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ご無沙汰しております。夫婦二人三脚で農作業をしたり、どちらかが出勤の時は、どちらかが農作業の日々。

人口減少時代の新たな農村政策と土地利用を進めようと、農林水産省は4日、2つの有識者検討会の中間とりまとめを公表。
新型コロナウイルス感染拡大により都市部よりも「低密度」な農村への関心が高まる中、移住者らが農業を含む複数の仕事をする「半農半X(エックス)」「マルチワーク(複業)」といった多様な働き方への支援や、中山間地などで増える耕作放棄地について、長期的には農地として維持することが難しくなる場合にまで踏み込んだ管理のあり方を提言した。(産経新聞 一部抜粋)

・・・だそうだ。
難しいことはさておき、
農業や酪農というと、どうしても実家方面のイメージが強く、小学生の頃、同級生に教わって農協に口座を作って、定期預金にしたい。金利が良いからと言ったら、父からロクでもない!金利が良いと言うことは、どういうことなのかわかってるのか!ロクな大人にならん!と激怒され

私が十勝を離れた後、幼なじみ一家が夜逃げして一家離散になったとか。父の親しい友人が、突然姿をくらまして、連帯責任を負うことになって父が疑われて、一時期集落全体が疑心暗鬼になって総スカンを食らったとか。とても景色は良いけれど、北の国からの世界は美化されていると思うほど、嫌な記憶しかない。保育園の時は農家と酪農家の子が通う、へき地の季節保育所だから、人数も少なくて、農作業のない11月から3月までがお休みで、おおらか。運動会も学芸会も隣にあった複式学級の小学校と合同で、地域のお祭りも同じ日にあり、地域全体で盛り上がった。とても楽しかったけれど、子供が感じる楽しさと大人が感じる苦しみが大きく違っていて。大人になってから、とても複雑な気持ちになった。
 母が堅実だったからこそ、何とか乗り切れたのだろうけれど、金銭もメンタルも浮き沈みが激しい経営だった。首の皮一枚でつながったのが趣味の競走馬の生産だとか。小豆農家は先物取引だから博打だと、私が子供の頃からよく言っていたが、父の経営もそんなことを言える立場になかった。普通の穏やかな家庭とは縁遠く、父が脱サラして好きで始めたことだから、好きにして欲しいと子供の頃からずっと思っていた。

で、広島の瀬戸内海の島から移住して、こんな寒いのやってられん!還暦になったら辞めてやる!が、65歳まで続けよう。それが70で辞める。キリがいいからな。75歳になったら絶対に辞める。母さんとの人生もあるからな。絶対も何事もなく日常の一部として通り過ぎた後、上行結腸癌になり、手術をして一命を取り留めた後、入院中、家業をみてくれたのは80過ぎた近所の馬喰さんだったと。ああいうのが良い。あんな風になりたいと言い出した。

父は若い頃から割と神経質で、せっかちなところがあり、仕事が任せられない性分で、人に任せるより自分がやった方が速い。俺が言っても理解出来ん。言っても無駄だが口癖。その父が任せたんだから、すごく良い人なのだろうと思う。文句を言いながら「仕方ないのよ。」と言いながら付き合う母も母なのだが、どうして続けているんだろう。規模も規模だから、引くに引けないのかなとずっと思っていた。今までの親の生き方を見ていたら仕方がないけれど、どことなく憂鬱な気分になる。なぜなら、私には私の人生があるからだ。

色んな方とつながりを持ち、地域の方や訪れた方々に野菜を買っていただき、このコロナ禍の中、夫も畑を見ると活き活きしている。通勤に片道2時間以上かかるが、駅まで迎えに行けば義実家に直行。スマホのライトを当てながら畑や苗を見ていて目が活き活きしている。ありがたい話だと思うし、感謝している。きっと実家の親も、
色んな方とのつながりを大切に思うからこそ、続けているのだろうなと思うようになった。私には北の国からをこえる壮絶な気候と(保育園児の頃、外出からの帰り道。車ごと吹雪に飲まれて一家全員死にかけた経験もありましたが。)嫌な話しか耳にしなかったが、夫婦で長く暮らしているぐらいだから、私の知らないところで、きっと良いこともあるのだろう。義父と義母は昭和の古き良き両親だったと改めて思う。お会いしたことのない義祖父は、発想がユニークな農業の達人と夫の話題になる。いずれも忙しくない農作業をしているときに、ふと話したり思うことだ。

今日のなつかしの1曲。たまには日本語の曲を。懸命にマラソンに挑戦していた頃の思い出の曲。



久しぶりに走ったフルマラソン。長野マラソンのスタートでかかった曲。