2018年10月13日

2005「シャガールと木の葉」 206

「詩は━」〈かっぱかっぱらったかい〉のために 13
 この作品は、詩についての基本解説のような作品だ。詩としては、どれほどのものでもない。ほとんど詩ではない。擬人法が面白いというくらいで、それ以上先へは進み出ようとしない、そんな作品だ。なぜなら、私たちの詩について知ってもらおうとしているからだ。そういう色気がある作品なので、私たちの傍にいつまでも留まろうとしているのである。その事を批判しても始まらない。この作品はそういう役目を負った作品なのだと考えよう。
 そういう目的は、それはそれでとても尊いものだと言って良いのだから。



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2018年10月12日

2005「シャガールと木の葉」 205

「詩は━」〈かっぱかっぱらったかい〉のために 12
第5聯「詩はかくれんぼしている/出来たての詩集のページで/形容詞や副詞や動詞や句読点にひそんで/言葉じゃないものに見つかるのを待っている/」
 詩は、語るべき事柄を指し示している。言葉自体は、私たちの世界を成立させている。言葉によって私たちは世界を持つ。ところが、詩は、この世界の柱や床や天井とは別の場所を指し示そうとする。ここにはない場所を指し示そうとする。詩は、その意味を隠している。詩が語ることによって、その意味はたちどころに隠れてゆく。
 「創造的誤読」は、言葉から出発するが、跳躍を介して言葉の外へと読者を突き放す。言葉から飛び離れることがなければ、私達は詩を読み終えることはできないだろう。



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2018年10月11日

2005「シャガールと木の葉」 204

「詩は━」〈かっぱかっぱらったかい〉のために 11
 けれどもそうした人々に詩は見つかるものではない。詩は、ネオンのようにきらめくことはないし、夜の女性達のようにあなたの心に手を差しのべようとしない。あなたが語ろうとしなければ、詩が発見されることはない。夜の繁華街に蠢く人々は、光や艶(つや)に翻弄される受身の人々ばかりだ。



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2018年10月10日

2005「シャガールと木の葉」 203

「詩は━」〈かっぱかっぱらったかい〉のために 10
第4聯「詩はひとりで歩いている/賑やかな雑踏にまぎれて/誰もがおれの姿を探しあぐねている/ネオンやハイビジョンの光に目がくらんで//」
 人のいるところに詩があるとすれば、夜の繁華街にも詩はあるに違いない。そこには孤独に突き動かされた人たちがうようよしている。夜、人は己の内奥の、非現実的な、反社会的な、非生産的な、他者とは共有できない領域に対して脆弱になる。街灯の光に撃たれて、その光に吸い寄せられてゆく虫たちと同じで、ネオンのきらめきがこの人たちの言葉なき領域に衝撃をもたらす。するともう、彼らを止めるものは何もなくなる。



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2018年10月09日

2005「シャガールと木の葉」 202

「詩は━」〈かっぱかっぱらったかい〉のために 9
 詩は、確かに何かを伝えようとしてそこに発声され、書き出されているのに違いない。それなのに、もし耳を傾けてもらえないとすれば、もし読まれないとすれば、詩はもともと無かったことになってしまう。
 現実的な価値が集約する場にあって、詩は自分の存在する可能性が感じられないから、ただ黙っているしかない。語られるべき何かはあるのに、書き出されても存在しようがないからだ。
 語られるべき何かがあるのは、そこに人がいるからそう予想されるのである。詩は、孤独な人の生に寄り添う言葉だ。社会的でない、政治的でない、現実的価値の伴わない、ひっそりとした人の生に寄り添う言葉だ。



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2018年10月08日

2005「シャガールと木の葉」 201

「詩は━」〈かっぱかっぱらったかい〉のために 8
 国連総会の議場がきれいに掃き清められているのは、そこに現実的な価値が集約するからという意味合いだろうか。実際には世界の中で立ち上がる小さな政治的な力の内の一つでしかないけれど。しかし、詩にはそれさえも無い。
 詩は、不満なのだろうか。詩は、もっと耳を傾けてもらいたいのだろうか。
 聞かれるということ、読まれるということが、その言葉が存在することの保証である。聞かれない言葉、読まれない言葉は、存在しなかったのと同じになる。



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2018年10月07日

2005「シャガールと木の葉」 200

「詩は━」〈かっぱかっぱらったかい〉のために 7
第3聯「詩はむっつり黙っている/国連総会の塵ひとつない議場で/誰もおれの声を聞く耳をもたない/演説には世界中のマイクが向けられるのに//」
 「むっつり」と黙っている詩は、不満なのだろうか。政治的なメッセージは、人々の生活や現実的な利益に直結する。現実的な意味に溢れた言葉であるから、人々の関心は高い。しかし、詩には政治的なメッセージが持つような現実性が乏しい。孤独な生の実感に関わるばかりで、現実的な生活を左右するような内容がない。



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2018年10月06日

2005「シャガールと木の葉」 199

「詩は━」〈かっぱかっぱらったかい〉のために 6
 いや、努力すれば、何度も何度も書き直し、何度も何度も書き続ければ、いつかは人に分かってもらえるのではないか。何度も何度も読みなおしてくれる読者が、たった一人でもいたならば。
 その希望を私たちは捨てることができないだろう。ただ、言葉を介さない体験的な理解だけが、最後はものを言うのではないかとも思う。言葉から離れてゆく跳躍がなければ、私たちは深い理解に辿り着くことはできないような気もする。そうだ、そんな気がする。つまり、同じような体験を人生の中から汲み取った者だけが、他者の作品の深い理解者となるのではないだろうか。
 だとすると、それは「私の体験の再現」から、どれほど離れられるだろうか。やはり私たちは再び、「創造的誤読」へと墜ちてゆかざるを得ないのか。


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2018年10月05日

2005「シャガールと木の葉」 198

「詩は━」〈かっぱかっぱらったかい〉のために 5
 それ以前の段階で、まだそういう真実に直面する前の段階で、言葉になる前の段階で、既に淋しさがある。そういうことではないだろうか。
 とするならばこの淋しさは、人間の本質的孤独について触れていることになる。人は共有できない領域でも生きている。どれほど人と語りあおうと、どれほど自分のことを言葉にして表現しようと、いくらかの部分は、あるいは相当の領域は、孤独のまま取り残されてゆくだろう。どれほど見事に言語化されていようとも、読み手の側はいつも創造的誤読に墜ちてゆく。


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2018年10月04日

2005「シャガールと木の葉」 197

「詩は━」〈かっぱかっぱらったかい〉のために 4
第2聯「詩はへらへら笑っている/退官する老教授の腹のなかで/誰もおれがここにいると気づかない/黒板に書かれた文学史を読むのに夢中で//」
 なぜ「へらへら」笑いなのか。この「へらへら」にはどんな意味があるのだろう。平気な顔をしているが、実は淋しいのだろうか。「退官する老教授」というイメージが、淋しさを連想させる。共有されたいのに、共有されない。言葉にしたいのに、言葉にできない。そのもどかしさと淋しさ。
 詩は書かれたとしても、本当の意味で共有されることはないのではないか。創造的な「誤読」が、詩を読むということではないだろうか。谷川俊太郎はどこかで、「誤読で良いと思っている」というようなことを言っていたような気がする。


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2018年10月03日

2005「シャガールと木の葉」 196

「詩は━」〈かっぱかっぱらったかい〉のために 3
 「株式取引所のトイレで」というイメージは、その辺りの事情に触れているのではないだろうか。詩は、現実の経済活動の中では、何の役にも立たない、排泄物と同じように、吐き出された言葉でしかない。限りなく「トイレ」の近くにある言葉なのだ。そのような言葉が、何処か見えないところで何らかの効果を持ったとして、それが現実の経済活動の中でどんな意味を持つだろう。そこには何も有りはしない。何も生まれない。どうぞご勝手に。実のところその程度の評価なのである。


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2018年10月02日

2005「シャガールと木の葉」 195

「詩は━」〈かっぱかっぱらったかい〉のために 2
 詩が「ふて寝」するのはなぜだろう。値段をつけて欲しいのだろうか。そうではないだろう。そういうポーズとして描くことで、私たちの世界では分かり易いからだろう。私たちは、良いものはお金を出して買う価値がある、と信じている。だから、お金にならない詩は、価値はあるのに値段が付かない、というように説明した方が私たちには分かり易いのだ。
 けれども、本当を言えば、最初に言ったように、詩はそもそも経済活動から外れている。そもそも経済活動の中で取引されるようなもの、商品ではない。共有されない領域から発した言葉であるから、貨幣で交換されるような価値を持たない何ものかなのである。



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2018年10月01日

2005「シャガールと木の葉」 194

「詩は━」〈かっぱかっぱらったかい〉のために 1
第1聯「詩はふて寝している/株式取引所のトイレで/誰もおれを買ってくれない/いつまで待っても値がつかないから//」
 詩を擬人化して、現実の経済活動からこぼれ落ちていることを意識させている。この戯画化にどんな意味があるだろうか。それとも意味を問うてはいけないのだろうか。
 経済活動に乗らないのは、詩に現実的な生産性がないからだ。現実的生産性は言語によって共有されているこの世界の内側で起こるものだ。しかし、詩は、共有されない領域に浮遊するなにものかだ。生産性はない。値段が付くとしたら、詩人の名前に対する信用創造として値段が付くばかりだろう。詩そのものに値段はない。



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2018年09月11日

「鮎川信夫全詩集」僑隠坑毅押腺隠坑毅粥。隠僑

「サイゴンにて」 15
 作品としてもだから、私は成立していると感じる。
 作品の中核が分かるから、よい作品だと思われる場合と、充分に分からない部分があり、しかしそこに何らかの力を感じるからよい作品らしいと思われる、という二つのケースがあるのではないか。
 詩を読むときには、その時の自分の持てるだけの見識を動員する必要がある。その時に思い起こせる見識は、恐らく時によって変わるだろう。すると作品の中核に迫る道筋は時によって変わるということになる。それでも、恐らく、接近して行く山頂は同じである。登頂することは叶わない場合があっても、その時に指さす先は同じ山頂なのだと思う。



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2018年09月10日

「鮎川信夫全詩集」僑隠坑毅押腺隠坑毅粥。隠毅

「サイゴンにて」 14
「多くの友が死に/さらに多くの友が死んでゆくとき/生あるものの皮膚の下を/いかにして黒い蛆虫が這いずってゆくかを/病める兵士たちは/声なくして新しい死者と語りあった」
 この6行がこの作品の中心部分にとても近いところにあるのだと思う。私の解釈は結局ここに向かっていたのだと思われる。しかし、この語り合いを、私は実感として掴むことができない。
 この語り合いは、完全に私の体験の外にあるからである。



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2018年09月09日

「鮎川信夫全詩集」僑隠坑毅押腺隠坑毅粥。隠毅

「サイゴンにて」 13
 この作品がとらえているのは「死の覚悟」である。そしてその覚悟は片思いの覚悟なのである。その事が分かるのは、恐らく戦争が終わってからのことではないだろうか。死を前にしてその事を考えることはあまりにも悲惨な体験だ。むしろその事を隠しながら、兵士たちは死地に赴くのではないだろうか。



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2018年09月08日

「鮎川信夫全詩集」僑隠坑毅押腺隠坑毅粥。隠毅

「サイゴンにて」 12
「多くの友が死に/さらに多くの友が死んでゆくとき/生あるものの皮膚の下を/いかにして黒い蛆虫が這いずってゆくかを/病める兵士たちは/声なくして新しい死者と語りあった/あかるい微風のなかに/若い魂を解放したカミソリの刃を/ぼくらの細い咽喉にあてたまま/担架をのせた小舟は/みどりの波をわけてゆっくり遠ざかっていった」
 この最後の部分にも、死への覚悟をイメージ化しているのだと思われる。「若い魂」=「若い軍属」の自殺を国のための死を覚悟することであると読むならば、すべての兵士たち=「ぼくら」もまた、同じ「カミソリの刃」を喉に当てていることになるのは当然だ。その覚悟を持ちながら、彼らはサイゴンの港の奥へと入って行く。



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2018年09月07日

「鮎川信夫全詩集」僑隠坑毅押腺隠坑毅粥。隠毅

「サイゴンにて」 11
 この力強さは、敗戦という結果から逆照射されたところに浮かび上がった意味ではないかと思われる。日本人が国のための死を覚悟したことによって、私たちの敗戦が決定していたかのようなイメージだろうか。
 もし仮にそうだとして、その批判は当たらない。私たちが国民になる局面には必ず死への覚悟が生まれるからだ。戦争の結果は別である。死への覚悟と敗戦を結びつけた批判は間違っている。そうではなくて、死を覚悟するという自由度そのものを問題にしなければならないのだ。



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2018年09月06日

「鮎川信夫全詩集」僑隠坑毅押腺隠坑毅粥。隠毅

「サイゴンにて」 10
 「三色旗をつけた巨船のうえにあるものは/戦いにやぶれた国の/かぎりなく澄んだ青空であった/」
 これも少し美化しすぎている。フランスのトリコロールは自由、平等、友愛を謳っている。その上空に輝く澄んだ青空には、国と国民(植民地の民衆)との一体感、自由、平等、友愛によって結びつけられた一体感が見えるということだろうか。正義の感覚や、強い意志なども読み取れるだろうか。



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2018年09月05日

「鮎川信夫全詩集」僑隠坑毅押腺隠坑毅粥。隠毅

「サイゴンにて」 9
 国家は権力を発動するだけで、私たちをその包容力で包み込んだりはしない。そのように幻想するのは私たちの自由な想像力の側であって、このレベルにはどのような相互関係もありはしない。象徴天皇制は、この部分に食い入って、私たちの想像力を補完する。私たちは私たちの自由度を充分に検証した方が良いのだ。



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