2005年04月28日

生きる

久々に、新しい項目をあげます。「生きる」です。

このタイトルに至りつくまで、うねるような思いの中、特に強いモチベーションが2つあり、それを紹介することで提示に代えさせていただきます。

1つは、そしてこれが主な動機なのですが、ややカッコつけた言い回しながら、現代という「時代」に対して何か言いたい、あるいは共振したいという、一種切羽詰ったような衝動です。

かつて(といってもほんの数ヶ月前まで)は、時代の流れに振り回されず、確固とした基盤に立ってものが見られるようになろうと努力していました。あえて悪く形容するならば、時代に対しては意図的・積極的に「傍観者」でいようとしていたということになるでしょうか。

それが、突然、時代そのものの真っ只中に立って「いる」自分に気づかされたのです。私「が」時代に飛び込んだというよりも、変な話ながら、いきなり時代の方が私「に」飛び込んできたような感覚でした。

そして、そうであってなおうろたえていない自分がいるのです。私が立派でしっかりしているからおろおろせずにすむ、といった出来事とはまったく異なり、むしろ正反対なのですが、それを表現することがきっとだれかの救いになる。

ネット上で「おしょう@山寺」を名乗っていると、けっこういろんな方から悩み事の相談を持ちかけられます。また、直接知った方で、叶うならば力になりたい人もいる。

私の方の切り札は、実は「死」です。なのですが、やはりこれは伝わりにくい。私自身まだおずおずと表現しているのも事実ながら、感触として、これは伝わるとしても最初から浄土真宗ないし仏教、あるいは最大限広く言っても宗教的(?)な関心の「内側」にいる人にしか届かないな、と感じています。

もっと素朴にフツーの人にも語り掛けられ届けられる語彙・文体・口調を開拓したい。というより、そのような(私にとって新しい)コトバを待っている思いが、私自身の内で渦を巻き、私を衝き動かしてくる。

2つ目は、内容・出来事としては上と同じことの、私個人にとっての響き具合です。

ここ最近、気持ちの振幅がものすごく大きくなっていて、誇張した表現をするならば、以前の自分だったらこれは余裕で発狂しているなと思います。逆に言えば、自分自身で自分に箍(たが)をかける必要がなくなって、つまり根っこのところである安定が保証されたために、これまで無意識にブレーキをかけていたところにまで心の動きが拡がったのだろうという気がするのですが。

今なら、冷酷にもなれる。

上の2つは今の思いの「整理」などではなくて、これまでの語彙で言語化できるくらいに強くはっきりとした2点というに過ぎません。これらを取りまいて、コトバを待っている思いたちが飛びまわりぶつかりあいきしみ合っている。

こいつらを、何とかしてやりたいのです。別になだめようという気などはなくて、無様に「生きて」いる姿をうまく提示できるならば、それをきっかけに生きられるようになる人もあるに違いない。そんなところでしょうか。

私は、ある日、「私は地獄を語らなければならぬ」という(ソクラテス流に言えば)デーモンの声を聞いて今の生活を始めました。その時直観したほどには、地獄ってぇなぁ大したことない。何せ一切衆生、みんなそこで「生きて」いるのですから。いのちとはすごいものだと思います。

ただ、最後に一つ憤っておくならば、たとえば「自殺(主体的な死?)」を選ぶことで地獄から抜け出せるかのように勘違いしている人がいることは許せません。

2005年01月24日

リアル

(前回の話題提起から、もう2ヶ月以上になるんですね。ちょっとの中断のつもりが、恐ろしいものです。)

待っていても話が勝手に進んではくれませんので、私自身動き出すためにも、新しい項目をあげます。「リアル」です。

「リアル」だけではぶっきらぼうなのですが、かえってそこに糸口がありそうな気はしています。「リアルとはどういうことか」「リアルに感じるのはどんなときか」といったリアリティに近いところから、「リアルとは何か」という実在論的なところまでカバーできそうで。

実際、ぽんとリアルだけを投げ出した表現は私のものではなくて、是非こちらにも招待したい友人の発言がきっかけです。そのときかなりはっとしたのですが、結局まだそこからまったく動いていません。

また、クオリアの茂木健一郎さん(→The Qualia Cafe)にもヒントをいただきました。曰く、

>「鼻がつんとする」感じでしょうか。

ちょっと思いがけなかった切り口で、やはりはっとさせられつつも、実はそれ以上の展開ができずにいます。

私個人は、リアルをもっと静かなものととらえたがっているような気がします。(この時点でかなり実在論的?)

尻切れトンボで宙に浮いている前回の「死」とも、できればつなげていきたい(どこかでつながるはず)という思いがあるのですが、現時点ではとにかく声をあげたというのが精一杯ですね。

ご協力、お願いします。とりあえずここは問題提起まで。

2004年11月07日

しばらくお休みをいただいていました。そろそろ次をと思いつつ、実は「問い方」が絞り込めていません。

しかし、絞り込んで論点(議論したい点)をはっきりさせようとすればするほど、本当に意見交換をしてみたいところとずれてしまうのです。

ということで、一切限定を加えずに投げ出してみることにしました。流れができてきたら、(これまでのように)必要に応じて主題の掲げ直しをするつもりではいます。ですから、あまりにも漠然とした提示ですが、それだけに何でもありと想っていただいて結構です。

今回はテーマがテーマですので、一応、最低限のルール(?)を決めておこうと思います。決して、人の意見を「否定」しないこと。これだけです。

というところで、話の「きっかけ」作りに、私は、死がそんなに怖くないというか、「どうしてみんなそんなに大騒ぎをするの?」とでもいった方が近いような受け止め方をしていて、まず「一般的な(?)」感覚を追体験してみないことには下手に発言できないかなあと思っています。

私も、「痛い」のは怖いというか、嫌です。(そうは言いつつ、虫刺され(蜂・ムカデ)や切り傷などは慣れているためそれほどでもないのですが。)しかし、死と痛みを混同するのはどこかが混線している気がします。

「自己」の消失観(?)のようなものもあまり感じません。自己が存続するという意味ではなくて、逆に、おそらく「自己」そのものにあまり重きを置いていないせいだろうと思っています。(すぐにボロが出るかもしれません。)

家族、あるいは実の子の「死」も、(ここはあえて問題提起を意識しているからではあるとしても)、受け入れられます。何というか、「つながっている」という感覚は疑いようのないリアルなものとしてあるので。

そのように考えていくと、今の私が一番「もろい」のは、実は見ず知らずの他者の死を(私の方から一方的に)リアルに感じて・予想してしまったときです。

私が現時点で予想している私自身の基本スタンスは、「死は至って当たり前の(≒自然な、身近な)ことである、それをおびえ(?)の対象にしてしまっているところに何か変なものがありそうだ、それをほぐしてしまったら事はさほど大げさなものではないのではないはずだ、といったところでしょうか。

とりあえず、一旦これで「提示」とさせていただきます。万一どなたからも発言がないようであれば、今は具体的には出していない(出し惜しみをしているわけではないのですが)私の考えをポツポツとたどってみようと思っています。

2004年10月13日

言語的自己

(この項目は、経緯からすれば下の「歴史 vs いのち」の続編です。しかし発言にあたっての「気持ちの広がりよう」を大きく変えているので、かえって独立して読んでいただいた方が受け入れやすいかもしれません。)

さて、仕切り直しの再出発として「言語的自己」を提示します。ただ、単にテーマを絞り込んだにとどまらず、何ができるかできないか(言葉をどこに届けたいのか・どう響かせたいのか)にまで立ち帰って、ばっさりと気持ちの整理をしました。まずそこから話します。

何より、ことばが本来「共有され得る・されるべき」ものだという思いを離れます。多少美化して形容するならば、ことばが「生れる」ところから離れずに、むしろことばそのものになってやれと開き直ります。

主観的−客観的、あるいは内−外という区別自体を考えていません。上の〈ことば〉は、ですから自立した概念語でも私の内的想念でもなく、むしろ私の提示をきっかけに「参加」いただいた方すべてを包む「できごと」に近づけていこうとしているのです。

以後この項目は、うまく動き出すならば(私の、ではなく)方丈という「場」の独り芝居になるはずです。

(本当はつけたくない補足説明なのですが、上は「オーナーである私がそのような感性で動かしていく」という態度表明を超えず、そのようなことに関わりなく自由に発言いただいてかまいません。以後私にとって、「理解できるかできないか」というのは意味をなさなくて、何がしかの「感応」のようなものがたどれるかどうかのみが問題になります。)

前置きが長くなりました。いよいよ「言語的自己」です。

「言語」の特徴というかここでの意義を、次の2点で押さえます。
1.言語は「構造(あるいは階層)」を生む。
2.言語は新しい地平を拓く。

1.について、たとえば犬は何かを指差して示しても、指を見るだけで「指し示されているもの」に気を向けることはありません。「手話を使う」と言われるチンパンジーでも、ほとんどでたらめな語彙(言葉・シンボル)の羅列をしているだけで、文法を理解しているわけではありません。

あるいは、近頃の電化製品の多くについている「スイッチ」は、昔のガチャンと押すラジカセのボタンやカチャカチャ回すテレビのチャンネルのような「機械的機構」ではなくて単なる「信号発生装置」です。その信号をどう解釈し実現するかは見えなくなっている。このように「間を切り離している」のが言語で、切り離されていることによって階層が分れ、階層間の関連づけによって構造が生れます。

なお、これは逆にとらえることもできます。つまり、「宇宙にはそもそも構造があり、それを反映したのが言語である」と。

続いて2.は、ひとたび言語が登場したとき、言語によって記述された「世界」はそれ自体自律したものとして現れる、ということです。

言語は私たち人間にとってあまりにも身近であるため(ほとんど「人間」という形態での存在そのものと言えるときもある)かえって考えにくいところがありますが、私たちが見、考えている「世界」は、実は言いようによっては宙に浮いた、他に根拠づけて支えることのできないようなものなのです。

仮に「言語以前」の原世界をイメージするとして、その原世界が動いている(あるいは動いていない)様と、私たちが見、意味づけている世界の私たちに対する表れとは別物です。

たとえば「時間」という考え方(私たちに現れている世界を解釈する上で重要な軸の一つ)を上の話に重ね、しかも原世界の姿の方をより「本物」のように解釈するとすれば、私たちが依存している時間(言語的時間と呼んでおきましょう)はすっきりときれいに現れたものということになります。

不十分ながら以上で「言語」の描写をしたとして、今回私が提示したいのは、いわゆる「自己」とは、この言語によって新たに拓かれた地平において成り立つものだということで、それを「言語的自己」と呼ぶわけです。

言語的自己の根っこは、「同一性」にあります。そこまで掘り下げるならば、(言語的)自己が「同じ、この私」と立ち上がるのと言語そのものの自律とは同時というか「同じ出来事」です。

この言語的自己の身分をどう見るか。それが今回の提示の主旨です。私個人は、言語的自己において隠されてしまっているものがどうしても気になる。

そんなところで提示にさせてもらいましょう。

2004年10月05日

歴史 vs いのち

よくよく反省してみるに、私は「歴史」というものがよくわかっていないような気がします。それを考えてみたくて、今回は「話を振る」のが主旨の提示です。

タイトルは「時間」としてもよかったのですが、少し輪郭がぼやけてしまいそうで「歴史」を表に出しました。歴史というとき、実は主にキリスト教における時間軸を想定しています。ただ、ひょっとしたら「神話」とも響いてくるかなという思いもあります。

「山寺」で掲示板「茶室」を開いたのは、森岡正博氏の『無痛文明論』をめぐる氏主宰の掲示板での行きすぎた(?)議論がきっかけでした。現在、私は森岡生命学と距離をとっているのですが、その理由を

>あえて言語化すれば、「個人」が表に出すぎて「私」が見失われている、とでも言えそうな感覚に基づきます。…ここでの「個人」は言語的・時代的な定位(要するに、近世合理主義世界の産物)で、対する「私」は生で対象化することのできない(迷いの)現実です。「私」が「個人」へ囲い込まれたとき、光の届きにくいもろもろは「なきもの」とされ、同時に他の個人との等価性が付与されてある均質なシステムの中に据えられる。…

と形容したところ、けいさんより

>「等価性、均質なシステムに据えられる」という状態を私はまったく逆の状態でそう感じていました。つまり、歴史性(言語的、時代的)に定位された「個人」を、対象化することのできない「私」が中和化、相殺されることを避けるための軸と考えていたのです。迷いの現実である「私」がのっぺらぼうにならないために。

というレスがありました。これはかなり衝撃で、意図してではなかったとしても、私が悪意に近い限定を加えた歴史感覚を持っていたと知らされたのです。

ということで、今回は私がけいさんはじめ各氏の「時間(歴史〜神話)」観をうかがいたい。それに、仮に歴史に反するものと定位した「いのち」の側から反論ないしコメントをつける、ということでいかがでしょうか。

なお、経緯の紹介のために出しましたが、私としては森岡正博氏とは離れて発想します。また、下の「魔」で考えの進んだ「自己」や「私」も一旦巻き戻して、上の二つの引用をスタートラインにしたいと思います。

さらに、葉っぱ64さんのブログで紹介されていた『時間は実在するのか』を私もまだ読んでいません。現時点ではそれを前提とさせていただきます。(読まねばと思っていた本なので、途中で読んでしまうかもしれませんが。)

念のために、上は「私自身にとっての」たがにすぎません。皆さんはどのような立場から発言いただいても結構です。ただし、議論が拡散してしまわないよう、最低限の交通整理はさせていただくつもりですので、その際には悪しからずご了承ください。

2004年10月02日

「内なる『魔』から、いかに解放されるか。」

このような問題提起をあるブログ(無痛文明の住人さんの Meditationes)で見かけ、これまであまり表に出さずにいた部分が刺激されて、思わずいささかルールを逸脱した発言をしてしまいました。(詳細は、上記ブログの 2004-09-27 〜 09-28 のコメントをご参照ください。再録は省略します。)

私の論点は、

1.魔から「解放」されよう(され得る)などという姿勢そのものが至って近世合理主義的で、すでに現在私たちが直面している問題に届き得ない。
2.大きな<いのち(今は天下り的に導入し、必要に応じて説明を加えます)>にとって、魔(と現れる)側面も不可欠な一側面である。
3.魔を「悪しきもの」として排除する背景には、論理の一人立ちという近世合理主義世界のバックボーンをなす思想がある。(そして、この思想は「一神教」の伝統の内にあると考えられる。)
4.「個人」をほとんど無前提の「善きもの」に据えるのは上記3を意識化し得ない浅い知性であって、上記2に照らして吟味し直す必要がある。

とまとめられます。

(ただし、4については疑義も提示されています。)

私は、魔を嫌いそれを乗り越えていこう(=魔をなきものにしよう)という方向性そのものに疑問を抱いており、むしろ魔の存在を積極的に認め、より大きな意味世界の中に位置づけ直すことが必要だと考えています。現在のテロの問題も、魔を嫌うスタンスをとる限り原理的に「あってはならないもの、あり得ないもの」となってしまい、問題としてすくいとることさえできない。

もっとも、「より大きな意味世界」を持ち出した時点で、その全体像を私たち人間の知性が「知り得ない」ということは確認しておく必要があります。それに対しては「信頼」するよりほかない。

ということは、具体的な「実践」の姿が定位しにくいということにもつながります。

しかしその上でなお、私は魔をも含む一切に信頼することを提言します。わかりやすく具体的な「実践」よりも、愚かな「万事おまかせ」を選ぶ。ただし、まかせる相手はアホな政治家や底の浅い思想家、節操知らずの世論など(要するに、時代)ではなくて、〈いのち〉そのものの、私たちの目には無目的と見える動きですが。

2004年10月01日

住み分け

住職の部屋、茶室、そしてここ方丈の住み分けを、私的には次のように考えています。

住職の部屋:それなりに熟成して最低限角を落とした考え。個人的には、法話の題材のストックの意味もあります。

茶室:日常雑感。文字通りの茶飲み話。

方丈:やや攻撃的な批判、問題発言。

ということで、方丈を「日記」のようには使わないつもりです。大雑把な構想としては、いきなり住職の部屋には上げにくいものをこちらで出し、いろいろ叩いていただいた上で、熟成できたならば住職の部屋に書き直すというような使い方(?)を考えています。

実は、よそ様のブログでややアクの強い発言をしてしまい、これはやっぱり自分のところでしないとまずいなあという気になって、急遽開設したような次第です。(その話題については、準備が整った時点で再提出します。)

現代批判、都市批判、バカな女性批判、情けない男性批判、教団組織批判、政治家批判、教育批判、そしてキリスト教批判等々、とにかく反論・批判の欲しいものをもう少し大胆に出してみようかと考えているのですが。

案外、途中で止めるかもしれません。そのくらいにお心得いただけると助かります。

衣更え

ちょうど衣更え、住職の部屋もちょっと装いを変えてみることにしました。ただ、完全な引越しではなく、住職の部屋自体は残すつもりです。ということでこちらは「方丈」に。 事実、私が通常根を生やしている部屋は 4.25 畳。(四畳半で、ドアが斜めについている。)まあ、方丈と呼んでそれほどの違いはなかろう。 やはり、アップした記事に直接コメントがいただけるというのは大きいと思います。宜しくお願いいたします。
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