2008年08月31日

規制派の嘘:ニセ科学が元凶であることについて 2

前回の予告どおり、ニセ科学と表現規制論、特に“事実”と“真実”について掘り下げてみたいと思います。


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一般に表舞台に出てくる表現・言論規制派諸氏は、ほぼ確実に規制に反対する人々とは議論も対話も一切拒否します。

まともに議論すれば自動的に論破される以上、体面を守るためには当たり前と言えば当たり前の対応なのですが、実はそれだけでは済まない大きな問題が存在します。

数少ない“規制派と規制反対派が議論した”記録、あるいは、私自身の個人的な経験や、他の規制派諸氏の体験談などからも共通して浮かび上がる現象として、論破された規制派は必ず次の様な主張を行います。


『心の問題である、貴方達には心が無いのか』

『心の問題に数字や科学を持ち出すのはおかしい』



・・・思い当たる人も多いのではないでしょうか(苦笑。

実は、この短いセンテンスの中に表現・言論規制の最大のポイントが隠されています。
これが今回の主テーマである『“事実”と“真実”の違いと意味に起因するニセ科学の問題』に直結します。


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まず、“事実”と“真実”の違いについて述べます。

これは言葉の定義を知っていれば馬鹿々々しいほど簡単な話なのですが、表現規制派は得てしてこれらを誤り混同し表現します。

両者の辞書的な定義は以下のようになります。


> excite辞書(大辞林 第二版/三省堂)より

> じじつ 【事実】
> (1)現実に起こり、または存在する事柄。本当のこと。(以下略)


> しんじつ 【真実】
> (1)うそいつわりのないこと。ほんとうのこと。また、そのさま。 (以下略



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上記の通り“事実”とは“実際に起こったこと”であり、揺ぎ無いたった一つの事象です。
※観測問題や特殊相対論的同時性の問題を鑑みると長くなるので割愛。
※ここでは因果関係が当事者間では(位相幾何的に)単一の事象に収まることを意味します。

どれほど感覚的な結論と乖離し、よしんば既存の全ての論理に反していたとしても、科学的論証では事実は“常に”絶対優先の最重要事項として取り扱われます。

これは“科学”が“事実を記述するため道具”である以上、大前提となっているのです。


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次に“真実”とは“うそ偽りのない本当の事”となります。

つまり、当人が『うそ偽りなく本当である』と“信じきって”さえいれば、当人および価値観を共有する人々にとっては、それが“事実”ではない、真っ赤な“虚偽”であったとしても“真実”として通用することになります。

“真実”とは“人間の主観”そのものを示す定義であり、基本的に十人居れば十通りの“真実”が存在します。
さらに主観であるからには複数の“真実”を同時に抱えていても全く不思議はありません。

極論すれば、一人で複数の“真実”を抱え、それらが互いに矛盾していたとしても、定義上は問題にならない事になります。

・・・そういった人の実生活では、周囲が大いに迷惑するといった“問題”は確実に発生するでしょうけれど(苦笑。


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ともあれ、他者に対して唯一性を確保できるのは原則として“事実”だけであり、“真実”は“事実”とは全く別のパラメータとして、いくらでも並存できることになります。

『真実は一つ!』とは某偽少年探偵の決めセリフですが、この主張は根底から誤っている訳ですね。


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以上の定義を簡単に表現すると次のようになります。


・事実
万人が単一の事象として認識する『現実』そのもの。

・真実
人が思い考え、うそ偽りや間違いではない真であると『信じている』もの。



もう、この段階で『事実と真実の混同による問題』や『規制論で事実が重要視される意味』といった事の説明が終わってしまっている気もします。

・・・気を取り直して続けましょう。


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結論から述べてしまえば、事実も真実も重要であって、当人の価値観に於いてどちらかを重視することはできても、他者がどちらかを軽視することは出来ません。

これは簡単な話で、人間が物質からなる身体を持つ以上、物質を含めた世界全体の状態を意味する“事実”=現実に左右されます。

同時に人間が心を持つ以上、その人の信条そのものである“真実”=心を妨げることもまた、赦されるはずもないからです。

ここで表現規制派の人々が絶対的に無視している事柄があります。

それは、表現規制に反対する人々もまた、その心中に“真実”、即ち“心”を持っているという、当たり前の“事実”です。


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規制される対象そのものを大切だと思う“真実”もあれば、表現規制そのものを否とする“真実”もあるでしょう。

ところが表現規制派の人々は、自分たちの『表現を規制したい』『表現規制は正しい事である』といった欲望の“真実”のみが存在すると考え、表現規制に反対する側の人間には“真実”=心が存在するとは認識していません。

これにより自分たちだけが“真実”を持ち、真実に従って規制は当然である、といった結論に到達することになります。


規制派による『心の問題』あるいは『規制反対派には心がないのか』といった常套句は“真実”=“心”について、相手が同じ“真実”を共有していなければ“心”であるとみなさない、といった主張となります。

つまり、相手も“真実”=“心”を持つ“同じ人間”であると認識していないことを意味します。

表現規制派が『子供達のことを「どうでもいい」と思っている』ことについては以前のエントリにて証明しましたが、規制派は自分たちの真正面に居るはずの私たち表現規制に反対する人々すら、人間扱いしていない道理になります。

相手を人間ではないと認識しているのであれば、議論が成り立つどころか、対話の相手とも見なさないのは当然のことでしょう。

・・・困ったものです(苦笑。


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上述の通り表現規制問題に関して、“真実”=“心”の問題として捉えた場合、規制したい側と規制に反対する側とで双方に“真実”があります。

“心の軽重”など測定できませんから『どちらが正しい』と判定することは不可能です。

よって、“真実”=“心”の問題で争いが生じるのであれば、自動的にもうひとつの絶対的な〜万人の間で一意の〜基準である、“事実”を元に判定することになります。


“事実”を元に判定をするのであれば“科学的に真正と認められる記録”を元にした『規制を行うための“科学的根拠”』が必要となるわけです。


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これまでに何度も記しました通り、科学とは原則として『事実を記述するための道具』です。
※科学でも数学の分野に入ると『虚数を“事実”として扱うのか否か』といった有名な認識問題が発生します。
※これは数学自体が“科学を記述するための道具”であることに起因する誤解なのですが、やはり長くなるのでここでは割愛。

その“事実”を捻じ曲げるが故に、規制派の主張がニセ科学そのものであること、そのまま俗流若者論等にも直結する事は前回述べたとおりです。


では、なぜ規制派は大切な“事実”=“現実”を捻じ曲げ、ニセ科学を主張できるのでしょうか?。


これを解く鍵は『心の問題に数字や科学を持ち出すのはおかしい』という、規制派のもう一つの常套句の中に隠されています。

次回はこの言葉が示す意味について考察してみます。



ota_24_589 at 21:01コメント(1)トラックバック(0)規制派の嘘 | 資料 

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コメント一覧

1. Posted by 婚活 大阪   2011年03月19日 10:29
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