もちろん、頭の片隅にはあったのだが、どうやって調べればいいのかもわからなかった。

ところが、たまたま、元ボリビア大使であった堅山道助さんという方が、詰将棋作成を趣味としていて、平成16年にごく私的に製本していた『詰将棋作品集・千夜一夜』(全日本詰将棋連盟)を入手して読んでいるうちに、作品100題の付録としていくつかの随筆が収録されているのだが、その中に「ペルー大使館人質事件余話」が含まれているのだが、そこに、そのあたりの事情が触れられていた。元々は、もっと私的な専門誌である『めいと』という同人誌の平成12年10月25日号に収録されたものを転載したものである。
雑誌、あるいは本の性格上、読者数はきわめて限られているし、そもそも将棋ファンには政治無関心人間が多いのだから、貴重な資料も人目に触れることがきわめて稀ということになってしまうので、18ページにわたるのだが、2ページほどに集約してみたい。
まず、事件が起きたのは、平成8年の12月17日である。当時の各国にある日本大使公邸では、12月に天皇誕生パーティを開くことになっていた。堅山さん夫妻は、ペルーの隣国であるボリビアの首都ラバスで12月12日(水)にパーティを開いていて、くたくたになってしまい、休暇を取ることにした。そして、ペルーの首都、リマに向かうのだが、当初はしばらくしてから旅行に行く予定だったのだが、奥様が、それだと帰ってきてからクリスマス料理の素材が揃わないから、といって、すぐに出発してすぐに帰ってくることにする。
こうして、堅山さんのあわただしいペルーのリマでのミニ旅行は、あっという間に終わりに近づき、最終日は12月16日。酒豪である青木ペルー大使と夕食を食べながら、同好の詰将棋談義を交わしたということだそうだ。そして、青木大使からの、「是非、あしたのパーティに出席してもらえないだろうか」というメッセージを妻のキツイ目線で阻止され、17日のお昼ごろの飛行機で、ラバスへ帰国の途につく。そして、夜の11時ころになって、ペルーの日本大使公邸が武装組織MRTAの14名に襲われたことを知るわけだ。
そこから堅山大使は大忙しとなる。たぶん、クリスマス料理を食べる暇もなかっただろう。なにしろ、MRTAの組織は、ペルーだけではなく、近隣諸国に広がっている。人質釈放の交換条件として各国の刑務所から収監中のメンバーの釈放を求められたりする。またフジモリ大統領はじめ、要人が各国を飛び回っていたりするも、人質釈放までの道のりが、まったく見えない状況だった。
(つづく)