往来―all right―別館【俺屍サマナー】

俺屍+デビルサマナー=俺屍サマナーというダブルパロ(クロスオーバー)小説を扱っております。俺屍に登場する神々や鬼を現代で使役していたら・・・という発想で生まれたいわゆる三次創作小説です。俺の屍を越えてゆけと真・女神転生シリーズ(主にⅣ)の設定を独自に融合させて捏造しております。女神転生や俺屍の人物名称や設定をかなり変更しております。こういったのが苦手な方は閲覧をご遠慮下さい。 やたノ黒蝿とサマナーになってしまった少女の物語です。

タグ:デビルサマナー

今まで書いてきた俺屍サマナーの目次です。随時更新予定です。

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序章
前節
spiral-00:終わりの始まり

第一章
spiral-01:九楼重女
spiral-02:黒い男
spiral-03:図書室の戦い
spiral-03-1:悪魔召喚師・デビルサマナー
spiral-03-2:黒暗召喚師・ダークサマナー

第二章
spiral-04:神を信じない少女
spiral-04-1:悪魔に取りつかれた少女
spiral-04-2:悪魔の名を奪った少女
spiral-05:名前を奪われた悪魔

第三章
spiral-06:声と名を奪われた少女
spiral-06-1:やたノ黒蝿
spiral-06-2:歪んだ契約
spiral-06-3:対決・クラマテング

第四章
spiral-07:GATE-OPEN
spiral-07-1:アキュラ王
spiral-07-2:再会

第五章
spiral-08:神を信じた少年
spiral-08-1:天使に見出された少年
spiral-08-2:悪魔討伐隊
spiral-08-3:王になった少年

第六章
spiral-09:決別
spiral-09-1:友達
spiral-09-2:男の意地
spiral-09-3:ケガレビト
spiral-09-4:贖罪

第七章
spiral-10:守ってくれ
spiral-10-1:絆の証
spiral-10-2:決着
spiral-10-3:約束だから
spiral-10-4:陽はまた昇る

spiral-10-4.5:【番外編】重女のマグネタイトについての彼の考察

第八章
spiral-11:猿と呼ばれた男
spiral-12:大正「梅」奇談
spiral-13:魔女の夜宴の夢
spiral-14:残骸の異邦人
spiral-14-1:新しい命
spiral-15:誕生・ヤタガラス


第九章
spiral-16:誕生日
spiral-17:家族の味
spiral-18:クラブ・ミルトン
spiral-18-1:クイーンとジャック
spiral-18-2:剣を持った女王
spiral-18-3:共同戦線

第十章
spiral-19:作戦会議
spiral-19-1:パーティーへの潜入
spiral-19-2:フラッシュバック
spiral-19-3:偽物の星空の下で
spiral-19-4:禁断の果実
spiral-19-5:覚醒
spiral-19-6:ダークサマナー
spiral-19-7:血涙の決意

第十一章
spiral-20:再臨
spiral-20-1:「おれはアキラ」
spiral-20-2:再起

 意識が重い沼からゆっくりと浮上していく。身体の感覚はまだ朧気で、水の中にいるようだ。
 水面が近くなっていく。するとなにかくぐもった怒鳴り声が聞こえてきた。

 「ああ!? ……だから……なんだってんだよそれは……とにかくそこは危険だ。今すぐ荷物まとめてこっちにこい。………ああ、その話は後で聞くよ。それとも俺がそっちに行った方がはええか?」

 黒蝿がまぶたを開けると、柔らかな光が頭上から降り注いでいた。同時に自分が全裸で、液体に半身を埋めていること、ドーム型の装置のようなものに自分は横たわっていることを、まだ重い頭で理解した。
 酸素マスクらしきものをとると、ビーッ、ビーッと耳障りな警告音が鳴り、ドームの中の液体は排出され、天井がゆっくりと開いた。
 半身を起こし髪をかき上げる。「……ツギハギ」黒蝿が名を呼ぶと、通話の終わったツギハギが黒蝿の姿を見て目を丸くした。

 「黒蝿……お前目を覚ましたのか」
 「ああ、まだ怠いがなんとか動ける」

 言いながら、黒蝿は影を操り自分の身体を覆う服を顕現させていった。鴉を象った兜以外はいつもと同じ、黒い三伏にも似た服装に身を包む。

 「状況はどうなっている? さっきなにやら揉めていたようだが」
 「お察しの通りトラブルだらけさ。特に重女とかいうお嬢ちゃんがな………」

 黒蝿の形の良い眉がひそめられた。重女。自分の真名を奪った少女の偽名。黒蝿を刺した張本人は、また何かトラブルを起こしたのだろうか。

 「フジワラに聞いても全然的を得ない答えしか返ってこねえ。重女さんが別人になったとか、男に変わったとか意味不明のことばかり喚きやがる。まあヤタガラスの襲撃を受けて精神的に混乱してるんだろうがな………」
 「ヤタガラスの襲撃!?」
 「ああ、フジワラがスクープを提供しようとした会社は、どうやらヤタガラスのフロント企業だったらしい。悪魔召喚師を差し向けられてボコボコにされたらしいが、どうやらあのお嬢ちゃんが刺客を倒したらしい」

 黒蝿の眉間のしわがますます深くなった。低級悪魔相手ならともかく、ヤタガラスの精鋭にあいつ一人で勝てるものなのか? コンプに入れてある仲魔を呼び出すのだってマグネタイトが必要不可欠だし、クラブ・ミルトンでの戦いの後で十分なマグネタイトを手に入れられたとも思えんが………

 「とにかくまずはフジワラの店に行く。黒蝿、行くぞ」

 そういってツギハギは車のキーをちゃらつかせて見せた。車でフジワラの店まで連れていくつもりか。黒蝿は踵を返し「俺は空を飛んで向こうに……」と言いかけたが、ツギハギに首元をひっぱられ強引に駐車場に連れて行かれる。
 「離せ!」
 「なに寝ぼけたこといってんだよ。空なんか飛んだら目立っちまうじゃないか。いいからとっとと乗れ。十分もすれば着く」

 後部座席に半ば黒蝿を押し込め、ツギハギは車を発進させた。
 フジワラの店に着いた頃には、黒蝿の顔色が真っ青になっていたことはいうまでもあるまい。

―――

 フジワラの喫茶店【フロリダ】にツギハギ達が着いた時、中はめちゃくちゃであった。
 机や椅子、ソファーがあちこちに飛ばされている。コップや調味料やその他細々としたものも割れて散らばり、カウンターとドアが半壊していた。まるでなにか大きなモノがぶつかったような……
 殆ど瓦礫といっていい中、二つの人影があった。一つはフジワラ。その姿は着ている服のあちこちが破れ、血のようなものも付いている。顔は殴られたのか酷く腫れて、口の端から血が滴っており、黒縁眼鏡には亀裂が走っている。酷い姿だ。ツギハギは一目見てフジワラがヤタガラスの悪魔召喚師共に暴行されたのだとわかった。

 「……大丈夫か?」
 「大丈夫………て言いたい所だけど、あまりいい状態じゃないね。身体のあちこちが痛い。特に右脇腹と左腕が酷い」
 「見せてみろ」

 ツギハギがぼろ切れ同然になったフジワラのシャツを引き裂き、彼の身体をチェックした。確かに右脇腹が紫色に変わっている。そこを軽く押してみると、フジワラが苦しそうに悲鳴をあげる。左腕も同様に触診したが、反応は同じだった。

 「ううん……恐らく骨にヒビでも入っているか、もしかしたら骨折してるのかもな。この家に救急箱はあるか?」
 「二階に……」

 そこまで言うと、物陰にいたもう一つの人影が動いた。九楼重女と名乗る少女は、立ち上がるとそのまま二階への階段を上っていく。
 そして重女は救急箱を携えて降りてきた。彼女はフジワラの傍に座ると、救急箱から湿布を取り出し、フジワラの右脇腹に何枚か貼る。それから左腕にも湿布を貼り、そこらに散らばっていた箸を三本程集め、添え木代わりにし包帯を巻いたかと思うと、破けたフジワラのシャツを器用に折りたたみ三角巾の形にし、フジワラの左手を包み、端を首の後ろで結ぶ。負傷した左腕を首から布で吊す形になった。

 「へえ……上手いもんだな。どこで習ったんだい?」

 ツギハギが感心して言う。重女は答えようとして唇を動かすが、声は出なく呼吸音しか発しなかった。重女は喉を押さえ、ツギハギを睨んだ後、カウンターに入り無事なコップに水を入れて戻ってきた。そして救急箱から痛み止めの薬を数粒手のひらに乗せ、ずい、とフジワラの目の前にコップと共に差し出した。また唇が動く。当然声は出ないが、ツギハギはその唇の形から「飲め」と言っているのがわかった。
 フジワラは震える手でそれらを受け取り、薬を飲み干す。水を飲んで少しは落ち着いたのか、フジワラはふう、と息を吐き、重女を凝視した。鳶色の瞳には未知のものを見たかのような猜疑の色が窺える。

 「改めて聞くけど、君は重女さんではない……んだよね?」

 重女はこくんと頷いて見せた。ツギハギの顔が険しくなり、思わず重女とフジワラの顔を交互にまじまじと見てしまう。よく見ると重女の顔つきはどこかキツい。口を真一文字に締め、何か緊張しているような、張り詰めたような顔だ。そこには三日前に見た怯えの色もなければ、魂がぬけたような呆然としている様子もなく、あるのは触れれば傷つく抜き身のナイフのような尖った目つきと雰囲気だった。こんな顔つきの彼女は見たことがない。

 「そういや電話でお嬢ちゃんが別人に変わったとか言ってたな。あれはどういう意味なんだ?」

 ツギハギの問いに、フジワラは近くにあった小さめのホワイトボードを差し出した。そこには[おれはアキラ]と荒々しい筆跡で書かれてある。

 「……なんだこれは?」
 「重女さん………いや、『アキラ』君? とやらが書いたんだよ」
 「意味がわからん。どういうことだ?」
 「そのままの意味だよ。今の彼女は重女さんじゃない。『アキラ』という男らしい」

 その時、がたん、と部屋の隅のテーブルが動いた。そいつは重女の仲魔のやたノ黒蝿。車から降りた途端、青い顔で真っ先にトイレに入っていったが、いつ出てきたのか。
 トイレで嘔吐してスッキリしたのか、いつもの顔色に戻った彼は、重女の方に近づく。
 重女も黒蝿に気がついたようで、一瞬目を細めたがすぐに皮肉っぽく片方の口角をあげてみせた。

 『よう、黒蝿。久しぶりだな』
 「!?」

 重女から黒蝿の脳に直接声が届く。しかしその声は聞き慣れた少女の高い声ではなく、変声期直後のやや低めの男の声であった。
 この声、知っている。東のミカド国の王でありあいつの弟でもあり、黒蝿に十字架のペンダントを預けあいつと融合して消えたはずの少年の声。

 「………なんでお前が出てきている……お前は……」
 『おお。お前には俺の声が聞こえるみたいだな。悪魔相手だと聞こえるのか。全く、声が出ないってのは予想以上にめんどいな』
 「お前のマグネタイトは全部吸い取ったはずだ。なのに何故意識が存在している? 答えろ、“アキラ”。お前の姉はどこに行った?」

 ふう、と、重女、いや、“アキラ”は息を吐き、倒れていた椅子の一つを起こし、どっかりと足を組んで座って見せた。まるで玉座に座る王のように尊大に。

 『姉ちゃんは今は深層意識の奥で眠っている。姉ちゃんは罪の意識で自ら消えようとしていた。だから助けようと思ったら、気がつけば表層意識に浮かんで来れた。代わりに姉ちゃんの意識は奥深くに沈んでいった。きっとお前が吸い取ったマグネタイトの残りカスみたいなのが僅かに残っていて、姉ちゃんのピンチにそのカスが集まって俺の人格が復元されたみたいだ』
 「…………………」

 改めてまじまじと目の前の人物を黒蝿は凝視する。そういえば眼鏡をかけていない。あいつは視力が悪かったはずなのに。
 それに胸の膨らみもほとんど無くなっている。まああいつは気休め程度に膨らんでいただけで、バストはあってないようなものだったが。

 『………姉ちゃんを、守ってくれって言ったのに………』

 重女の身体を支配しているアキラが黒蝿を睨み付けながら言う。黒蝿は思わず懐の十字架のペンダントを握った。あの少年が「男の約束」として一方的に寄越した、黒蝿の心を支配する象徴。

 『おまえも一緒だったんだろ? それなのに、なんで姉ちゃんはこんなに傷ついて自分を責めているんだ? なんで消滅願望を抱いて苦しまなきゃいけないんだ!』

 こいつ、記憶はあいつと共有していないのか……黒蝿が何か言おうとしたとき、「あの……黒蝿君?」と遠慮がちにフジワラが口を挟んだ。

 「私たちには聞こえないんだけど、君には重女さんの声がわかるのかい? 重女さんはなんて言ってるんだい? 本当に「アキラ」とかいう人物になっているのかい?」
 「……………………」

 そういえば、フジワラ達と会った時から、重女は咽喉マイク入りチョーカーをつけていた。だから会話には不自由しなかったが、そのチョーカーも恐らくクラブ・ミルトンと共に焼失したのだろう。重女が声を伝えられるのは悪魔相手だけだというのは、フジワラとツギハギは知らない。
 さて、どこから説明したものか。黒蝿は重女の弟のアキラのこと、東のミカド国での出来事、アキラと重女の融合、といったことを順を追って説明した。
 説明が終わる頃には、夕暮れが辺りを覆い始めていた。

―――

 「えーと…………簡単に言えば、重女さんと弟のアキラ君、二つの人格が彼女の身体にあって、今はアキラ君が主人格だと」

 黒蝿の説明を聞いて、フジワラはそう聞いてきた。「まあ、概ねそんなところだ」と黒蝿は答える。フジワラとツギハギは倒れていたソファーを起こし、そこに座している。重女の姿形のアキラと向かい合う形になっている。

 「早い話、二重人格ってことだろ? 話には聞いていたが本物を見るのは初めてだぜ」

 ツギハギがアキラをじろじろと珍しいものでも見るかのように頭の天辺からつま先まで眺めながら言う。厳密に言えば違うが、今の状況を表すには適切な表現だ、と黒蝿は思った。

 「なあ、とりあえず生体エナジー協会に行かないか? ここにいたんじゃまたヤタガラスの襲撃に遭うだろうし、あそこには色々機材が揃っている。お嬢ちゃんの身体と精神を調べるには最適だろうし、フジワラ、お前の傷も治さなきゃならねえだろ?」
 『俺はお嬢ちゃんじゃない。アキラだ』

 アキラの声は当然ツギハギ達には聞こえずじまい。フジワラは「そうだね」と頷く。

 「重女さんの件でゴタゴタしててちょっと長く居すぎたな。早く逃げよう。重女さ……アキラ君、もついておいで。ここは危険すぎる」
 「…………」

 無言で、アキラは黒蝿の方に視線を向ける。黒蝿は、「今はこいつらの言うとおりにしろ。ヤタガラスの追っ手から逃げなくてはならない」と返答した。

 『俺の力なら何人束になろうが、返り討ちにしてやるのに』
 「今のお前の身体は姉貴のだってこと、忘れたか? お前の姉は術も使えなければ、戦闘術も身につけていないぞ」

 少しの間、納得がいかないというように唇を尖らせていたが、ひょい、とアキラは椅子から下りて、『フジワラ、さん。貴重品はどこ?』とフジワラに聞いた。が、相変わらずその言葉は声にならない。フジワラが目で黒蝿に通訳を頼むと、黒蝿は「荷物をまとめるのを手伝いたいそうだ」と伝えた。
 それからフジワラとアキラは荒れた店内を動きつつ荷物をまとめている。ツギハギと黒蝿はずっと無言だったが、彼らの視線は、今はアキラになっている重女に注がれていた。やや大股な歩き方、背筋の伸びたしゃんとした佇まい、身振り手振り。それらは彼らが知っている重女のそれとは微妙に違っていた。あれは武道の心得のある者、命がけの戦いを幾度もくぐり抜けてきた者の仕草だ。

 「黒蝿の。お嬢ちゃんは戻ってくるのかねえ?」

 ツギハギの問いに黒蝿は無言を答えにした。かつて“約束”を交わして消滅したはずの少年の本当の横顔を思い出し、姉である重女の横顔が、その少年のそれと同じになっているのを確認してしまい、黒蝿は苦虫をかみつぶしたような表情を作った。

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 誰かが泣いている。
 少女のすすり泣く声。誰だろう。何故君は泣いているの?
 
 ――ごめんなさい

 懐かしい声だ。ずっと側にいてくれた声。ずっと探し求めてきた声。
 彼女は、泣いている。自分を責めて、泣いている。自分が消えることを望んで。「彼女」の存在が薄くなる。
 待って、消えては駄目だ。
 君は、僕が、俺が、守るから――
 
―――

 生体エナジー協会。表向きは健康食品を扱う非営利団体。だがその実態は、デビルサマナー達に悪魔に必要なマグネタイトを売買している怪しげな団体である。
 国家機関ヤタガラスに認可されているかは不明だが、ここを訪れるデビルサマナーは少なくなく、恐らくヤタガラスも黙認しているのだろう。

 生体エナジー協会の支部は隣町に位置しており、車なら十五分、バスでは三十分ほどでつく。
 その生体エナジー協会に、重傷を負った悪魔が一体収容されていた。
 ドーム型のカプセルに入れられた悪魔――やたノ黒蝿はかろうじて人の姿を保っており、左胸の傷も癒えている。しかし彼の衰弱は激しく、意識不明状態。完全復活のためのマグネタイトがまだ足りないようだ。

 「ツギハギさん、もう堪忍してや。うちのマグネタイトの貯蓄が底をついてしまうさかい」

 ツギハギと呼ばれた、渾名の通り顔や身体にいくつもの手術痕の目立つ大柄な男は、ふん、と鼻を鳴らした。

 「グーフィよ、お前三年前の件、忘れたとは言わせないぞ。あの後始末に俺がどれくらい走り回ったと思ってるんだ。その貸しを今返して貰っているだけだろうが」
 「い、いえ、あの件のことはほんまツギハギさんに感謝してます。ツギハギさんがいなかったら、わいは今頃……」
 「なら今度は俺の頼みを聞く番じゃねえか」

 ツギハギはカプセルの中の黒蝿の血色の悪い顔を見ながら突き放すように言った。
 ここに連れてきてから三日、一時期は小さな黒い塊に退行するまで衰弱していたが、ここでマグネタイトを大量に注入してから、なんとか人の形にまで戻った。が、未だ意識が戻らない。
 悪魔は死ぬことはない。だが、その身を現世に顕現するにはマグネタイトが必要不可欠だ。マグネタイトが無くなれば人の世での形を保てなくなり、異界に強制送還する仕組みだ。
 だが、黒蝿は重女に真名を奪われて現世に無理矢理縛られている。そのため異界に帰ることもコンプに入ることも出来ない特殊なケースである。
 ツギハギとフジワラがそのことを重女から聞いたのはクラブ・ミルトンでの事件の後。いや、正確に言うとほとんど無理矢理話させた、というべきか。重女は言われるがまま震える手でペンを持ち、自分と黒蝿の関係を拙いながらも紙に書いて教えたのだ。
 そこで初めて重女が声を出せないのは黒蝿に言霊を奪われたからだと知った。ついでに重女というのも偽名で本当の名は自分でもわからない、ということも。

 「まったく、難儀なことだな」

 苦みのある声でツギハギはごちる。と同時にその重女と偽名を名乗る少女の顔を頭に浮かべ、ツギハギは顔を険しくさせた。
 フジワラの所に保護され、黒蝿に重傷を負わせ何十人もの人間を殺害した、ヤタガラスに「ダークサマナー」と烙印を押された少女は、あれからずっと一人心を閉ざし引きこもっている。

―――

 フジワラの営む純喫茶「フロリダ」の二階は居住スペースになっている。しかし店主のフジワラは近くのアパートに部屋を借りていて、そこから店に通っている。
 暫く誰も住んでいなかったフロリダの二階に、住人が来たのは三日前。クラブ・ミルトンでの事件の後、九楼重女と名を偽る少女を半ば押し込める形で住まわせた。
 それはヤタガラスから「ダークサマナー」として追われる身となった彼女を保護する目的もあるが、一番の目的は「監視」である。

 つまり、重女がまた感情を暴発させてクラブ・ミルトンでのような行動を起こさないかどうかと、黒蝿のところへ見舞いに行ったりしないかどうかという行動の監視。それには懲罰の意味も込められていた。

 重女は何度も黒蝿に会いたいとフジワラとツギハギに頼んできた。だがフジワラは頑としてその訴えを拒否した。会ってはいけない。それは黒蝿が危篤なのもあるが、何より彼の重女への個人的な疑念に満ちた感情があり、そのために君は黒蝿君に“会わせない”と正直に言うと、重女は酷く落胆した面持ちでフロリダの二階の一室に戻り、以来ずっと部屋に引きこもっている。
 どういう経緯でかは知らないが、彼女は自らの力で何十人という人間を殺害した。その事は事実だし、ダークサマナーになってしまったのも合点はいく。彼女自身もわかっているのだろう。だからフジワラはあえて叱咤せず、かといって安易に慰めたりもせず、屋根裏の部屋に一人彼女を閉じ込めた。
 一人になってじっくり考えて欲しかった。自分の行動がどれだけ非道なものだったか。自分のせいで未来を奪われたものが多数いる現実を直視し、これからどう生きるのか自分自身で答えを出して欲しかった。
 十五の少女にはあまりにも過酷な仕打ちかもしれないが、フジワラはこのやり方しか思いつかない。彼が子供でもいればまた違った処罰を思いつけるだろうが、四十すぎのやもめ男には、外側から鍵をかけられる部屋を与え、内証の時間を与えることしかできない。あの部屋には自殺に使用出来るものは一切置いてないし、監視カメラもつけている。そしてツギハギの仲魔が見張りのために密かに付いている。彼女があの夜のように自死させないことに置いては徹底していた。
 フジワラはパソコンのキーをいじり、重女の部屋のカメラ映像をチェックする。重女はベットに横になっていた。差し入れの食事は少ししか食べていない。寝ているのか、または自分を責めているのかはカメラ越しでは分からない。
 ふう、と息を吐き、フジワラは作業に戻った。パソコンのディスプレイにはクラブ・ミルトンで手に入れた機密文書のコピー。「悪魔召喚簡易化のための赤玉プロジェクト」の概要と「赤玉」の製造方法や実験の記録。
 だがあの時火に追い立てられていたので、データ抽出は半分ほどしか成功しなかったが、それだけでもヤタガラスが非人道的なプロジェクトを進めている証拠になる。フジワラはフリージャーナリストとして今まで培った人脈を生かし、何社もの出版社、テレビ局などのマスメディアにこのことをスクープとして提供してきた。
 だがどこの会社もこの情報を買い取ってくれない。恐らくヤタガラスの圧力がかかっているのだろう。当初の計画どおり秘密裏にデータを手に入れていたのなら、ヤタガラスの手がマスコミに回る前に特大スクープとして高値で売れただろうに。
 徒労に終わるかと思われた情報提供に、一社だけ手応えのある反応を返してきた。
 聞いたこともない小さな出版社だが、フジワラの話を是非聞いてみたいという。
 面談は明日の午後五時、ここフジワラの店で。その時までに生体エナジー協会に収容されている黒蝿が意識を取り戻すといいな、と思い、フジワラはデータ整理と資料作りの作業に没頭していった。

―――

 フジワラの喫茶店の二階の部屋をあてがわれ、どれくらい過ぎただろうか。
 まだ三日にも感じるし、もう三日も経ったかとも感じた。
 重女は夜になっても電気をつけず、暗い部屋で一人ベットに身を横たえていた。
 初めて本物の銃を撃った、あの衝撃、浴びる血の生暖かさ、無残な死体、そして――血を大量に流し私に身体を預けた黒蝿の重さ。全てが脳内で何度もフラッシュバックし、そのたびに重女は呼吸が出来なくなる。
 黒蝿はどこか別の場所で治療を受けているらしい。だけど会うことは許されなかった。彼の身体にしがみついて謝罪をしたかった。黒蝿が助かるなら私の血肉でもなんでもあげるのに、私は彼にマグネタイトも謝罪もなにもあげられない。だからずっと側にいたかったが、フジワラさんがそれを許してくれなかった。

 ――私の君への個人的な評価として、とても今の君を黒蝿君に会わせるわけにはいかない

 フジワラさんは冷たくそういって、君自身、一人になってよく考えるべきだと、この部屋を私に提供してくれた。
 住まわせて貰っている、といえば聞こえはいいが、ただ軟禁状態に置かれただけだ。扉には外側から鍵がかけられているし、天井の隅には小型の監視カメラまである。自分は独房に収容された罪人――そう表現するのが適切であるし、重女自身もこの待遇に不満はない。だって、自分は大罪人なのだから。沢山人を殺して、黒蝿にも重傷を負わせてしまった、「ダークサマナー」なのだから。

 『状況が分からないのか? この者達を殺したのは誰か、欲望のおもむくまま殺人を犯したのは誰か? それは死者しかいないこの通路で、ただ一人生き残っているそこの血まみれのお嬢さんしかいない』
 『九楼重女は闇に自ら足を踏み入れた。見事にダークサマナーに墜ちたというわけだ。彼女は我々が処罰する。だから君にはどいてもらい、そこの“ダークサマナー”をこちらに渡してもらいたい』

 シドのあの言葉がリフレインする。闇に足を入れた者。ダークサマナー。欲望の赴くまま力を行使する悪魔召喚師。黒暗召喚師とも言われるべきそれはヤタガラスにとっての討伐対象であるとツギハギさんから教えて貰った。
 あの後、蝿のような黒い塊にまで身体を変えた黒蝿を連れて、ツギハギさんはどこかへ行ってしまった。彼からは何も言われていない。フジワラさんのように私を諭したり叱ったりしなかった。私はてっきり殴られ叱られると思っていたのに、彼は拍子抜けするくらい私に何も言ってこないししてこない。それがいまの重女には辛かった。いっそのことフジワラさんのように遠回りでも嫌悪感を示してくれるほうがまだマシだ。何もされないで一人にされるのがこんなに辛いだなんて。
 呼吸が浅くなる。手足が冷たくなり、目の前が白くなっていく。

 苦しい、溺れてしまう。何に? 罪の意識に?

 千の謝罪を述べようと万の涙を流そうとも、死んだ人は帰ってこないし、私のしたことが消えるわけじゃない。
 それに、黒蝿は私を許してはくれないだろう。彼は身を張って私を止めてくれた。東のミカド国の戦いから、彼はずっと仲魔として悪態をつきながら時に呆れながらも私を助けてくれた。そんな彼を刺してしまうなんて。もし黒蝿が助かったとしても合わせる顔がない。
 視界が白に塗りつぶされる。呼吸が浅く速くなり、意識が遠のいていく。

 辛い。苦しい。こんな自分は存在してはいけない。私なんか、消えてしまえばいいーー

―――

 次の日、フジワラの喫茶店は午後四時で閉店した。そして五時になると、背広姿の二人組の男が約束どおり店にやってきた。片方は長身で痩せぎす、もう片方は小柄で太り気味で、まるで漫才のコンビのようだな、とフジワラは思った。
 交換した名刺には「烏丸コーポレーション・出版部門」の文字が印刷されている。烏丸コーポレーションは元はIT関連の会社だが、今度出版部も立ち上げることになり、創刊される雑誌のネタ集めに奔走しているところフジワラの情報に食いついた、というのが二人組の説明だった。
 一通りの自己紹介を終え、フジワラと二人組はソファーに腰掛けた。そして二人組の痩せぎすの方が口を開いた。

 「ええと、電話でお聞きしたとおり、フジワラさんはヤタガラスという悪魔召喚師を束ねる秘密組織に関する特ダネを掴んだ、と。間違いないですか?」

 勿論、とフジワラは頷く。それを見て小柄で太り気味なもう一人が疑問の声を上げる。

 「正直言いますとね、自分は未だに信じられないんですよ。悪魔だなんて想像上の生き物だとばかり思っていたのに、それを召喚する者がいて、それらを統べる組織が現代日本に存在するとは……」
 「ええ、疑問に思うのは当然だと思います。ですが事実なんです。古くから我々は悪魔や鬼といった異形の者と関わってきた。それら異形の者を従え、邪を払う“悪魔召喚師”がいて、それを統べるのが秘密国家機関ヤタガラス。
 だけど電話でお話したとおり、ヤタガラスは非人道的な行為を行っている。犯罪行為なんて生やさしいものじゃなく、もっと残酷で冷酷なことを。このことを是非民衆に知ってもらいたく、私は極秘取材を試みました」
 「それで、どうだったんですか」

 痩せぎすの男が言うと、フジワラはクラブ・ミルトンでの事をまとめた資料をテーブルに置いた。二人は早速資料をめくり、読み始めた。
 十分ほど経っただろうか。二人はフジワラが煎れたコーヒーに口もつけないで資料を凝視している。
 ふと、フジワラは二階の重女の事が頭に過ぎった。今日は客が来ることを告げたが、朝、食事を運んだときから喋っていない。まあ彼女は声を出せないから口頭で話すことは出来ないのだが。
 今日で重女をここに住まわせて四日目。隣町の生体エナジー協会に収容された黒蝿が意識を取り戻したとは連絡がきていない。あちらの事はツギハギに全部任せている。彼に任せておけば安心だが、重女のことも気がかりだ。彼女とこれからどう接していけば……

 「ほう……これはなかなか……」

 痩せぎす男が一人ごちる。太り気味の男は資料を膝に乗せたまま「このことは事実で間違いないのですね?」と聞いてきた。

 「勿論です。私と協力者が直にクラブ・ミルトンに潜入し手に入れたモノです。信じられないのも無理はないかと思いますが……」

 資料には、フジワラでさえ目を背けたくなるような人体実験の記録が記されている。“赤玉”なる存在とその造り方。非人道的なやり口にきっと閉口しているのだろう。コーヒーを飲みながら二人組の反応を窺う。が、二人は無表情のまま何も発さない。ショックが大きすぎたのだろうか?
 すると痩せぎす男が口元をにやりと歪ませた。そして資料を愛おしげに撫でながら「いや、本当に良く集めたものですね」と歪んだ笑顔をこちらに向ける。フジワラの背筋が寒くなった。

 「この資料は、ここにあるだけですか?」
 「……? はい、これが手に入れた情報の全てです。何か不足なところがありましたでしょうか?」

 おかしなことを聞いてくる男に、フジワラが答える。すると太り気味の小柄な男が喉をくっくと笑わせながら言った。

 「不足どころか……よく悪魔召喚師でもない一般人がこれだけの情報を手に入れられたと感心していたのですよ」

 フジワラは違和感を覚えた。悪魔の存在を懐疑的に思っていた男なのに、“悪魔召喚師”という単語の言い方はやけに言い慣れているように感じたのだ。
 と、次の瞬間。

 「!」

 男の手から炎が浮かび、分厚い資料が焼けていく。フジワラが一晩費やして作った資料を。いや、それより、今この男は炎を発現してみせた。まるで悪魔召喚師が“アギ”の術を唱えたかのように。

 ばっと、フジワラはソファーから立ち上がり、二人組から距離をとった。資料は小柄な男の手によって完全に燃やされ、炭と化して床に散らばった。

 「君たち……出版関係の人間だというのは、嘘だね」

 フジワラが身体に力を入れながらそう断言すると、痩せぎすの男がまたしてもにやにやと笑いながら、手をぱんぱんとはたいて資料の燃えカスを床に落とした。
 そっと、フジワラは背中に隠してあった銃に触れた。アギの術を発したことから、小柄で太り気味の男の方は悪魔召喚師だろう。迂闊だった。もっと相手の素性を調べてから面談するのだった。ヤタガラスが我々に情報を手に入れられたと知ったから、クラブ・ミルトンを全焼させたのだろうし、機密事項を手に入れた者を抹殺するため動くことも察しはつけられたのに。ツメの甘い自分にフジワラは嫌悪を抱いた。

 「それで、フジワラさん、この資料の元となったデータはどこにあるんです?」

 男達が問うてくる。フジワラは距離をとりながら「さあ?」ととぼけてみせた。

 「そうですか、では……」

 痩せぎす男がスマホを取り出し、何か操作すると、途端室内に吹雪が生じた。そして目の前に巨大な魔獣・ウェンディゴが現れたかと思うと、ウェンディゴはフジワラの腹めがけて巨大な拳を突いた。

 「くはっ!」

 とてつもない力で拳を入れられたフジワラは、そのまま後ろに吹っ飛んだ。椅子やテーブルやその上に置いてある細々としたものが、フジワラの周りに飛び散らかった。

 「はぁはぁ……ぅげほっ……」

 血の混じった胃液を吐きながら、フジワラは立とうと試みた。が、腹の衝撃が尾を引き、身体に力が入らず、膝立ちのまま銃口を二人組に向けた。その銃を持つ手も震えている。

 「フジワラさん、無駄な抵抗は止めましょうよ。そんなただの銃で我々に叶うとでも?」
 「こちらもあまり派手に動きたくないんですよ。あなたが手に入れたデータの原本をこちらに渡せば無用な戦いは避けられる。あなただって痛い思いはしたくないでしょう?」

 猫なで声で言われても恐怖しか感じない。フジワラはヤタガラスから派遣されてきただろう悪魔召喚師の二人を睨みながら、出口へゆっくりと近づいた。くそ。せめてツギハギがいればまともに戦えるのに。
 そんなフジワラを嘲笑うかのように、ウェンディゴが口からブフを発した。その吹雪は唯一の出入り口を凍らせ、フジワラはとうとう外へ逃げることが出来なくなった。

 「おら! とっととデータを渡せってんだよ!」

 痩せぎす男が、見かけによらない鋭い蹴りをフジワラにお見舞いした。フジワラはがはっと血を吐きながら銃を落としてしまう。その銃を太り気味の男が拾い、フジワラの耳にぐり、と銃口を押しつけた。

 「あなたも馬鹿だね。ジャーナリストだかなんだか知らないが、世の中知らない方がいいこともあるわけ。下手な正義感振りかざして命まで落としたら笑えないよ?」

 男達がフジワラを見下ろし笑っている。フジワラは絶対こいつらに屈服するもんか、と睨み返した。太り気味の男が銃底でフジワラの顔を殴る。目の前が一瞬ぐらつき、フジワラの痩躯が床に転がる。そして二人組の男はフジワラの身体に殴る蹴るの暴行を繰り返す。
 男達は、笑っていた。

 ―――

 階下でなにやら物音が聞こえる。それにくぐもった悲鳴のようなものも。

 ――フジワラさん!?

 重女は施錠されたドアから一歩も動けないでいた。
 確か今日は出版社の人が来るとフジワラさんは言っていた。今頃商談しているはずなのに、何故何かが倒れる音や怒鳴り声が聞こえてくるの!?
 がちゃがちゃと、重女はドアノブを何度も回した。しかし施錠は解けない。体当たりを試みても、重女の体重では丈夫なドアは壊れない。助けなきゃ、フジワラさんを。

 ――でも、どうやって?

 手元にコンプはない。ツギハギさんに没収されてしまったから。仲魔の猿や獅子丸や牛頭丸、紅と白を呼び出すことが出来ない。なにより一番の仲魔である黒蝿が重体で使役することが出来ない。
 また呼吸が速くなっていく。黒蝿をそんな風にしたのは誰だ? それは私。私がこの手で黒蝿を――

 がっくりと、重女はくずおれる。下からの怒声や物音は鳴り止まず、むしろどんどん酷くなってきてる気がする。だけど重女は立つことが出来なかった。それどころか、まともに呼吸すらできなかった。

 ――もし悪魔召喚師が相手なら、私は戦えるの? 影の造形魔法だけで。いや、私は戦ってはいけない。黒蝿が与えてくれたこの術を使うわけにはいかない。

 『何故?』

 ――だって私はこの術を悪用した。そのせいで沢山人を殺した。黒蝿まで傷つけた。

 『だから、戦いたくない?』

 ――そう、私は生きている資格なんてない。消えたい。この世から、私の存在を消してしまいたい

 『消えちゃだめだ!』

 ――え?

 『辛いなら、戦わなくていい。無理に頑張らなくてもいいんだ』

 ――あなたは誰? とっても懐かしい声。頭の内側で語りかけてくるあなたは、一体――

 『大丈夫、僕が、俺が、守るから――』

―――

 ドオン! という轟音で二人の男はフジワラへの暴行を止めた。

 「誰だ!」

 問いかけても返事はなし。痩せぎすの男はウェンディゴと共に、音のした方へ慎重に歩を進める。今日ここにはフジワラだけしかいないという情報だったのに、他に誰かいやがったのか?
 カウンターの裏側へ回ると、そこには小さな階段があった。上を見ると、金髪碧眼の少女が立っていた。年の頃はまだ十四,五といったところか。
 フジワラの娘か? と疑問に思った直後、階段上の少女が電撃的に動き、ウェンディゴが黒い剣で斬りつけていた。Zの形に傷つけられたウェンディゴは、血を吹き出しその場に昏倒した。
 何が、と疑問符が頭を占める前に、痩せぎすの男はみぞおちに少女の拳を入れられていた。華奢な手からは想像もつかない速さと重さで。
 男はぐは、と苦鳴と唾液を吐きながら目を回し、ウェンディゴとともに床に倒れた。

 「おい、お前はなんだ!?」

 太り気味の男がボロボロのフジワラに銃口を向けながら喚いた。動くんじゃねえ、こいつがどうなってもいいのか、と男は恫喝したが、重女はそれを無視し、自分の周囲に影でいくつもの槍を作った。そしてその槍を太り気味の男めがけ放つ。
 いくつもの槍は、悲鳴をあげる男の脇や股下に入り、そのまま男の体躯は壁に槍によって縫い付けられた。重女が男に近づく。そして、腹に拳を入れ、太り気味の男は気を失った。
 殴られ腫れ上がった顔で、フジワラは重女を見た。彼女の目つきは彼が今まで見たことのない、鋭い目つきだった。いや、目つきだけではない、纏っている雰囲気も、体さばきも、佇まいも、フジワラの知っている九楼重女という少女のものではなかった。

 「君は……いったい誰なんだい?」

 呆けたようにそう問いかけたフジワラに、重女の姿をした者はこちらを向き、そして喉から掠れた呼吸音を響かせた。怪訝そうに眉を寄せたその者は、もう一度喉の辺りを押さえて声を出そうとした。が、当たり前だが声は出なく、虚ろな息の音しかでなかった。まるで自分がしゃべれないのを知らないかのように。
 しばらくきょろきょろしていたが、やがて床に転がっていた小さめのホワイトボードとペンを見つけ、“そいつ”は何かを書き、そしてフジワラに見せた。
 ホワイトボードには、こう書かれてあった。

 『おれはアキラ』と――

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 重女の目尻からつっと涙が頬を伝った。それは、歓喜の涙。
 その様子を見た大柄な黒人、シド・デイビスは眉根を寄せた。

 「誰だ? 君は?」

 え、と重女は目を見開いた。重女とシドの視線が交差する。
 よく見ると、シドの姿は鞍馬山で別れた時とは違い、頬がこけて皺も目立つ。初めて会った時は二十代後半くらいの若さだったのに、今では体格こそがっしりしているが、顔は六十代後半か七十代くらいの老人である。

 (ああ、そうか、あれから随分と時が経ってるから……)

 確かに容姿は老いてはいるが、重女は自分を見下ろしている人物がシドだと確信していた。
 黒い肌、緑の瞳、そして――首から下げている銀の十字架。
 あのデザインの十字架のペンダントは、私とアキラとシド先生しか持っていない。三人の絆の証。
 そういえば重女の十字架のペンダントがない。確かに首から下げていたはずなのに、何故か今はない。もしかして没収されたのだろうか。

 『あ、あの……大分時間が経っちゃたけど、私だよ。■■■』

 チョーカーから出る機械音声を聞き、シドの眉の間の皺が深くなる。
 そうだった、私は黒蝿に名前を奪われていて、自分の名は声に出すことも文字で書くことも出来ないのだった。

 『あ、あの、教会で私達会ったよね? 聖書も貰ったし、神様の事や悪魔や天使の事とか色んなこと教えてくれたよ。そして一緒に鞍馬山に……』

 シドは何も言わない。周りの医者や男達は怪訝な顔で重女を見ている。

 『あ、あと、それから――』
 「すまないが、君の事を思い出せない」

 重女の言葉を遮りシドは冷たく言う。その声音と表情は重女の知っている温厚なものではなく、まるで虫けらでも見るように見下ろしている。何故? 何故そんな冷たい顔をしているの?

「九楼、重女さんだね。君は私を別の誰かと間違えているのでは?」
『ち、違う! 間違えていない!』

 聞くに堪えかねて重女は声を荒げた。起き上がろうとしたが手足を拘束している革ベルトがそれを邪魔した。

 『だ、だってシド先生、私とアキラに十字架のペンダントをくれたよね? 三人お揃いのペンダント。今シド先生が首から下げているのと同じ』
 「!」

 シドの眼が少し見開かれた。無表情の仮面が少し割れ、少しの驚愕の色が顔に現れた。

 「ミスター・デイビス。この子と知り合いですか?」

 部下らしき男がシドに聞いてくる。シドは顎に手を当て何かを考えている。その癖も昔のシド先生と同じだ。やっぱりこの人はシド先生だ。
 なのに先生は私の事を覚えていないようだ。やっぱり五十年近く会ってないから私とアキラの事を忘れちゃったのだろうか。

 「……………」

 じっと、じっくりとシドはストレッチャーの上の重女を見る。眼鏡の奥の瞳は初めて会った時と同じ深い緑色だが、その色が少し濁っているような気がした。

 「……悪いね、重女さん、だっけ? 私と出会ったと言っているが、私は残念ながら覚えていない」
 『そんな!?』

 重女は落胆した。きっとシド先生も、どんなに時が経っても私達のことを覚えてくれていると思っていた。でもそれは私だけだ。シド先生にとって私とアキラはそこらへんのただの子供と思っていたんだ。私はずっとシド先生の事を覚えていたのに……

 「ミスター・デイビス。これがその子の所持品です」

 部下らしき男がうやうやしく箱を捧げる。その箱には重女が身に着けていたもの、ワインレッドのワンピース、少し大きめのサイズのハイヒールにバック、バックの中に入っていた化粧品やハンカチや穿いていたパンスト、ポケットティッシュまでもが入っていた。
 その中に確かにあった。重女が肌身離さずつけている、シドのと同じデザインの十字架のペンダントが。
 シドはそれを手に取り、じっくりと眺めた。

 「確かに私のと同じようだが……やはり私は君のことを覚えていないよ」
 『……!』

 まるで自分の身体が奈落へ落とされたかのように、強烈な虚脱感が重女を襲った。そんな……私はシドに会いたくて、話がしたくて何度もアマラ経絡で色んな時間を辿ってきたのに、折角会えたのに、こんなのって……

 「まあこの事は後にしておこう。それより“赤玉”の生産状況が追いついていないと聞いたが?」
 「はい、そうです。神経伝達物質はいくらでも採取できるのですが、肉の方が足りないのです。やはりもっと“畑女”と“種男”を増やしたほうが……」

 シドは完全に重女に背を向けて部下と何か話し合っている。重女は静かに泣いた。先程とは違う、悲しみの涙が頬に新たな筋をつける。

 ――なんで? シド先生……私はどんなに貴方に会いたかったか。なのに……こんなのって……

 「ねえ、君」

 ぐすぐすと泣いている重女の顔をシドは覗く。こんな顔を見られたくなく思わず横を向いた。涙を拭いたい。だけど手足が拘束されているので出来なかった。

 「君は、なんでアマラ経絡をあんなに造りだしたんだい?」

 シドが問う。なんでそんなことを聞くんだろう。それは元の世界に戻って貴方に会うため。しかし重女は答えなかった。だって、そんなこと言っても私のことを忘れてしまった貴方には伝わらないから。

 「私達はね、ずっと君がアマラ経絡をつくって時空を横断していたのを知っていた」

 重女は驚愕のあまり目を大きくした。知っていた? 私達がアマラ経絡を造って時間移動を繰り返していたのを。

 「本来、アマラ経絡を使って歴史に干渉するのは許されない。それに、いくつもの経絡が開きっぱなしだと、そこから悪魔が出てきて人間を襲う可能性があるからね。君が造り上げた経絡を閉じていくのはなかなか骨が折れたよ」

 あ、と重女は気が付く。そういえば私は経絡を造りっぱなしにしていた。経絡はいつも自然に閉じていたからそういう仕組みなのだと思っていた。だから、シドが毎回閉鎖してくれていたなんて思ってもみなかった。でも――

 「アマラ経絡を無作為に造りだすのは褒められたものじゃない。本来なら君はとっくに我々に捕らえられているはずだった。でもヤタガラス上層部は君を“わざと泳がせることにした。”どうしてだと思う?」

 わざと泳がされていた? いくつものアマラ経絡を造った私は本来なら捕まえられて裁かれなくてはいけないらしい。でもなぜ“泳がされて”いた?
 返答に詰まった重女を見ながら、シドはふう、と溜め息をついて、額に手を当てる。

 「それはね、君が平安時代にアマラ経絡を結んだことと関係する。
 君は気づいていないだろうが、霊鳥・八咫烏を使って当時の帝を悪魔から救っている。
 八咫烏を従える君を天からの遣いと勘違いした帝は、あの稀代の陰陽師阿部晴明を筆頭に、「ヤタガラス」という魔をもって魔を討つ組織を結成した。それが、我々の組織「ヤタガラス」の前身というわけだ」

 口の中が緊張でカラカラだ。平安時代に黒蝿を使って百鬼夜行から人助けしたことは覚えているが、まさかその人物が帝だったとは。
 これでわかった。私が捕縛もされず「ヤタガラス」に泳がされていたのは――

「もうわかったかい? 君が起こした行動で、「ヤタガラス」は生まれたのだよ。
 当時の文献にも残っていた。帝が百鬼夜行という鬼や悪魔の行列に襲われたとき、天照大神の遣いが八咫烏を従え、帝を救ったと書かれてあった。この遣いが、時間移動を繰り返していた君だと上層部は見抜いていた。だから君への干渉が何一つなかったのだよ。君がいなくては我々「ヤタガラス」も生まれないからね」

 なんと言葉にすればいいのかわからなかった。私がアマラ経絡で時空を旅したせいで現代に影響が出るだなんて、ちょっと考えればわかるはずなのに。今までその可能性を考えなかった自身を恥じた。

 「でも、それも今回で終わりだよ」

 重女はまたしてもシドを凝視した。まるで悪戯がすぎた子供に罰を与える教師の様に、その声音は冷たい。
 するとシドが手を伸ばしてきて、重女の首に指を這わせた。その感覚にぞくりと肌を粟立たせると、次の瞬間、首元の咽喉マイク入りチョーカーが無理やり外された。

 「!?」

 声の出ない口をぱくぱくさせながら重女は抗議しようとしたが、ひゅう、ひゅうと喉は木枯らしのような音しか出さない。今奪われたチョーカーがないと声が出せない。シドもそれを知っているからチョーカーを奪ったんだ。

 「もう君は用済みってわけだよ。九楼重女。君は“赤玉”の材料を産んでもらう」

 ―――

【クラブ・ミルトン:コンピュータルーム】

 暗号解読された機密文書「悪魔召喚簡易化による“赤玉”製造プロジェクト」の概要を読み終えたフジワラは絶句していた。
 簡単に言うと、“赤玉”なる物質を製造し、悪魔召喚師ではない普通の人間にも、赤玉を悪魔に渡すだけで簡単に悪魔を従えることが出来る、という計画だ。
 この計画はとても古く、1960年代後半から始まっている。一時冷戦の影響や人手不足、そして景気破綻により中止されたが、去年からまたこのプロジェクトは再開された。責任者の名前はシド・デイビスと書かれている。

 ここまでならちょっと変わった計画にしか見えないが、問題は“赤玉”の製造方法についてだ。

 赤玉製造に必要なのは、人間の肉と、ドーパミンなどの神経伝達物質。その二つを混合することによって生み出される。
 人間の肉で最も質がいいのは生まれたての赤ん坊の肉だ。“種男”と“畑女”と渾名された男女を交配させ、畑女の胎内の赤子に促進剤を打ち、十月十日を待たずして出産させ、その嬰児の肉と、ヤタガラスが選んだ被検体、成長期の少年少女の脳内から抽出された神経伝達物質を混ぜ合わせれば赤玉の完成だ。

 こみ上げてくる怒りと生理的嫌悪感を我慢して、フジワラは続きを読んだ。

 それによると、神経伝達物質を吸い上げるのは一度ではなく二度、三度と何回かに分けて行うらしい。それは一度に抽出すると物質が壊れてしまう可能性があるのと、被験者の神経伝達物質を一度に全部抽出されると、彼、彼女らは廃人となってしまい「処分」しなくてはいけない。そうするとこの計画が外部に漏れる恐れがある。
 こんな倫理観に欠ける計画が世間に知れたら、世論は「ヤタガラス」を叩くだろう。それを避けるため、このクラブで毎週パーティを開き、被検体の少年少女らを招いて、彼らに気付かれないよう少しずつ神経伝達物質を「リフレッシュ」の時間に採取する。

 (成る程、だから私が見たパーティ帰りの客はどこかおかしかったのか)

 あんな子供相手になんてむごい事を……フジワラは眉をしかめ、パソコンの画面をスクロールしていく。そこにはこの計画の報告が書かれていた。

 ≪被献体M-16、抽出歴一年:脳内環境:B(※前頭葉に損傷軽微)≫
 ≪被献体F-19、苗床から苗を収穫。:脳内環境:C(※海馬に損傷確認)≫
 ≪新たな被献体6名入所。うち3名を畑女と種男に登録≫
 ≪被献体F-18、苗の芽吹きを確認。しかし流産。新たな種男と交配させる≫

 読んでいて胸がムカムカしてきた。畑女と種男、そんな呼び名で赤玉の材料たる嬰児を産ませ、その事を“苗床から苗を収穫する”と表現している。これじゃあ牛や豚などの家畜と同じじゃないか。やはり「ヤタガラス」は外道そのものだ。国を守る超国家機関が聞いて呆れる。
 とにかく、このデータを抽出し、公の場に公表しないと。今こうしている間にも被害者は増え続けているのだから。
 データ抽出のための用意をフジワラが行っている時、急に耳のインカムに通信が入った。「はい、こちらフジワラ」

 〈フジワラ、無事か!?〉

 ツギハギの大きな声が鼓膜を揺らす。良かった、ツギハギ達は無事だったのか。

 「こっちは現在コンピュータールームにてデータ採取にとりかかっているよ」
 〈データ?〉
 「このクラブでの、いや、「ヤタガラス」の悪事の証拠さ」

 応答しながらフジワラの手は止まらない。凄いスピードでキーボードを打っている。

 〈やっぱりあったか。どうもきなくせえと思っていたんだ。それは違法薬物のか?〉
 「いや、ちょっと違う。詳しくはここを出てから言うよ。長くなりそうだしね。それより、そっちこそ大丈夫かい?」
 〈ああ……まあな。無事あいつを倒したぜ。傷一つおっちゃいねえよ〉

 少しだけツギハギの声のトーンが落ちた。なんだ?

 「なにかあったのかい?」
 〈べ、別になんでもねえよ! それよりあのお嬢ちゃんはどうした? まだ合流できていないのか?〉
 「ここのデータ抽出が済んだら合流するよ。それにしても心配だな。彼女、危険な目にあっていなければいいんだけど」
 〈その事だが……〉

 急にフジワラとツギハギの会話に誰かが入ってきた。やたノ黒蝿だ。
 
 「やあ、黒蝿君。無事でなにより」
 〈ああ、それよりあいつの気配が感じない。数十分前を最後に行方が分からなくなっている〉

 フジワラは思わずキーボードを叩く手を止めた。

 「気配が消えたって……それってまさか……!」
 〈恐らく、何者かに拉致されたんだろう。そして魔法の使えない場所に連れて行かれたか……〉

 フジワラは眼鏡を取り、汗でべたべたの手と顔を拭いた。ブラックジャック対決の時、重女に渡したハンカチで。後に重女は、律儀にやや恥ずかしそうに洗って返してくれた。その時見せた年相応の柔らかい照れ顔がフジワラの脳内に焼き付いている。

 「それは穏やかじゃないね、目立つ行動は避けたかったけど、重女さんを見捨てるわけにはいかない。黒蝿君、ツギハギ、彼女を救出に行ってくれ」
 〈あんたはどうするんだ?〉
 「私はさっき言った通り、ここでヤタガラスのデータを抽出するよ。僕が助けにいっても足手まといだろうからね。重女さんの救出は君たちに任せるよ」
 〈了解した〉
 〈まかせとけよ相棒! お嬢ちゃんは必ず救出するからよ!〉

 それを最後に通信は途絶えた。あの二人の戦闘能力ならどんな敵でもやっつけるだろう。問題は重女だ。黒蝿も感知できない場所に連れて行かれた……それは何の理由で?
 フジワラはふとさっき見た情報の中に、“畑女”という単語があったのを思い出した。赤玉の材料となる赤子を産ませるために“種男”と交配させられる存在。

 ――まさか!

 ぞっと、全身の毛が逆立つような感覚に襲われる。まさか、「ヤタガラス」は重女さんを“畑女”にするために別室に連れて行かれた――!?

―――

 シドが薄ら笑いを浮かべながら退室していく。部下の男と一緒に。待って、貴方には聞きたい事、話したいことが山ほどあるの――
 しかしその言葉は声にならなかった。咽喉マイクをはがされ、声を出せない状態に戻った重女には、他者に気持ちを伝えることができない。そうこうしているうちに、重女の乗せられているストレッチャーに、医師や重女と同じスモックの様な簡易服を着ている男数名が集まってきた。男達の目は虚ろで、どこを向いているか分からなかった。

 「可哀想だとは思うけど、これはミスター・デイビスの命令なんだよ。君を新たな畑女にしろって」

 畑女? なんだろうそれは。どこかで聞いたような気もするが……

 すると急に医師が重女のスモックの腕の部分を捲し上げる。医師の手には注射器が握られていた。
 注射器をみせられ、ざわっとした危機感が重女の脳を刺激した。やばい、これはやばい! 逃げなくちゃ!
 しかし必死に逃れようとしても手足の拘束ベルトは一向に緩まず、ストレッチャーがぎしぎしと音を立てただけ。暴れる重女を他の医師や男達が押さえる。そうこうしているうちに二の腕をゴムで縛られ、血管の位置を確かめた医師は、重女の皮膚に針を突き刺した。

「――――!!」

 薬剤が体の中に入ってくると、強烈な眠気が沸き上がってくる。同時に身体が弛緩し、重女は目蓋をあけていられない。眠ってはだめだ、自分を強く持て、誘惑に惑わされちゃ駄目だ。
 そう、いつだってそうしてきたじゃないか。強くなければ。強くなければ母やアキラを守れない。私が強くなって、私達を傷つける者をやっつけなきゃ。

 ――やめて、そんなことしないで!

 母の声が聞こえる。仕事帰りにたまに米兵を家に上げさせていたお母さん。プライベートでも、母は身体を売っていた。だけど中には乱暴な客もいて、そういう時、母は客を拒絶する。だが誰も母のいう事を聞いてくれなかった。客を喜ばすため、母は不承不承に事に及ぶ。
 母の拒絶の声を、重女はドア越しに聞いていた。私がもっと強かったら、きっとお母さんを助けてあげられたのに。
 悔しい。力がないってこんなにも惨めで辛い事なのか。

 ――私が君達を愛している。それが理由だよ

 暴言を吐いてしまった私に、シドが十字架のペンダントをくれた。私達のことを愛している? なら何故私を拘束するの? 何故何も覚えていないの?
 甘い香りがする。脳までとろけてしまいそうな濃厚な甘い匂い。匂いは重女の心の奥まで届き、そして感情を増幅させる。

 ねえ、なんで私はこんなに弱いのかな? 大切な人も守れず、信じていた相手にも裏切られた。悔しい。私に、もっと力があれば――

 ――貴女が持つのは花ではなく、その“剣”が相応しい。戦いの女王は、武器を持って戦うからね

 今度はフジワラの声が聞こえた。ブラックジャック対決の時、彼は重女のことをスペードのクイーンだと比喩していた。あの時のカードは、スペードのクイーンに、スペードのエース。スペードのエースは剣を意味している。強い力の象徴たるカードは、今、手元にある。

 そうだ、私は強い力を手に入れたんだ。どんなものでも切り裂く最強の剣。これならどんな敵でも殺せる。

 ――重女さん。黒のスペードのエースには死の意味もある。強い力は貴女を助けてくれるだけじゃなく、扱いを間違えると、とてつもない不幸を招くかもしれない

 またしてもフジワラの声。大丈夫だ。私は間違えたりしない。この剣で私達を貶めてきた奴ら全員を殺すことが出来る。もう何も出来なくて泣いていた昔の自分とは違うんだ!
 私はスペードのクイーン、戦いの女王。そして今、最強の武器たるスペードのエースを手に入れた。

 ――私は、もう負けない!!

 ―――

 重女のスモックを脱がしはじめていた医師は、彼女の異変に気が付いた。
 彼女の周りに黒い風の様なものが巻き上がる。風はそれ自体が意思を持っているかのごとく、重女のストレッチャーの周りに渦を巻いている。

 「なんだこれは!? 魔法か?」
 「いや、そんな事はあり得ない。この部屋は一切の魔法が封じられるようにしてある」
 「しかし、これは一体……」

 おろおろと戸惑っている医師の一人の脳天に、黒い剣が刺さった。闇を凝縮したような濃い黒い剣。医師は何が起きたかわからないまま死んだ。床に血だまりが広がり、脳漿が散らばる。

 「なんだ! なにがおきたんだ!」

 そう言った医師も、今度は黒い剣で袈裟切りにされた。身体を真っ二つにされた医師は血を噴水のように溢れだして絶命した。
 白く、清潔であった部屋は今や血と臓物で汚れている。革ベルトによる拘束を解いた重女はぴちゃり、と血だまりに足をつけた。黒い剣を持ったままで。

 「お、お前! 一体何をした! どうやって拘束をとき――」

 そう言った男も心臓を貫かれた。男は苦悶の表情のまま絶命し、重女の足元に倒れた。
 男の手がたまたま重女の白い足に触れたので、重女は少し眉を寄せ男の死体を蹴った。まるで汚物を見るかのような暗い瞳で重女は男達の死体を睥睨した。
 それから、椅子にぐったりと拘束されている少年少女たちの頭に刺さった管を全部抜いてやった。そして管が繋がれている冷蔵庫のような大きな箱を、剣で斬りつける。何度も斬りつけると、箱は火花を散らし、その機能を停止させた。

 重女は先程殺した医師の内ポケットを探る。あった、リボルバーM60が。

 回転式拳銃を握った途端、重女は精神が高揚するのを感じた。その気持ちに呼応するかのように、黒い影がぐるぐると重女の周りでじゃれ合う犬の様に回る。

 ――ほら、やっぱり。今の私は強い。もう無力な子供じゃない。この銃と剣さえあれば、どんな奴らもひれ伏させることが出来る!!

 重女は返り血にまみれたまま、スモックと裸足のままで部屋から抜け出した。微笑を浮かべたままで。

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 「本当に一人で大丈夫ですか?」

 男の心配そうな声を背後に聞きながら、重女はそっとプラネタリウムが上映されている部屋を抜け出した。

 『大丈夫です。医務室の方向は覚えています。だから一人で行けます』

 重女は包帯の巻かれた右手をさすりながら答えた。
 まだ何か言いたそうな係の男を置いて、重女はいかにも具合悪そうにふらふらと廊下を歩く。
そして角を曲がると、重女はハイヒールを脱ぎ、他の部屋を探すため走った。ストッキングのせいで滑らないようにと、他のスタッフに見つからないように、忍び足にならざるを得なかった。

 プラネタリウム上映は心地よかったが、自分はそんなものを見にここに来たわけではない。このクラブで行われているらしい違法薬物の製造、流通の証拠を押さえなければならない。重女は他の部屋で行われている「リフレッシュ」の内容を知るため、冷たい廊下を走る。
 たしか「リフレッシュ」の内容は軽い運動プログラムに、重女もいたプラネタリウム上映、個人によるカウンセリングなど多岐に渡るが、重女が一番怪しいと思ったのは「心身正調プログラム」だ。
 なんでもそのプログラムは心と体の不調をとるために特別な“施術”を行うらしい。しかしその施術の内容は明らかにされておらず、参加者も一番多いプログラムだった。
 心身の調整と謳っておきながら、実は参加者達を違法薬物漬けにしている可能性が高い。女の勘とでもいうのは意外と馬鹿にできないのだ。

 それに――重女は少し引っかかることがあった。ホールで出されていた「赤玉」という食物。悪魔専用のその食べ物は一体何なのか。違法薬物と関係あるのではないかと読んでいた。
 しかしどうやって赤玉や違法薬物の正体を探る? 闇雲に行動を開始したはいいが、次にどうやって動けばいいか重女は失念していた。

 (そういえば、黒蝿達は、もうここに侵入したのだろうか)

 フジワラやツギハギ、黒蝿が外から、重女が中からクラブの暗部を探るのがこの作戦の主な要綱。と、いっても実質重女が作戦の中心なのだ。当然だ。クラブの中に正々堂々と入れるのは重女ただ一人だけであるから。
 とりあえず、重女は「リフレッシュ」が行われているらしき一つの部屋のドアをほんの少し開けて覗く。
 真っ暗な部屋だった。先程のプラネタリウム室の様に朧げな光すら感じさせない、真実の闇が部屋中に満ちているようだ。
 それでもじっと目を凝らしていると、何人かが寝椅子に身体を預けてぐったりしているのが輪郭だけ見えた。彼らはこの暗い部屋で何をしているのだろう。
 もっと見てみようとドアから身を乗り出した途端、嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔をついた。先程のホールに充満していた甘ったるい胸やけがする匂い。しかしここのはホールのより濃密で、重女は少し嗅いだだけで物凄い睡魔に襲われた

 (な、なに、これ……?)
 
 視界がぐにゃりと曲がり、足元は底なしの沼に落ちたかのようにきちんと立っていられない。頭の奥から闇が襲ってきて、それは重女の全身を支配する。
 眠っては駄目だ。そう理性が叫んでも身体の本能が遥かに勝っていた。重女はその場にくずおれ、気絶するかのように眠りについてしまった。
 眠りにつく瞬間、誰かの黒く光るエナメル質の高級そうな靴を見て、ああ、ドジを踏んでしまった、と思い、靴の持ち主に身体を抱きかかえられる感触を最後に意識を手放した。自分の身体を持ち上げた人物の手は、大きく温かかった。

―――

【クラブ・ミルトン:コンピュータルーム】

 「ここは……!」

 黒蝿達と別れ、上級作業員カードで上の階へ向かったフジワラは、地下一階でコンピュータールームと書かれた場所を見つけた。
 そこは手持ちのカードでは扉は開かない。なので背中のリュックに持ってきた小型ノートパソコンを取り出し、ケーブルをドアの開閉端末に繋ぎ、自作ソフトでハッキングし無理やりドアを開かせた。

 重厚な音が響き、電子扉が開く。そこに現れた光景にフジワラは目を見張った。
 何十台ものコンピューターが左右の壁を占め、無数のコード類が床に錯綜している。すなわちここは「クラブ・ミルトン」の頭脳というわけだ。
 これだけのスパコンや電子機器。ここに違法薬物の生成法などが保管されているとみて間違いなさそうだ。
 フジワラは早速一つのスパコンにケーブルを繋ぎハッキングを試みる。しかし相手もなかなかの強固なシステム。だがここまで来たんだ、負けるわけにはいかない。
 フジワラは自らのハッキングテクニックを全て費やし、なんとか情報深度レベル7まで到達した。

 「さあ、ゆっくり見せてもらうよ」

 エンターキーを押す。しかし映ったのは暗号の羅列。がっくりと肩を落としたフジワラは、またしてもリュックをあさり、自分以上のハッキングテクニックの持ち主を取り出した。

 「ミドーさん、お休みのところ悪いですが、起きてください」

 聖書型コンプを開き、ミドーの名を呼んだ。コンプは登録されている音声を認識し、悪魔召喚プログラムを司るミドーという老人を呼び出した。と、いっても生身の人間が出てくるわけではない。かつて悪魔に魅了された男は今は電脳世界に思念体だけで存在しており、呼び出されたときは荒いポリゴンドットの白鬚のサングラスの老人の映像が現れる。

 〈なんじゃさっきからうるさいのう。今度はなんじゃ?〉
 ゆらり、ゆらりと崩れかけの上半身を揺らすミドーに、「すみません」とフジワラは謝る。

 「でも今は貴方の力が必要なんです。これを見てください」

 自作のノートパソコンのディスプレイをフジワラはミドーに見せた。暗号のプロテクトがかかっており、ここから先は自分の力ではプロテクトを解除することができないということを告げると、ミドーはふふん、と得意げに身体を一回転させた。

 〈私とお前さん、二人がかりならこんなちゃちなもんすぐ壊せるわい〉
 「ほ、ほんとですか!? よし、なら早速取り掛かりましょう!」

 ミドーとフジワラによる暗号解除のための作業が開始された。最初は意味不明な単語と文字の羅列が徐々に意味のある言語へと変わっていく。そのほとんどの作業をミドーが負担していた。さすが悪魔召喚プログラムをつくっただけはある。
 ミドーとフジワラの作業が終わると、ディスプレイには最重要機密が記されていた。フジワラは眼鏡を外し顔と手の汗を拭きながら、ミドーにお礼を言った。
 厳重にプロテクトされていた情報の一番上の文字を、フジワラは声に出して読んだ。

 「悪魔召喚簡易化のための“赤玉”製造プロジェクト?」

―――

 「君は、人間と悪魔が共存することはあり得ると思うかい?」

 いつもの教会。ステンドグラスから柔らかな光が差し込む中、シドが唐突に聞いてきた。
 私は、シド先生の顔を見る。黒い肌に眼鏡の奥の緑色の瞳は、じっと見ていると吸い込まれそう。

 「私は、無理だと思います」

 はっきりというと、シド先生は「何故?」と問う。なぜって、そんなの決まっている。

 「悪魔は人間に害をもたらす存在でしょ? シド先生がそう言ったんだよ。そんなのと一緒に暮らせるなんてありえないよ」

 悪魔。人間を誑かし貶める最悪の存在。私達はこの悪魔の誘惑に決して乗ってはいけないとシド先生に教わった。なのに、何故先生はそんなことを言い出すのだろうか。悪魔と人との共存、だなんて。
 シド先生は私の回答を聞いて満足そうに微笑んだ。

 「そうだね、そう考えるのが普通だ。なら、君は天使となら共存できると?」

 言葉に詰まってしまう。
 悪魔は悪い奴で、天使は良き者。大雑把に言うとそういうくくりになる。だけど、いくら良い者でも全く違う種族の者が一つの世界で生きられるものだろうか。同じ人間だっていがみ合い憎しみ合っているというのに。
 それに――

 「私は………天使が本当に良き者か分からないのです」

 顔を俯けたまま答えたのでシド先生の顔は見えない。だが、少しだけ息を飲む気配が伝わってきた。

 「その……もちろん聖書にはそう書いているし、皆天使は神の遣いって崇めるけど、私にはその神様が良く分からないのです。こんなこと言うと怒られるかもしれないけど、神様って本当にいるのかなって思うんです。その遣いの天使も。だから……」

 「だから、天使とも悪魔とも人間は共存できないと?」

 先生が問う。その言葉には叱責はなく、本当に疑問点を聞いているだけという感じであった。

 「…………はい」

 膝の上で手を組みながら、消え入りそうな声で私は返答する。なんだろう。別に叱られているわけじゃないのに、何故私は居心地が悪いんだろう? やっぱり、私の回答が間違っていたから? シド先生は怒っている? そもそもなんでこんな質問を先生は私にしてきたのだろう。

 「ふむ、大多数の人間はそう考えるし、私もそう思う。所詮天使や悪魔は次元の違う存在。共存なんていうのはどだい無理だと思うよ」

 でもね、とシド先生は続ける。

 「共存じゃなく、我々人間が天使や悪魔を従えることができたら?」

 ばっと、私は驚いて先生の顔を凝視する。シド先生は薄笑いを浮かべ、決して冗談を言っているわけではないとその目は言っていた。
 従える?  馬や犬の様に? 悪魔や天使を? そんなの――

 「無理に決まってます」
 「何故?」

 間髪入れずの問い。私は言った。先程と同じく天使や悪魔は我々人間とは違う世界の存在。それを共存どころか従えるだなんて、おこがましいにもほどがあると。
 その答えを聞いて、シド先生は顎に手を当てゆっくりと頷いた。

 「そうだよね、無理に決まっているよね、“今の段階では”」

 私は首を傾げる。“今の段階では”? まるで将来的に天使達を従えられるとでも言いたいのだろうか。

 「シド先生、なんだか今日は変だよ。どうしてそんなこと言い出したりするの?」

 陽の光が採光窓から十字架を照らし出す。祭壇の一番上にある十字架。それに磔にされている救世主。シド先生の顔は逆光で良く見えない。だけど光のせいで、まるで先生が十字架を背負っているように見える。

 「何故って? それが出来たら私達は神への道を歩むことが出来るかもしれないんだよ」

 陽光がシド先生の顔に陰影をつける。彫刻の様に整った顔立ちを一層強調し、突拍子もない事を言っているのに、まるでそれが本当に出来る事だと思い込ませてしまう。先生の言葉には、そんな力と優しさがあった。

 「しかしそのための手段を、まだ人類は完全に会得できていない。なら、人類はそろそろ禁断の果実をかじる時ではないかい?」
 「禁断の果実?」

 最初の人間アダムとイブがかじったとされる果実? その果実を食べたせいで人は知恵をつけ神に楽園を追放された。その果実を再び齧る? わからない。私にはシド先生の言っていることが良く分からない。いつも優しいシド先生が遠くを見ている。私以外の何かを見ている。

 なんだか怖くなった私は教会から出ようと試みた。だが私の手をシド先生が掴み、そして自らの方へ私の身体を引き寄せ、耳元でこういった。

 
 「君はね、その禁断の果実になるんだよ」続きを読む

 右手と左手の人差し指と親指で小さな四角を作り、重女は満天の星々を指のフレームから覗いた。
 そこから見えるのは、自分の指によって切り取られた星の絵画。
 これは昔からの癖で、重女は星空を眺めるのが好きなのだ。

 きっとそれは幼い頃、昼間に外出することが少なく、夜、近所の住人達がいなくなった公園で母と二人で遊んでいたせいかもしれない。

 頭上を見上げると、真っ暗な夜空にキラキラと光る星が沢山ある。それが不思議で、幼い重女はまるで宝石みたいだと母に伝えると、母は優しく笑いながら「あれは世界で一番大きくて綺麗な宝石箱よ」と言った。
 母の愛のある嘘を重女は信じた。大きな宝石箱。その箱の広さには終わりがなく、納められた宝石もどれくらいあるか検討もつかない。箱には一番大きくて光っている宝石が一つあり、その白い宝石は見るときによって形を変える。お日様程強くはないけど、周りの小さな宝石や、それを眺めている自分さえ朧気に照らす。

 「世界一大きく綺麗な宝石箱」は、ずっと眺めていると自分が地から浮いて吸い込まれてしまうほど広い。それが怖い重女は、両手でそっと輪を作り、そこから宝石箱を眺めた。
 手で作った小さな窓から覗くと、得体の知れない浮遊感も飲み込まれそうな恐怖心もなくなり、手の枠の分の宝石が、夜空というとてつもなく大きな箱から自分の心の中の宝石箱に移ったような気がして、重女の胸もキラキラする。星という宝石の輝きを自分のものにしたくて、重女は晴れた夜空を見上げる時は必ず手や指で小さな窓を作り、星々や月の輝きを切り取っていた。
 今も寝椅子に座りながら指の窓から星を見上げる。美しい天の川が見える。無数の星が集まり形成される輝く川。だけどこれは人工の光で出来た星空だ。

 「………」

 重女は首を回し、部屋の様子を観察する。
 天井が高いこのプラネタリウム室で「リフレッシュ」を受けている若者達は、ふかふかした寝椅子(リラクゼーション・チェアーというらしい)に深く座り、天井に映し出されている満天の星空に見入っている。
 人数は二十人程。女性が多く、何故か悪魔はいない。その中にはホールで一緒の席に座ったあの派手な少女もいる。彼女はホールでオニとじゃれあっていた時とは打って変わって目は半開きで口も開けたまま天井を見ている。まるで呆けているかのようにみえるが、きっとリラックスしているのだろう。
 この部屋はプラネタリウム上映の為照明はついていなく、専用の機械から天井に投影される星々の輝きが微かに自分達を照らし出し、静かで美しいBGMが流れ、ホールで嗅いだあの甘ったるい違法薬物の香りではなく、爽やかな胸のすくような香りが漂っている。リラックスするのも無理はない。ただ重女はこの爽やかな香りも違法薬物の可能性があるかもしれないと思うので、ハンカチで鼻と口を覆い最小限の呼吸しかしないよう努めている。

 《私達の間に起きた出来事を、最初から親しく見た人々によって、御言葉に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き下ろそうと多くの人が手を着けましたが、テオピロ閣下よ、私も全ての事を初めから詳しく調べてありますので、ここにそれを順序正しく書き綴り、閣下に献ずることにしました。すでにお聞きになっている事が正しく確実であることを、十分に知っていただきたいためであります》

 BGMに混ざり、いきなり男の声が部屋中に響いた。重女は少し驚き上体を起こす。星にまつわる話ならともかく、何故プラネタリウムに新約聖書が朗読される?
 重女は辺りを見渡したが、ホールで一緒だった少女も他の皆も特に驚いたりせず天井を見上げている。もしかして、皆寝てしまっているか、この声に気付かないほど星を見るのに集中しているのだろうか。あるいはこれが新約聖書の詩だと気づいていないのかもしれない。
 声は静かに、新約聖書のルカによる福音書の第一章を読み続ける。ザカリヤとエリザベツという不妊に悩む年老いた祭司夫婦の話。子が出来ないザカリヤの前に主の使いとしてガブリエルが現れ、こう言うのだ。

 《おそれるな、ザカリヤよ、あなたの祈りが聞き遂げられたのだ。あなたの妻エリザベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名付けなさい。彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を祝うであろう》
 《わたしは神の御前にたつガブリエルであり、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために遣わされたのである。時が来れば成就する私の言葉を信じなかったから、あなたはおしになり、この事が起こる日まで、ものが言えなくなる》

 その後エリザベツが身ごもり、神に対し感謝の言葉をつげる、というのを、男の声はスピーカーから淡々と語る。
 ガブリエル、と聞き、重女は右手を天井に伸ばした。
 こことは別世界の、東のミカド国というところで、“ガブリエル”という異形の姿の大天使に食いちぎられた右手。アキラが自ら犠牲になって蘇らせてくれた手は、左手と比べるとやや大きく、指も長い。まるで男のように。

 そっと、左手と右手の掌を合わせてみる。丸みを帯びた左手と比べて、右手の方が節ばっており、ややごつごつしている。そして五本の指全てが左手より長い。左右の指を絡めてみる。まるで男女が愛し合うように手を繋いでいるみたいだ。

 右手の違和感に気付いたのは最近になってからだ。
 まだ東のミカド国にいるときは、両方の手は同じ大きさだった。それが時間が経つうち、徐々に右手に変化が現れた。丸かった手の甲は面積が広くなり、短く細い指は段々と伸びてきて、関節の部分が節くれだってきた。そして気がつけば、左手は女性の、右手は男性のそれになっていた。
 アキラとの合体のせい――重女はすぐ原因がわかった。悪魔合体プログラムは、本来人間には適応されない。いくら遺伝子の似ている弟でも人間同士が悪魔合体プログラムを使えば、本当なら悪魔でも人間でもないただの肉の塊ができるはずだった。
 それが天文学的確率で私は人間として復活した。失われたはずの右手と両足を持って。
 この右手と両足、そして流した血はアキラが自らを有機体に変えて蘇らせてくれたもの。だけど、わかっていた。
 ――禁忌を犯すと、必ず“歪み”が生ずることを。

 絡めあった指を解き、今度はうんと両腕を伸ばしてみる。やっぱり。右手の方が少し長い。今は照明が暗くてわかりづらいが、肌の色も右腕の方が若干白い。アキラの手の様に。

 「………」

 足掛けに乗せた両足を眺める。この潜入の為にハイヒールを買おうとしてデパートの婦人靴の店に行ったら、殆どの靴のサイズが合わなかった。前は24センチで足りたのに、今はそのサイズだと足が全部入らない。
 結局大き目のサイズを扱っている靴屋へ行き、25.5センチでようやく入った。
 だけど本当はほんの少しだけキツイ。日々成長しているのだろう。この足の“本当の持ち主”であるアキラが成長期真っ盛りの少年だったから。
 きっと、もうすぐ私はハイヒールもパンプスも履けなくなるだろう。男性用の大き目の靴を履いて、左右で長さも掌の大きさも違う手で生活しなくてはならないだろう。
 でも、私は悲しいとは思わない。寧ろ弟を身近に感じることが出来て嬉しいくらいだ。本当なら私は死んでいたはずなのに、こうして生きていること自体が奇跡なのだ。手や足のサイズが違うのくらいなんの問題もない。
 包帯の巻かれた右手と左手の人差し指と親指で、重女はもう一度指の窓を作り星空を見上げた。いびつな指の形の窓から見えるのは、先程の天の川とは違う星の並び。天の川はきっと流れていったのだろう。
 そして相変わらず静かで美しい音楽に混ざり、男の声がルカによる福音書を謳うように読んでいた。今はナザレのガリヤラの街のマリヤという乙女の元に御使いがやってきたところだ。

 《恵まれし者よ、おめでとう。主があなたと共におられます》
 《恐れるなマリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです》

 ―――

 ツギハギは、まるで石になったかのごとく動けないでいた。
 ガンプだけは構えてはいるが、それは長年の戦いでの習性であり、半ば生理現象と化しているものだ。
 彼はガンプの引き金を引かない。いや、引く必要がない。
 何故なら、目の前の黒翼を広げし黒い鴉にも似た悪魔が、ヤソマガツヒを圧倒していたから。

 「ふっ!」

 長い足で黒蝿はヤソマガツヒの黄色く醜い顔を蹴った。凄まじい速さの蹴りに露出していた脳髄がびちゃっと音を立てて周りの壁や床に打ち付けられる。
 そして、影を集め作った黒い剣でグラム・カットを食らわしヤソマガツヒの足を一本を残し全て切断する。ヤソマガツヒは甲高い悲鳴を上げ、狂ったように自分の名だけを呼んでいた。あの悪魔は最初から知能なんてないに等しい。ただ人間を狂わす霧を生み出す存在としてここで「飼育」されていただけ。

 「楽しいか?」

 瀕死のヤソマガツヒの足を掴み、黒蝿は問うた。もうピンクの霧は噴出していなく、辺りに充満していたのも今の戦いで殆ど散らされた。ツギハギはガスマスクを取り、悪魔同士の戦いをレンズ越しではなく裸眼で凝視する。

 「人間にペットみたく飼われてよ、餌貰って尻尾振って、“とってこい”ってボール投げられて、お前はそのまま喜んでボール拾っていたんだろうなあ!?」

 びきびき。嫌な音が辺りにこだました。黒蝿が力を込めてヤソマガツヒの足を千切っていた。筋肉の筋がブチブチ切れ、神経や筋線維の糸が千切れ目から顔を覗かす。
 悲鳴。文字通り身を斬られる痛みによる金切り声。聞く者にとって不快な協和音がヤソマガツヒの口から発せられる。

 「ヤ、ヤソ……マ……ガツヒィ……」
 「またそれかよ! もう聞き飽きたぜ! ほらもっと別の事言ってみろ! 痛い、やめてくれって! 痛くねえのか!? それともこうされるのが好きなのか! こうか! こうかよ!」

 ブチブチぶちぶちびきびきびちびち、びちゃ……ヤソマガツヒの蟹のような足の第一関節が完全に千切れた。轟音のような悲鳴が聞こえないかのように、黒蝿は千切った足をつまらなさそうに床に投げる。そうまでされても、知能が完全に退化した哀れな悪魔は自らの名前を狂ったように呼ぶだけ。
 「八十禍津日神」。それがこの悪魔だったものの真名。不浄や凶事を司る邪神の禍々しさは、もう見る影もない。いや、最初からそんなものなかったのかもしれない。誰かに悪魔召喚プログラムで召喚されて、人間に“飼われ”て、ここで違法薬物の発生源となっていた時から。彼は邪神でも悪魔でもなくなった。ただの人間の目的の為の道具である。

 「ほら、助けてくださいって言えよ。おねだりしてみろよ。おまえが人間共にマグネタイトを貰って餌付けされていた時みたいに」
 「ヤ、ヤソ、マ……ガ、ツヒ……」
 「……………ふん、いいだろう。俺達悪魔にはマグネタイトは必要だからな。やるよ」
 「おい……!」

 事の成り行きを見守っていたツギハギが静止の声を上げる。久しぶりに直接口から吸った空気を味わう間もなく、ツギハギはガンプの銃口を黒蝿に向けた。

 「こいつにはまだ聞かなくてはいけないことがある。勝手な事をされては困るぜ」
 「聞かなくちゃいけないこと? こいつを見ろよ。何かを話せるような奴か?」

 言われて、ツギハギは死に体のヤソマガツヒを改めて見た。全ての足を無残に千切られ、ザンにアギに物理攻撃を散々食らわされた悪魔はもう最初の原型を殆ど留めていなかった。いや、たとえ無傷でもこいつには情報を喋らせられない。出会った時からこいつは自らの名しか口にしていない。まるで薬物で廃人にされた人間の様な――
 そこまで考え、ツギハギははっとし、背筋に嫌な痺れが走るのを感じた。

 「まさか――!」
 「……ああ、そのまさかだろうな。どういう手段でかは知らないが、こいつは情報を喋らせないよう、わざと“こうされた”んだろうな」

 先程とは違う痺れがツギハギの身体を走っていった。嫌悪感という電撃が。

 「悪魔を言いなりにして、道具にしていたっていうことか……」
 「ああ。だがな……」

 ぐちゃ、と黒蝿はわずかに残っているヤソマガツヒの顔を踏む。ひぎゅ、という蛙が潰されたような苦鳴がヤソマガツヒの口からこぼれた。

 「それを選択したのはこいつだ。腐っても邪神。抗う術はいくらでもあったはず。それを潔く自害するわけでもなく、最後まで要求を拒否するわけでもなく、ただ人間共の道具兼ペットになることを選んだってわけだ。この邪神、いや、“元”悪魔は」

 かちり。黒蝿の手には銃身が扁平状の銃が握られていた。

 「おい、いつの間に!」

 それが自分が握っていたガンプだと気づき、いつ抜き取られたのかとツギハギは慌てた。
 ガンプの銃口をヤソマガツヒの額に当てている黒蝿の瞳には、なんの光も見いだせない。そこには銃口と同じ深い暗闇がある。静かな怒り、侮蔑、そして少しの哀れみ、それら全てが入り混じった漆黒の闇が。ツギハギは肌が粟立つのを感じた。

 「悪魔にも人間にも、譲れない矜持ってのがある。それを忘れた者は、もう悪魔でも人間でもない、ただの“肉塊”だ。
 誇りも憂いも売っちまった者は誰だろうが関係ない。死ね」

 マズル・フラッシュが瞬き、銃声が響く。悪魔専用の銃弾がヤソマガツヒを貫き、身体が黒い炎に焼かれる。肉体も、魂さえも焼く地獄の業火のようだ。
 “消滅”していくヤソマガツヒだったものを、黒蝿はただ見下ろしていた。そこにはもう怒りもなく、哀れみもなく、何の感情も読み取れない黒い“悪魔”が立っていた。

 ――とんでもねえやつと、組んじまった――

 ツギハギは震える手でガンプをベルトにしまうと、心の中で呟いた。

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 重女が深い眠りから目を覚ますと、黒蝿が冷たい目で見下していた。
 ぼんやりとした視界に、眉を寄せた端正な顔が映っている。こいつが無愛想なのはいつものことだが、なんで不機嫌なのだろう?
 そういえば昨日もそうだった。クラブ・ミルトンからの帰りに散々お小言を言ってきて、こっちは凄く疲れているのに「勝手にあの男に協力しやがって!」だの「あの喫茶店への誘いだって罠の可能性がある」だの説教してきて……

 喫茶店?

 「!!」

 その単語を思い出した途端、重女の半分眠りについていた頭は完全に覚醒した。
 がばっと半身を起こす。服装は昨日クラブから帰ったままのブラウスとスカート姿だ。髪はぼさぼさ、化粧を落とさなかった肌はなんだかぴりぴりするし、ブラウスは皺ができ、スカートの裾がめくれて太ももが露わになっている。これじゃあ下着まで丸見えだ! 慌てて裾を引っ張る。黒蝿はそんな重女の姿に動じずじっと睨んでいる。

 『……なんなのよ』
 「もう昼だが……あの男との約束はいいのか?」
 『ええ!?』

 重女は慌てて傍に置いてあった小さな置時計を掴む。そこには十二時五分と表示されていた。

 『もう十二時過ぎてるじゃない! なんで起こしてくれなかったの!?』
 「なんで俺がお前を起こさなきゃいかん」
 『馬鹿! 一時にフジワラさんの喫茶店に行かなきゃいけないのに! 今からじゃ絶対遅刻しちゃう!』
 「俺の知ったことか」

 冷たく突き放した黒蝿は無視し、重女は急いで身支度を始めた。もつれた髪を梳かし、化粧落としが出来る濡れたシートで顔をこする。これで化粧が落とせるのだからこの時代は本当に便利なものが多い。
 次に服。といっても重女の持ち服は今着ている汗が染みこんだブラウスとスカートと、いつもの着古した黒い半袖のタートルネックとカーゴパンツ。待ち合わせに昨日と同じ服を着るか、オンボロのいつもの服にするか……迷った挙句いつものカーゴパンツスタイルにした。こんな古い服を着ていくのはみっともない気がするが、汗臭い昨日と同じ服というのも恥ずかしい。
 黒蝿に後ろを向いてもらい着替えていると、不意に自分の体臭が気になった。昨日かなり汗をかいたまま銭湯にも行かず寝てしまった。当たり前だが結界内にはガス・水道・電気などは通っていない。水は大量に買い置きし、電気は懐中電灯や蝋燭を使うという原始的な生活を送っている。いつも風呂は近所の銭湯に行っているのだが、昨日はもう遅い時間だったのと凄く疲れていたので銭湯に行けなかった。いつも行く銭湯はこんな早い時間にはまだ開いてない。

 『く、黒蝿……』
 「なんだ?」

 億劫そうに背中を向けたまま黒蝿は返事をする。重女はもじもじと恥ずかしそうにしていたが、やがて意を決して聞いた。

 『あ、あのね……私の身体って……その……』
 「ああ、汗臭いな」

 デリカシーの欠片もない回答に、顔を真っ赤にした重女は時計を思いっきり黒蝿の後頭部にぶつけてやった。が、黒蝿はなんで重女が怒っているのかわからないようだった。

 ―――

 〔はい、純喫茶フロリダです〕

 公衆電話から、黒蝿は昨日渡されたマッチ箱に載っていた番号にかけた。三回コールが鳴った後、通話口からフジワラの声が聞こえた。背後から人々のざわめきや静かな音楽が聞こえてくる。

 「昨日会ったやたノ黒蝿だ」

 そう告げると、電話口を覆ったのか背後の音が小さくなる。〔ああ、君か〕とフジワラは声を少しひそめ答えた。

 〔もう一時近いけど、どうしたの? もしかして道に迷ったとか?〕
 「違う。うちのサマナーが寝坊しやがって、今シャワーを浴びている。だからそちらに着くのが少し遅れそうなので電話した」

 そう言うと、黒蝿は目の前にある雑居ビルを見上げた。そのビルの二階には、【漫画、インターネット喫茶「悠々自適」フリードリンク制・個室・シャワー完備!】とでかでかと窓に書かれてある。
 「シャワー完備」の一文字に惹かれた重女は、早速風呂道具一式を持ってビルの中に入っていった。そして黒蝿にフジワラに電話するよう命じた。なんで俺が、と思ったが、重女の咽喉マイクの電子音声では、電話ごしでは酷く不明瞭に聞こえる。なので黒蝿が電話した方が効率がいい。

 〔そうか。昨日は大変だったからね。うん、こちらとしては特に大丈夫だよ。今お昼時で店も満員でね、二時か三時くらいにはだいぶ落ち着くと思うけど〕
 「ならその時間までには行く」
 〔わかった。待っているよ。連絡ありがとう。それじゃあまた後でね〕

 やや早口な口調でフジワラは電話を切った。店の方が忙しいのだろう。あれで本業はフリージャーナリストというのだから、年齢によらずなかなかのバイタルに溢れた男だ。
 今は十二時五十五分。重女が今の時間でも開いている銭湯を求め町中を探し、シャワーが備わっているらしい「ネット喫茶」なる場所を見つけたのが十分前。マッチ箱に書かれてあった純喫茶・フロリダの住所は、ここから電車なら三駅でつける場所にある。二時までには十分間に合うだろう。

 (それにしても……時間に遅れてまでいちいち体臭を気にするかね。人間の女はやっぱりわからん)

 もう抱きなれた諦観の念を顔に滲ませ、黒蝿は電話ボックスの壁に寄りかかりながら重女を待った。
 それから更に十五分後。電話ボックスのドアがノックされる。黒蝿が顔を上げると頬を上気させた重女が立っていた。

 「遅いぞ」
 『ごめん。身元確認で手間取っちゃって。前に作った偽の保健証を出しといた』

 近くに寄った重女からは、石鹸とシャンプーの香りがした。髪が半乾きだ。これでも急いで来たのだろう。

 『よし、これでさっぱりしたし、さあ、早くフジワラさんのところに行こう!』
 風呂道具片手に市電の停留所へ向かおうとする重女に「俺はいい」と黒蝿は拒否した。

 『?  何言ってるの? フジワラさんのところに一緒に行くっていったのはそっちじゃない』
 「行かないという意味じゃない。俺は空を飛んでいくから、電車にはお前ひとりで乗れ」
 『なんで別行動? 目的地は同じなんだし一緒に行こうよ』
 「いい。俺は電車には乗らない」

 頑なに電車への乗車を拒否する黒蝿の様子に、重女は違和感を抱いたが、こんなことで口論している時間はない。無理やり黒蝿の手を掴み停留所へと歩を進めた。

 「おい、離せ!」
 『なに子供みたいなこと言ってるのよ! 空から行ったって場所わかんないくせに。ほら、電車がきた。乗るよ』

 細い手に似合わない強い力で、重女は嫌がる黒蝿の手首を引っ張り、半ば押し込むように電車へと乗せた。

 ―――

 黒蝿が何故あんなにも電車に乗るのを嫌がっていた訳がわかった。

 ――こいつは、乗り物にめちゃくちゃ弱い。

 電車の振動を尻に感じ、桶に入った風呂道具一式を膝に抱え、周囲の客の怪訝そうな視線を浴びながら、重女は隣に座る黒蝿の真っ青な顔を覗いた。
 いつもの彼は不敵な態度を崩さないのに、今の黒蝿ときたら前のめりにぐったりと席に座り、顔は真っ青で床を向いている。まるで試合後の精根尽きたプロボクサーのようだ。

 (悪魔でも乗り物酔いするんだ……)

 いつも自分を叱り、時には馬鹿にされたりからかわれたりしていた重女には、ここまで弱り切った黒蝿は珍しく、また少しだけ愉快に映った。
 悪戯心が鎌をもたげ、重女は黒蝿の肩を少し強めに揺すってみる。すると黒蝿は物凄い形相で重女の手を払いのける。悪態の一つでも言ってくるかと思ったら、何も言ってこなく、ますます青くなった顔を再び俯けただけだった。
 さすがに尋常じゃない顔色の悪さに、重女は同情し念波を送る。咽喉マイクからの機械音声だと周りの乗客の注意をひいてしまう。

 ――ねえ、大丈夫?
 「…………平気だ」
 ――吐きそう?
 「……いや」
 ――どうしても我慢できなくなったら、これに吐いてね。

 重女は膝に置いていた桶を黒蝿の目の前に突き出した。風呂道具一式抱えて乗るなんて恥ずかしかったが、風呂桶がこんなところで役に立つとは。

 「……平気だと言ってるだろう。それより昨日も言ったがフジワラとツギハギには気を付けろ。まだあいつらが完全に味方と決まったわけじゃない」
 ――またそんなこと言って! 黒蝿は疑いすぎだよ。
 「おまえが人を信用しすぎるだけ――」

 その時、キキ―ッと車輪が音を立てて電車が止まる。傍から見れば黒蝿の独り言に聞こえていた話は中断された。
 目的の停留所に着いたのだ。座っていた乗客達は立ち上がり、立っていた者も出口の方へ向かい運転手に料金を精算している。重女も黒蝿の腕を掴んで強引に立たせ、精算の列に加わる。黒蝿はされるがままだった。ただ、相変わらず下を向いて口許を押さえている。
 規定の料金を払い、市電から降りる。すると小さな繁華街らしき場所が目前に広がる。居酒屋やスナックが軒並み店を構えているが、まだ早い時間なので開いている店は少ない。
 黒蝿の手を引っ張りながら重女は「純喫茶・フロリダ」を探した。昨日貰ったマッチ箱には簡単な住所しか書いていなく、土地勘のない二人はすぐに迷ってしまった。人に聞きたくとも誰も通らない。公衆電話も見当たらない。もしかして「けいたい」や「すまほ」があればフジワラさんに電話できただろうか。

 『ねえ、ミドー』

 焦った重女は背負ったリュックからコンプを取り出し、起動させミドーを呼んだ。

 〔なんじゃ? そっちの黒蝿はどうした? なにやら酷く具合が悪そうだが……〕
 『いや、ただの乗り物酔い。それよりミドー、このコンプで「けいたい」や「すまほ」は使える?』

 荒いポリゴンの身体をくるっと一回転した後、ミドーは笑った。もう、こっちは真剣に聞いているのに……

 『真面目に聞いてよ』
 〔おお、すまんすまん。そうか、お主はこの時代の生まれではなかったな。ネット回線をつけろといい色んな無茶を要求してくるのう。今のこのコンプでは携帯のような通話機能はついておらんよ〕
 『やっぱりそうか……』

 がっくりとうなだれる重女に、ミドーがフォローの言葉をかける。

 〔だがしかし、この辺りの地形をスキャンして、簡単な地図を出すことはできるぞい。半径二キロまでならな〕
 『それすごいじゃない! なら、今すぐ「すきゃん」して地図を出してよ』
 〔わかったわかった。年寄りを急かすもんじゃないぞ〕

 言うが早いか、コンプから緑色の線が発生し、重女や黒蝿を透過したかと思うと、辺りの建物へと緑の線が病院のMRIのようにその形状や位置をスキャンしていく。重女達を起点に、約半径二キロに渡り緑の模様が小さな飲み屋街を舐めるように透過していく。スキャンが終わるとコンプの画面に地図が徐々に現れる。詳細な地図が完成すると、上の方に「神舞供町」とこの町の名らしき単語が現れた。

 『かぶきょ、ちょう?それともかぶきちょう……て読むのかな』
 〔恐らく新宿の歌舞伎町を真似たんじゃろう。この地図によると右の路地を真っ直ぐ北にいけば、「純喫茶・フロリダ」があるらしいぞ〕
 『ありがとう。ミドー』

 ミドーに礼を言うと、重女はコンプに記された地図を頼りに神舞供町を歩いた。黒蝿はずっと無言だった。
 やがて町の中でも奥まった場所に、古めかしい喫茶店があった。看板には「純喫茶・フロリダ」の文字。

 『やっと着いた……』
 「…………」

 無言で口を押さえている黒蝿をよそに、重女は首元の咽喉マイクの調子を整えた。『あ、あー……』うん、特に異常はない。
 重女は少し深呼吸をすると、年季の入った木製のドアを引く。カランカラン、とドアベルが心地よい音を鳴らし、来訪者を店の者に告げた。

 「おや、待っていたよ。いらっしゃい」

 木目調の床に壁、そして穏やかな照明。全体的に落ち着いた雰囲気の純喫茶・フロリダのカウンター越しからフジワラが笑顔で迎えてくれる。その時のフジワラの格好は、クラブでのディーラー姿でもVIPルームで会った時の私服とも違う、ベージュのポロシャツに使い込まれたエプロンといういかにも喫茶店のマスターといった格好だ。
 重女は背筋を伸ばし、少し息を吸うと、深々と頭を下げる。

 『約束の時間に遅れてしまい、本当にすみませ……』

 言い終わる前に、重女の後ろから口許を押さえた真っ青な顔の黒蝿がフジワラの元へ走る。ぎょっとするフジワラに、「トイレはどこだ!?」と鬼気迫る声で問う。

 「あ、左の奥の……」

 それだけ聞くと黒蝿は、脱兎のごとくトイレに駆け込んだ。そしてドアを閉めると、思いっきり嘔吐する。その不快な音はドア越しにも聞こえ、フジワラと重女は思わず顔を見合わせた。

―――

 「落ち着いたかい?」
 「ああ、世話をかけた」

 純喫茶・フロリダのカウンターに、重女と黒蝿は座っていた。
 先程トイレで盛大に嘔吐した黒蝿の前には、よく冷えた水が入ったコップが置かれている。コップの水をひと息に飲むと、黒蝿はふう、と息を吐いた。
 まだ青白いが、さっきよりは顔色は良くなっている。

 (まさかあそこまで乗り物に弱いとは……)

 翼で空中を自在に飛び、“ザン”や“アギ”等の術を使い敵を倒してきた黒蝿は、今まで覚えている限り苦戦していた様子がない。いつも余裕綽々で、時には自分を叱咤し馬鹿にしてきた彼が乗り物でここまで弱っている姿を見るのは、意外に思う反面、重女は弱みを握ったような、少し意地悪な優越感のようなものが心に生まれてくるのを感じた。
 だから弱った黒蝿を横目にコーヒーをすすりながら、重女はまたしてもある悪戯を思いついてしまった。

 目の前に出されたフジワラ特製のコーヒーはなかなか美味しい。ただ、重女はブラックは苦手なので、少し多めの砂糖とミルクを入れないと飲めない。最初は縁が僅かに赤みがかった綺麗な珈琲色だったのが、今じゃミルクと砂糖とで、黄土色の甘ったるい飲み物に変わってしまっている。
 重女はカウンターの端にあるソースや醤油などの調味料を置いている小さな盆から、塩を掴んだ。
 昔、海軍のコーヒーには塩を入れて飲むものだと聞いたことがある。それを知った小学生の重女は、家にあったインスタントコーヒーに、砂糖の代わりに塩をスプーン一杯入れよくかき混ぜて飲むと、そのあまりのまずさに思いっきり吹き出した。それは最早コーヒーではなく、塩辛い黒い液体であった。
 本来の海軍式コーヒーに入れる塩は、ほんのひとつまみ程度でいいことを知ったのは、その事をシドに話して笑われてからだった。
 それからコーヒーに塩をスプーン一杯入れるなんて愚挙は犯さなくなったが、今、重女はソルトシェイカーを自分のコーヒーに振って塩を入れている。しかも何回も。
 大分塩を入れたら、よくかき混ぜる。そして隣の黒蝿に『はい、黒蝿。美味しいよ』と笑顔で勧めた。

 「おいおい、黒蝿君はさっき吐いたばかりだよ。コーヒーは胃に良くないよ」
 『でも、フジワラさんのコーヒー凄く美味しかったから、是非黒蝿にも飲んでほしくて』

 媚びるように、やや高い声が出るよう咽喉マイクの音声を意識しながら、自分のコーヒーカップを黒蝿の前に置く。黒蝿はまだ血色の悪い顔でカップを見つめている。
 今の黒蝿は黒い革のコートに、頭にはいつもの鴉を象った兜ではなく黒い鳥打ち帽といったスタイルだ。今は屋内なので帽子は脱いでいて、緑がかった長い黒髪が露わになっている。全身が黒でまとまった黒蝿がコーヒーを飲むところはきっと絵になるだろうな、と自分が施した悪戯も忘れ、重女は脳内にその様子を思い描いた。
 黒蝿は眉を寄せながらカップを持ち、くんくんと匂いを嗅いでいる。もしかしてコーヒーは初めて飲むのだろうか。

 「黒蝿君。無茶してはいけないよ。君はまだ胃が弱っているんだ」

 フジワラの忠告に答えず、黒蝿はじっとカップの中のコーヒーを見ている。

 『ぐいーと飲むといいよ。そうしないと本当の美味しさがわかんないから』

 重女が悪魔的な横槍をいれ、飲むことを促した。
 
 「………」
 
 すると黒蝿は無言のままスプーンでコーヒーを数回かき混ぜると、カップに口をつけそのまま一気に飲んだ。

 「!!?」

 予想通り、というべきか、酷く塩辛い味付けのコーヒーを黒蝿は思いっきり吹き出した。
 吹き出されたコーヒーはカウンターと、フジワラのエプロンと、そして悪戯の張本人の重女の顔にべっとりとついてしまった。

―――

 フジワラと黒蝿に怒りの雷を落とされた重女は、フロリダから追い出され、ツギハギを呼んでくるよう命じられた。
 
 (何もあんなに怒んなくたって……)
 
 胸中でぶつぶつと文句を言いながらコンプの地図を見ながら神舞供町を歩いていると、ツギハギの店はすぐ見つかった。
 ツギハギもここ神舞供町で店を経営しているらしく、その店の名は【セルフディフェンス】というミリタリーショップだ。
 店の前のショーウィンドウには、迷彩服やハンドガンやアサルトライフルなどのモデルガンが展示されている。
 鉄製のドアを引くと、落ち着いた雰囲気のフロリダとは対照的に、ところせましとモデルガンやミリタリー系の服、そして戦車や飛行機などのプラモデルまで陳列されている。

 『わあー……』

 ずっと兵隊に憧れていた重女にとって、この店は宝の山に見えた。
 陳列棚のガラスに展示されているモデルガンを凝視する。シグ・サウエルにコルト・ガバメント、ワルサー・モデルPPに南部式ベビーナンブ、更に別の棚にはMP5サブ・マシンガンにM60機関銃、狙撃銃まで飾られてある。
 重女は記憶の奥底から、家の近くの米軍基地の見張りの兵士が持っていた銃はどんな形だっただろうと思いだそうとした。なんとなくアサルトライフルをもう少し大きくしたような感じだったような……
 次に衣服のコーナーを見る。
 迷彩パターンのジャケットやトラウザース、砂漠用のデザートカモフラージュに黒や茶の軍靴まである。兵士が着ていそうな本物らしきものもあれば、“ミリタリー風”の一般的なシャツやズボンやパーカーにスニーカー、さらには女性用のおしゃれなスカートやブラウスまである。

 (この時代では、こういう兵隊さん風のデザインのカジュアルな服も売ってるんだ)

 その中のいくつかの女性用の服を気に入った重女は、是非買いたいと思いツギハギに声をかけようとした。が、店に入ってから興奮して気付かなかったが、レジカウンターはおろか店内にツギハギの姿はどこにもいない。

 (あれ、どこにいるんだろう?)

 レジカウンターに近寄ると、《ただ今席をはずしております。用のある方はブザーを押してください》との小さな立て看板が置いてあった。
 横にある古びたブザーを押す。ビーッという音が店内に響く。しかし暫く待ってもツギハギは来ない。
 ツギハギの物音を聞き逃さないよう耳をすますと、何やら床下のほうから小さな衝撃音が連続して聞こえてくる。重女はしゃがんで床に耳を近づける。
 ドォン、ドォン、とまるで花火の打ち上げのような音が聞こえる。地下に部屋がある? そこで何が起こっているのだろう?
 重女は遠慮しながらもレジカウンターに入り、奥の部屋に足を踏み入れる。そこには商品が入っているらしき段ボール箱が積まれており、帳簿や須崎家で見た薄いテレビのようなもの――あとで聞いたら、あれは「ぱそこん」というものだとミドーが教えてくれた――が乗っている小さな事務机がある。そしてその更に奥にドアがあり、重女はドアノブを回してみた。
 鍵はかかっていなく簡単にドアは開いた。ドアの向こうには下に向かう階段がある。ドォン、ドォンという音が大きく聞こえる。やはりこの下で確実に何かが起こっている。重女はそう確信し、階段を降りた。

―――

 重いドアを開けると、銃声が重女の耳を聾する。
 地下室は射撃場であった。壁には何挺もの様々な銃がかけられていて、広い空間の奥に的があり、ガラスでそれぞれ隔てられた場所から銃弾を放ち、的に当てる。その中に耳を保護するイヤーマフをかけたツギハギがいた。ツギハギは耳にイヤーマフを当てているせいかこちらに気付いていない。

 『ツ、ツギハ……』

 ズキューン、という銃声が重女の言葉を遮った。ツギハギの銃が火を噴き、弾が的に当たる。弾は的の真ん中に穴を空けた。また撃つ。今度も殆ど同じ場所に穿かれる。銃を撃つ姿は堂に入っており、まるで本物の軍人のようだ。
 彼は確か悪魔召喚師のはず。悪魔召喚師は銃も使えないといけないのだろうか。弟のアキラも銃を撃っていたのだろうか、とアキラが銃を構えるところを想像したが、優しく気弱なあの子が銃を撃っているのはなんとなくちぐはぐな感じがする。

 (それにしても沢山の銃があるけど、ここにあるのは全部本物?)

 重女は壁に飾られている銃に引き付けられるように近づいた。ベレッタ92らしき銃に触れようとしたところ、がしっとその手を掴まれた。

 「なにしてんだお前は!! こんなところで!」

 右手を掴んでいたのはツギハギだった。イヤーマフを外し、縫い目の目立ついかつい顔を怒りに歪ませている。全身から昇る怒りのオーラに気圧され、無意識に重女は身体を後ずらせた。

 『あ、あの……フジワラさんが』
 「ああ!?」
 『フ、フジワラさんが、ツギハギ……さんを呼んで来い、て……』

 ツギハギのあまりの気迫に、情けないことに泣きそうになり電子音声が震えてしまった。掴まれている右手が痛い。

 「フジワラが?」

 そういうとやっとツギハギは手を離してくれた。重女は手をさすりながらツギハギから距離をとる。右手にはツギハギの大きな手形が赤々しく残っている。全く凄い力だ。

 『はい。フロリダにくるようにと。私の仲魔の黒蝿も来ています』
 「……ふん、そうかい」

 ツギハギは射撃所に戻ると、銃から弾倉を取り出し、床に散らばった薬きょうを集め、銃を壁に戻す。そして厳重に拘束具をかける。重女に見せつけるように。

 『あの……ツギハギ……さん』
 「なんだ?」

 ツギハギという渾名で呼んでいいのかわからなかったが、重女はツギハギの本名を知らない。なのでそのまま「ツギハギさん」と呼んだが、ツギハギは特に気にしていないようだ。

 『ツギハギ、さんはいつもこうやって銃を撃ってるのですか?』
 「……まあな。射撃ってのは怠けるとすぐに勘が鈍る。すると悪魔退治に支障が出るからな」
 『でも、ツギハギさんは悪魔を召喚できるじゃないですか。それだけではいけないのですか』

 す、と奥の棚からツギハギは不思議な銃を取り出す。と、いってもあれは銃と呼んでいいのだろうか? グリップと引き金はついているが、銃身がとてもでかい。いや、でかいというより広い。まるで普通の銃の銃身の部分に平べったい板をつけたような奇妙なものだ。

 「これに俺の悪魔召喚プログラムが組み込まれている。GUN(銃)に組み込まれているコンピューターだからGUMP(ガンプ)。これを「SUMMON」(召喚)モードにして引き金を引けば仲魔を召喚できる。
 だがこいつに組み込んだプログラムは、俺がベトナム戦争で使っていた頃からの古いもんだ。改造し何度かバージョンアップし修理しているがいつ使えなくなるかわからん。戦闘時にガンプが敵に破壊される可能性もある。だから悪魔召喚師ってのは仲魔に頼るだけじゃなく自身も戦闘能力を鍛えないといけねえんだよ」
 『ベトナム戦争……』
 「ああ、お嬢ちゃんは歴史の教科書でしか知らないか。俺は昔軍人でな。ベトナム戦争で悪魔召喚プログラムが実用化されたんだ。俺はそのプログラムの実験部隊としてベトナムのある村で戦った。この顔の傷はその時のものさ」

 ベトナム戦争――知らないどころか、重女はまさにその戦争が行われている時代で育ったのだが、それは説明しなくともいいだろう。しかしベトナム戦争に従軍していたというなら、ツギハギは一体何歳なのだろう? 若く見積もっても七十代だろうか。
 まあツギハギの年齢はどうでもいい。それより――

 『その、ツギハギさん。ここの射撃場て、一般人も使えるんですか?』
 「いや、ここは俺が秘密で作った場所だ。正規の許可は受けてない。ここに並んでいる銃も極秘ルートから仕入れたものだ。この事は絶対言うなよ。銃刀法違反でサツにしょっぴかれるのはごめんだからな」
 『はい、絶対言いません。だから、お願いがあります』
 「なんだ?」
 『私もここで銃の腕を磨きたいんです。だから私にもここを使わせて……』
 「駄目だ!!」

 いきなりのツギハギの大声が重女の鼓膜を震わせ全身に行き届く。銃声に勝るとも劣らない音量であった。

 「お前、まだ子供だろう!? 子供が銃なんか持つもんじゃねえ!」

 再び怒鳴られる。が、重女もなんとか萎えそうな全身に力を入れ反論する。

 『わ、私はもう十五です! 子供じゃありません! 悪魔召喚プログラムだって使えます! それにさっきツギハギさん言ったじゃないですか! 悪魔召喚師は自身も戦闘能力を鍛えなきゃいけないって! だから……』
 「馬鹿野郎!! それで銃を撃ちたいってか? 十五なんてまだまだケツの青いガキじゃねえか! そんなガキに銃なんて絶対持たせられねえ!!」

 鬼の形相で先程の倍の音量で怒鳴られ、また泣きそうになったので思わず顔を背けてしまった。何か、何か反論しないと。でも言葉が出ない……。
 言葉を失い俯いている重女をよそに、ツギハギはふん、と顔を背け、ガンプを腰の革の銃帯に収める。そして背を向けたまま、ぽつりと言う。

 「銃を持つってことは、誰かを殺すってことだ。その誰かが人であれ悪魔であれ、俺はお前みたいなガキが銃を持ってる姿を見るなんてもうごめんなんだよ」

 その声音には、妙な湿り気があった。傲岸不遜なツギハギらしくない。
 彼はベトナム戦争に従軍していたと言った。もしかして彼には、余人には計り知れない経験を沢山してきたのかもしれない。それこそ、年端もいかない子供を相手に戦ったり、自分とあまり変わらない年齢の子供を部下にし、敵陣に向かわせたりといった経験があるのかもしれない。

 「わかったなら行くぞ。フロリダでフジワラが待ってるんだろう?」

 ツギハギはカーキー色のジャンパーを羽織り、重女に一緒に来るよう促した。射撃場を出る際、店へと続く階段を昇るツギハギの背中が、重女にはこの時はより一層広く感じた。

―――

 純喫茶・フロリダは通常は夜の十時まで営業している。だが今日は四時で閉店した。大事な話し合いがあるからだ。
 客のいなくなったフロリダには、店主のフジワラと、相棒のツギハギ、重女に仲魔のやたノ黒蝿の三人と一匹しかいない。三人と一匹はテーブル席に座り、テーブルになにやら書類を広げている。

 「よし、じゃあこれから作戦会議を始めるよ」

 ぱん、と手を叩きフジワラが明るく言う。フジワラのソファーの隣にはツギハギが、重女の横には黒蝿が座っている。黒蝿はじろりと重女を睨む。全く、まだ塩入りコーヒーを飲まされたのを恨んでいるのか。

 「とりあえず確認するけど、二日後のクラブ・ミルトンで、VIPカードを手にした重女さんはVIPしか入れないパーティーに招待された。それでそのパーティーは悪魔と人間が集まっている可能性が高い。そのことは合ってるね?」
 『あ、はい』
 「その悪魔の集会なんだが、人間も一緒ってのがどうもしっくりこねえんだよな。悪魔と人間が同じ空間にいたら、そこにいる人間は悪魔に食われちまうぜ」
 「ひょっとしたら、クラブ側で契約している悪魔に招待された人間が供物として捧げられているのかもな」

 ツギハギの疑問に黒蝿が答える。

 「確かにその可能性はあるね。だけどね、私はもっと違う問題が発生していると思うんだ」
 『どういうことですか?』
 「私がクラブ・ミルトンで手に入れた情報によると、その集会はクラブの地下で行うらしいんだ。あそこの地下には大きな施設があるらしく、その施設の一室で集会は行われているんだけど、なんとその集会に招かれた客はきちんと帰っていったんだよ」
 「悪魔と一緒の集会だったのに、そいつらは悪魔に食われなかったってことか?」
 「そう。ただその時の客の様子が変でね。なんというか異様にハイテンションだったんだ。
 パーティーだから多少羽目を外すだろうけど、その客達は目がとろんとしてて、足元もおぼついてなかった。酒に酔っぱらった感じじゃない。まるで何かが頭の中から抜け出たような……なんだか異常に見えたよ」

 フジワラが身を乗り出し語る。パーティーから帰った客が異常な様子だった……それってもしかして……

 「妙なクスリが出まわってるかもしれねえってことか」
 「その可能性はあるね。招待した客達に違法薬物を配ってるってのはあるだろう」
 『あれ? でもそれじゃあおかしくないですか?』

 重女の言葉に男達の視線が集まる。重女は咽喉マイクのチョーカーに触れながら続ける。

 『だってそれだと、ただの違法薬物が出回っているだけじゃないですか。いや、それでも十分駄目ですけど、悪魔は関係ないってことですか? 私達が手に入れた情報によれば――』
 「いや、大丈夫だよ落ち着いて。それでここからが重要なんだけど……」

 フジワラは組んだ足を解き、手を組み膝に乗せる。そしてもったいぶったように続きを話す。

 「その招待された客達は毎週のパーティーには必ず来てたんだけど、ある時を境にパーティーに行くため地下に行ったきり姿が見えなくなったんだ」

 重女は身体を強張らせた。隣にいる黒蝿も、ツギハギも同じく。

 「それとなく他の従業員に客の行方を聞いたんだけど、誰も知らなかった。そもそもVIPのパーティーについては従業員の間では触れてはいけない暗黙の了解があったからね。
 その子達はパーティーが終わる時刻になっても姿を現さなかった。地下の施設からは外に出られないのは私とツギハギの調査で判明している。
 さあ、これをどう見る? 黒蝿君?」

 フジワラは急に黒蝿に話を振った。が、突然の問いにも関わらず、黒蝿は淡々と答えた。

 「何度か違法薬物とやらで客のマグネタイトの質を良くし、食べごろになったら悪魔達が招待客を食っている。そういうことか?」
 「ご明察。私達もそう読んでいるよ」

 まるで答えを当てた生徒を褒めるように、フジワラが朗らかに言った。

 「どうやってマグネタイトを良質化する薬を開発したのかはわからないけど、招待された客達は何度もその薬物を摂取させられ、頃合いになったら皆悪魔の餌になっている。これが私達の見解だ」
 『あ、あの、またちょっといいですか?』

 重女の二度目の質問。つい手をあげた重女に「どうぞ」とフジワラが答える。重女はすう、と息を吸い、チョーカーのスピーカーから電子音声を発した。

 『ええと、それだと、この事件の背後にいる「ヤタガラス」になんの利益もないですよね?
 パーティーに参加費がかかるっていうならともかく、招待はタダですし。そんな手間かけるんだったら、最初に招待客を招いた時に悪魔に食べさせればいいわけですし。違法薬物を作るのだってお金と時間がかかると思うし。組織運営の資金集めが目的の「ヤタガラス」にしてはやってることがちぐはぐだと思うんです』
 「いい質問だね。そこなんだよ問題は」

 うーんと、困ったようにフジワラは首を傾げる。

 「招待客が悪魔の餌食になっているってのは間違いないんだろうけど、やりかたが回りくどすぎるんだよね。
 重女さんの言う通り、最初に客に薬物を大量摂取させ悪魔に捧げればいいのに、何回もパーティーに通わせる意図がわからない。資金繰りに困窮している「ヤタガラス」がお金のかかるパーティーを毎週開催するってのもおかしいし、そこまでしてなんで悪魔の餌となる人間を集めるのか、そもそも悪魔を従わせてなにがしたいのか、そこが謎なんだよ」
 「ま、そこはお嬢ちゃんが潜入して実態を把握すりゃいいんじゃねえの」

 ツギハギが横から口を挟む。いつの間にか彼はビールを飲んでいる。ぷん、と酒臭さを感じ、つい、『私は“お嬢ちゃん”じゃありません。重女です』と苛立って名(正確には偽名だが)を告げた。

 「そうだな。折角苦労して招待を獲得したんだ。潜入計画を練った方がいいだろう。内部に忍び込めば「ヤタガラス」の目的も分かるだろうしな」

 また簡単に言ってくれる! と重女は黒蝿を軽く睨んだ。潜入するのは他ならぬ私なのだ。違法薬物らしきものが出回っていて、更に悪魔までいる所に私は一人で潜入しなければいけない。こちらの心細さを少しは汲んでくれてもいいのに……。

 「そうだね。それじゃあ早速潜入計画をたてよう! まずはこの地図を見て。これは私が独自に捜査して作ったクラブ・ミルトンの地図なんだけど……」

 そうしてフジワラを中心に、クラブ・ミルトンでの“悪魔の集会潜入計画”が話し合われた。
 夕方に始まった作戦会議は、夜更けまで続き、更に翌日も続けられた。全てはヤタガラスの悪事を暴くため、重女達は入念な計画をたてた。

―――

 そしてパーティー当日。
 重女は再びクラブ・ミルトンに来ていた。

 薄く施した化粧に、再び「そふとこんたくとれんず」なるものを装着し、癖のある金髪は美容院で綺麗に整えてもらい、ワインレッドの上品なワンピースを纏い、足元は高さ五センチもあるハイヒール。そして喉には咽喉マイクが入ったミドーとキヨハルが作ってくれたチョーカー。傍から見れば私はきっとお金持ちのお嬢様に見えるだろう。

 (私が計画の要なんだ……しっかりしなくちゃ)

 重女は首からぶら下げている十字架のネックレスを握ると、クラブ・ミルトンの扉を開けた。よし、潜入計画のはじまりだ――

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 重女が案内されたVIPルームは、群青色を基調とした色合いの小さな部屋であった。
 大きなソファーに、凝った金細工の足と縁のテーブル。壁には絵画が飾られており、ちょっとした高級ホテルの一室のような雰囲気である。
 大き目のテーブルには、クラブ側からのサービスなのかサンドイッチやフライドチキン、フライドポテトなどの軽食と、お酒やミネラルウォーターやオレンジジュースなどの飲み物が置かれている。
 疲れ切った身体をソファーに沈ませていた重女は、喉の渇きを癒そうとミネラルウォーターをコップに注いで飲もうとした。だがコップを持った右手が止まる。影で手首を縛られたからだ。

 『飲むな』

 重女の手首を影で縛った張本人の黒蝿が、右耳のイヤリングからそう命じた。

 ――なんで?
 『その飲み物に毒が仕込まれている可能性があるからだ。食い物もだ。一切手を付けるな』
 ――心配しすぎだよ。そんなこと……
 『絶対ない、と言い切れるか? お前は今VIPの資格を手にし、この部屋に招かれた。が、それは逆に敵の中枢に近くなった証拠でもある。今まで以上に注意しないとあっという間に死んでしまうぞ』

 コップの中の冷たい水を眺めながら、重女はごくりと喉を鳴らした。
 ここに案内してくれたクラブの支配人の男は終始笑顔だったが、確かにどこか裏があるような、こちらを疑っているような目つきではあった。あの男なら飲み物にこっそり薬物を混ぜていてもおかしくなさそうではある。
 だが、それ以上に重女は強烈な飢餓感を抱いていた。ブラックジャックの真剣勝負と、黒蝿との感覚の同調が肉体にもたらした負荷は大きく、そのせいで今の重女の身体は、まるで体育のマラソン授業が終わったのと同じくらい疲れ、大量の発汗のせいで水分を欲していた。そう訴えても、黒蝿は飲むな食うなの一点張り。こいつは私の辛さを知らないからそんな事を言えるんだ。

 ――この鬼! 悪魔!
 『悪魔だが?』

 重女の罵倒もどこ吹く風というように黒蝿は受け流す。その態度に今度こそ思いっきりイヤリングごと黒蝿を潰したいと本気で思ったその時。

 コンコン、とドアがノックされる。
 重女は床に投げつけようとしていたイヤリングを右耳に付け直し、スカートの裾とブラウスの襟元を正し、『どうぞ』と咽喉マイクから機械音声で応答した。
 そして重いドアを開け部屋に入ってきたのは、意外な人物であった。

 「いやはや、また会おうとは言ったけど、まさかこんなに早く会えるとは」

 部屋に足を踏み入れたのは、先程までブラックジャックで対決していたディーラーのフジワラと、その相棒であるツギハギ男だった。
 フジワラはディーラー服ではなく、白いシャツに明るめの青のジャケットを羽織りベージュのズボンという私服らしきラフな格好である。その姿から、彼がディーラーとしての職を失ったのだろうということは容易に想像がついた。

 「………」

 なんとなく罪悪感を覚えた重女は、顔を悲し気に俯けた。そんな重女を気遣うようにフジワラは努めて明るく言った。

 「そんな顔しないで。もともと私は目的があってディーラーとして潜入していたんだ。いつかは辞め時がくると思っていた。それが早まったにすぎないよ」
 『潜入?』

 思わず聞き返した重女に、「そうだ」と不機嫌そうに答えたのはツギハギ男だった。

 「あのままこいつが優秀なディーラーを演じ続けてれば、今頃VIPカードを手に入れられたのは俺達だったんだ。それがどっかの誰かさんが邪魔してくれたおかげで計画はパアだよ」

 ぎろり、とツギハギ男は重女を睨んだ。ブラックジャックで重女が連勝し始めた時に寄越したのと同じ怒りの視線だった。
 ツギハギ男の視線にびくつきながらも、彼がゲーム中自分に敵意を込めた視線を送っていたのは、ブラックジャックで負けたからではなく、「計画」とやらが失敗に終わったからだったのか、と重女は理解した。
 しかし、「計画」とはなんだろう?

 「ツギハギ。この部屋の監視カメラはきちんと細工してあるね?」
 「無論。俺の仲魔がカメラに干渉している。カメラには五つの固定映像がループして映っているし、録音も切ってある」
 「そうか。ウンディーネはまだ怯えているのかい?」
 「その逆だ。そのお嬢ちゃんのイヤリングの中の悪魔に組み伏せられた際、一目ぼれしたらしい。「ワイルドで素敵!」だってよ。たく、女ってのは悪魔も人間も良く分からんな」

 フジワラ達の言葉を、重女は茫洋とした頭で聞いた。彼らは一体何をしにここに来たのだろう。どうやらクビになった腹いせに復讐しに来たわけじゃなさそうだ。監視カメラに細工したということは、何かクラブ側に聞かれるとマズイ話をしにきたのか。それは、彼らの言う「計画」とやらに関係しているのだろうか。

 「お、クリュグがあるじゃないか。飲ませてもらおう」

 氷水で冷やされていたクリュグを掴み、どっかりとテーブルの反対側のソファーに座ったツギハギ男は乱暴に栓を開け、グラスに注いで上手そうに飲んだ。重女は口内に沸き上がった唾を飲みこむ。
 フジワラは彼のことを「ツギハギ」と呼んでいた。容貌そのまんまの名は渾名だろう。ただのディーラーとイカサマ師という間柄ではなく、渾名で呼び合うほど二人の仲はいいのだろうか。そもそもこの二人は一体何者なんだろう? 疑問ばかりが湧いてくる。

 「食べないの?」

 同じく反対側のソファーに腰かけたフジワラが問いかけてきた。本当なら今すぐにでも飲み食いしたい身体の飢えと渇きを我慢し、『私は、いいです』と答えた。

 「そう。ああ、私達がここに来たのはね、これを君に渡すようマネージャーから言われたからさ。クラブの従業員としての最後の仕事ってわけ。はい」

 ジャケットの懐から、フジワラは白い封筒を出して重女の前に置いた。クラシカルな封蝋を施されている封筒の表面には、「Invitation」という英語が一語だけ印刷されていた。Invitation……どういう意味だっけ?

 「招待状、だね。開けてごらん」

 招待状! はやる気持ちを抑え、重女は丁寧に封蝋を剥がしていった。そして中から出てきたのはチケット一枚と、金色の豪華なデザインのクラブのVIPカードと、そして一枚の手紙だった。
 手紙には、重女の賭博の才能について褒め、当クラブのVIP会員に認定する通知と、三日後にVIP会員だけが入れるパーティに招待する旨が書かれていた。

 ――黒蝿、このパーティって……
 『恐らく悪魔の集会だろうな』

 やはりそうか! 事前に入手した情報通り、ここで悪魔の集会が開かれていたのは本当だったんだ。そしてそこに正式に招待された! これでこのクラブの深部に迫れる! 目的は達成された。良かった……。

 「良かったなあ。俺らの代わり招待されて」

 心地よい達成感を吹き飛ばすように、ツギハギが不機嫌そうに呟く。知らずに笑みを浮かべていた重女は表情を消し身体を強張らせた。「ツギハギ。そんな言い方するもんじゃないよ」とフジワラが嗜めるが、ツギハギはふん、と顔を背け酒を舐める。
 腕時計をちらりと見たフジワラは、「時間がない。本題に入ろう」とソファーから身を乗り出した。一体なんだろう?

 「単刀直入に言うよ。重女さん、私らと手を組まないかい?」

 何を言われているか咄嗟に理解できなく、重女はつい眉を寄せフジワラの顔をまじまじと見る。が、そこには真剣な表情の中年男の顔があった。

 「もう君も知っていると思うが、こっちのツギハギは悪魔召喚師だ。君と同じくね。ただ、彼は日系アメリカ人なんで、「ヤタガラス」には属していないんだけど」
 『ヤタガラス?』

 おや、というふうに、フジワラとツギハギが顔を合わせた。なんだろう? 神話の八咫烏のことだろうか。それに姿を変えられた悪魔なら今右耳のイヤリングの中にいるが。

 「君は悪魔を使役しているのに、国家機関「ヤタガラス」に属していないのかい?」

 やや驚いたふうに問われ、やっと重女は「国家機関ヤタガラス」の事を思い出した。
 今の今まで忘れていたのが恥ずかしい。悪魔召喚師を束ねる機関。そこにシドも属しており、ここの情報を手に入れた須崎家も確かその傘下のサマナーの家だった。どうやら悪魔召喚師は基本的にそこに所属するらしいが、自分は勿論入っていない。

 『その……私は……』
 「たまにヤタガラスに属していない“はぐれサマナー”も存在する。この嬢ちゃんもその一人なんだろうよ」

 ツギハギが横から口を挟む。日系アメリカ人という彼の顔をよく見ると、今まで暗い照明で気づかなかったが、日本人にしては鼻梁が高く、目元の彫りも深く顎のラインがしっかりしている。言われてみれば確かにどこか欧米人ぽい。

 「まあ、ヤタガラスに属していないなら好都合だ。実はね、私達は君と同じようにここで開かれている悪魔の集会の存在をかぎつけてここに入ったんだ」
 『ええ!?』

 驚きのあまり思わず叫んでしまった。もしかして、さっき彼らが言っていた「計画」というのは……

 「だけどその集会とやらは、VIP会員や一部の信頼のおける従業員しか入れない。だから私はツギハギの助けを得て凄腕ディーラーとしてここで働いた。クラブの収益を格段に増やした私は、きっともう少しで集会に招かれただろうね」

 先程とは比べものにならない罪悪感が胸を締め付け、重女は深く頭を垂れる。彼らは自分達と同じ目的でここにいたのだ。ディーラーとしての腕前をクラブ側に認めさせ、悪魔の集会に入れるよう画策していた彼らの「計画」は水泡と化してしまった。他ならぬ、自分のせいで。

 『ごめんなさい……』
 「謝ることはないよ。君の仲魔の力がツギハギのウンディーネより勝っていたからイカサマを見抜けたんだよ。最後は私と君の小細工無しの勝負だった。それに君は勝った。そしてVIPカードを手にし招待も受けられた。何も恥ずべきことはない」
 『あれは……ただ運が良かっただけです。私はほとんど勘を頼りに戦っていました。戦略もなにもなかったんです。ギャンブルとしては恥ずべき方法で……』
 「運も実力のうちだよ。勝利の女神が微笑んだ時、たまたま視線の合った者が女神の恩恵を受けられるものさ。君は頼もしい“剣”を持っているみたいだしね」

 フジワラが右耳のイヤリングに視線を移し言う。重女はイヤリングの中の黒蝿が身じろぎしたように感じた。

 「折角だからイヤリングの仲魔もここに座ったらどうだい? 監視カメラは細工してあるし、姿が映ることはないよ」
 「それは俺も賛成だな。このお嬢ちゃんが一体どんな悪魔を仲魔にしているか見てみたいな」

 フジワラとツギハギの要請に重女が答えるより先に、イヤリングがはじけ、VIPルームに一瞬強烈な風が吹いた。風が重女やフジワラ達の顔や服、部屋の中の調度品を強く撫ぜる。あまりの強さに目を開けていられない。
 風が収まると、重女の横にいつの間にか黒蝿が腕組みしながら座っていた。

 「ふうん。なかなか色男じゃねえか。おい兄ちゃん、名前は?」
 「………やたノ黒蝿」

 黒蝿は険しい表情を崩さずそっけなく名乗った。ムッとしたツギハギをよそに、フジワラは「よろしく。やたノ黒蝿君」と手を差し出してきた。が、黒蝿は当然のように無視する。見かねた重女が肘で脇を小突いても態度を変えない。

 「こんなに立派な仲魔を従えているだなんて、重女さんは見かけによらずかなりの力の持ち主らしいね。これなら力強い。是非私達と手を組んでほしい」
 「待て。何故お前たちは俺達と手を組みたい? そんなに悪魔の集会に興味があるのか? そもそもお前は何者だ? そこのツギハギ男のように悪魔召喚師ではないのだろう」

 黒蝿の質問に、フジワラは水を一口飲んでから答えた。

 「私は、フリーのジャーナリストだ」
 『!』
 「普段は喫茶店を営んでいるんだけどね、本業は社会問題を追うジャーナリストってわけ。今は悪魔と、悪魔召喚師について追いかけている。ツギハギは取材の過程で会った悪魔召喚師で、良き協力者で良き友人だ」

 フジワラによると、古くからこの国の裏で活躍してきた悪魔召喚師――デビルサマナーというものに惹かれ、取材を続けてきた。そしてツギハギと会い、デビルサマナーを纏める国家機関ヤタガラスの存在を知り、そしてそのヤタガラスのなにやらきな臭い動きをキャッチした。クラブ・ミルトンでの悪魔の集会も、どうやら裏にはヤタガラスがいるらしい。

 「平安時代にこの国を守護する為に結成された超国家機関ヤタガラス。だが時代が変わるにつれてヤタガラスの内情も変わってきた。純血のサマナーの数は減少傾向にあり、アメリカで悪魔召喚プログラムまで開発され、それを扱える新しいサマナーが台頭するようになって、国はヤタガラスよりそちらのサマナーに外注することが多くなった。
 ヤタガラスでも悪魔召喚プログラムの使えるサマナーを増やしているけど、なまじ歴史があるから古来の方法にかじりつく連中が組織には多いらしい。悪魔召喚プログラムの組み込まれたコンプ使いを支持する派と、まっとうな血筋のサマナーに今まで通り悪魔討伐させる派と、ヤタガラス上層部はいくつもの派閥に割れている。
 そんな下らない派閥争いのせいで、今じゃ国からの予算も縮小され、組織運営もぐらついている。それに焦った過激派は組織維持のため、資金集めの為になにやら危ない道をいくつか渡っているらしい。それがこの数ヶ月で私が集めた情報だよ」
 「要するに、ヤタガラスも一枚岩じゃないってこった。組織がでっかくなると当初の理念だけじゃやってけない。政治的な駆け引きも必要だし、思想の違いで派閥もできる。でっかい組織のお偉いさんの考えはどの国でも同じだな」

 悪魔を滅するために結成された、魔をもって魔を討つ超国家機関ヤタガラス。そう昔重女はシドに聞かされた。
 きっと、ヤタガラスに所属しているデビルサマナーは皆が皆悪人というわけじゃないのだろう。この間お世話になった須崎家のように、純粋に悪魔を討つために存在している家もあるし、組織の基本理念はまだ変わっていないのだろう。そうでなければ須崎家にクラブ・ミルトンでの悪魔の集会の調査依頼がくるはずがないのだから。
 だけど、もしヤタガラスの中に非道を働いている者達がいるなら、なんとかしたいと思う。そんな奴らをほっといたら、前に鞍馬山で見た光景のようなことが繰り返されてしまうかもしれないから。
 今でも思い出せる。鞍馬山地下のヤタガラス施設の換気口から見た悲惨な光景。頭にいくつも管を刺され診察台に固定された友人・京子。それを囲む大人たち、それに混ざっていたシド――

 「……!」

 急に息苦しくなり、ブラウスの胸当たりをぎゅっと掴んだ。「お守り」の十字架に触れると少しだけ気持ちが収まり、これをくれた大柄な神父の事を思い出す。

 ――シド。もしかしてシドも悪魔の集会に来る? なら私は――

 「重女さん? どうしたの?」

 フジワラの心配そうな声に、もう何度逡巡したか分からない思考を中断した。
 眉を寄せこちらを値踏みするかのような視線を寄越すツギハギと、温厚そうな顔にジャーナリストとしての使命感を漂わせるフジワラの顔を見比べ、最後に隣にいる仲魔の黒蝿の顔を見た重女は、『私、貴方たちに協力します』と答えた。

 「!?」
 「おい、うかつ過ぎるぞ……!」

 驚いて眉を上げたツギハギと、叱咤してきた黒蝿を無視し、重女はフジワラを見続けた。ブラックジャック勝負の時と同じ、本当の事を喋っている眼鏡の奥の鳶色の瞳を確認した重女は、『大丈夫。フジワラさんは、嘘を言ってない』と黒蝿に告げた。

 「なんでそんなことがわかる? またお得意の勘か?」
 『そうよ』
 「! お前は……!」

 黒蝿の怒声が響くより先に、フジワラが笑った。ツギハギも、黒蝿も、重女も怪訝そうにフジワラに視線を向けた。が、彼は構うことなく手を振って「こりゃ参った」と大仰に肩を竦めた。

 「断られた場合の説得案をいくつか考えていたんだけどね、まさか一発OKとは。「戦いの女王」が味方についてくれるとは心強いよ」
 『だから、私はそんなんじゃないですってば……!』

 恥ずかしさで顔を赤くした重女に、フジワラがそっと何かを目の前に出す。
 それはマッチ箱のようだ。「純喫茶・フロリダ」とレトロなデザインの印字が紅く印刷されている。喫茶の名の下に住所と電話番号が記載されている。

 「そうと決まれば早速作戦会議だ。でも今日は遅いから明日その喫茶店においで。私が煎れるコーヒーが自慢の喫茶店だよ」

 フジワラは帽子を被り立ち上がった。ツギハギもそれに続く。そしてもう一度、手を差し出してきた。今度は重女に。

 「とりあえず、私達は共同戦線を張った仲間だ。このクラブの暗部を、協力して暴き出そう」

 差し出された手を、重女は気負いなく握った。その手は大きく、そして温かかった。
 まだ納得のいかない風情の黒蝿が何か言いかけたが、「そろそろ行かないとやばいぞ」とツギハギが急かした声を上げて遮った。フジワラは握手を解きながら「ああ」と答える。

 「あ、携帯の番号教えてもらってもいい? 今の子はスマホ?」

 軽い調子で黒い小さな板を取り出したフジワラに重女は困惑した。けいたい? すまほ? それはなんだろう?

 『あの……私、「けいたい」も「すまほ」も持っていないんです。すみません……』
 「ええ? 今時の子にしては珍しいね」
 「フジワラ、早く!」

 ツギハギが更に急かすので、フジワラは曖昧に返事し、戸口へと向かった。

 「じゃあ明日、「フロリダ」で会おう! 時間は一時位でどうかな?」
 『はい、それじゃあ明日伺います』
 「また明日ね」

 まるで友人と遊びの約束をするかのような気軽さで、重女とフジワラは明日会う約束をした。
 フジワラ達が去ったあとのVIPルームには、無視され一方的に話を進められたことで怒りを露わにしている黒蝿と、栓が開けられた飲みかけのクリュグの瓶が残っていた。

 ―――

 それから荷物検査で没収されたコンプを返して貰い、廃神社へ帰る道すがら、重女はずーと黒蝿のお小言を聞かされる羽目になった。お前はなんでそういつも短絡的なんだ、なんで後先考えず勝手に決めるんだ、少しは人を疑ったらどうなんだ、等々。
 だが疲労困憊の重女の耳には殆ど届いていなかった。
 廃神社の結界にたどり着くと、重女は買い置きしていたミネラルウォーターをがぶ飲みし、眼科で無理やりはめられた「そふとこんたくとれんず」なるものを目から取ると、デパートの化粧品コーナーで施された化粧も落とさず、着替えもせず、気絶するかのように眠りに落ちた。
 眠りに落ちる寸前、握っていたフジワラのハンカチの香りが鼻腔に届き、今日出会ったフジワラやツギハギ達の大きな大人の背中を思い出した。

 彼らに比べて、まだまだ自分は子供なんだな、と感じ、重女はそのまま深い眠りへと落ちて行った。

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 フジワラの言葉に、重女の心臓はどくんと大きな鼓動をたて、呼吸が一瞬止まってしまった。

 ――この人、私達の企みを見抜いている!?

 重女は思わずツギハギ男の顔と、フジワラの顔を見比べてしまった。それがまずかった。二人は当たり、とでも言うかのようににやりと笑って見せた。
 何も言い返すことが出来なかった。重女は口を開けたまま無意識に右耳のイヤリングに触れた。頭の中が真っ白になり、体温が下がっていく。

 『惑わされるな』

 頭の中に見知った声が聞こえ、重女は正気に戻った。重女の影と同化した黒蝿の叱咤の声であった。そっとカードシューに視線を移すと、すぐ横のテーブルの角に影が辿りついていた。

 『こいつはカマをかけているだけだ。本当に俺達の策に気付いているなら、ツギハギ男が妨害してくるだろう。だが奴らはそれをしない。まだお前を疑っている段階だ。堂々としてろ』

 フジワラは笑みを崩さない。優しい笑みのはずなのに、今の重女にはその笑顔が般若のように見えた。
 ツギハギ男の視線が刺さる。この二人、次に私がどう反応するか見ているんだ。
 黒蝿の言う通り、ここで狼狽えては作戦が台無しになってしまう。堂々としなくちゃ。

 『そ、そうです、か?』

 冷静に、と思ったのに、情けないことに声が少し震えてしまった。ツギハギ男がくく、と喉を鳴らす。そしてグラスの残ったバーボンを一息に飲み干し、追加をホールスタッフに頼む。

 ――そうだ!

 ツギハギ男の様子を見て、重女の脳内にあるアイディアが浮かんだ。今、フジワラとこの男は私の事を警戒している。影と一体化した黒蝿がカードシュー間近で動きを止めているのも、彼らの警戒の目が厳しいからうかつに動けないのだろう。
 一瞬でいい。イカサマ師の二人の注意を逸らせば、黒蝿はやり遂げるだろう。なら、このアイディアに賭ける。

 「お嬢さん、まだゲームは続けますか?」

 フジワラが聞いてきた。穏やかな口調だが、声の裏では、私たちのイカサマを妨害する気かい? と聞いてきている。

 『はい。まだ全然勝ててないので。それに……』
 「それに?」

 ホールスタッフが盆にバーボンのグラスを乗せて、ツギハギ男に近づく。ツギハギ男がグラスを受け取ろうとする。

 『まだ“戦いの女神”は、私のところに来てくれてませんから』

 その時。

 「わ!?」

 ホールスタッフの足がほんの少し揺れ、盆は大きく傾いてしまう。グラスを受け取ろうとしたツギハギ男のカーキー色のパーカーと顔に、派手にバーボンがかかってしまった。
 その光景に、フジワラをはじめ、スーツの男、巻き髪の女の視線が一斉にツギハギ男に集中する。テーブルから皆の視線が外れた。その一瞬を黒蝿は逃さない。
 影と一体化した黒蝿はカードシューに取りつき、あっという間にカードに変化していたウンディーネを“組み敷き”、強い圧力をかける。
 ウンディーネは悲鳴すら上げる暇もなく、無理やり黒蝿の魔力によってその身を変化させられた。見た目は全く変わらないただのトランプカード。だがその数字とスーツは黒蝿によって強引に変えられた。これはもう主であるツギハギ男にも、フジワラの銀時計の干渉でも変えられない。黒蝿の魔力の圧力は、彼より弱いウンディーネにはどうすることもできない。
 そして黒蝿は重女の右耳のイヤリングに戻ってきた。この間、僅か0・5秒。
 ツギハギはホールスタッフに文句を言い、巻き髪女は自分にもバーボンがかかっていなかったことを確かめ、恋人のスーツの男と安堵する。フジワラはスタッフにタオルを持ってくるよう指示し、テーブルとカードにバーボンの液が飛んでいないか素早く確認する。
 カードを見た時、彼は違和感に気づき眉を寄せて重女の方を見た。が、もう遅かった。すでにこちらの策は成功したのだから。

 『よくやったな』

 珍しく黒蝿が褒めてきたので、重女は右耳から少し悪寒を感じ身震いした。明日は雪だろうか。

 『あそこでスタッフを影で転ばせ、ツギハギ男達の注意を逸らすとはな』

 そう、重女は黒蝿と一体化した以外の、まだ若干残っていた自分の影を伸ばし、ホールスタッフの足をひっかけ転ばせたのだ。ツギハギ男にバーボンをかけさせるために。
 客の一人に飲み物がかかってしまったら、誰だってそっちに目を向けるだろう。フジワラの注意をひけるかは賭けだったが、見事にはまってくれた。
 スタッフには気の毒なことをしたと思うが、ツギハギ男にはあまり同情の気持ちは湧かなかった。先程言われた「初心者と身障者には優しくしないとな」という言葉を重女はまだ根にもっていたから。
 パーカーを脱いで白いシャツ一枚になったツギハギ男の太い二の腕と首に、顔と同じく手術痕のような縫い目が沢山あるのを見て、重女は目を丸くした。黒蝿は彼を悪魔召喚師と言った。あの傷の数と、シャツの上でもわかる鍛え上げられた上半身から、彼はきっと歴戦の猛者なのだろう。

 「…………」

 フジワラは重女をじっと見ていた。睨んでいる、と言った方が正しい。
 もうカードが自分の思い通りに操れないことに気付いたのだろう。恐らく、私が何か細工をしたことも。
 しかしその証拠はない。黒蝿がウンディーネに圧力をかける瞬間、彼はカードシューから目を離していたし、監視カメラに映ってない自信もある。それはスタッフを転ばせた時も同様で、あの時の影はカメラの死角にスタッフが入った時に伸ばしたのだ。仮に映っていたとしても、あれを私の仕業と断定する証拠にはならない。今の自分には悪魔召喚師としての証拠は一切身に着けてないし、疑惑を持たれた右耳のイヤリングだって、調べられてボロがでるようには作っていない。大丈夫だ……多分。
 ツギハギ男がタオルで顔を拭き終わり、テーブルの動揺が鎮まったのを確認したフジワラは、
 
 「まだカードは一巡していませんが……お酒の液で汚れがついていないか念のために一度カードをシャッフルして確認したいと思います。宜しいですか?」と聞いてきた。

 重女達が頷くと、フジワラはディスカードとカードシューに収まっていたカードを混ぜシャッフルを始めた。優雅だったはずの手つきは何かを探るように不自然な動きに変わっていた。
 一方重女は、まるで透視能力が発眼したかのように、カードの数字とスーツが一枚一枚手に取るように分かった。フジワラも、ウンディーネの主であるツギハギ男も、黒蝿によって無理やり変えられたカードにもう何も細工は出来ないようだ。

 「どうぞ、お好きなところに」

 シャッフルし終えたフジワラが、重女にカットカードを差し出した。重女はフジワラの眼鏡の奥の目を真っ直ぐ見つめながら、カードの束にカットカードを刺した。じっと見ると、フジワラの鳶色の目は意外と優しい印象を与えた。
 カットカードの刺された箇所から束を二つに割ってまとめ、カードシューに収める。「ベットをどうぞ」という言葉でプレイヤーはチップをベットしていく。重女は思い切って手持ちのチップ全てをベットした。
 テーブルがざわついた。スーツの男と巻き髪女は口を開けて驚き、ツギハギ男は薄い片眉を上げた。

 「良いのですか? そんなに」

 フジワラの問いに、重女はしっかりと頷いた。このチップが有り金全てなので、もし負ければ重女はこのテーブルを退場しなければならない。しかし、今の重女には負けない自信があった。

 『“今の自分”なら、負ける気はしません』

 それは最初に大見得を切った時と同じ台詞であったが、今回は根拠のある確かな言葉である。
 またも他の三人のプレイヤーから怪訝な視線を向けられたが、重女はもう勝利を確信していた。
 フジワラが一瞬だけ、温和な表情を崩し当惑の色を滲ませたのを、重女は見逃さなかった。続きを読む

 ――この二人が、イカサマ師!?

 重女はふんぞり返りながら酒を飲んでいるツギハギの顔の男と、テーブルの上で滑らかにカードをシャッフルしているフジワラの顔を交互に見比べた。
 佇まいも言動も粗野なツギハギはともかく、物腰の柔らかなフジワラがイカサマを働いているなんてとても思えなかった。ましてやこの二人がコンビを組んでいるなど。

 ――それは確かなの?
 『ああ。今までの動きではっきりした。奴らはイカサマを働いている。と、いっても大した仕掛けじゃない』
 ――どういうこと?

 ふう、と黒蝿は溜め息をついた。そんなこともわからないのか、と馬鹿にしているように。

 『今から俺の“感覚”をお前のと合わせる。それで直接確かめてみろ』

 え? と聞き返すまでもなく、急に視界がぎゅうんと広がった。
 視覚、触覚、聴覚、嗅覚、全ての感覚が広がり、酷く鋭敏になった。目に入るもの、聞こえる音、肌に触れる空気の流れ、ホールの匂いまで、全てが情報となり重女の脳に入り込んできた。それは人間の処理能力を超えており、重女は酷い酩酊にも似た混乱に陥った。

 『どうした』
 ――気持ち悪い。くらくらして……吐きそう……
 『なら、同調を少し緩和する』

 焦点の合わないギラギラした万華鏡のような視界は、徐々にどぎつい色合いが薄れていき、耳元のノイズは晴れて、不必要な情報は遮断された。これなら耐えられる。重女は口許を押さえながら、いまや黒蝿のとほぼ同じになった視力で、フジワラのシャッフルしているカードを見た。

 ――あ!

 それは、ただのトランプカードではなかった。

 一枚一枚が“液体”で構成されている。水の精霊・ウンディーネの身体を変化させて作られたカードは、見た目も質感も本物のそれと同じである。勿論、違いなど人間には全く分からない。ただの人間なら。
 気づかなかった自分が間抜けに思えるくらい、あまりにも単純なイカサマだ。使役する仲魔をカードに変化させていただけ。それなら自分の思い通りのカードを配れる。

 『だが、ディーラーのフジワラは悪魔召喚師ではないな』
 ――なんで分かるの?
 『悪魔召喚師は体内の気の巡りが独特なんだ。自身のマグネタイトを仲魔に与えているからな。フジワラの気は一般人と変わらない』
 ――なら、もしかして悪魔召喚師は……

 「お好きなところへどうぞ」

 フジワラは赤いカットカードをツギハギ男へと渡した。プレイヤーにはシャッフルし終わったカードの束に、任意の所へカットカードを入れる権利がある。今回はツギハギ男の番である。
 ツギハギ男がカットカードを束に差し込んだ、その時。
 ぐにゃり、とカードが変化した。形が変わったのではない。カードがツギハギ男からマグネタイトをもらい、“喜んで”いる。少なくとも重女にはそう見えた。
 ――間違いない。悪魔召喚師はツギハギ男のほうだ。
 でも、ツギハギ男が悪魔召喚師なら、フジワラはどうやってカードを操っている?

 「それでは、始めます」

 プレイヤーが次々とベットしていく。重女もチップを置きながらフジワラの一挙一動を凝視した。
 フジワラが左手でカードシューからカードを抜き取り、プレイヤーに配ろうとする。その時、左手のごつい銀の時計から、何か微細な電流のようなものが流れた。“それ”はカードに――正確にはカードに化けたウンディーネに伝わり、フジワラの思い通りのカードになる。
 もうイカサマのトリックは分かった。ツギハギ男の仲魔のウンディーネがカードに変身し、ディーラーのフジワラが、左手の時計からマグネタイトに似た電流のようなものを発し、カードの数字を自由に変化させる。
 わかってしまえばなんてことはない、イカサマともいえないチープなトリックだ。

 ――あんな仕掛けがわからなかったなんて……
 『だから、お前ひとりに任せるのは心配なんだ』

 重女はむっとしたが、あの仕掛けを見抜けなかったのは事実だ。強くなったと思っても、まだまだ自分は半人前だ。
 さて、イカサマの正体は分かった。だがどうやって彼らに勝つ? 正攻法では勝てない。なら――

 『決まってる。“イカサマにはイカサマを”だ』

 黒蝿が自信たっぷりに、「作戦」の内容を重女に告げた。奴らのイカサマに対抗する策を。

 ―――

 『あ、スペードが揃ってる』

 重女はわざとらしく、手札のカードを指さして嬉しそうな声をあげた。フジワラと、ツギハギ男、スーツの青年に巻き髪女が怪訝そうにこちらを向く。

 『次にもう一回スペードが来たら、三枚もスペードが揃っちゃう。そしたら凄いなあ。もしかして配当が三倍になっちゃうかも?』
 「残念ながら、ここのハウスルールでは印(スーツ)が揃っても意味はございません」

 フジワラが淡々と告げた。声音は穏やかだが、顔は苦笑している。ルールブックで確認しただろう、とでも言いたげだ。だが構わず重女は続けた。

 『そうかあ、残念。スペードは尖っているから少し怖いな。ハートかクラブが来ればいいのに』

 全く意味不明な言動に、テーブル中に失笑が漏れた。皆の冷たい眼差しを受けながら重女は作り笑顔をひくつかせた。

 (なんで私がこんなことを……)

 そっと、重女は自分の足元を確認した。テーブルの下の影は静かにフジワラへと伸びている。幸いここのテーブルの照明は暗い。影が変化しても分かりにくいし、そもそも誰も他人の影の事など気にかけていないだろう。

 ――俺がお前の影に同化して、カードシューにとりつく。そしてウンディーネに圧力をかけてカードを無理やり変える。お前はフジワラとツギハギ男の気をひいて影から注意を逸らさせろ。

 これが黒蝿の策であり、重女に下した命令だった。
 カードシューに収まっているウンディーネを力ずくでこちらの任意のカードに変えるという、至極簡単な策だったが、ばれたら一発で終わりだ。慎重に黒蝿は影をテーブルの下からカードシュー目指して伸ばしていき、重女はフジワラ達にばれないよう間抜けな素人のふりをして彼らの気を引く。なるべく不自然にならないよう重女は喋り続けた。

 『あ、お兄さんの手札、ハートのクイーンがある。いいなあ』

 スーツの男の手札を指さし、重女はさも嬉しそうにはしゃいでみせた。スーツの男は巻き髪女と唖然とした表情で顔を見合わせた。一体この子は何を言ってるんだ、という風に。

 「ステイ」

 ツギハギ男が手を振ってステイした。そして重女の方を見た。重女はにっこりとほほ笑んで見せたが、その笑顔がわざとらしかったので、ツギハギ男は不気味そうに眉を寄せた。一体この子はどうしたんだ、緊張で頭でもいかれちまったのか、とでも言いたげな顔だ。
 自分の演技のクサさに顔を赤くしながら、重女は人差し指でテーブルを二回叩き、『ヒット』と要求した。来たカードはクラブの7。23でバスト。

 『クラブは丸いな。そういえばクラブのキングはアレキサンダー大王なんだっけ』

 プレイヤーの三人は、もう重女のおかしな言葉を無視した。影は徐々にカードシューへ近づいている。もう少しだ。

 「お嬢さん、トランプに興味があるのですか?」

 フジワラが急に話しかけてきたので、重女は少し驚きつつも、『はい』と答えた。影に気づかれた様子はない。大丈夫だ。

 「どのスーツが好きなのかな?」
 『スペード……かな』
 「おや珍しい。貴女くらいの年頃の女の子は、てっきりハートを選ぶと思ったのに」

 言いながらもフジワラの手は止まらない。ヒットを要求してきた青年と巻き髪女にカードを配る。青年は22、女は24で両方ともバストであった。

 『昔、スペードは私の星座のふたご座を意味すると聞いたので』
 「よくご存じで。ならば、絵札ならどれが好きかな?」

 重女は少しだけ迷って、『クイーン、です』と答えた。一体彼はなんでこんな事を聞いてくるのだろう。やはり先程の演技がクサかったから怪しんでいるのだろうか。

 「スペードのクイーンは、ギリシャ神話の戦いの女神、バラス・アテナを意味します。彼女は勇敢な女神であると同時に、非情に気性が激しかったとも言われています。そして、スペードのクイーンは、創作上で悪女を意味することが多い」

 悪女、と言われ、重女は少しだけ息を飲んだ。もしかして、私がやろうとしていることに気付いている?

 「そして女王には、王子が傍にいるものだ」
 『……なにが言いたいのですか?』

 ふ、と笑いながら、フジワラはホウルカードをオープンした。アップカードの“スペードのクイーン”と、ホウルカードの“スペードのジャック”、合わせて20。21でブラックジャックであったツギハギ男の一人勝ちだ。

 「このカードは貴女“達”のようだ。女王と、女王を守る騎士」

 ディスカードとチップを集めるフジワラを見ながら、重女は背筋が凍るのを感じた。今のは、けん制だ。自分は自由にカードを操れるということの。そして、“貴女達”という単語。まさか――

 「そのイヤリングはとても“変わった”形をしていますね」

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 XX市のクラブ・ミルトンは、かつてある華族の所有していた迎賓館を改造した建物である。
 そのため、クラブだというのに、その外装はレトロな洋館といった佇まいだ。
 だが屋内は数多のクラブの例にもれず、大音量の音楽が鳴り響き、けばけばしい照明が辺りを照らす中、露出の高い服装に身を包んだ若者が大声で話している。叫んでいる、といった方が正解かもしれない。
 ゲラゲラと大笑いしている若者達を見て、一体何がそんなに面白いのだろう、と重女は思った。

 (お酒で酔ってるのかな?)

 見たところ、彼らは自分と対した変わらない年頃の少年少女なのに、煙草を吸って、酒を傾けている。煙草と、酒と、汗と、なんだか良くわからない甘ったるい匂いがごっちゃになって鼻孔に届く。重女はこの匂いが嫌いだ。仕事帰りの母親が良く似た匂いを纏っていたからだ。
 クラブ、という場所は初めて来たが、キャバレーのようだ。キャバレーなんて行ったことがないけど、男と女が酒を酌み交わして談笑する、大人の出入りする場所、というのは聞いていた。が、ここは予想よりやかましく、客も若く、正直、品がない。

 「……………」

 隣のテーブルで大声で喋っている茶髪の女と、自分の服装を比べてみた。
 女、といっても自分とそう変わらない少女は、ピンクのシミーズ(この時代ではキャミソールと言うらしい)に短いジーンズのスカート、首や腕にまるで飴玉みたいなごてごてしたアクセサリーを纏っている。そして底の高い編み込みの凝ったサンダル。厚化粧で、目蓋の濃いアイシャドーとひじきみたいなマスカラが乗った睫毛が印象的だ。
 対して自分の格好は、白のノースリーブのブラウスに、ティーンズ向け雑貨店で買ったきらきらしたネックレスやブレスレット、赤と黒のチェックのスカート、黒の膝上まであるニーソックスというものに、足元はいつもの軍靴。野暮ったいからという理由で、眼鏡ではなく「そふとこんたくとれんず」なる柔らかいガラス片を目に装着し、そして首元に黒いチョーカーを着用している。
 実はこのチョーカーの中には咽喉マイクが仕込んであって、これで機械音声ではあるが声が発せる。
 これを作ったのは東のミカド国のキヨハルだ。正確にはキヨハルが作りかけでコンプ内に密かに収容していたのを、ミドーが完成にこじつけたのだ。
 ただのコンプの悪魔合体プログラムを取り仕切っているだけの老人かと思ったら、意外となんでも出来るんだな、と重女は少し驚いた。

 (でも……ちょっと締め付けられてる感じがする)

 チョーカーについている金属片を指先で弄びながら、不満を胸中でごちると、『仕方ないだろ、我慢しろ』と右耳の黒い勾玉のイヤリングが重女に念波を送ってきた。

 ――だって、なんだか苦しいよ。しかも重いし。
 『そのチョーカーは、複雑な仕掛けの小型電子部品で構成されている。その分重量はかさばるが、それもこれもお前を喋らせるようにとキヨハルとミドーが作ったんだ。せめてこの潜入が終わるまで我慢しろ』

 やや大きい、黒い勾玉のイヤリング内部には、自身の身体を極小化させた黒蝿が入っている。重女と出会ったばかりの時の蝿を思わせる姿へ自ら変化し、影の造形魔法で造ったイヤリングの中に入り、念波で重女にアドバイスを送るという寸法だ。
 何故そんな事をしなければいけないのか。それはこのクラブに入る時のこと。
 警備員が来客の身体と荷物をチェックするのだが、黒蝿のような目つきの悪い男は入場すらさせてもらえなかった。しかし重女は簡単なチェックだけですんなりと入場許可されたことからである。
 この手のクラブは、若い女にはチェックが甘い。しかし重女一人だけが潜入するのはリスクが高すぎる。思案の末、黒蝿は影で造ったイヤリングに自ら入る事にした。これで有事の際に飛び出て重女と戦う事も出来るし、彼女に色々助言する事も出来る。

 ――私一人で大丈夫なのに……
 『お前ひとりじゃ心もとないから俺がこんな姿になってまでついてきてるんだ。忘れたか? ここで悪魔の集会が開かれているかもしれないことを』

 確かに得た情報は、ここクラブ・ミルトンで悪魔の集会が開かれていて、一般人も攫われているかもしれないというものだった。悪魔がいるならもしかして戦闘になるかもしれない。だがコンプは荷物検査でひっかかり持ってくることができなかった。だから唯一コンプに入れない黒蝿が傍に控えるというのは理解できる。
 
 だが少し過保護じゃないか? と重女は思った。私だって今まで決して少なくない悪魔と戦ってきたんだ。仲魔のサポートが大きいとはいえ、影の造形魔法だって大分使いこなせるようになったし、雑魚なら簡単に倒せる……と思う。
 黒蝿がこんな風に接してくるようになったのはいつからだろう。多分東のミカド国での出来事からだろうか。それまでは私に対しては“殺してはいけない獲物”くらいのぞんざいな扱いだったのに。あそこで何があったのだろう。アキラとの「男の約束」とやらが原因なのだろうか?

 「………」

 その考えを追い払うように、重女は辺りを見渡した。
 若者が談笑していたり、音楽の流れてくるスペースに集まって踊っているくらいで、悪魔の気配は感じない。 彼、彼女らが悪魔召喚師なのだろうか、とも考えたが、無邪気に楽しんでいる彼らの佇まいは酷く無防備で、とても悪魔を従え戦うようには見えなかった。
 本当にここで悪魔が集会を開いているのだろうか。あの情報はガセだったのではないだろうか、シドはここにはいないのではないだろうか、などと疑念をもちながら、重女はミルクを一口飲んだ。ノンアルコールドリンクの中で一番安いのがミルクだったから注文したのだが、妙に平べったい味だ。

 ――やっぱり、あの情報はガセ?

 イヤリングに潜んでいる黒蝿にそっと念話を送る。

 『今の段階ではなんともいえない。この階に悪魔がいないのは確かだが、もしかするとVIPルームのような別の部屋にいるのかもしれないな』

 VIPルームか。この建物の大きさからいって、あってもおかしくないが、どうやったらそこに入れるのだろう? 私は招待されたセレブリティではないし、警備の目もある。強行突破はリスクがありすぎる。だけどここにいても事態は動かない。
 何か手はないか、と考えていると、部屋の隅の方がなにやら騒がしいのに気づく。そちらに視線を向けると、小さな人だかりが出来ている。そこでは大きなテーブルが置いてあり、三、四人程の人間が椅子に座ってカードを手にし、カードを出したり取ったりしている。その度に小さなどよめきが起こり、カードを手にしたものはしかめっ面だったり、喜びに顔を綻ばせたりと表情がころころ変わる。

 ――あそこでなにやってるの?
 『おそらくトランプを使った賭け事をしているんだろう。あのカードの出し方は……“ブラックジャック”だな』
 ――ブラックジャック?

 黒蝿の説明によると、それはトランプを使った遊びの一種で、簡単にいえばディーラーより自分の手札が21に近い程勝つというゲームらしい。21を越えたら負け(バスト)。A(エース)は11か1として、J(ジャック)、Q(クイーン)、K(キング)の絵札は10として数える。例えばJと5ならば15、Aと絵札、または10ならば21、ブラックジャックという風に。
 ルール自体は簡単だが、トランプ遊びなどババ抜きくらいしかやったことのない重女にとって、それは大人の嗜みのようで、自分には縁遠いものだと感じた。

 『よし、あそこに行くぞ』
 ――ええ!?

 重女は思わず口に含んでいたミルクを噴出しそうになった。

 『ブラックジャックで大勝すれば、ここの支配人に一目置かれ、VIP待遇を受けられるかもしれん。そうなれば他の部屋もチェックすることができるだろう』
 ――で、でも、私ブラックジャックなんてやったことないよ。
 『ルールは今教えただろう』
 ――そういう問題じゃなくて、素人の私がどうやって勝てばいいの?
 『安心しろ。俺がいる』

 どき、と胸が鳴った。思わずイヤリングに触れる。この中にいる仲魔の存在を確認するかのように。

 『俺の指示どおりにすれば、必ず勝てる。俺を信用しろ』

 台詞だけなら命令口調だが、その声音は力強く、少しだけ温かみを感じた。おかしい。以前ならもっと突き放すように言ってたくせに、「信用しろ」ときた。やはり過保護だ。だけどなぜか嫌とは感じなかった。

 ――本当に、頼っていいの?
 『ああ』
 ――私を勝たせてくれる?
 『そのためにここまでついてきた』

 重女はぎゅ、と拳を握ると、グラスに残っていたミルクを一気に飲み干した。
 そして意を決して、カジノブースの方へ歩を進めた。右耳の仲魔とともに。

―――

 『お願いシマす』

 カジノ・ブースのディーラーに札束を渡し、チップに変えるよう機械音声を放った重女に、テーブルの参加者はぎょっとした目を向けた。

 (しまった、不自然だったかな)

 重女は咽喉マイクのつまみに触れ周波数を少しだけ高くし、少女らしい高く柔らかい声へと調整した。

 「お嬢さん、一人ですか? 介助は必要ですか?」

 ディーラーがカードをシャッフルしながら問うた。三十代後半から四十代くらいの、黒ぶち眼鏡のしゃくれた顎が印象的な細身の優男だ。

 『私は喉に障害があります。なので咽喉マイクで声を出します。介助は必要ありません』

 今度の声は先程より高く発せられた。しかし機械音声独特の固い声は口から出される声より異質で、参加者達は少し眉を寄せた。
 このテーブルの参加者は三人。会社帰りのサラリーマンのようなスーツ姿の青年と、その彼女なのか、高そうなワンピースの巻き髪の女性、そして着古したカーキー色のパーカーを纏った、顔が手術痕の縫い目の目立つツギハギだらけのいかつい大男の三人と、ディーラーの四人。これからこの四人とブラックジャックで争うのだ。

 「お嬢ちゃん、ブラックジャックは初めてかい?」

 ツギハギだらけの顔の男が言った。ねこなで声とは裏腹にその眼光は鋭く、まるで声の出せない者はここにくるな、と言ってるようだ。
 
 『……はい』

 ははは、と男が大声で笑った。つられてカップルも肩を震わせ苦笑した。その笑い声が酷く癇に障り、絶対にこいつらに負けたくない、と重女は拳を握った。

 「そう緊張しないで。ここは別にマカオやラスベガスの一流カジノってわけじゃない。あくまで遊びの一種なんだ。難しいハウスルールもないし、初心者も大歓迎だよ」

 ディーラーは優しくそう言うと、重女に椅子に座るよう促した。そして最小賭け分のチップと、ルールブックを目の前に置いた。

 「では、次のゲームを始めましょう。お嬢さんはこのゲームは見学するかい?」

 シャッフルし終わったカードを二つの山に分け、パラパラとその山を一つの束にまとめていく。その仕草は流れるように優雅で、重女はその手元に見とれながら頷いた。
 隣のスーツの青年がちらちらとこちらを見てくる。横の巻き髪の女が彼になにやら耳打ちする。何を言ってるかは聞こえないが、恐らく私のことだろう。ここでは私は異物なのだ。 
 この感覚、覚えがある。目と肌の色が違うというだけで虐げられた幼少期の感覚。陰口と侮蔑の視線に晒され続けた時間。味方はアキラとシド先生しか居なかったあの時を思い出し、重女の心はすっと凍り付きながら毒を吐いていき、静かに顔から表情を奪っていった。

 ――気にするな。

 全身の温度が下がっていくのを、その一言が止めた。右耳のイヤリングから黒蝿が念波を送ってくる。

 ――所詮、そいつらは踏み台だ。何を言われようと気にすることはない。最後に勝つのは俺たちだ。

 その言葉で、重女はやっと嫌な思い出の沼から意識を浮上できた。
 そうだ。今の私は独りじゃない。この身の半分はアキラがくれたものだし、頼もしい仲魔もいる。獅子丸に牛頭丸、猿に紅と白。そして黒蝿が私を支えてくれている。そう再確認した時、心の奥から不思議な高揚感が湧いてきた。
 
 ――そうだね、勝つのは“私達”だね。

 『ねえ、ディーラーさんの名前は?』

 茶目っ気たっぷりの声を意識しながら、重女以外の三人にカードを配ろうとしていたディーラーに話しかける。ディーラーはほんの少しだけ驚いたようだが、すぐに冷静な声で「フジワラといいます」と名乗った。

 『私が参加したら、きっとフジワラさん困っちゃうよね』

 ぴくり、とディーラーのフジワラは太い眉を少しだけ上げた。スーツの青年とその彼女、そしてツギハギの大男の視線が重女に注がれる。

 『だって、“私が勝ったら”フジワラさんも皆も大損だし、“恥ずかしい”よね』

 甘えるように抑揚をつけながら、このテーブルの皆を挑発した。右隣の三人から、刺すような視線を感じる。 皆ムッとしただろう。初心者の、声が出せない“異物”の少女からゲーム開始前に“勝利宣言”を言い渡されたのだ。青年と女は目を合わせ、なにやら小声で囁き合い、ツギハギの男は、生意気なガキだ、と重女に聞こえるように毒づいた。
 その中で、フジワラだけは違った。口の端を上げ、面白そうに重女をじっと見ている。

 「随分自信があるんだね」
 『今の私なら、負ける気がしません』

 チョーカーの金属片に触れながら、これを作ってくれたキヨハルとミドーを思い出し、重女は不敵な笑みを浮かべた。フジワラは肩を竦め、「それでは始めます」とゲーム開始の音頭をとった。

 ――随分大胆に言ったな。
 黒蝿が少し呆れたようにいうので、重女はこう返した。

――“私達”は勝つんでしょ?

続きを読む

 国家機関ヤタガラスのとある支部のロビーにて、シド・デイビスは資料をめくっていた。
 新人のサマナー、職員用に作られた、自分が所属している機関の広報用の資料だ。
 そこには、主に国家機関ヤタガラスの仕事内容、ヤタガラスの歴史、そして組織の名にもなっている八咫烏についてが書かれている。

 「ミスター・デイビス、何を読んでらっしゃるのですか?」

 シドの部下の男が問いかけた。
 大柄な黒人種である老齢のシドとは違い、この男は小柄な黄色人種の若年の日本人である。

 「いや、たまたまテーブルに広報用の資料があったから目を通していただけだよ。神の遣いである霊鳥・八咫烏。昔は本当にいたんだな」
 「はあ……少なくともこの組織が設立された頃は、時の帝によって目撃されたと文献に残っております」
 「人ではない“何か”を崇める……それは洋の東西を問わず人々の健康的な精神活動である……と誰かが言ってたような気がするがな。この国は特に顕著だね」
 
 部下の男は首を傾げた。シドの言いたいことが何か分からないからだ。
シド・デイビスは何十年も前からヤタガラスで活躍しているベテラン中のベテランのサマナーで、男はつい数ヶ月前にシドの元に配属された新米のサマナーだ。
 数ヶ月共に行動していても、このシドという男はよくわからない。人当りの良い笑顔を浮かべてはいるが、時折ぞっとするような気配を漂わせているときもある。噂ではヤタガラスの暗部にまで関わっていると聞くが、この男の掴みどころのない雰囲気はそれが原因なのかもしれない。

 「で、私に何か用かい?」

 広報用の資料を閉じながら、シドは男に問うた。男は居住まいを正しながら答える。

 「は、例の“監視対象”ですが、先ほどやっと行方がわかりまして……どうやらこの時代にアマラ経絡を繋げた痕跡を見つけました」

 シドは眼鏡を外すと、めがね拭きで面を拭き、ゆっくりとかけ直す。

 「居場所は今、私の仲魔が調べておりますが、見つかるのは時間の問題でしょう。すぐに捕獲して……」
 「いや、その必要はない」

 す、とシドはロビーのソファーから腰を上げる。齢七十過ぎとは思えない長身とがっしりとした体躯は、典型的な日本人体型の部下の男とは比べものにならないほどの威圧感を放っていた。

 「まだ、泳がせておけ」
 「……何故、でしょう?」
 「君が知る必要はない。捕獲の際は私が直接出向く」

 シドは、笑みを浮かべた。微笑んでいるはずなのに、男にはその笑みが酷く冷たいものに見え、背筋が寒くなった。
 ロビーをあとにするシドに頭をさげ見送りながら、男はシドの英語の歌を聞いた。英語に明るくない男にはその歌はあまり聞き取れなかったが、それは、マザー・グースの「There was a little girl」であった。

―――

 ――ここは、どこ?

 重女の頭に浮かんだ単語は、まずそれであった。
 綺麗に舗装された道路には、車が沢山走っている。どれも重女の見たことのない車種で、数も多い。
 ビルもとてもスマートで立派なのが幾つも並んでいる。そこから出てくる人の多さ。今日は暖かいからか、皆薄着だ。下着みたいな服を着た若い女、アタッシュケースを持ったサラリーマンらしき男。麦わら帽子を被った子供と手を繋いで歩く母親。風景だけみれば重女の時代の繁華街を更に立派にしたもののようだが、それよりずっと人が多く色彩豊かで、どこか無機質な感じだ。
 いつもの癖で状況確認をしてみたが、今回はいままでのどれよりも重女のいた時代に近い。だが、ここは私の住んでいた時代ではない。
 日本であることは人々の話している言葉や看板の日本語でわかるが、建物や車や人々の服装や雰囲気が違う。こんなに茶髪の人は多くなかったし、空も輝度が下がっている。空気が妙に清潔すぎるし、匂いも全然違う。尖った音が大音量であちらこちらから聞こえてくる。

 ――恐らく、ここは私のいた時代より未来。黒蝿の言ってた通りだ。

 しかしどれくらい先の時代なんだろう? 車は空を走ってないし、ファッション以外には人々が昔よりすごく違うということはない。アメリカとソ連の第三次世界大戦は起こらなかったのだろうか? それとももう過去に起こってしまったのだろうか? それにしては街の様子は平和だ。宇宙旅行は一般人でも行けるようになったのだろうか。
 疑問は沢山あるが、まずは買い物を済まさないと。
 黒蝿が砂金を貴金属店に持っていき、この時代の貨幣に換金し、まずは日用品と食糧を買ってこいと金を渡した。
 あの換金の手慣れた様子、恐らくあいつはこの時代に来たことがあるな。時空を渡って悪さをしていたところをシドに捕まったと言っていたし、きっとそうだろう。
 ポケットの中の数枚の札を出し金額を確認する。この時代には五百円札がなく、五百円は硬貨に変わったし、千円札も五千円札も一万円札も図柄や大きさが変わっている。ここは日本のはずなのに、まるで知らない国に来たようだ。
 周りの異質な空気に気圧され、くらくらする頭を押さえ、重女は目の前の店らしき建物に足を踏み入れた。

 ―――

 「いらっしゃーせー!」

 自動ドアを開けて中に入ると、いきなり店員らしき男が声を張り上げたので少し驚いた。
 レジカウンターと思わしき壁の向こうで立っている男は、重女を一瞬ちらりと見ただけで、あとは話しかけてこなかった。嫌な顔もされなければ、歓迎されているようでもない。業務を果たすので忙しいらしく、重女に絡んでくることはなかった。
 クーラーが効いているのか、外より涼しい。店には音楽がかかっている。勿論重女の知らない歌だ。声の高い女性グループのアップテンポな曲。歌詞から察するに恋愛の歌らしい。
 店内には重女の他にも何人か客がいた。金に近い茶髪の人はいても、青い目の人はいなかった。
 他の人が通りすがるとき、やはり髪と目の色が珍しいのか、こちらに視線を寄越してくることはあったが、それだけであった。みんな自分の買い物のことで精いっぱいらしい。店員と同じだ。自分の容姿について色々聞いてくることも差別的な視線を受けることもないのは有難いが、みんな自分のことしか見えてないように重女の目には映った。
 しかし、ここは小さな店なのに、随分と品揃えが豊富だ。食料品はもちろん、本や日用品まである。広さは個人商店くらいなのに、重女の知っている近所のお店とは桁外れに品物が多い。その品物も、見たことのないものが多かった。まるで小さなデパートみたいだ。

 特に重女の目をひいたのは、菓子コーナーである。

 駄菓子のようなものから、ケーキまで揃ってる! ケーキなんて大きいお店に行かないと売ってないと思ってたのに! しかも安い! 一個大体三百円くらい。手持ちの所持金からすればかなり買える。重女は嬉々としてかごに幾つも入れた。
 ケーキの次は、あるモノを探す。この時代にもあるだろうか。

 (あった!)

 菓子コーナーの棚にそれはあった。細長い黒い長方形のスティック状のチョコ、スニッカーズだ。

 『良かった、あって……』

 スニッカーズを一本とってしげしげと眺めた。パッケージ自体はそれ程変わってないようにみえる。
 最後に自分で買って食べたのはいつだったか。多分シドと鞍馬山に行くより前だったような気がする。あの頃は母の死や何やらで忙しくてお菓子を食べる余裕なんてなかった。なら、それより前、ちょうど私の言葉が現実になってしまって、殆ど話さなくなった頃だろうか。

 「………」

 ふいに、悲しい思い出が蘇ってきた。私の言葉で起きた沢山の悪いこと、シドに「悪魔がとりついている」と言われ、母に暴言を吐いてしまったこと。そして母の死。アキラとの別れ、鞍馬山の地下で見た悲惨な光景――

 「……!!」

 胸の奥が見えないナイフで抉り取られたかのように痛くなる。ぎゅう、と胸元の十字架を握った。辛い時や苦しい時の癖。目もぎゅっと固く瞑り、心をしめる痛みに耐えた。

 ――私の声に悪魔なんて宿ってない、て黒蝿は言った。じゃあシドが嘘吐いたの? なんで?
 ………わからない。考えても始まらない。やはりシドに会わなくちゃ。会ってしっかり話をしよう。そのために今まで旅をしてきたのだから。
 でも、今は昭和何年なんだろう? 街並みやこの店を見ればわかるが、私が生きていたころよりかなり先の未来だろう。シドは、生きているのだろうか。

 〔……お次は、ニュースと気象情報です。今日トップのニュースは、2020年開催予定の東京オリンピックについて……〕
 「!?」

 店内のラジオが恋愛ソングからニュースに変わり、その第一声を聞いたとき、重女は持っていたスニッカーズを驚きのあまり床に落としてしまった。

 2020年!? 2020年て言った今!? しかも東京オリンピック開催予定って!?
 確か私が小さい時、東京オリンピックが開催されたと母から聞いた。幼かったので記憶に残ってないが、日本中が盛り上がり、母もラジオで大会の模様を聞いていたらしい。あの時は、えーとえーと……1964年! 昭和39年!
 じゃあ今は何年? さっきのニュースでは2020年開催予定と言っていた。じゃあまだこの時代の東京オリンピックは開催されてなく、だとすると今は2020年より前ということだ。まさかもう二十一世紀を迎えたの?

 がんがんする頭を押さえながら、重女は震える手で雑誌コーナーから新聞をとった。そして上に書いてある日時を確認した。
 そこには、平成2X年(20XX年)6月6日(土)と記してあった。

―――

 大量の菓子が入ったビニール袋を持ちながら、青ざめた顔で重女はコンクリートの道を歩いていた。
 道行く人々は、さっきのコンビニの店員のように少しだけ重女に視線を寄越したが、無遠慮にじろじろ眺めてくる者はいなく、皆働きアリみたく規則正しく目的地に向かって歩いている。
 一方重女は、まるで幽鬼のような表情で下をむいてとぼとぼと歩いていた。黒蝿のいる隠れ家に帰ることなど頭から抜けていた。

 (今は20XX年……元号も昭和ではなく「平成」というのに変わっていた……今は二十一世紀……じゃあ私は? 私はもう50過ぎのおばあちゃん!?)

 重女は慌てて顔に手を当てた。長い間の時間移動の旅で多少荒れてはいるが、手のひらに感じるのは弾力のある肌の質感であった。
 近くのショーウインドウのガラスで自分の顔を確認した。そこに映っていたのは、白髪の老婆、ではなく、金髪碧眼の十代の少女――まごうことなき自分の姿だった。
 とりあえず容姿は変わっていなかった。が、重女は酷く落ち込み、無性に泣きたい気持ちになった。

 ――もう14じゃない、本当は50過ぎのお婆さんなんだ……見た目は変わってないけど、物凄く年をとってしまった……どうしよう……いきなり老け込んだら……

 「はい! ではお次は「今日は何の日?」コーナーです! 今日6月6日はロールケーキの日! ロールケーキの「ロ」と、ロールケーキが断面が「6」の字に見えることからつけられたんですよお」

 やけに高いビルの壁面に設置された街頭テレビらしきものから呑気な女性の声が聞こえた。「平成」の時代のテレビはとても薄く、怖くなるほど大きく、色もカラーでびっくりするくらい鮮やかだ。
 6月6日……ロールケーキの日……

 「それと、ホラー映画で有名ですが、新約聖書のヨハネの黙示録に登場する「獣の数字」が666……それにちなんで「悪魔の日」なんて言われたりしますね」
 「やだもう明石さん、そんな怖い事言わないでくださいよ! 今日お誕生日の方、こわがっちゃうじゃないですかあ」

 あ、と重女は頭の中で声をあげた。

 『そうだ、六月六日は、私の誕生日だ……』

 雑踏の中で、重女は立ち止まり梅雨直前の空を見上げた。六月六日は自分の生まれた日……。
 過去から来た声と名を奪われた少女は、今日、十五回目の誕生日を迎えた。

 ―――

 「俺は日用品と食料を買ってこいと言ったんだ。誰がこんなに菓子を買ってこいと言った?」

 繁華街から離れた廃神社。その社に足を踏み入れると、そこはアパートの一部屋であった。
 重女が作った影の結界の様子である。その結界は主の重女の深層意識に刻まれた、自分が生まれ育った六畳一間のアパートの部屋の幻影を造りだしていた。
 そこで重女は黒蝿に怒られていた。言われたとおりのものを買ってこないでお菓子ばっかり買ってきたのだから当然だ。重女は親に叱られる子供のように首をちぢこませていた。

 『ごめんなさい……』

 はあ、と黒蝿が盛大に溜息をつく。黒蝿は自分の生きていた時代から、この時代までに何があったか把握しているのだろうか。それと……

 『ねえ、私、何歳に見える?』
 「はあ?」

 いきなりの質問に黒蝿は素っ頓狂な声をあげた。いきなり何を言い出すかと思ったら……。しかし目の前の少女は真剣な顔でこちらを見ている。

 「……十四、五のガキ」

 見たままを言っただけだが、重女の顔は目に見えて明るくなり、嬉しそうになる。なんでこいつは喜んでるんだ。まともに買い物もできなかったくせに。

 「お前反省してるのか?」
 『う、うん! 勿論!』

 そう念波で送ってきても、重女は嬉しそうな顔を崩さない。それどころかがさごそとビニール袋をあさりロールケーキを取り出した。

 『今日六月六日はロールケーキの日の日なんだって。一緒に食べよ』
 「いらない」

 即答した黒蝿に重女は少しムッとしたが、すぐにケーキのプラスチックのカバーを外し、一緒に袋に入っていたフォークで勝手に食べ始めた。凄く久しぶりに食べたケーキは、濃厚な甘さで舌を痺れさせた。

 「……そういえば、六月六日はお前の誕生日だったか」

 重女は驚きのあまりフォークを動かす手を止めてしまった。

 『なんで知ってるの!?』
 「東のミカド国で、お前の中からアキラのマグネタイトを奪ったときに知った」

 弟のアキラと悪魔合体プログラムにて合体した弊害で、重女は記憶の混濁が酷かった時期があった。その時黒蝿は重女の体内にあったアキラのマグネタイトを吸い取ることで、やっと重女を正気に戻させた。
 マグネタイトには必ず持ち主の感情や記憶が付随する――それなら、アキラの記憶の中から、姉である重女の誕生日を知ったとしてもおかしくはない。

 『……祝ってくれるの?』
 「馬鹿言え。なんで俺がお前の誕生日を祝わなきゃいけないんだ。買い物すらろくにできない小娘に」
 『………だから、ごめんってば』

 なんとなく腹が立った黒蝿は、重女のフォークを奪い、ケーキの欠片を食べた。あ、という抗議の念波を送る間もなく黒蝿はケーキの欠片を食べてしまった。
 人間とは味覚が違う黒蝿は、そのケーキが美味いとはとても思えなかった。なんで人間はこんなもんを食いたがるのか理解に苦しむ。

 『な、なにすんのよ!』

 顔を真っ赤にしながら抗議する重女に黒蝿は不思議そうな顔をした。なんでこいつは赤くなってんだ?

 「そんなに食い意地が張ってるのか」
 『そうじゃなくて!』

 ひったくるように黒蝿からフォークを奪うと、重女はじーと眉間に皺を寄せてフォークを凝視している。

 「? なんで食わないんだ?」
 『いや……その……』

 再び真っ赤になって重女は俯いたまま黙ってしまう。その心理が黒蝿には全く理解できなかった。
 影の結界内には、現代に来てしまった少女とその仲魔が、ケーキと菓子の甘い匂いが漂った空間で、息苦しい誕生会を開いていた。

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 京の都、帝のおわす御所の謁見の間。
 当代きっての陰陽師一族である阿部家の当主、阿部晴明は帝に呼ばれていた。

 「面をあげい」
 
 簾越しの下知に、晴明は平伏の姿勢から顔をあげる。
 正直、晴明は、憂鬱であった。
 今、彼の心を占めているのは例の一族のことである。“鬼切り一族”と称される彼らとは、この間の朱点童子討伐隊選考会にて初めて戦ったのだが、そこで晴明は、彼らの力を目のあたりにした。
 彼らは自分と同じ力を使ってきた。“花乱火”に“凰招来”、治癒呪まで使い、晴明率いる精鋭に見事勝って見せた。
 あの一族は朱点童子に呪いをかけられ、約二年程で死に至る。そして人との間に子を成せない。その為異形のものと交わり、人ならざる力を身につけているのだとか。
 自分と同種の者を見つけた――晴明の心は躍った。この私と同じ力を持つ者がいる。阿部家にとりいり、生まれ持っての素質をあますところなく発揮し、ついには阿部家の当主となり「晴明」の名を継ぎ帝の信頼を得た自分と、同等かそれ以上の力を持った彼らなら、自分の“目的”を果たすための“人柱”になってくれるだろう、その為の策略を練ろうとしているところに、この呼び出しだ。晴明は溜息を吐きたいのを我慢し、貼りついた笑みを浮かべた。

 「この間の遠征でな、余は不思議なものを見た」
 「不思議なもの、でございますか?」
 
 晴明は聞き返した。不思議なもの、とはなんであろう?

 「八咫烏だ」
 
 どこか夢見心地の声色で、帝は呟いた。

 「……ヤタガラス? あの、霊鳥・八咫烏、でございますか?」
 
 天照大神の使いと言われる霊鳥。桓武天皇の時代に現れ、天皇を熊野国から大和国まで導いたあの霊鳥を、この方は見た、というのか? あれは神話の中の存在かと思っていたのだが。
 簾で表情は見えないが、幼くして即位し、感情過多なところのあるこの方のことだ。どこか遠くを見る目つきをしているのだろう。

―――

 帝が東国へと 視察へ向かったとき、“それ”は現れた。
 急に辺りの空気が変わったかと思うと、牛車の動きが止まった。何事か、と問いかけても従者の答えはなかった。異変に気づき、帝は牛車の簾をあげた。

 そこは、異世界であった。

 昼であったはずの辺りは暗く、まるで真夜中のようだ。その中を人ならざる者達が灯火を手に跋扈している。
 腹が異常に膨れ上がった餓鬼、口が耳元まで裂けた女、武者の格好をした骸骨、琵琶の顔の女、角の生えた巨躯の醜い男……鬼や付喪神たちが行列を成し歩いている。
 「曲者!」と叫んでも、供の祈祷師の姿はなかった。従者どころか牛車の牛すらいない。ここにいるのは鬼達と帝だけ。
 
 百鬼夜行――帝の頭にそんな単語が浮かんだ。

 鬼や妖怪が群れ歩くというその現象は、凶兆であるという。そして、それを目撃したものは、死に至ると。
 ぞくり、と肌が粟立った。護身用に身に着けている懐刀を取り出す間もなく、獲物を見つけた鬼達は帝に襲い掛かってきた。

 すると、いきなり鬼達が燃えた。

 紅蓮の炎を発生させたのは、黒い鳥。その鳥は鴉。しかも三本足である。
 八咫烏――神話で聞いたあの霊鳥が目の前にいる! 神の使いと名高い霊鳥を前に、帝は生まれて初めて跪いた。

 八咫烏は、ある人物の元に寄り添った。その人物は、金色の髪と青い瞳の異相の少女であった。

 天照大神が顕現したのか、と一瞬思ったが、その少女はボロボロの藍色の単衣を身につけていた。とても神が顕現した姿とは思えない。
 髪と目の色を除けば、その姿は下賤の女のものである。何者か、と帝が問いかける間もなく、少女は鬼の行列を指差す。すると八咫烏が飛び立ち、突風を起こし、炎を吐き出す。
 八咫烏が動くと、鬼達がみるみるうちに倒れ、逃げ惑う。炎は鬼を焼き、風は瘴気を吹き飛ばす。
 
 やがて鬼達は消滅し、百鬼夜行は終わった。

 百鬼夜行の鬼を滅した少女は、八咫烏を肩に乗せ、ちらりと帝を一瞥すると、黒い風に乗り消え去った。
 その間、帝は呆然と見ているしかできなかった。
 神の使いである八咫烏が現れ、鬼を倒した。しかもその八咫烏を従えていたのは、小汚い格好に身を包んだ不思議な少女――
 現実世界に戻り、従者に安否を聞かれても、帝の胸の高鳴りは収まらなかった。

―――

 「その時余は思った。これは神託だと。京だけではなく、この日ノ本を蝕む全ての鬼を滅せよ、という神の御言葉だとな」

 白昼夢のような話を聞き、晴明は眉をしかめる。簾の向こうで、帝が扇子を構える音が聞こえた。

 「阿部晴明」
 「はっ!」
 「そちに命ずる。この日ノ本を魔なる者から守るための特別組織を結成せよ。身分の貴賤は問わぬ。そなたが長となり、少しでも陰陽の心得がある者、素質がある者を集めよ」

 既に陰陽寮には阿部家や賀茂家他、血筋も身分も高い優れた陰陽師が何人も所属しているというのに、身分の貴賤は問わぬ、ときた。それは恐らく、帝が見たという八咫烏を従えた少女が、下賤の格好をしていたからであろう。この方はどこか夢見がちな気質がある。
 本音を言えば、そんな気まぐれなどに関わりたくはなかったが、帝の命には逆らえない。「謹んで、拝命致します」と、晴明は平身低頭しながら答えた。
 うむ、と帝が満足そうに頷いた。

 「して、晴明よ。その組織の名はなにがよいかのう?」

 ひく、と晴明の片頬が無意識にひくつく。そんな事ご自分で考えればよいものを。ただでさえ気まぐれな思いつきで作られた組織を任されうんざりしているのに。晴明は脱力した様子を隠し答えた。

 「……でしたら、“ヤタガラス”はいかがでしょう? お上は八咫烏にお命を救われたのでしょう? 八咫烏は太陽神・天照大神の使い。日ノ本の闇を晴らし光をもたらす者が属する組織の名にはふさわしいかと」

 晴明のやる気のない発案に、帝は心打たれたらしい。「成る程……光をもたらす者……確かに……」と呟いている。

 「それは良い名だ! では今から組織の名を“ヤタガラス”と名付ける! 晴明よ、太陽神の使いである霊鳥の名に恥じぬ人材を集めよ。期待しておるぞ」
 「はっ!」

 再び平伏し、晴明はやっと謁見から解放された。謁見の間から出た晴明はふう、と御所の庭園を眺めながら長い溜息をついた。
 ヤタガラス、か。まずは陰陽寮に所属している陰陽師や陰陽得業生から優れている者を選ぶか。その後は市井から素質のある者を見つける。
 播磨国に優れた陰陽師集団がいると聞いた。他には京から西の方にある“骸ヶ原”という鬼の出没する平原の隅の集落にも異能使いがいるらしい。あとは――あの朱点童子に呪いをかけられた“鬼切り一族”、彼らも「ヤタガラス」に相応しい能力の持ち主であろう。早速遣いを派遣しなければ。やれやれ、忙しくなる。自分の“目的”を果たすのは当分先になりそうだ。晴明は遠くの大江山に目を凝らした。
 
 その時、かあ、かあ、と烏が鳴きながら晴明の頭上を飛び去っていった。自分を鼓舞するかのようにも馬鹿にするかのようにも聞こえるその鳴き声に、晴明は無意識に飛び去る烏を睨みつけた。

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 『ねえ、名前、なんていうの?』
 「お、おれ、なまえ、ない。で、でも、みんな「くるいむすめ」てよぶよ」

 ――くるいむすめ。「狂ひ娘」。狂っている娘。酷い呼び方だ。確かにこの子は年のわりに知能が劣ってるらしい。重女の時代の言葉で言えば「知恵遅れ」の子、と呼ばれるだろう。現に彼女の理解力の低さを利用し、身体を求めてくる輩も集落にはいて、彼女はここに来る前は見世物小屋で身を売って生活していたらしい。
 だけど重女には、この子が「狂っている」とは思わなかった。この子は溜息が出るほど穢れていなく、そして悲しくなるほど純粋だ。ほんの少し話しただけだが、それが伝わってきた。
 「狂っている」というなら、なにもわからない彼女の身体を要求してきていた連中や、母に無理やり性行為を迫ってきていた外人さんや、外見が違うというだけで酷い言葉や仕打ちをぶつけてきた同級生や近所の奴らの方が、重女からしてみれば「狂っている」奴らだ。
 この子は自分がそう呼ばれることを何とも思っていないようだ。むしろ喜んでいるように見える。それはこの子の頭がこの呼称の意味を理解できるほど発達していないというのもあるだろうが、きっとこの子を受け入れてくれたここの集落の皆がそう呼んでくれるのが嬉しいのだろう。
 だから重女も「狂ひ娘ちゃん」と呼んだ。そう呼ぶのには抵抗があったが、他に何と言っていいかわからなかったのと、当の本人が嬉しそうだったのでそのまま呼ぶことにした。

 『そのお腹の子、名前はもう決めてるの?』

 ある日、村の女衆に教わった通りに縄を編んで草履を作りながら重女は問いかけた。狂ひ娘のお腹は大きく、もう臨月だろう。出産間近ならもうそろそろ名前を決めてもいい頃だ。

 「えっとね、えっとね、「しゅうまる!」」
 『……………拾丸、はお父さんの名前だよね?』
 「うん! しゅうまるのこだから、「しゅうまる」! お、おれ、しゅうまるのこと、だいすきだから!」

 眩しい笑顔で狂ひ娘は頷いた。この子は本当に「拾丸」の事が好きなんだな。自分の子に名付ける程に。
 「拾丸」という男には会ったことはないが、きっとシドのようにかっこよくて素敵な大人の男性なんだろう。父親と子の名前がダブってしまう問題は、子が生まれてから頭領や集落の皆がなんとかしてくれるだろう。

 『じゃあ、「しゅうまる」君が生まれたら、私にも抱っこさせて?』
 「う、うん! いいよ! かなめにならいいよ。し、しゅうまると、おれとで、た、たくさんあそぼ!」

 重女はふと思い出した。弟が生まれた日の事を。
 陣痛がはじまり、破水した母と共にタクシーに乗り、母はそのまま病院の分娩室に運ばれ、自分は病院の椅子で分娩室から聞こえる母の苦しそうな声を聴きながら、泣きそうな気分で膝を抱えて待っていた。
 そして無事生まれた弟を抱き上げた感触。柔らかく、赤く、壊れてしまいそうなほど小さい弟を抱っこした時に自分の中に生まれた温かい気持ち。あの時自分はまだ六歳だったが、あれは母性というものだったのだろうか。
 狂ひ娘の子が生まれるまでここにいられるかは疑問だったが、またあの時のように赤子を抱っこしてみたい。生まれたばかりの命を感じてみたい。

 『うん、沢山遊ぼうね』

 果たせるかどうかわからない約束を、重女は笑顔で言った。狂ひ娘も思いっきり笑ってくれた。生まれてくる子はどんな子だろう。男の子か、女の子か。狂ひ娘の腹の中で眠っている赤子の未来を想像すると、なんだかとっても穏やかな気持ちになった。

―――

 「ああ、本当だ。ここに亀裂が走っている」

 集落の北東の草原。鬼から守る為に集落をぐるりと囲んでいる鬼避けの呪法が施された柵に、僅かに亀裂が走っているのを、柵を立てた本人である頭領が灯りを当てて確認した。

 「ほんとだ、ひびはいってる」
 「割れてると、鬼が入っちゃうの?」

 頭領の横で、問いかける幼子が二人いた。二人は男の双子であり、狸耳と尻尾を持った妖精――紅梅白梅童子である。

 「……君達は、本当に私を手伝えるのかい?」

 頭領が不安そうに問う。異形の者がよく集まるここでも、さすがに獣の耳と尻尾を生やした者は見たことがない。この子達は、あの少女――「かなめ」が不思議な書物から呼び出した謎の存在。そしてこの子達は、自分を手伝えとかなめに命じられたらしい。
 鬼には見えないが、「クロハラ」と同じ人外の者には違いない。何か不穏な動きをしたらすぐに術を発動できるよう頭領は杖に力を入れた。

 「うん、手伝うよ!」
 「獅子丸に術教えてもらった!」

 獣耳をぴくぴく動かしながら、二人は無邪気に微笑んで答える。その笑顔は人間の稚児のそれと変わりない。
 この子達はなんなのか、何故柵に亀裂が走ってしまったのか、そもそもこの子達をあの書物から召喚したかなめは何者なのか、疑問は沢山あるが、まずはこの柵を直すことが先だ。そうしないと集落に鬼が入ってきてしまうからだ。狂ひ娘の胎内に侵入した、あの夢魔のような。

 「………」

 頭領は、呪法を唱えながら頭の片隅で、今、狂ひ娘を助けようと"治療"を施している謎の少女――かなめの事を考えていた。
 本当に出来るのだろうか。腹のややこと母体を救うために、胎内に侵入した夢魔を取り除くことが、彼女に――

―――

 「これで全員、か」

 やたノ黒蝿は、一郎他、頭領の家の周りに集まっていた奴らに「くらら」の術を掛け終えた。大口を開けて寝ている一郎の寝顔は、腹立たしい程に穏やかだ。

 「こっちも終わったぞ」

 西の方角から牛頭丸が、東の方角からは石猿が、南からは獅子丸がそれぞれ黒蝿の元に集まってきた。
彼らはこの集落の人間全員に眠りの術をかけてきたところだ。これで五月蠅い輩は全員鎮まり、重女が行う"施術"に集中できる。ただ、頭領は鬼避けの柵を直すためと、何かあったときのために術をかけないでおいた。

 「おい、こっちの準備はできたぞ」

 頭領の家の中で待機していた重女に黒蝿は声をかける。重女はゆっくりと振り返る。蝋燭の灯りに照らされた顔には、困惑の表情が浮かんでいた。

 『ほんとに、私にできるの?  狂ひ娘ちゃんの中の悪魔だけを消滅させるだなんて……』

 重女はゆっくりと顔を伏せ、苦悶の表情で気を失い横たわっている狂ひ娘を見た。
 今、あの大きな腹には、彼女の子供と夢魔・インキュバスが同居している。ほうっておくと赤子だけではなく、母体である狂ひ娘まで内側から食い尽くされる。そんな絶望的な状況に、黒蝿は一つの方法を提示した。

 ――それは、重女が影を操り、狂ひ娘の胎内に侵入し、インキュバスのマグネタイトを吸い取り消滅させること。

 今まで何度も影で悪魔のマグネタイトを吸収してきた。あれと同じ要領でインキュバスのマグネタイトを吸えばいい。頭ではわかっていた。だがこの作業は高い技術と繊細さが要求される。狂ひ娘と赤子のマグネタイトと身体には傷をつけず、極小サイズへと変化した悪魔だけを狙う。顕微鏡等の補助無しで、切開はせず、肉眼だけでがん細胞を取り除け、と言われているようなものだ。

 「お前が出来ないなら、俺がその女の腹をかっさばいてインキュバスを食ってやる。その場合その女も腹の子も死ぬがな」
 『そんなの、駄目に決まってるじゃない!』
 「ならやれ。そいつと腹の子を死なせたくなければな」

 ――無茶をいう! 重女が更に黒蝿に食いつこうとした時、

 「……か、なめ?」

 狂ひ娘がゆっくりと目を覚ました。傷跡の残る白い美しい顔は、しっかりと重女のほうを向いていた。

 『狂ひ娘ちゃん!』

 重女は急いで彼女の手を握った。そしてぎょっとした。先程より明らかに細くなっている。まさか、もう内側から悪魔に生気を吸い取られはじめているのか!?

 「か、かな、かなめ、ぶ、ぶじでよかった」
 『そんな! ごめんなさい! 私のせいで、狂ひ娘ちゃんが……!』
 「い、いいんだよう。だ、だって、おれたち、と、"ともだち"だろ? "ともだち"は"たすけあう"んだろ」

 はっと、重女の目が大きくなった。昨日の夜、狂ひ娘とこっそり語り合った内容。そうだ、私達は"友達"だった。「友達は助け合うもの」と私が言ったんだ。その言葉を狂ひ娘ちゃんは覚えてくれていた。だから、彼女は私を助けてくれたんだ。

 『……そうだね、私達、"友達"だよね……』

 ぎゅ、と狂ひ娘の手を握る力を込めた。そして骨ばった指に自らの指を絡める。

 「か、かなめ……「しゅうまる」だけは、「しゅうまる」だけはしなせないで……し、「しゅうまる」、おれのこ、うんであげたいよう……」
 『大丈夫! 「しゅうまる」君も、狂ひ娘ちゃんも、私が助ける! 今度は私が狂ひ娘ちゃんを助ける番! だって、狂ひ娘ちゃんは"友達"だから!』
 「そう、そうだね、お、おれたち、"ともだち"だね」
 『うん、だから安心して。私が助けるから! 「しゅうまる」くんが生まれたら一緒に遊ぶの! 私と、狂ひ娘ちゃんと、一緒に!』
 「い、いっしょ?  お、おれと、「しゅうまる」と、かなめ、いっしょ?」
 『うん、一緒だよ』

 その言葉を聞いて、狂ひ娘は安心したように笑顔になり、そしてまた気を失った。
 重女は自分の指から狂ひ娘の指をほどき、涙の浮かんでいた目尻を拭うと、き、っと口を真一文字に引き締めた。

 『……黒蝿、指示を頂戴。そして私を全力でサポートして』
 「ああ」

 黒蝿の指示どおり、重女は影を操作した。まず狂ひ娘の腹の上に手を置き、そこから影を発生させた。影の先端を超極小サイズへと変化させ、毛穴から直接胎内へと影の触手を伸ばしていく。重女は意識を影へと集中させた。意識は影と溶け合い、影は重女の意識と同調し、やがて重女の五感と意識は影と一体化した。

 戦いが始まる。狂ひ娘の胎内で、彼女と彼女の子を守るための戦いが――

―――

 頭領が柵を修理して、自らの家に帰った時、彼はぎょっとした。
 周りには一郎や吉之助といった、先程まで集まっていた集落の皆が地面に倒れている。頭領は慌ててその中の一人の息を確かめる。そいつは外傷はなく、すやすやと眠っているだけだった。

 「安心せよ、わが主の施術の邪魔にならないよう、集落の皆には少し眠ってもらった」

 赤い鬣の、大柄な半人半獣の獅子の男が言う。他にも猿のような大きな男と、筋肉隆々の黒牛が頭領の家の周りを取り囲むように立っていた。

 「主様! ちゃんとこのお兄ちゃんを手伝ってきたよー」
 「主様、どこー?」

 頭領の足元から狸の幼子――紅梅白梅童子が家の中に入ろうとする。だが、獅子の男が止めた。

 「今、主は大変なんだ。邪魔をしてはならん」

 獅子の男――雷王獅子丸が紅梅と白梅をひょいとつまみあげ、小脇に抱えた。

 「………君達は、何者だ? 人ではないみたいだけど」

 頭領は、雷王獅子丸、八坂牛頭丸、石猿田衛門、紅梅白梅童子らに問いかけた。
 我ながら間抜けな科白だと思う。彼らが人でないのは一目瞭然である。「何者なのか」と問いたかったのは「かなめ」にである。
 彼らのような異形の者を従えている彼女は何者なのか、人なのか、物の怪なのか、それとも自分のように陰陽の心得のある術師なのか、それが聞きたかった。

 「俺たちは姐さんの"仲魔"だ」
 「……なかま?」
 「そう、契約により主の手足となり戦う」

 猿と獅子丸が答える。その顔はやや誇らしげだ。

 「……その、君達の"主"は何者なんだい?」
 「何者か……か。しいていうなら"悪魔召喚師"だろうな」

 家から"クロハラ"こと黒蝿が出てきて、頭領の質問に答えた。

 「クロハラ、かなめはどうした?」
 「今、"施術中"だ。深い催眠状態に陥っている。下手な刺激を与えると失敗してしまう恐れがある」
 「催眠状態?」
 「あの女の胎内にあいつが"影"を操り侵入し、悪魔を消滅させようとしている」
 「君がさっき言った"悪魔召喚師"というのは?」
 「ああ、この時代のこの国では"陰陽師"といったほうが正しいのか。簡単に言えば、魔を従え、魔を討つ。それがあいつで、俺たちは"使い魔"みたいなもんだ。俺は別に望んでなったわけじゃないがな」

 悪魔召喚師。成る程。悪魔とはとつくにの言葉で鬼のようなものか。彼女の外見からしてこの国の者ではないと思っていたが、まさかあの子がそんな異能の力の持ち主とは。
 もう朧げな記憶しかないが、先代、つまり頭領の父と母も異能の使い手で、息子である頭領に様々な術を教えた。両親も"悪魔召喚師"だったのだろうか。

 「黒蝿! 重女の様子がおかしいぞ! 酷く痙攣している!」
 「なに!?」

 家の中を覗いていた牛頭丸が叫ぶ。黒蝿と頭領は急いで家の中に入った。
 そこには、横になった狂ひ娘の腹に手を当てながら身体をびくん、びくんと震わせている重女の姿があった。
 目は固く閉じられており、声のでない喉からは、かは、かは、と溺れかけのように激しい咳のような呼吸を繰り返している。

 一体、彼女の身に何が起きているんだ? 狂ひ娘は、腹のややこはどうなっている――!?

―――

 視界に映ったのは、オーロラのような穏やかな光の膜であった。

 その光は揺らめく度に様々な色に変化する。薄桃色、緑、青、黄……一つとして同じ色はなく、どれも攻撃的な色合いではなく、心が安らいでいくような、優しい色のカーテン。羊水だろうか。重女は"影"の手をそっと光へと伸ばしていく。
 次に聞こえたのは、どくん、どくん、という音。力強い大きな音である。だが五月蠅いとは感じなかった。むしろその音は心地よく、ずっと聞いていたいとさえ思った。
 これは心臓の音だ。赤子の鼓動。良かった。この音が聞こえたということは、赤子はまだ生きている。
 しかし肝心の赤子はどこに?  重女は"目"を動かす。
 と、いきなり肉の壁が立ち塞がる。びっくりして思わず"叫んで"しまった。よく見れば、その肉はやや赤っぽい肌色で、血管らしきものも確認できる。そして全体的に丸みを帯びている。重女は視界を俯瞰に調節した。
 やはり、それは胎児であった。「しゅうまる」――狂ひ娘と「拾丸」の子。昔、保健体育の教科書の写真で見たのと同じ、頭が大きく、小さな手足を折り曲げて、手を丸めている。腹から出ている肉の紐のようなものは、へその緒だろう。
 こうして間近で見ると少し不気味だ。姿形は間違いなく人間なのに、なんだか別の生き物のように感じる。
 生まれたばかりの弟を見たときは、丸くて、小さくて、柔らかくて、顔が赤くて猿みたいだと思ったが、とても可愛かった。やはりお腹にいる時の赤子は、生まれたときとは印象が違うものなんだな。まあ今の私のように、羊水の中から直に見る事なんて普通はないだろうから当たり前かもしれないけど……

 その時、赤子の身体が動いた。手足を動かし、しゃっくりを発する。まるで何かに嫌がってむずがっているように見える。
 その原因はすぐにわかった。赤子のへその緒に、赤紫色の粘液のようなものがこびりついている。それはへその緒を齧っている。あいつが悪魔だ。重女は確信し、急いで影を伸ばした。
 瞬間、悪魔――インキュバスはへその緒から離れ、今度は赤子の尻へと移る。赤子の動きが激しくなる。

 『この!』

 重女が尻へと移動すると、今度はインキュバスは頭へと逃げた。それを急いで追いかける。しかしまた逃げられ、相手は別の場所へと移動する。羊水の海の中で、重女とインキュバスは命がけの鬼ごっこを繰り広げていた。もちろん、鬼は重女である。

 (早くしないと、赤ちゃんが食われてしまう! )

 その焦りが影の操作を少しだけ狂わせた。インキュバスを捕まえようとした影の手は、誤って胎盤へと突き刺さってしまった。

 『しまっ……!』

 影は胎盤の持ち主――狂ひ娘のマグネタイトを吸い上げる。駄目だ、彼女のマグネタイトを吸ってはいけない! 重女が影を胎盤から抜きとる前に、狂ひ娘のマグネタイトとそれに付随する記憶と感情が、あらゆる物理法則を無視して重女に届いてしまった。
 世界が暗転する。暗転する一瞬前、インキュバスの高笑いが聞こえたような気がした。

―――

 重女が知覚した世界の色は、「灰色」だった。

 曇天の夜空のような暗い灰の世界。"私"は寝ている? いや、誰かに組み敷かれている。顔はわからない。でもそいつは"男"だとわかる。
 この男の人が誰か、"重女"には問題ではなかった。このおとこのひとのいうことをきけば、おいしいごはんがもらえる。"重女"は言われたとおりに男根をくわえ、頭を動かす。おおきい、なんだかふしぎなにおいがして、しょっぱいよう。でもおとこのひとはきもちよさそうだ。ならこれはわるいことじゃない。「いい子だ」おとこのひとがいう。"おれ"、いいこ? うれしい。
 男根が"重女"を貫く。一瞬世界の色が赤くなったが、すぐに濁った灰色へともどる。からだのなかにはいってくるこれは"重女"にとってはなんかいやってもあまりきもちよくなかったが、これさえがまんすればおいしいごはんをはらいっぱいたべられる。これが"おれ"のここでの「しごと」だっておかみさんはいっていた。なら"おれ"がまんする。いっぱい「しごと」しないと。
 世界が揺れる。"重女"を貫いている男の動きに合わせ、灰の世界が拡散する。男のにやついた顔が視界いっぱいに広がり――

 次の世界の色は「緑」と「茶」。草と土の色。"重女"は冷たい水に足を浸していた。ここは川だ。骸ヶ原の集落に流れる川。そこで"重女"は足の間を洗っていた。股間からなにかが零れ足を伝う。それは男の精液と自分の体液だった。
 不快。きもちわるい。だからはやくあらわないと。"とうりょう"もあらっておいで、ていった。このねばねばするのは、ほうっておくとすごくきもちわるくなるから。おわってごはんをもらったあとは、かならずあらうようにしている。"とうりょう"もそれがいい、て。"つぎのあいて"にきもちわるいっていわれないために、ごはんをもらうために、「いいこ」ていわれるためにあらわないと。
 川の水は冷たい。「つめたいよう」とぼやいても、"重女"は川からでようとしなかった。頭領がいいよ、て言うまで、股間のねばねばを洗いきるまで川からあがってはいけない。我慢しなくちゃ。
 ざざ、と風が吹き、対岸に生えている草花を揺らす。草の緑、土の茶色、そして小さな花の白。あれはなんのはなだろう? たべられるかな? "とうりょう"にきいてみよう。"とうりょう"はえらくてあたまがよくていいひとだ。"おれ"をなぐらないし、いつもほめてくれる。だから、"おれ"は"とうりょう"のいるここがすきだ。
 さらさら。川の水が流れていく。"重女"は草の「緑」と、土の「茶色」が目に穏やかに映るのを感じながら、水で身体を清める。透明な川の水が、段々と濁り――

 次の世界は「赤」だ。血のような赤。痛い。体中が痛い。嫌だ、いやだ。そういってもこの人たちは殴るのをやめない。言えば言うほど殴られる。
 身体ががくがくと揺れる。意地悪なおとこのひとたちが"おれ"にいっぱいつっこんでいる。
 あとどれくらいがまんすればおわるのかな。"これ"はきもちわるくてとってもいたい。くちのなかにいれられてくるしい。なんでなぐるの? なんでわらうの? いやだ、いやだ、嫌だ――
 周りの男の顔がぐにゃりと曲がる。いやらしい表情、下卑た顔。そいつらの目の色が全員血の色で、嗤う口から蛇のような長い舌が自分の身体に巻き付いてくる。"重女"は悲鳴をあげた。

 ――落ち着け! それはお前の記憶じゃない! 気をしっかり持て!

 頭の中に響いてくる声にも、重女には効かなかった。

 重女の記憶は狂ひ娘の記憶と混ざり合い、今、狂ひ娘は重女で、重女は狂ひ娘であった。狂ひ娘の記憶の中の痛みも苦しみも、すべて感じていた。
 重女は、泣いた。涙は羊水の中の気泡となり、水面へと昇っていく。あとからあとから涙が溢れた。それは重女の涙でもあり、狂ひ娘の涙でもあった。
 そんな重女の感情に呼応するかのように、胎内に張り巡らされた影が薄くなっていく。羊水の動きが変わっていく。赤子もまるで溺れているかのように苦しそうに動く。破水が始まったのだ。だが今の重女にはそれがわからない。悪魔を消滅させなきゃ、という考えすら消えていた。ただ、彼女の頭の中を占めているのは、激しい「怒り」の感情であった。
 
 不幸なことに、重女の脳は狂ひ娘より発達していた。感情も、思考も年相応に機能していた。狂ひ娘と一体化した記憶から唯一枝分かれした感情――それは「怒り」である。

 世界が真っ黒に染まる。怒りと憎しみの色だ。
 "おれ"を、"私"を、凌辱したこいつらを殺してやりたい。股間のものを破壊し、相手が許しを請うても殴り続けてやろう。今まで"おれ"が、そうされたように。もういたいのはいやだ、くるしいのはいやだ、だから殺す。なぐってけってころしてやろう。そしてべたべたのえきたいをかけてやろう。あしと、ての骨を折ってやろう。骨。真っ白な、"右手の骨"――

 「うごくなよ」

 真っ黒だった世界の色がまた変わった。今度の色は「白」と「青」だ。空の青と、"骨"の白――

 "おれ"は「しゅうまる」の手がすきだ。いまもやさしくかおをふいてくれる、白い骨の手。
 「しゅうまる」はみぎてが殆ど骨だ。昔「いくさ」で骨ばかりになったっていってた。ほかのみんなは"きみわるい"とか、"ほねやろう"とかいってるけど、"おれ"はこのてがだいすきだ。あったかくはないけど、つめたくもない。
 だけど"おれ"のてとつなぐとぴったりあうんだ。「しゅうまる」はいたくしない。なぐらない。においがおなじ。"とうりょう"と、"おれ"とおんなじ「やまいのにおい」
 「しゅうまる」がおれと"いっしょ"になるとき、そのにおいでいっぱいになって、"おれ"はすごくいいきもち。めしはくれないけど、ほねのてでからだをさわられると、とってもあんしんする。ほかのおとこと"いっしょ"になるときより、ずっとずっときもちいい。
 きもちいい。たのしい。うれしい。"おれ"、「しゅうまる」がいい。「しゅうまる」とのこどもだから「しゅうまる」。うんだら、「しゅうまる」と、おそらのめのいろの"ともだち"の「かなめ」といっぱいあそぶんだ――

―――

 ――もう限界、か。

 話しかけても一向に戻らない重女の様子と、大量に破水している狂ひ娘の身体を見て、黒蝿はそう判断すると、手に影を集め、黒い小刀を作った。

 「クロハラ!?」

 頭領が驚いて黒蝿に声をかける。

 「時間切れだ。今から俺がこの女の腹を裂いて子ごと悪魔を食う。裂いた腹はあとで術をかけて治してやる。だが子は諦めろ」
 「なに言ってる! そんなの許さないぞ!」
 「ならどうする? このまま捨て置けば女も子も死ぬぞ。女か、子か、どちらかを選べ」
 「そんなの、選べるわけ――」

 その時、黒蝿の手首ががしっと握られた。頭領と黒蝿は驚いた。手首を握っていたのは、先程まで人事不省状態であった重女だったからだ。

 「かなめ!?」

 頭領の呼びかけに重女は答えなかった。代わりに目を瞑ったまま眉を寄せ、狂ひ娘の腹の上の右手に力を入れた。
 すると右手が光った。太陽の光を浴びないと自力では輝けない月のような、儚げな光。だがそれは確かに道の見えない闇を照らす"光"であった。

 「いったい何が……」

 黒蝿が呆けたように言葉を吐いた。こいつは術など使えなく、マグネタイトすら生成できないはず。しかし今右手から放っている光は、他者を癒す治癒術のそれに似ていた。

―――

 どくん、どくん、どくん。赤子の、「しゅうまる」の鼓動を聞く度、重女の意識ははっきりしてくる。

 狂ひ娘の記憶と溶け合い無くなりかけていた重女の自我が戻ってきた。それと同時に影も濃くなり、逃げ惑うインキュバスを捕まえることに成功した。
 インキュバスのマグネタイトを吸い取る。悪魔の負の感情が伝わってきた。苦しい、痛い、悔しい。だけどそれはいつもより軽かった。どくん、どくん。耳元で聞こえる鼓動。「生きている」という証明の音。これから生まれる命の存在が、重女の負担を軽減してくれた。

 まだ生きる苦しみも痛みも知らない無垢の存在。かつて壮絶な辛酸を舐めてきた母である狂ひ娘の思いと願いが込められた存在。狂ひ娘が愛した男――「拾丸」との子。その命を奪う資格なんて誰にもない。だってこの子は愛されているから。生まれて欲しいって願われているから。狂ひ娘と、そしてきっと「拾丸」に。
 狂ひ娘の記憶の中の「拾丸」は優しかった。温かかった。温もりを持たない骨の手からも、それはちゃんと伝わってきた。辛い記憶さえ吹き飛ばす程に。

 狂ひ娘ちゃん、貴女の愛した人はやっぱり素敵な人じゃない。だから私はこの子を――「しゅうまる」君を守る。約束したものね、必ず助けるって。狂ひ娘ちゃんが私を助けてくれたように、今、私が貴女と「しゅうまる」君をこの悪魔から守る。"友達"だもの。そして「しゅうまる」君が生まれてきたら言ってあげて。「愛している」って――。

 インキュバスの身体が徐々に薄くなっていく。重女の心には相変わらずインキュバスの恨みの感情が流れ込んでいた。

 ――お前は、この子を食おうとしている。それはさせない。誰にもこの子の命は奪わさせない。だから、お前は、消えて――

 重女の思惟が後押しとなったのか、インキュバスの身体の崩壊が始まった。赤紫色の身体は粒子よりも細かくなり、やがてマグネタイトを全部吸い取られた夢魔は、胎内から、現世から消え去った。

―――

 かは、と肺の酸素を吐き出す。同時に重女の肉体に意識と五感が戻ってきた。
 肉体の重みを感じる。視界に黒蝿と頭領の顔が映る。左手が黒蝿の右手を掴んでいるのが分かる。そして妙に生臭い匂いが鼻腔に届いた。

 「戻ってきたか」

 黒蝿が顔を近づけて問うてきた。ぼんやりとした頭でこく、と重女は頷いた。それで十分だった。狂ひ娘の中の悪魔を消滅させたことを伝えるには。

 「お疲れ、と言いたいところだけど、労いとお礼はあとだ! この子が破水してしまった。急いで出産させないとまた子供が危ない!」

 頭領の指示の元、黒蝿と重女、仲魔達は走った。集落の何人かを起こし、火を起こしお湯を焚き、清潔な布きれを集めた。重女の仲魔の異形に集落の何人かは悲鳴をあげたが、それよりも狂ひ娘の子が生まれそうだと分かると、恐怖を忘れ迅速に対応してくれた。頭領の家の中は、起こされた女衆と重女と頭領が狂ひ娘の出産を手伝っていた。

 「ひー、ひー、ふー?」
 『そう、もう一回、ひー、ひー、ふー!』

 重女がラマーズ呼吸法を狂ひ娘に教え、狂ひ娘はいきみながらそれを繰り返した。あと出産に必要なことはなんだろう? 保健体育は五だったのに! 教科書には出産の心得や方法なんて書いてなかったよ!

 「か、かなめ、かなめ……」
 『なに?』
 「あ、ありがとう。やくそく、ま、まもってくれて」

 汗だらけで真っ赤な顔で、狂ひ娘はお礼を言った。

 『……うん、"ともだち"を助けるのは当たり前じゃない』
 「と、とも、ともだち、そ、そう、おれたち、"ともだち"!」
 『うん、そうだね』
 「し、しゅう、「しゅうまる」と、あ、あそんでくれる?」
 『………うん、一緒に遊んであげる。だから、ほら! ひー、ひー、ふー!』
 「ひ、ひー、ひー、ふー……」

 重女は狂ひ娘に見えないよう、そっと顔を伏せた。そうしないと涙が浮かんでいるのをこの子に悟られてしまう。出産の最中に余計な心配をさせたくない。
 きっと、この約束は守れない。私達は出産が済んだら、この集落を追い出されてしまうだろうから。人ならざる者は、この地に交らわれないものはここにいてはいけない。それがここにとって最良であるから。
 だから、この約束は嘘。「友達」を安心させるための、最初で最後の嘘だ。

 「きた! 頭が見えてきたよ!」
 「もう少しだよ!」
 「頑張って!」

 頭領や女衆が口々に叫ぶ。狂ひ娘が傍らの重女の手を握る力を強くする。骨が折れてしまいそうなほどの力で握られ、重女も思いっきり握り返した。

 東の空が白み始める。ここ骸ヶ原の端の集落に、新しい命が誕生するまで、あと、少し――続きを読む

 時間移動、というのは身体と精神に酷く負荷をかける。

 アマラ経絡という空間を繋げるエネルギーの霊道を通る時、重女の身体はいつも見えない“何か”が通っていった。
その“何か”は重女の肉体の裏側から体力や生気というものを奪っていく。
 おかげで経絡を出る頃には、酷い倦怠感と精神の混濁がついてくる。しかもそれは回数を重ねる毎に酷くなっていくのだからたまったもんではない。
 だから経絡を出て、ぼーっとしている重女に、黒蝿は肩を叩き、ほんの少し生気を分けてくれる。
そうすることで、重女の混濁した頭はすっきりし、身体もなんとか動かせるようになる。今までの四回の時間移動では、それで済んでいたが、今回はそうもいかなかった。
 “魔女の宴”での戦いは重女の心身にかなりの負荷をしいたらしい。戦い自体は今までとそれ程変わらなかったのに、それでも暫く目を覚まさなかったのは、今までの遡行で蓄積された心身の疲労がピークに達していたらしい。

 重女が重たい目蓋を開くと、そこに黒蝿の姿はなかった。
 代わりに視界に入ってきたのは、茶色い天井であった。それはくすんだ木の板でできた屋根である。
 つん、と土と草と、不思議な薬の香りがした。近所の農家の畑の前を通った時に嗅いだ匂いにそれは似ている。堆肥と青草とお日様の匂い。重女も何回かその農家の手伝いをしたことがあり、報酬として僅かなお小遣いや瑞々しい野菜をもらったっけ。

 「お目覚めかい?」

 男の声が聞こえた。重女は首を動かし、横を向いて声の主を確認した。そしてぎょっとした。
 
 その男は不気味で妙な男であった。

 まず最初に目についたのは、狗の面。狗を象った白い面が覆っているので容貌は分からない。だが、とても小顔である。胡坐の姿勢なので身長は分からないが、華奢な手足を見る限りあまり高くはないだろう。
 声を聞いていなければ、自分と同年代か少し下の少女かと見間違えていた。それほどまでに中性的な男である。頭には奇妙な模様の頭巾を被っている。頭巾からはみでている髪は枯れた草のような緑。不思議な色だ。赤毛の外人さんがいるとは聞いたことがあるが緑色というのは聞いたことがない。この人のは地毛なのか、呪術的な意味で染めているのかは分からない。
ごりごり、と棒で大きな椀の中で何かを擦っている。
 
 (……男……だよね?)

 疑問に思い、怠さの残る半身を起こす。かさり、と身体の上にかかっていたものが動いた。それは妙に薬くさい筵であった。
 
 「もう大丈夫か?」

 男が顔を覗いてきた。先程は焦点が合わなく気づかなかったが、よく見ると、男の面の下から僅かに覗く皮膚には、刀傷が無数についていた。
 
 「…………」

 男から顔を動かし、重女は周りを確認した。
 今までの時間移動で身に着いた癖である。まず自分はどこにいるのか、ここはどの時代か、どの国か、自分はどのような状態におかれているのか、を把握するため、目を皿のようにして辺りを観察する。
 男の着ている着物と、木で出来た小屋、どこか懐かしい空気、そして男の言葉が聞きなじんだ日本語だったので、ここは前回とは違い日本だろう。
 では、どの時代か。仲魔の石猿田衛門と会った時は江戸時代末期であり、紅梅白梅童子と出会ったのは大正時代。大正・明治などの近代でないことは家屋の造りや男の着物からして明らかだ。
 なら江戸時代か。と、いっても江戸時代は長い。260年以上も続けば初期、中期、後期で文化は大きく変わる。しかし重女は、男と、板と藁で出来た質素な家屋から、少なくとも猿と出会った幕末ではないと感じた。
 こんなことなら、もっと歴史を勉強しておくんだった……。

 「はい、これ」

 きょろきょろしていた重女に、狗面の男が小さな椀を差し出した。椀の中には緑色の液体。その液体は強烈な匂いを放っている。

 「毒じゃないよ。薬草を水に溶いた。ちょっと苦いけど良く効くぞ」

 確かに良く効きそうである。良薬口に苦しとは聞くが、それはこれが本当に薬ならだ。
 毒じゃないという保証はどこにもない。この妙な男が何者かもわからない。大体、ここが昔の日本であるなら、金髪で青い目の自分は忌むべき存在として排除されるか、奇異な目で見られるかが常套。それは自分の生い立ちや、猿の時の経験で分かっている。

 ――そうだ、黒蝿は?

 一番に確認すべき存在を忘れていた。仲魔であるやたノ黒蝿。ブロッケン山の″魔女の宴″で私は気を失って、その後のことは覚えていない。こうして別の時代に来たということは、恐らくアマラ経絡は造れたのだろう。しかし、黒蝿はどこにいった? まさか、経絡のエネルギーの渦に飲み込まれ離ればなれになってしまったのか!?

 「ああごめん。自己紹介を忘れてた。
 私は頭領。ここの集落のまとめ役だから頭領って呼ばれてる。この面はな、ちょっと傷を隠すためにつけている。別にやましいことがあってつけているわけじゃないから、安心してくれ」
 
 余程自分は怯えた顔をしていたのだろう。頭領と名乗った男は、諭すような優しい口調でそう言った。

 「あ、あとこれ。君のだろ。変わった書物だね。何でできてるんだい?」

 男はまたなにかを差し出した。黒い革の表紙のそれは、もうすっかり自分の手に馴染んだ、聖書型コンプである。
 重女は椀を床に置き、コンプをひったくるように受け取ると、聖書を開き中ほどのページに手のひらを押し付ける。すると微かにページが光り、コンプが起動した。すぐさま状態を確認する。黒蝿を除いた他五体の仲魔はきちんと収納されており、悪魔合体プログラムも正常のようだ。ほっと胸を撫で下ろす。

 「へえ! 今光ったよね! どうやった? これ面白いな」

 気が付けば男が肩からコンプを覗き込んでいる。重女は驚いて反射的にコンプを閉じてしまった。
 男ががっかりしたように首を竦めた。面のくりぬいた目の部分からの視線と、その様子があどけない少年のようで、重女は少しだけ警戒を解いた。
 近くに寄った男からは、血と、汗と、薬草と、日向の土の香りがした。

 「………」

 コンプを膝に置き、床に置いていた薬草の汁が注がれたお椀を手に取った。
 さっきごりごり擦っていたのはこの薬草だろう。自分の身体を気遣ってわざわざ作ってくれたのか。
 今までの様子からみて、容貌は変わっているがこの男は悪い人ではないようだ。少なくとも自分に危害を加える気配は感じられない。よく考えれば、危害を加えるなら気を失っていた間にとっくに行っていたはず。
 
 毒ではない、と判断し、重女は意を決して汁を一口飲む。途端に物凄い苦味が口の中いっぱいに広がり、思いっきり顔をしかめた。
 その様子を見て、頭領は笑った。面をしているのでわかりにくいが、唇が逆三角形に変わったのを見て、きっと優しい笑顔を浮かべているんだな、と重女は思った。

 こうして、京の西の外れの平原“骸ヶ原”の端の集落に重女達は降り立った。
 時は平安時代中期、武士の地位が静かに上昇しはじめた時代である。

―――

 骸ヶ原――その昔、ここで大きな合戦があり、その戦に参加した者の数えきれない程の屍が放置されたままだったことから、いつしかこの平原は“骸ヶ原”と呼ばれるようになった。
 時を経て、大江山の朱点童子が京に鬼を放ち、その鬼は京の外れのここ骸ヶ原にも出没するようになった。とくに合戦が起こった夏頃になると瘴気が濃くなり、鬼の活動が活発化し鬼の巣窟まで出現する。
 そんな骸ヶ原の隅に、かつてここで起きた戦に参加し生き延びた男が「頭領」を名乗り、訳あり者をまとめ、集めた小さな集落がある。

 昨日、その骸ヶ原の集落に謎の訪問者が現れた。

 そいつらは一組の男女であった。どちらも奇妙ななりで、男の方は黒い山伏のような恰好で、黒い篭手に黒い具足。鴉を思わせる兜をかぶり、目つきが悪い。
 女の方は十四、十五程の金髪の少女で、着物も身体の線がわかる上衣に、これまた見たこともない形状の袴。女はぐったりと男に抱かれていた。恐らく気を失っているのだろう。

 ――宿はあるか。手間賃は払うので一日でいいからここに泊めて欲しい、と男が言った。

 身元が分からない謎の来訪者は、ここ骸ヶ原ではそう珍しくない。この二人組もどこぞから逃げてきた訳あり者――恰好からみて、とつくにの者か――であろう。頭領は快諾した。とりあえず女の方は看病と、男衆から避難させる意味もあり、集落では一番造りのいい頭領の家に運ばれた。
 女が頭領の家で寝かされるのを見届けると、男はふらりと集落から出て行った。そして数刻後、男は戻ってきた。手に大きな血の滴る袋を持って。

 袋を広げる。するとそこには大量の解体された肉があった。 

 「こりゃすげえ!」
 「最近はさっぱりだったのに……兄ちゃん、この肉、どこで手に入れたんだ?」
 「……近くの山で狩ってきた。新種の猪と兎の肉だ」

 日が落ち始め、骸ヶ原にも夕餉の支度のためにあちこちで火が起こされ、煙があがる。
 この集落での食事は質素だ。頭領と男衆がこなす、都のある貴族の家の警護の"仕事"で、報酬に米を食えるのは月にほんの数回あるかどうかで、大半の日は山菜や野草、稗に芋に具のない汁、あとは川で釣ってきた魚や猟で狩ってきた獣肉が殆ど。
 しかしその肉や魚も、最近鬼の活動が昼でも活発になってきたせいで、猟や釣りに行けない日が多く、集落の皆は干し芋と炒った豆で何とか毎日を過ごしてきた。
 なので久々に肉を食うことができ、今夜の骸ヶ原はちょっとしたお祭り状態であった。

 「不思議な味の肉だね。私もここら辺にはちょっとは詳しいつもりなのに、この肉は初めてだよ。どこで手に入れたんだい?」
 「近くの山だ」
 「……鬼は出なかったか?」
 「………出なかった」

 頭領の家にて。頭領と男は、臥せっていた少女と共に“近くの山で狩ってきた肉”をほうばっていた。焼き肉、蒸し肉、出汁がたっぷり効いた肉と野菜の鍋。どれも筋張ってなく柔らかくて、それでいて獣臭さはあまりない。
 身体を起こした少女はその肉を一口食べた途端、驚愕に目を大きく見開き、思いっきり男を睨みつけた。青い瞳には怒りの色が浮かんでいる。だが男はその視線を無視した。

 「そうだ、そういえば君達の名前を聞いてなかったな。良ければ教えてくれ」
 「俺は、くろ…………………はら。こいつは、まあ「かなめ」と呼んでやれ」

 "クロハラ"と名乗った男が少女の方を顎で指す。少女の視線は相変わらず険しい。皿の肉に再び口をつけることなく、怒った顔でずっと"クロハラ"を睨んでいる。
 この二人はどういう関係なのだろう。頭領は仮面越しに、二人に流れる空気からそれを読み取ろうとした。恋人というには雰囲気がどこかよそよそしい。かといって親子という程年齢が離れていない。
 では兄妹であろうか。顔は全然似ていないが、世の中には色んな形の血縁関係があるものだし、可能性はある。
 
 「……………」

 少女はまだ"クロハラ"を睨んでいた。何がそんなに気に食わないのか。彼が気を失った彼女をここに運んで、更に滋養をつけるためにと"肉"まで持ってきた。"クロハラ"は彼女に献身的に尽くしている。なのに何故怒っているのか。

 「かなめ、さん? なんで不機嫌なのか知らないけど、ちゃんと食べないと身体が回復しないぞ?」
 「!」

 不意に声を掛けられて、「かなめ」という少女ははっとしたように頭領の方を見た。まだあどけない少女の顔は、やはり隣で静かに食事している"クロハラ"とは似ても似つかない。

 「…………」

 少女は罰が悪そうに下を向いて、暫く皿の肉を見ていたが、やがてきっ、と前を向き肉を食べた。まるで意を決して毒を食うように眉を寄せて肉を咀嚼する。"クロハラ"はずっと無言であった。

 (やれやれ、また変わったのが来たな)

 頭領は小指と薬指が麻痺した右手で、器用に箸を使い鍋の肉を掴みほうばった。集落のどんちゃん騒ぎの喧騒を聞きながら、頭領の家では重たい空気のまま夕餉が進んでいた。

―――

 頭領の作った薬湯が効いたのか、重女の身体は徐々に回復に向かっていった。

 二日も経てば、一人で立ち上がることができるようになった。三日目には普通に歩くことが出来た。四日目には村の女衆に交じり手伝いが出来るまで回復した。
 集落の皆は、重女の金髪碧眼の容姿にも、声が出せないことにも言及しなかった。異相の来訪者に慣れている集落の皆は、重女に侮蔑の言葉を投げかけることも石を投げる事もしなかった。代わりに居場所と役割を与えた。
 洗濯に料理にその他細々とした雑事。家事をするのは慣れていた、が、当たり前だが、重女の時代とは勝手が違う。ここにはガスコンロはないし、水道も通っていない。火の起こし方も分からないし、料理の手順も味付けも大きく違う。声が出せないので意思の疎通もままならなく、次第に重女はうっとおしがられ、雑事と洗濯のみを任されるようになった。
 ごしごしと大量の衣類を川で洗いながら、重女はふう、と憂鬱気に溜息を吐いた。

 (黒蝿のやつ……今日もまた"狩り"に行ってるんじゃないでしょうね)
 
 黒蝿もまたこの集落に受け入れられた。ここでは何故か"クロハラ"と名乗り、頭領をはじめとする男衆の仕事を手伝っていた。
 
 彼の仕事は薪割り他多岐にわたるが、一番成果を上げていたのが"狩り"である。

 誰も連れていくことなく、いつも鬼が出没する平原や山に平然と入っていき、一人で獲物をしとめ、"何故か"その場で解体し、大量の肉を手土産に集落へと帰還する。最初は喜んでいた集落の皆も、段々訝しがるようになってきた。何故鬼が出る場所に一人で行って無事に帰ってこられるのか、何故狩りに決して誰も同行させないのか、そもそもあいつは何者なのか……謎は猜疑心を生み、猜疑心は反発を生む。
 一郎という年若い男を筆頭に、男衆が何人か黒蝿に突っかかったらしい。一郎の挑発を馬鹿にしたように軽く受け流した黒蝿の態度が、皆の怒りの導火線に火を付け殴り合いにまで発展した。が、黒蝿は一度も殴られることなく全員を吹き飛ばした。恐らく"ザン"の術でも使ったのだろう。
 そういった経緯から、黒蝿も白眼視されるようになり、誰も黒蝿が採ってきた肉を食べなくなった。それで正解だ、と重女は思った。
 
 ――何故ならあの肉は、解体した鬼の肉なのだから。

 「………」

 苛立ち紛れに、布を擦る速度を速める。
 此処に来た初日にあの肉を一口齧った時、すぐに分かった。忘れるはずがない。あの味。影の鞍馬山で出現する悪魔を捕まえ解体し焼いて食べた記憶が蘇る。あの独特の味。あれが猪や兎の肉なはずがない。

 (何も知らない一般人に、悪魔の肉を振舞うだなんて!)

 悪魔や鬼の肉を食べても、人間には害はない。少なくとも自分にはなかった。だが自分がなんともなかったからと言って他の人間に、しかもこれから世話になる人々に食わせるなんてもってのほかだ。そう黒蝿に言っても聞く耳を持たなかった。それだけではなく、お前が衰弱していたのが悪い。お前のアマラ経絡の計算が合っていればこんなところに飛ばされることもなかった、などと言ってきた。それっきり黒蝿とは口を聞いていない。
 やっぱりあいつは悪魔だ。血も涙もない、と重女はここ数日苛々していた。

 「か、かな、かなめ! な、なに、してるの?」

 背後から鈴の鳴るような高い声が聞こえた。振り向くとそこには、雪のような白い肌、赤みがかった栗色の長い髪、たっぷりとした胸を肌蹴た襟元から覗かせ、そして大きな腹を抱えた見目の美しい、"狂ひ娘"と呼ばれる娘が立っていた。

 『洗濯、してるの』
 
 重女は仲魔や悪魔にするように"念波"で狂ひ娘に答えた。その答えが"聞こえた"娘はへらへらと笑って見せた。

 「お、お、おれも、て、てつだうよう」

 そう言って屈みこもうとした狂ひ娘を、重女は必死で止めた。

 『駄目だよ! そんなことしたらお腹の赤ちゃんが苦しくなるよ!』
 「あ、そ、そうだね、く、くるしいのはだ、だめだね」

 大きなお腹をさすりながらにこっと笑う狂ひ娘の笑顔を見て、重女は先程まで抱いていた苛立ちが消えていくのを感じた。

 ――狂ひ娘は、重女の"声"が聞こえる唯一の人間だ。

 きっかけは、重女が初めて狂ひ娘を見かけたときの事。にこにこと笑いながら近づいてくる大きな腹の娘が、子を身ごもっているのがわかり、頭の中でつい問いかけてしまった。

 "誰の子? 父親はどこにいるの? "

 念波なので、もちろん仲魔と悪魔以外には聞こえない。しかし狂ひ娘はその問いにしっかりと答えた。

 「し、しゅうまるのこだよう。し、しゅうまる、いまはいない。な、なつになるとあ、あえるの」

 重女は仰天した。思わず『聞こえるの!?』と再び問いかけてしまった。

 狂ひ娘の弁によると、重女が発する"念波"は、お腹の子を通して頭の中に響いてくるのだとか。
 黒蝿はその時いなかった。黒蝿が近くにいるのなら、彼の声を使って人間相手でも"念波"は送れる。しかしどうやら狂ひ娘には、重女の"本当の声"が聞こえているらしい。
 弟のアキラや、今まで会った人間には聞こえなかった自分の声が彼女には届いている。この子、本当に人間なのか? と疑ったが、じっくりと観察しても、人外のものの気配は感じなかった。
 なら、もしかして新しい命を宿した妊婦には、不思議な力が宿るのだろうか? などと妄想してみたが、結局狂ひ娘に自分の声が聞こえる理由はわからなかった。
 
 狂ひ娘はよく重女に懐いてきた。年は自分とそれほど変わらぬだろうに、まるで親に縋り付く子供か、飼い主にじゃれ合う子犬のように重女に色々話しかけてきた。ちょうど村衆から邪険にされはじめていたので、なんの含みもなく接してくれる狂ひ娘は、重女にとって一種の清涼剤のようだった。
 邪険にされるのは慣れている。とはいってもやっぱり悲しいし、落ち込んだりもする。そんなとき狂ひ娘の笑顔に触れると、乾いた心が潤うのを感じた。
 今重女が着ている着物も、狂ひ娘が分けてくれたものだ。ところどころほつれくすんだ藍色の綿の単衣。狂ひ娘いわく「か、かなめの、めのいろと、い、いっしょ。お、おそらの、いろ」らしい。
 狂ひ娘は髪にもよく触ってきた。髪を梳いたり編んだりしながら、「か、かなめのかみは、お、おひさまのいろ」と笑顔で言ってきた。
 ずっとコンプレックスであった髪と目の色を褒めてもらったのはとても嬉しかった。自分の髪と目を奇異な目で見なかったのは、シドと、鞍馬山の地下で会った京子くらいだから、二人を思い出し、尚更嬉しくなった。
 重女の好意が伝わったのか、狂ひ娘とはよく行動を共にした。狂ひ娘もそれを喜んでいるようだった。食事の時も、湯に入る時も、寝るときまで一緒だった。

 『なんだか、友達みたい』

 ある夜、頭領の家で狂ひ娘と茣蓙の上で寝ていて、ふとそんなことを念波で送った。

 「と、とも、ともだち?」
 『うん』

 頭領はもう寝入っている。狂ひ娘が重女についてこの家に入ってきて、一緒に寝ようとすると、頭領は狂ひ娘を諭して追い出そうとした。だが重女が頭を下げて、できれば一緒にいたい、というような事を身振り手振りで示すと、頭領は溜め息を吐きながらも了承してくれた。おかげで狭い家に二人の女と一人の男が寝る形になり、とても窮屈だ。
 
 「と、とも、ともだち、て、な、なに?」

 改めて聞かれて重女は言葉に詰まった。
 そういえば友達の定義ってなんだろう? 口頭で約束したときから? 学校の行きかえりを共にした時から? 放課後買い食いをした時から? それとも互いの家を行き来してお泊りしたときから?
 わからない。でもきっとそれは定義づけるものではないのだろう。こうやって心が通じ合った時、その瞬間から「友達」になるんだろう。

 『えっと……悩みを聞いたりして助け合ったりする仲間の事……かな?』
 「なや、なやみ? なか、ま?」

 幼いままの頭である狂ひ娘には、少し難しい言い回しだったかもしれない。なんと言えばこの子に伝わるだろう? 重女は頭を捻った。
 
 『えーと、例えば狂ひ娘ちゃんのお腹の子が大変なことになったりするとして……』
 「お、おれ、おれのこは、し、しな、しなないよう!」

 突然の大声に重女は「しー!」と口に人差し指を当てた。狂ひ娘もそれを真似する。幸い、端で寝ている頭領が起きた様子はない。

 『だからもしもだよ? 狂ひ娘ちゃんに大変なことがおきたら、私が助けてあげるの』
 「た、たすける!? し、しゅう、しゅうまるみたい!」

 拾丸――狂ひ娘のお腹の子の父親。どんな男か聞いても「し、しゅう、しゅうまるは、や、やさ、やさしいんだよう」としか言わなかった。彼女がそう言うのだから、きっと優しくて素敵な男なのだろう。

 『うん、それでね、私が大変なことがおきたら、狂ひ娘ちゃんが助けてほしいの』
 「な、なんで?」
 『えーと……そうやってお互いに助け合うのが、それが、"友達"だと思うから』

 言葉にしてみて、重女は気恥ずかしくなった。なんだか私、酷くクサいこと言ってる……

 「お、おれ、おれでも、か、かなめ、た、たすけられる?」
 『うん、今でもすごく助かってるよ。狂ひ娘ちゃんといると、とても楽しいよ』
 「お、おれも、たの、たのしいよ。じゃ、じゃあ、お、おれ、おれたち、と、とも、ともだち?」
 『うん』

 二人はこっそり笑った。重女のいう「友達」の意味を狂ひ娘がちゃんと理解できたかはわからないが、それでも彼女は楽しそうであった。重女もその笑顔を見て嬉しくなった。ずっと一緒にはいられないけど、せめてここにいる間は私達は「友達」だ。くすくす、くすくす、と声のでない喉で重女は笑った。

 今日は満月――重女と黒蝿がここ骸ヶ原の集落に降り立ってから、一週間が過ぎようとしていた。
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 その作家は、苦しんでいた。

 十九世紀初頭、現在のドイツの前身であるプロイセンの中央に位置するヴァイマル公国。初老の男が机に向かって頭を抱えていた。床には丸めた紙がいくつも転がっている。
 男は豊かな才能の持ち主で、幾つもの小説、戯曲、詩を描いて、その全てがヒットし、一躍人気作家となった。
 数年前には妻を亡くし、自身も腎臓を患い、度々隣国に湯治に行ってはいたが、まだまだ文学への情熱は失っていない。
 しかし、ここ数日、 男は頭を抱えていた。今書いている作品の筆が進まない。俗に言うスランプである。
 ぼんやりとした展開は頭の中で浮かんでいる。しかしそれを文章に出来ない。
 今度の作品は戯曲である。悪魔と天使と人間の男、そして可憐な少女を出すことは決めていたが、それらをどう動かしていけばいいのか、続きをどう書けばいいのかがさっぱり思いつかなく、男は頭を掻く。

 可憐な少女――ふと、男は、自身の初恋を思い出した。
 子供の頃はフランクフルトにすんでおり、近所の料理屋に勤めていた娘に恋をした。男が十四歳の時である。
 結局、その恋は実らなかったが、その娘の美しさは今でも思い出せる。金髪の美しい青い瞳を持った優しく、そしてとても敬虔な娘であった。聖書を殆ど暗記し、毎日の祈りを欠かさない。もし女神がいるなら、このような女性であったであろうとさえ十四歳の男は感じていた。
 何故、子供の時の淡い記憶を思い出してしまったのか。もうその娘はいないというのに。

 「……少し旅行にでも行こうか」

 もうすぐハルツ山地のブロッケン山でヴァルプルギスの夜がある。別名魔女の宴と呼ばれるその祭りに男は前から興味があった。四月三十日の夜から五月一日にかけて催される祭りは魔女や悪魔が集まりサバトを開くらしい。特にそういった存在を崇拝しているわけではないが、春の訪れを祝う人々を見るのは純粋に面白い。それを見れば戯曲のアイデアも浮かぶかもしれない。

 男は椅子から立ち上がると、小間使いを呼んで旅の支度を命じた。今から馬車で行けばだいたい一日で着くだろう。出来れば心優しき魔女が自分にアイデアを授けてくれればいいのだがな、と男は妄想した。

―――

 重女は、困っていた。

 周りには日本の家屋とは違う、レンガ造りの洋風の家々が並び、往来を行きかう人々はどう見ても日本人ではない。
 髪の色も瞳の色も様々な人々が、これまた洋風のドレスに身を包み、英語とは違う聞いたこともない言語を喋っている。
 前回、大正時代からアマラ経絡を発生させ、今度こそシドの元へ行けると思っていたのだが、また違う時代に来てしまったらしい。いや、時代どころか国すら違う。今までの時間遡行は時代こそ違えど同じ日本に着いていた。
 それが今回はどうだ。此処はどう見ても日本ではない。人々も建物も言葉も明らかに日本とは異なる。
 動揺を抑えて重女は辺りを観察する。白人が多く、しかし話されている言語は英語ではない。建物や人々の着ている洋服から見て、此処はヨーロッパだろう。ヨーロッパのどこの国かは流石に分からないが、服装からみて前回よりもっと古い時代のようだ。
 子供達が花の冠を頭につけてキャッキャッとはしゃいでいる。そこかしこで屋台のようなものも出店しており、篝火を灯すための木々がくべられている。気のせいか、皆どこか浮き足立っているように見えた。

 『……お祭り、なのかな?』
 重女は足元の鴉へと姿を変えた黒蝿に念波を送り聞いてみる。黒蝿はじっと人々の話す言葉に耳を傾け、近くの山に目を凝らす。

 「どうやら今日の深夜から、"魔女の宴"が催されるようだ」
 『魔女の宴?』
 「人間達の間では春の訪れを祝う祭りだがな、だが本当はそこのブロッケン山に魔女や悪魔が集まり宴を開く。強力な悪魔が沢山集まるから、マグネタイトも膨大に奪えるぞ」

 日本語以外の言語まで理解できる黒蝿に舌を巻いたが、魔女が実在しているということに重女は驚いた。

 『魔女って本当にいたんだね』
 「そう呼ばれる存在には何人か会ったことがある。ある意味悪魔召喚師と似たようなものだ。異形の者を従え、人の理を超えた術を使う。そういう意味ではお前も"魔女"なのかもな」

 からかうように黒蝿は言ったが、重女は真剣な顔をして黙り込んだ。
 魔女。確かにそうかもしれない。箒で空は飛べないしマグネタイトも生成できないし、術は影の造形魔法しか使えないけど、黒蝿をはじめ、何匹もの人ならざぬものをコンプで従えている私は魔女なのかもしれない。

 『……なら、魔女は魔女らしく宴に参加しないとね』

 少し楽しそうにそう言うと、重女は身を隠していた路地裏から往来へ足を踏み出した。
 ここには髪の色や瞳の色が違うということで差別してくる者はいないはず。なにより祭りの雰囲気に重女は惹かれていた。祭りというものに参加した経験が少ない重女は、例え魔女の宴であろうとも、思う存分祭りを謳歌してみたかった。
 やれやれ、というように黒蝿は重女の後に続いた。前回のように勝手な行動を起こさないように監視しておかないと。
 ブロッケン山で魔女の宴――ヴァルプルギス・ナハトが開催されるまで、あと数時間。その間くらいは自由に行動させておくか。
 まずはあの服から変えさせないと。黒蝿はそっと影を操った。すると影は重女を包んだかと思うと、形を変え、身に纏う衣装がドイツの民族衣装のドレスに変わった。

 「……!」
 「その恰好じゃ目立つだろう。目立ってまたおかしな奴に目をつけられたら困る」

 影の造形魔法は服も作れるのか。感嘆し重女は軽く身体を捻った。すると長いスカートがふわりと揺れる。スカートを穿くなんて久しぶりだ。フリルのついたブラウスも可愛いし胸元を縛るリボンがアクセントになっているのも気に入った。ただそのドレスは黒一色である。

 『……他の子みたいにもっとカラフルなのがいい』
 「影で作ったんだ、どうやっても黒にしかならないぞ。それに"魔女"らしくていいじゃないか」

 くく、と笑いながら揶揄してきた黒蝿に対し、重女は頬を膨らませた。屋台から美味しそうな匂いが漂い、ランタンに火が灯される。
 春の訪れを祝う祭りが始まろうとしていた。

―――

 近くの町に宿をとった男は、早速祭りへと繰り出していた。
 ブーデ(屋台)からいい匂いが漂い、人々は音楽に合わせて楽しそうに踊る。厳しい冬を越えた皆の顔には温かい春の訪れへの歓喜の色があった。
 それらの人々の陽気に当てられて、男の塞いでいた心に風穴が空いた。やはり祭りはいい。来て正解だった。
 男は屋台で食べ物を買い、目の前のブロッケン山を見上げた。懐中時計を見る。今は夜の十時過ぎ。あちらこちらで篝火が焚かれる。既に酒が入って出来上がった者がどんちゃん騒ぎを始めたり、女を口説いたりしている。全く、酒は飲んでも飲まれるな、という諺を知らぬのか。
 身体二つ分離れた隣には、巨大な篝火に照らされて、男と同じくブロッケン山を眺める娘がいた。他の若者のように騒いだりせず、怒ったようにじっとブロッケン山を見つめる少女は、全身黒ずくめのまるで喪服のようなドレスを着て、肩までの金髪は篝火の光を反射しきらきらと光り、青い瞳はまるでザフィーア(サファイア)のようだ。
 瞬間、男の青春時代の思い出が掘り起こされた。フランクフルトでの少年期、よく行った近所の料理屋、そこで働いていた優しく美しい、男の初恋の少女――

 「グレートヒェン!?」

 急に大声で話しかけられ、娘はびくっと肩を揺らし、こちらを向いた。背格好と金髪と青い目はたしかにグレートヒェンに似ていたが、娘の顔の造りはグレートヒェンとは違い東洋系の顔立ちであった。
 日本人か、はたまた清国の者であろうか。

 「………失礼」

 男は罰が悪そうに帽子の縁で顔を隠した。
 考えてみればグレートヒェンが此処にいるはずがないのだ。自分より年上であった彼女は、生きていればもう老婆だ。思い出の中の初恋の少女は既にいなく、自分も年をとった。皺くちゃな自分の手を見て男はため息を吐いた。
 ちら、と男は娘の方を見る。娘も自分の方を見ている。いや、正確には男の手の食べ物を凝視していた。
 チューリンゲン地方ではよく見かける、炭火焼きのソーセージを柔らかめのパンにはさんだものだ。ここらでは珍しくもない代物だが、異国の少女には珍しいのだろう。

 「……いるかい?」
 
 す、とそれを目の前に出され、少女は戸惑い、足元に視線を落とした。そこには鴉がいた。黒づくめの格好といい、足元の鴉といい、まるで小さな魔女みたいだな、と男は内心笑った。
 視線を受けた鴉は頷いた。そっと少女はパンを受け取り、ソーセージを一口齧った。すると少女は目を大きくさせ、驚きの表情でもう一口、二口と食べ始めた。良かった。どうやら気に入ってもらえたようだ。
 少女が口を動かした。しかし声は出ていない。男は目を細めてその薄紅色の唇の動きを見た。やはりというか、それは男の母国語の発音の形ではなかった。日本語か、もしくは他の東洋の言語か。
 しかし言っている内容は察しがついた。お礼を言っているのだろう。

 「Bitte schön.(どういたしまして)」

 男は帽子をとり深々とお辞儀をした。
 まるで役者のように大げさな仕草に、少女は鴉と目を合わせ微笑んだ。

―――

 時刻は午後十一時。重女は自分を「グレートヒェン」と呼んだ老人となんとなく行動を共にしていた。

 その老人は優しく、自分に色々話しかけてきたり、屋台に売っている食べ物を買ってくれたりした。
 老人が優しいのには訳がある。首の痣を指さし、自分は声が出ないということを身振り手振りで表現すると、老人は気の毒そうな顔をして、重女に向かって喋りだした。

 黒蝿の通訳によると、
 声の出ないお嬢さんがこんな異国の祭りに一人で来ているとはよほどのことがあるのだろう、貴女は私の昔の知り合いによく似ている。ここで会ったのも何かの縁。どうか私と祭りを共に楽しんではくれないだろうか、と言っているらしい。

 ここでのことは右も左も分からない重女は、この申し出を有難く受けた。老人の話している言葉――この時代のドイツ語だと黒蝿が言っていた――は日本人である重女には分からなかったが、黒蝿が通訳してくれ、それに対し頷いたり微笑んだりするだけで、老人は嬉しそうに喋り続けた。その親切さに、重女はミカド国で会ったキヨハルの姿を思い出した。
 すると老人が屋台のおばさんのドレスについていた赤いリボンを金で買い、そのリボンをまるでチョーカーのように首に優しく巻いてくれた。首の痣はリボンで隠れ、黒一色のドレスを纏った重女の首元に、鮮やかな赤の花が咲いたようだった。

 「……!」
 「ああ、やっぱりとてもよく似合うよ」

 こんなに親切にしてもらっていいのだろうか。キヨハルさんといい猿といいこの老人といい、皆優しすぎる。
 つん、と鼻の奥が熱くなった。それを悟られないように重女は横を向いて、何かお礼はできないかと考えた。 こんな時、声を奪った黒蝿を恨ましく思う。声さえ出ればいくらでも感謝の言葉を発することができるのに。
 しかし結局声は出せない。なにか、この老人に感謝の意を示したい。何かないか、何か――。

 ふと、暗がりに咲いている花を見つけた。白いマーガレットの花だ。
 重女はそれをかがんで摘み、老人に差し出した。彼女なりの感謝の行動だ。

 「……これを、私にくれるのかい?」

 問いかけに重女はこくこく、と頷いた。男の人だから、花はダメだったろうか? でも私はこの国のお金をもっていないし、何も渡せるものがない。喜んでくれるといいのだけれど……
 老人は少しの間驚いていたようだが、やがて破顔一笑した。

 「そうか……この花をくれるとは……嬉しいよ「グレートヒェン」」

 またグレートヒェンと呼ばれた。人の名前だろうか。先程言っていた私に似ているという昔の知り合いの方の名前だろうか?

 首を傾げる重女を、鴉になっている黒蝿は面白そうに見上げた。
 実はグレートヒェンというのは、「マルガレーテ」という女性名の愛称である。マルガレーテというのは英語でマーガレットのこと。偶然であったが、重女はそれを知らず老人の「昔の知り合い」の名の花を差し出したのだ。

 がし、と老人は重女の手を握ってきた。いきなりの行動に重女は目を丸くした。二人の手の間でマーガレットの花が揺れる。

 「君……君は本当はグレートヒェンの生まれ変わりなんじゃないのかい? もしくは神がこの老いぼれに遣わせてくださった精霊か……」

 いきなり手を握られ切羽詰まった表情でまくしたてられ、重女は狼狽した。足元の黒蝿に通訳を目で催促したが、何やら面白がっている色がその目にあった。もう! なんなのよ!

 「君さえ良ければ、私と一緒に来てくれないか? 君をモデルにした作品を書きたい。怪しいものではないよ。こう見えて私はちょっとは名の知れた作家なんだ。私の名は――」

 鬼気迫る表情で手を離さない男に、重女は軽い恐怖すら感じていた。さっきまであんなに親切だったのに、一体何が――
 その時、人々が大きな歓声を上げた。それにつられ老人が顔を横に向ける。咄嗟に重女は手を離した。

 「おい、見ろ!」

 黒蝿がブロッケン山の方角を嘴で指した。重女も山の方を見る。
 無数の篝火に照らされたブロッケン山に、虹色の輪がかかっている。霞がかっていたその輪は次第に輪郭がはっきりとしてきて、色彩も鮮やかになってきている。さながらそれは仏の後光のように。
 「ブロッケン現象」というものだ。しかしおかしい。ブロッケン現象が起こるのは霧がかった朝方、もしくは昼や夕方に日光等の光を浴びて起こる。篝火があるとはいえ、こんな真夜中に、しかもあんなにくっきりと浮かび上がるのはどう考えてもおかしい。

 『魔女の宴が始まったのね』
 「ああ」

 そう言うと黒蝿は鴉の姿から人型に変化した。重女もポケットに入れてあった眼鏡をかけ、黒蝿から聖書型コンプを受け取った。先程と違い、二人の目には臨戦の炎が浮かんでいた。

 「グ、グレートヒェン!? 君は一体、何者なんだ?」

 人型に変化した黒蝿に驚き、わなわなと身体を震わせる老人に、『違う、私はグレートヒェンじゃない』と念波を送った。
 その声は耳から聞こえたのではなく、頭蓋骨を振動させ脳に直接届いた。しかもあどけない少女の姿とは不釣り合いな、低い「男」の声であったので、老人はますます混乱した。
 
 「鴉を従えおかしな妖術を使っている!? ま、まさか君は魔女なのか!?」

 重女は首元のリボンに触れた。老人が自分に贈ってくれた厚意のリボン。黒一色の自分を彩る真紅のリボン。その赤は今は闇に咲く徒花の色に思えた。

 『……そうよ、私は魔女。異形を従え、異形を討つ。人の理を越えたもの』

 ぶわ、と黒い男の翼がはためくと、辺りに烈風が巻き起こった。烈風は祭りの参加者や老人を吹き飛ばす。近くにあった木の幹にしがみ付きながら、風の中にあの少女の声を聴いた。

 『ありがとう。貴方のご親切は忘れません』

 激しい風が止むと、そこにはもう少女の姿はなかった。

 「グレートヒェン……」

 ぽつりと呟く老人の足元には、少女がくれたマルガレーテの花が一輪、落ちていた。
 時刻は深夜零時。魔女の宴――ヴァルプルギス・ナハトがいよいよ始まる。
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 時は大正時代。

 西洋文化が浸透し、人々の生活や政治が近代化され始めた時代、帝都――現在の東京には悪魔が出現しはじめていた。いや、悪魔や鬼といった人ならざるものの存在は遥か昔から存在が確認されている。そしてそれを祓う者も。
 その名は葛葉ライドウ。国家機関ヤタガラスから帝都守護を任されている悪魔召喚師、 由緒正しきデビルサマナーの十四代目である青年は、お目付け役の黒猫「ゴウト」も連れず馴染みの反物屋に訪れていた。
 任務ではない。ただ先日の悪魔退治にて外套が破れてしまったので、外套を新調するのと同時に、何反か着物を注文しようかと来たのである。
 絵草子から抜け出してきたかのような美青年のライドウが、暖簾をくぐり店に来た途端、看板娘は目を大きくし、「いらっしゃいまし」と普段より高い声を張り上げる。この光景はもう見慣れたものである。ただ、ライドウが気になったのは、看板娘の隣にいた背の高い男の存在だ。
 緑がかった黒髪を後ろで一つに束ね、紺色の着流しに身を包んだ青年。ライドウと同じくらい背が高く、年も近いと思われるその男は、一見すればただの町人といった風情だが、ライドウが気になったのは彼の纏っている空気である。

 ――この男、ただの人間ではない。

 悪魔召喚師としての勘、とでもいえばいいのだろうか。人ならざるモノに関わる者は、必ず普通の人間とは違う雰囲気を放つ。この男も上手く隠してはいるが、ライドウ程の実力者相手にはその「気」を全て誤魔化すのは不可能に近いことである。
 男は店で一番安い海老茶色の女物の着物を一反だけ買い、店を出ようとした。出入り口を通るとき、男とすれ違った。二人の視線が一瞬交錯する。男の切れ長の瞳の中に、ライドウはほの暗い光を見出した。
 やはりこの男、同業者か、あるいは――

 す、とライドウは懐から小さな紙切れを取り出し、それを去っていく男の背中に貼りつけた。魔力が籠った呪符である。これであの男の追尾が可能になった。
 同じ悪魔召喚師なら、帝都守護職であるライドウが顔を知らないわけがないし、向こうもライドウを知っているはずである。しかし男はこちらを見ても眉一つ動かさず挨拶もしてこなかった。ならばあいつはヤタガラスに属していないはぐれ召喚師か、あるいは人外のものか。
 男の暗い瞳を見たライドウは、後者の可能性が高いと感じた。なんの為に人間に擬態しているのか、まだ目的が分からないので、暫く男を泳がせることにした。人間に危害を加えようとすれば呪符が身体の動きを封ずるし、仲間のもとへ向かうのなら、巣を見つけて悪魔どもを一網打尽に出来る。今はあの男の動きを読む時だ。
 学帽の下の柳眉をしかめるライドウに、看板娘はただオロオロするだけであった。

―――

 帝都から離れた小さな村。昔ながらの藁ぶき屋根の民家が立ち並び、あちこちに梅の木が生えている。
春を迎え、青い梅の実がなり、甘酸っぱい匂いが風と一緒に流れてくる。
 その風を受けて、むしろの中で身を震わす二人の子供がいた。肩まで伸びたぼさぼさの黒髪に粗末な着物。そして同じ顔。この二人の男の子供は双子であった。
 二人は路地裏で身を寄せ合いながら震えていた。春とはいえまだ風は冷たい。冷たい風にのって届いた梅の香りを、二人はくんくんと嗅いだ。

 「いい匂いだね」
 「梅の香りだよ」
 「おっかさんの作ってくれた握り飯、いつも梅が入ってたね」
 「あれは美味しかったね」
 「また食べたいね」
 「食べたいよう」

 双子は、お腹を押さえながら小声で囁きあった。
 もう何日も食べ物を口にしていない。隣近所に物乞いをしても、貧しいのはどこも同じなので、皆見て見ぬふりで誰も食べ物を恵んでくれなかった。
 ほんのひと月前まで、二人は母と暮らしていた。貧しい生活だったが母が農家の手伝いをして、なんとか生活出来ていた。
  しかしある日、母が死んだ。きっと二人に魚を食べさせてやろうと釣りを試みたのであろう。数日降り続いた雨で増水した川に足を滑らせて落ちてしまい、溺れて死んだのだ。
 二人は母の帰りをずっと待った。しかしいくら待っても母は帰ってこない。そのうち住んでいた貸し家の大家が、母の死を知らせに来て、家賃が払えぬなら出て行けと幼い二人の子を追い出した。
 まだ八つにもならない二人は、どうやって生きていけばいいのか分からない。父もいなく、親戚もいない天涯孤独な幼子達は泣いた。しかしいくら泣いても助けてくれるものは現れなかった。
 誰も助けてくれない。でもどうしていいか分からない。二人は路上で拾ってきたむしろに包まりながら寒さをしのぎ、互いの身体を寄せ合い孤独を分かち合った。

 「おっかさん……」
 「助けて……」

 涙を流しながら既にいない母を呼んだ。しもやけで赤くなった小さな手を繋ぎ、二人は目を閉じた。瞼の裏が段々白くなる。もうすぐ、母の元にいける。梅の香りが一層強くなる。おっかさんが漬けてくれた梅干しの酸っぱい味を思い出し、口の中が溢れた唾で僅かに潤い、しかしそれすら飲み込めなく口の端からだらりと垂れる。
 その時だった。身体がふわり、と温かくなったと思うと、誰かに肩を揺すられた。
 二人はほんの少し目を開けた。そこには人がいた。その人は自分達を抱きしめてくれているようだ。
 キラキラ光るお日様みたいな金の髪。晴れたお空のような青い瞳。柔らかい手。女の人?

 「……誰?」
 「……外人さん?」

 その"外人さん"の女の人は、二人が言葉を発したのを聞いてほっと安心したように微笑んだ。眼鏡の奥のその笑みが亡き母に似ているように見え、この人は悪い人じゃない、と二人は感じた。
 女の人は両手を差し出した。その手の上には沢山の青梅。

 「……くれるの?」

 二人の問いに、女の人は頷いた。母が死んで初めて親切に接してくれる人が現れた。どうやら外人さんみたいだけど、この人はいい人だ。目の色も髪の色も違うけど、まるでおっかさんみたい。
 二人は梅をもらうと口の中に入れて咀嚼した。まだ熟していない青梅はとても苦かったが、二人は構わずばくばくと種まで食べた。
 その様子を見て、女の人――重女は、良かった、この子達を助けることが出来たと安堵の息を吐いた。

―――

 帝都では、葛葉ライドウが呪符の気の後を辿り、先程の男の行方を追っていた。
 まだそれ程遠くには行っていないようだ。他の悪魔の気配もない。男の歩いた道を辿っていくと、段々人気のないところへと向かっている。
 悪魔の根城にでも帰るつもりか。ライドウは腰の退魔刀の柄に手を触れながら呪符の気の後を辿った。
 気配が止まった。根城についたのか? ライドウは歩みを早め、とある裏路地についた。しかしそこに男の姿はなかった。あるのは呪符がついた紺の着流しだけ。着物だけが地面に落ちていた。

 「成る程、呪符に気付いたのか」

 相手もなかなかやる、と口許に笑みを浮かべ心の中で賞賛した。
 着物を脱ぎ捨て身なりを変えたのか、それとも何かしらの術で移動したのか。ライドウは男の気を探ろうとした。
 その時、頭上から視線を感じた。あいつか? ライドウはばっと鋭い視線を上へと向けた。
 そこには一羽の鴉がいた。普通の鴉より一回り大きく、足は三本ある。

 「八咫烏!?」

 馬鹿な、あの霊鳥がなぜここに? あの霊鳥は絶滅危惧種のはず。誰かが従えているのか? まさかあの男の真の姿なのか?
 どちらにせよ、これはヤタガラスに報告しなければならない。霊鳥・八咫烏を捕獲しようとライドウは召喚管を解き放とうとした。だがそれより早く、鴉は黒い風を伴い姿を消した。
 舌打ちしながらライドウは管から凶鳥・モー・ショボーを召喚した。

 「モー・ショボー! あの八咫烏の後を追え!」
 「わかったよ。あはは!」

 命令を受け、幼女の姿の凶鳥は空を飛び鴉の後を追った。
 ライドウは外套を翻し、走った。この事をゴウトと自分の所属している国家機関ヤタガラスに知らせる為に。

―――

 ぶわ、と風が重女の髪や服を揺らしたかと思うと、そこに自分の仲魔であるやたノ黒蝿が立っていた。
 その姿を見て重女は眉をひそめた。帝都(重女の知っている東京のことらしい)に向かったときは目立たないよう着物を着ていたのに、今は普段の山伏のような黒い法衣で、鴉のような兜もかぶっている。

 『着物、どうしたの?』
 「……厄介なやつに目をつけられた。そのせいで脱がざるをえなかった。恐らく、あいつも悪魔召喚師だな。しかもかなり強い……」

 悪魔召喚師。懐かしい響きだ。シドも確かそうだと言っていた。またしても座標がずれて元の世界に帰れなく、こんな昔の時代――恐らく大正時代――に来てしまったが、悪魔召喚師というのは大正時代にもあったのか。

 「俺の知っている限り、悪魔召喚師のような職業は平安時代から存在していた。ならこの時代にもいてもおかしくはないだろう」

 そういうと黒蝿は、買ってきた着物を重女に渡した。この格好では目立ちすぎるので、黒蝿がわざわざ帝都まで移動して買ってきたのだ。
 風呂敷をほどき、出てきた海老茶色の袷を見て、重女は少しがっかりした。

 『あんまり可愛くない』
 「文句をいうなよ。それを買う金だって調達するのに苦労したんだ。ぶつくさ言ってないでとっとと着ろ。追手が来るかもしれん」

 確かに贅沢は言ってられない。袷と一緒に帯と襦袢、下帯に上帯に帯どめもついていた。着物は初めて着るが、昔浴衣を着たことはあったのでそれと同じ要領で着れば大丈夫だろう。……多分。

 「お前、なんだか梅の香りがするな」

 黒蝿が顔を近づけ重女の匂いを嗅いだ。間近に端正な顔があったので、驚いた重女は思わずそっぽを向いた。顔が赤くなったのを見られただろうか。

 『……さっき、お腹を空かしている子供を見つけたの。男の双子だった。何か恵んであげたくても私何も持ってなかったから、そこの梅を沢山あげたの』

 少し誇らしげにそう言って、そこ、と指さした先には沢山の実をつけた梅の木が庭にある家屋。重女はあそこから影を操り梅を盗んできたのだろう。花泥棒ならぬ梅泥棒。しかし、そこの木の梅はまだ青梅である。

 「……お前、まさかとは思うが、青梅をやったんじゃないだろうな?」
 『? そうだけど? 梅酒を作るときは青梅を使うじゃない。近所のおばさんが作ってるの見たよ』
 「この馬鹿!!」

 怒鳴り声と共に重女は思いっきり引っぱたかれた。小柄な身体が地面に倒れ、眼鏡が顔から外れ地に転がる。
 何をする、と言い返したかったが、目の前の黒蝿の怒りの表情に圧倒されて念話を送れなかった。

 「青梅には毒があるんだぞ! 直接食ったら最悪死ぬ場合もある。……まあその子供もまさか青梅を口にしたとは思えんが……」

 そこまで聞いて、重女の顔は一気に青ざめた。青梅よりも真っ青に。

―――

 苦しい。苦しいよう。お腹が痛い。身体が動かないよう。

 双子が青梅を大量に食べてしまい、そのまま倒れてしまってどれくらいたっただろうか。
 ただでさえ暫くものを口にしていなく衰弱していたところに、毒性のある青梅を種ごと食べたのだ。毒の巡りは 通常より早く二人の身体を蝕み、ついに瀕死状態にまで陥った。

 僕たちこのまま死ぬのかな。死んじゃうのかな。そしたらお母さんに会える? きっと会えるよ。

 朦朧とする意識の中、二人は互いの手をとりあった。
 もっと生きたかったなあ。そうだね。周りは怖い人ばかりだよ。でもあの女の人みたく優しい人もきっといたよ。いたよねえ。僕たちのお母さんになってくれないかな? 駄目だよ、だって僕たち死んじゃうみたいだし……

 『そんなことない!』

 誰? お母さん?

 『ごめんなさい、青梅なんか食べさせちゃって本当にごめんなさい! 死なせないから。私が救って見せるから……!』

 あの女の人? 僕たちに梅をくれたお姉ちゃん? どうして頭の中で声がするの? お姉ちゃん、泣いてるの?
 
 するとその女の手が現れた。柔らかく細い、僕たちを抱きしめてくれた手。
 瀕死の双子は、そっとその手に己の手を乗せた。すると女の手は、双子の小さな手を闇の中から引っ張り上げ――

―――

 その頃、ライドウはモー・ショボーの連絡を受け、家の者が運転する車で黒猫のゴウトと共に帝都の外れの小さな村に来ていた。
 
 「ここに八咫烏が……」

 車から降りながらライドウはごちる。貧しい小さな村だ。今の世に、こんな村がまだあったなんて。
 貧しい他には、梅の木があちこち植えられている以外取り立てて目立つところはない。悪魔が跋扈している様子もない。何故、こんなところに八咫烏が現れたのか。何故、あのような男の姿に擬態し女物の着物を買っていたのか。
 とにかく、八咫烏は今や絶滅危惧種の霊鳥だ。捕獲して、その名を冠する組織――ライドウも所属している国家機関ヤタガラスに保護してもらうのが得策だろう。

 『ライドウ! あれを!』
 
 ゴウトに言われ、ライドウは一本の木に目を止めた。とても大きな古い樹木。樹齢は恐らく百年近いだろう。あそこから強い気を感じる。目を凝らして見れば、そこの空間が歪んでいる。そして人が立っていた。女と、幼子が二人。なんだあいつらは? 女の方は不思議な形のズボンと身体の線がわかる上着を着用しており、眼鏡をかけている。足元には、狸の耳と尻尾を持つ同じ顔の子供が二人。そして肩には三本足の鴉――

 「八咫烏!? おい、女!」

 ライドウが叫ぶと、女はびくっと肩を震わせ、こちらを見た。金髪と青い瞳も目立っていたが、頬が殴られたかのように腫れていたのも妙に印象的だった。

 女――重女は謎の青年に怒鳴られ、その瞬間にアマラ経絡を閉じかけてしまいそうになった。だが鴉に姿を変えた黒蝿につつかれ、重女は急いで黒蝿と、紅梅白梅童子と名付け悪魔合体させ蘇らせた双子と共に、アマラ経絡へと飛び込んだ。

―――

 ライドウとゴウトが八咫烏を捕まえるより早く、アマラ経絡は閉じてしまった。
 樹木の幹に手を当ててみる。しかしもう霊道は消滅してしまい、娘も、八咫烏の姿もない。

 「何者だったんだ? あの娘は……」
 『俺にもわからん。だが、この事はヤタガラスに告げなくてはな』

 異相の娘が絶滅危惧種の八咫烏を従え、謎の失踪をとげた。この俺をまいて。
 とにかく、この事はゴウトの言う通りヤタガラスに報告せねばならない。帝都に戻らねば。十四代目葛葉ライドウは帝都守護職の悪魔召喚師。帝都とそこに住まう人々を守らねば。そのために僅かな違和感さえも解明せねばならない。

 家人の運転する車に乗ろうとしたとき、ライドウの頬を風がくすぐった。あの八咫烏が纏っていた黒い風にも似たそれは、甘酸っぱい梅の香りを、ライドウの鼻腔に届けた。


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 その男は、「猿」と呼ばれていた。

 赤ら顔で背丈が高く、どこか愛嬌のある猿を感じさせる顔立ちから、彼を拾った親分が名付けた渾名であった。
 親分は鉄火場を束ねるやくざの元締めである。
 「猿」と名付けられた男は、何時しか博徒となり、鉄火場の用心棒を勤める事となった。
 郷里から上京し、奉公先で一悶着起こし追い出され、金もなくふらついていた彼を拾ってくれたのが親分である。
 自分が金を稼がないと、妹達が腹を空かせてしまう――猿はすぐに親分の鉄火場で用心棒として働く事にした。
 堅気な仕事ではないが、用心棒は自分の荒い気性にあっていた。イカサマをする客を見つければ制裁を加え、言いがかりをつけて来た時には、屈強な男数人相手に大立ち回りを演じたものだ。
 それで親分から渡される賃金を故郷の妹達に送ってやる――猿の生活はなかなか充実していた。あの日が来るまでは。

 ―――

 「親分! 怪しい奴を捕まえて来ました!」

 ある日、鉄火場に舎弟の一人が血相を変えて入ってきた。脇に縄で縛った「何か」を抱えながら。
 その「何か」を床に転がす。「何か」は人間の子供であった。

 いや、これは本当に人間なのだろうか?

 子供は金色の髪と青い目を持った、恐らく女の子供。もう少女と呼べる年齢だろうか。
 着ている着物も妙だった。小袖でも着流しでもない。上衣は黒の身体の線が分かる首もとまで隠れる妙なもので、下衣は袴に似ているが、それより足の線が分かる形状をしており、どれも猿が見たこともない着物であった。

 ――異人の子。

 ふと猿の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
 先日、「黒船」と呼ばれる遠い異国からの船が浦賀沖に辿りついたとの噂を耳にした。
 しかし猿は今まで異国人を見たことはない。長崎の出島にでもいけば阿蘭陀人には会えるであろうが、江戸の片隅で鉄火場を細々と営んでいる猿達には異人などとは縁はなかった。
 だが異人の容貌は浮世絵で何度か拝見したことがあるので知っている。赤ら顔に長い鼻、黒ではなく金の髪。色素の薄い瞳。
 しかし床に転がされている娘は、瞳と髪の色と奇妙な服装を除けば、よく見れば市井の年頃の娘と変わらぬ顔立ちであった。異人とのあいのこなのだろうか。
 猿と娘の視線が交錯した。ふとその瞳の青が故郷の空の色を、大きな瞳は痩せた妹を思い起こした。

 「縄張りを歩いていたらいきなり空から降ってきたんですよこの娘。気づくのが遅れたら頭からぺしゃんこだったですぜ」
 「空から? ならこの娘は物の怪か!」
 「ああそうに違いねえ! 異人でもこんな服は着ていねえし、おまけにこの娘ときたら今まで一度も喋ってねえ」
 「親分、どうしますかい? 物の怪でも異人でも女には違いねえ。二束三文にしかならないが、女郎屋にでも売り飛ばしてしまいますかい?」

 うむ、と親分と呼ばれた厳つい男は、無精ひげの目立つ顎をさすりながら思案に耽る。娘は怒ったようにじっとこちらを見ている。
 猿には妹の他に、昔姉がいた。その姉はある日女衒に手を引かれ、村から出ていき、そして二度と帰ってこなかった。
 姉が廓に売られ、病で亡くなったと知ったのは猿が十二の時だ。そのまま今度は妹が売られそうになったところを、猿は必死に止めた。妹を連れて行かないでくれ。代わりに俺が江戸に奉公に出て沢山稼ぐから、と。
 にいちゃ、と縋り付いてきた妹の顔と、目の前の娘の顔が重なる。

 「親分、ちょいとまってくだせえ」

 猿は思わず横にいた親分に声をかけた。ぎろり、と眼光鋭い視線を受けたが、萎えそうになる膝に力を入れて言葉を続けた。

 「この娘、もしかしたらあの黒船と関係あるかもしれません。黒船の異人たちはお上となにやら談合を繰り返していると聞きますし、もしこの娘が黒船の関係者で、女郎屋に売り飛ばしたとお偉方に知られたら面倒なことになりやすぜ」

 お上、お偉方と聞き親分だけでなく手下達まで顔色を変えた。賭博を生業とする者達は皆脛に傷を持つ身である。奉行所に目をつけられるのだけは避けたい、と皆思っている。

 親分は思案の末、娘の処分を明日へと持ち越した。娘はそのまま牢へ放り込まれた。
 イカサマを働いたやつや賭場を潰そうと襲ってきた他所の組のものや、縄張りを荒らしたものを折檻するための牢だ。石の壁には幾つもの血痕が飛び散っており、隅の方には箒尻等の拷問道具が鎮座している。まだあどけない年の娘を入れるには酷だと猿は思ったが、親分の命令には逆らえない。
 案の定、牢に入れられた娘の瞳には怯えの色が伺える。

 「……お前さん、ほんとに物の怪なのかい?」

 膝を抱え隅に蹲る娘に猿は話しかける。郷里の妹とどうしても重ねてしまい、哀れに思いあのような提案をしてしまった。これですぐさま女郎屋に売られるというのは避けられたが、ずっと此処にいてはそれも時間の問題だろう。

 「…………」

 娘は顔を上げ、ゆっくりと首を横に振った。

 「なら、やはり異人さんかい?」

 そう問われ、娘は今度はほんの少し顔を俯け、微かに首を縦に振った。泣きそうな表情であった。

 「だとしたらやはり阿蘭陀人とのあいのこかい? なんでここらをうろついていた? しかもそんな妙な格好をして、さらってくれっていってるようなもんだぜ」
 「………」

 相変わらず娘は黙ったままだった。
 もしかしたら言葉が通じないのか、と一瞬思ったが、先程の問いかけには反応していた。とすると言葉が通じないのでも耳が聞こえないのでもなく、ただ単に喋れないだけなのか。
 娘の纏っている不思議な雰囲気は、異国の人間というだけではなく、声を失うほどの辛い体験をしたからか。

 「そうだ、お前さん、丁半は知ってるかい?」

 懐から賽子と小さな壺をとりだした猿に、娘は目を大きくした。どうやら興味をしめしてくれたようだ。

「簡単に言うとな、二つの賽子をこの壺の中に入れて振って、その和を当てるんだ。賽子の和が偶数なら丁、奇数なら半だ。算術はわかるか?」

 こく、と頷く娘。中盆ほど壺の扱いは上手くないが、娘との勝負なら自分の腕でも十分だ。
 猿は地面に線を引く。そしてそれぞれの陣に「丁」「半」と書く。
 そして猿は賽子を素早く壺に入れると、そのまま地面に着け軽く二回振る。珍しいものを見るように、格子を掴んで娘はその様子を凝視する。

 「俺と勝負しようじゃないか。こいつで俺に勝てたら、お前をここから出してやるよ」

 娘が驚いた顔をした。そんな娘に猿は笑いかける。
ただの用心棒でしかない自分が、親分に了承もなく勝手に娘を逃がすなんてとんでもないことだ。私刑はまぬがれなく、最悪殺されるかもしれない。
 だが娘と妹を重ねてしまった猿にとっては、この娘が女郎屋に売られていくなど我慢できなかった。例え物の怪だろうが異人の子だろうが。
 猿は地面から小石を拾い娘に渡す。

 「この石がコマ札の代わりだ。丁か半、思うところに置いてくれ」

 娘は石をじっと見つめ、壺を見つめた。そして石を地面に書かれた「丁」の陣地に置く。

 「丁、だな。よし、壺を開けるぞ」

 猿も娘も息を飲み、壺から現れた賽子を見つめる。賽子の数字は……一と一。ピンゾロの「丁」だ。

―――

 結局、猿は娘に負けた。あの後三回程勝負をし、その全てで娘は勝った。

 手心は加えていない。最初の一回こそまぐれかと思ったが、そのあと立て続けに娘は当てた。イカサマはなかったはずだ。娘は格子の向こうにいたし、イカサマなどできるはずはない。
 そして約束通り、猿は娘を牢から逃がした。
 渋る娘の背を強引に押し、娘を見送った後、異変に気が付いた三下に親分の前へ引きずられ、裏切りとして鉄火場の皆に手ひどい制裁を受けた。
 全身に酷い痣や傷をつけられ、意識が朦朧とするなか、親分が衝撃の一言を放った。

 「お前、大方あの娘が郷里の妹のようで哀れに思ったんだろ? だが残念だったな。お前の妹も母親も、別の組の女衒が女郎屋に売り飛ばしたって聞いたぜ。しかも借金を返す間もなく二人とも首くくっておっちんじまったらしい。もうお前の守ろうとしていた可愛い妹と母はこの世にいなかったってわけだ」

 呵呵大笑する親分に、猿は渾身の頭突きをくらわした。だが手負いの身では大した傷を負わせられなく、逆に手下どもに更に手酷く暴行を受けるはめになった。

 そして簀巻きにされ川に流され、こうして今、下流の行き止まりで生死の境を彷徨っているわけである。

 (俺がやってきたことは……全部無駄だったんだな……)

 全身の熱が引いていき、身体の感覚はもうない。殴られすぎて腫れた瞼のせいで狭い視界が、更に白く染まっていく。
 これが俺の最後か……。猿は観念した。やくざの用心棒として数々の悪事に手を染めてきた。そんな罪深い俺に相応しい最後だ。

 バサバサと音がし、大きな鴉が猿を見下ろしている。おいおい、もう死肉をあさりにきたってわけかい? 待ってくれよ。もう少しであの世にいくからさ……

 すると鴉は大きく膨れ上がったかと思うと、人間の男の姿へと変貌した。なんだ、最後に見る夢にしてはおかしな夢だな。

 「ほんとにこいつを助けるのか?」

 鴉のような男が言う。その言葉と同時に猿の視界にもう一人入ってきた。結いもしないで無造作に肩まで垂れ流している金髪。青い瞳。間違いない。自分が牢から逃がしてやったあの不思議な少女だ。

 「…………」
 「! ……お前それは本気か!?」

 こくりと少女が頷く。なんだ、なんの話をしているんだ。
 鴉のような男は、尚も少女に向かって何かを怒鳴りづけていたが、少女は一言も発さない。なのに二人の間には意思の疎通ができているみたいだ。なぜだろう。

 暫くして少女は男を押しのけ、なにか分厚い本のようなものを開いた。するとそこから光が発し、瀕死の猿を包み込んだと思うと――。

―――

 「し、信じらんねえ……! こんなことが……!」

 猿は、いや、猿と呼ばれていた人間「だった」男は、自分の身体を見て言葉を失った。
 少女の作動した悪魔合体プログラムによって、既にコンプ内に貯蔵していた魔獣・ショウジョウと合体させられた男は、まさに渾名のとおり大柄な猿の身体へと変化していた。

 『……本当は、もっと人間に近い形で生き返ると思ったんだけど……』
 「そういう問題じゃないだろう!」

 黒づくめの男の怒鳴り声が耳から入ってくるのに対し、異相の少女の声は直接脳内に響く。この不可思議さと己の身体に起こった変化が、どちらも少女が引き起こしたらしいというのがかろうじてわかった。

 「お、お前さん……お前さんはやっぱり、物の怪だったのかい?」

 黒い男と怒鳴りあっていた少女が、やっと猿の方を向く。そしてふっと笑った。猿にはそれが自嘲の笑みに見えた。

 『いえ、人間よ。でも、半分物の怪かもしれない……』

 答えながら少女は眼鏡をかけた。随分不思議な形の眼鏡だ。猿がみたこともない形状だ。
 次に少女は右手を開いた。そこには二つの黒い賽子があった。

 『勝負しましょう』

 目をぱちくりする猿に少女はそう問いかけた。そして地面に放られていた欠けた茶碗を拾い、中に賽子を入れそのまま地面に茶碗を押し付ける。

 『貴方が勝ったら私達は貴方の仲間になる。言うことをなんでも聞いたげる。そのかわり私が勝ったら、私の"仲魔"になって。私の目的のために力を貸して』

 背後で控えていた黒い男は、何を勝手に決めていると怒ったが、少女も猿も無視した。丁か、半か、まさに運命を決める賭けである。

 「俺はピンゾロの丁だ」

 猿が言った。牢での賭けで、少女が最初に当てた数字であったからだ。

 『じゃあ私は半。開けるよ』

 少女の白い手が茶碗を持ち上げた。そこにあった賽子の和は……一と二。イチニの「半」である。

 「はは……また負けちまったな」

 負けたというのに猿の顔には悲壮感はなかった。それどころかどこかすっきりとした様子である。賭けに負けたことも、自分が正真正銘の「猿」の姿に変えられたことも、少女と出会ったことも、全て実は運命だったのではないかと悟った。

 『これで私と貴方は仲魔だね。宜しく』

 猿は居住まいを正し、少女に向かって深々と礼をした。

 「いいでしょう、元々死ぬはずだった身だ。この命、姐さんにあずけまさあ」

 腰をかがめ、右手を前に出し、猿は忠誠を誓った。少女は頷く。黒い男は相変わらず険しい顔をしていた。

 「そういえば、姐さんの名前はなんていうんで?」
 『私は、重女。偽名なんだけどね』
 「偽名? なぜ?」

 ちらりと少女、いや重女は後ろを振り返り黒い男を見つめた。成る程。あの鴉のような男が関係しているのか。

 『それから、こいつの名前は……』
 「やたノ黒蝿。偽名だ」

 黒い男、いややたノ黒蝿はそう言い捨てた。重女を睨みながら。
 どうやらこの二人はただの仲間同士というわけではないようだ。

 「もう行くぞ。ただでさえ座標軸の数値がずれてこんな時代にきてしまったんだ。とっととアマラ経絡を造り次こそはあいつのところへ行くぞ」
 『うん』
 「東の方に強い力を感じる。恐らくそこに行けばアマラ経絡を造るためのエネルギーが確保できる」

 黒蝿が黒い翼をはためかせ、強烈な風を起こす。その風に包まれ重女と、後に石猿田衛門と名付けられる魔獣は、川辺から姿を消した。
 風に運ばれながら、重女は先程の賭けで使った黒い賽子を、田衛門に見られないようそっと握りつぶした。影の造形魔法で作った、それぞれの全ての面に一と二しかない、イカサマ用の賽子を潰し、その賽子は影となって消えた。

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 ズウ……ン

 轟音が響き、広く、巨大な天使の繭が揺れた。その振動は、四大天使の巨躯にすら響く。

 「今のは……?」

 ガブリエルが呟く。そしてすぐ後にまたも振動が響く。先程よりもっと激しい。そしてそれは連続して起こる。
何者かがまたしても繭を攻撃しているのだ。
 またあの悪魔だろうか。やれやれというように四体は目を合わせた。全く悪魔には学習能力がないのか。たった一匹でこの繭を壊し、我らを殺せるとでも?
 その時、ドオン! という爆発音が聞こえた。一つではない、その音は四方八方から聞こえてきて、繭を先程より激しく揺らした。
 何が起きている? これはあの悪魔一匹の仕業なのか?  
 いや、違う。この繭に攻撃を仕掛けているのはあいつだけではない。これは、複数の人間によるものだ。

 「アキュラ王……!」

―――

 「駄目です! 傷一つつきません!」 
 
 繭の外にて。爆薬を仕掛け、爆発させたサムライ衆から失敗の報告があがる。
 
 「やはり駄目か……!」 
 
 アキュラ王ことアキラは悔しそうにごちる。
 めいいっぱいの火薬を集め、大規模な爆発を数回発生させたが、大天使の繭には傷一つつけられない。物理攻撃では効かないらしい。と、なると、後は魔法による攻撃を試すしかない。

 「おい、悪魔」

 アキラは後ろにいる黒蝿に呼びかけた。黒蝿はゆっくり視線をアキラの方へ向ける。
 
 「お前が繭に穴を空けた時、どんな手段を使ったんだ?」

 アキラの問いかけに、傍にいた獅子丸は僅かに眉をひそめた。アキラは、この悪魔の言うことを信じるのだろうか。
 目的が一致したとはいえ、獅子丸はどうもこのやたノ黒蝿と名乗る悪魔が信用できなかった。アキラに危害を加えたり、何か不穏な動きを見せたらすぐに対処出来るよう、獅子丸の右手は常に刀の柄を掴んでいた。

 「……繭の天辺」
 「あん?」
 「恐らく繭の天辺は、他と比べて壁が薄い。俺はそこを何度も攻撃してやっと穴を空けることに成功した」

 もっとも、その開けた穴からあいつが吸い込まれてしまったんだがな、と黒蝿は口に出さず胸中で呟く。

 「そうか、天辺か……」

 アキラは顎に手を当て暫し考えると、顔をあげ、「皆のもの!」と声を張り上げた。

 「繭の天辺付近を、魔法を使い一斉に攻撃しろ!」

 応!! とサムライ衆は、太く大きな声で応じる。獅子丸と牛頭丸も命を受け、攻撃の構えをとる。

 「悪魔、お前も協力してくれ」

 ぴくり、と黒蝿の片眉が上がる。獅子丸と牛頭丸も思わずアキラの方を振り向く。

 「アキラ、なにもこんな悪魔の力を借りずとも我らだけで……」
 「今は少しでも戦力が欲しい。細かいことにこだわってる場合じゃないだろう」
 「しかし……」

 獅子丸は黒蝿を軽く睨んだ。アキラはこの悪魔を信用しすぎじゃないか? こいつが裏切らないという保証はどこにもないというのに。
 睨まれた黒蝿は、薄笑いを浮かべている。そして面白そうにアキラに問うた。

 「いいのか? 俺を信じて? そいつはどうやら俺を疑ってるみたいだぞ」
 「………」

 アキラは黒蝿の暗い瞳を見つめ返した。重女と同じ青い瞳。その青い瞳が黒蝿の真意を探るかのようにじっと見つめてくる。

 「お前は、姉ちゃんの仲魔なんだろう?」

 見つめたままアキラがきっぱりという。黒蝿の目が大きくなる。

 「どんな過程があったにしろ、こいつが姉ちゃんの仲魔だっていうのは事実だ。仲魔は主人を助けるものだろう? それに……」

 そこでアキラは言葉を切る。視線を黒蝿から逸らし、言いにくそうに続ける。

 「……お前だけが姉ちゃんの本当の名前を知っている。僕はもう姉ちゃんの名前を呼ぶことが出来ない。なら、お前が名を呼べば姉ちゃんは応えるだろう」

 ぎゅ、とアキラは拳を握った。悔しいし認めたくないが、この悪魔の方が姉のことを自分よりよく知っている。姉もきっとこいつのことを悪く思っていないだろう。それは、こいつを庇って繭の中へ吸い込まれた事から推測できる。
 そして恐らく四大天使に逆らった自分はただでは済まないだろう。この国から追放されるならまだいい。でもそれだけではないだろう。相手は巨大な力を持つ大天使だ。姉を奪還できたとしてもこの身が無事でいられるかどうか危うい。最悪死ぬかもしれない。
なら――

 「やたノ黒蝿、もし僕が死んだら……その時はお前が姉ちゃんを守ってくれ」

 黒蝿のみならず、耳を傾けていた獅子丸と牛頭丸も絶句する。気は確かか? と問う視線に答えるかのように、アキラは真っ直ぐに黒蝿を見つめる。その瞳は決して冗談を言っているわけではないと語っていた。
 
 「お前を見込んで頼んでいるんだ。だから……」
 「嫌だね」

 アキラの言葉を遮ってぴしゃりと黒蝿が言い捨てた。

 「もうあいつのお守は沢山だ。お前はあいつの弟だろう? なら何が何でも生き延びて、あいつの傍にいてやれ」

 言い終わると、黒蝿は背に黒い翼をだし、ぐいっとアキラを脇に抱え飛び出した。小柄な少年の身体が宙に浮く。

 「お、おい!?」
 「貴様! アキュラ王をどこに連れていく!?」

 成り行きを茫然と見ていた獅子丸が慌てて声を掛ける。空中で静止したまま黒蝿は大柄な神獣を一瞥する。

 「この繭を壊すんだろう? なら天辺を至近距離で攻撃したほうが破壊しやすい。行くぞ」

 そのまま黒蝿はアキラの両脇に手を入れて抱え、繭の天辺へと飛ぶ。重女によく似たアキラの横顔を見ながら、黒蝿はそっとため息をついた。

 全く、この姉弟は無茶なことばかりいいやがる!

―――

 大天使の繭の周りは、サムライ衆がそれぞれ配置についていた。アギ班とブフ班、ジオ班にザン班の四つの班に分かれ、雷王獅子丸と八坂牛頭丸も攻撃の構えをとる。
 空からは黒蝿とアキラが繭の天辺を至近距離から攻撃する手筈を整えていた。

 「みんな、配置についたな? これからカウントダウンにあわせてここに集中攻撃をしかける!」

 繭の天辺から地上のサムライ衆に聞こえるよう、大声でアキラは指示を出す。

 「キヨハルさん、頼んだよ!」
 「まかせて! カウントダウンを開始するよ! 10、9、8、7……」

 キヨハルが秒読みを始めると、辺りの空気が変化し、木々の葉が揺れる。それはサムライ衆達の熱気であり、マグネタイトを練る微細な振動のせいであった。

 「6、5、4……」

 黒蝿の周りに激しい風が起き、アキラの手に熱された空気の塊が生まれる。ごくり、とアキラは唾を飲んだ。

 「3、2、1……今だ!」

 合図と同時に、アギの火炎が、ブフの氷が、ジオの電撃が、ザンの衝撃波が一斉に繭の天辺めがけて発せられる。
 アキラもアギダインを放つ。黒蝿のザンダインによって威力が格段に増した炎は、サムライ衆の攻撃と共に大天使の繭へ大ダメージを与える。凄まじい轟音が鼓膜を揺らし、物凄い攻撃の余波によって、アキラは繭の天辺から吹き飛ばされる。が、その身体を黒蝿がキャッチした。
 砂埃がさると、繭の天辺には大きな穴が空いていた。アキラは黒蝿の手から離れ穴の近くへと降りると、刀を抜き、穴へと切っ先を向け大声をあげた。

 「突入!!」

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 「姉ちゃん、お待たせ」

 小学校の校舎からアキラが出てくる。走る度にランドセルがガシャガシャと揺れる。
 私はその姿を見て手を振り微笑む。アキラの小さな手が私の手を掴む。

 「今日は学校で何したの?」
 「図工の時間に姉ちゃんとお母さんの絵を描いたよ! 見て!」

 アキラがランドセルから一枚の画用紙を取り出す。そこにはお母さんと私とアキラが手を繋いで笑っている絵がクレヨンで描かれていた。

 「上手だね」
 「本当?」
 「うん、アキラは将来絵描きになれるよ」

 へへ、とアキラがはにかむ。私はその柔らかそうな金髪を撫でて笑みを浮かべる。そして手を引いて二人家路を急いだ。

 「おかえり」

 アパートのドアを開けると、エプロン姿の母が出迎えてくれた。いい匂いが台所の鍋から漂ってきた。今日のご飯はカレーだろうか。

 「ほら、二人とも手を洗って」

 母に言われる通りに手を洗い、卓袱台をだしてアキラと二人席に付く。卓袱台に三人分のカレーの皿と、それから大きなケーキが置かれた。
 目をぱちくりさせている私をよそに、母とアキラはケーキの蝋燭に火をつける。部屋の灯りが消され、蝋燭の火が母達を照らす。

 「お誕生日おめでとう、姉ちゃん!」

 にっこり笑うアキラと母を前に、私の目が一段と大きくなる。
 そうか、今日は誕生日か。すっかり忘れていた。今日で私は幾つになるんだっけ?

 ――あれ?

 「ほら、姉ちゃん蝋燭の火を消してよお」

 アキラに急かされ、私は思いっきり息を吸い、そして吐いて蝋燭の火を消す。パチパチパチ、と母とアキラが拍手してくれた。

 「おめでとう、■■■姉ちゃん!」
 「■■■もすっかり大きくなっちゃって」

 にこやかに話しかけてくるアキラと母、その会話の中に私の名前が出てきた。しかし私はその名前を認識する事が出来ない。そして、

 ――私も自分の名がわからない――!

 「姉ちゃん、どうしたの?」

 頭を押さえ、目をキョロキョロさせている私に、アキラは三等分したケーキを皿に盛り、目の前に置く。甘い生クリームと苺の甘酸っぱい匂いが感じられ、思わずごくりと唾を飲み込む。

 ――アキラ、あなたは東のミカド国の王になったのではないの?

 優しい笑みを浮かべながらカレーを取り分ける母。
 ――お母さん、お母さんが料理するなんて珍しいね。普段は台所に滅多に立たないのに。

 少女は思わず立ち上がり、後ずさった。

 ――何かが変だ。何が、と言われれば答えようがないが、不自然なのだ。料理を作ってくれる母も、満面の笑みを浮かべているアキラも、今まで誕生日等祝われた事のないのに今年に限ってお祝い、だなんて。

 そして一番変なのは――

 「姉ちゃん?」
 「どうしたの? ■■■?」

 不安そうに近づいてくるアキラと母を私は手で制した。

 「違う……あなた達はアキラとお母さんじゃない」
 「な、何言ってるのよ?」
 「私のお母さんは交通事故でとうに亡くなった」

 母が事故に合う前の自分の暴言を思い出し、私の胸は刃物で傷つけられたようにズキズキと痛む。

 「それにアキラ、あなたは別世界で国を造り、アキュラ王を名乗ったはず。そんな子供の姿のままなわけがない」
 「……姉ちゃん」

 アキラがきょとんと不思議そうな顔をする。

 「そして、一番おかしいのは……」

 両の拳を握りしめ、母とアキラ二人の顔を見つめ、さらに二人の背後を睨む。

 「私が、こんな風に声を出して喋れるわけがない――!」

―――

 自分の怒鳴り声で、重女は目が覚めた。

 目を開けた視界は白かった。不思議な場所だ。その空間はとても大きな球形であった。空間が僅かに発光している。“ターミナル”での人工的な冷たい光ではない。ほんのりと穏やか光っている。優しいと呼べる程度に。

 重女は上体を起こして軽く頭を振り、先程までの記憶を思い出していた。

 森の中で黒蝿に“別れ”を告げられ影の紐で縛られたこと、やっと紐から逃れたと思ったら、今度は黒蝿が天使の繭に攻撃を仕掛けているのが見えた。
 私は急いで彼の元に走って、そうしたら黒蝿が繭に引きずりこまれそうになってたから、私は思いっきり彼の手を引いて、それから……

 「やっと目が覚めましたか」

 頭上から声がした。男でも女でもない不思議な声。
 視線を上にずらす。其処には四体の白を基調とした異形の生物が立っていた。

 「あ……あなた達は……?」

 あまりの姿に、喉が震え声がでた。重女ははっとして首を押さえる。
 おかしい。私は黒蝿に声を奪われたはず。なのに何故声が出せる――!?

 「此処では悪魔の力は消えます。だから貴女の喉は元通りになりましたよ」

 白い物体の一つが重女に話しかける。その声音はとても優しく、まるで教師が教え子を諭すようであった。
 しかし重女は眉を寄せて警戒の色を顔に滲ませる。この異形の者達は何者なのだろうか。私の声をいとも簡単に戻した。確か此処は――

 「此処は我ら四大天使の繭。私はミカエル」
 「我はウリエル」
 「私はガブリエル」
 「私はラファエルです」

 四大天使は重女に向かって自己紹介をした。重女は警戒の態勢を崩さない。その様子を見てガブリエルはくすりと笑った、ように見えた。

 「安心してください。私たちは貴女に危害を加えるつもりはありません」
 「なにせアキュラ王の実姉ですから」
 「そう、私たちの可愛い手駒の」

 手駒、と聞いて重女の肩がピクリと震える。手駒? それってまさかアキラのこと?

 「それ、は……アキラの、ことを、言ってるの?」

 久しぶりに声を出したせいか、酷くたどたどしい発音であった。だが、そんなことに構わず四大天使は続ける。

 「そう。彼はよくやってくれました。私たちの夢の実現のために」
 「夢の……実現? それ、は……「神の千年王国」のこと?」
 「勿論それもあります。ですが私たちの夢はもっと高いところにあります」

 夢? この者達はまだ何かを企んでいるのか? アキラにこんな国を造らせたに飽き足らず、この上にまだ何か――

 「私たちの最終目標は……」
  
 ガブリエルがまたしても笑った。しかしその笑みは先ほどより歪んだ形に重女には見えた。

 「アキュラ王と合体し、神の戦車熾天使メルカバーになることです」

―――

 「!!」

 重女は絶句した。自由に声が出せるようになったはずの喉がまたしても声を失ったかのようだった。

 「彼は素晴らしい逸材です。素質、我らへの信仰心共に申し分ない。彼こそ、我らが長い間探していた人の子」
 「彼と我らが合体すれば、我らはメルカバーに進化することが出来る! ああ、長年望んでいた神の戦車にやっと……」
 「貴方たちと合体すると、アキラはどうなるの?」

 重女の全身の筋肉が強張った。四大天使への言葉も、僅かに緊張の色が混じっている。

 「もちろん、彼は殉教者としてその存在が消滅します」
 「!!」

 さも当たり前のようにミカエルが言った。ざわり、と重女の全身の毛が逆立った。

 「彼も光栄に思うでしょう。我らと合体することによって、更に次元の高い存在へと生まれ変われるのですから」
 「我らの願いならば、彼は受け入れるはずです。彼は幼いころから我らを慕っていた。信仰する我らと共になれるなら、これ以上の名誉は――」

 その時だった。
 重女の影が急激に膨らみ始めた。そしてその影が四大天使へと襲い掛かる。
 四大天使は軽々と影の攻撃をかわした。天使たちは驚いて重女の方を見る。

 「あの子を……誑かして利用したわね!!」

 絶叫と共に、影が鋭利な触手となり四大天使を突き刺そうとする。その勢いは、広く大きな繭を揺らすほどであった。
 ウリエルがハマのバリアを張り、影の攻撃を無効化する。しかし重女は攻撃をやめない。巨大な影を背負ったその少女の姿は、まるで黒翼を広げた悪魔のようだ。

 「何を怒っているのです? これは名誉なことなのですよ?」
 「我らを敬い、信仰していた彼なら、きっと喜んで殉教するはず――」

 ラファエルが言い終わる前に、再び無数の影が天使達を串刺しにせんと蠢く。影が天使の手によって消されても、攻撃の手を止めない。重女の顔は怒りに歪んでいた。

 「あの子を、消滅なんてさせない!」

 影はまるで無数の刃物のように四大天使に向かう。しかし大天使の身体には傷一つつけられない。

 「貴方たちの思い通りには、させない!!」

 怒りの声をあげながら、重女は影を操作し攻撃する。その姿に四大天使達は落胆の声をあげる。

 「やれやれ、彼女は随分と穢れているようだ」
 「どうやら悪魔と取引をしたようね。大分悪魔の力に染まっているわ」
 「ああ汚らわしい。ケガレビトだわ」
 「これは早く“浄化”しなければ」

 ガブリエルの瞳が光った。その光を受け、影は全て消滅し、そして重女の身体は硬直した。

 「!?」

 重女の視界が白く染まった。強烈な、暴力的な天使の光によって。
 そして目から入ったその光は重女の全身を内側から焼く。脳髄を、内臓を、記憶まで“浄化”せんと激しく動く。
 あまりの衝撃に、重女の目が限界まで見開かれ、身体は電流を流されたかのように海老反りになる。
 抵抗しようとしても、指一本動かせない。身体と精神を天使の光が支配していく。

 「怯えることはありません。これは浄化の儀式です」
 「浄化が終われば、貴女の中からは悪魔の力は消えます。そうすれば、アキュラ王のように我らのことを理解できるでしょう」

 薄れゆく意識の中で、重女は必死に抗った。そして今まで出会った大事な人達の顔を頭に浮かべる。アキラ、お母さん、京子、シド先生、そして――

 ――黒蝿

 脳裏に浮かぶその姿に、重女は手を伸ばす。だが天使の光は重女の記憶を徐々に白く染め、“浄化”という名の暴力は、一人の少女の身体と精神を蝕んでいった。
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 「発信器?」

 雷王獅子丸が眉を寄せながらキヨハルに言う。問われたキヨハルはひひ、と笑って見せた。

 「そ。あの子の眼鏡には発信器と盗聴器が備わっている。こんな事もあろうかと仕込んでおいて正解だったよ」

 にやにやと笑いながらキヨハルはヘッドホンを耳に当て、機械のつまみをいじっている。恐らく発信器と盗聴器の為の機械だろう。
 キヨハルの用意周到、もとい悪趣味な仕掛けに獅子丸は溜め息を吐いた。

 「……それで? あの娘の場所はわかったのか?」
 「うん、ちょっと待って。今確かめてるから」

 キヨハルが機械のボタンを押したりつまみを調整すると、やがてモニター上に赤い点が現れた。重女の位置をしめしているのだろう。

 「……うん? おかしいぞ、何故こんな所に……」
 「なんだ、どうした?」

 獅子丸の問いに、キヨハルは首を捻った。その顔には困惑の色が伺える。

 「おかしい……あの子の位置は、大天使の繭だ。近くではない、この位置は……繭の内部だ!」
 「なんだと!?」

 獅子丸は鋭い目を見開いた。そして後ろにいるはずの主に声をかけようとした。
 しかし後ろに獅子丸の主――アキラは既にいなかった。アキラは重女の跡を追い、とっくに森の方に走って行ったのだから。

―――

 アキラはサムライ衆を率いず、一人重女の跡を追って森の中を走っていた。
 幼い頃から走るのは得意だった。母が仕事でいないことが多かったので、自然と近所を走り回って鍛えられた足腰と、悪魔討伐で得た瞬発力。その二つを兼ね備えたアキラは森のでこぼこ道をなんの苦もなく走る。

 (そういえば、姉ちゃんも足が速かったな)

 まだ自分が小さかった時、姉は自分の手をひいて外に遊びに連れて行ってくれた。姉とはよく鬼ごっこで遊んだ。
 アキラはいつも鬼の役で、姉を捕まえようと追いかけていた。
 でもいつも届かない。いつも捕まえられない。そのうちに泣きべそをかいた自分に姉が側までやってきて、わざと捕まってくれるのだ。
 今はあの時とは違う。僕は成長し、強くなった。姉がどこにいようと捕まえられる。それだけの力を得た。なのに――

 「なんでだよ、姉ちゃん……」

 走るのをやめ、アキラが悔しそうにごちる。

 ――すぐ、戻るから、待ってて――

 姉の声の出ない唇がそう動いた時、アキラは脳天に雷が落ちてきたような衝撃を受けた。

 姉の名前が思い出せないのも、姉が声を失ったのも、全部あのやたノ黒蝿という悪魔のせいだ。
 折角自分があの悪魔と姉を引き離したのに、姉はその悪魔を探しに行ってしまった。実の弟である自分を置いて。
 姉ちゃんは、僕よりあんな悪魔を選んだのか?

 「違う!」

 拳を握りながらアキラは叫ぶ。悔しさと嫉妬が混じった声であった。

 ――そうだ、違う。姉ちゃんはあの悪魔に誑かされているだけだ。大方あいつが魔法で洗脳したに違いない。そうでなければ、声と名を奪った悪魔をあんなに気にかける筈がない。

 足に力を入れてアキラは再び走り出した。

 姉ちゃん、今度はちゃんと迎えに行くよ。この鬼ごっこは僕が勝つ。もう小さくて姉ちゃんを捕まえられなかった昔とは違うんだ――

―――

 黒蝿は再び繭に攻撃を仕掛けていた。
 先程空けた穴は、すぐに塞がってしまった。重女を吸い込んで。

 「あの馬鹿……!」

 何故影で縛っていたあいつが此処にやってきて、自分を助けたのか。黒蝿としてはあのまま繭の中に吸い込まれても良かったのだ。そうすれば内部に侵入でき、中にいると思われる大天使を殺す事が出来たのに。
 なのにあいつは自分の手を取り引っ張った。そして挙げ句の果てに代わりに繭の中に吸い込まれてしまうとは。

 ――影で縛るのではなく、「くらら」で眠らせるべきだったか。

 舌打ちしながら黒蝿は「アギダイン」を放つ。しかし繭には亀裂どころか焦げ跡すらつかない。
 別にあいつを助ける為にこんな事をしているわけではない。自分が繭の中に入れるよう、もう一度攻撃を仕掛けているだけだ。
 あいつさえ邪魔しなければ、今頃復讐を遂げる事が出来たのに。何を考えてるのか。

 『なら、協力しようよ』
 『やたノ黒蝿、私の仲魔になって私を守って』

 ふいに、あの影の鞍馬山での少女の言葉を思い出す。
 仲魔? あいつが弟と出会えた時点でもう仲魔としての契約は果たされたはずだ。なのにあいつはまだ俺の事を仲魔と思っているのか? 仲魔を助ける為にあんな行動に出たと?

 「……下らない」
 「何がだよ?」

 急に背後から声がして、黒蝿は振り向いた。
 そこには線の細い少年が立っていた。この国を作り上げ、王と名乗る少年。あいつの弟――アキラという少年。
 ……どうやらこの姉弟は、背後から現れるのが好きなようだ。

 「何をしている。こんなところで」

 腰の刀の柄に手を触れながらアキラは黒蝿に詰問した。牢を抜け出し、大天使の繭の傍に立っている悪魔相手に、アキラは不審な動きをしたらすぐに捕まえられるよう臨戦態勢をとった。

 「お前には関係ない」

 アキラの挑戦的な視線を受け流し、黒蝿は言った。その言い方にアキラのイライラが募る。

 「僕の国で勝手な行動をとってもらっては困る。お前は囚人だ」

 そう言われ、黒蝿は喉を鳴らしくっくと笑う。少年を馬鹿にするかのように。
 イラつきが酷くなり、アキラは先ほどより更に厳しい口調で黒蝿に問うた。

 「……お前のところに、重女という少女が来ただろう?」
 「……重女?」
 「お前が声と名を奪った、僕の姉ちゃんのことだよ!」

 ああ、と黒蝿は納得した。「重女」というのはあいつが名乗った偽名か。本名とまるで似ていない。

 「あいつなら、この中だ」

 くい、と黒蝿が顎をすぐ傍の繭に向けた。意図がわからずアキラは眉を寄せた。

 「どういう意味だ?」
 「そのままの意味だ。あいつは俺の空けた穴からこの繭の中に吸い込まれた」

 繭、空けた穴――この国を総べる者として、大天使の繭を傷つけたという発言は聞き捨てならないはずだが、それよりもアキラは、「繭の中に吸い込まれた」という言葉に思いっきり反応した。

 「な……なんだと?」

 思わず驚愕の声が出る。中に入った? 姉ちゃんが? 何故?
 茫然とした様子のアキラを一瞥し、黒蝿はため息をついた。

 「全く……余計なことをしてくれたものだ」

 うんざりしたように言い終わる前に、アキラの拳が黒蝿の頬を打った。
 あまりの速さに避けることが出来ず、黒蝿は倒れこみ、その身体にアキラが馬乗りになる。

 「お前のせいか! お前が繭を壊そうとしたから姉ちゃんは……!」

 襟元を掴みながら喚くアキラを、黒蝿は力を込めて突き飛ばした。
 地面に転がったアキラは直ぐに態勢を整え、再び殴りかかろうとした。が、黒蝿は今度は軽く避け、ザンダインを放とうとする。
 しかしアキラの「光無し」の術の発動の方が早かった。術を封じられ、ザンダインが不発に終わった黒蝿にアキラの拳が思いっきり叩き込まれる。

 「このガキ!」

 怒りの黒蝿の蹴りがアキラの腹にめり込む。ぐはっと唾液を吐きながらもアキラの拳による攻撃は止まない。

 もはや戦いではない。二人の男の意地の殴り合いだ。

 アキラは姉を取られたという嫉妬を怒りに変え、拳に力を込めた。黒蝿は大天使の繭に入れなかった苛立ちと、こんな子供に殴られたという屈辱が身体を動かしていた。
 殴り殴られ、顔が腫れ上がり、鼻血が出て口の端から血が出て着衣が汚れても、二人は取っ組み合いを辞めない。

 「何やってるんだ!」

 キヨハルと雷王獅子丸がサムライ衆を率いてやってきた時には、二人の姿は血まみれでボロボロになっていた。

―――

 「成る程。重女ちゃんは繭の中に吸い込まれたと。だから発信器の位置が繭と同じところなんだね」

 キヨハルが機械のモニターを見て、うんうんと頷いた。
 いつの間に自分の姉にそんなものを仕込んでいたのか、キヨハルを小一時間程説教したい気はあったが、口の中を切ってしまい、顔も腫れ上がっているアキラには、それはなかなか大変なことであった。
 サムライ衆に拘束されている黒蝿も似たり寄ったりで、黒い法衣は破れ、鴉を模った兜は亀裂が入り、深緑の長髪はぼさぼさに乱れている。端正な顔も、目の下に紫の痣ができ、あちこちに擦り傷のようなものがついている。

 ぺっと、黒蝿は口の中の血を地面に吐き出した。神聖なる大天使の繭の近くで血を含んだ唾を吐くなどと――両側から黒蝿の腕を掴み拘束しているサムライは、不遜な態度の悪魔の腕を、さらに強い力で締め付ける。

 「事情はよくわかった。が、アキュラよ、姉君が繭の中に入ったのなら、それは安心していいのではないか?」
 「……何故だ?」
 「この繭の中にはお前を導いた四大天使がおわすのだろう。アキュラ王の実姉と解れば手厚く保護されるはず。少なくとも、この悪魔と一緒にいるより遥かに安全だと思うが」

 ちら、と獅子丸は拘束されているやたノ黒蝿という悪魔を見た。こちらへの怒りを込めた視線には力がこもっていたが、顔と身体はアキュラと同じくらいボロボロだ。

 獅子丸とキヨハルが発信器の位置情報を元に繭まで来たとき、すぐ傍の地面でアキュラと黒蝿という悪魔がくんずほぐれずの殴り合いを展開していた。
 獅子丸とサムライ衆が二人を必死に引き剥がしたが、アキュラと黒蝿の瞳には、まだ怒りの炎が燻っていた。
 恐らく、二人とも譲れない自分の中の"何か"の為に拳を交えていたのだろう。ときに男は、言葉よりも拳を交える方が雄弁に語れることがあるのだ。

 「……キヨハルさん、中の音声を受信できる?」

 痛む身体を抑え、アキラはキヨハルに聞いた。キヨハルはヘッドホンを耳に当てながら「ちょっと待ってね」と告げ、一生懸命盗聴器の周波数を合わせている。せめて中の様子が分かれば、姉が無事かどうかわかるし、僕が四大天使に話しかけ、姉を返してくれるよう直訴することもできる。相手は四大天使様だ。悪魔でもない非力な一般人の少女に危害を加えるわけ――

 「……ん? なんだ……この声は……」

 キヨハルが眉間に皺を寄せ、ヘッドホンをもっと耳に押し当てる。少しの音ももらさないというように。

 「どうしたんだ? キヨハルさん?」
 「中で声が聞こえるんだ。恐らく四大天使様のだ。だけどおかしい。もう一つ四大天使様に対して酷く怒っている声が聞こえる。この声……まさか重女ちゃん!?」
 「そんなはずはない。あいつの声は俺が奪った。あいつが声を発せられるわけがない」

 黒蝿の横やりにも、キヨハルは応じず、ヘッドホンから聞こえる声にじっと耳をそばたてていた。
 その様子を、アキラや獅子丸、サムライ衆に黒蝿までが固唾を飲んで見守っていた。一体、繭の中で何が起きているのか?

「重女ちゃんはかなり怒っているみたい。待って、何か言ってる! 
……私の、弟を、誑かし利用したわねって。……貴方たちの、思い通りにはさせないって言ってる!」
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 重女を置いて飛び立った黒蝿は、大天使の繭の側へと降り立った。

 繭は随分大きい。それこそ家々の二、三軒は簡単に入るのではないかと思うほどに。
 くら、と目眩を感じる。それは、この繭から出ている天使の気に当てられたからだ。
ここまで近くに来ると流石に気が濃い。悪魔である黒蝿が最も苦手とする天使の気。
 軽く舌打ちしながら、黒蝿は影を操り、繭に突き刺してみた。

 パン!

 影は繭に触れることも叶わず弾かれてしまう。

 「やはり駄目か」

 この程度の影では繭を破ることは出来ない。
 自分の真名を奪ったあの少女に自らの影の力を分け与えていなければ、今頃全力を出せてこの繭を破壊出来ただろう。

 『行かないで!』

 その少女の先程の言葉が思い出される。
 すがりつくような青い瞳。何時の間にか眼鏡をかけていたがあれは誰に貰ったのだろう。弟にだろうか。
 ざわざわと人の気配を感じる。それはどんどん近づいている。
 あのアキラという少年が自分を捕まえる為に人を率いて探しているのだろう。また捕まるわけにはいかない。その為には早くこの繭を破壊する必要がある。
 黒蝿はもう一度影を操り形を変えた。黒い剣に変わった影でグラム・カットを繭に何度も浴びせる。
 しかし、強固な繭は相変わらずヒビ一つ入ることはなかった。

―――

 森の中にて。重女は思いっきり身をよじる。が、身体を縛る影はびくともしない。

 (どうしよう……)

 やはり黒蝿の影は強力だ。腐っても悪魔。力では叶わない。
 そっと、重女は自らの影を操作した。影を細く変え、黒蝿の影の紐と身体との隙間にそれを入れた。
 そのまま力を加えて影の紐を引っ張る。重女の身体に紐が食い込む。

 (いたたたた!!)

 ぐぐぐ、と重女の影が黒蝿の影の紐を引っ張る。しかし紐はちぎれない。その前に自分の身体がちぎれてしまう。
 重女はふう、と息を吐き、影を操作するのをやめた。視線を森の奥の巨大な繭へと移す。

 (黒蝿……)

 黒蝿はあの繭に探していた大天使がいるかもしれないと言っていた。そいつを殺しにいくとも。そして、もう私とは仲魔ではないとも。

 『お前が弟に出会うまで協力する、それが俺とお前の契約だったはずだ』
 『俺はもうお前の仲魔ではない。だから俺の邪魔をするな』

 思い出すだけで心がずきずきする。確かに契約は果たされた。だが私は黒蝿にまだ仲魔でいてほしいのだ。
 自分の名と声を奪った悪魔に、なぜこんなに執着するのか自分でもわからない。だけど黒蝿といると不思議な感じがするのだ。何かを問うとちゃんと答えてくれて、自分の傍にいてくれた――

 ――友達。

 そうだ、この気持ちは友情だ。長い間私は友達と呼べる者がいなかった。周りはみんな敵で、いつも疎外されてばかりだったから。ずっとアキラと母と私の三人の世界で生きてきたから。
 だから嬉しいのだ。自分を疎外せず無視もしない者が現れたのが。黒蝿がどう思っているかはともかく、私は彼を仲魔――「友」だと思っている。私の友達。たとえそいつが人外の者だったとしても。

 (だから、行かなきゃ)

 ぐぐ、と重女は再び身体に力を入れる。行かなきゃ、彼のところへ。そしてきちんと言おう。「仲魔を辞めないで」て。
 絶対嫌な顔をされて断られるだろう。それでも言いたいのだ。叶うなら、ずっと「友」として傍にいてほしいと。
 しかし困った。まずはこの身体を縛っている影の紐をなんとかしないと、黒蝿のもとには行けない。

 ガサガサ!

 急に後ろの木々が揺れた。重女は咄嗟に後ろを向く。誰だろう? もしかしてアキラだろうか。

 「ワン!」

 そこにいたのは妙に毛が長く、その毛も青白い犬――魔獣・へアリージャック。だったが、重女にはただの犬に見えた。

 犬――へアリージャックは重女の足もとに絡んできた。そして影の紐を不思議そうに前足でひっかいている。

 『ねえあなた、この紐を食いちぎれる?』

 ダメもとでへアリージャックに念波で問いかけると、へアリージャックは嬉しそうにワン! と答えた。

 『よし、じゃあ私と一緒にこの紐を千切ろう!』

 重女は影を操作し、再び身体と紐の間に入れた。へアリージャックは影の紐を思い切り噛む。

 『せーの!!』

 重女の影と、へアリージャックが一斉に影の紐を引っ張る。さっきより紐が身体に食い込み激痛が走ったが、それには構わず重女は影の紐を引っ張り続けた。
 へアリージャックの牙と重女の影に引っ張られ、黒蝿が作った影の紐が破れた。
 途端、影の紐は砂のように消え去り、重女の身体は自由になった。

 『ありがとう』

 身体の節々が痛むのを堪え、重女はへアリージャックの頭を撫でた。へアリージャックは嬉しそうに尻尾を振った。
 よし、これで黒蝿のもとに行ける。重女は自由になった足を動かし、繭のもとへ向かった。

―――

 「くそ!」

 何度目かのグラム・カットを繭に攻撃しながら、黒蝿は悔しそうに吐き捨てた。
 やはり、天使の繭は固い。先ほどから何度攻撃しても穴をあけることが出来ない。だが、手応えはある。おそらく一番壁の薄いと思われる、繭の天辺付近を黒蝿は重点的に攻撃していた。
 あともう少しで亀裂くらいは入るだろう。そうなればあとは容易い。穴を開けて天使達を引きずりだしてやる。

 「ザンダイン!」

 黒蝿は黒い翼をはためかせ強力な風をおこした。本来広範囲に渡るこの魔法を、黒蝿は範囲を絞り放った。そうすることで、風は弾丸のように鋭く一点集中型の攻撃力を持たせられる。
 鋭いザンダインを受けて天使の繭は震えた。そして――

 ピシッ

 とうとう繭に亀裂が走った。黒蝿の口許に笑みが浮かぶ。
 しかし、異変がおこった。
 繭の亀裂から、凄まじい風が放出された。黒蝿のザンダインよりもっと強力な、白い風。
 白い風は黒蝿の身体を揺らしたかと思うと、今度は方向を変えて、まるで掃除機のように繭の内側へと風が吸引されていく。

 「く!」

 必死に翼をはためかせ抵抗するも、白い風は黒蝿を繭の中へと引きずりこもうとする。
 あと少しで繭の中へ入ってしまう、黒蝿が目を瞑った。その時――

 「!」

 黒蝿の手が誰かによってつかまれた。
 目を開けるとそこには、
 黒髪をたなびかせ、胸には十字架のペンダント、眼鏡越しの青く大きな瞳の少女。黒蝿の名を奪った張本人――

 なぜ、お前がここに!? と黒蝿が問う暇もなく、重女は黒蝿の手を引っ張りあげた。風に逆らうように重女は必死で黒蝿の身体を引き寄せた。
 するとその反動で、重女と黒蝿の位置が変わった。すなわち、重女の身体が繭の方へ引きずりこまれる形になった。

 「―――!!」

 黒蝿が何かを叫んでいた。きっとそれは奪われた自分の名だろう。
 だが重女にそれは認識出来なかった。二人の繋がった手は離れ、重女はそのまま繭の内部へと吸い込まれていった。
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 「……てなわけでね、僕達はここに“東のミカド国”を作ったんだ」
 「………」

 朝。城内の豪勢な食堂にて。東のミカド国の王であるアキュラことアキラは、朝食を取りながら同席している自らの姉である重女に、今までの事を話していた。
 アキラは慣れた様子でフォークとナイフを使い、静かに肉を切り分け口に運んでいる。箸を使うのも覚束なかったあの子が、一体いつ誰にフォークとナイフの使い方を習ったのか。重女はパンをちぎりながら思った。

 「それからが大変さ。僕達は東京の人々をターミナルを使ってここに避難させた。でも悪魔も一緒について来ちゃってね、キヨハルさんと他の討伐隊の皆で悪魔退治の毎日だったよ」

 なんとか悪魔を地下に追いやったアキラ達は、その後ターミナルに厳重な封印を施した。
 その時一緒に戦った悪魔討伐隊の隊員が、現在ミカド国を守っている「サムライ衆」と呼ばれる小さな軍の始祖になったという。

 [なんでアキュラて名乗ったの?]

 食事の手を止め、筆談用ノートにそう書き、アキラに見せる。キヨハルが重女の為に咽喉マイクを作ってくれている最中だが、まだ出来上がっていない。

 「アキラよりアキュラの方が威厳があって王様て感じだろ? 阿修羅に似てるし」
 「………」

 特にそうは思わなかったが、重女は曖昧に頷いた。慣れない手でナイフとフォークを使い、肉を口に運ぶ。
 味が濃い。影の鞍馬山で味の薄い悪魔の焼いた肉を食べていた重女にとって、この国の豪華な食事の味付けは酷くしょっぱく感じた。

 「姉ちゃん、朝食をとったらミカド国を案内するよ。だってこれからずっとここで一緒に住むんだ。この国の事を知らないと不便だろ?」

 その言葉に、重女は手を止める。
 ずっと一緒。確かに私はアキラの元に帰りたかった。アキラとまた一緒にいたかった。でも、それは元の世界での話だ。影の鞍馬山から出たら、生まれ育った横浜でまた二人一緒にいられると思っていた。
 あの結界で過ごしている間に、此方では七年も経過し、まさかアキラがこんな国を造っていたなんて思いもしなかった。
 それに――。

 (シド……)

 脳裏にあの凄惨な光景が浮かび上がる。
 診察台に拘束され頭に幾つも管をつけられ、ぐったりとしていた京子。それを見て何か指示を出していたシド先生。
 シド。貴方は一体彼処で何をしていたの? シドはデビルサマナーではなかったの? 私達に親切にしてくれたのも嘘だったの?
 それが聞きたいのに、この世界にはシドはいない。出来るならもう一度会って話がしたい。
 アキラはシド先生の事をどう思っているのだろうか。筆談用ノートにペンを走らせようとしたその時。

 「アキュラ!」

 食堂のドアが勢いよく開けられた。開けた先にいたのは、険しい顔の雷王獅子丸。赤い鬣が汗で乱れている。

 「何事だ? 食事の最中だぞ」

 姉と二人水入らずの食事を邪魔されたからか、アキラは酷く不機嫌に問うた。

 「すまぬ。だが緊急事態だ」

 王の側近であり仲魔でもある神獣は、うなだれながら声を上げた。

 「この獅子丸、一生の不覚。やたノ黒蝿が儂の監視から抜け出し、ミカド国内に逃走した」
 「!!」

 ガタン、とアキラと重女は同時に椅子から立ち上がった。その際にナイフとフォークが床に落ちてしまったが、二人は気にしなかった。

―――

 城の方角が騒がしい。どうやら脱走がバレたようだ。黒蝿は辺りを見渡しながら眉をしかめた。
 牢を抜け出し、近くの森の中に逃げたはいいが、空が飛べないのは不便であった。今、翼を出して空を飛べば、すぐに見つかってしまう。空を飛べればこんな風に忍び足で歩くことなく、彼処まですぐ着くのに。

 昨日、雷王獅子丸に見張られながらこの国を観察した。
 そこで分かったのは、この世界は人為的に造られた事、まだあちこちの空間が不安定な事、そして――この世界を構成する“気”の中に、あのアキュラという少年のと、「天使」のが混ざっているという事だ。
 一つの世界を造る程の魔力。下級の天使の力では到底できない。ならば天使の中でも上位の者――大天使達が関わっているのだろう。

 ぎり、と黒蝿は近くの木の幹に爪を立てる。
 あのシド・デイビスとかいうサマナーが使役していた黒翼の大天使、あいつもここにいるのだろうか。俺を捕まえあまつさえ他の悪魔と合体させ、こんな姿に変えた張本人。憎い敵。この国にいるのなら、探し出して今すぐ八つ裂きにしてやる!
 怒りで熱くなる胸を押さえ、黒蝿は木々の間から見える、遠くの大きな白い楕円形の物体を目で捕らえていた。
 巨大な繭のような物体。彼処から一段と気を強く感じる。間違いない、彼処に大天使はいる。

 黒蝿は口角を上げ、残忍な笑みを浮かべた。待ってろ、今殺しに行く――。

―――

 「そっちはどうだ!」
 「ダメです、見当たりません!」

 アキラの指示の元、サムライ衆によって黒蝿の捜索が行われた。ミカド国はまだ小さい。これだけの人員を割けば悪魔一匹すぐに見つかるだろう。

 とんとん、とアキラの肩が叩かれる。振り向くとそこには、眼鏡ごしに不安な表情を浮かべた重女が立ってノートを差し出している。

 [あれはなに?]

 ノートにはそう書かれていた。

 「あれ?」
 「………」

 重女はある方角を指差す。目を凝らして見れば、遠くの方に白い楕円形の物体が鎮座しているのが見えた。

 「あれは、大天使様の繭だよ」
 「?」

 アキラは話した。自分と四大天使の関係を。
 あの秘密基地での邂逅、四大天使による命。自分が別世界に渡りミカド国を造るきっかけとなった話を。

 「この国を造った時、また四大天使様が僕の夢の中に現れた。天使様は言ったんだ。「よくこの国を造ってくれましたね」て。
 天使様達は悪魔との戦いで酷く衰弱してて、現世に顕現出来ないらしい。それであの繭の中で体を再生中なんだ」

 四大天使。聖書でも読んだ事がある。ミカエル、ラファエル、ウリエル、ガブリエル。とても偉い天使だと書いてあったが、そんな天使が何故アキラに接触を?
 神の千年王国? そんな物を造るのに何故ただの子供だったアキラを選んだ?
 アキラは四大天使に酷く心酔しているようだ。だが重女は信用出来なかった。昔から神や天使の存在に懐疑的であった少女は、アキラが嬉々として語る四大天使様とやらに何やら胡散臭いものを感じた。

 「アキュラ王! 奴を見かけたという情報が! ここから北東の方角の森に逃げ込んだらしいです!」
 「なに!?」

 アキラは重女に背を向け、険しい顔でサムライ衆と話し合う。
 そうだ、黒蝿。もう二、三日会ってない。キヨハルさんに聞いても、牢に収容されているとしか説明されず、アキラに頼んでも面会は許されなかった。
 重女は目を瞑り、黒蝿の気を探した。
 黒蝿から「影の造形魔法」を与えられた重女は、集中すれば黒蝿の気を感じ取る事が出来た。

 ――見つけた。あの繭の近くに黒蝿はいる。私の声と名を奪い、影の鞍馬山で一緒に過ごした、私の仲魔――

 重女は踵を返し、黒蝿の元へ行こうとした、が、

 「姉ちゃん、何処に行くの?」

 アキラが二の腕を掴んで止めた。その言葉に、在りし日の幼いアキラが重なった。
 シドに連れて行かれる前。あの時もそう言っていた。不安そうな青の瞳は、身体は成長してもあの頃と変わっていない。

 「まさか、あいつを探しに行くの?」

 重女の二の腕を掴む力が強くなる。その強さと手の平の大きさは、間違いなく成長途中の男のものだ。

 「なんであいつにそこまでこだわるんだよ! あいつは悪魔だ。姉ちゃんの声と名を奪った奴だろ?」
 「………」

 どう説明すればいいのか分からなかった。それ以前に説明したくとも声が出ない。今までの事をノートに書くのは長すぎるし時間もかかる。
 大丈夫だ。今は七年前とは違う。黒蝿を見つけたらすぐに帰ってくる。もう置いていったりはしない。

 ――すぐ、帰るから、待ってて――

 声が出ない口が、そう動いた。それを見たアキラは目を大きくした。
 姉ちゃんが、僕からまた離れようとしている。僕より得体のしれない悪魔の方を選ぼうとしている――!

 その認識は、姉の為に生きてきた少年の心を突き刺した。あまりの事に、手から力が抜ける。涙が溢れそうになる。
 呆然と立ち尽くし、傷ついた表情を浮かべる弟を、重女は哀しそうに見つめ、そっと目を伏せて、そして黒蝿の元へ走っていった。
 重女はがむしゃらに走った。そうでもしなければ、アキラの傷ついた顔を思い出し、胸が張り裂けそうになるから。

―――

 ぱき、と枝を踏む音がし、黒蝿は身構え後ろを振り向く。
 そこには、ぜえぜえと荒い息を繰り返す重女がいた。顔に汗が滲んでいる。ここまで走ってきたのだろう。

 「なんだ、お前か」

 興味なさげに黒蝿は言う。
 重女が前に会った時と違い、眼鏡をかけていることに気がついた。この国の王である弟にでも貰ったか。

 『どこに行くの?』

 汗を拭いながら重女は念波で問いかけた。

 「あの繭の中に、恐らく大天使がいる。その中に「あいつ」もいるかもしれん。だから殺しに行く」
 『あいつ?』
 「大天使・マンセマット。俺をこんな姿にした憎い敵だ」

 殺しに行く。確かに影の鞍馬山で黒蝿はそんな事を言っていた。そいつとシドによって捕まったとも。
 物騒な言葉にどう答えていいか悩む重女に、黒蝿は言い放った。

 「お前、弟の側にいなくていいのか?」
 『大丈夫。ちょっと離れているだけだし、すぐに戻るから――』
 「お前が弟に出会うまで協力する、それが俺とお前の契約だったはずだ」

 黒蝿が冷たい声でそう言う。重女ははっとした。

 『た、確かにそうだけど、でも……』
 「なら俺はもうお前の仲魔でもなんでもない。契約は果たされたんだからな。だから俺の邪魔をするな」

 がん、と頭の中を鈍器で殴られたような衝撃が走る。仲魔。私の唯一の「友」。短い間だったけど私はそう思っていた。だけど黒蝿、貴方はそうは思ってはくれなかったの?

 『……いいの? そんな事言って』
 「何?」
 『私の仲魔をやめるなら、名前を返してやらない。ずーっと異界に帰れないよ? それでもいいの?』

 半分拗ねたような口調で、挑発にも似た言葉を送った。こいつは自分の名前を返してもらうことにこだわっていた。なら、そのことをつけば、私の仲魔をやめないはずだ、と重女は思った。だが――

 「……………」

 黒蝿は重女をじっと見ている。その瞳は虫けらを見るような、ぞっとする程暗い色を帯びていた。
 その視線に背筋が寒くなる。すると、急に重女の身体が影に縛られ動かなくなる。

 「!!」

 身体を捩って影から逃れようとするも、細い紐状に変化した影は重女の小柄な身体を縛って動かない。
 
 「……好きにしろ」

 怒気を孕んだ声でそう言うと、黒蝿は冷たい視線を寄越した。決別の視線であった。

 『行かないで!』

 重女の必死の言葉にも、黒蝿は応じなかった。
 そして背を向けると、翼をはためかせ、黒い風を伴い消えた。重女を一度も見ることなく。

 「………」

 身体を縛られたまま、重女は呆然と見ているしかなかった。

 ――黒蝿。

 かつて重女が名付けた名前。その名前を口にしようとしても、喉からはひゅう、と木枯らしが吹くような音しかでなかった。

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 階段を上がり、アキラはガントレットを装着したまま外へと出た。
 地上へ出て目にした光景は、巨大な棍棒をもった半牛半人の魔獣に次々とやられる討伐隊の皆の姿だった。
 怪我を負ってない者はいなく、頭から血を流したキヨハルとアキラの目があった。

 「君! 地下から出てきたのか! あれほど来ちゃ行けないと言っておいたのに……!」

 言い終わる前に、魔獣の棍棒がキヨハルめがけて振り下ろされる。

 「危ない!」

 アキラは咄嗟にキヨハルの手を強く引き、その場から避難させる。
 キヨハルが元いた場所は、巨大な棍棒によってコンクリートの地面が抉れている。あれを直撃していたらキヨハルは脳天をかち割られていただろう。
 恐ろしさにアキラの小さな手が震える。悪魔を相手に戦うというのがこんなにも怖い事だったなんて。
だけど、もう後戻りは出来ない。天使達との約束――「神の千年王国」を造ること、そして、姉を探しに行くこと。これらを為すまで自分は死ぬわけにはいかない。

 「キヨハルさん、ちょっと借りるよ」
 「お、おい!?」

 すら、とキヨハルの腰の剣を抜き、それを真っ直ぐ身体の前で構える。その長い剣は十歳の子供が持つには重く、剣先がぶるぶる震えていた。

 「お、おい悪魔!」
 「んモウ?」

 鼻息荒く半牛半人の魔獣・八坂牛頭丸がアキラの方を振り向く。手に持っていた棍棒には幾つかの血と肉片がこびり付いていた。
 がちがち、がちがち。
 牛頭丸の恐ろしい形相を間近で見たアキラの全身が恐怖で震える。しかしアキラは十字架のペンダントをぎゅ、と握りしめ、体中の筋肉に力を入れて目の前の魔獣を見据えた。

 「お前の相手は、この僕だ!」

 精一杯声を張り上げ、目の前の巨大な魔獣を睨みつける。長刀を震えながら構える子供に、八坂牛頭丸は嘲笑を浴びせた。

 「子供の肉は久しぶりだな。食いごたえがありそうだ!」

 牛頭丸は一気に棍棒を振り下ろす。アキラはそれを地を蹴って避ける。棍棒が地面にめり込む衝撃音がアキラの鼓膜に響く。続けざまに牛頭丸は棍棒を横に振った。アキラはそれをギリギリで避けた。
 家の近所を走り回って鍛えた足腰は高い俊敏力を備えていた。

 「えい!」

 攻撃を避けながらアキラは牛頭丸の足めがけて刀を薙いだ。しかし子供の力では魔獣の太い足を斬る事は叶わない。
 牛頭丸は笑いながらアキラの小柄な身体をつまみ上げた。

 「はなせ! はなせよ!」

 ジタバタと手足を動かしても、牛頭丸の太い指から逃れられない。
 ニヤリと笑い舌なめずりをしながら牛頭丸は、そのままアキラを口元に持っていき食べようとした。

 「アギラオ!」

 急激に牛頭丸の足元で火の玉が膨れ上がった。

 「んモウ!?」

 足を火で焦がされ、牛頭丸は体勢を崩す。ぐらり。その隙にアキラはキヨハルの手によって牛頭丸の指先から救い出された。
 キヨハルの後に続いて、他の隊員がそれぞれ攻撃を仕掛ける。

 「小癪な!」

 牛頭丸が「会心波」を繰り出すと隊員達は吹き飛ばされる。
 アキラはキヨハルの腕の中でもがき、一緒に戦おうとした。

 「いい加減にしろ! 君のような子供が悪魔に叶うはずがないだろう! 大人しく避難を……」

 そこまで言ったキヨハルとアキラに巨大な影がかかる。
 隊員の攻撃を受けて鼻息の荒い八坂牛頭丸が、憤怒の表情を浮かべ棍棒を振り下ろそうとしていた。

 (やられる!)

 アキラはぎゅっと目を瞑った。大人のキヨハルさん達でさえやられちゃうのに、力の弱い僕がどうやって悪魔を倒せばいいんだ。誰か、助けて――

 『仕方ないですね、我らが少しだけ力を貸してあげましょう』

 頭の中に声が響いた。それはあの秘密基地で聞いたのと同じ声。優しく諭すようなその声は、あの四大天使の声――
 そう認識した時、アキラの脳裏にある「言葉」が浮かんだ。何故だかは知らない。だけどその「言葉」が意識せず口から呪文として発せられた。

 「アギダイン!」

 その呪文を唱えると、巨大な火の玉が次々と牛頭丸に襲いかかる。先程キヨハルが繰り出した「アギラオ」よりもっと大きく激しい炎が牛頭丸の身を焼いた。

 「モ、モオオオ!!」

 黒こげになりながら、牛頭丸は膝をついた。キヨハルや他の討伐隊の皆はぽかんとした顔でアキラを見ている。

 (今のは、僕が……?)

 キヨハルの腕から降り、そっと悪魔に近寄ろうとした。しかし、

 「!!」

 倒したと思ったはずの悪魔は、雄叫びを上げながら立ち上がった。そして目の前にいるアキラに棍棒で攻撃しようとする。アキラは咄嗟に手で身体を庇い、目を瞑った。

 ガキィン!
 激しい音が辺りに響いた。目を開くと、其処には赤い鬣を靡かせた雷王獅子丸が長刀で太い棍棒を受け止めていた。

 「ふふ、気に入ったぞ小僧!」

 獅子丸は笑った。牛頭丸渾身の一撃を、獅子丸は何の苦もなく受け止めている。

 「その小さき身体一つで悪魔に挑む、その勇気、気に入ったぞ! 小僧、名は?」
 「ア、アキラ……」
 「アキラ。これより儂は主の仲魔だ。主の危機を助けようではないか!」

 そう言うと獅子丸は、ふん! と長刀を振った。ほんの一振りなのに、牛頭丸の身体は衝撃で再び地面に転がってしまう。
 次の瞬間、獅子丸が電光石火の如く移動したかと思うと、「絶命剣」を牛頭丸に何度もくらわす。その剣技は見事なもので、神獣の名に恥じぬ動きであった。

 「ま、参った! 降参降参!」

 刀の先を喉元に突き出されながら牛頭丸は両手を上げた。
その大きな身体は炎の玉によってあちこちが焦げ、獅子丸による刀傷が幾つも付いている。

 「た、助けてくれよ、もう悪さはしない。見逃してくれよ。なんなら仲魔になってもいいぜ?」
 「何を調子のいいことを!」

 獅子丸が再び刀を振り下ろそうとする。が、長刀は途中で止まった。アキラが手で制していたからだ。

 「その言葉は本当か?」
 「も、勿論!」
 「お前の名前は?」
 「や、八坂牛頭丸……」
 「なら、八坂牛頭丸、今からお前は僕の仲魔だ! 僕には目的がある。その目的のために力を貸せ!」

 アキラは左手のガントレットに触れた。するとガントレットの画面が光り、八坂牛頭丸と雷王獅子丸は小さな光の玉となり、コンプ内に収納された。

 『うむ、魔獣・八坂牛頭丸と神獣・雷王獅子丸を収納した。これでこの二体はお前さんの仲魔じゃ』

 画面の中でミドーが機械音声を発した。その声はどこか嬉しそうである。

 僅か十歳の少年が、悪魔を使役し退治した場面を、キヨハルを始め、悪魔討伐隊の皆は驚愕の表情で見ているしかなかった。

―――

 それからアキラの生活は大きく変わった。
 八坂牛頭丸を退けた事により、アキラは小さいながらも悪魔討伐隊の副隊員に認められ、その為の訓練をキヨハルと獅子丸から直々に教わった。
 基本体術、悪魔召喚プログラムの使い方、アギやブフやザンといった魔法の習得。キヨハルからは主に座学を、獅子丸からは剣術と魔法を教わった。
 普通の子供が習う算数や国語といった基礎教養もキヨハルは引き取った子供達と一緒に、アキラに根気よく教えた。
 アキラはキヨハルの真似をして、悪魔召喚プログラムをガントレットから分厚い聖書に組み込んだ。聖書型コンプを持つと、シド先生を思い出してなんだか嬉しくなった。
 勉強に訓練でヘトヘトになりながらも、アキラは一日の終わりには祭壇に向かって祈っていた。

 ――姉ちゃん、僕、沢山訓練して必ず迎えに行く。だから、どうか元気で待っててね。

 そうして別世界の東京で数年が経過し、アキラが十三歳になると正式に討伐隊の一員として任命された。史上最年少の隊員である。
 アキラの悪魔討伐隊としての最初の任務は、スカイタワーを占拠している悪魔を退治し、「ターミナル」を奪還する任務であった。

 スカイタワーを占拠している悪魔の親玉は、鬼女・メデューサ。

 流石に手強い相手であった。
 討伐隊総掛かりで戦い、生き残ったのは、アキラとキヨハル、他数名だけ。キヨハルはこの時の戦いで顔に幾つも傷を負った。
 ボロボロになりながらもターミナルを奪還し、キヨハルと共に起動スイッチを押した時、強烈な白い光がアキラを襲った。
 この光、三年前に秘密基地で四大天使にあった時と同じ光――

 『やっとここまで来ましたね』

 何時かの白い空間。そこに座する四体の白を基調とする異形の物体。四大天使のウリエル、ミカエル、ラファエル、ガブリエルである。

 『以前に会った時よりも、かなり力をつけたようですね』
 『今なら、「神の千年王国」を築き上げる事ができるでしょう』
 『さあ、今こそ我らの神の千年王国を! お前はその国の王となって、私達の手足となって働くのです』

 再び光が溢れてくる。四大天使の姿は消え、気がつけばアキラとキヨハルは、太陽の指す東京の岩盤の上に来ていた。

 「……ここは?」

 見渡す限り何もない土地である。僅かに草が生えていて、小さな湖らしきものと、「ターミナル」という機械装置があるだけ。

 (ここに、王国を建てる……?)

 その時、アキラに異変が起こった。

 ぐらり、と視界が揺れたかと思うと、目の前の景色がぐにゃぐにゃと変わっていく。どくん、どくん、と心臓が激しく鼓動を打っている。
 何もない荒れ果てた土地にヨーロッパ風の家々が立ち並び、森が出来、城が立つ。この光景は、アキラが昔読んでいた絵本の挿し絵そっくりであった。

 「な、何が起きてる!?」

 キヨハルが叫んでも、アキラは頭を抑えてうずくまったまま。
 彼の持つ空間形成能力に、天使の力が加わり、次々と一つの世界を形成していく。幼い頃空想していた世界そっくりに。

 やがて、アキラが顔を上げると、其処には一つの国が誕生していた。

 青々と茂る豊かな木々、ヨーロッパ建築に似た家が集落を形成している。
 そして立派な煉瓦造りの大きな城。全てアキラの空間形成能力が四大天使の力によって暴発した結果である。

 「……神の千年王国……」

 ぼそりと呟いたアキラを、キヨハルは畏怖の感情を込めて見た。

 「何をしたんだ? 君は一体何者なんだい?」

 その問いに、アキラは笑顔で答えた。十三歳のアキラの顔が、やけに大人っぽくキヨハルには見えた。

 「僕は、四大天使の命を受けて別世界から来た。此処に、「神の千年王国」を建てるために」

 ぐるりとアキラが手を回し、明朗とした声をあげる。

 「キヨハルさん、東京の人々をここに呼ぼう! そして此処に新しい国を造るんだ」

 太陽の光を浴びて、アキラの金髪が輝く。
 逆光に光るその姿は、キヨハルの目にはアキラが神の使者のように写った。

 「そして僕が王様になる! この国を、今から「東のミカド国」と名付ける! 悪魔も争いもない、理想の国を造るんだ!」
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 光が収まっていく。

 目を開けたアキラの視界に飛び込んできたのは、暗い街並み。
 建っているビルは窓ガラスが割れて、殆どが半壊しており、あちこちで火の手があがっている。
 人の気配はない。数メートル前方に、血を流し倒れている男を見つけ、アキラはひっと喉を鳴らした。

 此処が天使の言った「別世界」か。
 随分沢山近代的なビルが並んでいる。どれもアキラが目にした事のない立派な建物だ。空を見上げる。随分暗い。今は夜なのだろうか。

 「おやおや、人間の子だ」
 「これは珍しい」

 不気味な声が聞こえ、アキラは顔を後ろに向ける。
 其処に立っていたのは、腹を異様に膨らませた紫色の身体の幽鬼・ガキに全身毛むくらじゃらの妖獣・チャグリン。そして赤ら顔に角を生やし巨大な斧を持った妖鬼・オニの三体の悪魔がにやつきながら立っていた。

 「ウホッ! 子供は久しぶりだ」
 「肉が柔らかそうだね」
 「あれは俺の獲物だ、お前らは手を出すな」
 「えぇ!? ずるいよう」

 異様な出で立ちの悪魔に、アキラは腰を抜かして震えていた。
 悪魔が跋扈する世界――大天使達はそう言っていた。間違いない、ここは僕がいた世界とは違う世界なんだ。
 逃げなくちゃ。しかし身体が動かない。恐怖のあまり身体に力が入らない。
 そうこうしているうちに、三体の悪魔が嬉々として襲ってくる。やられる! アキラは目を瞑る。

 「アギラオ!」

 その時、男の声が聞こえた。急激に辺りの空気が温度を高め、やがて大きな火の玉が悪魔達を焼いた。悪魔達が断末魔の悲鳴を上げて消える。
 アキラは瞑っていた目をそっと開けた。
 其処には深緑のスーツに身を包んだ男達がアキラを守るように立っていた。その中の一人がアキラの方を向く。

 「君! 子供が一人で地下から出たら駄目じゃないか!」

 アキラを叱責した男は、長髪を束ね聖書のような本を手にしていた。年は三十代後半か四十代前半だろうか。
 これがアキラとキヨハルとの出会いであった。

―――

 「僕も悪魔討伐隊に入れて下さい!」

 必死で懇願するアキラに、討伐隊の隊員達は苦笑する。
 悪魔討伐隊――突如急激に湧き出た悪魔達を倒すために国防大臣の命により結成された組織。
 隊員は皆「悪魔召喚プログラム」を使いこなす事ができ、その為の端末が組み込まれた「デモニカスーツ」を着用している。
 だが、アキラを助けたキヨハルという男は、デモニカスーツのガントレットではなく、悪魔召喚プログラムを聖書に組み込んでいた。キヨハルは「聖書型コンプ」と呼んでいた。

 「君、親はいないのかい?」

 キヨハルが優しく問いかける。

 「…………」

 アキラは黙っていた。まさか自分が天使の命を受けて別世界から来たなんて言っても信じて貰えないだろう。

 「どうするんだい? キヨハル?」
 「決まってるだろう、僕が引き取る」

 はあ、と隊員の一人が溜め息をつく。

 「キヨハル、先日も別の子供を引き取ったばかりだろう。お人好しも大概にしないと身を滅ぼすぞ」
 「身よりのない子供を放っておいたら、すぐ悪魔に喰われてしまう。だから僕が引き取って守る。それが神に仕える者としての僕の使命だ」

 アキラはキヨハルに引き取られた。キヨハルの住居は地下街の倉庫であった。
 其処には、デモニカスーツで作られた十字架が置いてあり、他に十名程アキラと同じ年頃の子供達が暮らしていた。
 キヨハルは、悪魔討伐隊に入る前は神父になるべく勉強をしていたのだが、市ヶ谷から悪魔が東京中に広がった惨状を見て、自ら悪魔討伐隊に入隊したのだという。
 祭壇の2つのデモニカスーツは亡き隊員のものらしい。
 キヨハルは悪魔討伐に勤しむ傍ら、身よりのない子供を引き取っていた。それが神に仕える自分の使命だとキヨハルは言っていた。

 「悪魔召喚プログラム?」
 「そう。僕達悪魔討伐隊はこのプログラムを使って異界から人外の者を呼び悪魔を討つ。隊員の中にはデビルサマナーの家系も多くて、管を使っている者も多いがね」
 「デビル……サマナー?」
 「悪魔召喚師、とでもいうのかな。古くは陰陽師、外国ではエクソシストと呼ばれる特別な力を持つ者だけが異形の者を召喚できた。だけどある物理学者が悪魔召喚プログラムを開発して、一般人でも使えるように普及したのさ」

 プログラム、デビルサマナー……聞き慣れない単語にアキラはやや混乱したが、解ったことは一つ。

 ――あの悪魔召喚プログラムとやらを使いこなせれば、悪魔討伐隊に入れるかもしれない。

 深夜、キヨハルは地上の見回りに出かけ、他の子供達は倉庫で蒲団を敷いて寝ている中、アキラはそっと起き出し、十字架に使われているデモニカスーツを剥ぎ取った。
 物陰に隠れ早速スーツを着てみた。しかしスーツは大人用。子供のアキラにはダブタブで、キヨハルや他の隊員のように身体にフィットしない。
 ちぇ、と舌打ちし、アキラはガントレットの部分に触れた。すると小さな画面が起動し、其処に文字が現れた。

 『悪魔召喚プログラム起動完了』

 画面の中にちかちかと光る部分がある。文字が浮かんでいた。

 「生体登録? なんだそりゃ?」

 画面の文字に従って、ガントレットに手を入れた。大きな籠手の内側でアキラの指紋や静脈などの生体情報を読み取っているのだろう。

 『登録完了』

 再び画面に文字が出た。この世界の技術は随分進歩しているらしい。まさか籠手にこんな小さなテレビが入っているなんて。

 『登録おめでとう。これで君も悪魔召喚師に――って、ありゃ? 子供?』

 画面の中から老人の声がした。しかしその老人の姿は変だ。
 カクカクとした無数の四角で身体が構成されている。アキラは知らなかったが、この老人は崩れかけたポリゴンドットの体であった。
 しかもかろうじて再現できているのは上半身だけで、顔は青い帽子にサングラス、白い髭を蓄えていることがドット状の姿からわかった。

 「あ、あのー……あなたは誰ですか?」

 アキラは恐る恐る画面の向こうのドットの老人に尋ねた。すると老人はいきなり笑い出した。

 『私か? 私の名はミドー。かつてスティーヴンと悪魔召喚プログラムと悪魔合体プログラムの開発に携わり、悪魔の魅力に取り付かれた男の成れの果てじゃよ』

 ふわり、ふわりとミドーと名乗った老人は画面の中でたゆたうように動いてみせた。その様子がとても珍しくて、アキラは目を大きく開けてじっと見ていた。

 「ミドー……さん」
 『なんじゃ?』
 「笑わないで、聞いてくれますか?」

 アキラは話した。今までの事全て。いなくなった姉を探していたら四大天使に出会った事、その天使達に「神の千年王国」を造るために悪魔をやっつけなくてはいけないことを教えられ、そしてこの世界に来た事を正直に話した。

 「天使様は、姉ちゃんは別の時空で生きているって言ったんだ。姉ちゃんに会うためには悪魔を倒して「千年王国」とやらを作らなくちゃいけないんだ。だから僕も悪魔をやっつけたい。討伐隊に入りたいんだよ」
 『ううむ……』

 たたみかけるようなアキラの言葉に、ミドーは電子空間をふらつきながら何かを考えている。

 『「神の千年王国」……一つ、思い当たる節があるぞ』
 「え?」
 『市ヶ谷から黒翼の大天使のせいで異界のゲートが開き、悪魔が東京中を跋扈するようになって、それを危惧した外国の軍が東京にミサイルを打ったのだ。
 東京を守るため、守護神マサカドは空を覆い尽くす大きな岩壁となって東京に蓋をした。その結果ミサイルからは守られたが、東京は太陽が昇らない死の街となってしまった』

 機械音声のミドーの言葉をアキラはじっと聞いていた。巨大な岩で蓋をされた東京。やはりここは自分がいた世界ではないという事を再確認した。

 『だがな、四大天使は諦めなかった。彼らは“ターミナル”と呼ばれるエネルギーの霊道、アマラ経絡を作り、岩の天井の上に「神の千年王国」を作ろうと目論見た。
 だが天使達は悪魔との対決によりその力は随分弱体化してしまった。それから四大天使の姿は消えたが……まさか坊主の世界に行っていたとはの』

 ターミナル。アマラ経絡。また知らない単語だ。

 「その“ターミナル”を使えれば天井の上に行けて、「千年王国」を作れるんだよね? 教えてください。“ターミナル”は何処にありますか?」

ミドーは暫し言葉を切って、ようやく話し出した。

 『スカイタワーにその“ターミナル”があると聞いた。しかし坊主、彼処は強力な悪魔が支配する地区だ。坊主一人ではとても……』

 そこまで言って、ミドーは口をつぐんだ。急に倉庫内に、ズズン……という大きな音が響いたからだ。
 眠っていた子供達は目を覚まし、何事かとキョロキョロし、恐怖のあまり泣き出す子もいた。

 『悪魔の攻撃じゃな』
 「なに!」
 『この気……今までの悪魔とは桁が違う。とてつもなく強い悪魔と討伐隊は戦っているらしいな……ておい!』

 アキラはガントレットを腕にはめたまま、倉庫を出て地上へと走り出していた。

 『こら、坊主!』
 「坊主じゃない、僕の名前はアキラだ!」
 『ならアキラ、悪いことは言わない、引き返せ。お前さんのような子供が叶うような相手ではないわい』
 「そんなの、やってみなきゃわかんないだろ!」

 ぎゅ、とアキラは胸の十字架のペンダントを握る。
 だって、約束したから。僕が姉ちゃんを守るって。必ず僕が姉ちゃんを迎えに行くって! その為なら悪魔討伐も「千年王国」の建設もなんだってやってやる!

 「悪魔召喚プログラム発動!」

 アキラの音声が認識され、コンプの中に入っていた神獣が、光と共にコンプの外に顕現した。
 赤い鬣に、中華風の甲冑を纏い、腰に長刀を携えたのは、神獣・雷王獅子丸。

 「儂を喚んだのは貴様か? 小僧」

 大柄な武神は、小さなアキラを見下ろす。アキラはその鋭い眼光にびくつきながらも、き、と獅子丸の瞳を見据えた。

 「そ、そうだ。お前を喚んだのは僕。だから、今から僕がお前の主だ」

 がっはははと獅子丸は笑う。

 「こんな小童が主とはな……だが儂を仲魔にしたくば、儂に相応しい主になってもらわなくてはな」
 「相応しい?」
 「儂を従えるだけの器量と力を示さなければ、とても儂の主とは認められん」

 その間にも、地響きは大きくなり、人の叫び声や何かが壊れる音は鳴り止まない。
 アキラは真っ直ぐに獅子丸を睨みつけ、ぎゅ、と拳を握った。

 「いいよ! 僕は悪魔を倒すために此処に来たんだ。やってやる! 生きて、姉ちゃんを迎えに行くんだ」

 そのままアキラは地上へと通ずる階段を走って登っていった。血の匂いと土ぼこりがアキラの顔を襲う。
 そっと目を開けたアキラの視界に飛び込んできたのは、巨大な悪魔に、キヨハルを始め数人の隊員が成す術もなく蹂躙されている光景であった。
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 黒蝿は、東のミカド国内を歩いていた。

 黒蝿の手には力を封印する為の枷がつけられている。そのせいで術は使えず、空を飛ぶことも出来ないが、こうして探索するだけなら十分であった。

 あの戦いの後、黒蝿はアキュラ王によって重女と離され、枷を施されて再び独房に入れられた。しかし、前回のような監禁ではなく、監視付きの軟禁に待遇は上がった。
 現に今も、外に出たいと言い出した黒蝿を雷王獅子丸が見張っているだけ。朴訥とした神獣は、黒蝿の右斜め後ろで油断なく一挙一動に目を凝らしている。アキュラ王から外出の許しが出たとはいえ、この悪魔が再び暴れまわるかもしれん。獅子丸は腰の長刀から手を放さず黒蝿に話しかけた。

 「おい、さっきから何をしている? よからぬ事を考えているのではあるまいな?」

 質問には答えず、黒蝿は周りを見渡した。
 大きいと思っていたこの国は、こうして歩き回ってみると、意外と小さい事が分かった。
 ミカド城を起点として、確認できる国の大きさは、せいぜい半径十キロ程度。しかもよく見るとあちこちの空間がまだ不安定だ。
 ここは自然に出来た国ではない。誰かが“造り上げた”世界。
 黒蝿はこの世界を構成する甘ったるく、胸焼けを起こしそうな「気」を感知し、不快げに眉を寄せた。

 間違いない、これは、“天使”の気だ――。

―――

 「うーん、喉に異常はないね。やはりこれは魔的なものが原因だね」

 城内の医務室にて、重女の喉を見ていたキヨハルは溜め息混じりに言う。重女は喉に手を当てる。醜い痣がついた首。命の代償に声と真名を差し出した、あいつとの契約の印し。
 そういえば、黒蝿はどうしたのだろう。あの後、黒蝿はどこかに連れて行かれて、それ以来会ってない。また牢に入れられたのだろうか。

 重女は筆談用に渡されたノートにペンを走らせようとした。だが視界に白くちらつくものが見え、思わず目を細めてしまう。
 「ターミナル」と呼ばれる場所に降り立った時、そこの強烈な光は、暗闇に慣れていた重女の目の網膜を焼いた。おかげでずっと視界の端々に白い光の残影が写り、特に近くのものを見るのに難儀した。
 目を擦ったりしばたかせたりする重女に、キヨハルはポケットから眼鏡を取り出し、重女の耳にかけた。

 「!」

 すると焦点の合わなかった視界ははっきりとし、白いちらつくものも消えた。
驚いた重女はキヨハルの顔をみる。キヨハルは微笑んでいた。

 「君は目が悪いんだね。気づくのが遅れてごめんよ。僕が昔使っていた眼鏡だけど、良かったらどうぞ」

 にっこりと優しい笑顔を浮かべキヨハルは言う。今まで分からなかったが、良く見るとキヨハルはそれ程老けてはおらず、せいぜい四十代後半か五十代くらいと推測できた。

 [ありがとうございます]

 ノートにそう書いて重女は微かに頭を下げた。キヨハルは微笑んだまま頷いた。なんとなくその笑顔が、シドを思い出させて、重女は胸の奥がきゅっと縮こまる感じがした。
 さらさら。重女はさらにノートにペンを走らせた。そしてその文字をキヨハルに見せた。

 [黒蝿とアキラは、今どこにいますか?]

―――

 王の執務室。机の上に山と積まれた書類を投げ出し、アキュラはソファーに横になった。

 「姉ちゃん……」

 そっと、首から下げている十字架のペンダントを握りしめ呟く。姉とお揃いのペンダント。あの「重女」と名乗った少女も同じものを首から下げていた。そして自分の名前を呼んで抱きしめてくれた。
 間違いない。あれは姉ちゃんだ。ずっと探していた最愛の姉。まだ手に彼女の温もりが残っている。
 大きいと思っていた姉は驚く程華奢で柔らかかった。
 違う、自分が成長したのだ。ぎゅ、と手を握りしめる。姉と別れてからもう七年が経過している。なのに姉は当時のままの姿だ。何があったのか。黒蝿とかいったか? あの悪魔が関係しているのだろうか?

 「…………」

 アキュラは固く目を瞑り、膝を抱える。まるで胎児のように。
 目蓋の奥でアキュラは思い出す。姉を探して過ごした日々。キヨハルとの出会い、そして、「天使」との邂逅を――。

―――

 シドの教会を探して、八歳のアキラは歩き回った。
 教会がないだなんて、そんなわけがない。姉と共に通った教会。大きなシド先生。色とりどりのステンドグラス。差し出されたチョコの甘さ。全部覚えている。夢じゃない、あの思い出が夢であってたまるか。

 公園を出て、近くの米軍基地を通り過ぎ、商店街を抜け、アキラは足が棒になるまで歩き続けた。しかし何処にもシド先生の教会はない。アキラの足は自然と「秘密基地」のある空き地へと向かっていた。
 アキラと姉の二人だけしか知らない秘密基地。幾つもの草を結ってドーム状に造り上げた其処に、アキラは身をかがめ入って、膝を丸めて縮こまった。

 どうして? どうしてシド先生の教会が何処にもないの? お姉ちゃんはいつ京都から帰ってくるの?
 寂しい。嫌だ。姉ちゃん、早く帰ってきて。

 アキラは手作りの「祭壇」に向かって手を合わせて祈った。姉が早く帰ってきますように。二人で仲良く幸せに暮らせますように、と一心不乱に祈った。

 しかし祈りは届かなかった。それから三ヶ月、半年が過ぎても姉は帰ってこない。毎日秘密基地に行っては熱心に祈った。しかしそれでも姉が帰ってくる気配はない。シドの行方も掴めない。
 砂を噛むような毎日が続き、いつしかアキラは、施設でも学校でも、笑うことも泣くこともしなくなり、ただ自分だけの空想の世界に閉じこもるようになった。

―――

 十歳になった時、施設を抜け出した。理由は特になく、ただ職員とちょっとしたことで口論になり、その勢いで、着の身着のままで施設から脱走した。
 その日はとても寒い日だった。
 雪がちらつく中、アキラの足は自然と昔住んでいたアパートに向かっていた。
 しかしそこにアパートはもう立っていなく、工事中の看板がかかっており、古いアパートは取り壊されていた。
 愕然としたアキラは、ふらふらととめどめもなく歩いた。そしてたどり着いたのは空き地の秘密基地。枯れ草の上に積もった雪が秘密基地を潰していた。必死に雪をのけても潰れてしまった秘密基地は元に戻らない。唯一、アキラ手作りの祭壇の十字架が、枯れ草と雪の間から僅かに姿を見せていた。
 雪を掻き分け、その場に座ったアキラは、十字架のペンダントを胸で握りしめ、そして自らの金髪を掻きむしった。

 ――もう嫌だ。此処は嫌だ。姉ちゃんもお母さんもいない世界なんて嫌だ。独りぼっちは嫌だ。
 別の世界に行きたい。此処じゃない何処か。姉も母もいて、誰からも意地悪されない、そんな世界に――

 『それは本当ですか?』

ふいに、頭の中に声が響いた。女性とも男性ともしれない優しい声。

 「誰?」

 アキラは辺りを見回す。しかし誰もいない。雪がしんしんと降り、吐く息は白く、寒さにアキラは身を震わせた。

 『貴方には不思議な力があります。空間形成能力。我らの千年王国を成す為に、その力、是非ともお貸しなさい』

 相変わらず声が響く。ふと、草から覗いている祭壇の手造りの十字架が目に入った。まさか、彼処から?
 アキラはそっと、木の枝で作られた十字架に触れた。
 すると真っ白な光がアキラを包み込む。あまりの眩しさにアキラは目を瞑り――

―――

 『選択をするのです』

 気がつけば白い空間にアキラはいた。上下左右真っ白な空間。そこに白い物体が四つあった。いずれもその姿は人とはかけ離れている。皆白とルビーやサファイヤ等の宝石を基調とした異形の姿だが、不思議と怖い気持ちは浮かんでこなかった。何故だろう。

 『此処にはいたくない。別の世界に行きたい、とお前は願ったな』
 『その願い、我らが叶えて差し上げましょう』

 二体の白い物体が交互に声を発した。思わずアキラは質問してしまった。

 「貴方達は、誰ですか?」

 その問いに答えるよう、四体は微かに光を増した。

 『我はミカエル』
 『ウリエル』
 『ラファエル』
 『私はガブリエル。人は我らの事を四大天使と呼びます』

 アキラは思わず跪いた。天使……本当にいたんだ。祈りを聞き届けてくれたんだ!

 「本当に、僕の願いを叶えてくれるんですか?」
 『無論。姉に会いたい、と願っておりましたが、お前の姉は生きています。今は別の時空に飛ばされていますが、間違いなく生きています』

 その言葉にアキラの大きな青の瞳に涙が浮かんだ。生きている。姉ちゃんは生きているんだ!

 「姉ちゃんに今すぐ会いたいです! 会わせて下さい、姉ちゃんに」
 『いいでしょう。ただし今すぐは無理です。お前が我らの願いを聞き届けてくれるのなら、必ず姉に会えるでしょう』
 「願い?」
 『此処とは違う別の世界に、我らは神の千年王国を築き上げようとしました。でも、その世界には悪魔が溢れかえっています。あの忌々しい黒翼の大天使によって』
 『そこでお前に、悪魔を倒し、我らの千年王国を築く手伝いをしてほしいのです。お前程の空間形成能力があれば必ずそれは為せるでしょう』

 四大天使の言う事を、十歳のアキラは完全に理解したわけではなかった。しかしずっと待ち望んでいた天使様が僕に願い事を持ちかけている、その願いを叶えれば姉に会わせてくれる――それだけで充分であった。
 十字架のペンダントを胸で握りしめる。姉とシド先生とお揃いのペンダント。姉との絆の象徴。

 「やります。僕、別世界に行って悪魔を倒してきます。そして姉ちゃんに会えるよう頑張ります! どんなに時間がかかっても、必ず「千年王国」というのを作って見せます!」

 そこまで言うと、四大天使の姿が一層光輝いた。光の中で天使達が微笑んだかのようにアキラには感じられた。

 『いいでしょう。今から貴方を別世界の東京に送ります。其処は魑魅魍魎が跋扈する恐ろしい世界です。それらを倒し、必ずや、神の千年王国を築き上げるのです』

 光の奔流の中、アキラは拳を握った。

 ――姉ちゃん、必ず迎えに行く。どんなに時間がかかっても、必ず会いに行くよ。だから、待っててね――

 光に向かって手を伸ばす。しかし小さな手は何も掴めないまま空を切り、やがてアキラの視界も意識も、白く、染まった。
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 アキラ、後に東のミカド国の初代王アキュラと名乗る少年は、空想癖が強い子供であった。
 母は仕事が忙しく、六歳違いの姉が幼いアキラの世話をしてくれた。
 アキラは周りの子と異なった目と髪の色をしていた。明るい青の瞳に金色の髪。姉は髪こそ黒髪だったが、瞳はアキラと同じく青く、その姿は他の子供達のイジメのターゲットとなった。
 石をぶつけられたり、髪をひっぱられたりして、泣くしかないアキラと対照的に、姉はいじめっ子に果敢に立ち向かっていった。
 そのせいで姉は生傷が絶えなかった。そんな姉の手当てをするのはアキラの役目であった。
 傷だらけで悲しそうに微笑む姉を見て、幼いアキラは密かに決意した。
 ――僕が、もっと大きく強くなって、姉ちゃんを守ってやる!

―――

 「姉ちゃん、みかどってなに?」

 ある日、姉が学校から借りてきた幼児向け絵本の「竹取物語」を自宅で読んでいて、アキラは家事をしていた姉に聞いた。
 姉とアキラが住んでいたアパートはとても古く、六畳一間に小さな台所がついているだけで、当時普及し始めたテレビもクーラーもなかった。姉は仕事で忙しい母の代わりによく家事をこなしていた。そのせいで姉の手にはあかぎれがいくつもあった。

 「みかど?」
 「うん、ここに書いてあるよ。“みかど”てなに?」

 姉が洗い物の手を止めて絵本を覗く。

 「帝ってのはね、昔の王様の呼び方だよ」
 「おうさま?」
 「うん、一番偉い人の事を、この時は“ミカド”て呼んでたの。簡単に言えば王様だね」

 王様。絵本で呼んだことがある。一番偉い人。王様は偉くてなんでも思い通りにできる。食べ物に困る事も、他の皆からいじめられることもなくなるんだ。

 「じゃあ僕、ミカドになるよ!」

 いきなりの弟の発言に、姉は目を丸くした。しかしアキラは真剣そのものだ。

 「僕が“ミカド”になったら、一番偉いんでしょ? そうしたら皆僕達の事いじめたりしなくなるし、お腹いっぱいご飯も食べられるよね! だから僕沢山勉強して、この国の“ミカド”になるんだ!」

 今の日本に、帝なんて役職はないことくらい小学生の姉にはわかっていた。だがアキラのキラキラ光る目を見ていると、否定しようという気にはなれなかった。

 「うん、頑張って“ミカド”になってね。そしてお姉ちゃんとお母さんを守ってね」
 「うん、僕偉くなるよ。誰にもいじめられないくらい偉く!」

 大人が聞けば微笑ましい子供の妄想だと笑われただろう。だがアキラは真剣だった。幼い姉弟は微笑みながら、そっと指切りをした。

―――

 「姉ちゃん、こっちこっち!」
 「待ってよ、アキラ」

 ある晴れた日曜日。アキラが姉の手を引っ張って近くの原っぱに連れて行った。
 長い間空き地だったそこは、草が生え放題で、二人の子供は草に埋もれて歩いていた。

 「こんなところに何があるの?」

 姉の問いかけにアキラはへへ、と悪戯っぽく笑ってみせた。

 「じゃーん!」

 アキラが指を指したものを見て姉は息を飲んだ。
 そこは、幾つも草を結び作られた、小さなドーム状の空間であった。
 生い茂る背の高い草は、其処だけぽっかりと口を開けており、中にはほんの少しの雑誌と駄菓子、そして小さな木の枝で作られた十字架が土に刺されている。

 「どうしたの、ここ?」
 「秘密基地だよ! 僕がこっそり作ったんだ! 祭壇もあるんだよ、ほら」

 枝を紐で結んで作った十字架を刺した土の盛り上がりが、アキラのいう「祭壇」らしい。シド先生の影響だな、と姉はくすりと笑った。

 「ここでね、僕ずっとお祈りしてたんだ。家がお金持ちになりますように、お母さんが家にいてくれますようにって。此処は僕だけの“教会”なんだ」

 嬉々として喋るアキラを姉は複雑そうな顔で見ていた。

 「アキラは……神様とか信じるの?」

 その言葉にしまった、とアキラは口を押さえた。何日か前、姉はシド先生に反論したのだ。神様なんかいない、神様なんか信じない、認めない、と。

 「あ、あの、僕は……」

 ぎゅ、と胸の十字架のペンダントを握る。あの言い合いの後、シド先生が自分と姉にくれたものだ。姉と、シド先生とお揃いのペンダント。姉は今でも神様を信じていないのだろうか。

 「そうね……シド先生の言う事は全部は信じられないけど……でも、いい神様ならいるといいね」

 寂しそうに姉は言う。その胸にはアキラと同じ十字架のペンダント。それに姉はそっと触れる。自分が触れては壊れてしまうかのように。

 「僕は……神様はいると思うんだ」

 腰をかがめてアキラは「祭壇」の方に近づく。そして手を組み目を瞑る。

 「こうやって祈ってると、いつか天使様が現れて、僕達を幸せにしてくれるような気がするんだ。だって、こんなにも僕達が辛い目にあってるんだから、神様が助けてくれないわけないよ」

 アキラの幼い横顔は、真剣に祈りを捧げている。常に虐げられてきた、幼い子供の唯一の拠り所が、ここで祈ることだった。
 人はどうしようもないほど辛い事に直面したとき、人ではない何かに縋る。それが偶像であれなんであれ。アキラは幼いながら自分の無力さを痛感していた。その気持ちが神への信仰心に変わったのかもしれない。

 「……そうだね、少しなら願いを叶えてくれるかもね」

 姉はアキラの隣に来て、同じように手を組み祈った。
 神様でもなんでもいい、私とアキラとお母さんがこれ以上辛い目に合わないように、心の中で願った。
 原っぱの、小さな「秘密基地」の中で、幼い二人の姉弟が互いの幸せを願って祈り続けた。

―――

 それから数年後、姉は中学に進級し、アキラは小学校に入学した。
 家は相変わらず貧しく、クラスの子からのいじめは続いたが、辛い時は心を宙に飛ばし空想に耽った。

 空想の中では、母が常に家におり、きちんと料理を作ってくれ、姉も自分も笑っていて、顔の知らない父親もいて、学校ではいじめられてなく、幸せな気持ちで毎日を過ごす、そんな今の生活とは正反対の空想を抱いた。
 外部からの辛い仕打ちに対する、一種の心の自己防衛であったが、いつしかアキラは空想の世界の方が本当な気さえしてきた。
 ここは本当の世界じゃない。本当の世界は別にある――子供には良くある妄想であったが、アキラのそれはとても強かった。綿密に、細部まで理想の世界を思い描く事ができた。
 いつか、きっと「あっちの世界」に姉ちゃんとお母さんも連れて行きたい。そんな決意すら固めていた。

―――

 そして姉が中学二年に進級し、アキラが小学二年生になった頃、一つの変化が訪れた。

 母が死んだのだ。
 原因は交通事故であったが、姉は自分が殺したのだと驚愕していた。
 姉はある時期から極端に喋らなくなった。理由を聞くと、「私の言葉は人を不幸にする」かららしい。
 母が事故に合う前の日、姉が母と口論になった。

 「嫌い、大っ嫌い! お母さんなんか死んじゃえばいいんだ!」

 はっとして口を押さえた姉の横で、アキラはオロオロするしかなかった。そして姉は自分の手を引き、シド先生の教会に連れて行った。
 その夜はそこで過ごした。姉は泣いていた。お母さんに酷いこと言っちゃった、どうしよう、と涙をポロポロ流しながら自分を抱きしめてきた。
 アキラもどうしたらいいかわからなく、ただ姉の背中をさすっていた。泣きながら。
 狭い椅子で泣きじゃくる姉弟をシドは何も言わず見つめていた。

―――

 そして母の埋葬が済み、アキラと姉は施設に引き取られたが、姉はシド先生と京都に行く事を告げた。
 なんでも姉の声には悪魔が宿っていて、シド先生は魔をもって魔を制すデビルサマナーらしく、京都の鞍馬山に行けば姉に取り付いている悪魔を払うことが出来るらしい。

 「姉ちゃん、何処に行くの?」
 「お姉さんは私と一緒に京都に行ってくるよ。なに、心配はいらない、ほんの二、三日で帰ってくるよ」

 シドの横に立っていた姉が、アキラの頭を優しく撫でる。亡き母にも似た細く小さな柔らかい手。

 「すぐ……かえっ、て、くるから……まって、てね」

 泣き出したいのをこらえてアキラは頷く。
 約束だよ。姉ちゃんが帰ってくるまでに、僕、もっともっと強くなるよ。もうお母さんはいないし、家にはお父さんがいないから、男の僕が姉ちゃんを守ってあげなくちゃ!

 シドと姉を見送ったその晩、アキラは神にお願いをした。

 ――神様、僕を、姉ちゃんを守れるように強くしてください。今まで姉ちゃんが僕を守ってくれたから、今度は僕が姉ちゃんを守る番。だから、心も身体も強くなりたいです――

 それから三日、一週間たったが、姉が帰ってくる気配はなかった。
 施設に手紙すら届かなかった。アキラは不安な日々を過ごし、ひたすら、秘密基地に行って姉の無事を祈った。
 だが一ヶ月経っても、姉は帰ってこなかった。
 流石におかしい、と感じたアキラは、施設を抜け出し、シドの教会へ向かった。シド先生なら何か知っているはず。もしかして姉より先に帰ってきているかもしれない。
 しかし、公園の外れにあるはずだった教会は、どこにもその姿がなかった。
 場所を間違えたのか? そんなはずはない。何年も通いつめた場所だ。間違える訳がない。
 近くを通りかかった通行人に教会の事を聞いた。すると通行人は訝しげに眉を寄せて言い放った。

 「何言ってるんだ。ここには最初から教会なんてなかっただろう」
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 アキュラはスーツの内側のポケットに手を伸ばした。そこから取り出したのは、一枚の白黒の写真。

 昔、姉が中学に上がった時に撮った、一枚しかない家族写真。
 そこには、安っぽい外出着姿の母と、慣れない制服を着て怒ったような顔をしている姉、その姉の足元に緊張しながら立っている幼い自分が写っていた。
 写真の裏を見る。そこに写真が撮られた年と、姉の名前が書かれているはずだった。
 しかし――

 「……なんだよ、これ」

 苦しげにアキュラは呟く。写真を持つ手が震えている。

 「……アキュラ?」
 「獅子丸、この字を読んでくれ」

 写真を渡された獅子丸は、訝しげな顔をしながら写真の裏を見る。そこには文字が書かれてあった。

 ――S4X年、■■■の中学入学式――

 ■■■の部分には、アキュラの姉の名前が書かれているのであろう。しかしアキュラも獅子丸もその文字を認識出来なかった。
 アキュラの姉である少女の名の部分だけが、まるで塗りつぶされたような、靄がかかったように写り、文字として識別することは出来なかった。

 「……獅子丸、お前も読めないんだな。姉ちゃんの名前」

 困惑する獅子丸をよそに、アキュラは静かに立ち上がり、そして腰の刀をすらりと抜き、黒蝿の喉に切っ先を当てた。

 「……貴様、何をした」

 怒気を孕ませた声で詰問されても、黒蝿の顔は無表情のままだ。その様子にアキュラの怒りは増した。

 「姉の名を思い出そうとしても、その部分だけ靄がかかって思い出せない。文字として書かれたのも同じだ。
悪魔、お前だな。お前はあの娘に、俺の姉ちゃんに何をした!?」

 ぐいっと顔を近づけて来たアキュラに、黒蝿は薄く笑った。その笑みはどこかアキュラを馬鹿にしているような色があった。

 「大したことじゃない」

 そっと、黒蝿が後ろに下がる。後ろには柵のついた小窓。その窓には結界用の札が貼ってある。

 「あいつが、俺の真名を奪ったから、俺もそうしたまでのこと。ついでにあいつの声も奪ってやった」
 「貴様!」

 アキュラが刀を振り下ろすより先に、黒蝿が翼を広げ、大きく羽ばたかせる。すると牢内に凄まじい風が起こった。
その風の強さにアキュラと獅子丸は顔を覆う。風は小窓に張ってあった結界の札を破く。
 牢の結界に隙間が出来た。黒蝿はその隙間にありったけの風を送る。すると窓側の壁に亀裂が走り、風に耐えきれなくなった壁は崩壊した。
そして黒蝿は崩壊した壁から飛んで外へ逃げ出した。

 「待て!」

 アキュラと獅子丸が叫ぶ。黒蝿のスピードは速い。一瞬こちらを向いたかと思うと、強烈な「ザン」をアキュラ達に食らわした。獅子丸とアキュラは後ろにとばされる。

 「獅子丸! 奴を追え!」
 「おう!」

 主の命を受け、獅子丸は牢から飛び出していく。アキュラは腰の皮ベルトで固定してあった聖書型コンプを取り出し開くと、一体の仲魔を召喚した。
 筋肉隆々の黒い半牛半人の魔獣・八坂牛頭丸は、アキュラの呼び出しに鼻息荒く答えた。

 「あの悪魔をやるぞ! 牛頭丸!」
 「了解。ウッシシシ……」

 アキュラがマントを引き剥がし、刀を構えると同時に、牛頭丸は身の丈程もある棍棒を握りしめ、獅子丸の後を追った。

―――

 その頃、重女は湯殿から出て身を拭いていた。
 久しぶりの風呂は暖かく、身体の緊張をほぐした。蒸せるような石鹸の香りが、血の匂いに慣れた重女の鼻孔をくすぐる。
 透き通っていた湯が汚れで黒く染まった。それを見た侍女達が苦笑いを浮かべる。重女は自分の身体がどれくらい汚れていたか思い知らされて、つい顔が赤くなった。
 身体を拭こうとする侍女からひったくるように布を受け取り、そそくさと身体を拭いたあと、用意された白い簡素なワンピースに着替えた。今までスカートを制服以外殆ど穿いたことがなく、ズボンに慣れていた身には、なんだか足元がすーすーして落ち着かない。
 ボサボサだった髪を櫛で整え、湯殿を出ようとした時、大きな音が聞こえた。その音に、侍女達がびくっと身体を震わす。
 何かが崩れたような音のあとに、男達の叫び声が聞こえる。重女はその中で、慣れ親しんだ気配を感じた。

 (黒蝿!?)

 間違いない、この気配は黒蝿のものだ。今までは感知することが出来なかったのに、牢から出してもらったのだろうか? それとも、牢を破って脱出したのだろうか。
 悲鳴と、金属音が聞こえる。まさか、誰かと戦っているのだろうか?

 何事かと怯える侍女達を置いて、重女はワンピースの裾を翻しながら黒蝿のもとへと向かった。

―――

 雷王獅子丸の剣技は実に玄妙であった。

 空中を飛び回る黒蝿に肉迫し、剣を振り下ろす。黒い羽が飛び散る。黒蝿は舌打ちし、「アギラオ」を放つ。しかし獅子丸は炎の玉をいとも容易く避け、再び黒蝿に向かって剣を突き出す。
 しかし黒蝿も負けていなかった。機動力では彼の方が上。獅子丸の剣裁きをいなし、空中へ逃げ、「ザンダイン」と「アギラオ」を放った。
 ザンダインをもろに食らった獅子丸に隙が生じる。獅子丸の腹に強烈な蹴りを入れる。大柄な武神の身体が吹っ飛んだ。
 ふと、後ろに気配を感じた。振り向いた時には刀を持ったアキュラが黒蝿を斬りつけようとしていた。
 すんでのところでそれをかわす。すると今度は後方から巨大な棍棒が黒蝿に向かって振り下ろされる。
 八坂牛頭丸の棍棒は黒蝿の羽を掠め、そのまま大地を揺るがした。その間を縫って再びアキュラが肉迫する。獅子丸仕込みの剣技は次第に黒蝿を追い詰めていった。
 三体一の不利な状況に関わらず、黒蝿は笑みを浮かべていた。久しぶりの戦い。黒蝿の血が、身体が喜んでいる。こんなに激しいのはあの時以来だ。シド・デイビスというサマナーと、彼が従えてたあの“大天使”と戦った、あの時の激闘以来――

 「獅子丸! 右に回りこめ!」
 「おうよ」

 右から獅子丸が、左からはアキュラが黒蝿に迫る。空中へ逃げようものなら、崩れた建物の上に立っている牛頭丸が攻撃を仕掛けるだろう。
 ここは再び「ザンダイン」で三人とも吹き飛ばすべきか――そんな事を考えた黒蝿に一瞬の隙が生じた。

 その隙をアキュラ達は見逃さない。左右からアキュラと獅子丸の刀が黒蝿を斬らんと迫り、上空から牛頭丸が棍棒を振り下ろしながら落下してくる。
 術の発動が遅い。身を刻まれるのを覚悟して、黒蝿は全身の筋肉に力を入れた。
 その時、

 「!」
 「なんだ!?」
 「モォ!」

 黒蝿を中心に、黒い影が広がった。その影は黒蝿を守るように卵の殻を思わせる形状に変化する。その影に、アキュラと獅子丸の剣は阻まれ、上空からの牛頭丸の棍棒の攻撃もふさがれる。
 影が晴れていく。身構えた三人の目に写ったのは、黒蝿の横に立ち、手を前に突き出している小柄な少女であった。
 少女――重女は白いワンピースを土ぼこりで汚し、下は裸足のままだった。息が荒い。此処まで走って来たのだろう。
 驚きに目を丸くしているアキュラの瞳と、重女の瞳が交差した。二つ青の眼。異人の血を受け継いだ、皆とは違う、穏やかな海のような、澄み渡った空のような、明るい青――

 「姉……ちゃん?」

 アキュラは思わず手にしていた剣を落とした。そして重女へと手を伸ばす。
 重女は動けなかった。アキュラの青い瞳から発せられる真剣な眼差しは、重女の心と身体を縛り付けた。
 やはりそうだ、この瞳、透けるような金髪。姿形は成長していても、瞳に宿している光はあの頃と同じ――

 アキラ。

 愛おしい弟の名を発しようとしても、それは声にならなかった。もう彼女は声を出すことが出来ないのだから。
 しかし、アキュラはまるでその声が聞こえたかのように笑顔になった。くしゃくしゃの笑顔。涙を浮かべてアキュラは重女にしがみつく。

 「やっぱり……やっぱり姉ちゃんなんだね。会いたかった、ずっと会いたかったんだよ」

 黒いデモニカスーツに身を包んだ少年が、嗚咽まじりに叫ぶ。涙は重女のワンピースを濡らす。
 重女はその肩に手を這わせた。年相応の少年の肩は、今までどれだけのものを背負ってきたのか。どれだけの戦いを体験してきたのか。

 『ア、キラ』

 びくり、とアキュラの身体が震える。その言葉を発した重女自身も驚きを露わにした。何故なら、アキュラの頭蓋骨を振動させて直接届いたその声は、低い男の声だったからだ。

 いつの間にか重女の肩に男の手が乗っていた。その手の持ち主は、重女唯一の仲魔。重女の声と名を奪った張本人――

 『黒蝿? もしかして今の、あなたが……?』
 「…………」

 黒蝿は答えなかった。ただその暗い瞳が言っていた。
 俺の声を使え、と。

 「姉ちゃん……?」

 アキュラが重女の顔を覗く。心配そうなその顔は、間違いなく、重女の血の繋がった、たった一人の弟のものだった。

 『アキラ……ごめん、ごめんね。帰ってくるのが遅くなって、本当にごめんなさい……』

 アキュラ、いや、アキラの頭に響く声は、相変わらず黒蝿の声であった。
 しかしアキラは重女の身体を抱きしめた。声は違っても、その言葉は、目の前の最愛の姉のそれだと分かったからだ。

 「会いたかった……会いたかったよ。やっと、やっと会えたね、姉ちゃん」

 アキラは泣いていた。まるで迷子になった子供が探し人を見つけたように。
 重女も泣いていた。ずっと探していた弟を抱きしめながら。離れていた時間を埋めるように。強く。

 獅子丸と牛頭丸は顔を見合わせて首を傾げていた。その中で黒蝿だけが、眉を寄せてじっとその姉弟を見ていた。憐れむかのような、ほっとしたかのような表情で。

 別世界の東のミカド国、そこで若き国王とその姉が、長き時を経て再会を果たした。
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 ――姉ちゃん、どこに行くの?

 『お姉さんは私と一緒にちょっと京都に行ってくるよ。なに、心配はいらない。ほんの二、三日で帰ってくるよ』

 姉ちゃんが僕の頭を撫でる。柔らかく、温かい小さな手。お母さんの手と良く似ている。

 『すぐ……帰って、来るから、待って、てね』

 微笑みながら姉ちゃんが僕に言う。
 約束だよ。姉ちゃんが帰ってくるまでに、僕、強くなるよ。今まで僕を守ってくれた姉ちゃん。今度は僕が姉ちゃんを守るんだ。もうお母さんはいないし、家にはお父さんがいないから、男の僕が強くならなくちゃ。姉ちゃんを守れるように、心も身体も強く!

 大柄なシドに手を引かれ、姉が行ってしまう。
 少年は、その後を追いかけたい衝動を我慢し、ぎゅ、と拳を握った。

―――

 「……アキュラ、時間だ」

 束の間の休息。ソファーにて横になっていたアキュラは、仲魔の雷王獅子丸の声で目が覚めた。
 ここは東のミカド国。城内の王の執務室。豪華な調度品と大きな執務机が並ぶ部屋の隅に置かれた来客用ソファーで、この国の王であるアキュラは、執務の合間を練って仮眠をとっていた。

 「獅子丸か。なんだ」

 気だるそうにアキュラは上体を起こした。ぱさ、と金色の前髪が顔に落ちる。

 「あの悪魔を尋問する予定だろう。忘れたのか」

 獅子丸が溜め息混じりに言う。
 アキュラの仲魔の一人でもあり、側近代わりのこの神獣は、王であるアキュラの一日のスケジュールを管理している。雷王獅子丸は、アキュラにとって頼れる仲魔でもあり、執事でもあり、厳しい教師でもあった。

 昨日、封印していたターミナルから現れた一組の男女は、今は牢に入れてある。男の方は黒い翼を生やし、明らかに人ではなかったので、悪魔専用の特別牢に放り込んでおいた。今日、その悪魔を尋問する予定だ。他ならぬ、アキュラ王が直接。

 「何もお前直々に行かぬとも、サムライ衆にまかせておけば……」
 「俺があの悪魔と直接話がしたいんだよ。それに……」

 その後に続く言葉をアキュラは飲み込んだ。
 あの悪魔と共にいた少女。今は別の牢屋に入れているが、少女は、アキュラの良く知っている人物に酷似していた。
 しかし「彼女」なわけがない。あまりに似すぎているのだ。彼の覚えている「彼女」と。

 「悪魔と一緒にいた娘の尋問は誰が?」
 「キヨハルが行っている。キヨハルの奴、張り切ってたぞ。ターミナルから来た彼女を「天使」と信じているらしい」

 アキュラは苦笑した。天使と悪魔が一緒にターミナルから降り立ったなんて、キヨハルさんらしい考えだ。

 「行くぞ」

 ばさり、とマントを翻し、アキュラは獅子丸を連れて執務室を後にした。

―――

 こんこん、こんこん。
 少女が牢の壁を叩く。固い石でできている。しかし構造は単純だ。牢屋の中には固いベッドと、簡易トイレらしきものがひとつづつ。小さな窓には柵が埋め込まれ、脱走防止になっている。ドアには覗き窓と、食事を出し入れする小さな出窓がついていた。
 何もかもが本で見た中世ヨーロッパの牢と酷似していた。
 昨日“ターミナル”と呼ばれていたあの場所はとても近代的な様子だったのに、ここや、外の街並みは、中世時代のそれとほぼ同じように感じた。このちぐはぐさはなんなんだろう。

 そっと、少女は影を操作しようとした。しかし影は少しも動かない。

 (やはり駄目か)

 昨日から何度試しても、影の造形が出来ない。
 影の魔法さえ使えれば、こんな古い牢屋から出ることが出来るのに。どうやらこの牢には、魔法を抑えるなにかしらの処置が施されているらしい。

 『……黒蝿?』

 少女は黒蝿に念波を送ってみる。しかし返事はない。黒蝿は少女とは別の牢に連れていかれた。どれくらい離れているのかわからないが、もしかしたら黒蝿の牢にも魔法を使えなくさせる処置が施されているのかもしれない。

 (酷い事、されてないかな)

 ベッドの上で、少女は膝を抱えぎゅっと縮こまる。
 今まで黒蝿が側にいるのが当たり前であった。悪態をつきながらも、彼は決して自分の側を離れなかった。念波で呼びかければ答えてくれた。ただ単に監視していただけかもしれないが、少女は自分が独りぼっちじゃないとわかり安心出来た。
 黒蝿の姿が見えない、念波にも答えて貰えない事がこんなに心細いとは知らなかった。

 自分はこれからどうなるんだろう。
 あのアキュラという少年。ここ――東のミカド国というらしい――の王と名乗った。自分と同じくらいの年頃に見えたが、それよりもあの容姿に少女は惹かれた。

 さらっとした金髪に、明るい青い目。似ている。「あの子」に。しかし「あの子」な筈がない。あの子――アキラは、まだ八歳のはずだ。あの少年はどう見ても自分と同い年か少し上。アキラなはずがない。なら、彼は一体――?

 ガシャ、と音がして、鉄製の扉が開く。少女はベッドから降りる。食事の時間か? それともまた尋問か?

 「おやおやおや、女の子だ! 話には聞いていたけど本当にそっくりだ!」

 扉から入ってきた人物を見て、少女は驚いてとっさに身構えた。
 その人物は初老の男性で、長い白髪を伸ばし放題にし、青い修道衣にも似たボロボロの着衣を纏っている。それだけでも異様だが、少女を更に驚かせたのは、その老人の顔に無数の十字の傷があった事だ。

 「ね、ね? 君、天使なのかい?」

 老人が少女に迫る。少女は異様なその雰囲気に気圧され思わず後ずさる。

 「無駄だキヨハルさん。その子は喋れない」

 扉の向こうに構えていた、見張り役の騎士のような男が老人に告げる。キヨハルと呼ばれた異様な男は、「分かっているよ」と騎士に返した。

 「安心して。僕は君に手荒な真似をするつもりはないから。その証拠に、ほら。今日は服と筆談用の紙とペンを持ってきたよ。いつまでもそんな血の匂いがする服じゃ君も嫌だろ?」

 まくし立てるキヨハルをよそに、少女はくんくんと服の匂いを嗅いだ。
 もう鼻が麻痺して何も感じないが、影の鞍馬山での生活で、悪魔を倒し解体する際、返り血が付くことが多々あった。こまめに洗ってはいたが、やはり染み付いた血の匂いはなかなか取れないらしい。

 「湯殿を使う許可も出たよ。身体を洗ってさっぱりしたいだろう? アキラ君から君を囚人ではなく客としてもてなすように言われてるんだ」

 アキラ。その人物名に少女は大きく反応した。アキラ? アキラって、まさかやはり私の知っている「あの子」なの――?

 そうキヨハルに問い詰めたくても、喉からはひゅう、と木枯らしの吹くような音しか出ない。そう。少女は声を出せない。だから昨日行われた尋問でも、声を出さない少女に、担当の尋問官は最初怒っていたが、事情が分かると筆談で答えるよう紙とペンを渡された。
 そこに日本語で自分の名前と何故ここに来たのか分からない旨を書くと、尋問官には通じた。どうやらこの国では日本語が通用するらしい。

 少女は自分の名前を「重女」と書いた。
 無論、偽名である。本当の名は思い出したくても分からないから。

 かなめ、と名乗ったのは、なんてことはない、少女の母の名が「かなえ」だったとのと、漢字はクラマテングの最後の言葉である、『罪を重ね続ける人の子よ』からとった。重女。罪を重ねる女。母を言霊で殺してしまい、生きる為に悪魔の肉を食べた自分にはぴったりな偽名だと少女は思った。

 「えっと、重女ちゃん、だっけ? とりあえず食事にしない?  今日のはとても豪華だよ。アキラ君の命令で料理番が手によりをかけて作ったんだから。食事は貴賓室でとろう。でもその前に湯浴みかな? おおい、君。この子を湯殿に案内してあげて」

 キヨハルがぱんぱんと手を鳴らすと、小綺麗な格好をした侍女らしき女性が数名牢に入ってきた。皆少女、いや、重女を見て張り付いたような笑みを浮かべている。
 状況が飲み込めず、オロオロする重女の腹が急に鳴った。ぐぅ~という間抜けな音に、重女は腹を押さえ顔を赤くし前屈みになる。

 「……そうだ、これ。アキラ君からの差し入れ。君に渡してくれってさ」

 キヨハルが少女の手に何かを乗せる。長方形のスティック上の黒い包装紙に包まれたそれは、スニッカーズというチョコだった。

 「……!」

 重女は驚きと感動のあまり息を呑んだ。
 このスニッカーズは、昔シドの教会に遊びに行っていた時、シドがよくくれたお菓子だったからだ。
 濃厚な甘さのそのチョコは、すぐにアキラと重女の大好物になった。影の鞍馬山での生活でも、何度このチョコを食べたいと思ったことか。
 重女がこのチョコが好きと、キヨハルの言う「アキラ君」は分かっていたのだ。出なければわざわざ差し入れにスニッカーズを選んだりしない。

 (アキュラ……貴方はやっぱり私の知っている「アキラ」なの?)

 包装紙を破り、重女はスニッカーズを口にした。濃厚なチョコの味が舌に響き、甘い味が身体中に広がる。それは、幸せの味。
 かつてシドの教会でアキラと共に食べた味。その時の感情が思い出され、懐かしさと嬉しさに重女は涙した。

―――

 「お前、悪魔だろ?」

 悪魔の術を封じる特殊牢。その中で獅子丸を連れたアキュラと黒蝿が対峙していた。
 黒蝿は口の端に笑みを浮かべ黙っていた。その様子にアキュラは苛つき、語気を強くする。

 「お前の名は? あの人間の娘とはどういう関係だ?」
 「………名はやたノ黒蝿。勿論偽名だがな」
 「貴様、ふざけてるのか」

 獅子丸が腰の刀に手を添えながら威嚇するように言う。だが黒蝿の顔から笑みは消えない。それは自嘲の笑みであった。

 「俺の本当の名を知りたければあいつに聞くことだ。なんせあいつが俺の真名を奪ったんだからな」
 「……どういうことだ? あの娘はお前のなんだ?」

 黒蝿は答えない。獅子丸が一歩踏み出そうとしたが、アキュラがそれを手で制す。

 「もしかして、あの娘は悪魔召喚師で、お前は仲魔か?」

 アキュラの問いに黒蝿は喉を鳴らしてくつくつと笑った。そんな事を問うアキュラを馬鹿にするように。

 「さあな」

 その言葉に流石のアキュラも怒り、黒蝿の襟を掴み顔を近づける。アキュラの青の瞳と黒蝿の暗い瞳が重なる。

 「お前はあの娘にとりついているのか! なら今すぐあの娘を解放しろ! あの娘はただの人間だろ!」
 「……何故そこまであいつにこだわる?」

 胸ぐらを掴まれたまま発した黒蝿の問いに、アキュラははっとなった。が、すぐに苦しげに眉を寄せる。

 「あの娘は……似すぎている。俺の良く知っている人に」

 だが、とアキュラが続ける。

 「そんなはずはない。あれから七年も経ったんだ。なのに……」

 そう、全く同じなのだ。アキュラが探し求めていた人物と。その人物と最後に出会った時の姿と、彼女は“同じ”なのだ。顔も、背丈も。服装も。

 『待っててね』

 今でも思い出せる。「彼女」の優しい声。儚げな笑顔。常に自分を守ってくれた細い肩。自分と血の繋がった、最愛の――

 「あれ?」

 アキュラが黒蝿を放す。少年は頭を押さえ、苦悩の表情に変わる。

 「アキュラ? どうした?」

 獅子丸が異変に気づき、声をかける。アキュラはそのまま地に膝をつけてしまう。
 黒蝿はその様子を黙って見下ろしていた。なんの表情も浮かべなく。

 「おかしい……俺、姉ちゃんの名前が分からない!」
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 ぐるぐる、ぐるぐる。視界が廻っている。身体が浮遊し、上下の感覚がわからない。
 気持ち悪い。吐き気を催してきた。少女は手を伸ばし掴まれるものを探す。
 何かが指に触れた。必死に“それ”を掴むと、“それ”はしっかりと少女の手を握りかえしてきた。その低い体温に少女は安心した。
 やがて浮遊感が薄れていき、少女の周りの様々な色彩の靄は晴れていき、少女の視界は真っ白に染まった。

―――

 光が収まってきた。地に手と足が着いた感触。その感触はひんやりとしており、そして固い。
 恐る恐る少女が目を開くと、強烈な光が暗闇に慣れていた少女の目を焼く。

 「っ!?」

 少女は目を押さえ、うずくまる。網膜に光が焼き付き、目が潰れそうだ。

 「何やってるんだ」

 傍らで声が聞こえた。この声の主は知っている。
 あの薄暗い影の結界で共に過ごした、少女の唯一の「仲魔」

 『黒蝿? そこにいるの?』
 「ああ」

 黒蝿は素っ気なくそう答えると、少女の手を掴み無理やり立たせた。
 かしゃん、と少女の手が金属のようなものに触れる。まだくらくらする頭を押さえ、目を徐々に開いていった。
 ちかちかとまだ白くちらつくものがあるが、視界は段々と光に慣れていき、目の前の物体を認識することができた。
 少女の手が触れていたのは、鉄柵であった。
 目を細めたまま、少女は周りを見渡す。
 其処は大きな円形の部屋だった。壁が僅かに湾曲し、三角のタイルのようなものが組み合わさり形成している。
 少女と黒蝿がいるのは、この部屋の中央にせり出した足場のような所だった。二人立つのがやっとの広さで、落ちないようにか、柵で囲まれている。
 ふと、小さな物体が目に入った。それは小さなテレビのようなものだった。少女の家にはテレビはなかった。だがテレビというものがどんなものかは知っている。近所の店で並んでいたのを見たことがあるし、街頭テレビでテレビ番組を見たこともある。
 しかし目の前のそれは少女の見たことのあるテレビより遥かに小さく、またとても薄かった。
画面に文字が並んでいる。少女はその文字を認識した。

 ――ターミナル、起動完了――?

 「ここはどこだ? 俺の知っているどの世界とも違う。随分と技術が進んでいるようだな」

 黒蝿が少女の疑問を代弁するかのように呟いた。確かにここは不思議な場所だ。
 シドに連れられた、京都の鞍馬寺の地下にあったあの施設も随分近未来的な機械が沢山あったが、ここは更に一歩進んでいる。より直線的でより洗練されているように少女は感じた 。

 二人が立っている足場には階段がついていて、それは鉄の扉に繋がっていた。あそこにいけば外に出れるのか。
 まだ光に慣れなく視界が白いものでちらつく少女は、黒蝿に手を引かれ階段を降りて鉄の扉を開けた。

―――

 扉を開けると、さらに強い光が飛び込んできて、少女はまた目を瞑った。しかし先ほどのような冷たい無機質な光とは違う、暖かい光。これは、太陽の光だ。
 ざわ、と人の声が四方八方から聞こえてくる。その声は、驚きの声であった。

 「誰? あの人たち?」
 「ターミナルの封印を解いたの?」
 「あの黒い男、翼が生えてるぞ」
 「人外の者……悪魔か!?」
 「なら、あの女の子は……」

 ざわざわ、ざわざわとした人の声が黒蝿と少女を包む。少女がそっと目を開く。
 其処には黒蝿と少女を包む人垣が出来ていた。しかし人々の服装は変だ。
 まるで教科書で見た中世ヨーロッパを思わせるクラッシックな出で立ちだ。粗末な農民風の服装から、貴族のような装飾華美な服装まで、種類は様々であった。

 (な、なんなの? ここ?)

 先程の黒蝿の呟きと同じ事を胸中で思った。心細くなりそっと傍らの黒蝿の衣の裾を握りしめた。黒蝿の横顔を見る。彼も驚きを隠せていなく、警戒の色を顔に滲ませながら辺りを見回している。

 「ええい、どけどけ!」

 人垣の向こうから野太い男の声が聞こえた。その声の主は人垣を掻き分け、少女と黒蝿の前に現れた。
 その者を見て少女は息を飲んだ。
 赤い鬣を靡かせ、武将を思わせる中華風の甲冑を纏った、獅子の顔を持つ、二足歩行の半獣半人の男であったからだ。
 ひゅ、とその男が腰の長刀を抜き放ち少女と黒蝿に切っ先を向けた。

 「貴様ら、何者だ? 何故ターミナルから出てきた?」

 朴訥とした、しかし威圧感のある声で男は二人に詰問する。答えようとしても、ひゅう、という音しか少女の喉からは出なかった。
 忘れていた。私は声を出せないんだった。

 「ターミナル? なんの事だ?」
 黒蝿が聞き返す。
 「とぼけるな。今貴様らが出てきた場所だ。あれだけ厳重にアキュラが封印していたというのに、その封印をどうやって解いた!?」

 アキュラ? その単語に少女は反応した。その名前は、彼女が一番会いたい人物の名に酷似していたからだ。

 「その辺にしておけ、獅子丸」

 獅子丸と呼ばれた男の更に後ろの人垣から、涼やかな少年の声が聞こえた。それと同時に、周りの人々がざ、と道を開け、頭を垂れた。まるで聖書に描かれていたモーゼの海を割るシーンのように。
 割られた人の道を数人の従者と共に此方にくる人影が見えた。その人影は男のようだ。しかし獅子丸と呼ばれた半獣半人の大柄な男とは違い、その背格好は少年のもののようだった。
 黒蝿と少女は警戒を解かずその少年が近づいてくるのを待った。

 獅子丸の横に立った少年は不思議な格好をしていた。

 黒に近い深緑の身体のラインがわかるぴったりとしたスーツを着て、顔には四角い意匠のヘルメットを着用している。目にあたる部分が横に細い長方形型で、僅かに赤く光っている。

 「アキュラ、またそんな格好を……」
 「この格好が一番落ち着くんだよ。討伐隊にいたころを思い出すから」

 そういい、アキュラと呼ばれた少年は、ヘルメットの細長い赤い目で怪訝そうな黒蝿を見、そして少女をじっと見つめた。
 無機質なヘルメットから視線を向けられ、少女が身体を強ばらせる。

 「………」
 「………」

 じっと、少年は少女を見つめ続けた。どのような表情をしているかは四角いヘルメットを着けているのでわからない。だが、ヘルメットごしに向けられる視線が、妙に熱が籠もっているように少女には感じた。
 
 「アキュラ、女人を怖がらせるものではないぞ。見ろ、すっかり怯えているではないか」

 獅子丸の諫めの声に少年は「あ、ああ」と曖昧に頷いた。

 「しかし、良く似ている……」

 ん? と獅子丸が聞き返す間に、少年はヘルメットを取った。
 ふわ、とヘルメットから金髪が出てきた。日の光に照らされ、耳まで隠れるショートカットが光を反射し、少女の瞳にその金色を映し出す。
 やがて線の細い、少年から男へ変貌途中の顔の睫毛が震えたと思うと、意志の強さを感じさせる明るい青い瞳が開かれた。
 少女と同じ、他の子の黒い瞳とは違う、澄み渡った青空のような、青の、眼――

 「誰だ? お前は?」

 黒蝿が問う。その不躾な言い様に、獅子丸が下げた刀を再びあげようとした。が、少年がそれを手で制した。
 少女はただ呆然と事の成り行きを見守っていた。似ている、「あの子」に。いや、しかし――

 「お初にお目にかかる。僕は、アキュラ。ここ東のミカド国の王だ」
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 血で身体を汚し、死骸の匂いに慣れた少女の鼻孔に、香ばしい肉が焼ける香りが届いた。
 先程解体したカタキラウワの肉を、尖った木の枝で刺して焚き火で焼いている。
 火をおこしたのは目の前の男だ。小枝を集めて「アギ」という火の術を唱えると、あっという間に火が付いた。これは、魔法か何かだろうか。

 「……酷い様だな」

 男が呆れたように言う。ムッとして自分の手を見てみると、その手はべったりと血がついており、真っ赤に汚れていた。
 手だけではない。服にも返り血がついて、この様子だと顔にもついてるのだろう。指導されながらとはいえ、一匹の豚に似た悪魔を解体したのだ。しかも素人が。
 もちろん血を避けるためのエプロンなどしていなく、下手くそな手つきで包丁を振るって、浴びなくてもいい血まで浴びてしまった。
 手を洗いたい。しかしここには水道など通っていない。先程の小川で洗ってくるしかなさそうだ。

 『ちょっと、手を洗ってくる』

 男との"念話"も解体中に大分慣れた。
 要はテレパシーみたいなものだ。伝えたい言葉を頭の中に浮かべて男に送る。すると男は答えてくれる。

 「別に今の格好でもいいんじゃないか? みっともなくて」

 にやつきながら言う男を少女は睨む。
 念話の不便なところは、自分の感情まで男に伝わってしまうことだ。
 現に今だって、私がこの格好を恥ずかしいと思っている事が、男には"わかった"んだ。
 自分の心を読まれるのは不快だ。感情が伝わらないようどうにか気をつけなければ。

 「…………」

 き、と男を睨んで、少女は近くの小川に手を洗いに行った。水に手を浸し洗うと、川の水が真っ赤に染まった。
 手と顔の血は大分取れたが、匂いは染み付いて取れなかった。

―――

 先程あんな凄まじい光景を見たので、食欲など沸かなかったが、何か食べないと体力が減り、最悪餓死してしまう。
 肉が焼けたらしい。焚き火の中から枝をとる。熱い。思わず手を離して、地面に落としてしまう。しまった。また焼き直しだ。
 焚き火を挟んだ所に座る男はその様子を見て微かに笑った。

 「…………」

 土を払い、もう一度焼き直した肉を口に運ぼうとして、少女は手を止めた。そして近くの石に肉が刺された枝をたてかける。

 「どうした? 食うんじゃなかったのか」

 男が問う。生きるために悪魔の肉を解体し食べると決めた女だ。今更怖じ気づいたのだろうか。
すると、少女は両手を胸で組み、目を瞑りそっと顔を俯けた。

 「……なんだそれは」
 『食前の祈り』
 「何に祈るんだ」
 『……神様に?』

 ぶはっ、と男が吹き出した。口元を笑みの形に変え、喉を震わせくつくつ笑っている。可笑しくて堪らないというように。

 「………」

 少女の白い顔が赤くなる。だが両手は崩さない。

 私だって神様なんて本当は信じていない。だけど仕方ないじゃないか。教えられ身についた習慣はなかなか治らない。

 『シドが、食事の前には神に日々の糧を恵んでくれた事に感謝して祈りなさいって言ってたから……』

 シド、と聞いた途端男の顔が険しくなる。

 「そのシドという奴は、黒人の男の神父か?」
 『……? そうだけど?』

 ぎろり、と男の眉が寄り、目が細められる。憤怒が押さえきれないというように。その表情に少女はびくついた。一体シドがどうしたのだろうか。

 「シド・デイビス。あいつは、俺を捕まえたサマナーだ」

 ぎゅ、と拳を握りしめ男が血を吐くように呟いた。名前を出すのも憎らしいというように。

 『シドに捕まったの?』
 「…………」
 『何か悪いことしたの?』
 「…………」

 男は答えず少女を睨む。肯定の沈黙であった。

 ――シド……シドはやっぱりデビルサマナーで、悪魔をやっつけてたんだね。
 でも、なんであんな事をしてたの? 信じてたのに。私も京子のようにするつもりだったの? 彼処で何してたの? シドはもう怖い大人になっちゃったけど、できるならもう一度話がしたい。

 「俺もあいつに会いたい。会って大天使共々殺してやりたい。だから早く力をつけてこの結界を解け。こんな所に閉じこめられていては堪らん」

 ぐい、と少女の前にもう一つ肉の刺さった枝を差し出す。少女は恐る恐るそれを受け取る。

 シドの事やアキラの事は気になるけど、今はとりあえず体力をつけなくちゃ。
 少女は悪魔の肉を食べた。カタキラウワの肉は豚肉に似た味がして、一噛み二噛みするうちに肉汁があふれ、肉を飲み込むと、身体からだるさが抜け、気力が溢れる気がした。

―――
 
 それからよく影の鞍馬山にはカタキラウワ、クダ、コッパテング等の悪魔が現れた。

 黒い男いわく、少女がこの結界を造ってしまった際、鞍馬山にいた悪魔達まで引き込んでしまったのではないかと言う話だった。
 少女は男に教えられて、与えられた影の能力を使いこなす事を覚えた。自分の影を頭にイメージしたものに変形できる。
 最初に作った包丁を始め、刀に鍋、細部はぼやけてるものの、一度米軍基地の近くを通った時に見た、出入り口の警護の兵士が持っていた銃まで作れた。もちろん弾丸がないので銃を撃つことはできなかったが。
 しかしこの影の造形物は、強い衝撃を受けるとすぐ崩れてしまうのが難点だった。そして有機物は作れなく、一度にいくつもの造形はできない。この点は少女が成長すればもっと作れる量が増える、と男は言った。

 影で出現する悪魔を倒し、男がマグネタイトを吸い、少女がその死骸を解体して食べた。人型のコッパテングを解体するときは流石に抵抗があったが、男が根気よく教えたお陰で、泣きながら嘔吐を繰り返しながらも最後まで解体でき、食べる事ができた。コッパテングは鶏肉に似た味がした。慣れとは恐ろしい。

 まだ数日にも感じたし、もう数ヶ月経ったようにも感じたある日、少女は川で服と身体を洗っていた。
 悪魔を解体するときにつく返り血のお陰で、洗っても洗っても服と身体からは血の匂いがとれなかった。

 がさ、と後ろの草葉が揺れた。
 「!」
 反射的に影を鋭利な形に変え、音のした方向に投げた。しかしそこにいた黒い男はそれをかわし、じっと全裸の少女を見つめていた。

 「……!」

 男だと気づいた時、咄嗟に身体を手で隠し、やがて影が彼女の身体を覆った。少女は真っ赤な顔で男を睨む。
 男はその視線を受けてくく、と馬鹿にするように笑った。

 「大分影を使えるようになったじゃないか」

 顎に手を当て笑いながら男が言った。

 「…………」

 裸体を影で隠しながら、少女は常々思っていた疑問を問いかける。

 『悪魔。貴方は……』
 「黒蝿でいい」
 『!』

 少女の瞳が大きくなる。

 「どうせお前は俺の名を返す気がないのだろう。なら好きに呼べ。黒蝿でもなんでも」

 その言葉を受けて、少女が笑みを浮かべた。
 視線を振り切るかのごとく、男は不機嫌そうに横を向くと、「で、まだ術は覚えられないのか」と少女に問うた。

 「…………」

 少女の顔から笑みが消えた。
 そう、確かに少女は影の造形魔法は使いこなせるし、大分上達したが、悪魔、いや、黒蝿の使うようなアギやザン、氷の魔法のブフや電撃のジオ、回復のディアに支援魔法の類まで、何一つサマナーが使えて当然の術を覚えることができなかった。
 術だけじゃない。使役する悪魔――仲魔というらしい――の餌となるマグネタイトすら生成することすらできない。これはサマナーにとっては致命的だ。
 サマナーの血を引くものなら極自然に出来るはずなのに、一般人である少女にはこれらの事は何一つ出来なかった。唯一、やたノ黒蝿と名付けた悪魔を現世に縛り付けていることが、サマナーらしいといえるかもしれない。
 或いはシドの持っていた悪魔召喚プログラムがあれば話は違っていたかもしれないが、それは詮無きことだ。

 『……私は、サマナーになる気はないし、術は影の魔法だけで充分。それより、悪魔、いや、黒蝿。何故貴方は私を殺さないの?』

 ぴくり、と黒蝿の形のいい眉が動いた。少女はじっと黒蝿を見つめる。

 ずっと不思議だった。私を殺したら名前を取り戻せ力が戻り、この結界から抜け出す事が出来るはずなのに、こいつはそれをしない。現に今だって、全裸で隙だらけの私の背後にいたのだ。殺そうと思えば何時だって殺せたのに、何故それをしなかったのか。

 「お前が生きてないと俺の真名を取り返せないからだ」

 悪魔、いや"やたノ黒蝿"は吐き捨てるように答える。

 「お前が死んだら、俺は永久に真名と力を取り戻せない。生きているうちに名を返してもらう必要がある。お前に死なれたら困るから影の使い方まで教えているんじゃないか」

 話し終えて、男の顔は益々不機嫌そうになった。少女が、微笑んでいたからだ。

 『なら、協力しようよ』
 「は?」
 『私もアキラに会うまで死ぬわけにはいかない。貴方も私に死なれたら困る。私も貴方もこの結界から外に出たい。
 なら、やたノ黒蝿、私の仲魔になって、アキラに会うまで私を守って。
 私も貴方の目的に出来る限り協力する、無事にここから帰れたら名前も返す。それまで貴方を守るよ。だから……』
 「マグネタイトも作れない、術も使えない小娘が、俺を守るだと?」

 ぐ、と少女は念話を止めた。だがすぐに黒蝿を見つめたまま続ける。

 『マグネタイトは他の悪魔や人から奪って与えるから。その方法を教えて。術は使えないけど、影の魔法を鍛えてもっと強くなるよ。だから私の仲魔になって。お互い目的のために協力しよ』

 暫しの沈黙。少女の青の瞳はじっと黒蝿をみつめる。あの瞳、死にかけていた時に「たすけて」と自分に懇願した時と同じ、必死な瞳――

 「……もう真名を奪われた時点で、強制的にお前から離れられなくなってしまった。お前が名を返さない限り、この関係は変わらない」

 その言葉を受けて少女の顔が明るくなった。

 『なら、もう仲魔ってこと……?』
 「だからそうだと言ってるだろう。強制的にされたがな」

 仲魔。デビルサマナーが使役する人外の存在。その意味を少女は正しく理解出来ていなかった。
 だが少女は嬉しかった。きっとそれは、仲魔を「友」と同義語だと勘違いしてたから。

 『宜しく。やたノ黒蝿』
 「…………」

 差し出された少女の手を黒蝿は握らなかった。代わりに不機嫌そうに鼻を鳴らし、黒い翼をはためかせて消えた。

 影の結界、鞍馬山の一部を模倣した閉ざされた世界の中で、名と声を奪われた少女と、同じく名を奪われ"やたノ黒蝿"と名付けられた悪魔が、歪な形で契約を交わした。
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 少女の答えを聞いて、男は眉間に皺を寄せた。

 「何故だ? 何故拒む?」
 少女が男の手を退ける。

 ――だって、貴方嘘をついてる。
 分かるもん。私達を苛めてきた奴等と同じ。笑顔で近づいて、後から殴ってくる、あいつらと同じ匂いを肌でびりびり感じるの。

 それに、と、少女は続ける。男は少女を睨んだまま黙っている。

 ――貴方は、悪魔……みたいだから……

 その念話に、黒い男は口角を上げ、喉を震わせ笑い声を上げた。それに合わせて深緑の長髪が揺れる。

 「悪魔……ねえ。
 確かに俺はお前ら人間からは悪魔と呼ばれている。だがな、神? 悪魔? そんなのお前ら人間が勝手に名付けただけだろうが」

 笑いながらも、苛立ちを隠せない声色であった。
 男の瞳が細められ、その視線を受け怯えた少女は立ち上がり、少し後ろに下がった。かさ、と草の踏む音がして、男が前に出る

 ――だって、聖書には悪魔は人をたぶらかす悪い奴だって書いてあったし……

 「悪い奴? は! 悪い事は悪魔のせいで、良いことは天使のおかげか? それこそ人間の作り上げたお伽噺だろうが。
 天使が言っていたから、神が望んだから、悪魔に取りつかれたから、だから同族同士殺しまくって祈りまくって、そう何か理由をつけないと生きていけないんだろ? お前たち人間は」

 静かな、だが確実に怒りを滲ませたその「悪魔」の言葉に、少女は反論できなかった。
 確かに自分もずっと感じていた。シドが言う悪魔の存在と、聖書に書かれてある神の記述に。
 悪魔は黒くて悪い奴? 天使は白くていい奴? 神は絶対的な存在?
 それはきっと違うんだろう。この男が言うように、人間が勝手に決めて作り上げた事なのかもしれない。

 でも、これだけは分かる。この男は怖い。こいつは私を助けてくれたけど、さっきの言葉が本当だと感じられなかった。
 影の結界? あの言葉も嘘かもしれない。
 本当は「悪魔」であるこいつが結界を張って私を捕食しようとしているのかも。

 こういう奴を私は何人も見てきた。
 表面だけ優しくて、後で私達を騙して陥れようとする醜い奴等。私やアキラ、お母さんから沢山色んなものを奪っていった奴等。そう、シドのように。

 こんな奴に屈しては駄目だ。
 少女の反骨精神に火が付き、目の前の男をき、と睨んだ。

 ――名前は返さないよ。“やたノ黒蝿”。

 ぴくり、と男の片眉が上がる。
 「なんだそれは」

 ――ヤタガラスに捕まっていた黒い蝿のような奴だから“やたノ黒蝿”。私が今名付けたの。あんな怖そうな名前、貴方には似合わな―

 ぶわ、と男の黒い翼がはためき、同時に男が電撃的に動き少女の首を掴み宙に浮かす。
ぐぇ、と少女の喉が潰れた蛙のような音を出す。

 「調子に乗るなよ小娘! 殺さずとも二目と見れない姿にしてやろうか!?」

 ぎり、と男が右手に力を入れる。少女の足先は地面から離れ、先程より強い力で気道と頸動脈を圧迫され、目玉が飛び出て口が開き舌が出る。視界が酸欠で狭まり酷く苦しい。
 あと少し力を入れれば、少女の細い首は折れていただろう。解放された少女は、地面にへたりこみ咳き込む。涙が浮かび口の端から涎が出ていた。

 (駄目だ……こいつはやっぱり悪魔だ。今までのいじめっ子とは違う。こいつからは逃れられない――!)

 髪を乱し、暫し咳き込んだ後、少女は覚悟を決めて、自分を見下ろしている“悪魔”に向かって、右腕を前に出す。
 “悪魔”は怪訝そうな視線を向ける。

 ――名前を返してはやらないし、私の魂をあげるわけにもいかない。でも――

 ぎゅ、と右手を握る。手の平が汗ばんでいるのが分かる。

 ――私の腕ならあげる。右手で足りないなら左手もあげる。だけど足は駄目。足が無くなったら此処から出ていけないから。足と命以外ならいいよ。

 「……そこまでして会いたい者がいるのか?」
 男が不思議そうに問う。

 ――いるよ。凄く大切な人。悪魔には分からないだろうけど。
 「…………」

 ぎゅ、と少女は固く目を瞑る。これから襲ってくるだろう痛みを予期して、歯を食い縛り、身体中の筋肉に力を入れる。瞼の裏に弟の姿が浮かぶ。
 ――アキラ、もう姉ちゃんは手を繋げない。おんぶしてあげることもできない。だけど腕が無くなっても必ず私がアキラを守るから。お母さんの代わりに育ててあげるから。必ず帰るよ。だから――

 数秒、数十秒が経過しても、腕に予期した痛みは襲って来なかった。それどころかなんの感触もない。男の声も聞こえない。

 「……?」

 恐る恐る目を開けると、そこにもう黒い男はいなかった。
 腕を下ろし辺りを見回す。
 やはり何処にも男の姿は見当たらない。周りは鬱蒼とした森で、空には相変わらず不気味な紅い月が昇っていた。

 (見逃してくれた……?)

 少女は一瞬そう考えたが、直ぐにその考えを消した。
 何処からか、あの男の暗い視線を感じたからだ。
 再び辺りを見回す。やはり男はいない。しかし少女は男の気配を感じていた。
 何処にいるか分からないけど、私を見張っている。その事だけは“分かった”。あの悪魔は私を逃がさないつもりなのだ。名を返さない限り、あいつはずっとついてくる。
 悪魔の冷たい気配を感じながら、少女は無意識に身体を掻き抱いた。

―――

 月明かりを便りに草むらを掻き分け、木々の間を歩いているうちに少女は違和感を覚えた。

 此処には、生き物がいない。

 虫の羽音も、獣のうめき声も、鳥の鳴き声も何一つ聞こえない。こんなに歩いているのに肌が虫に食われない。
 耳を澄ませてみる。音が殆どない。聞こえるのは自分の呼吸音と、僅かな空気の乱れによってさわさわと動く草葉の音だけ。
 不思議な感覚だ。家の近くの森林公園によく遊びに行ったことがあるが、普通、森はもっと生き物の気配で溢れている。こんなに静かなのは少女にとって初めての経験だ。
 母とアキラと三人で暮らしていたアパートは、常に隣近所の生活音や近くの米軍基地からの音が聞こえていた。
 ここまで静かなのは異常だ。「閉ざされた影の結界」――悪魔は確かにそう言った。それは本当の事なのかもしれない。そうとでも考えないと、この異常な状況を説明できない。

 目の前に、小川を見つけた。月明かりを反射してきらきら光っている。そっと手を入れてみる。冷たい。水は透き通っていて飲めそうだ。
 少女は手で水を掬い、喉の乾きを癒した。
 そこで気がついた。川面に写っている自分の顔。暗くてあまりよく見えないが、首の辺りに黒い傷のような痣のようなものがついていることを。

 (何? これ?)

 そっと首に触れてみる。もう一度、声を出そうと試みる。しかし声はでない。先程咳は出た。首を絞められたとき潰れた音も出た。しかしそうした生理現象で喉は震えても、言葉に出そうとすると一切声が出ない。
 「言霊を奪う」――あの悪魔の言った事は本当だった。

 そしてもう一つ――自分の名前が分からない。

 弟の「アキラ」という名も、亡き母の名も、無関心な担任の名も、意地悪な同級生の名も思い出せるのに、一番馴染んでいるはずの自分の名を思い出そうとしても、その部分だけ記憶から抜け落ちている。
 「名を奪う」――これも本当だったんだ。

 影の結界……私が作り出した? 本当なの? 鞍馬山の一部を模倣? そんな事ただの人間の私にできるわけが――

 がさがさ、と背後で草葉の揺れる音がし、少女は慌てて振り返る。あの悪魔が戻ってきたのか?
 しかし其処にいたのは、三体の奇妙な生き物。
 背に小さな黒い羽を生やし、奇妙な面をつけ、澄色の装束を纏った明らかに人ではないもの――妖魔・コッパテング。その両隣には、黒い豚の姿の悪魔、カタキラウワが控えている。

 (な、なに!? こいつらも悪魔? なんで? 此処は結界の中じゃなかったの?)

 狼狽している少女に、三体の悪魔が襲ってくる。木の葉が舞い、衝撃波が少女を襲う。

 「!」

 思わず少女は手で顔を庇い、目を瞑る。
 すると急に少女の影が伸び、それは少女を包み守る盾になった。攻撃を跳ね返された悪魔は唸り声をあげ、再び体当たりを仕掛ける。

 「そのまま影でそいつらを刺せ!」

 頭上で声がした。聞き覚えのある低い男の声。声の主を確かめる事もなく、少女は反射的に影を鋭利な刃物へと変えた。
 突進してきたコッパテングとカタキラウワは、そのまま影の刃に刺され、そして動かなくなった。

 「……?」

 返り血を浴び、呆然と座りこんだ少女の目に、黒い翼を携えた、先程少女が“やたノ黒蝿”と名付けた男が降り立った。
 男は少女を一瞥すると、瀕死のコッパテングの身体に手をつける。するとコッパテングの身体はみるみる透けていき、遂には消滅した。

 「不味いマグネタイトだな」

 ――マグネタイト?  酸化鉄? なにそれ? 不味いってあの男は言った。悪魔はマグネタイトとやらを食べるの?

 「ああそうだ。生体マグネタイトは感情のエネルギー。俺達の食糧だ。本当なら人間のが一番美味だがな。これがないと現世で身体を保てない。
 ……お前が名を奪ってくれたおかげで、俺は異界に帰りたくとも現世に縛り付けられ帰れないんだよ」

 ぎろり、と男が睨んできたので、少女は怯えて顔を背ける。
 男はその様子を笑いながら見ており、カタキラウワの死骸を少女に投げる。少女がひ、と喉を鳴らし後ずさる。

 「お前も食うか?」

 くく、と喉を鳴らしながらにやついた視線を少女に向ける。その視線を振り切るかのように投げられたカタキラウワの死骸に目を向ける。
 豚にそっくりなその悪魔は腹に大きな穴を開け血を流し続けている。赤黒い筋肉と白い骨が見え、その様子と血の匂いに吐き気を催したが、何とか堪えた。

 (これを、私がやったの?)

 血と獣の匂いが更に強くなる。先程まで生き物の気配が全くなかった森に、死の匂いが広がった。
 ぐう~……と少女の腹が鳴る。慌てて腹を押さえ俯く。先程水は飲めたが、もう何時間も腹に物を入れていない。
 此処は閉ざされた結界。生き物が少女と悪魔以外にいない世界。
 あとどれくらい経てば此処から出られるかわからない。その間に身体が衰弱し、悪魔に喰われてしまうかもしれない。それは嫌だ。死んでしまってはアキラの元に帰れない。
 何か食べないと。悪魔がマグネタイトとやらを摂取しないと身体が保てないのと同じく、私達人間も食糧を採らないと餓死してしまう。
 しかし此処には悪魔以外生き物はいない。魚も獣も虫もいない。

 暫し苦しそうに眉を寄せていた少女が、決意を決めたように男をき、と睨んだ。
 おや、と男が少女の青い瞳を見つめ返した。

 ――私、この悪魔を食べる

 流石に男は絶句した。確かに食うか? と問いかけたが、あれは勿論冗談だ。人間が悪魔の肉を好んで食べるわけがないと分かっていたからだ。

 「お前……何言ってるのかわかってるのか?」

 ――わかってる。私も何か食べないと生きていけない。私は死ぬわけにはいかない。これしか食べるものがないなら――

 少女が右手を宙に翳すと、影が集まり、やがてそれは包丁にも似た刃物の形に変わった。これが自分に与えられた能力らしい。
 影の包丁を握りしめ、少女は豚の悪魔に刃先を向ける。かたかたと手が震える。身体が小刻みに震えてるのだ。
 少女は迷いを振り切るかのように頭を思いきり振ると、勢いを付けて悪魔に包丁を刺す。
 血が飛び散り、ごり、と筋肉に突き刺した感覚が手から伝わり、少女はえずいて嘔吐した。酸っぱい胃液を吐きながら、ああ、体力を無駄にしてしまった、と涙を溢しながら思った。
 涙を拭いて、もう一度、悪魔に向かって刃を降り下ろす。が、その手を黒い男に掴まれ止められてしまった。

 「滅多刺しにするやつがあるか! ちゃんと手順を踏め」
 ――て、手順?

 涙を浮かべた大きな瞳で少女は悪魔を見つめながら問う。その瞳は決して好んでこの作業を行っているわけではないと語っていた。

 「……まずは血抜きだ。カタキラウワは人間界の豚と殆ど変わらない。頸動脈を切り裂いて血を抜いて……」

 説明された通りに少女はカタキラウワを解体した。体中の血を抜いて皮を剥ぎ内臓を取り出し、その感触と凄まじい匂いに、途中何度もえずいて戻したが、泣きながらも結局最後まで解体を施した。全ては生き残るため、生きて弟の元へ帰るため。泣いて、吐いて、血にまみれて、それでも手を止めず骨を取りだし内臓と筋肉に分け、時間をかけて解体した。

 そして黒い男は、そんな少女を見捨てず最後まで指導し続けた。
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 『姉ちゃん、何処に行くの?』

 すがり付くような青の瞳。金の髪が日に照らされて光る。
 アキラ、ごめんね。姉ちゃんは行くところがあるの。
 でもすぐ戻るから。悪魔を祓って貰ったらすぐに帰ってくるから。その時は一緒に遊びに行こう。遠出して横須賀まで行こう。
 昔お母さんと一緒に一度だけ行った海。もうお母さんはいないけど、私がお母さんの代わりになるから。ずっと二人一緒にいよう。
 だから、少しの間待っててね――

 『ああ、これも失敗だ。やはりもっと幼い子供の方がいいのではないか?』

 換気口から見えた光景。消毒薬と血の匂い、診察台に拘束された京子、虚ろな目、弛緩した口元から涎が流れ出て、頭に管が幾つも刺さっている。
 シド、一体何をしているの? 京子に何したの?
 シドはデビルサマナーで、私の声に取り付いた悪魔を祓ってくれるんじゃなかったの? やだ、やめて、私の友達に酷い事しないで――!

 『お前の名と、俺の真名を奪ったその言霊を頂く。さあ、名乗れ』

 山の中。雨が降っている。泥のぐちゃぐちゃした感触を背中に感じ、身体が濡れて気持ち悪い。
頭が痛い。手足が痛い。身体中が痛くて寒い。
 蝿が話しかけてくる。名乗れ。これは今そう言った。名前を言うだけで助けてくれるなら、いくらでも言おう。
私は死ぬわけにはいかない。早くアキラの元に帰らないと。此処は嫌だ。此処は何かがおかしい。此処は、私の居るべき場所じゃない――

 黒い男が私の首を掴んだ。

 身体の内側から痛みが生じる。神経が苛まれ、内臓を撹拌され、脳髄を滅多打ちにされるような激しい痛み。

 痛い、イタイいたい!
 やだ、此処はイヤだ、これは嫌だ、此処には居たくない、逃げ出さなきゃいけない、シドからも、この痛みからも。

 いやだ、嫌だ、全部嫌だ。

 守ってくれるものが欲しい。私とアキラをこの痛みから、意地悪な皆から守ってくれるものが。

 少女の手は、自らの首を掴んでいる黒い男を捕まえようとするが、それは叶わず、そのまま空に浮かぶ月に向かって伸ばされたが、視界が徐々に黒く染まり、やがて月も少女の意識も、そして黒い男も全てが影に包まれた。

―――

 目を開けた時、最初に飛び込んできたのは、夜空の紅い月に向かって伸ばされている自分の手。

 指を動かしてみる。握れた。痛みはなく痺れもない。
 上体を起こし自分の身体を見てみる。泥で汚れてはいるものの、どこも怪我をしている様子はない。

 (何が……起きたんだろう。私は何故此処に寝ていたのだろう)

 そっと、頭に触れてみる。右側の髪が血で濡れてはいるが、やはり痛みはない。
 それどころか傷の痕跡さえない。

 (確か私は……彼処を抜け出して、それから……)

 頭を押さえながら、未だ混濁している記憶を辿った。
 血と消毒薬の匂い、診察台の無惨な姿の京子、白衣のシド、赤色灯の小部屋、大きな鳥籠、そこにいた三本足の鴉――

 此処はどこだろう? 木々が生い茂っていて、地面には青草が敷き詰められている。空には太陽ではなく不気味な紅い月が浮かんでいる。
 私はあの鴉に会った後、いつの間にか夜の山にいて、暗い中歩いていたら、足をぬかるみにとられて、そのまま転がって、頭に凄い痛みが襲ってきて、それから――

 生暖かい風が少女の髪と木々を揺らした。ばさばさという木々の葉が揺れる音に少女はびくっと身体を震わせた。
 少女の目の前に黒い風が渦巻き、やがてそれは徐々に人の形に変化した。

 黒い山伏にも似た法衣を纏い、鴉を思わせる兜を被り、兜の下の切れ長の暗い瞳が、少女を見下ろす。
 その者が、人ではないと少女には分かった。背中に大きな黒い翼が生えていたからだ。

 「ほう、生きていたか」

 低い声が少女の耳朶を打った。あの小部屋で鳥籠に入れられていた鴉が発していたのと同じ声。

 ――あ、あなたは、誰なの?

 そう口にしたくとも、少女の喉からは、ひゅう、という呼吸音しか鳴らなかった

 ――あ、あれ? なんで?

 もう一度、声を出そうとする。その度にひゅう、ひゅうという風の音しか喉から発せなかった。

 ――声がでない!?

 「何いってるんだ。そういう取引だっただろう」

 くくっと少女の目の前の男が笑った。喉を押さえながら口をぱくぱくしている少女をあざけ笑う色がその目にはあった。

 ――と、取引?

 その言葉もやはり声には出なかった。だが黒い男は少女の思考を読んだかのように答える。

 「お前の命を救う代わりに、声と名を頂く契約だっただろう。覚えていないのか?」

 言われて少女は、頭を触る。血がこびりついている黒髪の下の、なんの傷もない頭の皮膚。
 そうだ、足を滑らせて頭に怪我を負った私は、蝿みたいな塊に言ったんだ。助けてって。
 そうしたら、蝿が「名乗れ」て言ってきたから、私は自分の名を名乗って、それから蝿が人の形になって、そいつが私の首を絞めてきて――

 あれ?
 私、自分の名がわからない――!?

 「だからそういう契約だと言っているだろう。お前の記憶と、お前を知っている全ての人間の記憶と記録から、お前の名は抹消された。知っているのは俺だけだ」

 ――そ、そんな、酷い!

 「先にお前が俺の名を奪っていったんだろ? そのせいで俺の力は更に封じられ、あんな蝿のような姿にまで落とされた。しかもこの世界の時間軸に固定されてしまった。酷いのはどっちだ?」

 黒い男が冷たく少女を睨む。静かな怒りの目であった。

 ――名前? 私は何もしてない。私はただあの鴉の名前を口にしただけだ。記憶の片隅に残る禍々しい名前。
 そしたらいきなり黒くて激しい風が私を飛ばして、気が付いたらこんな所にいて……

 「此処から出たいか?」

 男の語気がやや柔らかくなった。少女が尻餅をついたまま顔を上げる。

 「俺も此処から出られなくて困っている。
 今すぐにでもあのサマナーと大天使を殺しに行きたいのに、この結界のせいで此処から抜け出せない。早くこの結界を解け」

 ――結界? なんのこと? 此処は鞍馬山じゃないの?

 少女の思念に、男ははあ、と溜め息をつき、そして呆れたように少女を睨んだ。

 「これも覚えてないのか。
 此処は影の鞍馬山。俺の力を暴発させたお前が、鞍馬山の一部を模倣して造り上げた別世界、影の結界の中だ」

―――

 少女は走った。黒い男から逃げ出して。
 靴に踏まれた草がガサガサと音を立てる。舗装されていない獣道を月明かりだけを便りにがむしゃらに走る。

 ――影の結界? 模倣した鞍馬山? 別世界? 私そんな事していない。そんな事があるわけがない。
 此処を真っ直ぐ行けばきっと山道に出るはずだ。またシドの所に戻るのは嫌だが、あの黒い男は危険だ。翼が生えていて人じゃないみたいだし、もしかしてあれが悪魔――?

 「!」

 靴の紐がほどけ、少女はそれを踏んでしまい思いっきり転んだ。
 鼻を地面にぶつけてしまいじんじんする。

 「無駄だ。ここは閉ざされた結界。造りだしたお前が解かない限り何処にも逃げられない」

 ばさり、と音がして、頭上から低い男の声が聞こえた。
 見上げるとやはり。先程の黒い男が腕組みをしながら少女を見下ろしていた。

 「…………」
 鼻を押さえたまま、少女は月光に照らされた男の顔を見つめる。

 ――結界、なんて私は知らない。私は早く帰らなくちゃいけない。アキラはまだ小さいから、一人にしちゃいけないの。私は、アキラの元に帰りたい――

 「どうしても帰りたいなら、方法がないわけでもない」

 男がしゃがみ、少女と視線を合わせた。暗い金色の切れ長の瞳。その瞳から発せられる視線を受けて、少女の身体が強張る。

 「俺の名を、今すぐ返すことだ」

 くい、と男が少女の顎をとる。食い込んだ指の冷たさに、少女は息を飲んだ。

 「俺が自分の名を取り戻し、力の一部も取り戻せば、お前が作った結界などいとも容易く破れる。
 悪い話じゃないだろう? この結界が無くなれば元の世界に戻れる。お前も帰りたい所に行ける。ついでに言霊と名も返してやる。これが最善の方法だと思うがな」

 甘く、妙に柔らかな声で黒い男は少女に語りかける。さながらそれは獲物をたぶらかすように。

 そう、確かに私はアキラの元へ帰りたい。あんな光景を見てしまったから、もうシドは信じられない。あんなに優しかったシドも、結局怖い大人の一人だったんだ。
 きっと、この男の言うことは正しい。私はこいつの名を奪いたくて奪った訳じゃないし、この黒い男の言うことは筋が通っている。
 だけど―――

 ――……嫌
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 『やっと捕まえましたよ。流石は魔王族。この私にこれだけの手間をかけさせるとは』
 『よくやった。さて、この極悪な悪魔を、どうやって処分するか……』
 『処分なんて勿体無い。“合体”させればいいじゃないですか。例えばそう……貴方達の組織の名の“八咫烏”にするのはどうですか? あの霊鳥はもう絶滅しているはず。“悪魔合体”させて造ってしまえばいいのですよ』
 『それはナイスアイディアだ。あの霊鳥に生まれ変われるとなれば、この悪魔も少しは我々の役に立つだろう。今コンプにある悪魔は、クー・フリンとカラステングと……』

 ああ、悔しい。
 こんな鳥の姿に変えられ、こんな惨めな籠に閉じ込められるとは。
 あのサマナーと大天使め! この忌々しい檻さえなければ、貴様等を八つ裂きにしてやるのに!

 ……人間の気を感じる。何処からだ? あの換気口の中から? 何故あんな所に人がいる? あのサマナーではない、もっと弱い人間のようだ。

 「おい、お前。此方だ、此方に来い」

 その人間に話しかけてみた。どうやら脅えているらしい。
 換気口の窓を破ってそいつが目の前に立つ。
 なんだ、子供じゃないか。なんで子供が此処にいるんだ。まあいい。この際誰でも構わない。

 「お前、この札を剥がせるか?」

 檻に貼られた札。俺を逃がさない為にあのサマナーと大天使が貼った、檻に結界を造り出している憎き札。この札さえ剥がれれば、こんなちゃちな檻直ぐに破れる。

 子供が恐る恐る札に触れる。途端、札の力が彼女の細い指先を弾いた。

 「やはり駄目か」

 手を押さえながら脅えている少女を見る。
 良く見ると不思議な子供だ。喉の付近に強い力を感じる。どうやら魔力が声に具現化したようだ。
 思春期に入った子供に力が発現するのは稀にある事だが、この少女の場合、それが声のみに宿っている。
その少女の思考が悪魔に流れ込んできた。
 戸惑い、恐怖、そして俺の姿を見て「八咫烏」と感じている。

 「違う」

 何度その名を言われた事だろう。思い出しても屈辱だ。無理矢理他の悪魔と合体させられ、元の能力を半減させられ、人間共の崇める鳥の姿に変えられ、挙句こんな子供にまで「八咫烏」などと思われる。
 悪魔は唾棄したい衝動に襲われた。

 「そんなのはお前ら人間どもの造り上げた幻想の存在だ。俺の名は―――」

 悪魔は、自らの名を名乗った。人間から恐れられる、禍々しい真名を。

 そして、それが間違いだった。

 悪魔の間違いは少女の言霊を侮っていたこと。
 少女が悪魔の真名を口にしたとき、異変は起きた。

 悪魔の魂が無理矢理現世に縛り付けられた。
 魂と結びついている真名を、少女が強い言霊で発した事により、名を奪ったのだ。

 記憶の中から、自らの名が消えていく。同時に封じられていた力の一部が解放されていく。
少女が解き放った悪魔の力が、黒い風となって檻から流れ出る。その風が檻の札に亀裂を走らせる。しめた、これでここから出れる。
 しかし少女の姿は既にない。風に巻き込まれて何処かへ飛ばされたか。
 札の結界が破れ、悪魔は名を奪って消えた少女を探しに、檻から抜け出した。

―――

 檻から出た悪魔は、地上の鞍馬山に出て、少女を探していた。
 ぶうん、ぶうん。名を奪われた悪魔は、三本足の鴉から、黒い蝿のような小さな塊へと変わってしまった。
 鴉の姿でさえ屈辱的だったのに、今度は蝿の姿へ変えられてしまった。魂の一部とでもいうべき真名を、あの人間の少女が奪っていったせいで。
 しかもそのせいで時空を移動したくともできなくなってしまった。この世界の時間軸に固定されてしまった。
 時空を徘徊していた所を、あのサマナーと大天使に捕まったのも悔しいが、あの子供に真名を奪われ、こんな姿へ変えられてしまったのはもっと屈辱だ。

 血の匂いがした。近くに消えそうな生命の気を感じる。
 近づいてみるとやっぱり。あの少女が頭から血を流して倒れていた。大方、斜面から転がって石にでも頭をぶつけたのだろう。間抜けな奴だ。

 「無様だな」

 悪魔の名を奪って、さらにはこんな姿へ変えた少女が、血まみれの顔の青い瞳で此方を見ている。
 こんなところで死ぬのは許さない。このままこいつが死んでしまえば、悪魔はずっとこのままの姿で、力も取り戻せない。

 「わた、しを……たす、けて」

 悪魔を右手で掴みながら少女は言う。
 助けて、ときた。無論、このまま死なれては困るので、名を返してもらうまで生かしておくつもりだが、それだけでは気が済まない。
 こいつは俺の名を奪ってこんな姿へ変えた相手だ。俺を捕まえて鴉に変えたあのサマナーと大天使の次に憎い。

 だから、俺はこいつの名と、言霊を頂く。

 「―――」

 少女が名乗った。自らの名を。強い魔力が宿った言霊で。

 強い言霊の力を経て、悪魔の姿が変貌する。黒い小さな塊から、鴉に似た翼を生やした人間の姿に。
 本来の姿ではないが、これで充分だ。

 「名乗ったな」

 がし、と悪魔が少女の首を掴む。少女の青い瞳が見開かれ、気道を圧迫された喉から、ひっと潰れたような音が鳴る。
 悪魔の手から黒い影が発生し、少女の首から侵入する。
 影は少女の身体中を侵食する。喉から直接魔力と言霊を吸出し、更に自らの能力の一部を分け与える。
 少女の顔が苦痛に歪む。しかし悲鳴は出ない。既に首を掴んでいる悪魔に声を奪われたのだから。

 そして、異変は起きた。

 悪魔の影の能力が暴発し、凄まじい大きさの影が少女の身体を基点に発生した。
 その影は爆発的に広がっていき、少女と悪魔だけではなく、鞍馬山を包み込む程の大きさに変わっていく。

 驚いた悪魔が手を離すと、今度は影が収縮してきた。
 一旦拡がった影が、今度は逆に少女と悪魔を包み込む程に小さくなったかと思うと、悪魔と少女は影に圧縮され、二人の姿を鞍馬山から消し去った。

 しとしと、しとしと。
 雨が降り続き、木々の葉と土を濡らす。
 後に残ったのは少女の紅い血痕だけ。その血溜まりも雨が押し流す。

 そうして元の静寂を取り戻した鞍馬山の夜空には、雨雲で隠れた月が、不気味な紅い光を放ち、陰謀渦巻く夜の山を静かに照らし出していた。

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 八咫烏――それは、日本だけではなく、世界中の神話に登場する三本足の霊鳥。
 日本で最初に目撃されたのは平安時代、当時の天皇の東国への遠征の折り、妖怪や鬼から救い、導いたのが始めと言われている――と少女に渡された資料には書いてあった。なんでも「ヤタガラス」設立当時は、あの有名な陰陽師の阿部晴明が長を務めていたらしい。
 太陽の化身であり、吉兆を告げるとも言われるその霊鳥の名を冠した組織は、京都府の鞍馬山の鞍馬寺、魔王殿奥の院の地下にあった。

 キツイ山道を上り、魔王拝殿という社にシドと共に入り、地下へと続く隠し階段を降りると、其処には巨大な空間があった。
 コンクリートの壁で囲まれた大きな部屋は、少女が見たこともない機械があちこちに配置され、白衣の大人達がせわしなく動いている。こども雑誌で見た21世紀の予想図のような近未来的な雰囲気を少女は感じた。

 少女は白い貫頭衣のような服を着せられ、個室に案内された。其処には二段ベットが壁際に二つ、小さなテーブルと椅子が一つづつ、そして少女と同じ年頃の女の子達が三人いた。
 女の子達は、皆猜疑の色を瞳に宿している。
 少女の胸のプレートには、「F-14」と書かれていた。それが少女のここでの名らしい。

 何故、自分はこんな格好をさせられ、こんな部屋に入れられるのだろう。シドに聞きたくても、シドは此処に来てすぐ少女を別の大人に引き渡し、何処かへ行ってしまった。私は悪魔を祓ってもらいに来たのに、いつそれは行われるのだろう。そして部屋のこの子達は何者なんだろう。この子達も私と同じく、悪魔にとりつかれているのだろうか。

 「ねえ、あんた何歳? なんて名前?」

 三人の女の子のうちの、栗色のパーマをかけたショートカットの髪型の子が、少女に話しかける。日焼けした肌にそばかすが浮いている。

 「…………」
 喋るのを躊躇い、少女は、空中に指で「14」と書いた。そばかすの少女が眉を潜めた。

 「もしかしてあんた、喋れないのかい?」

 その問いかけに、少女はやや間を置いて頷いた。
 喋れないわけじゃない。私の声には悪魔がとりついているから、私が言葉を発すると周りの人が不幸になるから喋らないだけ。そう説明しようにも酷くどもるだろうし、ずっと喋るのを押さえてきた喉は、大きな声が発せない。ならそう誤解させといた方が面倒がなくて済む。

 「そっか、あんたも色々あったんだね。あ、あたしは京子。あんたより一つ上の15歳」

 そう言って、京子と名乗った少女はにっと笑ってみせた。歯が何本かかけている。京子の胸のプレートには「F-15」と書かれている。
 京子はそれから残り二人の紹介をした。三つ編みおさげの小太りの子は紗香、背の高いキツイ目付きのソバージュの子は清美。それぞれ16と17らしい。
 少女が会釈しても、紗香は怯えたように俯き、清美はぷいとそっぽを向いた。

 京子は少女に好意的で、「どうして目が青いの?」「なんで此処に来たの?」と少女に喋りかけた。その目にはからかいの色はなく、ただ単純に好奇心で聞いているようだ。
 少女は京子が持っていたスケッチブックに、渡された鉛筆で素直に答えを書いた。

 [目が青いのは生まれつき、多分父親が外人だったから]
 [悪魔がとりついているっていわれてここにきた]

 そう書かれたのを見て、京子が目を丸くした。

 「へえ、あたしもだよ。あたしがこんな不良になったのは悪魔がとりついてるんだって、感化院のババアに言われてさ、無理矢理ここに送られたってわけ」

 京子の話によると、京子は両親が蒸発し、好きだった絵を描くのを止め、お金欲しさに窃盗、恐喝を繰り返し、警察に捕まり感化院に送られた。そこの職員の女性に「悪魔にとりつかれている」と告げられ、京都のヤタガラスという組織なら悪魔を祓えると言われ、嫌々ながら此処に来たらしい。

 「別に悪魔とか全然信じてないんだけどさ、ここの方がクソみたいな感化院よりはマシかなーて。紗香と清美も同じようなもんだよ。あの子達も親がいないし、周りの大人に「悪魔がとりついている」って言われてここに送り込まれたみたい」

 紗香は二段ベットの上で膝を抱えて丸くなっているし、清美は下のベットの中で横になっている。ふて寝しているのだろうか。

 シド以外に好意的に接してくれる人がいる。しかも同じ年頃の。ずっと敵意と差別に晒されてきた少女は、京子に気さくに話しかけてくれたのが嬉しくて、久々に顔の筋肉を動かし、笑顔を作った。
 それは物凄くぎこちない笑みだったが、京子は大きな口を開け、ところどころ欠けた歯を見せ笑ってくれた。

―――

 そこでの暮らしは退屈だった。
 最初の日に知能テストと身体測定が行われた以外は、特にやることもなく、三食食事が出てくるのはありがたかったが、それだけだった。施設内で歩く事が出来たのは限られた区画だけで、少女はシドを探して何度か施設内を彷徨い歩いた。
 そこでわかったことは、どうやら私達以外にも同い年くらいの子が、幾つものグループに別れて部屋に入れられており、男女別にAからFのグループに分かれているという事だった。

 この子達は皆悪魔にとりつかれてる子なのだろうか。
 何故シドはあれから私の目の前に現れてくれないのだろう。早く悪魔を祓ってほしいのに、早くアキラの元に帰りたいのに。

 「あんた、弟がいるんだ?」

 一週間目の日、京子と二人で筆談でアキラの事を話したら、京子は同情的な視線を寄越してそう呟いた。
 今、この部屋には京子と少女の二人しかいない。
 三日目に清美が白衣のおじさんに呼ばれて部屋を出ていった。五日目に紗香が同じく呼ばれて、そしてそのまま二人は戻って来ない。
 順番に悪魔祓いを行なっているのだろうか。清美と紗香は無事に悪魔を祓ってもらえて家に帰ったのだろうか。羨ましい。私も早く帰りたい。アキラはまだ八歳だ。早く帰ってあげないと、あの子は寂しくて泣いてないだろうか。施設で苛められてないだろうか。

 「あたしもね、妹がいるよ。あたしに似て別嬪なの。ほら」

 そう言って京子はスケッチブックを捲る。するとあるページに、精密なタッチで巻き毛の幼女が描かれていた。確かに目元が京子にそっくりだ。

 「親が蒸発してから、あたしと妹は別々の親戚に引き取られたの。それからずっと会ってない。でも、此処から出たら会いに行こうと思うんだ。家は東京だけど、もし妹と会えたらあんたと弟にも会いに行くよ。横浜でしょ?  電車で行けば近い近い!」

 それは素敵な申し出だ。アキラと私が京子と妹さんと一緒に横浜で遊ぶ。ずっと二人っきりだった私とアキラに「友達」が出来る。世の中には悪意をぶつけてくる子ばかりじゃない、京子のように人と違う目の色をからかったりしない、苛めたりしない子もいるんだ――そう気付いた時、胸の奥が暖かくなるのを少女は感じた。

 「約束だよ。一緒に遊ぼうね」

 京子の小指に自分の小指を絡ませる。初めての指きりをしながら、少女は涙ぐんだのを悟られないよう俯きながら小さく頷いた。

―――

 八日目、ついに京子が呼ばれた。

 「悪魔とやらを祓ってもらったら、すぐに戻ってくるよ」

 そう言った京子は、しかし一日経っても戻ってこなかった。清美や紗香と同じく。
 十日目の夜、少女の我慢は限界に達した。これ以上待てない。部屋に独りぼっちは耐えられない。シドを探そう。そして悪魔をとっとと祓ってもらって、横浜に帰ろう。京子を探して一緒に此処を出るんだ。
 貫頭衣を脱ぎ捨て、来たときと同じ半袖のタートルネックにベージュのカーゴパンツ、そしてシドから貰った軍靴を履き、十字架のペンダントを首から下げ、少女は部屋の換気口の蓋を外し、そこに身体をよじいれた。
 換気口があるなら、ここを渡っていけばきっと地上に出れる。ドアには外側から鍵がかかっているし、換気口以外に地上へ出られる道はない。
 換気口の路は狭く、少女の小柄な身体でギリギリの大きさであった。酷く埃っぽい。とりあえず、明かりの見える方向に向かって匍匐全身で進んだ。
 腰と手足ががくがくになり、全身が埃まみれになった頃、ようやく人がいる部屋を覗けた。

 「……ああ、これも失敗だ。やはりもっと幼い子供の方がいいのではないか?」

 聞き覚えのある声がした。シド先生だ! シドは何時もの神父服ではなく、白衣に身を包んでいる。

 「“種男”と“畑女”の方は?」
 「あれは効率が悪い。苗が芽吹くのにどれくらい時間がかかると思う? やはり直接採取した方が……」

 種男? 畑女? なんの話だろう。そういえば何だか血の匂いがするが――

 うす暗い部屋を目を細めてじっと見る。すると、奥の方に病院の診察ベットのようなものが見えた。そこに人が拘束されている。
 パーマをかけた栗色の髪、日焼けした肌、だらしなく開いた口からは幾つも欠けた歯が見える――

 (……京子!?)

 京子は虚ろな視線を宙に浮かべ、口から涎を溢したままだ。頭にはいくつも管のようなものが刺さっている。
 その光景を直視してしまった少女は、身体中の血が引くのを感じた。身体が震える。胸の奥から得体のしれない感情が沸き上がってくる。
 ――嫌だ、シド、何をしているの? 京子に何したの? 嫌だ、やめて、やめて――!

 『おい、お前』

 悲鳴を上げる寸前、少女の頭に声が響いた。低い男の声だ。
 シドの声ではない、誰、誰の声?

 『こっちだ、もっと奥に来い』

 狭い路の奥、微かに赤い光が漏れている。あの部屋に行けばいいのだろうか。
 換気口の窓の向こうの凄惨な光景を振り切り、少女は奥の光の方向に前進した。

―――

 その部屋は、赤色灯で赤く照らされているコンクリートの基礎が剥き出しの壁の部屋だった。
 換気口の窓を蹴破り、少女は部屋に降りた。
 何もない小さな部屋である。真ん中に置かれている奇妙な札が張られている大きな鳥籠を除けば。

 『来たか』
 「……?」

 鳥籠の中に、黒い鳥が捕まっている。随分大きな鳥だ。少女より少し小さいくらいで、子供くらいの大きさはあるのではないか。

 『お前、この札破れるか?』

 その鳥は少女に語りかける。何故鳥が私に話しかけてくるのだろう。何故こんな大きな鳥がこの部屋で鳥籠に入っているのだろう。

 「…………」

 疑問に思う事はあったが、少女は言われた通り鳥籠の札を剥がそうとする。途端、指先にびりっと電流のようなものが走り、少女は思わず手を引っ込めた。

 『やっぱり駄目か』

 鳥が残念そうに呟く。
 ひりひりする指先を押さえながら、少女はじっと鳥を見る。良く見ると鳥の足が三本ある。黒い鳥、鴉、三本足の鴉――もしかして、この鳥は、八咫烏――?

 『違う』

 少女の考えを読んだかのように鴉はぴしゃりと否定した。頭の中に響いた声は、どこか不機嫌そうだ。

 『そんなのはお前ら人間共が勝手に作り出した存在だ。俺の名は―――』

 鴉は名乗った。八咫烏に無理矢理「させられる」前の、自分の真名を。

 「――――」

 その禍々しい名を聞いた少女は、無意識に復唱してしまった。
 数ヶ月喋るのを押さえてきた少女が、吃りもなく、喉を震わせ声を発してその鴉の姿をした「悪魔」の名を口にしてしまった。強い言霊を得た、その声で。

 それが始まりだった。

 少女の目の前の鳥籠から、黒い風のようなものが噴き出す。そのあまりの威力に少女は驚愕し、たたらを踏んだ。
 鳥籠に張られていた札に破れが生じる。

 『貴、様……俺…の……名を……』

 風はどんどん強くなっていく。身を切り裂かれるようにその風は鋭く、強い。何? 何が起きているの!?
 先程の光景が頭に浮かんだ。白衣のシド、診察台に拘束された京子、虚ろな視線、血の匂い、やだ、やだ、怖い、此処は怖い、早く此処から出なくちゃ、帰らなくちゃ、家に―――!

 途端、一際強い風が吹いたかと思うと、少女の身体が宙に浮かび、視界が真っ暗に染まった。

 そして、次の瞬間、尻に衝撃が走る。
 あまりの痛さに目を開けると、そこは赤色灯に照らされたコンクリートの部屋ではなく、夜の鞍馬山の山中であった。

 霧雨が降っている。生温かい雨が少女を濡らす。
 何? 一体何がおこったの!? さっきまで私は地下にいたはずなのに、何故地上に出られたの――?

 混乱する頭を押さえ、少女は立ち上がり、そっと足を踏み出した。
 暗く、険しい獣道を数歩歩いたところで、少女はぬかるみに足を滑らせた。

 「!」

 急な斜面を転がる少女の身体。木々の枝が少女の身体を引っ掻き、泥が身体中にへばりつく。そして、斜面に飛び出していた大きな石に頭をぶつける。

 「うっ!」

 強く鋭い衝撃が頭に走った。雨に濡れた地面に小柄な身体が放り出され、そのまま少女の身体は動かなくなった。

 しとしと、しとしと、雨が降り続く。少女の右側頭部から、血が流れ、赤い血の溜まりを作っていた。
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 少女が中学に上がって数ヶ月経った時の事、
 ある日、体育の時間から教室に帰ってくると、脱いで袋に入れてあったはずの制服がズタズタに切り裂かれていた。
 呆然とする少女の周りから、くすくすと嘲笑う声が聞こえる。
周りを睨みながら見渡す。クラスの皆は誰も少女と目を合わせようとしなかった。

 近頃、こういう嫌がらせが多くなった。

 犯人が誰か分からない陰湿な嫌がらせ。皆、少女が怖くて、そして疎ましかったのだろう。異色の瞳を持つ、貧乏な家庭の私生児。それだけではなく、少女は学校の成績が良かった。
 テストなんて、教科書を記憶して、問題の規則性を覚えてしまえば少女にとっては簡単に解けた。それが、クラスの皆の嫉妬心を煽ったのだろう。

 ぎゅ、と少女は血が出るまで拳を握った。

 犯人が誰か分かっていれば、そいつを締め上げてやるのに、コイツらはそれを分かってて、わざと私に分からないよう嫌がらせを続けている。
 担任に言ったって解決しない。あいつも私を疎ましく思っている。常に小汚ない格好をして、常にクラスの子といざこざを起こしている問題児の私の言葉など、聞き届けてはくれないだろう。

 全員が敵。私の周りは皆敵。私の味方は、アキラと、デイビス先生だけ!
 体育着に隠した十字架のペンダントを固く握る。

 強くならなきゃ、こんな嫌がらせに負けないよう、心も身体も強く!

―――

 その日の帰り、いつものようにシドの教会に行った少女は、教会に置いてあった寄付箱の中に、古い男ものの服を見つけた。
 近くの米軍基地の親切な兵士からの寄付だろう。ベージュのカーゴパンツに半袖の黒いタートルネック。
少女は迷わずそれを取った。

 「それは大人の男の服だよ? 君には大きすぎるんじゃないかい? もっと可愛い女の子の服もあるが……」
 「いいの、私はこれがいい」

 体育着を脱いで早速それを着てみた。やはりかなりダブダブだったが、少女は嬉しかった。
 近所の兵隊さんと同じ格好をしている。銃を持って闘う強い兵隊さん。あんな風に強くなれたらってずっと思っていた。私は痩せっぽっちで女だけど、この服を着たら不思議と強くなった気がする。兵隊さんと同じになれた気がしてなんだか嬉しい。

 「アキラ、似合う?」
 「……あんまり似合わないかも」

 大きすぎるズボンを手で押さえる姉に、アキラは苦笑いを浮かべながらそう言った。シドも苦笑し、裸足の少女にゴツい軍靴を差し出した。

 「……これは?」
 「靴も隠されてしまったんだろう? 私のお古だが履くかい?」
 「デイビス先生も……」
 「シドでいい」
 「じゃあ、シド、先生も兵隊さんだったの?」
 「そうだよ。昔の事だがね」

 それを聞いて、少女はもっと嬉しくなった。
 シド先生は元兵隊さんで、神父さんで、こんなにも強くて優しい。シド先生と同じ格好をしたら、私はきっと先生のように強くなれる。どんな事にも負けないくらい強く!
 大きすぎる軍靴を履いた姉を見て、アキラは困ったように笑ったが、少女はそれがまた可笑しくて久々に笑った。

―――

 世の中は高度経済成長の真っ只中。オイルショックで教科書が薄くなり、ベトナム戦争が終結した時代、少女は中学二年に進級し、そして遅い初潮を迎えた。

 この頃から、少女にある変化が見られた。

 きっかけは些細な事。
 ある夏の事、その日はうだるように暑かった。だから少女は口にしたのだ。
 「雨が降ればいいのに」と。

 そして一時間後、雲ひとつない晴天の空に黒い雨雲が広がり、バケツをひっくり返したような雨が降った。
 その時は、ただの偶然だと思ってたいして気にしていなかった。

 でもその後、少女の発した言葉はよく実現した。

 ある時は、アキラと二人で家で留守番をしていて、お腹が空いて、「ケーキが食べたいな」と呟くと、その日は母が珍しく早く帰ってきた。そしてパチンコで大勝したと言って、ケーキをお土産に買ってきた。

 ある時は、アキラを迎えに隣の小学校まで行くと、檻に飼われていたウサギがなんとなく元気がないように見えたので、「もうすぐ死んじゃうのかな」と発すると、翌日、ウサギの姿は見えなくなった。アキラの話によると、朝、生物係が檻の中を覗くと全羽死んでいたという。

 またある時は、同級生が少女に聞こえよがしに悪口を言った時に、いつもなら無視するのに、たまたま虫の居所の悪かった少女が、「うるさいよ、階段から落ちちゃえば?」と捨て吐くと、その同級生は三日後に、本当に階段から足を滑らせて亡くなった。

 偶然ではない、自分の言った言葉が本当になってしまう――しかも、ほとんどが悪いこと――その事実に少女は驚愕し、自分が喋っては誰かが不幸になると怯え、なるべく言葉を発しないよう努めていたら、いつしか少女は、学校でも、家でも、殆ど喋る事をしなくなった。

―――

 「それは、悪魔がとりついているね」

 ある日、学校をサボって教会で本を読んでいた時の事、何故最近殆ど喋らないのか、とシドに問われて、ありのままを話すと、シドはそう答えた。

 「あ、く……ま?」

 二ヶ月近くも喋るのを押さえていた少女は、最早言葉を発しようとしても、酷く吃り、また音量も小さかった。

 「そう」
 パタン、とシドが聖書を閉じながら言う。

 「君のその声にね、どうやら悪魔がとりついてしまったらしいね。君の言霊を増幅させ、その結果、言葉の内容が現実に具現化してしまった」
 「こと……だま……て、な、に?」
 「人間の言葉の力、とでもいうのかな。言葉には力が宿るとこの国では古来から伝えられてきた。誰にでも持っている力だけど、君の言霊はかなり異常だ」

 異常? 皆とは違うこと? この瞳の色のせいで、アキラの金髪のせいで、私たちはずっと阻害されてきた。全ては皆と違うから。私はそれに抗ってきた。
 でも、外見だけじゃなく、言葉まで皆と違うだなんて、私は、一体なんなの? 何時になったら皆から虐められなくなるの――?

 「大丈夫だ。君は普通だ。ただ今は声に悪魔がとりついているだけだ」

 顔を伏せ、しくしくと涙を流す少女に、シドは優しく語りかけた。
 悪魔――神に仇なす悪い奴だと前に教わった。人を誑かし、陥れ、堕落させると聖書にも書いている。

 「君にとりついている悪魔を祓う事、できなくもないよ。ただちょっと遠出することになるけど」

 悪魔を祓える? シド先生が? 本当に? 遠出? どこまで行くの? 神奈川から出るの?

 「京都にある鞍馬山。そこに、私の所属している「ヤタガラス」という組織があるんだ。……内緒だよ。実は私は、悪魔召喚師、デビルサマナーなんだ」

 その後、シドが話してくれた事によると、
 シドは妖精や天使といった異形のものを異界から呼び出して、邪なるもの、鬼や悪魔を祓う悪魔召喚師・デビルサマナーらしい。
 古くはエクソシスト、陰陽師と呼ばれていた者が異形のものを使役し、魔を討ってきた。現在でもその血をひく家系はデビルサマナーとしてこの国で暗躍しているとのことだ。

 「でも、悪魔召喚プログラムというのが開発されてね。私のような一般人でも、ほら!」

 シドが聖書に手を翳すと、途端聖書から光の玉が生まれ、驚いている少女の目の前で小さな羽を持った女の子に変わった。
 妖精・ピクシー。小さな女の子の姿をした妖精は、驚愕に目を丸くしている少女の周りを蝶のように飛びまわった。

 「これで信じてくれたかい? 私達は魔を持って魔を制するデビルサマナーなんだ。だから君のその声についている悪魔も祓うことができる」

 でも、と少女の目の前に人差し指を出し、ピクシーを収容したシドは続ける。

 「君の言霊を蝕んでいる悪魔は、ちょっと厄介な奴だ。だから、私と一緒にヤタガラスに来てほしい。そこには私以外に強力なデビルサマナーが沢山いる。必ず君にとりついている悪魔を退治してみせるよ。
 今すぐに答えは出さなくていい、家に帰って、お母さんに許しを貰っておいで」

―――

 その日、帰ってきた母の機嫌は悪かった。

 「またこんなに散らかして! 足の踏み場もありゃしない! さっさと片付けろ!」

 少女としては六畳一間の部屋はいつもと変わらない、大して散らかってはないように見えたが、酒臭い母は更に怒鳴った。

 「ほら、早く飯を作って! ああお腹空いた! なんだいその格好? そんな汚い格好して、またろくでもない事でもしてきたんでしょ!?」

 少女とアキラが突き飛ばされる。肘を畳に擦ってしまい、肘がじんじんする。

 小汚ないのはいつもの事じゃないか。家が貧しいから、満足に銭湯にも行けないし、お母さんが洗濯をしてくれないから、私がいつも慣れない手付きで洗濯機を動かし、衣服を干している。
 お腹が空いているのはこちらも同じだ。お母さんはお店でご馳走をお酒と男の人と一緒に食べてくるのに、私とアキラはいつも給食とシド先生のくれるお菓子以外食べてなくて、とてもお腹が空いているのに、なのに何故私がご飯を作るのが当たり前になってるの? いつからお母さんは何もしてくれなくなったの? 何故子供の私達がこんなに働かなきゃいけないの――!?

 「……嫌い」

 ボソッと呟いたその言葉に、母の肩が揺れる。母の濁った眼が少女を見つめる。

 「お母さんがちゃんとしてないから、私とアキラは皆から虐められるんだ! なんで子供の私達がこんな目に合わなきゃいけないの!? なんでお母さんはちゃんとしてくれないの!?」

 ずっと胸にあった不満が爆発した。その時の声には吃りもなく、音量も大きかった。言葉が抑えきれない。母が口を開けてぽかんとしている。アキラが怯えてこちらを見ている。

 「嫌い、大嫌い! お母さんなんか、死んじゃえばいいんだ!」

 それは、思春期に入った者なら、親への反抗で、感情に任せて言ってしまうありふれた言葉かもしれない。普通の子供ならば。
 しかし、少女は事情が違う。少女の言葉は“本当に”なってしまうのだから――。

 はっ、と少女は口を覆う。しかし口から出た言葉は元に戻せない。母は酷く傷ついた顔をし、アキラは姉の剣幕に怯え、今にも泣きそうだ。
 どうしたらいいのか分からなくて、少女は弟の手を引き、家の外へ飛び出した。閉める前のドアの隙間から、母が呆然とした顔でこちらを見ていたが、少女はそれを見なかったことにした。

 その日はシドの教会に逃げ込み、そこでアキラと二人夜を過ごした。
 シドは何も聞かなかった。

 お母さんに酷いことを言ってしまった。私の言葉は本当になっちゃうのに。どうしよう、どうしたらいいの――?
 弟と二人、泣きながら身を寄せ合って、教会の固い椅子の上で一緒に寝た。

―――

 そして、やはり少女の言葉は現実になってしまった。

 翌日、母が死んだのだ。
 酔っ払って車道に出た所を、車に跳ねられて亡くなった。

 その後の事はよく覚えていない。

 病院で変わり果てた母と面会し、シドが葬儀の手続きを行ってくれた。参列者は少女とアキラだけだった。
 そして母は外人墓地に無縁仏として埋葬された。それが正しい事なのか少女には理解できなかったし、呆然自失となってしまった少女にはシドや周りの人間の言葉は届かなかった。

 ――私が、母を殺してしまった。母にあんな事を言ったから、私が悪魔にとりつかれているから――

 シドの用意してくれた喪服に身を包んだアキラは泣きじゃくっている。少女はその手をぎゅっと握りしめた。

 ――このままだと、私はアキラまで殺してしまう。行かなきゃ。シド先生に悪魔を祓ってもらわなきゃ――!

 その後、身寄りのなかった二人は施設に引き取られたが、施設に入ってから一週間も経たないうちに、少女はシドと共に鞍馬山に行く決意をした。

 「姉ちゃん、何処に行くの?」
 「お姉さんは私とちょっと京都まで言ってくるよ。何、心配はいらない。ほんの二、三日で帰ってくるよ」

 支度を済ませた少女が、心配そうな顔をしているアキラをそっと抱き寄せた。

 「すぐ……かえ、って、くるから……まって、てね」

 手をアキラの頭に乗せる。柔らかい金髪。私と同じ青い目。私の、血の繋がった弟――。
 必ず帰る。その時はまたいつもみたく遊ぼう。手を繋いで海にも行こう。山下公園に遊びに行こう。お母さんのお墓参りにも行こう。だから、待っててね、アキラ。

 思えばこの時、私はなんとしても留まるべきだったのだ。
そうすれば「あいつ」と出会うことなく、運命も大きく変わらなかったのに――
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 九楼重女――。後にそう偽名を名乗る少女は、
 1960年代前半、ベトナム戦争が勃発し、安保闘争が激化、東京オリンピック開催、ソ連有人宇宙船が地球一周に成功し、アメリカのケネディ大統領が暗殺される等の激動の時代に、神奈川県横浜市の米軍根岸住宅地区の近くの古いアパートで生まれた。

 生まれた時に父はいなく、ただ自分の白い肌と青い瞳が、父が外国人であることを物語っていた。
 母は、米軍の根岸住宅地区の近くのバーでホステスとして働いていた。そこは近くの基地の米軍兵士御用達のバーで、恐らく少女の父ともそこで出会ったのだろう。
 母が休みの日は、少女と母の二人で夜遅くに公園で遊ぶ事が多かった。昼間に公園に行けば、少女の青い瞳は近所の子供達のイジメの対象となる。見知らぬ外国人との間に私生児を生んだ女――母がそう近所の人々から陰口を叩かれ、白い目で見られているのを鋭敏な少女は感じ取っていた。
 夜の公園は暗かったが、母が笑顔でブランコを押してくれる、遊び疲れた自分をおんぶしてくれる――友達は出来なかったが、それだけで少女は幸せだった。

 少女が六歳の時、弟が生まれた。名はアキラと名付けられた。
 目の色は少女と同じ青だったが、アキラは少女の黒い髪とは違う、錦糸のような金髪を持って生まれた。

 アキラが三歳になってから、母は仕事を増やし、前より忙しくなり、家には少女と弟の二人っきりになることが多かった。
 母がいない間、ずっと独りぼっちだった少女に、弟ができた。可愛いアキラ。もう一人じゃないんだ。忙しいお母さんに代わって、私がこの子を守ってあげなくちゃ!

 少女は弟に絵本を読み聞かせ、ご飯を作り、手を繋いでよく散歩に出掛けた。
 近所の子供のイジメは、黒髪の少女より、金髪碧眼のアキラに集中した。
 石を投げてきたり髪を引っ張ったりする子供達に、少女は殴りかかって反発した。全てはアキラを守るため。これらの経験から少女は決して悪童に屈しない反骨精神を身につけた。

 そうして弟の面倒を見、夜遅くクタクタになって帰ってくる母親の代わりに家事を行い、その合間に宿題を行う。ご飯は学校の給食の残りのパン等を貰ってくる。貧乏な母子家庭で、異色の目を持つ少女は学校でイジメにあったが、イジメっ子は全員叩きのめした。その結果益々少女は孤立したが、そんなのは少女にとって些細な事だった。

 少女にとって大事なのは、母とアキラ。それだけが全て。その二人を私が守らなくちゃ。家には父がいないから、私がお父さんにならなくちゃ。もっと強くならなきゃいけない。家の近くの兵隊さんのように強く!

―――

 ある日、アキラと少女が近くの公園を散歩していたとき、それを見つけた。

 アキラとじゃれあって、公園の散歩道から外れて迷子になってしまい、半べそをかきながら見つけたそれは、古い小さな教会だった。
 教会の木製の古いドアを開けると、大きな十字架、貼り付けられた痩せっぽっちの男、色とりどりのステンドグラス、今まで白と黒と灰の色の世界でしか生きてこなかった少女には、その色彩はあまりに強烈だった。

 教会にいた黒人の神父は、シド・デイビスと名乗った。

 シドは、突然入ってきた子供達に怒ることもなく、ただ、二人がお腹を鳴らすと優しく微笑み、少女とアキラにチョコを与えてくれた。
 人から施しを受けたことのない二人は、最初警戒していたが、シドの眼鏡ごしの笑顔を見ていると、不思議と安心し、チョコを貰った。
 そのチョコは、とても甘く、また美味しかった。
 貪るように食べる二人を、シドは微笑みながら見ていた。そして、何時でも来ていい、と言って二人にお土産のチョコまで渡してくれた。

 それから、少女とアキラは学校帰りによくその教会に寄った。

 最初はお菓子を貰うのが目的だったが、シドは決して嫌な顔をしなかったし、寧ろ歓迎してくれた。少女とアキラにとって、そこは家以外で初めて心から安らげる場所となった。

 シドの教えてくれる事は学校の授業より面白かった。

 この世界には神がいて、天使はその使いで、悪魔は神に仇なす悪いやつ、日々口にする食糧に必ず感謝の祈りを捧げること、神はいつも自分達を見守っていること、生きている間に悪いことをすれば地獄に落ち、逆にいいことをすれば天国へ行ける。そんな事をシドは二人の子供に根気強く教えた。

 「でも、神様がいるとしたら、なんで私達は不幸なの?」

 ある日の教会、少女は常々疑問に思っていた事を口にした。
 聖書を読むシドの声が止まる。

 「だって……うちは貧乏だし、お母さんもアキラも私も、沢山意地悪されて……私がこんな変な目を持っているから、アキラがみんなと違う髪と目の色だから、皆意地悪するの? 神様は皆を平等に幸せにしてくれないの!?」

 ぎゅ、と隣の弟の手を握る。他の子より白い肌。みんなとは違う青い瞳。アキラのきらきら光る金髪。
 何故私とアキラがこんな色を持って生まれたのか、理由は明白だ。母はホステスだけをしているのではないと少女は知っていた。

 時々、家に外人の兵隊さんが母と共に来ることがあった。
 外人さんが来ると、少女とアキラは必ず家から出された。その時の母は、酒と香水が混じった臭いがして、子供ながらに、なにか淫らな事をするんだと感じ取ってしまっていた。
 今日だってそうだ、今頃あの家で、母は外人さんと肌を合わせている。私もアキラもそうして生まれたんだろう。
 汚らわしい。母は汚い。昔は優しかった母、柔らかく暖かい背中、頭を撫でてくれた細い手。それが今では男に寄りかかるだらしない女になってしまった。
 家でも酒を呑み、何処にも遊びにつれていってくれない。あんなお母さんなんか、大嫌い!

 「神は平等にいつも見ていてくれているよ」

 頭上から、優しい声が降ってきた。見上げれば、シドが眼鏡の奥の瞳を細めて少女を見ていた。

 「嘘。平等なんかじゃない、だって……」
 「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」

 滑らかに、唄うように発せられたその文節に、少女は魅せられた。

 「父?」
 「神の事だよ。神は人類皆のお父さんなんだよ」
 「私達の?」

 シドが頷く。

 「私達の父は、天にいる。そこで、人間全員を愛している。
 私も、君も、アキラ君も、君達のお母さんも愛している。どんなに罪深い人でも、あるがままに愛してくれている」
 「違う! そんな事ない!」

 少女が食ってかかっても、シドはそっと目を伏せるだけ。

 「君達が苦しい思いをしているのは、神が試練を与えているのだよ」
 「試練?」
 「そう。今、苦しいのは神がわざと意地悪しているんだよ。君達が本当の愛に気づく為に。越えられない試練はない。今の苦しい状況を我慢すれば、神は君達をきっと幸せにしてくれる――」
 「そんなの、嘘!」

 ガタッ、と少女が椅子から立ち上がる。隣のアキラがびくっと身体を震わせた。

 「意地悪する神様なんて、そんなのお父さんじゃない! そんなの間違ってる! そんなのが神様だなんて、父親だなんて、私は嫌、認めない!」

 十二歳になったばかりの、多感な少女は、しかし胸のもやもやを言葉に上手く変換出来なかった。
シドが、困ったように此方を向いている。アキラが、心配そうに姉である少女の袖を引く。

 「……っ!」

 自分の気持ちを上手く言葉に出来ない。その事が無性に悔しく、涙が滲んできた。
 それを見られたくなくて、そのまま少女は教会を飛び出した。

―――

 外は雨が降っていた。

 しとしと、しとしと。雨が、全身に振りかかる。雨が少女の涙を誤魔化してくれた。

 ――違うのに、あんな事が言いたかったわけじゃないのに。デイビス先生の事は好きなのに。先生の言葉は暖かいのに。
 でも、何かが違う。上手く言えないけど、何かこう、あの言葉を聞いたとき、反射的に「違う」て叫んじゃった。
 神は平等? 今の私達は試練を与えられている?
 石を投げられるのも、机に落書きされるのも、悪口を言われるのも、母がああなってしまったのも、私とアキラが他の人と違うのも、神様の試練だというの?

 冗談じゃない、そんな神様認めない、私は絶対認めない――!

 す、と少女に影が落ちた。
 しゃがんでいた少女は後ろを振り返る。そこには傘を持ったシドが立っていた。
 
 「……あ」
 「風邪を引くよ」

 シドが少女に傘を渡す。少女は顔を背けながらそれを受け取る。デイビス先生の顔が見れない。恥ずかしくて。
 シドの隣にアキラが立っていた。金髪碧眼の私の弟。私が守るべき、いとおしい存在――。

 「姉ちゃん」

 そっと、アキラが何かを目の前に出した。キラリと光るそれは、十字架のペンダントだ。

 「……これは?」
 「デイビス先生がくれたの。「お守り」だって。これがあれば悪魔から身を守ってくれるんだって」

 にこにこと笑いながら語るアキラとシドを見比べる。
シドは少女に対して怒ってる様子はない。先程と変わらず微笑んでいる。

 「あげるよ、それ」
 「え、でも……」
 このペンダントは何で出来ているんだろう。随分きらきら光っているが、もしかして純銀製なのか?

 「あの……うち、これを買えるだけのお金がなくて……」
 「これは私からの贈り物だよ」

 少し困ったように肩を竦めてシドは言った。

 「なんで……なんでそこまで私達に……」

 渡されるものには必ず代価が生じる。それが物でも、愛情でも。私はまだ十二年しか生きていないが、それくらいの事は分かる。人が、他人に完全な善意で施しを行うわけがない――。

 「私が君達を愛している。それが理由だよ」

 ぴく、と少女の肩が動いた。

 「愛している?」
 「ああ」
 「……何故?」

 疑心暗鬼な少女の言葉に、シドは黒い大きな手を肩に乗せる。

 「人が人を愛するのに、理由が必要かい?」

 少女はシドの顔を見上げる。デイビス先生の背は大きい。黒い肌、銀の髪、眼鏡ごしの青い瞳。私と、アキラと同じ、皆と違う姿――。

 そっと、黙ったまま、少女は十字架のペンダントを受け取る。そしてそれを首から下げる。

 「姉ちゃん、お揃いだね!」
 アキラが少女に抱きつく。アキラの首にも、十字架のペンダントが光っている。
 お揃い。アキラと、私と、デイビス先生と同じ十字架。皆とは「違う」者同士の印。

 デイビス先生の言葉は全部は信じられないけど、きっとこの十字架を渡してくれたのは善意だから、それは信じよう。これは素直に受け取ろう。

 少女がはにかんだのを見て、シドは満足そうに微笑んだ。
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 悪霊・レギオンが、紫煙乱打を黒蝿に放つ。
 黒蝿は宙を舞い、それを全てかわした。

 「あの馬鹿、一体何処まで行ったんだ!」

 ポルターガイストを追いかけて、ザンの衝撃で図書室から吹き飛ばされた重女は、もう20分近く戻ってこない。
 結界の主であるあいつが飛ばされた事により、図書室に閉じ込めていた悪魔が校舎中に放たれてしまった。
 先程校舎全体に結界を張る気配がした。きっとあいつだろう。
 最初から校内に結界を張っておけば、こんなに長く無駄な戦いをする必要などなかったなのに。それをしなかったのは、あいつの状況把握の甘さと能力不足が原因だ。

(本当弱い奴だな)
ウインドブレスを避けながら黒蝿が胸中でごちる。

 宙に舞いながら黒蝿のザンダインがレギオンに命中する。
 一瞬、レギオンの身体が衝撃波によって震えたが、それだけだった。レギオンは赤黒い幾つもの顔をにやつかせ、再び黒蝿へ攻撃を再開する。

 「こいつにはザン系の魔法は効かないのか」
 ならば――。

 「アギダイン」

 黒蝿の手から火炎が生まれ、炎はレギオンを焼き尽くす。
 しかし、炎はすぐにおさまり、レギオンはまたしても大したダメージを負ってないようだ。

 (ザンとアギに耐性があるのか)

 黒蝿がそう分析するより早く、レギオンの肉の手が黒蝿の腕に絡まりつく。

 「しまっ……!」

 絡まりついた肉の手から、黒蝿のマグネタイトが吸われていく。
 レギオンの肉の手はしつこく、再びザンダインを食らわせてもなかなか外れない。
 
 「ち!」

 黒蝿はザンの衝撃波を乗せて、レギオンを思いきり蹴り飛ばした。
 やっと腕が自由になったが、吸魔によって大分マグネタイトを持っていかれた。
 よろめく黒蝿に、再びレギオンが紫煙乱打をぶつける。
 
 その時、黒蝿の周りを影が覆い、影が盾となってレギオンの攻撃を防いだ。

 「……やっと来たか」

 そう言って黒蝿は視線を後ろに回す。
 そこには、ポルターガイストの首根っこを捕まえ、黒い狙撃銃を携えた九楼重女が立っていた。

 「遅いぞ」
 「…………」

 それには答えず、重女はポルターガイストに銃口を向ける。

 「ひ、ひい!」
 『八百万針玉をあと十個』

 ガタガタ震えるポルターガイストは、重女の言われるがままに八百万針玉を口から十個吐き出す。吐き出された十個の八百万針玉に、重女の影がまとわりつくと、やがてそれは十挺の銃に変化した。

 レギオンが唸り声をあげて襲ってくる。

 重女は右手の狙撃銃の引き金をひき、八百万針玉をレギオンに命中させる。八百万針玉が、レギオンの肉の顔に幾つもの穴を空けていく。

 狙撃銃の形は崩れ、元の影へ戻った。

 休む間もなく、先程造った影の銃を手にとり、再びレギオンに向かって発砲した。
 打つ。崩れる。また打つ、また形が崩れる――。そうして十挺の影の銃を打ち終わった時、レギオンは既に瀕死の状態で、ただの肉塊と成り果ててた。

 「……お前が吹き飛ばされなければ、こんなに戦いが長引くこともなかったんだぞ」
 『五月蝿いよ』

 ぴしゃりと念波を送り、重女はズボンの背中に挟めてあった聖書型コンプを取りだし、死に体のレギオンに向かい、その赤黒い肉塊に、手で直接触れた。

 「何をしてる」

 黒蝿が咎めるように言うが、重女は無視した。
 もうマグネタイトを吸いとる影を作れるだけの力が残っていない。ならば直接悪魔に触れ、マグネタイトを吸いとるしかない。

 「―――!!」

 身体中に、レギオンの怨念と痛みが伝わってくる。

 苦しい、痛い、憎い、恨めしい、何故あいつが、殺してやりたい――全てこのレギオンを形作っていたもの、この学校の生徒達の負の感情が溜まり、そして悪霊・レギオンを生み出したのだ。

 重女の身体が海老反りになり、電流を流されたかのように痙攣する。脂汗が顔に滲み出て、苦痛に身を支配されても、重女の口から悲鳴は出せない。
 声を奪われた少女は、喉から苦し気な呼吸音を発するだけ。

 ――ねえ聞いて、寂しいの、苦しいの、とても痛いの、憎いの嫌なの殺したいの――。

 気を抜けば途切れそうになる意識を必死に保ち、重女はレギオンの感情を浴び、マグネタイトを吸いとった。
 マグネタイトを全て奪われたレギオンは現世から消滅した。

 滝のような汗を流し、息も絶え絶えに蹲る重女の右手を黒蝿は見た。
 右手は、レギオンの瘴気にやられたのか、焼け爛れている。

 「無茶をする」

 そう言って、回復術である「円子」をかけようと黒蝿の手が重女の右手を掴む。が、重女は振りほどこうともがく。

 「大人しくしてろ」
 『いい、大した怪我じゃない。後で紅と白に治してもらう』
 「馬鹿が、いいからじっとしてろ!」

 そう怒鳴られて、重女は渋々右手から力を抜く。
 溜め息を吐きながら、黒蝿が「円子」を右手に施す。

 「…………」

 その様子を、重女は額に脂汗を浮かべながらじっと見ていた。
 焼け爛れた右手は、下から新しい肉が盛り上がり、皮膚は細胞が分裂し、やがて元の健康な右手に戻った。

 「…………」
 右手を握ってみる、うん、痛みはもうない。

 『もう大丈夫』

 そう答えた重女は、青白い顔で、呼吸もまだ荒い。先程レギオンの感情を一身に受けたダメージが蓄積されているんだろう。

 「……もっと要領の良いやり方もあるだろう」
 『私は弱いから、こうするしか他に方法はないの。知ってるくせに』

 むすっと反論する重女に、黒蝿が何かを投げて寄越す。反射的に掴んだそれは、癒しの水の入った小瓶。

 「…………」

 訝しげな重女を、黒蝿は一瞥した。
 
 「まだやることがあるんだろう。今お前に倒れられては困る」

 その言葉を聞いた重女は、渋々癒しの水を飲んだ。
 確かにこいつの言う通り、まだここで倒れるわけにはいかない。猿と午頭丸を迎えにいかなくてはならないし、そして何より、保健室に閉じ込めた篠宮茜を解放しなくては。

 重女が癒しの水を飲んでいる姿を、黒蝿は眉を寄せ、不機嫌そうに見ていた。

―――

 廊下から絶え間なく聞こえていた衝撃音と、何かが割れる音、獣の雄叫びが聞こえなくなって、何分たっただろうか。

 保健室の扉が開かれると、土埃と火薬の匂いが篠宮茜にかかった。
 扉を開けて入ってきたのは、薄汚れた少女と、黒い翼を生やした黒い男だった。

 「主様おつかれ!」
 「おつかれ!」

 紅梅と白梅が跳ねるように重女に近づき、甘えるように足に絡まりつく。二匹の頭を撫でたあと、重女は茜に向かってパトラストーンを投げつけた。
 身体の自由が戻った茜は、床に捨ててあったジグ・ザウエルを拾い、銃口を扉の少女に向けた。

 「!」

 重女と黒蝿が息を飲む。紅梅と白梅がびくつき、重女の背の裏に隠れた。

 「九楼さん……ねえ、ダークサマナーて、悪魔を使って悪い事をしてるって、それって、本当…?」
 「……!」

 重女が一瞬驚愕の表情を見せる。が、次の瞬間、凄い形相で背中の二匹の妖精を睨む。

 「わあ! 主様怒ってる!」
 「怒ってるよう!」
 「青梅食べさせられるよう!」
 「嫌だよう!」

 黒蝿の背に逃げるように隠れた紅梅白梅を、重女は聖書を開き、コンプを作動させ、無理矢理収容した。

 「本当なんだね……。だから、悪魔を使って学校をめちゃくちゃにしたの……?」

 かたかた、かたかた。茜の全身が震え、それに合わせて銃口が揺れる。茜の鼻孔に、コンクリートが崩れたような匂いと、硝煙と、獣臭さと、微かな血の匂いが届く。
 目の錯覚だろうか、茜には目の前の少女が、黒い影と翼を纏った、小説の挿絵の悪魔そっくりに見えた。

 「なんで……ねえ、どうして! どうしてなの!? 何か言ってよ! 答えてよ!」

 錯乱している茜は、重女が声を出せないことを忘れ、問い詰める。
 月明かりだけの保健室は暗く、重女の表情は茜には見えない。しかしもし見えていたら、重女が寂しそうに顔を歪めたのが分かっただろう。

 「く、九楼さんは……私の憧れの人で……強くて…正義のヒロインで…なのに……なんで! なんでよ!」

 ぽろぽろと茜の眼から涙が溢れる。血の匂いと、煙と、険しい視線を向けてくる黒い男の存在が、茜の恐怖心を増幅させた。
 私の憧れの九楼さんは、銃を持ったりしない、悪魔を召喚したりしない、悪魔を使って学校をめちゃくちゃにしたりしない――

 『そう、私はダークサマナー。悪魔を使い欲望を満たすものよ』

 茜の頭に、低い「男」の声が響いた。頭蓋骨を振動させ、脳に直接届くそれは、扉の前に立つ金髪の小柄な少女が発していると解った。

 「おい、俺の声を使うなと言っただろうが」

 黒蝿が嫌そうに重女に言う。

 私だって使いたくて使っているわけじゃない。人間相手に念波を送るには、黒蝿が近くにいることと、こいつの声を借りてしか送れない。
 前につけていた咽喉マイクも壊れてしまったし、他に方法があるならとうにやっている。じゃなきゃ誰がこんな気色悪い方法を選ぶか。

 「な……な、に…? これ?」

 目の前の「少女」が、低い「男」の声で私の頭に話しかけてくる。「男」の声で「女」の言葉を使っている――!?
 恐怖が増し混乱が頂点に立ちそうな茜に、一歩、二歩と重女が近づく。

 『その引き金を引いたら貴女は戻れなくなる。本を読んで感動することも、買い物を楽しむことも、何も感じられなくなってしまう』

 突きつけられた銃口に構わず、重女は黒蝿の声で茜に呼びかける。もとより弾の切れたジグ・ザウエルなど、突きつけられてもなんの脅威もない。

 「あ、あ……」

 混乱で頭がおかしくなりそうだ。茜の身体の震えが益々酷くなり、目は恐怖で大きく見開かれたまま。その間にも、金髪の少女はどんどん近づいてくる。

 『貴女は、こちら側に来てはいけない』

 そっと、銃の先を握り、そのまま重女は茜の手を下ろさせた。
 茜の黒い目と、重女の青い瞳が重なる。眼鏡の奥の青い瞳は、少しだけ悲しみが浮かんでいた。

 「九楼さん、貴女は……」
 『違う。私の名前はそれじゃないの。私の本当の名は……』

 ちら、と重女が後ろの黒蝿を見る。黒蝿は眉を寄せて二人の少女を見ている。
 重女自身も思い出せない自分の本当の名前。それはあいつに奪われてしまった。命の代償に、声と一緒に。
 そして、重女も黒蝿の真名を奪った。意図せずではあったが、そのせいで黒蝿は異界にも帰れず、本来の力と姿を取り戻せない。

 『感じる心、それってとても大切だよ。それを無くしちゃ駄目』

 茜の頭に響く低い男の声。それを発している首に傷を負った、本当の声と名を失った少女が、ふ、と微笑み、茜の背に手を這わせる。

 『ありがとう。茜』

 茜がその言葉を理解すると同時に、首に衝撃が走った。
 暗転する視界の端に、眼鏡の少女が、悲しそうに微笑んでいるのを見ると、次の瞬間に、茜の意識が闇に包まれた。

―――

 気絶させた茜を保健室の床に寝かせ、重女はそっと立ち上がった。

 「そいつを人質に使うんじゃなかったのか」

 黒蝿が問いかけると、重女は無表情のまま振り返った。

 『この子を連れて、このまま烏丸コーポレーションに向かう。この子の父親はまだ会社にいる?』
 「ああ」
 『なら、行くよ』

 じっと、黒蝿が重女を見つめる。重女はその視線を受けながら『黒蝿』と念波を送った。

 『私は貴方を死ぬまでこきつかってやるから。決して離れないように縛りつけておくから、覚悟して』
 「何を今更。俺だってお前に死なれたら困る。俺もお前から離れない」
 『……なら、いい』

 気絶した篠宮茜を担ぎ上げ、黒蝿が黒い翼をはばたかせる。
 すると黒い風が発生して二人を包み込む。

 風が収まると、そこには誰もいなかった。重女も、黒蝿も、篠宮茜も。

 後に残ったのは、悪魔との戦いで、窓ガラスが割れ、壁のあちこちに殴ったようなヒビや、抉れた跡があちこちに付いた、傷だらけの校舎だけだった。続きを読む

 言葉というのは不便でもあり、便利でもある。
 声を出せないということは、失言もないし、拷問で情報を吐かされる心配もない。しかし逆を言えば、嘘で取り繕ったり、誤魔化したりすることが出来ないと言うことだ。

 「九楼さん?」

 篠宮茜が心配そうに重女の顔を覗き込む。
 夜の保健室。月明かりが窓から差し込み、ショートカットの少女と、薄汚れた軍服の眼鏡の少女を照らしだす。

 茜と目が会う。戸惑っているのだろう。無理もない、一般人が悪魔と出会って平気なはずがない。

 「…………」

 そっと、手元の聖書型コンプを握りしめる。
 あの時、ポルターガイストが茜を襲おうとしたとき、銃を打つのを躊躇い、思わずコンプを作動させ、ポルターガイストを無理やり収容してしまった。銃を打てば茜に当たるかもしれなかったからだ。しかしそのせいで余計な仲魔が増えてしまった、と重女は内心ため息をつく。

 かた、かたかたかた………

 「きゃ!」

 廊下から物音がして、茜は蹲る。重女は険しい顔をして身構える。茜の腕を引っ張って保健室に避難したものの、既に廊下には悪魔が跋扈している。
 図書室に張った影の結界は、結界の主である重女が吹き飛ばされたことにより解けてしまった。そのせいで今や校舎中に悪魔が溢れている。校舎全体に結界を張れなかったのは、重女の力が不足していたからだ。

 (さっき吸いとったマグネタイトの量なら……)

 重女が保健室の床に手を付ける。顔が苦悶に歪む。影が広がり、保健室だけではなく、校舎全体を包む。

 「く、九楼さん……?」
 突然暗くなった保健室に茜は怯え、様子がおかしい重女に思わず話しかける。

 「……!」
 重女の身体がぶるりと震えた。と同時に闇が晴れ、元の保健室が姿を表す。これで校舎全体に結界が張れた。
ぐら、と重女の身体が傾く。それを茜が思わず受け止める。

 「だ、大丈夫? 九楼さん……」

 月明かりに浮かぶ重女の顔は、明らかに苦しそうだ。呼吸も荒く、身体が冷たい。
 目を開いた重女は、茜の身体から離れた。まるで警戒しているように。

 ちら、と茜は重女の右手を見た。暗くてよくわからないが、あれはもしかして拳銃ではないか?

 「九楼さん、一体何があったの?」

 問いかけても重女は答えない。当然だ。彼女は声を発する事ができないのだから。
 分かっているはずなのに、茜がそう聞いてしまったのは、先程の行為といい、重女の様子が明らかにおかしい、と感じたからだ。
 何故、彼女は夜の学校にいるのだろう。何故そんな格好をしているのだろう、そして、何故銃を持ってそんな切羽詰まった顔をしているのだろう?

 「…………」

 重女は茜の顔をじっと見ていた。篠宮茜は戸惑いと怯えを隠せずにいる。

 こんな時、声が出せないのは不便だ。声を出せれば、篠宮茜にこの状況を誤魔化して説明したり、あるいは慰めの言葉を吐いて彼女を安心させる事ができたかもしれないのに。
 だが、私はもう声を出せない。私の声と本当の名は黒蝿に奪われてしまったのだから。
 仲魔や悪魔に送るように、人間相手に念波は送れない。いや、一つだけ送る方法はあるが、それは黒蝿が傍にいないとできない方法だ。
 重女はポケットを探る。デビルスリープは切らしていたが、デビルバインドの石があった。重女はそれを茜に投げつけた。

 「え?」

 石が当たると、茜の身体が突然動かなくなる。まるで見えない縄で縛られたように。

 「え、な、なにこれ!?」
 指一本動かせない状況に、茜は軽い恐慌状態に陥る。
 「く、九楼さん!?  一体何を!?」

 重女は目を伏せ、手元の聖書を開くと、そこに手を翳した。すると、突然二つの光の玉が出てきて、やがてそれは二人の小さな男の子に変わった。

 『紅、白』
 「あい」

 紅と白と呼ばれた二匹の妖精は、狸に似た獣耳と尻尾を震わせ答えた。

 『この子をこの部屋から絶対に出さないで』
 「うん、わかった」

 紅梅白梅童子に念波を送る重女を、茜は怯えながら見ていた。

 ――な、なんなの!? あの本からいきなり人が出てきたし、身体は動かないし、一体何が起きているの?

 茜の怯えた瞳を向けられながら、重女は弾の切れたジグ・ザウエルを床に捨てた。そして、先程ポルターガイストから貰った八百万針玉を手の平に乗せ、目を瞑る。
 すると手の平に影が集まり、やがてそれは銃身の長い狙撃銃の形になった。図書室で借りてきた「図解・世界の兵器とその歴史」に描いてあった狙撃銃だ。
 影の造型魔法の応用だ。頭にイメージした物体を造り出せる魔法。今まで刀や他の無機物は沢山作ってきたが、銃を造り出したのは久しぶりだ。一発打つだけで形は崩れ、しかも精度がイマイチという欠点はあるが、今はこれで充分だ。

 「…………」

 紅梅白梅童子に囲まれ、すがるような瞳を向けている茜に背を向け、重女は保健室から飛び出した。

 「九楼さん!?」

 後ろから茜の声が聞こえたが、重女は振り返らなかった。

―――

 『猿、牛頭丸』

 コンプを作動させ、二体の仲魔を呼び出した。
 聖書型コンプが光り、中から赤ら顔の猿の顔を持ち、着崩した着物を着た魔獣、石猿田衛門と、赤いしめ縄と褌姿の半牛半人の魔獣、八坂牛頭丸が現れた。

 「お呼びで? 姐さん」
 『猿と牛頭丸は校舎内の悪魔を掃討して』

 廊下の先を指差して重女が命ずる。
 廊下には悪魔がひしめいていた。悪霊・ポルターガイスト、クイックシルバーに、夜魔・ザントマンまでいる。

 「姐さんは?」
 『私は黒蝿の援護に向かう』
 先程造った影の狙撃銃を構え、重女は言う。

 「獅子丸を召喚しないノ?」
 牛頭丸の問いに重女は首を振る。
 『もうマグネタイトが残り少ない。獅子丸を召喚できるだけは残っていないわ』

 校舎内に結界を張って、更に三体も仲魔を召喚してしまったのだ、雷王獅子丸程の強力な仲魔を呼び出せる程のマグネタイトが残っていない。
 ぎり、と重女は奥歯を噛み締める。

 やっぱり私は「アキラ」程の力はない――!

 悪霊の群れが重女達を襲う。

 「おりゃあ!」
 「モォォ!!」
 
 田衛門がモータルジハードを振るい、牛頭丸が体当たりをかます。二体の攻撃を受けた悪霊の群れは、あっという間に消える。
 ここはこいつらに任せれば安心だ。私は早く黒蝿のところへ向かわないと。

 重女は踵を返し、親玉のいる図書室へ走った。

―――

 ズズン……と大きな振動が伝わってきて、茜の恐怖心はますます大きくなった。
 保健室の薬品棚が揺れ、机の上のペン立てが床に落ち、かしゃん、と鈍い音をたてた。

 「ひ!」

 その音にびくついた茜を見て、紅梅と白梅はくすくす笑う。

 「怖いの?」

 紅梅が茜の顔を覗く。
 平常時なら可愛らしい幼子の顔も、今の茜にとっては恐怖の対象でしかなかった。
 逃げ出したいのに身体が動かない。先程重女によって謎の石を投げつけられてから指一本動かせない。身体の自由を奪われて、更に傍には獣耳を生やした二人の幼子。この異常な状況に、茜は叫び出したいのを必死に我慢した。

 「大丈夫だよ。主様がやっつけてくれるから」

 白梅が紅梅の横に並んで言う。

 「だって主様デビルサマナーだしねえ」
 「怖いよねえ」
 「でも優しいよ」
 「優しいよね」

 けらけら、けらけらと二匹は笑う。笑う二匹の後ろで尻尾がゆらゆら揺れる。

 「デビル……サマナー?」

 今聞いた言葉を茜は反芻する。紅梅白梅が更に面白そうに笑う。

 「そ、デビルサマナー」
 「悪魔召喚師」
 「悪魔を使って、悪魔をやっつけるの」

 何が楽しいのか、きゃっきゃと赤と白の幼子がはしゃぐ。

 「そ、れは……つまり……九楼さんが、正義の味方、て事?」

 必死に絞り出すように言った茜の声に、二匹はピタッと止まる。

 「ナイショだよ」
 「秘密だよ」

 紅梅が、茜の右の耳元で囁く。吐息がかかってくすぐったい。

 「主様はね、ダークサマナーなの」

 「だ、ダークサマナー?」
 おうむ返しに聞いてきた茜の左耳に、今度は白梅が囁く。

 「悪魔を使って悪いことをするデビルサマナーのことだよ」
 「主様は、悪魔を使って壊そうとしているの」

 茜の身体の両側から、紅梅と白梅が語る。幼い二匹の妖精は、一般人である茜に自らの主の秘密を話すことになんの罪悪も感じてないようだ。

 「こ、壊す? 何を?」

 目を大きくさせながら茜が問う。どくん、どくん。緊張のせいか、恐怖のせいか、茜の心臓が早鐘を打っていた。

 「ヤタガラス」
 「超国家機関ヤタガラス」
 「デビルサマナーを管理している組織」
 「主様の敵」

 雲が晴れ、窓から射す月明かりが一層強くなる。紅梅と白梅が手を繋ぎ、真剣な表情で茜に語る。

 「主様は、ヤタガラスに仇なす者」
 「秩序を乱す者」
 「闇に足を踏み入れたもの」
 「自らの欲望で悪魔を使役するもの」
 「だからヤタガラスからこう呼ばれているよ」

 「黒暗召喚師、て――」


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 満月の夜、とある中学校の図書室。見回りの用務員の足音が去っていく。
 九楼重女は、図書室の本棚の上でじっと身を潜めていた。

 足音が聞こえなくなり、約二十分。そろそろいいか。

 音をたてないよう、本棚の上から床に足をつける。そして、物陰に隠しておいたボストンバックを脇に寄せる。
 チャックを開けると、其所には、真駒内駐屯地から強奪した一丁のジグ・ザウエル、弾丸の箱、手榴弾三個、そしてストーンの入ったピルケース、彼女の戦闘服であるベージュのカーゴパンツに黒のタートルネックに聖書。
 
 「………」

 セーラー服を脱ぎ、カーゴパンツとタートルネックを着ながら重女はため息をつく。

 真駒内駐屯地での戦闘は全くの想定外だった。

 本当なら市ヶ谷駐屯地にアマラ経絡を繋げるはずだったのに、空間が歪み、遥か北の真駒内駐屯地に飛ばされてしまった。
 経絡を繋ぐための計算は合っていたのに、市ヶ谷には辿り着けなかった。彼処にはどうやら強力な結界が貼ってあるようだ。近づくことすらままならない。

 やはり彼処に、無限発電炉「ヤマト」があるのは間違いないようだ。

 ちり、と頭の傷痕が痛んだ。真駒内駐屯地に配置されていた悪魔との戦闘で負った傷。
 さすがに強い悪魔ばかりだった。なんとか仲魔全員を召喚して切り抜けたが、そのせいで大量のマグネタイトを消費してしまった。
 早くマグネタイトを補給しないと。私はマグネタイトを生成できない。だから他の悪魔から奪わなくては。

 『黒蝿』

 念波で重女は呼び掛けた。
 コンプを使わなくても召喚可能な、重女が現世に縛り付けている唯一の仲魔。

 図書室の影が膨らみ、やがてその影は、黒い翼を携え、深緑の長髪に黒い法衣を着用した男の形になった。
 
 「なんだ」

 黒蝿、と呼ばれた男は答えた。鴉を連想させる兜の下、切れ長の瞳が重女を見据える。

 『用務員はきちんと校外へ出してきたんでしょうね』
 「ああ、「くらら」かけて風で外に運んだ」

 重女は頷きながら、髪を縛り、「お守り」の十字架のペンダントを首からさげる。これで呪殺防止になる。

 「あのひらひらした服は着ないのか?」

 にやにやしながら問う黒蝿に、重女は本を投げつけた。が、黒蝿はひらりとかわした。
 暗い図書室では表情は見えにくいが、重女の顔が赤くなっているのが黒蝿には分かった。

 『あんな服、戦いには向かない』

 スニーカーの紐を結ぶ。この学校に潜入するために買った、足にぴったりの靴。あの大きすぎる軍靴では、戦いの時動きにくい。真駒内駐屯地での戦闘で経験済みだ。

 にやつく黒蝿の視線に苛つきながら、重女はジグ・ザウエルに弾倉を入れる。

 ――全く、こいつが篠宮茜を怯えさせたせいで、危うく築き上げた信頼を失うところだった。そうなれば“人質”につかうところじゃなくなるというのに、余計な事をして!

 「あの服、要らないなら捨てればいいだろうに」
 黒蝿がそう言うと、重女はじろりと睨んだ。
 『……いざというときに包帯に使えるかもしれないでしょ』

 淡々と念波を送る重女だが、黒蝿は知っていた。彼女があの服を買ってから包装から出しもせず、袖も通さずに大切に保管していることを。

 『なに?』
 「いや、別に何も」

 くつくつと笑う黒蝿を睨みながら、ジグ・ザウエルの安全装置を解除する。

 「…………」

 重女は左手を床につけ、目を瞑る。眼鏡が少しずれ、眉間に皺が寄る。
 すると重女の影が広がり、図書室全体を覆い尽くす。部屋が闇に包まれたかと思うと、次の瞬間、闇は霧散し、元の図書室が姿を現す。
 結界が張れた。見た目は前の図書室と変わらないが、重女の唯一の能力、“影の造型魔法”によってこの部屋は結界によって遮断された。これで誰も侵入出来ないし、誰も逃げれない。
 
 『此処よ』

 重女が指差したのは、歴史の本棚。
 気付いたのは、篠宮茜に連れてこられた時。その時は小さな違和感しか感じなかった。その後、何度か通ううちに、違和感の正体に気付いた。

 それは、悪魔のマグネタイトの気。

 初日は弱く、気にも止めなかったが、日が経つにつれて、それはどんどん大きくなっていった。
 これだけのマグネタイト、奪ってものにすれば、「時間遡行」に必要なマグネタイトの量に届くかもしれない。

 「確かにいるな」

 黒蝿が本棚に手を翳す。すると空間がグニャリと曲がり、図書室が姿を消した。
 代わりに現れたのは、天井から床までぐにゃぐにゃした血管のようなものに覆われた、悪魔の結界。

 かたかた、かたかた。
 一つではない、複数の物が揺れる音が辺りに響く。
 重女と黒蝿は悪魔に囲まれていた。

 悪霊・ポルターガイスト。
 丸い顔にハニワのような黒い目二つと口一つの霊が、洋製の椅子にくっつき、それをガタガタ揺らしている。数は、およそ二十体。

 「小物だな」
 黒蝿がつまらなそうに言う。
 『分かっている。こいつらじゃない。本体は奥にいる』

 結界の更に奥、あの靄の向こうにこの悪霊共の親玉がいる。

 『とっとと倒してマグネタイトを貰うわよ』

 重女が聖書を手にする。黒蝿は肩を竦める。

 「良く言うぜ、実際に戦うのは俺だろう」
 『できる限りサポートはするわ。それに、分かっていると思うけど殺すんじゃないよ』

 ジグ・ザウエルを構えながら重女は言う。

 「俺が弱らせて、お前がマグネタイトを奪うんだろう」
 
 頷く重女に黒蝿はため息をつく。

 こいつがマグネタイトを生成できれば、こんな面倒な戦いをする必要などないのに。
 だが黒蝿にはマグネタイトが必要だ。彼女に真名を奪われている限り、彼は現世に縛り付けられ、異界に帰る事もできない。
 現世にいる限り、マグネタイトを定期的に摂取しないと自らの形を保てない。またこいつと出会った時の、蝿のような姿に逆戻りはごめんだ。

 『来る!』
 重女が身構え、黒蝿も戦闘態勢をとった。ポルターガイストの群れが二人に一気に襲いかかる。

 さあ、悪魔狩りの始まりだ。

―――

 篠宮茜が夜の学校に来た時、ゾクッと寒気が走った。

 只でさえ夜の学校とは不気味なものだが、この寒気は不気味さとは少し違う。
 例えるなら、全く知らない所に迷い込んで、幽霊に出会ってしまったような、得体のしれない感覚。
 鳥肌のたった腕を握りしめ、茜は校舎へと足を踏み入れた。早く教室へ行って数学の教科書を持ってこよう。あれがないと明日の小テストの勉強が出来ない。

 来客用のブザーを押す。応答がない。あれ? 用務員さんには連絡しておいたのに。

 「すいませーん……」

 呼び掛けながら扉を押す。するとキィ、と音がして扉が開いた。

 「?  鍵が開いている?」

 そのまま茜は校内に入る。

 (なんか怖い……さっさと帰ろう……)

 上履きに履き替え、茜は廊下を歩く。暗い。用務員さんはどうしたのだろう。
 非常灯に照らされた廊下は、いつもより一層不気味に感じた。

―――

 黒蝿のザンがポルターガイストを襲う。

 「うわあ!」

 ポルターガイストが飛ばされ、弱りきったところを、鋭利な形に変化した重女の影が突き刺さる。

 「……!!」

 刺さった影がポルターガイストのマグネタイトを吸いとる。重女は聖書を握りしめ、マグネタイトと共に、身体に流れてくる悪魔の思念を受け止めていた。

 痛いいたいイタイ――!!

 悪魔の思考は単純だ。人間と違って、快と不快しかない。
 重女の身体を触媒にし、影で吸いとったマグネタイトを、握りしめた聖書型コンプに補給する。やり方は簡単だが、マグネタイトと共に悪魔の感情まで流れ込んでくるのはなかなかキツイものだ。
 マグネタイトを奪われたポルターガイストの群勢は消え、残りは一体。
 膝をつき、荒い呼吸を繰り返しながら、重女は吸いとったマグネタイトの計算をする。

 まだ足りない。こいつらは小物だ。もっとマグネタイトを手にするには、やはり奥の親玉から奪うしかないようだ。

 「か、勘弁してくれよお!」
 生き残りのポルターガイストが叫ぶ。
 「ほ、ほら、これやるから見逃してよ! ね?」

 そう言いながらポルターガイストが投げて寄越したのは、八百万針玉。
 黒蝿がアギを放とうとするのを、重女が手で制する。

 「おい?」
 『こいつには、親玉のところへ案内してもらいましょう』
 ジグ・ザウエルをポルターガイストに突き付け、重女が言う。

 「な、なんだよお!」
 『殺されたくなかったら、とっとと親玉のところまで連れていきなさい』

 ポルターガイストの表情は変わらないが、とりついているチェアがガタガタと揺れた。

―――

 「ここか」

 複雑な悪魔の結界の最深部、黒蝿と重女はポルターガイストに連れられ、一つのドアの前にいた。
 見た目はなんの変撤もないドアだが、其処から嫌なマグネタイトの気が漏れ出している。

 「…………」

 重女が聖書を開く。頁に手を触れると文字が光り、コンプが作動する。

 「ひ!」
 嫌な気配を感じたのか、ポルターガイストが暴れ、重女と黒蝿の元から逃げ出した。

 『!』
 「逃げたぞ!」

 重女がジグ・ザウエルの引金をひく。銃弾がポルターガイストの横に着弾する。外した!

 『この!』
 狙いを定めて二発、三発と放つが、全て外れた。舌打ちした重女がポルターガイストの後を追う。

 「待て! 深追いするな!」

 黒蝿が重女を止めようとする、が、途端、すぐ後ろのドアが開き、強い衝撃波が放たれる。

 「!」

 衝撃波をもろに受け、重女とポルターガイストが結界の外に飛ばされる。

 (しまった! )

 重女が飛ばされた事により、図書室に張った影の結界が破れてしまった。図書室の窓を突き破り、重女の身体は廊下へと転がる。

 「あの馬鹿!」
 黒蝿が追いかけようとするが、目の前に巨大な肉の塊が現れる。幾つもの人間の顔が集まった、醜悪な赤黒い塊――

 悪霊・レギオン。この図書室に巣くう悪魔の親玉。

 「ち!」
 レギオンの攻撃をかわしながら、黒蝿が舌打ちする。

 「俺一人でこいつをやれってのかよ!」

―――

 「な、何!?」

 篠宮茜は、教室でその音を聞いた。
 今、何かが割れる音が聞こえた。なに? 図書室の方から?

 茜は数学の教科書を鞄にしまい、そっと廊下に出る。
 廊下に出て、右に曲がれば図書室だ。なんだか焦げ臭い。一体何が……。

 ドン! ドン!

 低い衝撃音が聞こえてきて、茜の身体がびくっと震える。
 今のは何? 銃声?

 かたかたかた……。何かが震える音が近づいてくる。

 「な、何? なんなの!」

 立ったまま動けない茜に、曲がり角から洋製の椅子が飛んでくる。

 「きゃあ!」

 悲鳴をあげ、思わず手で顔を覆った茜だが、予期していた痛みは襲ってこなかった。

 「……?」

 茜が恐る恐る目を開く。
 すると視界に飛び込んできたのは、
 非常灯に照らされた、小柄な身体、ゴムがほどけ、乱れた金髪。軍服に似た服を着て、右手に拳銃、左手に聖書を持った――

 「く、九楼さん!?」

 茜の姿を見て、重女の眼鏡の奥の瞳が見開かれた。

 ――篠宮茜、なぜ此処に!


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 『今日未明、陸上自衛隊真駒内駐屯地の弾薬倉庫から9mm自動拳銃一丁と銃弾十数発、手榴弾数個が盗まれる事件が発生しました。自衛隊は…………』

 いつもの日曜、篠宮茜は約束の時間より少し遅れて河川敷のベンチへと向かっていた。

 (まずい……寝坊しちゃった)

 茜はひたすら走る。九楼さんがスマホか携帯を持っていたら事前に連絡出来たのに。
 彼女は携帯もスマホも持っていない。茜が自分のスマホを見せると彼女は酷く驚いていた。

 [小型の懐中電灯?]

 重女がそうノートに書いてきたのを見て、今度は茜が驚いた。今時スマホを知らない中学生なんているのだろうか。
 茜は深く追求しなかった。人様の家庭の事情にずかずかと足を踏み入れてはいけない。
 でも、九楼さんがスマホを持っていたら、通話は出来なくてもメールやラインが出来たのに。彼女は顔文字を使うのだろうか? きっと彼女はシンプルな文体だろう。茜はそう妄想し、自然に顔がにやけてくる。

 ベンチが見えた。茜の足が早くなる。

 「九楼さん、ごめんなさい! 今日寝坊しちゃって……?」

 そこまで言って茜は口をつぐんだ。ベンチに座っていたのは、金髪の少女ではなく、黒いロングコートを着て鳥打帽を被った、長身痩躯の男だったからだ。
 男が、視線を手元の本から外す。鳥打帽から覗く切れ長の瞳が、茜を射ぬいた。
 その男が手にしている本が、重女に貸したライトノベルだと分かり、茜は身体を強張らせる。

 「あいつは来ない」

 ぱた、と男が本を閉じて、此方を向く。

 「え? あの……」
 がさがさ、と男が本を紙袋に入れる。あの紙袋、私が九楼さんに先週貸したときに本を入れてあった……

 「ちょっとドジを踏みやがって、あいつは今怪我をしている」
 「え!? け、怪我!」

 男がベンチから立ち上がる。随分背が高い。初夏に相応しくない黒い革のロングコートと、黒の鳥打帽から見下ろす金色の瞳が、茜を怯えさせた。
 この人は何者なんだろう。なんだか恐い人だけど、何故この人は九楼さんに貸したはずの本を持っているのだろう。「あいつ」とは九楼さんの事だろうか。もしかして……。

 「あの……九楼さんのお兄さん……ですか?」
 「ああ?」

 低い声が響き、茜の顔に緊張が走る。男はそんな茜を一瞥しながら「……違う」と吐き捨てた。

 「只の同居人だ」

 同居人?  家族の方ではないのか? そういえばこの人と九楼さんは全然似てない。強いていえば、瞳の雰囲気が、九楼さんが時々見せる眼に少し似ている……

 「篠宮茜」
 「はい!?」
 いきなり名前を呼ばれ、茜が肩を震わす。

 「………お前に聞きたい事がある」

 男がベンチから離れ、茜に近づく。一歩、二歩。

 「き、聞きたい事?」

 茜が怯えながら聞き返す。今日は暖かいのに、この男の周りだけ空気が冷たく、影が濃いように茜は感じた。

 「お前の父親は、烏丸コーポレーションに勤めているな」

 男がまた一歩近づく。茜は後ずさる。この人、ただの人じゃない。
 隠しきれない鋭い険は、一般人のそれとは明らかに違う。警察? それとも、ヤクザ?

 「わ、私の父がどうしたんですか?」

 声が震える。男の鋭い視線を浴びながら、茜の頭の中で警鐘が鳴っていた。
 この人、ヤバイ!

 「お前の父親は、烏丸コーポレーションに勤めている。それで間違いないか?」
 「そ、そうですけど……」

 ふむ、と男が口元に手を当てる。逃げ出したいのに、膝が震えて立っているのがやっとだ。
 この人は九楼さんの「同居人」のはずだ。それなのに何故父の事を聞いてくる? そもそも九楼さんは何故此処に来ていない?  怪我をしたとこの人は言った。なんで怪我をしたのだろう。まさか、この人が暴力を奮って――?

 混乱する茜を男はじっと見ていた。口を開きかけたその時。

 ワン!

 犬が男に向かって吠えた。

 男が犬の方向に目を向ける。
 犬を連れて河川敷を散歩していたジャージ姿の初老の女性は、怪訝な目で男と茜を見ている。全身黒づくめの男の姿は目立つ。女性の目には、怪しい男が少女を拐かそうと見えたのかもしれない。

 「………」
 罰が悪そうに、男はベンチへと戻り、紙袋を持って来て茜に差し出す。

 「あいつがお前に返すようにと」

 紙袋には、茜が九楼重女に貸していたライトノベル数巻が入っていた。異能の少女が悪魔をやっつける学園ファンタジーものだ。
 
 「………」
 茜は黙って受け取る。手の平に紙袋の重みが伝わり、がさ、と紙袋が鳴る。

 「面白かった、と、そう伝えてくれと頼まれた」

 全く感情の込もっていない声で男が告げる。
 茜はそれを聞いて、そんなことを頼まれるなんて、この人は九楼さんと本当は親しい関係なのではないかと推測する。

 男が背を向け、そのまま歩いていった。

 茜は暫く動けなかった。冷や汗が背中を伝う。あの恐い人、一体何者なの? 何故父の会社の事を聞いてきたの? そして何より、

 あの人、本当は九楼さんのなんなんだろう――。


―――

 翌日の月曜日、いつものように大きなボストンバックを持って、九楼重女は登校した。
 教室に入ってきたとき、茜やクラスの皆は絶句した。重女の頭と左手に包帯が巻かれていたからだ。

 「九楼さん!」
 茜が駆けつける。重女は静かに席につくと、張り付いたような笑みを浮かべた。
 「本受け取ったよ。怪我したって本当だったんだね……」

 茜がそっと耳打ちする。

 「あの恐い人に怪我させられたの?」
 重女は首を振って、筆談用ノートにペンを走らせる。

 [かいだんからころんだの]

 「嘘。あの人言ってたよ。「ドジを踏みやがって」って。何かあったんでしょ」
 その問いに、重女は困ったような笑みを浮かべる。
 「……ねえ、もしかして、あの黒くて恐い人……九楼さんの彼氏?」
 重女が不思議そうにノートに書き足していく。

 [かれし?]

 え? 九楼さん、スマホといいまさか彼氏の意味も知らないの?

 「えっと……なんていうのかな、恋人、て意味だよ」

 途端、重女の顔が物凄く嫌そうに歪んだ。

 [遠いしんせきのおじさん]

 殴り書きされたその文字は、重女の不機嫌を表すかのように荒々しかった。
 おじさん? 茜が首を傾げる。あれ? 昨日のあの男の人は「家族じゃない」て言っていたような。それにおじさんというよりはお兄さんぽかったけど……

 「………」

 重女が茜を見上げる。大きな青い瞳は眼鏡ごしに茜を睨んでいた。
 この瞳、やはり昨日のあの人と似ている――

 「あ、あの、色々事情があるかもしれないけど、困ったことがあったら相談してね。ホント、暴力とか許せないから!」

 重女は苦笑する。どうやらこの子の中では私は「あいつ」と恋人同士で、「あいつ」から暴力を受けているという設定らしい。
 本当は違うのだが、そう誤解させておくのも悪くない。

 [ありがとう]

 作り笑いを浮かべながら、重女はそう書いた。
 茜が嬉しそうにはにかんだ。

―――

 土曜日、茜は部活が休みだったので、重女をショッピングに誘った。
 私服で来てね、という茜の頼みに、彼女はやや眉を寄せながらも了承した。
 待ち合わせは新しく出来たショッピングモール。茜は青いワンピースを着て軽い足取りで向かっていた。
 重女さんの私服が見れる。そう考えると自然と顔が綻ぶ。
 彼女はどんな服を着てくるのだろう。日曜に会うときも、彼女はいつも無個性な紺のセーラー服姿しか来てこなかったから、私服を見るのは初めてだ。きっと、ふわふわした女の子らしい格好だろう。ワンピースかロングスカートかな。色はきっと白だろう。

 茜の淡い期待は、しかし待ち合わせ場所にいた少女に裏切られた。

 モール内の柱に寄りかかりながら本を読む少女――九楼重女は、黒の半袖のタートルネック、ベージュのカーゴパンツ、ゴツいブーツという出で立ちだった。首から下げた錆びた十字架のペンダントは、アクセサリー……なのだろうか。

 (あれは……なに? 軍服コスプレ?)

 想像の遥か斜め上の重女の格好に、茜は声をかけるのを忘れてしまう。
 
 「…………」

 重女が茜の方を向いた。眼鏡の奥の青い瞳が大きくなり、唇の端を上げてこちらへ向かってくる。
 昼下がりのショッピングモールから完全に浮いている金髪碧眼の少女に、茜は苦笑いを浮かべるしかなかった。

―――

 二人の少女が歩く度、通行人の視線が突き刺さる。一人は青いワンピースのショートカットの少女。もう一人は、金髪をたなびかせながら、軍靴を踏みしめる眼鏡の少女。
 妙な組み合わせの少女二人組に、通行人が好奇の視線を向けるのは当然だった。
 ひょこ、ひょこ。重女の歩き方は少し変だ。茜は一体どうしたのだろうと思い、隣の少女の足元を見る。もう怪我は治ったはずなのに。
 重女の軍靴――茜にはゴツいブーツに見えた――や服装は、良く見ると大きい。あれはもしや男物ではないか。

 「ねえ、どうして男物の服と靴を履いているの?」
 「!」
 思わず茜が尋ねると、重女ははっとしたように顔を向けた。

 「っ………!」

 白い顔が真っ赤になり、唇は震えて、視線を泳がせながら重女はもじもじする。こんな彼女の顔は初めて見る。

 (しまった、聞いてはいけなかったんだ)

 「あ、いや、それはそれで似合うとおも……」
 茜の言葉が終わる前に、重女は目の前の服屋に飛び込む。
 「九楼さん!?」

 怒ったような顔をして、いきなり入ってきた少女に、店員も目を丸くした。
 そして重女は、手に持っていたノートにペンを走らせると、店員に見せた。

 [この子とおなじものを]

 重女が茜のワンピースを指さす。今度は茜がぎょっとした。
 「九楼さん……?」
 目をしばたかせる茜をよそに、程なくして店員がワンピースを持ってきた。

 「生憎こちらのタイプしか置いてなかったもので……」

 店員が差し出したのは紫色のバッスルタイプのワンピース。襟元が白でリボンが黒だ。
 「ご試着なさいますか?」
 重女は頷く。

 試着室に入っていく重女を、茜は呆然と見ているしかできなかった。
 考えてみれば、彼女がどんな格好をしてようと彼女の勝手なのだ。それなのに私はあんなことを言ってしまって、九楼さんを怒らせてしまった。あの古い服も、大きすぎる靴も、九楼さんにとっては大切なものだったのではないか?
 自分の発言の思慮の浅さに、茜は自己嫌悪に陥った。

 そうして重女が試着室に入り、十分以上が経過した時、ようやく試着室のカーテンが開いた。

 「わあ……!」

 茜の顔が明るくなり、感嘆の声を上げた。
 青みがかった紫の膝丈ワンピースは、彼女の白い肌と金髪によく映えて似合っていた。

 「…………」

 重女がスカートの裾を握りもじもじしている。ちら、と茜の方に困ったような視線を向けた。

 「九楼さん! 凄くよく似合うよ! まるで雑誌から出てきたみたい!」

 重女は一瞬きょとんとした表情を浮かべたかと思うと、今度は真っ赤になって顔を俯かせる。

 「それ買いなよ。値段もそんなに高くないし、重女さんにぴったりだよ!」

 茜が誉めまくると、重女が顔を上げて照れながら頷いた。

 (重女さんて、こんな顔もするんだ)

 頬を赤く染めながら微笑む重女を見て、茜は重女への印象を、綺麗な女の子、から、親しみやすい可愛い子、へと変わった。

 紫のワンピースの上で、重女の十字架のペンダントがきら、と光った。


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今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる。

「わたしはアルファであり、オメガである」

「最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである」

ヨハネの黙示録第1章8節、第22章13節より






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