2018年04月26日

2005「シャガールと木の葉」 175

「読む」20
物語の未来 
第3聯「だがその星には/もはや本というものが存在しない/人々のテレパシーのオーラに包まれて/星はバラ色に輝いている━/少年は本を閉じて考える/ぼくは真っ白いページになれるだろうか/読んだことのない物語のための」
 第3聯は、作品が読者を突き落としたところにある奇妙な世界に触れている。本が存在しないというイメージは、言葉がない世界であるという意味にとって良いだろう。私たちは、言葉のない領域を、少年の心の目を通して垣間見ているのである。星がバラ色に輝くその世界は、唯一至上性が君臨する世界だ。少年はそれを夢の世界として感取している。
 第3聯は、この夢のイメージを現実の言葉に翻訳してみせる。少年が本を閉じるとき、そこには現実の日常世界が立ち現れる。その私たちも少年とともに共有するこの世界のなかで、夢は未来と翻訳される。そのように意味づけられてしまうと、実は本の中にあった至上性は、跡形も無く消え去っているのである。



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2018年04月24日

2005「シャガールと木の葉」 174

「読む」19
物語の未来 
 谷川俊太郎のこの作品は、そのあってはならない、あるはずのない中核を「見知らぬ異国」と呼んだ。同じ地点をエドガー・アラン・ポーは大渦巻きの中心として形象化したのだし、メルヴィルは白鯨(モビー・ディック)との死闘として描いたのである。
 比べてみればわかるように、谷川俊太郎のイメージは子どもっぽい。その子どもらしさはどこから来るかといえば、ポーやメルヴィルの作品には、言葉を学び、言葉によって世の中の人々と世界を共有した挙げ句の果てに、その先に言葉が何の役にも立たない領域が開けていることに気づいた大人の、衝撃、落胆、歓喜、恐怖、安堵が様々に混入しているのに対して、谷川俊太郎のイメージには、夢だけがあるからに違いない。まだ言葉を学ぶ前の、まだ世の中の人々と世界を共有する前の、まどろみの時代の抵抗、つまり言葉を急速に身につけつつある少年が、まだまどろんでいたい心をもてあましているその瞬間の揺れ動きを捉えているところに、子どもっぽさが宿っているのだと思われる。



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2018年04月22日

2005「シャガールと木の葉」 173

「読む」18
物語の未来 
 作品は、エドガー・アラン・ポーのメールシュトレームのように、その中心にある「死」の強力な吸引力に惹きつけられて回転する渦である。その「死」は、とりわけ「言葉の死」である。渦の中心のその先にはもう語ることが不可能となる地点が始まる。言葉が役に立たない特異点がその渦の中心にある。そして船は難破船となって次第にそのあってはならない、あるはずのない中核に接近してゆく。その力は、作品を読むものに対しては絶大である。
 太宰治の「走れメロス」は、この同じ力を「わけのわからない力」として掴み取り、その力がメロスを走らせ続ける原動力として働く様を描いて見せた。あの矛盾に充ちた支離滅裂とも評される作品は、しかし読者に対しては強力な影響力をふるい続けている。世の常識人たちは歯がみして悔しがるようだが、「走れメロス」は、芥川龍之介の「羅生門」のような、知的な言葉に溢れかえっていて、しかし中心を持たないエンターテイメントと比べると、圧倒的に文学的なのである。



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2018年04月20日

2005「シャガールと木の葉」 172

 「読む」17 物語の未来
  第1聯「文字の連なりは/家々を突きぬけ/紅葉の峠を越え/うらさびれた海辺に至り/さらに大洋をわたり/見知らぬ異国にまで/少年を導く//」
第2聯「煎餅をかじりながら/彼は千年の時をさかのぼり/王女をめとり/長剣をふるって戦い/孫たちにみとられて大往生をとげ/今度は遠い未来の/異星人としてよみがえる//」
 いま私たちは詩を読んでいるのだけれど、谷川俊太郎のこの作品は、物語を俎上に載せながら文学の本質に触れるところがあるので、分かり易いという意味で、私も小説作品を例に引きながら書いてみたい。
 小説は船である。船は見知らぬ世界に分け入って行くが、船の上の日常の物語は、私たちが慣れ親しんだ言葉で語られる。小説や物語は、私たちが慣れ親しんだ日常を載せて進む航海である。私たちはページを繰りながら日常の言葉を読み進み、しかし作品の意図は、その外へと私たちは突き落とすことなのである。

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2018年04月15日

2005「シャガールと木の葉」 171

「読む」16
恋する男 
 社会性を自ら育てること。生活を豊かにすること。つまり色々と経験を積むこと、関心を持つこと、挑戦すること。そういうちょっと孤独な努力を重ねていることが、女子に選ばれる最良の近道になる。恋愛論も良いが、その部分は社会性に繋がらないから大した評価を受けないだろう。マスターベーションとしての意味、ガス抜きとしての意味くらいはあるけれど。
 作品としてはどうなのだろうか。青春論にはなっているのかもしれないが、詩としてはどうだろうか。本当に軽いデッサン風の、詩の形をしたメモ書きのような印象だ。



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2005「シャガールと木の葉」 170

「読む」15
恋する男 
第4聯「だが言葉でないものを読むためにこそ/人は言葉を読むのではなかったか/彼はふたたび恋愛論にもどる/ため息をつきながら/コンドームを栞代わりにして//」
 つまり本の中で安逸を貪っていては何も始まらないよ、ということさ。本を置いて彼女を誘えよ。
 彼の恋愛論体験は、現実逃避でしかない。ほんとうはコンドームを適切に使いたいのに、それを本の間に挟んでomitしているのである。恋する男の「読む」は、残念な「読む」であった。
 どうしてそうなってしまうかというと、最初に戻るが、彼の力が彼女の力に及ばないからである。
 恋愛の場面で余裕を持って振る舞う上では、場数を踏むことが、男の子たちにはどうしても必要な条件なのだ。そのためにはまず妄想を除外すること。女子たちとコミュニケーションをしっかりと取って、自分がどういう男かを知ってもらうこと。その前には、選んでもらえるための努力を重ねていなければならない。



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2018年04月13日

2005「シャガールと木の葉」 169

「読む」14
恋する男 
第2聯「彼は本を閉じてため息をつく/それから柔道の稽古に出かける/「相手の動きを読め!」/とコーチの叱声がとぶ//」
第3聯「その晩恋人にキスを拒まれ彼は思う/この世は読まなきゃいけないものでいっぱいだ/人の心を読むのに比べれば/本を読むのなんて楽ちんなものだ//」
 世界は共有されて初めて存在する。世界に参加するためには他者とのやり取りは必須。もしその相手と闘うのだとすれば、相手の動きを予測する必要がある。そのためには相手と向き合うことが必須。相手と向き合いながら、その身体や重心の変化を逐一自分の軀で感じ取ることが絶対に必要であろう。男女のやり取りでも同じことだ。相手を観察すること。表情や視線やものの言い方、仕草を良く見て取ること。相手の言葉を良く聞きとること。そうして初めて相手の心の動きに触れることができるだろう。この子のように、本と向き合ってはダメなのだ。本と向き合っている限り、何も始まらない。寺山修司に「書を捨てよ、町へ出よう」という言葉があるが、書を捨てよ、女と会おう、と言うべきところか。



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2018年04月12日

2005「シャガールと木の葉」 168

「読む」13
恋する男 
第1聯「恋人の皮肉な笑顔が読みきれなくて/彼は恋愛論を読む/開いたページの上の愛は/匂いも手触りもないが/意味ではちきれんばかりだ//」
 繊細な観察力と俊敏な言語能力。この二つの力が合わさって、生の現場における女性達の圧倒的な機動力が生まれる。彼女たちの手にかかれば、男子の心の動きなど手に取るようだ。一方の男の子たちはと言えば、観察よりも妄想によって突き動かされているから、妄想は女子の姿にハレーションを被せてしまい、その真意は見えていないことが多い。彼らは拙い言語能力の故に活字を松葉杖代わりにしてもたれかかることで、辛うじて共有世界の現実とコミュニケーションを取るのである。
 こんな風に書くと男子は実に哀れに思えるが、事実だから仕方がない。所詮、恋愛とは次世代の家庭を作るための通過儀礼なのだから、家庭の主役である女子が主体となって、家庭の柱の一本となる男子を選ぶための舞台なのであろう。



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2018年04月11日

創作 「春の季節は短くて」


    
    春の季節は短くて
    土の上に散り敷いて
    花も 終わってしまった
    
    でも春は
    土のそこに染みこんでいて
    深く 潜み
    土は春を しずかにだいている
    
    土を掘ると
    立ちのぼる香りから
    それは分かるのだ
    
    きょう 冷え冷えとしていて
    あたりには霧さえもたちこめていて
    遠くが見えなくなったと
    あなたは言う
    
    でもね
    もういちど子どもみたいに
    しゃがみ込んでみたら
    土に近づいてみたら
    ふれてみたら
    
    てのひらもゆびも冷え切っていても
    ぬくもりが つたわる
    しずかにだかれていると わかる
    いまはとおい あなたの夢



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2018年04月10日

2005「シャガールと木の葉」 167

「読む」12
灰の喜び 
第6聯「本は自分がいつか灰となり/魂の果実を実らせる養分となることを//」
第7聯「穏やかな諦めと喜びのうちに/予感していたのだ」
 この「予感」とは何だろうか。本の姿は、わたしたちの生に似ている。次の世代に何かを残してこの世を去ってゆくすべての生は、この本と同じ運命を辿るように見える。だから、この「予感」は、人の心にある予感を擬人法を使って指さしているのではないだろうか。ここに、そこに、あるよね。穏やかな諦めと喜びの予感。
 ゴミになって雨に濡れている本は、私たちの姿に似ている。それを痛ましいと感取するとき、私たちは私たち自身の生に、誇りと自信を持つことができなくなってしまう。今役割を終えようとしているすべての人生が、この本のような諦めと喜びに充ちていることを、この作品は願っているのではないだろうか。その心に、谷川俊太郎は共鳴したいと願っているのではないだろうか。



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2018年04月09日

2005「シャガールと木の葉」 166

「読む」11
灰の喜び 
 「本は覚えている」という擬人法は、読者の心に向かってあなたも覚えていますね、と問いかけている。私たちは皆、本を捨ててきた経験があるからだ。「グリムとグラ」「いないないばあ」「ちびくろサンボ」「ちいさなおうち」「家なき子」「にんじん」「西遊記」「十五少年漂流記」あの本たちは、いまどこにいったろうか。あの本を開いたときに、美味しそうだなぁ、ああ、あんなに庭で遊びたい、あの家の中に入ってみたい、あの動物たちと一緒に遊びたい、わあ、みんな大丈夫? わあ、みんなすごい!  と思った思いを、私たちは少しずつ忘れてゆこうとしているが、そのことをことさら思いだそうとしてみると、その時の感覚や思いが、確かにここにまだあるということを知るのである。



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2018年04月08日

2005「シャガールと木の葉」 165

「読む」10
灰の喜び 
第4聯「だが本は覚えている/初めて開かれたときのあのときめき//」
第5聯「ページの畑に蒔かれた種子が/少女の中で静かに芽吹き始めたとき//」
 最初の3聯と対比される次の第4・第5聯はこの本が生み出してきたはずの夢と未来を語る。
 この本はどんな本なのだろうか。少女が読むもの、そして夢や希望や未来を少女の心に植えつけるような本だ。
 少年少女向けの小説や絵本や、そういった類いの本だろうか。年齢の限定があるために、少女が成長するに従って役割を終えて不用になる運命を担わされている本だろうか。



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2018年04月07日

2005「シャガールと木の葉」 164

「読む」9
灰の喜び 
第1聯「坂の下の四つ角で/燃えるゴミが雨に打たれている//」
第2聯「昨夜まで本だったものが/今は濡れそぼった紙のかたまり//」
第3聯「ついさっきまで文字だったものが/今は意味のないただの黒いしみ//」
 ものには終わりがある。一つの生に終わりがあるように、役目を終えてこの世から立ち去るときがある。
 燃えるゴミとなった本の終わりの時は、ゴミとして、大切ではなくなったものとして、街角に捨てられるのだと言う。
 大切ではなくなっただけではなくて、雨に濡れることで、その形状も輪郭を失って行き、本の命である言葉もまた消えてゆく運命にあると言う。辛うじて紙のかたまりとしてこの世に止まっているが、それもあと僅かなのだ。本は燃やされて灰になる。



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2018年04月06日

吉原幸子「パンの話」 29

第3聯「パンがあることをせめないで/バラをたべることを せめてくださいー」とありますが、どういうことかを説明しなさい、という課題が出されました。
りの
教えて教えて。
ディーン
つまり、「パンがあること」を責めるということは、この人をヒエラルキーの内側に置いて、金持ちだから文学してるんだろ? って批判することになるでしょう?
たお
なるほどなるほど
ディーン
そうじゃくて、「バラをたべること」を責めてくれれば、少なくともヒエラルキーからこぼれ落ちている不心得もので病気の私のことを責めてくれていることになるじゃない? つまり自分を知った上で非難していることになるから、その方が嬉しいんだよ、この人は。
たお
そっか。ああ、分かった気がする。全体も第3聯も。
りの
オーケー、じゃ、発表用のカード作りを始めようか。
みんな
はーい



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2018年04月05日

吉原幸子「パンの話」 28

第3聯「パンがあることをせめないで/バラをたべることを せめてくださいー」とありますが、どういうことかを説明しなさい、という課題が出されました。
たお
あのね、この強い言い方には、自分を卑下する感じがあんまりないと思って。とても誇り高い言い方なんじゃないかって思ったの。
ななお
あ、それわたし分かる。やってみせる! っていうのは自信に溢れてる感じがするよね。自分を最低の人間とは思っていないんじゃないの、この人。
ディーン
賛成。この人は誇りを持って、自分のことを不心得もので病気だって言っている感じが、ぼくもしてきたよ。そうしてやっぱりこの人は、自分のことを知って欲しいんだよね。
まな
でも、肝腎な第3聯が分からない。
ディーン
あ、第3聯は今の文脈で分かると思うよ。



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2018年04月04日

吉原幸子「パンの話」 27

第3聯「パンがあることをせめないで/バラをたべることを せめてくださいー」とありますが、どういうことかを説明しなさい、という課題が出されました。
まな
あ、すっきりした。りの、ありがとう。そうか、この人は、そういう人なんだ。だから決して食べることに余裕があるからじゃないって、一所懸命に言ってるんだ。自分がヒエラルキーからこぼれ落ちた人間だから、バラを食べてしまうって。ね、そこを分かって欲しいんじゃないかな、この人。
りの
だから「まちがへないでください」で始まるのか!
ディーン
そうだね。そういう詩なんだ。
たお
ねえ、第2聯の5行目の「だれよりもおそく パンをたべてみせる」っていうの、すごく強い言い方に感じてたんだけど、この人は、自分を不心得もので病気だって言っているけど、それはヒエラルキーの底辺にいるっていう意味じゃなくて、その外にいるっていうことなんだよね。
りの
そうだよ。え、どういうこと?



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2018年04月03日

吉原幸子「パンの話」 26

第3聯「パンがあることをせめないで/バラをたべることを せめてくださいー」とありますが、どういうことかを説明しなさい、という課題が出されました。
まな
そう。バラは食べ物じゃないよね。でも、バラは美とか文学の話ってことになると、バラを食べるというのは、美について語ること、文学すること、という意味になる。知的にはとても栄養になるよね。
ディーン
そうだね。そんな意味の比喩なんだろうね。反対に、パンの話をすることは、生活すること、生活について語ることという意味に取ると、これは僕たちの共有世界ではとても大切なことになる。どんな風に働いてお給料を貰うのか、どんな仕事をするのか、どうやって仕事を成功させるのか、どこに住むのか、誰と家庭を持つのか、すべてパンの話なんだ。その話を真面目にしないというのは、不心得ものじゃない!
ななお
うん、そっか! よくないよくない、そういうやつは。みんなが真面目に働いているときに、脇で小説読んでるやつ。絶対白い目で見られるよね。
りの
そうか。だから不心得ものなんだ。あ、「ゐる」もそういうことだよ。働かないで、詩を読んでるやつ。汗を流さないで本の虫になってるやつ。そういう人は周りから病気なんだって言われるしね。



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2018年04月02日

吉原幸子「パンの話」 25

第3聯「パンがあることをせめないで/バラをたべることを せめてくださいー」とありますが、どういうことかを説明しなさい、という課題が出されました。
ななお/まな/たお
なるほど!
りの
それをディーンはこの人の本質だって言ったのよ。不心得もので病気であること、つまりヒエラルキーからこぼれ落ちていることがこの人の本質で、だからバラの話をするんだし、バラを食べちゃうんだよ。
たお
整理できた感じがするんだけど、それでもさっきりのが言っていた、どうして不心得ものなのかっていうのが分からない。あと、バラを食べたい病気って何?
ディーン
確かにそうだ。まだ核心に答えられていないな。道のりはまだ遠いかぁ。
まな
第2聯にさ、パンを食べるってあるじゃない? パンは食べ物だよね。私たちの共有世界では。
ななお
そうね。パンは美味しいし、お腹に溜まるけど、バラは美味しくないし、食べてもお腹が一杯にはならないよね。栄養はなさそうだし、棘もあるし。私なら食べないな。



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2018年04月01日

吉原幸子「パンの話」 24

第3聯「パンがあることをせめないで/バラをたべることを せめてくださいー」とありますが、どういうことかを説明しなさい、という課題が出されました。
りの
ディーン、私に言わせて、なんか頭を整理したい感じ。
ディーン
いいよ。よろしく。ぼくも頭を整理したい感じなんだけど(笑い)。
りの
この人は、ヒエラルキーの底辺からこぼれ落ちている人なんだよ。それはいいよね。
ななお/まな/たお
はい。良いです。
りの
この人は、だから、ヒエラルキーの内側の話には関わらない人なのよ。もともと。お金があるとかないとか、家が大きいとか小さいとか、美人なのか十人並みなのか不細工なのか、そういうヒエラルキーとは全く関係なく生きている人なのよ。だから、パンがある、つまり食べるものが豊富だから何かについて語るとかっていうことは、この人には関係ないことなのよ。



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2018年03月31日

吉原幸子「パンの話」 23

第3聯「パンがあることをせめないで/バラをたべることを せめてくださいー」とありますが、どういうことかを説明しなさい、という課題が出されました。
ななお
パンの話をしないでバラの話をすることが「心の持ち方が良くない」とか「邪」ってことになるのか、ってことよね。
ディーン
ちょっと整理しよう。この人は、パンの話をしないでバラの話をするのは、私にパンがあるからじゃないって最初に断っている。これは、自分は食べるものに困っていないから、余裕があるから美について語っているわけではない、文学をしているわけではない、っていうことだよね。そうじゃなくて、自分が不心得ものだから、病気だから美について語っている、文学をしているんだ、とこの人は言っている。パンがあるかないかは関係ないんだ、この人にとっては。そうだ、この人は「バラの花が あるから」バラについて語るんだ。もともと不心得もので病気だからバラの花について語るんだ。それがこの人の本質なんだ。
ななお
まな、ディーンの言っていること、分かる?
まな
もう一度言ってくださいませ、お願いします。



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