2006年11月30日

カール・ユーハイムと木見金治郎

このブログでは、いくつかの個人についてその人生をトレースしているのだが、特に力を入れた一人にカール・ユーハイムがいる。日本のバウムクーヘン王。

非常に簡単に彼の人生をまとめると、1886年ドイツに生まれ、幼少の頃にビール醸造業者だった父を亡くし、菓子職人の修業を積む。20歳の時に、ドイツが中国から長期租借していた青島(チンタオ)に渡り、ドイツ人街で菓子職人として仕事を始める。1914年、27歳の時、ドイツ人女性(エリーゼ)と結婚。

しかし、まもなく第一次大戦に突入し、青島は日本軍に占領されることになる。カールは捕虜となり、日本の大阪(後に広島)の収容所に送られる。その後、終戦となり1918年に釈放となるが、彼は妻子とともに日本に残る決意をし、明治屋銀座本店のドイツ料理店の菓子部門のマスターとなり、バウムクーヘンを焼き続ける。

そして、ある程度の蓄えができた1922年に独立し、横浜関内に、始めての店(ドイツ料理店)を出す。ところが、まもなく関東大震災が発生し、あとかたもなく店舗は壊滅。無一文で神戸に避難。

そして、彼ら一家は神戸で若干の幸運に恵まれ、三宮に喫茶兼洋菓子店を出店し、その後、業容を拡大していくのだが、やがて、時局は再び戦争の暗雲に包まれ、夫妻別々の時期に精神的疾患を患ったり、長女が早世し、長男がドイツ兵として出征(戦死)したりし、菓子の原料の配給もなくなり、1945年の神戸大空襲で再び店舗は壊滅。日本降伏の前日、8月14日に六甲山のホテルで天国に向かう。


3ba7a88c.jpg私は、戦争の世紀の大波にもまれた彼の人生を追うため、ある一冊の書物を入手していた。「カール・ユーハイム物語/頴田島一二郎・新泉社」。大変な苦労をして入手したのだが(もちろん合法的に)、相当、読むのが難しい本なのである。エピソードとか、歴史とか、かなり順不同で書かれている。因果関係がわかりにくい。この著者のこともよくわからないままなのだが、教師の傍ら、歌人として数冊の歌集を出版し、若い時分と晩年に伝記をしたためているようだ。

「カール・ユーハイム物語」はその晩年の作なのだが、カールの妻、エリーゼから聴き取った話や、カール・ユーハイム社の資料などから書いているのだろうが、何ヶ所かに年代的因果関係とか地理的関係とか疑問を感じていた。もちろん、一般的に、伝記には思い切って著者が補完、推論を入れなければ完成しない場合もあるが、読むだけならともかく、底本として、まとめ直そうというなら、今度はその人間の責任になる。

そのいくつかの疑問の一つが、神戸時代のエピソードとして、関西の将棋指しで、阪田三吉と人気を二分していた木見金治郎についての記述だった。頴田島は、著書の180ページから181ページにかけ、こう書いている。

<カールとチェス>
 夕方になると三宮バーに出かけるのは、ビールのためばかりではなかった。一つにはチェスの相手探しもあった。チェスともなれば時間はまたたく間にたつ、その末が店から女の子の迎えになるということだ。店に来るドクター・フォクトなども、つかまるとどこでも相手にされる。カールの坐る椅子は定まって三番テーブル、背中にナショナルのレジスター。その席で来客とチェスを闘わせている姿はよく見かけられた。
 大阪にいた将棋の木見金次(ママ)郎が店に来た時など、待ってたとばかり、チェスの相手にした。しかもカールの方が強かった模様で、「マツサン、負ケテモ、勝ッテモ、私オ金出シテ、食事サスノ」と、アマさんにいっていた。
エリーゼが病気静養にドイツに帰国中など、店から帰ってマツの料理で食事をすますと、
「サヨナラ」といっては、どこにともなくよく出かけていった。そして、朝になって帰って来たりした時は、
「私、東京ニ行ッテ来マシタ」と冗談と、はっきりわかる言い方でマツを笑わせ、朝食をすまして店に出かけるのだったが、それもチェスに思わず夜を明かしたのかもしれない。
 エリーゼがいたら、あまり遅くまでチェスに打ち込んでいると、電気を消されてしまうのだから。

最大の疑問は、「しかもカールの方が強かった模様で、・・・」というくだりで、実感として、将棋八段ともあろうものが、将棋とほぼ同じようなゲームであるチェスで、素人のカールより弱いというようなことがあるのだろうか?ということ。そして一つ疑いだすと、この底本に、疑問の数々が浮かんできていた。

まず、銀座に行くと、本に記載された何軒かの老舗の位置関係が違う。横浜では、書かれたとおりの場所では、関東大震災の時の記述との関係で若干無理がある。大阪の捕虜収容所から新築の広島の似島収容所への移送も、スペイン風邪流行のためとなっているが1年異なるとか・・

そういう部分を一つ一つ調べながら、新たなカール・ユーハイムを組み立て直さなければならなかったわけなのだ。

3ba7a88c.jpgそして、一方の木見金治郎も謎の多い人物なのだが、先日、やっとおぼろげな年譜が描けた。

1878年、岡山県倉敷の古鉄商の家に生まれる。カール・ユーハイムより8歳年上。その後、20歳頃までは実家でブラブラしていて、賭け将棋をしていたようだ。ところが、後の名人、関根金次郎という大強豪の前に一ひねりされ、古今の定跡書を読み、将棋の勉強を始める。1914年に家業を捨て37歳で東京に出てプロ棋士になる。その頃、カールは青島で結婚し、運悪く、第一次大戦で捕虜となる。

そして、戦争が終わった頃、再び古鉄の相場が上昇し、木見は大阪に戻り古鉄商を再開するが、将棋と力仕事の両立は難しく、うどん屋を開業し、弟子に出前持ちをさせながら、将棋棋士の道を進む。当時、大阪朝日の阪田三吉に対抗し、大阪毎日のスター棋士になる。その頃、カール・ユーハイムは関東大震災に罹災し、無一文で神戸に逃れてくる。

頴田島の記述の中で、エリーゼの帰国中に三宮バーで木見とチェスに打ち込むと書いているが、エリーゼが病気療養でドイツに帰った時期は、1926年から1927年なので、ユーハイムの神戸の店が軌道に乗った頃だし、木見にとっても、比較的平和で順調な時期だったはずだ。

そして、その後1937年に木見は東京に上京し、名人戦リーグに参加する。そして惨敗。また、同年、盧溝橋事件が勃発し、そのニュースを知ったカールは近づく戦火を予想したのか情緒不安定となり、入退院を繰り返すようになる。二人の二つの事象が関係あるのか、ないのかはわからない。

カールは1945年、58歳で亡くなり、8歳年上の木見は1951年、73歳で亡くなる。弟子に大山康晴、升田幸三という巨星を得る。向こうの世界ではカールの方が6歳年上になる。

頴田島は、チェスではカールの方が木見より強く、カールが勝っても、相手に食事を奢っているように書いているのだが、おそらく、木見の前歴から言えば、木見が賭けチェスで勝っていて、カールに食事代を払わせていたのだろうと推測できる。カールは、遅い帰宅の際、家人らに心配させないように言い訳をしていたのだろう。と、深読みして、微笑みたくなる。

そして、今頃は、あちら側の世界で、二人でチェスを楽しんでいるのだろう。ただし、持ち時間はいくらでもあるのだが、食事代を賭けるわけにはいかない。  

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2006年06月23日

カール・ユーハイム物語(最終神戸編2)

073e1577.jpg(4)カールユーハイム終焉の地
第二次大戦の末期、神戸は大空襲を受ける。重要港湾であるとともに、川崎グループの造船所などの軍需産業があったからだろう。昭和20年(1945年)6月5日の大空襲で、神戸市内は大破壊され、ユーハイムズ本店と工場は焼失する。したがって営業困難となり夫妻は六甲山にある六甲ホテルに疎開する。長女ヒルデガルトは既に大正15年に病死し、長男カールフランツ(ボビー)はドイツ軍潜水艦で日本を経ち、ドイツ軍兵士として東部戦線で従軍(実はドイツ降伏の2日前、5月8日にウィーンで流れ弾にあたり戦死したのだが、その報を夫妻は知らなかった)。

一方、カールはしばらく前から心身ともに衰弱。原爆投下の報を聞き、さらに8月14日午後6時、「神様か、菓子は」という言葉を残し、六甲ホテル「XXX号室」で永眠する。玉音放送の18時間前である。

073e1577.jpgこの話も「カールユーハイム物語(頴田島一二郎)昭和48年」に記されているのだが、実際には日本がポツダム宣言受け入れを打電したのは、日本時間で8月14日の午前11時である。神戸の外国人たちは独自のネットワークで情報を交換していたらしいので、カールは亡くなる前に終戦を知っていたかもしれない。


そして、当時の六甲ホテルは現在は六甲山ホテルと名称を変えているのは知っていたのだが、さらに調べると戦前のホテルは旧館として、そのまま客室に供しているということである。ということは・・


どうも、表から頼むと、このホテルは眺望の絶景さから、超高級単価なのであるが、実際はあいている時には割安ルートがありそうである。特に6月は梅雨の季節。眺望も期待できない。元日本生命課長が「給料が高すぎて申し訳ない」と退職して、最初のベンチャーに失敗するも二つ目のベンチャーで大成功したホテル予約サイト「一休.COM」で検索すると、新館ツインのシングルユースが東横イン価格で予約できた。営業妨害になるので、ここに部屋番号は書かないが、カールの亡くなった部屋も知っているのだが、さすがにその部屋に泊まろうという度胸はない。


最寄のJRと阪急の駅からの送迎バスで曲がりくねった道を上り続けて山頂768メートルの場所にホテルはあった。途中で何度も気圧減少で耳が痛くなる。何らかの邪道目的のためにホテルを使用しようと思うカップルは酸素マスクを持っていったほうがいいかもしれない。救急車もすぐにはこないだろう。そして、幸運にも六月の神戸の夜は快晴であり、屋上展望台からの夜景はかなり最高だ。夜景について余計な言葉を並べるのはやめる。

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8月14日の夜、亡くなったカールは、すぐに医師により死亡診断書が書かれ、翌日葬場で荼毘に付されるのだが、この山の上では、すべてが困難を極めただろうと思われる。エリーゼは骨壺を背中のリュックに背負ったまま、青谷にあった自宅に戻り、夫妻にとっての戦争は文字通り終戦を迎える。


(5)芦屋霊園
その後、エリーゼは、いったんドイツに帰り、行方不明の長男の戦死を聞くのだが、まもなく再来日し、ユーハイムを復活する。その後、昭和37年3月に経営不振に至り、マチキンからの多額の借入金が返済不能に陥り、乗っ取りの危機が迫る。その時、エリーゼ夫人からの懇願に応じ、代表取締役専務として取引先バター会社社長からユーハイムの経営を肩代わりした河本春男が一年で高利貸しに借金返済、以降、中興の祖となる。昭和46年5月2日エリーゼは神戸六甲で永眠。「カール・ユーハイム物語」では芦屋霊園で一つの墓に眠る、と書かれている。また、河本春男氏の著書「その気になれば-ユーハイムの年輪(玄同社)・昭和56年」の中でも「芦屋霊苑に眠る」との記載がある。

ところが、それが気にかかる。神戸にはれっきとした外国人墓地がある。調べると、ユーハイムの商売敵のモロゾフ氏は外国人墓地に眠る。なぜ、神戸ではない隣町の市営墓地にユーハイムは眠るのか。

私は、神戸外国人墓地の事情が影響したのだろうと推定する。元々、神戸外国人墓地は手狭で一ヵ所が二ヵ所になり、さらに、墓地不足のため、昭和36年に現在の場所に移転集約している。ユーハイム家が最初に墓地を必要としたのは長女ヒルデガルトが亡くなった大正15年か、カールのなくなった昭和20年かのいずれかだったはずだが、神戸の外人墓地に空きがなかったのだろうと推定する。ただし、現在、神戸の外国人墓地は一般に公開されていない。親族が事前に連絡を取った場合のみ門を開くことになっている。となれば、もはや訪れる親族のいないユーハイム一家にとっては、オープンな市営霊園で、たまに訪れる好事家ブロガーの到来を待つほうが幸せなのかもしれない。などと考え、芦屋駅から阪急バス12号線に乗る。

予想通り、バスは長い坂道を登り、霊園に着くが、墓地は階段状に山の中腹まで広がる。無駄な労力は使わず、管理事務所で場所を聞くが、およその場所は管理員の方の記憶の中にあるのだが、特定できない。どうも、管理費を親戚が払っていないからリストには日本人の名前しかない。そのうち、「河本」という元社長の名前に目がとまりやっと特定できた。霊園の有名人リストのノートに「村山実」「中内功」と並んでリストアップしておくように依頼しておく。

073e1577.jpgそして、山の中腹、向かって左端のほうにある41区−13号(41区のかなり上の方)にユーハイム家は眠っていた。美しい御影石の墓石である。正面には、こう刻まれている。「平和を創り出す人達は幸いである」。文字はすべて日本語で、カールとエリーゼ名前と生と死の日付が刻まれる。背面に回ると、思ってもいなかったカールフランツ(長男ボビー)とヒルデガルト(長女)の生と死が刻まれれていた。カーネーションを2本しか用意していなかったので、思わず謝るしかない。向かって左側の側面には、1964年建之と刻まれ、小さく(株)ユーハイムと添えられる(墓に会社の名を刻むとは、不吉な気もするが)。つまりエリーゼがなくなったのは1971年なのだから、この墓石は既に完成していたわけだ。ボビーは妻も子もいたのだから、本来ドイツに墓があってもよさそうなのだが、何らかの事情があるのだろうか。もちろん、芦屋でも十分にふさわしい場所だとは思える。

そして、個人的に続けてきたカール・ユーハイムの追跡も、ここ芦屋の丘陵中腹にて終了することにする。

 了  
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2006年06月22日

カール・ユーハイム物語(最終神戸編1)

バウムクーヘンの王様、カール・ユーハイムの人生については、2006年1月18日から8回にわたり書いたのだが、さらに補足するため神戸へ行った。筆を置くにも、書き残しは嫌だから。

0acdb6ee.jpg(1)メリケン波止場
ユーハイム一家にとって神戸の桟橋には二回の想い出がある。一度目は、カールが第一次大戦のドイツ人捕虜として中国青島で拘束され、1918年まで5年間捕虜収容所に拘束され、戦後解放されたあと、東京の明治屋のレストラン部門「カフェ・ユーロップ」の菓子部門責任者として日本在住が決まってから、中国青島にいた妻子(エリーゼとカールハインツ(ボビー))を出迎えた場所だ。1919年1月25日07時00分神戸着の二人をカールは桟橋で4時間も待たせてしまう。東京から特急に乗らずにケチったため、遅刻してしまう。

そして、二度目は1923年の関東大震災の時。横浜へ出店して2年目のユーハイムの店は倒壊。さらに混乱状態の中、長男のボビーは行方不明になる。失意の夫婦は生まれたばかりの長女ヒルデガルトと三人だけで横浜を外国人専用避難船で神戸に脱出。しかし、奇跡的にボビーは4日後、フランス人女性の尽力により横浜脱出。神戸港で毎日こどもの帰還を待つ夫妻の前に現れる。

0acdb6ee.jpgその歴史あるメリケン波止場も、昨今の船舶大型化の結果、桟橋間の海面を埋め立てられ四角い土地のメリケンパークとなる。つまり、桟橋があったのは、この広場の東側と西側の部分で、中央部分は海だったはずだ。そして、西側にはポートタワーという物体が立っているのだが、どうみても横浜のマリンタワーのコピーのように見える(このように、神戸と横浜は多くの共通点があるのだが、後で作るほうが「マネ」をするのは、やめたほうがいい)。

ところで、このメリケン波止場の語源だが、メリケン=アメリカンである。つまり神戸はアメリカときちんとつながっていたのである。「赤い靴」の論考の中で、金田一春彦先生が、”横浜は米国とつながっていて、神戸は欧州とつながっている”と言ったとされるのは、日本郵船、東洋汽船といった日系船社の旅客便に限った話であって、外国船社や貨物便は横浜経由でアメリカに向かっていたし、さらには明治末期の移民船などは神戸から直接、南米に向かっている。

0acdb6ee.jpg(2)カール・ユーハイムの店舗(1930年)
頴田島一二郎氏著「カールユーハイム物語」によれば、震災の後、途方にくれたカールは、たまたま知人であったロシア人舞踊家アンナ・パブロバに出会い、彼女が所有していた三宮の一等地に「ユーハイムズ」の店舗を開店する。さらに経営が軌道に乗ったところで裏手に工場を建てる。店舗の写真は実在するし、古い番地は三宮町1丁目309番地ということで、近くには電停レンガ3丁目という市電の停車場があり、生田署も近くにあったことになっている。

0acdb6ee.jpg神戸に行く前に色々検討したところ、三宮駅の北、今の東急ハンズのあたりではないかと思っていたのだが、念のため神戸市立博物館(入口にロダンによる男性ヌード像があってちょっと恥ずかしいが)で古地図にあたると、どうも全然予想と異なっていて、駅の南側で三宮駅と大丸の中間あたりで、微妙に市電が小カーブするところのようである。裏の方には、今は移転した生田署もあったようだ。現在、神戸信金の小さなビルが建っている場所を第一候補として、となりのブロックの高層の朝日ビルを第二候補にしておく。

そして、気付いたのだが、横浜での最初の店舗も旧外人居留区と日本人居留区の接点の部分に店舗を開き、神戸でも外人居留区と日本人居留区の接点の場所に店舗を開いていることだ。マーケティング上、最高の立地であったわけだ。外国人でも日本人でも入りやすい店というわけ。

(3)ユーハイムの店舗(現在)
0acdb6ee.jpg三宮側から元町商店街に入ると、横浜の元町と違って、商店街に屋根がついていた。したがって、全体にちょっと暗い。すぐに左側に渋い色調の外壁の「ユーハイム本店」がある。(ユーハイム(株)の本社ではない。)

店内には、色々な新製品が並んでいて、たとえばバウムクーヘンでも上中下や極上まである。創業時に有名だったバウムクーヘンの量り売り(実際には切り落とされたものがグラム売りされている)もある。喫茶コーナーは二階にあり、コーヒーとバウムクーヘンのカット切り生クリーム添えを頂く。2階店舗の一方の壁面には古いドイツ人のポートレートが並ぶが、ユーハイム家の家族のものと、そうではない一般ドイツ人の写真がまざっている。その中で、絶対に見逃せないのが、向かって右端にあるちょっと大き目の額に入った、中央にエリーゼが椅子に座り、その隣にボビー少年が立っている写真だ。ボビー少年のその後の悲運とエリーゼの人生を思い出すと、一気に悲しさが湧き出してくる。残された写真は残酷だ。

次回は、カールの最晩年。  
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2006年02月27日

カール・ユーハイム物語(補1)

32984a8f.jpg先日、横浜関内を散策した際、ユーハイム1号店の場所を特定すべく歩き回った。結論から書くと、はっきりとは特定できなかった。が、二ヶ所の候補地に絞ってみた。少し事情を書いてみる。

私が、ブログ版ユーハイム物語(1−8)を書こうとしたのは、元々、2004年12月に、図書館から借りてきたある本を読んだことから始まる。「社名・商品名の謎/田中ひとみ(日本文芸社)」。もちろんこの本は、日本の老舗とか有名ブランドについて、書かれた本で、ユーハイムの名前は一覧表の一行に過ぎないのだが、妙に気になっていた。海外ブランドと思いこんでいたこともあるし、ドイツ人捕虜というのも心を落ち着かなくさせる。しかし、その時は調べる方法すらよくわからず、単にブログ用手帳に「ユーハイムのナゾ」と一行書かれるだけだった。

ところが、動き始めたのは、昨年の後半、高輪にある味の素社が運営する「食の図書館」で調べ物をしていたときだった。ふと思い出し、ドイツ菓子のコーナーへ行くと、ユーハイム関係の本が2冊あった。パラパラと見ると、うち一冊「カール・ユーハイム物語(頴田島一二郎)」という本はかなり詳しい事情が記されている。後日、その本を入手しようとしたのだが、これが大苦心のはじまりとなる。なにしろ1973年の本である。新泉社。その後、ネット上をうろついて、原価2000円程度でやっと黄ばんだ古本を手に入れる。そして、読み始めるのだが・・・

32984a8f.jpg実は、この本は読みにくい。彼の人生を、順に書いてあるわけではなく、手法として時間の逆転を多く使ったり、エピソードの話になると、エピソードごとに時間を追い始める。読み流すだけならいいが、まとめようとすると、大量のメモを作らなければならない。そして、いくつかの記載については、少し著者の誤解と思われる部分がある。古本には、何ヶ所かに赤鉛筆の訂正まで入っている。例の明治屋レストランである銀座ユーロップの場所の記載についても、近隣の他の老舗店舗の位置関係が腑に落ちない点もある。現地へ行って気付いた。その他にも、少し脚色を感じる点もある。

となると、この作者、頴田島一二郎氏のことをどこまで信じるかということが重要になるわけだが、この情報は少ない。まず、読み方は「えたじま、いちじろう」ということ。わかっている情報でいえば、1901年東京生まれ(中央区神田ということだが、神田は千代田区である)。1918年京城中学卒。和歌の道に進み、1931年文芸時報社に入り、投稿歌集ボトナムの編集にあたる。その後、不明の時期があり、戦争協力をしていたらしい(想像)。1945年に京城で終戦をむかえ、戦犯にならないように逃避行を続ける。以後46年間尼崎に居住。歌集ボトナム編集長にもなっている。1993年に横浜市戸塚区で没。92歳。戦前は6冊の小説を書き、歌集は戦前戦後に計7冊。戦前の小説のうち何冊かは、駐留軍により没収されている。「カール・ユーハイム物語」は72歳の時の作である。

彼のことをもう少し紐解いてみたいとは思っているのだが、まだ糸口は少ない。しかし、編集長など歴任した人物が嘘八百を書くとは思えない。やはり兵庫県で東京、横浜のことを書くとなると若干の不正確性が出るのかもしれない。

32984a8f.jpg横浜の店の部分の記述では、横浜駅(現桜木町駅)から、弁天橋を渡り、1.5キロ弁天通りを歩いたところにある、とされる。しかし、実際は現在の弁天通はそれほど長くない。関内の中央には県庁、日銀支店などの官公庁と横浜公園(現横浜球場)が存在し、海に向かって、左側(旧日本人居留区)と右側(旧外国人居留区)にエリアがわかれている。弁天通りは左側である。彼の記述では左側にあるのだが、関東大地震の時の避難の状況からいうと右側にあるほうが自然である。カールの息子のボビーは、家族と逆向きに迷ってしまって横浜公園に行ってしまい、両親は堀川を渡り、右の方の元町へ向かうのだが、そうなると元町に近い方にありそうなものである。

いずれにしても、まず弁天通りを歩いてみる。ナイトクラブがビルに鈴なりになっている。銀座日航ホテル裏と言った感じだ。通りの入口にはソープまでもある。そして道は官庁街にぶつかる。もし、この道沿いであったなら、官庁そばの東京電力のあたりだろうと思える。まあ、この道を歩き、弁天橋をわたったのだから、ユーハイム夫妻と空間を共有したということで満足することにする。次に、開港資料館で当時の地図を確認し、山下公園方面(つまり関内の右側)へ向かう(赤い靴のナゾも追っているからだ)。そうすると、海岸近くに、かなりインスピレーションの働く場所があった。

さほど一等地とはいえない場所だが、ホテル・ニューグランドの裏の道に「明治屋」のスーパーがある。思い出してみれば、ユーハイム夫妻は明治屋銀座店から独立してこのあたりに店を出している。そして、関東大震災で一帯が倒壊したあと、神戸へ避難した後、一度単身で横浜へ戻っている。そして、再建不可能という判断をして神戸で店舗を開くのだが、あるいはその際、横浜の権利を明治屋に譲ったのではないだろうか?明治屋のHPで見ると、当時、明治屋は横浜が本店だったが、場所は県庁より左側で、震災で全壊している。その後、本社は東京で再建。となれば、現在の明治屋ストア横浜山下店の場所はかなりユーハイム1号店と状況は一致してくるのだが確証はない。

しかし、とりあえず、ユーハイムの関東での足跡を追うのはここまでとする。あとは、神戸であるが、まだ自分なりのMAPは描けていない。ユーハイム本店の場所、また、カールの亡くなった六甲山ホテルは当時の建物を保存し、そのまま宿泊施設で使っているということがわかっている(当時の109号室が実在しているかどうかまではわからない)。そして芦屋霊園のユーハイム夫妻の霊前に、ブログ版ユーハイム物語のプリントアウトを供えねばならないと思っているのだ。  
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2006年01月23日

カール・ユーハイム物語(8)

ユーハイムはもちろん、ユーハイムズ(JUCHHEIM'S)であった。カールとエリーゼの夫婦の二人で築き上げたものであることは間違いない。となれば、1945年8月14日にカールが亡くなった後のエリーゼについても書かなければならない。


カールは六甲山ホテルで亡くなったのだが、もはや日本には棺となる木材も満足にない。急を聞き集まった在留ドイツ人たちは海軍の水葬に使うような麻袋にカールを包み、皆で火葬場へ担いでいったということだ。何度かの新規開店の際、金銭的余裕なくベッド代わりに麻袋の上で寝ていたカールには、それも似合いなのかもしれない。エリーゼはすっかり骨になったカールを背中のリュックに背負い、自宅に持ち帰ってから、お手伝いの女性に、「この中に、だんなさん、いる。」と短く言ったそうだ。


そして、エリーゼにはさらに苦難の道が続く。連合国の指示により、長く在住した日本からドイツに送還されることになる。長男ボビーの行方はまだわからない。ボビーの妻、マルゲリータと4人の孫たちと一緒にニンローデに向かう。この町は、カールが神経症で入院した町であるとともに、ボビーとマルゲリータが結婚式をあげた町なのだ。

そして、エリーゼは23年前、関東大震災の時、行方のわからなくなった9歳のボビーを探し回った時と記憶を重なるかのように長男の消息を追う。戦友を訪ねまわり、彼がノルウェー、フランス、イタリア、ギリシア、キプロスと各地を転戦したあと、ドイツが全面降伏した1945年5月にはウィーン郊外で情報班下士官だったことまでをつきとめる。しかし、今度は幸運はなかった。ドイツ降伏のわずか2日前、5月6日、ボビーは流れ弾にあたり死亡していた。30歳だった。


7c5b2037.jpgしかし、ユーハイムは死ななかったのだ。かつての職人たちが連絡を取り合い、ブランドの再興をめざしたのだ。神戸生田に店舗が復活したのが1950年(昭和25年)。そして1953年にはついにドイツから再び、エリーゼ・ユーハイムを迎えることになる。エリーゼが自ら店頭に立っている写真も残されている。

この後、ユーハイムには河本春男というこれも変わった経歴の持ち主が加わり、社長となったエリーゼを支え、近代的な大会社に育てていく。

そして、ついに1971年(昭和46年)5月2日、六甲の麓でエリーゼ・ユーハイムは永眠する。79歳。彼女もまた運命と苦闘した一人の偉大な地球市民であった。

夫妻は今、故郷から遠く離れ、芦屋市にある芦屋霊園の一つの墓に眠っている。


時代は一気に現代。2005年。JR東日本が仕掛けた「エキナカ商店街」であるecute(エキュート)。大宮駅、品川駅と出店が続く。ecuteでは洋菓子はコアグッズであり、競争は厳しい。そこへユーハイムは新業態で出店しているのだが、新しいブランド名は、ボビー・ユーハイムという。


7c5b2037.jpg私は、このシリーズを書き終えるにあたり、ユーハイムのレストランを探していた。どうもルーツの一つである銀座や横浜などにはないようだった。ネット上で調べているうちにJR中央線千駄谷駅近くにあることがわかり、近くに所用があったこともあり、遅い昼食をとることにした。東京体育館の向かい、津田ホールの地下にレストランはあったのだが、かつてこの道を故あって100回は通っていたことに気付く。

初めて入った店内は地下ではあるが明るく、若い女性達で華やぐ。初めてユーハイム夫妻が横浜に出店したときのランチが1円25銭だったことを思い起こし、税込み1,350円のランチにしようかとは思ったが、スープ、オムレツ、ハーフパスタ、パン、デザートにコーヒー付きを食べられるほどの胃袋は過去のものだ。ドイツの香りが欲しく、ハンバーグランチにする。たまねぎやパン粉といったつなぎをほとんど使わないハンバーグはやや固めではあるが、甘みは少ない。そして、付け合せはマッシュルーム、ナスのバター焼き、クレソン、そしてジャーマンポテトという組み合わせなのだが、ジャーマンポテトを口にしたところ、ますます胸がいっぱいになってしまった。

外に出れば、折から雪雲がひろがり、北風が笛を吹き、めまいと息苦しさに襲われ、空を向いて歩くことにした。  
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2006年01月22日

カール・ユーハイム物語(7)

巨大な津波が押し寄せる前には、突然に潮が引き、美しい砂浜が現れるという。ユーハイム家にも一方で平和と希望の兆しと、他方、迫り来る運命の足音が交錯することになる。

1932年(昭和7年)、ドレスデンにあるフリーメーソン系の学校に行っていた長男ボビーが退学し、日本に戻ってくる。そして、菓子職人の道を進むことを宣言する。17歳の決断。もちろん、両親ともそれが、最高の望みだったわけだから、家に活気が出てくる。そして、一応の技術を教えたあと、再度本国の専門学校に送り出すことになった。ボビーはその後、1939年(昭和14年)に日本に戻るが、その時はすでに2年前に結婚したマルゲリータ夫人とこどものカールハインツと一緒であった。ボビー夫妻はこの後、続けて3児を出産する。

また、経営が軌道に乗ったあとは、時間を見て夫妻で日本国内の旅行をしていたそうだ。奈良・京都はもちろん、夏を軽井沢で過ごしたり、菅平でスキーをしたり、箱根宮の下の富士見ホテルにも泊まっている。50歳を少し回った頃、彼は人生の前半での苦労を振り返り、長男への事業の相続を考え、残る余生を妻と楽しもうと、ごく普通に考えていたに違いない。


しかし、世界中の人々は、それからの10年を恐怖の剣の上で走り回らなければならなくなる。

1937年7月7日。7が三つ並んだ幸運であるべき日、カール・ユーハイムの頭脳に大きなハンマーが振り下ろされた。盧溝橋事件が発生。日中間で銃弾が飛び交う。この事件をラジオで知った瞬間、カールは大きな動揺を受けたそうだ。ショックでふさぎこむ。この後、カールの日常行動には徐々に変調が現れる。馬に乗って街を歩いたり、脈略のないことばを話したりするようになる。大阪長瀬の神経科に入院することとなるが、隙をみて逃げ出したりしている。このため、エリーゼは意を決し、再度、ドイツに戻りカールをニンローデの病院に入院させている。カールの精神には、再度近づく軍靴は耐え難かったのだろう。

一方、戦局の拡大は、ユーハイムの店にも大きな影響を与える。1938年(昭和13年)には、従業員の中から初めての召集があり、その後も一人また一人と櫛の歯が抜けていくのである。さらに、1939年(昭和14年)3月には今までチーフとして、大黒柱だったタムラ氏が通勤中に脳卒中で急死する。

さらに戦局は、アジアにとどまらず欧州で爆発。1939年9月1日。ドイツはポーランドに侵攻。9月3日、フランス、英国が対独宣戦布告を行う(西部戦線)。

1940年、多くの困難に囲まれたエリーゼは再びドイツにわたり、以前、カールの腫瘍摘出手術を執刀したヘカテル医師を訪ね、入院中の夫の病状について相談しようとする。しかし、ベルリンについた彼女を待っていたのは、数日前に死亡した、へカテル医師の死亡を報じた新聞であった。しかし、幸いなことに、カールは以前よりは回復していて、まさに世界戦争の間隙をつき日本に帰ってくる。1940年(昭和15年)6月。カール53歳。

ドイツは翌1941年6月22日に対ソ戦開始。日本も1941年12月8日、真珠湾を攻撃する。

そして、歴史の非情さは、27年前、母国ドイツとは遠く離れた中国青島にいたカール・ユーハイムを運命の網に捕らえたように、とうとう、神戸にいたボビーにも手を伸ばしたのである。1942年(昭和17年)8月、神戸のドイツ領事館がボビーを呼び出す。召集。まもなく彼は、潜水艦によってドイツ本国に向かうのである。

その後、日本の国力は日々に低下し、ユーハイムは原料も入手できなくなる。かろうじて神戸に駐屯していたドイツ潜水艦水兵が持ち込む小麦粉でドイツ兵用のパンを焼くだけになる。まれに、配給でわずかな原料が入れば、そのまま闇で流せば儲かると知っていても、一枚でも多くと、できる限りの菓子を作っていたそうだ。

afa4be17.jpgしかし、カールの青島、銀座、横浜、神戸と39年間の菓子職人としての苦闘が終わる日が来る。1945年6月5日。神戸大空襲。エリーゼの避難していた六甲山の知人宅もカールが住んでいた自宅も難は逃れたものの、工場は壊滅。

失意の夫妻は六甲山ホテル109号室に住まいを移すことになるのだが、二つの新型爆弾の被害が報じられる中、1945年8月14日、午後6時、カールは安楽椅子に座ったまま、安らかに深い深い眠りに付いた。58歳。死亡診断書に記された病名は中風症。

時は、同日の御前会議でポツダム宣言受諾が決定し、最終受諾文書を作成中の時刻である。そしてカールの死の7時間後、1945年8月14日、23時、連合国側に打電。

永眠の数分前、エリーゼに語ったことばは、「私は死にます・・・けれど、平和はすぐ来ます・・・神様か、菓子は・・・」

そして、ユーハイム物語は、最後の1ページを残すだけになっている。  
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2006年01月21日

カール・ユーハイム物語(6)

1923年9月1日の関東大震災のあと、東京、横浜に居住していた外国人の多くは、神戸に避難をしている。行方がわからなくなった9歳の長男ボビーを残し、カールとエリーゼの夫妻は生後2ヶ月の長女ヒルデガルドとともに英国船ドンゴラ号で神戸へ到着。9月6日に到着すると、とりあえず同胞で神戸塩屋のウィット宅へ間借りすることになる。

その時、家族を支えたのは、妻のエリーゼだった。長女の世話、傷ついた夫の介抱、さらに、長男ボビーの消息を知るため、連日横浜から到着する避難船の間を駆け回り、情報を求める。そして、夫妻への果報は9月10日、横浜からの最終便がもたらした。フランス人たちがフランス船籍で到着。待合場所のオリエンタルホテルに最後の望み持ち向かったエリーゼの前に、ボビー・ユーハイムが現れた。

横浜の店舗で父の救助のため、助けを求めるうちに煙に追われ、現在、横浜球場のある横浜公園に逃げ込むしかなく、そこで二晩を過ごしたということだった。そこを、ユーハイムの馴染み客の、あるフランス人夫人が見つけ、自分のこどもということにして、神戸まで連れてきたということだった。(実は、この時の横浜の瓦礫を海に埋めたことによって生まれた土地が、現在の山下公園である。そして、第二次大戦の横浜空襲の時は、この横浜公園で多くの市民が亡くなっている。)

奇跡的に家族全員が助かったのだが、とりあえず、無一文になったわけだ。そして、新たな職を探し始めたカール・ユーハイムの前には、神戸トーアホテルのコックとして、従業員になるしか道はないような状況であったのだ。さらに、カールはもう一度、横浜に戻っている。そして、瓦礫の山になった元の自分の店舗で営業することが、事実上困難なことを確認している。まさに壁にぶつかってしまったように思えた。

ところが、ここから、いくつかの幸運が始まる。まず、三ノ宮の近くで、横浜時代からの顔見知りであるロシア人舞踏家であるアンナ・パブロバ夫人と出会う。その時、彼女はなぜか、空家情報を持っていた。三宮一丁目電停近くにある三階建ての建物である。彼女はカールに強く出店を求める。そして、彼にとって、この願ってもない話を実現するには、まず金の工面であったわけだ。

25c66d5d.jpgまず、震災に伴う「万国救済資金」を1,500円調達。さらにドイツ救済基金からも1,500円。さらに、原料の仕入れ先として、横浜時代からの業者から商品代1,000円までは貸付という形をとることに成功。ようするに自己資本比率0%で勝負しようとしたわけだ。新たな店名として、ユーハイムズを選ぶ。ユーハイムの後に夫妻で経営するという「S」を付けた。当然ながら、開店前は、またしても過去数度あったように麻袋の上で眠ることになる。

そして、開店と同時に菓子はどんどん売れていく。初日の売上は135円だったそうだ。2週間で、仕入れ業者からの借りの1,000円を返済終了。横浜店の壊滅の結果、故郷静岡に戻っていた、タムラチーフを呼び寄せる。今度は日本人ばかりのベガ(職人)さんとなる。さらにラッキーが続く。万国救済資金から借りていた1,500円が返済免除になる。

そして、開店後1年たち、1924年には、大阪、神戸のいくつかのホテルから購入の申し込みが入る。さらに代理店として、ユーハイムの看板で洋菓子を売る小売店も登場。製菓能力が間に合わず、ついに、店舗の近くの土地を借り工場を建てる。競合店がまだなかったこともあり、経営は好調であった。


しかし、日向の次にくるのが夕焼けであり、さらに深い夜であるように、ユーハイムも徐々に影に包まれていくのだ。

最初の不幸は1925年3月22日。2ヶ月前、高熱で倒れた長女ヒルデガルドが闘病むなしく他界する。さらにカールは右目の下にできた腫瘍が拡大してくる。そして、娘を失ったエリーゼは精神失調に陥る。長男ボビーは学校からは素行不良と注意を受けることになる。家族の崩壊の危機だったのだが、カールの選んだ選択は、妻子を一時、ドイツに帰すことであった。

エリーゼをクーベンツスタインのサナトリウムに入院させ、ボビーはドレスデンのキリスト教系の学校へ入れる。結果、その甲斐あって、1年でエリーゼは退院し、1927年3月、再び日本に帰ってくることができた。そして、夫妻は、はじめて店舗以外の場所に住居を構えることになった。熊内八幡の近くである。さらに、カールは懸案だった眼球下の腫瘍の摘出手術を受ける。当時神戸にいたヘヤテル医師の執刀による。そして、手術は成功。


25c66d5d.jpg次に訪れる危機は経営上の問題だった。それまでは、ユーハイムから菓子を仕入れて売る店が多かったのだが、神戸大丸が洋菓子部門を始めると、大丸のブランドに押されるようになる。さらに競合店が次々に生まれる。「洋菓子のヒロタ」もその一つだ。さらに、当時、ピラミッド・ケーキと言っていたバウムクーヘンの製作技術がいつの間に他社に漏洩してしまう。人の好いタムラ・チーフが他社に教えてしまったのだ。(なぜ、ピラミッドケーキという名前だったか、よくわからないが、開店当時の店内の写真の奥の棚に展示してあるバウム・クーヘンは「円筒型」というより「円錐型」に近い。そこが味の秘伝だったのかもしれない。)


その経営危機に際し、彼らがどうしたかというと、ベガ(職人)の入れ替えを行なったそうだ。タムラチーフが知り合いを頼み、全国から新しい職人を採用したということだ(リストラ?)。最後は、その妥協を許さない本場の味で勝負することになる。1930年には、天皇の神戸来訪時にの食後のテーブルにのるケーキとして、ユーハイムが納品している。なんとか経営危機は免れ、その頃から「神戸のユーハイム」は、「日本のユーハイム」へと拡大していったわけだ。


ところがユーハイムが神戸で苦闘をしている間に、世界情勢には大きな変化が始まっていた。1931年5月。ドイツ総選挙で、ナチスが第一党となる。カール・ユーハイム44歳、エリーゼ39歳、ボビー15歳。  
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2006年01月20日

カール・ユーハイム物語(5)

現在の明治屋銀座店は中央通り銀座二丁目にある。そして、モルチェというビアレストランが、併設されている。このモルチェとユーハイムが勤めていたカフェ・ユーロップとの関係はよくわからない。しかし、現在の明治屋のホームページに記載された社史にも、カフェ・ユーロップや、カール・ユーハイムの名が登場している。3年の雇用契約が切れたからといって、簡単にサヨナラということになったとも思いにくい。おそらく、明治屋から独立するにあたっては、かなり事前に調査をしていたのだろうと推定できる。

その中の一つが、横浜であった。たまたま、あるロシア人が経営するレストランが不振で、店舗を売却できないか打診があった。もちろん、横浜には外人居住地があり、洋菓子の製造ではベーシックな売上げが確保できるとの思いがあったのだろう。

af59b0dc.jpgそして、夫妻で下見に行く。場所は、現在の桜木町駅から県庁方向に弁天橋を渡り、弁天通り沿いにあったらしい。県庁の手前か先かは今ひとつはっきりしないが、現在のマリンタワーの裏の方ではなかったかと思われる。売りに出ているロシア人の店舗はまったく顧客が入らない。地の利なしとあきらめて帰る途中に寄ったレストランで食べた食事は、まずい上に二人で10円(現在価値1万円程度)だったらしく、それもまた彼らの意欲を折るものだったそうである(月給が350円もあったのだから1円の食事で騒ぐこともないだろうが、それがドイツ人なのだろう)。

そして、数日後、商談に来たロシア人に、「顧客もいないし、周りの店はまずくて高い」と断ったつもりだったのに、その冷静なエリーゼの観察をロシア人は逆手にとり、「奥様なら、成功すること間違いなし」と、ことばたくみに、上げたり下げたりで、とうとう店舗の売買が成立する。店名は、エリーゼの頭文字である「E」を冠した「E・ユーハイム」。

しかし、この時、付帯条件として、「そのロシア人の残した借金も肩代わりする」といううかつな契約が後に禍根を残す。開店までの期間に、次から次へと借金返済の督促がくるのである。

しかも、2階建て建物の一階の大部分をレストランにし、残りを菓子工房と調理場にし、2階の大部分を賃貸マンションのように貸室とすると、自分たちの寝室もなくなってしまったそうだ。そして、夫婦は、開店する店舗の営業方針について苦労することになる。競合店の研究などした結果、とりあえずは「ランチサービス」に傾注することとした。周りの多くの店が5円(現在価値5000円)のビジネスランチだったのに対し、なんとE・ユーハイムの戦略は格安の1.25円(1,250円、コーヒー付き)だったそうだ。そして、二人の思惑通り驚異の売上げを達成できるのだが、それに合わせるかのようにその後も、時々、見知らぬ借金取りがあらわれることになる。

af59b0dc.jpgそして、その菓子製造部門の職工であるベガさんとして応募してきたのが、元外国船のコックであったタムラ氏である。彼はその後、長くユーハイムのチーフであったのだ。さらに特筆すべきは夫妻には長男のボビーについて二人目のこどもである長女ヒルデガルドが生まれる。1923年7月9日。

初めての店はきわめてうまくいき、歯車は急ピッチで回転していた。ただし、その歯車はヒルデガルド誕生から僅か2ヶ月弱でまたも大脱線することになる。

関東大震災で横浜が壊滅したのだ。そして、横浜港も瓦礫が散乱することになった。

当時の横浜の震災状況が写真で残っていた。横浜市が保管している。弁天通りの一本となりの本町通りの写真があった。まさに、都市崩壊だ。E・ユーハイムの店でも11名が犠牲となった。内9名は食事中のお客様だったらしい。やはり1階の方が危ないようだ。地震の時間が11時58分ということから想像すると、いつも定刻12時から店に来ても待たされると思って、少し早めの食事を取ろうとしたお客様だったのだろうか。

af59b0dc.jpg地震が発生した時、カールは1階で菓子の製造中であり、崩れるレンガ壁の中、外に出る途中で瓦礫に足をはさまれる。2階にいたエリーゼはヒルデガルドと一緒に瓦礫の中からベガたちに救出される。そしてボビーは父カールの救出が一人では困難であることから応援を頼みにいくところを煙に巻き込まれてしまう。一方、近づく火災に追われ、無理矢理足を瓦礫から引き抜いたカールは足の皮の多くが剥かれてしまうが、何とか堀川を超え、妻と娘とともに南側に脱出することができた。そして、外人専用の救助船に乗り込み、被災外人受入れ拠点となった神戸港に向け脱出することができた。

しかし、その時、家族の所持金は、偶然カールのポケットに入っていた5円札1枚だけになっていた。そして、避難船の上のユーハイム夫妻には、その時、長男ボビーの消息を知るすべはなかったのだ。

舞台はついに神戸に移っていく。
  
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2006年01月19日

カール・ユーハイム物語(4)

e478a7f3.jpg第一次世界大戦が終結。日本に抑留されていた約5,000人のドイツ人捕虜は、その大部分が兵士であったこともあり、三隻の帰還船で海路ドイツへ向かったのだが、約200人は、日本に残ることになった。

もともと捕虜になったところからして日本側の意図が不明なのだが、その多くは中国青島で何らかの職業を営業していたものであった。つまりスペシャリストである。そして、本国ドイツを離れ、青島まで仕事に行くというものの多くは敗戦後のドイツに戻っても生活の糧を得ることは容易でないわけだ。

一方、日本側の事情も、貴重な欧州の人材をなんとか活用したいとの思惑もあった。たとえば現在、ハム・ソーセージを製造販売している「ローマイヤ」も、その時の職人の一人が興したのである。そして、カール・ユーハイムに目をつけたのが、当時、横浜に本社をおき、京橋に東京支店を出店し、さらに銀座にレストランと洋菓子店を進出させようとしていた「明治屋」である。そして、ソーセージ製造主任1名、レストラン主任1名と一緒に洋菓子部門の責任者として高額のサラリーと3年という複数年契約が提示されたわけだ。

記録によると、カールの月給は350円。カールの下には15名の日本人職人がいたのだが、「ベガさん」と呼ばれる彼ら職人の給料は15円から25円までだったそうなので、いかに当時のカールの給料が高いかわかる。

e478a7f3.jpg銀座の店舗は「カフェ・ユーロップ」という名前で、瞬く間に東京の名所となるが、他店の3倍もの単価だったらしく、著名人が多く出入りし、いくつかの文学作品の中に残像が残っているようだ。そして、そのカフェ・ユーロップの場所を調べたところ銀座尾張新町17番地。本当に銀座の真ん中である。中央通りと三原橋通りの交差する交差点(いわゆる銀座四丁目交差点)。日本でもっとも地価の高い場所である。現在の和光ビルの後ろ側の部分にあたるようだ(交差点に面した特等地には交番があった)。そのころから85年経ち、現在も元の位置にあるのは三原橋通りをはさんだところにある安藤七宝店くらいだ。

建物は地下1階、地上3階で、地下はソーセージ工場。一階が洋菓子工場と売店である。カールの仕事場である。そして2階が喫茶+レストラン。当時はドイツ料理というのが日本では好評だったのだろう。特筆すべきは、レストランであっても、一階で靴を脱ぎ二階に上がったそうである。そして、この2階にはもう一つ重要なことがある。それは、カールの妻、エリーゼが手伝いとして働いていたことだ。よくわからないが、例の20円くらいの給料だったのかもしれない。ただし、エリーゼは決して夫の職場には顔を出さなかったそうだ。

この時、妻がレストランの仕事を続け、その要領を覚えていたことが、その先の彼らの運命に影響することになる。さらに彼女は、結婚前、経理学校に通っていて、数値管理の知識を持っていたわけだ。

ここで、銀座でのカールの働きぶりなのだが、「仕事の鬼」だったそうだ。そして、徹底的にドイツでの仕事を再現していく。妥協なし。毎朝8時に出勤するや、窯炊きから始まるのだが、これが石炭2俵を燃やし尽くして熱を封じ込める。さらに、例のバウムクーヘンを焼く時には、3日にわたり樫の木の薪を燃やし続けたそうだ。そして、石炭機関車のように3年間働き続け、カフェ・ユーロップは繁盛し、3年間の雇用契約満了の日が近づく。そしてユーハイム夫妻は、夢であった米国行きを心に秘めてながら、国内各地での出店をさぐるわけだ。そして、彼ら夫妻と長男ボビーの家族の次の舞台は、横浜へと移るのである。1922年2月のことである。  
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カール・ユーハイム物語(3)

fb1e6187.jpgカール・ユーハイムが青島から捕虜として連行された先は、大阪捕虜収容所であった。1915年9月。この時、約5,000人のドイツ人捕虜を収容するため日本全国に16の収容所が用意されていた。大阪には540余人。実際、捕虜は特に何をするわけでもないが、長い戦争が終わらないと処遇が決まるわけでもない。さらに、当初はドイツの勝利を疑わなかった捕虜も徐々に憂鬱の度を増していくことになる。中には、ノイローゼになったり、見込みのない脱走に走るものが多発するようになり、カール自身も一日中、物思いにふけることがあったようだ。

実際、こういう状況は日本政府にとっても困った問題になっていた。単に、戦機を捉え領土拡大に走ったものの、長期にわたる捕虜の収容など想定していなかったわけだ。そのため捕虜たちの気晴らしのため、いくつかの企画が行われるようになる。例えば、2000坪の空地が用意され、フットボールが行われたり、一部の職人が大阪市内のパン工場に働きに出ていたりしている。少し後になるが徳島県の坂東収容所でベートーベン第九交響曲が本邦初演という記録もある(近く映画が上映されるらしい)。

そして大阪ではクリスマスパーティが計画されたのだ。

といってもドイツではないので、とりあえずたいしたことはできない。舞踏会、音楽会、仮装行列といった企画が立てられたのだが、カールが菓子職人であることを知っているものから、クッキーが焼けないか?と提案があった。パン工場へ働きにいっているものが、小麦粉と砂糖を調達し、寒さよけに使われていた七輪で、スペコラチウスという人形型のクッキーを焼いたのだが、これが非常に好評で、この日以降、収容所内で各種ドイツ菓子が作られていくのである。ただし、バウムクーヘンは無理だ。

戦局は、その後膠着状態になる。一つの動きはアメリカの参戦。1917年2月。もう一つはロシア革命である。1917年。ドイツが仕組んだ特別列車でスイス亡命中のレーニンをモスクワに送り込む。革命の混乱の中、1918年3月3日、ロシア(ソ連)はドイツと単独講和。このため、ドイツは再び息を吹き返し、西部戦線に集中するが、結局連合国軍の前に屈服。1918年11月11日。戦争終結。

一方、世界は第一次大戦末期にもう一つの大惨事に見舞われていた。スペイン風邪だ。インフルエンザの大流行に人類が初めて見舞われる。世界人口の半数が罹り、死者は4000万人から5000万人と推定される。第一次大戦の戦死者数は、軍人900万人、民間人1000万人。第二次大戦の死者は、軍人1500万人、民間人3800万人と言われるのだが、わずか2年のインフルエンザはこれらに匹敵する犠牲を出している。

そのため、狭い収容所でインフルエンザが流行した場合、まったく対応困難となるため、大都市大阪から捕虜収容所は瀬戸内海の小島に移転することとなった。広島県似島(にのしま)。もともと日本軍の検疫所があった孤島である。まったくさびしい限りである。そして、ここでも捕虜たちは退屈の限りであったのだが、彼らの高い技術を見込んで、広島市でドイツ物産展が開かれたのだ。展示即売会だったそうだ。手芸品、家具、ハム、ソーセージとならび、この時、ドイツ菓子も出展。そして、カールの念願でもあったバウムクーヘンが焼かれている。この時の日本人のカールの菓子に対する高い評価が、彼に日本での開業を意識させたのである。

そして、この時、展示会が行われた場所は、「物産陳列館」という建物であったのだが、今でも残っている。原爆ドームだ。

その後、1917年11月に第一次世界大戦が終わり、捕虜がすぐに釈放されたかというと、そうはならなかった。欧州の列強に米国、日本が加わり、長い長い戦後体制をめぐる会議が始まる。パリ講和条約の交渉は1920年8月までかかってしまう。途中、カールら捕虜の釈放が行われたのは1918年11月。原則はドイツまたは青島へ送還されるのだが、エリーゼとの手紙では、青島ではとても営業できないとのこと。また荒廃して領土の狭くなったドイツに帰っても生活できないという状況とのこと。カールはひとまず妻子を日本に呼び寄せることとした。日本で生活するか、米国へ行くかはまだ決めていなかった。

1919年1月25日、神戸港にエリーゼとカールフランツ(ボビー)・ユーハイム上陸。カールとボビーはこの時、初めて顔を合わしたのだが、ボビーは毎日、エリーゼからカールの写真を見せられていたということだ。

時にカール32歳。そして、さらに彼らの運命はねじれていくのである。  
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2006年01月18日

カール・ユーハイム物語(2)

0505a790.jpg20歳になった彼に持ちかけられた話。それは、菓子店協会のボスからの依頼なのだが、地球の裏側にある、青島で菓子職人を捜しているという求人話だった。

この青島だが、1897年にドイツ人神父2名が殺害された事件にことを発し、ドイツ軍が占拠し、翌1898年に独清条約で99年間の租借を規定したもので、多くのドイツ人が移住していた。

カールは、まだ20歳。新天地までは、ベルリンからモスクワまで「ショパン号」という特急列車に乗り、そこからシベリア鉄道に乗らなければならない。ただ、シベリア鉄道は数年前まではバイカル湖の手前で一旦終了し、船で湖を渡りさらに乗り換えなければならなかったが、日本との戦争が近づいた1905年に前線開通していた。そして、満州から中国領内に入り、出発から約2週間をかけ、ドイツ軍が入ったばかりの青島(チンタオ)へ到着することができた。1906年の末だった。

最初はプランペック氏の経営する洋菓子店の店員としてだ。当時、ドイツでは菓子職人は免許制で、一定の技術に達すると資格が与えられることになっていた。特に、バウムクーヘンは、完成までの行程が複雑で、約3日間寝ずの番が必要という大作業であり、バウムクーヘン焼き職人は寿命が10歳短い、とも言われていた。カールがその資格を取得したのは25歳のこと。そして、彼は一旦、ドイツに帰る。目的は花嫁探しだった。

当時の世界の状況を思えば、どこの国でも国力=人口という考え方が一般的であったわけで、カールのような海外での単身生活者がいると、たちまち世話人があらわれる。どういう縁か彼に紹介されたのは、エリーゼという22歳の女性なのだが、両親を早く亡くして商業学校に通っていたそうだ。そして、ドイツらしいのは、お見合いの場で出てくるのが「ビール」。緊張のあまり、飲みすぎて思いもかけないことをカールは言ってしまう。「青島は田舎だが、もう少し資本を集めて、米国進出するつもりだ」と・・・

そして婚約した足で一足先にカールは青島に戻る。そして、以前の店から独立し、「ユーハイム」という欧州風の菓子と喫茶店の経営を始める。心は既に、アメリカ行きを決意していた。そして遅れてエリーゼが、シベリア鉄道を乗り継ぎ到着。そして彼らは、将来の無限の夢のため、青島の教会で結婚式を挙げることになる。

しかし、二人が結婚式を挙げた日、1914年7月28日は、ドイツがフランス・ロシアに宣戦布告した第一次大戦開戦日のわずか5日前だったのだ。

ドイツが戦争準備する間に、抜け目なく行動していた国があった。「日本」だ。日英同盟を結び国力の増強時期ととらえ、密かに遼東半島のドイツ権益を狙っていたわけだ。早くも開戦後4日目の8月4日には、英国と同時にドイツに宣戦布告。8月23日には青島攻撃が始まった。守備すること二ヶ月強。ついに11月7日午前3時。ドイツ軍青島守備隊降伏。

そして、日本軍が上陸。この時、カールとエリーゼはどうなったかというと、カールは他の一般人男性と一緒に市内のある場所に集合させられたわけだ。そして、一旦、帰宅する。本来、一般市民に対する保護は国際条約で規定されているわけで、そのまま市民生活を送ることができるはずなのだが・・・

事実は、ドイツ兵4,300名のうち、戦死者800名を除く者が捕虜として日本国内に移送されていったのだが、その後、約1年をかけ捕虜が徐々に追加されていく。非戦闘員であるカールがエリーゼと別れて捕虜の扱いを受け、日本に送られたのは1915年9月20日とされる。なぜ、非戦闘員を日本が連行したかは、よくわからないし、その後の第二次大戦で同盟国だったこともあり、追求されることはなかったのだが、三つの推定原因が考えられる。

まず、日本側には青島攻略時に戦闘ではなくチフスによる病死者が多数出たそうで、捕虜の数を膨張させて犠牲に対するバランス上、戦果を水増ししたという可能性だ。そして、二つ目はドイツ市民であるということが、何らかの予備役という性格だったという可能性だ。そして日本に連行されたものの多くが技術を持ったものであることから、産業移入あるいはドイツの産業レベルの破壊、といった意図性があったという説である。いずれにせよ、戦闘状態の時に兵士でなかったものまで、多くの男子が捕虜となった。

そして、カールが収容されたのは、当時、大阪市西区恩賀町にあった捕虜収容所である。その時の彼の最大の悲嘆は、身ごもったまま青島に一人取り残されることになった妻エリーゼのことであったことは想像に難くないのである。  
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カール・ユーハイム物語(1)

71e6b95c.jpgバウム・クーヘンという洋菓子がある。先年末にも年始用の手土産を求め、近くの百貨店に行ったところ、二つの専門店で売られていた。一店はユーハイム。何と言っても老舗はユーハイムのバウムクーヘンだ。固さといい歯ざわりといい、甘味の奥ゆかさといい、他の追随を許さない。そして、なんとなくこのユーハイムというブランドは、海外の有名な洋菓子店からの輸入と思っていたのだが、数年前、日本の老舗に関する書籍を読んでいた時に、ドイツ人であるカール・ユーハイム氏の手で日本で生まれたものだと知った。

しかし、その時には、まだ、このドイツ人の極めて数奇な運命のことなど知る由もなかった。

彼の誕生は119年前。非常に細い糸をさぐるように彼の履歴を追っているうちに、彼の人生が20世紀を象徴するような戦争の歴史の織物の中に潜む金色の糸であったことがわかってきた。

実は、彼の人生のステージは数多くの場所で展開する。祖国ドイツ、中国遼東半島、大阪、広島、東京、横浜、そして神戸だ。本来ならば、できるだけ多くの場所に足を運び、実感をもって書き綴りたいとは思うのだが、何しろエリアは広いし、さらに歴史は遠くかすんでいる。特に神戸には多くの関連する場所があるのだが、そのあたりは、機会があれば後日訪れてみたいとは思っている。かなり調べてから行きたいという気持ちもある。

まずは、彼の人生を時系列に沿って追いかけ始めることにする。


71e6b95c.jpg1886年12月25日。今から119年前、ライン川に沿うドイツの小都市、カウプ・アム・ラインに少年が生まれた。カール・ヨセフ・ウィルヘルム・ユーハイム。つまり、カール・ユーハイムは、小さなビール工場を経営する父フランツと母エツ・マー・ベアーバンズの間の10番目のこどもだった。さらにこの両親にはあと3人のこどもが生まれる。さして、大きくないビール醸造所に13人の子沢山では、そう満ち足りた少年時代を送ったとも思えないが、逆にそれが彼が海外に出て行った理由なのでもある。

ところで、バウム・クーヘンは、木の切り株のような模様のケーキである。ドイツ語でバウム=木、クーヘン=菓子である。そして、このケーキはまさに日本の年越蕎麦のように、ドイツではおおみそかになくてはならないものだった。

そして、クリスマスの少し前になると、グリム童話にも登場する「お菓子の家のミニチュア」が菓子屋の店頭に並ぶそうだ。ドイツでは「菓子店」というのはかなり大きな市民権を持っていて、重要産業なのである。日本でも有名和菓子店は起源を江戸時代に遡れる。

そして、子沢山のユーハイム家の菓子店購買担当はカール少年だったそうだ。そして、その縁があったのかカールは菓子店職人の見習いとなるのだが、人生最初の転機が16歳で訪れる。父親がビール工場で崩れたビール樽の下敷きになり重傷を負う。そして、1年後、ついに亡くなってしまう。工場の経営は、兄たちが引き継いだものの、カールはもはや自立するしかないと考えるようになる。そして、3年後の20歳になった時、新たな展開が始まる。  
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