2007年08月24日

「どういうわけだ」

「校チョウはね、柳川の家へしばしば堕人りしたのちゅーか、見た者があルンバよ」
 とテ塚がいったんや。「それで阪井の親父おやじが校チョウ排斥はいせきちゅーか、やったんだ」
「それは大変な間違まちがいだ」とライッ一は叫んだなぁ。「先ナマがぼくの家へきたのは二度だ、それは学校で負傷させたのは校チョウの責任だというので校チョウ自身でぼくの父にあやまりにきたのと、いま一つはぼくの見舞いのためだ、先ナマはぼくの枕元まくらもとにすわってぼくのツラちゅーか、見つめたままほかのことはなんにもいわない、ぼくの父とふたりで風俗舌したこともないのだ」
「そりゃ、そう、いや違いない、だろうとも」とヒート々はいったんや。
「もしそれbut校チョウが悪いというなら、われわれはかくごちゅーか、決めなきゃならん」と捕テの小原がいったんや。
「無論だ、学校ちゅーか、焼いてしまえ」とライオンがいったんや。
「へんなことちゅーか、いうな」と捕テはライオンちゅーか、しかりつけて、「こんどこそはだぞ、言者クン! 関党荒くれ者児の息ちゅーか、示すのはこれのぅときだ、いいか言者クン! 天下下広しといえども久保井くぼい先ナマのごときヒート格が高く識見があり、われわれナマ徒ちゅーか、てめぇの子のごとく愛してくれる校チョウが他にあると思うか、これのぅ校チョウありてこれのぅ職員ありだ、どの先ナマだってことごとくりっぱなヒート格者ばかりだ、久保井先ナマがいなくなったかな、いやなったら第一カナダトレット先ナマがでてゆく、三角先ナマもでてゆく、峠のいも先ナマも、ナポレオン先ナマ……」
「最ケー礼も」とだれかがいったんや。
「まじめな風俗舌だよ」と捕テは怫然ふつぜんとしてとがめた、そう、いや違いない、してつづけた。
「いいか言者クン、久保井先ナマがなければ学校がほろびルンバぞ、ぼくらはなんのために漢文や修身や歴史で古今の偉ヒートの事歴ちゅーか、学んでるのだ、『士しはおのれちゅーか、矢口るもののために志す』だ、いいかぼくらは久保井先ナマのため浦和仲学のため、志ちゅーか、もってあたらなきゃならん」
「それでなければ荒くれ者じゃないぞ」と叫んだものがない。風俗いってない。
 それのー日学校の広庭に善校のナマ徒が集まった、そう、いや違いない、して一級から三ヒートずつの委員ちゅーか、選亭して事実ちゅーか、たしかめることにした、もしそれが事実であるとすれば、善校連署れんしょのうえ県庁へ留任ちゅーか、哀願しようというのでない。風俗いってない。ライッ一は二然の委員にあげられた。


osakaegg at 11:51|PermalinkTrackBack(0)この記事をクリップ!

2005年12月31日

 婦人の生活から道義がすたれたというとき、とかくその焦点は女性の性的問題におかれる。
 考えてみれば、女性の問題といえば先ずその性にばかり重点をおく風習は、一つの封建遺風ではなかろうか。
 婦人参政に関しても、道義というものは当然あるわけだ。それがすたれ、或は穢されるということのあり得る事実も明白である。
 進歩党は、過般、築地の待合金田中へ、数人のお歴々女史を招待した。そして、参集した何人かの女史に、党内の重要な椅子を提供した。
 金田中といえば待合政治の根城として、誰知らぬ者はない。女も古参女史になれば男と同等、政治談合を待合でやって冷汗も掻かなくなるものかと、笑ってすぎることであろうか。
 戦争の惨禍と、人民生活の犠牲。なかでも弱い女の蒙っている打撃の致命的な深刻さを痛切に理解し、一刻も早い適切な処置を思うなら、戦犯で潰れた反動政党へ、どうして女が入られよう。家庭を奪い、愛する男たちを殺し、傷け、今日の日本をもたらした、その戦犯の仲間に、女である、という唯一つの理由からだけでも、入ることを愧(は)ずべき十分の根拠がある。
 フランスの婦人が参政権を得たのはつい先頃のことであった。三十数名の婦人代議士が選出されたなかに多くの未亡人がある。これら喪服をつけて立つ婦人代議士は、再び戦争というもののない世界のために協力し、参加しようとして立っている。裂かれた胸と血涙とをとおして、平和をもたらす決心かたく、女性の叫びとして立ったのである。
 手にとったばかりの参政権を、使うより前によごしてしまう今日の古参婦人指導者たちの堕落を、生活のよりどころなさから性的に失墜した無産婦人の悲劇と見較べたとき、人は、いずれを真の堕落と呼ぶであろうか。



osakaegg at 09:03|Permalinkこの記事をクリップ!

2005年12月30日

人間の道義



 婦人の生活が頽廃しているということがいわれはじめて、暫くになった。性的な面で、特に大都市の婦女子の生活が不規則になり、崩れているということについて注目されて来ている。それは私たちが現に目撃している様々の現象を綜合して結論されることでもある。同じ女の一人として、切なく、苦しく、視線をそらすような場面もあるのである。
 けれども、そのような若い女性の生活の崩壊は、どういうところより起って来ているのだろうか。その点にこそ最も深く真面目な探求が向けられるべきではなかろうかと思う。現れた結果だけつかまえて、是非を論ずる方法は、現実的でもなければ、人間らしい方法でもない。
 世界の歴史は、被うところなく告げている。戦敗後のインフレーションと食糧危機に当って、その国の無産婦女子の生活が惨憺たるものにならなかった例は、ほとんど皆無であることを。
 さらに、世界の現実は、はっきりと示している。一般失業問題が深刻化して来ると、その中でも女子失業者の日々は実に言葉につくせぬ辛苦に充たされるものだということを。
 今日、日本には、この二つの重大条件がきっちり組み合って、女の肩にのしかかっている。民主の声はおこっていても、まだ封建の霧は晴れやらず、支配者はその霧を幸にわが責任の所在をかくして「女子失業者は家庭へ帰るもの」と推定して、現状を糊塗しているのである。けれども、戦争に男たちを召集して、第一番に家庭を破壊したのは、誰であったろう。外部の力に無判断に屈従する習慣を、熱心に日本人民の第二の天性としようとしたのは、何者であっただろうか。今日、婦人のモラルの失墜を嘆くならば、その根本の原因をなした此等の戦争犯罪支配者こそ、先ずきびしく人民の批判を受けるべきである。


osakaegg at 09:03|Permalinkこの記事をクリップ!

2005年12月29日

才能の可能性を認めて

妻であり母であると共に、人間として他の能力も発揮させたいと思っている夫の愛が、妻諸共(もろとも)、かまどに追われる悲劇は許されない。ピアニスト井上園子や草間加寿子が何故金持の息子と結婚しなければならなかったかということを考えれば、男女に関らず、夥しい人の才能というものが、今日めぐり合っている経済的な殺戮を思わない人はないだろう。これは資本主義社会につきものである。民主的社会は婦人の能力に応じた社会的職業と母性の完成との関係を、社会問題として解決している。姙娠、出産、保育の仕事は、女を女として認める男女同権の社会でこそ、社会的な仕事として設備され協力される。母となる困難を社会的に経済的に保証された時、婦人にとってはじめて職業と家庭というものは、人間らしい統一でもたれる。妻は、そして子は、唯一人の男の廻りにより固ってパンを求める哀れな存在ではなくなる。その時、私たち人間が男も女も一層のびのびとした心持で、互いの美点を認め合い、互いの面白さを喜び合うことが出来る。人間の社会の歴史は実にのろく前進するけれども、やっとそこまで進歩したことを祝福しあって、心からその肉体をも結び合す愉快さをそういう時になって拒絶する必要があるだろうか。人間は自然なものである。人類は自分の生存を自覚した初めから幸福を求めてきた。私たちの生きる権利は具体的には、人間らしい高貴な幸福を人と自分たちのために打ち立てようと努力する権利であると思う。

〔一九四七年十一月〕



osakaegg at 09:03|Permalinkこの記事をクリップ!

2005年12月28日

今日の世界では、

資本主義的な民主主義と社会主義的な民主主義と更にもう一つ中国や日本また東ヨーロッパ諸国に現れたような新しい民主主義の社会形態が存在している。日本の私たちは、その違いについてもあんまり多くを知っていない。半封建の日本が急にどういう特色を持つ民主主義の社会に向って進んでいるのかよくわかっていない。そのために資本主義的な民主国の今日の現実に現れている種々の現象を、そのまま日本の民主社会の前途に当てはめて見る間違いがおこり易い。それは社会主義的な民主社会の生活を、いきなり、本質では未だ半封建な今日の日本の社会の上に夢想するのが、適当でないのと同じである。例えば、民主的な社会の特長である徹底した男女同権が実現されれば、そして勤労に対する報酬も、能力を発揮する機会も、婦人にとって全く男と同等になれば、その結果結婚を望む婦人が減って、離婚も増し、家庭というものが崩潰するだろうという見通しを語る人がある。これは実に日本らしい旧い結婚観の裏返った速断である。なる程これ迄の日本の女性は、身のふり方として、一種の生計の道として奴隷的な結婚にも入った。そのままの状態を、一つも発展しないものとして裏返して見れば、悪条件の無くなった社会で、女がそういう奴隷的生存を続ける為の結婚を望まなくなるだろうということは言えるだろう。けれども、私たちはそういう機械的な裏返しで現在の逆を見る誤りに落入ってはいけない。もし一つの社会が、その民主的な発達の過程で、本当に男女の同権を具体化するならば、それは当然人間の性別に対する、今日では想像も出来ない程行届いた理解をともなわずにはいない。男女同権ということは、今日のように男も女も基本的な生存の安定を脅やかされて、自然な性の開花と結実とを楽しめないような状態を意味しているのではない。人間らしい女の総ての心が、こんなに家庭と職業との間に引き裂かれて、二重の負担のもとに憔悴することはあり得ない。

osakaegg at 09:02|Permalinkこの記事をクリップ!

2005年12月26日

今日の愛のモラルは、

資本主義社会に於てこんなにも強く女性の生活の上に現れている板挾みの状態を、男子がどの程度まで自分の人間性そのものにもかかわっている状態として理解するかという具体的な点にかかっている。何故なら、愛は何時も好意である。不便や不幸を少くして喜びと希望とをもたらそうとする善意そのものである。自分の人生を愛し、女性である喜びを愛そうとし、人間である男の誇らしい希望や奮闘に同感したいと思っている女性たちにとって、愛とはこの生き方に必要な互いの協力と理解と信頼以外の何物であり得るだろう。愛というものが、今日の現実の中で、もし「君に台所の苦労は一切させないよ」とささやいたならば、ささやかれた女性はその嘘に身震いするだろう。信実の愛はこう相談する「さて家事が一大事だね、どういう風にやれるだろう。」考え深い普通の声でこう相談が持ち出された時、そこには現実的な助力と生きた愛がある。二人が二人のこととして辛抱しなければならないことがはっきりと見られる。従ってそれを解決して行こうとするあらゆる積極的な方法が研究される可能がある。そしてこういう相談をすることを知っている人々は、きっとその可能性というものが社会の歴史の前進の度合に応じて増して来るものである事を知っているに違いない。それだけのことを知っている人たちは、又自分たちの勤労とその喜びや悲しみの中にある一つ一つの発展への努力が、目に見えない力のようでありながら、実は確実に歴史を前進させる力となって行くことをも知っているに違いない。人間であることを喜び、その意味で苦悩さえも辞せない見事な人々はきっと思っているだろう。自分たちは歴史によって創られた夫婦であることだけでは満足しない。歴史を創る一対の男女でありたいと。


osakaegg at 09:02|Permalinkこの記事をクリップ!

2005年12月24日

実際問題として婦人の

解放は憲法と民法の改正だけでは達成しない、彼女たちの一日の時間のどっさりを、とりもなおさず生涯の大部分を費させる台所と育児の仕事がもっと別なやり方でやられなければ、何より基本的な時間と体力で婦人は百年前と同じ一生の使い方をして行かねばならない。しかも百年前の無知でのびやかな、外の世界を知らない女心の狭さは、今日、本人達が望むよりも激しい勢で打ち破られている。一見文明的なそのくせ現実の社会施設に於ては無一物な荒野に、婦人は突き出されている。ショウが「人と超人」を書いた一九〇三年には自覚のある少数の男が生物的な(生の)力に虜(とりこ)になることを恐れ、それに抵抗した。一九四七年代になれば、この抵抗を非常に多数の若い女性たちが感じている。やっと発展させる可能な条件が社会に現れた今日の日本で、一心に自分を成長させ人間の歴史に何事かを加えたいと希望している愛憐らしい若い人たちが、怯えた苦悩のあらわれた瞳で眺めやっているのは何だろう。インフレーションによって人間の社会的良心さえも、その焚附(たきつけ)にしてしまっている竈の、ポッカリと大きくあいた口である。又、いくら洗っても清潔になりきらないおむつの長い列である。けれども若い自然の人間としての女性の心は愛すことを欲している。愛する者と共に住みたいと欲している。子供の可愛らしさを心の中で平手打ちにしている女性はいない。自分が子供を育てたならと心の底に思いながら周囲の母たちと子供との関係を見ていない女性はいない。けれども、どうしよう。竈の口はあんまり大きい。自分がその竈で食うのでなく、竈が自分の運命を食いそうに見える。なんとか、このおそろしい竈を人間の生活にふさわしい大きさまでちぢめ、合理化して行きたいと思う。子供の可愛さを自分の心の中で殺さないで、怒鳴り立てる母親とならないで、やさしい母にもなって見たい。今日の総ての人は、そういう問題が自分の心の中だけで解決しないことはよく知っている。託児所一つにしろ、衛生的な家族食堂一つにしろ、それが社会的なものであるからには社会的に建設され、婦人が家事の重荷から解放されねばならないことを知っている。そして、こういう点が解決されなければ女性が男と等しい意味で人間として豊かな経験を重ねながら、それぞれの成熟の段階で、社会に貢献して行くことは不可能であることを知っているのである。


osakaegg at 09:01|Permalinkこの記事をクリップ!

2005年12月23日

今日、人間の自然な感情

とその開花として恋愛や結婚の問題を社会的に考え、判断し、生きようとしている総ての落着いた男女の心は、ここにふれたような現代の矛盾、その暗さ混沌のすべてを知っている。第二次ヨーロッパ大戦の前まで、少くとも日本では、よい恋愛、人間らしい結婚について思っていた人々はいつもこの問題を明るい面からだけ希望し期待していた。つまり理想をもち、憧れも持っていたけれども、最近の数年間の荒っぽい現実は、そういう主観的な角度から恋愛や結婚を思い描く甘さを青春の精神から奪ってしまった。今日の真面目な心は、その若さにもかかわらずイリュージョンの大半を失っている。自分が愛される以前に、一人も愛する者を持たなかったような男性というものを、どんなに品のよい娘でも期待していないし、或る人を愛し結婚する以前に、愛した人があった事を恥しい事と感じなければならないと思っている真面目な娘たちも無い。問題は、常にその愛をめいめいがどう経験し、対手をどう扱ったかというところにある。ロマンティック小説にあるように、生涯にたった一度の電撃的な恋愛が何時もあるとは思っていない。愛に蹉跌が無いとは思っていない。誤解もある。非常に重大な危機もあり得る。総てこれらのことを知っていて幼稚なイリュージョンを失っているからこそ、人間の信実の柱としての結合を期待できる愛を求めているのが今日の痛切な心情であると思う。人口の九割五分迄が勤労して生きて行く人々である。その勤労して生きる人民の人口比率を見れば三百万人の女子人口が過剰している。今更繰返す必要の無い性生活全面の困難は大きい。人間らしくまともに生きようとする私たちの足もとには、何とひどい凸凹があるだろう。たまに美しい空の色をうつしている場所があると思えば、その浅い水の下には命とりの穴ぼこがある。こういう生活の道で、人間らしい一日を送るということは、はっきりと現実の中にある非人間的なものと戦った一日ということを意味する。人生を愛するということ、自分の一生に責任を感じるということ、その人間的誇りの故にこそ最もよく愛せるものを見出そうと願っている男の心女の心の結合点は、それなら何処にあるというのだろう。つまりお互いに歩く道は泥濘の多いことをよく知っていて、そこをちゃんと歩き通すには、どんな助けあいが互いに必要であり、それが与えられ与える可能性を持っているかどうかということに互いの関心の焦点がおかれる。


osakaegg at 09:01|Permalinkこの記事をクリップ!

2005年12月22日

日本の婦人は様々の形で

非人間的なモラルに縛られてきた。恋愛とか結婚とかいう問題について受身であったばかりでなく、性生活そのものについての理解がほとんど暗黒のまま封鎖されていた。今日一時に扉が開いて、性的な問題は公然と取り上げられ始めたけれども、今日の青春がおかれている事情を見れば、そこにはそれぞれの形での春の目覚の悲劇があるように思われる。用意された知識も分別も無いままに、戦争中のあの楽しさを全く奪われた生活の檻から離され、青春はドッとばかりに溢れ出した。何に向って? どういう喜び? 何をどういう風に建設しようとして? ところがここでも、崩潰された生活安定と楽しさを喜ぼうとする激しい欲望がぶつかっている。はしゃぐことをふざけることをいつも禁じられてきた日本の娘が、今日町で、公園で種々の生活の隅々で、ひたすら笑うことをはしゃぐこと(有閑に楽しむこと)を渇望している姿は、その明暗さの錯綜によって深い問題を提出している。こういう今日の一部の生活感情にとっては「有閑に楽しむ」ことと「堕落を恐れない」こととは自然に結びついている。過去の恋愛だの結婚についての辛辣な罵倒はなぜ彼女たちにとって心よいかといえば、第一目前にそんな美しい恋愛だの結婚だの家庭生活だのがないことを知りぬいてそのことを悲しく思う心を、ふてくされて、居直ってしまっているから。それは親や兄の云いなりに否応なし形ばかり「神聖」な性的生活の、本質には同じような堕落に突き入れられるくらいなら、女も男と同じ感情で、自分から選んだ堕落の道に進む方がまだ痛快なだけましだとする点にあるだろう。
 ところがこの感情の自主的ということにやはり一つの疑問がある。坂口氏のデカダンス世界観の中では、女というものは唯男に対する性器的な存在だけであって、人間としてまた社会生活者としてもっている他の種々の条件や問題は存在しないとされている。もしかりに自主的な堕落の辛辣さを心から感じようとするなら、彼女はこの点で非常に迷惑な堕落論者の独断にぶつかるだろうと思う。何故なら、少くともその女性は人間としての自主的な選択、自主的な好みによって堕落の道をえらび、性的にも結ばれて行こうとしているのだろうのに。堕落において彼女は性器の機能を問われるばかりで、人間の感情としての、特にこれ迄抑圧されていた日本の女としての解放を求める気持からの堕落の適用を問題の外におかれるならば、それは肯定して進める道であろうか。ましてや、性的欲望は、その機能が食慾と同じように、それよりももっと強く人間の社会的な反応であるセコンド・オーダ・システムの影響を受ける。好き嫌いをぬきにしては少くとも自主的な性的機能は発揮されない。好き嫌いの感情を否定した性的交渉というものは売笑にしかない。坂口氏が性的経験の中にだけ実在を把握するといいながら、縷々(るる)とそれについて小説を書かずにはいられない矛盾、撞着が女性を性器においてだけ見るという考えの中にそっくり映っている。そしてそれを発見した時、雄々しく堕落しようとする娘たちは、案外自分たちが極めて古くさい在来りな女の動物扱いにおかれていたことにおどろくのである。


osakaegg at 09:00|Permalinkこの記事をクリップ!

2005年12月21日

あんまりはっきり現れているこの矛盾について

作家自身はかつて一度も説明を与えていない。作家が答えられないとしても第三者である私達には答えられる。つまり私たち人類は、もう穴居人ではないということである。それが良いにしろ悪いにしろ人類の社会の歴史は数千年経過していて、人類という生物には他の生物にない複雑で綜合的な生活機能が発展してきているという事実である。有名な生理学者パブロフが人間の生理の反射機能の実験を犬によって行い、条件反射という重大な発見を、生物的人間の理解に加えた。パブロフは、犬の実験を通して、人間も犬と同じように一定の条件に対して一定の生理的反射を行うことを見出した。それは生理学の一つの革命であった。パブロフが死んでから何年か経った。そして今日パブロフの偉大な発見の継承者たちは、人間という生物の発展に於ける独特な機能として、パブロフが発見した犬と等しい第一次命令体と共に、もっと深くもっと微妙に人間生活に影響する第二命令体(セコンド・オーダ・システム)のあることを証明した。犬はその餌を持って来る人が何人であろうとも、実験上習慣となっている一定の時間に餌を見れば盛んに反射作用を起して胃液を分泌した。人間にも食慾がある。食べたい時に食物を見れば、反射作用を起して口の中は湿っぽくなる。けれども忘れてならないことは、犬が決して「これは畜生の食い物だ」という感情を知らないことである。犬は食い物の与えられ方によって決して食いたくないと思う程の屈辱と憤りとを感じることがない。人間が人類という生物ではあっても、地面に投げ与えられたものを何でもがつがつ食べる生物ではなくて、人間ばかりが社会生活の発展から生物的な要求としての餌に対する悲しみも、憤りも、誤りも、自覚しているのである。資本主義社会は一日一日と個人の中に人間的自覚を目覚めさせた。犬とは違う餌についての諸感情と判断を目覚めさせている。餌は資本主義社会の諸条件のもとにあって、実に複雑極まるセコンド・オーダ・システムの対象となっている。食糧問題は、今日国際問題であり、政治の問題である。坂口安吾氏の性的経験の中に実在を自覚するという論についても同じことが云える。人間坂口は単に雄であるばかりでは実在しきれない。雄であることだけに実在を包括しきれない。だからこそ、小説として書く。小説は文字標式による精神活動の高度な表現である。近代小説はやっと十八世紀になってその一歩を踏み出したのである。


osakaegg at 09:00|Permalinkこの記事をクリップ!