2009年02月10日

今度の彼女は....

ちっとも可哀そうだとも、恥かしいとも思わないだけ、充分に彼女の心は強かったのである。
 そして、またその驚くべき強い心に、この上ない誇りを感じている彼女は、何も自分の持っている力を引込ませて置く必要は認めなかった。
 何のために虎は、あんな牙を持っているかね、弱い人間や獣を食うためじゃあないか、私の生れつきだってそれと同じなのだ。それでもうすっかり彼女は安んじていられたのである。
 今度も彼女は、自分の天稟(てんぴん)に我ながら満足しずにはいられなかった。
 もうここまで漕ぎ付ければ、後はひとりでに自分の懐に入って来るほかないいくらかの土地を思うと、優勝の戦士がやがて来る月桂冠を待つときのような心持にならざるを得なかった。
 比類ない自分の精力と手腕をもってすれば、こんな相手を斃(たお)したことは、むしろ当然というべきではある。
 が、嬉しい。この上なく張合がある。
 土地や金が、ただ「殖える」とか「広くなる」とかいう、そんなやにっこい言葉で彼女の快感は表わせないほど、熾(さか)んなのであった。
 彼女は、しんから自分自身の生命の栄えを讃美しながら、次の対照の現われを強い自信と名誉をもって待っていたのである。
 が、禰宜様宮田は……。
 憤るには、彼等はあまり疲弊していた。
 海老屋から使がその趣を伝えて来たときでも、彼等夫婦はまるで他人のことのように、ぼんやりした、平気な顔をして聞いていた。
 何だかもう、頭の中が真暗になって、感じも何も皆どこへか行ってしまったような心の状態になっていたのである。
 絶えず口元に自嘲的な笑を漂わせながら、唇を噛んでいるお石は、すっかり自暴自棄になってしまった。
 まだ何か望みがあり、盛り返せるかもしれないという未練が残っていたときには、懸命に稼ぐ気にもなり、怨む気もしたけれども、こうまで落ちきってしまえば、絶望した彼女の心は自棄(やけ)になるほかない。
「へん海老屋の鬼婆あ!
 何んもはあねえくなるまで、さっさとひっ剥(ぺえ)だらええでねえけ、小面倒臭せえ。
 乞食(ほいと)して暮しゃ、家(ええ)も地面も入用(い)んねえで、世話あねえわ!」
 黙り返っているお石は、折々不意にはっきり独言しながら、ゴロンと炉辺に臥(ね)ころがったりした。
 禰宜様宮田も、もう土地も何にも入用(いら)なかった。ただどうかして、今のいやな心持から一刻も早く逃れたいばかりなのである。
 ほんとにお石の云う通り、乞食(ほいと)して暮しても、このごろのように怨みの塊りのようになっている境涯からぬけられたら、それでいい。
 こっからここまじゃあ俺らがもん、そこからそこまじゃあ汝(ぬし)がもんと、区別う付けて置くから、はあ人のもんまで欲しくなる。
 地体(じてえ)、どなたか様は、そげえな区切りい付けて、地面お作りなすっただべえか?
 欲しいもんだらはあ遣るがえ……。
 最初の間、彼はもうすっかり諦めて、綺麗(きれい)さっぱりいつでも、土地でも家でもよこせと云うものを、遣ってしまえるような心持でいたのである。これからもがんばります。

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2005年12月29日

ものは方便

金がもの云う時世に生れて、変におかたいことを云うのは、馬鹿の骨頂(こっちょう)だ。
 何とか彼とか理窟をつけて、溜めたくないようなふりをしている者のお仲間入りをしていられるものか。何と云われたってかまわずドシドシ溜れば、それでいいのだ。ああそれでいいのだとも……。
 どんな僅かの機会でも、決して見逃すことのない彼女は、幾分かの利益が得られそうだとなると、どんな手段でも策略でも遠慮会釈なくめぐらして、どうにでもしまいには勝つ。
 まるで思いがけないような難題を考えたり、云いがかりを作ることは、彼女の得意とするところであり、従って何よりの武器であった。それ等の思いつきを、彼女は日頃信心する妙法様の御霊験(おしめし)と云っていたのである。
 果樹園には、この土地で育ち得るすべての種類の果樹が栽培されていた。
 そして、収穫時が来ると、お初穂(はつ)をどれも一箇(ひとつ)ずつ、妙法様と御先祖にお供えした後は、皆売り出すのだから、今からの手入れは決して忽(ゆる)がせにはできない。
 雇人や作男などは、皆猫っかぶりの大嘘つきで、腹のうちでは何をたくらんでいるか、知れたものでないと思い込んでいる年寄りは、枝一本下すにも始めから終りまで自分の目の前でさせ、納屋へ木束を運ぶまで見届けなければ安心がならない。
 大汗になりながら、馳けまわって監督するのだが、体は悲しいことに一つほかない彼女が、今こっちに来ておればあっちの畑の作男共は、どうしても手を遊ばせたり、ついなまけてしまったりする。
 今朝も、鼻の頭に大粒な汗をびっしょりかいて、大忙がしに働いていながら、どういうわけかおばあさんの頭からは、どうしても禰宜様宮田のことが、離れない。
「妙な男だわえ……貧乏人の分際で……金……何にしろ遣ろうと云うのは金なんだから!」
 汗を拭き拭き年寄りは、
「おい重、お前あれを知ってるんだろう。
 ありゃあ一体どうした男なんだね」
などと訊いた。
「へ……


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2005年12月27日

そして、何となしホッとしながら、

けれどもどこまでもせっかく出したものを突返された者の不快を装いつつ、不機嫌そうに傍の手文庫を引きよせて、包みを入れると、ピーンと錠を下してしまった。
 隅々の糸がほつれている色も分らない古巾着(きんちゃく)を内懐から出して、鍵を入れると、
「一銭や二銭のお金じゃあなし、遣ろうと云えば、一生恩に被る人が、ウザウザいうほどあります。ただ湧いて来るお金じゃあなしね」
とつぶやきながら、うなだれている禰宜様宮田の胡麻塩の頭を眺めて、彼女は途方もない音を出して、吐月峯(はいふき)をたたいた。

        三

 海老屋の年寄りは、翌朝もいつもの通り広い果樹園へ出かけて行った。
 笠を被り、泥まびれでガワガワになったもんぺを穿いた彼女が、草鞋(わらじ)がけでたくさんな男達を指揮し出すのを見ると、近所の者は皆、
「あれまあ御覧よ、
 また海老屋の鬼婆さんが始まったよ」
と、あきれ返ったような調子で云う。
 自分が鬼婆鬼婆といわれているということも、その訳も彼女はちゃんと知っている。
 けれどもちっとも気にならない。それどころか却ってこそこそと鬼婆がどうしたこうしたと噂されるのを聞くと、今までに倍した元気が湧いて来るのである。
 どんな悪口でも何でもつまりは、ねたみ半分に云うのだ。
 自分のことを眼の敵(かたき)にして、手の上げ下しにろくなことを云わない津村にしたところで、腹の中は見え透いている。今までこそ、呉服は津村に限るとまで云われて、町随一の老舗(しにせ)で通って来たものが、このごろではうち[#「うち」に傍点]にすっかり蹴落されて、目に見えて落ちて行く。その当人になってみれば、嘘にもお世辞にもよくは思えないのも無理はない。それがこわくて何ができよう。
 先だって三綱橋のお祝いのときにも、佐渡(さわたり)の御隠居があんなにわいわい云ったって、やはり寄附金が少なかったから、見たことか、ああやって私よりは下座へ据えられて、夜のお振舞いにだって呼ばれはしない。
 町会議員を息子に持っていると威張ったところで、いざというときにはどうせ、私の敵じゃあないわい。
 今の世じゃあ、金さえあればどんな無理も通せるというもの、現に佐渡り[#「佐渡り」はママ]の議員だって、買ったも同様の札で当ったのだというじゃあないか。


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2005年12月26日

いろいろな意味において

快く承知した年寄りは、負けてやる二俵分を現金に換算して禰宜様宮田に借用証文を作らせながら、ちょうど若い人がこれから出来ようとする気に入りの着物の模様、着て引き立った美くしい自分の姿及び驚きの目を見張るそんな着物を作られない者達のことごとを想像する通りに、そわそわと弾力のある心持で順々に実現されて来る計画に心酔したようになっていたのであった。
 それから三年の間、膏汗(あぶらあせ)を搾るようにして続けた禰宜様宮田の努力に対して、報われたものはただ徒に嵩(かさ)んで行く借金ばかりであった。
 今年こそはとたくさんの肥料を与えれば、期待した半分の収穫もなくて、町の肥料問屋へも、海老屋へも、どうしようもなくて願った借金が殖えて行く。
 今までは、貧しくこそあれ一文の貸しもない代りに、また借りもなく、家内中の者が家内中の手で暮していられた彼等の生活には、絶えずジリジリと生身に喰いこんで来る重い重い枷(かせ)が掛けられた。
 どうにかしてはずしたい。
 何とかして元の身軽さに戻りたい。
 一生懸命にもがけばもがくほど、枷はしっかりと食いこんで来るように、僅かの機会でも利用して借金も軽め生活も楽にさせたいとあせればあせるほど、経済は四離滅裂になって来る。
 ガタガタになり始めた隅々から、貧しさは止度もなく流れこんで、哀れな小さい箱舟を、一寸二寸と、暗い、寒い、目のないものが棲んでいるどん底へと押し沈めかけていたのである。
 ところへ、五年目に起った大不作は彼等一族を、まったく困憊(こんぱい)の極まで追いつめてしまった。
 恐ろしい螟虫(ずいむし)の襲撃に会った上、水にまで反(そむ)かれた稲は、絶望された田の乾からびた泥の上に、一本一本と倒れて、やがては腐って行く。
 豊かな、喜びの秋が他の耕地耕地を訪れるとき、禰宜様宮田のところへは、何が来てくれたのか。
 息もつけない恐怖である。逼迫(ひっぱく)である。
 愚痴を並べ、苦情を云っていられるうちは、貧乏の部には入らないという、そのほんとの「空虚(からっぽ)」が来たのである。
 空虚な俺等(おら)……。
 蓄わえた穀物はなくなるのに、何を買う金もない。何で親子五人の命をつないで行ったらいいのだろう?
 そこへ、海老屋ではまたも難題を持ちかけて来た。
 一俵の米もよこされない。それじゃあすまないから、今まで貸してやっていた金を、暮まで待つから全部返済しろと云うのである。
 食うや食わずで、たださえ生きるか死ぬかの今、無断で一割の利まで加えた百円以上のものを、どうして返せるだろう。
 金で返せない? それなら仕方がない、土地を差押えるぞ!
 これが海老屋の年寄りの奥の手であった。
 最初からこうまでするように、彼女の妙法様はお指図下すったのである。
 現在海老屋の所有となっている広大な土地は、全部こういう風な詭計を用いて奪ったのだと云うことは、決して単にそねみ半分の悪口ばかりだとはいえない。


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私のようなものが、

お前にお礼を云うのさえ、ほんとなら有難すぎることなのだという口吻(こうふん)が、ありありと言葉の端々に現われているけれども、禰宜様宮田はちっとも不当な態度だと思わなかったのみならず、彼女がほのめかす通り、お礼などを云われるのはもったいないことだと思っていたのである。
 お前さまは海老屋の御隠居であらっしゃる。そんにはあ俺あこげえな百姓づれだ。そこにもう絶対的な或るもの――禰宜様宮田にとってはこの上ない畏怖となって感じられた、両者の位置の懸隔――を認めることに、馴されきっているのである。
 何を云われても、彼はただハイ、ハイとお辞儀ばかりをした。
 一通り云うだけのことを云うと、年寄りはもったいぶった様子で、仰々しい金包みを出した。
 麗々と水引までかかっている包みを見ながら、禰宜様宮田は、途方に暮れたような心持になりながら、ぎごちない言葉で辞退した。
「ほんにはあお有難うござりやすけんど……
 俺ら心にすみましねえから……」
 けれども年寄りの方では、喉から手が出そうに欲しくても、一度は「やってみる」遠慮だと思ったので、唇の先だけで、
「まあ御遠慮は無用だよ」
と云いながら、煙草を吸い込む度に目を細くしては彼の様子を見ていた。
 が、彼はどうしても納めようとしない。
 貰わない訳を彼は説明したかったのだ。けれども、何より肝腎の、
「俺の心にすまんねえもの」
を、云いとくに入用(いる)だけの言葉数さえ知らない上に、どういう訳だからどうなって俺の心に済まないのかと、いうことは、彼自身にさえよくは分っていない。
 ただ心に済まない気がする。後にも先にもそれだけなのである。けれども、その漠然とした「気持」が、どんなにしてもごまかせもせず、許せもしない強さで彼の心を支配しているのである。
 永い間ジーッと考えれば、云われないこともなかろうが、何にしろ、今こうやって年寄りが面と向って口元を見守っているときなどに、どうして平気でそんなことが考えていられよう。
 彼のいい魂は、すっかり恐縮してがんじょうな胸の奥にひそまり返っていたのである。
 幾度云っても聞かないのを見た年寄りは、内心に意外な感じと、先ず儲けものをしたという安心とを一どきに感じながら、たった一円の包みを眺めた。


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2005年12月25日

      四

その田地――禰宜様宮田が実に感謝すべき御褒美として、海老屋から押しつけられた――は、小高い丘と丘との間に狭苦しく挾みこまれて、日当りの悪い全くの荒地というほか、どこにも富饒な稲の床となり得るらしい形勢さえも認められないほどのところであった。
 破産までさせられて、自棄(やけ)になった彼の前の小作人が半ば復讐的に荒して行ったのだともいう、石っころだらけの、どこからどう水を引いたらいいのかも分らないように、孤立している田地を見たとき、禰宜様宮田は思わず溜息を洩した。
 いったいどこから手を付ければ、こんなにも瘠せきった原っぱのような田地を、少くとも人並みのものに出来るのだろう……。
 けれども、もうこうなっては否でも応でも収穫を得なければ大変になる。
 全く強制的に彼は朝起きるとから日が落ちるまで、土龍(もぐら)のように働かなければならなかったのである。
 禰宜様宮田は、ほんとに体の骨が曲ってしまうほど耕しもし、血の出るような工面をして、たくさんの肥料もかけてみた。寸刻の緩みもなく、この上ない努力をしつづける彼の心に対しても、よくあるべきはずの結果は、時はずれの長雨でめちゃめちゃにされた。
 稲の大半は青立ちになってしまったのである。
 どうしても負けてもらわなければ仕方がなくなった禰宜様宮田は、年貢納めの数日前、全く冷汗をかきながら海老屋へ出かけて行く決心をした。
 小作をして、おきまり通りちゃんちゃん納められるものが、十人の中で幾人いる、何も恥かしいことじゃあない、平気でごぜ、平気でごぜ。尋常なこったと云っていられるお石の心持を半ば驚きながら、彼はいろいろと云い訳の言葉などを考えた。
 あの年寄がこんなことを願いに行ったときいたばかりで、何と云うかと思っただけでさえ、足の竦(すく)むような気のする彼は、せめてものお詫びのしるしにと、新らしい冬菜(とうな)をたくさん車にのせて、おずおずと出かけて行ったのである。
 台所の土間に土下座をするようにして、顔もあげ得ずまごつきながら、四俵のはずのところを二俵で勘弁してくれと云う禰宜様宮田を、上の板の間に蹲踞(しゃが)んで見下していた年寄りは、思わず、
「フム、フム」
とおかしな音をたてて鼻を鳴らしたほど、いい御機嫌であった。
 いくら平気でいるように見せかけても、あらそわれない微笑が、ともすれば口元に渦巻いて、心が若い娘のようにはねまわった。
 彼女の計画はこうなって来なければならないのだ。
 こうなると、ああなって、そういう風にさえなると……。


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2005年12月24日

調べられるとき

酷(ひど)い目にでも合わされて、苦しまぎれに夢中でそうだとでも云ったら、どうすればいいのか。
 訴え、恐ろしい訴え――それも自分の方には何の強みもなさそうに思われた訴え――が、すぐ目前に迫っていることを思った禰宜様宮田は、もう何をどう考えることも出来ないほどの混乱を感じた。
 体中で震えながら、冷汗を掻いている彼を見ながら、番頭は口の先でまだヘラヘラと喋り続けた。
「考えて御覧な。
 片方は何といっても海老屋の御隠居、片方は失礼ながらお前さん達。
 そうじゃあない違いますと云ったところで、世間様じゃあどっちがほんとだと思うんだね。
 誰が聞いたって、御隠居を疑ぐる訳にゃあいかない。政府のお役人様だって、お前さんと、御隠居じゃあちいっとの手心あ違おうともいうもんだ。
 だから、下らない意地は捨てる方が得、ね、ウンと承知すりゃあ、万事万端めでたしめでたしで納まろうってもんだ。
 え! 承知しなさい、その方が得だよ」
 激しい強迫観念に襲われて、あらゆる理性を失ってしまった禰宜様宮田は番頭の言葉を聞き分けることさえ出来ないようになった。
 まして、それ等のうちに含まれている弱点などを考えることなどは出来得ようもない。
 彼はただ恐ろしい。身にかかる疑いが恐ろしい。
 思想の断片が、気違いのように頭のうちじゅう走(か)けまわる……。
 大きな眼にうっすら涙を浮べて、口を開き暫く呆然としていた彼は、やがてちょっと目を瞑(つぶ)るとほとんど聞きとれないほどのつぶやきで、
「……俺ら……俺らすんだら……」
と、云うや否や押しかぶせるように、
「何? 承知する?
 ああそれでようよう埒が明くというもんだ、さあ、そんならこれにちょっと印を貰いましょうか」
 番頭は、包みのうちから何か印刷したものを出して、禰宜様宮田の前に置いた。
 取り上げては見たが、どうしても読めない。
 字の画が散り散りばらばらになって意味をなさないのを、番頭に助けられながらそれが小作証書であるのを知ったときには、もう一層の絶望が彼の心を打った。
 が、もう何ということもない。
 二度も三度も間違えながら筆の先をつかえさせて名前を書き入れると、彼は黙々として印を押した。



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そげえなとこさえぐでねえぞ。

血もんもが出来てああいていてになんぞ、な。
 こっちゃて、ほうら見、とっとがまんま食ってんぞ、おうめえうめえてな……」
 麦粉菓子の薄いような香いが、乾いて行く※の根から静かにあたりに漂っていた。
 すると、昼過ぎになって、突然海老屋の番頭だという男が訪ねて来た。
 昨日のお礼を云いたいから、店まで一緒に来てくれと云うのである。
 いろいろ言葉に綾をつけながら、わざと早口に、ぞんざいな物云いをする番頭は、彼の妙にピカピカする黒足袋を珍らしがって※共が首を延すたんびに、さも気味悪そうに下駄をバタバタやっては追い立てる。
 ※がはあおっかねえとは……
 心の内でびっくりしながら、まき[#「まき」に傍点]やさだ[#「さだ」に傍点]は番頭が厭な顔をするのも平気で、真正面に突っ立ったまま、不遠慮にその顎のとがった顔を見守っている。
 禰宜様宮田は行きたくなかった。
 そんな立派な家へ、何も知らない自分が出かけて行くのは気も引けたし、何かやるやると云われるのにも当惑した。
「俺らほんにはあお使えいただいただけで、結構でござりやす……
 何(なん)もそげえに……
 そんに決して俺らの力ばっかじゃあござりましねえから……」
 彼は下さる物は、自分のような貧乏人にとって不用(いら)ないはずはないことは知っている。
 けれども……何だか品物などでお礼をされるには及ばないほどの満足が彼の心にはあったのである。
 そして物なんか貰ってさも俺の手柄だぞという顔は、とうてい出来ない何かが彼の頭を去らなかった。
 番頭に蹴飛ばされそうになる雛どもを、ソーッと彼方へやりながら、禰宜様は幾度も幾度も辞退した。
 が、番頭はきかない。
 とうとう喋りまかされた禰宜様宮田は、海老屋まで出かけることになった。
 店の繁盛なことや、暮しのいいことなどを、しまいに唇の角から唾を飛ばせながら喋る番頭の傍について、在(ざい)の者のしきたり通り太い毛繻子の洋傘をかついだ禰宜様は、小股にポクポクとついて行ったのである。
 海老屋では、家事を万事とりしきってしているという年寄り――五十四五になっている先代の未亡人――が会った。
 金庫だの箪笥だのを、ズラリと嵌(は)め込みにした壁際に、帳面だの算盤だのをたくさん積み重ねた大机を引きつけて、男のような、といっても普通の男よりもっとバサバサした顔や声を持ったおばあさんが、ムンズという形容がおかしいほど適した形をして座っているのを見ると、あれでもおばあさんだそうなという感じが、一層禰宜様宮田の心をまごつかせた。
「はあ、お前さんが宮田とお云いか……」
 丁寧に頭を下げた彼の挨拶に答えた、彼女の最初の、太いかすれた声を聞いた瞬間から、もうすっかり彼の心は、受身になってしまって、いつもの「俺」の逃げて行き方が、もっと早く、もっとひどく行われたのである。年寄りはあんな大男の息子を助けた男というだけで、もっとずーッと体も心もがっしりした元気な男を期待していたところへ現われた彼は、余りすべてにおいて思いがけない。
 おばあさんは、何だか滑稽なような、お礼を云うのも馬鹿らしいような気持になってしまった。
 そして、臆している彼の前にこの上ない優越感を抱きながら、お礼を云うのか命令しているのか、さほどの区別をつけられないような口調で息子の救われた感謝の意を述べた。


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2005年12月23日

よくもよくもそげえな法体(ほでえ)もねえことを吐かしてけつかる!

 何ぼうはあ」
 真青な顔をして、あの黒子(ほくろ)を震わせていた禰宜様宮田は、気を兼ねるように、猛り立つお石の袂を引っぱった。が彼女はもう止められないほど気が立っている。
 邪慳(じゃけん)に彼の手を払いのけるとまた一にじり膝行(いざ)り出て、
「何ぼう、はあ金持だあ、海老屋の婆さまだあと、偉れえことうほぜえても、容赦なんかしるもんけ!
 祈り殺してくれっから、ほんに、
 俺らほんにごせぇひれる!」
と一息に怒鳴ると、発作的に泣き始めた。
 禰宜様宮田は、すっかりまごついた。当惑した。
 云わなければならないことがたくさん喉元まで込み上げて来ている。
 けれども、どうしても言葉にまとまらない。何とか云わなければならないと思う心が強くなればなるほど、彼の舌が強(こわ)ばって、口の奥に堅くなってしまう。
 彼は徒(いたずら)に手拭を握った両手を動かしながら、訴えるような眼をあげて油を今注いだ車輪のようによく廻る番頭の口元を眺めた。
「まあまあそんなにお怒んなさんな、
 御隠居だって、無理もないんだ。ああやってせっかく気を揉(も)んで使をよこすと、片っ端からいらないいらないじゃあ、誰にしろいい心持あしないもんです。
 あんまり勝手がすぎると、ついそこまで考えるのも、年寄りにゃあ有勝ちのこった。ねえ。
 せっかくこちらも、こうやって決してそんな気はなくているものを、御隠居にそうとられるというなあ、全くのところ損どころの話じゃあない。察しまさあ、だから今度あおとなしく御隠居の志を通しなさい、ね、そうすりゃあ決して悪いこたあない」
 最後の「御褒美」として、今明いている十三俵上りの田を十俵に就き三俵で貸そう。これまで云って聞かなければどうしても、御隠居の疑いを事実と認めるほかないと云うのである。
 あんまりひどい!
 あんまり云いがかりも過ぎている。こんな難題がどこにあろう。
 禰宜様宮田は、何か一言二言云おうとして口を開いた。が、あせる唇の上で言葉になるはずの音が切れ切れに吃るばかりで、ようよう順序立てて云おうとしたことは忽ち、めちゃめちゃに乱れてしまう。
 彼はますます深くうなだれるほかなかった。
「例え嘘にしろ何にしろ、あの御隠居が、そうと思いこんだといったら、決してただじゃあすまさない方だ。ことによれば訴えなさるまいもんでもない。
 疑いをかけられるくらい、人間恐ろしいものはないからね。
 すっかり身の証(あかし)も立てて、御隠居の考えも通させた方が、どう考えても得策だね」
 訴え! 訴え!![#「!!」は横1文字、1-8-75] 哀れな夫婦の耳元で、訴えの一言が雷のように鳴り響いた。
 無智な農民の心を支配している法律に関するこの上ない恐怖が、彼等の頭を掻き乱したのである。
 道理の有無に関らず、彼等を一竦みに縮み上らせるのは、訴えてやるぞという言葉である。
 まるで証拠のないことを、若し若旦那が、ええ誰かが後から突落したのを知っていますとでも云えば、いったい俺等は何で、そうでないという明しを立てるのだ。


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2005年12月22日

辞退はされるが

どうか何なり欲しいものを云ってくれという使の趣を話されたとき、顔が熱くなるほど嬉しかったお石は、相手をこう出させるために、とっさんはあのとき断って来たに違いないと思った。
 若しそうだとすれば、俺ら何のために怒ったろう? ひそかに心のうちではにかみ笑いをしながら、彼女は今度もまた謝絶している禰宜様宮田を珍らしく穏やかな眼差しで眺めていた。
 彼は相変らずのろい、丁寧な言葉で断わると、うるさいものと諦めていた番頭は思いがけず、じきに納得して帰ってくれた。
 禰宜様宮田は、すぐ帰ってもらったことに満足し、お石は何はともあれ来てくれたことに満足して、家中には久しぶりで平和が戻って来たのであった。
 けれども、使は三日にあげずよこされる。そして、ことわられては素直に帰って行く。
「またおきまり通りでございます……」
 番頭がそう云って隠居の部屋へ挨拶に行く毎に、海老屋の年寄りは会心の笑(えみ)を洩していたのである。
 まったくおきまり通りになって来るわえ……。
 年寄りの心には、ちょうど藪かげに隠れて、落しにかかる獣を待っている通りな愉快さが一杯になっているのである。
 何にも知らない獲物は、平気で頓間(とんま)な顔付きをしながら、ノソノソ、ノソノソとだんだん落しに近づいて来る……。
 そのとき猟人の胸に満ちる、緊張した原始的な嬉しさが、そのまま今年寄りに活気を与えて、何だか絶えずそわそわしている彼女は、きっとこういうときほか出ないものになっている無駄口をきいたり、下らないことに大笑いをして、
「ヘッ、馬鹿野郎が!」
などとつぶやく。
 その馬鹿野郎というのは、決して憎しみや、侮蔑から作男共に向って云われたのではない。
 これからそろそろと御意なりに落しにかかろうとする獲物に対する非常に粗野な残酷な愛情に似た一種の感情の発露なのである。
 年寄りは、着々成功しかかる自分の計画の巧さに、我ながら勢(きおい)立ってますます元気よく朝から晩まで、馳けずりまわって働いていたのである。
 三度まで無駄足を踏ませられても、怒る様子もないばかりか、使をよこすのを止めようともしない……。
 さすがの禰宜様宮田も、またさすがのお石も、少し妙な気がした。
 いったいまあどうしたことじゃい!
 漠然とした疑惑が起らないではなかったが、禰宜様宮田は、そういう心持を自分で自分の心に恥じていた。
 どこに、自分等の大切な家族の一員の命を救ってくれたものに対して、悪い返報をするもの、また出来るものがいるだろう。
 浅間しい疑を抱く自分を彼はひそかに赤面しながら、どこまでも、親切ずくのこととして信じようとしていたのである。
 けれども、四度目に来たとき、海老屋の番頭はもう断わられて帰るような、そんななまやさしいものではなくなった。
 彼はほんとの用向――年寄りの計画の第一部――を持って現われたのである。
 今までとは打って変って高圧的な口調で、番頭は先ず隠居が大変立腹していること。こんなに手を換え、品をかえて何か遣ろうとするのにきかないのは、何か思惑があるのじゃあないか、一旦自分で突落した若旦那をまた自分で助けて来でもして、こちらで上げようとしているものより何かほかのものに望みを置いているのじゃあないかと思っていなさると、云った。
 それを聞いて、真先に怒鳴り出したのはお石である。
 憤りでブルブルと声を震わせ、吃(ども)りながら、番頭の前へずり出して噛みつくように叫んだ。
「云う事うにもことう欠(け)えて、まあ何(あ)んたらことう吐(こ)くだ!
 何ぼうはあ貧乏してても、もとあ歴(れっき)として禰宜様の家柄でからに、人に後指一本差さっちゃことのねえとっさん捕(つか)めえてよくもよくも……


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