往来―all right―別館【俺屍サマナー】

俺屍+デビルサマナー=俺屍サマナーというダブルパロ(クロスオーバー)小説を扱っております。俺屍に登場する神々や鬼を現代で使役していたら・・・という発想で生まれたいわゆる三次創作小説です。俺の屍を越えてゆけと真・女神転生シリーズ(主にⅣ)の設定を独自に融合させて捏造しております。女神転生や俺屍の人物名称や設定をかなり変更しております。こういったのが苦手な方は閲覧をご遠慮下さい。 やたノ黒蝿とサマナーになってしまった少女の物語です。

タグ:八坂牛頭丸

 『ねえ、名前、なんていうの?』
 「お、おれ、なまえ、ない。で、でも、みんな「くるいむすめ」てよぶよ」

 ――くるいむすめ。「狂ひ娘」。狂っている娘。酷い呼び方だ。確かにこの子は年のわりに知能が劣ってるらしい。重女の時代の言葉で言えば「知恵遅れ」の子、と呼ばれるだろう。現に彼女の理解力の低さを利用し、身体を求めてくる輩も集落にはいて、彼女はここに来る前は見世物小屋で身を売って生活していたらしい。
 だけど重女には、この子が「狂っている」とは思わなかった。この子は溜息が出るほど穢れていなく、そして悲しくなるほど純粋だ。ほんの少し話しただけだが、それが伝わってきた。
 「狂っている」というなら、なにもわからない彼女の身体を要求してきていた連中や、母に無理やり性行為を迫ってきていた外人さんや、外見が違うというだけで酷い言葉や仕打ちをぶつけてきた同級生や近所の奴らの方が、重女からしてみれば「狂っている」奴らだ。
 この子は自分がそう呼ばれることを何とも思っていないようだ。むしろ喜んでいるように見える。それはこの子の頭がこの呼称の意味を理解できるほど発達していないというのもあるだろうが、きっとこの子を受け入れてくれたここの集落の皆がそう呼んでくれるのが嬉しいのだろう。
 だから重女も「狂ひ娘ちゃん」と呼んだ。そう呼ぶのには抵抗があったが、他に何と言っていいかわからなかったのと、当の本人が嬉しそうだったのでそのまま呼ぶことにした。

 『そのお腹の子、名前はもう決めてるの?』

 ある日、村の女衆に教わった通りに縄を編んで草履を作りながら重女は問いかけた。狂ひ娘のお腹は大きく、もう臨月だろう。出産間近ならもうそろそろ名前を決めてもいい頃だ。

 「えっとね、えっとね、「しゅうまる!」」
 『……………拾丸、はお父さんの名前だよね?』
 「うん! しゅうまるのこだから、「しゅうまる」! お、おれ、しゅうまるのこと、だいすきだから!」

 眩しい笑顔で狂ひ娘は頷いた。この子は本当に「拾丸」の事が好きなんだな。自分の子に名付ける程に。
 「拾丸」という男には会ったことはないが、きっとシドのようにかっこよくて素敵な大人の男性なんだろう。父親と子の名前がダブってしまう問題は、子が生まれてから頭領や集落の皆がなんとかしてくれるだろう。

 『じゃあ、「しゅうまる」君が生まれたら、私にも抱っこさせて?』
 「う、うん! いいよ! かなめにならいいよ。し、しゅうまると、おれとで、た、たくさんあそぼ!」

 重女はふと思い出した。弟が生まれた日の事を。
 陣痛がはじまり、破水した母と共にタクシーに乗り、母はそのまま病院の分娩室に運ばれ、自分は病院の椅子で分娩室から聞こえる母の苦しそうな声を聴きながら、泣きそうな気分で膝を抱えて待っていた。
 そして無事生まれた弟を抱き上げた感触。柔らかく、赤く、壊れてしまいそうなほど小さい弟を抱っこした時に自分の中に生まれた温かい気持ち。あの時自分はまだ六歳だったが、あれは母性というものだったのだろうか。
 狂ひ娘の子が生まれるまでここにいられるかは疑問だったが、またあの時のように赤子を抱っこしてみたい。生まれたばかりの命を感じてみたい。

 『うん、沢山遊ぼうね』

 果たせるかどうかわからない約束を、重女は笑顔で言った。狂ひ娘も思いっきり笑ってくれた。生まれてくる子はどんな子だろう。男の子か、女の子か。狂ひ娘の腹の中で眠っている赤子の未来を想像すると、なんだかとっても穏やかな気持ちになった。

―――

 「ああ、本当だ。ここに亀裂が走っている」

 集落の北東の草原。鬼から守る為に集落をぐるりと囲んでいる鬼避けの呪法が施された柵に、僅かに亀裂が走っているのを、柵を立てた本人である頭領が灯りを当てて確認した。

 「ほんとだ、ひびはいってる」
 「割れてると、鬼が入っちゃうの?」

 頭領の横で、問いかける幼子が二人いた。二人は男の双子であり、狸耳と尻尾を持った妖精――紅梅白梅童子である。

 「……君達は、本当に私を手伝えるのかい?」

 頭領が不安そうに問う。異形の者がよく集まるここでも、さすがに獣の耳と尻尾を生やした者は見たことがない。この子達は、あの少女――「かなめ」が不思議な書物から呼び出した謎の存在。そしてこの子達は、自分を手伝えとかなめに命じられたらしい。
 鬼には見えないが、「クロハラ」と同じ人外の者には違いない。何か不穏な動きをしたらすぐに術を発動できるよう頭領は杖に力を入れた。

 「うん、手伝うよ!」
 「獅子丸に術教えてもらった!」

 獣耳をぴくぴく動かしながら、二人は無邪気に微笑んで答える。その笑顔は人間の稚児のそれと変わりない。
 この子達はなんなのか、何故柵に亀裂が走ってしまったのか、そもそもこの子達をあの書物から召喚したかなめは何者なのか、疑問は沢山あるが、まずはこの柵を直すことが先だ。そうしないと集落に鬼が入ってきてしまうからだ。狂ひ娘の胎内に侵入した、あの夢魔のような。

 「………」

 頭領は、呪法を唱えながら頭の片隅で、今、狂ひ娘を助けようと"治療"を施している謎の少女――かなめの事を考えていた。
 本当に出来るのだろうか。腹のややこと母体を救うために、胎内に侵入した夢魔を取り除くことが、彼女に――

―――

 「これで全員、か」

 やたノ黒蝿は、一郎他、頭領の家の周りに集まっていた奴らに「くらら」の術を掛け終えた。大口を開けて寝ている一郎の寝顔は、腹立たしい程に穏やかだ。

 「こっちも終わったぞ」

 西の方角から牛頭丸が、東の方角からは石猿が、南からは獅子丸がそれぞれ黒蝿の元に集まってきた。
彼らはこの集落の人間全員に眠りの術をかけてきたところだ。これで五月蠅い輩は全員鎮まり、重女が行う"施術"に集中できる。ただ、頭領は鬼避けの柵を直すためと、何かあったときのために術をかけないでおいた。

 「おい、こっちの準備はできたぞ」

 頭領の家の中で待機していた重女に黒蝿は声をかける。重女はゆっくりと振り返る。蝋燭の灯りに照らされた顔には、困惑の表情が浮かんでいた。

 『ほんとに、私にできるの?  狂ひ娘ちゃんの中の悪魔だけを消滅させるだなんて……』

 重女はゆっくりと顔を伏せ、苦悶の表情で気を失い横たわっている狂ひ娘を見た。
 今、あの大きな腹には、彼女の子供と夢魔・インキュバスが同居している。ほうっておくと赤子だけではなく、母体である狂ひ娘まで内側から食い尽くされる。そんな絶望的な状況に、黒蝿は一つの方法を提示した。

 ――それは、重女が影を操り、狂ひ娘の胎内に侵入し、インキュバスのマグネタイトを吸い取り消滅させること。

 今まで何度も影で悪魔のマグネタイトを吸収してきた。あれと同じ要領でインキュバスのマグネタイトを吸えばいい。頭ではわかっていた。だがこの作業は高い技術と繊細さが要求される。狂ひ娘と赤子のマグネタイトと身体には傷をつけず、極小サイズへと変化した悪魔だけを狙う。顕微鏡等の補助無しで、切開はせず、肉眼だけでがん細胞を取り除け、と言われているようなものだ。

 「お前が出来ないなら、俺がその女の腹をかっさばいてインキュバスを食ってやる。その場合その女も腹の子も死ぬがな」
 『そんなの、駄目に決まってるじゃない!』
 「ならやれ。そいつと腹の子を死なせたくなければな」

 ――無茶をいう! 重女が更に黒蝿に食いつこうとした時、

 「……か、なめ?」

 狂ひ娘がゆっくりと目を覚ました。傷跡の残る白い美しい顔は、しっかりと重女のほうを向いていた。

 『狂ひ娘ちゃん!』

 重女は急いで彼女の手を握った。そしてぎょっとした。先程より明らかに細くなっている。まさか、もう内側から悪魔に生気を吸い取られはじめているのか!?

 「か、かな、かなめ、ぶ、ぶじでよかった」
 『そんな! ごめんなさい! 私のせいで、狂ひ娘ちゃんが……!』
 「い、いいんだよう。だ、だって、おれたち、と、"ともだち"だろ? "ともだち"は"たすけあう"んだろ」

 はっと、重女の目が大きくなった。昨日の夜、狂ひ娘とこっそり語り合った内容。そうだ、私達は"友達"だった。「友達は助け合うもの」と私が言ったんだ。その言葉を狂ひ娘ちゃんは覚えてくれていた。だから、彼女は私を助けてくれたんだ。

 『……そうだね、私達、"友達"だよね……』

 ぎゅ、と狂ひ娘の手を握る力を込めた。そして骨ばった指に自らの指を絡める。

 「か、かなめ……「しゅうまる」だけは、「しゅうまる」だけはしなせないで……し、「しゅうまる」、おれのこ、うんであげたいよう……」
 『大丈夫! 「しゅうまる」君も、狂ひ娘ちゃんも、私が助ける! 今度は私が狂ひ娘ちゃんを助ける番! だって、狂ひ娘ちゃんは"友達"だから!』
 「そう、そうだね、お、おれたち、"ともだち"だね」
 『うん、だから安心して。私が助けるから! 「しゅうまる」くんが生まれたら一緒に遊ぶの! 私と、狂ひ娘ちゃんと、一緒に!』
 「い、いっしょ?  お、おれと、「しゅうまる」と、かなめ、いっしょ?」
 『うん、一緒だよ』

 その言葉を聞いて、狂ひ娘は安心したように笑顔になり、そしてまた気を失った。
 重女は自分の指から狂ひ娘の指をほどき、涙の浮かんでいた目尻を拭うと、き、っと口を真一文字に引き締めた。

 『……黒蝿、指示を頂戴。そして私を全力でサポートして』
 「ああ」

 黒蝿の指示どおり、重女は影を操作した。まず狂ひ娘の腹の上に手を置き、そこから影を発生させた。影の先端を超極小サイズへと変化させ、毛穴から直接胎内へと影の触手を伸ばしていく。重女は意識を影へと集中させた。意識は影と溶け合い、影は重女の意識と同調し、やがて重女の五感と意識は影と一体化した。

 戦いが始まる。狂ひ娘の胎内で、彼女と彼女の子を守るための戦いが――

―――

 頭領が柵を修理して、自らの家に帰った時、彼はぎょっとした。
 周りには一郎や吉之助といった、先程まで集まっていた集落の皆が地面に倒れている。頭領は慌ててその中の一人の息を確かめる。そいつは外傷はなく、すやすやと眠っているだけだった。

 「安心せよ、わが主の施術の邪魔にならないよう、集落の皆には少し眠ってもらった」

 赤い鬣の、大柄な半人半獣の獅子の男が言う。他にも猿のような大きな男と、筋肉隆々の黒牛が頭領の家の周りを取り囲むように立っていた。

 「主様! ちゃんとこのお兄ちゃんを手伝ってきたよー」
 「主様、どこー?」

 頭領の足元から狸の幼子――紅梅白梅童子が家の中に入ろうとする。だが、獅子の男が止めた。

 「今、主は大変なんだ。邪魔をしてはならん」

 獅子の男――雷王獅子丸が紅梅と白梅をひょいとつまみあげ、小脇に抱えた。

 「………君達は、何者だ? 人ではないみたいだけど」

 頭領は、雷王獅子丸、八坂牛頭丸、石猿田衛門、紅梅白梅童子らに問いかけた。
 我ながら間抜けな科白だと思う。彼らが人でないのは一目瞭然である。「何者なのか」と問いたかったのは「かなめ」にである。
 彼らのような異形の者を従えている彼女は何者なのか、人なのか、物の怪なのか、それとも自分のように陰陽の心得のある術師なのか、それが聞きたかった。

 「俺たちは姐さんの"仲魔"だ」
 「……なかま?」
 「そう、契約により主の手足となり戦う」

 猿と獅子丸が答える。その顔はやや誇らしげだ。

 「……その、君達の"主"は何者なんだい?」
 「何者か……か。しいていうなら"悪魔召喚師"だろうな」

 家から"クロハラ"こと黒蝿が出てきて、頭領の質問に答えた。

 「クロハラ、かなめはどうした?」
 「今、"施術中"だ。深い催眠状態に陥っている。下手な刺激を与えると失敗してしまう恐れがある」
 「催眠状態?」
 「あの女の胎内にあいつが"影"を操り侵入し、悪魔を消滅させようとしている」
 「君がさっき言った"悪魔召喚師"というのは?」
 「ああ、この時代のこの国では"陰陽師"といったほうが正しいのか。簡単に言えば、魔を従え、魔を討つ。それがあいつで、俺たちは"使い魔"みたいなもんだ。俺は別に望んでなったわけじゃないがな」

 悪魔召喚師。成る程。悪魔とはとつくにの言葉で鬼のようなものか。彼女の外見からしてこの国の者ではないと思っていたが、まさかあの子がそんな異能の力の持ち主とは。
 もう朧げな記憶しかないが、先代、つまり頭領の父と母も異能の使い手で、息子である頭領に様々な術を教えた。両親も"悪魔召喚師"だったのだろうか。

 「黒蝿! 重女の様子がおかしいぞ! 酷く痙攣している!」
 「なに!?」

 家の中を覗いていた牛頭丸が叫ぶ。黒蝿と頭領は急いで家の中に入った。
 そこには、横になった狂ひ娘の腹に手を当てながら身体をびくん、びくんと震わせている重女の姿があった。
 目は固く閉じられており、声のでない喉からは、かは、かは、と溺れかけのように激しい咳のような呼吸を繰り返している。

 一体、彼女の身に何が起きているんだ? 狂ひ娘は、腹のややこはどうなっている――!?

―――

 視界に映ったのは、オーロラのような穏やかな光の膜であった。

 その光は揺らめく度に様々な色に変化する。薄桃色、緑、青、黄……一つとして同じ色はなく、どれも攻撃的な色合いではなく、心が安らいでいくような、優しい色のカーテン。羊水だろうか。重女は"影"の手をそっと光へと伸ばしていく。
 次に聞こえたのは、どくん、どくん、という音。力強い大きな音である。だが五月蠅いとは感じなかった。むしろその音は心地よく、ずっと聞いていたいとさえ思った。
 これは心臓の音だ。赤子の鼓動。良かった。この音が聞こえたということは、赤子はまだ生きている。
 しかし肝心の赤子はどこに?  重女は"目"を動かす。
 と、いきなり肉の壁が立ち塞がる。びっくりして思わず"叫んで"しまった。よく見れば、その肉はやや赤っぽい肌色で、血管らしきものも確認できる。そして全体的に丸みを帯びている。重女は視界を俯瞰に調節した。
 やはり、それは胎児であった。「しゅうまる」――狂ひ娘と「拾丸」の子。昔、保健体育の教科書の写真で見たのと同じ、頭が大きく、小さな手足を折り曲げて、手を丸めている。腹から出ている肉の紐のようなものは、へその緒だろう。
 こうして間近で見ると少し不気味だ。姿形は間違いなく人間なのに、なんだか別の生き物のように感じる。
 生まれたばかりの弟を見たときは、丸くて、小さくて、柔らかくて、顔が赤くて猿みたいだと思ったが、とても可愛かった。やはりお腹にいる時の赤子は、生まれたときとは印象が違うものなんだな。まあ今の私のように、羊水の中から直に見る事なんて普通はないだろうから当たり前かもしれないけど……

 その時、赤子の身体が動いた。手足を動かし、しゃっくりを発する。まるで何かに嫌がってむずがっているように見える。
 その原因はすぐにわかった。赤子のへその緒に、赤紫色の粘液のようなものがこびりついている。それはへその緒を齧っている。あいつが悪魔だ。重女は確信し、急いで影を伸ばした。
 瞬間、悪魔――インキュバスはへその緒から離れ、今度は赤子の尻へと移る。赤子の動きが激しくなる。

 『この!』

 重女が尻へと移動すると、今度はインキュバスは頭へと逃げた。それを急いで追いかける。しかしまた逃げられ、相手は別の場所へと移動する。羊水の海の中で、重女とインキュバスは命がけの鬼ごっこを繰り広げていた。もちろん、鬼は重女である。

 (早くしないと、赤ちゃんが食われてしまう! )

 その焦りが影の操作を少しだけ狂わせた。インキュバスを捕まえようとした影の手は、誤って胎盤へと突き刺さってしまった。

 『しまっ……!』

 影は胎盤の持ち主――狂ひ娘のマグネタイトを吸い上げる。駄目だ、彼女のマグネタイトを吸ってはいけない! 重女が影を胎盤から抜きとる前に、狂ひ娘のマグネタイトとそれに付随する記憶と感情が、あらゆる物理法則を無視して重女に届いてしまった。
 世界が暗転する。暗転する一瞬前、インキュバスの高笑いが聞こえたような気がした。

―――

 重女が知覚した世界の色は、「灰色」だった。

 曇天の夜空のような暗い灰の世界。"私"は寝ている? いや、誰かに組み敷かれている。顔はわからない。でもそいつは"男"だとわかる。
 この男の人が誰か、"重女"には問題ではなかった。このおとこのひとのいうことをきけば、おいしいごはんがもらえる。"重女"は言われたとおりに男根をくわえ、頭を動かす。おおきい、なんだかふしぎなにおいがして、しょっぱいよう。でもおとこのひとはきもちよさそうだ。ならこれはわるいことじゃない。「いい子だ」おとこのひとがいう。"おれ"、いいこ? うれしい。
 男根が"重女"を貫く。一瞬世界の色が赤くなったが、すぐに濁った灰色へともどる。からだのなかにはいってくるこれは"重女"にとってはなんかいやってもあまりきもちよくなかったが、これさえがまんすればおいしいごはんをはらいっぱいたべられる。これが"おれ"のここでの「しごと」だっておかみさんはいっていた。なら"おれ"がまんする。いっぱい「しごと」しないと。
 世界が揺れる。"重女"を貫いている男の動きに合わせ、灰の世界が拡散する。男のにやついた顔が視界いっぱいに広がり――

 次の世界の色は「緑」と「茶」。草と土の色。"重女"は冷たい水に足を浸していた。ここは川だ。骸ヶ原の集落に流れる川。そこで"重女"は足の間を洗っていた。股間からなにかが零れ足を伝う。それは男の精液と自分の体液だった。
 不快。きもちわるい。だからはやくあらわないと。"とうりょう"もあらっておいで、ていった。このねばねばするのは、ほうっておくとすごくきもちわるくなるから。おわってごはんをもらったあとは、かならずあらうようにしている。"とうりょう"もそれがいい、て。"つぎのあいて"にきもちわるいっていわれないために、ごはんをもらうために、「いいこ」ていわれるためにあらわないと。
 川の水は冷たい。「つめたいよう」とぼやいても、"重女"は川からでようとしなかった。頭領がいいよ、て言うまで、股間のねばねばを洗いきるまで川からあがってはいけない。我慢しなくちゃ。
 ざざ、と風が吹き、対岸に生えている草花を揺らす。草の緑、土の茶色、そして小さな花の白。あれはなんのはなだろう? たべられるかな? "とうりょう"にきいてみよう。"とうりょう"はえらくてあたまがよくていいひとだ。"おれ"をなぐらないし、いつもほめてくれる。だから、"おれ"は"とうりょう"のいるここがすきだ。
 さらさら。川の水が流れていく。"重女"は草の「緑」と、土の「茶色」が目に穏やかに映るのを感じながら、水で身体を清める。透明な川の水が、段々と濁り――

 次の世界は「赤」だ。血のような赤。痛い。体中が痛い。嫌だ、いやだ。そういってもこの人たちは殴るのをやめない。言えば言うほど殴られる。
 身体ががくがくと揺れる。意地悪なおとこのひとたちが"おれ"にいっぱいつっこんでいる。
 あとどれくらいがまんすればおわるのかな。"これ"はきもちわるくてとってもいたい。くちのなかにいれられてくるしい。なんでなぐるの? なんでわらうの? いやだ、いやだ、嫌だ――
 周りの男の顔がぐにゃりと曲がる。いやらしい表情、下卑た顔。そいつらの目の色が全員血の色で、嗤う口から蛇のような長い舌が自分の身体に巻き付いてくる。"重女"は悲鳴をあげた。

 ――落ち着け! それはお前の記憶じゃない! 気をしっかり持て!

 頭の中に響いてくる声にも、重女には効かなかった。

 重女の記憶は狂ひ娘の記憶と混ざり合い、今、狂ひ娘は重女で、重女は狂ひ娘であった。狂ひ娘の記憶の中の痛みも苦しみも、すべて感じていた。
 重女は、泣いた。涙は羊水の中の気泡となり、水面へと昇っていく。あとからあとから涙が溢れた。それは重女の涙でもあり、狂ひ娘の涙でもあった。
 そんな重女の感情に呼応するかのように、胎内に張り巡らされた影が薄くなっていく。羊水の動きが変わっていく。赤子もまるで溺れているかのように苦しそうに動く。破水が始まったのだ。だが今の重女にはそれがわからない。悪魔を消滅させなきゃ、という考えすら消えていた。ただ、彼女の頭の中を占めているのは、激しい「怒り」の感情であった。
 
 不幸なことに、重女の脳は狂ひ娘より発達していた。感情も、思考も年相応に機能していた。狂ひ娘と一体化した記憶から唯一枝分かれした感情――それは「怒り」である。

 世界が真っ黒に染まる。怒りと憎しみの色だ。
 "おれ"を、"私"を、凌辱したこいつらを殺してやりたい。股間のものを破壊し、相手が許しを請うても殴り続けてやろう。今まで"おれ"が、そうされたように。もういたいのはいやだ、くるしいのはいやだ、だから殺す。なぐってけってころしてやろう。そしてべたべたのえきたいをかけてやろう。あしと、ての骨を折ってやろう。骨。真っ白な、"右手の骨"――

 「うごくなよ」

 真っ黒だった世界の色がまた変わった。今度の色は「白」と「青」だ。空の青と、"骨"の白――

 "おれ"は「しゅうまる」の手がすきだ。いまもやさしくかおをふいてくれる、白い骨の手。
 「しゅうまる」はみぎてが殆ど骨だ。昔「いくさ」で骨ばかりになったっていってた。ほかのみんなは"きみわるい"とか、"ほねやろう"とかいってるけど、"おれ"はこのてがだいすきだ。あったかくはないけど、つめたくもない。
 だけど"おれ"のてとつなぐとぴったりあうんだ。「しゅうまる」はいたくしない。なぐらない。においがおなじ。"とうりょう"と、"おれ"とおんなじ「やまいのにおい」
 「しゅうまる」がおれと"いっしょ"になるとき、そのにおいでいっぱいになって、"おれ"はすごくいいきもち。めしはくれないけど、ほねのてでからだをさわられると、とってもあんしんする。ほかのおとこと"いっしょ"になるときより、ずっとずっときもちいい。
 きもちいい。たのしい。うれしい。"おれ"、「しゅうまる」がいい。「しゅうまる」とのこどもだから「しゅうまる」。うんだら、「しゅうまる」と、おそらのめのいろの"ともだち"の「かなめ」といっぱいあそぶんだ――

―――

 ――もう限界、か。

 話しかけても一向に戻らない重女の様子と、大量に破水している狂ひ娘の身体を見て、黒蝿はそう判断すると、手に影を集め、黒い小刀を作った。

 「クロハラ!?」

 頭領が驚いて黒蝿に声をかける。

 「時間切れだ。今から俺がこの女の腹を裂いて子ごと悪魔を食う。裂いた腹はあとで術をかけて治してやる。だが子は諦めろ」
 「なに言ってる! そんなの許さないぞ!」
 「ならどうする? このまま捨て置けば女も子も死ぬぞ。女か、子か、どちらかを選べ」
 「そんなの、選べるわけ――」

 その時、黒蝿の手首ががしっと握られた。頭領と黒蝿は驚いた。手首を握っていたのは、先程まで人事不省状態であった重女だったからだ。

 「かなめ!?」

 頭領の呼びかけに重女は答えなかった。代わりに目を瞑ったまま眉を寄せ、狂ひ娘の腹の上の右手に力を入れた。
 すると右手が光った。太陽の光を浴びないと自力では輝けない月のような、儚げな光。だがそれは確かに道の見えない闇を照らす"光"であった。

 「いったい何が……」

 黒蝿が呆けたように言葉を吐いた。こいつは術など使えなく、マグネタイトすら生成できないはず。しかし今右手から放っている光は、他者を癒す治癒術のそれに似ていた。

―――

 どくん、どくん、どくん。赤子の、「しゅうまる」の鼓動を聞く度、重女の意識ははっきりしてくる。

 狂ひ娘の記憶と溶け合い無くなりかけていた重女の自我が戻ってきた。それと同時に影も濃くなり、逃げ惑うインキュバスを捕まえることに成功した。
 インキュバスのマグネタイトを吸い取る。悪魔の負の感情が伝わってきた。苦しい、痛い、悔しい。だけどそれはいつもより軽かった。どくん、どくん。耳元で聞こえる鼓動。「生きている」という証明の音。これから生まれる命の存在が、重女の負担を軽減してくれた。

 まだ生きる苦しみも痛みも知らない無垢の存在。かつて壮絶な辛酸を舐めてきた母である狂ひ娘の思いと願いが込められた存在。狂ひ娘が愛した男――「拾丸」との子。その命を奪う資格なんて誰にもない。だってこの子は愛されているから。生まれて欲しいって願われているから。狂ひ娘と、そしてきっと「拾丸」に。
 狂ひ娘の記憶の中の「拾丸」は優しかった。温かかった。温もりを持たない骨の手からも、それはちゃんと伝わってきた。辛い記憶さえ吹き飛ばす程に。

 狂ひ娘ちゃん、貴女の愛した人はやっぱり素敵な人じゃない。だから私はこの子を――「しゅうまる」君を守る。約束したものね、必ず助けるって。狂ひ娘ちゃんが私を助けてくれたように、今、私が貴女と「しゅうまる」君をこの悪魔から守る。"友達"だもの。そして「しゅうまる」君が生まれてきたら言ってあげて。「愛している」って――。

 インキュバスの身体が徐々に薄くなっていく。重女の心には相変わらずインキュバスの恨みの感情が流れ込んでいた。

 ――お前は、この子を食おうとしている。それはさせない。誰にもこの子の命は奪わさせない。だから、お前は、消えて――

 重女の思惟が後押しとなったのか、インキュバスの身体の崩壊が始まった。赤紫色の身体は粒子よりも細かくなり、やがてマグネタイトを全部吸い取られた夢魔は、胎内から、現世から消え去った。

―――

 かは、と肺の酸素を吐き出す。同時に重女の肉体に意識と五感が戻ってきた。
 肉体の重みを感じる。視界に黒蝿と頭領の顔が映る。左手が黒蝿の右手を掴んでいるのが分かる。そして妙に生臭い匂いが鼻腔に届いた。

 「戻ってきたか」

 黒蝿が顔を近づけて問うてきた。ぼんやりとした頭でこく、と重女は頷いた。それで十分だった。狂ひ娘の中の悪魔を消滅させたことを伝えるには。

 「お疲れ、と言いたいところだけど、労いとお礼はあとだ! この子が破水してしまった。急いで出産させないとまた子供が危ない!」

 頭領の指示の元、黒蝿と重女、仲魔達は走った。集落の何人かを起こし、火を起こしお湯を焚き、清潔な布きれを集めた。重女の仲魔の異形に集落の何人かは悲鳴をあげたが、それよりも狂ひ娘の子が生まれそうだと分かると、恐怖を忘れ迅速に対応してくれた。頭領の家の中は、起こされた女衆と重女と頭領が狂ひ娘の出産を手伝っていた。

 「ひー、ひー、ふー?」
 『そう、もう一回、ひー、ひー、ふー!』

 重女がラマーズ呼吸法を狂ひ娘に教え、狂ひ娘はいきみながらそれを繰り返した。あと出産に必要なことはなんだろう? 保健体育は五だったのに! 教科書には出産の心得や方法なんて書いてなかったよ!

 「か、かなめ、かなめ……」
 『なに?』
 「あ、ありがとう。やくそく、ま、まもってくれて」

 汗だらけで真っ赤な顔で、狂ひ娘はお礼を言った。

 『……うん、"ともだち"を助けるのは当たり前じゃない』
 「と、とも、ともだち、そ、そう、おれたち、"ともだち"!」
 『うん、そうだね』
 「し、しゅう、「しゅうまる」と、あ、あそんでくれる?」
 『………うん、一緒に遊んであげる。だから、ほら! ひー、ひー、ふー!』
 「ひ、ひー、ひー、ふー……」

 重女は狂ひ娘に見えないよう、そっと顔を伏せた。そうしないと涙が浮かんでいるのをこの子に悟られてしまう。出産の最中に余計な心配をさせたくない。
 きっと、この約束は守れない。私達は出産が済んだら、この集落を追い出されてしまうだろうから。人ならざる者は、この地に交らわれないものはここにいてはいけない。それがここにとって最良であるから。
 だから、この約束は嘘。「友達」を安心させるための、最初で最後の嘘だ。

 「きた! 頭が見えてきたよ!」
 「もう少しだよ!」
 「頑張って!」

 頭領や女衆が口々に叫ぶ。狂ひ娘が傍らの重女の手を握る力を強くする。骨が折れてしまいそうなほどの力で握られ、重女も思いっきり握り返した。

 東の空が白み始める。ここ骸ヶ原の端の集落に、新しい命が誕生するまで、あと、少し――続きを読む

 その作家は、苦しんでいた。

 十九世紀初頭、現在のドイツの前身であるプロイセンの中央に位置するヴァイマル公国。初老の男が机に向かって頭を抱えていた。床には丸めた紙がいくつも転がっている。
 男は豊かな才能の持ち主で、幾つもの小説、戯曲、詩を描いて、その全てがヒットし、一躍人気作家となった。
 数年前には妻を亡くし、自身も腎臓を患い、度々隣国に湯治に行ってはいたが、まだまだ文学への情熱は失っていない。
 しかし、ここ数日、 男は頭を抱えていた。今書いている作品の筆が進まない。俗に言うスランプである。
 ぼんやりとした展開は頭の中で浮かんでいる。しかしそれを文章に出来ない。
 今度の作品は戯曲である。悪魔と天使と人間の男、そして可憐な少女を出すことは決めていたが、それらをどう動かしていけばいいのか、続きをどう書けばいいのかがさっぱり思いつかなく、男は頭を掻く。

 可憐な少女――ふと、男は、自身の初恋を思い出した。
 子供の頃はフランクフルトにすんでおり、近所の料理屋に勤めていた娘に恋をした。男が十四歳の時である。
 結局、その恋は実らなかったが、その娘の美しさは今でも思い出せる。金髪の美しい青い瞳を持った優しく、そしてとても敬虔な娘であった。聖書を殆ど暗記し、毎日の祈りを欠かさない。もし女神がいるなら、このような女性であったであろうとさえ十四歳の男は感じていた。
 何故、子供の時の淡い記憶を思い出してしまったのか。もうその娘はいないというのに。

 「……少し旅行にでも行こうか」

 もうすぐハルツ山地のブロッケン山でヴァルプルギスの夜がある。別名魔女の宴と呼ばれるその祭りに男は前から興味があった。四月三十日の夜から五月一日にかけて催される祭りは魔女や悪魔が集まりサバトを開くらしい。特にそういった存在を崇拝しているわけではないが、春の訪れを祝う人々を見るのは純粋に面白い。それを見れば戯曲のアイデアも浮かぶかもしれない。

 男は椅子から立ち上がると、小間使いを呼んで旅の支度を命じた。今から馬車で行けばだいたい一日で着くだろう。出来れば心優しき魔女が自分にアイデアを授けてくれればいいのだがな、と男は妄想した。

―――

 重女は、困っていた。

 周りには日本の家屋とは違う、レンガ造りの洋風の家々が並び、往来を行きかう人々はどう見ても日本人ではない。
 髪の色も瞳の色も様々な人々が、これまた洋風のドレスに身を包み、英語とは違う聞いたこともない言語を喋っている。
 前回、大正時代からアマラ経絡を発生させ、今度こそシドの元へ行けると思っていたのだが、また違う時代に来てしまったらしい。いや、時代どころか国すら違う。今までの時間遡行は時代こそ違えど同じ日本に着いていた。
 それが今回はどうだ。此処はどう見ても日本ではない。人々も建物も言葉も明らかに日本とは異なる。
 動揺を抑えて重女は辺りを観察する。白人が多く、しかし話されている言語は英語ではない。建物や人々の着ている洋服から見て、此処はヨーロッパだろう。ヨーロッパのどこの国かは流石に分からないが、服装からみて前回よりもっと古い時代のようだ。
 子供達が花の冠を頭につけてキャッキャッとはしゃいでいる。そこかしこで屋台のようなものも出店しており、篝火を灯すための木々がくべられている。気のせいか、皆どこか浮き足立っているように見えた。

 『……お祭り、なのかな?』
 重女は足元の鴉へと姿を変えた黒蝿に念波を送り聞いてみる。黒蝿はじっと人々の話す言葉に耳を傾け、近くの山に目を凝らす。

 「どうやら今日の深夜から、"魔女の宴"が催されるようだ」
 『魔女の宴?』
 「人間達の間では春の訪れを祝う祭りだがな、だが本当はそこのブロッケン山に魔女や悪魔が集まり宴を開く。強力な悪魔が沢山集まるから、マグネタイトも膨大に奪えるぞ」

 日本語以外の言語まで理解できる黒蝿に舌を巻いたが、魔女が実在しているということに重女は驚いた。

 『魔女って本当にいたんだね』
 「そう呼ばれる存在には何人か会ったことがある。ある意味悪魔召喚師と似たようなものだ。異形の者を従え、人の理を超えた術を使う。そういう意味ではお前も"魔女"なのかもな」

 からかうように黒蝿は言ったが、重女は真剣な顔をして黙り込んだ。
 魔女。確かにそうかもしれない。箒で空は飛べないしマグネタイトも生成できないし、術は影の造形魔法しか使えないけど、黒蝿をはじめ、何匹もの人ならざぬものをコンプで従えている私は魔女なのかもしれない。

 『……なら、魔女は魔女らしく宴に参加しないとね』

 少し楽しそうにそう言うと、重女は身を隠していた路地裏から往来へ足を踏み出した。
 ここには髪の色や瞳の色が違うということで差別してくる者はいないはず。なにより祭りの雰囲気に重女は惹かれていた。祭りというものに参加した経験が少ない重女は、例え魔女の宴であろうとも、思う存分祭りを謳歌してみたかった。
 やれやれ、というように黒蝿は重女の後に続いた。前回のように勝手な行動を起こさないように監視しておかないと。
 ブロッケン山で魔女の宴――ヴァルプルギス・ナハトが開催されるまで、あと数時間。その間くらいは自由に行動させておくか。
 まずはあの服から変えさせないと。黒蝿はそっと影を操った。すると影は重女を包んだかと思うと、形を変え、身に纏う衣装がドイツの民族衣装のドレスに変わった。

 「……!」
 「その恰好じゃ目立つだろう。目立ってまたおかしな奴に目をつけられたら困る」

 影の造形魔法は服も作れるのか。感嘆し重女は軽く身体を捻った。すると長いスカートがふわりと揺れる。スカートを穿くなんて久しぶりだ。フリルのついたブラウスも可愛いし胸元を縛るリボンがアクセントになっているのも気に入った。ただそのドレスは黒一色である。

 『……他の子みたいにもっとカラフルなのがいい』
 「影で作ったんだ、どうやっても黒にしかならないぞ。それに"魔女"らしくていいじゃないか」

 くく、と笑いながら揶揄してきた黒蝿に対し、重女は頬を膨らませた。屋台から美味しそうな匂いが漂い、ランタンに火が灯される。
 春の訪れを祝う祭りが始まろうとしていた。

―――

 近くの町に宿をとった男は、早速祭りへと繰り出していた。
 ブーデ(屋台)からいい匂いが漂い、人々は音楽に合わせて楽しそうに踊る。厳しい冬を越えた皆の顔には温かい春の訪れへの歓喜の色があった。
 それらの人々の陽気に当てられて、男の塞いでいた心に風穴が空いた。やはり祭りはいい。来て正解だった。
 男は屋台で食べ物を買い、目の前のブロッケン山を見上げた。懐中時計を見る。今は夜の十時過ぎ。あちらこちらで篝火が焚かれる。既に酒が入って出来上がった者がどんちゃん騒ぎを始めたり、女を口説いたりしている。全く、酒は飲んでも飲まれるな、という諺を知らぬのか。
 身体二つ分離れた隣には、巨大な篝火に照らされて、男と同じくブロッケン山を眺める娘がいた。他の若者のように騒いだりせず、怒ったようにじっとブロッケン山を見つめる少女は、全身黒ずくめのまるで喪服のようなドレスを着て、肩までの金髪は篝火の光を反射しきらきらと光り、青い瞳はまるでザフィーア(サファイア)のようだ。
 瞬間、男の青春時代の思い出が掘り起こされた。フランクフルトでの少年期、よく行った近所の料理屋、そこで働いていた優しく美しい、男の初恋の少女――

 「グレートヒェン!?」

 急に大声で話しかけられ、娘はびくっと肩を揺らし、こちらを向いた。背格好と金髪と青い目はたしかにグレートヒェンに似ていたが、娘の顔の造りはグレートヒェンとは違い東洋系の顔立ちであった。
 日本人か、はたまた清国の者であろうか。

 「………失礼」

 男は罰が悪そうに帽子の縁で顔を隠した。
 考えてみればグレートヒェンが此処にいるはずがないのだ。自分より年上であった彼女は、生きていればもう老婆だ。思い出の中の初恋の少女は既にいなく、自分も年をとった。皺くちゃな自分の手を見て男はため息を吐いた。
 ちら、と男は娘の方を見る。娘も自分の方を見ている。いや、正確には男の手の食べ物を凝視していた。
 チューリンゲン地方ではよく見かける、炭火焼きのソーセージを柔らかめのパンにはさんだものだ。ここらでは珍しくもない代物だが、異国の少女には珍しいのだろう。

 「……いるかい?」
 
 す、とそれを目の前に出され、少女は戸惑い、足元に視線を落とした。そこには鴉がいた。黒づくめの格好といい、足元の鴉といい、まるで小さな魔女みたいだな、と男は内心笑った。
 視線を受けた鴉は頷いた。そっと少女はパンを受け取り、ソーセージを一口齧った。すると少女は目を大きくさせ、驚きの表情でもう一口、二口と食べ始めた。良かった。どうやら気に入ってもらえたようだ。
 少女が口を動かした。しかし声は出ていない。男は目を細めてその薄紅色の唇の動きを見た。やはりというか、それは男の母国語の発音の形ではなかった。日本語か、もしくは他の東洋の言語か。
 しかし言っている内容は察しがついた。お礼を言っているのだろう。

 「Bitte schön.(どういたしまして)」

 男は帽子をとり深々とお辞儀をした。
 まるで役者のように大げさな仕草に、少女は鴉と目を合わせ微笑んだ。

―――

 時刻は午後十一時。重女は自分を「グレートヒェン」と呼んだ老人となんとなく行動を共にしていた。

 その老人は優しく、自分に色々話しかけてきたり、屋台に売っている食べ物を買ってくれたりした。
 老人が優しいのには訳がある。首の痣を指さし、自分は声が出ないということを身振り手振りで表現すると、老人は気の毒そうな顔をして、重女に向かって喋りだした。

 黒蝿の通訳によると、
 声の出ないお嬢さんがこんな異国の祭りに一人で来ているとはよほどのことがあるのだろう、貴女は私の昔の知り合いによく似ている。ここで会ったのも何かの縁。どうか私と祭りを共に楽しんではくれないだろうか、と言っているらしい。

 ここでのことは右も左も分からない重女は、この申し出を有難く受けた。老人の話している言葉――この時代のドイツ語だと黒蝿が言っていた――は日本人である重女には分からなかったが、黒蝿が通訳してくれ、それに対し頷いたり微笑んだりするだけで、老人は嬉しそうに喋り続けた。その親切さに、重女はミカド国で会ったキヨハルの姿を思い出した。
 すると老人が屋台のおばさんのドレスについていた赤いリボンを金で買い、そのリボンをまるでチョーカーのように首に優しく巻いてくれた。首の痣はリボンで隠れ、黒一色のドレスを纏った重女の首元に、鮮やかな赤の花が咲いたようだった。

 「……!」
 「ああ、やっぱりとてもよく似合うよ」

 こんなに親切にしてもらっていいのだろうか。キヨハルさんといい猿といいこの老人といい、皆優しすぎる。
 つん、と鼻の奥が熱くなった。それを悟られないように重女は横を向いて、何かお礼はできないかと考えた。 こんな時、声を奪った黒蝿を恨ましく思う。声さえ出ればいくらでも感謝の言葉を発することができるのに。
 しかし結局声は出せない。なにか、この老人に感謝の意を示したい。何かないか、何か――。

 ふと、暗がりに咲いている花を見つけた。白いマーガレットの花だ。
 重女はそれをかがんで摘み、老人に差し出した。彼女なりの感謝の行動だ。

 「……これを、私にくれるのかい?」

 問いかけに重女はこくこく、と頷いた。男の人だから、花はダメだったろうか? でも私はこの国のお金をもっていないし、何も渡せるものがない。喜んでくれるといいのだけれど……
 老人は少しの間驚いていたようだが、やがて破顔一笑した。

 「そうか……この花をくれるとは……嬉しいよ「グレートヒェン」」

 またグレートヒェンと呼ばれた。人の名前だろうか。先程言っていた私に似ているという昔の知り合いの方の名前だろうか?

 首を傾げる重女を、鴉になっている黒蝿は面白そうに見上げた。
 実はグレートヒェンというのは、「マルガレーテ」という女性名の愛称である。マルガレーテというのは英語でマーガレットのこと。偶然であったが、重女はそれを知らず老人の「昔の知り合い」の名の花を差し出したのだ。

 がし、と老人は重女の手を握ってきた。いきなりの行動に重女は目を丸くした。二人の手の間でマーガレットの花が揺れる。

 「君……君は本当はグレートヒェンの生まれ変わりなんじゃないのかい? もしくは神がこの老いぼれに遣わせてくださった精霊か……」

 いきなり手を握られ切羽詰まった表情でまくしたてられ、重女は狼狽した。足元の黒蝿に通訳を目で催促したが、何やら面白がっている色がその目にあった。もう! なんなのよ!

 「君さえ良ければ、私と一緒に来てくれないか? 君をモデルにした作品を書きたい。怪しいものではないよ。こう見えて私はちょっとは名の知れた作家なんだ。私の名は――」

 鬼気迫る表情で手を離さない男に、重女は軽い恐怖すら感じていた。さっきまであんなに親切だったのに、一体何が――
 その時、人々が大きな歓声を上げた。それにつられ老人が顔を横に向ける。咄嗟に重女は手を離した。

 「おい、見ろ!」

 黒蝿がブロッケン山の方角を嘴で指した。重女も山の方を見る。
 無数の篝火に照らされたブロッケン山に、虹色の輪がかかっている。霞がかっていたその輪は次第に輪郭がはっきりとしてきて、色彩も鮮やかになってきている。さながらそれは仏の後光のように。
 「ブロッケン現象」というものだ。しかしおかしい。ブロッケン現象が起こるのは霧がかった朝方、もしくは昼や夕方に日光等の光を浴びて起こる。篝火があるとはいえ、こんな真夜中に、しかもあんなにくっきりと浮かび上がるのはどう考えてもおかしい。

 『魔女の宴が始まったのね』
 「ああ」

 そう言うと黒蝿は鴉の姿から人型に変化した。重女もポケットに入れてあった眼鏡をかけ、黒蝿から聖書型コンプを受け取った。先程と違い、二人の目には臨戦の炎が浮かんでいた。

 「グ、グレートヒェン!? 君は一体、何者なんだ?」

 人型に変化した黒蝿に驚き、わなわなと身体を震わせる老人に、『違う、私はグレートヒェンじゃない』と念波を送った。
 その声は耳から聞こえたのではなく、頭蓋骨を振動させ脳に直接届いた。しかもあどけない少女の姿とは不釣り合いな、低い「男」の声であったので、老人はますます混乱した。
 
 「鴉を従えおかしな妖術を使っている!? ま、まさか君は魔女なのか!?」

 重女は首元のリボンに触れた。老人が自分に贈ってくれた厚意のリボン。黒一色の自分を彩る真紅のリボン。その赤は今は闇に咲く徒花の色に思えた。

 『……そうよ、私は魔女。異形を従え、異形を討つ。人の理を越えたもの』

 ぶわ、と黒い男の翼がはためくと、辺りに烈風が巻き起こった。烈風は祭りの参加者や老人を吹き飛ばす。近くにあった木の幹にしがみ付きながら、風の中にあの少女の声を聴いた。

 『ありがとう。貴方のご親切は忘れません』

 激しい風が止むと、そこにはもう少女の姿はなかった。

 「グレートヒェン……」

 ぽつりと呟く老人の足元には、少女がくれたマルガレーテの花が一輪、落ちていた。
 時刻は深夜零時。魔女の宴――ヴァルプルギス・ナハトがいよいよ始まる。
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 『嫌だ!  “僕”に近寄るな!』

 東のミカド国、城内の医務室のベット。そこで頭を押さえているのは、やたノ黒蝿の真名を奪った、「重女」と偽名を名乗っている少女である。
 今日も駄目か。黒蝿は溜め息を吐いた。
 重女は、数日前、弟でありこの国の王であるアキラと共に四大天使を封じ、しかし四大天使の一体であるガブリエルに右手と両足を食いちぎられ瀕死のところを、悪魔合体プログラムにて弟と合体し奇跡的に一命をとりとめた。
 しかしその副作用がいくつか現れてしまった。視力の低下、右手と両足の麻痺などがあるが、一番酷いのは記憶の混濁である。
 アキラと合体したことにより、彼のマグネタイトが彼女の中に入り、それは記憶にまで影響した。マグネタイトは人間の感情エネルギー。そしてマグネタイトには必ず持ち主の記憶と感情が付随する。
 重女とアキラの記憶が混ざり合ってしまい、重女は自身の自我が曖昧になっている。今も“僕”という一人称を使った。今の重女はアキラなのだろう。

 『ここはどこ? おじさんたち誰? “お姉ちゃん”は? “お姉ちゃんは”いつ帰ってくるの?』

 ベットの隅に移動し、重女は自由に動かせる左手で布団を握りしめ身を震わせている。彼女から送られてくる念波は、間違いなくアキラの言葉であった。

 「黒蝿君、重女ちゃんはなんと?」
 「完全に自分を見失ってる。今は自分がアキラだと思っているようだ」

 キヨハルは禿げ上がった額に手を当て嘆息した。

 「せっかくアキラ君が犠牲になって重女ちゃんを助けたというのに、これでは……」
 「何か手はないのか?」

 かつてアキラの仲魔であった雷王獅子丸が黒蝿に問いかけた。手がないわけではない。が、それは黒蝿にとって気が進まない方法である。
 しかしこのままあいつを放っておくのも面倒だ。それに――“約束”もしてしまった。黒蝿は懐の十字架のペンダントに触れる。この持ち主である少年との約束。自分の代わりに姉を守ってくれ、と言い残し、このペンダントを寄越したあいつの弟との。

 「……わかった。俺がなんとかする」

 腹をくくり、黒蝿が言う。その表情はなんとなく憂鬱気だ。

 「なんとかって?」
 「彼女になにをする気だ?」

 キヨハルと獅子丸の問いには答えず、黒蝿は「皆、部屋を出ろ」とだけ言い放った。
 やや不安ではあったが、獅子丸と牛頭丸、キヨハルは医務室を出て行った。自分たちに今の重女を元に戻す方法は思いつかない。なら黒蝿の策に賭けてみるしかない。
 しかし念のため、医務室のドアをほんの数センチ開けておき、そこから成り行きを見ることにした。

 ―――

 ――さて。

 『お、お兄さん、誰?』

 愛想というのにまるで縁がない黒蝿と部屋に二人っきりにされ、重女は更に怯え、布団を身体に巻き付けた。

 「………」

 表情を崩さないまま、黒蝿はベットに近づいた。今は完全にアキラとなっている重女は、黒蝿のことを“怖い男の人”としか認識出来なかった。

 『こ、来ないで!』

 しかし黒蝿は歩みを止めず、ついにベットの端に膝を乗っけた。ぎし、とベットのスプリングが鳴る。

 『い、嫌だ、怖いよう……“お姉ちゃん”、お母さん、誰か……』

 その時だった。

 黒蝿が重女の左手を掴み、強引に引き寄せたかと思うと、そのまま押し倒した。
 何が起きたか分からなく、涙の浮かんだ目をキョトンとさせている重女に、黒蝿は、重女と唇を重ねた。

 ―――

 「!!」

 重女のみならず、ドアの隙間越しから覗いていたキヨハル達も言葉を失った。

 「あ、あやつ、な、なんと破廉恥な事を!」

 獅子丸が怒って部屋に押し入ろうとしたが、キヨハルがそれを制した。

 「待って、黒蝿君を信じよう。彼の事だから意味のない行動ではないはずだよ……多分」

 獅子丸はまだ納得がいかない様子だったが、とりあえずは留まった。しかしなにかあったらドアを蹴破ってでも中に入れるよう身体中の筋肉に力をいれた。
 一方俗っぽい性質の牛頭丸は、密かに聖書型コンプに内臓されているカメラで、中の様子を隠し撮りしはじめた。

 ―――

 「っ~!!」

 身体の上に乗っかている黒蝿を押しのけようとしても、自由に動かせる左手はしっかりと捕まれシーツに押し付けられているし、右手と両足はまだ麻痺が残っている。後頭部はがっしりと手で押さえられているし、そしてなにより、口内に侵入してきた黒蝿の生暖かい舌の動きに、身体中の力を吸い取られていくようで、とても抗えない。

 (まったく、なんで俺がこんなことを)

 深い口づけを続けながら、黒蝿は胸中でごちた。
 別に人間の女と接吻するのは初めてではない。この姿に変えられる前、美丈夫の人間の男に化けて、何人もの女と接吻や性行為を通してマグネタイトを奪った経験がある。
 肉体的接触。それが一番効率よく大量に対象者のマグネタイトを奪える方法だったからだ。
 特に粘膜同士の接触の効果は抜群で、素早くマグネタイトを摂取することができる。それは長い時を生きてきた悪魔である黒蝿が学んだことである。
 黒蝿の舌は重女の舌と絡み合い、そして重女の中に存在していたアキラのマグネタイトを吸い出す。するとマグネタイトと一緒にアキラの記憶まで黒蝿の中に流れ込んできた。

 ――六月六日の姉の誕生日を祝ったこと、学校や近所での自分達家族への侮蔑の視線。暴言。
 いじめられて泣いている自分を庇ってくれた姉、二人だけの秘密基地、母の死、シドに連れていかれる姉の後ろ姿、四大天使との出会い、別世界の東京でキヨハル達と出会い、悪魔を倒し、ついに東京の上を覆っている岩盤の上にたどり着き、そこでキヨハルと一緒に「東のミカド国」という国を建国したこと、王になってからの激務、姉との再会と四大天使との戦い。
 そして自らの身体を有機体に変換させて、悪魔合体プログラムにて姉と合体する直前――記憶はそこで途切れていた。
 黒蝿は悪魔なので、重女のようにマグネタイトを吸っても、そいつの記憶や感情を感じたりしない。しかし、何故かアキラの記憶は激流のように黒蝿の中に入り込み、僅かながら感情も読み取ってしまった。
 人間の感情というのは複雑で、それでこそ美味なのだが、アキラの記憶の中の感情を占めていたのは、一言でいうなら「寂しさ」であった。
 生まれついて皆と違う髪と目の色を持ってしまったことへの「寂しさ」、私生児である姉と自分、そして自分達を生んだ母への周りの視線、排斥の「寂しさ」「辛さ」、母が死んだ時、姉が去ってしまったときの「寂しさ」「悲しみ」――アキラの記憶はそんな感情で構成されていた。
 しかしそんな暗い記憶の中で、まるで太陽の光のように温かい部分があった。それは姉への感情である。
 いつも自分を守ってくれたお姉ちゃん、優しかったお姉ちゃん、再び会えた時の「喜び」「嬉しさ」、そんな姉が瀕死の重傷を負った時の決意……

 ――姉ちゃん、生きて――

 ―――

 ぷは、と銀糸を垂らしながら黒蝿と重女の唇が離れた。重女は目を回して気を失っていた。が、その顔色は先程より血色がよく、恐らく元に戻ったであろう。

 「手間かけさせやがって……」

 口許を拭いながら黒蝿は呟く。これでこいつの中のアキラの記憶は全部吸い取れたはず。ならば今までのような記憶の混濁はなくなるはずだ。そうでなくては困る。

 「終わったのかい?」

 ドアからキヨハルや獅子丸、牛頭丸が部屋の中へ入ってきた。獅子丸はどこか居心地の悪そうな顔で、牛頭丸はニヤニヤと笑いながら、何故か聖書型コンプを手にしていた。

 「ああ。恐らくこれで大丈夫だ」

 ぐらり、と黒蝿の身体が揺れる。と、次の瞬間、人型の姿をたもっていられなく、鴉へと変化した。さすがここミカド国の王。悪魔であるこの俺にマグネタイトの記憶と感情を感じさせ、こんなにも憔悴させるとは。

 「キヨハル……聞きたいことがある」
 「なんだい?」
 「アキラのマグネタイトを吸い取る際、ついでにこいつの内面を覗いたが、こいつは普通にマグネタイトを所有していたぞ。だが手が出せなかった。まるで見えない鎖に雁字搦めにされているような感じだった。何故だ?」
 〔その疑問には私が答えよう〕

 急に牛頭丸の手にしていた聖書型コンプが開いたかと思うと、そこから立体映像のミドーの姿が現れた。悪魔に魅了された男のなれの果ての姿は相変わらずのやや崩れたポリゴンである。

 〔いやあ、先程の熱愛キスシーンはなかなか見ものだったぞい。録画しておいたから、後で見せて、〕
 「それは消せ。今すぐ消せ。いや、それより質問に答えろ。こいつはマグネタイトを生成できないはずだ。なのに何故マグネタイトの気配がある?」
 〔ふうむ……〕

 ミドーは立体映像の姿で、ふわり、ふわりと左右に動いて見せた。考え事をしているときのこいつの癖だろうか。

 〔恐らくおまえさんがその子の名と声を奪ったことに関係があるのだろう〕
 「どういう意味だ?」

 黒蝿だけではなく、キヨハル他、部屋中の皆がミドーの言葉に耳を傾けていた。ミドーは、もったいぶったように続けた。

 〔マグネタイトは人間の感情エネルギーで、人ならざるものがこの世に顕現するための餌。だから人間である限り誰にでもマグネタイトはある。その子も例外ではない。
 これは仮説にすぎないが、おまえさんが名と声を奪ったときの副作用で、彼女のマグネタイトは体内の奥底に縛り付けられたままになってしまったのじゃろう〕
 「だから、こいつは仲魔にマグネタイトを供給できないし、術も使えないと?」
 〔そういうことじゃ。だが利点もあるぞ。マグネタイトが身体から取り出せないというのは、他の悪魔にそれを奪われることがないということじゃ。少なくともマグネタイトを吸い取られ死に至ることはないじゃろうな〕

 成る程、と黒蝿は思った。あいつと初めて出会った時、声と名を奪うだけでなく、自身の能力である影の造形魔法の一部も与えた。それら外部からの干渉が原因でマグネタイトを仲魔に供給できなく、普通の術も使えないというのは納得のいく仮説であった。勿論、だからと言って、名と声を返す気はさらさらないが。

 「よくわかった。……俺は疲れた。しばらく休ませてもらう」

 そう言って、鴉に身を変えた黒蝿は、そのまま黒い風に乗って窓から飛び出していった。後ろでキヨハル達が何か言っていたような気がしたが、黒蝿は無視した。
 ミカド国の空を飛びながら、アキラの記憶の最後の言葉を思い出していた。

 ――姉ちゃん、生きて――か。

 ――全く、これじゃあますますあいつから離れられないじゃないか。少なくともこれであいつを死なせないように守らなければいけなくなってしまった。俺はいつになったらあいつのお守から解放されるんだか。
 ふらふらと空を飛びながら、今はもういない少年の顔を思い出した。彼と交わした「約束」が更に固いものになって、ほんの少し、黒蝿の心を揺らした。

 ―――

 それから、重女は黒蝿の「施術」のおかげで記憶の混濁がなくなり、自我が戻ってきた。
 だが強引な「施術」のせいで酷い倦怠感がつきまとい、数日間寝込むはめになった。

 『ねえ、黒蝿』

 医務室のベット脇に見守るようにちょこんと立っている黒蝿に、重女は横たわったまま聞いた。

 『混乱していた時の事、よく覚えてないんだけど、物凄い悪夢を見た気がしたの。その夢は私のファーストキスが、よりにもよって貴方っていう内容だったんだけど、これって夢だよね?』

 黒蝿は横をむいたまま、重女に顔を見られないよう答えた。

 「ああ、ただの夢だ」


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 四大天使との戦い、そしてアキュラ王の喪失から一週間。
 東のミカド国では建国以来最も忙しい七日間であった。

 まず、四大天使を封じた繭は、岩盤の下の東京、新宿御苑のあたりに廃棄された。ガブリエルはとうとう発見されなかった。
 そして、キヨハルが中心となり、修道院が設立された。ここでは主にミカド国の科学水準をあげるための研究が行われる予定だ。
 アキュラ王の銅像を建てる計画が提出され、新しい王の選抜の為にキヨハルやサムライ衆は毎日談合を開いていたが、そんなことは黒蝿にはどうでもいいことであった。
 問題は――

―――

 「どうだ?」
 「駄目です、今日も口をつけていません」

 侍女が首を振った。手に持った盆の上には湯気が立ったままの食事が乗っていた。

 「また駄目だったか」

 キヨハルは肩を落としてため息をついた。隣の獅子丸も苦々しく顔を歪め、豪勢な扉を睨んだ。
 この扉の向こうは医務室であり、そこには重女という少女がベットの上にいる。
 獅子丸の主であったアキュラ王の実の姉であり、共に四大天使を封じ、悪魔召喚プログラムにて瀕死のところをアキュラが身を挺して救った少女。
 アキュラと合体したことにより、失われた右手と両足は戻ったが、まだ満足に動けない。動けるようになるにはリハビリが必要だ。

 しかし重女は一切のリハビリを拒否した。リハビリだけじゃない、運ばれてくる食事にも口をつけようとしない。まるで生きることを放棄したかのように。
 弟であるアキュラことアキラを亡くしたショックが大きいのだろう。自分のせいでアキラはいなくなってしまった、そう思い自分を責めているのかもしれない。
 だが、だからこそ重女には生きてほしいのだ。主であるアキラが己を犠牲にして生き返らせた少女。アキラが唯一自分より大切に思っていた存在。
 そんな重女を守ることこそ、アキラの仲魔であった自分の役目であると獅子丸は思っている。牛頭丸も同じ気持ちだろう。最早アキラは重女の一部になり、恐らく重女が新たな主になるのだから。
 どうやったら重女を元気づけて生きる気力を出させることができるのか。キヨハルと二人頭を抱え悩んでいると――

 人影が二人の身体に被さった。思わずそちらを振り向くと、そこには黒ずくめの鴉を思わせる男――やたノ黒蝿が立っていた。

 「………」

 黒蝿は盆の上の手つかずの食事を一瞥すると、扉を開けようと手を伸ばす。

 「く、黒蝿君! 重女ちゃんはまだ本調子じゃないんだ! 無理にことを運ぶのは……」

 黒蝿の異様な雰囲気を察したのか、キヨハルは扉の前に立ちふさがり両手を広げた。
 しかし黒蝿はキヨハルを押しのけ、強引に扉を開け部屋の中に足を踏み入れた。

―――

 乱暴に開かれた扉の音に、重女は身体を強張らせた。
 開いた先にいたのが、やたノ黒蝿であるのがわかると、怒りに顔を歪ませる。
 こいつがアキラを見殺しにした――憎しみのこもった視線を受けても黒蝿は眉一つ動かさない。
 ベットの上の重女は、一週間前より確実に痩せていた。やつれている、といった方が正解かもしれない。頬はこけ、布団から覗く両手は骨ばってまるで木の枝のようだ。金色に変わった髪には艶がない。
 黒蝿の視線と重女の視線が交錯する。
 先に動いたのは黒蝿だった。 重女の右手を無理やり掴み、ベットから引きずり出す。

 「!?」

 掛け布団が床に落ち、両足がそれを踏む。しかし足に力が入らなく、重女は床に転がってしまう。寝間着の裾がめくれ白い太ももが露わになる。

 「無様だな」

 黒蝿が床に転がったままの重女を見下ろしながら、冷たく言い放つ。重女は顔をあげ、き、と睨んだ。

 「せっかくあいつが犠牲になってお前を助けたのに、これじゃあ無駄死にだったようだな」

 アキラを侮辱するかのようなその発言に、 重女の怒りが脳天を貫いた。黒蝿を引っぱたいてやろうと咄嗟に右手を動かそうとする。しかし動かない。当然だ。リハビリも満足にしていない右手は、主の意志とは裏腹に持ち上がらず指先が僅かに痙攣するだけ。悔しそうに重女は黒蝿を睨みつける。

 「俺が憎いか?」

 黒蝿は腕組みをしながら、重女に問いかけた。重女の青い瞳がほんの少し大きくなる。

 「だが今のお前じゃあ何も出来ないな。俺を殴ることも、この部屋から一歩踏み出すことも出来やしない」

 ぎりぎり。重女が歯を食いしばる。視線を下に向け、黒蝿の顔を視界から外した。そうでもしないと悔しさのあまり泣き出してしまいそうだから。

 「このまま此処にいれば、この国の奴らはお前に対してちやほやしてくれるだろう。黴が生えるまでベットで横になるのもいいだろう。絶望に浸って弟に貰ったその身体を無為にするがいい。だが――」

 そこで言葉をきり、黒蝿は身体を僅かに後ろの扉の方へ傾けた。斜めを向いたまま、俯いたままの重女に僅かに湿度のこもった言葉を浴びせた。

 「本当にそれがお前の望むことならな」

 何も反応はなかった。そんな重女から目を逸らし、黒蝿は扉に手を掛けようとした。その時。
 黒い影が部屋中に広がった。蜘蛛の巣のように壁や天井にまで影が網目状に広がり、黒蝿が反応するより早く、四肢を影の触手が掴み、抵抗する暇もなく床に乱暴に叩きつけられた。
 影の発生源は、金髪の少女。先程まで床に這いつくばっていた少女は、今、両の足で地をしっかりと踏みしめていた。
 先程とは逆に、今度は黒蝿が重女に見下ろされる形になった。

 『さっきからべらべらと、好き勝手言ってくれるね』

 影を背負いながら、重女は怒りを帯びた声を念波で黒蝿に送った。黒蝿は何も言わず、ただ「立っている」重女を見上げていた。

 『私はアキラを見殺しにしたお前を許さない。この手で八つ裂きにしてやりたいくらい憎い。だけど、それはしない。代わりに――』

 「右手」が動き、胸の辺りまで持ちあげると、ピシッと黒蝿を指さす。

 『お前を、死ぬまでこきつかってやる! 決して離れられないよう縛り付けて、私が死ぬまで仲魔としてこきつかってやる!!』

 その念波は激しく、彼女の怒りがダイレクトに伝わってきた。だが黒蝿は口角をあげ、自分を見下ろしている少女にふっと笑いかけた。、重女は不気味そうに眉を寄せ、思わず後ずさった。

 その時、扉が開いた。乱暴な音を立てて部屋に入ってきたのは、かつてアキラの仲魔であった雷王獅子丸とキヨハルだ。
 何事かと驚き部屋に踏み入れたキヨハル達は、部屋中に伸びた影と、その中心に「立っている」重女を見て酷く驚いた。

 「た、立っている!?」

 え? と疑問に思い、思わず重女は足もとをみた。白く細い脚は、裸足のままで冷たい石の床を踏みしめており、確かに自分は立っていた。
 それを確認したのと同時に、部屋中に広がっていた影は収まり、足から力が抜け、重女は膝からくずおれそうになった。しかしその身体を受け止めたものがいた。黒蝿である。
 黒蝿と再び視線があった。

 「……!」

 かあ、と重女の頬に朱が走り、黒蝿を思わず突き飛ばした。支えを失った身体はまたしても床に落ちたが、構わず、顔が赤いまま黒蝿を睨みつける。
 全てわかってしまった。こいつがあんな挑発的な事を言ったのは、私を奮起させるため。そんな安い策にまんまと乗ってしまった。こいつに踊らされてしまった。
 恥ずかしさやら怒りやらがこもった視線を受けながら、黒蝿は黙って部屋を後にした。重女は走って追いかけたかったが、両足が動かないので無理だった。

―――

 それから重女は積極的にリハビリを行うようになった。

 歩行練習、右手でボールを掴んで動かす練習。運ばれてくる食事にも口をつけるようになり、キヨハル達は肩の荷が下り安心した。
 リハビリの傍ら、重女は悪魔召喚プログラムの使い方についてキヨハルとミドーから説明を受けた。
 アキラによって聖書に組み込まれたコンプは、新たに生体登録を上書きし、姉である重女のものになった。と同時に、アキラの仲魔であった雷王獅子丸と八坂牛頭丸の主も重女に変わる。二体とも異論はなかった。アキラの意志を継ぎ、今度は我々がこの少女を守るのだ、と意気込んだ。
 しかし重女は、以前に黒蝿に指摘されたとおり、仲魔に供給するマグネタイトを生成出来ない。この点は他の悪魔や人間から奪ってコンプに貯蔵するしかなさそうだ。
 一ヶ月が過ぎ、右手はほぼ動かせるようになったし、両足も引きずりながらではあるが、歩く分には問題はなかった。

 しかし合体プログラムの弊害は他にも現れてきた。

 まずは視力。このひと月で急激に落ちてしまった。遠くのものがぼやけて見えない。この点は眼鏡を新調することで解決できた。
 もう一つの点は、記憶の混濁。
 特に夜に顕著になり、時々フラッシュバックが起きた。
 重女が体験したことのない悪魔退治の光景、玉座から見るミカド国の景色、知らない人々の顔。匂い。触覚。アキラの記憶の断片であったが、それらは重女の記憶と溶け合い、記憶に刻まれた感覚までわかり、自分がまるでアキラであると錯覚してしまう。
 重女としての記憶と、アキラの記憶。その二つの間で揺らぎ、自分の存在はなんなのかわからなくなり、彼女は酷く混乱しノイローゼ気味になった。

 そこで黒蝿は、重女からアキラの記憶を取り除いた。やり方は少々乱暴だ。重女の中に僅かに存在していたアキラのマグネタイトを吸収したのだ。
 マグネタイトに癒着していた記憶ごと吸い出し、自らの糧とした。その時アキラの記憶に刻まれた感情まで受け取ってしまい、余計なものまで身体に取り入れたせいで、黒蝿は人型を保つことが出来ず、鴉の姿に変化したまま暫く過ごした。
 無理やり身体からアキラのマグネタイトを吸い出された重女も同様で、記憶の混濁こそなくなり自己の存在をしっかり認識することが出来るようになったが、乱暴な施術のせいで数日間寝込んでしまった。

 アキュラ王の喪失からひと月弱。ミカド国には相変わらず陽は昇り、そして沈んで夜が来て、また朝が来て。その間人々は新しい国造りに励み、重女と黒蝿にも決断の時が迫ってきた。

―――

 (58、59、60……)

 ある真夜中の事。重女はそっと自室から抜け出し、薄暗い階段を登っていた。足がぷるぷる震え、大量の汗を流し、呼吸も荒い。
 それでも重女は一歩一歩、階段を踏みしめ、頂上に向けて歩いていた。
 右手はもう元通りに動かせるようになった。残るは両足。最後のリハビリとして、重女は此処ミカド城の展望台への階段を一人で登っていた。
 キヨハルには言ってない。言ったら無茶なことだと怒られるだろうから。
 だけど重女は一度見てみたかった。ミカド国の全貌を。弟が造ったこの国を。

 (81、82……)

 展望台までの道は辛かった。何度か足を止めたが、呼吸を整え汗を拭い、再び歩みを再開した。
 大丈夫だ。この足はアキラがくれたもの。この足さえあればどんなでこぼこの道だって歩いてゆける。そんな気がする。

 (94,95……)

 100段めが間近に迫ったころ、ようやく展望台への扉が見えた。あと少しだ。

 (99、100!)

 100段目を両足で踏みしめ、展望台へと続く扉を開いた。夜明け前の清廉な空気が重女の顔をくすぐる。
 展望台には先客がいた。黒い翼を背負ったその姿は、仲魔であるやたノ黒蝿。
 黒蝿は重女の姿を見て、一瞬だけ眉をあげたが、すぐに元の愛想のない表情に戻った。

 「………」
 「もういいのか?」

 問われて重女は首を縦に振る。黒蝿の隣に並び、端正な横顔を凝視する。随分早いな。やはり鴉に変えられたから、朝は早いのだろうか。
 煉瓦の手摺りの向こうの景色に視線を移す。東の空が赤い。もうすぐ日の出か。

 『……人が沢山住んでるね』

 まだ夜明け前だというのに、城下町のあちこちの家では煙が上がっている。人々が朝の準備をしているのだ。

 「これからもっと人は増えるだろう。国は大きくなり、文化も発展していく」

 そうだろう。王という支えを失っても、人は生きていかなきゃいけない。天使の甘言にただ従うのではなく、悪魔の囁きに誘惑されるのではなく、自分たちで技術を進化させ、子を産み、そして歴史を紡ぐ。 
 神はいる。天にではなく、人間の内なる心の中に。神が人間を造るんじゃなく、人間が神を造るんだ。人が神を信じた時から、神は「存在」するのだろう。姿形を変えて、それぞれの心の中に。不思議とそんな考えが重女の頭をよぎった。
 辺りがオレンジ色に染まっていく。陽が昇った。雲の切れ間から覗く太陽は、夜の闇を払拭し、新しい一日を告げる。

 『父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくないものにも雨を降らせてくださる』

 思わずその言葉が出た。隣の黒蝿が顔をこちらに向ける。

 「なんだそれは」
 『昔聞いた聖書の一節。シド先生が言ってた』

 聖書、シド、と聞いて黒蝿は思わず鼻白んだ。だが重女は気にせず朝日を見続けた。朝日を見るのなんて初めてだが、綺麗だ。神なんて信じていなかったつもりだったが、この景色を見たら、人が神を信じたくなるのが分かる気がした。

 「……何故泣く?」

 指摘されて、え? と思い頬に触れると、確かに自分は泣いていた。ぎょっとして思わず涙を拭くが、あとからあとから涙は溢れてくる。

 『あ、朝日が、綺麗だったから……』

 重女は笑われるのを覚悟してそう答えた。しかし黒蝿は笑わなかった。笑わずにただじっと隣にいてくれた。
 朝日を浴びながら、一つの言葉を思い出した。電脳空間で聞いた夢とも現ともつかない記憶。右手と両足を失い、冷たくなっていく自分を抱きしめて言ったアキラの言葉。
 そこで彼はこう言った。

 「愛している」「生きて」と――。

 ミカド城の展望台。朝日に照らされた悪魔の隣に並んだ一人の少女は、弟の言葉に涙を流しながら、朝を迎えた東のミカド国を眺めていた。

―――

 「本当に行っちゃうのかい?」

 それから更に一週間後、重女とやたノ黒蝿は“ターミナル”の扉の前にいた。
 こくり、と重女は頷いた。キヨハルとサムライ衆の皆は心底残念そうな顔をしている。

 「ずっとこの国にいてくれてもいいんだよ? 君さえ良ければ、新しい王になることだって……」
 「俺もこいつも、ある人物に用がある。そいつがいる世界に行かなければならない」

 声の出ない重女に代わって、黒蝿が代弁してくれた。そう、私達はシドに会いに行くと決めた。そのためにはこの国、ひいてはこの世界から旅立たなければならない。

 ――お世話になりました。

 声には出なかったが、重女はそう呟き、深々と頭を下げた。来た時と同じ服装。黒の半袖のタートルネックにベージュのカーゴパンツに軍靴。違うのは眼鏡をかけていることと、手に雷王獅子丸と八坂牛頭丸を収容した聖書型コンプがあることだ。

 「またいつでもおいでよ! 僕たちは歓迎するからね!」

 重女は笑顔を浮かべ、一礼した。感謝してもしきれない。いつかまた此処に来たい――そう思いながら、黒蝿と共にターミナルへと入って行った。

―――

 ターミナルは四大天使が作った、エネルギーの霊道、アマラ経絡を機械で制御するための「操作室」である。
 黒蝿と重女は来た時と同じく、せり出した台の上に乗り、付属している機械を操作した。

 『ここに空間の座標軸を入力すれば、入力した世界に行けるんだよね?』
 聖書を開き、コンプ内のミドーに問いかける。ミドーとの仲も随分深まった。まるで本当の祖父のように。

 「そうじゃ。数値は先程教えたとおりじゃ。だが私もこの装置を使うのは初めてだからな、誤差が生じてしまう可能性もある。行きたい世界に行けるとは限らないぞ」
 『それでもいい。シドに会うまで何度でも時空を渡るから』

 そう、シド。シドに会って話がしたい。例えどれだけ時間がかかっても必ず会いに行く。それが、今の私の目的。
 胸の十字架に触った。もう癖になっている。黒蝿も重女に見られないよう、懐に手を入れ、アキラから託された重女とお揃いの十字架のペンダントに触れる。一人の少年と交わした約束を思い出しながら。 
 機械に数値を入力すると、ターミナルの空間が光りはじめた。重女は黒蝿の手を握った。離れてしまわないように。すがるように、強く。
 黒蝿も握り返した。重女の手は年相応に細く小さかった。この小さい手のどこに四大天使を封ずるほどの影を発生できるのか、黒蝿は不思議に思った。

 光が強くなっていく。思わず目を瞑った。
 ふと、脳裏に懐かしい弟の声が聞こえたような気がした。

 「頑張って」と――

 『行こう、黒蝿』
 「ああ」

 強烈な光は、一体の悪魔と一人の少女の身体を一時的に素粒子に分解させ、別の世界へと転送したのだった――。


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 重女は無事救出された。仲魔であるやたノ黒蝿の手によって。
 全身に傷を負いながらも、四肢を失っていなく、意識もしっかりしている姉を見て、アキラは胸を撫で下ろした。
 その一瞬の隙をついて、四大天使はメギドラを放った。それに気づくのが遅れたアキラはその攻撃をもろに受けてしまい、ダメージを受け後ろへと吹き飛んだ。

 「!」

 黒蝿と共に地へと降りた重女は、黒蝿の腕から抜け出し、弟であるアキラの元へ駆け寄る。

 『アキラ!』

 喉からは声は出なく、ひゅう、という隙間風のような音が出るだけであったが、アキラは姉が自分の名を呼んでくれたのだと何故か分かった。

 「姉ちゃん、無事か!?」

 こく、と重女は頷く。全身ボロボロのアキラを見て、重女は悲しそうに顔を歪ませ、そっと弟の手に自分の手を重ねる。

 『アキラ……ありがとう』

 その言葉もやはり声にならなかった。だがアキラには姉の表情と唇の動きでなんと言ったのか分かった。
 アキラは笑顔を浮かべた。姉が無事に戻ってきてくれた――その事実は嬉しかった。たとえそれが傍に立っている悪魔――やたノ黒蝿の功績だとしても。

 アキラの手が重女の頬に触れるより早く、繭の中に凄まじい風が吹き荒れた。
 白い風。それは重女を繭の中に吸い込んだ時に発生したのと同じであった。 その風を受けてサムライ衆や獅子丸に牛頭丸が吹き飛ばされる。
 風の発生源の四大天使達は、アキラと重女を睨んでいた。神の遣いである天使の神々しさはすでになく、あるのは屈辱と怒りによる禍々しいオーラだけであった。

 「アキュラ王……我らを裏切った代償は高くつくぞ!」
 「お前もその娘同様、穢れているようだな」
 「神の意向を理解できぬ愚か者共め」
 「もうお前達は必要ない。このままこの国諸共消し去ってくれる!」

 凄まじい風の中、重女とアキラ、そして黒蝿は立ち上がり真っ直ぐに大天使達を睨み返す。重女とアキラの十字架のペンダントが風で揺れる。

 「四大天使、もうこの国は貴方たちを必要としていない」

 アキラが剣を構える。重女は黒蝿の手を握った。一瞬黒蝿は眉を寄せたが、すぐに握り返してきた。
 吹き飛ばされたサムライ衆、獅子丸と牛頭丸もアキラの後ろに控え臨戦態勢をとる。

 「貴方たちがいなくてもこの国は存続できる。もう貴方たちはいらない。よって、東のミカド国から貴方たちを追放させてもらう!」

 言い終わるが早いか、アキラのマハラギオンが放たれる。
 それが合図だった。
 獅子丸と牛頭丸、サムライ衆が四大天使に立ち向かう。獅子丸は見事な剣技でミカエルの召喚した竜の頭を切り落としていく。ラファエルが牛頭丸の怪力乱神によって大ダメージを受ける。
 後方に位置するキヨハルの「ラスタキャンディ」によって攻撃力・防御力・命中率・回避率を増大させたサムライ衆は、ミカエルとガブリエルを攻撃する。ある者は剣で、ある者は魔法で。
 圧倒的物量により四大天使の旗色が悪くなり始めたころ、黒蝿は重女を抱きかかえ宙を飛び、四大天使へと近づいた。
 それに目敏く気づいたガブリエルがマハンマを放つ。だが黒蝿は易々とそれをかわす。 重女は黒蝿に抱えられたまま、手に黒い影を発生させていた。

 「お前が……! お前さえ来なければ! 我らはアキュラを依代にし、メルカバーとして顕現できたというのに!!」

 怨嗟の声をあげるガブリエルに、重女も黒蝿も何も答えなかった。重女の手の影がどんどん大きくなっていく。

 「汚らわしい悪魔め! 私はお前たちを許さぬ! 身を切り裂き腸を取り出し、我らに背いたことを後悔させて――」

 その時、重女の影が四大天使を覆った。影は大天使を包んだと思うと、次の瞬間黒く巨大な鳥籠へと変化し四大天使を捕える。

 「いまだ!!」

 黒蝿の合図と共に、アキラは手を鳥籠に翳した。するとその手に四枚の漆黒の面のようなものが現れ、それぞれ鳥籠に囚われている四大天使の顔へととりつく。

 「う、ぎゃああああああああああああ!!?」

 耳を覆いたくなるような叫び声が聞こえたかと思うと、鳥籠の中の四大天使は、身体がどんどん小さくなっていき、ついに人間程の大きさへと変化した。
 暫くの間四大天使は苦しそうに悶えていたが、やがて悲鳴は聞こえなくなり、身体の動きも止まった。

―――

 「……やった、やったぞ!」
 「四大天使を、封印したんだ!!」

 サムライ衆が勝利の雄たけびをあげた。
 傷を負っていないものはいなく、ほとんどの者が満身創痍であったが、どの者の顔にも勝利の喜びが滲んでいた。
 渾身の封印術を使ったアキラは、地面に尻をつけ、長い吐息をついた。

 「アキラ君、よくやったな!」
 「流石はわが主!」
 「まさか本当に四大天使を封印するとはね」

 キヨハルと、獅子丸に牛頭丸が労いの言葉をかける。アキラは答えの代わりにほほ笑んで見せた。
 そこに空中から重女と黒蝿が降り立った。重女は黒蝿の腕から降りると、アキラの元へと走り寄った。

 「姉ちゃん!」
 『アキラ!』

 ぎゅ、とアキラが重女の身体を強く抱いた。そのあまりの力の強さに重女は少し痛がった。

 「ご、ごめん姉ちゃん! 身体大丈夫?」

 重女は頷いた。自分の身体もボロボロなのに私の心配とは。そう思いそっとはにかんだ。

 「姉ちゃんのおかげだよ。姉ちゃんがあの鳥籠を作って動きを止めてくれなかったら封印することが出来なかった」

 それと、とアキラは重女の後ろに立つ黒蝿に顔を向ける。

 「お前も協力してくれて感謝する。ありがとう」
 「……礼はいい」

 顔を背けながら言う黒蝿の様子がおかしくて、重女はそっと笑って見せた。
 あの時、黒蝿が繋いだ手から力を分け与えてくれなかったら、四大天使を封ずるほどの鳥籠は作れなかっただろう。私一人の力では出来なかった。黒蝿がいてくれたから、私は――

 その時、四大天使を封じている鳥籠の一つに亀裂が走った。

 その音に気付いたのは重女だけであった。
 亀裂が生じた鳥籠は崩れ去り、中にいたガブリエルは、面を無理やり剥がすと、こちらへ突進してきた。
 アキラはキヨハル達と話し合いをしていて気づかず、黒蝿もこちらを向いてない。
 ガブリエルは醜悪な顔の大きな口を開けて、アキラの方へ向かっている。このままではアキラが――!

 『危ない!!』

 重女は思いっきりアキラを突き飛ばした。そしてそれがまずかった。
 ガブリエルは、強大な牙で重女の右手と両足を食いちぎり、そのまま繭の外へ脱出した。
 突き飛ばされたアキラも、傍にいた黒蝿も、一瞬の出来事に目を大きくさせた。
 身体から噴き出る鮮血が、重女の視界を赤く染め、そしてそのまま意識を失った。続きを読む

 大勢の足音と野太い男達の声が大天使の繭に響く。
 先程の総攻撃で空いた穴から、サムライ衆が侵入してきたのだ。

 合戦が始まった。アキュラ王率いるサムライ衆の軍団と、巨大な力を持つ四大天使との。

 先鋒を務めるのはアキュラ王の仲魔である雷王獅子丸と八坂牛頭丸。
 獅子丸が剣を振るうと炎の玉が生まれ、牛頭丸は天使達に向かって巨大な棍棒を振り下ろす。
 しかしどちらの攻撃も、天使達の一睨みでいとも容易く消滅してしまう。
 後から続いたサムライ衆も同じく、ウリエルの剣が生み出す業火で、隊員達の攻撃は無力化された。

 「アキュラ王……やはりおまえか!!」

 ガブリエルがサムライ衆の後ろで控えていたアキラを睨んだ。その視線はすさまじく、並の者なら失禁しかねなかっただろう。だが、アキラは視線を受け、逆にガブリエルら四大天使を睨み返した。

 「四大天使殿、貴方たちは僕の姉に危害を加えた。よって貴方たちを拘束させてもらう」

 はっきりと、しかし有無を言わさない口調でアキラは告げた。
 何故繭の中の自分たちの行動をアキラが知っていたのか、そんなことは四大天使達にとっては些細なことであった。それよりも――

 「我らを拘束する?」

 冗談を、という声音でガブリエルはアキラへと問うた。身体の左脇に抱えた白い顔が、嘲笑うかのように歪んだ。
 しかしアキラは真剣な表情を崩さない。真っ直ぐに、四大天使を見据える。

 「貴方たちの企みはもうばれている」

 凛とした声でアキラは言う。四大天使は互いの目を合わせる。

 「僕は、貴方たちと合体なんてしない。殉教などしない」

 アキラは静かに目を伏せ、ゆっくりと腰から刀を抜き放った。それに伴い、サムライ衆も刀を構えた。どの者の目にも闘志が滲みでている。

 「姉を傷つけた貴方たちを僕は許さない。姉ちゃんは返してもらう!」

 言うが早いか、アキラは刀を横に薙ぎ、「会心波」を繰り出した。ラファエルの杖が一振りすると、「会心波」は衝撃波によって相殺される。
 サムライ衆がガブリエルとミカエルに一斉攻撃をしかけ、黒蝿は空中に飛び、「大旋風」を巻き起こす。しかしそれもウリエルの炎によって遮られる。
 その際に大天使達の身体が揺れ、僅かに四体の位置がずれる。すると奥の方に小さな白い塊が見えた。
 白い繊維のようなものでぐるぐる巻きにされ、宙に吊るされているそれは、小さな繭のようだ。

 「あれは……!?」

 黒蝿がウリエルの刃を受けながら声をあげた。

 「なんだ!?」
 ウリエルの炎によって熱された空気を吸い込んでしまい、咳き込みながらアキラは黒蝿に問うた。

 「あの繭の中からあいつの気配がする。あいつはあの中だ」
 「!」
 
 その言葉を聞いた瞬間、アキラの身体は無意識に動き、吊るされている小さな繭へと走った。
 しかし横からハマの矢が飛んできて、アキラは足を止め、後ろへ飛びそれを回避する。

 「やらせませんよ」
 「く!」

 ガブリエルがアキラの目の前に立ちふさがる。ガブリエルが右手の白光する剣で斬りつけようとする。アキラは刀でそれを受け止めた。

 「貴方には失望しました。我らと合体し神の戦車になるということの重大性を貴方は理解していない。これは主の願いを叶える事。世界にとっても貴方にとってもより良い選択で――」
 「うるせえ!!」

 ガキン、と金属の触れ合う音が響き、アキラはガブリエルの剣を弾き返した。そして間髪いれず斬撃を繰り出す。それら全てをガブリエルはかわす。

 「世界がどうとか、神の戦車がどうとか、もうそんなのどうでもいいんだよ! 僕がこの世界に来たのも、悪魔を退治してきたのも、全部姉ちゃんに会うためだ! お前たちの下らない野望の為じゃない!」

 アギダインの巨大な炎がガブリエルの身体を包む。しかし炎が晴れると、そこには無傷のガブリエルが立っていた。
 舌打ちしながら再攻撃を仕掛けようと再びアキラは大天使に肉薄する。しかし、ミカエルが呪文を唱えると、目の前に巨大な七つの頭を持つ竜が現れた。ミカエルが召喚した竜は、口から紫の火炎を吹き出し、サムライ衆や獅子丸に牛頭丸、アキラまでを巻き込む。
 強烈な火炎をマカラカーンで防ぎながら、なおもアキラ達は前へと進む。重女が囚われている小さな繭へと。

 「姉ちゃん……!!」

 その時、火炎を避けながら凄いスピードで飛ぶ者がいた。黒蝿である。
 黒蝿は竜の攻撃を次々とかわし、重女が囚われている小さな繭へと向かっていく。
 アキラも後に続きたかったが、機動力では黒蝿の方が上だ。黒蝿のスピードは大天使すら凌ぐ。

 「黒蝿!」

 アキラが黒蝿に大声で呼びかける。黒蝿はちらり、とアキラの方向へ顔を向けた。

 「姉ちゃんを助け出してくれ! 頼んだぞ!」

 黒蝿はそれには答えず、小さな繭へととりついた。右手にありったけの魔力を込めた風を発生させ、繭に穴を空けるべく攻撃を仕掛けた。

―――

 遠くで何かが聞こえたような気がして、重女は目を開けた。
 目を開けた先は白かった。まるで水の中にいるようだ。視覚も、聴力も、触覚も、全ての感覚が飽和している。

 (私……なんでここにいるんだろう……)

 腕を動かそうとしても、上手く上がらない。記憶を辿ろうとしても思考がまとまらない。だけどなんだか心地よい。温かく、守られている感じ。お母さんのお腹にいる赤ちゃんはこんな感じなんだろうか。
 気持ちいい。ずっとここにいたい。ここには私を脅かすものはいない。膝を抱え、胎児のような恰好をとる。

 「―――」

 何かが聞こえた、ような気がした。でも音はくぐもっている。幻聴だろうか。

 「―――!」

 また聞こえた。人の声? 何か怒鳴っているようだ。どこかで聞いたような、懐かしい男の声。
 誰? 貴方は誰? 何を言っているの?

 声のする方向へ視線を向けた。柔らかい光が水面のようにたゆたう。
 すると視界の端に鈍く光る物が入ってきた。
 あれは、銀? 銀の十字架?

 『それは私からの贈り物だよ』

 十字架を見た瞬間、大人の男の声が脳裏に響いた。優しい、落ち着いた声音。

 『人が人を愛するのに、理由が必要かい?』

 古い教会で「その人」が微笑んでくれる。浅黒い肌、銀の髪、聖書、いつも優しかった「シド先生」――

 『姉ちゃん、お揃いだね!』

 私とお揃いの十字架をつけた金髪の男の子が、にっこり微笑んで抱き付いてくる。綺麗な金髪、私と同じ青い目の少年。今となっては血の繋がったたった一人の弟、「アキラ」――

 『なんだそれは?』

 景色が変わる。薄暗い。どこかの山の中のようだ。
 そうだ、此処は影の鞍馬山。私が作ってしまった影の結界の中だ。
 焚き火の向かいに座っている男が問う。黒い翼を生やした男。私の胸の十字架のペンダントは、火の光を反射して微かに光る。
 その問いに私は「食前の祈り」と答える。

 『誰に祈るんだ?』

 誰にって、そんなの決まってる。神様だ。
 そう答えると男は吹きだした。喉を鳴らし笑っている。私は顔が赤くなる。全くこの悪魔は――

 悪魔?

 そうだ、私には仲魔がいた。鞍馬山の地下で鳥かごに入れられていた黒い鳥。私が名を奪い、「彼」も私の声と名を奪った。黒い翼を生やした――

 「黒蝿!!」

―――

 その名を口にした途端、辺りの白い光は晴れ、重女の意識は覚醒した。
 と、同時に五感も戻ってくる。
 そして気づいた。自分が白い繊維のような糸で身体を縛られているということに。

 「く……!」

 身をよじっても、何重にも重なった糸は千切れない。
 そうだ、全部思い出した。私は四大天使の繭に入って、そこで天使達と戦ったけど、逆に大天使の光を浴びてしまって、意識が遠のいて……

 メリメリ、と重女の頭上で音がした。まるで壁を破るようなその音は、重女が囚われている空間の天井に亀裂を走らせる。
 亀裂が大きくなっていき、やがてそこから黒い手が出てきた。黒の篭手を着用したその手は男のものだとわかった。
 続いて上半身が出てきた。鴉に似た兜に、黒い山伏のような衣、深緑の長髪に暗い瞳――

 「黒蝿!?」
 「■■■!!」

 私の名を呼んだのだろう。しかし私にはその声が音声として認識できない。当然だ。私の本当の名を知っているのは、頭上で手を差し伸べている悪魔――やたノ黒蝿だけなのだから。
 ビシッと音がしたかと思うと、黒蝿の全身がまるで真空の刃に攻撃されたかのように切り付けられ、服も、顔にも、手にも複数の傷がつく。
 傷から赤黒い血が滴り、重女の顔に落ちても、黒蝿は手を伸ばすのを止めない。

 「来い! ■■■!!」

 必死の形相でそう怒鳴られ、それに答えるために重女は手を上げようとする。しかし身体は白い糸で縛られている。
 歯を食いしばり、重女は全身に力を入れ脱出を試みる。しかし糸は頑強だ。身体はびくともしない。

 「―――!!」

 それでも重女は動きを止めない。糸が腕に、足に、身体中に食い込み、肉を裂き血を噴き出させる。

 「う、ああああ―――!!」

 叫びながら、血を噴出させながら、それでも重女は頭上に向けて手を伸ばす。
 仲魔の声に答える為に、弟の元へ帰る為に。

 ビリビリ、と拘束していた糸が千切れはじめた。腕が自由になる。頭上に手を伸ばすと、黒蝿はその手をしっかりと握り、一気に重女を空間から引き上げた。
 重女の首からさげている十字架のペンダントが、傷だらけの二人の身体の間で揺れた。

―――

 重女を小さな繭から救出した黒蝿は、サムライ衆達の歓声を受けながら、そのまま空中で静止した。
大天使達は驚愕し、アキラも、安堵の息を吐いた。

 「……お前……」

 重女を抱えたまま、黒蝿は腕の中の少女の顔を覗き込む。何か言ってやろうと思ったが言葉がでない。
 すると大きな青の瞳が、黒蝿の顔を逆に捉えた。

 「……ありがとう」
 「あ?」
 「助けてくれて」

 黒蝿の肩の傷に触れ、微笑みながら重女は言う。肩の出血を止めるように優しく手のひらを押し当てた。

 「貴方が助け出してくれなかったら、私は――」
 「黙ってろよ」

 黒蝿が重女の白く細い首を掴む。ひゅ、という音が喉から漏れ、手から影が伸びたかと思うと、重女の首に黒い痣がついた。黒蝿が再び重女の言霊を奪ったのだ。
 だが重女はもうそれを惜しいとは思わなかった。この痣は、自分と、この悪魔との絆の証のようなものだから。
 この十字架のペンダントが、アキラと、シド先生との繋がりの印のように。

 血まみれの手で、重女は十字架を握りしめた。

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 ズウ……ン

 轟音が響き、広く、巨大な天使の繭が揺れた。その振動は、四大天使の巨躯にすら響く。

 「今のは……?」

 ガブリエルが呟く。そしてすぐ後にまたも振動が響く。先程よりもっと激しい。そしてそれは連続して起こる。
何者かがまたしても繭を攻撃しているのだ。
 またあの悪魔だろうか。やれやれというように四体は目を合わせた。全く悪魔には学習能力がないのか。たった一匹でこの繭を壊し、我らを殺せるとでも?
 その時、ドオン! という爆発音が聞こえた。一つではない、その音は四方八方から聞こえてきて、繭を先程より激しく揺らした。
 何が起きている? これはあの悪魔一匹の仕業なのか?  
 いや、違う。この繭に攻撃を仕掛けているのはあいつだけではない。これは、複数の人間によるものだ。

 「アキュラ王……!」

―――

 「駄目です! 傷一つつきません!」 
 
 繭の外にて。爆薬を仕掛け、爆発させたサムライ衆から失敗の報告があがる。
 
 「やはり駄目か……!」 
 
 アキュラ王ことアキラは悔しそうにごちる。
 めいいっぱいの火薬を集め、大規模な爆発を数回発生させたが、大天使の繭には傷一つつけられない。物理攻撃では効かないらしい。と、なると、後は魔法による攻撃を試すしかない。

 「おい、悪魔」

 アキラは後ろにいる黒蝿に呼びかけた。黒蝿はゆっくり視線をアキラの方へ向ける。
 
 「お前が繭に穴を空けた時、どんな手段を使ったんだ?」

 アキラの問いかけに、傍にいた獅子丸は僅かに眉をひそめた。アキラは、この悪魔の言うことを信じるのだろうか。
 目的が一致したとはいえ、獅子丸はどうもこのやたノ黒蝿と名乗る悪魔が信用できなかった。アキラに危害を加えたり、何か不穏な動きを見せたらすぐに対処出来るよう、獅子丸の右手は常に刀の柄を掴んでいた。

 「……繭の天辺」
 「あん?」
 「恐らく繭の天辺は、他と比べて壁が薄い。俺はそこを何度も攻撃してやっと穴を空けることに成功した」

 もっとも、その開けた穴からあいつが吸い込まれてしまったんだがな、と黒蝿は口に出さず胸中で呟く。

 「そうか、天辺か……」

 アキラは顎に手を当て暫し考えると、顔をあげ、「皆のもの!」と声を張り上げた。

 「繭の天辺付近を、魔法を使い一斉に攻撃しろ!」

 応!! とサムライ衆は、太く大きな声で応じる。獅子丸と牛頭丸も命を受け、攻撃の構えをとる。

 「悪魔、お前も協力してくれ」

 ぴくり、と黒蝿の片眉が上がる。獅子丸と牛頭丸も思わずアキラの方を振り向く。

 「アキラ、なにもこんな悪魔の力を借りずとも我らだけで……」
 「今は少しでも戦力が欲しい。細かいことにこだわってる場合じゃないだろう」
 「しかし……」

 獅子丸は黒蝿を軽く睨んだ。アキラはこの悪魔を信用しすぎじゃないか? こいつが裏切らないという保証はどこにもないというのに。
 睨まれた黒蝿は、薄笑いを浮かべている。そして面白そうにアキラに問うた。

 「いいのか? 俺を信じて? そいつはどうやら俺を疑ってるみたいだぞ」
 「………」

 アキラは黒蝿の暗い瞳を見つめ返した。重女と同じ青い瞳。その青い瞳が黒蝿の真意を探るかのようにじっと見つめてくる。

 「お前は、姉ちゃんの仲魔なんだろう?」

 見つめたままアキラがきっぱりという。黒蝿の目が大きくなる。

 「どんな過程があったにしろ、こいつが姉ちゃんの仲魔だっていうのは事実だ。仲魔は主人を助けるものだろう? それに……」

 そこでアキラは言葉を切る。視線を黒蝿から逸らし、言いにくそうに続ける。

 「……お前だけが姉ちゃんの本当の名前を知っている。僕はもう姉ちゃんの名前を呼ぶことが出来ない。なら、お前が名を呼べば姉ちゃんは応えるだろう」

 ぎゅ、とアキラは拳を握った。悔しいし認めたくないが、この悪魔の方が姉のことを自分よりよく知っている。姉もきっとこいつのことを悪く思っていないだろう。それは、こいつを庇って繭の中へ吸い込まれた事から推測できる。
 そして恐らく四大天使に逆らった自分はただでは済まないだろう。この国から追放されるならまだいい。でもそれだけではないだろう。相手は巨大な力を持つ大天使だ。姉を奪還できたとしてもこの身が無事でいられるかどうか危うい。最悪死ぬかもしれない。
なら――

 「やたノ黒蝿、もし僕が死んだら……その時はお前が姉ちゃんを守ってくれ」

 黒蝿のみならず、耳を傾けていた獅子丸と牛頭丸も絶句する。気は確かか? と問う視線に答えるかのように、アキラは真っ直ぐに黒蝿を見つめる。その瞳は決して冗談を言っているわけではないと語っていた。
 
 「お前を見込んで頼んでいるんだ。だから……」
 「嫌だね」

 アキラの言葉を遮ってぴしゃりと黒蝿が言い捨てた。

 「もうあいつのお守は沢山だ。お前はあいつの弟だろう? なら何が何でも生き延びて、あいつの傍にいてやれ」

 言い終わると、黒蝿は背に黒い翼をだし、ぐいっとアキラを脇に抱え飛び出した。小柄な少年の身体が宙に浮く。

 「お、おい!?」
 「貴様! アキュラ王をどこに連れていく!?」

 成り行きを茫然と見ていた獅子丸が慌てて声を掛ける。空中で静止したまま黒蝿は大柄な神獣を一瞥する。

 「この繭を壊すんだろう? なら天辺を至近距離で攻撃したほうが破壊しやすい。行くぞ」

 そのまま黒蝿はアキラの両脇に手を入れて抱え、繭の天辺へと飛ぶ。重女によく似たアキラの横顔を見ながら、黒蝿はそっとため息をついた。

 全く、この姉弟は無茶なことばかりいいやがる!

―――

 大天使の繭の周りは、サムライ衆がそれぞれ配置についていた。アギ班とブフ班、ジオ班にザン班の四つの班に分かれ、雷王獅子丸と八坂牛頭丸も攻撃の構えをとる。
 空からは黒蝿とアキラが繭の天辺を至近距離から攻撃する手筈を整えていた。

 「みんな、配置についたな? これからカウントダウンにあわせてここに集中攻撃をしかける!」

 繭の天辺から地上のサムライ衆に聞こえるよう、大声でアキラは指示を出す。

 「キヨハルさん、頼んだよ!」
 「まかせて! カウントダウンを開始するよ! 10、9、8、7……」

 キヨハルが秒読みを始めると、辺りの空気が変化し、木々の葉が揺れる。それはサムライ衆達の熱気であり、マグネタイトを練る微細な振動のせいであった。

 「6、5、4……」

 黒蝿の周りに激しい風が起き、アキラの手に熱された空気の塊が生まれる。ごくり、とアキラは唾を飲んだ。

 「3、2、1……今だ!」

 合図と同時に、アギの火炎が、ブフの氷が、ジオの電撃が、ザンの衝撃波が一斉に繭の天辺めがけて発せられる。
 アキラもアギダインを放つ。黒蝿のザンダインによって威力が格段に増した炎は、サムライ衆の攻撃と共に大天使の繭へ大ダメージを与える。凄まじい轟音が鼓膜を揺らし、物凄い攻撃の余波によって、アキラは繭の天辺から吹き飛ばされる。が、その身体を黒蝿がキャッチした。
 砂埃がさると、繭の天辺には大きな穴が空いていた。アキラは黒蝿の手から離れ穴の近くへと降りると、刀を抜き、穴へと切っ先を向け大声をあげた。

 「突入!!」

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 「…………」

 大天使の繭の傍に集まったアキラ達は、皆沈黙を保っていた。
 誰一人口を開く者はいない。サムライ衆も、キヨハルも、雷王獅子丸も、“ミノタウロスの間”から召喚した八坂牛頭丸も、そして黒蝿とアキラも。

 『我らの最終目標は、アキュラ王と合体し、神の戦車熾天使メルカバーになることです』

 重女の眼鏡の盗聴器から拾った四大天使の音声が、機械から発せられた時、皆は一斉にアキラの方を見た。
 音声をオープンにし、此処に集まった皆に聞こえるよう命じたのはアキラだ。
 その機械から予想外の言葉が聞こえてきた瞬間、アキラは驚愕に顔を歪ませた。以来ずっと言葉を発しない。何かを考えているように。
 黒蝿はそんなアキラをじっと見ていた。

 『…らわしい……ビトだわ……』
 『……早く……浄化しなければ』
 「!」

 新しい音声が聞こえてきた。四大天使の声だ。アキラをはじめ、皆は機械にばっと顔を向け、耳を傾ける。

 「キヨハルさん! もっと音声を大きくして!」
 「う、うん!」

 キヨハルが音量のつまみを最大に回す。ノイズ混じりの音がスピーカーから流れる。この声は恐らくガブリエルだろう。そしてその後ろに、微かに少女の悲鳴が聞こえる。

 「……姉ちゃん!?」

 アキラはキヨハルの隣に駆け寄り、必死の形相でスピーカーに耳を近づけた。
 なんだ? 中で何が起こっている? 姉ちゃんは? 四大天使様は一体姉ちゃんに何をしたんだ――?

―――

 天使の光に精神と肉体を組み敷かれても、重女は必死で抗った。
 歯を食いしばり、天使達を鬼の形相で睨み、影の刃を作り出し攻撃を続ける。しかしその威力は先程より遥かに弱い。影は大天使に届かず消えてしまう。

 「こ……の!」

 抗えば抗うほど激痛が走る。だけど屈するわけにはいかない。私が倒れたら、こいつらはアキラを騙して消滅させてしまう。それはさせない! あの子は私が守って見せる――

 『嘘つき』
 「!?」

 懐かしい声が耳朶を打った。いつの間にか、辺りは繭の中ではなく、見知ったシドの古びた教会だった。ステンドグラスから夕暮れの光が差し、十字架に磔にされたキリストと、その前に立つ小さな少年を照らし出す。光を浴び、少年の金髪がきらきらと光る。

 『姉ちゃんは、僕を置いていったくせに』

 ぞっとするほど冷たい声で、少年――アキラは重女に言った。その姿は鞍馬山に出発する直前の、八歳の子供のままであった。

 『姉ちゃんが僕を置いていかなければ、僕はこんな酷いめに合わずに済んだのに』

 ぐにゃり、と景色が変わる。暗い街並み、荒れ果てたビル群、血を流し倒れる人々。武装した深緑のスーツの軍団が悪魔と戦っている。その中でも一際小柄な身体な少年が剣を奮っていた。

 (アキラ!?)

 悪魔の攻撃に晒される弟を目の前にし、重女は思わず口を覆った。別世界に渡り悪魔討伐隊に入ったとは聞いていたが、まさかこんなにも激しいものだったなんて。
 アキラの脇腹に悪魔の爪が掠る。赤い血が噴き出る。

 「やめて!」

 叫ぶとまた景色が変わった。どこかの地下倉庫のようだ。幾つもの布団が敷いてあり、何人もの子供達が寝ている。その内の一つの布団にアキラが寝ていた。シドから貰った十字架を握りしめながら、涙を流していた。

 『姉ちゃん……早く……会いたい……』

 枕が涙で濡れていた。それを見た重女の目にも涙が浮かんだ。それは頬をつたりぽたりと足もとに落ちた。

 『嫌い、大っ嫌い! お母さんなんか死んじゃえばいいんだ!』

 次に聞こえてきたのは自分の声だ。かつて住んでいた古いアパート。そこで母に暴言を浴びせる自分がいた。
 ショックを受け、打ちのめされた母。そして翌日、車にはねられて死んでしまったお母さん。謝罪もできずに、もう二度と会えなくなってしまったお母さん。
 重女は顔を両手で覆い、膝をついた。かしゃん、と眼鏡が床に落ちる。

 「ごめんなさい、ごめんなさい……アキラ、お母さん……本当に、ごめん……」

 泣きながら何度も何度も謝罪の言葉を口にした。目の前には四人の人間が立っている。八歳のアキラ、デモニカスーツに身を包んだアキラ、王の装束に身に纏ったアキラ。そして血まみれで脳漿を剥き出しにし、腸をはみださせている母。
 三人の弟と母は、泣きじゃくる少女を見下ろしている。

 『許しを請え』
 『神を崇めよ』
 『穢れた身を清めよ』
 『贖罪せよ』

 それぞれの口から厳格な声が発せられた。それはもはやアキラの声でも母の声でもなかったが、重女は気づかず泣きながら謝り続けた。徐々に自分の存在が希薄になり、頭の中が白く「塗りつぶされて」いるのにも気づかず。

―――

 「…………」

 じっと、アキラは組んだ両手を額にあて、眉を寄せて黙っている。
 そのあまりに真剣な姿に、キヨハルも、サムライ衆も声を掛けられなかった。
 先程から繭の中からは、重女の泣きじゃくる声と四大天使の声が交互に聞こえてきた。どうやら重女は四大天使に”浄化”という名の洗脳を受けているらしい。しかも恐らく暴力的に。
 姉を何よりも大事に思っているアキラのことだ、すぐにでも重女を奪還しようと繭に突進するかと思いきや、一言も発さずずっと何かを思案している。
 迷っているのだろうか? とキヨハルは思った。四大天使は幼いころから彼が信仰してきた存在だ。彼らの理想を叶えるために別世界からきて、神の千年王国――東のミカド国まで建設したほどだ。
 まさか、彼は実の姉の奪還よりも、大天使達と合体し、神の戦車、熾天使メルカバーになる道を選ぶのか?
 神学を学んだ身としても、キヨハルには大天使達の言い分は傲慢にしか聞こえなかった。アキラと四大天使が合体し、メルカバーへと進化したとしても、アキラは消える。それでこの世界がより良い方向へ変わるのかもしれない。主の御心とやらに沿うのかもしれない。だが――

 「お前、まさかあの天使どもの言いなりになるのか?」

 ばっと、アキラが声の聞こえた方向へ、伏せていた顔を向けた。キヨハルも、サムライ衆も、獅子丸も牛頭丸も声の主――黒蝿の方を向いた。黒蝿は拘束されながらアキラを睨んでいた。

 「天使の言うことを実践して、神に祈って、お前が手に入れたかったのはなんだ? あんな奴らの為に死ぬことが目的か? 随分と下らないもんだな」

 両側を拘束していたサムライの手を払いのけ、黒蝿はアキラの方へ近づく。誰も止めようとはしなかった。アキラの視線と黒蝿の視線が交差する。

 「俺はこの国やお前がどうなろうが知ったことないが、俺はあいつに死なれては困る。それに大天使どもも気に食わない。だから俺はあいつを助け出し、大天使どもも殺す」

 ばさり、と黒い羽根を広げ、黒蝿は飛び立とうとした。

 「……待てよ、悪魔」

 そんな黒蝿の背に向かって、アキラは呼びかけた。黒蝿が振り向く。キヨハルもその横顔を凝視する。

 「さっきから聞いてりゃ好き放題言いやがって」

 やや怒りを込めた、しかししっかりとした口調でアキラは黒蝿に言い返す。誰も口を挟む者はいなかった。皆がアキラと黒蝿を凝視している。

 「僕は、姉ちゃんを見捨てない。ここまで僕が生きてきたのは、全てが姉ちゃんの為だった。だから僕は殉教なんてしない、神の戦車になんかならない、僕の命は、姉ちゃんの為にあるんだ」

 き、とアキラは周りの皆を見渡す。その表情は、数年前、この国を建設しようと宣言した時と同じ、凛々しく「王」の風格を表すものであった。

 「アキュラ王が命ずる! これより、繭の中にいる我が姉の奪還と、四大天使の捕縛作戦を開始する!」

 王の命を受け、サムライ衆が応! と力強く応ずる。キヨハルと仲魔である獅子丸と牛頭丸が目を合わせ頷く。
 黒蝿はその様子を見て、目を細めふ、と笑った。


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 階段を上がり、アキラはガントレットを装着したまま外へと出た。
 地上へ出て目にした光景は、巨大な棍棒をもった半牛半人の魔獣に次々とやられる討伐隊の皆の姿だった。
 怪我を負ってない者はいなく、頭から血を流したキヨハルとアキラの目があった。

 「君! 地下から出てきたのか! あれほど来ちゃ行けないと言っておいたのに……!」

 言い終わる前に、魔獣の棍棒がキヨハルめがけて振り下ろされる。

 「危ない!」

 アキラは咄嗟にキヨハルの手を強く引き、その場から避難させる。
 キヨハルが元いた場所は、巨大な棍棒によってコンクリートの地面が抉れている。あれを直撃していたらキヨハルは脳天をかち割られていただろう。
 恐ろしさにアキラの小さな手が震える。悪魔を相手に戦うというのがこんなにも怖い事だったなんて。
だけど、もう後戻りは出来ない。天使達との約束――「神の千年王国」を造ること、そして、姉を探しに行くこと。これらを為すまで自分は死ぬわけにはいかない。

 「キヨハルさん、ちょっと借りるよ」
 「お、おい!?」

 すら、とキヨハルの腰の剣を抜き、それを真っ直ぐ身体の前で構える。その長い剣は十歳の子供が持つには重く、剣先がぶるぶる震えていた。

 「お、おい悪魔!」
 「んモウ?」

 鼻息荒く半牛半人の魔獣・八坂牛頭丸がアキラの方を振り向く。手に持っていた棍棒には幾つかの血と肉片がこびり付いていた。
 がちがち、がちがち。
 牛頭丸の恐ろしい形相を間近で見たアキラの全身が恐怖で震える。しかしアキラは十字架のペンダントをぎゅ、と握りしめ、体中の筋肉に力を入れて目の前の魔獣を見据えた。

 「お前の相手は、この僕だ!」

 精一杯声を張り上げ、目の前の巨大な魔獣を睨みつける。長刀を震えながら構える子供に、八坂牛頭丸は嘲笑を浴びせた。

 「子供の肉は久しぶりだな。食いごたえがありそうだ!」

 牛頭丸は一気に棍棒を振り下ろす。アキラはそれを地を蹴って避ける。棍棒が地面にめり込む衝撃音がアキラの鼓膜に響く。続けざまに牛頭丸は棍棒を横に振った。アキラはそれをギリギリで避けた。
 家の近所を走り回って鍛えた足腰は高い俊敏力を備えていた。

 「えい!」

 攻撃を避けながらアキラは牛頭丸の足めがけて刀を薙いだ。しかし子供の力では魔獣の太い足を斬る事は叶わない。
 牛頭丸は笑いながらアキラの小柄な身体をつまみ上げた。

 「はなせ! はなせよ!」

 ジタバタと手足を動かしても、牛頭丸の太い指から逃れられない。
 ニヤリと笑い舌なめずりをしながら牛頭丸は、そのままアキラを口元に持っていき食べようとした。

 「アギラオ!」

 急激に牛頭丸の足元で火の玉が膨れ上がった。

 「んモウ!?」

 足を火で焦がされ、牛頭丸は体勢を崩す。ぐらり。その隙にアキラはキヨハルの手によって牛頭丸の指先から救い出された。
 キヨハルの後に続いて、他の隊員がそれぞれ攻撃を仕掛ける。

 「小癪な!」

 牛頭丸が「会心波」を繰り出すと隊員達は吹き飛ばされる。
 アキラはキヨハルの腕の中でもがき、一緒に戦おうとした。

 「いい加減にしろ! 君のような子供が悪魔に叶うはずがないだろう! 大人しく避難を……」

 そこまで言ったキヨハルとアキラに巨大な影がかかる。
 隊員の攻撃を受けて鼻息の荒い八坂牛頭丸が、憤怒の表情を浮かべ棍棒を振り下ろそうとしていた。

 (やられる!)

 アキラはぎゅっと目を瞑った。大人のキヨハルさん達でさえやられちゃうのに、力の弱い僕がどうやって悪魔を倒せばいいんだ。誰か、助けて――

 『仕方ないですね、我らが少しだけ力を貸してあげましょう』

 頭の中に声が響いた。それはあの秘密基地で聞いたのと同じ声。優しく諭すようなその声は、あの四大天使の声――
 そう認識した時、アキラの脳裏にある「言葉」が浮かんだ。何故だかは知らない。だけどその「言葉」が意識せず口から呪文として発せられた。

 「アギダイン!」

 その呪文を唱えると、巨大な火の玉が次々と牛頭丸に襲いかかる。先程キヨハルが繰り出した「アギラオ」よりもっと大きく激しい炎が牛頭丸の身を焼いた。

 「モ、モオオオ!!」

 黒こげになりながら、牛頭丸は膝をついた。キヨハルや他の討伐隊の皆はぽかんとした顔でアキラを見ている。

 (今のは、僕が……?)

 キヨハルの腕から降り、そっと悪魔に近寄ろうとした。しかし、

 「!!」

 倒したと思ったはずの悪魔は、雄叫びを上げながら立ち上がった。そして目の前にいるアキラに棍棒で攻撃しようとする。アキラは咄嗟に手で身体を庇い、目を瞑った。

 ガキィン!
 激しい音が辺りに響いた。目を開くと、其処には赤い鬣を靡かせた雷王獅子丸が長刀で太い棍棒を受け止めていた。

 「ふふ、気に入ったぞ小僧!」

 獅子丸は笑った。牛頭丸渾身の一撃を、獅子丸は何の苦もなく受け止めている。

 「その小さき身体一つで悪魔に挑む、その勇気、気に入ったぞ! 小僧、名は?」
 「ア、アキラ……」
 「アキラ。これより儂は主の仲魔だ。主の危機を助けようではないか!」

 そう言うと獅子丸は、ふん! と長刀を振った。ほんの一振りなのに、牛頭丸の身体は衝撃で再び地面に転がってしまう。
 次の瞬間、獅子丸が電光石火の如く移動したかと思うと、「絶命剣」を牛頭丸に何度もくらわす。その剣技は見事なもので、神獣の名に恥じぬ動きであった。

 「ま、参った! 降参降参!」

 刀の先を喉元に突き出されながら牛頭丸は両手を上げた。
その大きな身体は炎の玉によってあちこちが焦げ、獅子丸による刀傷が幾つも付いている。

 「た、助けてくれよ、もう悪さはしない。見逃してくれよ。なんなら仲魔になってもいいぜ?」
 「何を調子のいいことを!」

 獅子丸が再び刀を振り下ろそうとする。が、長刀は途中で止まった。アキラが手で制していたからだ。

 「その言葉は本当か?」
 「も、勿論!」
 「お前の名前は?」
 「や、八坂牛頭丸……」
 「なら、八坂牛頭丸、今からお前は僕の仲魔だ! 僕には目的がある。その目的のために力を貸せ!」

 アキラは左手のガントレットに触れた。するとガントレットの画面が光り、八坂牛頭丸と雷王獅子丸は小さな光の玉となり、コンプ内に収納された。

 『うむ、魔獣・八坂牛頭丸と神獣・雷王獅子丸を収納した。これでこの二体はお前さんの仲魔じゃ』

 画面の中でミドーが機械音声を発した。その声はどこか嬉しそうである。

 僅か十歳の少年が、悪魔を使役し退治した場面を、キヨハルを始め、悪魔討伐隊の皆は驚愕の表情で見ているしかなかった。

―――

 それからアキラの生活は大きく変わった。
 八坂牛頭丸を退けた事により、アキラは小さいながらも悪魔討伐隊の副隊員に認められ、その為の訓練をキヨハルと獅子丸から直々に教わった。
 基本体術、悪魔召喚プログラムの使い方、アギやブフやザンといった魔法の習得。キヨハルからは主に座学を、獅子丸からは剣術と魔法を教わった。
 普通の子供が習う算数や国語といった基礎教養もキヨハルは引き取った子供達と一緒に、アキラに根気よく教えた。
 アキラはキヨハルの真似をして、悪魔召喚プログラムをガントレットから分厚い聖書に組み込んだ。聖書型コンプを持つと、シド先生を思い出してなんだか嬉しくなった。
 勉強に訓練でヘトヘトになりながらも、アキラは一日の終わりには祭壇に向かって祈っていた。

 ――姉ちゃん、僕、沢山訓練して必ず迎えに行く。だから、どうか元気で待っててね。

 そうして別世界の東京で数年が経過し、アキラが十三歳になると正式に討伐隊の一員として任命された。史上最年少の隊員である。
 アキラの悪魔討伐隊としての最初の任務は、スカイタワーを占拠している悪魔を退治し、「ターミナル」を奪還する任務であった。

 スカイタワーを占拠している悪魔の親玉は、鬼女・メデューサ。

 流石に手強い相手であった。
 討伐隊総掛かりで戦い、生き残ったのは、アキラとキヨハル、他数名だけ。キヨハルはこの時の戦いで顔に幾つも傷を負った。
 ボロボロになりながらもターミナルを奪還し、キヨハルと共に起動スイッチを押した時、強烈な白い光がアキラを襲った。
 この光、三年前に秘密基地で四大天使にあった時と同じ光――

 『やっとここまで来ましたね』

 何時かの白い空間。そこに座する四体の白を基調とする異形の物体。四大天使のウリエル、ミカエル、ラファエル、ガブリエルである。

 『以前に会った時よりも、かなり力をつけたようですね』
 『今なら、「神の千年王国」を築き上げる事ができるでしょう』
 『さあ、今こそ我らの神の千年王国を! お前はその国の王となって、私達の手足となって働くのです』

 再び光が溢れてくる。四大天使の姿は消え、気がつけばアキラとキヨハルは、太陽の指す東京の岩盤の上に来ていた。

 「……ここは?」

 見渡す限り何もない土地である。僅かに草が生えていて、小さな湖らしきものと、「ターミナル」という機械装置があるだけ。

 (ここに、王国を建てる……?)

 その時、アキラに異変が起こった。

 ぐらり、と視界が揺れたかと思うと、目の前の景色がぐにゃぐにゃと変わっていく。どくん、どくん、と心臓が激しく鼓動を打っている。
 何もない荒れ果てた土地にヨーロッパ風の家々が立ち並び、森が出来、城が立つ。この光景は、アキラが昔読んでいた絵本の挿し絵そっくりであった。

 「な、何が起きてる!?」

 キヨハルが叫んでも、アキラは頭を抑えてうずくまったまま。
 彼の持つ空間形成能力に、天使の力が加わり、次々と一つの世界を形成していく。幼い頃空想していた世界そっくりに。

 やがて、アキラが顔を上げると、其処には一つの国が誕生していた。

 青々と茂る豊かな木々、ヨーロッパ建築に似た家が集落を形成している。
 そして立派な煉瓦造りの大きな城。全てアキラの空間形成能力が四大天使の力によって暴発した結果である。

 「……神の千年王国……」

 ぼそりと呟いたアキラを、キヨハルは畏怖の感情を込めて見た。

 「何をしたんだ? 君は一体何者なんだい?」

 その問いに、アキラは笑顔で答えた。十三歳のアキラの顔が、やけに大人っぽくキヨハルには見えた。

 「僕は、四大天使の命を受けて別世界から来た。此処に、「神の千年王国」を建てるために」

 ぐるりとアキラが手を回し、明朗とした声をあげる。

 「キヨハルさん、東京の人々をここに呼ぼう! そして此処に新しい国を造るんだ」

 太陽の光を浴びて、アキラの金髪が輝く。
 逆光に光るその姿は、キヨハルの目にはアキラが神の使者のように写った。

 「そして僕が王様になる! この国を、今から「東のミカド国」と名付ける! 悪魔も争いもない、理想の国を造るんだ!」
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 アキュラはスーツの内側のポケットに手を伸ばした。そこから取り出したのは、一枚の白黒の写真。

 昔、姉が中学に上がった時に撮った、一枚しかない家族写真。
 そこには、安っぽい外出着姿の母と、慣れない制服を着て怒ったような顔をしている姉、その姉の足元に緊張しながら立っている幼い自分が写っていた。
 写真の裏を見る。そこに写真が撮られた年と、姉の名前が書かれているはずだった。
 しかし――

 「……なんだよ、これ」

 苦しげにアキュラは呟く。写真を持つ手が震えている。

 「……アキュラ?」
 「獅子丸、この字を読んでくれ」

 写真を渡された獅子丸は、訝しげな顔をしながら写真の裏を見る。そこには文字が書かれてあった。

 ――S4X年、■■■の中学入学式――

 ■■■の部分には、アキュラの姉の名前が書かれているのであろう。しかしアキュラも獅子丸もその文字を認識出来なかった。
 アキュラの姉である少女の名の部分だけが、まるで塗りつぶされたような、靄がかかったように写り、文字として識別することは出来なかった。

 「……獅子丸、お前も読めないんだな。姉ちゃんの名前」

 困惑する獅子丸をよそに、アキュラは静かに立ち上がり、そして腰の刀をすらりと抜き、黒蝿の喉に切っ先を当てた。

 「……貴様、何をした」

 怒気を孕ませた声で詰問されても、黒蝿の顔は無表情のままだ。その様子にアキュラの怒りは増した。

 「姉の名を思い出そうとしても、その部分だけ靄がかかって思い出せない。文字として書かれたのも同じだ。
悪魔、お前だな。お前はあの娘に、俺の姉ちゃんに何をした!?」

 ぐいっと顔を近づけて来たアキュラに、黒蝿は薄く笑った。その笑みはどこかアキュラを馬鹿にしているような色があった。

 「大したことじゃない」

 そっと、黒蝿が後ろに下がる。後ろには柵のついた小窓。その窓には結界用の札が貼ってある。

 「あいつが、俺の真名を奪ったから、俺もそうしたまでのこと。ついでにあいつの声も奪ってやった」
 「貴様!」

 アキュラが刀を振り下ろすより先に、黒蝿が翼を広げ、大きく羽ばたかせる。すると牢内に凄まじい風が起こった。
その風の強さにアキュラと獅子丸は顔を覆う。風は小窓に張ってあった結界の札を破く。
 牢の結界に隙間が出来た。黒蝿はその隙間にありったけの風を送る。すると窓側の壁に亀裂が走り、風に耐えきれなくなった壁は崩壊した。
そして黒蝿は崩壊した壁から飛んで外へ逃げ出した。

 「待て!」

 アキュラと獅子丸が叫ぶ。黒蝿のスピードは速い。一瞬こちらを向いたかと思うと、強烈な「ザン」をアキュラ達に食らわした。獅子丸とアキュラは後ろにとばされる。

 「獅子丸! 奴を追え!」
 「おう!」

 主の命を受け、獅子丸は牢から飛び出していく。アキュラは腰の皮ベルトで固定してあった聖書型コンプを取り出し開くと、一体の仲魔を召喚した。
 筋肉隆々の黒い半牛半人の魔獣・八坂牛頭丸は、アキュラの呼び出しに鼻息荒く答えた。

 「あの悪魔をやるぞ! 牛頭丸!」
 「了解。ウッシシシ……」

 アキュラがマントを引き剥がし、刀を構えると同時に、牛頭丸は身の丈程もある棍棒を握りしめ、獅子丸の後を追った。

―――

 その頃、重女は湯殿から出て身を拭いていた。
 久しぶりの風呂は暖かく、身体の緊張をほぐした。蒸せるような石鹸の香りが、血の匂いに慣れた重女の鼻孔をくすぐる。
 透き通っていた湯が汚れで黒く染まった。それを見た侍女達が苦笑いを浮かべる。重女は自分の身体がどれくらい汚れていたか思い知らされて、つい顔が赤くなった。
 身体を拭こうとする侍女からひったくるように布を受け取り、そそくさと身体を拭いたあと、用意された白い簡素なワンピースに着替えた。今までスカートを制服以外殆ど穿いたことがなく、ズボンに慣れていた身には、なんだか足元がすーすーして落ち着かない。
 ボサボサだった髪を櫛で整え、湯殿を出ようとした時、大きな音が聞こえた。その音に、侍女達がびくっと身体を震わす。
 何かが崩れたような音のあとに、男達の叫び声が聞こえる。重女はその中で、慣れ親しんだ気配を感じた。

 (黒蝿!?)

 間違いない、この気配は黒蝿のものだ。今までは感知することが出来なかったのに、牢から出してもらったのだろうか? それとも、牢を破って脱出したのだろうか。
 悲鳴と、金属音が聞こえる。まさか、誰かと戦っているのだろうか?

 何事かと怯える侍女達を置いて、重女はワンピースの裾を翻しながら黒蝿のもとへと向かった。

―――

 雷王獅子丸の剣技は実に玄妙であった。

 空中を飛び回る黒蝿に肉迫し、剣を振り下ろす。黒い羽が飛び散る。黒蝿は舌打ちし、「アギラオ」を放つ。しかし獅子丸は炎の玉をいとも容易く避け、再び黒蝿に向かって剣を突き出す。
 しかし黒蝿も負けていなかった。機動力では彼の方が上。獅子丸の剣裁きをいなし、空中へ逃げ、「ザンダイン」と「アギラオ」を放った。
 ザンダインをもろに食らった獅子丸に隙が生じる。獅子丸の腹に強烈な蹴りを入れる。大柄な武神の身体が吹っ飛んだ。
 ふと、後ろに気配を感じた。振り向いた時には刀を持ったアキュラが黒蝿を斬りつけようとしていた。
 すんでのところでそれをかわす。すると今度は後方から巨大な棍棒が黒蝿に向かって振り下ろされる。
 八坂牛頭丸の棍棒は黒蝿の羽を掠め、そのまま大地を揺るがした。その間を縫って再びアキュラが肉迫する。獅子丸仕込みの剣技は次第に黒蝿を追い詰めていった。
 三体一の不利な状況に関わらず、黒蝿は笑みを浮かべていた。久しぶりの戦い。黒蝿の血が、身体が喜んでいる。こんなに激しいのはあの時以来だ。シド・デイビスというサマナーと、彼が従えてたあの“大天使”と戦った、あの時の激闘以来――

 「獅子丸! 右に回りこめ!」
 「おうよ」

 右から獅子丸が、左からはアキュラが黒蝿に迫る。空中へ逃げようものなら、崩れた建物の上に立っている牛頭丸が攻撃を仕掛けるだろう。
 ここは再び「ザンダイン」で三人とも吹き飛ばすべきか――そんな事を考えた黒蝿に一瞬の隙が生じた。

 その隙をアキュラ達は見逃さない。左右からアキュラと獅子丸の刀が黒蝿を斬らんと迫り、上空から牛頭丸が棍棒を振り下ろしながら落下してくる。
 術の発動が遅い。身を刻まれるのを覚悟して、黒蝿は全身の筋肉に力を入れた。
 その時、

 「!」
 「なんだ!?」
 「モォ!」

 黒蝿を中心に、黒い影が広がった。その影は黒蝿を守るように卵の殻を思わせる形状に変化する。その影に、アキュラと獅子丸の剣は阻まれ、上空からの牛頭丸の棍棒の攻撃もふさがれる。
 影が晴れていく。身構えた三人の目に写ったのは、黒蝿の横に立ち、手を前に突き出している小柄な少女であった。
 少女――重女は白いワンピースを土ぼこりで汚し、下は裸足のままだった。息が荒い。此処まで走って来たのだろう。
 驚きに目を丸くしているアキュラの瞳と、重女の瞳が交差した。二つ青の眼。異人の血を受け継いだ、皆とは違う、穏やかな海のような、澄み渡った空のような、明るい青――

 「姉……ちゃん?」

 アキュラは思わず手にしていた剣を落とした。そして重女へと手を伸ばす。
 重女は動けなかった。アキュラの青い瞳から発せられる真剣な眼差しは、重女の心と身体を縛り付けた。
 やはりそうだ、この瞳、透けるような金髪。姿形は成長していても、瞳に宿している光はあの頃と同じ――

 アキラ。

 愛おしい弟の名を発しようとしても、それは声にならなかった。もう彼女は声を出すことが出来ないのだから。
 しかし、アキュラはまるでその声が聞こえたかのように笑顔になった。くしゃくしゃの笑顔。涙を浮かべてアキュラは重女にしがみつく。

 「やっぱり……やっぱり姉ちゃんなんだね。会いたかった、ずっと会いたかったんだよ」

 黒いデモニカスーツに身を包んだ少年が、嗚咽まじりに叫ぶ。涙は重女のワンピースを濡らす。
 重女はその肩に手を這わせた。年相応の少年の肩は、今までどれだけのものを背負ってきたのか。どれだけの戦いを体験してきたのか。

 『ア、キラ』

 びくり、とアキュラの身体が震える。その言葉を発した重女自身も驚きを露わにした。何故なら、アキュラの頭蓋骨を振動させて直接届いたその声は、低い男の声だったからだ。

 いつの間にか重女の肩に男の手が乗っていた。その手の持ち主は、重女唯一の仲魔。重女の声と名を奪った張本人――

 『黒蝿? もしかして今の、あなたが……?』
 「…………」

 黒蝿は答えなかった。ただその暗い瞳が言っていた。
 俺の声を使え、と。

 「姉ちゃん……?」

 アキュラが重女の顔を覗く。心配そうなその顔は、間違いなく、重女の血の繋がった、たった一人の弟のものだった。

 『アキラ……ごめん、ごめんね。帰ってくるのが遅くなって、本当にごめんなさい……』

 アキュラ、いや、アキラの頭に響く声は、相変わらず黒蝿の声であった。
 しかしアキラは重女の身体を抱きしめた。声は違っても、その言葉は、目の前の最愛の姉のそれだと分かったからだ。

 「会いたかった……会いたかったよ。やっと、やっと会えたね、姉ちゃん」

 アキラは泣いていた。まるで迷子になった子供が探し人を見つけたように。
 重女も泣いていた。ずっと探していた弟を抱きしめながら。離れていた時間を埋めるように。強く。

 獅子丸と牛頭丸は顔を見合わせて首を傾げていた。その中で黒蝿だけが、眉を寄せてじっとその姉弟を見ていた。憐れむかのような、ほっとしたかのような表情で。

 別世界の東のミカド国、そこで若き国王とその姉が、長き時を経て再会を果たした。
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 言葉というのは不便でもあり、便利でもある。
 声を出せないということは、失言もないし、拷問で情報を吐かされる心配もない。しかし逆を言えば、嘘で取り繕ったり、誤魔化したりすることが出来ないと言うことだ。

 「九楼さん?」

 篠宮茜が心配そうに重女の顔を覗き込む。
 夜の保健室。月明かりが窓から差し込み、ショートカットの少女と、薄汚れた軍服の眼鏡の少女を照らしだす。

 茜と目が会う。戸惑っているのだろう。無理もない、一般人が悪魔と出会って平気なはずがない。

 「…………」

 そっと、手元の聖書型コンプを握りしめる。
 あの時、ポルターガイストが茜を襲おうとしたとき、銃を打つのを躊躇い、思わずコンプを作動させ、ポルターガイストを無理やり収容してしまった。銃を打てば茜に当たるかもしれなかったからだ。しかしそのせいで余計な仲魔が増えてしまった、と重女は内心ため息をつく。

 かた、かたかたかた………

 「きゃ!」

 廊下から物音がして、茜は蹲る。重女は険しい顔をして身構える。茜の腕を引っ張って保健室に避難したものの、既に廊下には悪魔が跋扈している。
 図書室に張った影の結界は、結界の主である重女が吹き飛ばされたことにより解けてしまった。そのせいで今や校舎中に悪魔が溢れている。校舎全体に結界を張れなかったのは、重女の力が不足していたからだ。

 (さっき吸いとったマグネタイトの量なら……)

 重女が保健室の床に手を付ける。顔が苦悶に歪む。影が広がり、保健室だけではなく、校舎全体を包む。

 「く、九楼さん……?」
 突然暗くなった保健室に茜は怯え、様子がおかしい重女に思わず話しかける。

 「……!」
 重女の身体がぶるりと震えた。と同時に闇が晴れ、元の保健室が姿を表す。これで校舎全体に結界が張れた。
ぐら、と重女の身体が傾く。それを茜が思わず受け止める。

 「だ、大丈夫? 九楼さん……」

 月明かりに浮かぶ重女の顔は、明らかに苦しそうだ。呼吸も荒く、身体が冷たい。
 目を開いた重女は、茜の身体から離れた。まるで警戒しているように。

 ちら、と茜は重女の右手を見た。暗くてよくわからないが、あれはもしかして拳銃ではないか?

 「九楼さん、一体何があったの?」

 問いかけても重女は答えない。当然だ。彼女は声を発する事ができないのだから。
 分かっているはずなのに、茜がそう聞いてしまったのは、先程の行為といい、重女の様子が明らかにおかしい、と感じたからだ。
 何故、彼女は夜の学校にいるのだろう。何故そんな格好をしているのだろう、そして、何故銃を持ってそんな切羽詰まった顔をしているのだろう?

 「…………」

 重女は茜の顔をじっと見ていた。篠宮茜は戸惑いと怯えを隠せずにいる。

 こんな時、声が出せないのは不便だ。声を出せれば、篠宮茜にこの状況を誤魔化して説明したり、あるいは慰めの言葉を吐いて彼女を安心させる事ができたかもしれないのに。
 だが、私はもう声を出せない。私の声と本当の名は黒蝿に奪われてしまったのだから。
 仲魔や悪魔に送るように、人間相手に念波は送れない。いや、一つだけ送る方法はあるが、それは黒蝿が傍にいないとできない方法だ。
 重女はポケットを探る。デビルスリープは切らしていたが、デビルバインドの石があった。重女はそれを茜に投げつけた。

 「え?」

 石が当たると、茜の身体が突然動かなくなる。まるで見えない縄で縛られたように。

 「え、な、なにこれ!?」
 指一本動かせない状況に、茜は軽い恐慌状態に陥る。
 「く、九楼さん!?  一体何を!?」

 重女は目を伏せ、手元の聖書を開くと、そこに手を翳した。すると、突然二つの光の玉が出てきて、やがてそれは二人の小さな男の子に変わった。

 『紅、白』
 「あい」

 紅と白と呼ばれた二匹の妖精は、狸に似た獣耳と尻尾を震わせ答えた。

 『この子をこの部屋から絶対に出さないで』
 「うん、わかった」

 紅梅白梅童子に念波を送る重女を、茜は怯えながら見ていた。

 ――な、なんなの!? あの本からいきなり人が出てきたし、身体は動かないし、一体何が起きているの?

 茜の怯えた瞳を向けられながら、重女は弾の切れたジグ・ザウエルを床に捨てた。そして、先程ポルターガイストから貰った八百万針玉を手の平に乗せ、目を瞑る。
 すると手の平に影が集まり、やがてそれは銃身の長い狙撃銃の形になった。図書室で借りてきた「図解・世界の兵器とその歴史」に描いてあった狙撃銃だ。
 影の造型魔法の応用だ。頭にイメージした物体を造り出せる魔法。今まで刀や他の無機物は沢山作ってきたが、銃を造り出したのは久しぶりだ。一発打つだけで形は崩れ、しかも精度がイマイチという欠点はあるが、今はこれで充分だ。

 「…………」

 紅梅白梅童子に囲まれ、すがるような瞳を向けている茜に背を向け、重女は保健室から飛び出した。

 「九楼さん!?」

 後ろから茜の声が聞こえたが、重女は振り返らなかった。

―――

 『猿、牛頭丸』

 コンプを作動させ、二体の仲魔を呼び出した。
 聖書型コンプが光り、中から赤ら顔の猿の顔を持ち、着崩した着物を着た魔獣、石猿田衛門と、赤いしめ縄と褌姿の半牛半人の魔獣、八坂牛頭丸が現れた。

 「お呼びで? 姐さん」
 『猿と牛頭丸は校舎内の悪魔を掃討して』

 廊下の先を指差して重女が命ずる。
 廊下には悪魔がひしめいていた。悪霊・ポルターガイスト、クイックシルバーに、夜魔・ザントマンまでいる。

 「姐さんは?」
 『私は黒蝿の援護に向かう』
 先程造った影の狙撃銃を構え、重女は言う。

 「獅子丸を召喚しないノ?」
 牛頭丸の問いに重女は首を振る。
 『もうマグネタイトが残り少ない。獅子丸を召喚できるだけは残っていないわ』

 校舎内に結界を張って、更に三体も仲魔を召喚してしまったのだ、雷王獅子丸程の強力な仲魔を呼び出せる程のマグネタイトが残っていない。
 ぎり、と重女は奥歯を噛み締める。

 やっぱり私は「アキラ」程の力はない――!

 悪霊の群れが重女達を襲う。

 「おりゃあ!」
 「モォォ!!」
 
 田衛門がモータルジハードを振るい、牛頭丸が体当たりをかます。二体の攻撃を受けた悪霊の群れは、あっという間に消える。
 ここはこいつらに任せれば安心だ。私は早く黒蝿のところへ向かわないと。

 重女は踵を返し、親玉のいる図書室へ走った。

―――

 ズズン……と大きな振動が伝わってきて、茜の恐怖心はますます大きくなった。
 保健室の薬品棚が揺れ、机の上のペン立てが床に落ち、かしゃん、と鈍い音をたてた。

 「ひ!」

 その音にびくついた茜を見て、紅梅と白梅はくすくす笑う。

 「怖いの?」

 紅梅が茜の顔を覗く。
 平常時なら可愛らしい幼子の顔も、今の茜にとっては恐怖の対象でしかなかった。
 逃げ出したいのに身体が動かない。先程重女によって謎の石を投げつけられてから指一本動かせない。身体の自由を奪われて、更に傍には獣耳を生やした二人の幼子。この異常な状況に、茜は叫び出したいのを必死に我慢した。

 「大丈夫だよ。主様がやっつけてくれるから」

 白梅が紅梅の横に並んで言う。

 「だって主様デビルサマナーだしねえ」
 「怖いよねえ」
 「でも優しいよ」
 「優しいよね」

 けらけら、けらけらと二匹は笑う。笑う二匹の後ろで尻尾がゆらゆら揺れる。

 「デビル……サマナー?」

 今聞いた言葉を茜は反芻する。紅梅白梅が更に面白そうに笑う。

 「そ、デビルサマナー」
 「悪魔召喚師」
 「悪魔を使って、悪魔をやっつけるの」

 何が楽しいのか、きゃっきゃと赤と白の幼子がはしゃぐ。

 「そ、れは……つまり……九楼さんが、正義の味方、て事?」

 必死に絞り出すように言った茜の声に、二匹はピタッと止まる。

 「ナイショだよ」
 「秘密だよ」

 紅梅が、茜の右の耳元で囁く。吐息がかかってくすぐったい。

 「主様はね、ダークサマナーなの」

 「だ、ダークサマナー?」
 おうむ返しに聞いてきた茜の左耳に、今度は白梅が囁く。

 「悪魔を使って悪いことをするデビルサマナーのことだよ」
 「主様は、悪魔を使って壊そうとしているの」

 茜の身体の両側から、紅梅と白梅が語る。幼い二匹の妖精は、一般人である茜に自らの主の秘密を話すことになんの罪悪も感じてないようだ。

 「こ、壊す? 何を?」

 目を大きくさせながら茜が問う。どくん、どくん。緊張のせいか、恐怖のせいか、茜の心臓が早鐘を打っていた。

 「ヤタガラス」
 「超国家機関ヤタガラス」
 「デビルサマナーを管理している組織」
 「主様の敵」

 雲が晴れ、窓から射す月明かりが一層強くなる。紅梅と白梅が手を繋ぎ、真剣な表情で茜に語る。

 「主様は、ヤタガラスに仇なす者」
 「秩序を乱す者」
 「闇に足を踏み入れたもの」
 「自らの欲望で悪魔を使役するもの」
 「だからヤタガラスからこう呼ばれているよ」

 「黒暗召喚師、て――」


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