
田渕睦深 写真展「空 気」 @ベースカフェ
終わってしまってしまいました。


田渕さんが撮った「空 気」の記録。
日に日にベースカフェの空間に馴染み、
あたたかい空気を作ってきた写真たち。


様々な想いや目に見えないものが
重なりあい、繋がり、集まり、「空 気」という展示に結実したのだと
今、強く感じています。

田渕睦深さん。
「男性かと思っていました」という方が続出でしたね(笑)
浪花節のきいた、義理堅くやさしいまっすぐな方なのです。
少し長いですが、今回の写真展にむけて
田渕さんが書いた文章を転記します。
写真家としての矜持。
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『 空 気 』展によせて 田渕睦深
はじめに 『 空 気 』というお題をいただいた時、
大切な人を見送ったばかりでもあったし、とてもじゃないけど、
今は重苦しいものしかでてこない、と、ちょっと躊躇しました。
でも、それは特別なことではないし、年がら年中常夏気分である訳もなく、
そしてよく考えたら、私はいつも何かしらモヤモヤしていて、煩悩も悩みも多く、
もちろん喜びも沢山あるけれど、毎日がスッキリ爽快な日々ばかりではない。
そうだ、それが今の自分の日常であり、それはそんなものなのだ。
いけてないときのパターンで、(切り替わるときはいつも)大事なものがたて続けに
壊れたり、とどめをさされるように、まさかのアクシデントも重なったり、
いそがしくてあわただしくて、なにがなんだかわからなくなっていたり、
いけてないし、やるせない、しんどくて、残念で、災難にみまわれた時でも、
世界はあるがままに美しいものをちゃんとみせてくれているのだ。
それは当たり前にあるものだし、いつもは気がつかないだけで。
いつもいつでもそばにあるものだけど、はああと、息を吐き出したときこそ、
傍らにそれがあるのが感じられる。
なにかしらの隙間がないと気がつかないだけで。
表と裏のちょうど間みたいに
その真ん中にいてると黒も白もどちらも美しく、
黒でも白でもないものも見えてくる。
みたされているときとはちがって、
からっからの、からっぽだからこそ感じるなにか。
ご褒美のように時々みせてくれるあちら側の世界。
それはいつもみじかにあるけれど、うっかり忘れてしまっていて。
それでも、なにがあっても、どんな状況でも、
世界はいつだって美しいし、厳しいけれど、ほんとうは優しいのだ。

私事ですが、この「空 気」展のはじまる前日、
母を亡くしました。
直前まで変わらず元気に歩きまわり、
前日にはベースカフェでも食事をしていた母。
11月19日の夕方、眠るように、突然に。
母が亡くなった部屋には、
楽しみにしていた、この「空 気」展のDMが、飾られていました。

亡くなった翌日。「空 気」展の初日。
死んだ母から、ベースカフェに花が届きました。

田渕さん、ほんとうにありがとうございました。
田渕さんが大切な人を亡くされた時に決まった「空 気」というテーマ。
その写真展の前日に亡くなった母。弔いの展。
ひとつひとつ全部が偶然ではないような、そんな気がしています。
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2012年、最後の展。
母の大好きだったベースカフェに、
母が楽しみにしていたこの写真展に、
ほんとうに沢山の方が足を運んでくださいました。
ただただ、感謝です。
うまく言えませんが、今は、全部に言いたいです。
ありがとうございました。
