
まず、駅前の観光交流館のコインロッカーだが、右の方が100円で左の方が大きく200円と300円なのだが、それぞれのロッカーに大名の名前が書かれている。右の100円の方は西軍で、左の200円の方は東軍になっている。この戦いではさまざまなことが起きていて、最後に西軍の島津が敵中突破を図り、わずかな人数が国元の薩摩に逃げ帰ることができた。そのしぶとさにあやかるために島津ロッカーに100円を投資する。

次に、平地を少し歩き始める。農地の拡がる平地の中央に『関ヶ原町歴史民俗資料館』がある。入館すると、ちょうど館員の方が、合戦時の東西両軍の配置図の前で戦いの一日を解説していた。
やはり、本などで調べるより研究家の方の解説の方がわかりやすい。そして実地を歩くともっと想像力が刺激されることになる。

まず両軍の布陣だが、西軍は基本的に高台に広く陣をおき東軍を包囲しようとし、東軍は山の下に軍を集結し錐のように鋭く敵陣を分断しようとする。
普通、上からと下からでは上から攻めた方がいいので、なぜ家康は盆地状の中心に軍を固めたのだろうか。
実は、その謎は解明されていない。ここからは私の推測なのだが、家康は西軍の中に東軍に寝返る者を探していて、それが小早川であり吉川だった。
ということは、東軍の中にも西軍の石田三成に寝返るものがでるのではないかと恐れていたのではないだろうか。東軍の内訳は、家康の三河時代からの部下と、豊臣秀吉の配下の大名たちの2パターンだ。元々秀吉の配下で東軍に回った大名は福島、黒田、加藤、藤堂などだ。そのため、裏切られないように中央に固めてしまったのではないだろうか。
そして、両軍15万兵の戦いは決戦地と呼ばれる中央の平地をめぐって朝霧の晴れた瞬間から始まる。両軍の1万丁の鉄砲が爆音を続ける中で槍や刀を振り回し一進一退が続くがどうしても接近戦では上から攻める西軍が有利なのだが、鉄砲はどうだろう。ピストルを撃つときも弾は上方に外れることが多いように上から下を狙うのは難しいし、そもそも敵味方入り混じっている中に撃ち込むのは味方の損傷の方が多くなる。意外に鉄砲戦の場合、上下の差が少ないかもしれない。
とはいえ、西軍有利の中で、後方(今の関ヶ原駅近く)に陣を定めていた家康が敵陣近くまで侵入していく。この段階で、背後の山に構えていた西軍の毛利軍は動こうにも動けない状況だった。毛利軍の前にいた吉川がとうせんぼ(裏切り)したからだ。また毛利自体、日和見主義だったこともある。
そして一挙に決着をつけたのが、西軍のはずだった小早川が西軍包囲網の裏を攻めて、これ以降西軍が一挙に大崩壊した。この時、一向に動かない小早川に決断を迫るため家康は小早川陣に鉄砲を発砲したと言われる。これが「問いてっぽう」と名付けられている。解説員の方によると、鉄砲の音は一丁でもすさまじいのに1万丁も使われていたので大音響が鳴り響いていたに違いなく、流れ玉も飛ぶ状況の中で、それはないだろうとのことだった。
真偽はわかるはずもないのだが、私が推理するに「出陣を待ち過ぎた」のではないだろうか。つまり勝馬に乗ろうとしたに違いないのだろうが、どちらか勝つかわからない、あるいはかなり時間が過ぎ、西軍が優勢になってから、遅れて西軍に加勢しても、裏切り予備軍だったことが明白になってしまうという状況に陥っていたのではないだろうか。となると東軍勝利のキーマンになるしか道はなかったのかもしれない。
その後、総崩れの西軍は石田三成が山を越えで近江方面に逃走。戦場に残された島津軍は山を登る余裕もなく、全軍敵中突進を始め、家康の目前を突っ走り死屍累々を残しながら数十騎で薩摩に戻り、次の倒幕の機会を待つこととなる。そんなに強いならば家康の面前を走るのではなく、最初から家康そのものを攻めた方がよかったのではないだろうか、とも思うが。