近づいた。くそ。せめてツギハギがいればまともに戦えるのに。
 そんなフジワラを嘲笑うかのように、ウェンディゴが口からブフを発した。その吹雪は唯一の出入り口を凍らせ、フジワラはとうとう外へ逃げることが出来なくなった。

 「おら! とっととデータを渡せってんだよ!」

 痩せぎす男が、見かけによらない鋭い蹴りをフジワラにお見舞いした。フジワラはがはっと血を吐きながら銃を落としてしまう。その銃を太り気味の男が拾い、フジワラの耳にぐり、と銃口を押しつけた。

 「あなたも馬鹿だね。ジャーナリストだかなんだか知らないが、世の中知らない方がいいこともあるわけ。下手な正義感振りかざして命まで落としたら笑えないよ?」

 男達がフジワラを見下ろし笑っている。フジワラは絶対こいつらに屈服するもんか、と睨み返した。太り気味の男が銃底でフジワラの顔を殴る。目の前が一瞬ぐらつき、フジワラの痩躯が床に転がる。そして二人組の男はフジワラの身体に殴る蹴るの暴行を繰り返す。
 男達は、笑っていた。

 ―――

 階下でなにやら物音が聞こえる。それにくぐもった悲鳴のようなものも。

 ――フジワラさん!?

 重女は施錠されたドアから一歩も動けないでいた。
 確か今日は出版社の人が来るとフジワラさんは言っていた。今頃商談しているはずなのに、何故何かが倒れる音や怒鳴り声が聞こえてくるの!?
 がちゃがちゃと、重女はドアノブを何度も回した。しかし施錠は解けない。体当たりを試みても、重女の体重では丈夫なドアは壊れない。助けなきゃ、フジワラさんを。

 ――でも、どうやって?

 手元にコンプはない。ツギハギさんに没収されてしまったから。仲魔の猿や獅子丸や牛頭丸、紅と白を呼び出すことが出来ない。なにより一番の仲魔である黒蝿が重体で使役することが出来ない。
 また呼吸が速くなっていく。黒蝿をそんな風にしたのは誰だ? それは私。私がこの手で黒蝿を――

 がっくりと、重女はくずおれる。下からの怒声や物音は鳴り止まず、むしろどんどん酷くなってきてる気がする。だけど重女は立つことが出来なかった。それどころか、まともに呼吸すらできなかった。

 ――もし悪魔召喚師が相手なら、私は戦えるの? 影の造形魔法だけで。いや、私は戦ってはいけない。黒蝿が与えてくれたこの術を使うわけにはいかない。

 『何故?』

 ――だって私はこの術を悪用した。そのせいで沢山人を殺した。黒蝿まで傷つけた。

 『だから、戦いたくない?』

 ――そう、私は生きている資格なんてない。消えたい。この世から、私の存在を消してしまいたい

 『消えちゃだめだ!』

 ――え?

 『辛いなら、戦わなくていい。無理に頑張らなくてもいいんだ』

 ――あなたは誰? とっても懐かしい声。頭の内側で語りかけてくるあなたは、一体――

 『大丈夫、僕が、俺が、守るから――』

―――

 ドオン! という轟音で二人の男はフジワラへの暴行を止めた。

 「誰だ!」

 問いかけても返事はなし。痩せぎすの男はウェンディゴと共に、音のした方へ慎重に歩を進める。今日ここにはフジワラだけしかいないという情報だったのに、他に誰かいやがったのか?
 カウンターの裏側へ回ると、そこには小さな階段があった。上を見ると、金髪碧眼の少女が立っていた。年の頃はまだ十四,五といったところか。
 フジワラの娘か? と疑問に思った直後、階段上の少女が電撃的に動き、ウェンディゴが黒い剣で斬りつけていた。Zの形に傷つけられたウェンディゴは、血を吹き出しその場に昏倒した。
 何が、と疑問符が頭を占める前に、痩せぎすの男はみぞおちに少女の拳を入れられていた。華奢な手からは想像もつかない速さと重さで。
 男はぐは、と苦鳴と唾液を吐きながら目を回し、ウェンディゴとともに床に倒れた。

 「おい、お前はなんだ!?」

 太り気味の男がボロボロのフジワラに銃口を向けながら喚いた。動くんじゃねえ、こいつがどうなってもいいのか、と男は恫喝したが、重女はそれを無視し、自分の周囲に影でいくつもの槍を作った。そしてその槍を太り気味の男めがけ放つ。
 いくつもの槍は、悲鳴をあげる男の脇や股下に入り、そのまま男の体躯は壁に槍によって縫い付けられた。重女が男に近づく。そして、腹に拳を入れ、太り気味の男は気を失った。
 殴られ腫れ上がった顔で、フジワラは重女を見た。彼女の目つきは彼が今まで見たことのない、鋭い目つきだった。いや、目つきだけではない、纏っている雰囲気も、体さばきも、佇まいも、フジワラの知っている九楼重女という少女のものではなかった。

 「君は……いったい誰なんだい?」

 呆けたようにそう問いかけたフジワラに、重女の姿をした者はこちらを向き、そして喉から掠れた呼吸音を響かせた。怪訝そうに眉を寄せたその者は、もう一度喉の辺りを押さえて声を出そうとした。が、当たり前だが声は出なく、虚ろな息の音しかでなかった。まるで自分がしゃべれないのを知らないかのように。
 しばらくきょろきょろしていたが、やがて床に転がっていた小さめのホワイトボードとペンを見つけ、“そいつ”は何かを書き、そしてフジワラに見せた。
 ホワイトボードには、こう書かれてあった。

 『おれはアキラ』と――

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 マハジオによる電撃の痺れが抜けきらなく上手く身体に力が入らないところへ、灼熱の炎の玉がシド・デイビスに向かって放たれた。
 炎の精霊・サラマンダーがアギラオを打ってくる。マカラカーンを展開させてはいるがもうすぐこの盾は破られるだろう。シドは、聖書型コンプを開き、自分の仲魔のうち最も強力で最も高位の大天使を喚んだ。

 「マンセマット!」

 すると急に辺りの空気が変わり、シド達をかばうかのごとく大きな黒翼が現れたかと思うと、その黒翼の持ち主である大天使・マンセマットは指先をサラマンダーに向けた。するとサラマンダーは一瞬で氷漬けにされる。マンセマットは仮面の下の表情を変えることなく、更に手を一振りし、氷漬けのサラマンダーを砕いて見せた。
 
 「一体なんです? 貴方ほどの者が私を呼ぶなど」
 
 主であるシドに対し、マンセマットは冷たいと呼べるほどの口調で尋ねた。シドは苦笑した。
 
 「私としたことが、ジオを喰らって身体が上手く動かなかったものでね。で、そっちはどうだ? 地下の侵入者は見つけたのかい?」
 
 シドの問いに、今度はマンセマットが苦笑する番であった。
 
 「ええ、いましたよ。悪魔が一匹と、人間が二人。悪魔の方は何やら私を恨んでいるようで私に向かって攻撃してきましたが、軽くあしらっておきました。しかし、あの悪魔はかなりの手練れ。恐らくヤソマガツヒは今頃やられているでしょうね」
 
 シドの眉間にしわが寄り、マンセマットを睨む。が、睨まれた黒翼の大天使は意に介さず薄ら笑いを浮かべている。
 シドはこう問いかけたかった。何故ヤソマガツヒがやられるのを知ってほうっておいたのか、あの地下の違法薬物製造工場を何故侵入者から守らなかったのか、と。しかし問いかけたところで答えをはぐらかされてしまうだろう。
 このマンセマットという大天使は形式上はシドの仲魔ではあるが、通常の主従関係にない。シドの言う事を一応聞きはするが、その行動はシドにも読めない。今もそうだ。地下の侵入者を見てこいという命には従ったが、それだけである。彼にとってここの地下で行われていることなど興味もないし、ましてや侵入者がいても脅威に感じない。マンセマットに我ら人間の価値観を求めること自体が無意味なのだ。
 シドは嘆息し、現在の状況を推測する。あの九楼重女という少女と侵入者は最初から繋がっていたと考えていい。だからあの少女は「リフレッシュ」の時間にこっそり部屋を抜け出し他の部屋の様子を探ろうとしていた。そして時を同じくして地下の工場施設に侵入者があった。番人として置いていたヤソマガツヒは既に倒されたらしい。
 そもそも何故地下に侵入する必要があったのか。それは「赤玉」の情報が何処かから漏れたからだろう。九楼重女達は最初から「赤玉」の製造方法の入手・世間への暴露が目的だったのではないか。
 だとしたら状況は最悪だ。ヤソマガツヒが倒された今、奴らはコンピューター・ルームに到達している可能性が高い。あそこにはここでの最重要機密である「赤玉」の製造方法が保管されている。もちろんプロテクトはかけてあるが、彼らがそれを破り、製造方法や実験記録などを持ち帰られてしまっていたとしたら……?
 
 「ミスター・デイビス?」
 
 部下の一人がシドへ心配そうに声をかける。が、その時シドは既に決意していた。
 
 「ここを“廃棄”する」
 「え!? 今なんと?」
 「地下の侵入者達に「赤玉」の製造方法を入手された可能性が高い。なにより九楼重女には「赤玉」の製造過程の一部を見られたまま逃げられてしまった。彼女達がこの施設から抜け出す前に、機密保持のため、被験体ごとここを“廃棄”する」
 
 赤玉製造プロジェクト兼この施設の責任者としてのシドの決定の言葉である。しかし部下はまだ納得がいかないようで、シドに食い下がる。
 
 「し、しかし被験体の少年達のほか、ホールや上のクラブに今日も沢山の客が集まっております。彼らに見つからないようどうやってここを“廃棄”するおつもりですか?」
 「ここを全て燃やす」
 
 部下の男は絶句した。
 
 「つ、つまり、関係ないクラブの一般人も一緒に始末する、そう言いたいのですか?」
 「勿論。ここは軍事施設ではないから自爆装置もないしな。跡形もなく全て燃やし尽くした方がヤタガラスのためにはいいだろう」
 「しかし……」
 「忘れるな。私たちは“そういった”仕事を請け負う班だ。君も私の班員になったからには覚悟を決めたまえ」
 
 男はもう何も言わなかった。シドはかまわず「マンセマット、そういうわけだ」と仲魔の大天使に言う。
 
 「君のアギの威力ならこの施設を上のクラブごと焼き払えるだろう。頼む」
 「……やれやれ、そんなことをこの私がしなくてはならないなんて。もっとましな理由で召喚してほしいものですね、シド?」
 
 マンセマットが両手をかざすと、そこには巨大な炎の玉が出来ていた。先ほどのサラマンダーのとは、大きさも、質も、全てが桁違いである。
 
 「シド。君たち人間はさっさと避難したほうがいいですよ? この火に焼かれたいのであれば話は別ですが」
 「言われなくてもそうする。さあ、ひきあげるぞ」
 
 シド達が避難したのを見届けてから、マンセマットは炎の玉を振り下ろした。その炎は死体の山を焼き、酸素を求め荒れ狂い通路を抜けホール、医務室、「リフレッシュ」に使っていた部屋、上のクラブ・ミルトン、更に地下に至る全ての人と物を包み、骨の一片も残さない程の、まさに天の裁きの業火のごとき威力を発揮してみせた。
 そしてその業火の魔の手は、フジワラのいるコンピューター・ルームにまで届こうとしていた。
 
 ―――
 
 「な、なんだ!? 一体何があったって言うんだい!」

 コンピューター・ルームにて、データ抽出を行っていたフジワラの元に、ツギハギと、その仲魔に担がれた血まみれの黒蝿と、ツギハギの肩に担ぎ上げられている同じく血まみれの重女が勢いよく入ってきた。
 目を白黒させているフジワラを尻目に、ツギハギは通路の様子を見て顔を険しくさせる。

 「時間がねえ。フジワラ、ここを脱出するぞ」
 「な、何を急に! まさか私たちの行動がばれたのかい!?」
 「それだけならいいんだけどな……」

 ツギハギは渋面で黒蝿と重女を交互に見る。黒蝿の方は左胸に大きな刺し傷があり、気を失っている。一方重女はスモックのような簡易な服を血で汚してはいるが、目立った傷は見当たらない。意識もあるようで、先ほどから彼女の呼吸音が連続して聞こえてくる。
 恐らく重女がここのヤタガラス職員と戦闘になり、仲魔の黒蝿が重傷を負ったところをツギハギが助けた、というところだろうか。それにしては、ツギハギの様子が変だ。自身の肩に乗っている重女に、怒りとも憐れみともとれない複雑な表情を向けている。

 ――一体、彼女達に何があった?

 問いただそうと口を開きかけ息を吸うと、粘ついた空気が喉に張り付き思わず咳き込んでしまった。視界が白く濁り始め、ここコンピューター・ルームに、焼け焦げる匂いを纏った煙が徐々に入り込んできている。

 「奴ら、証拠隠滅のためにここに火をつけやがったな」
 「何だって!?」
 「恐らくこのお嬢ちゃんが違法薬物の製造でも見てしまったんだろうよ。それか俺たちがここに侵入したのと、お前がコンピューター・ルームで情報を入手したのがばれたか、その両方か……。
どっちにせよ火はすぐここまでやってくる。今すぐ脱出だ! フジワラ!」

 ツギハギの言葉で渋々データ抽出をストップさせ、ノートパソコンを閉じ背中のリュックに入れ立ち上がる。本当なら全てのデータを手に入れたかったが、火が迫っているとなれば話は別だ。フジワラはツギハギと共にコンピューター・ルームのドアを開けた。するとぶわっと濃い煙が襲ってきて、二人は思わず口と鼻を押さえる。
 上の方向は何も見えない程に煙が立ちこめていて、酷く焦げ臭い。だが地下への階段はまだ煙が薄い。これなら侵入の時に倉庫に空けた穴から脱出できそうだ。
 ツギハギを先頭に、重傷の黒蝿を担いだ彼の仲魔の妖鬼・キンキと、最後尾にフジワラが続く。三人と二体は必死に階段を降り、最下層の倉庫へ向かって走った。
 そこで見てしまった。ツギハギの肩に身体を預ける重女が、涙を流し、何事か唇を動かしているのを。その唇の形が、ごめんなさい、という謝罪の言葉を紡いでいたのを、フジワラはしっかりと見てしまった。

―――

 マンセマットの生み出した業火は、シドの命じたとおり、全ての施設を焼き、消滅させていく。逃げ遅れた職員、パーティに招かれていた少年少女達、“赤玉”の材料となる被験体、そしてクラブ・ミルトンで遊んでいた何も知らない客まで見事に燃やし尽くした。
 死体も、生きた人間も、そして薬物の製造工場まで跡形もなく燃やす。魔力の高い者だけが生み出せる黒い炎。それはこの世の憎悪が凝縮されているかのように漆黒で、執拗に対象物を炭化してもまだ燃やし続ける。
 黒い炎に焼かれるクラブ・ミルトンを一目見ようと、野次馬達が集まってくる。駆けつけた消防隊が必死に野次馬達を押さえ、消化活動にあたる。しかし火はなかなか消えない。
 その様子を、三キロ離れた廃屋で重女達は見ていた。距離が離れていても分かるほど、クラブ・ミルトンの炎は強烈であった。恐らく地下の赤玉製造工場も、コンピューター・ルームに保管してあった赤玉の製造方法やそのプロジェクトの詳細も、全て燃やされているであろう。必死に逃げてきたフジワラ達は、悔しそうに炎を見つめていた。

 「くそっ!」

 煤だらけのツギハギが怒りにまかせて廃屋の壁を殴った。乾いた音が鳴る。そんなツギハギを諫めるようフジワラは言った。

 「まあ、落ち着けよ。全部ではないとはいえデータは半分手に入ったんだ。これを元にあそこで行われていたことを暴露させる。手に入ったデータは半分程度とはいえヤタガラスの悪事を暴くには十分で……」

 そこまで話して、ざしゅ、と奇妙な音が後方で聞こえた。肉を斬ったかのように不快な音だ。ツギハギと後ろを向くと、そこには重女が黒い剣で、左手首を思いっきり斬りつけている光景があった。
 
 「おい! お前なにやってるんだ!」

 慌ててツギハギが重女を取り押さえる。重女はそれでも暴れていた。黒い剣を自身の身体に突き刺そうともがいていた。
 自殺――それに思い当たった時、フジワラもツギハギと共に重女を取り押さえた。
 しばらく暴れていた重女だったが、急に身体を弛緩させ動かなくなった。そして喉から湿った呻き声のようなものを発する。
 それは、慟哭であった。声を出せない少女は満腔の謝意を、月夜に向かって声の出ない喉で叫び続けた。自分のせいで死なせてしまった人たち、助けてくれたツギハギ、フジワラ、黒蝿、そして自分に向かって“ダークサマナー”と言い銃弾を放ったシドに、血涙を流しながら、ずっと叫び続けていた。

 このとき、重女は感じた。
 今までの自分はここで死に、新たな自分が産まれるのを。

 そしてあることを決意した。

 その決意は酷く冷たく、おぞましいものだったが、大罪を犯してしまった自分にはこの道しか罪を償えるものはない、と確信していた。

 すなわち、欲望のために力を振るう、“ダークサマナー”への道を歩いて行き、どんな手段を使ってもヤタガラスを倒さなくてはいけないことを――

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 重女の目尻からつっと涙が頬を伝った。それは、歓喜の涙。
 その様子を見た大柄な黒人、シド・デイビスは眉根を寄せた。

 「誰だ? 君は?」

 え、と重女は目を見開いた。重女とシドの視線が交差する。
 よく見ると、シドの姿は鞍馬山で別れた時とは違い、頬がこけて皺も目立つ。初めて会った時は二十代後半くらいの若さだったのに、今では体格こそがっしりしているが、顔は六十代後半か七十代くらいの老人である。

 (ああ、そうか、あれから随分と時が経ってるから……)

 確かに容姿は老いてはいるが、重女は自分を見下ろしている人物がシドだと確信していた。
 黒い肌、緑の瞳、そして――首から下げている銀の十字架。
 あのデザインの十字架のペンダントは、私とアキラとシド先生しか持っていない。三人の絆の証。
 そういえば重女の十字架のペンダントがない。確かに首から下げていたはずなのに、何故か今はない。もしかして没収されたのだろうか。

 『あ、あの……大分時間が経っちゃたけど、私だよ。■■■』

 チョーカーから出る機械音声を聞き、シドの眉の間の皺が深くなる。
 そうだった、私は黒蝿に名前を奪われていて、自分の名は声に出すことも文字で書くことも出来ないのだった。

 『あ、あの、教会で私達会ったよね? 聖書も貰ったし、神様の事や悪魔や天使の事とか色んなこと教えてくれたよ。そして一緒に鞍馬山に……』

 シドは何も言わない。周りの医者や男達は怪訝な顔で重女を見ている。

 『あ、あと、それから――』
 「すまないが、君の事を思い出せない」

 重女の言葉を遮りシドは冷たく言う。その声音と表情は重女の知っている温厚なものではなく、まるで虫けらでも見るように見下ろしている。何故? 何故そんな冷たい顔をしているの?

「九楼、重女さんだね。君は私を別の誰かと間違えているのでは?」
『ち、違う! 間違えていない!』

 聞くに堪えかねて重女は声を荒げた。起き上がろうとしたが手足を拘束している革ベルトがそれを邪魔した。

 『だ、だってシド先生、私とアキラに十字架のペンダントをくれたよね? 三人お揃いのペンダント。今シド先生が首から下げているのと同じ』
 「!」

 シドの眼が少し見開かれた。無表情の仮面が少し割れ、少しの驚愕の色が顔に現れた。

 「ミスター・デイビス。この子と知り合いですか?」

 部下らしき男がシドに聞いてくる。シドは顎に手を当て何かを考えている。その癖も昔のシド先生と同じだ。やっぱりこの人はシド先生だ。
 なのに先生は私の事を覚えていないようだ。やっぱり五十年近く会ってないから私とアキラの事を忘れちゃったのだろうか。

 「……………」

 じっと、じっくりとシドはストレッチャーの上の重女を見る。眼鏡の奥の瞳は初めて会った時と同じ深い緑色だが、その色が少し濁っているような気がした。

 「……悪いね、重女さん、だっけ? 私と出会ったと言っているが、私は残念ながら覚えていない」
 『そんな!?』

 重女は落胆した。きっとシド先生も、どんなに時が経っても私達のことを覚えてくれていると思っていた。でもそれは私だけだ。シド先生にとって私とアキラはそこらへんのただの子供と思っていたんだ。私はずっとシド先生の事を覚えていたのに……

 「ミスター・デイビス。これがその子の所持品です」

 部下らしき男がうやうやしく箱を捧げる。その箱には重女が身に着けていたもの、ワインレッドのワンピース、少し大きめのサイズのハイヒールにバック、バックの中に入っていた化粧品やハンカチや穿いていたパンスト、ポケットティッシュまでもが入っていた。
 その中に確かにあった。重女が肌身離さずつけている、シドのと同じデザインの十字架のペンダントが。
 シドはそれを手に取り、じっくりと眺めた。

 「確かに私のと同じようだが……やはり私は君のことを覚えていないよ」
 『……!』

 まるで自分の身体が奈落へ落とされたかのように、強烈な虚脱感が重女を襲った。そんな……私はシドに会いたくて、話がしたくて何度もアマラ経絡で色んな時間を辿ってきたのに、折角会えたのに、こんなのって……

 「まあこの事は後にしておこう。それより“赤玉”の生産状況が追いついていないと聞いたが?」
 「はい、そうです。神経伝達物質はいくらでも採取できるのですが、肉の方が足りないのです。やはりもっと“畑女”と“種男”を増やしたほうが……」

 シドは完全に重女に背を向けて部下と何か話し合っている。重女は静かに泣いた。先程とは違う、悲しみの涙が頬に新たな筋をつける。

 ――なんで? シド先生……私はどんなに貴方に会いたかったか。なのに……こんなのって……

 「ねえ、君」

 ぐすぐすと泣いている重女の顔をシドは覗く。こんな顔を見られたくなく思わず横を向いた。涙を拭いたい。だけど手足が拘束されているので出来なかった。

 「君は、なんでアマラ経絡をあんなに造りだしたんだい?」

 シドが問う。なんでそんなことを聞くんだろう。それは元の世界に戻って貴方に会うため。しかし重女は答えなかった。だって、そんなこと言っても私のことを忘れてしまった貴方には伝わらないから。

 「私達はね、ずっと君がアマラ経絡をつくって時空を横断していたのを知っていた」

 重女は驚愕のあまり目を大きくした。知っていた? 私達がアマラ経絡を造って時間移動を繰り返していたのを。

 「本来、アマラ経絡を使って歴史に干渉するのは許されない。それに、いくつもの経絡が開きっぱなしだと、そこから悪魔が出てきて人間を襲う可能性があるからね。君が造り上げた経絡を閉じていくのはなかなか骨が折れたよ」

 あ、と重女は気が付く。そういえば私は経絡を造りっぱなしにしていた。経絡はいつも自然に閉じていたからそういう仕組みなのだと思っていた。だから、シドが毎回閉鎖してくれていたなんて思ってもみなかった。でも――

 「アマラ経絡を無作為に造りだすのは褒められたものじゃない。本来なら君はとっくに我々に捕らえられているはずだった。でもヤタガラス上層部は君を“わざと泳がせることにした。”どうしてだと思う?」

 わざと泳がされていた? いくつものアマラ経絡を造った私は本来なら捕まえられて裁かれなくてはいけないらしい。でもなぜ“泳がされて”いた?
 返答に詰まった重女を見ながら、シドはふう、と溜め息をついて、額に手を当てる。

 「それはね、君が平安時代にアマラ経絡を結んだことと関係する。
 君は気づいていないだろうが、霊鳥・八咫烏を使って当時の帝を悪魔から救っている。
 八咫烏を従える君を天からの遣いと勘違いした帝は、あの稀代の陰陽師阿部晴明を筆頭に、「ヤタガラス」という魔をもって魔を討つ組織を結成した。それが、我々の組織「ヤタガラス」の前身というわけだ」

 口の中が緊張でカラカラだ。平安時代に黒蝿を使って百鬼夜行から人助けしたことは覚えているが、まさかその人物が帝だったとは。
 これでわかった。私が捕縛もされず「ヤタガラス」に泳がされていたのは――

「もうわかったかい? 君が起こした行動で、「ヤタガラス」は生まれたのだよ。
 当時の文献にも残っていた。帝が百鬼夜行という鬼や悪魔の行列に襲われたとき、天照大神の遣いが八咫烏を従え、帝を救ったと書かれてあった。この遣いが、時間移動を繰り返していた君だと上層部は見抜いていた。だから君への干渉が何一つなかったのだよ。君がいなくては我々「ヤタガラス」も生まれないからね」

 なんと言葉にすればいいのかわからなかった。私がアマラ経絡で時空を旅したせいで現代に影響が出るだなんて、ちょっと考えればわかるはずなのに。今までその可能性を考えなかった自身を恥じた。

 「でも、それも今回で終わりだよ」

 重女はまたしてもシドを凝視した。まるで悪戯がすぎた子供に罰を与える教師の様に、その声音は冷たい。
 するとシドが手を伸ばしてきて、重女の首に指を這わせた。その感覚にぞくりと肌を粟立たせると、次の瞬間、首元の咽喉マイク入りチョーカーが無理やり外された。

 「!?」

 声の出ない口をぱくぱくさせながら重女は抗議しようとしたが、ひゅう、ひゅうと喉は木枯らしのような音しか出さない。今奪われたチョーカーがないと声が出せない。シドもそれを知っているからチョーカーを奪ったんだ。

 「もう君は用済みってわけだよ。九楼重女。君は“赤玉”の材料を産んでもらう」

 ―――

【クラブ・ミルトン:コンピュータルーム】

 暗号解読された機密文書「悪魔召喚簡易化による“赤玉”製造プロジェクト」の概要を読み終えたフジワラは絶句していた。
 簡単に言うと、“赤玉”なる物質を製造し、悪魔召喚師ではない普通の人間にも、赤玉を悪魔に渡すだけで簡単に悪魔を従えることが出来る、という計画だ。
 この計画はとても古く、1960年代後半から始まっている。一時冷戦の影響や人手不足、そして景気破綻により中止されたが、去年からまたこのプロジェクトは再開された。責任者の名前はシド・デイビスと書かれている。

 ここまでならちょっと変わった計画にしか見えないが、問題は“赤玉”の製造方法についてだ。

 赤玉製造に必要なのは、人間の肉と、ドーパミンなどの神経伝達物質。その二つを混合することによって生み出される。
 人間の肉で最も質がいいのは生まれたての赤ん坊の肉だ。“種男”と“畑女”と渾名された男女を交配させ、畑女の胎内の赤子に促進剤を打ち、十月十日を待たずして出産させ、その嬰児の肉と、ヤタガラスが選んだ被検体、成長期の少年少女の脳内から抽出された神経伝達物質を混ぜ合わせれば赤玉の完成だ。

 こみ上げてくる怒りと生理的嫌悪感を我慢して、フジワラは続きを読んだ。

 それによると、神経伝達物質を吸い上げるのは一度ではなく二度、三度と何回かに分けて行うらしい。それは一度に抽出すると物質が壊れてしまう可能性があるのと、被験者の神経伝達物質を一度に全部抽出されると、彼、彼女らは廃人となってしまい「処分」しなくてはいけない。そうするとこの計画が外部に漏れる恐れがある。
 こんな倫理観に欠ける計画が世間に知れたら、世論は「ヤタガラス」を叩くだろう。それを避けるため、このクラブで毎週パーティを開き、被検体の少年少女らを招いて、彼らに気付かれないよう少しずつ神経伝達物質を「リフレッシュ」の時間に採取する。

 (成る程、だから私が見たパーティ帰りの客はどこかおかしかったのか)

 あんな子供相手になんてむごい事を……フジワラは眉をしかめ、パソコンの画面をスクロールしていく。そこにはこの計画の報告が書かれていた。

 ≪被献体M-16、抽出歴一年:脳内環境:B(※前頭葉に損傷軽微)≫
 ≪被献体F-19、苗床から苗を収穫。:脳内環境:C(※海馬に損傷確認)≫
 ≪新たな被献体6名入所。うち3名を畑女と種男に登録≫
 ≪被献体F-18、苗の芽吹きを確認。しかし流産。新たな種男と交配させる≫

 読んでいて胸がムカムカしてきた。畑女と種男、そんな呼び名で赤玉の材料たる嬰児を産ませ、その事を“苗床から苗を収穫する”と表現している。これじゃあ牛や豚などの家畜と同じじゃないか。やはり「ヤタガラス」は外道そのものだ。国を守る超国家機関が聞いて呆れる。
 とにかく、このデータを抽出し、公の場に公表しないと。今こうしている間にも被害者は増え続けているのだから。
 データ抽出のための用意をフジワラが行っている時、急に耳のインカムに通信が入った。「はい、こちらフジワラ」

 〈フジワラ、無事か!?〉

 ツギハギの大きな声が鼓膜を揺らす。良かった、ツギハギ達は無事だったのか。

 「こっちは現在コンピュータールームにてデータ採取にとりかかっているよ」
 〈データ?〉
 「このクラブでの、いや、「ヤタガラス」の悪事の証拠さ」

 応答しながらフジワラの手は止まらない。凄いスピードでキーボードを打っている。

 〈やっぱりあったか。どうもきなくせえと思っていたんだ。それは違法薬物のか?〉
 「いや、ちょっと違う。詳しくはここを出てから言うよ。長くなりそうだしね。それより、そっちこそ大丈夫かい?」
 〈ああ……まあな。無事あいつを倒したぜ。傷一つおっちゃいねえよ〉

 少しだけツギハギの声のトーンが落ちた。なんだ?

 「なにかあったのかい?」
 〈べ、別になんでもねえよ! それよりあのお嬢ちゃんはどうした? まだ合流できていないのか?〉
 「ここのデータ抽出が済んだら合流するよ。それにしても心配だな。彼女、危険な目にあっていなければいいんだけど」
 〈その事だが……〉

 急にフジワラとツギハギの会話に誰かが入ってきた。やたノ黒蝿だ。
 
 「やあ、黒蝿君。無事でなにより」
 〈ああ、それよりあいつの気配が感じない。数十分前を最後に行方が分からなくなっている〉

 フジワラは思わずキーボードを叩く手を止めた。

 「気配が消えたって……それってまさか……!」
 〈恐らく、何者かに拉致されたんだろう。そして魔法の使えない場所に連れて行かれたか……〉

 フジワラは眼鏡を取り、汗でべたべたの手と顔を拭いた。ブラックジャック対決の時、重女に渡したハンカチで。後に重女は、律儀にやや恥ずかしそうに洗って返してくれた。その時見せた年相応の柔らかい照れ顔がフジワラの脳内に焼き付いている。

 「それは穏やかじゃないね、目立つ行動は避けたかったけど、重女さんを見捨てるわけにはいかない。黒蝿君、ツギハギ、彼女を救出に行ってくれ」
 〈あんたはどうするんだ?〉
 「私はさっき言った通り、ここでヤタガラスのデータを抽出するよ。僕が助けにいっても足手まといだろうからね。重女さんの救出は君たちに任せるよ」
 〈了解した〉
 〈まかせとけよ相棒! お嬢ちゃんは必ず救出するからよ!〉

 それを最後に通信は途絶えた。あの二人の戦闘能力ならどんな敵でもやっつけるだろう。問題は重女だ。黒蝿も感知できない場所に連れて行かれた……それは何の理由で?
 フジワラはふとさっき見た情報の中に、“畑女”という単語があったのを思い出した。赤玉の材料となる赤子を産ませるために“種男”と交配させられる存在。

 ――まさか!

 ぞっと、全身の毛が逆立つような感覚に襲われる。まさか、「ヤタガラス」は重女さんを“畑女”にするために別室に連れて行かれた――!?

―――

 シドが薄ら笑いを浮かべながら退室していく。部下の男と一緒に。待って、貴方には聞きたい事、話したいことが山ほどあるの――
 しかしその言葉は声にならなかった。咽喉マイクをはがされ、声を出せない状態に戻った重女には、他者に気持ちを伝えることができない。そうこうしているうちに、重女の乗せられているストレッチャーに、医師や重女と同じスモックの様な簡易服を着ている男数名が集まってきた。男達の目は虚ろで、どこを向いているか分からなかった。

 「可哀想だとは思うけど、これはミスター・デイビスの命令なんだよ。君を新たな畑女にしろって」

 畑女? なんだろうそれは。どこかで聞いたような気もするが……

 すると急に医師が重女のスモックの腕の部分を捲し上げる。医師の手には注射器が握られていた。
 注射器をみせられ、ざわっとした危機感が重女の脳を刺激した。やばい、これはやばい! 逃げなくちゃ!
 しかし必死に逃れようとしても手足の拘束ベルトは一向に緩まず、ストレッチャーがぎしぎしと音を立てただけ。暴れる重女を他の医師や男達が押さえる。そうこうしているうちに二の腕をゴムで縛られ、血管の位置を確かめた医師は、重女の皮膚に針を突き刺した。

「――――!!」

 薬剤が体の中に入ってくると、強烈な眠気が沸き上がってくる。同時に身体が弛緩し、重女は目蓋をあけていられない。眠ってはだめだ、自分を強く持て、誘惑に惑わされちゃ駄目だ。
 そう、いつだってそうしてきたじゃないか。強くなければ。強くなければ母やアキラを守れない。私が強くなって、私達を傷つける者をやっつけなきゃ。

 ――やめて、そんなことしないで!

 母の声が聞こえる。仕事帰りにたまに米兵を家に上げさせていたお母さん。プライベートでも、母は身体を売っていた。だけど中には乱暴な客もいて、そういう時、母は客を拒絶する。だが誰も母のいう事を聞いてくれなかった。客を喜ばすため、母は不承不承に事に及ぶ。
 母の拒絶の声を、重女はドア越しに聞いていた。私がもっと強かったら、きっとお母さんを助けてあげられたのに。
 悔しい。力がないってこんなにも惨めで辛い事なのか。

 ――私が君達を愛している。それが理由だよ

 暴言を吐いてしまった私に、シドが十字架のペンダントをくれた。私達のことを愛している? なら何故私を拘束するの? 何故何も覚えていないの?
 甘い香りがする。脳までとろけてしまいそうな濃厚な甘い匂い。匂いは重女の心の奥まで届き、そして感情を増幅させる。

 ねえ、なんで私はこんなに弱いのかな? 大切な人も守れず、信じていた相手にも裏切られた。悔しい。私に、もっと力があれば――

 ――貴女が持つのは花ではなく、その“剣”が相応しい。戦いの女王は、武器を持って戦うからね

 今度はフジワラの声が聞こえた。ブラックジャック対決の時、彼は重女のことをスペードのクイーンだと比喩していた。あの時のカードは、スペードのクイーンに、スペードのエース。スペードのエースは剣を意味している。強い力の象徴たるカードは、今、手元にある。

 そうだ、私は強い力を手に入れたんだ。どんなものでも切り裂く最強の剣。これならどんな敵でも殺せる。

 ――重女さん。黒のスペードのエースには死の意味もある。強い力は貴女を助けてくれるだけじゃなく、扱いを間違えると、とてつもない不幸を招くかもしれない

 またしてもフジワラの声。大丈夫だ。私は間違えたりしない。この剣で私達を貶めてきた奴ら全員を殺すことが出来る。もう何も出来なくて泣いていた昔の自分とは違うんだ!
 私はスペードのクイーン、戦いの女王。そして今、最強の武器たるスペードのエースを手に入れた。

 ――私は、もう負けない!!

 ―――

 重女のスモックを脱がしはじめていた医師は、彼女の異変に気が付いた。
 彼女の周りに黒い風の様なものが巻き上がる。風はそれ自体が意思を持っているかのごとく、重女のストレッチャーの周りに渦を巻いている。

 「なんだこれは!? 魔法か?」
 「いや、そんな事はあり得ない。この部屋は一切の魔法が封じられるようにしてある」
 「しかし、これは一体……」

 おろおろと戸惑っている医師の一人の脳天に、黒い剣が刺さった。闇を凝縮したような濃い黒い剣。医師は何が起きたかわからないまま死んだ。床に血だまりが広がり、脳漿が散らばる。

 「なんだ! なにがおきたんだ!」

 そう言った医師も、今度は黒い剣で袈裟切りにされた。身体を真っ二つにされた医師は血を噴水のように溢れだして絶命した。
 白く、清潔であった部屋は今や血と臓物で汚れている。革ベルトによる拘束を解いた重女はぴちゃり、と血だまりに足をつけた。黒い剣を持ったままで。

 「お、お前! 一体何をした! どうやって拘束をとき――」

 そう言った男も心臓を貫かれた。男は苦悶の表情のまま絶命し、重女の足元に倒れた。
 男の手がたまたま重女の白い足に触れたので、重女は少し眉を寄せ男の死体を蹴った。まるで汚物を見るかのような暗い瞳で重女は男達の死体を睥睨した。
 それから、椅子にぐったりと拘束されている少年少女たちの頭に刺さった管を全部抜いてやった。そして管が繋がれている冷蔵庫のような大きな箱を、剣で斬りつける。何度も斬りつけると、箱は火花を散らし、その機能を停止させた。

 重女は先程殺した医師の内ポケットを探る。あった、リボルバーM60が。

 回転式拳銃を握った途端、重女は精神が高揚するのを感じた。その気持ちに呼応するかのように、黒い影がぐるぐると重女の周りでじゃれ合う犬の様に回る。

 ――ほら、やっぱり。今の私は強い。もう無力な子供じゃない。この銃と剣さえあれば、どんな奴らもひれ伏させることが出来る!!

 重女は返り血にまみれたまま、スモックと裸足のままで部屋から抜け出した。微笑を浮かべたままで。

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 「本当に一人で大丈夫ですか?」

 男の心配そうな声を背後に聞きながら、重女はそっとプラネタリウムが上映されている部屋を抜け出した。

 『大丈夫です。医務室の方向は覚えています。だから一人で行けます』

 重女は包帯の巻かれた右手をさすりながら答えた。
 まだ何か言いたそうな係の男を置いて、重女はいかにも具合悪そうにふらふらと廊下を歩く。
そして角を曲がると、重女はハイヒールを脱ぎ、他の部屋を探すため走った。ストッキングのせいで滑らないようにと、他のスタッフに見つからないように、忍び足にならざるを得なかった。

 プラネタリウム上映は心地よかったが、自分はそんなものを見にここに来たわけではない。このクラブで行われているらしい違法薬物の製造、流通の証拠を押さえなければならない。重女は他の部屋で行われている「リフレッシュ」の内容を知るため、冷たい廊下を走る。
 たしか「リフレッシュ」の内容は軽い運動プログラムに、重女もいたプラネタリウム上映、個人によるカウンセリングなど多岐に渡るが、重女が一番怪しいと思ったのは「心身正調プログラム」だ。
 なんでもそのプログラムは心と体の不調をとるために特別な“施術”を行うらしい。しかしその施術の内容は明らかにされておらず、参加者も一番多いプログラムだった。
 心身の調整と謳っておきながら、実は参加者達を違法薬物漬けにしている可能性が高い。女の勘とでもいうのは意外と馬鹿にできないのだ。

 それに――重女は少し引っかかることがあった。ホールで出されていた「赤玉」という食物。悪魔専用のその食べ物は一体何なのか。違法薬物と関係あるのではないかと読んでいた。
 しかしどうやって赤玉や違法薬物の正体を探る? 闇雲に行動を開始したはいいが、次にどうやって動けばいいか重女は失念していた。

 (そういえば、黒蝿達は、もうここに侵入したのだろうか)

 フジワラやツギハギ、黒蝿が外から、重女が中からクラブの暗部を探るのがこの作戦の主な要綱。と、いっても実質重女が作戦の中心なのだ。当然だ。クラブの中に正々堂々と入れるのは重女ただ一人だけであるから。
 とりあえず、重女は「リフレッシュ」が行われているらしき一つの部屋のドアをほんの少し開けて覗く。
 真っ暗な部屋だった。先程のプラネタリウム室の様に朧げな光すら感じさせない、真実の闇が部屋中に満ちているようだ。
 それでもじっと目を凝らしていると、何人かが寝椅子に身体を預けてぐったりしているのが輪郭だけ見えた。彼らはこの暗い部屋で何をしているのだろう。
 もっと見てみようとドアから身を乗り出した途端、嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔をついた。先程のホールに充満していた甘ったるい胸やけがする匂い。しかしここのはホールのより濃密で、重女は少し嗅いだだけで物凄い睡魔に襲われた

 (な、なに、これ……?)
 
 視界がぐにゃりと曲がり、足元は底なしの沼に落ちたかのようにきちんと立っていられない。頭の奥から闇が襲ってきて、それは重女の全身を支配する。
 眠っては駄目だ。そう理性が叫んでも身体の本能が遥かに勝っていた。重女はその場にくずおれ、気絶するかのように眠りについてしまった。
 眠りにつく瞬間、誰かの黒く光るエナメル質の高級そうな靴を見て、ああ、ドジを踏んでしまった、と思い、靴の持ち主に身体を抱きかかえられる感触を最後に意識を手放した。自分の身体を持ち上げた人物の手は、大きく温かかった。

―――

【クラブ・ミルトン:コンピュータルーム】

 「ここは……!」

 黒蝿達と別れ、上級作業員カードで上の階へ向かったフジワラは、地下一階でコンピュータールームと書かれた場所を見つけた。
 そこは手持ちのカードでは扉は開かない。なので背中のリュックに持ってきた小型ノートパソコンを取り出し、ケーブルをドアの開閉端末に繋ぎ、自作ソフトでハッキングし無理やりドアを開かせた。

 重厚な音が響き、電子扉が開く。そこに現れた光景にフジワラは目を見張った。
 何十台ものコンピューターが左右の壁を占め、無数のコード類が床に錯綜している。すなわちここは「クラブ・ミルトン」の頭脳というわけだ。
 これだけのスパコンや電子機器。ここに違法薬物の生成法などが保管されているとみて間違いなさそうだ。
 フジワラは早速一つのスパコンにケーブルを繋ぎハッキングを試みる。しかし相手もなかなかの強固なシステム。だがここまで来たんだ、負けるわけにはいかない。
 フジワラは自らのハッキングテクニックを全て費やし、なんとか情報深度レベル7まで到達した。

 「さあ、ゆっくり見せてもらうよ」

 エンターキーを押す。しかし映ったのは暗号の羅列。がっくりと肩を落としたフジワラは、またしてもリュックをあさり、自分以上のハッキングテクニックの持ち主を取り出した。

 「ミドーさん、お休みのところ悪いですが、起きてください」

 聖書型コンプを開き、ミドーの名を呼んだ。コンプは登録されている音声を認識し、悪魔召喚プログラムを司るミドーという老人を呼び出した。と、いっても生身の人間が出てくるわけではない。かつて悪魔に魅了された男は今は電脳世界に思念体だけで存在しており、呼び出されたときは荒いポリゴンドットの白鬚のサングラスの老人の映像が現れる。

 〈なんじゃさっきからうるさいのう。今度はなんじゃ?〉
 ゆらり、ゆらりと崩れかけの上半身を揺らすミドーに、「すみません」とフジワラは謝る。

 「でも今は貴方の力が必要なんです。これを見てください」

 自作のノートパソコンのディスプレイをフジワラはミドーに見せた。暗号のプロテクトがかかっており、ここから先は自分の力ではプロテクトを解除することができないということを告げると、ミドーはふふん、と得意げに身体を一回転させた。

 〈私とお前さん、二人がかりならこんなちゃちなもんすぐ壊せるわい〉
 「ほ、ほんとですか!? よし、なら早速取り掛かりましょう!」

 ミドーとフジワラによる暗号解除のための作業が開始された。最初は意味不明な単語と文字の羅列が徐々に意味のある言語へと変わっていく。そのほとんどの作業をミドーが負担していた。さすが悪魔召喚プログラムをつくっただけはある。
 ミドーとフジワラの作業が終わると、ディスプレイには最重要機密が記されていた。フジワラは眼鏡を外し顔と手の汗を拭きながら、ミドーにお礼を言った。
 厳重にプロテクトされていた情報の一番上の文字を、フジワラは声に出して読んだ。

 「悪魔召喚簡易化のための“赤玉”製造プロジェクト?」

―――

 「君は、人間と悪魔が共存することはあり得ると思うかい?」

 いつもの教会。ステンドグラスから柔らかな光が差し込む中、シドが唐突に聞いてきた。
 私は、シド先生の顔を見る。黒い肌に眼鏡の奥の緑色の瞳は、じっと見ていると吸い込まれそう。

 「私は、無理だと思います」

 はっきりというと、シド先生は「何故?」と問う。なぜって、そんなの決まっている。

 「悪魔は人間に害をもたらす存在でしょ? シド先生がそう言ったんだよ。そんなのと一緒に暮らせるなんてありえないよ」

 悪魔。人間を誑かし貶める最悪の存在。私達はこの悪魔の誘惑に決して乗ってはいけないとシド先生に教わった。なのに、何故先生はそんなことを言い出すのだろうか。悪魔と人との共存、だなんて。
 シド先生は私の回答を聞いて満足そうに微笑んだ。

 「そうだね、そう考えるのが普通だ。なら、君は天使となら共存できると?」

 言葉に詰まってしまう。
 悪魔は悪い奴で、天使は良き者。大雑把に言うとそういうくくりになる。だけど、いくら良い者でも全く違う種族の者が一つの世界で生きられるものだろうか。同じ人間だっていがみ合い憎しみ合っているというのに。
 それに――

 「私は………天使が本当に良き者か分からないのです」

 顔を俯けたまま答えたのでシド先生の顔は見えない。だが、少しだけ息を飲む気配が伝わってきた。

 「その……もちろん聖書にはそう書いているし、皆天使は神の遣いって崇めるけど、私にはその神様が良く分からないのです。こんなこと言うと怒られるかもしれないけど、神様って本当にいるのかなって思うんです。その遣いの天使も。だから……」

 「だから、天使とも悪魔とも人間は共存できないと?」

 先生が問う。その言葉には叱責はなく、本当に疑問点を聞いているだけという感じであった。

 「…………はい」

 膝の上で手を組みながら、消え入りそうな声で私は返答する。なんだろう。別に叱られているわけじゃないのに、何故私は居心地が悪いんだろう? やっぱり、私の回答が間違っていたから? シド先生は怒っている? そもそもなんでこんな質問を先生は私にしてきたのだろう。

 「ふむ、大多数の人間はそう考えるし、私もそう思う。所詮天使や悪魔は次元の違う存在。共存なんていうのはどだい無理だと思うよ」

 でもね、とシド先生は続ける。

 「共存じゃなく、我々人間が天使や悪魔を従えることができたら?」

 ばっと、私は驚いて先生の顔を凝視する。シド先生は薄笑いを浮かべ、決して冗談を言っているわけではないとその目は言っていた。
 従える?  馬や犬の様に? 悪魔や天使を? そんなの――

 「無理に決まってます」
 「何故?」

 間髪入れずの問い。私は言った。先程と同じく天使や悪魔は我々人間とは違う世界の存在。それを共存どころか従えるだなんて、おこがましいにもほどがあると。
 その答えを聞いて、シド先生は顎に手を当てゆっくりと頷いた。

 「そうだよね、無理に決まっているよね、“今の段階では”」

 私は首を傾げる。“今の段階では”? まるで将来的に天使達を従えられるとでも言いたいのだろうか。

 「シド先生、なんだか今日は変だよ。どうしてそんなこと言い出したりするの?」

 陽の光が採光窓から十字架を照らし出す。祭壇の一番上にある十字架。それに磔にされている救世主。シド先生の顔は逆光で良く見えない。だけど光のせいで、まるで先生が十字架を背負っているように見える。

 「何故って? それが出来たら私達は神への道を歩むことが出来るかもしれないんだよ」

 陽光がシド先生の顔に陰影をつける。彫刻の様に整った顔立ちを一層強調し、突拍子もない事を言っているのに、まるでそれが本当に出来る事だと思い込ませてしまう。先生の言葉には、そんな力と優しさがあった。

 「しかしそのための手段を、まだ人類は完全に会得できていない。なら、人類はそろそろ禁断の果実をかじる時ではないかい?」
 「禁断の果実?」

 最初の人間アダムとイブがかじったとされる果実? その果実を食べたせいで人は知恵をつけ神に楽園を追放された。その果実を再び齧る? わからない。私にはシド先生の言っていることが良く分からない。いつも優しいシド先生が遠くを見ている。私以外の何かを見ている。

 なんだか怖くなった私は教会から出ようと試みた。だが私の手をシド先生が掴み、そして自らの方へ私の身体を引き寄せ、耳元でこういった。

 
 「君はね、その禁断の果実になるんだよ」続きを読む

 右手と左手の人差し指と親指で小さな四角を作り、重女は満天の星々を指のフレームから覗いた。
 そこから見えるのは、自分の指によって切り取られた星の絵画。
 これは昔からの癖で、重女は星空を眺めるのが好きなのだ。

 きっとそれは幼い頃、昼間に外出することが少なく、夜、近所の住人達がいなくなった公園で母と二人で遊んでいたせいかもしれない。

 頭上を見上げると、真っ暗な夜空にキラキラと光る星が沢山ある。それが不思議で、幼い重女はまるで宝石みたいだと母に伝えると、母は優しく笑いながら「あれは世界で一番大きくて綺麗な宝石箱よ」と言った。
 母の愛のある嘘を重女は信じた。大きな宝石箱。その箱の広さには終わりがなく、納められた宝石もどれくらいあるか検討もつかない。箱には一番大きくて光っている宝石が一つあり、その白い宝石は見るときによって形を変える。お日様程強くはないけど、周りの小さな宝石や、それを眺めている自分さえ朧気に照らす。

 「世界一大きく綺麗な宝石箱」は、ずっと眺めていると自分が地から浮いて吸い込まれてしまうほど広い。それが怖い重女は、両手でそっと輪を作り、そこから宝石箱を眺めた。
 手で作った小さな窓から覗くと、得体の知れない浮遊感も飲み込まれそうな恐怖心もなくなり、手の枠の分の宝石が、夜空というとてつもなく大きな箱から自分の心の中の宝石箱に移ったような気がして、重女の胸もキラキラする。星という宝石の輝きを自分のものにしたくて、重女は晴れた夜空を見上げる時は必ず手や指で小さな窓を作り、星々や月の輝きを切り取っていた。
 今も寝椅子に座りながら指の窓から星を見上げる。美しい天の川が見える。無数の星が集まり形成される輝く川。だけどこれは人工の光で出来た星空だ。

 「………」

 重女は首を回し、部屋の様子を観察する。
 天井が高いこのプラネタリウム室で「リフレッシュ」を受けている若者達は、ふかふかした寝椅子(リラクゼーション・チェアーというらしい)に深く座り、天井に映し出されている満天の星空に見入っている。
 人数は二十人程。女性が多く、何故か悪魔はいない。その中にはホールで一緒の席に座ったあの派手な少女もいる。彼女はホールでオニとじゃれあっていた時とは打って変わって目は半開きで口も開けたまま天井を見ている。まるで呆けているかのようにみえるが、きっとリラックスしているのだろう。
 この部屋はプラネタリウム上映の為照明はついていなく、専用の機械から天井に投影される星々の輝きが微かに自分達を照らし出し、静かで美しいBGMが流れ、ホールで嗅いだあの甘ったるい違法薬物の香りではなく、爽やかな胸のすくような香りが漂っている。リラックスするのも無理はない。ただ重女はこの爽やかな香りも違法薬物の可能性があるかもしれないと思うので、ハンカチで鼻と口を覆い最小限の呼吸しかしないよう努めている。

 《私達の間に起きた出来事を、最初から親しく見た人々によって、御言葉に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き下ろそうと多くの人が手を着けましたが、テオピロ閣下よ、私も全ての事を初めから詳しく調べてありますので、ここにそれを順序正しく書き綴り、閣下に献ずることにしました。すでにお聞きになっている事が正しく確実であることを、十分に知っていただきたいためであります》

 BGMに混ざり、いきなり男の声が部屋中に響いた。重女は少し驚き上体を起こす。星にまつわる話ならともかく、何故プラネタリウムに新約聖書が朗読される?
 重女は辺りを見渡したが、ホールで一緒だった少女も他の皆も特に驚いたりせず天井を見上げている。もしかして、皆寝てしまっているか、この声に気付かないほど星を見るのに集中しているのだろうか。あるいはこれが新約聖書の詩だと気づいていないのかもしれない。
 声は静かに、新約聖書のルカによる福音書の第一章を読み続ける。ザカリヤとエリザベツという不妊に悩む年老いた祭司夫婦の話。子が出来ないザカリヤの前に主の使いとしてガブリエルが現れ、こう言うのだ。

 《おそれるな、ザカリヤよ、あなたの祈りが聞き遂げられたのだ。あなたの妻エリザベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名付けなさい。彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を祝うであろう》
 《わたしは神の御前にたつガブリエルであり、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために遣わされたのである。時が来れば成就する私の言葉を信じなかったから、あなたはおしになり、この事が起こる日まで、ものが言えなくなる》

 その後エリザベツが身ごもり、神に対し感謝の言葉をつげる、というのを、男の声はスピーカーから淡々と語る。
 ガブリエル、と聞き、重女は右手を天井に伸ばした。
 こことは別世界の、東のミカド国というところで、“ガブリエル”という異形の姿の大天使に食いちぎられた右手。アキラが自ら犠牲になって蘇らせてくれた手は、左手と比べるとやや大きく、指も長い。まるで男のように。

 そっと、左手と右手の掌を合わせてみる。丸みを帯びた左手と比べて、右手の方が節ばっており、ややごつごつしている。そして五本の指全てが左手より長い。左右の指を絡めてみる。まるで男女が愛し合うように手を繋いでいるみたいだ。

 右手の違和感に気付いたのは最近になってからだ。
 まだ東のミカド国にいるときは、両方の手は同じ大きさだった。それが時間が経つうち、徐々に右手に変化が現れた。丸かった手の甲は面積が広くなり、短く細い指は段々と伸びてきて、関節の部分が節くれだってきた。そして気がつけば、左手は女性の、右手は男性のそれになっていた。
 アキラとの合体のせい――重女はすぐ原因がわかった。悪魔合体プログラムは、本来人間には適応されない。いくら遺伝子の似ている弟でも人間同士が悪魔合体プログラムを使えば、本当なら悪魔でも人間でもないただの肉の塊ができるはずだった。
 それが天文学的確率で私は人間として復活した。失われたはずの右手と両足を持って。
 この右手と両足、そして流した血はアキラが自らを有機体に変えて蘇らせてくれたもの。だけど、わかっていた。
 ――禁忌を犯すと、必ず“歪み”が生ずることを。

 絡めあった指を解き、今度はうんと両腕を伸ばしてみる。やっぱり。右手の方が少し長い。今は照明が暗くてわかりづらいが、肌の色も右腕の方が若干白い。アキラの手の様に。

 「………」

 足掛けに乗せた両足を眺める。この潜入の為にハイヒールを買おうとしてデパートの婦人靴の店に行ったら、殆どの靴のサイズが合わなかった。前は24センチで足りたのに、今はそのサイズだと足が全部入らない。
 結局大き目のサイズを扱っている靴屋へ行き、25.5センチでようやく入った。
 だけど本当はほんの少しだけキツイ。日々成長しているのだろう。この足の“本当の持ち主”であるアキラが成長期真っ盛りの少年だったから。
 きっと、もうすぐ私はハイヒールもパンプスも履けなくなるだろう。男性用の大き目の靴を履いて、左右で長さも掌の大きさも違う手で生活しなくてはならないだろう。
 でも、私は悲しいとは思わない。寧ろ弟を身近に感じることが出来て嬉しいくらいだ。本当なら私は死んでいたはずなのに、こうして生きていること自体が奇跡なのだ。手や足のサイズが違うのくらいなんの問題もない。
 包帯の巻かれた右手と左手の人差し指と親指で、重女はもう一度指の窓を作り星空を見上げた。いびつな指の形の窓から見えるのは、先程の天の川とは違う星の並び。天の川はきっと流れていったのだろう。
 そして相変わらず静かで美しい音楽に混ざり、男の声がルカによる福音書を謳うように読んでいた。今はナザレのガリヤラの街のマリヤという乙女の元に御使いがやってきたところだ。

 《恵まれし者よ、おめでとう。主があなたと共におられます》
 《恐れるなマリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです》

 ―――

 ツギハギは、まるで石になったかのごとく動けないでいた。
 ガンプだけは構えてはいるが、それは長年の戦いでの習性であり、半ば生理現象と化しているものだ。
 彼はガンプの引き金を引かない。いや、引く必要がない。
 何故なら、目の前の黒翼を広げし黒い鴉にも似た悪魔が、ヤソマガツヒを圧倒していたから。

 「ふっ!」

 長い足で黒蝿はヤソマガツヒの黄色く醜い顔を蹴った。凄まじい速さの蹴りに露出していた脳髄がびちゃっと音を立てて周りの壁や床に打ち付けられる。
 そして、影を集め作った黒い剣でグラム・カットを食らわしヤソマガツヒの足を一本を残し全て切断する。ヤソマガツヒは甲高い悲鳴を上げ、狂ったように自分の名だけを呼んでいた。あの悪魔は最初から知能なんてないに等しい。ただ人間を狂わす霧を生み出す存在としてここで「飼育」されていただけ。

 「楽しいか?」

 瀕死のヤソマガツヒの足を掴み、黒蝿は問うた。もうピンクの霧は噴出していなく、辺りに充満していたのも今の戦いで殆ど散らされた。ツギハギはガスマスクを取り、悪魔同士の戦いをレンズ越しではなく裸眼で凝視する。

 「人間にペットみたく飼われてよ、餌貰って尻尾振って、“とってこい”ってボール投げられて、お前はそのまま喜んでボール拾っていたんだろうなあ!?」

 びきびき。嫌な音が辺りにこだました。黒蝿が力を込めてヤソマガツヒの足を千切っていた。筋肉の筋がブチブチ切れ、神経や筋線維の糸が千切れ目から顔を覗かす。
 悲鳴。文字通り身を斬られる痛みによる金切り声。聞く者にとって不快な協和音がヤソマガツヒの口から発せられる。

 「ヤ、ヤソ……マ……ガツヒィ……」
 「またそれかよ! もう聞き飽きたぜ! ほらもっと別の事言ってみろ! 痛い、やめてくれって! 痛くねえのか!? それともこうされるのが好きなのか! こうか! こうかよ!」

 ブチブチぶちぶちびきびきびちびち、びちゃ……ヤソマガツヒの蟹のような足の第一関節が完全に千切れた。轟音のような悲鳴が聞こえないかのように、黒蝿は千切った足をつまらなさそうに床に投げる。そうまでされても、知能が完全に退化した哀れな悪魔は自らの名前を狂ったように呼ぶだけ。
 「八十禍津日神」。それがこの悪魔だったものの真名。不浄や凶事を司る邪神の禍々しさは、もう見る影もない。いや、最初からそんなものなかったのかもしれない。誰かに悪魔召喚プログラムで召喚されて、人間に“飼われ”て、ここで違法薬物の発生源となっていた時から。彼は邪神でも悪魔でもなくなった。ただの人間の目的の為の道具である。

 「ほら、助けてくださいって言えよ。おねだりしてみろよ。おまえが人間共にマグネタイトを貰って餌付けされていた時みたいに」
 「ヤ、ヤソ、マ……ガ、ツヒ……」
 「……………ふん、いいだろう。俺達悪魔にはマグネタイトは必要だからな。やるよ」
 「おい……!」

 事の成り行きを見守っていたツギハギが静止の声を上げる。久しぶりに直接口から吸った空気を味わう間もなく、ツギハギはガンプの銃口を黒蝿に向けた。

 「こいつにはまだ聞かなくてはいけないことがある。勝手な事をされては困るぜ」
 「聞かなくちゃいけないこと? こいつを見ろよ。何かを話せるような奴か?」

 言われて、ツギハギは死に体のヤソマガツヒを改めて見た。全ての足を無残に千切られ、ザンにアギに物理攻撃を散々食らわされた悪魔はもう最初の原型を殆ど留めていなかった。いや、たとえ無傷でもこいつには情報を喋らせられない。出会った時からこいつは自らの名しか口にしていない。まるで薬物で廃人にされた人間の様な――
 そこまで考え、ツギハギははっとし、背筋に嫌な痺れが走るのを感じた。

 「まさか――!」
 「……ああ、そのまさかだろうな。どういう手段でかは知らないが、こいつは情報を喋らせないよう、わざと“こうされた”んだろうな」

 先程とは違う痺れがツギハギの身体を走っていった。嫌悪感という電撃が。

 「悪魔を言いなりにして、道具にしていたっていうことか……」
 「ああ。だがな……」

 ぐちゃ、と黒蝿はわずかに残っているヤソマガツヒの顔を踏む。ひぎゅ、という蛙が潰されたような苦鳴がヤソマガツヒの口からこぼれた。

 「それを選択したのはこいつだ。腐っても邪神。抗う術はいくらでもあったはず。それを潔く自害するわけでもなく、最後まで要求を拒否するわけでもなく、ただ人間共の道具兼ペットになることを選んだってわけだ。この邪神、いや、“元”悪魔は」

 かちり。黒蝿の手には銃身が扁平状の銃が握られていた。

 「おい、いつの間に!」

 それが自分が握っていたガンプだと気づき、いつ抜き取られたのかとツギハギは慌てた。
 ガンプの銃口をヤソマガツヒの額に当てている黒蝿の瞳には、なんの光も見いだせない。そこには銃口と同じ深い暗闇がある。静かな怒り、侮蔑、そして少しの哀れみ、それら全てが入り混じった漆黒の闇が。ツギハギは肌が粟立つのを感じた。

 「悪魔にも人間にも、譲れない矜持ってのがある。それを忘れた者は、もう悪魔でも人間でもない、ただの“肉塊”だ。
 誇りも憂いも売っちまった者は誰だろうが関係ない。死ね」

 マズル・フラッシュが瞬き、銃声が響く。悪魔専用の銃弾がヤソマガツヒを貫き、身体が黒い炎に焼かれる。肉体も、魂さえも焼く地獄の業火のようだ。
 “消滅”していくヤソマガツヒだったものを、黒蝿はただ見下ろしていた。そこにはもう怒りもなく、哀れみもなく、何の感情も読み取れない黒い“悪魔”が立っていた。

 ――とんでもねえやつと、組んじまった――

 ツギハギは震える手でガンプをベルトにしまうと、心の中で呟いた。

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 【クラブ・ミルトン:VIPホール】

 「そいつはマジでウザいな。じゃあ俺がいっちょしめてやるよ」
 「やだ~オニちゃんてば! オニちゃんの姿見たらあいつ泡吹いて気絶しちゃうってぇ!」
 「ハクジョウシさんさ、今度俺らと合コンしようぜ! ユキジョロウさんやアプサラスさんとか美人の悪魔誘ってさ、俺らも適当なメンツ集めとくよ」
 「あらあら、素敵な殿方でないと嫌よ」
 「勿論イケメン揃えておくよ。モー・ショボーちゃんやナジャちゃん呼んでくれると嬉しいな~」
 「何お前、ひょっとしてロリコン?」

 げらげらと笑う男たち。相手に身体を密着させて媚びるようにしなだれてみせる女。それら人間達の挙動に、悪魔達は反発することも襲い掛かることもせず、同じテンションでお喋りに乗じている。まるで友人のように。

 「………」

 重女はソファーの隅っこで、一人ミルクを飲みながらテーブルの様子を観察し続けた。
 相変わらず不思議な甘い香りは漂っているし、こめかみの痛みも消えない。ハンカチで口と鼻を押さえ、なるべく空気を吸わないようにしているが、全く息をしないなんて不可能だ。少しづつではあるが確実にこの妙な香りを肺に入れてしまっている。
 しっかりしなくては。自我を失うようなことがあっては駄目だ。今のところ意識ははっきりしているが、こめかみの痛みは段々と強くなっている。これはやはり違法薬物の匂いのせいだろうか。

 「ねえ~オニちゃん……やっぱあたしって魅力ないのかなあ?」

 甘えるように女が言うと、何を思ったか両足を妖鬼・オニの膝に乗せる。短いスカートが太ももまでめくれ、下着が見えそうだ。

 「おおう、こんないい女放っとくとはよ、お前の周りの男共は見る目ないな」

 オニが赤く大きな手で太ももを撫ぜる。女は妖艶にふふっと笑い、両腕をオニの太い首にまわす。
 それを見た瞬間、重女の頭に痛みが走り、一瞬目の前に別の光景が広がった。
 幼い頃、こっそり母の勤める店に行き、そこで客である米兵に母がしなだれかかっている光景が。

 ――ここに来ちゃいけないって言ったでしょ!

 「!?」

 またしても幻聴が聞こえた。それは先程のアキラのとは違い、母の叱責の言葉であった。

 店に来てはだめ、いい子だから一人で留守番できるわよね? と母は夜、仕事に行く前に重女によく言い聞かせていた。
 幼い重女は頷き、一人で布団に入る。だが夜にひとりぼっちは怖いし寂しい。もしかしたらお化けが出てくるんじゃないかと思いトイレにもいけない。
 あまりにも心細く寂しかった重女は、一度だけ母の勤めている店へと行った。夜道も暗くて怖かったが、あの狭い部屋で一人で寝るのよりはマシだった。
 母の店は家からそう遠くない米軍基地の近くにあるバーだ。こっそり従業員用の裏口から侵入した重女は、小さな身体を屈め、店の中を除いた。
 暗い照明の中、ムーディな音楽が流れ、男の人と女の人が一緒のソファーや席に座り、お酒を飲みながら楽しそうになにか話している。お母さんはどこ? と重女は目を皿のようにして母を探す。
 見慣れた横顔が視界に映る。お母さんだ! 思わず駆け寄ろうとして足が止まった。母が、隣に座っている外人の男の人の腕をとり、そのまま頬にキスをしたからだ。

 キスをされた外人さんはにやつきながら母の肩を抱く。白い頬には母の口紅の痕が赤くスタンプみたく残っている。

 母は仕事が休みの日や機嫌の良い時には、重女と一緒に布団に入って、おやすみのキスをふっくらした重女の頬やおでこにしてくれる時があった。それだけで重女は幸せな気持ちになりよく眠れるのだ。例え自分が寝入った後、こっそり仕事に行っていたとしても、その時だけは重女は寂しさも心細さも感じず、母の愛を感じぐっすり眠れた。
 今の母のキスはそれとは違う。自分を寝かしつけるためにしてくれたキスじゃない、もっと爛れていて汚いものだ。毒々しい赤い口紅のスタンプを見て、重女の幼い自制心が決壊した。
 気が付けば、いつの間にか重女は泣きながら母の元へ走っていた。
 ぎょっとした客や他のホステスには構わず、一直線に母の膝に抱き付き、そのまま声を張り上げて泣く。母の身体からはねっとりとした甘い香水の匂いがした。

 「なんでおまえがここにいるの!? ここに来ちゃいけないって言ったでしょ!」

 母が重女の顔を上げさせ、柔らかな頬を両手で寄せながら怒る。口紅が剥がれかけている。さっきのキスのせいだ。

 ――ねえ、なんで? どうして外人さんにはキスするのに、私にはしてくれないの? 最近全然してくれないじゃない。お母さんが優しくほっぺやおでこにキスしてくれたら、一人でも平気で眠れるのに。

 結局、その日はバーの店長に車で家まで送ってもらった。母は一緒に来てはくれなかった。
 あの後、偉い大人の人に母は怒られ、逆に重女は客の外人さんから憐れみの視線を向けられ、お母さんがいなくてひとりで寂しかったんだね、と頭を撫でられ、母に札束を渡していた。これでおもちゃでも買ってあげなよ、とカタコトの日本語で話す外人さんに、母は嬉しそうに抱き付いていた。私を抱きしめてはくれなかったくせに……。

 それから重女は一人で眠れるよう幼いなりに努力した。
 だけど瞼を閉じると、あの時の外人さんにしなだれがかる母の姿と、禍々しい赤の口紅のスタンプが瞼の裏に映り、胸の奥から寂しさではなく、未知の生き物を見たような得体のしれない感情が沸きおこり、眠気がふっとんでしまう。
 だから重女はよく夜に本を読んだ。絵本は勿論、母の愛読の婦人誌や漫画まで家にある本は全て読んだ。 読み終わったらもう一度読み返す。そうしているといつの間にか眠気が襲ってきて、気が付いたら眠っている。
 そんな事をアキラが生まれるまで繰り返していたら、就学前には平仮名は勿論、簡単な漢字も読み書き出来るようになっていた。でも母は褒めてくれない。アキラが生まれたことで、子育てで余裕がない母は以前にも増してあまり構ってくれなくなった。
 お母さん、前は優しかったのに、どうして今は遊んでくれないの? どうして一緒にいてくれないの? アキラは可愛いけど、やっぱり独りぼっちは寂しいよ――

 「重女、暗い顔してル。誰かニ意地悪されタ?」

 はっと、重女の遊離していた意識が戻った。そこは六畳一間のアパート、ではなく、きらびやかなホールで、自分は幼児から十五の少女に戻っており、豪奢で柔らかなソファーに座っている。

 (いけない! 私、意識が飛んでた!)

 ぼんやりとした頭を激しく振り、目の前にあったグラスの中身を一気飲みする。甘い炭酸の刺激的な味が舌の上を走り、頭の奥がかっと燃えるように熱くなった。

 「それ、おいらのコークハイ。お酒、ダイジョブ?」
 『え?』

 手に持っていたグラスを見ると、確かにそれは重女の頼んだミルクのグラスではなく、アルコール用のグラスだった。重女の向かいのソファーには、幼虫・モスマンが座っている。どうやらモスマンのコークハイを飲んでしまったらしい。

 『ご、ごめんなさい!』

 慌てて頭を下げると、「いいヨ。おいら、ジツはお酒あまり好きジャナイ」と赤いつぶらな瞳をしばたかせ、不思議な模様の蝶のような羽根をパタパタと動かし、細い糸のような手を振る。そして、その手でテーブルに置かれた大きな皿から、山と積まれた赤っぽい色の玉の菓子らしきものを掴んで小さな口に運ぶ。
 慣れない酒を飲んでしまい、全身が熱く頭がくらくらするのを感じながら、その不思議な玉状の食べ物を凝視する。
 チョコボールだろうか? しかし色が赤黒い。まるで理科の教科書で見た静脈の血の色だ。大きさは正露丸より一回り大きい。その菓子と思われるものは、人間達は手をつけず、モスマンやオニ、ハクジョウシがスナック菓子でも食べるかのように口に次々と入れている。
 あれはなんだろうと思い、重女もその丸い菓子らしきものに手を伸ばす。すると突然手の甲が叩かれた。

 『いたっ!』
 「これ、人の子。お行儀が悪いわよ。“赤玉”を食むのは悪魔のみ。あれは人間が口にするのはマナー違反よ」
 『赤玉?』

 叩いたのは邪龍・ハクジョウシ。袖の長い着物から白魚のような指先で、“赤玉”と呼んだ丸い食べ物を口に運ぶ。それに続くようにオニが大きな片手いっぱいに“赤玉”を掴み、ぼりぼりと口に入れて咀嚼する。モスマンは相変わらずマイペースにぽいぽいっと“赤玉”を口に放り込む。

 「重女っち、“赤玉”食べようとしたの? だめだよ、あれ、うちらは食べられないみたいだよー」

 女がフライドポテトをくわえながら話しかけてきた。相変わらず足をオニの膝に乗っけている。

 『どうして?』
 「んー……なんかあれ、悪魔専用の食べ物みたい。あたしも一回食べようとしたらオニちゃんに怒られたの」
 「当然だ。“赤玉”を嗜むのは悪魔のマナー。あれがあるから俺達はここにいられるんだぜ」

 オニはそういうと、女と重女に見せつけるように“赤玉”を何個か口に入れてわざとらしく咀嚼音を響かせる。 オニのいかつい顔が一瞬うっとりとした恍惚の笑みに変わった。

 「ね、あんな美味しそうな顔されちゃあ、やっぱ気になるよね? どんな味なんだろ?」

 女がすねるように唇を尖らせる。確かに悪魔にとっての美味の食べ物とは、一体どんな味で、何で出来ているか気になる。

 「あたしもオニちゃんに聞いたことあるけど、何で出来ているのかはオニちゃんも知らないみたい。でも味はなんていうか、珍味っていうか、癖になる味みたい。そう言われたら食べたくなるよねー」

 でも、と女がオニの膝から足を下ろし、重女の方へ身体を乗り出す。そして耳元に口を近づけ小声で囁く。

 「前に興味本位で“赤玉”食べちゃった子がいたのよ。すると周りのボーイや警備員が凄い顔して駆け寄ってきて、その子、どこかに連れてかれちゃったの」
 『連れてかれた?』

 重女も小声を意識し、咽喉マイクのスピーカーの音量を下げる。女は「そうなの」と小声で答える。

 「まてどくらせどその子は戻ってこないから、あの子はどこに行ったんですかってボーイに聞いたんだけど、そしたら「あの方はルール違反を犯しましたので、VIP会員の権利をはく奪されました」だってさ!
 ここでは人間が“赤玉”食べるとVIP会員じゃなくなって追い出されるみたい。折角こんな楽しい場所に入れるようになったのに追い出されちゃたまんないよね! だから重女っちも、あれ、食べちゃダメだかんね」

 赤玉を食べた人間はVIP会員じゃなくなり、ここを追い出される。成る程、それがここのルールか。『わかった』と返しながら、重女はまだ熱の引かない頭で考えた。
 悪魔は人間の食べ物や飲み物を平然と口にしているのに、悪魔専用の食べ物まで用意しているのはただ単にサービスの一環? それにしては人間がその“赤玉”とやらを口にするだけでVIP会員の権利がはく奪されて出入り禁止になるのはちょっと厳しくないだろうか? “赤玉”は人間にとって毒なのだろうか?

 「あ、で、こっからが怖いとこなんだけど」

 女がますますこちらに身を近づけてくる。大きく開いた襟元から豊満な胸の谷間が丸見えで、重女は目のやり場に困った。

 『なに?』
 「その子ね……家にも帰ってないみたい……“行方不明”てやつ?」

 ざ、と首筋から手にかけて鳥肌が立った。女も同じようで、腕をこすりながら続ける。

 「そんなに親しい子じゃなかったけど……でもそんな話聞いたら怖くなっちゃうじゃん……もしかしたらやっぱり悪魔と仲良くするなんて無理なんじゃないかって思っちゃうよ」
 『そう言えば、貴女達はここで悪魔と一緒にいるのに、怖いと思わないの?』
 「そりゃあ最初に来た時は超怖かったけど、悪魔ってめっちゃフレンドリーだよ! それにここに来ると身体も頭も軽くなって、なんか楽しい気分になっちゃって、そんなこと別にいいじゃん! てなっちゃう。話して見たら意外と悪魔って紳士的で優しいし面白いし、その辺の男よりよっぽどいいよ!」

 そう言うと女は、ハクジョウシに群がっている二人の男を一瞥すると、オニの広い胸板に抱き付く。オニもまんざらでもないようで、機嫌良く女の肩を抱く。

 「まあな。こんな可愛い女を食おうだなんて思わねえよ。“赤玉”もあるしな」
 「やだもう! オニちゃんてば!」

 女が軽くオニの胸を叩く。するとなんとそのままオニと女はキスをしはじめた。

 「……!」

 ズキン、とこめかみがまた強く痛む。すると目の前のオニと女が、幼いころに見た外人と母の姿に変わる。

 “母”が客の“外人さん”と抱き合い、直接キスしている。“母”の腕は“外人さん”の太い首に巻かれ、“外人さん”は“母”の腰から太ももを撫ぜる。“母”と“外人さん”のキスが深いものに変わり、赤い唇から長い舌が出て、互いの舌と絡み合う。ぴちゃぴちゃ、いやらしい音。二人とも愉悦の笑みを浮かべている。
 これは幻覚だ、落ち着け、と頭の中で何度も唱えるが、目の前の“母”の幻覚は消えない。そのうち“母”と“外人さん”の身体が溶け合い、ぐにゃりと混ざり合い、別のものへと姿を変える。

 ――外人~! ほら英語喋れよ~!
 ――目の色青くて気持ち悪いんだよ! 近寄るな!
 ――ほらあの子よ。あそこの奥さん、米軍基地の兵士と寝てお金稼いでるんでしょ?
 ――まあいやらしい! あの姉弟、どこの馬の骨ともしれない外人との間にこさえた子達でしょ?
 ――汚い!
 ――変な目の色!
 ――お前の弟の髪、まっきんきんで気色悪いわ!
 ――父無し子!
 ――売女の子!

 それは近所の口性のない住人の声でもあり、学校の悪童の罵声でもあった。

 溶け合った物体は重女やアキラ達を迫害してきた者の姿に変わり、脳内に散々かけられてきた悪意ある言葉がフラッシュバックする。侮蔑の視線、中傷、それらがもたらす不快な記憶。嫌な記憶、辛い記憶、悲しい記憶、そして――怒りの記憶。

 ねえ、なんで? なんで目や髪の色が違うだけでこんな目にあわなくちゃいけないの? 父親がいないのがそんなに悪い事? お母さんは頑張っているのに、アキラはこんなに良い子なのに、何故みんないじめるの? 何故陰口ばかり叩くの? 一体私達がなにをしたの――!?
 許さない。私を、私達を傷つける奴は絶対許さない! アキラやお母さんを殴るなら、殴り返してやる!! 私は負けない! 必ずこの手でお前たちを――

 「きゃあ! 重女っち、手から血が出てるよ!!」

 女の叫び声で意識が戻った。歪んだ視界も元通りになり、外人と絡み合う母の幻影は無くなり、目の前にいるのはソファーに座った妖鬼・オニと心配そうにこちらを見ている派手な女の姿だ。

 『………血?』
 「ほら、右手にグラスの破片が刺さっている!」
 「うわ! ほんとだ! いたそ~……。重女ちゃん、いきなりグラス叩き割ったからね」
 「も、もしかして、酔い過ぎ? それとも“決まり過ぎ”?」

 言われて初めて重女は自分の右手を見た。確かにガラス片がいくつも刺さってて、血が流れテーブルや床に滴っている。テーブルには割れたグラス。そう認識した途端痛みが遅れて襲ってきた。結構な深手なのに、何故かそれほど痛いとは感じなかった。

 女の叫び声を聞き、ボーイがこちらに数名駆け寄ってくる。他のテーブルの悪魔や人間もこちらを凝視している。踊っていた人間達も何人かこちらに視線を寄越す。
 ボーイが重女の右手からガラス片を抜き、応急処置としてタオルを巻き、テーブルの上の割られたグラスの欠片などを片付けているのを、重女はぼうっと他人事のように見ていた。

 ――またしても幻覚と幻聴! やっぱりこの違法薬物の香りが原因なんだ!

 徐々に痛みが強くなってくる右手を握りしめたいのを堪え、重女はまたしても香りにやられ自身を制御できなかった自分に苛立ち、落ち着くために十字架のペンダントに触れ、ふう、と息を吐いた。

 (だけどこれではっきりした。この甘い香りは確実に違法薬物のもの。恐らくはこのホール中に噴霧している……!)

 医務室へ案内するというボーイのあとに続くため、重女は右手を押さえながら席を立つ。

 『ごめんね。すぐ戻るから』
 「うん、待ってるよ~」
 「もうすぐ「リフレッシュ」の時間だから、それまでには戻っておいでよ!」
 『リフレッシュ?』
 「うん、重女っちは初めてだよね? 十二時になると、別室で「リフレッシュ」の時間になるの。内容は来てからのお楽しみ!」
 「すげー気持ち良くなるからさ、重女ちゃんも一度体験するといいよ」
 「ああ、あれはいいよなあ。なんちゅーか、嫌なことぜーんぶリセット出来るっていうかさ」

 もっとその「リフレッシュ」の事について聞きたかったが、ボーイに促され、半ば強引にホールから医務室へ連れ出された。
 ホールから出ると、あの甘ったるい匂いがしなくなり、廊下には清潔な空気が満ちていた。重女は何度も深呼吸をし、体内に溜まっているであろう薬物を吐き出すよう努めた。効果があるかは分からないが。

 「出血はおさまりましたね。あとは消毒して包帯を巻いておきますから」

 クラブの医務室は小さな部屋で、専属の医者らしき男が治療をしてくれた。医務室らしく、包帯やガーゼ、絆創膏、消毒液、その他急な病気やケガに対応できるだけの備品は揃っている。奥には簡易ベットまである。

 「他にどこか痛いところは?」

 医者が聞いてくるので、重女は少し俯き、頭に手を当てながら咽喉マイクを調整し、『少し……慣れないお酒で悪酔いしてしまって……気分が悪いです。休ませてもらってもいいですか?』と、いかにも具合悪そうに辛そうな声を発した。
 唇を動かさずチョーカーのスピーカーから発せられた機械音声に、医者は戸惑いを隠さなかった。重女にとってはもう見慣れた光景である。

 「九楼重女さん……ふむふむ、データには「声帯に障害あり」と記載されていますね……それは咽喉マイクですか?」
 『はい』

 診療机の上の「ぱそこん」に付属している機械に重女のVIPカードを当てると、「ぱそこん」の画面上に重女の顔写真と個人データらしき文字がびっしり表示された。あれは全部自分のデータだと思うと、クラブ側はどれだけ自分のことを熟知しているのか少し不安になった。まさかこちらの「計画」は漏れていないよね?

 「成る程。良いですよ。お客様で酔いつぶれて気分を悪くされる方はよくいるんですよ。少しあちらのベットで休まれて行かれては? ただ、私はこの後「リフレッシュ」の時間の準備の為に少し席を外さなくてはいけないのですが、お一人で大丈夫ですか?」

 大丈夫どころか、一人の方が好都合だ。『はい、大丈夫です』と答えた後、『あの、「リフレッシュ」の時間とはなんなんでしょう?』と直球で聞いてみた。

 「ああ、お客様は初めてですね。後で説明があると思いますが、その名の通り、心と身体を「リフレッシュ」するための時間です。別室に移動していただき、アロマセラピーや、ヒーリング音楽による自律神経等の正調、他にもプラネタリウム上映や詩の朗読会、希望者には整体や、カウンセリングも行っております」
 『……パーティだけじゃなく、そんなことまでサービスでやっているんですか?』
 「はい。皆さまにとても好評ですよ。ストレスの多いこの社会ですから、少しでもストレスを解消できたらと思い始めたサービスですが、多くのお客様に満足していただいております」

 アロマセラピー、ヒーリング音楽……非常に胡散臭い。恐らくそこでなにかもっとあくどい事を行っている可能性が高い。そこには是非参加しないと。

 『はい、私も是非参加したいです!』
 「かしこまりました。では時間になりましたら迎えに参りますので、それまでゆっくりとお休みください。なにかありましたら、ベット脇のボタンを押してください」

 そう言うと、医者は笑顔で医務室を後にした。
 一人取り残された重女は、ヒールを脱ぎ、ベットに身を横たえた。慣れないハイヒールのせいで足が痛い。
 天井に通気口がある。ここは地下。あそこから空気を地上からここへ送り込んでいるのだろう。だとすると、ホールにも繋がっているだろう。
 重女は影を操作し、細い通気口の穴に合わせ影を細くし、穴の奥へと影を侵入させた。そして視界を影と同調させる。
 視界だけを影と一体化させるのはそれほど難しくなかった。前に五感全てを同調させたことがあるくらいなので、視界だけの同調など今の重女には造作もないことだ。

 何故通気口に影を侵入させているか。それは違法薬物の噴霧装置を突き止めるためだ。

 違法薬物がどのようなものか未だ不明だが、もし大麻のように燃やして煙をホールに流しているのなら、ホールには煙が充満していただろう。だがホールには煙は充満してなかった。あの大きなホールに満遍なく気化した薬物を行き渡らせたいなら、それはホールにも備わっている通気口に噴霧装置をとりつけるが手っ取り早い。
 あれだけの広さのホールに薬物の気化蒸気を充満させたいなら、それなりの大きさの機械によって行われていると考えられる。ホールをざっと目でチェックしたが、ホール内にはそのような装置は見当たらなかった。 とすると、やはり空気を循環させる通気口に取りつけられている可能性が高い。

 視界と同調した影を通気口のさらに奥に進ませる。医務室は薬物の匂いはしないので装置はない。もっと奥、ホールまで影を伸ばす。
 どれだけ影を伸ばしただろうか。重女の額に汗がびっしりと浮かんできたころに、ようやくそれらしき装置を見つけた。
 ホールの通気口の窓のすぐ近くに備え付けられており、その装置は扇風機にも似た形状で、無色の気体を噴出させている。これだ! 重女はその装置の電源を切ろうとしたが、隅から隅まで探しても電源らしきスイッチはなかった。
 ――恐らくこの装置のブレーカーは別の場所にある。そう確信し、重女は少し落胆したが、それなら仕方ない、この装置を破壊しようと思いつく。
 影の先を鋭利な刃物の形に変え、装置に一刺し! だが装置は思った以上に頑丈で、重女は仕方なく何回も装置に攻撃を仕掛けた。攻撃するたびに装置はひび割れ、変形し、中の回路がショートしたのか、バチバチと火花が散り、ついに活動を停止した。

 『やった……!』

 あれだけとは限らないが、とりあえず一つは破壊できた。重女は影と視界の同調を解く。全身汗まみれで、右手の包帯まで汗で濡れている。取り替えなくては、と思い、だるい身体をベットから起こしたところで、枕元に絵画が飾られているのに初めて気づいた。

 (なんだろう? 宗教画? )

 タッチや色彩から西洋の絵であることは間違いなかった。左側に女の人が、右側に黒い翼を広げた天使らしき男が描かれている。翼は黒めに塗られてはいるが悪魔ではないだろう。それは男の表情や服装からわかる。
 左の女の人は天使らしき男を落ち着いた表情で見つめている。その手元に開かれた本がある。宗教画だとしたらおそらく聖書だろう。
 男は右手を頭上にあげ、中指と人差し指をあげたピースサインのような手の形をしている。そして左手には複数の百合の花。宗教画にはよく出てくるアイテムだ。
 なんとなく、この絵をどこかでみた気がする。美術の教科書だろうか?

 いや、思い出した。これはシドの教会に飾ってあった絵と同じだ。確か名前も聞いたはず。この絵の名は――

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 「九楼重女さんですね?」
 『はい、そうです』

 重女のチョーカーに仕込んである咽喉マイクから機械音声が発せられる。クラブ・ミルトンの地下にあるVIPホールのボーイはそれを聞いた瞬間、少し目をしばたかせたが、すぐに微笑を浮かべ、重女のVIPカードをスキャンする。
 九楼、というのは勿論偽の苗字だ。「重女」という下の名前は東のミカド国で偽名として咄嗟に名乗ったが、苗字の方は今まで名乗る機会がなかったので偽造する必要がなかった。が、今回の潜入にはフルネームを名乗る必要があったので、苗字を作る必要があった。
 なんという姓にするか迷っていると、フジワラが、

 「“くろう”なんてどう? 仲魔の黒蝿君は鴉でしょ? 鴉は英語で“crow”。だから「九楼」はどうだい?」
と提案してきた。そのフジワラの案を採用し、今日から重女は“九楼重女”という名になった。

 VIPカードのスキャンが終わると、重厚な扉が開く。

 「どうぞ。楽しい夜を」

 ボーイは微笑を崩さず、腰を曲げ手をホールの方へ向ける。重女は履き慣れないハイヒールを踏み出し、パーティー会場へと足を踏み入れた。

 「!?」

 少し気おくれしながら中に入ると、途端に非常に甘い匂いが重女の鼻に届いた。
 そこには巨大なシャンデリアが幾つも天井から下げられており、壁は落ち着いたクリーム色。床には赤い絨毯が敷き詰められており、まるで舞踏会でも開かれそうな広いホールには幾つか飲食のためのテーブルやダンススペースがある。一見するとヨーロッパの貴族の社交場と言った感じだが……

 (……なに? この匂い……?)

 不思議な匂いに鼻と口許を咄嗟に抑えながら顔をあげる。そこには異様な光景が広がっていた。
 異形の姿の悪魔と、重女とそう変わらない年頃の若者たちが共に談笑していたり、激しいリズムの音楽に合わせて一緒に踊ったりしている。まるで上のクラブの規模を大きくしたような感じだが、違うのは悪魔と人間が共にいることと、両者とも異常にハイテンションだということだ。
 とあるテーブルでは、悪魔と少年少女が大声で手を叩きながら大笑いしているし、ダンススペースでは悪魔と人間が滅茶苦茶なダンスを披露している。ダンスというよりただ手足を激しく振り回しているといったほうが正しい。
 そして、会場の人間の表情は、どこか締まらない笑みを浮かべている。近くで笑いながらなにか話している少年と少女の瞳孔は開きっぱなしだ。

 (違法薬物……?)

 やはりフジワラさん達の言っていた通り、違法薬物が出回っている――重女はそう確信した。この会場全体に漂う粘ついた甘ったるい匂い。これが違法薬物の匂いであろう。
 重女はなるべくその匂いを吸わないよう、ハンカチで口と鼻を押さえ、壁際を移動する。と、その時。

 ――姉ちゃん、どこに行くの?――
 「!?」

 急に、頭に声が響いたと思うと、重女の身体がぐらついた。膝をつきそうになるのをなんとかこらえながら、重女は辺りを見渡した。しかし、当然ながら先程頭に響いた声の主――弟のアキラの姿はなかった。

 (幻聴……?)

 薬物の匂いにやられたのか。しっかりしろ、と頭の中で自分を叱咤し、壁に手を突きながらなんとか態勢を直した。

 「お姉さん、どうしたの? 大丈夫?」

 頭上から声が降りてきた。見上げると黒いタンクトップに肩によくわからない模様の刺青が入った、いかつい顔の大柄な金髪の青年が心配そうに重女を見ていた。青年の隣には赤みがかった茶髪の派手な女と、髪を逆立て鼻にピアスをしている少年がじろじろとこちらを見ている。三人とも派手なだけではなく、顔に締まりがなく瞳孔が開き気味だ。他の客と同じく。

 『大丈夫です。ありがとうございます』

 重女が咽喉マイクのスピーカーから応答すると、女がきゃあ、と軽い悲鳴のような声をあげた。

 「ちょっとちょっとなにそれー? 今そのチョーカーから声出たよね?」
 「なになに? もしかしてお姉さん、ロボット?」
 「んなわけねーじゃん。馬鹿かお前!」

 三人が品のない声でげらげら笑う。その笑い声が癇に障った重女はムッとしながら『……昔事故で喉をやられました。だからこれは咽喉マイクです。私はこれで話します』と機械音声で答えた。

 「やっべ! 咽喉マイクだって! まじかっこよくね?」
 「うんうん、なんかターミネーターみたい! 確かいたよね? 女のターミネーター」
 「ばっか、ターミネーターは全身ロボットだっちゅうの!」

 再び起こる意味不明の哄笑。うんざりした重女は三人組を無視し、別の場所へ移ろうとした。

 「おっと待ってよお姉さん、良かったら俺らとあっちで飲まねえ? お姉さんみたいな可愛い子探してたんだー」
 「ちょっと、あたしはどうなのよー?」

 あっち、と指さされたのはソファー席である。その席には、なんと赤ら顔の角が生えた妖鬼・オニと幼虫・モスマン、邪龍・ハクジョウシの三体が酒を傾けている。彼らは人間を襲ったりせず、静かにソファーに座りこちらを凝視している。

 「…………」

 重女は一瞬迷ったが、情報を手に入れるためにこの無礼な三人組に近づいておくのも悪くない。席の悪魔達も敵意を感じないし、ここは彼らに溶け込んでおくのがいいだろうと判断し、『じゃあ、おじゃましちゃおうかな』と作り笑顔で媚びるよう答えた。
 三人組は喜びの奇声をあげ、重女を席へと案内する。

 それにしても先程の声はなんだったんだろう? 幻聴にしては随分はっきり頭の中に響いたし、一瞬幼いころのアキラの映像も浮かんだ。薬物とはこれほどまでにはっきりとした幻聴や幻覚をもたらすものなのか?

 (なら、余計にこの空気を吸うわけにはいかない)

 重女は口と鼻を覆うハンカチを押さえる力を強くし、何故か先程から起こっているこめかみの痛みに耐えながら、悪魔達の待つ席へと向かっていった。

―――

 一方その頃、クラブ・ミルトンより西に三キロほど離れた地点。
 そこには、かつてある新興宗教団体が所有する寺院が建っていたが、その宗教団体はすっかり衰退し、団体は組織解体。この寺院は放置され、今ではかつてのきらびやかな宗教的装飾もさびれ、廃屋同然となっていた。
 その廃屋の寺院に、人影が三つ。フジワラとツギハギ、そしてやたノ黒蝿である。二人と一体は懐中電灯片手に屋内を捜索していた。

 「本当にあるのか? こんなボロイところによ」
 「見つけたのは君の仲魔だろう? ええと、多分この辺りに……」

 その時、ガコン、と何かが動いたような音がした。フジワラとツギハギの視線が音のした方向に向けられる。
 黒蝿が半壊している仏像らしきものを90度右に曲げたらしい。
 すると仏像の後ろの壁がガタガタと音を鳴らしながらゆっくり横にスライドしていく。壁が動く度、微かな風が流れてくる。
 壁が完全に開くと、そこには暗い小さな空間があった。灯りを当てると、さびた梯子が設置してあり下に伸びているのがわかる。どうやら地下に行くための秘密の通路らしい。探していた場所が見つかった。

 「ビンゴ! よくやったよ黒蝿君!」

 フジワラが梯子の下を照らしてみると、かなり下に広い空間がある。やはりここだ。

 「ほら、俺の言ったとおりだったろ?」

 なぜかツギハギが自慢気に胸をそらして見せる。フジワラは苦笑しながら梯子に手をかけた。ひゅうう、と下からかび臭い風が吹いてくる。慎重に手足を梯子につけ降りようとする。
 そんなフジワラをしり目に、黒蝿は梯子など気にせずそのまま下へ降りて行った。
 湿った激しい向かい風が黒蝿の顔を撫ぜ髪や服をはためかせる。かなりの落下速度をものともせず黒蝿は無事着地した。その様子を見て、梯子で降りていたツギハギがひゅう、と口笛を吹いて見せる。

 「さっすが悪魔は違うねえ。俺も現役ならあれくらい……」
 「ツ、ツギハギ! 早く降りてくれ! この梯子はかなり劣化している。もたもたしてると重みに耐えかねて外れてしまう!」
 「おお、悪い悪い」

 ツギハギとフジワラが無事に着地出来たのは、それから数分後の事だった。

―――

 そこはまるで洞窟のような広い空間であった。しかし洞窟と違い、木の柱であちこち補強されていたり、天井に壊れた豆電球が等間隔に並んでいるのは、ここが洞窟等の自然にできた場所ではなく、人工的に作られた場所だということの証左である。

 「やっぱり、君の仲魔が見つけたとおりだったね」
 「だろ? しかしこの二十一世紀にまだこんな防空壕があるとはねえ」

 そう、ここは戦時中に作られた防空壕。ツギハギの仲魔がクラブ・ミルトンの周辺を探っていた時に、廃屋の寺院の下に謎の空間があることを突き止めた。そしてその空間は、三キロ先のクラブ・ミルトンの地下施設の辺りまで伸びている防空壕であることも分かった。
 重女がパーティーに招かれている間、フジワラ達はこの防空壕からクラブ・ミルトンの地下施設に侵入。そこでクラブの暗部を暴くのが主な作戦内容だ。
 黒蝿の後ろには古い木箱や段ボール、そして上の寺院の備品らしきものが幾つも置かれていた。恐らく宗教団体が倉庫代わりに使っていたのだろう。曖昧な笑みを浮かべた何らかの神の像を見て、悪魔である黒蝿は眉を寄せその像を蹴った。ガラガラ、と意外と大きな音を防空壕内に響かせ、神像や木箱が崩れ落ちる。

 「黒蝿君! あまり刺激を与えないで! この防空壕はかなり古い。ちょっとした衝撃で崩壊することだってあり得るんだぞ」
 「わかってる。この先の通路を通っていけばクラブの地下施設に近づけるんだろ? 行くぞ」

 言うが早いか、黒蝿は防空壕の通路を歩いていく。フジワラとツギハギが慌てて後を追う。黒蝿だけなら三キロの距離など低空飛行であっという間につけるのだが、フジワラ達を置いていくわけにはいかない。やれやれ、と嘆息しながら、懐中電灯で通路の先を照らした。
 かなり大きな防空壕らしい。人間どもが互いに戦争していた時は、爆撃を防ぐためにここに避難していたのだろう。もしその戦争に悪魔がいたら、こんな空間あっという間に潰せるのに。
 
 戦争、という単語で、黒蝿はあることを思い出した。

 そういえば、あの忌まわしい「悪魔召喚プログラム」が人間の手によって理論化されたのは70年ほど前の戦争からじゃなかったか? たしか「第二次世界大戦」という戦争中に二人の人間によって理論が確立されたはず。
 そこまで考え、とある仮説が黒蝿の脳裏に浮かんだ。なぜ今まで気づかなかったのか。悪魔召喚プログラムを作れるほどの人間。まさかそのうちの一人は――

 「おい、ミドー。起きろ」

 黒蝿が聖書型コンプを乱暴に開く。重女が潜入に持っていけないということで、黒蝿が預かっているのだ。既に重女の手によって起動状態にあり、一時的に黒蝿が獅子丸や牛頭丸などの仲魔を呼び出せるよう設定を変更してある。
 黒蝿の音声を認識し、コンプの画面に映ったのは、荒いポリゴンドットのコンプ内の主、ミドーという老人である。

 〔なんじゃ? もう着いたのか? 随分早いな〕
 「違う。今向かっている。それより聞きたいことがある」
 〔こんな時になんじゃ?〕

 いつの間にかフジワラとツギハギが後ろからコンプを覗き込んでいた。特にツギハギは興味津々といった様子で、それはコンプか? なんで本の中に入れているんだ? もっとよく見せてくれと言ってきたが、黒蝿は当然無視した。

 「かなり前、俺がこんな姿にされる前に、風の噂で聞いたことがある。俺達悪魔を無理やり呼び出すはた迷惑なプログラムとやらが確立されたと。まさかそれをやったのは――」
 〔ああ、私とスティーヴンじゃよ〕

 ミドーはあっさりと認めた。黒蝿はやや拍子抜けしコンプを持つ手を変えた。フジワラ達は顔を見合わせている。

 〔なんじゃ、知らなかったのか? てっきりアキラからでも聞いていたと思ったんだが〕
 「……随分簡単に認めたな。まあいい。問題はその後だ。そのプログラムを実用化してコンプとやらを作ったのもおまえか?」
 〔そうじゃよ。正確には国からの要請で、プログラム実用化の為の研究チームを作ってスティーヴンと共同で開発したんじゃがな。じゃが私は実用化の為の実験の途中でプログラム内に閉じ込められてしまった。だから私はこんな姿でここで悪魔召喚プログラムを管理して――〕
 「余計な事しやがって!!」

 怒声が防空壕内に響く。ミドーが驚きドット状の身体が一瞬崩れかける。フジワラとツギハギの驚きの視線を無視し、黒蝿は続けた。

 「お前らの組んだプログラムのせいで悪魔の理が崩れたんだぞ! おかげで人間ごときに簡単にこきつかわれる同胞が後をたたない。なんでこんなもん作った!? こんなものさえなければ、異界と人間界の均衡は保たれたままだったはずなのに!」
 「いや、それはその爺さんたちのせいじゃねえよ」

 急にツギハギが話に割り込んできた。黒蝿の殺気だった目を見ながら、ツギハギは腰のガンベルトから銃身が酷く扁平な形の不思議な銃らしきものを取り出した。

 「これはガンプっていってな、銃の中に悪魔召喚プログラムが組み込まれている。この中のプログラムは、ベトナム戦争の時からのものを何度も改良している。
 俺は若い頃軍人でな、ある時上の方から新しい兵器の実験のため召集された。その兵器が、悪魔召喚プログラムが組み込まれたコンピューター、今でいうコンプだよ。もっとも、あの時はこんな銃の形やお前の持っている本の形ではなく、でっかい箱数台におかしなヘルメットつけて起動させるもんだったがな」
 「……それが一体なんの関係がある」

 黒蝿が苛立ち気味に問う。フジワラは神妙な面持ちで静観していた。

 「まあ聞けよ。そのプログラムを作ったってのが、その爺さんが言ってたスティーヴンとかいう有名な物理学者だった。あの時は祖国のアメリカがベトナムでドンパチやらかしてた時だったからな、敵側に勝つための新しい兵器が必要だったんだろうさ。国の命令でその物理学者さんは仕方なくやらされてたんじゃねえのか?」
 「…………だからミドー達を許せ、と?」
 「ま、簡単にいうとそういうこった。俺だって悪魔召喚プログラムなんてわけわかんないもんに関わりたくなかったさ。だが俺は軍人だ。上官の命令は絶対だし、国の為ならどんなことでもしなけりゃなんねえ。俺はたまたまプログラムを起動できたってだけで、強引に実験部隊に入れられて、そしてある村で“実験”させられたんだ」

 ツギハギは語った。自身の過去を。

 彼がまだアメリカの軍人で、ベトナム戦争が勃発中だったころ、ある時軍上層部から実用化前の悪魔召喚プログラムの起動実験の“被験者”として召集命令が下された。
 なんでもその悪魔召喚プログラムという“兵器”は、戦争の勝敗に関わるすごいものだと聞かされていたから、集められた被験者の兵士たちは、自分達は選ばれた者だと喜んだ。ツギハギも例外ではなく、これで昇進も期待できる、落ちこぼれの兵曹の自分がのし上がれる良い機会だ、と被験者に選ばれたことを誇らしげに思った。

 しかし、その兵器は誰もが扱えるわけではなかった。

 プログラムを起動すらできないものが大半で、被験者の中には起動スイッチを入れた途端廃人になったものも多かった。
 そんな中、ツギハギはプログラムを起動できた少数の貴重な被験者の一人として生き残った。
 何故起動出来る者と出来ない者がいるのかは分からなかった。研究者達は前頭葉のドーパミン感受性ニュートン等の神経伝達物質が関係しているんじゃないかと仮説を立てていたが、結局詳細なメカニズムは不明なままだった。
 起動に成功したツギハギ達はプログラムを使いこなす訓練を受けた後、プログラムの性能の“実験”のため、ベトナムのとある村を襲撃する任務が下された。クアンガイ省にある、戦略的に何の価値もない小さな村。そこで悪魔召喚プログラムを使い悪魔を召喚し、村人全員殲滅させよ、という極秘任務であった。

 「在郷軍人が少しいるだけの、女子供や老人ばかりの小さな村よ。そこを俺達の部隊は、夜、奇襲をかけて村人全員殺さなけりゃいけない。悪魔を召喚してな。どんな状況だったか詳しく聞きたいか?」

 黒蝿は黙っていた。フジワラも、コンプ内のミドーも同じく。

 その時の状況は、一言でいえば「地獄」だった。

 軍人ではない女子供まで、自分が召喚した異形の者達が蹂躙し、その身を食らっている。自衛の為に向かってくる者もいたが、そいつらは老人や子供が大半だった。たとえ子供や老人でも、銃を向けられたら軍人として撃たないわけにはいかない。小さな村はツギハギ達の部隊によって、血と肉が飛び散り、断末魔の悲鳴が絶えない地獄絵図に変わった。
 酷いものであった。これなら最前線でゲリラと戦っていたほうまだマシとさえ思える程だ。しかし命令には逆らえない。ツギハギはこの時、こんな事態を招いた自分達のほうが悪魔だと感じ、目の前の惨劇がこの世のものであることが信じられなかった。
 無事“実験”が終わり、悪魔召喚プログラムの実用性が実証されたが、ツギハギは神経を病んだ。戦闘ストレス反応、いわゆる「シェル・ショック」にかかってしまったのだ。
 顔を抵抗してきた村人に刃物で切り付けられ、その傷跡も痛々しい中、無気力状態に陥り、あの村での惨劇が頭から離れられなく、あの時の村人たちの悪魔に食われた悲惨な姿、年端もいかない子供を撃ち殺したときの感触等がフラッシュバックし、軍人としての務めが果たせない状態になってしまった。
 そしてツギハギは部隊を異動させられた。正規軍ではなく、悪魔召喚プログラムの研究の為の極秘部隊に。
 そこで暫く身体と精神の療養兼プログラム使用経験者として身体を調べられたり、プログラム改良のための協力を強いられた。
 研究者達に実験動物のように扱われるのは癪だったが、あの村での任務よりずっと良かった。なぜなら今までと違い人を殺すようなことはなかったから。
 
 そこでは、親を殺され、泣きながら銃を持った子供を撃ち殺さなければいけないようなことはなかった。
 そこでは、悪魔を召喚して悪魔が人を食うところを静観しなければいけないこともなかった。
 そこでは、それらの状況をすべて記録し、報告書を作成し上層部に提出しなければいけないなんてことはなかった。
 
 今までの軍隊生活では考えられないほど穏やかで、自分が軍人であることを忘れてしまいそうになる生活が何年か続き、やっとツギハギが正規軍に復帰できたときには、ベトナム戦争も終結した後だった。敵陣営が結果的に勝ち、祖国のアメリカや同盟国側は撤退を余儀なくされ、事実上の政治的敗戦だったが、もうツギハギは悔しいとも何も思わなくなった。

 「それから暫く軍にはいたが、殆ど悪魔召喚プログラム関係の任務ばかりだったな。命令とはいえ、罪のない民間人を殺したあの実験という名の虐殺は、未だに忘れることが出来ないし、これからも忘れないだろうな」
 「……結局何が言いたい? プログラム制作者には罪はない。悪いのはそれを悪用した人間どもってか?」
 「ん…………まあ、そういうことになるのかな。その爺さんもスティーヴンって奴も、上の命令でプログラムを作ったわけだろ。スティーヴンて奴は未だに行方不明で、噂じゃ用済みになったんで消されたんじゃないかって言われている。
 上手く言えねえけどよ……どんな道具だって使い方次第で人を殺せるし、助けることだってできる。悪魔のお前にとっちゃあこんなもん迷惑かもしれねえけどよ、コンプだって人を助けるために使えるかもしれないだろ? だからその爺さんを責めるのは……」
 「は! そんなの人間側の理屈だな。俺は人間の感傷なんぞ理解出来ないしするつもりもない。なんにせよ、悪魔召喚プログラムのせいで俺達の世界の理がめちゃくちゃにされたのは事実だ。
 悪魔ってのはな、人間以上に理に縛られている。逆に理があるから悪魔の世界の均衡が保てていた。それを人間の都合でかき回されちゃたまらないんだよ!」
 「なら、どうするんだ? その爺さんや俺やあの重女とかいうお嬢ちゃんも、プログラム制作者もコンプ使いの悪魔召喚師も皆殺しにするつもりか?」
 「……もしそうだといったらどうする?」
 「おもしれえ……!」

 黒蝿が翼を広げ自身の影を膨張させ、ツギハギがガンプを黒蝿に向ける。二人の間に殺気立った空気が漂い、強風がおこり、ガンプの引き金がひかれそうになったとき、「はいはいはい! そこまで!」と、フジワラが大きな声と共に二人の間に入ってきた。

 「こんなところで仲間割れしてどうする! 今の任務はクラブ・ミルトンへの潜入だよ! ガンプ降ろして! 黒蝿君も落ち着け!」

 ツギハギがガンプを降ろし、黒蝿も影を収縮させた。一触即発の危機は何とか免れた。フジワラは汗を拭きながらふう、と息を吐いた。

 「この話はこれが終わってからにしよう。長くなりそうだしね。今は潜入のことだけ考えよう。あんまり遅くなると重女さんの身も危なくなる」
 「……ふん」
 「……ちっ!」

 気まずいまま三人が暫く歩いていくと、通路が瓦礫で塞がれていた。地震かなにかで壁が崩壊したのだろう。

 「さて、地図によると、この瓦礫の先に、クラブ・ミルトンの地下施設の壁が隣接している。ここから私達は侵入するわけだが、力任せに破壊するとこの防空壕が崩壊してしまうし、向こうのクラブ側に気付かれてしまう。なるべく最小限の侵入口を開けたいんだが、黒蝿君、出来るかい?」
 「…………」

 不機嫌さを隠そうともせず、黒蝿はコンプを再び開き、「獅子丸、出番だ」と言う。
 するとコンプから大柄な紅い鬣の獅子の半人半獣の男が出てきた。神獣・雷王獅子丸。元は重女の弟で東のミカド国の王でもあったアキラの仲魔。今は姉である重女の仲魔として剣を振るっている。

 「お初にお目にかかる。儂は雷王獅子丸。以後、宜しくお願い申す」

 天井につきそうな大柄な身体を曲げ、目を丸くしているフジワラとツギハギに深々と礼をする。

 「私はフジワラといいます。まったく、黒蝿君の他にもこんな強そうな仲魔がいたなんてね!」
 「……宜しく。ツギハギと呼んでくれ」

 二人の自己紹介に再び獅子丸が再び礼をする。

 「獅子丸。おまえの剣で、この瓦礫を細かく切り刻め。その後、向こう側の壁に人ひとり通れるだけの穴を空けろ。向こうの人間に気付かれないように。できるな?」
 「随分偉そうな口を聞くようになったな黒蝿の。我が主の命がなければ、切り刻むのはお前の方だというのを忘れるなよ」

 獅子丸が腰の長刀の柄を握ったかと思うと、次の瞬間目にも止まらぬ速さで抜刀し、凄まじい速さで瓦礫をまるで野菜を切るかのごとく細かく切り刻んでいく。気が付けば瓦礫の山は細かい石屑の山へと変わっていた。
 そして次に居合の姿勢をとり、長刀が一閃した。刀の白い光跡がフジワラ達の瞼に焼き付き、いつの間にか壁に人ひとり分の穴が切り取られていた。
 かつてアキラの剣の指南役として、また最強の仲魔として活躍してきた神獣の名に恥じない剣さばきであった。

 「すごい……!」

 フジワラが感嘆の言葉を吐く。ツギハギも口をぽかんと開けたままである。

 「これで満足か? なら行くぞ」
 「待て。儂はどうすればよい? この穴だと儂には小さすぎるが……」
 「お前はコンプで待機。用があればまた呼ぶ」
 「なにを!」

 反論しかけた獅子丸を、黒蝿がコンプに収納する。そして「行くぞ」とフジワラとツギハギを穴へ入るよう促した。フジワラとツギハギ、そして黒蝿が穴をくぐり、クラブ・ミルトンの地下施設に侵入した。

 ―――

 穴の向こうは今までの土でできた防空壕と違い、コンクリートの壁の現代的な部屋であったが、そこは倉庫のようで、無人であった。成る程。だからここから穴を空けて侵入すると言っていたのか、と黒蝿はフジワラの計画の意図を理解した。
 開けた穴を倉庫内の手近な物で塞いだ後、「さあ、これからが本番だ。もう一度ルートを確認するよ」とフジワラが地図を開き、侵入ルートの説明を始めた。

 それを聞きながら、黒蝿は重女の事を考えていた。あいつ、きちんと溶け込んでいるだろうか、悪魔と戦うなんて事態にはなってないだろうか、と考え、ふと黒蝿はそんな心配をしている自分におかしくなった。

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 重女が深い眠りから目を覚ますと、黒蝿が冷たい目で見下していた。
 ぼんやりとした視界に、眉を寄せた端正な顔が映っている。こいつが無愛想なのはいつものことだが、なんで不機嫌なのだろう?
 そういえば昨日もそうだった。クラブ・ミルトンからの帰りに散々お小言を言ってきて、こっちは凄く疲れているのに「勝手にあの男に協力しやがって!」だの「あの喫茶店への誘いだって罠の可能性がある」だの説教してきて……

 喫茶店?

 「!!」

 その単語を思い出した途端、重女の半分眠りについていた頭は完全に覚醒した。
 がばっと半身を起こす。服装は昨日クラブから帰ったままのブラウスとスカート姿だ。髪はぼさぼさ、化粧を落とさなかった肌はなんだかぴりぴりするし、ブラウスは皺ができ、スカートの裾がめくれて太ももが露わになっている。これじゃあ下着まで丸見えだ! 慌てて裾を引っ張る。黒蝿はそんな重女の姿に動じずじっと睨んでいる。

 『……なんなのよ』
 「もう昼だが……あの男との約束はいいのか?」
 『ええ!?』

 重女は慌てて傍に置いてあった小さな置時計を掴む。そこには十二時五分と表示されていた。

 『もう十二時過ぎてるじゃない! なんで起こしてくれなかったの!?』
 「なんで俺がお前を起こさなきゃいかん」
 『馬鹿! 一時にフジワラさんの喫茶店に行かなきゃいけないのに! 今からじゃ絶対遅刻しちゃう!』
 「俺の知ったことか」

 冷たく突き放した黒蝿は無視し、重女は急いで身支度を始めた。もつれた髪を梳かし、化粧落としが出来る濡れたシートで顔をこする。これで化粧が落とせるのだからこの時代は本当に便利なものが多い。
 次に服。といっても重女の持ち服は今着ている汗が染みこんだブラウスとスカートと、いつもの着古した黒い半袖のタートルネックとカーゴパンツ。待ち合わせに昨日と同じ服を着るか、オンボロのいつもの服にするか……迷った挙句いつものカーゴパンツスタイルにした。こんな古い服を着ていくのはみっともない気がするが、汗臭い昨日と同じ服というのも恥ずかしい。
 黒蝿に後ろを向いてもらい着替えていると、不意に自分の体臭が気になった。昨日かなり汗をかいたまま銭湯にも行かず寝てしまった。当たり前だが結界内にはガス・水道・電気などは通っていない。水は大量に買い置きし、電気は懐中電灯や蝋燭を使うという原始的な生活を送っている。いつも風呂は近所の銭湯に行っているのだが、昨日はもう遅い時間だったのと凄く疲れていたので銭湯に行けなかった。いつも行く銭湯はこんな早い時間にはまだ開いてない。

 『く、黒蝿……』
 「なんだ?」

 億劫そうに背中を向けたまま黒蝿は返事をする。重女はもじもじと恥ずかしそうにしていたが、やがて意を決して聞いた。

 『あ、あのね……私の身体って……その……』
 「ああ、汗臭いな」

 デリカシーの欠片もない回答に、顔を真っ赤にした重女は時計を思いっきり黒蝿の後頭部にぶつけてやった。が、黒蝿はなんで重女が怒っているのかわからないようだった。

 ―――

 〔はい、純喫茶フロリダです〕

 公衆電話から、黒蝿は昨日渡されたマッチ箱に載っていた番号にかけた。三回コールが鳴った後、通話口からフジワラの声が聞こえた。背後から人々のざわめきや静かな音楽が聞こえてくる。

 「昨日会ったやたノ黒蝿だ」

 そう告げると、電話口を覆ったのか背後の音が小さくなる。〔ああ、君か〕とフジワラは声を少しひそめ答えた。

 〔もう一時近いけど、どうしたの? もしかして道に迷ったとか?〕
 「違う。うちのサマナーが寝坊しやがって、今シャワーを浴びている。だからそちらに着くのが少し遅れそうなので電話した」

 そう言うと、黒蝿は目の前にある雑居ビルを見上げた。そのビルの二階には、【漫画、インターネット喫茶「悠々自適」フリードリンク制・個室・シャワー完備!】とでかでかと窓に書かれてある。
 「シャワー完備」の一文字に惹かれた重女は、早速風呂道具一式を持ってビルの中に入っていった。そして黒蝿にフジワラに電話するよう命じた。なんで俺が、と思ったが、重女の咽喉マイクの電子音声では、電話ごしでは酷く不明瞭に聞こえる。なので黒蝿が電話した方が効率がいい。

 〔そうか。昨日は大変だったからね。うん、こちらとしては特に大丈夫だよ。今お昼時で店も満員でね、二時か三時くらいにはだいぶ落ち着くと思うけど〕
 「ならその時間までには行く」
 〔わかった。待っているよ。連絡ありがとう。それじゃあまた後でね〕

 やや早口な口調でフジワラは電話を切った。店の方が忙しいのだろう。あれで本業はフリージャーナリストというのだから、年齢によらずなかなかのバイタルに溢れた男だ。
 今は十二時五十五分。重女が今の時間でも開いている銭湯を求め町中を探し、シャワーが備わっているらしい「ネット喫茶」なる場所を見つけたのが十分前。マッチ箱に書かれてあった純喫茶・フロリダの住所は、ここから電車なら三駅でつける場所にある。二時までには十分間に合うだろう。

 (それにしても……時間に遅れてまでいちいち体臭を気にするかね。人間の女はやっぱりわからん)

 もう抱きなれた諦観の念を顔に滲ませ、黒蝿は電話ボックスの壁に寄りかかりながら重女を待った。
 それから更に十五分後。電話ボックスのドアがノックされる。黒蝿が顔を上げると頬を上気させた重女が立っていた。

 「遅いぞ」
 『ごめん。身元確認で手間取っちゃって。前に作った偽の保健証を出しといた』

 近くに寄った重女からは、石鹸とシャンプーの香りがした。髪が半乾きだ。これでも急いで来たのだろう。

 『よし、これでさっぱりしたし、さあ、早くフジワラさんのところに行こう!』
 風呂道具片手に市電の停留所へ向かおうとする重女に「俺はいい」と黒蝿は拒否した。

 『?  何言ってるの? フジワラさんのところに一緒に行くっていったのはそっちじゃない』
 「行かないという意味じゃない。俺は空を飛んでいくから、電車にはお前ひとりで乗れ」
 『なんで別行動? 目的地は同じなんだし一緒に行こうよ』
 「いい。俺は電車には乗らない」

 頑なに電車への乗車を拒否する黒蝿の様子に、重女は違和感を抱いたが、こんなことで口論している時間はない。無理やり黒蝿の手を掴み停留所へと歩を進めた。

 「おい、離せ!」
 『なに子供みたいなこと言ってるのよ! 空から行ったって場所わかんないくせに。ほら、電車がきた。乗るよ』

 細い手に似合わない強い力で、重女は嫌がる黒蝿の手首を引っ張り、半ば押し込むように電車へと乗せた。

 ―――

 黒蝿が何故あんなにも電車に乗るのを嫌がっていた訳がわかった。

 ――こいつは、乗り物にめちゃくちゃ弱い。

 電車の振動を尻に感じ、桶に入った風呂道具一式を膝に抱え、周囲の客の怪訝そうな視線を浴びながら、重女は隣に座る黒蝿の真っ青な顔を覗いた。
 いつもの彼は不敵な態度を崩さないのに、今の黒蝿ときたら前のめりにぐったりと席に座り、顔は真っ青で床を向いている。まるで試合後の精根尽きたプロボクサーのようだ。

 (悪魔でも乗り物酔いするんだ……)

 いつも自分を叱り、時には馬鹿にされたりからかわれたりしていた重女には、ここまで弱り切った黒蝿は珍しく、また少しだけ愉快に映った。
 悪戯心が鎌をもたげ、重女は黒蝿の肩を少し強めに揺すってみる。すると黒蝿は物凄い形相で重女の手を払いのける。悪態の一つでも言ってくるかと思ったら、何も言ってこなく、ますます青くなった顔を再び俯けただけだった。
 さすがに尋常じゃない顔色の悪さに、重女は同情し念波を送る。咽喉マイクからの機械音声だと周りの乗客の注意をひいてしまう。

 ――ねえ、大丈夫?
 「…………平気だ」
 ――吐きそう?
 「……いや」
 ――どうしても我慢できなくなったら、これに吐いてね。

 重女は膝に置いていた桶を黒蝿の目の前に突き出した。風呂道具一式抱えて乗るなんて恥ずかしかったが、風呂桶がこんなところで役に立つとは。

 「……平気だと言ってるだろう。それより昨日も言ったがフジワラとツギハギには気を付けろ。まだあいつらが完全に味方と決まったわけじゃない」
 ――またそんなこと言って! 黒蝿は疑いすぎだよ。
 「おまえが人を信用しすぎるだけ――」

 その時、キキ―ッと車輪が音を立てて電車が止まる。傍から見れば黒蝿の独り言に聞こえていた話は中断された。
 目的の停留所に着いたのだ。座っていた乗客達は立ち上がり、立っていた者も出口の方へ向かい運転手に料金を精算している。重女も黒蝿の腕を掴んで強引に立たせ、精算の列に加わる。黒蝿はされるがままだった。ただ、相変わらず下を向いて口許を押さえている。
 規定の料金を払い、市電から降りる。すると小さな繁華街らしき場所が目前に広がる。居酒屋やスナックが軒並み店を構えているが、まだ早い時間なので開いている店は少ない。
 黒蝿の手を引っ張りながら重女は「純喫茶・フロリダ」を探した。昨日貰ったマッチ箱には簡単な住所しか書いていなく、土地勘のない二人はすぐに迷ってしまった。人に聞きたくとも誰も通らない。公衆電話も見当たらない。もしかして「けいたい」や「すまほ」があればフジワラさんに電話できただろうか。

 『ねえ、ミドー』

 焦った重女は背負ったリュックからコンプを取り出し、起動させミドーを呼んだ。

 〔なんじゃ? そっちの黒蝿はどうした? なにやら酷く具合が悪そうだが……〕
 『いや、ただの乗り物酔い。それよりミドー、このコンプで「けいたい」や「すまほ」は使える?』

 荒いポリゴンの身体をくるっと一回転した後、ミドーは笑った。もう、こっちは真剣に聞いているのに……

 『真面目に聞いてよ』
 〔おお、すまんすまん。そうか、お主はこの時代の生まれではなかったな。ネット回線をつけろといい色んな無茶を要求してくるのう。今のこのコンプでは携帯のような通話機能はついておらんよ〕
 『やっぱりそうか……』

 がっくりとうなだれる重女に、ミドーがフォローの言葉をかける。

 〔だがしかし、この辺りの地形をスキャンして、簡単な地図を出すことはできるぞい。半径二キロまでならな〕
 『それすごいじゃない! なら、今すぐ「すきゃん」して地図を出してよ』
 〔わかったわかった。年寄りを急かすもんじゃないぞ〕

 言うが早いか、コンプから緑色の線が発生し、重女や黒蝿を透過したかと思うと、辺りの建物へと緑の線が病院のMRIのようにその形状や位置をスキャンしていく。重女達を起点に、約半径二キロに渡り緑の模様が小さな飲み屋街を舐めるように透過していく。スキャンが終わるとコンプの画面に地図が徐々に現れる。詳細な地図が完成すると、上の方に「神舞供町」とこの町の名らしき単語が現れた。

 『かぶきょ、ちょう?それともかぶきちょう……て読むのかな』
 〔恐らく新宿の歌舞伎町を真似たんじゃろう。この地図によると右の路地を真っ直ぐ北にいけば、「純喫茶・フロリダ」があるらしいぞ〕
 『ありがとう。ミドー』

 ミドーに礼を言うと、重女はコンプに記された地図を頼りに神舞供町を歩いた。黒蝿はずっと無言だった。
 やがて町の中でも奥まった場所に、古めかしい喫茶店があった。看板には「純喫茶・フロリダ」の文字。

 『やっと着いた……』
 「…………」

 無言で口を押さえている黒蝿をよそに、重女は首元の咽喉マイクの調子を整えた。『あ、あー……』うん、特に異常はない。
 重女は少し深呼吸をすると、年季の入った木製のドアを引く。カランカラン、とドアベルが心地よい音を鳴らし、来訪者を店の者に告げた。

 「おや、待っていたよ。いらっしゃい」

 木目調の床に壁、そして穏やかな照明。全体的に落ち着いた雰囲気の純喫茶・フロリダのカウンター越しからフジワラが笑顔で迎えてくれる。その時のフジワラの格好は、クラブでのディーラー姿でもVIPルームで会った時の私服とも違う、ベージュのポロシャツに使い込まれたエプロンといういかにも喫茶店のマスターといった格好だ。
 重女は背筋を伸ばし、少し息を吸うと、深々と頭を下げる。

 『約束の時間に遅れてしまい、本当にすみませ……』

 言い終わる前に、重女の後ろから口許を押さえた真っ青な顔の黒蝿がフジワラの元へ走る。ぎょっとするフジワラに、「トイレはどこだ!?」と鬼気迫る声で問う。

 「あ、左の奥の……」

 それだけ聞くと黒蝿は、脱兎のごとくトイレに駆け込んだ。そしてドアを閉めると、思いっきり嘔吐する。その不快な音はドア越しにも聞こえ、フジワラと重女は思わず顔を見合わせた。

―――

 「落ち着いたかい?」
 「ああ、世話をかけた」

 純喫茶・フロリダのカウンターに、重女と黒蝿は座っていた。
 先程トイレで盛大に嘔吐した黒蝿の前には、よく冷えた水が入ったコップが置かれている。コップの水をひと息に飲むと、黒蝿はふう、と息を吐いた。
 まだ青白いが、さっきよりは顔色は良くなっている。

 (まさかあそこまで乗り物に弱いとは……)

 翼で空中を自在に飛び、“ザン”や“アギ”等の術を使い敵を倒してきた黒蝿は、今まで覚えている限り苦戦していた様子がない。いつも余裕綽々で、時には自分を叱咤し馬鹿にしてきた彼が乗り物でここまで弱っている姿を見るのは、意外に思う反面、重女は弱みを握ったような、少し意地悪な優越感のようなものが心に生まれてくるのを感じた。
 だから弱った黒蝿を横目にコーヒーをすすりながら、重女はまたしてもある悪戯を思いついてしまった。

 目の前に出されたフジワラ特製のコーヒーはなかなか美味しい。ただ、重女はブラックは苦手なので、少し多めの砂糖とミルクを入れないと飲めない。最初は縁が僅かに赤みがかった綺麗な珈琲色だったのが、今じゃミルクと砂糖とで、黄土色の甘ったるい飲み物に変わってしまっている。
 重女はカウンターの端にあるソースや醤油などの調味料を置いている小さな盆から、塩を掴んだ。
 昔、海軍のコーヒーには塩を入れて飲むものだと聞いたことがある。それを知った小学生の重女は、家にあったインスタントコーヒーに、砂糖の代わりに塩をスプーン一杯入れよくかき混ぜて飲むと、そのあまりのまずさに思いっきり吹き出した。それは最早コーヒーではなく、塩辛い黒い液体であった。
 本来の海軍式コーヒーに入れる塩は、ほんのひとつまみ程度でいいことを知ったのは、その事をシドに話して笑われてからだった。
 それからコーヒーに塩をスプーン一杯入れるなんて愚挙は犯さなくなったが、今、重女はソルトシェイカーを自分のコーヒーに振って塩を入れている。しかも何回も。
 大分塩を入れたら、よくかき混ぜる。そして隣の黒蝿に『はい、黒蝿。美味しいよ』と笑顔で勧めた。

 「おいおい、黒蝿君はさっき吐いたばかりだよ。コーヒーは胃に良くないよ」
 『でも、フジワラさんのコーヒー凄く美味しかったから、是非黒蝿にも飲んでほしくて』

 媚びるように、やや高い声が出るよう咽喉マイクの音声を意識しながら、自分のコーヒーカップを黒蝿の前に置く。黒蝿はまだ血色の悪い顔でカップを見つめている。
 今の黒蝿は黒い革のコートに、頭にはいつもの鴉を象った兜ではなく黒い鳥打ち帽といったスタイルだ。今は屋内なので帽子は脱いでいて、緑がかった長い黒髪が露わになっている。全身が黒でまとまった黒蝿がコーヒーを飲むところはきっと絵になるだろうな、と自分が施した悪戯も忘れ、重女は脳内にその様子を思い描いた。
 黒蝿は眉を寄せながらカップを持ち、くんくんと匂いを嗅いでいる。もしかしてコーヒーは初めて飲むのだろうか。

 「黒蝿君。無茶してはいけないよ。君はまだ胃が弱っているんだ」

 フジワラの忠告に答えず、黒蝿はじっとカップの中のコーヒーを見ている。

 『ぐいーと飲むといいよ。そうしないと本当の美味しさがわかんないから』

 重女が悪魔的な横槍をいれ、飲むことを促した。
 
 「………」
 
 すると黒蝿は無言のままスプーンでコーヒーを数回かき混ぜると、カップに口をつけそのまま一気に飲んだ。

 「!!?」

 予想通り、というべきか、酷く塩辛い味付けのコーヒーを黒蝿は思いっきり吹き出した。
 吹き出されたコーヒーはカウンターと、フジワラのエプロンと、そして悪戯の張本人の重女の顔にべっとりとついてしまった。

―――

 フジワラと黒蝿に怒りの雷を落とされた重女は、フロリダから追い出され、ツギハギを呼んでくるよう命じられた。
 
 (何もあんなに怒んなくたって……)
 
 胸中でぶつぶつと文句を言いながらコンプの地図を見ながら神舞供町を歩いていると、ツギハギの店はすぐ見つかった。
 ツギハギもここ神舞供町で店を経営しているらしく、その店の名は【セルフディフェンス】というミリタリーショップだ。
 店の前のショーウィンドウには、迷彩服やハンドガンやアサルトライフルなどのモデルガンが展示されている。
 鉄製のドアを引くと、落ち着いた雰囲気のフロリダとは対照的に、ところせましとモデルガンやミリタリー系の服、そして戦車や飛行機などのプラモデルまで陳列されている。

 『わあー……』

 ずっと兵隊に憧れていた重女にとって、この店は宝の山に見えた。
 陳列棚のガラスに展示されているモデルガンを凝視する。シグ・サウエルにコルト・ガバメント、ワルサー・モデルPPに南部式ベビーナンブ、更に別の棚にはMP5サブ・マシンガンにM60機関銃、狙撃銃まで飾られてある。
 重女は記憶の奥底から、家の近くの米軍基地の見張りの兵士が持っていた銃はどんな形だっただろうと思いだそうとした。なんとなくアサルトライフルをもう少し大きくしたような感じだったような……
 次に衣服のコーナーを見る。
 迷彩パターンのジャケットやトラウザース、砂漠用のデザートカモフラージュに黒や茶の軍靴まである。兵士が着ていそうな本物らしきものもあれば、“ミリタリー風”の一般的なシャツやズボンやパーカーにスニーカー、さらには女性用のおしゃれなスカートやブラウスまである。

 (この時代では、こういう兵隊さん風のデザインのカジュアルな服も売ってるんだ)

 その中のいくつかの女性用の服を気に入った重女は、是非買いたいと思いツギハギに声をかけようとした。が、店に入ってから興奮して気付かなかったが、レジカウンターはおろか店内にツギハギの姿はどこにもいない。

 (あれ、どこにいるんだろう?)

 レジカウンターに近寄ると、《ただ今席をはずしております。用のある方はブザーを押してください》との小さな立て看板が置いてあった。
 横にある古びたブザーを押す。ビーッという音が店内に響く。しかし暫く待ってもツギハギは来ない。
 ツギハギの物音を聞き逃さないよう耳をすますと、何やら床下のほうから小さな衝撃音が連続して聞こえてくる。重女はしゃがんで床に耳を近づける。
 ドォン、ドォン、とまるで花火の打ち上げのような音が聞こえる。地下に部屋がある? そこで何が起こっているのだろう?
 重女は遠慮しながらもレジカウンターに入り、奥の部屋に足を踏み入れる。そこには商品が入っているらしき段ボール箱が積まれており、帳簿や須崎家で見た薄いテレビのようなもの――あとで聞いたら、あれは「ぱそこん」というものだとミドーが教えてくれた――が乗っている小さな事務机がある。そしてその更に奥にドアがあり、重女はドアノブを回してみた。
 鍵はかかっていなく簡単にドアは開いた。ドアの向こうには下に向かう階段がある。ドォン、ドォンという音が大きく聞こえる。やはりこの下で確実に何かが起こっている。重女はそう確信し、階段を降りた。

―――

 重いドアを開けると、銃声が重女の耳を聾する。
 地下室は射撃場であった。壁には何挺もの様々な銃がかけられていて、広い空間の奥に的があり、ガラスでそれぞれ隔てられた場所から銃弾を放ち、的に当てる。その中に耳を保護するイヤーマフをかけたツギハギがいた。ツギハギは耳にイヤーマフを当てているせいかこちらに気付いていない。

 『ツ、ツギハ……』

 ズキューン、という銃声が重女の言葉を遮った。ツギハギの銃が火を噴き、弾が的に当たる。弾は的の真ん中に穴を空けた。また撃つ。今度も殆ど同じ場所に穿かれる。銃を撃つ姿は堂に入っており、まるで本物の軍人のようだ。
 彼は確か悪魔召喚師のはず。悪魔召喚師は銃も使えないといけないのだろうか。弟のアキラも銃を撃っていたのだろうか、とアキラが銃を構えるところを想像したが、優しく気弱なあの子が銃を撃っているのはなんとなくちぐはぐな感じがする。

 (それにしても沢山の銃があるけど、ここにあるのは全部本物?)

 重女は壁に飾られている銃に引き付けられるように近づいた。ベレッタ92らしき銃に触れようとしたところ、がしっとその手を掴まれた。

 「なにしてんだお前は!! こんなところで!」

 右手を掴んでいたのはツギハギだった。イヤーマフを外し、縫い目の目立ついかつい顔を怒りに歪ませている。全身から昇る怒りのオーラに気圧され、無意識に重女は身体を後ずらせた。

 『あ、あの……フジワラさんが』
 「ああ!?」
 『フ、フジワラさんが、ツギハギ……さんを呼んで来い、て……』

 ツギハギのあまりの気迫に、情けないことに泣きそうになり電子音声が震えてしまった。掴まれている右手が痛い。

 「フジワラが?」

 そういうとやっとツギハギは手を離してくれた。重女は手をさすりながらツギハギから距離をとる。右手にはツギハギの大きな手形が赤々しく残っている。全く凄い力だ。

 『はい。フロリダにくるようにと。私の仲魔の黒蝿も来ています』
 「……ふん、そうかい」

 ツギハギは射撃所に戻ると、銃から弾倉を取り出し、床に散らばった薬きょうを集め、銃を壁に戻す。そして厳重に拘束具をかける。重女に見せつけるように。

 『あの……ツギハギ……さん』
 「なんだ?」

 ツギハギという渾名で呼んでいいのかわからなかったが、重女はツギハギの本名を知らない。なのでそのまま「ツギハギさん」と呼んだが、ツギハギは特に気にしていないようだ。

 『ツギハギ、さんはいつもこうやって銃を撃ってるのですか?』
 「……まあな。射撃ってのは怠けるとすぐに勘が鈍る。すると悪魔退治に支障が出るからな」
 『でも、ツギハギさんは悪魔を召喚できるじゃないですか。それだけではいけないのですか』

 す、と奥の棚からツギハギは不思議な銃を取り出す。と、いってもあれは銃と呼んでいいのだろうか? グリップと引き金はついているが、銃身がとてもでかい。いや、でかいというより広い。まるで普通の銃の銃身の部分に平べったい板をつけたような奇妙なものだ。

 「これに俺の悪魔召喚プログラムが組み込まれている。GUN(銃)に組み込まれているコンピューターだからGUMP(ガンプ)。これを「SUMMON」(召喚)モードにして引き金を引けば仲魔を召喚できる。
 だがこいつに組み込んだプログラムは、俺がベトナム戦争で使っていた頃からの古いもんだ。改造し何度かバージョンアップし修理しているがいつ使えなくなるかわからん。戦闘時にガンプが敵に破壊される可能性もある。だから悪魔召喚師ってのは仲魔に頼るだけじゃなく自身も戦闘能力を鍛えないといけねえんだよ」
 『ベトナム戦争……』
 「ああ、お嬢ちゃんは歴史の教科書でしか知らないか。俺は昔軍人でな。ベトナム戦争で悪魔召喚プログラムが実用化されたんだ。俺はそのプログラムの実験部隊としてベトナムのある村で戦った。この顔の傷はその時のものさ」

 ベトナム戦争――知らないどころか、重女はまさにその戦争が行われている時代で育ったのだが、それは説明しなくともいいだろう。しかしベトナム戦争に従軍していたというなら、ツギハギは一体何歳なのだろう? 若く見積もっても七十代だろうか。
 まあツギハギの年齢はどうでもいい。それより――

 『その、ツギハギさん。ここの射撃場て、一般人も使えるんですか?』
 「いや、ここは俺が秘密で作った場所だ。正規の許可は受けてない。ここに並んでいる銃も極秘ルートから仕入れたものだ。この事は絶対言うなよ。銃刀法違反でサツにしょっぴかれるのはごめんだからな」
 『はい、絶対言いません。だから、お願いがあります』
 「なんだ?」
 『私もここで銃の腕を磨きたいんです。だから私にもここを使わせて……』
 「駄目だ!!」

 いきなりのツギハギの大声が重女の鼓膜を震わせ全身に行き届く。銃声に勝るとも劣らない音量であった。

 「お前、まだ子供だろう!? 子供が銃なんか持つもんじゃねえ!」

 再び怒鳴られる。が、重女もなんとか萎えそうな全身に力を入れ反論する。

 『わ、私はもう十五です! 子供じゃありません! 悪魔召喚プログラムだって使えます! それにさっきツギハギさん言ったじゃないですか! 悪魔召喚師は自身も戦闘能力を鍛えなきゃいけないって! だから……』
 「馬鹿野郎!! それで銃を撃ちたいってか? 十五なんてまだまだケツの青いガキじゃねえか! そんなガキに銃なんて絶対持たせられねえ!!」

 鬼の形相で先程の倍の音量で怒鳴られ、また泣きそうになったので思わず顔を背けてしまった。何か、何か反論しないと。でも言葉が出ない……。
 言葉を失い俯いている重女をよそに、ツギハギはふん、と顔を背け、ガンプを腰の革の銃帯に収める。そして背を向けたまま、ぽつりと言う。

 「銃を持つってことは、誰かを殺すってことだ。その誰かが人であれ悪魔であれ、俺はお前みたいなガキが銃を持ってる姿を見るなんてもうごめんなんだよ」

 その声音には、妙な湿り気があった。傲岸不遜なツギハギらしくない。
 彼はベトナム戦争に従軍していたと言った。もしかして彼には、余人には計り知れない経験を沢山してきたのかもしれない。それこそ、年端もいかない子供を相手に戦ったり、自分とあまり変わらない年齢の子供を部下にし、敵陣に向かわせたりといった経験があるのかもしれない。

 「わかったなら行くぞ。フロリダでフジワラが待ってるんだろう?」

 ツギハギはカーキー色のジャンパーを羽織り、重女に一緒に来るよう促した。射撃場を出る際、店へと続く階段を昇るツギハギの背中が、重女にはこの時はより一層広く感じた。

―――

 純喫茶・フロリダは通常は夜の十時まで営業している。だが今日は四時で閉店した。大事な話し合いがあるからだ。
 客のいなくなったフロリダには、店主のフジワラと、相棒のツギハギ、重女に仲魔のやたノ黒蝿の三人と一匹しかいない。三人と一匹はテーブル席に座り、テーブルになにやら書類を広げている。

 「よし、じゃあこれから作戦会議を始めるよ」

 ぱん、と手を叩きフジワラが明るく言う。フジワラのソファーの隣にはツギハギが、重女の横には黒蝿が座っている。黒蝿はじろりと重女を睨む。全く、まだ塩入りコーヒーを飲まされたのを恨んでいるのか。

 「とりあえず確認するけど、二日後のクラブ・ミルトンで、VIPカードを手にした重女さんはVIPしか入れないパーティーに招待された。それでそのパーティーは悪魔と人間が集まっている可能性が高い。そのことは合ってるね?」
 『あ、はい』
 「その悪魔の集会なんだが、人間も一緒ってのがどうもしっくりこねえんだよな。悪魔と人間が同じ空間にいたら、そこにいる人間は悪魔に食われちまうぜ」
 「ひょっとしたら、クラブ側で契約している悪魔に招待された人間が供物として捧げられているのかもな」

 ツギハギの疑問に黒蝿が答える。

 「確かにその可能性はあるね。だけどね、私はもっと違う問題が発生していると思うんだ」
 『どういうことですか?』
 「私がクラブ・ミルトンで手に入れた情報によると、その集会はクラブの地下で行うらしいんだ。あそこの地下には大きな施設があるらしく、その施設の一室で集会は行われているんだけど、なんとその集会に招かれた客はきちんと帰っていったんだよ」
 「悪魔と一緒の集会だったのに、そいつらは悪魔に食われなかったってことか?」
 「そう。ただその時の客の様子が変でね。なんというか異様にハイテンションだったんだ。
 パーティーだから多少羽目を外すだろうけど、その客達は目がとろんとしてて、足元もおぼついてなかった。酒に酔っぱらった感じじゃない。まるで何かが頭の中から抜け出たような……なんだか異常に見えたよ」

 フジワラが身を乗り出し語る。パーティーから帰った客が異常な様子だった……それってもしかして……

 「妙なクスリが出まわってるかもしれねえってことか」
 「その可能性はあるね。招待した客達に違法薬物を配ってるってのはあるだろう」
 『あれ? でもそれじゃあおかしくないですか?』

 重女の言葉に男達の視線が集まる。重女は咽喉マイクのチョーカーに触れながら続ける。

 『だってそれだと、ただの違法薬物が出回っているだけじゃないですか。いや、それでも十分駄目ですけど、悪魔は関係ないってことですか? 私達が手に入れた情報によれば――』
 「いや、大丈夫だよ落ち着いて。それでここからが重要なんだけど……」

 フジワラは組んだ足を解き、手を組み膝に乗せる。そしてもったいぶったように続きを話す。

 「その招待された客達は毎週のパーティーには必ず来てたんだけど、ある時を境にパーティーに行くため地下に行ったきり姿が見えなくなったんだ」

 重女は身体を強張らせた。隣にいる黒蝿も、ツギハギも同じく。

 「それとなく他の従業員に客の行方を聞いたんだけど、誰も知らなかった。そもそもVIPのパーティーについては従業員の間では触れてはいけない暗黙の了解があったからね。
 その子達はパーティーが終わる時刻になっても姿を現さなかった。地下の施設からは外に出られないのは私とツギハギの調査で判明している。
 さあ、これをどう見る? 黒蝿君?」

 フジワラは急に黒蝿に話を振った。が、突然の問いにも関わらず、黒蝿は淡々と答えた。

 「何度か違法薬物とやらで客のマグネタイトの質を良くし、食べごろになったら悪魔達が招待客を食っている。そういうことか?」
 「ご明察。私達もそう読んでいるよ」

 まるで答えを当てた生徒を褒めるように、フジワラが朗らかに言った。

 「どうやってマグネタイトを良質化する薬を開発したのかはわからないけど、招待された客達は何度もその薬物を摂取させられ、頃合いになったら皆悪魔の餌になっている。これが私達の見解だ」
 『あ、あの、またちょっといいですか?』

 重女の二度目の質問。つい手をあげた重女に「どうぞ」とフジワラが答える。重女はすう、と息を吸い、チョーカーのスピーカーから電子音声を発した。

 『ええと、それだと、この事件の背後にいる「ヤタガラス」になんの利益もないですよね?
 パーティーに参加費がかかるっていうならともかく、招待はタダですし。そんな手間かけるんだったら、最初に招待客を招いた時に悪魔に食べさせればいいわけですし。違法薬物を作るのだってお金と時間がかかると思うし。組織運営の資金集めが目的の「ヤタガラス」にしてはやってることがちぐはぐだと思うんです』
 「いい質問だね。そこなんだよ問題は」

 うーんと、困ったようにフジワラは首を傾げる。

 「招待客が悪魔の餌食になっているってのは間違いないんだろうけど、やりかたが回りくどすぎるんだよね。
 重女さんの言う通り、最初に客に薬物を大量摂取させ悪魔に捧げればいいのに、何回もパーティーに通わせる意図がわからない。資金繰りに困窮している「ヤタガラス」がお金のかかるパーティーを毎週開催するってのもおかしいし、そこまでしてなんで悪魔の餌となる人間を集めるのか、そもそも悪魔を従わせてなにがしたいのか、そこが謎なんだよ」
 「ま、そこはお嬢ちゃんが潜入して実態を把握すりゃいいんじゃねえの」

 ツギハギが横から口を挟む。いつの間にか彼はビールを飲んでいる。ぷん、と酒臭さを感じ、つい、『私は“お嬢ちゃん”じゃありません。重女です』と苛立って名(正確には偽名だが)を告げた。

 「そうだな。折角苦労して招待を獲得したんだ。潜入計画を練った方がいいだろう。内部に忍び込めば「ヤタガラス」の目的も分かるだろうしな」

 また簡単に言ってくれる! と重女は黒蝿を軽く睨んだ。潜入するのは他ならぬ私なのだ。違法薬物らしきものが出回っていて、更に悪魔までいる所に私は一人で潜入しなければいけない。こちらの心細さを少しは汲んでくれてもいいのに……。

 「そうだね。それじゃあ早速潜入計画をたてよう! まずはこの地図を見て。これは私が独自に捜査して作ったクラブ・ミルトンの地図なんだけど……」

 そうしてフジワラを中心に、クラブ・ミルトンでの“悪魔の集会潜入計画”が話し合われた。
 夕方に始まった作戦会議は、夜更けまで続き、更に翌日も続けられた。全てはヤタガラスの悪事を暴くため、重女達は入念な計画をたてた。

―――

 そしてパーティー当日。
 重女は再びクラブ・ミルトンに来ていた。

 薄く施した化粧に、再び「そふとこんたくとれんず」なるものを装着し、癖のある金髪は美容院で綺麗に整えてもらい、ワインレッドの上品なワンピースを纏い、足元は高さ五センチもあるハイヒール。そして喉には咽喉マイクが入ったミドーとキヨハルが作ってくれたチョーカー。傍から見れば私はきっとお金持ちのお嬢様に見えるだろう。

 (私が計画の要なんだ……しっかりしなくちゃ)

 重女は首からぶら下げている十字架のネックレスを握ると、クラブ・ミルトンの扉を開けた。よし、潜入計画のはじまりだ――

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 重女が案内されたVIPルームは、群青色を基調とした色合いの小さな部屋であった。
 大きなソファーに、凝った金細工の足と縁のテーブル。壁には絵画が飾られており、ちょっとした高級ホテルの一室のような雰囲気である。
 大き目のテーブルには、クラブ側からのサービスなのかサンドイッチやフライドチキン、フライドポテトなどの軽食と、お酒やミネラルウォーターやオレンジジュースなどの飲み物が置かれている。
 疲れ切った身体をソファーに沈ませていた重女は、喉の渇きを癒そうとミネラルウォーターをコップに注いで飲もうとした。だがコップを持った右手が止まる。影で手首を縛られたからだ。

 『飲むな』

 重女の手首を影で縛った張本人の黒蝿が、右耳のイヤリングからそう命じた。

 ――なんで?
 『その飲み物に毒が仕込まれている可能性があるからだ。食い物もだ。一切手を付けるな』
 ――心配しすぎだよ。そんなこと……
 『絶対ない、と言い切れるか? お前は今VIPの資格を手にし、この部屋に招かれた。が、それは逆に敵の中枢に近くなった証拠でもある。今まで以上に注意しないとあっという間に死んでしまうぞ』

 コップの中の冷たい水を眺めながら、重女はごくりと喉を鳴らした。
 ここに案内してくれたクラブの支配人の男は終始笑顔だったが、確かにどこか裏があるような、こちらを疑っているような目つきではあった。あの男なら飲み物にこっそり薬物を混ぜていてもおかしくなさそうではある。
 だが、それ以上に重女は強烈な飢餓感を抱いていた。ブラックジャックの真剣勝負と、黒蝿との感覚の同調が肉体にもたらした負荷は大きく、そのせいで今の重女の身体は、まるで体育のマラソン授業が終わったのと同じくらい疲れ、大量の発汗のせいで水分を欲していた。そう訴えても、黒蝿は飲むな食うなの一点張り。こいつは私の辛さを知らないからそんな事を言えるんだ。

 ――この鬼! 悪魔!
 『悪魔だが?』

 重女の罵倒もどこ吹く風というように黒蝿は受け流す。その態度に今度こそ思いっきりイヤリングごと黒蝿を潰したいと本気で思ったその時。

 コンコン、とドアがノックされる。
 重女は床に投げつけようとしていたイヤリングを右耳に付け直し、スカートの裾とブラウスの襟元を正し、『どうぞ』と咽喉マイクから機械音声で応答した。
 そして重いドアを開け部屋に入ってきたのは、意外な人物であった。

 「いやはや、また会おうとは言ったけど、まさかこんなに早く会えるとは」

 部屋に足を踏み入れたのは、先程までブラックジャックで対決していたディーラーのフジワラと、その相棒であるツギハギ男だった。
 フジワラはディーラー服ではなく、白いシャツに明るめの青のジャケットを羽織りベージュのズボンという私服らしきラフな格好である。その姿から、彼がディーラーとしての職を失ったのだろうということは容易に想像がついた。

 「………」

 なんとなく罪悪感を覚えた重女は、顔を悲し気に俯けた。そんな重女を気遣うようにフジワラは努めて明るく言った。

 「そんな顔しないで。もともと私は目的があってディーラーとして潜入していたんだ。いつかは辞め時がくると思っていた。それが早まったにすぎないよ」
 『潜入?』

 思わず聞き返した重女に、「そうだ」と不機嫌そうに答えたのはツギハギ男だった。

 「あのままこいつが優秀なディーラーを演じ続けてれば、今頃VIPカードを手に入れられたのは俺達だったんだ。それがどっかの誰かさんが邪魔してくれたおかげで計画はパアだよ」

 ぎろり、とツギハギ男は重女を睨んだ。ブラックジャックで重女が連勝し始めた時に寄越したのと同じ怒りの視線だった。
 ツギハギ男の視線にびくつきながらも、彼がゲーム中自分に敵意を込めた視線を送っていたのは、ブラックジャックで負けたからではなく、「計画」とやらが失敗に終わったからだったのか、と重女は理解した。
 しかし、「計画」とはなんだろう?

 「ツギハギ。この部屋の監視カメラはきちんと細工してあるね?」
 「無論。俺の仲魔がカメラに干渉している。カメラには五つの固定映像がループして映っているし、録音も切ってある」
 「そうか。ウンディーネはまだ怯えているのかい?」
 「その逆だ。そのお嬢ちゃんのイヤリングの中の悪魔に組み伏せられた際、一目ぼれしたらしい。「ワイルドで素敵!」だってよ。たく、女ってのは悪魔も人間も良く分からんな」

 フジワラ達の言葉を、重女は茫洋とした頭で聞いた。彼らは一体何をしにここに来たのだろう。どうやらクビになった腹いせに復讐しに来たわけじゃなさそうだ。監視カメラに細工したということは、何かクラブ側に聞かれるとマズイ話をしにきたのか。それは、彼らの言う「計画」とやらに関係しているのだろうか。

 「お、クリュグがあるじゃないか。飲ませてもらおう」

 氷水で冷やされていたクリュグを掴み、どっかりとテーブルの反対側のソファーに座ったツギハギ男は乱暴に栓を開け、グラスに注いで上手そうに飲んだ。重女は口内に沸き上がった唾を飲みこむ。
 フジワラは彼のことを「ツギハギ」と呼んでいた。容貌そのまんまの名は渾名だろう。ただのディーラーとイカサマ師という間柄ではなく、渾名で呼び合うほど二人の仲はいいのだろうか。そもそもこの二人は一体何者なんだろう? 疑問ばかりが湧いてくる。

 「食べないの?」

 同じく反対側のソファーに腰かけたフジワラが問いかけてきた。本当なら今すぐにでも飲み食いしたい身体の飢えと渇きを我慢し、『私は、いいです』と答えた。

 「そう。ああ、私達がここに来たのはね、これを君に渡すようマネージャーから言われたからさ。クラブの従業員としての最後の仕事ってわけ。はい」

 ジャケットの懐から、フジワラは白い封筒を出して重女の前に置いた。クラシカルな封蝋を施されている封筒の表面には、「Invitation」という英語が一語だけ印刷されていた。Invitation……どういう意味だっけ?

 「招待状、だね。開けてごらん」

 招待状! はやる気持ちを抑え、重女は丁寧に封蝋を剥がしていった。そして中から出てきたのはチケット一枚と、金色の豪華なデザインのクラブのVIPカードと、そして一枚の手紙だった。
 手紙には、重女の賭博の才能について褒め、当クラブのVIP会員に認定する通知と、三日後にVIP会員だけが入れるパーティに招待する旨が書かれていた。

 ――黒蝿、このパーティって……
 『恐らく悪魔の集会だろうな』

 やはりそうか! 事前に入手した情報通り、ここで悪魔の集会が開かれていたのは本当だったんだ。そしてそこに正式に招待された! これでこのクラブの深部に迫れる! 目的は達成された。良かった……。

 「良かったなあ。俺らの代わり招待されて」

 心地よい達成感を吹き飛ばすように、ツギハギが不機嫌そうに呟く。知らずに笑みを浮かべていた重女は表情を消し身体を強張らせた。「ツギハギ。そんな言い方するもんじゃないよ」とフジワラが嗜めるが、ツギハギはふん、と顔を背け酒を舐める。
 腕時計をちらりと見たフジワラは、「時間がない。本題に入ろう」とソファーから身を乗り出した。一体なんだろう?

 「単刀直入に言うよ。重女さん、私らと手を組まないかい?」

 何を言われているか咄嗟に理解できなく、重女はつい眉を寄せフジワラの顔をまじまじと見る。が、そこには真剣な表情の中年男の顔があった。

 「もう君も知っていると思うが、こっちのツギハギは悪魔召喚師だ。君と同じくね。ただ、彼は日系アメリカ人なんで、「ヤタガラス」には属していないんだけど」
 『ヤタガラス?』

 おや、というふうに、フジワラとツギハギが顔を合わせた。なんだろう? 神話の八咫烏のことだろうか。それに姿を変えられた悪魔なら今右耳のイヤリングの中にいるが。

 「君は悪魔を使役しているのに、国家機関「ヤタガラス」に属していないのかい?」

 やや驚いたふうに問われ、やっと重女は「国家機関ヤタガラス」の事を思い出した。
 今の今まで忘れていたのが恥ずかしい。悪魔召喚師を束ねる機関。そこにシドも属しており、ここの情報を手に入れた須崎家も確かその傘下のサマナーの家だった。どうやら悪魔召喚師は基本的にそこに所属するらしいが、自分は勿論入っていない。

 『その……私は……』
 「たまにヤタガラスに属していない“はぐれサマナー”も存在する。この嬢ちゃんもその一人なんだろうよ」

 ツギハギが横から口を挟む。日系アメリカ人という彼の顔をよく見ると、今まで暗い照明で気づかなかったが、日本人にしては鼻梁が高く、目元の彫りも深く顎のラインがしっかりしている。言われてみれば確かにどこか欧米人ぽい。

 「まあ、ヤタガラスに属していないなら好都合だ。実はね、私達は君と同じようにここで開かれている悪魔の集会の存在をかぎつけてここに入ったんだ」
 『ええ!?』

 驚きのあまり思わず叫んでしまった。もしかして、さっき彼らが言っていた「計画」というのは……

 「だけどその集会とやらは、VIP会員や一部の信頼のおける従業員しか入れない。だから私はツギハギの助けを得て凄腕ディーラーとしてここで働いた。クラブの収益を格段に増やした私は、きっともう少しで集会に招かれただろうね」

 先程とは比べものにならない罪悪感が胸を締め付け、重女は深く頭を垂れる。彼らは自分達と同じ目的でここにいたのだ。ディーラーとしての腕前をクラブ側に認めさせ、悪魔の集会に入れるよう画策していた彼らの「計画」は水泡と化してしまった。他ならぬ、自分のせいで。

 『ごめんなさい……』
 「謝ることはないよ。君の仲魔の力がツギハギのウンディーネより勝っていたからイカサマを見抜けたんだよ。最後は私と君の小細工無しの勝負だった。それに君は勝った。そしてVIPカードを手にし招待も受けられた。何も恥ずべきことはない」
 『あれは……ただ運が良かっただけです。私はほとんど勘を頼りに戦っていました。戦略もなにもなかったんです。ギャンブルとしては恥ずべき方法で……』
 「運も実力のうちだよ。勝利の女神が微笑んだ時、たまたま視線の合った者が女神の恩恵を受けられるものさ。君は頼もしい“剣”を持っているみたいだしね」

 フジワラが右耳のイヤリングに視線を移し言う。重女はイヤリングの中の黒蝿が身じろぎしたように感じた。

 「折角だからイヤリングの仲魔もここに座ったらどうだい? 監視カメラは細工してあるし、姿が映ることはないよ」
 「それは俺も賛成だな。このお嬢ちゃんが一体どんな悪魔を仲魔にしているか見てみたいな」

 フジワラとツギハギの要請に重女が答えるより先に、イヤリングがはじけ、VIPルームに一瞬強烈な風が吹いた。風が重女やフジワラ達の顔や服、部屋の中の調度品を強く撫ぜる。あまりの強さに目を開けていられない。
 風が収まると、重女の横にいつの間にか黒蝿が腕組みしながら座っていた。

 「ふうん。なかなか色男じゃねえか。おい兄ちゃん、名前は?」
 「………やたノ黒蝿」

 黒蝿は険しい表情を崩さずそっけなく名乗った。ムッとしたツギハギをよそに、フジワラは「よろしく。やたノ黒蝿君」と手を差し出してきた。が、黒蝿は当然のように無視する。見かねた重女が肘で脇を小突いても態度を変えない。

 「こんなに立派な仲魔を従えているだなんて、重女さんは見かけによらずかなりの力の持ち主らしいね。これなら力強い。是非私達と手を組んでほしい」
 「待て。何故お前たちは俺達と手を組みたい? そんなに悪魔の集会に興味があるのか? そもそもお前は何者だ? そこのツギハギ男のように悪魔召喚師ではないのだろう」

 黒蝿の質問に、フジワラは水を一口飲んでから答えた。

 「私は、フリーのジャーナリストだ」
 『!』
 「普段は喫茶店を営んでいるんだけどね、本業は社会問題を追うジャーナリストってわけ。今は悪魔と、悪魔召喚師について追いかけている。ツギハギは取材の過程で会った悪魔召喚師で、良き協力者で良き友人だ」

 フジワラによると、古くからこの国の裏で活躍してきた悪魔召喚師――デビルサマナーというものに惹かれ、取材を続けてきた。そしてツギハギと会い、デビルサマナーを纏める国家機関ヤタガラスの存在を知り、そしてそのヤタガラスのなにやらきな臭い動きをキャッチした。クラブ・ミルトンでの悪魔の集会も、どうやら裏にはヤタガラスがいるらしい。

 「平安時代にこの国を守護する為に結成された超国家機関ヤタガラス。だが時代が変わるにつれてヤタガラスの内情も変わってきた。純血のサマナーの数は減少傾向にあり、アメリカで悪魔召喚プログラムまで開発され、それを扱える新しいサマナーが台頭するようになって、国はヤタガラスよりそちらのサマナーに外注することが多くなった。
 ヤタガラスでも悪魔召喚プログラムの使えるサマナーを増やしているけど、なまじ歴史があるから古来の方法にかじりつく連中が組織には多いらしい。悪魔召喚プログラムの組み込まれたコンプ使いを支持する派と、まっとうな血筋のサマナーに今まで通り悪魔討伐させる派と、ヤタガラス上層部はいくつもの派閥に割れている。
 そんな下らない派閥争いのせいで、今じゃ国からの予算も縮小され、組織運営もぐらついている。それに焦った過激派は組織維持のため、資金集めの為になにやら危ない道をいくつか渡っているらしい。それがこの数ヶ月で私が集めた情報だよ」
 「要するに、ヤタガラスも一枚岩じゃないってこった。組織がでっかくなると当初の理念だけじゃやってけない。政治的な駆け引きも必要だし、思想の違いで派閥もできる。でっかい組織のお偉いさんの考えはどの国でも同じだな」

 悪魔を滅するために結成された、魔をもって魔を討つ超国家機関ヤタガラス。そう昔重女はシドに聞かされた。
 きっと、ヤタガラスに所属しているデビルサマナーは皆が皆悪人というわけじゃないのだろう。この間お世話になった須崎家のように、純粋に悪魔を討つために存在している家もあるし、組織の基本理念はまだ変わっていないのだろう。そうでなければ須崎家にクラブ・ミルトンでの悪魔の集会の調査依頼がくるはずがないのだから。
 だけど、もしヤタガラスの中に非道を働いている者達がいるなら、なんとかしたいと思う。そんな奴らをほっといたら、前に鞍馬山で見た光景のようなことが繰り返されてしまうかもしれないから。
 今でも思い出せる。鞍馬山地下のヤタガラス施設の換気口から見た悲惨な光景。頭にいくつも管を刺され診察台に固定された友人・京子。それを囲む大人たち、それに混ざっていたシド――

 「……!」

 急に息苦しくなり、ブラウスの胸当たりをぎゅっと掴んだ。「お守り」の十字架に触れると少しだけ気持ちが収まり、これをくれた大柄な神父の事を思い出す。

 ――シド。もしかしてシドも悪魔の集会に来る? なら私は――

 「重女さん? どうしたの?」

 フジワラの心配そうな声に、もう何度逡巡したか分からない思考を中断した。
 眉を寄せこちらを値踏みするかのような視線を寄越すツギハギと、温厚そうな顔にジャーナリストとしての使命感を漂わせるフジワラの顔を見比べ、最後に隣にいる仲魔の黒蝿の顔を見た重女は、『私、貴方たちに協力します』と答えた。

 「!?」
 「おい、うかつ過ぎるぞ……!」

 驚いて眉を上げたツギハギと、叱咤してきた黒蝿を無視し、重女はフジワラを見続けた。ブラックジャック勝負の時と同じ、本当の事を喋っている眼鏡の奥の鳶色の瞳を確認した重女は、『大丈夫。フジワラさんは、嘘を言ってない』と黒蝿に告げた。

 「なんでそんなことがわかる? またお得意の勘か?」
 『そうよ』
 「! お前は……!」

 黒蝿の怒声が響くより先に、フジワラが笑った。ツギハギも、黒蝿も、重女も怪訝そうにフジワラに視線を向けた。が、彼は構うことなく手を振って「こりゃ参った」と大仰に肩を竦めた。

 「断られた場合の説得案をいくつか考えていたんだけどね、まさか一発OKとは。「戦いの女王」が味方についてくれるとは心強いよ」
 『だから、私はそんなんじゃないですってば……!』

 恥ずかしさで顔を赤くした重女に、フジワラがそっと何かを目の前に出す。
 それはマッチ箱のようだ。「純喫茶・フロリダ」とレトロなデザインの印字が紅く印刷されている。喫茶の名の下に住所と電話番号が記載されている。

 「そうと決まれば早速作戦会議だ。でも今日は遅いから明日その喫茶店においで。私が煎れるコーヒーが自慢の喫茶店だよ」

 フジワラは帽子を被り立ち上がった。ツギハギもそれに続く。そしてもう一度、手を差し出してきた。今度は重女に。

 「とりあえず、私達は共同戦線を張った仲間だ。このクラブの暗部を、協力して暴き出そう」

 差し出された手を、重女は気負いなく握った。その手は大きく、そして温かかった。
 まだ納得のいかない風情の黒蝿が何か言いかけたが、「そろそろ行かないとやばいぞ」とツギハギが急かした声を上げて遮った。フジワラは握手を解きながら「ああ」と答える。

 「あ、携帯の番号教えてもらってもいい? 今の子はスマホ?」

 軽い調子で黒い小さな板を取り出したフジワラに重女は困惑した。けいたい? すまほ? それはなんだろう?

 『あの……私、「けいたい」も「すまほ」も持っていないんです。すみません……』
 「ええ? 今時の子にしては珍しいね」
 「フジワラ、早く!」

 ツギハギが更に急かすので、フジワラは曖昧に返事し、戸口へと向かった。

 「じゃあ明日、「フロリダ」で会おう! 時間は一時位でどうかな?」
 『はい、それじゃあ明日伺います』
 「また明日ね」

 まるで友人と遊びの約束をするかのような気軽さで、重女とフジワラは明日会う約束をした。
 フジワラ達が去ったあとのVIPルームには、無視され一方的に話を進められたことで怒りを露わにしている黒蝿と、栓が開けられた飲みかけのクリュグの瓶が残っていた。

 ―――

 それから荷物検査で没収されたコンプを返して貰い、廃神社へ帰る道すがら、重女はずーと黒蝿のお小言を聞かされる羽目になった。お前はなんでそういつも短絡的なんだ、なんで後先考えず勝手に決めるんだ、少しは人を疑ったらどうなんだ、等々。
 だが疲労困憊の重女の耳には殆ど届いていなかった。
 廃神社の結界にたどり着くと、重女は買い置きしていたミネラルウォーターをがぶ飲みし、眼科で無理やりはめられた「そふとこんたくとれんず」なるものを目から取ると、デパートの化粧品コーナーで施された化粧も落とさず、着替えもせず、気絶するかのように眠りに落ちた。
 眠りに落ちる寸前、握っていたフジワラのハンカチの香りが鼻腔に届き、今日出会ったフジワラやツギハギ達の大きな大人の背中を思い出した。

 彼らに比べて、まだまだ自分は子供なんだな、と感じ、重女はそのまま深い眠りへと落ちて行った。

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 フジワラの言葉に、重女の心臓はどくんと大きな鼓動をたて、呼吸が一瞬止まってしまった。

 ――この人、私達の企みを見抜いている!?

 重女は思わずツギハギ男の顔と、フジワラの顔を見比べてしまった。それがまずかった。二人は当たり、とでも言うかのようににやりと笑って見せた。
 何も言い返すことが出来なかった。重女は口を開けたまま無意識に右耳のイヤリングに触れた。頭の中が真っ白になり、体温が下がっていく。

 『惑わされるな』

 頭の中に見知った声が聞こえ、重女は正気に戻った。重女の影と同化した黒蝿の叱咤の声であった。そっとカードシューに視線を移すと、すぐ横のテーブルの角に影が辿りついていた。

 『こいつはカマをかけているだけだ。本当に俺達の策に気付いているなら、ツギハギ男が妨害してくるだろう。だが奴らはそれをしない。まだお前を疑っている段階だ。堂々としてろ』

 フジワラは笑みを崩さない。優しい笑みのはずなのに、今の重女にはその笑顔が般若のように見えた。
 ツギハギ男の視線が刺さる。この二人、次に私がどう反応するか見ているんだ。
 黒蝿の言う通り、ここで狼狽えては作戦が台無しになってしまう。堂々としなくちゃ。

 『そ、そうです、か?』

 冷静に、と思ったのに、情けないことに声が少し震えてしまった。ツギハギ男がくく、と喉を鳴らす。そしてグラスの残ったバーボンを一息に飲み干し、追加をホールスタッフに頼む。

 ――そうだ!

 ツギハギ男の様子を見て、重女の脳内にあるアイディアが浮かんだ。今、フジワラとこの男は私の事を警戒している。影と一体化した黒蝿がカードシュー間近で動きを止めているのも、彼らの警戒の目が厳しいからうかつに動けないのだろう。
 一瞬でいい。イカサマ師の二人の注意を逸らせば、黒蝿はやり遂げるだろう。なら、このアイディアに賭ける。

 「お嬢さん、まだゲームは続けますか?」

 フジワラが聞いてきた。穏やかな口調だが、声の裏では、私たちのイカサマを妨害する気かい? と聞いてきている。

 『はい。まだ全然勝ててないので。それに……』
 「それに?」

 ホールスタッフが盆にバーボンのグラスを乗せて、ツギハギ男に近づく。ツギハギ男がグラスを受け取ろうとする。

 『まだ“戦いの女神”は、私のところに来てくれてませんから』

 その時。

 「わ!?」

 ホールスタッフの足がほんの少し揺れ、盆は大きく傾いてしまう。グラスを受け取ろうとしたツギハギ男のカーキー色のパーカーと顔に、派手にバーボンがかかってしまった。
 その光景に、フジワラをはじめ、スーツの男、巻き髪の女の視線が一斉にツギハギ男に集中する。テーブルから皆の視線が外れた。その一瞬を黒蝿は逃さない。
 影と一体化した黒蝿はカードシューに取りつき、あっという間にカードに変化していたウンディーネを“組み敷き”、強い圧力をかける。
 ウンディーネは悲鳴すら上げる暇もなく、無理やり黒蝿の魔力によってその身を変化させられた。見た目は全く変わらないただのトランプカード。だがその数字とスーツは黒蝿によって強引に変えられた。これはもう主であるツギハギ男にも、フジワラの銀時計の干渉でも変えられない。黒蝿の魔力の圧力は、彼より弱いウンディーネにはどうすることもできない。
 そして黒蝿は重女の右耳のイヤリングに戻ってきた。この間、僅か0・5秒。
 ツギハギはホールスタッフに文句を言い、巻き髪女は自分にもバーボンがかかっていなかったことを確かめ、恋人のスーツの男と安堵する。フジワラはスタッフにタオルを持ってくるよう指示し、テーブルとカードにバーボンの液が飛んでいないか素早く確認する。
 カードを見た時、彼は違和感に気づき眉を寄せて重女の方を見た。が、もう遅かった。すでにこちらの策は成功したのだから。

 『よくやったな』

 珍しく黒蝿が褒めてきたので、重女は右耳から少し悪寒を感じ身震いした。明日は雪だろうか。

 『あそこでスタッフを影で転ばせ、ツギハギ男達の注意を逸らすとはな』

 そう、重女は黒蝿と一体化した以外の、まだ若干残っていた自分の影を伸ばし、ホールスタッフの足をひっかけ転ばせたのだ。ツギハギ男にバーボンをかけさせるために。
 客の一人に飲み物がかかってしまったら、誰だってそっちに目を向けるだろう。フジワラの注意をひけるかは賭けだったが、見事にはまってくれた。
 スタッフには気の毒なことをしたと思うが、ツギハギ男にはあまり同情の気持ちは湧かなかった。先程言われた「初心者と身障者には優しくしないとな」という言葉を重女はまだ根にもっていたから。
 パーカーを脱いで白いシャツ一枚になったツギハギ男の太い二の腕と首に、顔と同じく手術痕のような縫い目が沢山あるのを見て、重女は目を丸くした。黒蝿は彼を悪魔召喚師と言った。あの傷の数と、シャツの上でもわかる鍛え上げられた上半身から、彼はきっと歴戦の猛者なのだろう。

 「…………」

 フジワラは重女をじっと見ていた。睨んでいる、と言った方が正しい。
 もうカードが自分の思い通りに操れないことに気付いたのだろう。恐らく、私が何か細工をしたことも。
 しかしその証拠はない。黒蝿がウンディーネに圧力をかける瞬間、彼はカードシューから目を離していたし、監視カメラに映ってない自信もある。それはスタッフを転ばせた時も同様で、あの時の影はカメラの死角にスタッフが入った時に伸ばしたのだ。仮に映っていたとしても、あれを私の仕業と断定する証拠にはならない。今の自分には悪魔召喚師としての証拠は一切身に着けてないし、疑惑を持たれた右耳のイヤリングだって、調べられてボロがでるようには作っていない。大丈夫だ……多分。
 ツギハギ男がタオルで顔を拭き終わり、テーブルの動揺が鎮まったのを確認したフジワラは、
 
 「まだカードは一巡していませんが……お酒の液で汚れがついていないか念のために一度カードをシャッフルして確認したいと思います。宜しいですか?」と聞いてきた。

 重女達が頷くと、フジワラはディスカードとカードシューに収まっていたカードを混ぜシャッフルを始めた。優雅だったはずの手つきは何かを探るように不自然な動きに変わっていた。
 一方重女は、まるで透視能力が発眼したかのように、カードの数字とスーツが一枚一枚手に取るように分かった。フジワラも、ウンディーネの主であるツギハギ男も、黒蝿によって無理やり変えられたカードにもう何も細工は出来ないようだ。

 「どうぞ、お好きなところに」

 シャッフルし終えたフジワラが、重女にカットカードを差し出した。重女はフジワラの眼鏡の奥の目を真っ直ぐ見つめながら、カードの束にカットカードを刺した。じっと見ると、フジワラの鳶色の目は意外と優しい印象を与えた。
 カットカードの刺された箇所から束を二つに割ってまとめ、カードシューに収める。「ベットをどうぞ」という言葉でプレイヤーはチップをベットしていく。重女は思い切って手持ちのチップ全てをベットした。
 テーブルがざわついた。スーツの男と巻き髪女は口を開けて驚き、ツギハギ男は薄い片眉を上げた。

 「良いのですか? そんなに」

 フジワラの問いに、重女はしっかりと頷いた。このチップが有り金全てなので、もし負ければ重女はこのテーブルを退場しなければならない。しかし、今の重女には負けない自信があった。

 『“今の自分”なら、負ける気はしません』

 それは最初に大見得を切った時と同じ台詞であったが、今回は根拠のある確かな言葉である。
 またも他の三人のプレイヤーから怪訝な視線を向けられたが、重女はもう勝利を確信していた。
 フジワラが一瞬だけ、温和な表情を崩し当惑の色を滲ませたのを、重女は見逃さなかった。続きを読む

 ――この二人が、イカサマ師!?

 重女はふんぞり返りながら酒を飲んでいるツギハギの顔の男と、テーブルの上で滑らかにカードをシャッフルしているフジワラの顔を交互に見比べた。
 佇まいも言動も粗野なツギハギはともかく、物腰の柔らかなフジワラがイカサマを働いているなんてとても思えなかった。ましてやこの二人がコンビを組んでいるなど。

 ――それは確かなの?
 『ああ。今までの動きではっきりした。奴らはイカサマを働いている。と、いっても大した仕掛けじゃない』
 ――どういうこと?

 ふう、と黒蝿は溜め息をついた。そんなこともわからないのか、と馬鹿にしているように。

 『今から俺の“感覚”をお前のと合わせる。それで直接確かめてみろ』

 え? と聞き返すまでもなく、急に視界がぎゅうんと広がった。
 視覚、触覚、聴覚、嗅覚、全ての感覚が広がり、酷く鋭敏になった。目に入るもの、聞こえる音、肌に触れる空気の流れ、ホールの匂いまで、全てが情報となり重女の脳に入り込んできた。それは人間の処理能力を超えており、重女は酷い酩酊にも似た混乱に陥った。

 『どうした』
 ――気持ち悪い。くらくらして……吐きそう……
 『なら、同調を少し緩和する』

 焦点の合わないギラギラした万華鏡のような視界は、徐々にどぎつい色合いが薄れていき、耳元のノイズは晴れて、不必要な情報は遮断された。これなら耐えられる。重女は口許を押さえながら、いまや黒蝿のとほぼ同じになった視力で、フジワラのシャッフルしているカードを見た。

 ――あ!

 それは、ただのトランプカードではなかった。

 一枚一枚が“液体”で構成されている。水の精霊・ウンディーネの身体を変化させて作られたカードは、見た目も質感も本物のそれと同じである。勿論、違いなど人間には全く分からない。ただの人間なら。
 気づかなかった自分が間抜けに思えるくらい、あまりにも単純なイカサマだ。使役する仲魔をカードに変化させていただけ。それなら自分の思い通りのカードを配れる。

 『だが、ディーラーのフジワラは悪魔召喚師ではないな』
 ――なんで分かるの?
 『悪魔召喚師は体内の気の巡りが独特なんだ。自身のマグネタイトを仲魔に与えているからな。フジワラの気は一般人と変わらない』
 ――なら、もしかして悪魔召喚師は……

 「お好きなところへどうぞ」

 フジワラは赤いカットカードをツギハギ男へと渡した。プレイヤーにはシャッフルし終わったカードの束に、任意の所へカットカードを入れる権利がある。今回はツギハギ男の番である。
 ツギハギ男がカットカードを束に差し込んだ、その時。
 ぐにゃり、とカードが変化した。形が変わったのではない。カードがツギハギ男からマグネタイトをもらい、“喜んで”いる。少なくとも重女にはそう見えた。
 ――間違いない。悪魔召喚師はツギハギ男のほうだ。
 でも、ツギハギ男が悪魔召喚師なら、フジワラはどうやってカードを操っている?

 「それでは、始めます」

 プレイヤーが次々とベットしていく。重女もチップを置きながらフジワラの一挙一動を凝視した。
 フジワラが左手でカードシューからカードを抜き取り、プレイヤーに配ろうとする。その時、左手のごつい銀の時計から、何か微細な電流のようなものが流れた。“それ”はカードに――正確にはカードに化けたウンディーネに伝わり、フジワラの思い通りのカードになる。
 もうイカサマのトリックは分かった。ツギハギ男の仲魔のウンディーネがカードに変身し、ディーラーのフジワラが、左手の時計からマグネタイトに似た電流のようなものを発し、カードの数字を自由に変化させる。
 わかってしまえばなんてことはない、イカサマともいえないチープなトリックだ。

 ――あんな仕掛けがわからなかったなんて……
 『だから、お前ひとりに任せるのは心配なんだ』

 重女はむっとしたが、あの仕掛けを見抜けなかったのは事実だ。強くなったと思っても、まだまだ自分は半人前だ。
 さて、イカサマの正体は分かった。だがどうやって彼らに勝つ? 正攻法では勝てない。なら――

 『決まってる。“イカサマにはイカサマを”だ』

 黒蝿が自信たっぷりに、「作戦」の内容を重女に告げた。奴らのイカサマに対抗する策を。

 ―――

 『あ、スペードが揃ってる』

 重女はわざとらしく、手札のカードを指さして嬉しそうな声をあげた。フジワラと、ツギハギ男、スーツの青年に巻き髪女が怪訝そうにこちらを向く。

 『次にもう一回スペードが来たら、三枚もスペードが揃っちゃう。そしたら凄いなあ。もしかして配当が三倍になっちゃうかも?』
 「残念ながら、ここのハウスルールでは印(スーツ)が揃っても意味はございません」

 フジワラが淡々と告げた。声音は穏やかだが、顔は苦笑している。ルールブックで確認しただろう、とでも言いたげだ。だが構わず重女は続けた。

 『そうかあ、残念。スペードは尖っているから少し怖いな。ハートかクラブが来ればいいのに』

 全く意味不明な言動に、テーブル中に失笑が漏れた。皆の冷たい眼差しを受けながら重女は作り笑顔をひくつかせた。

 (なんで私がこんなことを……)

 そっと、重女は自分の足元を確認した。テーブルの下の影は静かにフジワラへと伸びている。幸いここのテーブルの照明は暗い。影が変化しても分かりにくいし、そもそも誰も他人の影の事など気にかけていないだろう。

 ――俺がお前の影に同化して、カードシューにとりつく。そしてウンディーネに圧力をかけてカードを無理やり変える。お前はフジワラとツギハギ男の気をひいて影から注意を逸らさせろ。

 これが黒蝿の策であり、重女に下した命令だった。
 カードシューに収まっているウンディーネを力ずくでこちらの任意のカードに変えるという、至極簡単な策だったが、ばれたら一発で終わりだ。慎重に黒蝿は影をテーブルの下からカードシュー目指して伸ばしていき、重女はフジワラ達にばれないよう間抜けな素人のふりをして彼らの気を引く。なるべく不自然にならないよう重女は喋り続けた。

 『あ、お兄さんの手札、ハートのクイーンがある。いいなあ』

 スーツの男の手札を指さし、重女はさも嬉しそうにはしゃいでみせた。スーツの男は巻き髪女と唖然とした表情で顔を見合わせた。一体この子は何を言ってるんだ、という風に。

 「ステイ」

 ツギハギ男が手を振ってステイした。そして重女の方を見た。重女はにっこりとほほ笑んで見せたが、その笑顔がわざとらしかったので、ツギハギ男は不気味そうに眉を寄せた。一体この子はどうしたんだ、緊張で頭でもいかれちまったのか、とでも言いたげな顔だ。
 自分の演技のクサさに顔を赤くしながら、重女は人差し指でテーブルを二回叩き、『ヒット』と要求した。来たカードはクラブの7。23でバスト。

 『クラブは丸いな。そういえばクラブのキングはアレキサンダー大王なんだっけ』

 プレイヤーの三人は、もう重女のおかしな言葉を無視した。影は徐々にカードシューへ近づいている。もう少しだ。

 「お嬢さん、トランプに興味があるのですか?」

 フジワラが急に話しかけてきたので、重女は少し驚きつつも、『はい』と答えた。影に気づかれた様子はない。大丈夫だ。

 「どのスーツが好きなのかな?」
 『スペード……かな』
 「おや珍しい。貴女くらいの年頃の女の子は、てっきりハートを選ぶと思ったのに」

 言いながらもフジワラの手は止まらない。ヒットを要求してきた青年と巻き髪女にカードを配る。青年は22、女は24で両方ともバストであった。

 『昔、スペードは私の星座のふたご座を意味すると聞いたので』
 「よくご存じで。ならば、絵札ならどれが好きかな?」

 重女は少しだけ迷って、『クイーン、です』と答えた。一体彼はなんでこんな事を聞いてくるのだろう。やはり先程の演技がクサかったから怪しんでいるのだろうか。

 「スペードのクイーンは、ギリシャ神話の戦いの女神、バラス・アテナを意味します。彼女は勇敢な女神であると同時に、非情に気性が激しかったとも言われています。そして、スペードのクイーンは、創作上で悪女を意味することが多い」

 悪女、と言われ、重女は少しだけ息を飲んだ。もしかして、私がやろうとしていることに気付いている?

 「そして女王には、王子が傍にいるものだ」
 『……なにが言いたいのですか?』

 ふ、と笑いながら、フジワラはホウルカードをオープンした。アップカードの“スペードのクイーン”と、ホウルカードの“スペードのジャック”、合わせて20。21でブラックジャックであったツギハギ男の一人勝ちだ。

 「このカードは貴女“達”のようだ。女王と、女王を守る騎士」

 ディスカードとチップを集めるフジワラを見ながら、重女は背筋が凍るのを感じた。今のは、けん制だ。自分は自由にカードを操れるということの。そして、“貴女達”という単語。まさか――

 「そのイヤリングはとても“変わった”形をしていますね」

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 XX市のクラブ・ミルトンは、かつてある華族の所有していた迎賓館を改造した建物である。
 そのため、クラブだというのに、その外装はレトロな洋館といった佇まいだ。
 だが屋内は数多のクラブの例にもれず、大音量の音楽が鳴り響き、けばけばしい照明が辺りを照らす中、露出の高い服装に身を包んだ若者が大声で話している。叫んでいる、といった方が正解かもしれない。
 ゲラゲラと大笑いしている若者達を見て、一体何がそんなに面白いのだろう、と重女は思った。

 (お酒で酔ってるのかな?)

 見たところ、彼らは自分と対した変わらない年頃の少年少女なのに、煙草を吸って、酒を傾けている。煙草と、酒と、汗と、なんだか良くわからない甘ったるい匂いがごっちゃになって鼻孔に届く。重女はこの匂いが嫌いだ。仕事帰りの母親が良く似た匂いを纏っていたからだ。
 クラブ、という場所は初めて来たが、キャバレーのようだ。キャバレーなんて行ったことがないけど、男と女が酒を酌み交わして談笑する、大人の出入りする場所、というのは聞いていた。が、ここは予想よりやかましく、客も若く、正直、品がない。

 「……………」

 隣のテーブルで大声で喋っている茶髪の女と、自分の服装を比べてみた。
 女、といっても自分とそう変わらない少女は、ピンクのシミーズ(この時代ではキャミソールと言うらしい)に短いジーンズのスカート、首や腕にまるで飴玉みたいなごてごてしたアクセサリーを纏っている。そして底の高い編み込みの凝ったサンダル。厚化粧で、目蓋の濃いアイシャドーとひじきみたいなマスカラが乗った睫毛が印象的だ。
 対して自分の格好は、白のノースリーブのブラウスに、ティーンズ向け雑貨店で買ったきらきらしたネックレスやブレスレット、赤と黒のチェックのスカート、黒の膝上まであるニーソックスというものに、足元はいつもの軍靴。野暮ったいからという理由で、眼鏡ではなく「そふとこんたくとれんず」なる柔らかいガラス片を目に装着し、そして首元に黒いチョーカーを着用している。
 実はこのチョーカーの中には咽喉マイクが仕込んであって、これで機械音声ではあるが声が発せる。
 これを作ったのは東のミカド国のキヨハルだ。正確にはキヨハルが作りかけでコンプ内に密かに収容していたのを、ミドーが完成にこじつけたのだ。
 ただのコンプの悪魔合体プログラムを取り仕切っているだけの老人かと思ったら、意外となんでも出来るんだな、と重女は少し驚いた。

 (でも……ちょっと締め付けられてる感じがする)

 チョーカーについている金属片を指先で弄びながら、不満を胸中でごちると、『仕方ないだろ、我慢しろ』と右耳の黒い勾玉のイヤリングが重女に念波を送ってきた。

 ――だって、なんだか苦しいよ。しかも重いし。
 『そのチョーカーは、複雑な仕掛けの小型電子部品で構成されている。その分重量はかさばるが、それもこれもお前を喋らせるようにとキヨハルとミドーが作ったんだ。せめてこの潜入が終わるまで我慢しろ』

 やや大きい、黒い勾玉のイヤリング内部には、自身の身体を極小化させた黒蝿が入っている。重女と出会ったばかりの時の蝿を思わせる姿へ自ら変化し、影の造形魔法で造ったイヤリングの中に入り、念波で重女にアドバイスを送るという寸法だ。
 何故そんな事をしなければいけないのか。それはこのクラブに入る時のこと。
 警備員が来客の身体と荷物をチェックするのだが、黒蝿のような目つきの悪い男は入場すらさせてもらえなかった。しかし重女は簡単なチェックだけですんなりと入場許可されたことからである。
 この手のクラブは、若い女にはチェックが甘い。しかし重女一人だけが潜入するのはリスクが高すぎる。思案の末、黒蝿は影で造ったイヤリングに自ら入る事にした。これで有事の際に飛び出て重女と戦う事も出来るし、彼女に色々助言する事も出来る。

 ――私一人で大丈夫なのに……
 『お前ひとりじゃ心もとないから俺がこんな姿になってまでついてきてるんだ。忘れたか? ここで悪魔の集会が開かれているかもしれないことを』

 確かに得た情報は、ここクラブ・ミルトンで悪魔の集会が開かれていて、一般人も攫われているかもしれないというものだった。悪魔がいるならもしかして戦闘になるかもしれない。だがコンプは荷物検査でひっかかり持ってくることができなかった。だから唯一コンプに入れない黒蝿が傍に控えるというのは理解できる。
 
 だが少し過保護じゃないか? と重女は思った。私だって今まで決して少なくない悪魔と戦ってきたんだ。仲魔のサポートが大きいとはいえ、影の造形魔法だって大分使いこなせるようになったし、雑魚なら簡単に倒せる……と思う。
 黒蝿がこんな風に接してくるようになったのはいつからだろう。多分東のミカド国での出来事からだろうか。それまでは私に対しては“殺してはいけない獲物”くらいのぞんざいな扱いだったのに。あそこで何があったのだろう。アキラとの「男の約束」とやらが原因なのだろうか?

 「………」

 その考えを追い払うように、重女は辺りを見渡した。
 若者が談笑していたり、音楽の流れてくるスペースに集まって踊っているくらいで、悪魔の気配は感じない。 彼、彼女らが悪魔召喚師なのだろうか、とも考えたが、無邪気に楽しんでいる彼らの佇まいは酷く無防備で、とても悪魔を従え戦うようには見えなかった。
 本当にここで悪魔が集会を開いているのだろうか。あの情報はガセだったのではないだろうか、シドはここにはいないのではないだろうか、などと疑念をもちながら、重女はミルクを一口飲んだ。ノンアルコールドリンクの中で一番安いのがミルクだったから注文したのだが、妙に平べったい味だ。

 ――やっぱり、あの情報はガセ?

 イヤリングに潜んでいる黒蝿にそっと念話を送る。

 『今の段階ではなんともいえない。この階に悪魔がいないのは確かだが、もしかするとVIPルームのような別の部屋にいるのかもしれないな』

 VIPルームか。この建物の大きさからいって、あってもおかしくないが、どうやったらそこに入れるのだろう? 私は招待されたセレブリティではないし、警備の目もある。強行突破はリスクがありすぎる。だけどここにいても事態は動かない。
 何か手はないか、と考えていると、部屋の隅の方がなにやら騒がしいのに気づく。そちらに視線を向けると、小さな人だかりが出来ている。そこでは大きなテーブルが置いてあり、三、四人程の人間が椅子に座ってカードを手にし、カードを出したり取ったりしている。その度に小さなどよめきが起こり、カードを手にしたものはしかめっ面だったり、喜びに顔を綻ばせたりと表情がころころ変わる。

 ――あそこでなにやってるの?
 『おそらくトランプを使った賭け事をしているんだろう。あのカードの出し方は……“ブラックジャック”だな』
 ――ブラックジャック?

 黒蝿の説明によると、それはトランプを使った遊びの一種で、簡単にいえばディーラーより自分の手札が21に近い程勝つというゲームらしい。21を越えたら負け(バスト)。A(エース)は11か1として、J(ジャック)、Q(クイーン)、K(キング)の絵札は10として数える。例えばJと5ならば15、Aと絵札、または10ならば21、ブラックジャックという風に。
 ルール自体は簡単だが、トランプ遊びなどババ抜きくらいしかやったことのない重女にとって、それは大人の嗜みのようで、自分には縁遠いものだと感じた。

 『よし、あそこに行くぞ』
 ――ええ!?

 重女は思わず口に含んでいたミルクを噴出しそうになった。

 『ブラックジャックで大勝すれば、ここの支配人に一目置かれ、VIP待遇を受けられるかもしれん。そうなれば他の部屋もチェックすることができるだろう』
 ――で、でも、私ブラックジャックなんてやったことないよ。
 『ルールは今教えただろう』
 ――そういう問題じゃなくて、素人の私がどうやって勝てばいいの?
 『安心しろ。俺がいる』

 どき、と胸が鳴った。思わずイヤリングに触れる。この中にいる仲魔の存在を確認するかのように。

 『俺の指示どおりにすれば、必ず勝てる。俺を信用しろ』

 台詞だけなら命令口調だが、その声音は力強く、少しだけ温かみを感じた。おかしい。以前ならもっと突き放すように言ってたくせに、「信用しろ」ときた。やはり過保護だ。だけどなぜか嫌とは感じなかった。

 ――本当に、頼っていいの?
 『ああ』
 ――私を勝たせてくれる?
 『そのためにここまでついてきた』

 重女はぎゅ、と拳を握ると、グラスに残っていたミルクを一気に飲み干した。
 そして意を決して、カジノブースの方へ歩を進めた。右耳の仲魔とともに。

―――

 『お願いシマす』

 カジノ・ブースのディーラーに札束を渡し、チップに変えるよう機械音声を放った重女に、テーブルの参加者はぎょっとした目を向けた。

 (しまった、不自然だったかな)

 重女は咽喉マイクのつまみに触れ周波数を少しだけ高くし、少女らしい高く柔らかい声へと調整した。

 「お嬢さん、一人ですか? 介助は必要ですか?」

 ディーラーがカードをシャッフルしながら問うた。三十代後半から四十代くらいの、黒ぶち眼鏡のしゃくれた顎が印象的な細身の優男だ。

 『私は喉に障害があります。なので咽喉マイクで声を出します。介助は必要ありません』

 今度の声は先程より高く発せられた。しかし機械音声独特の固い声は口から出される声より異質で、参加者達は少し眉を寄せた。
 このテーブルの参加者は三人。会社帰りのサラリーマンのようなスーツ姿の青年と、その彼女なのか、高そうなワンピースの巻き髪の女性、そして着古したカーキー色のパーカーを纏った、顔が手術痕の縫い目の目立つツギハギだらけのいかつい大男の三人と、ディーラーの四人。これからこの四人とブラックジャックで争うのだ。

 「お嬢ちゃん、ブラックジャックは初めてかい?」

 ツギハギだらけの顔の男が言った。ねこなで声とは裏腹にその眼光は鋭く、まるで声の出せない者はここにくるな、と言ってるようだ。
 
 『……はい』

 ははは、と男が大声で笑った。つられてカップルも肩を震わせ苦笑した。その笑い声が酷く癇に障り、絶対にこいつらに負けたくない、と重女は拳を握った。

 「そう緊張しないで。ここは別にマカオやラスベガスの一流カジノってわけじゃない。あくまで遊びの一種なんだ。難しいハウスルールもないし、初心者も大歓迎だよ」

 ディーラーは優しくそう言うと、重女に椅子に座るよう促した。そして最小賭け分のチップと、ルールブックを目の前に置いた。

 「では、次のゲームを始めましょう。お嬢さんはこのゲームは見学するかい?」

 シャッフルし終わったカードを二つの山に分け、パラパラとその山を一つの束にまとめていく。その仕草は流れるように優雅で、重女はその手元に見とれながら頷いた。
 隣のスーツの青年がちらちらとこちらを見てくる。横の巻き髪の女が彼になにやら耳打ちする。何を言ってるかは聞こえないが、恐らく私のことだろう。ここでは私は異物なのだ。 
 この感覚、覚えがある。目と肌の色が違うというだけで虐げられた幼少期の感覚。陰口と侮蔑の視線に晒され続けた時間。味方はアキラとシド先生しか居なかったあの時を思い出し、重女の心はすっと凍り付きながら毒を吐いていき、静かに顔から表情を奪っていった。

 ――気にするな。

 全身の温度が下がっていくのを、その一言が止めた。右耳のイヤリングから黒蝿が念波を送ってくる。

 ――所詮、そいつらは踏み台だ。何を言われようと気にすることはない。最後に勝つのは俺たちだ。

 その言葉で、重女はやっと嫌な思い出の沼から意識を浮上できた。
 そうだ。今の私は独りじゃない。この身の半分はアキラがくれたものだし、頼もしい仲魔もいる。獅子丸に牛頭丸、猿に紅と白。そして黒蝿が私を支えてくれている。そう再確認した時、心の奥から不思議な高揚感が湧いてきた。
 
 ――そうだね、勝つのは“私達”だね。

 『ねえ、ディーラーさんの名前は?』

 茶目っ気たっぷりの声を意識しながら、重女以外の三人にカードを配ろうとしていたディーラーに話しかける。ディーラーはほんの少しだけ驚いたようだが、すぐに冷静な声で「フジワラといいます」と名乗った。

 『私が参加したら、きっとフジワラさん困っちゃうよね』

 ぴくり、とディーラーのフジワラは太い眉を少しだけ上げた。スーツの青年とその彼女、そしてツギハギの大男の視線が重女に注がれる。

 『だって、“私が勝ったら”フジワラさんも皆も大損だし、“恥ずかしい”よね』

 甘えるように抑揚をつけながら、このテーブルの皆を挑発した。右隣の三人から、刺すような視線を感じる。 皆ムッとしただろう。初心者の、声が出せない“異物”の少女からゲーム開始前に“勝利宣言”を言い渡されたのだ。青年と女は目を合わせ、なにやら小声で囁き合い、ツギハギの男は、生意気なガキだ、と重女に聞こえるように毒づいた。
 その中で、フジワラだけは違った。口の端を上げ、面白そうに重女をじっと見ている。

 「随分自信があるんだね」
 『今の私なら、負ける気がしません』

 チョーカーの金属片に触れながら、これを作ってくれたキヨハルとミドーを思い出し、重女は不敵な笑みを浮かべた。フジワラは肩を竦め、「それでは始めます」とゲーム開始の音頭をとった。

 ――随分大胆に言ったな。
 黒蝿が少し呆れたようにいうので、重女はこう返した。

――“私達”は勝つんでしょ?

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