往来―all right―別館【俺屍サマナー】

俺屍+デビルサマナー=俺屍サマナーというダブルパロ(クロスオーバー)小説を扱っております。俺屍に登場する神々や鬼を現代で使役していたら・・・という発想で生まれたいわゆる三次創作小説です。俺の屍を越えてゆけと真・女神転生シリーズ(主にⅣ)の設定を独自に融合させて捏造しております。女神転生や俺屍の人物名称や設定をかなり変更しております。こういったのが苦手な方は閲覧をご遠慮下さい。 やたノ黒蝿とサマナーになってしまった少女の物語です。

タグ:石猿田衛門

 『ねえ、名前、なんていうの?』
 「お、おれ、なまえ、ない。で、でも、みんな「くるいむすめ」てよぶよ」

 ――くるいむすめ。「狂ひ娘」。狂っている娘。酷い呼び方だ。確かにこの子は年のわりに知能が劣ってるらしい。重女の時代の言葉で言えば「知恵遅れ」の子、と呼ばれるだろう。現に彼女の理解力の低さを利用し、身体を求めてくる輩も集落にはいて、彼女はここに来る前は見世物小屋で身を売って生活していたらしい。
 だけど重女には、この子が「狂っている」とは思わなかった。この子は溜息が出るほど穢れていなく、そして悲しくなるほど純粋だ。ほんの少し話しただけだが、それが伝わってきた。
 「狂っている」というなら、なにもわからない彼女の身体を要求してきていた連中や、母に無理やり性行為を迫ってきていた外人さんや、外見が違うというだけで酷い言葉や仕打ちをぶつけてきた同級生や近所の奴らの方が、重女からしてみれば「狂っている」奴らだ。
 この子は自分がそう呼ばれることを何とも思っていないようだ。むしろ喜んでいるように見える。それはこの子の頭がこの呼称の意味を理解できるほど発達していないというのもあるだろうが、きっとこの子を受け入れてくれたここの集落の皆がそう呼んでくれるのが嬉しいのだろう。
 だから重女も「狂ひ娘ちゃん」と呼んだ。そう呼ぶのには抵抗があったが、他に何と言っていいかわからなかったのと、当の本人が嬉しそうだったのでそのまま呼ぶことにした。

 『そのお腹の子、名前はもう決めてるの?』

 ある日、村の女衆に教わった通りに縄を編んで草履を作りながら重女は問いかけた。狂ひ娘のお腹は大きく、もう臨月だろう。出産間近ならもうそろそろ名前を決めてもいい頃だ。

 「えっとね、えっとね、「しゅうまる!」」
 『……………拾丸、はお父さんの名前だよね?』
 「うん! しゅうまるのこだから、「しゅうまる」! お、おれ、しゅうまるのこと、だいすきだから!」

 眩しい笑顔で狂ひ娘は頷いた。この子は本当に「拾丸」の事が好きなんだな。自分の子に名付ける程に。
 「拾丸」という男には会ったことはないが、きっとシドのようにかっこよくて素敵な大人の男性なんだろう。父親と子の名前がダブってしまう問題は、子が生まれてから頭領や集落の皆がなんとかしてくれるだろう。

 『じゃあ、「しゅうまる」君が生まれたら、私にも抱っこさせて?』
 「う、うん! いいよ! かなめにならいいよ。し、しゅうまると、おれとで、た、たくさんあそぼ!」

 重女はふと思い出した。弟が生まれた日の事を。
 陣痛がはじまり、破水した母と共にタクシーに乗り、母はそのまま病院の分娩室に運ばれ、自分は病院の椅子で分娩室から聞こえる母の苦しそうな声を聴きながら、泣きそうな気分で膝を抱えて待っていた。
 そして無事生まれた弟を抱き上げた感触。柔らかく、赤く、壊れてしまいそうなほど小さい弟を抱っこした時に自分の中に生まれた温かい気持ち。あの時自分はまだ六歳だったが、あれは母性というものだったのだろうか。
 狂ひ娘の子が生まれるまでここにいられるかは疑問だったが、またあの時のように赤子を抱っこしてみたい。生まれたばかりの命を感じてみたい。

 『うん、沢山遊ぼうね』

 果たせるかどうかわからない約束を、重女は笑顔で言った。狂ひ娘も思いっきり笑ってくれた。生まれてくる子はどんな子だろう。男の子か、女の子か。狂ひ娘の腹の中で眠っている赤子の未来を想像すると、なんだかとっても穏やかな気持ちになった。

―――

 「ああ、本当だ。ここに亀裂が走っている」

 集落の北東の草原。鬼から守る為に集落をぐるりと囲んでいる鬼避けの呪法が施された柵に、僅かに亀裂が走っているのを、柵を立てた本人である頭領が灯りを当てて確認した。

 「ほんとだ、ひびはいってる」
 「割れてると、鬼が入っちゃうの?」

 頭領の横で、問いかける幼子が二人いた。二人は男の双子であり、狸耳と尻尾を持った妖精――紅梅白梅童子である。

 「……君達は、本当に私を手伝えるのかい?」

 頭領が不安そうに問う。異形の者がよく集まるここでも、さすがに獣の耳と尻尾を生やした者は見たことがない。この子達は、あの少女――「かなめ」が不思議な書物から呼び出した謎の存在。そしてこの子達は、自分を手伝えとかなめに命じられたらしい。
 鬼には見えないが、「クロハラ」と同じ人外の者には違いない。何か不穏な動きをしたらすぐに術を発動できるよう頭領は杖に力を入れた。

 「うん、手伝うよ!」
 「獅子丸に術教えてもらった!」

 獣耳をぴくぴく動かしながら、二人は無邪気に微笑んで答える。その笑顔は人間の稚児のそれと変わりない。
 この子達はなんなのか、何故柵に亀裂が走ってしまったのか、そもそもこの子達をあの書物から召喚したかなめは何者なのか、疑問は沢山あるが、まずはこの柵を直すことが先だ。そうしないと集落に鬼が入ってきてしまうからだ。狂ひ娘の胎内に侵入した、あの夢魔のような。

 「………」

 頭領は、呪法を唱えながら頭の片隅で、今、狂ひ娘を助けようと"治療"を施している謎の少女――かなめの事を考えていた。
 本当に出来るのだろうか。腹のややこと母体を救うために、胎内に侵入した夢魔を取り除くことが、彼女に――

―――

 「これで全員、か」

 やたノ黒蝿は、一郎他、頭領の家の周りに集まっていた奴らに「くらら」の術を掛け終えた。大口を開けて寝ている一郎の寝顔は、腹立たしい程に穏やかだ。

 「こっちも終わったぞ」

 西の方角から牛頭丸が、東の方角からは石猿が、南からは獅子丸がそれぞれ黒蝿の元に集まってきた。
彼らはこの集落の人間全員に眠りの術をかけてきたところだ。これで五月蠅い輩は全員鎮まり、重女が行う"施術"に集中できる。ただ、頭領は鬼避けの柵を直すためと、何かあったときのために術をかけないでおいた。

 「おい、こっちの準備はできたぞ」

 頭領の家の中で待機していた重女に黒蝿は声をかける。重女はゆっくりと振り返る。蝋燭の灯りに照らされた顔には、困惑の表情が浮かんでいた。

 『ほんとに、私にできるの?  狂ひ娘ちゃんの中の悪魔だけを消滅させるだなんて……』

 重女はゆっくりと顔を伏せ、苦悶の表情で気を失い横たわっている狂ひ娘を見た。
 今、あの大きな腹には、彼女の子供と夢魔・インキュバスが同居している。ほうっておくと赤子だけではなく、母体である狂ひ娘まで内側から食い尽くされる。そんな絶望的な状況に、黒蝿は一つの方法を提示した。

 ――それは、重女が影を操り、狂ひ娘の胎内に侵入し、インキュバスのマグネタイトを吸い取り消滅させること。

 今まで何度も影で悪魔のマグネタイトを吸収してきた。あれと同じ要領でインキュバスのマグネタイトを吸えばいい。頭ではわかっていた。だがこの作業は高い技術と繊細さが要求される。狂ひ娘と赤子のマグネタイトと身体には傷をつけず、極小サイズへと変化した悪魔だけを狙う。顕微鏡等の補助無しで、切開はせず、肉眼だけでがん細胞を取り除け、と言われているようなものだ。

 「お前が出来ないなら、俺がその女の腹をかっさばいてインキュバスを食ってやる。その場合その女も腹の子も死ぬがな」
 『そんなの、駄目に決まってるじゃない!』
 「ならやれ。そいつと腹の子を死なせたくなければな」

 ――無茶をいう! 重女が更に黒蝿に食いつこうとした時、

 「……か、なめ?」

 狂ひ娘がゆっくりと目を覚ました。傷跡の残る白い美しい顔は、しっかりと重女のほうを向いていた。

 『狂ひ娘ちゃん!』

 重女は急いで彼女の手を握った。そしてぎょっとした。先程より明らかに細くなっている。まさか、もう内側から悪魔に生気を吸い取られはじめているのか!?

 「か、かな、かなめ、ぶ、ぶじでよかった」
 『そんな! ごめんなさい! 私のせいで、狂ひ娘ちゃんが……!』
 「い、いいんだよう。だ、だって、おれたち、と、"ともだち"だろ? "ともだち"は"たすけあう"んだろ」

 はっと、重女の目が大きくなった。昨日の夜、狂ひ娘とこっそり語り合った内容。そうだ、私達は"友達"だった。「友達は助け合うもの」と私が言ったんだ。その言葉を狂ひ娘ちゃんは覚えてくれていた。だから、彼女は私を助けてくれたんだ。

 『……そうだね、私達、"友達"だよね……』

 ぎゅ、と狂ひ娘の手を握る力を込めた。そして骨ばった指に自らの指を絡める。

 「か、かなめ……「しゅうまる」だけは、「しゅうまる」だけはしなせないで……し、「しゅうまる」、おれのこ、うんであげたいよう……」
 『大丈夫! 「しゅうまる」君も、狂ひ娘ちゃんも、私が助ける! 今度は私が狂ひ娘ちゃんを助ける番! だって、狂ひ娘ちゃんは"友達"だから!』
 「そう、そうだね、お、おれたち、"ともだち"だね」
 『うん、だから安心して。私が助けるから! 「しゅうまる」くんが生まれたら一緒に遊ぶの! 私と、狂ひ娘ちゃんと、一緒に!』
 「い、いっしょ?  お、おれと、「しゅうまる」と、かなめ、いっしょ?」
 『うん、一緒だよ』

 その言葉を聞いて、狂ひ娘は安心したように笑顔になり、そしてまた気を失った。
 重女は自分の指から狂ひ娘の指をほどき、涙の浮かんでいた目尻を拭うと、き、っと口を真一文字に引き締めた。

 『……黒蝿、指示を頂戴。そして私を全力でサポートして』
 「ああ」

 黒蝿の指示どおり、重女は影を操作した。まず狂ひ娘の腹の上に手を置き、そこから影を発生させた。影の先端を超極小サイズへと変化させ、毛穴から直接胎内へと影の触手を伸ばしていく。重女は意識を影へと集中させた。意識は影と溶け合い、影は重女の意識と同調し、やがて重女の五感と意識は影と一体化した。

 戦いが始まる。狂ひ娘の胎内で、彼女と彼女の子を守るための戦いが――

―――

 頭領が柵を修理して、自らの家に帰った時、彼はぎょっとした。
 周りには一郎や吉之助といった、先程まで集まっていた集落の皆が地面に倒れている。頭領は慌ててその中の一人の息を確かめる。そいつは外傷はなく、すやすやと眠っているだけだった。

 「安心せよ、わが主の施術の邪魔にならないよう、集落の皆には少し眠ってもらった」

 赤い鬣の、大柄な半人半獣の獅子の男が言う。他にも猿のような大きな男と、筋肉隆々の黒牛が頭領の家の周りを取り囲むように立っていた。

 「主様! ちゃんとこのお兄ちゃんを手伝ってきたよー」
 「主様、どこー?」

 頭領の足元から狸の幼子――紅梅白梅童子が家の中に入ろうとする。だが、獅子の男が止めた。

 「今、主は大変なんだ。邪魔をしてはならん」

 獅子の男――雷王獅子丸が紅梅と白梅をひょいとつまみあげ、小脇に抱えた。

 「………君達は、何者だ? 人ではないみたいだけど」

 頭領は、雷王獅子丸、八坂牛頭丸、石猿田衛門、紅梅白梅童子らに問いかけた。
 我ながら間抜けな科白だと思う。彼らが人でないのは一目瞭然である。「何者なのか」と問いたかったのは「かなめ」にである。
 彼らのような異形の者を従えている彼女は何者なのか、人なのか、物の怪なのか、それとも自分のように陰陽の心得のある術師なのか、それが聞きたかった。

 「俺たちは姐さんの"仲魔"だ」
 「……なかま?」
 「そう、契約により主の手足となり戦う」

 猿と獅子丸が答える。その顔はやや誇らしげだ。

 「……その、君達の"主"は何者なんだい?」
 「何者か……か。しいていうなら"悪魔召喚師"だろうな」

 家から"クロハラ"こと黒蝿が出てきて、頭領の質問に答えた。

 「クロハラ、かなめはどうした?」
 「今、"施術中"だ。深い催眠状態に陥っている。下手な刺激を与えると失敗してしまう恐れがある」
 「催眠状態?」
 「あの女の胎内にあいつが"影"を操り侵入し、悪魔を消滅させようとしている」
 「君がさっき言った"悪魔召喚師"というのは?」
 「ああ、この時代のこの国では"陰陽師"といったほうが正しいのか。簡単に言えば、魔を従え、魔を討つ。それがあいつで、俺たちは"使い魔"みたいなもんだ。俺は別に望んでなったわけじゃないがな」

 悪魔召喚師。成る程。悪魔とはとつくにの言葉で鬼のようなものか。彼女の外見からしてこの国の者ではないと思っていたが、まさかあの子がそんな異能の力の持ち主とは。
 もう朧げな記憶しかないが、先代、つまり頭領の父と母も異能の使い手で、息子である頭領に様々な術を教えた。両親も"悪魔召喚師"だったのだろうか。

 「黒蝿! 重女の様子がおかしいぞ! 酷く痙攣している!」
 「なに!?」

 家の中を覗いていた牛頭丸が叫ぶ。黒蝿と頭領は急いで家の中に入った。
 そこには、横になった狂ひ娘の腹に手を当てながら身体をびくん、びくんと震わせている重女の姿があった。
 目は固く閉じられており、声のでない喉からは、かは、かは、と溺れかけのように激しい咳のような呼吸を繰り返している。

 一体、彼女の身に何が起きているんだ? 狂ひ娘は、腹のややこはどうなっている――!?

―――

 視界に映ったのは、オーロラのような穏やかな光の膜であった。

 その光は揺らめく度に様々な色に変化する。薄桃色、緑、青、黄……一つとして同じ色はなく、どれも攻撃的な色合いではなく、心が安らいでいくような、優しい色のカーテン。羊水だろうか。重女は"影"の手をそっと光へと伸ばしていく。
 次に聞こえたのは、どくん、どくん、という音。力強い大きな音である。だが五月蠅いとは感じなかった。むしろその音は心地よく、ずっと聞いていたいとさえ思った。
 これは心臓の音だ。赤子の鼓動。良かった。この音が聞こえたということは、赤子はまだ生きている。
 しかし肝心の赤子はどこに?  重女は"目"を動かす。
 と、いきなり肉の壁が立ち塞がる。びっくりして思わず"叫んで"しまった。よく見れば、その肉はやや赤っぽい肌色で、血管らしきものも確認できる。そして全体的に丸みを帯びている。重女は視界を俯瞰に調節した。
 やはり、それは胎児であった。「しゅうまる」――狂ひ娘と「拾丸」の子。昔、保健体育の教科書の写真で見たのと同じ、頭が大きく、小さな手足を折り曲げて、手を丸めている。腹から出ている肉の紐のようなものは、へその緒だろう。
 こうして間近で見ると少し不気味だ。姿形は間違いなく人間なのに、なんだか別の生き物のように感じる。
 生まれたばかりの弟を見たときは、丸くて、小さくて、柔らかくて、顔が赤くて猿みたいだと思ったが、とても可愛かった。やはりお腹にいる時の赤子は、生まれたときとは印象が違うものなんだな。まあ今の私のように、羊水の中から直に見る事なんて普通はないだろうから当たり前かもしれないけど……

 その時、赤子の身体が動いた。手足を動かし、しゃっくりを発する。まるで何かに嫌がってむずがっているように見える。
 その原因はすぐにわかった。赤子のへその緒に、赤紫色の粘液のようなものがこびりついている。それはへその緒を齧っている。あいつが悪魔だ。重女は確信し、急いで影を伸ばした。
 瞬間、悪魔――インキュバスはへその緒から離れ、今度は赤子の尻へと移る。赤子の動きが激しくなる。

 『この!』

 重女が尻へと移動すると、今度はインキュバスは頭へと逃げた。それを急いで追いかける。しかしまた逃げられ、相手は別の場所へと移動する。羊水の海の中で、重女とインキュバスは命がけの鬼ごっこを繰り広げていた。もちろん、鬼は重女である。

 (早くしないと、赤ちゃんが食われてしまう! )

 その焦りが影の操作を少しだけ狂わせた。インキュバスを捕まえようとした影の手は、誤って胎盤へと突き刺さってしまった。

 『しまっ……!』

 影は胎盤の持ち主――狂ひ娘のマグネタイトを吸い上げる。駄目だ、彼女のマグネタイトを吸ってはいけない! 重女が影を胎盤から抜きとる前に、狂ひ娘のマグネタイトとそれに付随する記憶と感情が、あらゆる物理法則を無視して重女に届いてしまった。
 世界が暗転する。暗転する一瞬前、インキュバスの高笑いが聞こえたような気がした。

―――

 重女が知覚した世界の色は、「灰色」だった。

 曇天の夜空のような暗い灰の世界。"私"は寝ている? いや、誰かに組み敷かれている。顔はわからない。でもそいつは"男"だとわかる。
 この男の人が誰か、"重女"には問題ではなかった。このおとこのひとのいうことをきけば、おいしいごはんがもらえる。"重女"は言われたとおりに男根をくわえ、頭を動かす。おおきい、なんだかふしぎなにおいがして、しょっぱいよう。でもおとこのひとはきもちよさそうだ。ならこれはわるいことじゃない。「いい子だ」おとこのひとがいう。"おれ"、いいこ? うれしい。
 男根が"重女"を貫く。一瞬世界の色が赤くなったが、すぐに濁った灰色へともどる。からだのなかにはいってくるこれは"重女"にとってはなんかいやってもあまりきもちよくなかったが、これさえがまんすればおいしいごはんをはらいっぱいたべられる。これが"おれ"のここでの「しごと」だっておかみさんはいっていた。なら"おれ"がまんする。いっぱい「しごと」しないと。
 世界が揺れる。"重女"を貫いている男の動きに合わせ、灰の世界が拡散する。男のにやついた顔が視界いっぱいに広がり――

 次の世界の色は「緑」と「茶」。草と土の色。"重女"は冷たい水に足を浸していた。ここは川だ。骸ヶ原の集落に流れる川。そこで"重女"は足の間を洗っていた。股間からなにかが零れ足を伝う。それは男の精液と自分の体液だった。
 不快。きもちわるい。だからはやくあらわないと。"とうりょう"もあらっておいで、ていった。このねばねばするのは、ほうっておくとすごくきもちわるくなるから。おわってごはんをもらったあとは、かならずあらうようにしている。"とうりょう"もそれがいい、て。"つぎのあいて"にきもちわるいっていわれないために、ごはんをもらうために、「いいこ」ていわれるためにあらわないと。
 川の水は冷たい。「つめたいよう」とぼやいても、"重女"は川からでようとしなかった。頭領がいいよ、て言うまで、股間のねばねばを洗いきるまで川からあがってはいけない。我慢しなくちゃ。
 ざざ、と風が吹き、対岸に生えている草花を揺らす。草の緑、土の茶色、そして小さな花の白。あれはなんのはなだろう? たべられるかな? "とうりょう"にきいてみよう。"とうりょう"はえらくてあたまがよくていいひとだ。"おれ"をなぐらないし、いつもほめてくれる。だから、"おれ"は"とうりょう"のいるここがすきだ。
 さらさら。川の水が流れていく。"重女"は草の「緑」と、土の「茶色」が目に穏やかに映るのを感じながら、水で身体を清める。透明な川の水が、段々と濁り――

 次の世界は「赤」だ。血のような赤。痛い。体中が痛い。嫌だ、いやだ。そういってもこの人たちは殴るのをやめない。言えば言うほど殴られる。
 身体ががくがくと揺れる。意地悪なおとこのひとたちが"おれ"にいっぱいつっこんでいる。
 あとどれくらいがまんすればおわるのかな。"これ"はきもちわるくてとってもいたい。くちのなかにいれられてくるしい。なんでなぐるの? なんでわらうの? いやだ、いやだ、嫌だ――
 周りの男の顔がぐにゃりと曲がる。いやらしい表情、下卑た顔。そいつらの目の色が全員血の色で、嗤う口から蛇のような長い舌が自分の身体に巻き付いてくる。"重女"は悲鳴をあげた。

 ――落ち着け! それはお前の記憶じゃない! 気をしっかり持て!

 頭の中に響いてくる声にも、重女には効かなかった。

 重女の記憶は狂ひ娘の記憶と混ざり合い、今、狂ひ娘は重女で、重女は狂ひ娘であった。狂ひ娘の記憶の中の痛みも苦しみも、すべて感じていた。
 重女は、泣いた。涙は羊水の中の気泡となり、水面へと昇っていく。あとからあとから涙が溢れた。それは重女の涙でもあり、狂ひ娘の涙でもあった。
 そんな重女の感情に呼応するかのように、胎内に張り巡らされた影が薄くなっていく。羊水の動きが変わっていく。赤子もまるで溺れているかのように苦しそうに動く。破水が始まったのだ。だが今の重女にはそれがわからない。悪魔を消滅させなきゃ、という考えすら消えていた。ただ、彼女の頭の中を占めているのは、激しい「怒り」の感情であった。
 
 不幸なことに、重女の脳は狂ひ娘より発達していた。感情も、思考も年相応に機能していた。狂ひ娘と一体化した記憶から唯一枝分かれした感情――それは「怒り」である。

 世界が真っ黒に染まる。怒りと憎しみの色だ。
 "おれ"を、"私"を、凌辱したこいつらを殺してやりたい。股間のものを破壊し、相手が許しを請うても殴り続けてやろう。今まで"おれ"が、そうされたように。もういたいのはいやだ、くるしいのはいやだ、だから殺す。なぐってけってころしてやろう。そしてべたべたのえきたいをかけてやろう。あしと、ての骨を折ってやろう。骨。真っ白な、"右手の骨"――

 「うごくなよ」

 真っ黒だった世界の色がまた変わった。今度の色は「白」と「青」だ。空の青と、"骨"の白――

 "おれ"は「しゅうまる」の手がすきだ。いまもやさしくかおをふいてくれる、白い骨の手。
 「しゅうまる」はみぎてが殆ど骨だ。昔「いくさ」で骨ばかりになったっていってた。ほかのみんなは"きみわるい"とか、"ほねやろう"とかいってるけど、"おれ"はこのてがだいすきだ。あったかくはないけど、つめたくもない。
 だけど"おれ"のてとつなぐとぴったりあうんだ。「しゅうまる」はいたくしない。なぐらない。においがおなじ。"とうりょう"と、"おれ"とおんなじ「やまいのにおい」
 「しゅうまる」がおれと"いっしょ"になるとき、そのにおいでいっぱいになって、"おれ"はすごくいいきもち。めしはくれないけど、ほねのてでからだをさわられると、とってもあんしんする。ほかのおとこと"いっしょ"になるときより、ずっとずっときもちいい。
 きもちいい。たのしい。うれしい。"おれ"、「しゅうまる」がいい。「しゅうまる」とのこどもだから「しゅうまる」。うんだら、「しゅうまる」と、おそらのめのいろの"ともだち"の「かなめ」といっぱいあそぶんだ――

―――

 ――もう限界、か。

 話しかけても一向に戻らない重女の様子と、大量に破水している狂ひ娘の身体を見て、黒蝿はそう判断すると、手に影を集め、黒い小刀を作った。

 「クロハラ!?」

 頭領が驚いて黒蝿に声をかける。

 「時間切れだ。今から俺がこの女の腹を裂いて子ごと悪魔を食う。裂いた腹はあとで術をかけて治してやる。だが子は諦めろ」
 「なに言ってる! そんなの許さないぞ!」
 「ならどうする? このまま捨て置けば女も子も死ぬぞ。女か、子か、どちらかを選べ」
 「そんなの、選べるわけ――」

 その時、黒蝿の手首ががしっと握られた。頭領と黒蝿は驚いた。手首を握っていたのは、先程まで人事不省状態であった重女だったからだ。

 「かなめ!?」

 頭領の呼びかけに重女は答えなかった。代わりに目を瞑ったまま眉を寄せ、狂ひ娘の腹の上の右手に力を入れた。
 すると右手が光った。太陽の光を浴びないと自力では輝けない月のような、儚げな光。だがそれは確かに道の見えない闇を照らす"光"であった。

 「いったい何が……」

 黒蝿が呆けたように言葉を吐いた。こいつは術など使えなく、マグネタイトすら生成できないはず。しかし今右手から放っている光は、他者を癒す治癒術のそれに似ていた。

―――

 どくん、どくん、どくん。赤子の、「しゅうまる」の鼓動を聞く度、重女の意識ははっきりしてくる。

 狂ひ娘の記憶と溶け合い無くなりかけていた重女の自我が戻ってきた。それと同時に影も濃くなり、逃げ惑うインキュバスを捕まえることに成功した。
 インキュバスのマグネタイトを吸い取る。悪魔の負の感情が伝わってきた。苦しい、痛い、悔しい。だけどそれはいつもより軽かった。どくん、どくん。耳元で聞こえる鼓動。「生きている」という証明の音。これから生まれる命の存在が、重女の負担を軽減してくれた。

 まだ生きる苦しみも痛みも知らない無垢の存在。かつて壮絶な辛酸を舐めてきた母である狂ひ娘の思いと願いが込められた存在。狂ひ娘が愛した男――「拾丸」との子。その命を奪う資格なんて誰にもない。だってこの子は愛されているから。生まれて欲しいって願われているから。狂ひ娘と、そしてきっと「拾丸」に。
 狂ひ娘の記憶の中の「拾丸」は優しかった。温かかった。温もりを持たない骨の手からも、それはちゃんと伝わってきた。辛い記憶さえ吹き飛ばす程に。

 狂ひ娘ちゃん、貴女の愛した人はやっぱり素敵な人じゃない。だから私はこの子を――「しゅうまる」君を守る。約束したものね、必ず助けるって。狂ひ娘ちゃんが私を助けてくれたように、今、私が貴女と「しゅうまる」君をこの悪魔から守る。"友達"だもの。そして「しゅうまる」君が生まれてきたら言ってあげて。「愛している」って――。

 インキュバスの身体が徐々に薄くなっていく。重女の心には相変わらずインキュバスの恨みの感情が流れ込んでいた。

 ――お前は、この子を食おうとしている。それはさせない。誰にもこの子の命は奪わさせない。だから、お前は、消えて――

 重女の思惟が後押しとなったのか、インキュバスの身体の崩壊が始まった。赤紫色の身体は粒子よりも細かくなり、やがてマグネタイトを全部吸い取られた夢魔は、胎内から、現世から消え去った。

―――

 かは、と肺の酸素を吐き出す。同時に重女の肉体に意識と五感が戻ってきた。
 肉体の重みを感じる。視界に黒蝿と頭領の顔が映る。左手が黒蝿の右手を掴んでいるのが分かる。そして妙に生臭い匂いが鼻腔に届いた。

 「戻ってきたか」

 黒蝿が顔を近づけて問うてきた。ぼんやりとした頭でこく、と重女は頷いた。それで十分だった。狂ひ娘の中の悪魔を消滅させたことを伝えるには。

 「お疲れ、と言いたいところだけど、労いとお礼はあとだ! この子が破水してしまった。急いで出産させないとまた子供が危ない!」

 頭領の指示の元、黒蝿と重女、仲魔達は走った。集落の何人かを起こし、火を起こしお湯を焚き、清潔な布きれを集めた。重女の仲魔の異形に集落の何人かは悲鳴をあげたが、それよりも狂ひ娘の子が生まれそうだと分かると、恐怖を忘れ迅速に対応してくれた。頭領の家の中は、起こされた女衆と重女と頭領が狂ひ娘の出産を手伝っていた。

 「ひー、ひー、ふー?」
 『そう、もう一回、ひー、ひー、ふー!』

 重女がラマーズ呼吸法を狂ひ娘に教え、狂ひ娘はいきみながらそれを繰り返した。あと出産に必要なことはなんだろう? 保健体育は五だったのに! 教科書には出産の心得や方法なんて書いてなかったよ!

 「か、かなめ、かなめ……」
 『なに?』
 「あ、ありがとう。やくそく、ま、まもってくれて」

 汗だらけで真っ赤な顔で、狂ひ娘はお礼を言った。

 『……うん、"ともだち"を助けるのは当たり前じゃない』
 「と、とも、ともだち、そ、そう、おれたち、"ともだち"!」
 『うん、そうだね』
 「し、しゅう、「しゅうまる」と、あ、あそんでくれる?」
 『………うん、一緒に遊んであげる。だから、ほら! ひー、ひー、ふー!』
 「ひ、ひー、ひー、ふー……」

 重女は狂ひ娘に見えないよう、そっと顔を伏せた。そうしないと涙が浮かんでいるのをこの子に悟られてしまう。出産の最中に余計な心配をさせたくない。
 きっと、この約束は守れない。私達は出産が済んだら、この集落を追い出されてしまうだろうから。人ならざる者は、この地に交らわれないものはここにいてはいけない。それがここにとって最良であるから。
 だから、この約束は嘘。「友達」を安心させるための、最初で最後の嘘だ。

 「きた! 頭が見えてきたよ!」
 「もう少しだよ!」
 「頑張って!」

 頭領や女衆が口々に叫ぶ。狂ひ娘が傍らの重女の手を握る力を強くする。骨が折れてしまいそうなほどの力で握られ、重女も思いっきり握り返した。

 東の空が白み始める。ここ骸ヶ原の端の集落に、新しい命が誕生するまで、あと、少し――続きを読む

 その作家は、苦しんでいた。

 十九世紀初頭、現在のドイツの前身であるプロイセンの中央に位置するヴァイマル公国。初老の男が机に向かって頭を抱えていた。床には丸めた紙がいくつも転がっている。
 男は豊かな才能の持ち主で、幾つもの小説、戯曲、詩を描いて、その全てがヒットし、一躍人気作家となった。
 数年前には妻を亡くし、自身も腎臓を患い、度々隣国に湯治に行ってはいたが、まだまだ文学への情熱は失っていない。
 しかし、ここ数日、 男は頭を抱えていた。今書いている作品の筆が進まない。俗に言うスランプである。
 ぼんやりとした展開は頭の中で浮かんでいる。しかしそれを文章に出来ない。
 今度の作品は戯曲である。悪魔と天使と人間の男、そして可憐な少女を出すことは決めていたが、それらをどう動かしていけばいいのか、続きをどう書けばいいのかがさっぱり思いつかなく、男は頭を掻く。

 可憐な少女――ふと、男は、自身の初恋を思い出した。
 子供の頃はフランクフルトにすんでおり、近所の料理屋に勤めていた娘に恋をした。男が十四歳の時である。
 結局、その恋は実らなかったが、その娘の美しさは今でも思い出せる。金髪の美しい青い瞳を持った優しく、そしてとても敬虔な娘であった。聖書を殆ど暗記し、毎日の祈りを欠かさない。もし女神がいるなら、このような女性であったであろうとさえ十四歳の男は感じていた。
 何故、子供の時の淡い記憶を思い出してしまったのか。もうその娘はいないというのに。

 「……少し旅行にでも行こうか」

 もうすぐハルツ山地のブロッケン山でヴァルプルギスの夜がある。別名魔女の宴と呼ばれるその祭りに男は前から興味があった。四月三十日の夜から五月一日にかけて催される祭りは魔女や悪魔が集まりサバトを開くらしい。特にそういった存在を崇拝しているわけではないが、春の訪れを祝う人々を見るのは純粋に面白い。それを見れば戯曲のアイデアも浮かぶかもしれない。

 男は椅子から立ち上がると、小間使いを呼んで旅の支度を命じた。今から馬車で行けばだいたい一日で着くだろう。出来れば心優しき魔女が自分にアイデアを授けてくれればいいのだがな、と男は妄想した。

―――

 重女は、困っていた。

 周りには日本の家屋とは違う、レンガ造りの洋風の家々が並び、往来を行きかう人々はどう見ても日本人ではない。
 髪の色も瞳の色も様々な人々が、これまた洋風のドレスに身を包み、英語とは違う聞いたこともない言語を喋っている。
 前回、大正時代からアマラ経絡を発生させ、今度こそシドの元へ行けると思っていたのだが、また違う時代に来てしまったらしい。いや、時代どころか国すら違う。今までの時間遡行は時代こそ違えど同じ日本に着いていた。
 それが今回はどうだ。此処はどう見ても日本ではない。人々も建物も言葉も明らかに日本とは異なる。
 動揺を抑えて重女は辺りを観察する。白人が多く、しかし話されている言語は英語ではない。建物や人々の着ている洋服から見て、此処はヨーロッパだろう。ヨーロッパのどこの国かは流石に分からないが、服装からみて前回よりもっと古い時代のようだ。
 子供達が花の冠を頭につけてキャッキャッとはしゃいでいる。そこかしこで屋台のようなものも出店しており、篝火を灯すための木々がくべられている。気のせいか、皆どこか浮き足立っているように見えた。

 『……お祭り、なのかな?』
 重女は足元の鴉へと姿を変えた黒蝿に念波を送り聞いてみる。黒蝿はじっと人々の話す言葉に耳を傾け、近くの山に目を凝らす。

 「どうやら今日の深夜から、"魔女の宴"が催されるようだ」
 『魔女の宴?』
 「人間達の間では春の訪れを祝う祭りだがな、だが本当はそこのブロッケン山に魔女や悪魔が集まり宴を開く。強力な悪魔が沢山集まるから、マグネタイトも膨大に奪えるぞ」

 日本語以外の言語まで理解できる黒蝿に舌を巻いたが、魔女が実在しているということに重女は驚いた。

 『魔女って本当にいたんだね』
 「そう呼ばれる存在には何人か会ったことがある。ある意味悪魔召喚師と似たようなものだ。異形の者を従え、人の理を超えた術を使う。そういう意味ではお前も"魔女"なのかもな」

 からかうように黒蝿は言ったが、重女は真剣な顔をして黙り込んだ。
 魔女。確かにそうかもしれない。箒で空は飛べないしマグネタイトも生成できないし、術は影の造形魔法しか使えないけど、黒蝿をはじめ、何匹もの人ならざぬものをコンプで従えている私は魔女なのかもしれない。

 『……なら、魔女は魔女らしく宴に参加しないとね』

 少し楽しそうにそう言うと、重女は身を隠していた路地裏から往来へ足を踏み出した。
 ここには髪の色や瞳の色が違うということで差別してくる者はいないはず。なにより祭りの雰囲気に重女は惹かれていた。祭りというものに参加した経験が少ない重女は、例え魔女の宴であろうとも、思う存分祭りを謳歌してみたかった。
 やれやれ、というように黒蝿は重女の後に続いた。前回のように勝手な行動を起こさないように監視しておかないと。
 ブロッケン山で魔女の宴――ヴァルプルギス・ナハトが開催されるまで、あと数時間。その間くらいは自由に行動させておくか。
 まずはあの服から変えさせないと。黒蝿はそっと影を操った。すると影は重女を包んだかと思うと、形を変え、身に纏う衣装がドイツの民族衣装のドレスに変わった。

 「……!」
 「その恰好じゃ目立つだろう。目立ってまたおかしな奴に目をつけられたら困る」

 影の造形魔法は服も作れるのか。感嘆し重女は軽く身体を捻った。すると長いスカートがふわりと揺れる。スカートを穿くなんて久しぶりだ。フリルのついたブラウスも可愛いし胸元を縛るリボンがアクセントになっているのも気に入った。ただそのドレスは黒一色である。

 『……他の子みたいにもっとカラフルなのがいい』
 「影で作ったんだ、どうやっても黒にしかならないぞ。それに"魔女"らしくていいじゃないか」

 くく、と笑いながら揶揄してきた黒蝿に対し、重女は頬を膨らませた。屋台から美味しそうな匂いが漂い、ランタンに火が灯される。
 春の訪れを祝う祭りが始まろうとしていた。

―――

 近くの町に宿をとった男は、早速祭りへと繰り出していた。
 ブーデ(屋台)からいい匂いが漂い、人々は音楽に合わせて楽しそうに踊る。厳しい冬を越えた皆の顔には温かい春の訪れへの歓喜の色があった。
 それらの人々の陽気に当てられて、男の塞いでいた心に風穴が空いた。やはり祭りはいい。来て正解だった。
 男は屋台で食べ物を買い、目の前のブロッケン山を見上げた。懐中時計を見る。今は夜の十時過ぎ。あちらこちらで篝火が焚かれる。既に酒が入って出来上がった者がどんちゃん騒ぎを始めたり、女を口説いたりしている。全く、酒は飲んでも飲まれるな、という諺を知らぬのか。
 身体二つ分離れた隣には、巨大な篝火に照らされて、男と同じくブロッケン山を眺める娘がいた。他の若者のように騒いだりせず、怒ったようにじっとブロッケン山を見つめる少女は、全身黒ずくめのまるで喪服のようなドレスを着て、肩までの金髪は篝火の光を反射しきらきらと光り、青い瞳はまるでザフィーア(サファイア)のようだ。
 瞬間、男の青春時代の思い出が掘り起こされた。フランクフルトでの少年期、よく行った近所の料理屋、そこで働いていた優しく美しい、男の初恋の少女――

 「グレートヒェン!?」

 急に大声で話しかけられ、娘はびくっと肩を揺らし、こちらを向いた。背格好と金髪と青い目はたしかにグレートヒェンに似ていたが、娘の顔の造りはグレートヒェンとは違い東洋系の顔立ちであった。
 日本人か、はたまた清国の者であろうか。

 「………失礼」

 男は罰が悪そうに帽子の縁で顔を隠した。
 考えてみればグレートヒェンが此処にいるはずがないのだ。自分より年上であった彼女は、生きていればもう老婆だ。思い出の中の初恋の少女は既にいなく、自分も年をとった。皺くちゃな自分の手を見て男はため息を吐いた。
 ちら、と男は娘の方を見る。娘も自分の方を見ている。いや、正確には男の手の食べ物を凝視していた。
 チューリンゲン地方ではよく見かける、炭火焼きのソーセージを柔らかめのパンにはさんだものだ。ここらでは珍しくもない代物だが、異国の少女には珍しいのだろう。

 「……いるかい?」
 
 す、とそれを目の前に出され、少女は戸惑い、足元に視線を落とした。そこには鴉がいた。黒づくめの格好といい、足元の鴉といい、まるで小さな魔女みたいだな、と男は内心笑った。
 視線を受けた鴉は頷いた。そっと少女はパンを受け取り、ソーセージを一口齧った。すると少女は目を大きくさせ、驚きの表情でもう一口、二口と食べ始めた。良かった。どうやら気に入ってもらえたようだ。
 少女が口を動かした。しかし声は出ていない。男は目を細めてその薄紅色の唇の動きを見た。やはりというか、それは男の母国語の発音の形ではなかった。日本語か、もしくは他の東洋の言語か。
 しかし言っている内容は察しがついた。お礼を言っているのだろう。

 「Bitte schön.(どういたしまして)」

 男は帽子をとり深々とお辞儀をした。
 まるで役者のように大げさな仕草に、少女は鴉と目を合わせ微笑んだ。

―――

 時刻は午後十一時。重女は自分を「グレートヒェン」と呼んだ老人となんとなく行動を共にしていた。

 その老人は優しく、自分に色々話しかけてきたり、屋台に売っている食べ物を買ってくれたりした。
 老人が優しいのには訳がある。首の痣を指さし、自分は声が出ないということを身振り手振りで表現すると、老人は気の毒そうな顔をして、重女に向かって喋りだした。

 黒蝿の通訳によると、
 声の出ないお嬢さんがこんな異国の祭りに一人で来ているとはよほどのことがあるのだろう、貴女は私の昔の知り合いによく似ている。ここで会ったのも何かの縁。どうか私と祭りを共に楽しんではくれないだろうか、と言っているらしい。

 ここでのことは右も左も分からない重女は、この申し出を有難く受けた。老人の話している言葉――この時代のドイツ語だと黒蝿が言っていた――は日本人である重女には分からなかったが、黒蝿が通訳してくれ、それに対し頷いたり微笑んだりするだけで、老人は嬉しそうに喋り続けた。その親切さに、重女はミカド国で会ったキヨハルの姿を思い出した。
 すると老人が屋台のおばさんのドレスについていた赤いリボンを金で買い、そのリボンをまるでチョーカーのように首に優しく巻いてくれた。首の痣はリボンで隠れ、黒一色のドレスを纏った重女の首元に、鮮やかな赤の花が咲いたようだった。

 「……!」
 「ああ、やっぱりとてもよく似合うよ」

 こんなに親切にしてもらっていいのだろうか。キヨハルさんといい猿といいこの老人といい、皆優しすぎる。
 つん、と鼻の奥が熱くなった。それを悟られないように重女は横を向いて、何かお礼はできないかと考えた。 こんな時、声を奪った黒蝿を恨ましく思う。声さえ出ればいくらでも感謝の言葉を発することができるのに。
 しかし結局声は出せない。なにか、この老人に感謝の意を示したい。何かないか、何か――。

 ふと、暗がりに咲いている花を見つけた。白いマーガレットの花だ。
 重女はそれをかがんで摘み、老人に差し出した。彼女なりの感謝の行動だ。

 「……これを、私にくれるのかい?」

 問いかけに重女はこくこく、と頷いた。男の人だから、花はダメだったろうか? でも私はこの国のお金をもっていないし、何も渡せるものがない。喜んでくれるといいのだけれど……
 老人は少しの間驚いていたようだが、やがて破顔一笑した。

 「そうか……この花をくれるとは……嬉しいよ「グレートヒェン」」

 またグレートヒェンと呼ばれた。人の名前だろうか。先程言っていた私に似ているという昔の知り合いの方の名前だろうか?

 首を傾げる重女を、鴉になっている黒蝿は面白そうに見上げた。
 実はグレートヒェンというのは、「マルガレーテ」という女性名の愛称である。マルガレーテというのは英語でマーガレットのこと。偶然であったが、重女はそれを知らず老人の「昔の知り合い」の名の花を差し出したのだ。

 がし、と老人は重女の手を握ってきた。いきなりの行動に重女は目を丸くした。二人の手の間でマーガレットの花が揺れる。

 「君……君は本当はグレートヒェンの生まれ変わりなんじゃないのかい? もしくは神がこの老いぼれに遣わせてくださった精霊か……」

 いきなり手を握られ切羽詰まった表情でまくしたてられ、重女は狼狽した。足元の黒蝿に通訳を目で催促したが、何やら面白がっている色がその目にあった。もう! なんなのよ!

 「君さえ良ければ、私と一緒に来てくれないか? 君をモデルにした作品を書きたい。怪しいものではないよ。こう見えて私はちょっとは名の知れた作家なんだ。私の名は――」

 鬼気迫る表情で手を離さない男に、重女は軽い恐怖すら感じていた。さっきまであんなに親切だったのに、一体何が――
 その時、人々が大きな歓声を上げた。それにつられ老人が顔を横に向ける。咄嗟に重女は手を離した。

 「おい、見ろ!」

 黒蝿がブロッケン山の方角を嘴で指した。重女も山の方を見る。
 無数の篝火に照らされたブロッケン山に、虹色の輪がかかっている。霞がかっていたその輪は次第に輪郭がはっきりとしてきて、色彩も鮮やかになってきている。さながらそれは仏の後光のように。
 「ブロッケン現象」というものだ。しかしおかしい。ブロッケン現象が起こるのは霧がかった朝方、もしくは昼や夕方に日光等の光を浴びて起こる。篝火があるとはいえ、こんな真夜中に、しかもあんなにくっきりと浮かび上がるのはどう考えてもおかしい。

 『魔女の宴が始まったのね』
 「ああ」

 そう言うと黒蝿は鴉の姿から人型に変化した。重女もポケットに入れてあった眼鏡をかけ、黒蝿から聖書型コンプを受け取った。先程と違い、二人の目には臨戦の炎が浮かんでいた。

 「グ、グレートヒェン!? 君は一体、何者なんだ?」

 人型に変化した黒蝿に驚き、わなわなと身体を震わせる老人に、『違う、私はグレートヒェンじゃない』と念波を送った。
 その声は耳から聞こえたのではなく、頭蓋骨を振動させ脳に直接届いた。しかもあどけない少女の姿とは不釣り合いな、低い「男」の声であったので、老人はますます混乱した。
 
 「鴉を従えおかしな妖術を使っている!? ま、まさか君は魔女なのか!?」

 重女は首元のリボンに触れた。老人が自分に贈ってくれた厚意のリボン。黒一色の自分を彩る真紅のリボン。その赤は今は闇に咲く徒花の色に思えた。

 『……そうよ、私は魔女。異形を従え、異形を討つ。人の理を越えたもの』

 ぶわ、と黒い男の翼がはためくと、辺りに烈風が巻き起こった。烈風は祭りの参加者や老人を吹き飛ばす。近くにあった木の幹にしがみ付きながら、風の中にあの少女の声を聴いた。

 『ありがとう。貴方のご親切は忘れません』

 激しい風が止むと、そこにはもう少女の姿はなかった。

 「グレートヒェン……」

 ぽつりと呟く老人の足元には、少女がくれたマルガレーテの花が一輪、落ちていた。
 時刻は深夜零時。魔女の宴――ヴァルプルギス・ナハトがいよいよ始まる。
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 その男は、「猿」と呼ばれていた。

 赤ら顔で背丈が高く、どこか愛嬌のある猿を感じさせる顔立ちから、彼を拾った親分が名付けた渾名であった。
 親分は鉄火場を束ねるやくざの元締めである。
 「猿」と名付けられた男は、何時しか博徒となり、鉄火場の用心棒を勤める事となった。
 郷里から上京し、奉公先で一悶着起こし追い出され、金もなくふらついていた彼を拾ってくれたのが親分である。
 自分が金を稼がないと、妹達が腹を空かせてしまう――猿はすぐに親分の鉄火場で用心棒として働く事にした。
 堅気な仕事ではないが、用心棒は自分の荒い気性にあっていた。イカサマをする客を見つければ制裁を加え、言いがかりをつけて来た時には、屈強な男数人相手に大立ち回りを演じたものだ。
 それで親分から渡される賃金を故郷の妹達に送ってやる――猿の生活はなかなか充実していた。あの日が来るまでは。

 ―――

 「親分! 怪しい奴を捕まえて来ました!」

 ある日、鉄火場に舎弟の一人が血相を変えて入ってきた。脇に縄で縛った「何か」を抱えながら。
 その「何か」を床に転がす。「何か」は人間の子供であった。

 いや、これは本当に人間なのだろうか?

 子供は金色の髪と青い目を持った、恐らく女の子供。もう少女と呼べる年齢だろうか。
 着ている着物も妙だった。小袖でも着流しでもない。上衣は黒の身体の線が分かる首もとまで隠れる妙なもので、下衣は袴に似ているが、それより足の線が分かる形状をしており、どれも猿が見たこともない着物であった。

 ――異人の子。

 ふと猿の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
 先日、「黒船」と呼ばれる遠い異国からの船が浦賀沖に辿りついたとの噂を耳にした。
 しかし猿は今まで異国人を見たことはない。長崎の出島にでもいけば阿蘭陀人には会えるであろうが、江戸の片隅で鉄火場を細々と営んでいる猿達には異人などとは縁はなかった。
 だが異人の容貌は浮世絵で何度か拝見したことがあるので知っている。赤ら顔に長い鼻、黒ではなく金の髪。色素の薄い瞳。
 しかし床に転がされている娘は、瞳と髪の色と奇妙な服装を除けば、よく見れば市井の年頃の娘と変わらぬ顔立ちであった。異人とのあいのこなのだろうか。
 猿と娘の視線が交錯した。ふとその瞳の青が故郷の空の色を、大きな瞳は痩せた妹を思い起こした。

 「縄張りを歩いていたらいきなり空から降ってきたんですよこの娘。気づくのが遅れたら頭からぺしゃんこだったですぜ」
 「空から? ならこの娘は物の怪か!」
 「ああそうに違いねえ! 異人でもこんな服は着ていねえし、おまけにこの娘ときたら今まで一度も喋ってねえ」
 「親分、どうしますかい? 物の怪でも異人でも女には違いねえ。二束三文にしかならないが、女郎屋にでも売り飛ばしてしまいますかい?」

 うむ、と親分と呼ばれた厳つい男は、無精ひげの目立つ顎をさすりながら思案に耽る。娘は怒ったようにじっとこちらを見ている。
 猿には妹の他に、昔姉がいた。その姉はある日女衒に手を引かれ、村から出ていき、そして二度と帰ってこなかった。
 姉が廓に売られ、病で亡くなったと知ったのは猿が十二の時だ。そのまま今度は妹が売られそうになったところを、猿は必死に止めた。妹を連れて行かないでくれ。代わりに俺が江戸に奉公に出て沢山稼ぐから、と。
 にいちゃ、と縋り付いてきた妹の顔と、目の前の娘の顔が重なる。

 「親分、ちょいとまってくだせえ」

 猿は思わず横にいた親分に声をかけた。ぎろり、と眼光鋭い視線を受けたが、萎えそうになる膝に力を入れて言葉を続けた。

 「この娘、もしかしたらあの黒船と関係あるかもしれません。黒船の異人たちはお上となにやら談合を繰り返していると聞きますし、もしこの娘が黒船の関係者で、女郎屋に売り飛ばしたとお偉方に知られたら面倒なことになりやすぜ」

 お上、お偉方と聞き親分だけでなく手下達まで顔色を変えた。賭博を生業とする者達は皆脛に傷を持つ身である。奉行所に目をつけられるのだけは避けたい、と皆思っている。

 親分は思案の末、娘の処分を明日へと持ち越した。娘はそのまま牢へ放り込まれた。
 イカサマを働いたやつや賭場を潰そうと襲ってきた他所の組のものや、縄張りを荒らしたものを折檻するための牢だ。石の壁には幾つもの血痕が飛び散っており、隅の方には箒尻等の拷問道具が鎮座している。まだあどけない年の娘を入れるには酷だと猿は思ったが、親分の命令には逆らえない。
 案の定、牢に入れられた娘の瞳には怯えの色が伺える。

 「……お前さん、ほんとに物の怪なのかい?」

 膝を抱え隅に蹲る娘に猿は話しかける。郷里の妹とどうしても重ねてしまい、哀れに思いあのような提案をしてしまった。これですぐさま女郎屋に売られるというのは避けられたが、ずっと此処にいてはそれも時間の問題だろう。

 「…………」

 娘は顔を上げ、ゆっくりと首を横に振った。

 「なら、やはり異人さんかい?」

 そう問われ、娘は今度はほんの少し顔を俯け、微かに首を縦に振った。泣きそうな表情であった。

 「だとしたらやはり阿蘭陀人とのあいのこかい? なんでここらをうろついていた? しかもそんな妙な格好をして、さらってくれっていってるようなもんだぜ」
 「………」

 相変わらず娘は黙ったままだった。
 もしかしたら言葉が通じないのか、と一瞬思ったが、先程の問いかけには反応していた。とすると言葉が通じないのでも耳が聞こえないのでもなく、ただ単に喋れないだけなのか。
 娘の纏っている不思議な雰囲気は、異国の人間というだけではなく、声を失うほどの辛い体験をしたからか。

 「そうだ、お前さん、丁半は知ってるかい?」

 懐から賽子と小さな壺をとりだした猿に、娘は目を大きくした。どうやら興味をしめしてくれたようだ。

「簡単に言うとな、二つの賽子をこの壺の中に入れて振って、その和を当てるんだ。賽子の和が偶数なら丁、奇数なら半だ。算術はわかるか?」

 こく、と頷く娘。中盆ほど壺の扱いは上手くないが、娘との勝負なら自分の腕でも十分だ。
 猿は地面に線を引く。そしてそれぞれの陣に「丁」「半」と書く。
 そして猿は賽子を素早く壺に入れると、そのまま地面に着け軽く二回振る。珍しいものを見るように、格子を掴んで娘はその様子を凝視する。

 「俺と勝負しようじゃないか。こいつで俺に勝てたら、お前をここから出してやるよ」

 娘が驚いた顔をした。そんな娘に猿は笑いかける。
ただの用心棒でしかない自分が、親分に了承もなく勝手に娘を逃がすなんてとんでもないことだ。私刑はまぬがれなく、最悪殺されるかもしれない。
 だが娘と妹を重ねてしまった猿にとっては、この娘が女郎屋に売られていくなど我慢できなかった。例え物の怪だろうが異人の子だろうが。
 猿は地面から小石を拾い娘に渡す。

 「この石がコマ札の代わりだ。丁か半、思うところに置いてくれ」

 娘は石をじっと見つめ、壺を見つめた。そして石を地面に書かれた「丁」の陣地に置く。

 「丁、だな。よし、壺を開けるぞ」

 猿も娘も息を飲み、壺から現れた賽子を見つめる。賽子の数字は……一と一。ピンゾロの「丁」だ。

―――

 結局、猿は娘に負けた。あの後三回程勝負をし、その全てで娘は勝った。

 手心は加えていない。最初の一回こそまぐれかと思ったが、そのあと立て続けに娘は当てた。イカサマはなかったはずだ。娘は格子の向こうにいたし、イカサマなどできるはずはない。
 そして約束通り、猿は娘を牢から逃がした。
 渋る娘の背を強引に押し、娘を見送った後、異変に気が付いた三下に親分の前へ引きずられ、裏切りとして鉄火場の皆に手ひどい制裁を受けた。
 全身に酷い痣や傷をつけられ、意識が朦朧とするなか、親分が衝撃の一言を放った。

 「お前、大方あの娘が郷里の妹のようで哀れに思ったんだろ? だが残念だったな。お前の妹も母親も、別の組の女衒が女郎屋に売り飛ばしたって聞いたぜ。しかも借金を返す間もなく二人とも首くくっておっちんじまったらしい。もうお前の守ろうとしていた可愛い妹と母はこの世にいなかったってわけだ」

 呵呵大笑する親分に、猿は渾身の頭突きをくらわした。だが手負いの身では大した傷を負わせられなく、逆に手下どもに更に手酷く暴行を受けるはめになった。

 そして簀巻きにされ川に流され、こうして今、下流の行き止まりで生死の境を彷徨っているわけである。

 (俺がやってきたことは……全部無駄だったんだな……)

 全身の熱が引いていき、身体の感覚はもうない。殴られすぎて腫れた瞼のせいで狭い視界が、更に白く染まっていく。
 これが俺の最後か……。猿は観念した。やくざの用心棒として数々の悪事に手を染めてきた。そんな罪深い俺に相応しい最後だ。

 バサバサと音がし、大きな鴉が猿を見下ろしている。おいおい、もう死肉をあさりにきたってわけかい? 待ってくれよ。もう少しであの世にいくからさ……

 すると鴉は大きく膨れ上がったかと思うと、人間の男の姿へと変貌した。なんだ、最後に見る夢にしてはおかしな夢だな。

 「ほんとにこいつを助けるのか?」

 鴉のような男が言う。その言葉と同時に猿の視界にもう一人入ってきた。結いもしないで無造作に肩まで垂れ流している金髪。青い瞳。間違いない。自分が牢から逃がしてやったあの不思議な少女だ。

 「…………」
 「! ……お前それは本気か!?」

 こくりと少女が頷く。なんだ、なんの話をしているんだ。
 鴉のような男は、尚も少女に向かって何かを怒鳴りづけていたが、少女は一言も発さない。なのに二人の間には意思の疎通ができているみたいだ。なぜだろう。

 暫くして少女は男を押しのけ、なにか分厚い本のようなものを開いた。するとそこから光が発し、瀕死の猿を包み込んだと思うと――。

―――

 「し、信じらんねえ……! こんなことが……!」

 猿は、いや、猿と呼ばれていた人間「だった」男は、自分の身体を見て言葉を失った。
 少女の作動した悪魔合体プログラムによって、既にコンプ内に貯蔵していた魔獣・ショウジョウと合体させられた男は、まさに渾名のとおり大柄な猿の身体へと変化していた。

 『……本当は、もっと人間に近い形で生き返ると思ったんだけど……』
 「そういう問題じゃないだろう!」

 黒づくめの男の怒鳴り声が耳から入ってくるのに対し、異相の少女の声は直接脳内に響く。この不可思議さと己の身体に起こった変化が、どちらも少女が引き起こしたらしいというのがかろうじてわかった。

 「お、お前さん……お前さんはやっぱり、物の怪だったのかい?」

 黒い男と怒鳴りあっていた少女が、やっと猿の方を向く。そしてふっと笑った。猿にはそれが自嘲の笑みに見えた。

 『いえ、人間よ。でも、半分物の怪かもしれない……』

 答えながら少女は眼鏡をかけた。随分不思議な形の眼鏡だ。猿がみたこともない形状だ。
 次に少女は右手を開いた。そこには二つの黒い賽子があった。

 『勝負しましょう』

 目をぱちくりする猿に少女はそう問いかけた。そして地面に放られていた欠けた茶碗を拾い、中に賽子を入れそのまま地面に茶碗を押し付ける。

 『貴方が勝ったら私達は貴方の仲間になる。言うことをなんでも聞いたげる。そのかわり私が勝ったら、私の"仲魔"になって。私の目的のために力を貸して』

 背後で控えていた黒い男は、何を勝手に決めていると怒ったが、少女も猿も無視した。丁か、半か、まさに運命を決める賭けである。

 「俺はピンゾロの丁だ」

 猿が言った。牢での賭けで、少女が最初に当てた数字であったからだ。

 『じゃあ私は半。開けるよ』

 少女の白い手が茶碗を持ち上げた。そこにあった賽子の和は……一と二。イチニの「半」である。

 「はは……また負けちまったな」

 負けたというのに猿の顔には悲壮感はなかった。それどころかどこかすっきりとした様子である。賭けに負けたことも、自分が正真正銘の「猿」の姿に変えられたことも、少女と出会ったことも、全て実は運命だったのではないかと悟った。

 『これで私と貴方は仲魔だね。宜しく』

 猿は居住まいを正し、少女に向かって深々と礼をした。

 「いいでしょう、元々死ぬはずだった身だ。この命、姐さんにあずけまさあ」

 腰をかがめ、右手を前に出し、猿は忠誠を誓った。少女は頷く。黒い男は相変わらず険しい顔をしていた。

 「そういえば、姐さんの名前はなんていうんで?」
 『私は、重女。偽名なんだけどね』
 「偽名? なぜ?」

 ちらりと少女、いや重女は後ろを振り返り黒い男を見つめた。成る程。あの鴉のような男が関係しているのか。

 『それから、こいつの名前は……』
 「やたノ黒蝿。偽名だ」

 黒い男、いややたノ黒蝿はそう言い捨てた。重女を睨みながら。
 どうやらこの二人はただの仲間同士というわけではないようだ。

 「もう行くぞ。ただでさえ座標軸の数値がずれてこんな時代にきてしまったんだ。とっととアマラ経絡を造り次こそはあいつのところへ行くぞ」
 『うん』
 「東の方に強い力を感じる。恐らくそこに行けばアマラ経絡を造るためのエネルギーが確保できる」

 黒蝿が黒い翼をはためかせ、強烈な風を起こす。その風に包まれ重女と、後に石猿田衛門と名付けられる魔獣は、川辺から姿を消した。
 風に運ばれながら、重女は先程の賭けで使った黒い賽子を、田衛門に見られないようそっと握りつぶした。影の造形魔法で作った、それぞれの全ての面に一と二しかない、イカサマ用の賽子を潰し、その賽子は影となって消えた。

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 言葉というのは不便でもあり、便利でもある。
 声を出せないということは、失言もないし、拷問で情報を吐かされる心配もない。しかし逆を言えば、嘘で取り繕ったり、誤魔化したりすることが出来ないと言うことだ。

 「九楼さん?」

 篠宮茜が心配そうに重女の顔を覗き込む。
 夜の保健室。月明かりが窓から差し込み、ショートカットの少女と、薄汚れた軍服の眼鏡の少女を照らしだす。

 茜と目が会う。戸惑っているのだろう。無理もない、一般人が悪魔と出会って平気なはずがない。

 「…………」

 そっと、手元の聖書型コンプを握りしめる。
 あの時、ポルターガイストが茜を襲おうとしたとき、銃を打つのを躊躇い、思わずコンプを作動させ、ポルターガイストを無理やり収容してしまった。銃を打てば茜に当たるかもしれなかったからだ。しかしそのせいで余計な仲魔が増えてしまった、と重女は内心ため息をつく。

 かた、かたかたかた………

 「きゃ!」

 廊下から物音がして、茜は蹲る。重女は険しい顔をして身構える。茜の腕を引っ張って保健室に避難したものの、既に廊下には悪魔が跋扈している。
 図書室に張った影の結界は、結界の主である重女が吹き飛ばされたことにより解けてしまった。そのせいで今や校舎中に悪魔が溢れている。校舎全体に結界を張れなかったのは、重女の力が不足していたからだ。

 (さっき吸いとったマグネタイトの量なら……)

 重女が保健室の床に手を付ける。顔が苦悶に歪む。影が広がり、保健室だけではなく、校舎全体を包む。

 「く、九楼さん……?」
 突然暗くなった保健室に茜は怯え、様子がおかしい重女に思わず話しかける。

 「……!」
 重女の身体がぶるりと震えた。と同時に闇が晴れ、元の保健室が姿を表す。これで校舎全体に結界が張れた。
ぐら、と重女の身体が傾く。それを茜が思わず受け止める。

 「だ、大丈夫? 九楼さん……」

 月明かりに浮かぶ重女の顔は、明らかに苦しそうだ。呼吸も荒く、身体が冷たい。
 目を開いた重女は、茜の身体から離れた。まるで警戒しているように。

 ちら、と茜は重女の右手を見た。暗くてよくわからないが、あれはもしかして拳銃ではないか?

 「九楼さん、一体何があったの?」

 問いかけても重女は答えない。当然だ。彼女は声を発する事ができないのだから。
 分かっているはずなのに、茜がそう聞いてしまったのは、先程の行為といい、重女の様子が明らかにおかしい、と感じたからだ。
 何故、彼女は夜の学校にいるのだろう。何故そんな格好をしているのだろう、そして、何故銃を持ってそんな切羽詰まった顔をしているのだろう?

 「…………」

 重女は茜の顔をじっと見ていた。篠宮茜は戸惑いと怯えを隠せずにいる。

 こんな時、声が出せないのは不便だ。声を出せれば、篠宮茜にこの状況を誤魔化して説明したり、あるいは慰めの言葉を吐いて彼女を安心させる事ができたかもしれないのに。
 だが、私はもう声を出せない。私の声と本当の名は黒蝿に奪われてしまったのだから。
 仲魔や悪魔に送るように、人間相手に念波は送れない。いや、一つだけ送る方法はあるが、それは黒蝿が傍にいないとできない方法だ。
 重女はポケットを探る。デビルスリープは切らしていたが、デビルバインドの石があった。重女はそれを茜に投げつけた。

 「え?」

 石が当たると、茜の身体が突然動かなくなる。まるで見えない縄で縛られたように。

 「え、な、なにこれ!?」
 指一本動かせない状況に、茜は軽い恐慌状態に陥る。
 「く、九楼さん!?  一体何を!?」

 重女は目を伏せ、手元の聖書を開くと、そこに手を翳した。すると、突然二つの光の玉が出てきて、やがてそれは二人の小さな男の子に変わった。

 『紅、白』
 「あい」

 紅と白と呼ばれた二匹の妖精は、狸に似た獣耳と尻尾を震わせ答えた。

 『この子をこの部屋から絶対に出さないで』
 「うん、わかった」

 紅梅白梅童子に念波を送る重女を、茜は怯えながら見ていた。

 ――な、なんなの!? あの本からいきなり人が出てきたし、身体は動かないし、一体何が起きているの?

 茜の怯えた瞳を向けられながら、重女は弾の切れたジグ・ザウエルを床に捨てた。そして、先程ポルターガイストから貰った八百万針玉を手の平に乗せ、目を瞑る。
 すると手の平に影が集まり、やがてそれは銃身の長い狙撃銃の形になった。図書室で借りてきた「図解・世界の兵器とその歴史」に描いてあった狙撃銃だ。
 影の造型魔法の応用だ。頭にイメージした物体を造り出せる魔法。今まで刀や他の無機物は沢山作ってきたが、銃を造り出したのは久しぶりだ。一発打つだけで形は崩れ、しかも精度がイマイチという欠点はあるが、今はこれで充分だ。

 「…………」

 紅梅白梅童子に囲まれ、すがるような瞳を向けている茜に背を向け、重女は保健室から飛び出した。

 「九楼さん!?」

 後ろから茜の声が聞こえたが、重女は振り返らなかった。

―――

 『猿、牛頭丸』

 コンプを作動させ、二体の仲魔を呼び出した。
 聖書型コンプが光り、中から赤ら顔の猿の顔を持ち、着崩した着物を着た魔獣、石猿田衛門と、赤いしめ縄と褌姿の半牛半人の魔獣、八坂牛頭丸が現れた。

 「お呼びで? 姐さん」
 『猿と牛頭丸は校舎内の悪魔を掃討して』

 廊下の先を指差して重女が命ずる。
 廊下には悪魔がひしめいていた。悪霊・ポルターガイスト、クイックシルバーに、夜魔・ザントマンまでいる。

 「姐さんは?」
 『私は黒蝿の援護に向かう』
 先程造った影の狙撃銃を構え、重女は言う。

 「獅子丸を召喚しないノ?」
 牛頭丸の問いに重女は首を振る。
 『もうマグネタイトが残り少ない。獅子丸を召喚できるだけは残っていないわ』

 校舎内に結界を張って、更に三体も仲魔を召喚してしまったのだ、雷王獅子丸程の強力な仲魔を呼び出せる程のマグネタイトが残っていない。
 ぎり、と重女は奥歯を噛み締める。

 やっぱり私は「アキラ」程の力はない――!

 悪霊の群れが重女達を襲う。

 「おりゃあ!」
 「モォォ!!」
 
 田衛門がモータルジハードを振るい、牛頭丸が体当たりをかます。二体の攻撃を受けた悪霊の群れは、あっという間に消える。
 ここはこいつらに任せれば安心だ。私は早く黒蝿のところへ向かわないと。

 重女は踵を返し、親玉のいる図書室へ走った。

―――

 ズズン……と大きな振動が伝わってきて、茜の恐怖心はますます大きくなった。
 保健室の薬品棚が揺れ、机の上のペン立てが床に落ち、かしゃん、と鈍い音をたてた。

 「ひ!」

 その音にびくついた茜を見て、紅梅と白梅はくすくす笑う。

 「怖いの?」

 紅梅が茜の顔を覗く。
 平常時なら可愛らしい幼子の顔も、今の茜にとっては恐怖の対象でしかなかった。
 逃げ出したいのに身体が動かない。先程重女によって謎の石を投げつけられてから指一本動かせない。身体の自由を奪われて、更に傍には獣耳を生やした二人の幼子。この異常な状況に、茜は叫び出したいのを必死に我慢した。

 「大丈夫だよ。主様がやっつけてくれるから」

 白梅が紅梅の横に並んで言う。

 「だって主様デビルサマナーだしねえ」
 「怖いよねえ」
 「でも優しいよ」
 「優しいよね」

 けらけら、けらけらと二匹は笑う。笑う二匹の後ろで尻尾がゆらゆら揺れる。

 「デビル……サマナー?」

 今聞いた言葉を茜は反芻する。紅梅白梅が更に面白そうに笑う。

 「そ、デビルサマナー」
 「悪魔召喚師」
 「悪魔を使って、悪魔をやっつけるの」

 何が楽しいのか、きゃっきゃと赤と白の幼子がはしゃぐ。

 「そ、れは……つまり……九楼さんが、正義の味方、て事?」

 必死に絞り出すように言った茜の声に、二匹はピタッと止まる。

 「ナイショだよ」
 「秘密だよ」

 紅梅が、茜の右の耳元で囁く。吐息がかかってくすぐったい。

 「主様はね、ダークサマナーなの」

 「だ、ダークサマナー?」
 おうむ返しに聞いてきた茜の左耳に、今度は白梅が囁く。

 「悪魔を使って悪いことをするデビルサマナーのことだよ」
 「主様は、悪魔を使って壊そうとしているの」

 茜の身体の両側から、紅梅と白梅が語る。幼い二匹の妖精は、一般人である茜に自らの主の秘密を話すことになんの罪悪も感じてないようだ。

 「こ、壊す? 何を?」

 目を大きくさせながら茜が問う。どくん、どくん。緊張のせいか、恐怖のせいか、茜の心臓が早鐘を打っていた。

 「ヤタガラス」
 「超国家機関ヤタガラス」
 「デビルサマナーを管理している組織」
 「主様の敵」

 雲が晴れ、窓から射す月明かりが一層強くなる。紅梅と白梅が手を繋ぎ、真剣な表情で茜に語る。

 「主様は、ヤタガラスに仇なす者」
 「秩序を乱す者」
 「闇に足を踏み入れたもの」
 「自らの欲望で悪魔を使役するもの」
 「だからヤタガラスからこう呼ばれているよ」

 「黒暗召喚師、て――」


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