ストコフスキー

2014年04月18日

ストコフスキー/彼の交響楽団  シューマン aym2 (50)

シューマン 交響曲第2番
ストコフスキー/彼の交響楽団




ストコフスキーのシューマン録音は極めて限られており、交響曲に関しては当録音が唯一のものである。シューマンも実演では取り上げているので録音が少ない理由はよくわからない。
オケはエキストラメンバーによるものと思われるが、ストコフスキー特有の奏法で統一されている。この辺りはさすがと言える。スコアと照らし合わせた訳ではないが、譜面には例によって手が入っていると思われる。木管楽器の露出などうまく演出できていて面白い。
ストコフスキーの場合、解釈がオーソドックスな時と主観性の強い時の幅が大きいのだが、この演奏は主観的な部類に入る。緩急が大きく付けられ、細かなフレーズを丁寧に拾ってロマンティックな表現を取っている。作品に相応しいスタンスと言える。作品解釈に時代考証よりも同時代性を求めるのは録音当時の価値観だろう。劇的でモダンな表現が今となっては逆に新鮮だ。
この録音を聴いて、ストコフスキーという人がいかにアナログだったか改めて気付かされた。この場合アナログである、というのは良い意味である。この演奏では作品解釈の連続性というものが強く感じられる。AからBへの移行がグラデーション状にしなやかに行われる美意識というものを、我々はいつしか失っていないだろうか。この録音当時、デジタルという発想は一般的ではなかった。録音など技術上でもデジタルの要素は皆無だった。そういう社会情勢の中でストコフスキーのアナログな意識は当時としては一般的だったのだろうが、21世紀の我々にとって新鮮であるとするなら本末転倒なのだろう。価値観というものが時代の影響抜きに考えることができない証しではないか。
今日はストコフスキー132回目の誕生日。マエストロの素晴らしい人生に感謝。

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2013年12月07日

ストコフスキー/フィラデルフィアo  ブラームス sym1(60)

ブラームス 交響曲第1番
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団 60live




ストコフスキーが復帰した際のブラ壱がようやく届いた。スタイリッシュでありながら作品の核心に鋭く切り込む素晴らしい演奏である。オーマンディ時代全盛のこの時期に彼のノーブルなサウンドが見られるのが興味深い。ストコフスキーは38年にフィラ管のポストを離れてからもしばらくはオケとは関係を保っていたが、41年を最後に60年まで客演していなかった。60年以降の登板も限られており、ストコフスキーの復帰公演はフィラ管にとって歴史的なイベントと言える。
2楽章のヴァイオリンソロが絶品だ。年代からするとブラシロウだろう。研ぎ澄まされた音色、自然で豊かなフレージング、作品への共感。今更ながら彼は楽団史上屈指のコンサートマスターだったと思い知る。
ところで60年の客演時にストコフスキーは向かって左手に弦、右手に管という特殊な配置をしたとされているのだが、この音源を聴く限りはそのようには聴こえない。このディスクにはワーグナーも収録されているが、こちらも通常の配置のように聴こえる。

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2013年09月28日

ネゼ=セガン ストラヴィンスキー&ストコフスキー

ストラヴィンスキー
  春の祭典
バッハ ストコフスキー編
  トッカータとフーガ
  小フーガ
  パッサカリアとフーガ
  パストラーレ

ネゼ=セガン/フィラデルフィア管弦楽団



これはすごい名盤だね。深い彫琢、それでいて瑞々しくフレッシュな表現。円熟した部分と若い力感が素晴らしく調和している。音楽の聴き方は人それぞれだが、この演奏は様々な聴き手の要望に応えるものだと思う。
オケはここ数年、線が細かったが、弾力性のあるサウンドが蘇っている。フィラ管に伝わる伝統の奏法がネゼ=セガンによって有効に活用されている。彼のサウンドにはストコフスキーの時代の色とオーマンディの時代の色が見え隠れしていて魅力的だ。
アルバムとしての構成も優れている。私はこのアルバムを聴くまで春の祭典とバッハにこれほどの近似性があるとは知らなかった。またネゼ=セガンがフィラ管の音楽監督に就任した2012年はストコフスキーの就任からちょうど100年後であり、今年は春の祭典初演から100年後に当たる。こういう所からこのアルバムに込めたネゼ=セガンの思いが伺える。
ネゼ=セガンにはブルックナーの録音を期待したい。フィラ管は長い歴史の中で未だにブルックナーの8番と9番の正規録音がない。彼ならきっとこういうレパートリーの空白を埋めることができると思う。数年来の混乱を経て素晴らしいリーダーを得ることができた楽団の今後には強く期待するものがある。

<りんさんの投稿>

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2013年07月20日

ストコフスキー/BBCso ブリテン H・パーセルの主題による変奏曲とフーガ

ブリテン H・パーセルの主題による変奏曲とフーガ
ストコフスキー/BBC交響楽団  63live

63年プロムスでのライヴでブリテンを聴く。大英帝国伝統の香り、ロンドンの下町、ナイジェル・マンセルのレッドファイヴ。この演奏にはそういうイギリスの愛すべき一面が理想的に切り取られている。イギリスの歴史には植民地支配など容易に語れない部分もある。あの国の魅力的な文化がかつての帝国支配の副産物であると思うと複雑な気分になるのも事実ではある。
ストコフスキーはイギリスに生まれ、イギリスに死んだが、生涯のほとんどをアメリカで過ごした。しかし彼はあくまでイギリス人だったのだろうと私は考える。ストコフスキーはあちこち転々と暮らしながらもその根本はイギリス文化から離れることはなかった。この演奏にはストコフスキーのそういうイギリス人気質が理想的に結実している。オケにはキズもあるが、それがむしろ好意的に感じられるのもストコフスキー・マジックではないか。フィナーレで金管が不安定になるとこれを支援し、難所を乗り越えるや畳み掛けるようにして何事も無かったかのように颯爽と曲を終える。名演ナリ。

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2013年07月13日

ストコフスキー/デンマーク国立so  ニールセン sym2

ニールセン 交響曲第2番
ストコフスキー/デンマーク国立交響楽団  67live




京都の重鎮から誕生日プレゼントに頂いたストコフスキーのDVDを見る。67年デンマーク国立交響楽団への客演である。
映像はデンマークの王族と思われる人物の入場シーンから始まる。王族の列席と関係があるのかわからないが、ストコフスキーが登壇した際に聴衆は全員起立で迎えている。
ストコフスキーは当時80歳を超えていたが、演奏は年齢を感じさせない。意欲的とか筋肉質といった言葉がふさわしい演奏だ。客演にも関わらずある程度彼の音楽を実現しているように思う。ニールセンの作品もまずい演奏で聴くと冗長でわかりにくくなるが、ストコフスキーにかかると対位法的な手法など構造面をわかりやすく表現している。
ストコフスキーは多様な切り口を持つ巨人で、どうしても目立つ部分が強調されがちである。しかし彼の奥底は紳士的なのだと私は思う。時に極端な革新性を見せる場合もあるが、本来はジェントルであり音楽に対し誰よりも真摯だったのだろう。そんなストコフスキーが私は愛おしく、堪らない魅力を感じる。

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2013年05月11日

ストコフスキー/フィラデルフィアo バッハ トッカータとフーガ(27)

バッハ  トッカータとフーガ
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団 27




ストコフスキー最初のトッカータとフーガを聴く。27年の録音ながら録音は驚異的に優れている。
34年盤のアプローチと大差無いが、27年盤の方が躍動感が感じられる。この為にしなやかさから重量感に至る振幅の幅が大きい。34年盤の方が重厚であり、かつ統一感がある。どちらを採るかは好み次第だろう。
それにしてもこの時代のフィラ管のうまさには驚く。技巧的な作品を高い精度で演奏しているのみならず、表現の上でも完成度が高く言葉にならない。ストコフスキーのリードも劇的効果を追求すると同時に作品の本質へ深く切り込むものである。ストコフスキーによくあることだが一見、相反するようなふたつの方向性を同時に実現できる手腕にはただ圧倒されるばかりだ。
この作品が27年、34年と僅か7年のインターバルで再録音された背景はなんだろう。あの当時、オーケストラを録音するのは大変なことだった。短い作品とはいえ、大きな編成を組んでまで二度録音するには意図があったのではないか。私はそう思ってこのふたつの録音を随分繰り返し聴いてみたのだが、演奏の状態に大きな差はないと判断した。音楽的要素ではなく、マーケティングなどの事情により採り直したのだろうか。
私にとってこの時代のフィラデルフィア管弦楽団ほど魅力を感じるオーケストラは無い。チャーミングでノーブルなサウンド。ストコフスキーの革新的な運営。20世紀前半といえば戦争の時代であったのだが、フィラ管の録音からはそういう陰鬱な時代の空気は感じられない。といってノーテンキに過ごしていた風でもなく、そういった現実社会から超越したところに彼らの精神があったように思う。
黎明期のフィラデルフィア管弦楽団を実体験できたらどんなに素晴らしいことだろう。このオケは当時フィラデルフィアにあった複数のアマチュアオケが合同して発足したのだが、結成当初から独特のチャーミングなサウンドをしていたと伝わる。このオーケストラが発達して行く過程自体に私は魅力を感じる。

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2013年04月18日

ストコフスキー/フィラデルフィアo バッハ トッカータとフーガ (34)

バッハ  トッカータとフーガ
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団 34




ストコフスキーはこの作品を数多く残した。ハントによるとフィラデルフィア管弦楽団とだけでも27年、34年、39年(39年は映画ファンタジアのサントラ)の3回残している。その他には全米響、日本フィルとのライヴ、チェコフィルなど生涯に9回も録音している。正に名刺代わりだったのだろう。
アレンジはシンフォニックで劇的効果が高く、演奏もある種ハッタリのような部分がある。しかしそういう外見とは裏腹にストコフスキーは真剣そのものであることを見逃してはいけない。親しみやすさやある種の歩み寄るような姿勢と同時に作品の本質へ鋭く切り込むのがストコフスキーである。相反するような二つの方向性を同時に実現する手腕に於いてストコフスキーを超える人を私は知らない。
演奏は即興性が高いように思えるが、実はよく練られたものである。セッション録音であってもフレッシュなところが正にストコフスキー節である。この時代のフィラデルフィア管弦楽団のうまさも格別だ。
ストコフスキーが切り開き、現代の演奏家が受けている恩恵は計り知れない。彼がいなければ我々は10周遅れの演奏を聴いていたのではないだろうか。ストコフスキーの旺盛な実験精神は現代演奏に通じる様々なフィールドを切り開いた。そういう意味でストコフスキーは作曲に於けるハイドンのような存在だろう。21世紀に生きる我々が彼の演奏を聴くと、現代に通じる様々なアイデアに気付く。我々はもっとストコフスキーを知るべきだ。
今日はストコフスキーの誕生日。
マエストロの偉大な生涯に感謝。

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2013年04月13日

ストコフスキー/フィラデルフィアo バード パヴァーヌとジーグ

バード パヴァーヌとジーグ
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団  37




オリジナルと違って近代的な濃い味付けのバード。ほとんど編曲の域にある。しかしこの演奏で聴かれるよく溶け合ったサウンドは素晴らしい。各パートが融合して鳴る様は有機的だ。
パヴァーヌからジーグへと移る描き分けに見る古色蒼然とした振る舞いは聴き手をノスタルジックにさせる。30年代のフィラデルフィア管弦楽団は後の時代のように色彩感や豪壮なサウンドで勝負するオーケストラではなかったことはこの演奏が証明している。欧州伝統のサウンドに滲むストコフスキーの近未来的なモダニズム。絶妙である。
私にとって理想のオーケストラとはストコフスキー時代のフィラデルフィア管弦楽団である。もし20年代に遡って彼らの実演に接することができたらどれほど素晴らしい体験だろうか。

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2013年04月06日

ストコフスキー/フィラデルフィアo  フレスコバルディ ガリアード

フレスコバルディ  ガリアード
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団  34




ストコフスキーはフレスコバルディの作品をこのガリアードのみ34年、52年、58年と3回残している。
フレスコバルディにはガリアードという作品がいくつかあるのだが、これがそのうちどれに該当するのか私にはわからない。しかしオリジナルからはかなり編曲された状態にあると思われる。
もともと良い作品だったのだろうが、ストコフスキーのアレンジによって近代的な価値観で息を吹き返した面がある。彼のアレンジは相変わらず洗練されている。
この小品をストコフスキーは高い集中力で以って慎重に演奏している。こういう真摯な姿勢は音楽家としてのみならず、人として尊敬に値するものだろう。遠く霞むような寂寥感が素晴らしい。

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2013年03月30日

ストコフスキー/フィラデルフィアo  パレストリーナ キリストをたたえよ

パレストリーナ  キリストをたたえよ
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団  34




ストコフスキーのパレストリーナは珍しいのだが、ハントによるとこの作品は34年、52年、58年と繰り返し録音している。得意のレパートリーだったのだろう。
私はこの作品のオリジナルを聴いたことがないのだが、ストコフスキーのアレンジはシンフォニックであるようだ。この鄙びて古風な作品を近代建築のように立派なものに書き直している。しかし21世紀に生きる我々から見ると彼のアレンジ自体がある種ノスタルジックに感じられるのも事実であり、私はむしろそういうところに魅力を感じる。
オーケストラはストコフスキー時代のノーブル・サウンドそのもの。名演なり。

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2013年03月23日

ストコフスキー/フィラデルフィアo  ヴィヴァルディ 合奏協奏曲

ヴィヴァルディ 合奏協奏曲ニ短調
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団  34




ハントによるとストコフスキーはこの作品を34年、52年、67年と生涯に渡って録音した。ストコフスキーのヴィヴァルディ録音は少なく、ハントのディスコグラフィーには他にLe quattro stagioniしか載っていない。
ストコフスキーは日頃から譜面に手を入れることが多いが、この作品に関してはほぼ編曲の域にある。部分的に修正しているというレベルではない。その結果オリジナルに比べると重厚であり、ヴィヴァルディというよりはバッハのようだ。低弦のオルガン的な効果はストコフスキーのオルガニストとしてのキャリアを連想させる。編曲は質感の高いものであり、ストコフスキーの音楽性が示されている。
この演奏でもストコフスキーは例によって真剣勝負である。私は以前からストコフスキーとオーマンディには何か共通するものを感じていたのだが、作品の核心へと迫るその姿勢にヒントがあるような気がする。

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2012年12月29日

ストコフスキー/フィラデルフィアo  チャイコフスキー 1812年

チャイコフスキー  1812年
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団




ストコフスキー生誕130周年というのに、何もしないで終わろうとしている2012年。衰えた鑑賞力にムチ打って決死の覚悟で1812年を聴いてみた。1930年の録音である。
例によって随所に改編が見られる。作品へのアプローチという面もあるだろうが、同時に1930年当時の録音技術への対応という意味もあったと思われる。このお蔭で当時としては驚異的に聴きやすい録音になっているのは相変わらずだ。
中間部の戦闘シーンなど躍動感があってストコフスキーとしても正に見せ場のひとつではないだろうか。ストコフスキーのこういううまさは格別だ。オケはフィラ管にしてはキズも見られる。問題にするような破綻ではないが、当時の録音環境とはいえセッション録音では珍しい。
この録音は1812年の物としては古いもののひとつに入ると思われるが、面白さはそういうところにもある。後の物のように演奏のスタイルが確立されていない時代の録音である為に作品の捉え方にユニークな点が見られる。長く演奏されている作品にはいつしか演奏の雛形のようなものができていくものである。クライマックスで大砲は入っていないようだ。バスドラなどでの代用もされていないか、或いは入っているとしてもごく控えめだ。この作品でもストコフスキーは相変わらず真摯である。

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2012年04月18日

ストコフスキー/フィラデルフィアo  シベリウス フィンランディア

シベリウス  フィンランディア
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団  30




30年4月28日の録音でストコフスキーのフィンランディアを聴く。個性的な表現も見られるし、例によって補筆も行われているようだ。ただこういう外面的なことに捕らわれてしまうとストコフスキーの本質を見誤ることにつながる。この人の場合は個性的な表現をしているが、その根底には音楽に対する真摯な姿勢があることを忘れてはいけない。むしろこういう個性的な表現を通じてもなお真摯な姿勢が滲むところにこそストコフスキーの偉大さがあるのだと思う。
オケの躍動感もいいね。短い作品ながら緩急の大きな表現が作品のスケール感を増している。ノーブルで古色蒼然としたサウンドは私にとってはジャストミートだ。ヒューマンでしかも技巧的にも安定している。この頃のフィラ管を実演で聴くことができたらどんなに素晴らしいことだろう。録音も良好。

今日4月18日はストコフスキーの誕生日。ストコフスキーとフィラ管の音源は限られたものしかなく、ストコフスキーに関する投稿回数が少ない原因になっている。しかも残された録音はレパートリー的に意欲的というか個性的で、オーソドックスなものが少ない。演奏のスタイルも劇性の高いものもあれば、驚くほど中庸な表現になっているものもあり幅が広い。作品に手を加えることも多い。こういった事柄がストコフスキーの実像をわかりにくくしていると思う。
ストコフスキーの場合、音楽を多くの人に届けたいという思いがあった。音楽って楽しいんだよ、こっちに来て聴いてごらん。こういう姿勢はストコフスキーにとって生涯のテーマだったのではないだろうか。そして旺盛な実験精神。現状に満足しないハングリーさもまたストコフスキーの生涯を語るひとつのキーワードだと思う。
ストコフスキー生誕130年の今年、もっと多くの人がストコフスキーの魅力に気づいてくれると嬉しいね。

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2011年04月18日

Stokowski Concert register (工事中)

Auber
fra diavolo overeture
4 dec 1912

Beethoven
sym1
6-7dec 1912
sym5
18-19 oct 1912
piano concerto 4 Godowsky
29-30 nov 1912
coriolan overture
15-16 nov 1912
leonore overture3
11-12 oct 1912

Berlioz
benvenuto cellini overture
10-11 jan 1913
domnation de faust experts
20-21 dec 1912

Bizet
l arlesienne suite 1
8-9 nov 1912
vocal items Goldsmith
15-16 nov 1912

Brahms
sym1
11-12 oct 1912
hungarian dannces
15 jan 1913

Bruch
violin concerto Persinger
1-2 nov 1912

carpentier
vocal items Hinkle
6-7dec 1912

Chabrier
espana
4 dec 1912

Chopin
piano concerto 1 Ganz
3-4 jan 1913

Davies
parthenia suite
1-2 nov 1912

Delibes
sylva suite
15-16 nov 1912

Elgar
sym1
22-23 nov 1912
pomp and circumstance march
1-2 nov 1912

Enesco
presto
15 jan 1913

Franck
sym
29-30 nov 1912

Goldmark
sakatula overeture
3-4 jan 1913

Grieg
peer gynt suite 1
4 dec 1912

Handel
vocal items Hinkle
6-7dec 1912

Haydn
sym104
15-16 nov 1912

Ippolitov=Ivanov
caucasiav sketches
11-12 oct 1912

Lalo
violin concerto Rich
10-11 jan 1913

Liszt
les preludes
8-9 nov 1912
piano concerto 1 Rosenbrg
15-16 nov 1912

Menndelssohn
sym3
10-11 jan 1913

Mozart
sym39
3-4 jan 1913
vocal items Namare-Toye
15-16 nov 1912

Nicolai
die lustigen weiber overture
20 nov 1912

Paganini
intro,theme and variations Harwood Baugher
4 dec 1912

Ponchielli
la gioconda ballet
15 jan 1913

Puccini
vocal items Such
4 dec 1912

Rachmaninov
isle of dead
3-4 jan 1913

reineke
lento
15 jan 1913

Rimsy-Korsakov
scheherazade
15-16 nov 1912

Rossini
guilleaume tell overture
15-16 nov 1912

Sainnt-Saens
adajo and variations Maquarre
dance macabre
4 dec 1912
violin concerto 3 Elman
20-21 dec 1912
vocal items Goldsmith
15-16 nov 1912

Sanby
vikings at hegeland,act4 purelude
6-7dec 1912

Schubert
sym9
20-21 dec 1912

Schuman
sym4
1-2 nov 1912

Sibelius
sym2
8-9 nov 1912

R.Straus
tod und verklarung
6-7dec 1912
don juan
18-19 oct 1912

Strube
puck,comedy overture
29-30 nov 1912

Sullivan
di ballo overture
15 jan 1913

Tchaikovsky
sym5
25-26 oct 1912
romeo and juliet
25-26 oct 1912
march slave
25-26 oct 1912
dasse noisette suite
15 jan 1913

Verdi
vocal items Such
4 dec 1912

Wagner
siegfried idyll
27-28 dec 1912
a faust overture
27-28 dec 1912
fliegende hollander overture
27-28 dec 1912
lohenngrin purelude
22-23 nov 1912
lohengrin act3 prelude
15-16 nov 1912
meistersinger overture
27-28 dec 1912
meistersinger act3 prelude
27-28 dec 1912
rienzi overture
22-23 nov 1912
tannhauser overture
11-12 oct 1912
tristan
~ liebesnacht
kaiser marsch
22-23 nov 1912
vocal items Schuman-Heink
18-19 oct 1912

Weber
konzertstuck Tallarico
15 jan 1913
freischutz overture
18-19 oct 1912


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ストコフスキー/フィラデルフィアo  フレスコバルディ ガリアード

フレスコバルディ ガリアード
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団 (34)




ストコフスキーはSP時代にバロック期の作品を多く残している。演奏もなかなかいい。今日はこれら30年代の録音からフレスコバルディを聴いてみた。荘重な音楽だ。歴史のかなたに霞むかのような寂寥感溢れるアプローチがいい。オケは完全にピュアトーンである。
ストコフスキーは一筋縄ではいかない。効果を追求するあまり時にやり過ぎることもあった。常に最新のテクノロジーに関心を持っていて、これを活用しようとしてフライングを犯すこともあった。そしてストコフスキーは失敗を恐れなかった。様々な試みの中から最良の方法が選択されていくことを知っていたのだろう。残されたストコフスキーの録音が等しく一定以上の水準に保たれている訳では無い。エキセントリックなものから驚くほどオーソドックスなものまで幅広い分布を示しているのが実態だ。しかし我々はそんな彼の「実験」から多くの成果を得ているのが現実だ。
そしてそういった革新的な姿勢が彼の芸術の理解にネガティヴな影響を与えているという事実に私は愕然となる。彼の音楽は決して派手な演出やゴリ押しの爆発にある訳では無い。このフレスコバルディに聴けるような真摯な姿勢こそストコフスキーの音楽の本質であることは今後さらに声を大にして叫んでいかなければなるまい。
私は問い続ける。
「なぜあなたはストコフスキーを聴かないのか?」
ここに素晴らしい音楽がある。私はもっと多くの人にこの世界を知ってほしい。そしてストコフスキーが我々に残した功績をわかってほしい。
今日はストコフスキー129回目の誕生日。

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2011年04月09日

ストコフスキー/フィラデルフィアo  ブラームス sym4

ブラームス 交響曲第4番
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団




ストコフスキーはブラ四を31年(フィラ管)、33年(フィラ管)、41年(全米響)、74年(ニューPO)とそのキャリアの全般に渡って盛んに録音した。今回聴いたのはこのうち33年盤である。
例によって改訂の痕跡があちこちに見られる。ヴァイオリンがオクターヴ上がっている所もあるけど、これが意外にもあまり気にならない。流石である。この演奏は真摯な姿勢が一貫していてまるでバッハを聴くようだ。サウンドはいつもと変わらずノーブルで上品だがフレージングがアグレッシヴで彫琢が深い。核心に迫る姿勢がこの作品にふさわしいね。一楽章終盤で俄かにアッチェレランドして締めくくっているが、ここは聴き所のひとつだ。この巨大な作品がクルクルと舞い、まるで嵐に遭難したかのような視覚的効果がすごい。ストコフスキー節が炸裂するこの部分は一般的なストコフスキーのイメージに応えるものと思う。また前時代の演奏様式を今に伝える貴重なドキュメントでもある。
弦は完全にピュアトーン。録音は冒頭を除いて明瞭。
名盤ナリ。

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2011年04月02日

ストコフスキー/フィラデルフィアo  ブラームス sym3

ブラームス 交響曲第3番
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団




ストコフスキーは生涯にブラ参を28年(フィラ管)、59年(ヒューストン響)と2回録音している。ヒューストン響盤は私は聴いたことが無いが、聞いた話しではあまりよくないらしい。いわゆるストコフスキー特有の「やり過ぎ」な部類に入るもので、過度の演出があると聞いている。
一方のフィラ管盤はなかなかいい。一楽章なんかこの人に珍しくザッハリヒカイトでモダンだ。こういうブラームス像は21世紀の今日でもなお新鮮と感じる。そうかと思えば終楽章では19世紀的なリタルダンドが出たりして相変わらず変幻自在のやりたい放題が痛快だ。譜面の改編も見られるけどストコフスキーにしては控えめと思う。たまに変な所からホルンの音がして「おおッ?」と思う程度だね(笑)。全般にいい演奏だが、ノスタルジックな風情溢れる2楽章は格別だ。甘酸っぱい郷愁がたまらない。

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2011年03月26日

ストコフスキー/フィラデルフィアo  ブラームス sym2

ブラームス 交響曲第2番
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団




ストコフスキーのブラ弐は珍しく、29年と最晩年の77年盤(ナショナルpo)の2種類しかない。キャリアの初期と最終期に残されたというのがなんとも暗示的だね。
29年盤はオーソドックスな一面とストコフスキーらしい個性的な一面が共存した演奏だ。極端な表現は無く、表面的には端正と言える。ただよく聴くと低弦なんかにオリジナルに無い動きがあったり、強弱記号の自由な解釈があちこちに隠れしている。フレージングもなかなか個性的で地味ながらも主張が見える。こういうところは原典主義の観点からは評価されないかもしれないが、こういう改訂の意図がどこにあったかは慎重に見極めたいものだ。音楽的な狙いもあっただろうが、録音年代を考えると音響効果を考慮した可能性も高い。80年も前の録音なのだからどちらにしろ現代の基準で安直に考えること自体が甘いと思う。
そういった諸々の要因を考慮しても演奏自体は大変素晴らしい。丁寧に音楽を紡ぐかのようなストコフスキーのリードは誠実そのもの。時に啓蒙的な表現が現れるのは時代的背景だろう。フィラ管はノーブル且つ強力だ。ここにオーケストラ演奏の魅力を感じない人がいるだろうか。オケは演奏が進むにつれて白熱していくが、ストコフスキーはこれを抑制して懸命に全体のフォルムを保とうとしている。

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2011年03月19日

ストコフスキー/フィラデルフィアo  ブラームス sym1

ブラームス 交響曲第1番
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団





ストコフスキーは27年から33年に掛けてフィラ管とブラームスの交響曲を全曲録音している。たぶんこれは世界初のブラ全ではないだろうか。
ブラ壱は全集の中で最も早い27年に収録されている。ストコフスキーにとってブラ壱は十八番で、フィラ管デビュー公演でも取り上げている。ストコフスキーのブラ壱の録音は多く、27年(フィラ管)、35年〜36年(フィラ管)、41年(全米響)、45年(ハリウッド・ボウル響)、72年(LSO)と5種類残っている。
演奏は緩急が大きく、早くてスタイリッシュ。洗練された佇まいがストコフスキーらしいね。ただストコフスキーがスゴいのは都会的な洗練の中にもいきなり深淵な表現が割り込んで来たりするところだ。軽快かつ洒落た音楽の行きつく先に突然低弦の濃厚なフェルマータが待ち受けていたりする。この人のことを単純に考えるのは正しい評価とは言えない。劇的で都会的、ノーブルで暴力的といった相反する幅広い座標の中にいるのがストコフスキーの実像だ。こういう柔軟な解釈に戸惑った一部評論家がストコフスキーをキワ物扱いして、そのイメージが独り歩きしているがこれは大変な誤解だね。ストコフスキーを理解するツボはハイドンを理解するツボと似ていると思う。
この演奏も例によって譜面への手入れがあちこちに見られる。特に終楽章フィナーレのコラール部には豪快な改編が行われているが、私はこの改編にル・コルビュジェの「輝く都市」に通じる未来志向の精神を見る。
弦はピュア・トーン。現在のように純粋なピュア・トーンではないけど、ヴィブラートはかなり控えめだね。
録音は例によって良好。時代を考えると驚異的だ。

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2006年09月28日

ストコフスキー/フィラデルフィアo  ブラームス sym2

ストコフスキーはブラームスの交響曲をフィラデルフィア時代に全曲録音している。ベートーヴェンは限られた曲しか振らなかったストコフスキーが、ブラームスはすべて残しているのは意外だ。
ストコフスキーのブラ2は洗練された都会的なもので、一般に言われるような田園の風情はあまり強くない。
29年の収録だが、相変わらず音質良好。




ブラームス 交響曲第2番
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団




ナショナリスト。
国粋主義者ですか。
コワいですねぇ。
しかしR33は子供の頃、ナショナリストって自宅の電気製品を全部、松下で揃えている人のことだと思ってたヨ。
当時って結構家電製品をメーカーごとに揃えるの流行ってましたよね。
松下主義者に10点。






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2006年09月27日

ストコフスキー/フィラデルフィアo マクドナルド 二つのピアノの為の協奏曲

以前、激安で買ったストコのボックスを見ていたら珍しい作品があったので聴いてみた。
作曲者はHarl McDonald。
よく知らない。
ものぐさ大王のR33だが、珍しくネットで検索してみる。
おおー。出てくる出てくる。
しかし大概は英語だなぁ・・・。

ヤメタ。
英語、サイナラー。
っと思ったが、「自動翻訳するか?」と書いてある親切なサイトを見つけた。
よし。じゃー、しょうがないから自動翻訳させてあげよう。
おれって親切。 ←卍!

自動翻訳によるとHarl McDonaldはオーマンディと同じ1899年生まれだが、1955年に56歳の若さで亡くなっているようだ。

翻訳の成果をコピーしてみよう。


Harl McDonald, 1899-1955, studied music under Vernon Spencer, Ernest Douglass, and Zielinski.
繊維マクドナルド(1899-1955)は、ヴァーノンスペンサー(アーネスト)の指導で、音楽を研究しましたダグラスとジェリンスキ。


すごい日本語だな。
ダイジョウブか?

でもたぶんこれは


ヴァーノン・スペンサー、アーネスト・ダグラス、ジェリンスキの元で音楽を研究した


とする方が日本語っぽくなると思う。
余計なお世話ですか。
しかも繊維マクドナルドって・・・。

この人はフィラ管の理事でもあったようだ。



↓自動翻訳の成果

大学による彼の管理の任務に加えて、マクドナルドは多数の音楽作品を作曲して、フィラデルフィアOrchestra協会の取締役会に勤めました。


「大学による彼の管理の任務」
ってまったく意味がわからないのだけど、、、
この人は大学当局に管理されていたのか?
大変だったんだなぁ。

何がなんだかよくわからない翻訳だが、きっとこれが完全に正しい英訳なのだろう。
R33は英語できないからな(卍)。




マクドナルド 二つのピアノの為の協奏曲
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団





知り合いにマクドナルドを「マクノナルノ」と言う人間がいる。
見兼ねて何度か指摘したのだが、彼女は「マクノナルノ」で刷り込んでしまっていて直らなかった。
ちなみにこの人はスパゲッティは「スッパゲッティ」、ケロッグは「ゲロッグ」と言う。
スッパゲッティはともかく、ゲロッグでは、売れないな。

国際的ゲロリストに10点。


PC故障中にもかかわらず、また明日。
コメントは週末になります。





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2006年09月26日

ストコフスキー/フィラデルフィアo ショスタコーヴィッチ sym5

これは迫力の名演だ。
あのフィラ管から猛々しい根性を猛烈に引き出している。
エッジの効いたクレッシェンド、咆哮する金管、小気味良いテンポ。
僕はこういうストコ好きだね。
ストコフスキーは多芸で、そのアプローチは一様では無いが、ここでの猛爆ぶりは奇才そのものである。





ショスタコーヴィッチ 交響曲第5番
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団





どうでもいいが、このPCは「大好き」と変換しようとすると「大隙」となる。
そんなに隙を作っているつもりは無いのだが・・・?






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2006年09月23日

ストコフスキー/フィラデルフィアo  ブラームス ハンガリー舞曲第5番

今日は1917年に行われた楽団初の録音セッションからハンガリー舞曲第5番。
この音源は極めて古いが、録音の状態は予想以上に良好で、資料としての価値は大きい。
ストコフスキーは1912年にフィラデルフィア管弦楽団のポストに就任しているので、この時点で5年経っていることになるが、このとき既に後のストコ・サウンドが完成されていることがわかる。この演奏から聴かれるサウンドはノーブルにしてまろやかで、明らかにストコフスキーの特徴である。どのようなセッションが行われたのか、わからないが、アンサンブルもそれなりの精度を持っているようだ。
もうひとつの注目はオケの奏法である。オーケストラはその長い歴史で徐々に配置や奏法が変化してきたのだが、この演奏では弦を初め各楽器がいわゆるピュアトーン奏法をしており、現代のようにのべつまく無くヴィブラートしていない。演奏に関しては、必要なニュアンスを適宜選択すべきであり、全篇レガートで演奏するとか、すべてノンヴィブラートで演奏するというのは僕は適切でないと思う。音楽演奏のひとつのポイントは変化を付けることにある。これからの演奏ではヴィブラートを適宜使っていくことが求められると思う。




ブラームス ハンガリー舞曲第5番
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団






建物の名称。
場合によってはまずいよなーってことありますね。
高田馬場にビッグボックス高田馬場という駅ビルがある。
これね、ホントまずいのであるヨ。
ビッグボックスというのは英語ではものすごくヒワイな言葉であって、いかに守フィ研でもここには書けないヨっ。
日本の建物に英語なんか使うからこういうことになっちゃうんだなぁ。
外国語を使うときは気をつけたい。
先日オペラを見に行った会館も「京都こども会館」などという名称で、35歳、メタボリ自慢のおっさんが白昼堂々と入館していいものか、ちょっとためらわれた。しかも「こども」とひらがなである。たぶん「ドコモ」ではなかったと思う。一人では入る勇気はなかったナ。
「○○女性会館」というのもある。
以前、おとこの料理教室というのがあり、ハラヘリ半分で行ってみたら会場は女性会館。入るのコワカッタなー。
「ここはジェンダーフリーです!男性の入館はお断りデス!」
とか、四角いメガネの怖いおばさんに言われたらどうしようかと思っちゃったもん。
そもそもジェンダーフリーなのに男性お断りというのが矛盾していて素敵だが、こういう所に行くと僕らの常識は通らないからネ。何が起こってもおかしくないのだよ。
女の都
長崎に「女の都」という所がある。
女の都などと言われると、行ってみたい気もするが、逆に危ないのかもしれないとも思う。
女の都でモッテモテの48時間というのなら最高だ。
おーい、ビール持って来ーいってなわけである。
ところが「女の都」という文字をそのまま解釈すると、女性にとっての都であるのかもしれない。僕の考えているようなことなら、ある意味「男の都」なのである。
昔、中央アジアにアマゾネス族は本当に存在したらしい。
どういう理由でか知らないが、この部族はいつからか男児が生まれると放逐してしまって、女性のみで国家を運営していた。子作りはどうしたかというと、行商で来るおっさんらを「利用」していたようだ。ここの女性らは、戦闘行為を妨げるというので皆、乳房を切り落としていたとも伝えられている。
コワイよー。
たぶん「女の都」には行かない方がいいな。
この国にも、いまだに驚くべき地域があるのだ。
エキゾチックジャパン。

また明日。






ormandy at 09:40|この記事のURLComments(2)

2006年09月13日

ストコフスキー/フィラデルフィアo ベートーヴェン sym9

今月はストコフスキー強化月間。
思えばここまで一度もストコフスキーを特集してこなかったのが意外である。
たぶん名前が長いからだろう ←卍!
ストコフスキーと毎回打つのはとても面倒だ。登録してしまおうかとも思うのだが、ものぐさでそんなことをするガッツも無い。 ←アンタ終わってるヨ
演奏はストコ特有のノーブルなサウンドが良好な録音で楽しめる。よくフィラデルフィアサウンドと言われるが、やはり元祖たるストコのサウンドは格別に素晴らしいと思う。
この演奏はストコにしては低弦に重心があり、ベートーヴェンらしいバスの動きがよくわかる。サラっとしているが、それでいて内側に向かって凝集していくような集中力があり、この指揮者の特徴がよく表れた演奏と言える。
録音は34年ながら例によって良好、歌詞は英語である。




ベートーヴェン 交響曲第9番
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団






英語による第九、聴いてみると英語に聴こえなくて驚く。
フロ〜イデっ!
というところは当然、
フレ〜ンドっ!
と歌っているのだろうが、「E」の発音が強いのか、なんだか
「ふぇーんッ!」
と聴こえる。
ドイツ語と英語って親戚関係なので、もっと収まりいいのかと思っていたのだが、違和感大だヨ。
しっかし第九という作品、変な作品ですよネ。
MICKEYさんの投稿でも話題になっているが、三楽章までは素晴らしいのに、あの終楽章は一体どうしたというのでしょう。突然のドンチャン騒ぎにR33はついて行けないヨ。
第九を移行の過程にある作品と言ったら抗議殺到、平成一揆勃発か。
この作品は三楽章までは伝統的なソナタ形式と言えるが、終楽章は交響曲だと思って聴くと訳がわからない。ところが三楽章までのソナタ形式に、一幕もののオペラブッファが付いていると考えると収まりがいいように思う。オペラセリアでなく、オペラブッファね。このような不可解な構成になったのは、きっと当時交響曲に声楽を取り入れるという斬新なアイデアに対するベートーヴェンなりの配慮だったのではないか。交響曲に声楽が入るということが珍しかった当時、ソナタ形式のまま終楽章に声楽を盛り込むことにはさすがのベートーヴェンでも躊躇し、それで当時聴衆に馴染みのある
 オケ+声楽 
の様式としてオペラブッファの形式を用いたのではないか。このような第九のありようをベートーヴェンは納得しているのだろうか。この作品は全体を俯瞰すると明らかに様式的に統一感を欠いている。ベートーヴェンは案外、アイデアを慎重に繰り出してくる所があった。もし、ベートーヴェンがもっと長生きしてたら第九での実験を踏まえて、純粋なソナタ形式による声楽入りの交響曲を作ったのではないだろうか。シラーによる詩も、その趣旨はともかく文学的にはどうということのないものだしネぇ・・・。

なーんちて、柄にもなくムツカシイことを。
ゴメンゴメン。

今日はストコフスキーの命日。
合唱で合掌!


ではでは。





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2006年09月12日

ストコフスキー/フィラデルフィアo シューベルト sym8

ハービス「未完成」交響曲。
番号が8番になったり7番になったり。
たいぶ前は5番だったこともあったか。
なんだかよくわからないのだが、R33は古い人間なので8番でゴリ押しだ。
年取ると一度刷り込んだことを変更するのはとてもムツカシイのだよ。
わかってくれる?
しっかし7番とか8番って、この作品はまるで下位打線だな。
若い頃は5番も打ってた?
おーおー、ヨシヨシがんばったネ ←卍!

僕も現役の時は5番、エースで盗塁王。
こう見えても足速かったのだよ ←過去形だよ(爆)
6年生のときに100メートルを13秒7で北区45万人都市の大会で2位。
盗塁で刺されたことは一度もないな。
かつて盗塁王、今では糖類王。
なーんちて。




シューベルト 交響曲第8番
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団






演奏はストコにしては端正なもの。
この人の演奏はどちらに転んでもねっとりとしたパトスとは無縁。
爆裂するときもさらっとドライ。
育ちがいいのだろう。
この辺りオーマンディの濃厚さは対照的である。

今日は演奏に触れずに終わりかい!って思ったアナタ。
甘いな。
順番を入れ替えてみたのだ。
ふぉっふぉっふぉ。

オレ将来、絶対イジワルばあさんになるな・・・。
おっと、じいさんか。


写真は西梅田ハービスを下から見たところ。



ではまた。






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2006年09月09日

ストコフスキー/フィラデルフィアo ドビュッシー ノクチュルヌ

上洛中は「東京だよ!ストコ祭り」。
今日はドビュッシーの名作ノクチュルヌである。

この作品もストコフスキーもオーマンディも得意としており、音源が残っている。
フィラデルフィア管弦楽団の歴史で極めて重要な二人だが、こうして見ると案外レパートリーに共通点が見られる。ストコとオーマンディの仲はどうだったのだろう。

僕の知る限り二人の具体的なツーショットが出てくるのは近衛秀麿氏の本だけである。
意外にもこの二人が近衛氏の話しに出てくるのは、近衛子爵とストコに大きな接点があるからだ。
1936年、ベルリンオリンピックの年に、広田首相は近衛氏を音楽親善大使として各地に派遣することを決定する。この話しがストコの耳に伝わり、この前年1935年に近衛氏の編曲による「越天楽」を演奏していたストコフスキーが氏の招聘に動いたのだ。1936年というのはオーマンディがストコフスキーと共同で首席指揮者に就任した年に当たり、近衛氏はここでオーマンディとも知り合う。
ストコフスキーとオーマンディの絡みが出てくるのは1937年一月のことだ。
この年の正月、近衛氏はフルトヴェングラーとポツダムのフルヴェン邸で会っているのだが、この時に悪化する政局を踏まえてフルヴェンの秘書だったガイスマール女史からフルヴェンの亡命を仲介するよう頼まれたらしい。しかもそれはフィラ管のポストを得て、という条件だった。ここは、従来のフルヴェン関係の書籍の記述とは矛盾するのだが、近衛氏自身はフィラ管への客演ではなく、亡命と解釈したようだ。
翌週、フィラデルフィアに向かった近衛氏はストコフスキーにこの件を話した。
近衛氏の話しによると、この件でオケは意見が「ふたつに割れた」という。
ストコフスキーは賛成したようで、この話しは相当な部分までできあがっていたようだが、最後になんと若きオーマンディが難色を示して成立を見なかった、とある。
もうひとつ、ストコフスキーとオーマンディの接触は、ストコが「新任の常任ならベートーヴェンの二番をやるべきだ」と言ったのに対してオーマンディが「二番は勘弁してほしい」と言った、というエピソードが出てくる。このため、フィラ管でのベト2は近衛氏が振ったとある。これも「新任」とされているから恐らく36年頃のことだろう。すると若きオーマンディは、当時飛ぶ鳥落とす勢いの大スターであるストコフスキーに、案外率直な意見を言っていることがわかる。大スターを前に、もっとおとなしく政権禅譲を行ったのだと思っていたのだが、意外な事実がわかった。
今回読んだ近衛氏の本は、やや近衛サイドから見ている感もあるが、しかし読み応えがあったのでまた機会を見てここでも触れてみたい。




ドビュッシー ノクチュルヌ
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団








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2006年09月08日

ストコフスキー/フィラデルフィアo フランク 交響曲

東京上洛中もガッツで毎日投稿。
留守中は「東京だよ!ストコ祭り」で毎日ストコ三昧を決め込む。
今日はフランクのニ短調。
大好きな作品である。
フィラ管はストコ、オーマンディ、ムーティと歴代指揮者陣によるニ短調の名盤が揃っている。
正直言って、いずれも世評は高いとは言えないのだが、僕は気に入っている。
ただ、オーマンディ盤についてはちょっとやり過ぎ感もなくはないのだが・・・。
この演奏を聴くと、ストコフスキーがオルガン出身であることを思い出す。ストコフスキーは管弦楽の多彩なサウンドを、まるでオルガンのストップを操作するかのように自在に操っており、二楽章のはかないような美しさには満たされることのない望郷の念を感じる。
名盤。




フランク 交響曲
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団






このディスク、すごいから二楽章の終盤残り数秒の所にナゾのインデックスが入っている。
これ、三楽章のインデックスの間違いかと思ったら、終楽章にもきちんとインデックスが。
すごいから10点あげちゃう。






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2006年07月10日

ストコフスキー/フィラデルフィアo シェーンベルク グレの歌

怒涛のフィラ管祭り、最終回はストコフスキーによる「グレの歌」アメリカ初演の実況ライヴ。
1932年のライヴ録音ながら優れた音質は相変わらず、というより驚異的。

すごいな。

当時はこういう斬新な作品にも客が集まっていたようだが、これはかつての記憶がそうさせたのだろう。新作に魅力があったころの余波とでもいうか。
もうこの頃には新作への聴衆の期待感は微妙なものになっていたはずだ。




シェーンベルク グレの歌
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団






最近、FM放送はもちろん聞くが、AMもなかなか捨てがたいと思っている。

夜は21時10分にクラシックの番組が終わるとAMにする。

ここ守口はどういう訳かKBS京都放送しか入らない。

どうでもいいが韓国にKBS交響楽団というのがある。
これ、最初の頃知らなくて京都放送がオケ持ってると思ってたよ。

神奈川県にはTVKテレビという局がある。
小学生の頃から疑問に思っているのだが、「TVK」ってきっと「テレビ神奈川」の略だ。
すると「TVKテレビ」って正式には「テレビ神奈川テレビ」?

まぁ、最近では「TVKテレビ」とは表記していないようだが。

そしてこのTVKのサイトに行くと、県内の天気が表示されているのだが、
このポイントが横浜、三浦、海老名、小田原、辻堂。
県内5つのポイントが辻堂ってどうよ。
それなら茅ヶ崎とか平塚にならないかねぇ。

どっちでもいいですか。

ではまた。




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2006年06月26日

ストコフスキー/フィラデルフィアo ストラヴィンスキー 春の祭典 (29)

今日は1913年。この年に春の祭典がセンセーショナルに初演されている。日本は大正二年。比較的穏やかな時代と言えようが、ヨーロッパではハプスブルク家という巨人が今まさに倒れようとしていて、不穏な空気が忍び寄っていた。この結果引き起こされる一次大戦は一見、日本は関係無いようだが、当時まだ続いていた日英同盟のよしみでドイツに宣戦布告。中国にあったドイツ軍の基地を攻撃している。この時、日本軍は航空機を実戦に投入したが、これが世界初の航空攻撃であった。さらにイギリスからは地中海の海上輸送の護衛を頼まれ、遠路駆逐艦隊を派遣している。日本艦隊が前線に立つことは無かったが、それでもドイツ潜水艦との戦闘などで2000人以上の犠牲者を出しており、慰霊碑がマルタ島にある。こういう史実はもっと広く知られるべきだ。

1913年
ハイドン 没後104年
モーツァルト 没後122年
ベートーヴェン 没後86年
シューベルト 没後85年
ベルリオーズ 没後44年
シューマン 没後57年
ブルックナー 没後17年
ブラームス 没後16年
サン=サーンス 78歳
チャイコフスキー 没後20年
ドヴォルザーク 没後9年
マーラー 没後2年
ドビュッシー 51歳
シベリウス 48歳
ラフマニノフ 42歳
瀧廉太郎 没後10年
バルトーク 32歳
ストラヴィンスキー 31歳
ヴァレーズ 30歳
山田耕筰 27歳
ショスタコーヴィッチ 7歳




フィラ管初のハルサイとなった29年の録音だが、例によってクリアな音で聴くことができる。ストコフスキーのアプローチは劇場風なもので今となってはユニークだが、初演後間もない頃の「同時代の」演奏はこんなものだったのではないだろうか。手垢が付いていない解釈は今なお高い鮮度を感じる。




ストラヴィンスキー 春の祭典
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団





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2006年06月23日

ラフマニノフ ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 (29)

今日は1901年、ついに20世紀である。この年には後のニューヨーク・ヤンキースがボルチモア・オリオールズとして連盟に新規加盟している。ボルチモア・オリオールズというのは現在でもあるが、その「現」オリオールズは1901年当時はミルウォーキー・ブリュワーズと名乗っており、1954年にボルチモアに移転してオリオールズを名乗るようになった。ちなみにミルウォーキー・ブリュワーズという球団も現在存在するが、これも「旧」ブリュワーズとは無関係で、1969年にシアトル・パイロッツとして誕生したチームが翌年、即移転してブリュワーズを名乗るようになったものである。そしてそのシアトルには後にマリナーズが誕生して現在に至る。大リーグの歴史はなかなかややこしい。

1901年
ハイドン 没後92年
モーツァルト 没後110年
ベートーヴェン 没後74年
シューベルト 没後73年
ベルリオーズ 没後32年
シューマン 没後45年
フランク 没後11年
ブルックナー 没後5年
ブラームス 没後4年
サン=サーンス 66歳
チャイコフスキー 没後8年
ドヴォルザーク 60歳
マーラー 41歳
ドビュッシー 39歳
シベリウス 36歳
ラフマニノフ 30歳
瀧廉太郎 22歳
バルトーク 20歳
ストラヴィンスキー 19歳
ヴァレーズ 18歳
山田耕筰 15歳


1900年
 フィラデルフィア管弦楽団結成 日本楽器ピアノ生産開始 ニーチェ没

1901年
 ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番  シベリウス 交響曲第1番

1902年
 日英同盟締結

1903年
 瀧廉太郎没 ライト兄弟の飛行




ラフマニノフの自作自演はたいてい微妙である。いまいちキャラ立ちが弱いというか・・・。
ラフマニノフのピアノ協奏曲というと4曲いずれもよくできているが、なかでも2番と3番に人気が集まる。しかし不思議なのはこの両方を演奏するピアニストが意外に少ないこと。全体の曲想が似ているからどちらか片方をやればいいや、と思うのだろうか。
ラフマニノフはフィラデルフィア管弦楽団をことさら気に入っていたようで、頻繁に共演、あるいは指揮もしている。確かにラフマニノフのちょっとアンティークでロマン溢れる作風にはフィラデルフィアサウンドは相性はいい。こうした歴史はこの楽団の伝統として今なおラフマニノフ演奏への自信となっている。
フィラデルフィア管弦楽団研究の世界的権威でいらっしゃる市川さんのページによると、オーマンディとストラヴィンスキーとの間には行き違いがあって、ある時から疎遠になったらしい。きっかけはオーマンディが新作を依頼したのにどういう訳かストラヴィンスキーから梨のつぶてだったことにあるようだ。これは憶測に過ぎないが、もしかしたらこの背景にはフィラ管とラフマニノフとの関係に対するストラヴィンスキーの嫉妬があったのではないだろうか。生前、ラフマニノフとストラヴィンスキーはライバル関係にあったのは有名だ。フィラ管側としては特にストラヴィンスキーを嫌っていたわけはないのだろうが、あまりに順調なラフマニノフとの関係がストラヴィンスキーにとっては煙たかったのではないだろうか。あるいは脅威だったのかもしれない。同じ年の生まれで、しかもラフマニノフも、あるいはそれ以上にストラヴィンスキーも得意のレパートリーとしていたストコフスキーの時代はともかく、明らかにラフマニノフを得意としていたオーマンディをストラヴィンスキーはどう思ったのだろう。またオーマンディにすれば、ストコ時代からの大御所であるラフマニノフには逆らえない空気もあったのだろう。
とはいえオーマンディもストラヴィンスキーを取り上げていた。55年録音の春の祭典が残っているし、来日公演でも「火の鳥」を取り上げている。ストラヴィンスキーへの新作委嘱はオーマンディの配慮だったのかもしれない。しかしオーマンディという人は他人には理解できないくらい淡白な所があって、微妙な空気の人に対して自ら頭を下げて関係改善を図ることはしなかったようだ。オーマンディにとっては精一杯の配慮も、ストラヴィンスキーには十分とは映らなかったのかもしれない。
と、長々書いたが、以上はあくまで憶測、というか妄想であるので。
念のため。




ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番
ラフマニノフ
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団




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2006年06月20日

ストコフスキー/フィラデルフィアo チャイコフスキー sym5 (34)

今日は1888年。この辺り、まるで名作の森に迷い込んだかのようで毎年歴史的な名曲が完成している。従って投稿も各駅停車である。
この年に完成したのがチャイコフスキーの交響曲第5番とマーラーの交響曲第1番。こうして並べてみるとこのふたつの作品が同じ年に完成されているとは不思議な感じがする。
翌年にはエッフェル塔が完成、国内では明治憲法が発布される。
近代化の靴音高し、である。

1888年
ハイドン 没後79年
モーツァルト 没後97年
ベートーヴェン 没後61年
シューベルト 没後60年
ベルリオーズ 没後19年
シューマン 没後32年
フランク 66歳
ブルックナー 64歳
ブラームス 55歳
サン=サーンス 53歳
チャイコフスキー 48歳
ドヴォルザーク 47歳
マーラー 28歳
ドビュッシー 26歳
シベリウス 23歳
ラフマニノフ 16歳
瀧廉太郎 9歳
バルトーク 7歳
ストラヴィンスキー 6歳
ヴァレーズ 5歳
山田耕筰 2歳


1882年生まれのストコフスキーは1888年に作られたチャイ5とはほぼ同世代。というか、チャイ5よりもストコの方が年上であるとは驚いた。こうして考えるとチャイコフスキーが生きていた時代なんていうのは、ほんのつい最近もことのように思える。
ストコはここでも奏法に関して色々指示を出しているのは間違いない。特に弦がめまぐるしくスタッカートしてみたり、レガートしてみたりするのは恐らく楽譜の指示ではないだろう。こういう小さな表情の積み重ねが、まさにストコ節を支える屋台骨である。
例によって時代にも係わらず明瞭な録音もあって、ストコの息遣いまで聴こえるかのようだ。




チャイコフスキー 交響曲第5番
ストコフスキー/フィラデルフィア管弦楽団






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