神の顕現する活動――三位一体それ自身、伝達不能の本性以外の神の存在様態を意味する――その一体性において亀裂をもたらすものではない。それらは単なる三位一体を廃棄しない。子と聖霊の位格の共本性の原因である父の同じ専制が三一性の一体の外的顕現にも存する。ここで、三つの共本性の位格の絶対的多性の原理としての父という位格に適用される原因性という語(父のみからの聖霊の位格的発出を含意する語)は聖霊における子による父の啓示ないし顕現からは区別されなければならない。原因性は、欠点の多い語ではあるが、それの意味する所をよく表現している。父の位格から生じる三つの位格的区別――父が独占的に本性であるのではないという事実によって生じる絶対的多性の区別。慣習的語である原因性を父の顕現という語で置き換えることは――セルギウス・ブルガコフはそうしようと試みたが――二つの思考領域を混同することなしには不可能である。三位一体それ自体の存在のそれと、その外の存在、神の本質的栄光の輝きのそれ。
もし父が位格の位格的原因であるならば、まさにその理由によって、父はまた一つの同じ本性の共有の原理でもある。その意味で、父は三者の共通の神性の源である。この本性の啓示、三者の知られざる本性の外部化は、三つの位格と縁のない現実ではない。すべての活動、すべての顕現は、父から来、子において表され、聖霊の中に出て行く。自然の、「活動的な」、顕現するこの発出は、父のみからの位格的、内的な位格的発出とは明らかに区別されなければならない。同じ父の専制が――父のみからの位格存在――聖霊の位格的発出と、聖霊の中での、子を通した共通の神性の外への顕現的、自然的発出の両方を条件づけている。
すでに述べてきたように、もし聖霊という名が位格的性質よりは神の経綸を表現しているとすれば、これは、第三の位格がとりわけ顕現の位格であり、私たちがその中で三位一体を知る位格だからである。その位格は、まさにそれが現す神性の豊かさによって私たちから隠れる。顕現と経綸の領域での聖霊のこの位格的へりくだりが、その位格的存在を把握することを難しくしている。
同じ自然的顕現の領域が、子に与えられたロゴスという名に、すべての重要性をもたらしている。ロゴスは「父の本性の簡潔な宣言である」とナジアンゾスのグレゴリウスは言う。バジリウスが子は「彼自身輝きにおいてすべての栄光を伴い、父の全てを示す」と語る時、彼もまた、三位一体の顕現的活動的側面にかかわっている。同様に、子が「父の像」、聖霊が「子の像」と呼ばれるすべての教父らの著作中の文章は、三つに共通の内容の活動的顕現に言及している。というのも、子は父ではないが、父であるところのものであり、聖霊は子ではないが、子であるところのものであるから。神の顕現の世界では、位格は位格の多性の各々の像なのではなく、共通本性の像なのである。父は子を通してその本性を啓示し、子の神性は聖霊の中で明らかにされる。これが、神の顕現の領域では、厳密に言って、父の専制と原因性にもかかわらず、三位一体存在それ自体には属させるべきではない位格の秩序を確立することが可能な理由である。これらは他の二つの位格に対する位格上の優位性を父に与えることはない。なぜなら父が位格であるのは、子と聖霊もまたそうであるためだけだからである。
もし父が位格の位格的原因であるならば、まさにその理由によって、父はまた一つの同じ本性の共有の原理でもある。その意味で、父は三者の共通の神性の源である。この本性の啓示、三者の知られざる本性の外部化は、三つの位格と縁のない現実ではない。すべての活動、すべての顕現は、父から来、子において表され、聖霊の中に出て行く。自然の、「活動的な」、顕現するこの発出は、父のみからの位格的、内的な位格的発出とは明らかに区別されなければならない。同じ父の専制が――父のみからの位格存在――聖霊の位格的発出と、聖霊の中での、子を通した共通の神性の外への顕現的、自然的発出の両方を条件づけている。
すでに述べてきたように、もし聖霊という名が位格的性質よりは神の経綸を表現しているとすれば、これは、第三の位格がとりわけ顕現の位格であり、私たちがその中で三位一体を知る位格だからである。その位格は、まさにそれが現す神性の豊かさによって私たちから隠れる。顕現と経綸の領域での聖霊のこの位格的へりくだりが、その位格的存在を把握することを難しくしている。
同じ自然的顕現の領域が、子に与えられたロゴスという名に、すべての重要性をもたらしている。ロゴスは「父の本性の簡潔な宣言である」とナジアンゾスのグレゴリウスは言う。バジリウスが子は「彼自身輝きにおいてすべての栄光を伴い、父の全てを示す」と語る時、彼もまた、三位一体の顕現的活動的側面にかかわっている。同様に、子が「父の像」、聖霊が「子の像」と呼ばれるすべての教父らの著作中の文章は、三つに共通の内容の活動的顕現に言及している。というのも、子は父ではないが、父であるところのものであり、聖霊は子ではないが、子であるところのものであるから。神の顕現の世界では、位格は位格の多性の各々の像なのではなく、共通本性の像なのである。父は子を通してその本性を啓示し、子の神性は聖霊の中で明らかにされる。これが、神の顕現の領域では、厳密に言って、父の専制と原因性にもかかわらず、三位一体存在それ自体には属させるべきではない位格の秩序を確立することが可能な理由である。これらは他の二つの位格に対する位格上の優位性を父に与えることはない。なぜなら父が位格であるのは、子と聖霊もまたそうであるためだけだからである。