往来―all right―別館【俺屍サマナー】

俺屍+デビルサマナー=俺屍サマナーというダブルパロ(クロスオーバー)小説を扱っております。俺屍に登場する神々や鬼を現代で使役していたら・・・という発想で生まれたいわゆる三次創作小説です。俺の屍を越えてゆけと真・女神転生シリーズ(主にⅣ)の設定を独自に融合させて捏造しております。女神転生や俺屍の人物名称や設定をかなり変更しております。こういったのが苦手な方は閲覧をご遠慮下さい。 やたノ黒蝿とサマナーになってしまった少女の物語です。

タグ:真・女神転生

今まで書いてきた俺屍サマナーの目次です。随時更新予定です。

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序章
前節
spiral-00:終わりの始まり

第一章
spiral-01:九楼重女
spiral-02:黒い男
spiral-03:図書室の戦い
spiral-03-1:悪魔召喚師・デビルサマナー
spiral-03-2:黒暗召喚師・ダークサマナー

第二章
spiral-04:神を信じない少女
spiral-04-1:悪魔に取りつかれた少女
spiral-04-2:悪魔の名を奪った少女
spiral-05:名前を奪われた悪魔

第三章
spiral-06:声と名を奪われた少女
spiral-06-1:やたノ黒蝿
spiral-06-2:歪んだ契約
spiral-06-3:対決・クラマテング

第四章
spiral-07:GATE-OPEN
spiral-07-1:アキュラ王
spiral-07-2:再会

第五章
spiral-08:神を信じた少年
spiral-08-1:天使に見出された少年
spiral-08-2:悪魔討伐隊
spiral-08-3:王になった少年

第六章
spiral-09:決別
spiral-09-1:友達
spiral-09-2:男の意地
spiral-09-3:ケガレビト
spiral-09-4:贖罪

第七章
spiral-10:守ってくれ
spiral-10-1:絆の証
spiral-10-2:決着
spiral-10-3:約束だから
spiral-10-4:陽はまた昇る

spiral-10-4.5:【番外編】重女のマグネタイトについての彼の考察

第八章
spiral-11:猿と呼ばれた男
spiral-12:大正「梅」奇談
spiral-13:魔女の夜宴の夢
spiral-14:残骸の異邦人
spiral-14-1:新しい命
spiral-15:誕生・ヤタガラス


第九章
spiral-16:誕生日
spiral-17:家族の味
spiral-18:クラブ・ミルトン
spiral-18-1:クイーンとジャック
spiral-18-2:剣を持った女王
spiral-18-3:共同戦線

第十章
spiral-19:作戦会議
spiral-19-1:パーティーへの潜入
spiral-19-2:フラッシュバック
spiral-19-3:偽物の星空の下で
spiral-19-4:禁断の果実
spiral-19-5:覚醒
spiral-19-6:ダークサマナー
spiral-19-7:血涙の決意

第十一章
spiral-20:再臨
spiral-20-1:「おれはアキラ」
spiral-20-2:再起

 国家機関ヤタガラスのとある支部のロビーにて、シド・デイビスは資料をめくっていた。
 新人のサマナー、職員用に作られた、自分が所属している機関の広報用の資料だ。
 そこには、主に国家機関ヤタガラスの仕事内容、ヤタガラスの歴史、そして組織の名にもなっている八咫烏についてが書かれている。

 「ミスター・デイビス、何を読んでらっしゃるのですか?」

 シドの部下の男が問いかけた。
 大柄な黒人種である老齢のシドとは違い、この男は小柄な黄色人種の若年の日本人である。

 「いや、たまたまテーブルに広報用の資料があったから目を通していただけだよ。神の遣いである霊鳥・八咫烏。昔は本当にいたんだな」
 「はあ……少なくともこの組織が設立された頃は、時の帝によって目撃されたと文献に残っております」
 「人ではない“何か”を崇める……それは洋の東西を問わず人々の健康的な精神活動である……と誰かが言ってたような気がするがな。この国は特に顕著だね」
 
 部下の男は首を傾げた。シドの言いたいことが何か分からないからだ。
シド・デイビスは何十年も前からヤタガラスで活躍しているベテラン中のベテランのサマナーで、男はつい数ヶ月前にシドの元に配属された新米のサマナーだ。
 数ヶ月共に行動していても、このシドという男はよくわからない。人当りの良い笑顔を浮かべてはいるが、時折ぞっとするような気配を漂わせているときもある。噂ではヤタガラスの暗部にまで関わっていると聞くが、この男の掴みどころのない雰囲気はそれが原因なのかもしれない。

 「で、私に何か用かい?」

 広報用の資料を閉じながら、シドは男に問うた。男は居住まいを正しながら答える。

 「は、例の“監視対象”ですが、先ほどやっと行方がわかりまして……どうやらこの時代にアマラ経絡を繋げた痕跡を見つけました」

 シドは眼鏡を外すと、めがね拭きで面を拭き、ゆっくりとかけ直す。

 「居場所は今、私の仲魔が調べておりますが、見つかるのは時間の問題でしょう。すぐに捕獲して……」
 「いや、その必要はない」

 す、とシドはロビーのソファーから腰を上げる。齢七十過ぎとは思えない長身とがっしりとした体躯は、典型的な日本人体型の部下の男とは比べものにならないほどの威圧感を放っていた。

 「まだ、泳がせておけ」
 「……何故、でしょう?」
 「君が知る必要はない。捕獲の際は私が直接出向く」

 シドは、笑みを浮かべた。微笑んでいるはずなのに、男にはその笑みが酷く冷たいものに見え、背筋が寒くなった。
 ロビーをあとにするシドに頭をさげ見送りながら、男はシドの英語の歌を聞いた。英語に明るくない男にはその歌はあまり聞き取れなかったが、それは、マザー・グースの「There was a little girl」であった。

―――

 ――ここは、どこ?

 重女の頭に浮かんだ単語は、まずそれであった。
 綺麗に舗装された道路には、車が沢山走っている。どれも重女の見たことのない車種で、数も多い。
 ビルもとてもスマートで立派なのが幾つも並んでいる。そこから出てくる人の多さ。今日は暖かいからか、皆薄着だ。下着みたいな服を着た若い女、アタッシュケースを持ったサラリーマンらしき男。麦わら帽子を被った子供と手を繋いで歩く母親。風景だけみれば重女の時代の繁華街を更に立派にしたもののようだが、それよりずっと人が多く色彩豊かで、どこか無機質な感じだ。
 いつもの癖で状況確認をしてみたが、今回はいままでのどれよりも重女のいた時代に近い。だが、ここは私の住んでいた時代ではない。
 日本であることは人々の話している言葉や看板の日本語でわかるが、建物や車や人々の服装や雰囲気が違う。こんなに茶髪の人は多くなかったし、空も輝度が下がっている。空気が妙に清潔すぎるし、匂いも全然違う。尖った音が大音量であちらこちらから聞こえてくる。

 ――恐らく、ここは私のいた時代より未来。黒蝿の言ってた通りだ。

 しかしどれくらい先の時代なんだろう? 車は空を走ってないし、ファッション以外には人々が昔よりすごく違うということはない。アメリカとソ連の第三次世界大戦は起こらなかったのだろうか? それとももう過去に起こってしまったのだろうか? それにしては街の様子は平和だ。宇宙旅行は一般人でも行けるようになったのだろうか。
 疑問は沢山あるが、まずは買い物を済まさないと。
 黒蝿が砂金を貴金属店に持っていき、この時代の貨幣に換金し、まずは日用品と食糧を買ってこいと金を渡した。
 あの換金の手慣れた様子、恐らくあいつはこの時代に来たことがあるな。時空を渡って悪さをしていたところをシドに捕まったと言っていたし、きっとそうだろう。
 ポケットの中の数枚の札を出し金額を確認する。この時代には五百円札がなく、五百円は硬貨に変わったし、千円札も五千円札も一万円札も図柄や大きさが変わっている。ここは日本のはずなのに、まるで知らない国に来たようだ。
 周りの異質な空気に気圧され、くらくらする頭を押さえ、重女は目の前の店らしき建物に足を踏み入れた。

 ―――

 「いらっしゃーせー!」

 自動ドアを開けて中に入ると、いきなり店員らしき男が声を張り上げたので少し驚いた。
 レジカウンターと思わしき壁の向こうで立っている男は、重女を一瞬ちらりと見ただけで、あとは話しかけてこなかった。嫌な顔もされなければ、歓迎されているようでもない。業務を果たすので忙しいらしく、重女に絡んでくることはなかった。
 クーラーが効いているのか、外より涼しい。店には音楽がかかっている。勿論重女の知らない歌だ。声の高い女性グループのアップテンポな曲。歌詞から察するに恋愛の歌らしい。
 店内には重女の他にも何人か客がいた。金に近い茶髪の人はいても、青い目の人はいなかった。
 他の人が通りすがるとき、やはり髪と目の色が珍しいのか、こちらに視線を寄越してくることはあったが、それだけであった。みんな自分の買い物のことで精いっぱいらしい。店員と同じだ。自分の容姿について色々聞いてくることも差別的な視線を受けることもないのは有難いが、みんな自分のことしか見えてないように重女の目には映った。
 しかし、ここは小さな店なのに、随分と品揃えが豊富だ。食料品はもちろん、本や日用品まである。広さは個人商店くらいなのに、重女の知っている近所のお店とは桁外れに品物が多い。その品物も、見たことのないものが多かった。まるで小さなデパートみたいだ。

 特に重女の目をひいたのは、菓子コーナーである。

 駄菓子のようなものから、ケーキまで揃ってる! ケーキなんて大きいお店に行かないと売ってないと思ってたのに! しかも安い! 一個大体三百円くらい。手持ちの所持金からすればかなり買える。重女は嬉々としてかごに幾つも入れた。
 ケーキの次は、あるモノを探す。この時代にもあるだろうか。

 (あった!)

 菓子コーナーの棚にそれはあった。細長い黒い長方形のスティック状のチョコ、スニッカーズだ。

 『良かった、あって……』

 スニッカーズを一本とってしげしげと眺めた。パッケージ自体はそれ程変わってないようにみえる。
 最後に自分で買って食べたのはいつだったか。多分シドと鞍馬山に行くより前だったような気がする。あの頃は母の死や何やらで忙しくてお菓子を食べる余裕なんてなかった。なら、それより前、ちょうど私の言葉が現実になってしまって、殆ど話さなくなった頃だろうか。

 「………」

 ふいに、悲しい思い出が蘇ってきた。私の言葉で起きた沢山の悪いこと、シドに「悪魔がとりついている」と言われ、母に暴言を吐いてしまったこと。そして母の死。アキラとの別れ、鞍馬山の地下で見た悲惨な光景――

 「……!!」

 胸の奥が見えないナイフで抉り取られたかのように痛くなる。ぎゅう、と胸元の十字架を握った。辛い時や苦しい時の癖。目もぎゅっと固く瞑り、心をしめる痛みに耐えた。

 ――私の声に悪魔なんて宿ってない、て黒蝿は言った。じゃあシドが嘘吐いたの? なんで?
 ………わからない。考えても始まらない。やはりシドに会わなくちゃ。会ってしっかり話をしよう。そのために今まで旅をしてきたのだから。
 でも、今は昭和何年なんだろう? 街並みやこの店を見ればわかるが、私が生きていたころよりかなり先の未来だろう。シドは、生きているのだろうか。

 〔……お次は、ニュースと気象情報です。今日トップのニュースは、2020年開催予定の東京オリンピックについて……〕
 「!?」

 店内のラジオが恋愛ソングからニュースに変わり、その第一声を聞いたとき、重女は持っていたスニッカーズを驚きのあまり床に落としてしまった。

 2020年!? 2020年て言った今!? しかも東京オリンピック開催予定って!?
 確か私が小さい時、東京オリンピックが開催されたと母から聞いた。幼かったので記憶に残ってないが、日本中が盛り上がり、母もラジオで大会の模様を聞いていたらしい。あの時は、えーとえーと……1964年! 昭和39年!
 じゃあ今は何年? さっきのニュースでは2020年開催予定と言っていた。じゃあまだこの時代の東京オリンピックは開催されてなく、だとすると今は2020年より前ということだ。まさかもう二十一世紀を迎えたの?

 がんがんする頭を押さえながら、重女は震える手で雑誌コーナーから新聞をとった。そして上に書いてある日時を確認した。
 そこには、平成2X年(20XX年)6月6日(土)と記してあった。

―――

 大量の菓子が入ったビニール袋を持ちながら、青ざめた顔で重女はコンクリートの道を歩いていた。
 道行く人々は、さっきのコンビニの店員のように少しだけ重女に視線を寄越したが、無遠慮にじろじろ眺めてくる者はいなく、皆働きアリみたく規則正しく目的地に向かって歩いている。
 一方重女は、まるで幽鬼のような表情で下をむいてとぼとぼと歩いていた。黒蝿のいる隠れ家に帰ることなど頭から抜けていた。

 (今は20XX年……元号も昭和ではなく「平成」というのに変わっていた……今は二十一世紀……じゃあ私は? 私はもう50過ぎのおばあちゃん!?)

 重女は慌てて顔に手を当てた。長い間の時間移動の旅で多少荒れてはいるが、手のひらに感じるのは弾力のある肌の質感であった。
 近くのショーウインドウのガラスで自分の顔を確認した。そこに映っていたのは、白髪の老婆、ではなく、金髪碧眼の十代の少女――まごうことなき自分の姿だった。
 とりあえず容姿は変わっていなかった。が、重女は酷く落ち込み、無性に泣きたい気持ちになった。

 ――もう14じゃない、本当は50過ぎのお婆さんなんだ……見た目は変わってないけど、物凄く年をとってしまった……どうしよう……いきなり老け込んだら……

 「はい! ではお次は「今日は何の日?」コーナーです! 今日6月6日はロールケーキの日! ロールケーキの「ロ」と、ロールケーキが断面が「6」の字に見えることからつけられたんですよお」

 やけに高いビルの壁面に設置された街頭テレビらしきものから呑気な女性の声が聞こえた。「平成」の時代のテレビはとても薄く、怖くなるほど大きく、色もカラーでびっくりするくらい鮮やかだ。
 6月6日……ロールケーキの日……

 「それと、ホラー映画で有名ですが、新約聖書のヨハネの黙示録に登場する「獣の数字」が666……それにちなんで「悪魔の日」なんて言われたりしますね」
 「やだもう明石さん、そんな怖い事言わないでくださいよ! 今日お誕生日の方、こわがっちゃうじゃないですかあ」

 あ、と重女は頭の中で声をあげた。

 『そうだ、六月六日は、私の誕生日だ……』

 雑踏の中で、重女は立ち止まり梅雨直前の空を見上げた。六月六日は自分の生まれた日……。
 過去から来た声と名を奪われた少女は、今日、十五回目の誕生日を迎えた。

 ―――

 「俺は日用品と食料を買ってこいと言ったんだ。誰がこんなに菓子を買ってこいと言った?」

 繁華街から離れた廃神社。その社に足を踏み入れると、そこはアパートの一部屋であった。
 重女が作った影の結界の様子である。その結界は主の重女の深層意識に刻まれた、自分が生まれ育った六畳一間のアパートの部屋の幻影を造りだしていた。
 そこで重女は黒蝿に怒られていた。言われたとおりのものを買ってこないでお菓子ばっかり買ってきたのだから当然だ。重女は親に叱られる子供のように首をちぢこませていた。

 『ごめんなさい……』

 はあ、と黒蝿が盛大に溜息をつく。黒蝿は自分の生きていた時代から、この時代までに何があったか把握しているのだろうか。それと……

 『ねえ、私、何歳に見える?』
 「はあ?」

 いきなりの質問に黒蝿は素っ頓狂な声をあげた。いきなり何を言い出すかと思ったら……。しかし目の前の少女は真剣な顔でこちらを見ている。

 「……十四、五のガキ」

 見たままを言っただけだが、重女の顔は目に見えて明るくなり、嬉しそうになる。なんでこいつは喜んでるんだ。まともに買い物もできなかったくせに。

 「お前反省してるのか?」
 『う、うん! 勿論!』

 そう念波で送ってきても、重女は嬉しそうな顔を崩さない。それどころかがさごそとビニール袋をあさりロールケーキを取り出した。

 『今日六月六日はロールケーキの日の日なんだって。一緒に食べよ』
 「いらない」

 即答した黒蝿に重女は少しムッとしたが、すぐにケーキのプラスチックのカバーを外し、一緒に袋に入っていたフォークで勝手に食べ始めた。凄く久しぶりに食べたケーキは、濃厚な甘さで舌を痺れさせた。

 「……そういえば、六月六日はお前の誕生日だったか」

 重女は驚きのあまりフォークを動かす手を止めてしまった。

 『なんで知ってるの!?』
 「東のミカド国で、お前の中からアキラのマグネタイトを奪ったときに知った」

 弟のアキラと悪魔合体プログラムにて合体した弊害で、重女は記憶の混濁が酷かった時期があった。その時黒蝿は重女の体内にあったアキラのマグネタイトを吸い取ることで、やっと重女を正気に戻させた。
 マグネタイトには必ず持ち主の感情や記憶が付随する――それなら、アキラの記憶の中から、姉である重女の誕生日を知ったとしてもおかしくはない。

 『……祝ってくれるの?』
 「馬鹿言え。なんで俺がお前の誕生日を祝わなきゃいけないんだ。買い物すらろくにできない小娘に」
 『………だから、ごめんってば』

 なんとなく腹が立った黒蝿は、重女のフォークを奪い、ケーキの欠片を食べた。あ、という抗議の念波を送る間もなく黒蝿はケーキの欠片を食べてしまった。
 人間とは味覚が違う黒蝿は、そのケーキが美味いとはとても思えなかった。なんで人間はこんなもんを食いたがるのか理解に苦しむ。

 『な、なにすんのよ!』

 顔を真っ赤にしながら抗議する重女に黒蝿は不思議そうな顔をした。なんでこいつは赤くなってんだ?

 「そんなに食い意地が張ってるのか」
 『そうじゃなくて!』

 ひったくるように黒蝿からフォークを奪うと、重女はじーと眉間に皺を寄せてフォークを凝視している。

 「? なんで食わないんだ?」
 『いや……その……』

 再び真っ赤になって重女は俯いたまま黙ってしまう。その心理が黒蝿には全く理解できなかった。
 影の結界内には、現代に来てしまった少女とその仲魔が、ケーキと菓子の甘い匂いが漂った空間で、息苦しい誕生会を開いていた。

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 その作家は、苦しんでいた。

 十九世紀初頭、現在のドイツの前身であるプロイセンの中央に位置するヴァイマル公国。初老の男が机に向かって頭を抱えていた。床には丸めた紙がいくつも転がっている。
 男は豊かな才能の持ち主で、幾つもの小説、戯曲、詩を描いて、その全てがヒットし、一躍人気作家となった。
 数年前には妻を亡くし、自身も腎臓を患い、度々隣国に湯治に行ってはいたが、まだまだ文学への情熱は失っていない。
 しかし、ここ数日、 男は頭を抱えていた。今書いている作品の筆が進まない。俗に言うスランプである。
 ぼんやりとした展開は頭の中で浮かんでいる。しかしそれを文章に出来ない。
 今度の作品は戯曲である。悪魔と天使と人間の男、そして可憐な少女を出すことは決めていたが、それらをどう動かしていけばいいのか、続きをどう書けばいいのかがさっぱり思いつかなく、男は頭を掻く。

 可憐な少女――ふと、男は、自身の初恋を思い出した。
 子供の頃はフランクフルトにすんでおり、近所の料理屋に勤めていた娘に恋をした。男が十四歳の時である。
 結局、その恋は実らなかったが、その娘の美しさは今でも思い出せる。金髪の美しい青い瞳を持った優しく、そしてとても敬虔な娘であった。聖書を殆ど暗記し、毎日の祈りを欠かさない。もし女神がいるなら、このような女性であったであろうとさえ十四歳の男は感じていた。
 何故、子供の時の淡い記憶を思い出してしまったのか。もうその娘はいないというのに。

 「……少し旅行にでも行こうか」

 もうすぐハルツ山地のブロッケン山でヴァルプルギスの夜がある。別名魔女の宴と呼ばれるその祭りに男は前から興味があった。四月三十日の夜から五月一日にかけて催される祭りは魔女や悪魔が集まりサバトを開くらしい。特にそういった存在を崇拝しているわけではないが、春の訪れを祝う人々を見るのは純粋に面白い。それを見れば戯曲のアイデアも浮かぶかもしれない。

 男は椅子から立ち上がると、小間使いを呼んで旅の支度を命じた。今から馬車で行けばだいたい一日で着くだろう。出来れば心優しき魔女が自分にアイデアを授けてくれればいいのだがな、と男は妄想した。

―――

 重女は、困っていた。

 周りには日本の家屋とは違う、レンガ造りの洋風の家々が並び、往来を行きかう人々はどう見ても日本人ではない。
 髪の色も瞳の色も様々な人々が、これまた洋風のドレスに身を包み、英語とは違う聞いたこともない言語を喋っている。
 前回、大正時代からアマラ経絡を発生させ、今度こそシドの元へ行けると思っていたのだが、また違う時代に来てしまったらしい。いや、時代どころか国すら違う。今までの時間遡行は時代こそ違えど同じ日本に着いていた。
 それが今回はどうだ。此処はどう見ても日本ではない。人々も建物も言葉も明らかに日本とは異なる。
 動揺を抑えて重女は辺りを観察する。白人が多く、しかし話されている言語は英語ではない。建物や人々の着ている洋服から見て、此処はヨーロッパだろう。ヨーロッパのどこの国かは流石に分からないが、服装からみて前回よりもっと古い時代のようだ。
 子供達が花の冠を頭につけてキャッキャッとはしゃいでいる。そこかしこで屋台のようなものも出店しており、篝火を灯すための木々がくべられている。気のせいか、皆どこか浮き足立っているように見えた。

 『……お祭り、なのかな?』
 重女は足元の鴉へと姿を変えた黒蝿に念波を送り聞いてみる。黒蝿はじっと人々の話す言葉に耳を傾け、近くの山に目を凝らす。

 「どうやら今日の深夜から、"魔女の宴"が催されるようだ」
 『魔女の宴?』
 「人間達の間では春の訪れを祝う祭りだがな、だが本当はそこのブロッケン山に魔女や悪魔が集まり宴を開く。強力な悪魔が沢山集まるから、マグネタイトも膨大に奪えるぞ」

 日本語以外の言語まで理解できる黒蝿に舌を巻いたが、魔女が実在しているということに重女は驚いた。

 『魔女って本当にいたんだね』
 「そう呼ばれる存在には何人か会ったことがある。ある意味悪魔召喚師と似たようなものだ。異形の者を従え、人の理を超えた術を使う。そういう意味ではお前も"魔女"なのかもな」

 からかうように黒蝿は言ったが、重女は真剣な顔をして黙り込んだ。
 魔女。確かにそうかもしれない。箒で空は飛べないしマグネタイトも生成できないし、術は影の造形魔法しか使えないけど、黒蝿をはじめ、何匹もの人ならざぬものをコンプで従えている私は魔女なのかもしれない。

 『……なら、魔女は魔女らしく宴に参加しないとね』

 少し楽しそうにそう言うと、重女は身を隠していた路地裏から往来へ足を踏み出した。
 ここには髪の色や瞳の色が違うということで差別してくる者はいないはず。なにより祭りの雰囲気に重女は惹かれていた。祭りというものに参加した経験が少ない重女は、例え魔女の宴であろうとも、思う存分祭りを謳歌してみたかった。
 やれやれ、というように黒蝿は重女の後に続いた。前回のように勝手な行動を起こさないように監視しておかないと。
 ブロッケン山で魔女の宴――ヴァルプルギス・ナハトが開催されるまで、あと数時間。その間くらいは自由に行動させておくか。
 まずはあの服から変えさせないと。黒蝿はそっと影を操った。すると影は重女を包んだかと思うと、形を変え、身に纏う衣装がドイツの民族衣装のドレスに変わった。

 「……!」
 「その恰好じゃ目立つだろう。目立ってまたおかしな奴に目をつけられたら困る」

 影の造形魔法は服も作れるのか。感嘆し重女は軽く身体を捻った。すると長いスカートがふわりと揺れる。スカートを穿くなんて久しぶりだ。フリルのついたブラウスも可愛いし胸元を縛るリボンがアクセントになっているのも気に入った。ただそのドレスは黒一色である。

 『……他の子みたいにもっとカラフルなのがいい』
 「影で作ったんだ、どうやっても黒にしかならないぞ。それに"魔女"らしくていいじゃないか」

 くく、と笑いながら揶揄してきた黒蝿に対し、重女は頬を膨らませた。屋台から美味しそうな匂いが漂い、ランタンに火が灯される。
 春の訪れを祝う祭りが始まろうとしていた。

―――

 近くの町に宿をとった男は、早速祭りへと繰り出していた。
 ブーデ(屋台)からいい匂いが漂い、人々は音楽に合わせて楽しそうに踊る。厳しい冬を越えた皆の顔には温かい春の訪れへの歓喜の色があった。
 それらの人々の陽気に当てられて、男の塞いでいた心に風穴が空いた。やはり祭りはいい。来て正解だった。
 男は屋台で食べ物を買い、目の前のブロッケン山を見上げた。懐中時計を見る。今は夜の十時過ぎ。あちらこちらで篝火が焚かれる。既に酒が入って出来上がった者がどんちゃん騒ぎを始めたり、女を口説いたりしている。全く、酒は飲んでも飲まれるな、という諺を知らぬのか。
 身体二つ分離れた隣には、巨大な篝火に照らされて、男と同じくブロッケン山を眺める娘がいた。他の若者のように騒いだりせず、怒ったようにじっとブロッケン山を見つめる少女は、全身黒ずくめのまるで喪服のようなドレスを着て、肩までの金髪は篝火の光を反射しきらきらと光り、青い瞳はまるでザフィーア(サファイア)のようだ。
 瞬間、男の青春時代の思い出が掘り起こされた。フランクフルトでの少年期、よく行った近所の料理屋、そこで働いていた優しく美しい、男の初恋の少女――

 「グレートヒェン!?」

 急に大声で話しかけられ、娘はびくっと肩を揺らし、こちらを向いた。背格好と金髪と青い目はたしかにグレートヒェンに似ていたが、娘の顔の造りはグレートヒェンとは違い東洋系の顔立ちであった。
 日本人か、はたまた清国の者であろうか。

 「………失礼」

 男は罰が悪そうに帽子の縁で顔を隠した。
 考えてみればグレートヒェンが此処にいるはずがないのだ。自分より年上であった彼女は、生きていればもう老婆だ。思い出の中の初恋の少女は既にいなく、自分も年をとった。皺くちゃな自分の手を見て男はため息を吐いた。
 ちら、と男は娘の方を見る。娘も自分の方を見ている。いや、正確には男の手の食べ物を凝視していた。
 チューリンゲン地方ではよく見かける、炭火焼きのソーセージを柔らかめのパンにはさんだものだ。ここらでは珍しくもない代物だが、異国の少女には珍しいのだろう。

 「……いるかい?」
 
 す、とそれを目の前に出され、少女は戸惑い、足元に視線を落とした。そこには鴉がいた。黒づくめの格好といい、足元の鴉といい、まるで小さな魔女みたいだな、と男は内心笑った。
 視線を受けた鴉は頷いた。そっと少女はパンを受け取り、ソーセージを一口齧った。すると少女は目を大きくさせ、驚きの表情でもう一口、二口と食べ始めた。良かった。どうやら気に入ってもらえたようだ。
 少女が口を動かした。しかし声は出ていない。男は目を細めてその薄紅色の唇の動きを見た。やはりというか、それは男の母国語の発音の形ではなかった。日本語か、もしくは他の東洋の言語か。
 しかし言っている内容は察しがついた。お礼を言っているのだろう。

 「Bitte schön.(どういたしまして)」

 男は帽子をとり深々とお辞儀をした。
 まるで役者のように大げさな仕草に、少女は鴉と目を合わせ微笑んだ。

―――

 時刻は午後十一時。重女は自分を「グレートヒェン」と呼んだ老人となんとなく行動を共にしていた。

 その老人は優しく、自分に色々話しかけてきたり、屋台に売っている食べ物を買ってくれたりした。
 老人が優しいのには訳がある。首の痣を指さし、自分は声が出ないということを身振り手振りで表現すると、老人は気の毒そうな顔をして、重女に向かって喋りだした。

 黒蝿の通訳によると、
 声の出ないお嬢さんがこんな異国の祭りに一人で来ているとはよほどのことがあるのだろう、貴女は私の昔の知り合いによく似ている。ここで会ったのも何かの縁。どうか私と祭りを共に楽しんではくれないだろうか、と言っているらしい。

 ここでのことは右も左も分からない重女は、この申し出を有難く受けた。老人の話している言葉――この時代のドイツ語だと黒蝿が言っていた――は日本人である重女には分からなかったが、黒蝿が通訳してくれ、それに対し頷いたり微笑んだりするだけで、老人は嬉しそうに喋り続けた。その親切さに、重女はミカド国で会ったキヨハルの姿を思い出した。
 すると老人が屋台のおばさんのドレスについていた赤いリボンを金で買い、そのリボンをまるでチョーカーのように首に優しく巻いてくれた。首の痣はリボンで隠れ、黒一色のドレスを纏った重女の首元に、鮮やかな赤の花が咲いたようだった。

 「……!」
 「ああ、やっぱりとてもよく似合うよ」

 こんなに親切にしてもらっていいのだろうか。キヨハルさんといい猿といいこの老人といい、皆優しすぎる。
 つん、と鼻の奥が熱くなった。それを悟られないように重女は横を向いて、何かお礼はできないかと考えた。 こんな時、声を奪った黒蝿を恨ましく思う。声さえ出ればいくらでも感謝の言葉を発することができるのに。
 しかし結局声は出せない。なにか、この老人に感謝の意を示したい。何かないか、何か――。

 ふと、暗がりに咲いている花を見つけた。白いマーガレットの花だ。
 重女はそれをかがんで摘み、老人に差し出した。彼女なりの感謝の行動だ。

 「……これを、私にくれるのかい?」

 問いかけに重女はこくこく、と頷いた。男の人だから、花はダメだったろうか? でも私はこの国のお金をもっていないし、何も渡せるものがない。喜んでくれるといいのだけれど……
 老人は少しの間驚いていたようだが、やがて破顔一笑した。

 「そうか……この花をくれるとは……嬉しいよ「グレートヒェン」」

 またグレートヒェンと呼ばれた。人の名前だろうか。先程言っていた私に似ているという昔の知り合いの方の名前だろうか?

 首を傾げる重女を、鴉になっている黒蝿は面白そうに見上げた。
 実はグレートヒェンというのは、「マルガレーテ」という女性名の愛称である。マルガレーテというのは英語でマーガレットのこと。偶然であったが、重女はそれを知らず老人の「昔の知り合い」の名の花を差し出したのだ。

 がし、と老人は重女の手を握ってきた。いきなりの行動に重女は目を丸くした。二人の手の間でマーガレットの花が揺れる。

 「君……君は本当はグレートヒェンの生まれ変わりなんじゃないのかい? もしくは神がこの老いぼれに遣わせてくださった精霊か……」

 いきなり手を握られ切羽詰まった表情でまくしたてられ、重女は狼狽した。足元の黒蝿に通訳を目で催促したが、何やら面白がっている色がその目にあった。もう! なんなのよ!

 「君さえ良ければ、私と一緒に来てくれないか? 君をモデルにした作品を書きたい。怪しいものではないよ。こう見えて私はちょっとは名の知れた作家なんだ。私の名は――」

 鬼気迫る表情で手を離さない男に、重女は軽い恐怖すら感じていた。さっきまであんなに親切だったのに、一体何が――
 その時、人々が大きな歓声を上げた。それにつられ老人が顔を横に向ける。咄嗟に重女は手を離した。

 「おい、見ろ!」

 黒蝿がブロッケン山の方角を嘴で指した。重女も山の方を見る。
 無数の篝火に照らされたブロッケン山に、虹色の輪がかかっている。霞がかっていたその輪は次第に輪郭がはっきりとしてきて、色彩も鮮やかになってきている。さながらそれは仏の後光のように。
 「ブロッケン現象」というものだ。しかしおかしい。ブロッケン現象が起こるのは霧がかった朝方、もしくは昼や夕方に日光等の光を浴びて起こる。篝火があるとはいえ、こんな真夜中に、しかもあんなにくっきりと浮かび上がるのはどう考えてもおかしい。

 『魔女の宴が始まったのね』
 「ああ」

 そう言うと黒蝿は鴉の姿から人型に変化した。重女もポケットに入れてあった眼鏡をかけ、黒蝿から聖書型コンプを受け取った。先程と違い、二人の目には臨戦の炎が浮かんでいた。

 「グ、グレートヒェン!? 君は一体、何者なんだ?」

 人型に変化した黒蝿に驚き、わなわなと身体を震わせる老人に、『違う、私はグレートヒェンじゃない』と念波を送った。
 その声は耳から聞こえたのではなく、頭蓋骨を振動させ脳に直接届いた。しかもあどけない少女の姿とは不釣り合いな、低い「男」の声であったので、老人はますます混乱した。
 
 「鴉を従えおかしな妖術を使っている!? ま、まさか君は魔女なのか!?」

 重女は首元のリボンに触れた。老人が自分に贈ってくれた厚意のリボン。黒一色の自分を彩る真紅のリボン。その赤は今は闇に咲く徒花の色に思えた。

 『……そうよ、私は魔女。異形を従え、異形を討つ。人の理を越えたもの』

 ぶわ、と黒い男の翼がはためくと、辺りに烈風が巻き起こった。烈風は祭りの参加者や老人を吹き飛ばす。近くにあった木の幹にしがみ付きながら、風の中にあの少女の声を聴いた。

 『ありがとう。貴方のご親切は忘れません』

 激しい風が止むと、そこにはもう少女の姿はなかった。

 「グレートヒェン……」

 ぽつりと呟く老人の足元には、少女がくれたマルガレーテの花が一輪、落ちていた。
 時刻は深夜零時。魔女の宴――ヴァルプルギス・ナハトがいよいよ始まる。
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 ――姉ちゃん、どこに行くの?

 『お姉さんは私と一緒にちょっと京都に行ってくるよ。なに、心配はいらない。ほんの二、三日で帰ってくるよ』

 姉ちゃんが僕の頭を撫でる。柔らかく、温かい小さな手。お母さんの手と良く似ている。

 『すぐ……帰って、来るから、待って、てね』

 微笑みながら姉ちゃんが僕に言う。
 約束だよ。姉ちゃんが帰ってくるまでに、僕、強くなるよ。今まで僕を守ってくれた姉ちゃん。今度は僕が姉ちゃんを守るんだ。もうお母さんはいないし、家にはお父さんがいないから、男の僕が強くならなくちゃ。姉ちゃんを守れるように、心も身体も強く!

 大柄なシドに手を引かれ、姉が行ってしまう。
 少年は、その後を追いかけたい衝動を我慢し、ぎゅ、と拳を握った。

―――

 「……アキュラ、時間だ」

 束の間の休息。ソファーにて横になっていたアキュラは、仲魔の雷王獅子丸の声で目が覚めた。
 ここは東のミカド国。城内の王の執務室。豪華な調度品と大きな執務机が並ぶ部屋の隅に置かれた来客用ソファーで、この国の王であるアキュラは、執務の合間を練って仮眠をとっていた。

 「獅子丸か。なんだ」

 気だるそうにアキュラは上体を起こした。ぱさ、と金色の前髪が顔に落ちる。

 「あの悪魔を尋問する予定だろう。忘れたのか」

 獅子丸が溜め息混じりに言う。
 アキュラの仲魔の一人でもあり、側近代わりのこの神獣は、王であるアキュラの一日のスケジュールを管理している。雷王獅子丸は、アキュラにとって頼れる仲魔でもあり、執事でもあり、厳しい教師でもあった。

 昨日、封印していたターミナルから現れた一組の男女は、今は牢に入れてある。男の方は黒い翼を生やし、明らかに人ではなかったので、悪魔専用の特別牢に放り込んでおいた。今日、その悪魔を尋問する予定だ。他ならぬ、アキュラ王が直接。

 「何もお前直々に行かぬとも、サムライ衆にまかせておけば……」
 「俺があの悪魔と直接話がしたいんだよ。それに……」

 その後に続く言葉をアキュラは飲み込んだ。
 あの悪魔と共にいた少女。今は別の牢屋に入れているが、少女は、アキュラの良く知っている人物に酷似していた。
 しかし「彼女」なわけがない。あまりに似すぎているのだ。彼の覚えている「彼女」と。

 「悪魔と一緒にいた娘の尋問は誰が?」
 「キヨハルが行っている。キヨハルの奴、張り切ってたぞ。ターミナルから来た彼女を「天使」と信じているらしい」

 アキュラは苦笑した。天使と悪魔が一緒にターミナルから降り立ったなんて、キヨハルさんらしい考えだ。

 「行くぞ」

 ばさり、とマントを翻し、アキュラは獅子丸を連れて執務室を後にした。

―――

 こんこん、こんこん。
 少女が牢の壁を叩く。固い石でできている。しかし構造は単純だ。牢屋の中には固いベッドと、簡易トイレらしきものがひとつづつ。小さな窓には柵が埋め込まれ、脱走防止になっている。ドアには覗き窓と、食事を出し入れする小さな出窓がついていた。
 何もかもが本で見た中世ヨーロッパの牢と酷似していた。
 昨日“ターミナル”と呼ばれていたあの場所はとても近代的な様子だったのに、ここや、外の街並みは、中世時代のそれとほぼ同じように感じた。このちぐはぐさはなんなんだろう。

 そっと、少女は影を操作しようとした。しかし影は少しも動かない。

 (やはり駄目か)

 昨日から何度試しても、影の造形が出来ない。
 影の魔法さえ使えれば、こんな古い牢屋から出ることが出来るのに。どうやらこの牢には、魔法を抑えるなにかしらの処置が施されているらしい。

 『……黒蝿?』

 少女は黒蝿に念波を送ってみる。しかし返事はない。黒蝿は少女とは別の牢に連れていかれた。どれくらい離れているのかわからないが、もしかしたら黒蝿の牢にも魔法を使えなくさせる処置が施されているのかもしれない。

 (酷い事、されてないかな)

 ベッドの上で、少女は膝を抱えぎゅっと縮こまる。
 今まで黒蝿が側にいるのが当たり前であった。悪態をつきながらも、彼は決して自分の側を離れなかった。念波で呼びかければ答えてくれた。ただ単に監視していただけかもしれないが、少女は自分が独りぼっちじゃないとわかり安心出来た。
 黒蝿の姿が見えない、念波にも答えて貰えない事がこんなに心細いとは知らなかった。

 自分はこれからどうなるんだろう。
 あのアキュラという少年。ここ――東のミカド国というらしい――の王と名乗った。自分と同じくらいの年頃に見えたが、それよりもあの容姿に少女は惹かれた。

 さらっとした金髪に、明るい青い目。似ている。「あの子」に。しかし「あの子」な筈がない。あの子――アキラは、まだ八歳のはずだ。あの少年はどう見ても自分と同い年か少し上。アキラなはずがない。なら、彼は一体――?

 ガシャ、と音がして、鉄製の扉が開く。少女はベッドから降りる。食事の時間か? それともまた尋問か?

 「おやおやおや、女の子だ! 話には聞いていたけど本当にそっくりだ!」

 扉から入ってきた人物を見て、少女は驚いてとっさに身構えた。
 その人物は初老の男性で、長い白髪を伸ばし放題にし、青い修道衣にも似たボロボロの着衣を纏っている。それだけでも異様だが、少女を更に驚かせたのは、その老人の顔に無数の十字の傷があった事だ。

 「ね、ね? 君、天使なのかい?」

 老人が少女に迫る。少女は異様なその雰囲気に気圧され思わず後ずさる。

 「無駄だキヨハルさん。その子は喋れない」

 扉の向こうに構えていた、見張り役の騎士のような男が老人に告げる。キヨハルと呼ばれた異様な男は、「分かっているよ」と騎士に返した。

 「安心して。僕は君に手荒な真似をするつもりはないから。その証拠に、ほら。今日は服と筆談用の紙とペンを持ってきたよ。いつまでもそんな血の匂いがする服じゃ君も嫌だろ?」

 まくし立てるキヨハルをよそに、少女はくんくんと服の匂いを嗅いだ。
 もう鼻が麻痺して何も感じないが、影の鞍馬山での生活で、悪魔を倒し解体する際、返り血が付くことが多々あった。こまめに洗ってはいたが、やはり染み付いた血の匂いはなかなか取れないらしい。

 「湯殿を使う許可も出たよ。身体を洗ってさっぱりしたいだろう? アキラ君から君を囚人ではなく客としてもてなすように言われてるんだ」

 アキラ。その人物名に少女は大きく反応した。アキラ? アキラって、まさかやはり私の知っている「あの子」なの――?

 そうキヨハルに問い詰めたくても、喉からはひゅう、と木枯らしの吹くような音しか出ない。そう。少女は声を出せない。だから昨日行われた尋問でも、声を出さない少女に、担当の尋問官は最初怒っていたが、事情が分かると筆談で答えるよう紙とペンを渡された。
 そこに日本語で自分の名前と何故ここに来たのか分からない旨を書くと、尋問官には通じた。どうやらこの国では日本語が通用するらしい。

 少女は自分の名前を「重女」と書いた。
 無論、偽名である。本当の名は思い出したくても分からないから。

 かなめ、と名乗ったのは、なんてことはない、少女の母の名が「かなえ」だったとのと、漢字はクラマテングの最後の言葉である、『罪を重ね続ける人の子よ』からとった。重女。罪を重ねる女。母を言霊で殺してしまい、生きる為に悪魔の肉を食べた自分にはぴったりな偽名だと少女は思った。

 「えっと、重女ちゃん、だっけ? とりあえず食事にしない?  今日のはとても豪華だよ。アキラ君の命令で料理番が手によりをかけて作ったんだから。食事は貴賓室でとろう。でもその前に湯浴みかな? おおい、君。この子を湯殿に案内してあげて」

 キヨハルがぱんぱんと手を鳴らすと、小綺麗な格好をした侍女らしき女性が数名牢に入ってきた。皆少女、いや、重女を見て張り付いたような笑みを浮かべている。
 状況が飲み込めず、オロオロする重女の腹が急に鳴った。ぐぅ~という間抜けな音に、重女は腹を押さえ顔を赤くし前屈みになる。

 「……そうだ、これ。アキラ君からの差し入れ。君に渡してくれってさ」

 キヨハルが少女の手に何かを乗せる。長方形のスティック上の黒い包装紙に包まれたそれは、スニッカーズというチョコだった。

 「……!」

 重女は驚きと感動のあまり息を呑んだ。
 このスニッカーズは、昔シドの教会に遊びに行っていた時、シドがよくくれたお菓子だったからだ。
 濃厚な甘さのそのチョコは、すぐにアキラと重女の大好物になった。影の鞍馬山での生活でも、何度このチョコを食べたいと思ったことか。
 重女がこのチョコが好きと、キヨハルの言う「アキラ君」は分かっていたのだ。出なければわざわざ差し入れにスニッカーズを選んだりしない。

 (アキュラ……貴方はやっぱり私の知っている「アキラ」なの?)

 包装紙を破り、重女はスニッカーズを口にした。濃厚なチョコの味が舌に響き、甘い味が身体中に広がる。それは、幸せの味。
 かつてシドの教会でアキラと共に食べた味。その時の感情が思い出され、懐かしさと嬉しさに重女は涙した。

―――

 「お前、悪魔だろ?」

 悪魔の術を封じる特殊牢。その中で獅子丸を連れたアキュラと黒蝿が対峙していた。
 黒蝿は口の端に笑みを浮かべ黙っていた。その様子にアキュラは苛つき、語気を強くする。

 「お前の名は? あの人間の娘とはどういう関係だ?」
 「………名はやたノ黒蝿。勿論偽名だがな」
 「貴様、ふざけてるのか」

 獅子丸が腰の刀に手を添えながら威嚇するように言う。だが黒蝿の顔から笑みは消えない。それは自嘲の笑みであった。

 「俺の本当の名を知りたければあいつに聞くことだ。なんせあいつが俺の真名を奪ったんだからな」
 「……どういうことだ? あの娘はお前のなんだ?」

 黒蝿は答えない。獅子丸が一歩踏み出そうとしたが、アキュラがそれを手で制す。

 「もしかして、あの娘は悪魔召喚師で、お前は仲魔か?」

 アキュラの問いに黒蝿は喉を鳴らしてくつくつと笑った。そんな事を問うアキュラを馬鹿にするように。

 「さあな」

 その言葉に流石のアキュラも怒り、黒蝿の襟を掴み顔を近づける。アキュラの青の瞳と黒蝿の暗い瞳が重なる。

 「お前はあの娘にとりついているのか! なら今すぐあの娘を解放しろ! あの娘はただの人間だろ!」
 「……何故そこまであいつにこだわる?」

 胸ぐらを掴まれたまま発した黒蝿の問いに、アキュラははっとなった。が、すぐに苦しげに眉を寄せる。

 「あの娘は……似すぎている。俺の良く知っている人に」

 だが、とアキュラが続ける。

 「そんなはずはない。あれから七年も経ったんだ。なのに……」

 そう、全く同じなのだ。アキュラが探し求めていた人物と。その人物と最後に出会った時の姿と、彼女は“同じ”なのだ。顔も、背丈も。服装も。

 『待っててね』

 今でも思い出せる。「彼女」の優しい声。儚げな笑顔。常に自分を守ってくれた細い肩。自分と血の繋がった、最愛の――

 「あれ?」

 アキュラが黒蝿を放す。少年は頭を押さえ、苦悩の表情に変わる。

 「アキュラ? どうした?」

 獅子丸が異変に気づき、声をかける。アキュラはそのまま地に膝をつけてしまう。
 黒蝿はその様子を黙って見下ろしていた。なんの表情も浮かべなく。

 「おかしい……俺、姉ちゃんの名前が分からない!」
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 ぐるぐる、ぐるぐる。視界が廻っている。身体が浮遊し、上下の感覚がわからない。
 気持ち悪い。吐き気を催してきた。少女は手を伸ばし掴まれるものを探す。
 何かが指に触れた。必死に“それ”を掴むと、“それ”はしっかりと少女の手を握りかえしてきた。その低い体温に少女は安心した。
 やがて浮遊感が薄れていき、少女の周りの様々な色彩の靄は晴れていき、少女の視界は真っ白に染まった。

―――

 光が収まってきた。地に手と足が着いた感触。その感触はひんやりとしており、そして固い。
 恐る恐る少女が目を開くと、強烈な光が暗闇に慣れていた少女の目を焼く。

 「っ!?」

 少女は目を押さえ、うずくまる。網膜に光が焼き付き、目が潰れそうだ。

 「何やってるんだ」

 傍らで声が聞こえた。この声の主は知っている。
 あの薄暗い影の結界で共に過ごした、少女の唯一の「仲魔」

 『黒蝿? そこにいるの?』
 「ああ」

 黒蝿は素っ気なくそう答えると、少女の手を掴み無理やり立たせた。
 かしゃん、と少女の手が金属のようなものに触れる。まだくらくらする頭を押さえ、目を徐々に開いていった。
 ちかちかとまだ白くちらつくものがあるが、視界は段々と光に慣れていき、目の前の物体を認識することができた。
 少女の手が触れていたのは、鉄柵であった。
 目を細めたまま、少女は周りを見渡す。
 其処は大きな円形の部屋だった。壁が僅かに湾曲し、三角のタイルのようなものが組み合わさり形成している。
 少女と黒蝿がいるのは、この部屋の中央にせり出した足場のような所だった。二人立つのがやっとの広さで、落ちないようにか、柵で囲まれている。
 ふと、小さな物体が目に入った。それは小さなテレビのようなものだった。少女の家にはテレビはなかった。だがテレビというものがどんなものかは知っている。近所の店で並んでいたのを見たことがあるし、街頭テレビでテレビ番組を見たこともある。
 しかし目の前のそれは少女の見たことのあるテレビより遥かに小さく、またとても薄かった。
画面に文字が並んでいる。少女はその文字を認識した。

 ――ターミナル、起動完了――?

 「ここはどこだ? 俺の知っているどの世界とも違う。随分と技術が進んでいるようだな」

 黒蝿が少女の疑問を代弁するかのように呟いた。確かにここは不思議な場所だ。
 シドに連れられた、京都の鞍馬寺の地下にあったあの施設も随分近未来的な機械が沢山あったが、ここは更に一歩進んでいる。より直線的でより洗練されているように少女は感じた 。

 二人が立っている足場には階段がついていて、それは鉄の扉に繋がっていた。あそこにいけば外に出れるのか。
 まだ光に慣れなく視界が白いものでちらつく少女は、黒蝿に手を引かれ階段を降りて鉄の扉を開けた。

―――

 扉を開けると、さらに強い光が飛び込んできて、少女はまた目を瞑った。しかし先ほどのような冷たい無機質な光とは違う、暖かい光。これは、太陽の光だ。
 ざわ、と人の声が四方八方から聞こえてくる。その声は、驚きの声であった。

 「誰? あの人たち?」
 「ターミナルの封印を解いたの?」
 「あの黒い男、翼が生えてるぞ」
 「人外の者……悪魔か!?」
 「なら、あの女の子は……」

 ざわざわ、ざわざわとした人の声が黒蝿と少女を包む。少女がそっと目を開く。
 其処には黒蝿と少女を包む人垣が出来ていた。しかし人々の服装は変だ。
 まるで教科書で見た中世ヨーロッパを思わせるクラッシックな出で立ちだ。粗末な農民風の服装から、貴族のような装飾華美な服装まで、種類は様々であった。

 (な、なんなの? ここ?)

 先程の黒蝿の呟きと同じ事を胸中で思った。心細くなりそっと傍らの黒蝿の衣の裾を握りしめた。黒蝿の横顔を見る。彼も驚きを隠せていなく、警戒の色を顔に滲ませながら辺りを見回している。

 「ええい、どけどけ!」

 人垣の向こうから野太い男の声が聞こえた。その声の主は人垣を掻き分け、少女と黒蝿の前に現れた。
 その者を見て少女は息を飲んだ。
 赤い鬣を靡かせ、武将を思わせる中華風の甲冑を纏った、獅子の顔を持つ、二足歩行の半獣半人の男であったからだ。
 ひゅ、とその男が腰の長刀を抜き放ち少女と黒蝿に切っ先を向けた。

 「貴様ら、何者だ? 何故ターミナルから出てきた?」

 朴訥とした、しかし威圧感のある声で男は二人に詰問する。答えようとしても、ひゅう、という音しか少女の喉からは出なかった。
 忘れていた。私は声を出せないんだった。

 「ターミナル? なんの事だ?」
 黒蝿が聞き返す。
 「とぼけるな。今貴様らが出てきた場所だ。あれだけ厳重にアキュラが封印していたというのに、その封印をどうやって解いた!?」

 アキュラ? その単語に少女は反応した。その名前は、彼女が一番会いたい人物の名に酷似していたからだ。

 「その辺にしておけ、獅子丸」

 獅子丸と呼ばれた男の更に後ろの人垣から、涼やかな少年の声が聞こえた。それと同時に、周りの人々がざ、と道を開け、頭を垂れた。まるで聖書に描かれていたモーゼの海を割るシーンのように。
 割られた人の道を数人の従者と共に此方にくる人影が見えた。その人影は男のようだ。しかし獅子丸と呼ばれた半獣半人の大柄な男とは違い、その背格好は少年のもののようだった。
 黒蝿と少女は警戒を解かずその少年が近づいてくるのを待った。

 獅子丸の横に立った少年は不思議な格好をしていた。

 黒に近い深緑の身体のラインがわかるぴったりとしたスーツを着て、顔には四角い意匠のヘルメットを着用している。目にあたる部分が横に細い長方形型で、僅かに赤く光っている。

 「アキュラ、またそんな格好を……」
 「この格好が一番落ち着くんだよ。討伐隊にいたころを思い出すから」

 そういい、アキュラと呼ばれた少年は、ヘルメットの細長い赤い目で怪訝そうな黒蝿を見、そして少女をじっと見つめた。
 無機質なヘルメットから視線を向けられ、少女が身体を強ばらせる。

 「………」
 「………」

 じっと、少年は少女を見つめ続けた。どのような表情をしているかは四角いヘルメットを着けているのでわからない。だが、ヘルメットごしに向けられる視線が、妙に熱が籠もっているように少女には感じた。
 
 「アキュラ、女人を怖がらせるものではないぞ。見ろ、すっかり怯えているではないか」

 獅子丸の諫めの声に少年は「あ、ああ」と曖昧に頷いた。

 「しかし、良く似ている……」

 ん? と獅子丸が聞き返す間に、少年はヘルメットを取った。
 ふわ、とヘルメットから金髪が出てきた。日の光に照らされ、耳まで隠れるショートカットが光を反射し、少女の瞳にその金色を映し出す。
 やがて線の細い、少年から男へ変貌途中の顔の睫毛が震えたと思うと、意志の強さを感じさせる明るい青い瞳が開かれた。
 少女と同じ、他の子の黒い瞳とは違う、澄み渡った青空のような、青の、眼――

 「誰だ? お前は?」

 黒蝿が問う。その不躾な言い様に、獅子丸が下げた刀を再びあげようとした。が、少年がそれを手で制した。
 少女はただ呆然と事の成り行きを見守っていた。似ている、「あの子」に。いや、しかし――

 「お初にお目にかかる。僕は、アキュラ。ここ東のミカド国の王だ」
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 その日も、焼いた悪魔の肉を頬張りながら、ふう、と少女が溜め息をついた。

 (塩か胡椒があればいいのに)

 少女自身が作ってしまった影の結界に閉じこめられて何日が経過しただろうか。
 此処は太陽は昇らなく常に夜で、空には不気味な赤い月。
 鬱蒼とした山の中で、"やたノ黒蝿"と少女が名付けた鴉を思わせる黒い悪魔と二人っきりで、湧き出てくる悪魔を倒し、その肉を食べる。カタキラウワにコッパテング、クダ。どれも味は違ったが、段々肉ばかりの食事に飽きてしまっていた。
 香辛料があれば味のバリエーションが若干増えるのに。勿論此処にはそんなものはない。あるのは肉と川の水だけ。
 甘いものが食べたい。例えばシドがくれた甘いチョコレートが。

 「贅沢いうなよ。此処から出れたらいくらでも食えるだろうが」

 向かいに座る黒蝿が腕組みをしながら少女に言った。少女は眉を寄せ黒蝿を睨んだ。
 また思考を読まれた。この悪魔、どうやら私の思考を読む癖があるらしい。人の心を盗み見するなんて本当に嫌な奴だ。

 『私が念波を出さなくても心が読めるの?』

 問いかけると、黒蝿は鼻で笑った。

 「お前は分かりやすいからな。感情がだだ漏れだ。読まれたくなければもっと鍛錬することだ」

 言葉に出さなくても気持ちが伝わるのは、普通の人間関係では良いことなのだろうか。少女にはわからなかった。少女は友達というものをあまり持ったことがなかったし、もう声に出して言葉を話すことが出来ないのだから。

 声。

 少女は無意識に喉の辺りに触れる。醜い黒い痣がついた首。
 初潮を迎えた頃から、自分の言葉は現実に実現するようになった。しかも殆ど悪い事。そのせいで母親まで死に至らしめてしまった。
 シドは、私の声に悪魔がついていると言った。私の言霊を増幅させ、悪い事を具現化させていると。あれは本当のことなのだろうか。自分はやっぱり異常なのだろうか。

 「別に珍しいことではない。思春期に入った人間の子供に力が発現するのはたまにあることだ」

 黒蝿が淡々と答える。また思考を読まれてしまったが、それよりもその答えに少女の目が大きくなった。

 『珍しくない? 悪魔はとりついてないの?』
 「そんなものとり付いてない。お前の場合、偶々発現した力が、言霊に集中してしまった。ただそれだけの事だ。時期が過ぎれば治る類のものだった。別にお前が特別なわけじゃない」

 黒蝿は突き放すように言ったつもりだったが、言われた当の本人は何故か嬉しそうに笑みを浮かべていた。

 「何が可笑しい」
 『……いや、違うの。嬉しいの。私が異常じゃないって分かって』

 昔から、少女は周りと「違う」自分が嫌だった。みんなの黒い瞳とは「違う」青の瞳。白い肌。そのせいで随分と苛められ、みんなに溶け込めない、みんなと「違う」自分に酷く嫌悪感を持っていた。
 でも、この悪魔は私を「違わない」と言った。私の声は異常じゃないって。
 たったそれだけの事。だけど、少女はずっと求めていた言葉を投げかけられ、それがとても嬉しかった。

 『そうか、私、異常じゃなかったんだ』

 はにかみながらそう念波を送る少女を、黒蝿は訝しげに見ていた。

 「それがそんなに嬉しい事か?」
 『うん』
 「……変な女だ」

 呆れたように答えられたが、それも少女にとっては嬉しいことだった。
 私の話を聞いてくれる。私の問いかけにきちんと答えてくれる。今まで少女の周りの人間は、少女を拒絶する奴らばかりだったから。存在を否定し、少女が何か言ってもそれに答えてくれる者など皆無だったから。
 だから嬉しい。私を無視しないことが。私の存在を否定しないのが。

 「……本当変な奴だな」

 黒蝿が再び呟く。
 満たされた心で肉を頬張る。塩も胡椒もなく味は薄かったが、少女には今まで食べたどの肉よりも美味しく感じた。

―――

 その日、現れた悪魔はカラステングの群れであった。
 黒い装束を身に纏い、黒い布で顔を覆ったその悪魔は、どこか黒蝿に似ている気がして、少女は傍らの黒蝿を見上げると、その思考を読んだのか黒蝿は嫌そうな顔をした。

 「やり方は覚えてるな」
 「…………」

 少女は頷く。
 カラステングがザンダインを放ち、黒蝿と少女は横に飛んだ。カラステングの数はおよそ十。
 そのうちの五体が少女に向かってきた。それを影で攻撃する。しかしカラステングは素早い動きでそれらをかわす。
 少女が影の形を変えた。
 細い紐状に変化した影は、網となってカラステング達を捕らえた。
 動きが止まった。少女はカラステングに向かって鋭利な形に変化させた影で突き刺す。そして黒蝿に教えて貰ったとおりにカラステングのマグネタイトを吸い取る。

 「――!!」

 マグネタイトと一緒にカラステングの感情が流れ込んでくる。

 ――痛い。悔しい。おのれ、なぜ私がこんな人の子に――!

 身を切り裂くような激痛と、少女に向けられる憎悪になんとか耐え、カラステングのマグネタイトと、自らの感情を混ぜ、新たなマグネタイトを生成する。それがサマナーとしての資質もセンスもない、極普通の少女に黒蝿が提案した「マグネタイトの作り方」だ。

 「ジオンガ!」

 黒蝿が五体のカラステングに向かって電撃を放つ。それを避けきれなかったカラステング達は身体をしびらせ、そのまま地に落ちる。
 落ちたカラステングを、少女がまた影を突き刺し、マグネタイトを吸い取る。
 少女の身体が海老ぞりになり、目が限界まで見開かれ、感電したかのように震えると、やがてカラステングの姿は消え、少女の手に液状の玉が浮かんでいた。

 『出来たよ。マグネタイト』

 滝のような汗を流し、少女は黒蝿に向かって手を差し出す。カラステングのマグネタイトと、自身の感情を混ぜてなんとか作った生体エネルギー、悪魔の餌となるマグネタイト。
 サマナーが作り出せる純度の高いそれとは程遠い、紛い物のマグネタイトではあったが、悪魔のよりは味はいいだろう。

 『ほら、食べて』
 「…………」

 ふわふわと少女の手に浮いている液体の玉。少女は真っ青な顔で黒蝿を見ている。

 「いらない」

 ピシャリと言われたその言葉に、少女は眉を寄せ睨む。

 『作り方教えたのはそっちでしょ!』
 「そんな死にそうになりながら作られたマグネタイトなんて不味いに決まってる。だからいらない」
 『ぐだぐだ言わないで食べて!』
 「いらないと言ってるだろう」

 むかあ、と少女が苛立ち、全身が怒りで熱くなる。
 人間のマグネタイトが食べたいって言ったから、私は作り方を教えてもらった。必死の思いで作り出したのに、なんなんだその言い方は!

 苛立ちが押さえきれない少女は、手の中のマグネタイトを口に含み、黒蝿の顔を無理やり掴んでこちらを向かせる。そして唇を重ね、口の中のマグネタイトを直接口移しで与えた。

 「!?」

 どん、と黒蝿が少女を突き飛ばす。少女が尻餅をついた。その唇から血が出ている。黒蝿が噛みきったのだろう。

 「何をする!」

 黒蝿が口元を拭いながら怒鳴る。黒蝿の舌にはまだ流し込まれたマグネタイトの味が残っていた。カラステングと、少女の哀しみの感情が混じった、血にも似た甘く苦い味。
 少女が何か言いたそうな目をこちらに向ける。その時。

 「!」

 少女の小柄な身体が宙に浮いた。背後にいた巨大な「何か」に身体を掴まれたのだ。

 「悪魔を食らう、外に恐ろしき人の子よ」

 威圧感のある低い声で発したそれは、
 厳つい青い顔の、白い翼を生やし、白い法衣を纏った、鞍馬山で最も強い幻魔・クラマテングであった。

 「我が配下のコッパテング、カタキラウワを解体して食うなど……悪魔より恐ろしい罪深い者よ。この我が直々に成敗してくれよう」

 ぎり、とクラマテングが法螺貝を持っていない左手で、少女の身体を握りしめる。みしみし、と身体が鳴り、少女は痛みに顔を歪ませる。

 「ザンダイン!」

 黒蝿がクラマテングに衝撃波を食らわす。しかしクラマテングはびくともしない。クラマテングにザンは効かない。
 しかし、少女は違った。少女はザンダインをもろに受け、クラマテングの手から抜け出すことに成功した。黒蝿の狙い通りである。

「ぬ!?」

 衝撃波で吹き飛ばされた少女は、影で空中に足場を作ると、そこに足をつけ体勢を整えた。そして右手に何かの玉を乗せると、其処に影が集まり、影は銃の形になった。その銃はグロッグ17に似ていた。

 「……!」

 宙に浮かびながら、少女は照準を絞り、引き金を引いた。
しかしクラマテングはその玉をいともたやすく避けた。

 「無駄だ。そんな玩具で我を倒すことなど――」

 玉は、クラマテングの脇を通り過ぎ、そしていつの間にか後ろにいた黒蝿に当たった。"少女の狙い通り"に。

 「はっ!」

 銃から発せられた玉は、チャクラポット。この間倒した悪魔が落としていった魔力を回復させる玉。
 その玉を受けた黒蝿の魔力が回復した。そして、黒蝿が薄く笑ったかと思うと、手に黒い剣が浮かび、クラマテングにグラム・カットを食らわす。

 「ぐっ!」
 クラマテングがよろめく。しかし倒れはしない。

 「こんな攻撃で、我をやれると……!?」

 黒蝿に反撃しようとした矢先、クラマテングの背中に穴が開く。
 振り向くと、其処には幾つもの銃を造り構えている少女がいた。
 マハジオストーンに、ブフーラストーン、八百万針玉。それらが影の銃から放たれる。これらのストーンは、全て今まで倒してきた悪魔が落としていったものだ。
 打つ。影の銃が崩れる。また打つ。確実にクラマテングにダメージを与えていく。

 「我を……人から畏れ敬われる我を殺すというのか。人の子よ」
 「…………」

 少女は答えなかった。答える必要などなく、ただ、今までの悪魔と同じく倒し、マグネタイトを奪うだけ。
 クラマテングが「ハマ」を少女に向け放った。しかし即死はしなかった。少女の胸に下げている十字架のペンダントが、ハマの術を防ぎ、はねかえしたからだ。
 自ら放ったハマを直撃してしまったクラマテングは大ダメージを負った。傷を負ったクラマテングに、黒蝿がグラム・カットを二度、三度振るった。
 するとクラマテングは唸り声を上げて倒れ、そして遂に動かなくなった。

―――

 息が荒いまま、少女が恐る恐る倒れているクラマテングに近づいた。

 (……倒したの?)

 黒蝿が少女の隣に降り立つ。
 くくく、とクラマテングが笑った。その笑い声に少女の身体が強張った。

 「我をも…自らの糧にする気か。恐ろしき女よ」

 少女は暫し目を伏せ、そしてクラマテングに念波を送った。

 『私は、生きたい。生きなくちゃいけない。だから、その為に貴方のマグネタイトを貰うね』

 ぶわ、と少女の影が膨れた。その様子を見て、またクラマテングが笑う。

 「そうやって、罪を重ね続けるか。その重さに耐えられる者などいないぞ。それでも修羅の道を行くか。罪を重ね続ける血まみれの人の子よ」

 少女は、哀しそうに目を細めた。だがそれも一瞬の事。隣にいる黒蝿の顔を見、意を決して拳を握る。

 「こいつのマグネタイトの量ならば、この結界に穴を開けることができる。やれるな?」
 『……わかってる』

 き、と少女は瀕死のクラマテングに向かって影を伸ばす。黒蝿は、やっとこいつのお守から解放されると思い、吐息をついた。

 「!!」

 影を刺し、クラマテングからマグネタイトを吸い取る。少女が黒蝿の手をとり、直接マグネタイトを渡す。
 その膨大なマグネタイトを自らの魔力に変換し、黒蝿が結界の壁に影の刃を突き刺す。
 強力な影は結界にヒビを入れ、徐々にヒビは影の結界全体に広がり、ピシッピシッと音を立てて結界が崩れ始める。
 すると結界は圧縮しはじめた。苦悶の表情でマグネタイトを吸い取り続ける少女と、影で結界を壊そうとしている黒蝿を包み、結界圧縮時に生まれる膨大なエネルギーが、アマラ経絡という霊道を生み出した。

 「!」
 「なんだこれは!?」

 二人は、凄まじいエネルギーの波に包まれ、アマラ経絡の奥に吹き飛ばされていった。

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 血で身体を汚し、死骸の匂いに慣れた少女の鼻孔に、香ばしい肉が焼ける香りが届いた。
 先程解体したカタキラウワの肉を、尖った木の枝で刺して焚き火で焼いている。
 火をおこしたのは目の前の男だ。小枝を集めて「アギ」という火の術を唱えると、あっという間に火が付いた。これは、魔法か何かだろうか。

 「……酷い様だな」

 男が呆れたように言う。ムッとして自分の手を見てみると、その手はべったりと血がついており、真っ赤に汚れていた。
 手だけではない。服にも返り血がついて、この様子だと顔にもついてるのだろう。指導されながらとはいえ、一匹の豚に似た悪魔を解体したのだ。しかも素人が。
 もちろん血を避けるためのエプロンなどしていなく、下手くそな手つきで包丁を振るって、浴びなくてもいい血まで浴びてしまった。
 手を洗いたい。しかしここには水道など通っていない。先程の小川で洗ってくるしかなさそうだ。

 『ちょっと、手を洗ってくる』

 男との"念話"も解体中に大分慣れた。
 要はテレパシーみたいなものだ。伝えたい言葉を頭の中に浮かべて男に送る。すると男は答えてくれる。

 「別に今の格好でもいいんじゃないか? みっともなくて」

 にやつきながら言う男を少女は睨む。
 念話の不便なところは、自分の感情まで男に伝わってしまうことだ。
 現に今だって、私がこの格好を恥ずかしいと思っている事が、男には"わかった"んだ。
 自分の心を読まれるのは不快だ。感情が伝わらないようどうにか気をつけなければ。

 「…………」

 き、と男を睨んで、少女は近くの小川に手を洗いに行った。水に手を浸し洗うと、川の水が真っ赤に染まった。
 手と顔の血は大分取れたが、匂いは染み付いて取れなかった。

―――

 先程あんな凄まじい光景を見たので、食欲など沸かなかったが、何か食べないと体力が減り、最悪餓死してしまう。
 肉が焼けたらしい。焚き火の中から枝をとる。熱い。思わず手を離して、地面に落としてしまう。しまった。また焼き直しだ。
 焚き火を挟んだ所に座る男はその様子を見て微かに笑った。

 「…………」

 土を払い、もう一度焼き直した肉を口に運ぼうとして、少女は手を止めた。そして近くの石に肉が刺された枝をたてかける。

 「どうした? 食うんじゃなかったのか」

 男が問う。生きるために悪魔の肉を解体し食べると決めた女だ。今更怖じ気づいたのだろうか。
すると、少女は両手を胸で組み、目を瞑りそっと顔を俯けた。

 「……なんだそれは」
 『食前の祈り』
 「何に祈るんだ」
 『……神様に?』

 ぶはっ、と男が吹き出した。口元を笑みの形に変え、喉を震わせくつくつ笑っている。可笑しくて堪らないというように。

 「………」

 少女の白い顔が赤くなる。だが両手は崩さない。

 私だって神様なんて本当は信じていない。だけど仕方ないじゃないか。教えられ身についた習慣はなかなか治らない。

 『シドが、食事の前には神に日々の糧を恵んでくれた事に感謝して祈りなさいって言ってたから……』

 シド、と聞いた途端男の顔が険しくなる。

 「そのシドという奴は、黒人の男の神父か?」
 『……? そうだけど?』

 ぎろり、と男の眉が寄り、目が細められる。憤怒が押さえきれないというように。その表情に少女はびくついた。一体シドがどうしたのだろうか。

 「シド・デイビス。あいつは、俺を捕まえたサマナーだ」

 ぎゅ、と拳を握りしめ男が血を吐くように呟いた。名前を出すのも憎らしいというように。

 『シドに捕まったの?』
 「…………」
 『何か悪いことしたの?』
 「…………」

 男は答えず少女を睨む。肯定の沈黙であった。

 ――シド……シドはやっぱりデビルサマナーで、悪魔をやっつけてたんだね。
 でも、なんであんな事をしてたの? 信じてたのに。私も京子のようにするつもりだったの? 彼処で何してたの? シドはもう怖い大人になっちゃったけど、できるならもう一度話がしたい。

 「俺もあいつに会いたい。会って大天使共々殺してやりたい。だから早く力をつけてこの結界を解け。こんな所に閉じこめられていては堪らん」

 ぐい、と少女の前にもう一つ肉の刺さった枝を差し出す。少女は恐る恐るそれを受け取る。

 シドの事やアキラの事は気になるけど、今はとりあえず体力をつけなくちゃ。
 少女は悪魔の肉を食べた。カタキラウワの肉は豚肉に似た味がして、一噛み二噛みするうちに肉汁があふれ、肉を飲み込むと、身体からだるさが抜け、気力が溢れる気がした。

―――
 
 それからよく影の鞍馬山にはカタキラウワ、クダ、コッパテング等の悪魔が現れた。

 黒い男いわく、少女がこの結界を造ってしまった際、鞍馬山にいた悪魔達まで引き込んでしまったのではないかと言う話だった。
 少女は男に教えられて、与えられた影の能力を使いこなす事を覚えた。自分の影を頭にイメージしたものに変形できる。
 最初に作った包丁を始め、刀に鍋、細部はぼやけてるものの、一度米軍基地の近くを通った時に見た、出入り口の警護の兵士が持っていた銃まで作れた。もちろん弾丸がないので銃を撃つことはできなかったが。
 しかしこの影の造形物は、強い衝撃を受けるとすぐ崩れてしまうのが難点だった。そして有機物は作れなく、一度にいくつもの造形はできない。この点は少女が成長すればもっと作れる量が増える、と男は言った。

 影で出現する悪魔を倒し、男がマグネタイトを吸い、少女がその死骸を解体して食べた。人型のコッパテングを解体するときは流石に抵抗があったが、男が根気よく教えたお陰で、泣きながら嘔吐を繰り返しながらも最後まで解体でき、食べる事ができた。コッパテングは鶏肉に似た味がした。慣れとは恐ろしい。

 まだ数日にも感じたし、もう数ヶ月経ったようにも感じたある日、少女は川で服と身体を洗っていた。
 悪魔を解体するときにつく返り血のお陰で、洗っても洗っても服と身体からは血の匂いがとれなかった。

 がさ、と後ろの草葉が揺れた。
 「!」
 反射的に影を鋭利な形に変え、音のした方向に投げた。しかしそこにいた黒い男はそれをかわし、じっと全裸の少女を見つめていた。

 「……!」

 男だと気づいた時、咄嗟に身体を手で隠し、やがて影が彼女の身体を覆った。少女は真っ赤な顔で男を睨む。
 男はその視線を受けてくく、と馬鹿にするように笑った。

 「大分影を使えるようになったじゃないか」

 顎に手を当て笑いながら男が言った。

 「…………」

 裸体を影で隠しながら、少女は常々思っていた疑問を問いかける。

 『悪魔。貴方は……』
 「黒蝿でいい」
 『!』

 少女の瞳が大きくなる。

 「どうせお前は俺の名を返す気がないのだろう。なら好きに呼べ。黒蝿でもなんでも」

 その言葉を受けて、少女が笑みを浮かべた。
 視線を振り切るかのごとく、男は不機嫌そうに横を向くと、「で、まだ術は覚えられないのか」と少女に問うた。

 「…………」

 少女の顔から笑みが消えた。
 そう、確かに少女は影の造形魔法は使いこなせるし、大分上達したが、悪魔、いや、黒蝿の使うようなアギやザン、氷の魔法のブフや電撃のジオ、回復のディアに支援魔法の類まで、何一つサマナーが使えて当然の術を覚えることができなかった。
 術だけじゃない。使役する悪魔――仲魔というらしい――の餌となるマグネタイトすら生成することすらできない。これはサマナーにとっては致命的だ。
 サマナーの血を引くものなら極自然に出来るはずなのに、一般人である少女にはこれらの事は何一つ出来なかった。唯一、やたノ黒蝿と名付けた悪魔を現世に縛り付けていることが、サマナーらしいといえるかもしれない。
 或いはシドの持っていた悪魔召喚プログラムがあれば話は違っていたかもしれないが、それは詮無きことだ。

 『……私は、サマナーになる気はないし、術は影の魔法だけで充分。それより、悪魔、いや、黒蝿。何故貴方は私を殺さないの?』

 ぴくり、と黒蝿の形のいい眉が動いた。少女はじっと黒蝿を見つめる。

 ずっと不思議だった。私を殺したら名前を取り戻せ力が戻り、この結界から抜け出す事が出来るはずなのに、こいつはそれをしない。現に今だって、全裸で隙だらけの私の背後にいたのだ。殺そうと思えば何時だって殺せたのに、何故それをしなかったのか。

 「お前が生きてないと俺の真名を取り返せないからだ」

 悪魔、いや"やたノ黒蝿"は吐き捨てるように答える。

 「お前が死んだら、俺は永久に真名と力を取り戻せない。生きているうちに名を返してもらう必要がある。お前に死なれたら困るから影の使い方まで教えているんじゃないか」

 話し終えて、男の顔は益々不機嫌そうになった。少女が、微笑んでいたからだ。

 『なら、協力しようよ』
 「は?」
 『私もアキラに会うまで死ぬわけにはいかない。貴方も私に死なれたら困る。私も貴方もこの結界から外に出たい。
 なら、やたノ黒蝿、私の仲魔になって、アキラに会うまで私を守って。
 私も貴方の目的に出来る限り協力する、無事にここから帰れたら名前も返す。それまで貴方を守るよ。だから……』
 「マグネタイトも作れない、術も使えない小娘が、俺を守るだと?」

 ぐ、と少女は念話を止めた。だがすぐに黒蝿を見つめたまま続ける。

 『マグネタイトは他の悪魔や人から奪って与えるから。その方法を教えて。術は使えないけど、影の魔法を鍛えてもっと強くなるよ。だから私の仲魔になって。お互い目的のために協力しよ』

 暫しの沈黙。少女の青の瞳はじっと黒蝿をみつめる。あの瞳、死にかけていた時に「たすけて」と自分に懇願した時と同じ、必死な瞳――

 「……もう真名を奪われた時点で、強制的にお前から離れられなくなってしまった。お前が名を返さない限り、この関係は変わらない」

 その言葉を受けて少女の顔が明るくなった。

 『なら、もう仲魔ってこと……?』
 「だからそうだと言ってるだろう。強制的にされたがな」

 仲魔。デビルサマナーが使役する人外の存在。その意味を少女は正しく理解出来ていなかった。
 だが少女は嬉しかった。きっとそれは、仲魔を「友」と同義語だと勘違いしてたから。

 『宜しく。やたノ黒蝿』
 「…………」

 差し出された少女の手を黒蝿は握らなかった。代わりに不機嫌そうに鼻を鳴らし、黒い翼をはためかせて消えた。

 影の結界、鞍馬山の一部を模倣した閉ざされた世界の中で、名と声を奪われた少女と、同じく名を奪われ"やたノ黒蝿"と名付けられた悪魔が、歪な形で契約を交わした。
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 少女の答えを聞いて、男は眉間に皺を寄せた。

 「何故だ? 何故拒む?」
 少女が男の手を退ける。

 ――だって、貴方嘘をついてる。
 分かるもん。私達を苛めてきた奴等と同じ。笑顔で近づいて、後から殴ってくる、あいつらと同じ匂いを肌でびりびり感じるの。

 それに、と、少女は続ける。男は少女を睨んだまま黙っている。

 ――貴方は、悪魔……みたいだから……

 その念話に、黒い男は口角を上げ、喉を震わせ笑い声を上げた。それに合わせて深緑の長髪が揺れる。

 「悪魔……ねえ。
 確かに俺はお前ら人間からは悪魔と呼ばれている。だがな、神? 悪魔? そんなのお前ら人間が勝手に名付けただけだろうが」

 笑いながらも、苛立ちを隠せない声色であった。
 男の瞳が細められ、その視線を受け怯えた少女は立ち上がり、少し後ろに下がった。かさ、と草の踏む音がして、男が前に出る

 ――だって、聖書には悪魔は人をたぶらかす悪い奴だって書いてあったし……

 「悪い奴? は! 悪い事は悪魔のせいで、良いことは天使のおかげか? それこそ人間の作り上げたお伽噺だろうが。
 天使が言っていたから、神が望んだから、悪魔に取りつかれたから、だから同族同士殺しまくって祈りまくって、そう何か理由をつけないと生きていけないんだろ? お前たち人間は」

 静かな、だが確実に怒りを滲ませたその「悪魔」の言葉に、少女は反論できなかった。
 確かに自分もずっと感じていた。シドが言う悪魔の存在と、聖書に書かれてある神の記述に。
 悪魔は黒くて悪い奴? 天使は白くていい奴? 神は絶対的な存在?
 それはきっと違うんだろう。この男が言うように、人間が勝手に決めて作り上げた事なのかもしれない。

 でも、これだけは分かる。この男は怖い。こいつは私を助けてくれたけど、さっきの言葉が本当だと感じられなかった。
 影の結界? あの言葉も嘘かもしれない。
 本当は「悪魔」であるこいつが結界を張って私を捕食しようとしているのかも。

 こういう奴を私は何人も見てきた。
 表面だけ優しくて、後で私達を騙して陥れようとする醜い奴等。私やアキラ、お母さんから沢山色んなものを奪っていった奴等。そう、シドのように。

 こんな奴に屈しては駄目だ。
 少女の反骨精神に火が付き、目の前の男をき、と睨んだ。

 ――名前は返さないよ。“やたノ黒蝿”。

 ぴくり、と男の片眉が上がる。
 「なんだそれは」

 ――ヤタガラスに捕まっていた黒い蝿のような奴だから“やたノ黒蝿”。私が今名付けたの。あんな怖そうな名前、貴方には似合わな―

 ぶわ、と男の黒い翼がはためき、同時に男が電撃的に動き少女の首を掴み宙に浮かす。
ぐぇ、と少女の喉が潰れた蛙のような音を出す。

 「調子に乗るなよ小娘! 殺さずとも二目と見れない姿にしてやろうか!?」

 ぎり、と男が右手に力を入れる。少女の足先は地面から離れ、先程より強い力で気道と頸動脈を圧迫され、目玉が飛び出て口が開き舌が出る。視界が酸欠で狭まり酷く苦しい。
 あと少し力を入れれば、少女の細い首は折れていただろう。解放された少女は、地面にへたりこみ咳き込む。涙が浮かび口の端から涎が出ていた。

 (駄目だ……こいつはやっぱり悪魔だ。今までのいじめっ子とは違う。こいつからは逃れられない――!)

 髪を乱し、暫し咳き込んだ後、少女は覚悟を決めて、自分を見下ろしている“悪魔”に向かって、右腕を前に出す。
 “悪魔”は怪訝そうな視線を向ける。

 ――名前を返してはやらないし、私の魂をあげるわけにもいかない。でも――

 ぎゅ、と右手を握る。手の平が汗ばんでいるのが分かる。

 ――私の腕ならあげる。右手で足りないなら左手もあげる。だけど足は駄目。足が無くなったら此処から出ていけないから。足と命以外ならいいよ。

 「……そこまでして会いたい者がいるのか?」
 男が不思議そうに問う。

 ――いるよ。凄く大切な人。悪魔には分からないだろうけど。
 「…………」

 ぎゅ、と少女は固く目を瞑る。これから襲ってくるだろう痛みを予期して、歯を食い縛り、身体中の筋肉に力を入れる。瞼の裏に弟の姿が浮かぶ。
 ――アキラ、もう姉ちゃんは手を繋げない。おんぶしてあげることもできない。だけど腕が無くなっても必ず私がアキラを守るから。お母さんの代わりに育ててあげるから。必ず帰るよ。だから――

 数秒、数十秒が経過しても、腕に予期した痛みは襲って来なかった。それどころかなんの感触もない。男の声も聞こえない。

 「……?」

 恐る恐る目を開けると、そこにもう黒い男はいなかった。
 腕を下ろし辺りを見回す。
 やはり何処にも男の姿は見当たらない。周りは鬱蒼とした森で、空には相変わらず不気味な紅い月が昇っていた。

 (見逃してくれた……?)

 少女は一瞬そう考えたが、直ぐにその考えを消した。
 何処からか、あの男の暗い視線を感じたからだ。
 再び辺りを見回す。やはり男はいない。しかし少女は男の気配を感じていた。
 何処にいるか分からないけど、私を見張っている。その事だけは“分かった”。あの悪魔は私を逃がさないつもりなのだ。名を返さない限り、あいつはずっとついてくる。
 悪魔の冷たい気配を感じながら、少女は無意識に身体を掻き抱いた。

―――

 月明かりを便りに草むらを掻き分け、木々の間を歩いているうちに少女は違和感を覚えた。

 此処には、生き物がいない。

 虫の羽音も、獣のうめき声も、鳥の鳴き声も何一つ聞こえない。こんなに歩いているのに肌が虫に食われない。
 耳を澄ませてみる。音が殆どない。聞こえるのは自分の呼吸音と、僅かな空気の乱れによってさわさわと動く草葉の音だけ。
 不思議な感覚だ。家の近くの森林公園によく遊びに行ったことがあるが、普通、森はもっと生き物の気配で溢れている。こんなに静かなのは少女にとって初めての経験だ。
 母とアキラと三人で暮らしていたアパートは、常に隣近所の生活音や近くの米軍基地からの音が聞こえていた。
 ここまで静かなのは異常だ。「閉ざされた影の結界」――悪魔は確かにそう言った。それは本当の事なのかもしれない。そうとでも考えないと、この異常な状況を説明できない。

 目の前に、小川を見つけた。月明かりを反射してきらきら光っている。そっと手を入れてみる。冷たい。水は透き通っていて飲めそうだ。
 少女は手で水を掬い、喉の乾きを癒した。
 そこで気がついた。川面に写っている自分の顔。暗くてあまりよく見えないが、首の辺りに黒い傷のような痣のようなものがついていることを。

 (何? これ?)

 そっと首に触れてみる。もう一度、声を出そうと試みる。しかし声はでない。先程咳は出た。首を絞められたとき潰れた音も出た。しかしそうした生理現象で喉は震えても、言葉に出そうとすると一切声が出ない。
 「言霊を奪う」――あの悪魔の言った事は本当だった。

 そしてもう一つ――自分の名前が分からない。

 弟の「アキラ」という名も、亡き母の名も、無関心な担任の名も、意地悪な同級生の名も思い出せるのに、一番馴染んでいるはずの自分の名を思い出そうとしても、その部分だけ記憶から抜け落ちている。
 「名を奪う」――これも本当だったんだ。

 影の結界……私が作り出した? 本当なの? 鞍馬山の一部を模倣? そんな事ただの人間の私にできるわけが――

 がさがさ、と背後で草葉の揺れる音がし、少女は慌てて振り返る。あの悪魔が戻ってきたのか?
 しかし其処にいたのは、三体の奇妙な生き物。
 背に小さな黒い羽を生やし、奇妙な面をつけ、澄色の装束を纏った明らかに人ではないもの――妖魔・コッパテング。その両隣には、黒い豚の姿の悪魔、カタキラウワが控えている。

 (な、なに!? こいつらも悪魔? なんで? 此処は結界の中じゃなかったの?)

 狼狽している少女に、三体の悪魔が襲ってくる。木の葉が舞い、衝撃波が少女を襲う。

 「!」

 思わず少女は手で顔を庇い、目を瞑る。
 すると急に少女の影が伸び、それは少女を包み守る盾になった。攻撃を跳ね返された悪魔は唸り声をあげ、再び体当たりを仕掛ける。

 「そのまま影でそいつらを刺せ!」

 頭上で声がした。聞き覚えのある低い男の声。声の主を確かめる事もなく、少女は反射的に影を鋭利な刃物へと変えた。
 突進してきたコッパテングとカタキラウワは、そのまま影の刃に刺され、そして動かなくなった。

 「……?」

 返り血を浴び、呆然と座りこんだ少女の目に、黒い翼を携えた、先程少女が“やたノ黒蝿”と名付けた男が降り立った。
 男は少女を一瞥すると、瀕死のコッパテングの身体に手をつける。するとコッパテングの身体はみるみる透けていき、遂には消滅した。

 「不味いマグネタイトだな」

 ――マグネタイト?  酸化鉄? なにそれ? 不味いってあの男は言った。悪魔はマグネタイトとやらを食べるの?

 「ああそうだ。生体マグネタイトは感情のエネルギー。俺達の食糧だ。本当なら人間のが一番美味だがな。これがないと現世で身体を保てない。
 ……お前が名を奪ってくれたおかげで、俺は異界に帰りたくとも現世に縛り付けられ帰れないんだよ」

 ぎろり、と男が睨んできたので、少女は怯えて顔を背ける。
 男はその様子を笑いながら見ており、カタキラウワの死骸を少女に投げる。少女がひ、と喉を鳴らし後ずさる。

 「お前も食うか?」

 くく、と喉を鳴らしながらにやついた視線を少女に向ける。その視線を振り切るかのように投げられたカタキラウワの死骸に目を向ける。
 豚にそっくりなその悪魔は腹に大きな穴を開け血を流し続けている。赤黒い筋肉と白い骨が見え、その様子と血の匂いに吐き気を催したが、何とか堪えた。

 (これを、私がやったの?)

 血と獣の匂いが更に強くなる。先程まで生き物の気配が全くなかった森に、死の匂いが広がった。
 ぐう~……と少女の腹が鳴る。慌てて腹を押さえ俯く。先程水は飲めたが、もう何時間も腹に物を入れていない。
 此処は閉ざされた結界。生き物が少女と悪魔以外にいない世界。
 あとどれくらい経てば此処から出られるかわからない。その間に身体が衰弱し、悪魔に喰われてしまうかもしれない。それは嫌だ。死んでしまってはアキラの元に帰れない。
 何か食べないと。悪魔がマグネタイトとやらを摂取しないと身体が保てないのと同じく、私達人間も食糧を採らないと餓死してしまう。
 しかし此処には悪魔以外生き物はいない。魚も獣も虫もいない。

 暫し苦しそうに眉を寄せていた少女が、決意を決めたように男をき、と睨んだ。
 おや、と男が少女の青い瞳を見つめ返した。

 ――私、この悪魔を食べる

 流石に男は絶句した。確かに食うか? と問いかけたが、あれは勿論冗談だ。人間が悪魔の肉を好んで食べるわけがないと分かっていたからだ。

 「お前……何言ってるのかわかってるのか?」

 ――わかってる。私も何か食べないと生きていけない。私は死ぬわけにはいかない。これしか食べるものがないなら――

 少女が右手を宙に翳すと、影が集まり、やがてそれは包丁にも似た刃物の形に変わった。これが自分に与えられた能力らしい。
 影の包丁を握りしめ、少女は豚の悪魔に刃先を向ける。かたかたと手が震える。身体が小刻みに震えてるのだ。
 少女は迷いを振り切るかのように頭を思いきり振ると、勢いを付けて悪魔に包丁を刺す。
 血が飛び散り、ごり、と筋肉に突き刺した感覚が手から伝わり、少女はえずいて嘔吐した。酸っぱい胃液を吐きながら、ああ、体力を無駄にしてしまった、と涙を溢しながら思った。
 涙を拭いて、もう一度、悪魔に向かって刃を降り下ろす。が、その手を黒い男に掴まれ止められてしまった。

 「滅多刺しにするやつがあるか! ちゃんと手順を踏め」
 ――て、手順?

 涙を浮かべた大きな瞳で少女は悪魔を見つめながら問う。その瞳は決して好んでこの作業を行っているわけではないと語っていた。

 「……まずは血抜きだ。カタキラウワは人間界の豚と殆ど変わらない。頸動脈を切り裂いて血を抜いて……」

 説明された通りに少女はカタキラウワを解体した。体中の血を抜いて皮を剥ぎ内臓を取り出し、その感触と凄まじい匂いに、途中何度もえずいて戻したが、泣きながらも結局最後まで解体を施した。全ては生き残るため、生きて弟の元へ帰るため。泣いて、吐いて、血にまみれて、それでも手を止めず骨を取りだし内臓と筋肉に分け、時間をかけて解体した。

 そして黒い男は、そんな少女を見捨てず最後まで指導し続けた。
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 『姉ちゃん、何処に行くの?』

 すがり付くような青の瞳。金の髪が日に照らされて光る。
 アキラ、ごめんね。姉ちゃんは行くところがあるの。
 でもすぐ戻るから。悪魔を祓って貰ったらすぐに帰ってくるから。その時は一緒に遊びに行こう。遠出して横須賀まで行こう。
 昔お母さんと一緒に一度だけ行った海。もうお母さんはいないけど、私がお母さんの代わりになるから。ずっと二人一緒にいよう。
 だから、少しの間待っててね――

 『ああ、これも失敗だ。やはりもっと幼い子供の方がいいのではないか?』

 換気口から見えた光景。消毒薬と血の匂い、診察台に拘束された京子、虚ろな目、弛緩した口元から涎が流れ出て、頭に管が幾つも刺さっている。
 シド、一体何をしているの? 京子に何したの?
 シドはデビルサマナーで、私の声に取り付いた悪魔を祓ってくれるんじゃなかったの? やだ、やめて、私の友達に酷い事しないで――!

 『お前の名と、俺の真名を奪ったその言霊を頂く。さあ、名乗れ』

 山の中。雨が降っている。泥のぐちゃぐちゃした感触を背中に感じ、身体が濡れて気持ち悪い。
頭が痛い。手足が痛い。身体中が痛くて寒い。
 蝿が話しかけてくる。名乗れ。これは今そう言った。名前を言うだけで助けてくれるなら、いくらでも言おう。
私は死ぬわけにはいかない。早くアキラの元に帰らないと。此処は嫌だ。此処は何かがおかしい。此処は、私の居るべき場所じゃない――

 黒い男が私の首を掴んだ。

 身体の内側から痛みが生じる。神経が苛まれ、内臓を撹拌され、脳髄を滅多打ちにされるような激しい痛み。

 痛い、イタイいたい!
 やだ、此処はイヤだ、これは嫌だ、此処には居たくない、逃げ出さなきゃいけない、シドからも、この痛みからも。

 いやだ、嫌だ、全部嫌だ。

 守ってくれるものが欲しい。私とアキラをこの痛みから、意地悪な皆から守ってくれるものが。

 少女の手は、自らの首を掴んでいる黒い男を捕まえようとするが、それは叶わず、そのまま空に浮かぶ月に向かって伸ばされたが、視界が徐々に黒く染まり、やがて月も少女の意識も、そして黒い男も全てが影に包まれた。

―――

 目を開けた時、最初に飛び込んできたのは、夜空の紅い月に向かって伸ばされている自分の手。

 指を動かしてみる。握れた。痛みはなく痺れもない。
 上体を起こし自分の身体を見てみる。泥で汚れてはいるものの、どこも怪我をしている様子はない。

 (何が……起きたんだろう。私は何故此処に寝ていたのだろう)

 そっと、頭に触れてみる。右側の髪が血で濡れてはいるが、やはり痛みはない。
 それどころか傷の痕跡さえない。

 (確か私は……彼処を抜け出して、それから……)

 頭を押さえながら、未だ混濁している記憶を辿った。
 血と消毒薬の匂い、診察台の無惨な姿の京子、白衣のシド、赤色灯の小部屋、大きな鳥籠、そこにいた三本足の鴉――

 此処はどこだろう? 木々が生い茂っていて、地面には青草が敷き詰められている。空には太陽ではなく不気味な紅い月が浮かんでいる。
 私はあの鴉に会った後、いつの間にか夜の山にいて、暗い中歩いていたら、足をぬかるみにとられて、そのまま転がって、頭に凄い痛みが襲ってきて、それから――

 生暖かい風が少女の髪と木々を揺らした。ばさばさという木々の葉が揺れる音に少女はびくっと身体を震わせた。
 少女の目の前に黒い風が渦巻き、やがてそれは徐々に人の形に変化した。

 黒い山伏にも似た法衣を纏い、鴉を思わせる兜を被り、兜の下の切れ長の暗い瞳が、少女を見下ろす。
 その者が、人ではないと少女には分かった。背中に大きな黒い翼が生えていたからだ。

 「ほう、生きていたか」

 低い声が少女の耳朶を打った。あの小部屋で鳥籠に入れられていた鴉が発していたのと同じ声。

 ――あ、あなたは、誰なの?

 そう口にしたくとも、少女の喉からは、ひゅう、という呼吸音しか鳴らなかった

 ――あ、あれ? なんで?

 もう一度、声を出そうとする。その度にひゅう、ひゅうという風の音しか喉から発せなかった。

 ――声がでない!?

 「何いってるんだ。そういう取引だっただろう」

 くくっと少女の目の前の男が笑った。喉を押さえながら口をぱくぱくしている少女をあざけ笑う色がその目にはあった。

 ――と、取引?

 その言葉もやはり声には出なかった。だが黒い男は少女の思考を読んだかのように答える。

 「お前の命を救う代わりに、声と名を頂く契約だっただろう。覚えていないのか?」

 言われて少女は、頭を触る。血がこびりついている黒髪の下の、なんの傷もない頭の皮膚。
 そうだ、足を滑らせて頭に怪我を負った私は、蝿みたいな塊に言ったんだ。助けてって。
 そうしたら、蝿が「名乗れ」て言ってきたから、私は自分の名を名乗って、それから蝿が人の形になって、そいつが私の首を絞めてきて――

 あれ?
 私、自分の名がわからない――!?

 「だからそういう契約だと言っているだろう。お前の記憶と、お前を知っている全ての人間の記憶と記録から、お前の名は抹消された。知っているのは俺だけだ」

 ――そ、そんな、酷い!

 「先にお前が俺の名を奪っていったんだろ? そのせいで俺の力は更に封じられ、あんな蝿のような姿にまで落とされた。しかもこの世界の時間軸に固定されてしまった。酷いのはどっちだ?」

 黒い男が冷たく少女を睨む。静かな怒りの目であった。

 ――名前? 私は何もしてない。私はただあの鴉の名前を口にしただけだ。記憶の片隅に残る禍々しい名前。
 そしたらいきなり黒くて激しい風が私を飛ばして、気が付いたらこんな所にいて……

 「此処から出たいか?」

 男の語気がやや柔らかくなった。少女が尻餅をついたまま顔を上げる。

 「俺も此処から出られなくて困っている。
 今すぐにでもあのサマナーと大天使を殺しに行きたいのに、この結界のせいで此処から抜け出せない。早くこの結界を解け」

 ――結界? なんのこと? 此処は鞍馬山じゃないの?

 少女の思念に、男ははあ、と溜め息をつき、そして呆れたように少女を睨んだ。

 「これも覚えてないのか。
 此処は影の鞍馬山。俺の力を暴発させたお前が、鞍馬山の一部を模倣して造り上げた別世界、影の結界の中だ」

―――

 少女は走った。黒い男から逃げ出して。
 靴に踏まれた草がガサガサと音を立てる。舗装されていない獣道を月明かりだけを便りにがむしゃらに走る。

 ――影の結界? 模倣した鞍馬山? 別世界? 私そんな事していない。そんな事があるわけがない。
 此処を真っ直ぐ行けばきっと山道に出るはずだ。またシドの所に戻るのは嫌だが、あの黒い男は危険だ。翼が生えていて人じゃないみたいだし、もしかしてあれが悪魔――?

 「!」

 靴の紐がほどけ、少女はそれを踏んでしまい思いっきり転んだ。
 鼻を地面にぶつけてしまいじんじんする。

 「無駄だ。ここは閉ざされた結界。造りだしたお前が解かない限り何処にも逃げられない」

 ばさり、と音がして、頭上から低い男の声が聞こえた。
 見上げるとやはり。先程の黒い男が腕組みをしながら少女を見下ろしていた。

 「…………」
 鼻を押さえたまま、少女は月光に照らされた男の顔を見つめる。

 ――結界、なんて私は知らない。私は早く帰らなくちゃいけない。アキラはまだ小さいから、一人にしちゃいけないの。私は、アキラの元に帰りたい――

 「どうしても帰りたいなら、方法がないわけでもない」

 男がしゃがみ、少女と視線を合わせた。暗い金色の切れ長の瞳。その瞳から発せられる視線を受けて、少女の身体が強張る。

 「俺の名を、今すぐ返すことだ」

 くい、と男が少女の顎をとる。食い込んだ指の冷たさに、少女は息を飲んだ。

 「俺が自分の名を取り戻し、力の一部も取り戻せば、お前が作った結界などいとも容易く破れる。
 悪い話じゃないだろう? この結界が無くなれば元の世界に戻れる。お前も帰りたい所に行ける。ついでに言霊と名も返してやる。これが最善の方法だと思うがな」

 甘く、妙に柔らかな声で黒い男は少女に語りかける。さながらそれは獲物をたぶらかすように。

 そう、確かに私はアキラの元へ帰りたい。あんな光景を見てしまったから、もうシドは信じられない。あんなに優しかったシドも、結局怖い大人の一人だったんだ。
 きっと、この男の言うことは正しい。私はこいつの名を奪いたくて奪った訳じゃないし、この黒い男の言うことは筋が通っている。
 だけど―――

 ――……嫌
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 『やっと捕まえましたよ。流石は魔王族。この私にこれだけの手間をかけさせるとは』
 『よくやった。さて、この極悪な悪魔を、どうやって処分するか……』
 『処分なんて勿体無い。“合体”させればいいじゃないですか。例えばそう……貴方達の組織の名の“八咫烏”にするのはどうですか? あの霊鳥はもう絶滅しているはず。“悪魔合体”させて造ってしまえばいいのですよ』
 『それはナイスアイディアだ。あの霊鳥に生まれ変われるとなれば、この悪魔も少しは我々の役に立つだろう。今コンプにある悪魔は、クー・フリンとカラステングと……』

 ああ、悔しい。
 こんな鳥の姿に変えられ、こんな惨めな籠に閉じ込められるとは。
 あのサマナーと大天使め! この忌々しい檻さえなければ、貴様等を八つ裂きにしてやるのに!

 ……人間の気を感じる。何処からだ? あの換気口の中から? 何故あんな所に人がいる? あのサマナーではない、もっと弱い人間のようだ。

 「おい、お前。此方だ、此方に来い」

 その人間に話しかけてみた。どうやら脅えているらしい。
 換気口の窓を破ってそいつが目の前に立つ。
 なんだ、子供じゃないか。なんで子供が此処にいるんだ。まあいい。この際誰でも構わない。

 「お前、この札を剥がせるか?」

 檻に貼られた札。俺を逃がさない為にあのサマナーと大天使が貼った、檻に結界を造り出している憎き札。この札さえ剥がれれば、こんなちゃちな檻直ぐに破れる。

 子供が恐る恐る札に触れる。途端、札の力が彼女の細い指先を弾いた。

 「やはり駄目か」

 手を押さえながら脅えている少女を見る。
 良く見ると不思議な子供だ。喉の付近に強い力を感じる。どうやら魔力が声に具現化したようだ。
 思春期に入った子供に力が発現するのは稀にある事だが、この少女の場合、それが声のみに宿っている。
その少女の思考が悪魔に流れ込んできた。
 戸惑い、恐怖、そして俺の姿を見て「八咫烏」と感じている。

 「違う」

 何度その名を言われた事だろう。思い出しても屈辱だ。無理矢理他の悪魔と合体させられ、元の能力を半減させられ、人間共の崇める鳥の姿に変えられ、挙句こんな子供にまで「八咫烏」などと思われる。
 悪魔は唾棄したい衝動に襲われた。

 「そんなのはお前ら人間どもの造り上げた幻想の存在だ。俺の名は―――」

 悪魔は、自らの名を名乗った。人間から恐れられる、禍々しい真名を。

 そして、それが間違いだった。

 悪魔の間違いは少女の言霊を侮っていたこと。
 少女が悪魔の真名を口にしたとき、異変は起きた。

 悪魔の魂が無理矢理現世に縛り付けられた。
 魂と結びついている真名を、少女が強い言霊で発した事により、名を奪ったのだ。

 記憶の中から、自らの名が消えていく。同時に封じられていた力の一部が解放されていく。
少女が解き放った悪魔の力が、黒い風となって檻から流れ出る。その風が檻の札に亀裂を走らせる。しめた、これでここから出れる。
 しかし少女の姿は既にない。風に巻き込まれて何処かへ飛ばされたか。
 札の結界が破れ、悪魔は名を奪って消えた少女を探しに、檻から抜け出した。

―――

 檻から出た悪魔は、地上の鞍馬山に出て、少女を探していた。
 ぶうん、ぶうん。名を奪われた悪魔は、三本足の鴉から、黒い蝿のような小さな塊へと変わってしまった。
 鴉の姿でさえ屈辱的だったのに、今度は蝿の姿へ変えられてしまった。魂の一部とでもいうべき真名を、あの人間の少女が奪っていったせいで。
 しかもそのせいで時空を移動したくともできなくなってしまった。この世界の時間軸に固定されてしまった。
 時空を徘徊していた所を、あのサマナーと大天使に捕まったのも悔しいが、あの子供に真名を奪われ、こんな姿へ変えられてしまったのはもっと屈辱だ。

 血の匂いがした。近くに消えそうな生命の気を感じる。
 近づいてみるとやっぱり。あの少女が頭から血を流して倒れていた。大方、斜面から転がって石にでも頭をぶつけたのだろう。間抜けな奴だ。

 「無様だな」

 悪魔の名を奪って、さらにはこんな姿へ変えた少女が、血まみれの顔の青い瞳で此方を見ている。
 こんなところで死ぬのは許さない。このままこいつが死んでしまえば、悪魔はずっとこのままの姿で、力も取り戻せない。

 「わた、しを……たす、けて」

 悪魔を右手で掴みながら少女は言う。
 助けて、ときた。無論、このまま死なれては困るので、名を返してもらうまで生かしておくつもりだが、それだけでは気が済まない。
 こいつは俺の名を奪ってこんな姿へ変えた相手だ。俺を捕まえて鴉に変えたあのサマナーと大天使の次に憎い。

 だから、俺はこいつの名と、言霊を頂く。

 「―――」

 少女が名乗った。自らの名を。強い魔力が宿った言霊で。

 強い言霊の力を経て、悪魔の姿が変貌する。黒い小さな塊から、鴉に似た翼を生やした人間の姿に。
 本来の姿ではないが、これで充分だ。

 「名乗ったな」

 がし、と悪魔が少女の首を掴む。少女の青い瞳が見開かれ、気道を圧迫された喉から、ひっと潰れたような音が鳴る。
 悪魔の手から黒い影が発生し、少女の首から侵入する。
 影は少女の身体中を侵食する。喉から直接魔力と言霊を吸出し、更に自らの能力の一部を分け与える。
 少女の顔が苦痛に歪む。しかし悲鳴は出ない。既に首を掴んでいる悪魔に声を奪われたのだから。

 そして、異変は起きた。

 悪魔の影の能力が暴発し、凄まじい大きさの影が少女の身体を基点に発生した。
 その影は爆発的に広がっていき、少女と悪魔だけではなく、鞍馬山を包み込む程の大きさに変わっていく。

 驚いた悪魔が手を離すと、今度は影が収縮してきた。
 一旦拡がった影が、今度は逆に少女と悪魔を包み込む程に小さくなったかと思うと、悪魔と少女は影に圧縮され、二人の姿を鞍馬山から消し去った。

 しとしと、しとしと。
 雨が降り続き、木々の葉と土を濡らす。
 後に残ったのは少女の紅い血痕だけ。その血溜まりも雨が押し流す。

 そうして元の静寂を取り戻した鞍馬山の夜空には、雨雲で隠れた月が、不気味な紅い光を放ち、陰謀渦巻く夜の山を静かに照らし出していた。

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 八咫烏――それは、日本だけではなく、世界中の神話に登場する三本足の霊鳥。
 日本で最初に目撃されたのは平安時代、当時の天皇の東国への遠征の折り、妖怪や鬼から救い、導いたのが始めと言われている――と少女に渡された資料には書いてあった。なんでも「ヤタガラス」設立当時は、あの有名な陰陽師の阿部晴明が長を務めていたらしい。
 太陽の化身であり、吉兆を告げるとも言われるその霊鳥の名を冠した組織は、京都府の鞍馬山の鞍馬寺、魔王殿奥の院の地下にあった。

 キツイ山道を上り、魔王拝殿という社にシドと共に入り、地下へと続く隠し階段を降りると、其処には巨大な空間があった。
 コンクリートの壁で囲まれた大きな部屋は、少女が見たこともない機械があちこちに配置され、白衣の大人達がせわしなく動いている。こども雑誌で見た21世紀の予想図のような近未来的な雰囲気を少女は感じた。

 少女は白い貫頭衣のような服を着せられ、個室に案内された。其処には二段ベットが壁際に二つ、小さなテーブルと椅子が一つづつ、そして少女と同じ年頃の女の子達が三人いた。
 女の子達は、皆猜疑の色を瞳に宿している。
 少女の胸のプレートには、「F-14」と書かれていた。それが少女のここでの名らしい。

 何故、自分はこんな格好をさせられ、こんな部屋に入れられるのだろう。シドに聞きたくても、シドは此処に来てすぐ少女を別の大人に引き渡し、何処かへ行ってしまった。私は悪魔を祓ってもらいに来たのに、いつそれは行われるのだろう。そして部屋のこの子達は何者なんだろう。この子達も私と同じく、悪魔にとりつかれているのだろうか。

 「ねえ、あんた何歳? なんて名前?」

 三人の女の子のうちの、栗色のパーマをかけたショートカットの髪型の子が、少女に話しかける。日焼けした肌にそばかすが浮いている。

 「…………」
 喋るのを躊躇い、少女は、空中に指で「14」と書いた。そばかすの少女が眉を潜めた。

 「もしかしてあんた、喋れないのかい?」

 その問いかけに、少女はやや間を置いて頷いた。
 喋れないわけじゃない。私の声には悪魔がとりついているから、私が言葉を発すると周りの人が不幸になるから喋らないだけ。そう説明しようにも酷くどもるだろうし、ずっと喋るのを押さえてきた喉は、大きな声が発せない。ならそう誤解させといた方が面倒がなくて済む。

 「そっか、あんたも色々あったんだね。あ、あたしは京子。あんたより一つ上の15歳」

 そう言って、京子と名乗った少女はにっと笑ってみせた。歯が何本かかけている。京子の胸のプレートには「F-15」と書かれている。
 京子はそれから残り二人の紹介をした。三つ編みおさげの小太りの子は紗香、背の高いキツイ目付きのソバージュの子は清美。それぞれ16と17らしい。
 少女が会釈しても、紗香は怯えたように俯き、清美はぷいとそっぽを向いた。

 京子は少女に好意的で、「どうして目が青いの?」「なんで此処に来たの?」と少女に喋りかけた。その目にはからかいの色はなく、ただ単純に好奇心で聞いているようだ。
 少女は京子が持っていたスケッチブックに、渡された鉛筆で素直に答えを書いた。

 [目が青いのは生まれつき、多分父親が外人だったから]
 [悪魔がとりついているっていわれてここにきた]

 そう書かれたのを見て、京子が目を丸くした。

 「へえ、あたしもだよ。あたしがこんな不良になったのは悪魔がとりついてるんだって、感化院のババアに言われてさ、無理矢理ここに送られたってわけ」

 京子の話によると、京子は両親が蒸発し、好きだった絵を描くのを止め、お金欲しさに窃盗、恐喝を繰り返し、警察に捕まり感化院に送られた。そこの職員の女性に「悪魔にとりつかれている」と告げられ、京都のヤタガラスという組織なら悪魔を祓えると言われ、嫌々ながら此処に来たらしい。

 「別に悪魔とか全然信じてないんだけどさ、ここの方がクソみたいな感化院よりはマシかなーて。紗香と清美も同じようなもんだよ。あの子達も親がいないし、周りの大人に「悪魔がとりついている」って言われてここに送り込まれたみたい」

 紗香は二段ベットの上で膝を抱えて丸くなっているし、清美は下のベットの中で横になっている。ふて寝しているのだろうか。

 シド以外に好意的に接してくれる人がいる。しかも同じ年頃の。ずっと敵意と差別に晒されてきた少女は、京子に気さくに話しかけてくれたのが嬉しくて、久々に顔の筋肉を動かし、笑顔を作った。
 それは物凄くぎこちない笑みだったが、京子は大きな口を開け、ところどころ欠けた歯を見せ笑ってくれた。

―――

 そこでの暮らしは退屈だった。
 最初の日に知能テストと身体測定が行われた以外は、特にやることもなく、三食食事が出てくるのはありがたかったが、それだけだった。施設内で歩く事が出来たのは限られた区画だけで、少女はシドを探して何度か施設内を彷徨い歩いた。
 そこでわかったことは、どうやら私達以外にも同い年くらいの子が、幾つものグループに別れて部屋に入れられており、男女別にAからFのグループに分かれているという事だった。

 この子達は皆悪魔にとりつかれてる子なのだろうか。
 何故シドはあれから私の目の前に現れてくれないのだろう。早く悪魔を祓ってほしいのに、早くアキラの元に帰りたいのに。

 「あんた、弟がいるんだ?」

 一週間目の日、京子と二人で筆談でアキラの事を話したら、京子は同情的な視線を寄越してそう呟いた。
 今、この部屋には京子と少女の二人しかいない。
 三日目に清美が白衣のおじさんに呼ばれて部屋を出ていった。五日目に紗香が同じく呼ばれて、そしてそのまま二人は戻って来ない。
 順番に悪魔祓いを行なっているのだろうか。清美と紗香は無事に悪魔を祓ってもらえて家に帰ったのだろうか。羨ましい。私も早く帰りたい。アキラはまだ八歳だ。早く帰ってあげないと、あの子は寂しくて泣いてないだろうか。施設で苛められてないだろうか。

 「あたしもね、妹がいるよ。あたしに似て別嬪なの。ほら」

 そう言って京子はスケッチブックを捲る。するとあるページに、精密なタッチで巻き毛の幼女が描かれていた。確かに目元が京子にそっくりだ。

 「親が蒸発してから、あたしと妹は別々の親戚に引き取られたの。それからずっと会ってない。でも、此処から出たら会いに行こうと思うんだ。家は東京だけど、もし妹と会えたらあんたと弟にも会いに行くよ。横浜でしょ?  電車で行けば近い近い!」

 それは素敵な申し出だ。アキラと私が京子と妹さんと一緒に横浜で遊ぶ。ずっと二人っきりだった私とアキラに「友達」が出来る。世の中には悪意をぶつけてくる子ばかりじゃない、京子のように人と違う目の色をからかったりしない、苛めたりしない子もいるんだ――そう気付いた時、胸の奥が暖かくなるのを少女は感じた。

 「約束だよ。一緒に遊ぼうね」

 京子の小指に自分の小指を絡ませる。初めての指きりをしながら、少女は涙ぐんだのを悟られないよう俯きながら小さく頷いた。

―――

 八日目、ついに京子が呼ばれた。

 「悪魔とやらを祓ってもらったら、すぐに戻ってくるよ」

 そう言った京子は、しかし一日経っても戻ってこなかった。清美や紗香と同じく。
 十日目の夜、少女の我慢は限界に達した。これ以上待てない。部屋に独りぼっちは耐えられない。シドを探そう。そして悪魔をとっとと祓ってもらって、横浜に帰ろう。京子を探して一緒に此処を出るんだ。
 貫頭衣を脱ぎ捨て、来たときと同じ半袖のタートルネックにベージュのカーゴパンツ、そしてシドから貰った軍靴を履き、十字架のペンダントを首から下げ、少女は部屋の換気口の蓋を外し、そこに身体をよじいれた。
 換気口があるなら、ここを渡っていけばきっと地上に出れる。ドアには外側から鍵がかかっているし、換気口以外に地上へ出られる道はない。
 換気口の路は狭く、少女の小柄な身体でギリギリの大きさであった。酷く埃っぽい。とりあえず、明かりの見える方向に向かって匍匐全身で進んだ。
 腰と手足ががくがくになり、全身が埃まみれになった頃、ようやく人がいる部屋を覗けた。

 「……ああ、これも失敗だ。やはりもっと幼い子供の方がいいのではないか?」

 聞き覚えのある声がした。シド先生だ! シドは何時もの神父服ではなく、白衣に身を包んでいる。

 「“種男”と“畑女”の方は?」
 「あれは効率が悪い。苗が芽吹くのにどれくらい時間がかかると思う? やはり直接採取した方が……」

 種男? 畑女? なんの話だろう。そういえば何だか血の匂いがするが――

 うす暗い部屋を目を細めてじっと見る。すると、奥の方に病院の診察ベットのようなものが見えた。そこに人が拘束されている。
 パーマをかけた栗色の髪、日焼けした肌、だらしなく開いた口からは幾つも欠けた歯が見える――

 (……京子!?)

 京子は虚ろな視線を宙に浮かべ、口から涎を溢したままだ。頭にはいくつも管のようなものが刺さっている。
 その光景を直視してしまった少女は、身体中の血が引くのを感じた。身体が震える。胸の奥から得体のしれない感情が沸き上がってくる。
 ――嫌だ、シド、何をしているの? 京子に何したの? 嫌だ、やめて、やめて――!

 『おい、お前』

 悲鳴を上げる寸前、少女の頭に声が響いた。低い男の声だ。
 シドの声ではない、誰、誰の声?

 『こっちだ、もっと奥に来い』

 狭い路の奥、微かに赤い光が漏れている。あの部屋に行けばいいのだろうか。
 換気口の窓の向こうの凄惨な光景を振り切り、少女は奥の光の方向に前進した。

―――

 その部屋は、赤色灯で赤く照らされているコンクリートの基礎が剥き出しの壁の部屋だった。
 換気口の窓を蹴破り、少女は部屋に降りた。
 何もない小さな部屋である。真ん中に置かれている奇妙な札が張られている大きな鳥籠を除けば。

 『来たか』
 「……?」

 鳥籠の中に、黒い鳥が捕まっている。随分大きな鳥だ。少女より少し小さいくらいで、子供くらいの大きさはあるのではないか。

 『お前、この札破れるか?』

 その鳥は少女に語りかける。何故鳥が私に話しかけてくるのだろう。何故こんな大きな鳥がこの部屋で鳥籠に入っているのだろう。

 「…………」

 疑問に思う事はあったが、少女は言われた通り鳥籠の札を剥がそうとする。途端、指先にびりっと電流のようなものが走り、少女は思わず手を引っ込めた。

 『やっぱり駄目か』

 鳥が残念そうに呟く。
 ひりひりする指先を押さえながら、少女はじっと鳥を見る。良く見ると鳥の足が三本ある。黒い鳥、鴉、三本足の鴉――もしかして、この鳥は、八咫烏――?

 『違う』

 少女の考えを読んだかのように鴉はぴしゃりと否定した。頭の中に響いた声は、どこか不機嫌そうだ。

 『そんなのはお前ら人間共が勝手に作り出した存在だ。俺の名は―――』

 鴉は名乗った。八咫烏に無理矢理「させられる」前の、自分の真名を。

 「――――」

 その禍々しい名を聞いた少女は、無意識に復唱してしまった。
 数ヶ月喋るのを押さえてきた少女が、吃りもなく、喉を震わせ声を発してその鴉の姿をした「悪魔」の名を口にしてしまった。強い言霊を得た、その声で。

 それが始まりだった。

 少女の目の前の鳥籠から、黒い風のようなものが噴き出す。そのあまりの威力に少女は驚愕し、たたらを踏んだ。
 鳥籠に張られていた札に破れが生じる。

 『貴、様……俺…の……名を……』

 風はどんどん強くなっていく。身を切り裂かれるようにその風は鋭く、強い。何? 何が起きているの!?
 先程の光景が頭に浮かんだ。白衣のシド、診察台に拘束された京子、虚ろな視線、血の匂い、やだ、やだ、怖い、此処は怖い、早く此処から出なくちゃ、帰らなくちゃ、家に―――!

 途端、一際強い風が吹いたかと思うと、少女の身体が宙に浮かび、視界が真っ暗に染まった。

 そして、次の瞬間、尻に衝撃が走る。
 あまりの痛さに目を開けると、そこは赤色灯に照らされたコンクリートの部屋ではなく、夜の鞍馬山の山中であった。

 霧雨が降っている。生温かい雨が少女を濡らす。
 何? 一体何がおこったの!? さっきまで私は地下にいたはずなのに、何故地上に出られたの――?

 混乱する頭を押さえ、少女は立ち上がり、そっと足を踏み出した。
 暗く、険しい獣道を数歩歩いたところで、少女はぬかるみに足を滑らせた。

 「!」

 急な斜面を転がる少女の身体。木々の枝が少女の身体を引っ掻き、泥が身体中にへばりつく。そして、斜面に飛び出していた大きな石に頭をぶつける。

 「うっ!」

 強く鋭い衝撃が頭に走った。雨に濡れた地面に小柄な身体が放り出され、そのまま少女の身体は動かなくなった。

 しとしと、しとしと、雨が降り続く。少女の右側頭部から、血が流れ、赤い血の溜まりを作っていた。
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 少女が中学に上がって数ヶ月経った時の事、
 ある日、体育の時間から教室に帰ってくると、脱いで袋に入れてあったはずの制服がズタズタに切り裂かれていた。
 呆然とする少女の周りから、くすくすと嘲笑う声が聞こえる。
周りを睨みながら見渡す。クラスの皆は誰も少女と目を合わせようとしなかった。

 近頃、こういう嫌がらせが多くなった。

 犯人が誰か分からない陰湿な嫌がらせ。皆、少女が怖くて、そして疎ましかったのだろう。異色の瞳を持つ、貧乏な家庭の私生児。それだけではなく、少女は学校の成績が良かった。
 テストなんて、教科書を記憶して、問題の規則性を覚えてしまえば少女にとっては簡単に解けた。それが、クラスの皆の嫉妬心を煽ったのだろう。

 ぎゅ、と少女は血が出るまで拳を握った。

 犯人が誰か分かっていれば、そいつを締め上げてやるのに、コイツらはそれを分かってて、わざと私に分からないよう嫌がらせを続けている。
 担任に言ったって解決しない。あいつも私を疎ましく思っている。常に小汚ない格好をして、常にクラスの子といざこざを起こしている問題児の私の言葉など、聞き届けてはくれないだろう。

 全員が敵。私の周りは皆敵。私の味方は、アキラと、デイビス先生だけ!
 体育着に隠した十字架のペンダントを固く握る。

 強くならなきゃ、こんな嫌がらせに負けないよう、心も身体も強く!

―――

 その日の帰り、いつものようにシドの教会に行った少女は、教会に置いてあった寄付箱の中に、古い男ものの服を見つけた。
 近くの米軍基地の親切な兵士からの寄付だろう。ベージュのカーゴパンツに半袖の黒いタートルネック。
少女は迷わずそれを取った。

 「それは大人の男の服だよ? 君には大きすぎるんじゃないかい? もっと可愛い女の子の服もあるが……」
 「いいの、私はこれがいい」

 体育着を脱いで早速それを着てみた。やはりかなりダブダブだったが、少女は嬉しかった。
 近所の兵隊さんと同じ格好をしている。銃を持って闘う強い兵隊さん。あんな風に強くなれたらってずっと思っていた。私は痩せっぽっちで女だけど、この服を着たら不思議と強くなった気がする。兵隊さんと同じになれた気がしてなんだか嬉しい。

 「アキラ、似合う?」
 「……あんまり似合わないかも」

 大きすぎるズボンを手で押さえる姉に、アキラは苦笑いを浮かべながらそう言った。シドも苦笑し、裸足の少女にゴツい軍靴を差し出した。

 「……これは?」
 「靴も隠されてしまったんだろう? 私のお古だが履くかい?」
 「デイビス先生も……」
 「シドでいい」
 「じゃあ、シド、先生も兵隊さんだったの?」
 「そうだよ。昔の事だがね」

 それを聞いて、少女はもっと嬉しくなった。
 シド先生は元兵隊さんで、神父さんで、こんなにも強くて優しい。シド先生と同じ格好をしたら、私はきっと先生のように強くなれる。どんな事にも負けないくらい強く!
 大きすぎる軍靴を履いた姉を見て、アキラは困ったように笑ったが、少女はそれがまた可笑しくて久々に笑った。

―――

 世の中は高度経済成長の真っ只中。オイルショックで教科書が薄くなり、ベトナム戦争が終結した時代、少女は中学二年に進級し、そして遅い初潮を迎えた。

 この頃から、少女にある変化が見られた。

 きっかけは些細な事。
 ある夏の事、その日はうだるように暑かった。だから少女は口にしたのだ。
 「雨が降ればいいのに」と。

 そして一時間後、雲ひとつない晴天の空に黒い雨雲が広がり、バケツをひっくり返したような雨が降った。
 その時は、ただの偶然だと思ってたいして気にしていなかった。

 でもその後、少女の発した言葉はよく実現した。

 ある時は、アキラと二人で家で留守番をしていて、お腹が空いて、「ケーキが食べたいな」と呟くと、その日は母が珍しく早く帰ってきた。そしてパチンコで大勝したと言って、ケーキをお土産に買ってきた。

 ある時は、アキラを迎えに隣の小学校まで行くと、檻に飼われていたウサギがなんとなく元気がないように見えたので、「もうすぐ死んじゃうのかな」と発すると、翌日、ウサギの姿は見えなくなった。アキラの話によると、朝、生物係が檻の中を覗くと全羽死んでいたという。

 またある時は、同級生が少女に聞こえよがしに悪口を言った時に、いつもなら無視するのに、たまたま虫の居所の悪かった少女が、「うるさいよ、階段から落ちちゃえば?」と捨て吐くと、その同級生は三日後に、本当に階段から足を滑らせて亡くなった。

 偶然ではない、自分の言った言葉が本当になってしまう――しかも、ほとんどが悪いこと――その事実に少女は驚愕し、自分が喋っては誰かが不幸になると怯え、なるべく言葉を発しないよう努めていたら、いつしか少女は、学校でも、家でも、殆ど喋る事をしなくなった。

―――

 「それは、悪魔がとりついているね」

 ある日、学校をサボって教会で本を読んでいた時の事、何故最近殆ど喋らないのか、とシドに問われて、ありのままを話すと、シドはそう答えた。

 「あ、く……ま?」

 二ヶ月近くも喋るのを押さえていた少女は、最早言葉を発しようとしても、酷く吃り、また音量も小さかった。

 「そう」
 パタン、とシドが聖書を閉じながら言う。

 「君のその声にね、どうやら悪魔がとりついてしまったらしいね。君の言霊を増幅させ、その結果、言葉の内容が現実に具現化してしまった」
 「こと……だま……て、な、に?」
 「人間の言葉の力、とでもいうのかな。言葉には力が宿るとこの国では古来から伝えられてきた。誰にでも持っている力だけど、君の言霊はかなり異常だ」

 異常? 皆とは違うこと? この瞳の色のせいで、アキラの金髪のせいで、私たちはずっと阻害されてきた。全ては皆と違うから。私はそれに抗ってきた。
 でも、外見だけじゃなく、言葉まで皆と違うだなんて、私は、一体なんなの? 何時になったら皆から虐められなくなるの――?

 「大丈夫だ。君は普通だ。ただ今は声に悪魔がとりついているだけだ」

 顔を伏せ、しくしくと涙を流す少女に、シドは優しく語りかけた。
 悪魔――神に仇なす悪い奴だと前に教わった。人を誑かし、陥れ、堕落させると聖書にも書いている。

 「君にとりついている悪魔を祓う事、できなくもないよ。ただちょっと遠出することになるけど」

 悪魔を祓える? シド先生が? 本当に? 遠出? どこまで行くの? 神奈川から出るの?

 「京都にある鞍馬山。そこに、私の所属している「ヤタガラス」という組織があるんだ。……内緒だよ。実は私は、悪魔召喚師、デビルサマナーなんだ」

 その後、シドが話してくれた事によると、
 シドは妖精や天使といった異形のものを異界から呼び出して、邪なるもの、鬼や悪魔を祓う悪魔召喚師・デビルサマナーらしい。
 古くはエクソシスト、陰陽師と呼ばれていた者が異形のものを使役し、魔を討ってきた。現在でもその血をひく家系はデビルサマナーとしてこの国で暗躍しているとのことだ。

 「でも、悪魔召喚プログラムというのが開発されてね。私のような一般人でも、ほら!」

 シドが聖書に手を翳すと、途端聖書から光の玉が生まれ、驚いている少女の目の前で小さな羽を持った女の子に変わった。
 妖精・ピクシー。小さな女の子の姿をした妖精は、驚愕に目を丸くしている少女の周りを蝶のように飛びまわった。

 「これで信じてくれたかい? 私達は魔を持って魔を制するデビルサマナーなんだ。だから君のその声についている悪魔も祓うことができる」

 でも、と少女の目の前に人差し指を出し、ピクシーを収容したシドは続ける。

 「君の言霊を蝕んでいる悪魔は、ちょっと厄介な奴だ。だから、私と一緒にヤタガラスに来てほしい。そこには私以外に強力なデビルサマナーが沢山いる。必ず君にとりついている悪魔を退治してみせるよ。
 今すぐに答えは出さなくていい、家に帰って、お母さんに許しを貰っておいで」

―――

 その日、帰ってきた母の機嫌は悪かった。

 「またこんなに散らかして! 足の踏み場もありゃしない! さっさと片付けろ!」

 少女としては六畳一間の部屋はいつもと変わらない、大して散らかってはないように見えたが、酒臭い母は更に怒鳴った。

 「ほら、早く飯を作って! ああお腹空いた! なんだいその格好? そんな汚い格好して、またろくでもない事でもしてきたんでしょ!?」

 少女とアキラが突き飛ばされる。肘を畳に擦ってしまい、肘がじんじんする。

 小汚ないのはいつもの事じゃないか。家が貧しいから、満足に銭湯にも行けないし、お母さんが洗濯をしてくれないから、私がいつも慣れない手付きで洗濯機を動かし、衣服を干している。
 お腹が空いているのはこちらも同じだ。お母さんはお店でご馳走をお酒と男の人と一緒に食べてくるのに、私とアキラはいつも給食とシド先生のくれるお菓子以外食べてなくて、とてもお腹が空いているのに、なのに何故私がご飯を作るのが当たり前になってるの? いつからお母さんは何もしてくれなくなったの? 何故子供の私達がこんなに働かなきゃいけないの――!?

 「……嫌い」

 ボソッと呟いたその言葉に、母の肩が揺れる。母の濁った眼が少女を見つめる。

 「お母さんがちゃんとしてないから、私とアキラは皆から虐められるんだ! なんで子供の私達がこんな目に合わなきゃいけないの!? なんでお母さんはちゃんとしてくれないの!?」

 ずっと胸にあった不満が爆発した。その時の声には吃りもなく、音量も大きかった。言葉が抑えきれない。母が口を開けてぽかんとしている。アキラが怯えてこちらを見ている。

 「嫌い、大嫌い! お母さんなんか、死んじゃえばいいんだ!」

 それは、思春期に入った者なら、親への反抗で、感情に任せて言ってしまうありふれた言葉かもしれない。普通の子供ならば。
 しかし、少女は事情が違う。少女の言葉は“本当に”なってしまうのだから――。

 はっ、と少女は口を覆う。しかし口から出た言葉は元に戻せない。母は酷く傷ついた顔をし、アキラは姉の剣幕に怯え、今にも泣きそうだ。
 どうしたらいいのか分からなくて、少女は弟の手を引き、家の外へ飛び出した。閉める前のドアの隙間から、母が呆然とした顔でこちらを見ていたが、少女はそれを見なかったことにした。

 その日はシドの教会に逃げ込み、そこでアキラと二人夜を過ごした。
 シドは何も聞かなかった。

 お母さんに酷いことを言ってしまった。私の言葉は本当になっちゃうのに。どうしよう、どうしたらいいの――?
 弟と二人、泣きながら身を寄せ合って、教会の固い椅子の上で一緒に寝た。

―――

 そして、やはり少女の言葉は現実になってしまった。

 翌日、母が死んだのだ。
 酔っ払って車道に出た所を、車に跳ねられて亡くなった。

 その後の事はよく覚えていない。

 病院で変わり果てた母と面会し、シドが葬儀の手続きを行ってくれた。参列者は少女とアキラだけだった。
 そして母は外人墓地に無縁仏として埋葬された。それが正しい事なのか少女には理解できなかったし、呆然自失となってしまった少女にはシドや周りの人間の言葉は届かなかった。

 ――私が、母を殺してしまった。母にあんな事を言ったから、私が悪魔にとりつかれているから――

 シドの用意してくれた喪服に身を包んだアキラは泣きじゃくっている。少女はその手をぎゅっと握りしめた。

 ――このままだと、私はアキラまで殺してしまう。行かなきゃ。シド先生に悪魔を祓ってもらわなきゃ――!

 その後、身寄りのなかった二人は施設に引き取られたが、施設に入ってから一週間も経たないうちに、少女はシドと共に鞍馬山に行く決意をした。

 「姉ちゃん、何処に行くの?」
 「お姉さんは私とちょっと京都まで言ってくるよ。何、心配はいらない。ほんの二、三日で帰ってくるよ」

 支度を済ませた少女が、心配そうな顔をしているアキラをそっと抱き寄せた。

 「すぐ……かえ、って、くるから……まって、てね」

 手をアキラの頭に乗せる。柔らかい金髪。私と同じ青い目。私の、血の繋がった弟――。
 必ず帰る。その時はまたいつもみたく遊ぼう。手を繋いで海にも行こう。山下公園に遊びに行こう。お母さんのお墓参りにも行こう。だから、待っててね、アキラ。

 思えばこの時、私はなんとしても留まるべきだったのだ。
そうすれば「あいつ」と出会うことなく、運命も大きく変わらなかったのに――
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 九楼重女――。後にそう偽名を名乗る少女は、
 1960年代前半、ベトナム戦争が勃発し、安保闘争が激化、東京オリンピック開催、ソ連有人宇宙船が地球一周に成功し、アメリカのケネディ大統領が暗殺される等の激動の時代に、神奈川県横浜市の米軍根岸住宅地区の近くの古いアパートで生まれた。

 生まれた時に父はいなく、ただ自分の白い肌と青い瞳が、父が外国人であることを物語っていた。
 母は、米軍の根岸住宅地区の近くのバーでホステスとして働いていた。そこは近くの基地の米軍兵士御用達のバーで、恐らく少女の父ともそこで出会ったのだろう。
 母が休みの日は、少女と母の二人で夜遅くに公園で遊ぶ事が多かった。昼間に公園に行けば、少女の青い瞳は近所の子供達のイジメの対象となる。見知らぬ外国人との間に私生児を生んだ女――母がそう近所の人々から陰口を叩かれ、白い目で見られているのを鋭敏な少女は感じ取っていた。
 夜の公園は暗かったが、母が笑顔でブランコを押してくれる、遊び疲れた自分をおんぶしてくれる――友達は出来なかったが、それだけで少女は幸せだった。

 少女が六歳の時、弟が生まれた。名はアキラと名付けられた。
 目の色は少女と同じ青だったが、アキラは少女の黒い髪とは違う、錦糸のような金髪を持って生まれた。

 アキラが三歳になってから、母は仕事を増やし、前より忙しくなり、家には少女と弟の二人っきりになることが多かった。
 母がいない間、ずっと独りぼっちだった少女に、弟ができた。可愛いアキラ。もう一人じゃないんだ。忙しいお母さんに代わって、私がこの子を守ってあげなくちゃ!

 少女は弟に絵本を読み聞かせ、ご飯を作り、手を繋いでよく散歩に出掛けた。
 近所の子供のイジメは、黒髪の少女より、金髪碧眼のアキラに集中した。
 石を投げてきたり髪を引っ張ったりする子供達に、少女は殴りかかって反発した。全てはアキラを守るため。これらの経験から少女は決して悪童に屈しない反骨精神を身につけた。

 そうして弟の面倒を見、夜遅くクタクタになって帰ってくる母親の代わりに家事を行い、その合間に宿題を行う。ご飯は学校の給食の残りのパン等を貰ってくる。貧乏な母子家庭で、異色の目を持つ少女は学校でイジメにあったが、イジメっ子は全員叩きのめした。その結果益々少女は孤立したが、そんなのは少女にとって些細な事だった。

 少女にとって大事なのは、母とアキラ。それだけが全て。その二人を私が守らなくちゃ。家には父がいないから、私がお父さんにならなくちゃ。もっと強くならなきゃいけない。家の近くの兵隊さんのように強く!

―――

 ある日、アキラと少女が近くの公園を散歩していたとき、それを見つけた。

 アキラとじゃれあって、公園の散歩道から外れて迷子になってしまい、半べそをかきながら見つけたそれは、古い小さな教会だった。
 教会の木製の古いドアを開けると、大きな十字架、貼り付けられた痩せっぽっちの男、色とりどりのステンドグラス、今まで白と黒と灰の色の世界でしか生きてこなかった少女には、その色彩はあまりに強烈だった。

 教会にいた黒人の神父は、シド・デイビスと名乗った。

 シドは、突然入ってきた子供達に怒ることもなく、ただ、二人がお腹を鳴らすと優しく微笑み、少女とアキラにチョコを与えてくれた。
 人から施しを受けたことのない二人は、最初警戒していたが、シドの眼鏡ごしの笑顔を見ていると、不思議と安心し、チョコを貰った。
 そのチョコは、とても甘く、また美味しかった。
 貪るように食べる二人を、シドは微笑みながら見ていた。そして、何時でも来ていい、と言って二人にお土産のチョコまで渡してくれた。

 それから、少女とアキラは学校帰りによくその教会に寄った。

 最初はお菓子を貰うのが目的だったが、シドは決して嫌な顔をしなかったし、寧ろ歓迎してくれた。少女とアキラにとって、そこは家以外で初めて心から安らげる場所となった。

 シドの教えてくれる事は学校の授業より面白かった。

 この世界には神がいて、天使はその使いで、悪魔は神に仇なす悪いやつ、日々口にする食糧に必ず感謝の祈りを捧げること、神はいつも自分達を見守っていること、生きている間に悪いことをすれば地獄に落ち、逆にいいことをすれば天国へ行ける。そんな事をシドは二人の子供に根気強く教えた。

 「でも、神様がいるとしたら、なんで私達は不幸なの?」

 ある日の教会、少女は常々疑問に思っていた事を口にした。
 聖書を読むシドの声が止まる。

 「だって……うちは貧乏だし、お母さんもアキラも私も、沢山意地悪されて……私がこんな変な目を持っているから、アキラがみんなと違う髪と目の色だから、皆意地悪するの? 神様は皆を平等に幸せにしてくれないの!?」

 ぎゅ、と隣の弟の手を握る。他の子より白い肌。みんなとは違う青い瞳。アキラのきらきら光る金髪。
 何故私とアキラがこんな色を持って生まれたのか、理由は明白だ。母はホステスだけをしているのではないと少女は知っていた。

 時々、家に外人の兵隊さんが母と共に来ることがあった。
 外人さんが来ると、少女とアキラは必ず家から出された。その時の母は、酒と香水が混じった臭いがして、子供ながらに、なにか淫らな事をするんだと感じ取ってしまっていた。
 今日だってそうだ、今頃あの家で、母は外人さんと肌を合わせている。私もアキラもそうして生まれたんだろう。
 汚らわしい。母は汚い。昔は優しかった母、柔らかく暖かい背中、頭を撫でてくれた細い手。それが今では男に寄りかかるだらしない女になってしまった。
 家でも酒を呑み、何処にも遊びにつれていってくれない。あんなお母さんなんか、大嫌い!

 「神は平等にいつも見ていてくれているよ」

 頭上から、優しい声が降ってきた。見上げれば、シドが眼鏡の奥の瞳を細めて少女を見ていた。

 「嘘。平等なんかじゃない、だって……」
 「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」

 滑らかに、唄うように発せられたその文節に、少女は魅せられた。

 「父?」
 「神の事だよ。神は人類皆のお父さんなんだよ」
 「私達の?」

 シドが頷く。

 「私達の父は、天にいる。そこで、人間全員を愛している。
 私も、君も、アキラ君も、君達のお母さんも愛している。どんなに罪深い人でも、あるがままに愛してくれている」
 「違う! そんな事ない!」

 少女が食ってかかっても、シドはそっと目を伏せるだけ。

 「君達が苦しい思いをしているのは、神が試練を与えているのだよ」
 「試練?」
 「そう。今、苦しいのは神がわざと意地悪しているんだよ。君達が本当の愛に気づく為に。越えられない試練はない。今の苦しい状況を我慢すれば、神は君達をきっと幸せにしてくれる――」
 「そんなの、嘘!」

 ガタッ、と少女が椅子から立ち上がる。隣のアキラがびくっと身体を震わせた。

 「意地悪する神様なんて、そんなのお父さんじゃない! そんなの間違ってる! そんなのが神様だなんて、父親だなんて、私は嫌、認めない!」

 十二歳になったばかりの、多感な少女は、しかし胸のもやもやを言葉に上手く変換出来なかった。
シドが、困ったように此方を向いている。アキラが、心配そうに姉である少女の袖を引く。

 「……っ!」

 自分の気持ちを上手く言葉に出来ない。その事が無性に悔しく、涙が滲んできた。
 それを見られたくなくて、そのまま少女は教会を飛び出した。

―――

 外は雨が降っていた。

 しとしと、しとしと。雨が、全身に振りかかる。雨が少女の涙を誤魔化してくれた。

 ――違うのに、あんな事が言いたかったわけじゃないのに。デイビス先生の事は好きなのに。先生の言葉は暖かいのに。
 でも、何かが違う。上手く言えないけど、何かこう、あの言葉を聞いたとき、反射的に「違う」て叫んじゃった。
 神は平等? 今の私達は試練を与えられている?
 石を投げられるのも、机に落書きされるのも、悪口を言われるのも、母がああなってしまったのも、私とアキラが他の人と違うのも、神様の試練だというの?

 冗談じゃない、そんな神様認めない、私は絶対認めない――!

 す、と少女に影が落ちた。
 しゃがんでいた少女は後ろを振り返る。そこには傘を持ったシドが立っていた。
 
 「……あ」
 「風邪を引くよ」

 シドが少女に傘を渡す。少女は顔を背けながらそれを受け取る。デイビス先生の顔が見れない。恥ずかしくて。
 シドの隣にアキラが立っていた。金髪碧眼の私の弟。私が守るべき、いとおしい存在――。

 「姉ちゃん」

 そっと、アキラが何かを目の前に出した。キラリと光るそれは、十字架のペンダントだ。

 「……これは?」
 「デイビス先生がくれたの。「お守り」だって。これがあれば悪魔から身を守ってくれるんだって」

 にこにこと笑いながら語るアキラとシドを見比べる。
シドは少女に対して怒ってる様子はない。先程と変わらず微笑んでいる。

 「あげるよ、それ」
 「え、でも……」
 このペンダントは何で出来ているんだろう。随分きらきら光っているが、もしかして純銀製なのか?

 「あの……うち、これを買えるだけのお金がなくて……」
 「これは私からの贈り物だよ」

 少し困ったように肩を竦めてシドは言った。

 「なんで……なんでそこまで私達に……」

 渡されるものには必ず代価が生じる。それが物でも、愛情でも。私はまだ十二年しか生きていないが、それくらいの事は分かる。人が、他人に完全な善意で施しを行うわけがない――。

 「私が君達を愛している。それが理由だよ」

 ぴく、と少女の肩が動いた。

 「愛している?」
 「ああ」
 「……何故?」

 疑心暗鬼な少女の言葉に、シドは黒い大きな手を肩に乗せる。

 「人が人を愛するのに、理由が必要かい?」

 少女はシドの顔を見上げる。デイビス先生の背は大きい。黒い肌、銀の髪、眼鏡ごしの青い瞳。私と、アキラと同じ、皆と違う姿――。

 そっと、黙ったまま、少女は十字架のペンダントを受け取る。そしてそれを首から下げる。

 「姉ちゃん、お揃いだね!」
 アキラが少女に抱きつく。アキラの首にも、十字架のペンダントが光っている。
 お揃い。アキラと、私と、デイビス先生と同じ十字架。皆とは「違う」者同士の印。

 デイビス先生の言葉は全部は信じられないけど、きっとこの十字架を渡してくれたのは善意だから、それは信じよう。これは素直に受け取ろう。

 少女がはにかんだのを見て、シドは満足そうに微笑んだ。
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 悪霊・レギオンが、紫煙乱打を黒蝿に放つ。
 黒蝿は宙を舞い、それを全てかわした。

 「あの馬鹿、一体何処まで行ったんだ!」

 ポルターガイストを追いかけて、ザンの衝撃で図書室から吹き飛ばされた重女は、もう20分近く戻ってこない。
 結界の主であるあいつが飛ばされた事により、図書室に閉じ込めていた悪魔が校舎中に放たれてしまった。
 先程校舎全体に結界を張る気配がした。きっとあいつだろう。
 最初から校内に結界を張っておけば、こんなに長く無駄な戦いをする必要などなかったなのに。それをしなかったのは、あいつの状況把握の甘さと能力不足が原因だ。

(本当弱い奴だな)
ウインドブレスを避けながら黒蝿が胸中でごちる。

 宙に舞いながら黒蝿のザンダインがレギオンに命中する。
 一瞬、レギオンの身体が衝撃波によって震えたが、それだけだった。レギオンは赤黒い幾つもの顔をにやつかせ、再び黒蝿へ攻撃を再開する。

 「こいつにはザン系の魔法は効かないのか」
 ならば――。

 「アギダイン」

 黒蝿の手から火炎が生まれ、炎はレギオンを焼き尽くす。
 しかし、炎はすぐにおさまり、レギオンはまたしても大したダメージを負ってないようだ。

 (ザンとアギに耐性があるのか)

 黒蝿がそう分析するより早く、レギオンの肉の手が黒蝿の腕に絡まりつく。

 「しまっ……!」

 絡まりついた肉の手から、黒蝿のマグネタイトが吸われていく。
 レギオンの肉の手はしつこく、再びザンダインを食らわせてもなかなか外れない。
 
 「ち!」

 黒蝿はザンの衝撃波を乗せて、レギオンを思いきり蹴り飛ばした。
 やっと腕が自由になったが、吸魔によって大分マグネタイトを持っていかれた。
 よろめく黒蝿に、再びレギオンが紫煙乱打をぶつける。
 
 その時、黒蝿の周りを影が覆い、影が盾となってレギオンの攻撃を防いだ。

 「……やっと来たか」

 そう言って黒蝿は視線を後ろに回す。
 そこには、ポルターガイストの首根っこを捕まえ、黒い狙撃銃を携えた九楼重女が立っていた。

 「遅いぞ」
 「…………」

 それには答えず、重女はポルターガイストに銃口を向ける。

 「ひ、ひい!」
 『八百万針玉をあと十個』

 ガタガタ震えるポルターガイストは、重女の言われるがままに八百万針玉を口から十個吐き出す。吐き出された十個の八百万針玉に、重女の影がまとわりつくと、やがてそれは十挺の銃に変化した。

 レギオンが唸り声をあげて襲ってくる。

 重女は右手の狙撃銃の引き金をひき、八百万針玉をレギオンに命中させる。八百万針玉が、レギオンの肉の顔に幾つもの穴を空けていく。

 狙撃銃の形は崩れ、元の影へ戻った。

 休む間もなく、先程造った影の銃を手にとり、再びレギオンに向かって発砲した。
 打つ。崩れる。また打つ、また形が崩れる――。そうして十挺の影の銃を打ち終わった時、レギオンは既に瀕死の状態で、ただの肉塊と成り果ててた。

 「……お前が吹き飛ばされなければ、こんなに戦いが長引くこともなかったんだぞ」
 『五月蝿いよ』

 ぴしゃりと念波を送り、重女はズボンの背中に挟めてあった聖書型コンプを取りだし、死に体のレギオンに向かい、その赤黒い肉塊に、手で直接触れた。

 「何をしてる」

 黒蝿が咎めるように言うが、重女は無視した。
 もうマグネタイトを吸いとる影を作れるだけの力が残っていない。ならば直接悪魔に触れ、マグネタイトを吸いとるしかない。

 「―――!!」

 身体中に、レギオンの怨念と痛みが伝わってくる。

 苦しい、痛い、憎い、恨めしい、何故あいつが、殺してやりたい――全てこのレギオンを形作っていたもの、この学校の生徒達の負の感情が溜まり、そして悪霊・レギオンを生み出したのだ。

 重女の身体が海老反りになり、電流を流されたかのように痙攣する。脂汗が顔に滲み出て、苦痛に身を支配されても、重女の口から悲鳴は出せない。
 声を奪われた少女は、喉から苦し気な呼吸音を発するだけ。

 ――ねえ聞いて、寂しいの、苦しいの、とても痛いの、憎いの嫌なの殺したいの――。

 気を抜けば途切れそうになる意識を必死に保ち、重女はレギオンの感情を浴び、マグネタイトを吸いとった。
 マグネタイトを全て奪われたレギオンは現世から消滅した。

 滝のような汗を流し、息も絶え絶えに蹲る重女の右手を黒蝿は見た。
 右手は、レギオンの瘴気にやられたのか、焼け爛れている。

 「無茶をする」

 そう言って、回復術である「円子」をかけようと黒蝿の手が重女の右手を掴む。が、重女は振りほどこうともがく。

 「大人しくしてろ」
 『いい、大した怪我じゃない。後で紅と白に治してもらう』
 「馬鹿が、いいからじっとしてろ!」

 そう怒鳴られて、重女は渋々右手から力を抜く。
 溜め息を吐きながら、黒蝿が「円子」を右手に施す。

 「…………」

 その様子を、重女は額に脂汗を浮かべながらじっと見ていた。
 焼け爛れた右手は、下から新しい肉が盛り上がり、皮膚は細胞が分裂し、やがて元の健康な右手に戻った。

 「…………」
 右手を握ってみる、うん、痛みはもうない。

 『もう大丈夫』

 そう答えた重女は、青白い顔で、呼吸もまだ荒い。先程レギオンの感情を一身に受けたダメージが蓄積されているんだろう。

 「……もっと要領の良いやり方もあるだろう」
 『私は弱いから、こうするしか他に方法はないの。知ってるくせに』

 むすっと反論する重女に、黒蝿が何かを投げて寄越す。反射的に掴んだそれは、癒しの水の入った小瓶。

 「…………」

 訝しげな重女を、黒蝿は一瞥した。
 
 「まだやることがあるんだろう。今お前に倒れられては困る」

 その言葉を聞いた重女は、渋々癒しの水を飲んだ。
 確かにこいつの言う通り、まだここで倒れるわけにはいかない。猿と午頭丸を迎えにいかなくてはならないし、そして何より、保健室に閉じ込めた篠宮茜を解放しなくては。

 重女が癒しの水を飲んでいる姿を、黒蝿は眉を寄せ、不機嫌そうに見ていた。

―――

 廊下から絶え間なく聞こえていた衝撃音と、何かが割れる音、獣の雄叫びが聞こえなくなって、何分たっただろうか。

 保健室の扉が開かれると、土埃と火薬の匂いが篠宮茜にかかった。
 扉を開けて入ってきたのは、薄汚れた少女と、黒い翼を生やした黒い男だった。

 「主様おつかれ!」
 「おつかれ!」

 紅梅と白梅が跳ねるように重女に近づき、甘えるように足に絡まりつく。二匹の頭を撫でたあと、重女は茜に向かってパトラストーンを投げつけた。
 身体の自由が戻った茜は、床に捨ててあったジグ・ザウエルを拾い、銃口を扉の少女に向けた。

 「!」

 重女と黒蝿が息を飲む。紅梅と白梅がびくつき、重女の背の裏に隠れた。

 「九楼さん……ねえ、ダークサマナーて、悪魔を使って悪い事をしてるって、それって、本当…?」
 「……!」

 重女が一瞬驚愕の表情を見せる。が、次の瞬間、凄い形相で背中の二匹の妖精を睨む。

 「わあ! 主様怒ってる!」
 「怒ってるよう!」
 「青梅食べさせられるよう!」
 「嫌だよう!」

 黒蝿の背に逃げるように隠れた紅梅白梅を、重女は聖書を開き、コンプを作動させ、無理矢理収容した。

 「本当なんだね……。だから、悪魔を使って学校をめちゃくちゃにしたの……?」

 かたかた、かたかた。茜の全身が震え、それに合わせて銃口が揺れる。茜の鼻孔に、コンクリートが崩れたような匂いと、硝煙と、獣臭さと、微かな血の匂いが届く。
 目の錯覚だろうか、茜には目の前の少女が、黒い影と翼を纏った、小説の挿絵の悪魔そっくりに見えた。

 「なんで……ねえ、どうして! どうしてなの!? 何か言ってよ! 答えてよ!」

 錯乱している茜は、重女が声を出せないことを忘れ、問い詰める。
 月明かりだけの保健室は暗く、重女の表情は茜には見えない。しかしもし見えていたら、重女が寂しそうに顔を歪めたのが分かっただろう。

 「く、九楼さんは……私の憧れの人で……強くて…正義のヒロインで…なのに……なんで! なんでよ!」

 ぽろぽろと茜の眼から涙が溢れる。血の匂いと、煙と、険しい視線を向けてくる黒い男の存在が、茜の恐怖心を増幅させた。
 私の憧れの九楼さんは、銃を持ったりしない、悪魔を召喚したりしない、悪魔を使って学校をめちゃくちゃにしたりしない――

 『そう、私はダークサマナー。悪魔を使い欲望を満たすものよ』

 茜の頭に、低い「男」の声が響いた。頭蓋骨を振動させ、脳に直接届くそれは、扉の前に立つ金髪の小柄な少女が発していると解った。

 「おい、俺の声を使うなと言っただろうが」

 黒蝿が嫌そうに重女に言う。

 私だって使いたくて使っているわけじゃない。人間相手に念波を送るには、黒蝿が近くにいることと、こいつの声を借りてしか送れない。
 前につけていた咽喉マイクも壊れてしまったし、他に方法があるならとうにやっている。じゃなきゃ誰がこんな気色悪い方法を選ぶか。

 「な……な、に…? これ?」

 目の前の「少女」が、低い「男」の声で私の頭に話しかけてくる。「男」の声で「女」の言葉を使っている――!?
 恐怖が増し混乱が頂点に立ちそうな茜に、一歩、二歩と重女が近づく。

 『その引き金を引いたら貴女は戻れなくなる。本を読んで感動することも、買い物を楽しむことも、何も感じられなくなってしまう』

 突きつけられた銃口に構わず、重女は黒蝿の声で茜に呼びかける。もとより弾の切れたジグ・ザウエルなど、突きつけられてもなんの脅威もない。

 「あ、あ……」

 混乱で頭がおかしくなりそうだ。茜の身体の震えが益々酷くなり、目は恐怖で大きく見開かれたまま。その間にも、金髪の少女はどんどん近づいてくる。

 『貴女は、こちら側に来てはいけない』

 そっと、銃の先を握り、そのまま重女は茜の手を下ろさせた。
 茜の黒い目と、重女の青い瞳が重なる。眼鏡の奥の青い瞳は、少しだけ悲しみが浮かんでいた。

 「九楼さん、貴女は……」
 『違う。私の名前はそれじゃないの。私の本当の名は……』

 ちら、と重女が後ろの黒蝿を見る。黒蝿は眉を寄せて二人の少女を見ている。
 重女自身も思い出せない自分の本当の名前。それはあいつに奪われてしまった。命の代償に、声と一緒に。
 そして、重女も黒蝿の真名を奪った。意図せずではあったが、そのせいで黒蝿は異界にも帰れず、本来の力と姿を取り戻せない。

 『感じる心、それってとても大切だよ。それを無くしちゃ駄目』

 茜の頭に響く低い男の声。それを発している首に傷を負った、本当の声と名を失った少女が、ふ、と微笑み、茜の背に手を這わせる。

 『ありがとう。茜』

 茜がその言葉を理解すると同時に、首に衝撃が走った。
 暗転する視界の端に、眼鏡の少女が、悲しそうに微笑んでいるのを見ると、次の瞬間に、茜の意識が闇に包まれた。

―――

 気絶させた茜を保健室の床に寝かせ、重女はそっと立ち上がった。

 「そいつを人質に使うんじゃなかったのか」

 黒蝿が問いかけると、重女は無表情のまま振り返った。

 『この子を連れて、このまま烏丸コーポレーションに向かう。この子の父親はまだ会社にいる?』
 「ああ」
 『なら、行くよ』

 じっと、黒蝿が重女を見つめる。重女はその視線を受けながら『黒蝿』と念波を送った。

 『私は貴方を死ぬまでこきつかってやるから。決して離れないように縛りつけておくから、覚悟して』
 「何を今更。俺だってお前に死なれたら困る。俺もお前から離れない」
 『……なら、いい』

 気絶した篠宮茜を担ぎ上げ、黒蝿が黒い翼をはばたかせる。
 すると黒い風が発生して二人を包み込む。

 風が収まると、そこには誰もいなかった。重女も、黒蝿も、篠宮茜も。

 後に残ったのは、悪魔との戦いで、窓ガラスが割れ、壁のあちこちに殴ったようなヒビや、抉れた跡があちこちに付いた、傷だらけの校舎だけだった。続きを読む

 言葉というのは不便でもあり、便利でもある。
 声を出せないということは、失言もないし、拷問で情報を吐かされる心配もない。しかし逆を言えば、嘘で取り繕ったり、誤魔化したりすることが出来ないと言うことだ。

 「九楼さん?」

 篠宮茜が心配そうに重女の顔を覗き込む。
 夜の保健室。月明かりが窓から差し込み、ショートカットの少女と、薄汚れた軍服の眼鏡の少女を照らしだす。

 茜と目が会う。戸惑っているのだろう。無理もない、一般人が悪魔と出会って平気なはずがない。

 「…………」

 そっと、手元の聖書型コンプを握りしめる。
 あの時、ポルターガイストが茜を襲おうとしたとき、銃を打つのを躊躇い、思わずコンプを作動させ、ポルターガイストを無理やり収容してしまった。銃を打てば茜に当たるかもしれなかったからだ。しかしそのせいで余計な仲魔が増えてしまった、と重女は内心ため息をつく。

 かた、かたかたかた………

 「きゃ!」

 廊下から物音がして、茜は蹲る。重女は険しい顔をして身構える。茜の腕を引っ張って保健室に避難したものの、既に廊下には悪魔が跋扈している。
 図書室に張った影の結界は、結界の主である重女が吹き飛ばされたことにより解けてしまった。そのせいで今や校舎中に悪魔が溢れている。校舎全体に結界を張れなかったのは、重女の力が不足していたからだ。

 (さっき吸いとったマグネタイトの量なら……)

 重女が保健室の床に手を付ける。顔が苦悶に歪む。影が広がり、保健室だけではなく、校舎全体を包む。

 「く、九楼さん……?」
 突然暗くなった保健室に茜は怯え、様子がおかしい重女に思わず話しかける。

 「……!」
 重女の身体がぶるりと震えた。と同時に闇が晴れ、元の保健室が姿を表す。これで校舎全体に結界が張れた。
ぐら、と重女の身体が傾く。それを茜が思わず受け止める。

 「だ、大丈夫? 九楼さん……」

 月明かりに浮かぶ重女の顔は、明らかに苦しそうだ。呼吸も荒く、身体が冷たい。
 目を開いた重女は、茜の身体から離れた。まるで警戒しているように。

 ちら、と茜は重女の右手を見た。暗くてよくわからないが、あれはもしかして拳銃ではないか?

 「九楼さん、一体何があったの?」

 問いかけても重女は答えない。当然だ。彼女は声を発する事ができないのだから。
 分かっているはずなのに、茜がそう聞いてしまったのは、先程の行為といい、重女の様子が明らかにおかしい、と感じたからだ。
 何故、彼女は夜の学校にいるのだろう。何故そんな格好をしているのだろう、そして、何故銃を持ってそんな切羽詰まった顔をしているのだろう?

 「…………」

 重女は茜の顔をじっと見ていた。篠宮茜は戸惑いと怯えを隠せずにいる。

 こんな時、声が出せないのは不便だ。声を出せれば、篠宮茜にこの状況を誤魔化して説明したり、あるいは慰めの言葉を吐いて彼女を安心させる事ができたかもしれないのに。
 だが、私はもう声を出せない。私の声と本当の名は黒蝿に奪われてしまったのだから。
 仲魔や悪魔に送るように、人間相手に念波は送れない。いや、一つだけ送る方法はあるが、それは黒蝿が傍にいないとできない方法だ。
 重女はポケットを探る。デビルスリープは切らしていたが、デビルバインドの石があった。重女はそれを茜に投げつけた。

 「え?」

 石が当たると、茜の身体が突然動かなくなる。まるで見えない縄で縛られたように。

 「え、な、なにこれ!?」
 指一本動かせない状況に、茜は軽い恐慌状態に陥る。
 「く、九楼さん!?  一体何を!?」

 重女は目を伏せ、手元の聖書を開くと、そこに手を翳した。すると、突然二つの光の玉が出てきて、やがてそれは二人の小さな男の子に変わった。

 『紅、白』
 「あい」

 紅と白と呼ばれた二匹の妖精は、狸に似た獣耳と尻尾を震わせ答えた。

 『この子をこの部屋から絶対に出さないで』
 「うん、わかった」

 紅梅白梅童子に念波を送る重女を、茜は怯えながら見ていた。

 ――な、なんなの!? あの本からいきなり人が出てきたし、身体は動かないし、一体何が起きているの?

 茜の怯えた瞳を向けられながら、重女は弾の切れたジグ・ザウエルを床に捨てた。そして、先程ポルターガイストから貰った八百万針玉を手の平に乗せ、目を瞑る。
 すると手の平に影が集まり、やがてそれは銃身の長い狙撃銃の形になった。図書室で借りてきた「図解・世界の兵器とその歴史」に描いてあった狙撃銃だ。
 影の造型魔法の応用だ。頭にイメージした物体を造り出せる魔法。今まで刀や他の無機物は沢山作ってきたが、銃を造り出したのは久しぶりだ。一発打つだけで形は崩れ、しかも精度がイマイチという欠点はあるが、今はこれで充分だ。

 「…………」

 紅梅白梅童子に囲まれ、すがるような瞳を向けている茜に背を向け、重女は保健室から飛び出した。

 「九楼さん!?」

 後ろから茜の声が聞こえたが、重女は振り返らなかった。

―――

 『猿、牛頭丸』

 コンプを作動させ、二体の仲魔を呼び出した。
 聖書型コンプが光り、中から赤ら顔の猿の顔を持ち、着崩した着物を着た魔獣、石猿田衛門と、赤いしめ縄と褌姿の半牛半人の魔獣、八坂牛頭丸が現れた。

 「お呼びで? 姐さん」
 『猿と牛頭丸は校舎内の悪魔を掃討して』

 廊下の先を指差して重女が命ずる。
 廊下には悪魔がひしめいていた。悪霊・ポルターガイスト、クイックシルバーに、夜魔・ザントマンまでいる。

 「姐さんは?」
 『私は黒蝿の援護に向かう』
 先程造った影の狙撃銃を構え、重女は言う。

 「獅子丸を召喚しないノ?」
 牛頭丸の問いに重女は首を振る。
 『もうマグネタイトが残り少ない。獅子丸を召喚できるだけは残っていないわ』

 校舎内に結界を張って、更に三体も仲魔を召喚してしまったのだ、雷王獅子丸程の強力な仲魔を呼び出せる程のマグネタイトが残っていない。
 ぎり、と重女は奥歯を噛み締める。

 やっぱり私は「アキラ」程の力はない――!

 悪霊の群れが重女達を襲う。

 「おりゃあ!」
 「モォォ!!」
 
 田衛門がモータルジハードを振るい、牛頭丸が体当たりをかます。二体の攻撃を受けた悪霊の群れは、あっという間に消える。
 ここはこいつらに任せれば安心だ。私は早く黒蝿のところへ向かわないと。

 重女は踵を返し、親玉のいる図書室へ走った。

―――

 ズズン……と大きな振動が伝わってきて、茜の恐怖心はますます大きくなった。
 保健室の薬品棚が揺れ、机の上のペン立てが床に落ち、かしゃん、と鈍い音をたてた。

 「ひ!」

 その音にびくついた茜を見て、紅梅と白梅はくすくす笑う。

 「怖いの?」

 紅梅が茜の顔を覗く。
 平常時なら可愛らしい幼子の顔も、今の茜にとっては恐怖の対象でしかなかった。
 逃げ出したいのに身体が動かない。先程重女によって謎の石を投げつけられてから指一本動かせない。身体の自由を奪われて、更に傍には獣耳を生やした二人の幼子。この異常な状況に、茜は叫び出したいのを必死に我慢した。

 「大丈夫だよ。主様がやっつけてくれるから」

 白梅が紅梅の横に並んで言う。

 「だって主様デビルサマナーだしねえ」
 「怖いよねえ」
 「でも優しいよ」
 「優しいよね」

 けらけら、けらけらと二匹は笑う。笑う二匹の後ろで尻尾がゆらゆら揺れる。

 「デビル……サマナー?」

 今聞いた言葉を茜は反芻する。紅梅白梅が更に面白そうに笑う。

 「そ、デビルサマナー」
 「悪魔召喚師」
 「悪魔を使って、悪魔をやっつけるの」

 何が楽しいのか、きゃっきゃと赤と白の幼子がはしゃぐ。

 「そ、れは……つまり……九楼さんが、正義の味方、て事?」

 必死に絞り出すように言った茜の声に、二匹はピタッと止まる。

 「ナイショだよ」
 「秘密だよ」

 紅梅が、茜の右の耳元で囁く。吐息がかかってくすぐったい。

 「主様はね、ダークサマナーなの」

 「だ、ダークサマナー?」
 おうむ返しに聞いてきた茜の左耳に、今度は白梅が囁く。

 「悪魔を使って悪いことをするデビルサマナーのことだよ」
 「主様は、悪魔を使って壊そうとしているの」

 茜の身体の両側から、紅梅と白梅が語る。幼い二匹の妖精は、一般人である茜に自らの主の秘密を話すことになんの罪悪も感じてないようだ。

 「こ、壊す? 何を?」

 目を大きくさせながら茜が問う。どくん、どくん。緊張のせいか、恐怖のせいか、茜の心臓が早鐘を打っていた。

 「ヤタガラス」
 「超国家機関ヤタガラス」
 「デビルサマナーを管理している組織」
 「主様の敵」

 雲が晴れ、窓から射す月明かりが一層強くなる。紅梅と白梅が手を繋ぎ、真剣な表情で茜に語る。

 「主様は、ヤタガラスに仇なす者」
 「秩序を乱す者」
 「闇に足を踏み入れたもの」
 「自らの欲望で悪魔を使役するもの」
 「だからヤタガラスからこう呼ばれているよ」

 「黒暗召喚師、て――」


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 満月の夜、とある中学校の図書室。見回りの用務員の足音が去っていく。
 九楼重女は、図書室の本棚の上でじっと身を潜めていた。

 足音が聞こえなくなり、約二十分。そろそろいいか。

 音をたてないよう、本棚の上から床に足をつける。そして、物陰に隠しておいたボストンバックを脇に寄せる。
 チャックを開けると、其所には、真駒内駐屯地から強奪した一丁のジグ・ザウエル、弾丸の箱、手榴弾三個、そしてストーンの入ったピルケース、彼女の戦闘服であるベージュのカーゴパンツに黒のタートルネックに聖書。
 
 「………」

 セーラー服を脱ぎ、カーゴパンツとタートルネックを着ながら重女はため息をつく。

 真駒内駐屯地での戦闘は全くの想定外だった。

 本当なら市ヶ谷駐屯地にアマラ経絡を繋げるはずだったのに、空間が歪み、遥か北の真駒内駐屯地に飛ばされてしまった。
 経絡を繋ぐための計算は合っていたのに、市ヶ谷には辿り着けなかった。彼処にはどうやら強力な結界が貼ってあるようだ。近づくことすらままならない。

 やはり彼処に、無限発電炉「ヤマト」があるのは間違いないようだ。

 ちり、と頭の傷痕が痛んだ。真駒内駐屯地に配置されていた悪魔との戦闘で負った傷。
 さすがに強い悪魔ばかりだった。なんとか仲魔全員を召喚して切り抜けたが、そのせいで大量のマグネタイトを消費してしまった。
 早くマグネタイトを補給しないと。私はマグネタイトを生成できない。だから他の悪魔から奪わなくては。

 『黒蝿』

 念波で重女は呼び掛けた。
 コンプを使わなくても召喚可能な、重女が現世に縛り付けている唯一の仲魔。

 図書室の影が膨らみ、やがてその影は、黒い翼を携え、深緑の長髪に黒い法衣を着用した男の形になった。
 
 「なんだ」

 黒蝿、と呼ばれた男は答えた。鴉を連想させる兜の下、切れ長の瞳が重女を見据える。

 『用務員はきちんと校外へ出してきたんでしょうね』
 「ああ、「くらら」かけて風で外に運んだ」

 重女は頷きながら、髪を縛り、「お守り」の十字架のペンダントを首からさげる。これで呪殺防止になる。

 「あのひらひらした服は着ないのか?」

 にやにやしながら問う黒蝿に、重女は本を投げつけた。が、黒蝿はひらりとかわした。
 暗い図書室では表情は見えにくいが、重女の顔が赤くなっているのが黒蝿には分かった。

 『あんな服、戦いには向かない』

 スニーカーの紐を結ぶ。この学校に潜入するために買った、足にぴったりの靴。あの大きすぎる軍靴では、戦いの時動きにくい。真駒内駐屯地での戦闘で経験済みだ。

 にやつく黒蝿の視線に苛つきながら、重女はジグ・ザウエルに弾倉を入れる。

 ――全く、こいつが篠宮茜を怯えさせたせいで、危うく築き上げた信頼を失うところだった。そうなれば“人質”につかうところじゃなくなるというのに、余計な事をして!

 「あの服、要らないなら捨てればいいだろうに」
 黒蝿がそう言うと、重女はじろりと睨んだ。
 『……いざというときに包帯に使えるかもしれないでしょ』

 淡々と念波を送る重女だが、黒蝿は知っていた。彼女があの服を買ってから包装から出しもせず、袖も通さずに大切に保管していることを。

 『なに?』
 「いや、別に何も」

 くつくつと笑う黒蝿を睨みながら、ジグ・ザウエルの安全装置を解除する。

 「…………」

 重女は左手を床につけ、目を瞑る。眼鏡が少しずれ、眉間に皺が寄る。
 すると重女の影が広がり、図書室全体を覆い尽くす。部屋が闇に包まれたかと思うと、次の瞬間、闇は霧散し、元の図書室が姿を現す。
 結界が張れた。見た目は前の図書室と変わらないが、重女の唯一の能力、“影の造型魔法”によってこの部屋は結界によって遮断された。これで誰も侵入出来ないし、誰も逃げれない。
 
 『此処よ』

 重女が指差したのは、歴史の本棚。
 気付いたのは、篠宮茜に連れてこられた時。その時は小さな違和感しか感じなかった。その後、何度か通ううちに、違和感の正体に気付いた。

 それは、悪魔のマグネタイトの気。

 初日は弱く、気にも止めなかったが、日が経つにつれて、それはどんどん大きくなっていった。
 これだけのマグネタイト、奪ってものにすれば、「時間遡行」に必要なマグネタイトの量に届くかもしれない。

 「確かにいるな」

 黒蝿が本棚に手を翳す。すると空間がグニャリと曲がり、図書室が姿を消した。
 代わりに現れたのは、天井から床までぐにゃぐにゃした血管のようなものに覆われた、悪魔の結界。

 かたかた、かたかた。
 一つではない、複数の物が揺れる音が辺りに響く。
 重女と黒蝿は悪魔に囲まれていた。

 悪霊・ポルターガイスト。
 丸い顔にハニワのような黒い目二つと口一つの霊が、洋製の椅子にくっつき、それをガタガタ揺らしている。数は、およそ二十体。

 「小物だな」
 黒蝿がつまらなそうに言う。
 『分かっている。こいつらじゃない。本体は奥にいる』

 結界の更に奥、あの靄の向こうにこの悪霊共の親玉がいる。

 『とっとと倒してマグネタイトを貰うわよ』

 重女が聖書を手にする。黒蝿は肩を竦める。

 「良く言うぜ、実際に戦うのは俺だろう」
 『できる限りサポートはするわ。それに、分かっていると思うけど殺すんじゃないよ』

 ジグ・ザウエルを構えながら重女は言う。

 「俺が弱らせて、お前がマグネタイトを奪うんだろう」
 
 頷く重女に黒蝿はため息をつく。

 こいつがマグネタイトを生成できれば、こんな面倒な戦いをする必要などないのに。
 だが黒蝿にはマグネタイトが必要だ。彼女に真名を奪われている限り、彼は現世に縛り付けられ、異界に帰る事もできない。
 現世にいる限り、マグネタイトを定期的に摂取しないと自らの形を保てない。またこいつと出会った時の、蝿のような姿に逆戻りはごめんだ。

 『来る!』
 重女が身構え、黒蝿も戦闘態勢をとった。ポルターガイストの群れが二人に一気に襲いかかる。

 さあ、悪魔狩りの始まりだ。

―――

 篠宮茜が夜の学校に来た時、ゾクッと寒気が走った。

 只でさえ夜の学校とは不気味なものだが、この寒気は不気味さとは少し違う。
 例えるなら、全く知らない所に迷い込んで、幽霊に出会ってしまったような、得体のしれない感覚。
 鳥肌のたった腕を握りしめ、茜は校舎へと足を踏み入れた。早く教室へ行って数学の教科書を持ってこよう。あれがないと明日の小テストの勉強が出来ない。

 来客用のブザーを押す。応答がない。あれ? 用務員さんには連絡しておいたのに。

 「すいませーん……」

 呼び掛けながら扉を押す。するとキィ、と音がして扉が開いた。

 「?  鍵が開いている?」

 そのまま茜は校内に入る。

 (なんか怖い……さっさと帰ろう……)

 上履きに履き替え、茜は廊下を歩く。暗い。用務員さんはどうしたのだろう。
 非常灯に照らされた廊下は、いつもより一層不気味に感じた。

―――

 黒蝿のザンがポルターガイストを襲う。

 「うわあ!」

 ポルターガイストが飛ばされ、弱りきったところを、鋭利な形に変化した重女の影が突き刺さる。

 「……!!」

 刺さった影がポルターガイストのマグネタイトを吸いとる。重女は聖書を握りしめ、マグネタイトと共に、身体に流れてくる悪魔の思念を受け止めていた。

 痛いいたいイタイ――!!

 悪魔の思考は単純だ。人間と違って、快と不快しかない。
 重女の身体を触媒にし、影で吸いとったマグネタイトを、握りしめた聖書型コンプに補給する。やり方は簡単だが、マグネタイトと共に悪魔の感情まで流れ込んでくるのはなかなかキツイものだ。
 マグネタイトを奪われたポルターガイストの群勢は消え、残りは一体。
 膝をつき、荒い呼吸を繰り返しながら、重女は吸いとったマグネタイトの計算をする。

 まだ足りない。こいつらは小物だ。もっとマグネタイトを手にするには、やはり奥の親玉から奪うしかないようだ。

 「か、勘弁してくれよお!」
 生き残りのポルターガイストが叫ぶ。
 「ほ、ほら、これやるから見逃してよ! ね?」

 そう言いながらポルターガイストが投げて寄越したのは、八百万針玉。
 黒蝿がアギを放とうとするのを、重女が手で制する。

 「おい?」
 『こいつには、親玉のところへ案内してもらいましょう』
 ジグ・ザウエルをポルターガイストに突き付け、重女が言う。

 「な、なんだよお!」
 『殺されたくなかったら、とっとと親玉のところまで連れていきなさい』

 ポルターガイストの表情は変わらないが、とりついているチェアがガタガタと揺れた。

―――

 「ここか」

 複雑な悪魔の結界の最深部、黒蝿と重女はポルターガイストに連れられ、一つのドアの前にいた。
 見た目はなんの変撤もないドアだが、其処から嫌なマグネタイトの気が漏れ出している。

 「…………」

 重女が聖書を開く。頁に手を触れると文字が光り、コンプが作動する。

 「ひ!」
 嫌な気配を感じたのか、ポルターガイストが暴れ、重女と黒蝿の元から逃げ出した。

 『!』
 「逃げたぞ!」

 重女がジグ・ザウエルの引金をひく。銃弾がポルターガイストの横に着弾する。外した!

 『この!』
 狙いを定めて二発、三発と放つが、全て外れた。舌打ちした重女がポルターガイストの後を追う。

 「待て! 深追いするな!」

 黒蝿が重女を止めようとする、が、途端、すぐ後ろのドアが開き、強い衝撃波が放たれる。

 「!」

 衝撃波をもろに受け、重女とポルターガイストが結界の外に飛ばされる。

 (しまった! )

 重女が飛ばされた事により、図書室に張った影の結界が破れてしまった。図書室の窓を突き破り、重女の身体は廊下へと転がる。

 「あの馬鹿!」
 黒蝿が追いかけようとするが、目の前に巨大な肉の塊が現れる。幾つもの人間の顔が集まった、醜悪な赤黒い塊――

 悪霊・レギオン。この図書室に巣くう悪魔の親玉。

 「ち!」
 レギオンの攻撃をかわしながら、黒蝿が舌打ちする。

 「俺一人でこいつをやれってのかよ!」

―――

 「な、何!?」

 篠宮茜は、教室でその音を聞いた。
 今、何かが割れる音が聞こえた。なに? 図書室の方から?

 茜は数学の教科書を鞄にしまい、そっと廊下に出る。
 廊下に出て、右に曲がれば図書室だ。なんだか焦げ臭い。一体何が……。

 ドン! ドン!

 低い衝撃音が聞こえてきて、茜の身体がびくっと震える。
 今のは何? 銃声?

 かたかたかた……。何かが震える音が近づいてくる。

 「な、何? なんなの!」

 立ったまま動けない茜に、曲がり角から洋製の椅子が飛んでくる。

 「きゃあ!」

 悲鳴をあげ、思わず手で顔を覆った茜だが、予期していた痛みは襲ってこなかった。

 「……?」

 茜が恐る恐る目を開く。
 すると視界に飛び込んできたのは、
 非常灯に照らされた、小柄な身体、ゴムがほどけ、乱れた金髪。軍服に似た服を着て、右手に拳銃、左手に聖書を持った――

 「く、九楼さん!?」

 茜の姿を見て、重女の眼鏡の奥の瞳が見開かれた。

 ――篠宮茜、なぜ此処に!


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 『今日未明、陸上自衛隊真駒内駐屯地の弾薬倉庫から9mm自動拳銃一丁と銃弾十数発、手榴弾数個が盗まれる事件が発生しました。自衛隊は…………』

 いつもの日曜、篠宮茜は約束の時間より少し遅れて河川敷のベンチへと向かっていた。

 (まずい……寝坊しちゃった)

 茜はひたすら走る。九楼さんがスマホか携帯を持っていたら事前に連絡出来たのに。
 彼女は携帯もスマホも持っていない。茜が自分のスマホを見せると彼女は酷く驚いていた。

 [小型の懐中電灯?]

 重女がそうノートに書いてきたのを見て、今度は茜が驚いた。今時スマホを知らない中学生なんているのだろうか。
 茜は深く追求しなかった。人様の家庭の事情にずかずかと足を踏み入れてはいけない。
 でも、九楼さんがスマホを持っていたら、通話は出来なくてもメールやラインが出来たのに。彼女は顔文字を使うのだろうか? きっと彼女はシンプルな文体だろう。茜はそう妄想し、自然に顔がにやけてくる。

 ベンチが見えた。茜の足が早くなる。

 「九楼さん、ごめんなさい! 今日寝坊しちゃって……?」

 そこまで言って茜は口をつぐんだ。ベンチに座っていたのは、金髪の少女ではなく、黒いロングコートを着て鳥打帽を被った、長身痩躯の男だったからだ。
 男が、視線を手元の本から外す。鳥打帽から覗く切れ長の瞳が、茜を射ぬいた。
 その男が手にしている本が、重女に貸したライトノベルだと分かり、茜は身体を強張らせる。

 「あいつは来ない」

 ぱた、と男が本を閉じて、此方を向く。

 「え? あの……」
 がさがさ、と男が本を紙袋に入れる。あの紙袋、私が九楼さんに先週貸したときに本を入れてあった……

 「ちょっとドジを踏みやがって、あいつは今怪我をしている」
 「え!? け、怪我!」

 男がベンチから立ち上がる。随分背が高い。初夏に相応しくない黒い革のロングコートと、黒の鳥打帽から見下ろす金色の瞳が、茜を怯えさせた。
 この人は何者なんだろう。なんだか恐い人だけど、何故この人は九楼さんに貸したはずの本を持っているのだろう。「あいつ」とは九楼さんの事だろうか。もしかして……。

 「あの……九楼さんのお兄さん……ですか?」
 「ああ?」

 低い声が響き、茜の顔に緊張が走る。男はそんな茜を一瞥しながら「……違う」と吐き捨てた。

 「只の同居人だ」

 同居人?  家族の方ではないのか? そういえばこの人と九楼さんは全然似てない。強いていえば、瞳の雰囲気が、九楼さんが時々見せる眼に少し似ている……

 「篠宮茜」
 「はい!?」
 いきなり名前を呼ばれ、茜が肩を震わす。

 「………お前に聞きたい事がある」

 男がベンチから離れ、茜に近づく。一歩、二歩。

 「き、聞きたい事?」

 茜が怯えながら聞き返す。今日は暖かいのに、この男の周りだけ空気が冷たく、影が濃いように茜は感じた。

 「お前の父親は、烏丸コーポレーションに勤めているな」

 男がまた一歩近づく。茜は後ずさる。この人、ただの人じゃない。
 隠しきれない鋭い険は、一般人のそれとは明らかに違う。警察? それとも、ヤクザ?

 「わ、私の父がどうしたんですか?」

 声が震える。男の鋭い視線を浴びながら、茜の頭の中で警鐘が鳴っていた。
 この人、ヤバイ!

 「お前の父親は、烏丸コーポレーションに勤めている。それで間違いないか?」
 「そ、そうですけど……」

 ふむ、と男が口元に手を当てる。逃げ出したいのに、膝が震えて立っているのがやっとだ。
 この人は九楼さんの「同居人」のはずだ。それなのに何故父の事を聞いてくる? そもそも九楼さんは何故此処に来ていない?  怪我をしたとこの人は言った。なんで怪我をしたのだろう。まさか、この人が暴力を奮って――?

 混乱する茜を男はじっと見ていた。口を開きかけたその時。

 ワン!

 犬が男に向かって吠えた。

 男が犬の方向に目を向ける。
 犬を連れて河川敷を散歩していたジャージ姿の初老の女性は、怪訝な目で男と茜を見ている。全身黒づくめの男の姿は目立つ。女性の目には、怪しい男が少女を拐かそうと見えたのかもしれない。

 「………」
 罰が悪そうに、男はベンチへと戻り、紙袋を持って来て茜に差し出す。

 「あいつがお前に返すようにと」

 紙袋には、茜が九楼重女に貸していたライトノベル数巻が入っていた。異能の少女が悪魔をやっつける学園ファンタジーものだ。
 
 「………」
 茜は黙って受け取る。手の平に紙袋の重みが伝わり、がさ、と紙袋が鳴る。

 「面白かった、と、そう伝えてくれと頼まれた」

 全く感情の込もっていない声で男が告げる。
 茜はそれを聞いて、そんなことを頼まれるなんて、この人は九楼さんと本当は親しい関係なのではないかと推測する。

 男が背を向け、そのまま歩いていった。

 茜は暫く動けなかった。冷や汗が背中を伝う。あの恐い人、一体何者なの? 何故父の会社の事を聞いてきたの? そして何より、

 あの人、本当は九楼さんのなんなんだろう――。


―――

 翌日の月曜日、いつものように大きなボストンバックを持って、九楼重女は登校した。
 教室に入ってきたとき、茜やクラスの皆は絶句した。重女の頭と左手に包帯が巻かれていたからだ。

 「九楼さん!」
 茜が駆けつける。重女は静かに席につくと、張り付いたような笑みを浮かべた。
 「本受け取ったよ。怪我したって本当だったんだね……」

 茜がそっと耳打ちする。

 「あの恐い人に怪我させられたの?」
 重女は首を振って、筆談用ノートにペンを走らせる。

 [かいだんからころんだの]

 「嘘。あの人言ってたよ。「ドジを踏みやがって」って。何かあったんでしょ」
 その問いに、重女は困ったような笑みを浮かべる。
 「……ねえ、もしかして、あの黒くて恐い人……九楼さんの彼氏?」
 重女が不思議そうにノートに書き足していく。

 [かれし?]

 え? 九楼さん、スマホといいまさか彼氏の意味も知らないの?

 「えっと……なんていうのかな、恋人、て意味だよ」

 途端、重女の顔が物凄く嫌そうに歪んだ。

 [遠いしんせきのおじさん]

 殴り書きされたその文字は、重女の不機嫌を表すかのように荒々しかった。
 おじさん? 茜が首を傾げる。あれ? 昨日のあの男の人は「家族じゃない」て言っていたような。それにおじさんというよりはお兄さんぽかったけど……

 「………」

 重女が茜を見上げる。大きな青い瞳は眼鏡ごしに茜を睨んでいた。
 この瞳、やはり昨日のあの人と似ている――

 「あ、あの、色々事情があるかもしれないけど、困ったことがあったら相談してね。ホント、暴力とか許せないから!」

 重女は苦笑する。どうやらこの子の中では私は「あいつ」と恋人同士で、「あいつ」から暴力を受けているという設定らしい。
 本当は違うのだが、そう誤解させておくのも悪くない。

 [ありがとう]

 作り笑いを浮かべながら、重女はそう書いた。
 茜が嬉しそうにはにかんだ。

―――

 土曜日、茜は部活が休みだったので、重女をショッピングに誘った。
 私服で来てね、という茜の頼みに、彼女はやや眉を寄せながらも了承した。
 待ち合わせは新しく出来たショッピングモール。茜は青いワンピースを着て軽い足取りで向かっていた。
 重女さんの私服が見れる。そう考えると自然と顔が綻ぶ。
 彼女はどんな服を着てくるのだろう。日曜に会うときも、彼女はいつも無個性な紺のセーラー服姿しか来てこなかったから、私服を見るのは初めてだ。きっと、ふわふわした女の子らしい格好だろう。ワンピースかロングスカートかな。色はきっと白だろう。

 茜の淡い期待は、しかし待ち合わせ場所にいた少女に裏切られた。

 モール内の柱に寄りかかりながら本を読む少女――九楼重女は、黒の半袖のタートルネック、ベージュのカーゴパンツ、ゴツいブーツという出で立ちだった。首から下げた錆びた十字架のペンダントは、アクセサリー……なのだろうか。

 (あれは……なに? 軍服コスプレ?)

 想像の遥か斜め上の重女の格好に、茜は声をかけるのを忘れてしまう。
 
 「…………」

 重女が茜の方を向いた。眼鏡の奥の青い瞳が大きくなり、唇の端を上げてこちらへ向かってくる。
 昼下がりのショッピングモールから完全に浮いている金髪碧眼の少女に、茜は苦笑いを浮かべるしかなかった。

―――

 二人の少女が歩く度、通行人の視線が突き刺さる。一人は青いワンピースのショートカットの少女。もう一人は、金髪をたなびかせながら、軍靴を踏みしめる眼鏡の少女。
 妙な組み合わせの少女二人組に、通行人が好奇の視線を向けるのは当然だった。
 ひょこ、ひょこ。重女の歩き方は少し変だ。茜は一体どうしたのだろうと思い、隣の少女の足元を見る。もう怪我は治ったはずなのに。
 重女の軍靴――茜にはゴツいブーツに見えた――や服装は、良く見ると大きい。あれはもしや男物ではないか。

 「ねえ、どうして男物の服と靴を履いているの?」
 「!」
 思わず茜が尋ねると、重女ははっとしたように顔を向けた。

 「っ………!」

 白い顔が真っ赤になり、唇は震えて、視線を泳がせながら重女はもじもじする。こんな彼女の顔は初めて見る。

 (しまった、聞いてはいけなかったんだ)

 「あ、いや、それはそれで似合うとおも……」
 茜の言葉が終わる前に、重女は目の前の服屋に飛び込む。
 「九楼さん!?」

 怒ったような顔をして、いきなり入ってきた少女に、店員も目を丸くした。
 そして重女は、手に持っていたノートにペンを走らせると、店員に見せた。

 [この子とおなじものを]

 重女が茜のワンピースを指さす。今度は茜がぎょっとした。
 「九楼さん……?」
 目をしばたかせる茜をよそに、程なくして店員がワンピースを持ってきた。

 「生憎こちらのタイプしか置いてなかったもので……」

 店員が差し出したのは紫色のバッスルタイプのワンピース。襟元が白でリボンが黒だ。
 「ご試着なさいますか?」
 重女は頷く。

 試着室に入っていく重女を、茜は呆然と見ているしかできなかった。
 考えてみれば、彼女がどんな格好をしてようと彼女の勝手なのだ。それなのに私はあんなことを言ってしまって、九楼さんを怒らせてしまった。あの古い服も、大きすぎる靴も、九楼さんにとっては大切なものだったのではないか?
 自分の発言の思慮の浅さに、茜は自己嫌悪に陥った。

 そうして重女が試着室に入り、十分以上が経過した時、ようやく試着室のカーテンが開いた。

 「わあ……!」

 茜の顔が明るくなり、感嘆の声を上げた。
 青みがかった紫の膝丈ワンピースは、彼女の白い肌と金髪によく映えて似合っていた。

 「…………」

 重女がスカートの裾を握りもじもじしている。ちら、と茜の方に困ったような視線を向けた。

 「九楼さん! 凄くよく似合うよ! まるで雑誌から出てきたみたい!」

 重女は一瞬きょとんとした表情を浮かべたかと思うと、今度は真っ赤になって顔を俯かせる。

 「それ買いなよ。値段もそんなに高くないし、重女さんにぴったりだよ!」

 茜が誉めまくると、重女が顔を上げて照れながら頷いた。

 (重女さんて、こんな顔もするんだ)

 頬を赤く染めながら微笑む重女を見て、茜は重女への印象を、綺麗な女の子、から、親しみやすい可愛い子、へと変わった。

 紫のワンピースの上で、重女の十字架のペンダントがきら、と光った。


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 走る、走る。良く晴れた初夏のある日、小柄なセーラー服の少女が大きな紙袋を持ちながら走っていた。その姿はどこか楽しそう。
 目指すは河川敷のベンチ。そこに「あの人」がいる。今日は日曜で、よく晴れているから、必ずいるはず。
程なくして目的地のベンチに着いた。

 やはり「あの人」はいた。

 肩と同じくらいの、先端が少しはねている金色の髪は、日の光を反射してキラキラ輝いていたし、肌理の細かい顔の青い瞳は、眼鏡を通して手元の本に注がれている。あれは、聖書だろうか。
 少女がベンチに座る。金髪の少女は視線を本から外し、隣に座ったセーラー服の少女の顔を見上げた。

 「お待たせ、九楼さん! 今日は部活があって遅くなっちゃった」

 少女ににっこりと笑いかけられて、九楼、と呼ばれた少女は笑みを浮かべた。
 だけどその笑みは、初めて会ったときと同じく、どこかぎこちない笑みだった。

―――

 少女の中学校に「変わった」転校生が来たのは一月前。
 金髪碧眼の眼鏡をかけた美少女。それだけでも充分注目されるのに、更に彼女にはもう一つ他人とは違う事があった。

 彼女は、声を出せない。

 担任の教師曰く、彼女は昔事故にあい、その時声帯を傷つけてしまい、そのせいで声を出すことができないのだとか。
 その傷を隠すためか、彼女の首には包帯が巻かれていた。

 容姿共々異彩を放つ少女の名は、「九楼重女」というらしい。
 くろうかなめ。綺麗な名前だ。

 ホームルームが終わると、早速九楼さんの席を女子達が囲んで、彼女に沢山質問していた。
 「九楼さんて前はどこに住んでいたの?」「綺麗な金髪だよね、生まれつき?」「どこかの国のハーフ?」「英語喋れる?」「兄弟いる?」等々。
 その質問責めに、九楼さんは困ったような笑みを浮かべて、ノートにサラサラとペンを動かす。
声は発せないが耳は聞こえるらしいので、質問の回答を一つ一つノートに書いていく。

 それをちら見したところによると、
 九楼さんは、前は神奈川県の横浜市に住んでいて、弟が一人いたが今はいなく、金髪なのは生まれつきではなく、とある事情で黒髪から金へと変わった……と書いてあった。
 声帯を傷つけた事故といい、何やら彼女の家庭には、ただならぬ事情があるようだ。

 予想以上の重たい回答に面食らったのか、九楼さんを囲んでいた女子達がそっと離れていく。
 チャンスだ。

 「九楼さん!」

 少女が明るい声で話しかける。その声に驚いたのか、眼鏡ごしの青い瞳が少し揺れた。

 「私、篠宮茜。図書委員なの」

 少女――篠宮茜が笑顔でそう告げると、九楼さんはぺこり、と頭を下げた。その顔は緊張のせいかやや強張っている。

 「九楼さん、本とか好き?」

 こく、と九楼さんは首を縦に振る。青い瞳がこちらを見つめてくる。澄んだ海のような青。その瞳の色に当てられて、茜はどぎまぎしてしまう。

 「良かったら、昼休み図書室案内するよ。どう?」

 九楼さんは頷いた。顔には相変わらずぎこちない笑みが浮かんでいたが、茜は嬉しかった。
―――

 去年改装したばかりの図書室は、新しい木材と古い本の香りが混ざり、二人の少女の鼻孔をくすぐった。
 大きめの窓から日差しが降り注ぎ、物言わぬ少女の顔を照らす。きらきら。絹糸のような金の髪が光り、じっと本を探している九楼さんの周りは、空気の色が違うように茜には感じられた。

 胸が、ドキドキする。顔が赤くなる。

 なぜ同性である九楼さんにこんなに目を奪われるのか。なぜこんなに動悸が激しくなるのか。

 そうだ、今読んでいる小説のヒロインに彼女は似ているのだ。
 金髪碧眼の戦う乙女。敵陣に真っ先に乗り込み、聖なる剣で悪魔を斬り付ける、美しく、強い、ヒロイン。
 私はそのヒロインが好きだった。ヒロインのように強くて綺麗な女性になりたかった。

 今、目の前にそれがいる。

 小説から飛び出してきたかのような容姿の少女――首に包帯を巻き、背筋を伸ばして本棚の前に立つ、凛として美しい、九楼重女という少女――。

 ちら、と重女が此方を見た。眼鏡ごしに向けられた視線には、少しの困惑が伺える。
 いけない、私、見とれていた。

 「どんな本を読んでるの?」
 茜が重女に近寄る。此処は歴史書の本棚だ。九楼さんは歴史が好きなのかな。重女の手には分厚い本。茜はその本のタイトルを見る。

 【図解入り、世界の兵器とその歴史】……なにこれ?
 「…………」

 重女はその本を持ったまま貸出しカウンターへと歩く。

 「あ、それを借りるんだね。待ってて。私が手続きするから」

 茜がカウンターに入り、本を受け取る。本を開き、貸出しカードを抜く。
 歴史の古いこの図書室は、まだ貸出しカードに名前を書いていた。改装に合わせてバーコードも取り入れてはいるが、それでもこういう古い本には、まだ対応していない。

 「…………」

 貸出しカードには誰の名前もなかった。今までに借りた者が一人もいなかったのだ。
 一番上の空欄に、九楼重女、と書く。不思議な感覚だった。「世界の兵器とその歴史」だなんて本、華奢な九楼さんのイメージに合わない。

―――

 「九楼さんは、小説とか読む?」

 学校からの帰り道、九楼重女と篠宮茜は河川敷のベンチに座っていた。
 夕日が川の水面に反射し、きらきらと光っている。

 「………」
 
 こく、と重女が頷く。重女の青い瞳は水面に注がれている。夕暮れの紅い光が彼女の細面の顔に陰影をつけている。

 「例えばどんな? 恋愛小説とか?」

 そう問われ、重女はボストンバッグの中をごそごそと探る。
 随分大きなバッグだ。全部の教科書と筆記用具を入れても半分も埋まらないだろう。九楼さんは部活をやっていないのに、まるで合宿にでも行くかのようにそのバッグはパンパンだ。何が入っているのだろう。

 やっと九楼さんがバッグから一冊の本を取り出した。
 随分古い本だ。黒いハードカバーの装丁のその本は、ところどころ傷が付いている。タイトルは……

 「the New Testament.……新約聖書?」
 九楼さんが頷く。
 「九楼さんて、クリスチャン?」
 九楼さんは首を振った。そして、筆談用のノートにペンを走らす。

 [子供のころ近所の神父にもらった]
 [日曜れいはいにいったらくれた]

 「へえ、教会に行ったことあるんだ。でもなんだかしっくり来るな。だって九楼さんにはそういうの似合いそうだもん」
 でも、と苦笑しながら茜が続ける。
 「これは小説じゃないよ。もっとこう…ラノベとか読まない?」
 九楼さんは首を傾げながらノートに書いていく。

 [らのべってなに?]

 おや? 九楼さんはラノベを知らないんだ。だけど意外だとは思わなかった。寧ろ彼女は、ハードカバーの重厚な本が似合いそう。

 「えっとね、例えばこういうのとか…」
 茜が鞄の中から幾つか文庫本を取り出した。漫画調のイラストが表紙の学園ファンタジーものだ。
 「こういうの好き?」
 九楼さんはちょっと困った顔をしている。しまった、強引だったかな。

 [こういう本はじめて見たけど、せっかくだから読みたいとおもいます]

 重女の回答に、茜の顔が明るくなる。

 「じゃあ、今度家から本を持ってくるよ! ラノベ以外にも純愛小説とかファンタジーとかミステリーとか!」

 まくし立てる茜に、重女は目を大きくするも、そっとはにかんでみせた。
 その微笑は歳相応の柔らかい笑みで、茜は重女との心の距離が少し縮んだように感じられ、嬉しくて笑みを返した。

―――

 篠宮茜と九楼重女が仲良くなるにつれて、周りの子からは、「九楼重女は変な子」という風評がたった。

 ある女子の証言によると、九楼重女は校庭の隅でカラスに餌付けしていたとか。
 またある男子の証言では、図書室の歴史書の本棚を、本を取りもせずずっと睨んでいたとか。
 またある子の証言では、休み時間に、何やら必死に「図解・世界の兵器とその歴史」を読みながら、本に書かれている兵器を精密にスケッチしていたとか。

 そういった奇行が目立つようになって、クラスの皆は九楼さんに話しかける事をしなくなったし、給食の時間でも、皆は仲の良いグループ同士で机を合わせて食べているのに、九楼さんだけが自席で黙々と食事をしていた。
 みかねた茜が、こっちへおいでよ、と話しかけても、九楼さんは首を横に振った。茜の心配をよそに、彼女はこの状況をちっとも気にしていないようだった。

―――

 「九楼さんて、強いんだね」

 日曜日。河川敷のベンチにて、茜はそう言った。
 あの日、帰り道で一緒にここで座って話したときから、日曜日にここで、茜が本を持ってきて九楼さんに読んで貰うのが習慣になっていた。
 平日は茜も部活や委員会で忙しいし、九楼さんは下校のチャイムが鳴るとさっさと帰ってしまう。だから、お互いが比較的に暇な曜日――日曜日にここの河川敷のベンチで会おうと約束したのだ。
 断られるかと思ったけど、九楼さんは了承してくれた。お陰で日曜の楽しみができた。

 [つよいって、なんで?]

 九楼さんがノートにペンを走らせる。会話のテンポは悪いが、慣れてしまえばどうってことない。

 「だって……九楼さん休み時間も給食のときも下校も独りだし……。でも全然平気そうだし、そういうの凄いと思うの」
 [なぜ]

 「……だって、皆独りが怖いから。だから皆同じような髪型をして同じような会話をして、皆で給食を食べて皆で帰ったり、遊んだり……グループの付き合いていうの? そういうの本当は苦手なんだけど、でも、独りで行動する勇気は私にはないから……」

 長々と話す茜の言葉を、重女はじっと聞いていた。重女の青い瞳が眼鏡を通して茜の横顔を見つめている。

 [あなたはあなた]

 重女がそうノートに書いた。茜が重女の顔を見る。が、澄んだ青い瞳に当てられて俯いてしまう。

 [ひとりが平気なひとなんていない。わたしもひとりぼっちはいや]

 さらさら、字が追加されていく。右上がりの癖のある字。

 [でも、あなたが話しかけてくれたから、わたしはさみしくない。本をかしてくれてわたしはうれしい]

 書き終わり、重女は顔を上げてぎょっとした。隣の少女が泣いていたからだ。
 
 「い、いや、違うの! 何でだろう、涙が止まらないの。へ、変だよね。あはは……」

 茜の目の前に、白いハンカチが差し出される。くしゃくしゃのハンカチ。差し出したのは、金髪碧眼の首に包帯を巻いた、声を発せない眼鏡の少女。

 「あ、ありが、と……っ」
 最後の方は嗚咽が混じってきちんと言えなかった。ぽろぽろと涙が溢れて止まらない。

 [なにがかなしいの?]

 ノートに書いた字を重女が見せる。じっと、茜の顔を凝視している。

 「ち、ちが、うの……なんだか、嬉しくて……こ、こん、な、事言ってもらえて、う、嬉しいの……」

 その間にも涙は止まらない。ついにはしゃっくりまで出てきた。
 私の憧れの人が、私の行動を「嬉しい」と言ってくれた。それだけなのに、胸が温かくなる。学校の友達と居る時には持ち得なかった感情。この充実感。とても心地よい。

 「九楼さん、私、貴女に出会えて嬉しい……」

 九楼重女は川面を見ながらその言葉を聞いた。
 篠宮茜が泣き止むまで、重女はずっと、静かにベンチに座っていた。

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 しとしと、しとしと。
 雨が降っている。春先に降る温かい霧雨。その霧雨が、少女の顔や身体を濡らす。

 しかし少女は動かない。鞍馬山の山中、足を滑らせた少女は全身を強く打ち、頭から血を流していたから。
 紅い血が、少女の右側頭部から流れ、血の溜まりを作る。
 黒くて長い髪が、土に広がり顔にへばりつき、青い瞳は濁り始めていたが、

 ――少女は生きていた。

 寒い。身体から、どんどん熱が奪われていく。
 痛い。頭が、身体中が痛い。どくどく、どくどく、血が流れているのを感じる。

 身体が、動かない。こんなところで死ねない。だって、「あの子」が待っている。「あの子」はきっと家で泣いているだろう。「あの子」はまだ小さくて弱いから。私が守ってあげないと。「あの子」を独りにしてはいけない。
帰らなくちゃ、家に。でも、足が動かない。手も動かない。さむい。いたいよ。
 目の前が段々白くなる。死ぬ。私、ここでしんじゃうの?

 「無様だな」

 声が、聞こえた。声のした方向に視線を移すと、ぶうんと耳障りな音をたてて、小さな黒い塊が顔の周りを飛び回っていた。
 これは、なに。蝿?

 「お前が俺の真名を奪ってくれたお陰で、俺はこんな姿になってしまった」

 蝿のような黒い塊が、低い声を発した。
 真名? 何を、何を言っているの? 分からない。

 「しかもそのせいでこの時間軸に固定されてしまった」

 じかん? この蝿は何を言っているのだろう。何故、この蝿は私に話しかけてくるのだろう。

 「とっとと俺の名を返せ。それまで死ぬのは許さんぞ」

 朦朧とした意識の中、少女は蝿の声を聞いていた。言葉が理解出来ない。この蝿が何者なのかも分からない。
 ただひとつだけ理解できた言葉――。

 『死ぬのは許さんぞ』

 しぬのをゆるさない、そう理解できた。
 私も死にたくない。死ぬわけにはいかない。こいつが何者でも構わない。私を助けてくれるなら。

 「うわ!」
 力を振り絞って右手を動かし、黒い塊を捕らえた。
 ぶうん、ぶうん。蝿の羽音が一層けたたましく響く。

 「……わたし、を」

 ひゅー、ひゅーと息を吐きながら少女が言葉を発する。高く、柔らかい少女の声。

 「たす、け、て」

 その言葉は黒い塊を縛った。少女が生まれつきもってしまった、強い魔力が宿った、言霊。

 「助けろ、ねえ」

 少女の手の中で黒い塊がごちる。塊から真名を奪った憎き少女は、頭から血を流し、血の気のない真っ白な顔。青い瞳で塊を凝視している。
 手が、冷たい。このまま捨て置けばこの少女は数分後に絶命するだろう。それは塊にとっても都合が悪い。こいつから真名を返してもらわなくては、塊はずっとこのまま、本来の力を取り戻すことが出来ない。

 「いいだろう。助けてやる。ただし」

 少女は相変わらず塊を見ていた。だが、血の流し過ぎなのか、塊を捕まえている右手が痙攣し始め、顔色が土気色に変化している。

 「お前の真名と、俺の真名を奪ったその忌々しい言霊を頂く。さあ、名乗れ」

 名乗れ。今、この蝿はそう言った? 私の名前を言えばいいの? 簡単だ。それで助かるなら、いくらでも言おう。

 「―――」

 少女は発した。自らの名を。親から貰った、馴染んだ名を。

 「名乗ったな」

 途端、右手の中の黒い塊が大きくなった。
 その塊はやがて人の形へと変わった。少女の強い言霊を得て、黒い翼を携えた大きな人の形に変化した。

 がし、と、その形が少女の首を掴む。
 そして、形の手から黒い影のようなものが発生した。その影は少女の身体の中へと侵入していく。

 「!?」

 手を、足を、心臓を、脳髄を、黒い影が侵食していく。身体の内側から、得体のしれない熱が生まれる。熱い、いたい、いたい!

 「俺の力、人間に使いこなせるとは思えんがな。大体は死ぬと思うが……お前はどうかな」

 少女の身体に激痛が走る。内臓を灼熱の炎で炙られ、脳髄を滅多刺しにされる。痛い、いたいいたいいたい――!

 ぱん、と少女の頭の中で音がした。

 すると、少女の身体を黒い影が包む。
 影はどんどん大きくなり、やがて鞍馬山を包む程の大きさへ変わったかと思うと、次の瞬間、山を覆い尽くす影は消えた。
 消えた後に残っていたのは、少女の血痕だけ。他には何もなかった。黒い人の形も、少女も。

 雨足が強くなる。
 雨が少女の血を洗い流し、やがて、鞍馬山は、元の静寂を取り戻した。


 これが、全ての始まりであった――。


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今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる。

「わたしはアルファであり、オメガである」

「最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである」

ヨハネの黙示録第1章8節、第22章13節より






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