2008年01月

2008年01月31日

谷川俊太郎「はだか」1998年 について〈再読〉 115

「みどり」その1
「あかんぼみどりのやなぎ/やきもちみどりのたんぽぽ/むかしみどりのしだ/わたしがなにをおもっても/しらんぷりでかぜにゆれてる」
 植物は、沈黙の快楽である。その色は人を和ませ、風のあることを人に教え、心地よい気分を私達の世界に根づかせる。それが放つ湿気と芳香が私達の感覚に訴えるのは、平和な一時がそこにあるというその事だ。それらは皆植物の無垢の産物であり、つまりその無垢の上に私たちの平和な心が打ち建てられるのである。そして作品は、屈折する。
「だまっているからみどりはおそろしい/でもわたしはぬってやるはいいろに/あっというまにこころのえのぐで」
 人が植物を放っておく限り、植物にはどんな悪意もないし意図も生まれない。人の心が、植物の上に覆い被さり、無垢の色を生み出し、次いでそれを塗り潰すだけのことだ。人の心とはそういうものだ。人がそこに居れば、人は感覚する。人が感覚すれば、そこに意味を生み出す。一切が無垢として感知されることができると同時に、そのまま無垢のものとしてとどまることも出来ない。

はだか―谷川俊太郎詩集


osakabekenshou at 05:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 

2008年01月30日

谷川俊太郎「うつむく青年」について 455

「小さな密室」その1
「軽自動車の小さな密室の中で/彼はいつもひとりぼっちだった」
「私の世界」の孤独は、本質的な孤独である。「軽自動車の密室」は、そのイメージとして読み取ることができる。だから、この「軽自動車の小さな密室の中の/小さな幸せ小さな平和」は、実は幸福や平和の本質を言い当てているのだと私は考える。「私の世界」なしに幸福も平和もないからだ。「小さな」というオーソドックスな形容は、人間の生きる呼吸の二重性からやってくる形容だろう。生きる呼吸の二重性という言い方をしたが、人間は二重の世界を同時に生きていると思えるからだ。人は一方で「私の世界」で呼吸しつつ、同時に「私たちの世界」をも生きているからである。「幸せ」は「私の世界」における経験なのである。しかし、それを「小さな」と形容する言葉は、「私たちの世界」からやってくる。ここにある「私の世界」も、既に「私たちの世界」の圧倒的な現実感に晒されて、今にも吹き消されそうな経験なのだ。

詩集 うつむく青年


osakabekenshou at 05:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 

2008年01月29日

谷川俊太郎「はだか」1998年 について〈再読〉 105

「おばあちゃん」
最終行に「しんだ」とあるが、この子は「おばあちゃん」の死を理解することはできなかったようだ。
「びっくりしたようにおおきくめをあけて/ぼくたちにはみえないものを/いっしょけんめいみようとしている/なんだかこまっているようにもみえる/とってもあわてているようにもみえる」
「おばあちゃん」が逝ってしまう、その瞬間のポートレイトだ。しかし不確かで頼りない観察だ。ここにある想像力は、まったく見当違いだ。ここにある想像力は、子供らしい生活感からもたらされた精一杯の想像力なのだ。だから、人の死に際しての苦悶とか、人の死の深みとか、そういう理解や同情に欠けているのだ。
だがしかし、今言った「人の死に際しての苦悶とか、人の死の深みとか」といったものへの理解がどこからやってくるのかと言えば、それは大人たちの生の側、大人達の経験的生活感の中から掴み出されたものに過ぎない。
私達は死の前で背を向けることしかできない。子供は子供の生活を、大人は大人の生活を見つめるだけなのだ。死に際して、人は「誰々が死んだ」という、乾いた事実ばかりを突きつけられるのである。知らないことを、私達は経験することが出来ない。日々感覚していることこそ、全てのイマジネーションの核心なのだと言って良い。
だから、この作品の中で描かれていいる「おばあちゃん」のポートレイトは、実は子供の生きる「わたしの世界」からやってきた言葉で覆われている。死ではなく、死が映し出した「わたしの世界」のスナップショットが、この作品の本質なのである。

はだか―谷川俊太郎詩集


osakabekenshou at 05:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 

2008年01月28日

谷川俊太郎「うつむく青年」について 445

「彼の東京」
「尾張町の交差点のまんなかで/グランドピアノが鳴っている/六トン積みのダンプカーが/真珠を撒きちらしながら疾走する」
四つのイメージが二行ずつ描かれる。貧弱な幻想だ。ほとんど衝撃力を失ってしまったあとの哀れな幻想だ。しかし、「彼」にとっては精いっぱいの「演出」なのだった。「東京」は圧倒的な現実感で「彼」の周りを覆っていたのだろう。結局「彼」は己の夢を実現する力を持つに至らずに、東京を脱出する。この脱出はしかし、またもう別の現実に気がつくことになる単なる移行でしかない。
この作品も、「東京」という現実のイメージとの間にある微かな違和感の上で成立しいる。だから、「私の世界」に向かっては、ずいぶんと手前のところで成立しているということになる。詩としては、未分化な作品だ。遙かに小説の立ち位置に近い作品だ。

詩集 うつむく青年


osakabekenshou at 05:02|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 

2008年01月27日

谷川俊太郎「はだか」1998年 について〈再読〉 95

「むかし むかし」
「むかしむかしぼくがいた/すっぱだかでめをきょろきょろさせていた」
作品は昔話のように始まるのだが、主人公は「おじいさんとおばあさん」ではない。自分だ。この昔話の語り口は、語られている世界を朦朧とした空気に包む込む。そこで語られている事柄を、現実味というレヴェルでの審査から免除する。そのことのもう一つの意味は、「私達の世界」における事実であることから免除される、ということだ。この語り口は「わたしの世界」のルールに準じた語り口なのである。
「いまのたいようとおなじたいようが/あおぞらのまんなかでぎらついていて/いまのかぜとおなじかぜが/くさのうえをさあっとふいていた」
感覚だ。太陽の感覚、風邪の感覚、あそんだ感覚、考えた感覚、うんちをした感覚、泣いた感覚、笑った感覚だ。「おもちゃ」や「ほん」や「はんばーぐ」といったものから免除されている感覚だ。ここに連続して述べられているのは、一切の社会的歴史的限定から逃れた感覚なのである。
「むかしむかしどこかにぼくがいた/いまここにぼくはいる」
「ぼく」の重層性が問題なのではない。すべての人格を脱ぎ捨てて、すべての関係性から逃れたところにある「ぼく」の存在の仕方というのは、逆説的に普遍性を獲得してしまう、ということなのだ。
二つのことが同時に起こるのだ。「ぼくはうまれたりしんだり」する何かになる。
これは夢なのだろうか。「わたしの世界」の自由度が生み出した、プライベートな幻想なのだろうか。
もう、そこから先は分からない。そこから先は人間には知り得ない領域だ。

はだか―谷川俊太郎詩集


osakabekenshou at 05:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 

2008年01月26日

梨木香歩「村田エフェンディ滞土録」〈再読〉その25

梨木香歩「村田エフェンディ滞土録」〈再読〉その2
語り手も、日本に帰ってからは、真田教授に絡め取られ、青春時代を過ごすための条件を剥奪されてしまう。
しかし、トルコでは、彼は違った。そして私たち読者も、作品を読み進める過程で自分が背負っている様々な限定を、次第にかなぐり捨てるようにして、作品の語り手の世界へと身を寄せてゆくのである。
そうしたとき、一つの経験を巡って、どんな国籍も、どんな人種も、どんな信仰も、意味をなさないのだということを理解する。ほとんど人間であるか、動物であるか、生きているか、死んでいるか、神であるか地上のものであるか、といった差でさえも、意味をなさないということを理解するのである。
それらすべての限定を跳び越えてゆく経験があるのだ。それこそが青春というものの本質なのだ。「私の世界」と「私たちの世界」とが、短い期間、特定の場所を巡りながら、見事な釣り合いを見せて共存する瞬間があるのだ。私が身に負っている文化的な限定や生活史からやってくる限定、性別や階層、親の職業、その他ありとある限定を負って私は生き、それによって「私たちの世界」を生きている。その時、私と他者との間には著しい差異がある。そして私たち一人一人が編み上げていた私の唯一の世界の孤独もある。それらが、特定の時と場所との上で、複数の人々が一堂に会しながら奇跡的に釣り合う。一つの経験を通して、みながそれぞれの幸福を吸い上げる。その経験を私たちは青春と呼ぶのではないだろうか。

村田エフェンディ滞土録 (角川文庫 な 48-1)


osakabekenshou at 05:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 小説

2008年01月25日

谷川俊太郎「はだか」1998年 について〈再読〉 85

「はだか」その2
その僅かな僥倖のような機会に出会えば、わたしにはその事が冒険であるように感じられるだろう。それほどに、身体を置き忘れたところからわたしの人格が始まっている、ということなのだ。しかし、冒険であるからわたしの好奇心は刺激されるのも確かだ。わたしは恐る恐る自分の人格を脱ぎ捨てて、自分の感覚の根元へと向かい、次第に生活の根源にあるものを露わにするだろう。
「じぶんのからだにさわるのがこわい/わたしはじめんにかじりつきたい/わたしはそらにとけていってしまいたい」
「じめん」と一体化しようとする「わたし」とか、「そらに」溶けてゆく「わたし」とはいったい何か。
あるいはエクスタシーを読み取ることができる。露出したわたしの感覚の源、わたしの身体はわたしの強い快楽の淵源ともなるからだ。エクスタシーは、身体感覚の劇的な認知により惹起すると同時に、関係性によって構築されている己の人格を脱ぎ捨てる行為によっても、準備されていたのではないか。
もう一つ、同じことかもしれないが、露わになった身体感覚は、大地と空とからやってくるものに対して、その窓を全開にしているのだ。その感度の表現、と言うこともできる。やってくるものと一体化すること、それこそが身体が何ものかを感覚することの意味ではなかったか。
こうして詩的な世界、「わたしの世界」の秘密が明らかにされる。
詩を書くとは、「はだか」になることだ。己の持つ余計なものをすべて脱ぎ捨てて、感覚を全開にし、己に到来する世界と一体化しようとすることだ。その限りで詩を書くということは、人の幸福の、あるスタイルを表しているのである。

はだか―谷川俊太郎詩集


osakabekenshou at 04:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 

2008年01月24日

梨木香歩「村田エフェンディ滞土録」〈再読〉その15

梨木香歩「村田エフェンディ滞土録」〈再読〉その1
私たち読者は、心してこの作品の語り手の世界に近づいてゆかなければならない。通常の小説のように、親しみやすいように、すぐに感情移入し易いようにと、親切には書かれていないからだ。作品が始まった段階では、彼の生きる時代が不明瞭である。また彼の年齢もそれほどはっきりとしているわけではない。語り手の語り口が大人びているので、私たちの「青春」のイメージにすぐに一致してこない。作品の末尾において、彼が青春時代をトルコで過ごしていたことが劇的に印象づけられるだろう。そしてこの道程こそ、つまり遠い隔たりを認識した上で、その遠さを超えてゆく道程こそが、この作品のテーマなのだということが分かるのである。
文体の古めかしさは、まさに私たちの時代との隔たりと、私たちが日頃親しんでいる「青春」についてのステレオタイプな印象からの隔たりとを、同時的・効果的に醸し出している犯人である。
「ディクソン夫人」の下宿で、様々な人種国籍の若者たちが一堂に会し、そこから幸福を汲み上げていったのだ。青春とはそのような、同じ場所に発見されたそれぞれの幸福を意味するのだろう。そしてそれができるのは、そこに集う者たちが、「限定を受けていない」という条件を身に負っているからである。年齢が条件ではないのだろう。年齢が積み重なると、様々な限定は積み重なってゆくから、その両者は通常、関連性を持つのだが、しかし、厳密に言うならば、年齢は無関係なのだ。

村田エフェンディ滞土録 (角川文庫 な 48-1)


osakabekenshou at 05:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 小説

2008年01月23日

谷川俊太郎「はだか」1998年 について〈再読〉 75

「はだか」その1
「ひとりでるすばんをしていたひるま/きゅうにはだかになりたくなった」
わたしが生きていることの土台には、わたしの身体がある。わたしの身体の周囲には、身体に密着した形で「わたしの世界」が作られている。そのことをわたしは普段は忘れていて、わたしの社会的な幻想である「私達の世界」の上で、つまり他者との関係性を土台とする言語や思考の上で生活をしている。わたしの感覚さえ、わたしの器官から切り離されて、「私達の世界」による理解によって存在するかのようにわたしは振る舞う。わたしの感覚はその限りで、きわめて抽象的な実体となる。
この子が「ひとり」であることは象徴的だ。この子は関係性から切り離されたのである。「ひとり」であることが「はだか」であることの意味なのだ。「はだか」であることが、「ひとり」であることの意味でもあるのだ。こうして誰かがいないところで、この子の身体が白日の元に晒される。
わたしはわたしの鼻のことを忘れて「いい匂いだね」と目の前の人の同意を求める。その時、わたしの感覚は既に沈黙していて、わたしの思惟は目の前の他者との間の関係性の上に注がれている。わたしはわたしの肌のことを忘れて「今日は暑いですね」と言う。
からだが不意に露わになるのは、余程特別な時間だけなのである。

はだか―谷川俊太郎詩集


osakabekenshou at 04:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 

2008年01月22日

イーユン・リー 篠森ゆりこ訳 「千年の祈り」より 55

「不滅」その2
もっとも偉大なるご先祖さまでさえも、世の中の視線の前に晒され、蔑まれ哀れまれていた。その同じ視線が再び彼を崇め奉るようになるのだ。
p55「長いあいだどの王朝でも、彼らは誰より皇族に信頼されていた。皇女や側室の身辺の世話をしたが、いやしくもみだらな欲望によって高貴な血をけがすことはなかった。」
ご先祖さまたちの偉大さは、私たちの物語なのである。それは夢見られた幻想そのものであって、他のものではないのである。
若い大工の息子は、独裁者の顔を持って生まれる。父の若い大工は共産主義国家の敵として処刑される。貧しい母子は、冷たい世の中の間で孤独に生きる。しかし、若者は独裁者の顔にそっくりであったために、特型演員として抜擢される。
p64「ときどき道ですれちがうと、まるで独裁者本人がいるようで、胸に熱い思いがこみあげる。この時代、わが国で独裁者は宇宙以上の存在になっていた。」
私たちが伝えるこの幻想は、物語に不都合な要素を伝えることをしないだろう。
私達がこの人生を生きにくく感じるのは、もう一つの幻想が私たちを嵐のような大気の中に捉えて放さないからなのかもしれない。
p79「でもわたしたちが終わって欲しくないのは、彼の物語だ。そしてわたしたちの見るかぎり、その物語は終わらない。」

千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS)


osakabekenshou at 05:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 小説

2008年01月21日

谷川俊太郎「はだか」1998年 について〈再読〉 65

「き」
「ぼくはもうすぐきになる/なかゆびのさきっぽがくすぐったくなると/そこからみどりいろのはっぱがはえてくる」
 周囲の世界が激しく心の中に入り込んでくる時代、人生の最初の十数年の、長い試練の日々。その激流に耐えきれずに、両手を突き出し、次いで蹲り目を閉ざし、心をも閉ざしてしまう、そんな時期も人にはやってくることがある。
「そうしてぼくはもうがっこうへいかない/やきゅうにもつりにもいかない/ぼくはうごかずによるもそこにたっている」
 その時、そこで期待されるものは何か。周囲の「私達の世界」を拒絶した、ただ一つだけの世界、本源的な「わたしの世界」なのだ。大人たちの生の二重性を生きることを拒絶したとき、わたしはわたし独りの世界をもう一度構想しなければならない。生の力がまだその人の内面にしっかりと存在するからだ。「わたしの世界」とは生の力そのものだ。感覚と思惟が周囲から栄養を酌み取り、唯一の世界を私の上に編み上げる。それが「き」だ。
「あめがふりだすととてもきもちがいい/だれもぼくがそこにいることにきづかずに/いそぎあしでみちをとおりすぎていく/ぼくはもうかれるまでどこにもいかない/いつまでもかぜにそよいでたっている」
 「き」は想像的な空間だ。「ぼくはもうすぐきになる」のだ。けれども、それは生きている「き」であり、生きている想像力だ。そこで感覚も思惟も、もう一度想像的に作り直される。それは二次的な世界かもしれない。幼年時代の「わたしの世界」そのものではないからだ。しかし今や唯一の世界だと思われるのだ。
 こうして「き」は、静かに立っている。人々が通り過ぎてゆく傍らで、静かに己の枯渇を待つささやかな生の姿のまま。この想像的な生の構想が、「私達の世界」からの撤退を表している。

はだか―谷川俊太郎詩集


osakabekenshou at 05:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 

2008年01月20日

イーユン・リー 篠森ゆりこ訳 「千年の祈り」より 45

「不滅」その1
主人公は誰だろう。不滅なのは何だろう。
この作品は「わたしたち」の物語ではないのだろうか。「わたしたち」がどうしたかというよりも、「わたしたち」が何を物語り、何を伝えてきたかということ、その物語の狭間で、町の英雄たちがどのように翻弄されてきたかということを語るのが、この作品の骨子ではないのだろうか。
「私の世界」こそ、恣意的で夢に満ちた世界だ、と私も思ってきたけれど、この作品を読みながら、改めて「私たちの世界」だって同様に恣意的で、夢に満ちた世界ではないか、やはりそれもまたもう一つ別の幻想ではないか、ということを思い知ったような気がする。ひとりの人間を英雄として祭り上げながら、ちょっとした出来事を境に徹底的に貶め蔑む習いの私たちのしていることを、もう一度振り返ってみよう。そこで暴威を振るっているのは間違いなくもう一つの幻想ではないか。
p56『男の子が十歳のとき、皇帝が手ずから金塊をわが兄弟に賜ったと自慢する、近所の少年たちと喧嘩をした。そのあと彼は牛小屋に行き、縄と鎌で自らの身を清めた。言い伝えによれば、彼は血のしたたる男根を手に町を歩きとおし、あわれみの目を向ける人々に向かってさけんだという。「いまに皇帝陛下の第一の側近になってやるから見ていろ!」彼の母親はそれを恥じ、息子も孫もいない余生に絶望して、井戸に身を投げた。二十年後、彼は宮中で宦官の頂点に立ち、二千八百名の宦官と三千二百名の侍女を監督した。』

千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS)


osakabekenshou at 05:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 小説

2008年01月19日

谷川俊太郎「はだか」1998年 について〈再読〉 55

「おじいちゃん」その2
「いまいちばんなにがほしいの/いまいちばんだれがすきなの」
 子供の言葉は、自分の生のための言葉だ。だからこの問いに例えば「いまおじいちゃんはね、お前と一緒に遊ぶ時間が欲しいんだよ、誰よりもお前のことが大好きなんだよ」と答えられれば、おじいちゃんはまだ生の側にいて、子供はおじいちゃんに寄り添うことが出来るだろう。しかし、おじいちゃんの生が、子供の生から充分に遠くまで踏み込んでしまっていると、もうおじいちゃんはこの問いに答えることが出来ない。なぜなら、おじいちゃんは既に何も欲しくないのだし、特別に誰かが好き、というわけでもないからだ。
 この作品が問いで終わるのは、問いに答えがないことの証だ。生は、己のことを知らない。己がどこに立っているのか、己がどこへ向かっているのか、何一つ知らない。何一つ知らずに己の言葉を語るのが生だ。子供は、答えのない問いを問うことで、その問に対する答えが与えられない宙吊りの感覚から、自分が何も知らないということに気づくことが出来る。答えは得られない、ということに気づく。大人は逆に、粘り強く知ろうとするが故に、遂に知り得ないことがあるのだという本質的な事実を忘れてしまう。

はだか―谷川俊太郎詩集


osakabekenshou at 05:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 

2008年01月18日

イーユン・リー 篠森ゆりこ訳「千年の祈り」より 35

「黄昏」
p31「貝貝は二十八歳で、じきに二十九歳になる。体が大きいので、ひっくりかえしてふいてやるときは両親二人がかりだし、目が覚めると何時間でもわめいている。でもそんな欠点も、髪をちょっとなでるだけですべて忘れてしまう。」
貝貝ベイベイ」は、私達の生きにくさそのものだ。生きるという魅力的で、真に願わしいものであるはずものが、私達の苦悩そのものでもあるからだ。だから、私達は生きるということに対して、いつでも逡巡している。即座に離れることもできず、かと言ってのめり込むこともできない。
生のこの両義性は至る所に表れる。「蘇夫人」の目に夫の姿がどう見えるか、すなわち彼が「貝貝」に触れているところを見るたびに感じる嫉妬。「方夫人」からかかってくる電話に対して「蘇夫人」が感じる矛盾した感情。
夫婦の間でも、夫の考えることと妻の考えることとは一致しない。同様に誠実に幸福を追求しているのにも拘わらず、二人は違う方向を向いて生きようと努めるのだ。
しかし「貝貝」が死んだ日、これから二人はもう一度やり直すことができそうだ。物語はそこで唐突に終わる。
p52「夫が近づいてきて、彼女の髪をなでる。もう白く薄くなった髪を。彼のやさしい、ひかえめな触れ方は、二人が祖父の庭でいっしょにあそんでいた子供の頃、人生がはじまろうとしていたあの頃と変わらない。」
「私の世界」と「私達の世界」の連絡は、ことのほか難しい。人は他者と共に幸福になる、ということが難しい。それぞれが、それぞれの努力をして、それぞれの幸福を、ある一つの出来事の中から酌み取るしかない。この作品の中では「貝貝」の死という出来事が、二人の幸福な生の可能性を暗示するだけだ。そして二人の幸福などという大それた事件は、せいぜいのところ暗示して見せることができるだけなのだ。

千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS)


osakabekenshou at 05:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 小説

2008年01月17日

谷川俊太郎「はだか」1998年 について〈再読〉 45

「おじいちゃん」その1
 子供の世界は目まぐるしく泡立つ時間の奔流から成り立っている。そこには、生のインフレーションを見出すことが出来る。そこでは生の時間は凝縮された奔流であり、生の本質が生涯の中で最も鮮烈に己の姿を現すのである。生と時間との甘い共犯関係がそこにはある。その世界のロジックが「おじいちゃん」の緩慢な時間を発見した。死に向かってゆく生の後ろ姿が、子供の生のインフレーションの最中に垣間見られたのだ。
「おじいちゃんはとてもゆっくりうごく/はこをたなにおきおえたあとも/りょうてがはこのよこにのこっている/しばらくしてそのてがおりてきて/からだのわきにたれる」
 子供の世界は、おじいちゃんの生のリズムについて行くことが出来ない。気がつくとおじいちゃんの緩慢な時間を跳び越えてしまうから、「おじいちゃんは/きゅうになにかをさけびだしそうにみえる」のだし、おじいちゃんは「かしのきのいっていること」を聞いているようにも思われる。おじいちゃんの時間の上を、子供は何度も往復しなぞりながら別の時間を塗り重ねて行く。
 子供は問い掛ける。おじいちゃんの生と、おじいちゃんの時間に向かって。おじいちゃんの生を知りたくて、おじいちゃんの時間に寄り添いたくて。

はだか―谷川俊太郎詩集


osakabekenshou at 05:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 

2008年01月16日

谷川俊太郎「うつむく青年」について 435

「遊覧飛行」その2
それで良いのではないだろうか。「私の世界」とは、「私達の世界」からの退きでしかない。どんな真実もそこには隠されていはしない。もし追求するならば、そこには偏見や、うかつさや、思い込みやらが、うようよしているに違いない。それだけのものなのだ。「私達の世界」からの視線に晒されれば、それだけのものなのだ。
「遊覧飛行」の中の少女の経験が露わにしているのは、「私の世界」のはかなさ、その弱さなのだ。シャガールや立原道造というハレーションを取り去ってしまえば、「私の世界」の唯一性とか至上性といった価値は、実に脆い。その脆さは、ほとんど化けの皮のように簡単に剥がされてしまうほどである。これが、幻想性の本質なのだ。「私の世界」は、この幻想性を本質としていて成り立っている。そして「私の世界」から常にエネルギーを供給されて成立している「私達の世界」もまた例外ではないのだ。
「地面におりるとはじめて/めまいが少女を襲った」
このめまいは、「私の世界」と「私達の世界」の間を光速で行き来した少女の、詩人的なめまいと言っていいのかもしれない。詩人的な、という表現はこの際、至極妥当だと思われる。それは彼女が詩人の立ち位置にいないからだし、同時に詩人の視線を一度は己のものとしているからである。
この作品は、詩ではない。むしろ詩のようなものであり、小説に近いプロットを持った何ものかだ。谷川俊太郎の誘惑者としての資質が直接的に現れた作品と言っていいように思う。詩としての価値は低いが、誘惑としては一流の作品なのである。

詩集 うつむく青年


osakabekenshou at 05:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 

2008年01月15日

谷川俊太郎「はだか」1998年 について〈再読〉 35

「うそ」
 「うそ」はどんな場所に生まれるのだろうか。「わたし」を護る嘘は、誰から護るのか。他人から「わたし」を護るのだ。相手を護る嘘は、誰から護るのか。周囲の現実、「私たちの世界」からその人を護るのだ。「うそ」は、「わたしの世界」と「私達の世界」の狭間に咲く花だ。その花は美しさで他者を幻惑して、二つの世界の間の摩擦を和らげる。「うそ」はだから裏返しの「ほんと」なのだ。
裏返しだ、ということの内には、「わたし」が「私達の世界」を必要としていて、そのために「ほんと」に対して強い憧憬を持っている、ということが隠れている。そしてこの情熱の故に「うそ」はいっそう輝き、魅惑的に感じられる。また、その内には、「わたしの世界」が護られることを必要とするほどはかない世界である、という事実が隠れている。「ほんと」への憧憬を湛えながら、そのひ弱さ故に「うそ」を必要とするのだから、必然「うそ」は苦悩を伴う。この「苦悩」が、また「うそ」の持つ「ほんと」である。それがある故に、「うそ」は輝き、「うそ」は高貴な「うそ」となる。
 「うそ」がそれまでの単なる「うそ」ではなくなり、「あやまってすむようなうそ」ではなくなること、人が、もう引き返すことができないような「うそ」にまみれたとき、世界には劇的な変質が起こる。つまりそれは、子供が大人になるという変化だ。人が「わたしの世界」と「私達の世界」の二重性を生き始めたということだ。

はだか―谷川俊太郎詩集


osakabekenshou at 05:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 

2008年01月14日

谷川俊太郎「うつむく青年」について 425

「遊覧飛行」その1
「本を売った/立原道造の詩の本と/シャガールの画集とを/誕生日にもらった本を/少女は二冊とも売った」
わたしの中の、他に換えられないはずの価値というものがある。芸術の持つ価値や詩集の持つ価値だ。あるいは、自分の誕生日の想い出といった、個人的な生活史上のメルクマールになる想い出などもそうだろう。この少女は、「少女」のイメージそのものが、ステレオタイプではあるが、反世俗的で文学的な価値を象徴しているのだが、それらを売り渡す。
「そのお金で草ぼうぼうの小さな飛行場に行き/ぶるぶるふるえる小さな飛行機に乗った」
彼女が買ったのはとてもみすぼらしいものだ。頼りない飛行機に乗るための時間だ。この差し引きは、世俗的な換算に見合う。つまり、わたしの中の他に換えがたい価値など、「私達の世界」にあってはどれほどの値打ちもありはしないからだ。しかし、彼女が手に入れた経験は、この計算式の内容とは少し違っていた。
「上から見ると家々は美しかった/人は誰も住んでいないかのようだった/廃液の流れる河の色は絵のようだった/においは何もしなかった/遠くに見たこともない山脈があって/その向こうにもまた山脈があった」
彼女が見出したのは再び、彼女だけの世界の他に換えがたい価値だ。しかし、それは偽りの、見せかけの価値のようでもある。家々には人が住み、「私達の世界」がそこには展開している。河は実際には汚染されて悪臭を放っている。少女が発見したのは、世界から不都合な部分を捨象したあとの経験でしかないようだ。

詩集 うつむく青年


osakabekenshou at 05:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 

2008年01月13日

谷川俊太郎「はだか」1998年 について〈再読〉 25

「さようなら」その2
 「ぼく」はお母さんに謝る。今までみたいに、お母さんの胸の中にはもう居られなくなる。彼の眼には、お母さんとお父さんの関係もしっかりと見え始めている。
「ぼくすききらいいわずになんでもたべる/ほんもいまよりたくさんよむとおもう/よるになったらほしをみる/ひるはいろんなひととはなしをする/そしてきっといちばんすきなものをみつける/みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる」
 好き嫌いを言わずにきちんと食事をして、読書をたくさんして、夜になったら星空を見上げるロマンも感じられる人となる…。ここには自律して己の人生の羅針盤をしっかりと携えた男の横顔があるのだ。
 谷川俊太郎氏は再び現実に戻ってきた。見つめるのは、恐らく最もプリミティブな姿で捉えられ記録されていた現実との遭遇の場面だ。幼年時から編み上げられてきた「私の世界」が、「私たちの世界」と遭遇する場面。そこには、初めて生まれ落ちた体験のわななく姿があるはずだ。

はだか―谷川俊太郎詩集


osakabekenshou at 05:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 

2008年01月12日

小池昌代「井戸の底に落ちた星」読了。5

小池昌代「井戸の底に落ちた星」読了。
書評である。小池昌代さんは、エッセイを書いても小説を書いても、言葉遣いが面白い。
ともかく、作品たちが面白そうに、美味しそうに感じられる。もう既に、水村美苗の「本格小説」と梨木香歩の「家守綺譚」を注文してある。石田衣良の「4TEEN」は面白く書きすぎているように感じた。どの作品もとにかく面白そうに感じらる。危険な書評だ。つまり、本当は私に合わないような作物までも、この書評に誘惑されて買って読み始めてしまいかねない、と思うからだ。

井戸の底に落ちた星


osakabekenshou at 05:00|PermalinkComments(1)TrackBack(0) エッセイ | 読書

2008年01月11日

谷川俊太郎「はだか」1998年 について〈再読〉 15

「さようなら」その1
 辻征夫に「突然の別れの日に」という作品がある。1989年5月に発表された作品だ。谷川俊太郎のこの作品集は1年前の1988年7月刊行であるから、作品そのものの発表はもっと遡ることになるのだろう。辻征夫の作品の方について自身の解説に拠れば、「突然の別れの日に」は子供が成長してゆく中に見られる劇的な変化を捉えたもの、ということになる。子供が成長して全く別の人格に変わったように感じられることがあるのであり、その瞬間を捉えたものだというわけだ。残念なことにわたし自身は、「この子は死んでしまったんだな」と宗左近氏と同様な読み方をしていた。その辻の作品についての知識があるせいか、谷川俊太郎氏の「さようなら」も同様の世界として読んだ。そしてそのように読む限り、多分、辻の作品よりも成功しているように思われる。
「ぼくもういかなきゃなんない/すぐいかなきゃなんない/どこへいくのかわからないけど/さくらなみきのしたをとおって/おおどおりをしんごうでわたって/いつもながめてるやまをめじるしに/ひとりでいかなきゃなんない」
 「ぼく」はせき立てられている。今までの自分が居た場所から直ちに離れなければならない。「どこへ」行くのかは、自分にも分からない。それは自分の経験したことのない時間に入ってゆくことだからだ。しかし、その道筋は、はっきりと経験することが出来る。桜並木の下の道だ。少し遠く感じられるがはっきりと目標として見定められる、あの山が目印だ。大通りの信号をきちんと渡ることが大切だ。そしてその道は、一人で歩いて行く道であるはずだ。

はだか―谷川俊太郎詩集


osakabekenshou at 05:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2008年01月10日

イーユン・リー 篠森ゆりこ訳「千年の祈り」より 25

「あまりもの」その2
「林ばあさんは道の上に座りこみ、弁当箱を胸に抱く。みんなお腹をすかせているのに、誰も老女から弁当を盗もうとしないのは不思議だ。おかげで彼女は大事なものをなくしたことがない。弁当箱の中には三千元の解雇手当が無事に入っている。そしてカラフルな花柄の靴下の、まだ封を開けていないいくつかの袋も。それは林ばあさんの、はかない恋物語の記念だ。」
弁当箱の中には、彼女だけが知る、「私の世界」の記憶とその蘇りが大切にしまわれている。弁当箱を盗む者がないために、彼女のその世界は守られているのだが、本当はそれは、その世界が、本質的に他者の触れることのできないものだからなのである。
私たちは、みな、世の中で右往左往し、世の中に翻弄されて生きている。私たちがみな辿るその道は、林ばあさんが辿った道とさしたる違いはない。そしてまた、林ばあさんが弁当箱を遂に護りきるようにして、私たちも私たちの弁当箱を抱えて生きている。その目立たぬ弁当箱の中にこそ、私たちの生の幸福は隠されているのだ。それは確かにみすぼらしい、誰も見向きもしないようなあまりもの、ただの弁当箱である。世の中ではそのように見られている。しかしもし私たち自身が世の中の人々と同じ目で、自分の持つその弁当箱を見つめたとき、その時、私たちは私たち一人一人にとって唯一無二の幸福を見失うだろう。それは私たち一人一人の生が立脚する、土台の世界そのものを見失ってしまっているからなのである。

千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS)


osakabekenshou at 05:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 小説

2008年01月09日

谷川俊太郎「うつむく青年」について 415

「爆弾」
「少年は爆弾をつくった/長い間かかって ひとりぼっちで/物置の中で時限爆弾をつくった/だが誰をやっつけるあてもなかった」
孤独な夢を見る少年は、私たちすべての心の底に眠っている。かつては眠っていなかった。確かに起きていたのだが、今は物置の奥で眠っている。少年は夢みている。美しい夢、自己中心的な夢だ。けれどもそれは夢なので、決して「私たちの世界」の中に姿を見せることがない。
「美しい少女が連れた真白い仔犬が/ポストをみつけ……おしっこした/で 火薬はすっかりしめってしまった!」
少年の夢は、たいていこんな具合にみっともなく、消え去る運命にある。「美しい少女」は、他者だから、少年の夢に加担することがない。彼女は彼女の夢の中を生きているから、少年は、確実に裏切られてしまうのだ。もちろん少女の側でも同じことが起きているに違いない。
「うつむく青年」の中の多くの詩作品は、どちらかというと小説的な作法で書かれている。特にこの「東京バラード」の章は、性格的に消えそうにはかない「私の世界」をテーマにしているようなので、余計にその傾向が強いのだと思われる。詩は、本来ならば、その「私の世界」からの発信になる、強い言葉であるはずなのだが。

詩集 うつむく青年


osakabekenshou at 05:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 

2008年01月08日

イーユン・リー 篠森ゆりこ訳「千年の祈り」より 15

「あまりもの」その1
失礼な書き方だが、このところ小池昌代の短編小説を読んでいたためか、久し振りに小説らしい小説を読んだ、という印象がある。小池昌代の小説は、作品の構造が先にあって、そこに表現が貼り付けられてゆく、そんな印象が強かった。まるでヘーベル・ハウスのような作られ方をしているような気がするのだ。表現が、作品の構造に深く関わらないのだ。おそらく詩人の感性が、表現を作品構造から切り離してしまうのではないだろうか。それに対して、イーユン・リーの文体は、作品構造そのものとなっている。
「…道を行く。…入っている。…しるしてある。」
この繰り返される現在形の文末が、作品の構造そのものとなる。
「この道を行く人は、自分の脚の向かう先がどこなのか、みなわかっているらしい。でも彼らの一員でなくなってから、林ばあさんにはそれがどこかがよくわからない。」
生は、正確にこの視野の上にある。現在形で進む文体が、生の実感を写し取り、作品のテーマである生の本質を正確になぞろうとするものであることがわかる。
林ばあさんの生は、世の中の圧倒的な存在感の前で進行する。彼女は結婚をしたことがない。既に五十一歳であり、時間の大半を使い果たしている。その彼女の前で、なお、世の中は翻弄の仕草を止めようとはしないのだ。七十六歳になるタンじいさんとの結婚と死別、美美メイメイ学校への就職、カン少年との出会いと別れ。解雇。その間、彼女だけの「私の世界」は、二つの出会い、唐じいさんと康少年を巡って僅かに見え隠れする。

千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS)


osakabekenshou at 05:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 小説

2008年01月07日

小池昌代「裁縫師」より 85

「野ばら」その2
この作品の家族は、結局家族であるために必要であった無数の相互交渉を、拒絶し合うことによって、家族としての存在を放棄してしまったのだ。互いを見定めることができなくなり、互いを認めるために必要だった無数の前提を失っていったのだ。
p176「もう家は、かつての家ではない。でも、わたしがいる、と美知子は思う。思うそばから、美知子の足元がぐらぐらする。/ある夜、寝ていると、荒い息が聞こえた。それは家自身の呼吸のようだった。」
p178「美知子はきょうも、鋼鉄のように自由だ。」
音楽の時は、「無の時」だ。足元がぐらぐらするはずの時間である。存在の根っこが失われた感覚が、その間に流れているに違いない。自由ではあるが、安定してはいない。鋼鉄のような自由とは、奈落に落下する自由である。その重みに耐えねばならない自由である。存在するはずなのに、存在の感覚が得られない。存在の感覚は、あくまでも他者との相互交渉の中で確認できるものだからだ。他者を、家族を失った美知子は、最早ある部分は生きていないのだ。
人間は、ひとりの人間として生きている。その意味は、「私の世界」の鋼鉄の自由と、「私たちの世界」の確かさとを、同時に経験し続ける、ということなのではないだろうか。

裁縫師


osakabekenshou at 05:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 小説

2008年01月06日

森絵都「カラフル」読了。5

森絵都「カラフル」読了。
p187「人は自分でも気づかないところで、だれかを救ったり苦しめたりしている。/この世があまりにもカラフルだから、ぼくらはいつも迷ってる。/どれがほんとの色だかわからなくて。/どれが自分の色だかわからなくて。」
p245「無言で足元を見おろしながら、ぼくは早くも再挑戦の四ヶ月をふりかえっていた。/いろんな人にかかわり、いろんな思いをした四ヶ月。/だれかひとりでも欠けてたら、ぼくはぼくにもどれなかった気がする。」
この作品は、これらの2カ所で言い尽くされているような気がする。孤立して、世界が単色で見えてしまい、複数あるはずの生きる可能性を見失ってしまった魂に対して、もう一つの色、もう一つの色、もう一つの…に気付かせたいという願いがモチーフとしてあるのではないだろうか。そして、孤立した魂の周りに、世の中の存在を復活させようと試みているのだ。
この作品が、「死」をリセット可能ななにものかに、そのイメージを変質させてしまったという批評があるが、わたしはそうではないと思う。単なる直感でしかないが、この作品の読後感は、救済の力をひしひしと感じさせるようなものであって、不愉快な死の軽薄化ではなかった。
テーマははっきりとしていて、誤読はあまりないだろう。私たちはこの作品から、私たちの周囲に、それは空間的にも時間的にもあてはまるだろうか、大勢の人々が確かにいる、一緒に生きている、ということ、そしてその人たちは、さまざまな顔を持っていて、優しい部分も厳しい部分も、自分勝手なところも、意地悪なところも、さまざまにその内面に湛えているのだ、ということを酌み取ることができる。そういう力をこの作品は持っているように思った。

カラフル (文春文庫 も 20-1)


osakabekenshou at 05:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 小説

2008年01月05日

小池昌代「裁縫師」より 75

「野ばら」その1
p149「父には直らない放浪癖があった。」「父が旅に出ることがはっきりすると、母の顔はだんだんくもってくる。」
p150「父はバイオリンを弾く男だ。」「父の太い指は、指板の上の弦を、いつもゆうゆうと的確に押さえ、いったん押さえるとまるで吸盤でもついているみたいに、正確な音程をくずさなかった。ビブラートのうごきは官能的で、見つめていると、こころばかりか身体が次第に熱くなってくる。」「そして母は、確かにあの指のために、大事なものを父に渡した女のひとりなのだろう、と。」
父は、己だけの世界に囚われて、放浪者となる。官能が、「私の世界」の唯一の言語であり、その存在の指標だ。その官能に囚われた父は、楽団からも家族からもリタイアしてゆかねばならない。
p153「今はこうしてばらばらな家族だが、このテーブルがここにある限り、父はこの家に帰ってくる、そしていつかは兄もそろって、四人でテーブルを囲む日が来るに違いない。」
古い大きなテーブルは、家族のコミュニケーションの象徴だ。父の決定的な旅立ちは、このテーブルをも消滅させてしまう。
他者がそこにいる、ということのためには、わたしが他者を感じ取らねばならないだろう。「私の世界」の官能という言語を用いて。それは一体どういうことなのだろうか。それは、夢の中で、切断されてないはずの指が確かにあると感じることと、どれほど違っているのだろうか。「私たちの世界」は、他者との相互のやりとりの中で、共同作業で作り出されてゆくものだ。他者とのやりとりの中で、確かにわたしとは異なる意思がそこに働いている、ということをお互いに認識することによって、作り出されてゆく無数の前提が必要なのだ。無数の相互交渉がどうしても必要なのだ。

裁縫師


osakabekenshou at 05:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 小説

2008年01月04日

小池昌代「裁縫師」より 65

「左腕」
悪夢のような時間が流れる。6月6日の午後2時頃に主人公の乗るタクシーと川野という男が運転する乗用車の衝突事故があった。事故から2週間が過ぎた頃に、主人公は偶然に事故の相手と遭遇する。左腕に痛みがあり、ちょうど病院に行こうとしていたところで、事故の相手の川野という男に連れられて動物病院に行く。そこでもらった軟膏を塗って寝ると、翌朝、左腕が取れてしまうのだ。その腕を持って約束をしていた川野と会い、動物病院行く。そこで意識を失う。気がつくと、動物病院を抜け出して本来行こうとしていた病院に向かっているところだった。奇妙な迷路のような町を抜けて辿りつく。が、そこで意識が途絶え、病院のベッドで目覚める。それから再び睡魔に襲われ、目覚めるとまだ病室にいる。手術をして左腕を切断した後だった。壊疽が起きていたらしい。そして朝になり、また眠り…。左腕の後に翼をつけてもらい、ふわっと身体が浮かび上がったときには、6月6日の午後2時を少し過ぎた頃だった。
何一つ起きていないのではないだろうか。全ては夢、それもエロティックな夢だ。
左腕の切断には、受動性の演技という意味があると思う。2度目に動物病院を訪れた主人公は、下山という医師に犯されそうになる。その寸前で意識は飛んでしまうが、犯されたい、という欲望が覆い隠されてしまったのだ。左腕の切断もそれと同じ、組み敷かれたい、というエロティックな願望を表しているのだ。取れてしまうのが右腕ではないのは、私自身の能動性を隠しておきたい、ということの現れだろう。
動物病院の医師下山がこんなことを言っている。
p116「交通事故ってね、ひとの運命を変えるんよ。衝突ということに意味があるんよ。ぶつかるということ、あんた、わかるでしょ、それは避けられない、避けられなかったことなんよ。ぶつかった以上、もう、あんたはそこから、人生をやり直すしかない。衝撃が、あんたのソンザイ全体をゆさぶる。」
人生の何らかの進展や、人間性の成長変化が、衝突によって生じるという人生観は、完全に受動性の表現だ。ここにも、女性の性的な受動性が、一つの哲学の殻を被って現れているのだと思われる。
この作品は、女性性の幻想的な物語化として読めるのではないだろうか。

裁縫師


osakabekenshou at 04:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 小説

2008年01月03日

あさのあつこ「ランナー」読了。 その25

あさのあつこ「ランナー」読了。 その2


【あけましておめでとうございます】


主人公は、しかし、人生の重荷のために、この秘められた通路を閉ざされてしまう。母親による、妹杏樹に対する虐待が、彼を妹の保護者であるようにと要請するからだ。彼は走れなくなる。家族の関係性の世界が危機に瀕したために、個の世界が弱められるのだ。
p107「ゴールに倒れ込んだ自分、妹を守りきれない自分、弱さばかりが降り積もっていく。」
しかし、私たちの生はいずれにせよ、二重性を生きる宿命にある。関係性の世界の危機に際したからと言って、「純粋結晶としての自分」に触れる道を閉ざすことはできない。それをしたと思い込むのは自己欺瞞に他ならない。その逆も然り、関係性の世界から自由になって、「純粋結晶としての自分」への道に浸り続けられる、という発想にも欺瞞があるのだ。
p236「これで楽になれる。何も考えず、何にも囚われず走ることができる。そうしたら、もう怖れるものはない。おれは、軽やかにゴールを越えていける。/違う。違う。違う。/心臓の律動が響く。/また同じ過ちを繰り返すのか、碧李。/鼓動は声となり、碧李自身に問いかけてくる。/おまえはまた、妹を盾にして逃げるのか。」
最終場面で、妹の杏樹を前にして走ろうとする碧李は、人間としての宿命をそのまま生きようとしているのだ。その二重性を生きて初めて人間は、本当に生きたことになるのではないだろうか。

ランナー


osakabekenshou at 04:19|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 小説

2008年01月02日

谷川俊太郎「うつむく青年」について 405

「十円玉」その2 【あけましておめでとうございます】
あの高級車、「美しい女のように傲慢な車/未知の野獣のように精悍な車/手の届かない幸福のように優雅な車」は、現代都市東京がお仕着せに与えてくれる夢そのものだ。慎重に「個」の世界の恣意性から隔てられた、隠されたステレオタイプそのものの夢だ。少年はこれを拒絶する。この拒絶は、「私の世界」の自由の留保なのだろうか。
「十円玉」はたった一つしか残っていなかった。その「十円玉」を、彼は拒絶に使い果たしてしまう。彼には、自分の「個」の世界を伸びやかに育ててゆく力がない。大都市東京の中にあって、彼は弱者の頂点にいるからだ。そして彼のその位置は、もしかするとすべての東京人に該当するかもしれない危険性そのものである。彼が「十円玉」を「雑踏」に投げ捨てるこのラストの行為は、また象徴性を帯びているように思われた。少年の側から言えば、それは東京人であることを拒絶する意志の表明であり、あるいは「私の世界」がここにあるということの宣言である。またそれを受ける「雑踏」の人々からするなら、投げつけられた「十円玉」により、打たれることで、車と同じように拒絶されるのである。突然に現れた少年によって、自分たちの夢ならぬ夢の中で、「私の世界」がここにあるのだ、と知らしめられる経験をする、その可能性を与えられる、ということなのだろう。



うつむく青年―詩集


osakabekenshou at 04:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エッセイ | 
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

Archives