2016年11月18日

オーマンディ/フィラデルフィアo  ドヴォルザーク ロマンス

ドヴォルザーク ロマンス
スターン(Vn)
オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団 66




秩序は崩壊と再生を繰り返している。混沌とした状態から秩序が構築されて行き、完成された秩序もいつしか更新されていく。宇宙を含めて現世はこの繰り返しである。

作曲の歴史を様式の変遷で見て行くと、このような秩序の成立と更新が浮かび上がってくる。西洋音楽のルーツはグレゴリオ聖歌のアレンジにあり、この時代に一旦安定する。やがて宗教音楽を新作する時代が来る。更に時代が下ると主題と展開というアイデアが誕生して、音楽が宗教から独立して行く。主題の数が3つ、4つという時代を経て一時、2つで安定したが、19世紀後半になると再び主題の数が増えて行き、また主題自体が巨大化した。
20世紀以降の作曲がわかりにくいのは20世紀が様式の模索期に入っていることが一因である。20世紀、作曲家は伝統的なアイデアを深化させるのではなく、新しい様式の構築を目指した。また時代の認識がニュートン的世界観からアインシュタイン的世界観に移行したことも人間が自然に理解できる表現から離れた一因と言える。

20世紀は演奏家の時代とされるが、これは作曲が模索期にあったことと関係が深いと思う。演奏の歴史は近年急速に多様化した。多様性は可能性との闘いであり、繁栄の条件でもあるが、同時にパターンを出し切ってしまう面もある。同曲異演は戦後音楽界でのホットスポットだったが、聴衆の興味は今後も同様であり続けるという保証はない。いつか同曲異演が音楽界の中心から外れて行った時、20世紀後半は演奏芸術に於ける頂点として認識されるのではないか。作曲は模索期を抜けて安定期に向かいつつある。従来、同時代性や土地の空気感を表現することは作曲の重要なポイントであったが、様式開発に軸足のあった20世紀はこうした方向には消極的だった。しかし今後はこうした伝統的な価値観が再び重みを増していくのではないか。作曲のトレンドは伝統的な様式で同時代性を表現する時代へと移行し、その結果、再び新作への期待が高まる時代が来る。

ドヴォルザークのロマンスは大変美しい作品である。しなやかな転調は森で過ごすひと時を連想させる。森の生態系は多様性に富み、それは正にシンフォニーそのものである。

オーマンディがこの作品を残しているとは知らず、先日、妻に指摘されて気付いた。作品の特徴を捉えた自然なフレージングがオーマンディらしい。

オーマンディの演奏はいわゆる民俗色の強いものではなく、どちらかと言えば普遍性に軸足がある。オーマンディの演奏は音楽と数学の関連性を示唆するところがある。即ち数式というのは具体性ではなく、抽象的な概念を示している。抽象性が高いということは解釈の幅が大きいということであり、応用性に優れている。数学が物理、化学から野球や家計簿に至るまで関係するのはその抽象性に因る。そういう意味でオーマンディの解釈というのは特定の色を付けない、正に数式のような抽象性があり、それは作品に真摯に向かう姿勢であると思う。

今年もマエストロの素晴らしい人生に感謝。



ormandy at 00:33|この記事のURLComments(0)T〜Z | フィラデルフィア管弦楽団

2016年11月05日

よくわかる作曲の教科書

よくわかる作曲の教科書
秋山公良
ヤマハ

ormandy at 00:33|この記事のURLComments(2)読了 

2016年09月17日

ストラディヴァリウス コンサート 2016

テレマン
 4つのヴァイオリンの為の協奏曲ト長調
ポッパー
 3つのチェロとピアノの為のレクイエム
ドヴォルザーク
 2つのヴァイオリンとヴィオラの為の三重奏曲
ショスタコーヴィッチ
 2つのヴァイオリンとピアノの為の5つの小品
ピアソラ
 リベルタンゴ
ヘンデル
 2つのヴァイオリンとピアノの為のソナタ
ベートーヴェン
 弦楽四重奏曲第13番から
メンデルスゾーン
 弦楽八重奏曲変ホ長調


ヴェロニカ エーベルレ
アラベラ 美歩 シュタインバッハー
レイ チェン
パブロ フェランデス
有希 マヌエラ ヤンケ
諏訪内晶子
スヴェントリン ルセフ
セルゲイ ハチャトゥリアン
石坂団十郎
ハーゲンクァルテット

9月9日 フェスティバルホール

ormandy at 00:33|この記事のURLComments(0)コンサート 

2016年08月20日

ピアノトリオコンサート

ヘンデル
  ヴァイオリンソナタニ長調

ラフマニノフ
  ヴァカリーズ

ポッパー
  ハンガリー狂詩曲

プロコフィエフ
  ヴァイオリンソナタ第1番

リスト
  エステ荘の噴水

メンデルスゾーン
  ピアノ三重奏曲第1番

  歌の翼に


待谷 翠(Vn)
西川彩乃(Vc)
辻 真理(pf)

8月11日  島之内教会


ormandy at 00:33|この記事のURLComments(0)コンサート 

2016年08月15日

フルトヴェングラー/バイロイト祝祭o ベートーヴェン sym9 2016

これは、ビジネスである。
大衆に受ける看板が2枚揃っていて、背景にドラマがある。そしてマスゴミによって神格化が行われ誰も批判できない存在となった。こうしてレコード屋はモヤモヤした二流の演奏をドル箱に変えた。素晴らしい手腕である。

クラシック音楽界の危うさは神格化にある。確かに過去の作曲家、演奏家には偉大な人もたくさんいるが、神格化によってアンタッチャブルになった時点で彼らは固定観念と化してしまった。権威は害である。

クラシック音楽は作品、演奏共に高いクォリティを持ち、それ故に芸術とされている。クラシック音楽で情緒的に感じられる部分、即ち、劇的とか、感傷的とか、テンポが速い、遅いといった現象は表面的なものに過ぎない。
和声の変化に音楽の核心部分があり、それは野球で投手が打者をどのように攻略するかに似ている。投手は何球か投げる間に打者との勝負を付ける。このときに初球どのように入り、最終的にどのように打ち取るかの駆け引きであり、これは音楽においてフレーズ単位で起こっていることと近似性がある。投手はこういうことを繰り返し、最終的に9イニング終えた時点で試合は終了する。音楽はフレーズを幾つもつなげて作品全体を構成する。
こうした部分に理解が及ぶことで初めて音楽を立体的に聴くことができるのではないか。
音楽を聴いて激しいとかアグレッシブである、といった感想は、野球で勝敗しか見ていない状態と変わらない。こういう間隙にビジネスが入り込む余地がある。

私の知っているある音楽関係者は「売れる指揮者が偉い人」と言っているが、それは芸術ではなくビジネスであることに気付いていない。


frut


ormandy at 00:33|この記事のURLComments(0)