1932年3月5日、血盟団事件。現代人はその後の日本の運命を知っているから、この事件で射殺された團琢磨が三井の金庫番であったことも知っているし、その後、繰り返されるの暴力的行為によって巨大戦争に突入していったことも知っている。という正統的筋書きは、本家の散人におまかせするとして、横道へ走る。なにしろ、きのうのビールだから。
この團琢磨だが、相当の美術品のコレクターだったらしい。もちろん三井の財産になっていて、多くは新装なった三井美術館に所蔵されている。(ただし、現在犬山城にある茶室如庵など流出したものもある)そのいくつかは国宝に指定されているのだが、大部分は何も指定されていない。
そこで、国宝について調べてみると、2005年末の時点で全国で1,071件が指定されているが、213件が建物であり、美術工芸品は858件である。そして圧倒的に多くが仏教関係の美術品なのである。思い出してみると、国立博物館にもかなりの仏教関係の元々寺院にあるべき美術工芸が多数収蔵されている。一方、国産の陶磁器で国宝に指定されたものは僅か5点しかない。うち、一点は熱海のMOA美術館にある野々村仁清の色絵藤花図茶壺であり、それは初めて仁清を見たものでも、遠くからガラス越しに霊気を感じることができる。
では、なぜ国宝のセレクションが仏教美術に傾いているかと言うと、大きく三つの理由がある。
一つは、明治維新が始まると同時に数年間、激しい廃仏毀釈が起きている。各藩の中で神道が仏教を圧迫し、多くの寺院が経済的土台を失い荒廃した。廃仏毀釈の流れは、廃藩置県により中央政府の警察権が浸透したことにより弱まるのではあるが、明治時代はまだ「葬式と結婚式のセグメント分け」にはなってないため、常に仏教美術の散逸のおそれがあり、1897年(明治30年)に古社寺保存法が制定されている。元々の出発からいって仏教美術の保護が優先だったわけだ。
そして陶器が選ばれていないもう一つの理由は、多くの陶器は飾るのではなく、実用に使うことによって価値が増すという性格がある。多くの茶碗はまさに茶の湯に使われることによって深みが増す。国宝に指定されると使えなくなる。そのため、所有者がブツを隠す傾向があるそうだ。
そして三つ目の理由が團琢磨に関係する。つまり、有力財界人は、好んで美術品を収集していたそうだ。特に陶磁器は、サイズ的にも保管するにも便利であることから、いくつかの大量のコレクションを形成していったそうである。富国強兵の政策の中、散逸するおそれのない分野まで、国家予算および特別会計は及ばなかったわけだ。彼らが、明治後半に多く国内の美術品を購入したのとは別に、バブル期に新興企業が印象派の絵画を買いまくって、その後、暴落して首が回らなくなっているのは、別の動機であろう。
ところで、この團琢磨だが、思わぬところに登場している。岩倉具視や大久保利通が率いるいわゆる「岩倉使節団」の一員に加わっている。2年にわたって、米国、欧州各国を歴訪している。1871年のことだ。実は、この少し前まで米国は南北戦争(1861−65)を戦い、戦争後、失業者が町にあふれていたのだが、大陸横断鉄道を1869年に完成させ、余剰労働力を吸収している。そして、ほぼ同年、地球の裏側でスエズ運河が完成。つまり、世界一周旅行が可能になってすぐなのである。この使節団の功績には、プラスもありマイナスもあり、評価がわかれるところだが、単に歴史上の出来事と考えれば、明治の日本はこの使節団から始まるといってもいい。團琢磨は元大名で福岡藩知事、黒田長知のぞうりとりとしてぶらさがっていた。このように使節団には、公式の使節以外に多くの周辺人物を含んでいる。一説に108人といわれるが、使節自体が二派に別れ、さらに留学生や、有力な殿様やそれらのこどもなど私的なメンバーも含んでいて、正しく人数をカウントするのは難しいらしい。さらに五人の女性が含まれていて、当時8歳の津田梅子もその一人だ。実は、その5人の女性が世界一周をした始めての日本人女性かどうかの検証をしていたのだが、いずれも米国の学校に留学後、欧州に渡らずに帰国しているように思える。確定するためには、同行の中では重要メンバーである久米邦武が記す全百巻の「米欧回覧実記(岩波文庫5冊セット4,389円)」を読むか、「現代語訳(水沢周訳26,250円)」を読むかすればわかるはずだが、最近、泉三郎氏が書いた「堂々たる日本人(詳伝社黄金文庫)」の付録資料にも少し記載されている。ただし、その本は解説を石原慎太郎が書いているくらいのちょっとアブナ系ではある。
ところで、團琢磨の暗殺の後、團家は次々に資産を失っていったそうだ。それでも孫の團伊玖磨は、作曲家として八丈島の別荘を仕事場にしていた。そして伊玖磨の息子である建築家の團紀彦は、父親の死後、別荘に残された書物の中に、近藤重蔵の息子で大量殺人の罪で島流しにされた近藤富蔵が記した「八丈実記」と有史以来1900人を超える流人の一人一人について記した奇書「八丈島流人銘々伝」を発見。読み解きながら、書き起こされた伝奇小説が「るにんせん(新風舎文庫)」であり、さらに映画化もされたのだが、その話はこの後、さらに続く。