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京都大学の山中伸弥教授が、ノーベル医学生理学賞を受賞されたことで、iPS細胞への関心は世界中で一段と高まりました。iPS細胞については、もう3年以上前の朝礼でも取り上げたことがあります。

この時、受精卵からつくるES細胞と体細胞からつくるiPS細胞の違いを説明しました。紹介した本は、畑中(はたなか)正一(せいいち)・山中伸弥『iPS細胞ができた!』(集英社)と八代(やしろ)(よし)()iPS細胞』(平凡社)でした。皆さんは覚えていますか。ほとんどの人が忘れてしまっているでしょう。もう一度復習のためにスライドを出します。

スライド3①人間の体は60兆個の細胞でできています。これらの細胞は、受精卵から始まります。そして、皮膚や神経、肝臓などに専門化していきます。専門化した細胞は他の部位には使えません。受精卵のようにどんな細胞にでもなれる多能性を持つ細胞へと変化させた細胞を「多能性幹細胞」といいます。一般的に万能細胞と呼ばれています。ES細胞とiPS細胞がそうです。ES細胞とiPS細胞を簡単に説明します。

ES細胞とは、分裂初期段階の受精卵の細胞を直接取り出して培養した細胞です。iPS細胞は大人や子どもの皮膚細胞などを取り出して、4つの遺伝子を入れて培養した細胞です。

最近、iPS細胞について多くの解説書が次々と出版されています。先週書店で見つけた2冊の本を紹介します。

スライド4②画面左は『iPS細胞とはなにか』(講談社)です。この本は山中教授のiPS細胞の研究を中心に世界の万能細胞研究について書かれています。画面右は、岡野栄之(ひでゆき)『本当にすごいiPS細胞』(講談社)です。iPS細胞のどこがすごいのか、ES細胞とiPS細胞の違いなどが分かりやすく書かれています。


スライド5③画面は『Newton』です。これも図が入っていてわかりやすく、幹細胞研究の最前線を紹介しています。再生医療が臨床利用できるようになるのも時間の問題であると書かれています。




スライド6④画面は、山中教授にインタビューした2冊の本です。山中教授の生い立ちやiPS細胞の研究についてわかりやすく書かれています。

山中教授は、大学卒業後、整形外科の臨床医になりましたが、手先が不器用で、手術が上手くなかったこと、重病や難病の患者さんのために何とか治療法を見つけて救いたいという2つの理由で基礎医学の研究に進路を変えました。ノーベル賞受賞の成功の裏には、新しい発想と挫折しても信念をもって継続したことにあると思います。

スライド7⑤最後に私が最近読んで、とても興味があった本を紹介します。それは、山中伸弥・益川(ますかわ)(とし)(ひで)『「大発見」の思考法』(文春新書)です。2人のノーベル賞受賞者が対談した本で、それぞれの生い立ちや考え方、自身の研究についてなど書かれています。自分の仕事に興味を持ち、日々考え、成長していくことが大切です。また、「本を読んで考える」ことも大切であると強調したいです。私がこのことを朝礼で話して12年も経ってしまいました。

終わります。                                            (2012/11/5

最近、体調不良で外出できず、読書する気力もないこともあって、「漢詩と私」のテーマで4回も話しました。今日は久しぶりに古典の話をします。昨年夏に「災害を考える」というテーマで『方丈記』を取り上げました。

スライド3①『方丈記』は高校時代に古文で習ったことがあると思います。書き出しを読み上げます。

 ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある、人と(すみか)と、またかくのごとし

 冒頭はあまりにも有名なのですが、その続きを読まない人が多いようです。
スライド4②原文は、漢字交じりのカタカナで書かれています。これは、広く一般大衆にも読めるように配慮されているともいわれています。




スライド5③鴨長明は平安時代末期(1155年)に生まれ、鎌倉時代の1216年に61歳で亡くなったといわれています。『方丈記』が書かれたのは1212年ですので、今年が丁度8百年目にあたり、記念行事が下鴨(しもがも)神社(正式には加茂(かも)御祖(みおや)神社といいます)で開かれたので、10月2日に行って来ました。


スライド6④画面は下鴨神社の境内にある河合(かわい)神社(下鴨神社の摂社(せっしゃ))とその説明書きです。鴨長明はこの河合神社の禰宜(ねぎ)(神職の職名の一つ)の次男として生まれました。この神社の境内にあった住宅で生まれたのかも知れません。


スライド750歳頃に出家して、京都市南部の日野(ひの)の山中に隠居しました。その場所にも10月2日に行って来ました。車を降りて険しい山道を20分位登った場所で(そう)(あん)(方丈)を結んだようです。この方丈が河合神社の境内に復元されています。広さは5畳半ほどで、机が1個と琴と琵琶が置かれています。この方丈で書かれたのが『方丈記』です。

 『方丈記』は、災害とそれに伴う町や人々の様子を的確に描写した、日本最古の災害ルポルタージュといえます。京都で生まれた長明は20代の頃に地震や竜巻、飢饉を体験し、その様子を後年、『方丈記』に記したのです。生涯、希望していた神職につけなかった長明は、乱世に翻弄される庶民の目で災害を捉えていたとされます。

スライド8⑥『方丈記』を冒頭の文に続いて読み進めると、5つの大災難が記載されています。

1 安元(あんげん)の大火事(1177年 長明23歳)

2 治承(じしょう)の大竜巻(1180年 長明26歳)

3 突然の福原(ふくはら)遷都(せんと)1180年 長明26歳)

4 養和(ようわ)の大飢饉(1181年~1182年 長明28歳)

5 元暦(げんりゃく)の大地震(1185年 長明31歳)

読んでみると、いずれも大災害です。現在のように通信網はなく、交通の不便な時代です。当時の人々の恐怖と不安は、どんなにか大きかったことでしょう。昨年の東日本大震災の傷跡は深く残り、将来への不安も計り知れないものです。そんな中、『方丈記』が最近注目されているのは、私たちが、『方丈記』から、天災体験に込められたメッセージを読み取ろうとする表れではないかと、分析する人もいます。

後半では、自身の草庵暮らしについて語られています。全体を通して、「生」について問いかけた作品といわれてもいます。

スライド9⑦皆さんに読んでもらいたい本を画面に出しました。左上のNHKテレビテキストは、8百年記念を意識したものです。読み易いのは新井満(あらいまん)『自由詩 方丈記』(デコ)と中野孝(なかのこう)()『すらすら読める方丈記』(講談社)です。



スライド10⑧他には堀田(ほった)善衛(よしえ)『方丈記私記』(ちくま文庫)、境野(さかいの)勝悟(かつのり)『方丈記 徒然草に学ぶ人間学』(致知出版)などがあります。






スライド11⑨『方丈記』は、実に様々な読み方をされるようです。災害の書、自分史、住まいの書、仏教修行の書、スローライフの書としてです。原本は4百字詰め原稿用紙20枚ほど、訳本でも30ページほどの量です。皆さんは読んで、どう捉えるでしょうか。

 終わります。                                         (2012.10.29

 



追加                                                 21012.11.1

 今年8月末に国会で、11月1日が「古典の日」と制定されました。今週のテーマに古典の『方丈記』を取り上げたのは偶然でした。法律制定のきっかけは、2008年に京都で「源氏物語千年記」が開催され、『源氏物語』のことが『紫式部日記』に記された日(11月1日)を「古典の日」と宣言したことです(「古典の日」宣言)。

 私たちが親しむ古典として、『方丈記』や『徒然草』があります。また、平安時代に女性が書いた『枕草子』も面白い内容ですし、紫式部の長編小説『源氏物語』を知らない人はいないでしょう。ただし、『源氏物語』の全文を読むのは、並大抵のことではありません。

 「古典の日に関する法律」の目的第1条は、「この法律は、古典が、我が国の文化において重要な位置を占め、優れた価値を有していることに鑑み、古典の日を設けること等により、様々な場において、国民が古典に親しむことを促し、その心のよりどころとして古典を広く根づかせ、もって心豊かな国民生活及び文化的で活力ある社会の実現に寄与することを目的とする」です。法律ですから、国及び地方公共団体は、古典の日には、その趣旨にふさわしい行事の実施に努めるよう、家庭、学校、職場、地域その他の場においても、古典に親しむことができるよう、学習や教育の機会の整備、調査研究の推進と成果の普及、必要な施策を講ずるよう努めるよう求められています。

 私は昔から本好きで、『方丈記』や『徒然草』をひも解いています。『徒然草』の一節「ひとり、燈のもとに文をひろげて 見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。」や橘曙覧『独楽吟』の一句「たのしみは 人も訪ひこず事もなく 心をいれて書を見る時」などは、読書の楽しさを表しています。秋の夜長や休日に、本を読む楽しみは、何物にも喩えようがありません。本を読む人は「賢い人」になるに違いありません。呂新吾『呻吟語』に「智愚は他なし 書を読むと読まざるとに在り」とあります。『平家物語』をじっくりと読むことは、テレビで「平家物語」を見る以上の楽しみがあるものです。

 

「古典の日」宣言

『源氏物語』は日本の古典であり、世界の古典である。

一千年前、山紫水明の平安の(みやこ)に生まれたこの作品は、文学はもとより美術、工藝、またさまざまの藝能に深い影響を及ぼし、日本人の美意識の絶えることない源泉となってきた。一九三〇年代に英訳されて以来、近年では二十余の外国語に翻訳されて、世界各地の人々に愛読され、感銘を与えている。

 この物語について『紫式部日記』に記された日から数えて一千年。この源氏物語千年紀を言祝(ことほ)いで、私たちは、今後十一月一日を「古典の日」と呼ぼう。

 古典とは何か。

 風土と歴史に根ざしながら、時と所をこえてひろく享受されるもの。人間の叡智の結晶であり、人間性洞察の力とその表現の美しさによって、私たちの想いを深くし、心を豊かにしてくれるもの。いまも私たちの魂をゆさぶり、「人間とは何か、生きると菜は何か」との永遠の問いに立ち返らせてくれるもの。それが古典である。

 揺れ動く世界のうちにあるからこそ、私たちは、いま古典を学び、これをしっかりと心に(いだ)き、これを私たちのよりどころとして、世界の人々とさらに深く心を通わせよう。

そのための新たな一歩を踏み出すことを、源氏物語千年紀にあたって、私たちはここに決意する。

紫のゆかり、ふたたび。

平成二十年(二〇〇八年)十一月一日

                                           源氏物語千年紀よびかけ人

                                             源氏物語千年紀委員会    

 漢詩と私の4回目、最後です。

中国旅行と漢詩

 前回は李白と杜甫の漢詩を旅行の思い出とともに紹介しました。
スライド3①画面は、前回も紹介しましたが、平成6年に洛陽(らくよう)を訪れた時に書いてもらった漢詩です。これ以後、毎年のように中国を訪れた私は、現地で、その土地を()んだ漢詩や好きな漢詩を書いてもらったので、額の数が十を超えました。


スライド4②画面は敦煌(とんこう)を訪れた時に陽関(ようかん)で吟じた「元ニ(げんじ)安西(あんせい)に使いするを(おく)る」という思い出深い漢詩です。「渭城(いじょう)朝雨(ちょうう) 軽塵(けいじん)(うるお)す」で始まります。



スライド5蘭州(らんしゅう)
から()西回廊(せいかいろう)を通って新疆(しんきょう)へ行った思い出に、「涼州詞(りょうしゅうし)」3首を書いてもらいました。真ん中の詩「葡萄(ぶどう)美酒(びしゅ) 夜光(やこう)(はい)」は、酒を飲むと吟じたくなる詩です。


スライド6④画面上は西安の北にある咸陽(かんよう)の城跡を、下は武漢(ぶかん)黄鶴楼(こうかくろう)を訪れた時に書いてもらったものです。



スライド7⑤画面の7枚は、その他の一部です。

 漢詩の詠まれた場所を訪れ、漢詩を味わう楽しみは格別で、思い出に深く刻み込まれました。 

漢詩の楽しみ方と私の好きな日本の漢詩

 漢詩の楽しみ方として、読んだり、吟じたりする他に、CDやカセットテープ、DVDやビデオを利用して、繰り返し、漢詩の朗読を見て聴いて楽しむ方法があります。
⑦画面は手元にあるDVD『漢詩紀行』です。風景の映像と共に、漢詩の朗読に耳を傾け、小さく吟じると、漢詩の奥深さに感動を覚え、疲れを忘れられます。

 日本人は、中国の唐詩の素晴らしさに憧れて、平安時代から作詩を始めました。代表的な人物は菅原道真(すがわらのみちざね)でしょうか。時代は下って、江戸時代にも盛んに漢詩が作られました。日本人が作る漢詩には、歴史や思想が込められています。込められた人生観を味わうのも漢詩の楽しみといえます。
スライド8⑥画面は、日本人の作った私の好きな漢詩です。江戸時代、豊後日田(ぶんごひた)(今の大分県)で桂林荘(けいりんそう)という私塾(後の咸宜園(かんぎえん))を開いて教育に尽くした広瀬(ひろせ)淡窓(たんそう)の「思親(おやをおもう)」という詩です。

     親を思う

遙思白髪倚門情   (はる)かに(おも)白髪(はくはつ) (もん)()るの(じょう)                

宦学三年業未成   宦学(かんがく)三年(さんねん) 業未(ぎょういま)()らず
一夜秋風揺老樹   一夜(いちや)秋風(しゅうふう) 老樹(ろうじゅ)(ゆる)がし
孤窓欹枕客心驚   孤窓(こそう) (まくら)(そばだ)てて 客心(かくしん)(おどろ)

 

私が医師となり、福井に戻った時の祖父母と父母の喜びようは大変なものでした。私も子や孫に同じように期待すべく、生家の裏山の先祖代々の墓の近くに「思親」の石碑を立てました。同時に、故郷こそが人生の終着点だとも実感しました。皆さんにも、両親と先祖の恩に感謝して欲しいものです。

スライド9⑦また、明治時代の軍人、乃木(のぎ)希典(まれすけ)大将にも日本人の心を感じさせる名詩が多数あります。「金州城(きんじゅうじょう)」や「爾霊山(にれいざん)」、「法庫門営中作(ほうこもんえいちゅうのさく)」などは、従軍(じゅうぐん)中の詩です。将兵(しょうへい)の死を(いた)む乃木大将の心中(しんちゅう)を察すると、本当に心打たれます。

金州城(きんじゅうじょう)

山川草木轉荒涼  山川(さんせん)草木(そうもく)(たた)荒涼

十里風腥新戦場  十里(じゅうり)(かぜ)(なまぐさ)新戦場(しんせんじょう)

征馬不前人不語  (せい)()(すす)まず(ひと)(かた)らず

金州城外立斜陽  金州(きんじゅう)城外(じょうがい)斜陽(しゃよう)()

 

  爾霊山(にれいざん)

爾霊山険豈難攀  爾霊山(にれいざん)(けん)なれども (あに)()()からんや

男子功名期克  男子(だんじ)功名(こうみょう)(こっ)(かん)()

鉄血覆山山形改  鉄血山(てっけつやま)()うて山形(さんけい)(あらた)まる

萬人齋仰爾霊山  萬人(ばんじん)(ひと)しく(あお)爾霊山(にれいざん)

 

  法庫門営中作(ほうこもんえいちゅうのさく)

東西南北幾山河  東西(とうざい)南北(なんぼく)(いく)山河(さんが)

春夏秋冬月又花  春夏(しゅんか)秋冬(しゅうとう)月又花(つきまたはな)

征戦歳餘人馬老  征線(せいせん)歳餘(さいよ)人馬(じんば)()

壮心尚是万思家  壮心(そうしん)尚是家(なおこれいえ)(おも)わず

 

スライド10⑧私が最も好きなのは、江戸時代末期の思想家頼山陽の漢詩です。彼の漢詩集『日本楽符』の中にある「蒙古来」などは、日本人として血湧き肉躍る感じがします。

画面の「舟大垣(ふねおおがき)(はっ)して桑名(くわな)(おもむ)」も好きな漢詩の一つです。


舟発大垣赴桑名        舟大垣(ふねおおがき)(はっ)して桑名(くわな)(おもむ)

蘇水遙遙入海流        蘇水(そすい) 遥遥(ようよう) (うみ)()って(なが)
櫓聲雁語帯郷愁        櫓声(ろせい)雁語(がんご) 郷愁(きょうしゅう)()
獨在天涯年欲暮        (ひと)天涯(てんがい)()って 年暮(としく)れなんと(ほっ)
一篷風雪下濃州        一篷(いっぽう)風雪(ふうせつ) 濃州(のうしゅう)(くだ)

 

 今から2年前にも取り上げたことがあるので、覚えている人も多いでしょう。頼山陽は、江戸時代後期という封建時代に、自由恋愛に生きた人物です。この詩は、岐阜県大垣にある恋人の江馬(えま)細香(さいこう)の家に結婚を申し込みに行ったものの、父親から断れて、傷心を抱いて木曽川を下った時に()んだ失恋の詩です。東海道新幹線で東京方面に向かう際、名古屋までに木曽川を渡ります。特に冬の雪模様の日などにここを通ると、失意の中、悲しみに堪えて川を下る山陽の心情を思ってしまいます。

スライド11⑨また、桜の季節に奈良県の吉野を訪れ、静寂の中、()醍醐(だいご)天皇の御陵(ごりょう)の前に立つと、藤井竹外(ふじいちくがい)の漢詩を思い出します。

      遊芳野       芳野(よしの)(あそ)

古陵松柏吼天飆   古陵(こりょう)松柏(しょうはく) 天飆(てんぴょう)()

山寺尋春春寂寥    山寺(さんじ) (はる)(たず)ぬれば (はる)寂寥(せきりょう)

眉雪老僧時輟帚    眉雪(びせつ)老僧(ろうそう) (とき)()くを()

落花深処説南朝    落花(らっか) (ふか)(ところ) 南朝(なんちょう)()

 

私も漢詩をつくってみた

物好きな私は、たくさんの漢詩を読み、詩を吟じてみて、自分も漢詩を作ってみたいとずっと思っていました。

昭和40年代、八丈会(はちじょうかい)という全国から集まった医師の勉強会で会う度に、三重大学の田口教授が即興の漢詩を作っておられるのを見て、大変、羨ましく思いました。また、九州の松口(まつぐち)月城(げつじょう)医師は開業の傍ら、詩吟集にも掲載されるような素晴らしい漢詩を多く詠まれて、記念館までつくられているのを見て(平成10年入館)、趣味の域を超えていると感嘆しました。

スライド12⑩平成20年、私の生まれ育った岸水町の山(光蔵(こうぞう)(ぼう)といいますが)その山頂に、先祖の植林と育林の苦労を思い、また、山頂から拝んだであろう白山信仰を思い、遥拝所(ようはいじょ)、遥拝所とは、遠く離れた所から神仏を拝む場所のことですが、遥拝所を造りました。その場所に自分の作った漢詩の碑を建てることを思い付きました。漢詩の作り方の本を読み、福井にある詩吟の会越風(えっぷう)吟社(ぎんしゃ)方(南出(みなみで)慎一(しんいち)さんと青柳(あおやぎ)重正(しげまさ)さん)の指導を受けて、どうにか一作できました。高台を「馨秀台(けいしゅうだい)」と命名したので、題は「輝傳馨秀台(かがやきつどうけいしゅだい)」です。苦労して作った漢詩ですが、下手くそだと言われるかも知れません。

読んでみます。      

 

輝傳馨秀台  (かがや)(つど)う 馨秀台

   白山連嶂望朝光  白山(はくさん) (れん)(しょう) 朝光(ちょうこう)(のぞ)

   脚下龍江流影長  脚下(きゃっか)龍江(りゅうこう) 流影長(りゅうえいなが)

   今立故丘松樹杜  (いま)()故丘(こきゅう) 松樹(しょうじゅ)(もり)

   深懐祖業緑風香  (ふか)祖業(そぎょう)(おも)えば 緑風(りょくふう)(かんば)

 

「朝日の中、白山連峰を遠望し、眼下に九頭龍川の流れを眺める。祖先から伝わる松林(まつばやし)に登り、先祖の仕事を想うにつけて、吹いてくる風の清清しいことよ。」という意味です。

 私は、漢詩を趣味にして本当によかったと思っています。

4回も続いた漢詩の話を終わります。                              (2012.10.22

 

先週は陶淵明(とうえんめい)の詩を紹介しましたが、皆さんは中国の詩人といえば、李白と杜甫の名前を思い浮かべるでしょうか。

スライド3 ①盛唐(せいとう)の時代(主に8世紀、日本では奈良時代)には、近体(きんたい)()と呼ばれる句の数や一句の字数にルールのある詩が生まれました。以前に紹介した『唐詩選』の編集者は、「文は必ず秦漢(しんかん) 詩は必ず盛唐」と言いました。その盛唐の詩人の代表が李白と杜甫です。ふたりとも「漂泊の詩人」と呼ばれます。ふたりの詩は、現在も高く評価されています。

 私は、そのふたりの生誕地を訪れることができました。李白の生誕地を訪れたのは平成15年4月、中央アジアのウズベキスタン、カザフスタン、キルギスを旅行した時です。キルギスの首都ビシュケクからイシク・クルという湖へ向う途中、唐時代には「(スイ・)葉城(アーブじょう)」と呼ばれた玄奘(げんじょう)三蔵(さんぞう)が立ち寄った寺院遺跡アク・ベシム都市遺跡があります。李白はこの城下町に生まれ、5歳までここで育ったといわれています。やがて中国本土に戻った李白一家は各地を転々としますが、李白の衣冠(いかん)を埋めた墓は、生まれ故郷砕葉城の西北18キロにあるそうです。

 杜甫の生誕地を訪れたのは平成13年5月です。北魏(ほくぎ)時代に造られた石窟めぐりの途中、洛陽(らくよう)鞏県(きょうけん)石窟寺(せっくつじ)近くにある杜甫生誕地を訪れました。市医師会の吉村信(よしむらまこと)先生から、鞏県石窟へ行ったら是非、杜甫の故郷を訪れるよう、以前から勧められていたのです。城関(じょうかん)という田舎町で「杜甫飯荘(はんそう)」という「杜甫」の名がつく食堂を見つけて、杜甫の生家の場所を尋ねたのですが、町の人でも詳しいことは知らないようでした。町の外れで杜甫の石像を見つけ、ようやく見つけた生家は、小山の(ふもと)に掘られた「土室(つちむろ)」でした。以前に訪れた西安市の西、天水市(てんすいし)にある南郭寺(なんかくじ)の「杜甫詩堂(しどう)」や成都(せいと)市の「杜甫草堂(そうどう)」に比べると、生家の整備が遅れていることに驚きました。

スライド4 ②李白と杜甫の詩の紹介と解説書は多くあります。野末(のずえ)陳平(ちんぺい)40歳になったら読みたい 李白と杜甫』(青春出版社)、荘魯(そうろじん)『李白と杜甫 漂泊の生涯』(大修館書店)、田川(たがわ)純三(じゅんぞう)『杜甫の旅』(新潮選書)、宇野(うの)直人(なおと) 江原正士(えはらまさし)『杜甫』(平凡社)、同じく『李白』(平凡社)の5冊はいずれも生涯と作詩について、分かり易く書かれています。

ここで私の好きな李白の詩をいくつか紹介します。いずれも七言絶句です。7文字、4行の詩です。スライド5
③画面は、平成6年、牡丹の美しい時期に洛陽を訪れた際、ホテルのショップで特別に書いてもらいました。

春夜(しゅんや) 洛城(らくじょう)(ふえ)()
()
(いえ)玉笛(ぎょくてき)か (あん)(こえ)()ばす  (さん)じて春風(しゅんぷう)()って 洛城(らくじょう)滿()

()() 曲中(きょくちゅう) (せつ)(りゅう)()く    何人(なんびと)()こさざらん 故園(こえん)(じょう)

スライド6④次を読んでみます。峨眉山という山は、中国三大霊山(れいざん)のひとつで、私は平成9年に訪れました。

()眉山月(びさんげつ)(うた)

()眉山月(びさんげつ)半輪(はんりん)(あき)  (かげ)平羌(へいきょう)江水(こうすい)()って(なが)  夜清渓(よるせいけい)(はっ)して三峡(さんきょう)(むか)う  

(きみ)(おも)えども()えず 渝州(ゆしゅう)(くだ)

 

スライド7    (つと)白帝城(はくていじょう)(はっ)

  (あした)()白帝(はくてい)彩雲(さいうん)(かん)  千里(せんり)江陵(こうりょう)一日(いちじつ)にして(かえ)

 両岸(りょうがん)猿声(えんせい)()いて()まざるに  軽舟已(けいしゅうすで)()萬重(ばんちょう)(やま)



スライド8 ⑥    友人(ゆうじん)(おく)

青山(せいざん)北郭(ほっかく)(よこ)たわり 白水(はくすい) 東城(とうじょう)をめぐる
この() (ひと)たび(わか)れをなし 孤蓬(こほう) 万里(ばんり)にゆく
浮雲(ふうん)
 遊子(ゆうし)()  落日(らくじつ) 故人(こじん)(じょう)  ()(ふる)って ここより()れば
蕭々(しょうしょう)
として班馬(はんば)(いなな)

 

スライド9⑦次は杜甫の詩です。8行の律詩です。ご存知の人も多いと思います。

   春望(しゅんぼう)

国破(くにやぶ)れて山河(さんが)()
城春(しろはる)
にして草木(そうもく)(ふか)
(とき)
(かん)じては(はな)にも(なみだ)(そそ)
(わか)
れを(うら)んでは(とり)にも(こころ)(おどろ)かす
烽火(ほうか)三月(さんげつ)
(つら)なり
()書萬金(しょばんきん)
(あた)
白頭(はくとう)()
けば(さら)(みじか)
()
べて(しん)()えざらんと(ほっ)

 

スライド10  蜀相(しょくそう)
丞相(じょうしょう)
祠堂(しどう) (いず)れの(ところ)にか(たず)ねん
錦官(きんかん)城外(じょうがい)
 柏森森(はくしんしん)
(かい)
(えい)ずる碧草(へきそう) (おのずか)春色(しゅんしょく)
()
(へだ)つる(こう)() (むな)しく好音(こういん)
三顧(さんこ)頻煩(ひんぱん)
たり 天下(てんか)(はかりごと)
両朝(りょうちょう)(かい)(さい)
す 老臣(ろうしん)(こころ)
()
(いだ)して(いま)()たざるに身先(みま)()
(なが)
英雄(えいゆう)をして涙襟(なみだきん)()たしむ

 どうでしょう。知っている詩はありましたか。聞いた事のある一節はありましたか。最後の「蜀相」を刻んだ石碑の拓本が、福井ケアセンター5階会議室北側の壁に掛けてあるのを皆さんは気付いていないようです。他の施設の人も、研修会で行ったら、見てください。これで終わります。                               (2012.10.15

スライド3①漢詩の好きな私は、グループの施設のあちらこちらに、漢詩の扁額(へんがく)を掲げています。画面の漢詩は左から読みます。大きく「水月(すいげつ)」とあり、五言(ごごん)絶句(ぜっく)が書かれています。この額は、福井ケアセンターの相談室にあります。大きさは、縦125センチ、横3メートル、平成元年1月に福井ケアセンターのオープンを記念して、福井の書家吉川(よしかわ)寿一(じゅいち)さんに書いてもらいました。中国の陶淵明の詩です。陶淵明は西暦365年に生まれ、427年に亡くなりました。今から1600年も前、東晋(とうしん)という時代の人です。

 春水 四沢(しゅんすい したく)()ち  夏雲(かうん) 奇峰多(きほうおお)し  秋月(しゅうげつ) 明輝(めいき)()げ  冬嶺(とうれい) 孤松秀(こしょうひい)と読みます。意味は「春は雪解け水が四方の沢地(さわち)に満ち、夏は入道雲が素晴らしい峰を形作ってくれる。秋の月は明るく輝いて中央にかかり、冬枯れの峰には松の(ひい)でた姿が目立つものだ」というものです。四季の情景をうたい上げた漢詩で、「四時(しいじ)の歌」と呼ばれています。素晴らしい詩だと思いませんか。

スライド4 ②陶淵明は日本から遣隋使(けんずいし)が訪れた隋よりももっと前の時代の人ですが、詩と散文、合わせて130余りが現存しています。私は「勧学(かんがく)」と題した詩の一部盛年(せいねん)(かさ)ねて()たらず 一日(いちじつ)(ふたた)(あした)なり(がた)し (とき)(およ)んで(まさ)勉励(べんれい)すべし 歳月人(さいげつひと)()たず」という詩を人生訓としてきました。これも扁額にして掲げてあります。

 

 陶淵明は、官職をわずかな期間で()した隠遁(いんとん)詩人です。故郷(こきょう)江南(こうなん)で田園風景を背景にした詩を作り、「田園詩人」と呼ばれるほど、自然を題材にした詩を詠んでいます。

スライド5③陶淵明の『飲酒ニ十首』()の五の中の「採菊東離下 悠然見南山」「菊を()東籬(とおり)(もと) 悠然(ゆうぜん)として南山(なんざん)()の句は有名で、日本でもよく知られています。

結廬在人境  ()(むす)んで人境(じんきょう)()

  而無車馬喧  (しか)車馬(しゃば)(やかま)しき()

  問君何能爾  (きみ)()ふ (なん)()(しか)ると

  心遠地自偏  (こころ)(とお)ければ ()(おのづ)から(へん)なり

  采菊東籬下  (きく)()る 東籬(とうり)(もと)

  悠然見南山  悠然(ゆうぜん)して南山(なんざん)()

  山氣日夕佳  山氣(さんき) 日夕(にっせき)()なり

  飛鳥相與還  飛鳥(ひちょう) 相與(あいとも)(かえ)

  此中有眞意  ()(なか)眞意(しんい)()

  欲辨已忘言  (べん)ぜんと(ほっ)して(すで)(げん)(わす)

意味として、次のようなものがありました。「小さな(いおり)を結んで人里に住んでいるが、役人どもの車馬(しゃば)の音に(わずら)わされることはない、どうしてそうしていられるかと問われるが、心が俗事(ぞくじ)を離れていれば、おのずから僻地(へきち)にいるかのような境地に達するものだ。東側の垣根の下で菊の花を採り、悠然として南山(なんざん)を見れば、山の気配は朝な夕なに良く、鳥どもがねぐらへと帰っていく、この中にこそ人間のあるべき真の姿がある、そのことを言葉にしようとしたが、もうそんなことはどうでもよい。」

 夏目漱石は、「山路(やまみち)を登りながら、()う考へた。()に働けば(かど)が立つ。情に(さお)さおさせば流される。意地を通せば窮屈だ。()(かく)とかくに人の世は住みにくい。」で始まる草枕(くさまくら)』の中でこの詩を引用して、「うれしい事に東洋の詩歌(しいか)はそこを解脱(げだつ)したのがある(ただ)それ()りの裏に暑苦しい世の中を(まる)で忘れた光景が出てくる。垣の向()に隣りの娘が覗いてる(わけ)でもなければ、南山(なんざん)に親友が奉職(ほうしょく)して居る次第でもない。超然と出世間的(しゅつせけんてき)に利害損得の汗を流し()つた(った)心持ちになれる。」と批評しています。

スライド6 ④陶淵明の作品紹介や解説書も多くあります。

詩吟の楽しみ

 さて、漢詩を声を上げて(ぎん)じる(歌う)のが詩吟です。日本の伝統芸能の一つで、漢詩和歌を独特の回しで歌うことで、より効果的に詩情を表現できます。

江戸時代後期、一部の私塾において漢詩を素読(そどく)する際に独特の(ふし)をつけたのが始まりのようです。戦争中は、詩吟は国威(こくい)発揚(はつよう)させるものとして奨励されていましたが、戦後は、古今(ここん)の名詩を味わい、美しい日本語をもって表現するという芸術的な側面が前面に出されるようになりました。このため、素読から始まった詩吟も、精神面に加え、アクセント音楽的な要素も重視されています。また、近年の健康志向から、腹式呼吸による発声という側面が取り上げられることもあります。

 いずれにせよ、全国各地に詩を吟じる会があります。私が紫洲流(ししゅうりゅう)と呼ばれる詩吟の会に入会したのは、昭和50年頃に宮下(みやした)紫城(しじょう)さんという詩吟の指導者と知り合ったからです。
スライド7⑤以前にも見せた詩吟の会で使用するテキスト2冊です。杜甫(とほ)李白(りはく)の詩は勿論、日本でもよく知られた詩が多く載っています。





スライド8⑥杜甫の「春望(しゅんぼう)」と題した「国敗れて山河あり―」という詩を知っている人も多いでしょう。

 春望(しゅんぼう)   陶淵明

国破山河在   (くに)(やぶ)れて山河(さんが)()

城春草木深   城春(しろはる)にして草木(そうもく)(ふか)

  感時花濺涙   (とき)(かん)じては(ばな)にも(なみだ)(そそ)

  恨別鳥驚心   (わか)れを(うら)んでは(とり)にも(こころ)(おどろ)かす

  烽火連三月   烽火(ほうか) 三月(さんげつ)(つら)なり

  家書抵万金   家書(かしょ) 万金(ばんきん)(あた)

  白頭掻更短   白頭(はくとう) ()けば(さら)(みじか)

渾欲不勝簪   (すべ)(しん)()えざらんと(ほっ)

若い皆さんはご存知ないかも知れませんが、詩吟のコンクールや各流派の競演もあり、詩吟は静かなブームが続いています。詩吟の会をのぞいて見てはいかがでしょう。 

終わります。                                         (2012.10.8

 昨年4月に「漢詩と人生」というテーマで漢詩ブームを取り上げ、何冊もの本を紹介したことを覚えていますか。漢詩は昔から愛されてきました。詩吟(しぎん)吟舞(ぎんぶ)の形で楽しむ人も多くいます。また、書道の世界では漢詩は基本的な教養の一部です。

 漢詩の起源は中国ですが、以前は漢字圏であった韓国、ベトナムでも作られていたと言うと、意外に思う人が多いでしょう。現在、韓国ではハングル文字が使用され、ベトナムでも漢字を使用していませんが、百年前まではベトナムでも漢詩が作られていた事実を私はベトナム旅行中に知りました。漢字は一文字、一文字が意味を持つ、という特徴から、漢字を見ればすぐに意味を思い浮かべることができるので、私は漢詩に魅力を感じています。

スライド3①手元にはいつの間にか漢詩の本が増えました。画面の5冊は石川(いしかわ)忠久(ただひさ)さんの本です。名詩の紹介の他に、日本人がなぜ漢詩に()かれるのかなどの記述もある読み応えのある本です。



スライド4②左上から順に、林田(はやしだ)愼之助(しんのすけ)『漢詩をたのしむ』(講談社現代新書)、『漢詩を味わう』(日経プレミアシリーズ)、松浦(まつうら)友久(ともひさ)『漢詩―美の()りか―』(岩波新書)、和田(わだ)利男(としお)『漢詩清響(せいきょう)』(めるくまーる社)、石川忠久『漢詩と人生』(文春新書)、石川忠久編『漢詩日記』(大修館書店)、松下緑(まつしたみどり)『七五調で味わう 人生の漢詩』(亜紀書房)などは、李白(りはく)杜甫(とほ)などの名詩を紹介して、より深い味わい方を教えてくれる本です。

スライド5③これは『唐詩選(とうしせん)』です。『唐詩選』は盛唐時代の代表的な漢詩を選んで編集された書物で、16世紀末(中国の(みん)時代)に出版されました。五言古詩14、七言古詩32、五言絶句74、七言絶句165、五言律詩67、七言律詩73首、など、計465首を収録し、江戸時代には日本でも広く読まれました。

スライド6④漢詩は、6世紀より前の詩を「古体(こたい)()」、唐の時代から後の詩を「近体(きんたい)()」といいます。近体詩には形式に決まりがあります。詩の一行を「()」といい。一句の字数が5文字のことを「五言(ごごん)」7文字のことを「七言(しちごん)」といいます。4つの句からできている詩を「絶句(ぜっく)」、8つの句からできている詩を「律詩(りっし)」といいます。つまり、
一句が五文字で、全体が四句でできているのが「五言(ごごん)絶句(ぜっく)」、一句が七文字で、全体が四句でできているのが「七言(しちごん)絶句(ぜっく)」で、「()(しょう)(てん)(けつ)」という作られ方をしています。一句が五文字で、全体が八句でできているのが「五言(ごごん)律詩(りっし)」 一句が七文字で、全体が八句でできているのが「七言(しちごん)律詩(りっし)で、この四種類が近体詩の大半です。『唐詩選』には、李白の詩が32首、杜甫の詩が51首収録されるなど、盛唐の詩を中心に選ばれています。
スライド7⑤岩波新書『新唐詩選』は、昭和になって、吉川幸(よしかわこう)次郎(じろう)()好達治(よしたつじ)が協力して、主要な唐詩の読解と味わい方を懇切丁寧に説いた本です。

さて、今回から4回に分けて、「漢詩と私」と題した話をしたいと思います。若い皆さんには学校の授業以外では馴染みがないでしょうか、知識を増やすつもりで聞いてください。

 

今日は漢詩との出会いです。

スライド8⑥私が初めて漢詩と出会ったのは、中学2年春の「漢文」の授業の時でした。初めて習った漢詩は、有名な頼山陽(らいさんよう)の「述懐(じゅっかい)」だったことを、担当の八木須(やぎす)貞治(ていじ)先生の顔と一緒に思い出します。頼山陽は、れっきとした日本人です。彼が13歳の時に作った詩です。

述懐(じゅっかい)

十有三(じゅうゆうさん)春秋(しゅんじゅう)  逝者(ゆくものは)已如水(すでにみずのごとし)  天地(てんち)無始終(しじゅうなく)  人生有(じんせい)生死(せいしあり)  安得類(いずくんぞ)古人(こじんにるいして)  千載列(せんざいせいしに)青史(れっするをえん)

 

述懐(じゅっかい)

十有三(じゅうゆうさん)春秋(しゅんじゅう) ()(もの)(すで)(みず)(ごと)  天地(てんち)始終(しじゅう)() 人生(じんせい)生死(せいし)()(いずく)んぞ古人(こじん)(るい)して 千載(せんざい)青史(せいし)(れつ)するを得ん

 一句が5文字で作られていますが、全体が四句でも八句でもなく、五言古詩の形です。

詩の意味は、わが13歳の年月は水の流れるごとく、早く過ぎ去ってしまった。思えば天地は悠久にして、いつに始まり、いつ終わるというものではない。この天地の悠久なるに比べれば、生死ある人間は実にはかないものである。けれども人間と生まれたからには、大いに努力して古人(こじん)(昔の偉人(いじん))と同様に、千年の後までも歴史に残る大業(たいぎょう)を成し遂げたいと思う、と大きな志をうたったものです。先生は授業中にこの詩を吟じてくださり、他にも頼山陽の詩をいくつか紹介してくださりました。

 日本の漢詩は平安時代から作られ始めたようですが、江戸時代に入って盛んになりました。江戸時代後期の歴史家、思想家であり、文人であった頼山陽は、『日本(にほん)楽府(がふ)』という、日本の歴史に題材を採った詩集を出しました。当時の詩は、当然、漢詩です。
スライド9⑦川中島を舞台にした上杉(うえすぎ)謙信(けんしん)武田(たけだ)信玄(しんげん)の戦いを題材にした詩を皆さんも知っていることでしょう。

   題不識庵撃機山図

 鞭聲粛々夜過河  暁見千兵擁大牙  遺恨十年磨一剣  流星光底逸長蛇

不識庵(ふしきあん)(きざん)()つの()(だい)

 鞭声(べんせい)粛々(しゅくしゅく) 夜河(よるかわ)(わた)る (あかつき)()千兵(せんぺい)大牙(たいが)(よう)するを

 遺恨(いこん)なり 十年一剣(じゅうねんいっけん)(みが)き  流星光底(りゅうせいこうてい)長蛇(ちょうだ)(いっ)

 

 ちなみにこの詩は、一句が七文字で、全体が四句からできているので、七言絶句です。終わります。   (2012.10.1

 

 

紹介図書

①石川忠久『漢詩 漢詩の楽しみ』時事通信社

   〃 『漢詩 漢詩のこころ』時事通信社

   〃 『漢詩の魅力』時事通信社

   〃 『漢詩への招待』新潮社

石川忠久 中西進『漢詩歓談』大修館書店

 

李白と杜甫

 野末陳平『40歳になったら読みたい 李白と杜甫』青春出版社

 

荘魯迅『李白と杜甫 漂泊の生涯』大修館書店

 田川純三『杜甫の旅』新潮選書

 宇野直人 江原正士『杜甫』平凡社

 宇野直人 江原正士『李白』平凡社

スライド3①皆さんは「武士道」という言葉を知っていますか。以前にも朝礼で話したことがあります。最近、画面の『武士道と葉隠―(ほま)れ高き日本人の原点を探るー』(TOWN MOOK徳間書店)を見つけたので、「武士道」の話、続いて「葉隠」の話をします。

 日本人の武士道精神は、時代を超えて受け継がれています。たとえば、未曾有の被害が出た東日本大震災でも、日本人の武士道精神が発揮されました。水素爆発や放射能漏れによる被曝の危険を承知の上で対応にあたったのは、東京電力の社員や自衛隊の人たちです。自らの命を投げ出して救助活動にあたったのは、警察官や消防隊員だけでなく、一般人もです。自らが家族を失ったり、行方不明でありながらも、住民のために捜索活動に奔走した人が数多くいました。その姿を見て、世界中の人たちが賞賛しました。首都圏でも交通機能がストップするなどしましたが、バスやタクシーを整然と並んで待ち、徒歩帰宅の道路も混乱しませんでした。我先にといった行動や治安の乱れもほとんどなく、日本人の冷静さにも世界の人々が驚いたようです。オバマ大統領は「日本の作業員や自衛隊員の英雄的な行動」と絶賛しました。

スライド41899年(明治32年)にアメリカで、新渡(にと)戸稲造(べいなぞう)が英語で書いた『BUSHIDO(ブシドー). The() soul(ソウル) of(オブ) Japan(ジャパン)という本を出版しました。世界的に反響を呼び、日本でも1年後に翻訳され、画面のように各国で翻訳されて、今も読み継がれているようです。

序文によると、日本の学校では宗教教育がないことに驚いたベルギーの学者ラヴレー氏が、新渡戸氏に「宗教教育がなくて、あなたがたは一体どのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と尋ねたそうです。また、アメリカ人である奥さんが、どうしてこれこれの考え方や習慣が日本中に行き渡っているのか、という質問をよくしたからだそうです。新渡戸氏は「武士道」だという答えにたどり着き、『BUSHIDO. The soul of Japan』を書いたということです。新渡戸氏は、「武士道」が日本国民全てに対しての道徳教育・宗教教育だと言っています。この新渡戸氏は江戸時代末期に生まれて明治・大正と生き、昭和8年になくなった方だという時代背景も踏まえておかなければなりません。

スライド5③新渡戸稲造 著 奈良(なら)本辰也(もとたつや) 訳『対訳 武士道』(三笠書房)は、英語と日本語の対訳です。






スライド6④解説書でもある訳本には、
岬龍(みさきりゅう)一郎(いちろう)『武士道―いま、拠って立つべき“日本の精神”』(PHP)、奈良本辰也 訳『武士道―サムライはなぜ、これほど強い精神力をもてたのか?―』(三笠書房)があります。





スライド7
大橋(おおはし)小太郎(こたろう) 訳『超訳 武士道』(あ・うん)、齋藤孝『武士道―日本精神の「華」はいかに鍛えられたか―』(イースト・プレス)からも、「武士道」が昔からの、特に明治以降の日本人の道徳観であったことが分かります。






スライド8⑥新渡戸氏の書いた『
BUSHIDO. The soul of Japan』の第3章から第9章まで、各章一つずつ、全部で7つの徳目(とくもく)が説明されています。読み上げます。

 1「正義」武士の掟として最高のもの 2「勇気」義のために行われるもの 3「(じん)」思いやりの心 4「(れい)」人と人との間のマナー 5「(まこと)」真実と誠実を守る 6「名誉(めいよ)」卑怯なことを恥じる 7「忠節」主君・国への報恩(ほうおん) 

 「サムライ」つまり「武士」のいない時代になっても、日本国民であるなら守るべき徳目で、前回の朝礼で紹介した「教育勅語」と同じ精神です。
スライド9⑦関連本は多数あります。画面左の『武士道と修養―折れぬ心を欲する者へー』(実業之日本社)は、新渡戸氏の『
BUSHIDO.』と『修養』という2冊を合わせて読みやすく書かれています。最近私が感銘を受けたのが画面右の池上栄子(いけがみえいこ) 著、森本(もりもと)(じゅん) 訳『名誉と順応―サムライ精神の歴史社会学』(NTT出版)です。アメリカの大学教授の池上さんが英語で書いたのを和訳したものです。私は、戦中・戦後に受けた教育にもよるのでしょうが、「名誉を考え、卑怯な行動を恥じる」ことを一番心すべきだと思っています。「名誉」を重んじると、「恥」は死に値することもあります。恥を知り、名誉を重んじる精神が日本人には宿っていると思っています。

スライド10菅野(かんの)覚明(かくみょう)『よみがえる武士道』(PHP研究所)や笠谷(かさや)和比古(かずひこ)『武士道と現代―江戸に学ぶ日本再生のヒント』(産経新聞社)など、『武士道』から智慧やヒントをつかもうとする本の出版は後を絶ちません。





スライド11⑨次に『葉隠』について話をします。画面は、
和辻(わつじ)哲郎(てつろう)古川哲史(ふるかわてつし) 校訂(こうてい)の『葉隠』上中下(岩波文庫)です。

『葉隠』は、新渡戸稲造の『BUSHIDO』に先んじること180年程前の、江戸時代中期(1716年)に、佐賀県の肥前鍋島藩の藩士(やま)本常朝(もとつねとも)の回想録的な書です。武士としての心得について見解を、「武士道」という用語を用いて説明しています。『葉隠』の冒頭の部分「武士道というは 死ぬことと見つけたり」はとても有名です。一瞬、「切腹」をイメージした人がいるのではないでしょうか。この強烈なインパクトのある言葉ゆえに、『葉隠』があたかも死を美化し、礼賛しているように誤解されている感がありますが、江戸時代中期の武士が武士らしく生きられない時代に警鐘を鳴らす意味を込めて、あえて刺激的な言葉を使っただけで、その真意は、「死」そのものではなく、常に死と背中合わせで生きていると気を引き締めていれば、おのずと武士道が身について、悔いのない生涯をまっとうでき、奉公できるという道を説いた、と解説されていました。私は、卑怯なことをして生き延びるのは、死を択ぶより恥ずかしいことであり、また、死を覚悟しながら精進して生きることが大事で、決して「長生きだけが能でない」と述べているとも解釈しています。

スライド12三島(みしま)由紀夫(ゆきお)『葉隠入門』(新潮文庫)、本田(ほんだ)有明(ありあけ)『ヘタな人生論より葉隠』(河出文庫)、吉田豊(よしだゆたか)『入門 葉隠の読み方』(日本実業出版社)などは、よく読まれているようです。




スライド13⑪最初に紹介した『武士道と葉隠』には、「武士道としての葉隠」の言葉と「処世訓としての葉隠」の言葉が紹介されています。処世訓として紹介されている言葉の現代語訳したものをいくつか見せます。『葉隠』が決して古臭いものではないことが分かってもらえると思います。





スライド14⑫・人前での
欠伸(あくび)は恥ずかしい ・翌日のことは前の日の夜から考えておく・見事な負けと汚い勝ち ・若すぎる出世はよくない ・人の本心を知るには病気をするに限る ・大事なことは前もって考えておく

 いかがでしょう。「武士道」と「葉隠」に関する本をたくさん読んで、生き方を考えて下さい。

 終わります。                                          (2012.9.24

 

201293週の朝礼原稿です)

今日は、現在の教育のあり方について話します。

スライド3①画面は9月6日付けの朝日新聞の1面です。文部科学省は、いじめ問題に対する総合的な方針をまとめ、命にかかわる案件を国に報告させ、教育委員会を指導するなど、「現場任せ」にせず、国が主導する姿勢を初めて打ち出しました。

 いじめの問題は、今に始まったことではありません。私の小中学生の時代にもありました。思い返せば、私自身もいじめられたことがありますし、何人かで他の子をいじめた覚えもあります。これまで、いじめによる死亡事故や自殺があっても、学校や教育委員会が調査し、「いじめの事実はなかった」と報告書を提出することで、それ以上追及されることはなかったように思えます。遺族が詳しい調査を求めても、厚い壁が立ちはだかっていたようです。それが今回の大津市立中学2年の男子生徒の自殺が契機となり、世論が後押しした形で警察が動き、いじめ問題を多くの人が考えることになりました。

スライド4②さて、現在の日本の教育は、昭和22年(1947年)に発布(はっぷ)され、平成18年(2006年)に改正された「教育基本法」に基づいて行われています。目的は、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と明記されています。

 しかし、教育現場や青少年の実態を見るにつけ、掲げられた目的を達成できるのか、(はなは)だ疑問です。
スライド5③太平洋戦争以前は、明治
23年(1890年)に、明治天皇が国民に語りかける形で発布された「教育ニ関スル勅語」(いわゆる「教育勅語」)が、政府の教育方針でした。わずか6文315文字の勅語です。各学校に造られた「奉安(ほうあん)殿(でん)」には、天皇皇后両陛下のお写真と「教育勅語」の書かれた巻物が収められ、登下校の際には奉安殿に向かって、深く礼をするのが決まりでした。それが、昭和23年(1948年)に衆参(しゅうさん)両議院で、「教育勅語」の排除と失効確認に関する決議が可決されました。つまり、廃止されたのです。理由は、「戦前の教育が新しい民主主義の教育理念に反する」と思われるというものでした。そして、「教育勅語」に代わるものとして、「教育基本法」が制定され、現在に至っています。

 さて、皆さんの中で「教育勅語」を知っている方はどのくらいいらっしゃるでしょうか。聞いたことがあっても、内容を知らない人がほとんどではないでしょうか。
スライド6④画面の3冊、
津田道夫(つだみちお)『君は教育勅語を知っているか』(社会評論社)、杉浦(すぎうら)重剛(しげたけ)『教育勅語 ―昭和天皇の教科書―』(勉誠出版)、八木(やぎ)公生(きみお)『天皇と日本の近代 ―「教育勅語」の思想―』(講談社現代新書)は図書館から借りた中でも、読みやすいと思われるので紹介します。



スライド7⑤「教育勅語」は画面のように文語体であり、句読点もなく、送り仮名もカタカナで、濁点を付けずに書かれています。私たちは原文を暗誦させられましたから読めますが、皆さんは読めないと思います。





スライド8⑥画面は現代語訳です。これでも難解だと思うかも知れません。








スライド9⑦画面に出したように、主な内容は
12の徳目です。

  親に孝養を尽くす(孝行)

  兄弟・姉妹は仲良くする(友愛)

  夫婦はいつも仲むつまじくする(夫婦の和)

  友達は互いに信じ合う(朋友の信)

  常に慎み深く、(おご)ることなかれ(謙遜(けんそん)

  全ての人々に愛の手をさしのべる(博愛)

  勉学に励み、職業に精進する(修学習業(しゅうがくしゅうぎょう)

  知識を養い、才能を伸ばす(知能(ちのう)啓発(けいはつ)

  徳を養い、人格を磨く(徳器(とっき)成就(じょうじゅ)

  進んで公益を広め、広く世の人々や社会のためになる仕事に励む(公益(こうえき)世務(せいむ)

  法律や規則を守る(遵法(じゅんぽう)

  万一、非常事態に至れば、正義と勇気の心をもって(おおやけ)のために尽くす(義勇(ぎゆう)奉公(ほうこう)

 

 以上、12です。最後の「非常事態に至れば、公のために尽くす」の原文は、「一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレ()義勇(ぎゆう)(おおやけ)(ほう)シ」です。軍や戦争、徴兵制度、ファシズムに直結しそうだ・・と感じられる人も多いようですが、明治という時代背景、黒船から始まる「侵略される」「植民地化される」という時代背景からいえば、家族のためにも国を守る、という考えはそれほど突飛なことではなかったと思われます。一方、太平洋戦争においては、確かに、国を守るために若者たちが進んで特攻隊員になったのも事実です。
スライド10
森川(もりかわ)輝紀(てるみち)『教育勅語への道』(三光社)、梅渓昇(うめたにのぼる)『教育勅語成立史』(青史出版)の2冊からは、教育勅語成立までの時代背景と経緯を知ることができます。岩本(いわもと)(つとむ)『教育勅語の研究』(民衆社)は、解説書ではなく、勅語が国民の思想や生活にどういう影響を与えたかを事例に基づいて考える内容です。

 ところで今、戦前の「教育勅語」を見直す意見が出てきました。と言うのも、冒頭に述べたように、現在の教育の乱れを(うれ)えて、儒教的ではあるかも知れないが、日本民族としてのプライドをもつ必要からも、「教育勅語」に掲げられた12の徳目が必要だと認識されてきたからです。皆さんにも今日紹介した本を読んで、教育のあるべき姿を考えてもらいたいものです。

 終わります。                                           (2012.9.18) 

201283週の朝礼原稿です)

老後難民にならないために  ―老後の生活設計をどう考える―   

                          

最近「老後難民」という言葉を聞く機会が増えました。老後の生活資金が枯渇し、生活に困窮する人たちを指すようです。老齢になって、幸福な生活とは程遠い環境の中で生きていかなければならない人たちのことのようです。

現在の日本は驚くべき長寿社会となりました。日本の平均寿命は世界で上位を占めています。50年前には想像もできなかったことです。誰もが長生きをして、豊かな生活を送りたいと願っているでしょうが、一般的に、高齢になるほど収入が減り、資産も減少する一方、医療費は増え、更に介護も必要となってきます。身寄りもなく、孤独な生活となれば、「難民」になる可能性は大です。

スライド3①画面のように、最近の経済雑誌に「老後難民」の特集がありました。今日はこの「老後難民」について話します。

 バブル崩壊後、20年経っても不景気が続いています。企業の倒産もよく耳にします。しかも、医療と介護にかかる費用は年々増加して、消費税を増税しても、10年後も大丈夫とは言えないようです。現在はデフレで物価も安定していますが、いったん財政が破綻してインフレにでもなれば、もう年金もあてになりません。退職金ももらえるかどうか不安です。

スライド4②画面の西垣(にしがき)千春(ちはる)『老後の生活破綻』(中公新書)は、皆さんに是非読んでもらいたい本です。現在検討されている定年延長がなされれば、65歳位までは給与所得がありますが、それ以後の保障はありません。年金は現在でもあてになりません。

高齢になっての幸福度は、「健康・家族・収入」で決まるといわれますが、夫婦とも高齢になると、病気のリスクは高くなり、医療・介護が必要となります。日本では医療制度・介護制度は一応、確立されていますが、国家財政の悪化に伴う個人負担の増加は避けることができません。日本国憲法第25条で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 」と定め、生活保護制度もありますが、
スライド5③本田(ほんだ)良二(りょうじ)『ルポ 生活保護』(中公新書)では、悲惨な実態が明らかにされています

多くの人は若いうちは、自分の老後についてあまり考えません。贅沢をしなければなんとか生活していけるだろう、今が健康だから病気にはならないだろうと、漠然と考えています。しかし現実には、年金受給年齢の引き上げ、退職金消滅など、不安材料はいっぱいです。日本の将来と皆さん自身の80歳代の生活を見通して、その対策を今からして欲しいのです。私自身、来月85歳となり、健康に不安がありますが、若いうちから「(しょう)老病死(ろうびょうし)」を考えてきましたので、どうにか平穏な毎日を送ることができています。                                     (2012.8.20

201282週の朝礼原稿です)

もし太平洋戦争が終わらなかったら  ―67年前の8月15日の追憶―   

 

 暑い日が続きます。ロンドンオリンピックも閉会しました。終盤にきて、レスリング女子は、3階級で金メダルを取りました。女子サッカーをはじめ、日本選手は健闘し、獲得したメダル数は前回の北京大会を大きく上回りました。つい応援に熱が入り、睡眠不足になった人も多かったでしょう。

 さて、今週の15日は旧盆であり、67年前の昭和20年(1945年)のこの日、日本がポツダム宣言を受諾して、アメリカ、イギリス、中国に降伏した日(終戦記念日)でもあります。正午には昭和天皇による、日本の降伏を国民に伝える放送がありました。67年も前のことで、皆さんのほどんどが生まれていないでしょうから、関心がもてないかも知れませんが、私は18歳でしたから、この日のことをはっきりと憶えています。日本海軍による真珠湾攻撃から太平洋戦争が始まったのは、昭和16年(1941年)128日ですから、3年8ヶ月にも及ぶ長い戦争でした。

 毎年、夏になると書店には、戦争史や戦争を回想する本が並びます。朝礼でも8月には太平洋戦争の話をしています。今年も最近の本の紹介からしていきます。

スライド3森山(もりやま)(あつし)『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』(新潮選書)は、今年6月の出版です。勝ち目の少ない戦争になぜ踏み切ったかを考えています。「ハル・ノート」と呼ばれたアメリカの返事を、戦争への最後通告と日本は受け取ったようです。ハル・ノートの内容で(おも)なことは、中国全土からの日本陸軍の撤兵でした。冷静に考えれば、長年に亘る中国との戦争に幕を引く好機であったのに、その機会を逃したのです。

スライド4②「昭和史の大河を()く」シリーズ 第12集と第13集 保阪(ほさか)正康(まさやす)『仮説の昭和史』上・下(毎日新聞社)は今年7月の出版です。この本には、ハル・ノートの返事があっても、交渉を打ち切りにせずに済んだかも知れないと書いてあります。

さて、戦争が4年目に入り、昭和20年の春になりますと、もう日本に勝利の見込みはなくなりました。

スライド5
門田(かどた)隆将(りゅうしょう)『太平洋戦争 最後の証言』第一部~第三部(小学館)は、日本の状態を「証言」というタイトルにして書かれたものです。私は当時、旧制中学の5年生でしたが、学校は閉鎖され、学徒動員として名古屋の飛行機工場で作業をしていました。粗末な特攻機レベルの制作をしましたが、月に10機~20機しか作れませんでした。どう考えても、日本にはもう勝つ見込みはありませんでした。

 そして、8月6日には広島に、8月9日には長崎に原子爆弾が投下され、この日の未明にはソビエトが日ソ中立条約を破って、旧満州国であった中国の東北地方に攻め込んできました。関東軍と呼ばれた日本軍は降伏し、解体させられて、シベリアに送られ、強制労働をさせられました。

 8月14日、鈴木内閣は、昭和天皇の聖断(せいだん)を受けて、ポツダム宣言を受諾することを決めましたが、陸軍は本土決戦を決めて、クーデターを起こして降伏を断ろうとしたので、大混乱でした。

スライド6④画面は毎日新聞社が2年間に亘って検証した「昭和史の大河を往く」シリーズの第1集から第11集です。






スライド7⑤中でも興味深かったのは、第7集『本土決戦幻想―オリンピック作戦編』と第8集『本土決戦幻想―コロネット作戦編』です。皆さんは、8月
15日に戦争が終わらなかったら、日本はどうなったと思いますか。ポツダム宣言を受け容れて、終戦となりましたが、御前(ごぜん)会議で受け容れないという選択もあったのです。受け容れなかった場合、アメリカは「オリンピック作戦」を11月1日に計画していました。アメリカ軍が九州南部に上陸する作戦でした。実行されれば、日本軍の特攻攻撃が始まったことでしょう。広島・長崎に続き、小倉(こくら)や新潟にも原子爆弾が投下された可能性があります。ソ連軍は北海道に上陸したことでしょう。更に翌年3月1日には「コロネット作戦」が計画されていました。オリンピック作戦で占領した九州南部の航空基地を利用して、相模湾(さがみわん)九十九(くじゅうく)里浜(りはま)から関東地方へ上陸する作戦でした。実行された場合は、大本営(だいほんえい)と政府組織は長野県松代(まつしろ)に移転し、戦い続けることになっていましたから、何百万人という日本人が死んだと思います。餓死者も多数出たことでしょう。それどころか、日本の国はどこかの植民地なっていたか、あるいは滅んでいたかも知れません。

敗戦後67年経って、戦争の悲惨さを知る人は年々少なくなっていますが、日本人であるからには、敗戦となった太平洋戦争はなぜ始まり、3年8ヶ月後に降伏するに至った理由を知って欲しいものです。
スライド8⑥最後に紹介する
小川(おがわ)和也(かずや)大佛(おさらぎ)次郎(じろう)の「大東亜戦争」』(講談社現代新書)には、大佛次郎が中国などを訪れ、戦争の状況を見て、戦争初期から末期、終戦直後と、日本のこれからを考え続けた軌跡が紹介されています。

 

お盆と終戦記念日にあたって、私は先祖のお墓参りをして、67年前の8月15日の暑い夏の日を思い出しました。

終わります。                                          (2012.8.13

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