2012年02月13日
God Of The Sun
大塚寛之 Hiroyuki Otsuka / Welcome Home(Word is Out)

いつだったか彼がギターを弾くと同時に木々が振動をこして風が吹いたことがありました。世界には気を集中させてエレクトリック・ギターと一体化してしまうサイケデリアがいます。ステージの大塚寛之は間違いなくそのうちの一人です。80'sハードコアの時代から活動をはじめ、伝説のジャムバンド、QUAを経て、渋さ知らズ、自身のグループ、Electric Rainbow Bandで自らストラトキャスターになってメキシコ、欧州と旅してきました。ソロ活動12年目にして初のファースト・アルバムは音楽の放浪生活をつづけて培ったエナジーを、大地と海と宇宙に解き放ち帰還させました。ウエルカム・ホーム。共鳴した音が部屋を満します。
http://wordisout.jp/wordisout/welcome_home.html
http://www.electricrainbowband.com/

いつだったか彼がギターを弾くと同時に木々が振動をこして風が吹いたことがありました。世界には気を集中させてエレクトリック・ギターと一体化してしまうサイケデリアがいます。ステージの大塚寛之は間違いなくそのうちの一人です。80'sハードコアの時代から活動をはじめ、伝説のジャムバンド、QUAを経て、渋さ知らズ、自身のグループ、Electric Rainbow Bandで自らストラトキャスターになってメキシコ、欧州と旅してきました。ソロ活動12年目にして初のファースト・アルバムは音楽の放浪生活をつづけて培ったエナジーを、大地と海と宇宙に解き放ち帰還させました。ウエルカム・ホーム。共鳴した音が部屋を満します。
http://wordisout.jp/wordisout/welcome_home.html
http://www.electricrainbowband.com/
2012年02月08日
HOW SWEET
2012年02月05日(日)@元住吉Powers 2
この日のDJ担当しました。ゲストに越野竜太。VJはOVERHEADS Meg。216さんありがとう。
次のPowers 2はCHINA CATS TRIPS BAND とMGOVAですよ。
mgova at Powers2 from Shinji Niimura on Vimeo.
この日のDJ担当しました。ゲストに越野竜太。VJはOVERHEADS Meg。216さんありがとう。
次のPowers 2はCHINA CATS TRIPS BAND とMGOVAですよ。
2012年02月04日
Nowhere Man
毎回素晴らしい音楽を自由に聴かせてくれて、アーカイヴを閲覧させてくれるNPR(公共放送)のTINY DESK。今回はギターリストのBill Frisell、最近出版したジョン・レノンのソングブックBill Frisell/All We Are Saying よりソロ演奏です。この映像はいろいろ仕掛けがあってうしろの棚とか見入ってしまいます。。
Tiny Desk Concerts →
2012年01月31日
★PSYCHEDELIC CIRCUS★

☆2012年2月に参加するライヴです☆
2012年02月05日(日)@元住吉POWERS2
★PSYCHEDELIC CIRCUS★
LIVE : Electric Rainbow Band、mgova、bocca
DJs : OSG、KEN爺
VJ : Meg(OVERHEADS)
OPEN/START 18:00/19:00
ADV/DOOR : ¥2000/¥2500
TICKET&INFO
元住吉POWERS2
TEL 044-455-0007
E-MAIL powers_two@ybb.ne.jp
HP http://www.powersbar.com/
〒211-0021川崎市中原区木月住吉町21-5
2012年01月30日
I'm Troubled
Jerry Garcia Acoustic Band / Almost Acoustic

今年2012年はガルシア生誕70年にあたる年です。去年が「ブルーグラス・ミュージックの父」ビル・モンロー生誕100年ということもあり、永らく廃盤となっていた1988年の作品、Jerry Garcia Acoustic Band / Almost Acousticが再出版されました。
『Almost Acoustic』は1987年の秋、ブロードウエイでJerry Garcia Acoustic Bandによるアクースティック・セットとJerry Garcia Bandによるエレクトリック・セットを昼夜計18公演をおこない、そのアクースティック・ショウを録音編集したアルバム作品です。ここではビル・モンローと彼のブルーグラス・ボーイズ(フラット&スクラッグス)らのブルー・グラス・ミュージックのスタイルを踏襲し、そして音楽的表現を得て消化した演奏を披露しています。ゴスペル、フォーク、ブルース、カウントリー、そしてガルシア自身(と、ロバート・ハンターと)の曲、『Ripple』まで聴くことができます。
ガルシアは1995年8月9日に心臓発作でなくなりましたが、それ以前に1986年に一度昏睡状態に陥ったことがあります。ボブ・ディラン & トム・ペティ & ザ・ハートブレイカーズとグレイトフル・デッドとのサマー・ツアーが始まったばかりの7月、ヘロインとコカインの併用による誤用によりオーヴァードーズで病院の集中治療室へと緊急搬送されたと云われています。一命は取り留めましたが、後遺症としてのこった一時的な意識障害(Coma)から順調に回復するため、旧きブルーグラス・ミュージックを演奏するのに付き合ったのが、Jerry Garcia Acoustic Band / Almost Acoustic でも一緒に演奏をしているディヴィッド・ネルソンとサンディー・ロスマンのふたりでした。
The Wild Wood Boys
1961年、19歳のジェリー・ガルシアがボブ(ロバート)・ハンターと出会ったことによって始まった音楽探究の旅は、新たなる流れにのっては広がり、われてはまた流れに乗り広がりを求めてくりかえします。フォーク/ブルース/ブルーグラス・ミュージックは当時の彼らにとって最もヒップな音楽であり、ガルシアはギターとバンジョーを演奏することに夢中になっていました。1962年の夏頃にグループの一員がィエール大学に帰ることになり、彼らが集っていた"Kepler's Book Store"で紹介されたDavid Nelson(ディヴィッド・ネルソン)との活動を開始し始めます。ネルソンはハイスクールを卒業したばかりくらいかの年齢でしたが、ギターは子供の頃から練習を積んでいました。ネルソンは後にグレイトフル・デッドのファミリーとなり、作品にも深くかかわるようになり、カウントリー・ロック・バンド、New Riders of the Purple Sage(ニュー・ライダーズ・オブ・ザ・パープル・セイジ)の中心的な存在として知られます。
ガルシアは様々な人々とつながり、音楽の演奏をおこない、カレッジ・ミュージックのコンサートなどに出演をして評判を得てきました。いくつかのバンドを組みますが、結局、The Wild Wood Boysがひとつの形になりました。The Wild Wood Boysはギターのディヴィッド・ネルソンとボブ・ハンター、そしてベース奏者のNorman Van Masstrichiが加わりクアルテットとして躍進します。
1963年に入って"The Tagent"というコーヒー・ハウスがスタンフォード近辺にできるとすぐにベイ・エリアのフォーク・シーンにとっての居場所となります。"The Tagent"はスタンフォード大学の病院の医師によって運営されました。そこで繰り広げられる演奏はスタンフォードの学生によって録音されて、カレッジ・ラジオを通じて広められていきました。
『Top of theTangent』と云う番組で認知されるようになったThe Wild Wood Boysは1963年の夏にはモンテレィ・フォーク・フェスティヴァル出演するまでに至ります。
「君がサンディ・ロスマン?僕たちのあたらしバンドのギターに君を招きたいんだ」。
ガルシアやネルソンが、サンディ・ロスマンを招いて新しく組んだのが、The Black Mountain Boysというバンドでした。ロスマンとの出会いは実りの時期でした。その年の12月にはロスアンジェルズでビル・モンローのバンドの前座を務めることもできたし、バンドを解散後、1964年の初夏、バンジョーの演奏に夢中だったガルシアにインディアナの"Bean Blossom"のビル・モンローに逢いにいかないかと誘ったのはロスマンでした。
夢と楽器と録音機材用のオープンリールを車に詰め込み西から東と横断する旅はガルシアにとって州境を超えて南部へとむかう最初の音旅であり、目標はインディアナで録音機材を使ってビル・モンローとの演奏を記録することでした。LAでブルー・グラス・バンド、ケンタッキー・カーネルズ"Kentucky Colonels"とともにキャラヴァンを組んで東へと向かい、セッションを重ねて目的地へと到着します。
ビル・モンローの演奏を見つめ、そして聴き、一緒に演奏をする機会を伺っていましたが、「私たちの目の前にモンローがいたのですけれども、いざとなったら怖じ気づき、とてもではないですが、彼のバンドに加わって演奏したいなんて一言も申しだせませんでした」とロスマンは回想しています。
その時点でガルシアとロスマンの夢は達成できませんでしたが、滞在期間に自分達の演奏を録音し、音旅はニュー・イングランドやフロリダへと続き、最終地のペンシルヴァニアへと到達します、そこには東海岸で最もヒップなマンドリン奏者がいることを嗅ぎ付けたからでした。その人物こそが、ブルーグラスの革命児、ディヴィッド・グリスマンでした。
ガルシアとロスマンはそこで分かれて別の道を歩ゆんでいくわけですが、ガルシアは「グレイトフル・デッドという音楽」を作り上げて、ロスマンはブルーグラス・ミュージックを極めて様々な弦楽器の演奏を習得して、ビル・モンローとは彼が亡くなる最期の年までギタリストとして演奏をサポートするにまで至りました。
William Smith Monroe (b.September 13, 1911 – September 9, 1996 d.)
そして20数年後の1986年、ガルシアのミステイクをきっかけでサンディー・ロスマンやディヴィッド・ネルソンのふたりが集まり、ガルシアの意識障害(Coma)からの回復につき合います。過去からのパズルを組み合わせるような作業が始まります。
感謝祭の日にはガルシアの復活を祝う演奏をしました。「そこに集まった『グレイトフル・デッド・ファミリー』、その存在は昔からある『温かい家族』そのものでした。ばあちゃんから、ちいさい子供まで、みなそこにいました」━━ネルソンは回想します。「ロスマンとわたしはガルシアが全てを憶えだせなくても無理をさせないと話しあいました。ですが、ガルシアは難なくほとんどの歌詞をおもいだすことができたのです」。ガルシアの驚異的なリヴァイヴァル(回復)は翌年本格的な精神を延命させて行きます。Jerry Garcia Acoustic Band / Almost Acoustic にはそうした長い物語によって得られたアルバムでもあります。
Sandy Rothman Japan Tour 2012 http://grateful.on.coocan.jp/sandy/sandy2012.html

今年2012年はガルシア生誕70年にあたる年です。去年が「ブルーグラス・ミュージックの父」ビル・モンロー生誕100年ということもあり、永らく廃盤となっていた1988年の作品、Jerry Garcia Acoustic Band / Almost Acousticが再出版されました。
『Almost Acoustic』は1987年の秋、ブロードウエイでJerry Garcia Acoustic Bandによるアクースティック・セットとJerry Garcia Bandによるエレクトリック・セットを昼夜計18公演をおこない、そのアクースティック・ショウを録音編集したアルバム作品です。ここではビル・モンローと彼のブルーグラス・ボーイズ(フラット&スクラッグス)らのブルー・グラス・ミュージックのスタイルを踏襲し、そして音楽的表現を得て消化した演奏を披露しています。ゴスペル、フォーク、ブルース、カウントリー、そしてガルシア自身(と、ロバート・ハンターと)の曲、『Ripple』まで聴くことができます。
ガルシアは1995年8月9日に心臓発作でなくなりましたが、それ以前に1986年に一度昏睡状態に陥ったことがあります。ボブ・ディラン & トム・ペティ & ザ・ハートブレイカーズとグレイトフル・デッドとのサマー・ツアーが始まったばかりの7月、ヘロインとコカインの併用による誤用によりオーヴァードーズで病院の集中治療室へと緊急搬送されたと云われています。一命は取り留めましたが、後遺症としてのこった一時的な意識障害(Coma)から順調に回復するため、旧きブルーグラス・ミュージックを演奏するのに付き合ったのが、Jerry Garcia Acoustic Band / Almost Acoustic でも一緒に演奏をしているディヴィッド・ネルソンとサンディー・ロスマンのふたりでした。
The Wild Wood Boys
1961年、19歳のジェリー・ガルシアがボブ(ロバート)・ハンターと出会ったことによって始まった音楽探究の旅は、新たなる流れにのっては広がり、われてはまた流れに乗り広がりを求めてくりかえします。フォーク/ブルース/ブルーグラス・ミュージックは当時の彼らにとって最もヒップな音楽であり、ガルシアはギターとバンジョーを演奏することに夢中になっていました。1962年の夏頃にグループの一員がィエール大学に帰ることになり、彼らが集っていた"Kepler's Book Store"で紹介されたDavid Nelson(ディヴィッド・ネルソン)との活動を開始し始めます。ネルソンはハイスクールを卒業したばかりくらいかの年齢でしたが、ギターは子供の頃から練習を積んでいました。ネルソンは後にグレイトフル・デッドのファミリーとなり、作品にも深くかかわるようになり、カウントリー・ロック・バンド、New Riders of the Purple Sage(ニュー・ライダーズ・オブ・ザ・パープル・セイジ)の中心的な存在として知られます。
ガルシアは様々な人々とつながり、音楽の演奏をおこない、カレッジ・ミュージックのコンサートなどに出演をして評判を得てきました。いくつかのバンドを組みますが、結局、The Wild Wood Boysがひとつの形になりました。The Wild Wood Boysはギターのディヴィッド・ネルソンとボブ・ハンター、そしてベース奏者のNorman Van Masstrichiが加わりクアルテットとして躍進します。
1963年に入って"The Tagent"というコーヒー・ハウスがスタンフォード近辺にできるとすぐにベイ・エリアのフォーク・シーンにとっての居場所となります。"The Tagent"はスタンフォード大学の病院の医師によって運営されました。そこで繰り広げられる演奏はスタンフォードの学生によって録音されて、カレッジ・ラジオを通じて広められていきました。
『Top of theTangent』と云う番組で認知されるようになったThe Wild Wood Boysは1963年の夏にはモンテレィ・フォーク・フェスティヴァル出演するまでに至ります。
「君がサンディ・ロスマン?僕たちのあたらしバンドのギターに君を招きたいんだ」。
ガルシアやネルソンが、サンディ・ロスマンを招いて新しく組んだのが、The Black Mountain Boysというバンドでした。ロスマンとの出会いは実りの時期でした。その年の12月にはロスアンジェルズでビル・モンローのバンドの前座を務めることもできたし、バンドを解散後、1964年の初夏、バンジョーの演奏に夢中だったガルシアにインディアナの"Bean Blossom"のビル・モンローに逢いにいかないかと誘ったのはロスマンでした。
夢と楽器と録音機材用のオープンリールを車に詰め込み西から東と横断する旅はガルシアにとって州境を超えて南部へとむかう最初の音旅であり、目標はインディアナで録音機材を使ってビル・モンローとの演奏を記録することでした。LAでブルー・グラス・バンド、ケンタッキー・カーネルズ"Kentucky Colonels"とともにキャラヴァンを組んで東へと向かい、セッションを重ねて目的地へと到着します。
ビル・モンローの演奏を見つめ、そして聴き、一緒に演奏をする機会を伺っていましたが、「私たちの目の前にモンローがいたのですけれども、いざとなったら怖じ気づき、とてもではないですが、彼のバンドに加わって演奏したいなんて一言も申しだせませんでした」とロスマンは回想しています。
その時点でガルシアとロスマンの夢は達成できませんでしたが、滞在期間に自分達の演奏を録音し、音旅はニュー・イングランドやフロリダへと続き、最終地のペンシルヴァニアへと到達します、そこには東海岸で最もヒップなマンドリン奏者がいることを嗅ぎ付けたからでした。その人物こそが、ブルーグラスの革命児、ディヴィッド・グリスマンでした。
ガルシアとロスマンはそこで分かれて別の道を歩ゆんでいくわけですが、ガルシアは「グレイトフル・デッドという音楽」を作り上げて、ロスマンはブルーグラス・ミュージックを極めて様々な弦楽器の演奏を習得して、ビル・モンローとは彼が亡くなる最期の年までギタリストとして演奏をサポートするにまで至りました。
William Smith Monroe (b.September 13, 1911 – September 9, 1996 d.)
そして20数年後の1986年、ガルシアのミステイクをきっかけでサンディー・ロスマンやディヴィッド・ネルソンのふたりが集まり、ガルシアの意識障害(Coma)からの回復につき合います。過去からのパズルを組み合わせるような作業が始まります。
感謝祭の日にはガルシアの復活を祝う演奏をしました。「そこに集まった『グレイトフル・デッド・ファミリー』、その存在は昔からある『温かい家族』そのものでした。ばあちゃんから、ちいさい子供まで、みなそこにいました」━━ネルソンは回想します。「ロスマンとわたしはガルシアが全てを憶えだせなくても無理をさせないと話しあいました。ですが、ガルシアは難なくほとんどの歌詞をおもいだすことができたのです」。ガルシアの驚異的なリヴァイヴァル(回復)は翌年本格的な精神を延命させて行きます。Jerry Garcia Acoustic Band / Almost Acoustic にはそうした長い物語によって得られたアルバムでもあります。
Sandy Rothman Japan Tour 2012 http://grateful.on.coocan.jp/sandy/sandy2012.html
2012年01月26日
Mgova2009
2009年12月21日(月)@横浜Thumbs UP
この日のDJ担当しました。VJはOVERHEADS佐藤タカヨシ氏。216さんありがとう。
Mgova 2009-12-21 from Shinji Niimura on Vimeo.
この日のDJ担当しました。VJはOVERHEADS佐藤タカヨシ氏。216さんありがとう。
2012年01月21日
From The Dead to Core
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6090648
パロ・アルトのあるサンタクララ・ヴァレイは肥沃な土地を持つ北カルフォルニアの果樹園として栄え、近代現代はスタンフォード大学を中心に栄えた街です。
現在ではシリコン・ヴァレィと呼ばれ、その中軸にあるスタンフォードとグレイトフル・デッドの関係は文化そのもので、ジェリー・ガルシアと学生達の交流によって培われて育んでいきました。スタンフォードの学生らが、ガルシアとともに演奏するフォークやブルーグラスをカレッジ・ラジオを通じて紹介したりする関係でもありました。
広大なキャンパスと歴史を持つスタンフォードに面したパロアルト、メンロー・パーク、レッドウッド・シティなどの街で誕生したベンチャー企業は大手資本には頼ら(れ)ずに、身近な個人投資家の支援によって起業をしていきました。ただ投資をするのではなく企業理念と経営手段を教え、また作り手も必要な部品はお互いに供給するなど共同体の意識のもとにありました。それはグレイトフル・デッドの意識に通じるものでした。
1988年に制作されたドキュメント・フィルム『シリコンバレーの百年』( D. by John R. McLaughlin: Silicon Valley - A 100 Year Renaissance)ではスタンフォード工学部から誕生したベンチャー起業主の歴史を追う中でジェリー・ガルシアのインターヴューは重要なイントロダクションの部分に引用され、1960年代のカウンター・カルチャー・スピリッツについて ━━ 「『恐れずに何でもやる』そんな感じだ。当時のムーブメントは繊細で奇妙であり、何と言っていいのか、物事があまりよく見えず、散漫で、今も言葉で表現するのが難しいけど中心的なものがなかった。外部の力(フォース)に導かれたのではない。普通の歴史的出来事とはそこが違う。あの時代はそうじゃなかった。そういう動きとは違っていた。ただ、可能性に満ちた雰囲気があって何かが起こるという期待感に溢れていた。それは誰の目にも明らかで、誰もが時代の胎動を感じていて、それぞれの分野で時代を動かそうとした」 ━━ と語っています。
1966年にシリコンヴァレーと呼ばれる地域はスタンフォードからサンノゼでしたが、この作品が撮られた1988年にはサン・マテオにまで広がりました。
スタンフォード大学にとって工学部長のフレデリック・E・ターマンが最大の功績者であったように、ガルシアが奏でる音楽はパロ・アルトにとって最大の功績でもありました。
1961 Palo Alto
もちろん、1960年代のサンフランシスコ文化には1950年代のビート・ジェネレーションによって築き上げられた文化の流れがあり、フォーク・リヴァイヴァルがあり、そうした時代背景のもとジェリー・ガルシアも直に影響をうけて、自身の青年期の音楽をパロ・アルト周辺で開花させていきます。特に劇場演劇の勉強をしていたボブ(ロバート)・ハンターと出会い、ジャグ・バンドやブルー・グラスを演奏する"Bob And Jerry"を開始ししたことはグレイトフル・デッドの歴史の始まりを意味していました。
ビートジェネレーションによって生み出された文化によって、ガルシアたちには活動をできる居場所があり、受け皿としていたのが、メンロー・パークにある「Kepler's Books Store」でした。オーナーのケプラー自身もビートニクであり、ブック・ストアの他にもバークレーの公共放送局KPFAの運営を手伝っていました。この「Kepler's Books Store」の存在はガルシアにとって貴重で、スタンフォードの学生やミュージシャンと知り合い一日中演奏をすることもできたし、本を読むこともできる場所でした。様々な人々を通じて後のグレイトフル・デッドの核の部分となる部分がここで形成されていきます。またパロ・アルトには「St, Michael's Alley」というコーヒー・ショップがあり、ハイ・スクール時代のジョン・バエズがレギュラーで出演していた1961年には、この地はミュージシャンにとってのランドマーク的存在でした。
さらに最もヒップだったといわれていたのは「The Chataeu」という下宿屋でした。ジャムセッションとパーティーの不夜城となった「The Chataeu」は音楽家のFrank Serratoni(Seratone)という人物が小説家の卵やミュージシャンのために部屋を借り上げて住まわさせたり、ニューフロンティア時代のアメリカの落伍者の難民キャンプとして役立っていました。後に『Hippie』と総称されるようなコミューンとも違うカテゴライズしにくい連中の住まいとして機能していました。ガルシアやハンターも1963年の夏にこの家が売り出されるまで利用していました。(Grateful Dead The Illusted Trip : Dennis McNally, Blair Jackson, Stephen Peters and Chuck Willis 2003)
1963年になるころまでにはパーティー・シーンや日常でフィル・レッシュやトム・コンスタンチン、ヨルマ・カウコネン、ディヴィッド・ネルソンらと出会い親交を深め、そして本格的にブルーグラス・ミュージックを極めるためにバンジョーの技術を習得して、楽器店でギターを教えるまでに至っていました。
さらにガルシアはスタンフォードの学生Sara Ruppenthalと「Kepler's Books Store」にてであいます。
サラは"Jerry and Sarah"として活動するとすぐに最初の妻になりました。その年の12月にはガルシアの初めての娘となるHeatherが誕生します。ガルシアが23歳のときでした。
Sandy Rothman
ハンター、ネルソンとともに活動をしていた楽団"The Wildwood Boys”からギターリストが抜けるとガルシアはこの界隈で利き腕のギターリストがいると聞きつけSandy Rothman本人の元に訪れます。しばらく一緒に演奏をした後、サンディ・ロスマンは「Bill Monroe」に逢いにいかないかとガルシアに奨めます。
Sandy Rothman Japan Tour 2012 →
2012年01月06日
Bad vibes mute Grateful Dead
Grateful Dead / Dick's Picks Volume 35 Aug.-6-71, Hollywood Palladium/Aug.-7-71, Convention Hall, San Diego, CA./Aug.-21-71, Auditorium Theter, Chicago, IL.(DECD289)

Grateful Daedには活動歴30年の間で様々なストーリーがあります。コンサートの話、ファン、オーディエンスや、マネージメントの話、友人の話、そしてフィクションにすら登場します。しかしながら、中心人物でもあるメンバーの話は時に陽気でもあり、実際には切実でもあり、特にひとの入れ替わりは、時としてこのグループの運命を左右してきました。人間関係の悪化や病死、時には薬物の過剰摂取によって命を絶ち、バンドの活動停止にまで至る最終章まで描いてしまいます。睦い人たちが亡くなった時、ジェリー・ガルシアは、"Nothin' left to do, but smile, smile. smile"(「He's Gone」の一節)と歌います。笑って済ませようとも聴こえますし、古き良き思い出とともに笑って送り出そうとも聴こえます。
今回は『Dick's Pick's 35』に関するストーリーです。グレイトフル・デッドのテープ・アーカイヴ・シリーズの「Dick's Picks」の35作目は2005年急遽出版された作品です。2005年、約35年ぶりに見つかったリール・トゥ・リールのテープは、グレイトフルデッドのメンバーであった故・Keith Godchauxの父親が所有するハウスボートを整理していた際に発見されたレア中のレア音源です。2005年の4月にアーカイヴを保管をしているディヴィッド・レミューのところに元妻のDonna Jean Godchaux-Mackayから連絡がありました。
見つかった1/4テープは奇跡的に良好状態であり、デッドのテーパーにとって永らく不明であった1971年8月7日、サンディエゴのコンヴェンション・ホールでのセット・リストを「Dead Base」に書き記すこともできました。
Keith Godchaux、そして、Donna Jean Godchaux夫妻は1970年代にグレィトフル・デッドの新しいメンバーとして迎え入れられDeadheadsには忘れられない存在になりました。もちろんゴドショウ夫妻の音楽はその後のGrateful Dead Musicをさらに大きなものへと変化させていきます。
1971年の夏、ベイエリアのバーでガルシアにドナ・ジーン・ゴドショウは「私たちはDeadheadsです」と告げて、自分の旦那のキースがいかに優れた鍵盤奏者であるかということをプレゼンします。ガルシアはグループのメンバー、PIGPENの健康状態が決して優れたものではなく、新しい鍵盤奏者を必要としていました。キース・ゴドショウはさほどキャリアがあったわけではないのですが、サンフランシスコのローカル・ラウンジでジャズ・トリオで活動のキャリアをもっていました。
──リハーサルの日にキース・ゴドショウが指定された場所へと向かうと、ガルシアが連絡をし忘れたのか、バンドは集まっていなくてガルシアのみいたので、ゴドショウはガルシアとの演奏で始めました。そのうちガルシアがドラマーのBill Kreutzmannを呼び出し、セッションは3人で行ないました。さらに次の日にはバンド全員が揃っていて、リハーサルが始まる頃にはキース・ゴドショウは既に新しいデッドのメンバーとなっていました── とドナ・ジーンは『GARCIA An American Life / Blair Jackson(1999)』の中で語っています。
グループに加わったキース・ゴドショウがガルシアに「デッドの曲を憶えておいて」と渡されたのがこのDick's Picks35に収められた内容のテープが入ったおおきな箱でした。
数回のリハーサルのあと一ヶ月も経たない10月19日からツアーははじまります。
入院でPIGPENを欠いた5人だけのツアーの模様は"Dick's Picks Volume 2"(Oct-31-71)で聴くことができます。
有機的に変化してゆく演奏の見本のような"Darkstar>Jam>Sugar Magnolia"や、"St. Stephan"、"NFA>GDTRFB>NFA"を収めたこのシリーズで唯一1CDの作品です。
キースを売り込んだドナ・ジーン・ゴドショウがグループに加わったのが、1972年の3月25日のニュー・ヨーク公演からでした。かの1972年のユーロッパ・ツアーの目前にグループとステージをシェアすることになりました。
ドナ・ジーン自身は1960年代に、"Southen Comfort"というゴスペル・グループでアラバマで活動をしていて、また、マスル・ショールズのスタジオでのバッキング・ヴォーカルの仕事をキャリアとし、シングルでは、1968年のパーシー・スレッジの「When A Man Loves A Woman」(Billboard Hot100 #1)、1969年のエルヴィス・プレスリーの「Suspicious Minds」(Billboard Hot100 #1)の2枚のヒットに貢献し、またシェールのアルバム『3614 Jackson Highway』のレコーディングを残しています。彼女のソウルフルなヴォーカルはバンドに新たなるGrateful Dead Musicの広がりを与えることに成功しました。彼女の最初のトゥアーの功績は「Europe '72」とボブ・ウイアの最初のスタジオ作品のBob Weir / ACE(1972)で聴くことができます。
キース & ドナ・ジーン・ゴドショウ夫婦はGrateful Deadでトゥアーとスタジオ作品を共同作業で制作する一方で1975年には、ジェリー・ガルシアとともに、Jerry Garcia Bandを結成、ガルシアの音楽に協力してゴスペル・ミュージックを礎にしたJerry Garcia Band / Cats under the Starsという作品を生み出します。
「ガルシアは丘の上に住んでいましたけど、私たちの住んでいるところにやってきて一緒に演奏しました」ドナ・ジーンは当時を振り返り、「ほとんど毎日の様にすごし、それは素晴らしい時間でした。私たちは黒人ゴスペル音楽を収集して ── ドロシー・ラヴからブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマ、さらに、アビシニアン・バプティスト教会のクワイアまで── 聴いていました」。("Jerry Garcia / All Good Thing"ライナーノーツ、"All Thing Is All good Thing" by Blair Jackson"(2004))
キースとドナは1979年2月までグループに参加してGrateful Dead Musicに貢献しました。2枚のライヴ・アルバムと5枚のスタジオ作品、"Grateful Dead Movie"という映画作品、そして幾多ものライヴ録音を残してグループを離れることになります。グループを離れることになったのは、キースは長年、薬物常用の問題をかかえており、自己主張するように刻むピアノの音がバンドの調和を乱すことになっていたからです。また夫婦の間にも子育てについて悩みを抱えていたこともありました。
彼らはグループを離れた後に自身の"Heart of Gold Band"を結成しますが、キース・ゴドショウは80年の7月23日、マリン郡の自宅近辺で自動車事故で命を落とします。享年32。
それ以来、ドナ・ジーン・ゴドショウは1998年に自身のチャーチ・ミュージック・アルバム、Donna Jean Mackay / Donna Jean を出版するまで、公に姿を見せませんでした。彼女がDeadheadsの目の前に姿を現したのは1999年のPhil Leshのグループ、Phil and Friendsでのことです。そのバンドには生前キース・ゴドショウの結成した"Heart of Gold Band"のギター奏者、Steve KimockがGrateful Dead Musicを演奏していました。
Dick's Picks Volume 35は "The Legend of the Houseboat Tapes"と名をうっています。まさしくキースとドナ・ジーンがGrateful Deadにくわわり、1970年代の新たなるバンドの航海が始まるのだから嘘偽りがありません。唯一嘘偽りがあるのならば、キース・ゴドショウはオーディションに参加するまで一度もデッドの曲を聴いたことがなく、渡されたテープすら一度も聴かなかったことでした。グレイトフル・デッドはドナ・ジーンの歴史でもあります。
ともあれ、Grateful Dead Musicは今に至るまで、有機的にリサイクルしていきます。そしてストーリーは解散後も続いています。

Grateful Daedには活動歴30年の間で様々なストーリーがあります。コンサートの話、ファン、オーディエンスや、マネージメントの話、友人の話、そしてフィクションにすら登場します。しかしながら、中心人物でもあるメンバーの話は時に陽気でもあり、実際には切実でもあり、特にひとの入れ替わりは、時としてこのグループの運命を左右してきました。人間関係の悪化や病死、時には薬物の過剰摂取によって命を絶ち、バンドの活動停止にまで至る最終章まで描いてしまいます。睦い人たちが亡くなった時、ジェリー・ガルシアは、"Nothin' left to do, but smile, smile. smile"(「He's Gone」の一節)と歌います。笑って済ませようとも聴こえますし、古き良き思い出とともに笑って送り出そうとも聴こえます。
今回は『Dick's Pick's 35』に関するストーリーです。グレイトフル・デッドのテープ・アーカイヴ・シリーズの「Dick's Picks」の35作目は2005年急遽出版された作品です。2005年、約35年ぶりに見つかったリール・トゥ・リールのテープは、グレイトフルデッドのメンバーであった故・Keith Godchauxの父親が所有するハウスボートを整理していた際に発見されたレア中のレア音源です。2005年の4月にアーカイヴを保管をしているディヴィッド・レミューのところに元妻のDonna Jean Godchaux-Mackayから連絡がありました。
見つかった1/4テープは奇跡的に良好状態であり、デッドのテーパーにとって永らく不明であった1971年8月7日、サンディエゴのコンヴェンション・ホールでのセット・リストを「Dead Base」に書き記すこともできました。
Keith Godchaux、そして、Donna Jean Godchaux夫妻は1970年代にグレィトフル・デッドの新しいメンバーとして迎え入れられDeadheadsには忘れられない存在になりました。もちろんゴドショウ夫妻の音楽はその後のGrateful Dead Musicをさらに大きなものへと変化させていきます。
1971年の夏、ベイエリアのバーでガルシアにドナ・ジーン・ゴドショウは「私たちはDeadheadsです」と告げて、自分の旦那のキースがいかに優れた鍵盤奏者であるかということをプレゼンします。ガルシアはグループのメンバー、PIGPENの健康状態が決して優れたものではなく、新しい鍵盤奏者を必要としていました。キース・ゴドショウはさほどキャリアがあったわけではないのですが、サンフランシスコのローカル・ラウンジでジャズ・トリオで活動のキャリアをもっていました。
──リハーサルの日にキース・ゴドショウが指定された場所へと向かうと、ガルシアが連絡をし忘れたのか、バンドは集まっていなくてガルシアのみいたので、ゴドショウはガルシアとの演奏で始めました。そのうちガルシアがドラマーのBill Kreutzmannを呼び出し、セッションは3人で行ないました。さらに次の日にはバンド全員が揃っていて、リハーサルが始まる頃にはキース・ゴドショウは既に新しいデッドのメンバーとなっていました── とドナ・ジーンは『GARCIA An American Life / Blair Jackson(1999)』の中で語っています。
グループに加わったキース・ゴドショウがガルシアに「デッドの曲を憶えておいて」と渡されたのがこのDick's Picks35に収められた内容のテープが入ったおおきな箱でした。
数回のリハーサルのあと一ヶ月も経たない10月19日からツアーははじまります。
入院でPIGPENを欠いた5人だけのツアーの模様は"Dick's Picks Volume 2"(Oct-31-71)で聴くことができます。
有機的に変化してゆく演奏の見本のような"Darkstar>Jam>Sugar Magnolia"や、"St. Stephan"、"NFA>GDTRFB>NFA"を収めたこのシリーズで唯一1CDの作品です。
キースを売り込んだドナ・ジーン・ゴドショウがグループに加わったのが、1972年の3月25日のニュー・ヨーク公演からでした。かの1972年のユーロッパ・ツアーの目前にグループとステージをシェアすることになりました。
ドナ・ジーン自身は1960年代に、"Southen Comfort"というゴスペル・グループでアラバマで活動をしていて、また、マスル・ショールズのスタジオでのバッキング・ヴォーカルの仕事をキャリアとし、シングルでは、1968年のパーシー・スレッジの「When A Man Loves A Woman」(Billboard Hot100 #1)、1969年のエルヴィス・プレスリーの「Suspicious Minds」(Billboard Hot100 #1)の2枚のヒットに貢献し、またシェールのアルバム『3614 Jackson Highway』のレコーディングを残しています。彼女のソウルフルなヴォーカルはバンドに新たなるGrateful Dead Musicの広がりを与えることに成功しました。彼女の最初のトゥアーの功績は「Europe '72」とボブ・ウイアの最初のスタジオ作品のBob Weir / ACE(1972)で聴くことができます。
キース & ドナ・ジーン・ゴドショウ夫婦はGrateful Deadでトゥアーとスタジオ作品を共同作業で制作する一方で1975年には、ジェリー・ガルシアとともに、Jerry Garcia Bandを結成、ガルシアの音楽に協力してゴスペル・ミュージックを礎にしたJerry Garcia Band / Cats under the Starsという作品を生み出します。
「ガルシアは丘の上に住んでいましたけど、私たちの住んでいるところにやってきて一緒に演奏しました」ドナ・ジーンは当時を振り返り、「ほとんど毎日の様にすごし、それは素晴らしい時間でした。私たちは黒人ゴスペル音楽を収集して ── ドロシー・ラヴからブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマ、さらに、アビシニアン・バプティスト教会のクワイアまで── 聴いていました」。("Jerry Garcia / All Good Thing"ライナーノーツ、"All Thing Is All good Thing" by Blair Jackson"(2004))
キースとドナは1979年2月までグループに参加してGrateful Dead Musicに貢献しました。2枚のライヴ・アルバムと5枚のスタジオ作品、"Grateful Dead Movie"という映画作品、そして幾多ものライヴ録音を残してグループを離れることになります。グループを離れることになったのは、キースは長年、薬物常用の問題をかかえており、自己主張するように刻むピアノの音がバンドの調和を乱すことになっていたからです。また夫婦の間にも子育てについて悩みを抱えていたこともありました。
彼らはグループを離れた後に自身の"Heart of Gold Band"を結成しますが、キース・ゴドショウは80年の7月23日、マリン郡の自宅近辺で自動車事故で命を落とします。享年32。
それ以来、ドナ・ジーン・ゴドショウは1998年に自身のチャーチ・ミュージック・アルバム、Donna Jean Mackay / Donna Jean を出版するまで、公に姿を見せませんでした。彼女がDeadheadsの目の前に姿を現したのは1999年のPhil Leshのグループ、Phil and Friendsでのことです。そのバンドには生前キース・ゴドショウの結成した"Heart of Gold Band"のギター奏者、Steve KimockがGrateful Dead Musicを演奏していました。
Dick's Picks Volume 35は "The Legend of the Houseboat Tapes"と名をうっています。まさしくキースとドナ・ジーンがGrateful Deadにくわわり、1970年代の新たなるバンドの航海が始まるのだから嘘偽りがありません。唯一嘘偽りがあるのならば、キース・ゴドショウはオーディションに参加するまで一度もデッドの曲を聴いたことがなく、渡されたテープすら一度も聴かなかったことでした。グレイトフル・デッドはドナ・ジーンの歴史でもあります。
ともあれ、Grateful Dead Musicは今に至るまで、有機的にリサイクルしていきます。そしてストーリーは解散後も続いています。
2011年12月31日
auld lang syne(大晦日)
TOM WAIT/BAD AS ME(ANTI)

かって40年前、酔酒、トランプ、孤独、負け犬、偏屈なテーマを選んで詩にして謡う彼を、ニューヨークタイムズは『はみ出し者の詩人』と呼びました。苦心して楽曲が歌劇の一場面にはめこまれる様にとアルバムをまとめる彼は、本作に伝説のブルースマン、ハウリン・ウルフが残していた声をタイムカプセルの中に見つけたことで、7年ぶりの録音に取り組みました。
20作目となるアルバムでウルフの魂はシカゴの街を歌うことで、ブルース、ソウル、古き良き時代に映える彼の独特な個性が活火の如く躍動しています。キース・リチャーズと"Satisfied"と歌うことで憂いは喜びになり、新しい年を告げる「蛍の光」とともに昇華されてゆきます。
魂の大晦日、輪廻して来世で合いましょう。

かって40年前、酔酒、トランプ、孤独、負け犬、偏屈なテーマを選んで詩にして謡う彼を、ニューヨークタイムズは『はみ出し者の詩人』と呼びました。苦心して楽曲が歌劇の一場面にはめこまれる様にとアルバムをまとめる彼は、本作に伝説のブルースマン、ハウリン・ウルフが残していた声をタイムカプセルの中に見つけたことで、7年ぶりの録音に取り組みました。
20作目となるアルバムでウルフの魂はシカゴの街を歌うことで、ブルース、ソウル、古き良き時代に映える彼の独特な個性が活火の如く躍動しています。キース・リチャーズと"Satisfied"と歌うことで憂いは喜びになり、新しい年を告げる「蛍の光」とともに昇華されてゆきます。
魂の大晦日、輪廻して来世で合いましょう。
2011年12月30日
今年の記憶に(晦日)
CRO-MAGNON / 4U(LASTLUM)

CRO-MAGNONならではの研ぎ澄まされた感性が作品の隅々に施された楽曲。"FOR YOU"というタイトルどおりに聞き手に送られてくる4thアルバムです。人の生き方自体までものみこんでいきそうな東京の夜も彼らが仕切るセッションは音楽が遮る ── そうしたコンセプトのアルバム。SLO-JAMから始まり、レジェンドRoy Ayersが登場するまでゲスト達が精霊呼び起こしともにフロアを守る。
TwiGy al Salaamとのラップ、Soil & "Pimp" Sessionsの元晴&タブゾンビとのジャズ、ディスコダブ、KIngdom Afrocksのizponのアフロ・ビート、そしてアフロ・アメリカン・ミュージックへのリスペクト・オマージュも怠らない。Roy Ayersとの充実した演奏の後はメロウに一転。犬式、(仮)ALBATRUSの三宅洋平がマイクを握り今の心情を刻む。そこに音楽があるだけで観客とともに時間を楽しむ。それこそ恐れのない東京を実感させる瞬間。
今年、参加させてもらった「お祭り」はほぼ総て、東日本大地震に向けて、そして原発事故を憂うというものでした。被災地から東京に避難して退屈している人たちにも音楽やお酒で楽しんでもらおうという主旨の元で開催された"銀座GL"や、"We Will Survive"と石巻のDEADHEADSが参加した"OSHINO DEAD 2011"、関東には楽しめる夜もあると開催された“DRAGON BIG FESTIVAL"、そして我らが、"DACHAMBO HERBESTA 2011"。これらは今年の僕にとって、被災を衝撃に感じた人たちにとって、大事な時間でした。
"DACHAMBO HERBESTA 2011"は参加したミュージシャンがそういった想いを明確にしたフリー・パーティーでした。垣根もない、観客と演奏者の垣根のないに日々。過剰なセキュリティーもなく、ドネートで行なわれたパーティーは、登っていく坂道で思い出すのは、忘れていた1990年代のレイヴ感のあるパーティーでもありました。
311以降、僕たちは今まで聴いてきた音楽を精査する作業へと変わりました。そしてその答え合わせをしたのがこの"DACHAMBO HERBESTA 2011"です。「歌詞」と「曲」を合致させることは311以降の世界にとって重要なファクターでした。正解はそこにあった「お祭り」です。
この日、三宅洋平がREBEL7 + αと歌った「Tokyo Times」には311以降、断たれていた記憶を取り戻した感覚がありました。いいメッセージを送る三宅洋平に感謝。
CRO-MAGNONの復活に感謝。

CRO-MAGNONならではの研ぎ澄まされた感性が作品の隅々に施された楽曲。"FOR YOU"というタイトルどおりに聞き手に送られてくる4thアルバムです。人の生き方自体までものみこんでいきそうな東京の夜も彼らが仕切るセッションは音楽が遮る ── そうしたコンセプトのアルバム。SLO-JAMから始まり、レジェンドRoy Ayersが登場するまでゲスト達が精霊呼び起こしともにフロアを守る。
TwiGy al Salaamとのラップ、Soil & "Pimp" Sessionsの元晴&タブゾンビとのジャズ、ディスコダブ、KIngdom Afrocksのizponのアフロ・ビート、そしてアフロ・アメリカン・ミュージックへのリスペクト・オマージュも怠らない。Roy Ayersとの充実した演奏の後はメロウに一転。犬式、(仮)ALBATRUSの三宅洋平がマイクを握り今の心情を刻む。そこに音楽があるだけで観客とともに時間を楽しむ。それこそ恐れのない東京を実感させる瞬間。
今年、参加させてもらった「お祭り」はほぼ総て、東日本大地震に向けて、そして原発事故を憂うというものでした。被災地から東京に避難して退屈している人たちにも音楽やお酒で楽しんでもらおうという主旨の元で開催された"銀座GL"や、"We Will Survive"と石巻のDEADHEADSが参加した"OSHINO DEAD 2011"、関東には楽しめる夜もあると開催された“DRAGON BIG FESTIVAL"、そして我らが、"DACHAMBO HERBESTA 2011"。これらは今年の僕にとって、被災を衝撃に感じた人たちにとって、大事な時間でした。
"DACHAMBO HERBESTA 2011"は参加したミュージシャンがそういった想いを明確にしたフリー・パーティーでした。垣根もない、観客と演奏者の垣根のないに日々。過剰なセキュリティーもなく、ドネートで行なわれたパーティーは、登っていく坂道で思い出すのは、忘れていた1990年代のレイヴ感のあるパーティーでもありました。
311以降、僕たちは今まで聴いてきた音楽を精査する作業へと変わりました。そしてその答え合わせをしたのがこの"DACHAMBO HERBESTA 2011"です。「歌詞」と「曲」を合致させることは311以降の世界にとって重要なファクターでした。正解はそこにあった「お祭り」です。
この日、三宅洋平がREBEL7 + αと歌った「Tokyo Times」には311以降、断たれていた記憶を取り戻した感覚がありました。いいメッセージを送る三宅洋平に感謝。
CRO-MAGNONの復活に感謝。