2018年09月09日

戊辰の横浜

横浜市歴史博物館で開催中の「戊辰の横浜」へ行く。時は慶応4年(1868年)。1月の鳥羽伏見の乱で幕府軍が敗退(というか将軍が江戸に逃げ帰る)した後、全国各地が戦雲に包まれる。3月なると、ついに薩長軍が横浜に現れる。そして、江戸に突入寸前に有名な西郷・勝会談があり、無血開城となる(実際は旗本・御家人のうち運の悪いものは首を失うことになる)。

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その時、横浜はすでに開港していて外国人居留区があったし、そもそも箱根の関所から江戸の間は幕府に近い大名や旗本が管理していたはず。何が起きていたのだろう。というテーマなのだ。結構、マイナーな話かもしれない。

まず、箱根の関所だが、事実上、無抵抗だった。そもそも徳川家は白旗を上げていたわけだ。したがって、幕府(徳川家)の直接の部下だった旗本クラスは抵抗する意味がなかった。抵抗したのは彰義隊とか新選組とか東北諸藩の大名とか。彼らは「武士の本望」として戦ったわけだ。

話を神奈川に戻すと、幕府側の重要人物は二人いた。一人は、相州金沢藩主米倉昌言。金沢というのは今の金沢八景のあたりで、小さいながらも大名だった。彼は、薩長側に早い時期に鞍替えし、神奈川県での受け入れ準備を進めていた。

もう一人が江川英武。有名な江川英達の息子である。英達は韮山に反射炉を作ったり、台場を埋め立てて砲台を並べたり、江戸周辺の農民を農兵隊として武力化したりしている。英武はその父と兄が次々と病死した結果10歳で家督を継ぎ、慶応4年は15歳だった。しかし、英達の活躍の結果なのか、韮山(静岡)だけではなく横浜地区一帯を監督する地位についていた。(後に、その才を見込まれ岩倉使節団の別隊として、渡米した津田梅子と同様に長く米国留学することになり帰国後日本の教育に寄与したが、衆議院議員選挙に立候補し、落選した。

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そして、証拠書類があるのだが、江川太郎左衛門(江川英武)あてに東征軍の参謀から、
宿と昼飯の用意をするように命じている。昼飯は銭百文と米2合、宿は金一朱と米四合となっている。大飯食いばかりだ。

そして、参謀のところに海江田武次と書かれている。この男、かなりの直情家で、生麦事件の首謀者で、傷ついた英国人にとどめを刺している。その後、チョイ役で歴史に時々出現する。奈良県知事にもなるが、豪華な県庁を作ろうとして、1年で解雇される。それでも貴族院議員になる。海江田万里とは同郷だが万里氏は本物の海江田氏であるが武次は妻の実家の名字を無断で借用していたようだ。

そして、江川英達の創設した農兵隊だが、綱島農兵隊と川崎農兵隊と日野宿農兵隊が知られている。

そして、そういった幕府周辺勢力を弾圧する役目を喜んで受けたのが備中池田藩。農兵隊に対して、武器狩りを始めた。かなりの数(1000丁とか)の銃砲もあったようだ。綱島砲兵隊から、池田藩に、鳥獣対策の銃を提出しなくてゴメン。悪気はないのでという詫び状が出ている。

ところが、他の県の農兵隊では鉄砲狩りは行われていないそうだ。では綱島の鉄砲はどこに行ったのだろう。単なる鉄砲泥棒ではないだろうか。鉄砲狩りの隊長の氏名は明らかになっている。

「私の鉄砲、返して下さい!草野次郎右衛門さん」


Posted by ota416 at 00:00│Comments(0)