2008年07月08日
規制派の嘘:ニセ科学が元凶であることについて 1
時事ネタや途中で終わってないネタを仕上げてしまう予定でいたのですが、ちょっと簡単には終わりそうに無いので先に前提としてどうしても必要なエントリを上げてしまいます。
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表現規制派が息をするように嘘を吐き、その認識が(まるで可視光の波長が異なる絵面のように)表現規制に反対する人々や、おそらくは中立的な人々とも明らかに異なる理由について、明示的に考察した文章は検索すると意外なほどWeb上に見当たりません。
そんな中、少々以前の話になるのですが“俗流若者論”を中心に論陣を展開されている後藤和智氏がこんなエントリを上げられていました。
ニセ科学と俗流若者論の関連性
(後藤和智の雑記帳 2008/02/29)
》ところでこれはあくまでも仮説なのだが、俗流若者論にはまる人って、ニセ科学に親和的なんじゃないだろうか。これはその逆よりもかなり関連性が強いのではないかと思う。
》要は通俗的な青少年に対する認識、要するに今の子供や若年層は根本的に異常である、ということを「納得」するため、あるいは「異常」な若年層を「矯正」する論理を構築するために(もちろん、両方である場合もある)、ニセ科学が使われる、ということだ。
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この俗流若者論と“ニセ科学との親和性”という論点なのですが、私は表現規制や俗流若者論といった問題は全て“ニセ科学問題そのもの”である事を“自明”として取り扱っていたため、後藤氏がわざわざエントリを立ち上げて評価されていることに逆に違和感を感じました。
けれどWeb上を検索してみると上述の通り、この手の問題について明示的に示された情報は本当に少ないんですね。
自分で自明だと思っていても他人がそう思っていなければ自明として機能しない、という、ごく初歩的な話だったのですが、この論点は表現規制問題について“大前提”であり、最も“基礎的な立脚点”として機能します。
その大前提が自明として前提になっていないのでは話になりませんので、このBlogではそれを明示的に取り扱うため、当エントリにて簡単に考察します。
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表現規制派が息をするように嘘を吐き、その認識が(まるで可視光の波長が異なる絵面のように)表現規制に反対する人々や、おそらくは中立的な人々とも明らかに異なる理由について、明示的に考察した文章は検索すると意外なほどWeb上に見当たりません。
そんな中、少々以前の話になるのですが“俗流若者論”を中心に論陣を展開されている後藤和智氏がこんなエントリを上げられていました。
ニセ科学と俗流若者論の関連性
(後藤和智の雑記帳 2008/02/29)
》ところでこれはあくまでも仮説なのだが、俗流若者論にはまる人って、ニセ科学に親和的なんじゃないだろうか。これはその逆よりもかなり関連性が強いのではないかと思う。
》要は通俗的な青少年に対する認識、要するに今の子供や若年層は根本的に異常である、ということを「納得」するため、あるいは「異常」な若年層を「矯正」する論理を構築するために(もちろん、両方である場合もある)、ニセ科学が使われる、ということだ。
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この俗流若者論と“ニセ科学との親和性”という論点なのですが、私は表現規制や俗流若者論といった問題は全て“ニセ科学問題そのもの”である事を“自明”として取り扱っていたため、後藤氏がわざわざエントリを立ち上げて評価されていることに逆に違和感を感じました。
けれどWeb上を検索してみると上述の通り、この手の問題について明示的に示された情報は本当に少ないんですね。
自分で自明だと思っていても他人がそう思っていなければ自明として機能しない、という、ごく初歩的な話だったのですが、この論点は表現規制問題について“大前提”であり、最も“基礎的な立脚点”として機能します。
その大前提が自明として前提になっていないのでは話になりませんので、このBlogではそれを明示的に取り扱うため、当エントリにて簡単に考察します。
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俗流若者論とはその名が示すとおり、“大衆迎合的な俗説”を前提とし、それを用いた“無根拠な若者批判論”である、と、私は認識しています。例えば
> 最近の若者はTVゲームによってゲーム脳の危険に晒されている(虚実)
> →ゲーム脳によってキレる若者が増加している(論説/批判)
といった具合に、事実ではない“虚実”を“事実として”前提に置き、その虚実が大衆迎合的な(俗説的な)内容を含んでいた場合に展開される若者批判論は、正に俗流若者論そのものとなります。
ところが同じ若者批判論であっても、的確な統計等に基づく事実を前提として論を展開した場合、それは単に事実の指摘とそれに基づく論説であって、“俗流”とは表現できなくなります。例えば、
> 最近の若者は総じて以前よりも体格が良い(事実)
> →以前よりも高い栄養価を得ている可能性が高く、若者は飽食を謳歌している(論説/批判)
といった具合ですね。この場合、論説に当たる部分は事実が前提になっていますから、(その内容を受容できるか否かは別として)論としては正当な構造を持っています。、
つまり、前提が“事実”か“虚実”か、といった点で全てが決まることになります。
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ここで、客観的な事実そのものの表現は“自然科学”の言葉が示すとおり、そのまま“科学そのもの”として機能します。
裏を返せば、“虚実”を“事実”として偽る言説は、全て“ニセ科学”である、ということになるのです。
※科学とニセ科学の境界問題に踏み込むとベイズ主義あたりまで説明が必要になるので割愛。ここでは、あくまで“虚実を事実と偽る言説”が“ニセ科学”であることを述べています。
以上により、“虚実=ニセ科学を前提とした”若者批判論のうち、虚実の部分が“大衆迎合的な”内容を含んでいた場合を“俗流若者論”と称することが確認できます。
俗流若者論自体がニセ科学を前提とするのですから、俗流若者論を唱える人がニセ科学と親和性が高いのも当然ですね(苦笑。
これは即ち、俗流若者論が基本的にニセ科学問題と同根であることを意味します。
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ここで、更に表現規制論との関連を考慮します。
例えば、統計もそれがきちんと管理された(精確に表現すれば、疫学的根拠として利用可能なほど高度に制御された)ものであれば、それは“事実そのもの”の記述として機能し、それは自然科学であることを意味します。
よって、“人間についての統計”もそれがきちんと管理された結果であるならば、正に自然科学そのもの(人間も自然の一部である!)であり、科学的な根拠として機能します。
内閣府の世論調査のような規制派による一部の統計が、『適切な手法で取得されていない(=きちんと管理されたデータではない)』ことに対する批判といったものは、このような“虚実を事実と偽っている”=“ニセ科学である”ことに由来する訳です。
表現規制論の根拠が科学的事実で裏打ちされていた場合、それに対する抗弁は極めて困難であり、法制化は必然となります。例えばこんな具合です。
> 特定の表現は心身に悪影響を与える(虚実・ただし、これが科学的事実であったと仮定)
> →特定表現の規制は心身を守るために必要である(規制論)
> ※前提が事実であれば、程度問題でしか抗弁できない
つまり、表現規制を目的とする人々からすれば、規制の科学的根拠を持ち出してくれば、規制そのものに関するexcuseとしては十二分な訳です。
けれど、表現規制に必要な科学的根拠は用意できない。
それ故に表現規制派は上述の統計のような“虚実”=“ニセ科学”を持ち出してくるのであり、表現規制問題もまた、ニセ科学問題に帰結する事になります。
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俗流若者論とニセ科学との親和性、表現規制論との接点については以上となります。
科学的であることの意味や、広範に流布される論説や法令に科学的根拠が要求される理由、事実と真実の違いといった点について、次回に記載したいと思います。
俗流若者論とはその名が示すとおり、“大衆迎合的な俗説”を前提とし、それを用いた“無根拠な若者批判論”である、と、私は認識しています。例えば
> 最近の若者はTVゲームによってゲーム脳の危険に晒されている(虚実)
> →ゲーム脳によってキレる若者が増加している(論説/批判)
といった具合に、事実ではない“虚実”を“事実として”前提に置き、その虚実が大衆迎合的な(俗説的な)内容を含んでいた場合に展開される若者批判論は、正に俗流若者論そのものとなります。
ところが同じ若者批判論であっても、的確な統計等に基づく事実を前提として論を展開した場合、それは単に事実の指摘とそれに基づく論説であって、“俗流”とは表現できなくなります。例えば、
> 最近の若者は総じて以前よりも体格が良い(事実)
> →以前よりも高い栄養価を得ている可能性が高く、若者は飽食を謳歌している(論説/批判)
といった具合ですね。この場合、論説に当たる部分は事実が前提になっていますから、(その内容を受容できるか否かは別として)論としては正当な構造を持っています。、
つまり、前提が“事実”か“虚実”か、といった点で全てが決まることになります。
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ここで、客観的な事実そのものの表現は“自然科学”の言葉が示すとおり、そのまま“科学そのもの”として機能します。
裏を返せば、“虚実”を“事実”として偽る言説は、全て“ニセ科学”である、ということになるのです。
※科学とニセ科学の境界問題に踏み込むとベイズ主義あたりまで説明が必要になるので割愛。ここでは、あくまで“虚実を事実と偽る言説”が“ニセ科学”であることを述べています。
以上により、“虚実=ニセ科学を前提とした”若者批判論のうち、虚実の部分が“大衆迎合的な”内容を含んでいた場合を“俗流若者論”と称することが確認できます。
俗流若者論自体がニセ科学を前提とするのですから、俗流若者論を唱える人がニセ科学と親和性が高いのも当然ですね(苦笑。
これは即ち、俗流若者論が基本的にニセ科学問題と同根であることを意味します。
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ここで、更に表現規制論との関連を考慮します。
例えば、統計もそれがきちんと管理された(精確に表現すれば、疫学的根拠として利用可能なほど高度に制御された)ものであれば、それは“事実そのもの”の記述として機能し、それは自然科学であることを意味します。
よって、“人間についての統計”もそれがきちんと管理された結果であるならば、正に自然科学そのもの(人間も自然の一部である!)であり、科学的な根拠として機能します。
内閣府の世論調査のような規制派による一部の統計が、『適切な手法で取得されていない(=きちんと管理されたデータではない)』ことに対する批判といったものは、このような“虚実を事実と偽っている”=“ニセ科学である”ことに由来する訳です。
表現規制論の根拠が科学的事実で裏打ちされていた場合、それに対する抗弁は極めて困難であり、法制化は必然となります。例えばこんな具合です。
> 特定の表現は心身に悪影響を与える(虚実・ただし、これが科学的事実であったと仮定)
> →特定表現の規制は心身を守るために必要である(規制論)
> ※前提が事実であれば、程度問題でしか抗弁できない
つまり、表現規制を目的とする人々からすれば、規制の科学的根拠を持ち出してくれば、規制そのものに関するexcuseとしては十二分な訳です。
けれど、表現規制に必要な科学的根拠は用意できない。
それ故に表現規制派は上述の統計のような“虚実”=“ニセ科学”を持ち出してくるのであり、表現規制問題もまた、ニセ科学問題に帰結する事になります。
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俗流若者論とニセ科学との親和性、表現規制論との接点については以上となります。
科学的であることの意味や、広範に流布される論説や法令に科学的根拠が要求される理由、事実と真実の違いといった点について、次回に記載したいと思います。